生体親和材料とその表面を特異的に認識するペプチドの 相互作用解析 加藤幸一郎i 福澤薫ii,iv 望月祐志iii,iv Interaction Analysis between Biocompatible Material and Peptide by Fragment Molecular Orbital Method Koichiro KATO, Kaori FUKUZAWA, Yuji MOCHIZUKI ハイドロキシアパタイト(以下,アパタイトと呼ぶ)は骨・歯・細胞に対する高い親和性などからインプ ラントを中心とした生体材料として盛んな研究が行われており,アパタイトの結晶成長を理解・制御する ことは,より優れたインプラント材料の設計等に有用である.我々は, “フラグメント分子軌道(Fragment molecular orbital,FMO)法”をアパタイト系にも適用すべく研究を進め,人造ペプチドとの詳細な相互作 用解析に成功した.ここで用いた FMO 法は,タンパク質と化合物といった創薬分野での事例に加え,シ リカ結晶表面に吸着したペプチドに対する大規模な量子化学計算事例も報告されている手法である.本稿 では,バイオ分子相互作用シミュレータ MIZUHO/BioStation を用いた,アパタイト-ペプチド複合系の大 規模量子化学計算について紹介する. (キーワード): フラグメント分子軌道法,アパタイト,ペプチド,ナノバイオ,インプラント,BioStation, ABINIT-MP,Biostation Viewer 1 はじめに 議論は出来ず,QM/MM 法においては量子論で扱う 領域が広範囲となるために実際の計算は困難である. 無機材料表面と生体分子の相互作用の解明は,ナ また,DFT 計算で周期性を課す場合にも,固体表面 ノバイオテクノロジーの領域で近年盛んに研究が行 への生体分子の吸着の様な問題を扱う場合には巨大 われている.その対象はインプラントの表面改質に な計算セルを用意しなければならないため,依然と よる生体親和性の向上,ナノ粒子を用いたドラッグ して難しい.このような状況の中,我々はフラグメ デリバリーシステム,バイオミネラリゼーションな ント分子軌道法(Fragment molecular orbital method, どの医療工学や生物工学,さらには高感度なバイオ FMO 法)を用いて,大規模なシリカ結晶表面への人 センサーといった分野まで,多岐にわたる.これら 造ペプチドの吸着状態の量子論的な解析に成功 の研究においては実験研究が主流ではあるが,古典 ナノバイオテクノロジーへの FMO 法の有用性を示 分子動力学法(古典 MD)や量子・古典ハイブリッ した.今回我々は,FMO 法のナノバイオテクノロジ ド法(QM/MM 法) ,密度汎関数理論(DFT)などの ー領域における新たなターゲットとして,生体親和 シミュレーションの使用も進められている.しかし, 材料であるアパタイトに着目し,人造ペプチドとの 古典 MD では電荷移動や化学反応などの電子論的な 詳細な相互作用解析を実施した 2). i サイエンスソリューション部 ii 日本大学 松戸歯学部 助教 博士(工学) iii 立教大学 理学部 iv 東京大学 生産技術研究所 教授 バイオ・ナノチーム コンサルタント 博士(理学) 1 博士(理学) 1) し, (a) (c) 37.76 Å E1 (Glu1) E1 (Glu1) E4 (Glu4) S2 (Ser2) Q3(Gln3) (b) 13.77 Å E4 (Glu4) S5 (Ser5) S2 (Ser2) Q3(Gln3) S5 (Ser5) 図 1 アパタイトクラスタ構造の(a) Top view, (b) Side view 図 2 アパタイトクラスタへ吸着した人造ペプチドの代表 及び(c)人造ペプチド ESQES の構造(赤:酸素,灰: 炭素,青:窒素,白:水素,橙:リン) 構造(赤:酸素,灰:炭素,青:窒素,白:水素, 橙:リン) アパタイトは歯や骨の主要な無機成分である.歯 上記のアパタイトクラスタに対して,人造ペプチ や骨の表面エナメル質と特異的に接着するペプチド ドの吸着構造を 3 種類作成し,それぞれを初期構造 分子をシミュレーションの活用により効率的に見出 とした水分子の存在下での 3 系列の古典的分子動力 すことが出来れば,歯科学におけるより高性能な接 学(MD)計算を 10ns 実行した.各系列から 10 個ず 着材料の設計などに広く役立つと期待される.さら つ合計 30 個の構造サンプルを抽出し,それらに対し に,アパタイトの結晶成長を理解し制御することが, て FMO 計算を実施することで,構造ゆらぎの影響 より優れたインプラントの設計にも有用であると考 を取り入れた.MD には Amber99 力場を用い、 えられる.アパタイトの結晶成長理解への取り組み Molecular Operating Environment (MOE)8)にて計算を は, 実験的には進められており Dentin Matrix Protein1 行った。 (DMP1)などの酸性タンパク質によって制御が可能 FMO 計算では,ABINIT-MP6)に実装されている 4 であることに加え,DMP1 に含まれるアミノ酸配列 体までフラグメント展開を行う FMO4 法 7)を用い, “ESQES”,“QESQSEQDS”が重要な役割を果たし 環境静電ポテンシャルの扱いに留意した条件設定の .しかしながら,ペプ 下で,分散力も考慮できる 2 次摂動論(MP2)の計 チドのアパタイトへの特異的な吸着やアパタイト結 算を実施した.FMO 法を用いる事でフラグメント間 晶成長の微視的機構解明につながる様なシミュレー 相 互 作 用 エ ネ ル ギ ー ( Inter-Fragment Interaction ション研究はほとんど行われていないのが現状であ Energy, IFIE)が計算でき,この数値を用いることで, る. フラグメント同士の相互作用を定量化して評価する ている事が報告されている 3-5) 本稿では,アパタイトの結晶成長の微視的理解に ことが可能である.さらに,各アミノ酸残基とアパ 向けた第一歩として,水和環境下でのアパタイト表 タイトとの相互作用エネルギーの解析では,フラグ 面への“ESQES”吸着に関する FMO 計算解析の結 メント間の相互遮蔽効果を考慮した計算手法 果を報告する. (SCIFIE)9)も用いた. 2 計算手法 3 結果と考察 3.1 アパタイトへのペプチド吸着構造 今回計算対象としたのは,アパタイトの単位胞を x, y, z 方向にそれぞれ 4x4x2 展開したアパタイトク MD 計算により得られたアパタイトクラスタへの ラスタモデル(1408 原子)と ESQES(Glu1 - Ser2 - ESQES の代表的な吸着構造を図 2 に示す.この構 Gln3 - Glu4 - Ser5)なる人造ペプチド(72 原子)で 造は1つ目の系列において,各アミノ酸とアパタイ ある.それぞれの構造を図 1 に示す.ここで,アパ トとの相互作用が最も平均値に近かった構造であり, タイトクラスタモデルの格子定数は a=37.76Å, アパタイト表面に対してアーチ状に ESQES が吸着 c=13.77Åとなっており,人造ペプチドは N 末端のグ していることが特徴的である.さらに,末端のセリ ルタミン酸(Glu1)を H2N-,C 末端のセリン(Ser5) ン(Ser5)の側鎖水酸基がアパタイト表面のリン酸 を-COOH として電荷中性のモデルを用いた. イオンに向いて伸びており,表面を認識しているこ 2 E1(GLU) S2(SER) Q3(GLN) E4(GLU) S5(SER) IFIE [kcal/mol] 0 -20 -40 -60 -80 6.4 6.8 7.2 7.6 8 8.4 8.8 9.2 9.6 10 average MD time [ns] SCIFIE @ 8.8ns 図 3 系列1におけるアパタイトと人造ペプチド(ESQES)の残基毎の IFIE.サンプリングした10構造とそれらの平均値及び,平 均値に最も近いサンプリング構造(8.8ns 時の構造)に対する SCIFIE も同様に示した. においては,アパタイトとの静電相互作用が期待さ れるグルタミン酸による吸着が考察されてきたが, グルタミン酸だけでなくセリンもアパタイトへの吸 着へ大きく寄与することが本計算によって明らかに なった. とが示唆される.他の2系統においては,表面に対 してフラットな形状でアパタイトに吸着した構造が 得られた.これらの吸着構造は,アパタイトとペプ チドの相互作用に密接に関係している事が分かった ため,詳細を次節で述べる. 図 4 には,MIZUHO/BioStation viewer を用いて図 2 の吸着構造に対する SCIFIE を可視化した結果を示 3.2 アパタイトとペプチドの相互作用解析 計 30 個のサンプリング構造に対して,FMO 法を 用いてアパタイトと ESQES の各残基間の相互作用 を解析した結果を以下に述べる.系列1で得られた 10 個のサンプリング構造に対する IFIE とその平均 値,及び最も IFIE が平均値に近かった 8.8ns 時の構 造(図 2)に対する SCIFIE を図 3 に示す.吸着構 造からも見られるとおり,両末端のグルタミン酸 (Glu1),セリン(Ser5)で大きな IFIE の値をとって おり,アパタイトと強く吸着していることが分かる. また,2つのグルタミン酸(Glu1, Glu4)では比較的 大きな IFIE が得られているが,これはグルタミン酸 が電荷をもった荷電残基であることに由来している と考えられる.一方で,2つのセリン(Ser2 と Ser5) を見てみるとアパタイトとの相互作用に大きな差が 生じており,同じアミノ酸残基であっても,アパタ イトとの相対的な位置関係によって相互作用が変化 することを示唆する結果となっている.また,系列 1の 10 構造の平均 IFIE を見てみると,末端のセリ ン(Ser5)が最も大きな引力的相互作用を示すこと が分かった.同様の結果が,系列 2,3 においても得 られており,末端のセリン(Ser5)が最も大きな引 力相互作用を示す事は,系列に依らない結果である. また,SCIFIE の結果を見ると,電荷を持ったグルタ ミン酸(Glu1, Glu4)に対して有意な遮蔽効果の影響 が表れており,20 kcal/mol 程度相互作用が小さくな っている.一方で,末端のセリン(Ser5)の相互作 用については,遮蔽効果の影響はほとんど見られず, 最大の相互作用を示している.過去の実験報告など した.黄色で示された各アミノ酸残基に対して,相 互作用によって安定化しているフラグメント(水な いしイオン)が赤色,不安定化しているフラグメン トが青色となっている.上述の通り,負に帯電した グルタミン酸(Glu1 と Glu4)は正に帯電したカルシ ウムイオンと安定な相互作用をする一方,負に帯電 したリン酸イオンとは不安定な相互作用をしている ことが見て取れる.さらに,近いリン酸イオンほど 濃い青色となっており,その相互作用が強いことが 分かる.末端のセリン(Ser5)は隣接のリン酸イオ ンとは安定化を有しているが,離れたところではむ しろ弱く不安定化することも示されている.ESQES のアパタイト表面への吸着において,結晶側には安 定化と不安定化が混在することも,今回の FMO4 計 算によって初めて定量的に明らかにされた. また,末端のセリン(Ser5)が共通して大きな相 互作用を示す原因を探るため,我々は水和環境化で のアパタイトと人造ペプチドの電子密度の解析も行 った.その結果,アパタイトから水和水への大きな 電荷移動に加え,末端のセリン(Ser5)に向けてア パタイト表面の隣接するリン酸イオンから有意な電 荷移動が生じている事が分かった.これは,電荷移 動による相互作用が末端のセリン(Ser5)のアパタ イトへの特異的な吸着に寄与していることを示唆し ており,量子化学計算による電子レベルの計算を行 う事で初めて得られた知見と言える. 3 E1(Glu1) S2(Ser2) [ kcal/mol] 50 Q3(Gln3) S5(Ser5) E4(Glu4) -50 図 4 系列1の平均値に最も近いサンプリング構造(8.8ns 時の構造)におけるアパタイトと人造ペプチド (ESQES)の残基毎の SCIFIE の可視化.黄色で示された各アミノ酸残基に対し,安定化しているフラ グメント(水ないしイオン)が赤色,不安定化しているフラグメントが青色となっている. 4 まとめ 謝辞:本研究は、文部科学省「HPCI 戦略プログラム」 分野4-次世代ものづくりプロジェクト、ならびに 本稿では,FMO 法をナノバイオテクノロジーの境 「立教大学学術推進特別重点資金(SFR)」-共同プ 界・界面における相互作用解明へ適用した事例とし ロジェクト研究「固体表面と分子との相互作用に関 て,アパタイト表面と ESQES なる人造ペプチドに する計算化学と分析化学の連携研究」の支援を得て 対する計算結果を報告した.構造ゆらぎの影響を取 行われた。 り入れるため MD 計算から抽出した複数の構造に対 引 用 文 献 して FMO 計算を行った結果、共通して末端部のセ 1) Y. Okiyama, T. Tsukamoto, C. Watanabe, K. リン(Ser5)が最も顕著にペプチド吸着の安定化に Fukuzawa, S. Tanaka and Y. Mochizuki, Chem. Phys. 寄与していることが分かった.さらに,電子密度の Lett. 566 (2013) 25-31. 解析により,表面で隣接するリン酸イオンからの電 2) K. Kato, K. Fukuzawa and Y. Mochizuki, Chem. 荷移動が安定化相互作用に本質的であることを明ら Phys. Lett. 629 (2015) 58-64 かにした.一方,構造ゆらぎを考慮することで,セ 3) G. He, T. Dahl, A. Veis and A. George, Nature 2 リン(Ser3, Ser5)やグルタミン酸(Glu1, Glu4)の (2003) 552-558. 様な同じアミノ酸残基であっても,構造に応じて安 4) T. Tsuji, Y. Oaki, M. Yoshinari, T. Kato and K. Shiba, 定化相互作用が大きく変化することも分かった.こ Chem. Commum. 46 (2010) 6675-6677. れまでの実験研究では、グルタミン酸とアパタイト 5) T. Tsuji, K. Onuma, A. Yamamoto, M. Iijima, K. との静電的相互作用による吸着が推察されていたが, Shiba, J. Cryst. Growth 314 (2011) 190. 今回の計算により静電相互作用だけでなく,電荷移 6) S. Tanaka, Y. Mochizuki, Y. Komeiji, Y. Okiyama, K. 動の効果やハイドロキシアパタイト表面との相対的 Fukuzawa, Phys. Chem.Chem. Phys. 16 (2014) な位置関係も重要であることが新たに示された. 10310. 本成果によりアパタイト系に対する FMO 計算の 7) T. Nakano, Y. Mochizuki, K. Yamashita, C. Watanabe, 有用性が示されたため,アパタイトと接着するペプ K. Fukuzawa, K. Segawa, Y. Okiyama, T. Tsukamoto, チドの設計による歯科治療材の開発,コラーゲンと S. Tanaka, Chem. Phys. Lett. 523 (2012) 128. の相互作用による骨形成過程の解明,薬剤物質との 8) Molecular 相互作用による骨粗鬆症薬の開発など,今後の更な Operating Environment (MOE), <http://www.chemcomp.com>. る応用展開が期待される。 9) S. Tanaka, C. Watanabe, Y. Okiyama, Chem. Phys. Lett. 556 (2013) 272. 4
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