その女、小悪魔につき - タテ書き小説ネット

その女、小悪魔につき――。
九曜
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
その女、小悪魔につき︱︱。
︻Nコード︼
N7930Q
︻作者名︼
九曜
︻あらすじ︼
槙坂涼という名の生徒がいる。
彼女をひと言で表すなら、黒髪ロングのオトナ美人。清楚を絵に
描いたような美貌だ。当然、男女問わず人気があって、学校では知
らないものはないと言ってもいいだろう。だが、実は彼女の本性は
悪魔である。僕はそのことをよく知っていた。
一方、この僕︱︱藤間真は平和と退屈と本を愛する一介の男子生
徒である。
1
にも拘わらず、僕は槙坂先輩と浅からぬ仲にあった。
これはそんな僕たちの高校生活の話︱︱。
◆アルファポリス様より﹃槙坂涼は退屈を好まない。﹄のタイトル
で全2巻が刊行されています。
◆書籍化部分を削除しましたが、残っているものだけでも楽しんで
いただけるよう改稿しました。
2
第一話
ひとつのハンバーガを両手で持って食べるさまは、リスかハムス
ターのようだと思った。
口いっぱいに頬ばっているわりには、さっきからぜんぜん減って
いない。ぜんぶ食べたとしても、いちばん小さなハンバーガひとつ、
プラス、Sサイズのオレンジジュース。男の僕からすれば、そんな
さえぐさ・さえだ
ので足りるのだろうかと心配してしまう。
﹁ん? なに?﹂
﹁いや、何でも﹂
こちらの視線に気づいて首を傾げる三枝小枝︱︱通称﹃こえだ﹄、
に僕はそう答えた。止まっていた手を動かし、僕も食事を再開する。
僕がこえだと呼び、僕のことを真と呼び捨てにするこの女の子は、
明慧学院大学附属高校におけるかわいい後輩である。ショートの髪
をヘアピンで止め、おでこも広く露にした小柄な少女だ。
︱︱夏休みに入ったばかりのある日、即ち、今日。
僕はこのこえだに呼び出され、こうしてファーストフード店で昼
食を一緒に食べていた。
﹁で、何の用なんだよ﹂
僕はアイスコーヒーを飲んでから問う。時間的にも丁度よかった
ため、会うなりとりあえず先に昼食ということになり、まだ用件は
聞いていないのだ。
﹁あ、うん、そうだった。⋮⋮ていうか、真、夏休みに入っても実
家に帰ったりしてなかったんだ﹂
﹁帰っててくれたほうがよかったような言い方だな。⋮⋮帰っても
ふじま・しん
たいして変わらないんだよ﹂
僕、藤間真はひとり暮らしである。
特に家庭に不満があったわけではない。母は資産家の愛人という、
3
親族や世間に後ろ指をさされそうな生き方を選んだが、その逞しさ
を尊敬こそすれ、軽蔑するつもりはない。母との関係は良好だ。僕
がひとり暮らしをしているのは、単に僕が行きたいと思い、そして、
見事合格した高校が家から遠かっただけの話である。
さて、その母はターミナル駅の駅前一等地にある有名シティホテ
ルの女フロントマネージャで、ゆっくり家事をする暇もないほど忙
しい身だ。僕が家に帰ったところで、結局のところ、自分のことは
自分でやることになるだろう。或いは︱︱久しぶりに帰ってきた息
子のために母が張り切ってしまうか、もしくは、これ幸いと息子に
家事を押しつけるか。どちらにせよあまりよい状況になりそうにな
い。母の休みに合わせて帰って、顔を見せるのがいちばんよさそう
だ。
﹁ていうか、家に帰っていようがいまいが関係ないだろ。こえだが
用があるって言うんなら、僕はどこからだって出てくるんだから﹂
﹁⋮⋮真ってさ、時々こっちがどきっとするようなこと、さらっと
言うよね﹂
﹁そうか?﹂
変なことを言うやつだ。何か大事な用があるからこそ呼び出すの
だろうから、僕はたとえどこにいようと駆けつけるつもりだ。⋮⋮
もちろん、これがクラスメイトの浮田あたりなら、必死に助けてく
れと訴えかけてきても出ていかないが。
﹁いいから用件﹂
﹁い、今から言うから﹂
改めて先を促せば、こえだは居住まいを正してから言いにくそう
に切り出した。
﹁あ、あのさ、真、一緒に映画見に行かない?﹂
﹁映画?﹂
思わず鸚鵡返しに聞き返せば、こえだは神妙に﹁そう﹂とうなず
いた。
ジャスト三十秒の沈黙。
4
なるほど。理解した。
﹁別にいいぞ﹂
僕はあっさり快諾する。
﹁なんだ、お前、僕とデートしたかったのか。それならそうと、も
ったいつけずにさっさと言えよ﹂
﹁ち、違うもん!﹂
顔を真っ赤にして怒り出すこえだ。が、狭い店内で発した大声に
周囲の視線が集まり、彼女は恥ずかしさに身を縮こまらせた。基本、
小動物なのである。
﹁ま、そうだろうな﹂
それくらいわかっているさ。
﹁いったいどういう事情と経緯だ?﹂
﹁わかってんなら、からかうなよぉ﹂
こえだは口を尖らせ︱︱ずずっとオレンジジュースをストローで
吸い上げた。
﹁えっと、知り合い三人で映画を見にいこうってことになったんだ
けど、チケットが四枚あって一枚余ったから、だったら真を誘おう
って﹂
﹁ふうん﹂
つまり、おもりか。
﹁なんで僕なんだよ?﹂
﹁ほら、真って今、時の人だから?﹂
﹁⋮⋮﹂
まきさか・りょう
どうせ槙坂涼がらみなのだろうな。
槙坂涼という女子生徒がいる。
学年は僕よりひとつ上の三年生。彼女をひと言で表すなら、黒髪
ストレートのオトナ美人。清楚を絵に描いたような美貌だ。当然の
ように学校では男女問わず人気があり、明慧大附属で彼女を知らな
いものはいないと言ってもいいだろう。
5
そんな槙坂先輩と、僕は浅からぬ仲にあった。
あろうことか彼女は、この僕に強い拘りを見せているのだ。しか
し、あくまで一介の男子生徒でありたい僕は、彼女を拒絶するスタ
ンスを取り続けている。⋮⋮が、残念ながら、このような双方の複
雑な︵?︶思惑を指して﹃浅からぬ仲﹄と言っているわけではない。
最悪なことに、こういう相関関係にも拘らず、僕らは浅からぬ仲
になってしまったのである。
こえだの友人たちは、我らが槙坂先輩がご執心の僕がどんな人間
なのか知りたい、といったところか。おもりなんて生ぬるいものじ
ゃないな。⋮⋮まさかとは思うが、夏休み直前、そろって生徒指導
室に厄介になった件じゃないだろうな。あれはそれほど知られてい
ないはずだ。
﹁だと思うんだけど⋮⋮﹂
しかし、こえだは自信なさげに言い加えた。
﹁どうした? 今日は歯切れが悪いな﹂
﹁別に﹂
そして、今度は不貞腐れ。
﹁真のくせになんでモテるんだろうと思って﹂
﹁お前なぁ。なんて言い草だよ。そもそも今回の件はただ単にチケ
ットが余っただけの話だろ﹂
ついでに根掘り葉掘り聞こうという魂胆がミエミエではあるが。
そこで僕はふと、こえだ以外はどんな顔ぶれなのだろうと思った。
しかし、言われたところで知らない名前が出てくるだけだろうし、
あえて聞かないことにした。
結局、詳しいことは決まり次第連絡するということで、今日は昼
を一緒に食べただけでこえだとは別れた。
そして、当日。
こえだと会ったあの日の夜には待ち合わせの日時が知らされ、僕
6
は今、その場所に立っていた。
駅の改札口前。
この駅の周辺は一昨年から再開発がはじまり、商業施設が次々と
できている。そして、去年ついにシネコンをも備えた大型ショッピ
ングセンターがオープンし、この駅の二階コンコースから直結して
いるという親切設計。おかげで改札前は待ち合わせには最適なのだ。
ぶっちゃけ、僕の最寄駅である。
こえだは知らなかったのだろう、駅に降りてショッピングセンタ
ーとは反対側に行けば、僕の住む高層マンションがある。待ち合わ
せの時間十五分前に家を出て、ここまで歩いてきた。
腕時計を見れば、針はもう間もなく十一時を指そうとしている。
こえだは時間に遅れてくるようなやつじゃないし、絶望的にルー
ズな子がメンバーに混じっていない限り、責任をもって牽引してく
ることだろう。
と︱︱、
﹁お待たせしました、藤間先輩﹂
﹁え?﹂
不意の、声。
甘くもはきはきとした声音に振り返れば、髪をツーサイドアップ
にした女の子が立っていた。おそらくよほどのひねくれものでない
限り、皆が皆口をそろえてかわいいと評するであろう彼女を、僕は
かがみや
知らなかった。だが、どこかで見たような気もする。
﹁はじめまして、加々宮きらりです﹂
﹁ああ﹂
そのやけにまぶしい名前には聞き覚えがあったし、どこかで見た
と思ったのもそのはず、今年の新入生の中で抜群にかわいいと評判
の子だった。僕も噂を耳にすることもあれば、何度か遠目に見たこ
ともある。⋮⋮こえだのやつ、こんな子と知り合いだったのか。
﹁君、ひとり?﹂
てっきり三人一緒にくるものだと思っていたのだが、特にそうい
7
うわけでもなかったようだ。
﹁悪いけど、まだ残りふたりがきてないんだ。もう少し待っててく
れるかな﹂
﹁きませんよ﹂
﹁は?﹂
邪気のない笑顔で言われ、僕の口から間の抜けた音がもれた。
﹁あとのふたりは急用でこれなくなったそうです。わたしと先輩ふ
たりだけですけど、別にいいですよね?﹂
﹁いや、待て﹂
今日は女の子三人を相手できると聞いていたのに、それがひとり
インモラル
だけというのは話が違いすぎるだろ。⋮⋮いや、違うのは僕の表現
のほうだな。言い方がやけに不道徳だ。状況に対応できてなくて、
頭が混乱しているのかもしれない。
ことづか
﹁僕は何も聞いてない﹂
﹁だから、わたしが託ってきました﹂
﹁⋮⋮﹂
確かにいちおう筋は通っている。が、全員が全員知った仲である
なら兎も角、この場合、橋渡し役であるこえだからその連絡がない
というのもまたおかしな話である。
﹁悪い。一度こえだに確かめさせてくれ﹂
﹁えー、そんなー、わたしが信用できないんですかぁ?﹂
ポケットから携帯電話を取り出した僕のその腕を、加々宮さんが
それ以上の動きを阻止するかのように抑え込んだ。訴えかけるよう
に、顔を覗き込んでくる。
と、そのとき、手の中の端末が鳴り、すぐに止まった。メールが
着信したようだ。
﹁メールの確認くらいさせてくれ﹂
言ってから僕は腕を振りほどき、メールを開く。
こえだからだ。
8
﹃罠だった。真、逃げてー﹄
思わず脱力して倒れそうになった。遅ぇよ。
続けて加々宮さんを見れば、彼女は﹁あ、もうバレた?﹂といた
ずらっぽい笑みとともに、小さくつぶやいた。
﹁こえだはどうしてるんだ? まさか監禁してるとかじゃないだろ
うな?﹂
﹁三枝さんはもうひとりの子に、ちょっと足止めをお願いしてるだ
けです﹂
なるほど。最初からそういう魂胆だったか。あの日こえだがどこ
となく歯切れが悪かったのは、あいつも何となく話の流れに不自然
なものを感じていたからなのだろうな。ということは、今日の話そ
のものを切り出したのも、ここにいる加々宮さんか。
まいったな。さて、どうしたものか。
迷っていると、改札口から出てくる人の流れの中に見知った顔を
きり
見つけた。さすがに今日は黒のセーラー服ではなく、夏らしいオレ
や・いいこ
ンジのキャミソールに七分丈の白のパンツ姿。︱︱我が義妹、切谷
依々子だ。
彼女も僕に気づき、そして、ついでに僕の窮状も正確に理解し︱
︱嘲笑うように口の端を吊り上げ、ショッピングセンター方面へと
通り過ぎていった。
﹁⋮⋮﹂
あの様子じゃ助けてもらうのはむりそうだ。まぁ、誤解されるよ
りはいいか。
しかし、わからないのは加々宮さんがこんなことをした動機なの
だが⋮⋮。それこそこえだじゃないが、﹃平和と退屈と本を愛する
一介の男子生徒﹄をキャッチフレーズとする僕がこんな子のお誘い
受ける理由がわからない。そんな奇特な人間は槙坂先輩だけで十分
だ。
﹁最初の予定とちょっと変わっちゃいましたけど、いいですよね?
9
大丈夫。わたし、自信ありますから。きっと楽しんでもらえると
思いますよ。槙坂さんより﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに槙坂さんほど美人じゃないかもしれませんが、これでもよ
くかわいいって言われるんですから﹂
なるほど。氷解した。
どうやら彼女の策謀の原動力は槙坂涼への対抗心だったようだ。
ターゲットが純粋に僕でなくてほっとしたが、しかし、ややこしい
状況であることには変わりない。⋮⋮さて、どうするか。リトマス
試験紙にされているのは癪だが、性格があまりにも愉快すぎて、う
っかり当初の約束通り映画につき合ってやりたくなってしまうな。
しかし、そこに僕の思案をすべて無にしてしまうような闖入者が
現れた。
﹁ああ、まだここにいたのね﹂
槙坂涼だった。
ガーリー
肩出しの黒のカットソーに白のティアードスカートという、オト
ナ美人の彼女にしてはずいぶんと少女的な装いだ。
そのティーンズファッション誌から抜け出てきたような美少女っ
ぷりに、コンコースを行き交う人たちが彼女を見ながら通り過ぎて
いく。
そして、まさかこの場に彼女が現れるとは考えもしなかった僕は、
思わず言葉を失くしまう。隣では加々宮さんが﹁げ、槙坂さん⋮⋮﹂
と小さく焦りの声を発していた。
﹁⋮⋮どうしてここに?﹂
﹁サエちゃんから連絡をもらってね。ちょうど電車に乗っていたか
らきてみたの﹂
そう笑って言うと、槙坂先輩は加々宮さんへと向き直った。
﹁あなたが加々宮さんね?﹂
﹁そ、そうよ。それが何か?﹂
加々宮さんは精一杯胸を張って槙坂先輩を正面から迎え撃つが、
10
しかし、ぷいとそっぽを向いた姿は余裕綽々でつんと澄ましている
というよりは、目が合わせられないといったほうが正確そうだ。
﹁人の彼氏を横から取ろうなんていい度胸ね。どういうつもり?﹂
槙坂涼はたじろぐ彼女をさらに追い込もうと、冷たく鋭い口調で
問い詰める。その迫力に加々宮さんの口から﹁ひっ﹂と悲鳴らしき
声がもれた。
﹁おいおい、下級生相手に何もそんなに︱︱﹂
﹁真は黙ってて。今、女同士の話し合いの最中よ﹂
﹁⋮⋮﹂
加々宮さんがかわいそうになって間に割って入ろうとしたが、ぴ
しゃりと遮られてしまった。⋮⋮できれば﹃彼氏﹄という単語にも
異議を唱えたかったのだが、どうやらここは黙っておいたほうがよ
さそうだ。
﹁ふ、ふん。どういうつもりかって? もちろん、女としてわたし
のほうが上だって証明するためよ﹂
加々宮さんは明らかに気圧されながらも、それでもどうにかこう
にか踏ん張ろうとしていた。⋮⋮それにしても、こうして改めて聞
くと、加々宮さんも槙坂先輩相手に無謀なことを考えたものだと思
う。
﹁面白いわね。それってどうやってやるのかしら?﹂
﹁これから藤間先輩とデートして、わたしのほうが槙坂先輩より︱
︱﹂
﹁あら、ずいぶんと子どもなのね﹂
しかし、槙坂先輩は彼女の言葉を鼻で笑い飛ばす。
﹁わたしはてっきり、自分のほうがキスとかいろんなことが上手だ、
くらいのことは言ってくるのだと思っていたわ﹂
﹁い、いろんなことって⋮⋮?﹂
﹁言わないとわからない? はっきり言ったほうがいい?﹂
11
槙坂先輩はまるで追い打ちをかけるように問いを重ねるが、加々
宮さんは慌てて首を横に振った。その頬に朱が差し、顔が真っ赤に
なっていた。高校生ともなれば、当然それくらい想像がつく。
槙坂先輩の清楚な雰囲気から、周りは彼女を清廉で純真無垢な存
在だと思いたがるだろう。確かにそうだ。彼女が周囲の望む﹃槙坂
涼﹄を演じるときはそう振る舞う。だが、本当はその大人びた容姿
に相応しく年相応の知識と興味をもっているのだ。
﹁あ、う、ううぅ⋮⋮﹂
じりじりと後退りする加々宮さん。まさかこんな直球を投げ込ま
れるとは思ってもみなかったのだろう。
そして、
﹁お、覚えてなさい。まだ負けたわけじゃないからあぁぁぁ!﹂
ついに背を向け、走り去ってしまった。ICカード乗車券が入っ
ているらしい財布を改札機に叩きつけ、プラットホームへと消えて
いく。
僕はその後ろ姿を見送り、ほっとひと息ついた。とりあえず今日
のところは一件落着か。⋮⋮ある意味ほほえましくもある下級生だ
ったが、この悪魔に手を出せば痛い目を見ると身に染みてわかった
ことだろう。
と、そのとき、
ばしん
不意に肩を叩かれた。悪魔、もとい、槙坂先輩だ。
﹁痛いな。なんだよ﹂
だが、彼女はそれには答えず、もう一発。さらに続けて二発、三
発、四発⋮⋮。次第に最初のような快音は聞こえなくなり、ただご
んごんと叩いてくる。
﹁だから何なんだ﹂
﹁うまく言えないわ﹂
ようやく叩くのやめて言ったのがそれ。
とりあえず何かに怒っているのだけは確かだ。生意気な下級生に
12
か、それとも隙が多い僕とか少しくらいつき合ってやってもいいか
と思った僕とか、僕とか僕とか僕とか。まぁ、浅からぬ仲である僕
に文句のひとつも言いたくなって当然か。
だから︱︱、
﹁あら、まだお昼前なのね。せっかくだからこのままデートといき
ましょ﹂
﹁⋮⋮﹂
ひと
僕はその言葉に逆らえなかった。
槙坂涼とはこういう女だ。
13
第二話 その1
みさき
もう間もなくカレンダが八月に変わろうかという、夏休みのある
日のこと
﹁暑い!﹂
空調の効いたコーヒーチェーン店の店内、美沙希先輩はひと口飲
んだカフェラテのカップをテーブルに置きながら吠えた。
おそらくそれは今この瞬間の暑さではなく、今夏全般の暑さに対
こが・みさき
する文句なのだろう。ニュースでも今年は猛暑だと言っていた。毎
年言っている気もするが。
僕の目の前にいるこの女性は、名を古河美沙希という。
かたちのいい猫目にざっくりしたウルフカットの、非常に男前な
容姿をしている。学年は僕よりひとつ上、槙坂先輩と同じ三年生。
そして、大恩ある我が師でもあった。
中学生のころの僕は、中二病という大変痛ましい病気を患ってい
た。毎日つまらない、周りはバカばかりだと日々ため息を吐いて暮
らしていたところ、この美沙希先輩が現れたのだ。僕は彼女によっ
て半ば強引に学校行事の運営に軒並み関わらされた。
彼女は言う。
﹃お前が思ってることは正しい。いいか、世の中ってのはホントに
面白くないんだよ。くだらないんだよ。だったら、自分で面白くす
るしかないだろうが﹄
その結果、僕はものごとを思い通りに進める楽しみを知った。つ
まらない毎日を自分の力で面白くすことがと知った。今では平和と
退屈を愛しつつも、自分の人生を充実させることに努力を惜しまな
い人間となったのだった。
尤も、槙坂涼という存在はスパイスにしては刺激がありすぎるの
14
だが。あれが劇薬、或いは、毒薬だ。
﹁夏ですからね﹂
僕は店内の空調よりも幾分か温かみを加えた口調で、夏休みの課
題をこなしながら答える。
明慧大附属は二期制の高校だ。夏休みが明けて少しすれば前期の
定期テストが待っている。あまり浮かれてはいられないのだ。特に
今年は休み中に海外旅行に行くことになっていて、勉強どころでは
ない時期が少なからずある。
美沙希先輩も課題を広げてはいるが、あまり進んでいるようには
見えなかった。こっちはこっちで三年生だから、秋になればそろそ
ろ大学入試がはじまるだろうに。
﹁泳ぎにでもいくか﹂
唐突に美沙希先輩が言う。僕は思わず顔を上げた。
﹁川ですか?﹂
ハンパ
﹁このへんに泳げるような川があったかよ。童心に返りすぎだろ﹂
半眼で睨んでくる美沙希先輩は、半端なく怖い。この人は﹃猫目
の狼﹄というあだ名で、一部の界隈で有名なのだ。おかげでその舎
弟である僕も、喧嘩には平均以上に強くなってしまった。
﹁じゃあ、海ですか?﹂
﹁それもいいけど遠いな。それに面白くない。去年いったところが
あんだろ﹂
﹁ああ、バシャーンですね﹂
﹃ウォーターワールド・バシャーン﹄。この辺では最大級の室内プ
ールのレジャー施設だ。ほかにも経営母体が同じで絶叫系アトラク
ションが売りの﹃スカイワールド・ビビューン﹄がある。
確かにプールならバシャーンだろうな。
﹁そうですね⋮⋮﹂
僕はテーブルの上のテキストやノートを見ながら思案する。夏休
みの課題と言っても、一日も休まずやらないと終わらないほど出さ
15
れているわけではない。僕も先日の映画騒動以来、特にどこにも行
っていないので、そろそろ思いっきり羽目を外したいところだ。
﹁じゃあ、いきますか﹂
﹁おっし﹂
﹁せっかくだから槙坂も呼ぼうぜ﹂
いきなりとんでもないことを言い出す美沙希先輩。止める間もな
くスマートフォンを手に取り、電話をかけはじめた。
﹁よ、槙坂か? 今から泳ぎに行かないか?﹂
しかも、今からかよ。
僕は美沙希先輩から端末を取り上げた。
﹁あー、もしもし。僕だ﹂
﹃あら、藤間くん?﹄
電話越しの槙坂涼の声。
﹃美沙希と一緒なの?﹄
﹁え? ああ、いや、何となく話の流れで一緒に勉強することにな
って。でも、コーヒーショップでやってるから︱︱﹂
僕が言葉を重ねていると、電話の向こうからくすくすと笑い声が
聞こえてきた。⋮⋮ああ、くそ。別に責められているわけでもない
のに、何を言い訳じみたことを言っているのだろうな。
僕は咳払いをひとつ。話を戻す。
﹁それよりも、だ︱︱さっきの美沙希先輩の話だけど、別に断って
くれてもかまわないから﹂
むしろそうしてほしい。
﹃そうね。今からじゃさすがに急すぎるわね﹄
﹁あの人はいつも急だからな﹂
思い立ったが吉日、善は急げを地で行く人だ。瞬発力が高すぎる
のだ。
苦笑しつつも、槙坂先輩の難色を示すような反応に、内心でほっ
16
と胸を撫で下ろしていた。
﹃美沙希に代わってくれる?﹄
﹁ああ﹂
僕は端末から耳を離し、それを美沙希先輩へと差し出した。それ
を受け取りながら彼女は、﹁てめぇ﹂と計画を妨害する僕を睨んで
くる。すこぶる迫力があるが、僕にとっては槙坂涼と一緒に行くプ
ールのほうが恐ろしいのである。
﹁どうする? お、そうか。わかった。じゃあ、1時に待ち合わせ
な﹂
﹁は!?﹂
なんだ、今の流れは。
僕は再び美沙希先輩の手からスマートフォンをふんだくった。
﹁ちょっと待て。まさか行くのか?﹂
﹃ええ、そうよ。夏といえばプールよね。楽しみだわ﹄
﹁いや、さっき難しそうなこと言ってなかったか?﹂
﹃あら、いつ誰がむりって言ったのかしら﹄
﹁⋮⋮﹂
確かに言っていないな。
僕が次なる言葉を考えていると、美沙希先輩の拳で頭を殴られ、
端末を取り返されてしまった。
﹁じゃあ、1時な。⋮⋮あン? 真? 大丈夫だ。口ではあんなこ
と言ってるけど、頭ン中じゃお前の水着姿を想像してパライソ状態
だから﹂
勝手なことを言ってくれる。
美沙希先輩が槙坂先輩に簡潔に用件を伝え、電話は終わった。
﹁真、お前は後で死刑な﹂
﹁⋮⋮﹂
考え得る限り最悪の展開だった。
その後、僕と美沙希先輩はそのままコーヒー店で早め軽めの昼食
17
をとり、一旦別れた。家に帰って用意だ。
バシャーンは埠頭にあり、最寄の駅から徒歩で行くことができる。
待ち合わせは現地だが、みんな同じ方向からくるわけで、同じ電車
に乗っていたらしい僕と槙坂先輩は改札を出る前にお互いを見つけ
た。
﹁改めて、こんにちは。藤間くん﹂
顔を合わせ、にっこり笑う槙坂先輩。
正直、会いたくなかったのだが、かと言って逃げられるわけでも
なし。いちおうこのイベントの不参加を申し出たのだが、当然のよ
うに美沙希先輩に却下を喰らった。
﹁浮かない顔をしてるわね﹂
﹁少々気が重くてね﹂
僕たちは改札口を出て、バシャーンへと向かう。歩いていけるく
らいなので、施設の外観はすでに見えていた。
﹁サエちゃんも誘ったの?﹂
﹁そのつもりだったんだが、連絡がつかなかったんだ﹂
電車を降りてからも携帯電話を確認してみたが、リターンはなし。
これはすべてが終わってから連絡がついて、一緒に行けなかったこ
えだに僕が文句を言われるパターンだろうな。隣を歩くお方は刺激
が強いのが確実なだけに、ああいう目に優しいやつがほしかったの
だが。
言っているうちにバシャーンに着き、施設のエントランスにはす
でに美沙希先輩の姿があった。
﹁早いのね、美沙希﹂
﹁そうか? 時間通りだろ﹂
意外そうに言う槙坂先輩と、スマートフォンで時間を確認しつつ
答える美沙希先輩。
それなりのつき合いの僕にとっては意外でもなんでもない。ノリ
が体育会系の美沙希先輩は、時間に関しては真面目なのだ。いつも
十分前には確実に待ち合わせの場所に着いている。
18
﹁んじゃま、いくか﹂
僕らはさっそく入場した。
着替えを終えて、プールエリアの入り口で待っている間、僕は施
設を見渡す。
子ども用のプールに流れるプール、波の打ち寄せるプール、など
など。視線を少し上げれば、全長100メートル超、高低差15メ
ートルのウォータースライダーが目に入ってくる。
﹁ていうか、去年よりパワーアップしてないか?﹂
どうも去年の夏に見たときと形状が変わっているようなのだが。
軽く戦慄を覚える。
と、
﹁おい、真﹂
背中に美沙希先輩の声が浴びせかけられる。
振り返れば、ふたりが並んで歩いてくるところだった。
美沙希先輩はスポーツタイプのセパレート水着。色は淡いブルー
と濃紺のツートンカラーだ。⋮⋮こっちはいい、こっちは。去年す
でに一度見ているし、意外と無駄のないアスリート体型なので安心
して見ていられる。
問題は槙坂先輩だ。
こちらはなんと、トップスの右胸のところに大きくロゴがプリン
トされただけの、真っ白なビキニ姿だった。スタイルがいいとはよ
く言われていたが、水着だとそれが嫌というほどわかる。それどこ
ろか、どうやら着痩せするタイプらしく、想像していた以上に出る
ところが出ていて、圧巻のひと言だ。これほど目に毒なものもほか
にあるまい。
僕の内心の動揺を鋭く察したらしく、槙坂先輩がこちらを見て微
笑む。心臓がひとつ、大きく鳴った。
﹁じゃ、じゃあ、さっそくいきますか﹂
僕は逃げるように踵を返し、プールエリアへと体を向けた。
19
だが︱︱、
﹁いや、まずはお前の死刑からだ﹂
﹁は?﹂
美沙希先輩にがっしりと腕を極められた。
こうして垂直落下式ブレーンバスターと監視員の注意から、本日
のプールイベントははじまった。
20
第二話 その2
﹁高いな⋮⋮﹂
高低差15メートルを謳うウォータースライダーの最上部から見
下ろす景色は、見晴らしもよく、なかなか爽快だ。
人によっては、だが。
いくつかのプールで遊び回った僕たちは、ついにバシャーン名物
のウォータースライダーへときていた。
﹁ここを滑るのか⋮⋮﹂
﹁怖いの?﹂
眼下に広がる景色に顔を引き攣らせていると、槙坂涼が声をかけ
てきた。
﹁誰もそんなことは言っていない﹂
口ではな。
飛行機の窓から見える景色に恐怖を感じる人間はいない。だが、
こういう﹁落ちたら死ぬかな?﹂というリアルな想像がはたらく高
さがいちばん恐怖をかきたてるのだ。
﹁そういえば藤間くんはこういう絶叫系が苦手だったわね﹂
﹁いや、果たしてこれは絶叫マシンに分類するべきものだろうか?﹂
僕は槙坂先輩の言葉に対し、逆に形而上学的疑問を投げかけてみ
る。
﹁カップル限定でふたり一緒に滑っていいみたいよ?﹂
彼女が指さした看板には、ハートマークをバックに確かにそんな
ことが書かれていた。
﹁どうする? わたしが後ろから抱きしめてあげましょうか? そ
れともわたしを抱きしめながら滑る?﹂
﹁あいにくと﹃カップル限定﹄の部分で条件を満たしていないよう
だ。⋮⋮お先に﹂
21
僕は係員のゴーサインが出たのを見て、スライダーへと飛び込ん
だ。あんな大胆な水着姿の槙坂先輩と密着して、抱きしめる? 抱
きしめられる? 冗談じゃない。確実に心臓が過労死する。そちら
への恐怖が高さに対する恐怖心に勝り、僕は躊躇いもなく身を躍ら
せた。
チューブの中を水流に乗って滑る。
右に左に、加速と遠心力に翻弄されながら、どんどんスピードを
上げていく。そのわりにはまだ終わりの気配がしない。おいまだか
よ、いいかげんにしろよ、と思いはじめたころ、体がざぶんと水の
中へと飛び込んだ。ようやく地上に到達したらしい。
﹁ぶはっ。げほっげほっ﹂
水から顔を出し、息継ぎとともに咳き込む。
ひどいアトラクションだ。飛び降り自殺をした人間は、空中にい
るときにすでに魂が抜けていると言うが、僕も途中で魂が抜けるか
と思った。よくそうならなかったものだ。このまま放心して水に浮
かんでいたいが、そうもいくまい。水をかき分けるようにしてその
場を離れる。
程なくして、楽しげな悲鳴とともに槙坂先輩が滑り降りてきた。
﹁ぷはっ﹂
水から顔を出した彼女は満面の笑み。満喫しているようで何より
だ。
槙坂先輩は顔にかかる髪をかき上げ、僕の姿を見つけると、泳ぎ
ながら寄ってきた。
﹁すごいスピード! 楽しいわ﹂
興奮冷めやらぬ調子で言い、立ち上がろうとして︱︱、
﹁きゃあ!﹂
いきなり真正面から僕に抱きついてきた。
﹁ど、どうした?﹂
足がもつれたのか?
22
﹁⋮⋮ブラがないわ﹂
﹁ぶっ﹂
僕は反射的に離れようとするが、その気配を感じた槙坂先輩がそ
うさせまいと僕の体に回した手に力を込めた。⋮⋮ようやく事態の
深刻さを理解した。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
あまりにも不測すぎる事態に身動きが取れなくなる。
どちらが言い出したわけでもなく、僕らは腰を落とし、体を水の
中へと隠した。だからと言って、やはり離れられるわけでもなく、
状況はそれほど改善されてはいない。
﹁み、見えた?﹂
﹁い、いや、見えてないから安心してくれ﹂
お互いの腰を抱えるようにして身を寄せ合っている僕らは、周囲
にはどう映るのだろうか。場所も考えずイチャつくカップルだろう
か。考えたくもないな。
﹁じゃあ⋮⋮見る?﹂
﹁は?﹂
﹁ほら、少しだけ体を離せば、周りにはわからないように藤間くん
にだけ見せることができるわ⋮⋮なんて? 冗談よ。ふ、ふふ⋮⋮﹂
笑う声がぎこちない。
﹁じょ、冗談だから!﹂
わかってるよ、そんな泣きそうになりながら言わなくても。黙っ
てしまったのは真面目に考えたわけじゃなくて、どう返していいか
わからなかったからだ。どうしてこんな極限状態でむりして冗談を
言おうとするんだろうな。テンパってるのか。
﹁おらよっしゃあ!﹂
そこにえらく男前な掛け声とともに滑ってきたのは美沙希先輩。
﹁あン? お前ら何やってんだ? そういうのは真ンちの風呂でや
23
れ﹂
﹁やらねぇよっ﹂
こんな危険な状態のときに、よけいな想像をさせないでくれ。
﹁あのね美沙希、ブラが外れてしまったみたいなの⋮⋮﹂
恥ずかしそうに小声で言う槙坂先輩。
すると美沙希先輩は﹁ん?﹂と首をひねった後、またしてもよけ
いなひと言を言ってくれた。
言わなくていいからっ
﹂﹂
﹁つまり、今、槙坂はナマで押しつけてるわけだ﹂
﹁﹁
その辺り考えないようにしていたのは一緒だったようで、僕と槙
坂先輩は声をそろえて悲鳴を上げた。
この後、美沙希先輩が近くに漂っていたそれを見つけ、どうにか
ことなきを得た。
24
第二話 その3
プール三昧の午後は続く。
﹁おらおら﹂
﹁きゃっ! ちょっと美沙希!?﹂
﹁あんた、何やってんだ!?﹂
﹁あぁ? やんのか真﹂
﹁たとえ美沙希先輩でも、非道な蛮行には武力行使も辞さない﹂
﹁おし、こい。お前とはいつかケリをつけようと思ってたんだ﹂
﹁それはこっちの台詞だ! ⋮⋮あ、ちょっと待って。ごめんさい。
いて、いててててて﹂
波の打ち寄せるプールの浅いところで、借りてきたビーチボール
で平和的に戯れていたはずが、どういうわけかいつの間にか格闘戦
になっていたりもする。波打ち際だけに、演出過剰な巌流島の戦い
のようだ。
そして、ついていけないどころか、巻き添えを喰らうのは槙坂先
輩。
﹁喰らえ! ⋮⋮槙坂発射﹂
﹁きゃあ!﹂
﹁え?﹂
美沙希先輩に突き飛ばされた槙坂先輩が、つんのめりながらこち
らへ向かってきて、僕はそれを抱き止める。が、しかし、踏ん張り
切れず、ふたり一緒にもつれるようにして倒れてしまった。
思い出したのは夏休み前のアクシデント。あのときは触れてはい
けないところに触れてしまい、それで槙坂先輩が妙な悪戯心を出し
た挙句、その場面を先生に見られて仲良く生徒指導室に連れていか
れたのだった。同じ轍は踏むまいとどこにも触らないように気をつ
けたら、見事に背中から落下。膝下くらいまでしか深さはないが、
25
しっかり水没した。人間、膝までの水があれば溺死できるというが、
どうやら本当らしい。
﹁ぶはっ﹂
あわてて体を起こせば、槙坂先輩は僕に覆いかぶさるようなかた
ちで、まだ四つん這いのままだった。
﹁大丈夫か?﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
まったく。槙坂先輩になんてことしやがる。
﹁お、槙坂。なかなかぇろイイポーズだな。いつもベッドでそんな
ふうに真を挑発してるのか﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
言われれば意識してしまうのはむりからぬこと。
目の前には槙坂先輩の整った相貌があった。少し視線を下げれば
水着のトップス。しかも、よく見たら胸元が大胆に開いたデザイン
をしていて、その奥にはどこまでも深い谷間があった。
みるみるうちに槙坂先輩の顔が赤くなる。
﹁美沙希ーっ﹂
彼女はおもむろに立ち上がると、すっかりお役御免となって所存
なさげにしていたビーチボールを手に取り、美沙希先輩へと投げつ
けた。
﹁ぐはっ﹂
顔面へのクリーンヒットだった。いったいどれほどの勢いと威力
だったのか、美沙希先輩は足が上になるくらいひっくり返り、水の
中へと没した。
﹁⋮⋮まだしたことないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
まだとか言うな。
﹁あー、痛て。なんでプールに遊びにきて、あちこちアザつくって
26
るんだろうな﹂
湯が染みるように感じるのは、血行がよくなって打ち身がうずく
からだろうか。
︱︱僕たちは夕方にはプールエリアを切り上げ、施設上層にある
大浴場にきていた。
水着で入れる大浴場。
浴場は外側に向けて全面ガラス張りになっているが、たいした景
色は望めなかった。埠頭に建設されているだけあって、時折船が行
き交うのが見えるのだが、豪華客船が通るわけでもなく、見えるの
は何の変哲もない旅客船ばかりである。結局、プールの延長なのだ
ろうな、ここは。
それでも僕がたいして面白くもない景色を見ているのは、槙坂先
輩を視界に入れないようにするためだ。水着姿の彼女と並んだり向
かい合ったりしてゆっくりするというのも目のやり場に困り、気恥
ずかしいものがある。それに一緒に風呂に入っているというのも、
奇妙な感覚だった。
﹁あら、本当。背中にもアザが﹂
﹁!?﹂
そんな僕の内心を露ほども知らず、槙坂先輩は指で背中に触れて
きたりする。
﹁なに、背中に傷だぁ? 切腹だな﹂
局中法度かよ。
﹁背を向けてついた傷じゃありませんよ。美沙希先輩が尋常じゃな
い速さで背後を取ってくるだけで﹂
消えたと思ったときには、もう背後に回られているのだ。そこか
ら殴る、蹴る、極める、投げる、攻撃は多彩だ。さすが﹃猫目の狼﹄
と恐れられただけある。
﹁あー。にしても、こりゃあなかなかいいな。前からこっちにもき
たかったんだよな﹂
完全に緩みきった美沙希先輩の声。
27
﹁ふたりは前にもきたことがあるの?﹂
槙坂先輩が不意に発した問いに、僕は彼女を見た。見て、迂闊な
自分を呪った。
彼女もずいぶんリラックスしているようで、浴槽の淵にもたれ、
足を伸ばして座っていた。白いビキニの水着でわずかな部分を覆っ
ただけの肢体を、惜しげもなく晒している。こうしてみると破格に
スタイルがいいことが改めてよくわかる。いつもこんなふうに優雅
に体を伸ばして風呂に入るのだろうか、などと考えてしまい︱︱僕
は盛大に自爆した。顔が熱くなる。慌てて背を向けた。肘をつき、
外の景色へと目をやる。
﹁おう、きたぞ。去年も今ごろだったな﹂
﹁ふたりだけじゃなかったけど﹂
いちおうフォロー。
去年は今年と違って時間ぎりぎりまでプールで遊んでいたため、
この大浴場にくるのはこれが初めてだ。帰りがけにこういう場所が
あるのを知り、美沙希先輩がいたく興味を示した。次にきたときに
は絶対に入ると言っていたのだが、結局、そのまま今日までくる機
会がなかったのである。彼女が今こうやって堪能しているのは、そ
ういう理由からだ。
﹁それが何か?﹂
﹁わたしの知らない藤間くんだと思ったの。去年ならもう同じ学校
に通っていたはずなのに﹂
﹁んなの当たり前だろ﹂
美沙希先輩が鼻で笑う。
﹁逆に、槙坂にはアタシらの知らない槙坂があって、真なんかけっ
こうそれが気になったりするんだぜ?﹂
﹁勝手なことを言わないでください﹂
そんなの気にしたこともない。
﹁ほー、そうか。じゃあ、いいことおしえてやるよ。さっき槙坂な、
お前がいないときにナンパされてたぞ?﹂
28
﹁そうなのか? なんか妙なこと言われたりされたりしなかったか
?﹂
思わず振り返る。
﹁あ⋮⋮﹂
そこは槙坂先輩の驚いた顔と、美沙希先輩のニヤニヤ顔があった。
ばつの悪さにまた背を向ける。
﹁ああ、そういやあの男、槙坂に声をかけながら、ジロジロと体を
見てたな﹂
それは赦しがたいな。
﹁槙坂。今あいつ赦せねぇとか思ってるぞ、絶対﹂
﹁⋮⋮﹂
美沙希先輩の耳打ちするような声は聞えよがし。
﹁ま、そりゃそうだろうな。自分は恥ずかしくてちゃんと見れない
んだもんな﹂
﹁あら、藤間くんはそんないやらしい子じゃないわ﹂
槙坂先輩の擁護が入る。
僕本人を目の前に僕のネタで盛り上がらないでほしいものだ。
﹁そうか? あいつだって男なんだから、こういうことされたら喜
ぶだろ。⋮⋮そらっ﹂
﹁きゃあっ!﹂
﹁うわっ﹂
美沙希先輩に突き飛ばされたのか、いきなり後ろから槙坂先輩が
抱きついてきた。
﹁ご、ごめんなさい。美沙希が⋮⋮﹂
﹁それはいいから、早く離れてくれ﹂
完全に密着状態。
おかげで背中に感じるやわらかい感触と彼女の体温を、眩暈がす
るほど意識してしまう。
﹁でも、それが⋮⋮﹂
口ごもる槙坂先輩。
29
﹁⋮⋮美沙希にブラを取られたの﹂
﹁⋮⋮﹂
とりあえず僕は、必死で頭の中を数学と物理の公式で埋め尽くし
た。
ようやく﹃ウォーターワールド・バシャーン﹄での一日が終わり
︱︱今は帰路の途中、僕と槙坂涼はふたり並んで歩いていた。
夏といえども夜七時を過ぎれば、外はもう暗い。
美沙希先輩の命令で僕は槙坂先輩を送っていくことになり、しか
し、それを命じた本人は早々に別の駅で降りてしまっていた。
﹁今日は楽しかった。まさか藤間くんのほうからプールに誘ってく
れるとは思わなかったわ﹂
﹁誘ったのは僕じゃなくて美沙希先輩だけどな﹂
僕はむしろそれを邪魔しようとした側だ。
﹁聞きたいんだが︱︱僕がいないときに、その、男に声をかけられ
たって本当なのか?﹂
歩きつつタイミングを見て切り出す。
大浴場で出た話だ。あのときも真偽を問うたが、結局、返事を聞
きそびれている。僕をからかうための、美沙希先輩の作り話という
可能性もないわけではない。
﹁ええ、本当よ﹂
だが、槙坂先輩はあっけらかんとした調子で、あっさりと肯定し
た。
﹁でも、軽くあしらってやったわ。やっぱり彼氏のいる女としては、
これくらいできないとダメね。前にそれで藤間くんに怪我をさせる
ことになったし﹂
あったな、そんなことも。
夏休み前の話だ。槙坂先輩をナンパしていたバカが数人いたから
30
少し痛い目に遭わせたら、後で仲間とともに報復にきたのだ。その
まま一対六の大喧嘩である。
﹁だ︱︱﹂
﹁誰が彼氏かなんて言わせないでね?﹂
﹁⋮⋮了解﹂
にこやかに言葉で制され、僕は了承せざるを得なかった。
﹁それで、そいつが体を見てたっていうのも⋮⋮?﹂
﹁さぁ? そばにいた美沙希がそう言うんだから本当なんじゃない
? ⋮⋮赦せない?﹂
﹁⋮⋮別に﹂
﹁今は美沙希もいないわ。ふたりっきりよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
別に美沙希先輩の前だから突っ張ってるわけじゃないんだがな。
どうもさっきからうまくいかないな。機先を制されるというか、
出鼻をくじかれるというか。今日の槙坂涼は手強い。防衛線を容易
く破られてしまう。
﹁まぁ、赦せない、かな。⋮⋮あなたは平気なのか?﹂
さっきもまるで他人事のようだった。
﹁あのね藤間くん、プールなんだから水着を着てて当然でしょ? それを見るなというほうが勝手な話だと思わない?﹂
﹁それはそうだが⋮⋮﹂
﹁見てくださいとか、ジロジロ見られても平気とまでは言わないけ
ど、多少視線を集めるくらいは織り込み済みよ﹂
さすが槙坂涼というところか。堂々としている。
﹁それよりももっといやなことがあるの。何かわかる? それはね、
いちばん見てほしい人が見てくれないことよ﹂
だが、槙坂先輩は一転、怒ったようにそれを突きつけてきた。
﹁別に見ていなかったわけじゃない﹂
ただ、僕が真正面から見る度胸や図太さ、あるいは男らしさみた
いなものを持ち合わせていないだけで。
31
﹁じゃあ、ご感想は?﹂
﹁⋮⋮なかなかいい水着だったと思う﹂
僕はどうにかそれだけを言った。
﹁褒めるのは水着なのね。まぁ、いいわ。がんばって選んだのよ。
女の子の水着選びって大変なんだから。ただ単に藤間くんに喜んで
もらうためだけなら、大胆で過激なのにすればいいけど︱︱﹂
﹁人を欲望に忠実な動物みたいに言わないでくれ﹂
人聞きの悪い。
だが、槙坂先輩は無視して続ける。
﹁でも、そんなのは同じ女から見たら男に媚びてると思われるもの。
同性をうならせるようなのじゃないと﹂
﹁そういうものなのか﹂
面倒な話だな。
﹁それにしてはずいぶんとシンプルだった気がするが﹂
﹁⋮⋮それは、いろいろ考えすぎてわからなくなったのよ。どれが
いいか﹂
ばつが悪そうに白状する槙坂先輩。
そりゃあ、それだけ考えることがあれば混乱もするだろう。何か
の実験で、人は考慮する要素や選択肢が多いほど結論を誤るという
結果が出ているくらいだ。
﹁まぁ、シンプルだけどセンスのいいものを選んだんじゃないか﹂
僕は見かねて、慰めにもならないようなフォローを口にした。
﹁そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、さっきから水着しか褒め
てくれないのね。わたし自身も含めて褒めてもらうには、嫌という
ほど見せてあげないとダメかしら。それとも水着は邪魔?﹂
﹁え、いや、それは⋮⋮﹂
﹁今日、家に両親はいないの。それとも落ち着かないなら藤間くん
の部屋にする?﹂
﹁どっちもダメに決まってるだろうが⋮⋮﹂
もうここで帰るべきだろうか。彼女の家はすぐそこだ。
32
と、本気で考えていたら、横で槙坂先輩がくすくすと笑いだした。
﹁冗談よ。恥ずかしがり屋さんの藤間くんをいじめるのはこれくら
いにしておきましょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
やっぱり帰ろう、ここで。
故人曰く、三十六計逃げるに如かず。戦っても勝てないなら逃げ
るべきだろうな。
33
第三話 その1
前にも触れた通り、僕の母は資産家の愛人という生き方を選んだ。
そうして得たのが一流ホテルのフロントマネージャという地位で、
いろいろと陰口を叩かれながらも、己の実力を遺憾なく発揮してい
るようだ。僕はそんな母の生き方を尊敬しているし、利用できるも
のはなんでも利用するその姿勢は、僕のライフスタイルにも影響を
与えている。
さて、その僕の父にあたる人はというと、正妻のほかに三人の愛
人を抱えていて︵そのうちひとりは事故で他界されたと聞いている︶
、平等に愛情を注ぎ、きちんと養っているという、同じ男性として
きりや・いいこ
いまいち尊敬していいのか判じがたい人だった。
切谷依々子は、彼が抱える愛人のひとりとの間にできた子だ。
歳は僕よりひとつ下。僕の知る誰かさんを思い出させる長い黒髪
で、前髪はきれいに切りそろえられている。その下にある面貌は、
目がやや釣り気味ながら意外に和風である。
いちおう僕の義妹となるのであろう彼女と、先日、祖父の葬式を
きっかけに知り合ったのだった。
ある日の昼前、
勉強が一段落ついて、ふと、切谷さんはどうしているだろうか、
と思った。
そのままの勢いで携帯電話のメモリィから我が義妹のアドレスを
呼び出し、メールを打ってみる。
﹃最近どうしていますか?﹄
とても簡潔で曖昧な内容だ。手が空いたときにでもリプラィを送
34
ってくれたらそれでよし、無視するならそれでもいいと思っていた。
もとよりこのメール自体、送ることが目的の、僕の自己満足みたい
なものだ。
が、端末を机の上に置いた途端、それが着信メロディをかき鳴ら
しはじめた。メールではなく、音声通話。置いたばかりのそれを手
に取って見てみれば、相手は切谷さんだった。
﹁もしもし?﹂
﹃何? 忙しいんだけど?﹄
不機嫌全開の声だった。
だったらわざわざ電話でリターン返してくるなよ。
﹁あ、いや、最近どうしてるかなと思ってね﹂
メールそのまんまだ。
﹃それだけ?﹄
﹁うん。ただそれだけなんだ﹂
﹃⋮⋮﹄
黙る切谷さん。もう怒るなり切るなり好きにしてくれ。
﹃夕方なら体があくから︱︱この前のお店でいい?﹄
﹁は?﹂
﹃ていうか、この前のお店がいい。⋮⋮じゃあ、後で﹄
﹁⋮⋮﹂
通話の切れた電話を耳に、僕は無言。
こうして一方的に約束を取りつけられてしまったのだった。
昼過ぎに﹃4時﹄とだけ書かれた簡潔というか、ある種不気味な
メールが送られてきて、僕はその指示通りに待ち合わせの時間を四
時に設定して家を出た。
この前の店というと、カフェ﹃天使の演習﹄だろう。
彼女と行ったことがあるのは、そことラーメン屋くらいだ。﹃こ
の前のお店﹄がラーメン屋を指している可能性もなくはないが、お
そらくそんなところを待ち合わせ場所にする女の子はいまい。女の
35
子が先にきてラーメンを食べて待っているというシュールな光景も
見てみたくはあるが。⋮⋮案外、切谷さんならやってくれるかもな。
﹃天使の演習﹄には四時前に着いた。
外から見える窓際の席に切谷依々子は座っていた。が、彼女はき
ょろきょろと店内を見回したり、コーヒーを舐めるようにひと口飲
んだりして、どこか落ち着かない様子にも見える。ひとりでいるこ
とに緊張しているのだろうか。高校一年生ならひとりで喫茶店に入
ったことなどほとんどないだろうから、きっとそのせいなのだろう。
僕は入口へ回り、ハンカチで額の汗を拭ってからドアを開けた。
ドアベルの涼しげな音が響く。続いて聞こえてきた﹁いらっしゃ
いませー﹂の声は女の人のものだった。
出迎えてくれたのは槙坂涼に劣らぬ美貌の女性。槙坂先輩からの
情報によると、この春に高校を卒業したばかりの十九才、大学一年
生。しかし、この店のアルバイトなどではなく、店長の奥さんだ。
つまり既婚者。さぞかし多くの男子学生を落胆させてきたことだろ
う。顔やスタイルばかり目がいって、左手の指輪に気がつかなかっ
たバカとか。
彼女は僕の顔を認めると、営業スマイルではない別の笑顔を見せ
た。
﹁妹さん、きてますよ﹂
﹁みたいですね。アイスのカフェオレをお願いできますか﹂
﹁わかりました。すぐにお持ちしますね﹂
弾むような声は、やけに楽しそうに聞こえた。
そういえば、前に彼女は言っていた。旦那や家族の勧めで大学に
通っているが、本音では学業よりもこの店のことを優先したいのだ、
と。勉強ならいつでもできるが、はじめて間もないこの店を軌道に
乗せるためには今が大事だという考えのようだ。しかし、大学も夏
休みに入り、今は思う存分店を手伝える。それが嬉しいのだろう。
店内を見回すと、ハイチェアのカウンタ席もフロアのテーブル席
も七割強埋まっていた。僕がかつて見た中でいちばんの盛況ではな
36
いだろうか。おそらく国や電力会社から節電を口うるさく求められ
る中、エアコンを点けられない家から逃げ出てきたのだろう。僕に
も節電の意識はあって、暑さに耐えられなくなったときは図書館に
行ったりする。先日、美沙希先輩と一緒に勉強していたコーヒー店
もそんな﹃避難先﹄のひとつだった。
ついでに、この大入りのもうひとつの要因として、店長の奥さん
の存在も大きいのではないかと思う。そりゃあかわいい女の子がい
るとわかっているなら、足繁く通いたくもなるだろう。
僕は切谷さんの座るテーブルへと足を向けた。
彼女は僕に気づくと、わずかにほっとしたような顔を見せ︱︱そ
れから今度はむっとしたような表情になる。
﹁⋮⋮遅いんだけど﹂
もとより切れ長で吊り気味の目が、さらに吊り上る。
﹁悪かったよ。できるだけ早く着くつもりではいたんだ﹂
まだ四時になっていないんだがな。
僕は切谷さんの前に座った。
﹁人を呼び出しておいて遅れるってどういう了見よ﹂
﹁いや、さすがにそろそろ反論したいぞ﹂
呼んだのは決して僕ではない。
そこでさっそく頼んだカフェオレとお冷が運ばれてきた。やけに
速いな。
﹁お待たせしました。ゆっくりしていってくださいね﹂
若き店長夫人はそう言って戻っていく。
僕はまずは冷たい水で喉を潤してから、ストローの袋を破り、カ
フェオレに口をつけた。
向かいでは切谷さんもカップを口に運んでいた。ひと口飲んで、
わずかに顔をしかめる。カップからしてホットなのはわかっていた
が、よく見ればブラックだった。またやってるのか。
僕は黙ってコーヒーシュガーをひとつ、カップに放り込んでやっ
た。切谷さんは恨みがましい目で僕を見るが、やがて自分の手でミ
37
ルクも入れ出した。⋮⋮もう意地張るのやめたらいいのに。
﹁さっき、忙しいって言ってたけど?﹂
さらにもうふたつ砂糖を入れる切谷さんに戦慄しつつ、僕は切り
出した。
﹁今、家の手伝いやってる﹂
﹁家の?﹂
切谷さんの家はわりと古い料亭だ。一人娘である彼女はそれを継
げと言われていて、不満ながらも半ば諦めるようにしてそれを受け
入れていた。だが、先日にはついに反発して、母親と喧嘩の真っ最
中だと言っていたはずだ。
﹁押しつけられるのはごめんだけど、手伝うくらいならいいかなと
思って。これでも私、お母さんが店を切り盛りするのをずっと見て
きたから。関係ないって知らん振りするのも、ね﹂
﹁そうか。ま、それもいいんじゃないか﹂
何やら行きつ戻りつしているようだが、それが悩むということな
のだろう。そうやって決めた道は、たとえ押しつけられたものと同
じだったとしても、まったく意義や意味の違うものになるに違いな
い。それに一度離れてみれば見えないものも見えてくるものだ。押
しつけられて嫌々やっていた高校の数学や物理も、後で趣味で学ぶ
分には楽しいものだと聞く。
﹁料亭の手伝いっていうと、やっぱり和服?﹂
少々キツめではあるが和風の面立ちをしている切谷さんにはよく
似合うだろうな︱︱と、ただ何となくそう思っただけなのだが、な
ぜか彼女は虫でも見るような眼差しを僕に向けてきた。
﹁そういうのはあの人とやってね﹂
﹁何をだよ﹂
﹁あと、着物だと下着をつけないっていうのも都市伝説だから﹂
﹁⋮⋮﹂
ひどい誤解をされている気がするな。僕はストローでカフェオレ
を飲みつつ、目だけで天井を仰ぎ見た。
38
﹁真こそ最近どうなのよ? この前、別の女と揉めてたみたいだけ
ど﹂
切谷さんは蔑むような視線にシフトさせつつ聞いてくる。
そういえば彼女は僕と加々宮さんが一緒にいるところを見ていた
のだったな。僕が困っているとわかっていて、嘲笑しながら通り過
ぎていったのだ。
﹁あれにはいろいろとわけがあってね﹂
﹁ふうん。真がそんなにモテるとは思えないんだけど﹂
ついこの間、こえだにも言われたばかりだな。ほっといてくれと
言いたい。
疑わしげに僕を真正面から見据えていた切谷さんだったが、急に
何かに気づいたように切りそろえた前髪の下の眉をぴくりと震わせ
た。
﹁もしかして真って右目だけ目の色が違う?﹂
﹁らしいね﹂
僕の目が大雑把にしか色を解析できないせいで、自分では認識で
きていないが。日本の伝統色のひとつ、黒鳶と表現するのがいちば
んぴったりらしい。
﹁いいなぁ﹂
羨ましそうに言う切谷さん。相変わらず人とは違うものを手に入
れたがる娘だ。
﹁遺伝なんだ﹂
﹁え? 私そんな目してないけど﹂
﹁母親のほう﹂
悪いね。僕がそう言うと、彼女は﹁別にそんなのどうでもいいし﹂
と口を尖らせた。
﹁そんなことより︱︱本命の槙坂さんとはどうなってんのよ﹂
話題を変えてくる。
本命などと言わないでもらいたい。まるで本命以外があるみたい
だ。
39
﹁夏休みに入ったけど、ちゃんと会ってるの?﹂
﹁そういう機会があればね﹂
﹁会いなさいよ﹂
﹁なんで切谷さんにそんなこと言われなくちゃいけないんだ。どう
せ休みが明けたら飽きるほど会うことになるよ﹂
僕が投げやりに言うと、切谷さんは聞えよがしなため息を吐く。
﹁まるでやる気なしね。⋮⋮貸して﹂
﹁あっ﹂
貸して、と言いながらも、切谷さんは僕がテーブルの上に放り出
していた携帯電話を勝手に手に取った。
二つ折りの端末を開き︱︱そして、怪訝そうな顔をする。
﹁待ち受け、変えたの?﹂
﹁悪いか?﹂
ここにくる前に変えてきた。同じ過ちは二度としない主義なのだ。
切谷さんは、ふん、と鼻を鳴らしてから、ものすごい勢いで操作
しはじめた。
﹁はい﹂
それが終わると、面倒くさそうに手渡してくる。
﹁メール送っといた﹂
﹁メール? ⋮⋮げ﹂
僕は戻ってきた端末を開き、送信済みフォルダをを見︱︱思わず
うめいた。
﹃今すぐ会いたい。いつもの店で待つ。﹄
﹁⋮⋮﹂
誰のメールだよ。
因みに、送信先はもちろん槙坂涼である。
﹁帰る。⋮⋮真は? どうする?﹂
切谷さんはカップに残っていたコーヒーを飲み干し、言った。
40
﹁僕は槙坂先輩を待つよ。切谷さんが送ったメールのこともあるし﹂
人を呼び出しておいて自分は帰るなんてわけにもいくまい。尤も、
メール自体読んでいない可能性もあるが。一時間ほど待ってこなか
ったら帰るとするか。
ところが、帰ると宣言した切谷さんは、何か言いたげに口をむぐ
むぐと動かしている。
﹁切谷さん?﹂
心配して僕が呼びかけると、彼女はむっとしてから意を決したよ
うに切り出した。
﹁依々子﹂
﹁うん?﹂
﹁私の名前。依々子﹂
﹁知ってるけど?﹂
確かに彼女から自己紹介をされたことはないが、それくらい事前
に調べて知っていた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁帰る﹂
ようやく切谷さんは席を立った。
﹁じゃあね。し・ん!﹂
やけに僕の名前をしっかりと発音してから、彼女は去っていった。
間をおかずドアベルの音と、﹁ありがとうございましたー﹂の声。
そのまま表の通りを見ていると、再び切谷さんの姿が視界に入って
きた。彼女はキッと僕を睨んでからぷいと顔を背け、歩いていって
しまった。
やれやれ、と嘆息ひとつ。
﹁何か怒らせるようなことを言ったかな﹂
テーブルの上を見れば空になったカップと伝票があった。⋮⋮し
まった。飲み逃げされたか。
﹁ま、もとから払わせるつもりもなかったけど﹂
41
第三話 その2
﹁何を言ったんですか? 妹さん、怒って帰ったように見えました
けど?﹂
声をかけてきたのは店長の奥さん。
因みに、正確には怒って帰ったのではなく、帰るときに怒り出し
たのだが。
﹁特に何かを言ったつもりはないんですが﹂
﹁じゃあ、逆になんにも言わなかったか、気づいてあげなかったか、
ですね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ダメですよ。見たところ妹さん、素直じゃなさそうだし。お兄さ
んが察してあげないと﹂
そう言って彼女は、空になったカップを持って戻っていった。
言ったから怒ったじゃなくて、言わなかったから怒った、か。⋮
⋮深いな。これが二年の人生経験の差だろうか。しかし、察しろと
言われても、顔を合わせて二ヶ月の兄にはハードルが高いのである。
ぼんやりと外を眺める。
全面窓から見える表の通りには、人の行き来がほとんどない。た
だでさえ単なる住宅地なのに、午後五時近くになっても陽射しが衰
える気配を見せないとあってはなおさらだ。ようやく人が通ったか
と思えば、それこそがまさしく槙坂涼だった。
彼女は窓際の席に座る僕に気づくと、笑顔で小さく手を振ってき
た。僕もつられて片手を軽く上げて応えてしまい、何となく﹁しま
った﹂と思った。それがわかったのか、槙坂先輩は改めてくすりと
笑う。
やがてドアベルの音と﹁いらっしゃいませ﹂の声。
そして、
42
﹁こんにちは、藤間くん﹂
﹁どーも﹂
応じる僕は、先ほどのこともあり、必要以上にぶっきらぼう。
槙坂先輩はさっきまで切谷さんが座っていた向かいの席に腰を下
ろした。
﹁まさか本当にいるとは思わなかったわ﹂
﹁いくらなんでも、いないところに呼び出すような悪質な真似はし
ないさ﹂
﹁藤間くんから会いたいって言ってくるなんて、とても嬉しいわ﹂
そう彼女は笑みを見せる。
﹁悪いが、あのメールを打ったのは僕じゃないんだ﹂
﹁そんなの見た瞬間にわかったわ。さっき駅で切谷さんの後ろ姿を
見たから、きっと彼女ね﹂
それでも槙坂涼は笑顔を崩さなかった。
﹁でも、藤間くんはその後も、あれは間違いだ、打ったのは自分じ
ゃない、と否定するメールは送ってこなかった。それは少なからず
わたしに会いたいという気持ちがあったと思っていいのかしら?﹂
﹁⋮⋮﹂
その手があったか。
そうか。何も馬鹿正直に待っていなくてもよかったな。
﹁まぁ、いいわ。あったところで藤間くんは否定するでしょうし。
それにしても、切谷さんはどうしてあんなメールを?﹂
﹁夏休みの間ももっとあなたと会えとさ。まったく。よけいなお世
話だ﹂
でも、言われてみれば、切谷さんの言に思うところがあったから
こそ、それに従うようにして槙坂先輩を待っていたのかもしれない
と思わないこともない。
﹁あら、わたしも同じ意見よ﹂
﹁うん?﹂
﹁だって、そうでしょう? この前プールに誘ってくれたのは美沙
43
希だし、その前なんてほかの女の子に捕まってそのままデートしよ
うとしたし﹂
槙坂先輩はつらつらと不満を並べていく。
﹁ちょっと待て。僕が悪いのか? 僕にだけ努力を求められるのは
理不尽じゃないか?﹂
このままだとどれほど文句を言われるかわかったものじゃない。
僕が反論すると、彼女は少し考え、ようやくそこに気づいたように
言った。
﹁そうね。確かにそうだわ。わたしも努力するべきよね﹂
﹁じゃあ、これからはわたしからも誘うことにするわ。夜の電話も
不可欠よね。それとおはようとおやすみのメールも﹂
﹁⋮⋮﹂
これはいったい何の努力だっただろうか。
﹁お待たせしました﹂
そこで槙坂先輩のアイスコーヒーが運ばれてきた。彼女も、ここ
にきたときの僕のように、入り口で注文を済ませていたらしい。
﹁藤間くん、今度は槙坂さんですか? 今日は女の子をとっかえひ
っかえして。もしかしてデートの約束をうっかりバッティングさせ
ちゃいました?﹂
グラスを置いた後、店長の奥さんが茶化してくるので、僕も冗談
で答える。
﹁彼女には内緒ですが、実はあとふたりいるんです﹂
﹁まぁ。そうなんですか﹂
おかしそうに笑い、槙坂先輩に向き直る。
﹁いいんですか、槙坂さん。あんなこと言ってますよ﹂
﹁大丈夫です。そのふたりはきっと私の知ってる子ですから。それ
にああ見えても彼、わたし一筋なんですよ﹂
﹁だと思いました。わたしの主人もそうでしたから﹂
44
と、彼女はカウンタに目をやる。僕からは背中側になるので見え
ないが、そこには自分が話題になっているとも知らず、眠そうな顔
の店長がコーヒーを淹れていることだろう。
﹁いつも素っ気なくて、気のない振りばかり。藤間くんもよく似て
ます。きっと心の中では槙坂さんを抱きしめたいと思ってますよ﹂
﹁だといいんですけど﹂
槙坂先輩は上品に笑って応える。
﹁じゃあ、ごゆっくり﹂
店長の奥さんは言いたいことだけを好き勝手言って、また戻って
いった。
﹁⋮⋮﹂
ダメだ。各方面へ反論がありすぎて渋滞を起こしている。この件
に関してはもう迂闊な否定はせず、口をつぐんでいたほうがよさそ
うだ。沈黙は金、雄弁は銀、だ。
そんな僕の心中など知る由もなく、槙坂涼はアイスコーヒーにミ
ルクを垂らし、優雅にストローでかき混ぜていた。
﹁不思議な話だよな﹂
僕は何かを言われる前に自分から話題を振る。
﹁あんなきれいな人が、言い方は悪いけど、店長みたいな普通っぽ
い人を選んだなんて﹂
言い寄る男も多けりゃ、逆にどんな男だろうと選べただろうに。
﹁きっと選んでないと思うわ。選ぶっていうのは選択肢があるとき
に使う言葉でしょう? きっと選択の余地なんてなかったのね﹂
﹁ほかに男がいなかった、と?﹂
どんな集落だ。
﹁そうじゃないわ。マスターしか見えなかったのよ。そういうもの
じゃないかしら。それまで恋愛になんて興味がなかったのに、ある
日出会った人に夢中になる。それまで一年もの間ずっと静かに見て
きたのに、ちょっとしたきっかけで絶対に振り向かせたいと思う。
そこに選択なんてないわ。わたしにはこの子しかいないと、ただ決
45
めただけ﹂
﹁⋮⋮﹂
後者はどこかで聞いたような話だな。というか、あぁ、僕らの話
か。まったく、どうしようもないな。
ひと
それはさておき︱︱そういうものなのだろうか。
僕とて一度見ただけの女を追いかけるようにして明慧にきた身だ。
が、しかし、果たしてそこまで強い感情があったかは自分でも定か
ではない。
﹁ところで藤間くんは︱︱﹂
と、不意に切り出され、あまりのジャストなタイミングに少なか
らずどきっとした。もしかしたらまさにその話を振ってくるかもし
れない。
﹁わたしを抱きしめたいと思ってるって本当なの?﹂
﹁⋮⋮それはそっちで勝手に言った話だろ﹂
午後六時を回ったのをきっかけに﹃天使の演習﹄を出︱︱今、僕
たちは駅前にいた。
﹁じゃあ、僕はここで﹂
言って改札口へと体を向ける。
﹁あら、今日は送ってくれないの?﹂
﹁まだ明るいだろ﹂
暗くなってきたならまだしも。それにそろそろ帰宅ラッシュがは
じまろうとしているのか、思った以上に乗降客の姿が多かった。
﹁わたしの家でコーヒーでも飲んでいかない? 今日は両親とも帰
りが遅いの﹂
﹁後半部分がなけりゃ寄ったかもね﹂
だいたいコーヒーならさっき飲んだばかりだ。
僕は改めて背を向け、足を踏み出し、
﹁待って﹂
呼び止められた。
46
腕をつかまれるようにして彼女のほうを向かされ︱︱距離を詰め
てくるので反射的に後ろに下がれば、背中に何かが当たった。駅の
コンコースの柱だ。
槙坂涼は挑発的に笑う。
﹁このまま帰してもいいの? 抱きたいって言ってなかった?﹂
﹁さっきと言葉が変わってる。それ以前に、僕の口から言った覚え
はない﹂
そう言い返した途端、槙坂先輩は自分と僕との体を入れ替えた。
今度は彼女が柱を背にして立つ。
そうやって位置を変えると同時、笑っていたその表情も真剣なも
のへと変わっていた。
﹁じゃあ、改めて聞くわ﹂
﹁あなた、わたしを抱きたいと思わない?﹂
その真剣な表情で、彼女は僕に問う。
今、僕の視界には槙坂涼しかいなかった。彼女が柱の前に立って
いるからだ。いわゆるパワーテーブルの要領。当然、顔を逸らせば
それだけで彼女を視線から外すことができるが、そんなものは単な
る敵前逃亡であり、しかも、それはそれで槙坂涼の思う壺のような
気がしてならない。
﹁もしかしたらそういう気持ちもあるかもしれない。でも、たぶん
今の僕にはその覚悟や心の準備ができていないと思う﹂
﹃もしかしたら∼かもしれない﹄に﹃たぶん∼と思う﹄、か。我な
がら見事な詐欺と欺瞞と逃げっぷりだ。⋮⋮ただ怖いだけなのに。
﹁つまり、抱きたい?﹂
﹁今そう言った﹂
言葉は曖昧だが。
﹁じゃあ、待つわ。あなたの心が決まるまで。でも、その代わり今
の気持ちを行動で証明して﹂
47
そう言うと槙坂先輩は僕の腰に手を回し、引き寄せた。わずかに
顎を上げ、目を閉じる。
ここでか?
だが、どういうわけか、今この瞬間、行き交う乗降客はぷっつり
と途絶えていた。駅の喧騒が遠くのもののように聞こえる。まるで
僕たちふたりの存在が世の中から隔絶されたかのようだ。ここにい
るのに周りからは見えず、僕たちの声もまた周りには届かない。⋮
⋮世界は常に槙坂涼の味方というわけか。
こんな台風の目のような無風状態、そう長くは続くまい。僕は素
早く決断し、唇を重ねた。
﹁ん⋮⋮﹂
隠れてするようなそれは、初めてのときよりも短かった。唇を離
せば槙坂先輩の口からは名残惜しそうな甘い声がもれた。
目の前には、朱の差した槙坂先輩のはにかんだような笑顔があっ
た。
﹁またしちゃったわね。今夜は眠れないかも。⋮⋮じゃあね﹂
そして、恥ずかしそうにそう言うと、逃げるように帰っていった。
僕はそれを、ただ黙って見送る。
﹁⋮⋮﹂
確かに、これで二回目か。
一度目は夏休み前の、球技大会の後だったか。
そのとき僕たちは球技大会にからめて、ひとつ勝負をした。別に
その結果で⋮⋮というわけではなく、単にその末の成り行きだった
のだ。
そして、今が二度目。
︵いいのか、これで?︶
僕は自問する。
﹁つき合って﹂﹁断る﹂がお決まりのやり取りだったはずなのに、
ずいぶんと形骸化してしまったものだ。しかも、この夏休みには彼
女と一緒にイギリスに旅行へ行くというのだから、実に高校生らし
48
く健全だ。呆れてものが言えない。
口先だけであれ、僕が槙坂先輩を拒むには理由がある。
僕たちは似ているのだ。似ているが故に、近づけば僕を知られる。
だから、距離をおくべきだと考えてきた。
︱︱だが。
だが、僕はもう、僕の多くを彼女に知られてしまっている。格好
の悪い姿も、槙坂先輩に対する気持ちも。
ならば、それでもなお彼女を拒む理由は奈辺にあるかと、人は問
うだろう。
その答えは、ある、だ。
﹁僕はいつまでもここにいるわけじゃない⋮⋮﹂
49
槙坂さん、今日はダメな日
﹁さて、約束は守らないといけないわね﹂
その日の午前中のまだ早い時間に、わたしは藤間くんに電話をか
けた。
﹃⋮⋮もしもし﹄
無視するか、さもなければ長く待たされるかと思ったけど、意外
にもすぐに出てくれた。不機嫌ではないけれど、ぶっきらぼうな声。
﹁おはよう、藤間くん﹂
﹃ん? ああ﹄
短い応答。
いつも思うのだけど、どうしてわたしに対してだけこうも挨拶の
できない子になってしまうのだろう。
﹃何か用か?﹄
﹁そうね。まずは朝の挨拶かしら。約束したでしょ? わたしも努
力するって﹂
︱︱これからはわたしからも誘うことにするわ。夜の電話も不可
欠よね。それとおはようとおやすみのメールも
つい先日言ったこと。
﹃朝晩はメールじゃなかったか?﹄
﹁慌てないで。本題はこれからよ。⋮⋮今日の夕方、あいてる?﹂
そう。本題はこちら。待っているだけじゃなく、わたしからも誘
わないと。
﹃夕方? 今からじゃなくて?﹄
﹁ええ、夕方﹂
今からでもいいけど、行動が制限されそうだ。途中でお色直しと
50
いうのも考えないでもないけど、それでは少しサプライズ感に欠け
るというもの。
﹃夕方、か⋮⋮﹄
﹁そんなに警戒しなくてもいいわよ。罠なんかじゃないから﹂
わたしが罠をしかけるのなら、もっとわかりやすいものにする。
わかりやすいものにして、藤間くんには罠と知りつつ自ら飛び込ん
できてもらうのだ。
﹃まぁ、ならいい﹄
﹁じゃあ、待ってるわ﹂
六時半にわたしの家の最寄駅で、と決め、電話を切った。
そうして夕方、
約束の時間に約束の場所に行くと、すでに藤間くんが待っていた。
正面からではなく、彼の視界の端っこを通るようにして近づけば、
まんまと気づかれないままそばまで行くことができた。
﹁こんにちは、藤間くん。それとも﹃こんばんは﹄かしら﹂
﹁え? ⋮⋮あ、ああ﹂
藤間くんは、まずはぎょっとし、そして、次に唖然とした。
言葉を失くしたまま、わたしを上から下へ、下から上へ確かめる
ように見る。少し照れくさい。
今のわたしは︱︱浴衣姿だった。
淡黄の生地に大小の桜が描かれた浴衣。髪はアップにまとめてあ
る。決して死角から近づいたわけでもないのに、藤間くんがわたし
を見落としたのは、普段とは違うこの装いのせいだろう。
﹁どう? 似合う?﹂
﹁あ、ああ。よく似合ってる、と思う﹂
ちょっとびっくりした。この子がこんなにも素直にわたしを褒め
るなんて。よっぽど意表を突かれたのだろう。わたしは藤間くんに
気づかれないよう小さく笑う。
﹁この近くで夏祭りをやってるの。行きましょ﹂
51
彼が呆気にとられている今のうちに、わたしはその腕を素早くと
った。自分の腕をからめる。
﹁あ、おい﹂
藤間くんをつれ、さっそく歩き出す。
﹁行き先はわかったから、その⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁い、いや、やっぱりいい﹂
歯切れが悪い藤間くん。どうにも気になる。
﹁あのね藤間くん。言いかけたことは最後まで言いましょうね?﹂
わたしは笑って優しく優しく諭す。すると、彼は短い逡巡の後に
口を開いた。
﹁⋮⋮腕を離してくれ﹂
﹁あら、別にいいじゃない、それくらい﹂
普段あまりこういうことはできないのだから、せっかくの機会を
逃す手はない。わたしはさらにぎゅっと力を込める。
と、藤間くんがそっぽを向いたまま、ぽつりとひと言。
﹁⋮⋮胸が、当たるんだ﹂
﹁え?﹂
わたしは思わずからめた腕に目を落とした。てんてんてん、と点
線矢印が示した視線の先では、わたしの胸がしっかりと藤間くんの
腕に押しつけられていた。
ようやくそれに気づき、弾かれたように手を離す。
﹁そ、そういうことは、もっと早く言って⋮⋮﹂
わたしはあまりの恥ずかしさに俯き、藤間くんの隣を歩いた。
思い返せば何度かこういうことがあったと思う。あのときとあの
ときと、と心の中で指折り数えていると、またよけいに恥ずかしく
なってしまった。知らずにそんなことをしていたかと思うと、顔か
ら火が出るような思いだ。それなのに藤間くんは今までずっと黙っ
ていたのだろうか。
むー、と口を尖らせていると︱︱、
52
﹁言いにくいんだよ案外、こういうのは﹂
﹁え?﹂
わたしは藤間くんを見る。不貞腐れたような顔は、少しだけ赤く
なっていた。
﹁そ、そうなのね⋮⋮﹂
考えてみれば、藤間くんは意外と恥ずかしがり屋だ。わたしの水
着姿もちゃんと見れないくらいに。そんなこの子が腕を組まれて、
それも胸を押しつけられれば、余裕なんてなかったことだろう。そ
ういえば腕を組んだときは、いつも何となくおとなしくなっていた
ように思う。
そんな藤間くんの心中を想像すると急にかわいく思えて、自然と
笑みがこぼれた。いつも黙ってされるがままになって、何も考えな
いようにしている藤間くん。そんな姿を思い浮かべると、わたしの
体の中心も騒ぐ。
少し、意地悪をしたくなった。
﹁じゃあ、今のうちに慣れておきましょう?﹂
﹁慣れ?﹂
藤間くんは訝しげに返してくる。
﹁だって、そうじゃない? これから何度もこういう機会が訪れる
わ。そのたびにドギマギしてるつもり?﹂
﹁腕なんて組まなくてもいいだろう。そういう発想はないのか﹂
﹁ないわ﹂
きっぱりと言い切る。
﹁それに今さらじゃない。今までだって何度かあったことだし、こ
の前なんて何もつけずに前から後ろから藤間くんにごめんなさい今
のは忘れて﹂
言っている途中で死にたくなった。
藤間くんも思い出してしまったのか、顔を赤くして口を閉ざして
いる。はい、そうですね。本当にごめんなさい。ちょっと配慮が足
りませんでした。わたしも恥ずかしくて崩れ落ちそうです。
53
﹁ほ、ほら、腕を出して。大丈夫よ。軽く組むだけだから﹂
強引に腕を引っ張って促すと、藤間くんは積極的に嫌がるわけで
もなく、渋々ながら軽く脇を開くようにして腕を差し出してきた。
後はわたしがここに手を添えるだけ。
が、そこでわたしは自分自身の異変に気がついた。手もぴたりと
止まる。
心臓がやけにドキドキしてる。さっきまでは何ともなかったのに。
藤間くんにあんな指摘をされたからだろうか、今からやることを妙
に意識してしまっているみたいだった。
藤間くんが立っているのはわたしの左側。今もうるさいくらいに
鳴っている心臓があるほうだ。このまま腕を組めば、心臓の音が聞
こえてしまうかもしれない。組んだ腕を通じて知られてしまうかも
しれない。
﹁ごめんなさい。場所を代わるわ﹂
わたしは藤間くんの手を引っ張ると、お互いの立ち位置を入れ替
えた。わたしが左側。彼が右側。
﹁なんなんだよ﹂
﹁わ、わたし、左のほうがいいの﹂
﹁左がいいって何だ﹂
それはわたしの挙動不審に呆れ、苦笑交じりに文句をこぼしただ
けのこと。それなのにわたしはうっかり真面目に回答しようとして
しまった。
﹁それは⋮⋮﹂
左のほうがいいって、聞きようによってはいやらしい気がしない
でもなくて︱︱。
︱︱あっ、待って。藤間くん、いつも同じところばかり。
︱︱こっちが弱いって言ってなかったか?
︱︱い、言ったけど、だからって⋮⋮やっ、あ、ん⋮⋮。⋮⋮も
ぅ、いつもそんなイジワルばかり。
54
﹁痛いだろっ。なんで人の腕に頭ぶつけてくるんだよ﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
藤間くんの声にはっと我に返る。気がつくとわたしは、彼の二の
腕あたりに頭をごんごんとぶつけていた。
﹁えっと、つまり左側を歩くほうが落ち着くの﹂
﹁初めて聞いたよ﹂
もうどうでもよさそうな藤間くん。
﹁じゃあ、今度こそいくわよ﹂
わたしは心の中で﹁よし﹂とひと声かけ、おそるおそる彼の腕に
触れる。今まであまり気にしていなかったけど、こうやって改めて
見ると、文系男子のような見た目のわりには思っていた以上に逞し
く見えた。筋肉がついているといったわかりやすい逞しさではなく、
しなやかな中にエネルギィをため込んでいるような力強さがある。
ここにわたしの手をからめるわけだけど︱︱さっきみたいに胸が
当たったら、それだけで電流が走ったみたいに飛び上がりそうな気
がしてならなかった。
︵⋮⋮というか、たぶん、なる︶
さっきから妙に触れ合うことを意識してしまっているし。
別に体が密着するほどべったりするわけじゃなくて、ただ恋人ら
しく彼の腕に軽く手を添えるだけ。そう自分に言い聞かせるのだけ
ど︱︱、
﹁や、やっぱり今日は日が悪いわ。また今度にしましょ﹂
ダメだった。
わたしは耐え切れなくなって藤間くんの腕から手を離す。
﹁なんなんだ、さっきから﹂
﹁い、いいのよ。だいたい浴衣で腕なんて組むものじゃないわ﹂
﹁言い出したのはそっちだろうが﹂
それを言われたら返す言葉がない。
﹁まぁ、やめるなら僕としてもそのほうが助かるが。⋮⋮ん? あ
55
れか、祭りって﹂
わたしたちが歩く道の先に祭りの灯りが見えてきた。駅にいたと
きからかすかに聞こえていた祭りを賑やかす音楽も、今ははっきり
と聞き取ることができる。
住宅地の真ん中にある公園が夏祭りの会場だった。
男の子だからだろうか、祭りの喧騒を前にした藤間くんには心躍
るものがあったようで、バカな戯れにキリをつけるように言ってく
る。
﹁いいかげんよけいなことしてないで素直に楽しまないか。これを
見にきたんだろ﹂
﹁ええ、そうね﹂
それもあるわね︱︱わたしは小さく付け加える。
確かにそれもある。でも、今日のわたしのいちばんの目的は、藤
間くんにこの浴衣姿を見せることだった。見せて、ひねくれものの
彼からどう感想を引き出そうかと考えていたのだけど、そっちも意
外とあっさり達成できてしまった。ちょっと拍子抜けのような気が
しないでもない。
尤も、おかげで︱︱それこそよけいなことを考えず、﹃浴衣で夏
祭りデート﹄を楽しめるのだけど。
56
おまけ
﹁見て、藤間くん。人でいっぱい。はぐれたら大変だと思わない?﹂
﹁安心してくれ。なんと僕は今日も携帯電話という便利な道具を持
ってきている。はぐれたら遠慮なく電話してくれ﹂
﹁⋮⋮そう言うと思ったわ﹂
57
おまけのおまけ
夜店の前を行き交う人でごった返す中、わたしは前触れもなくそ
っと藤間くんの手を握った。
話していた彼の言葉が中途半端なところで途切れる。
が、それも一瞬のこと。すぐに藤間くんは何ごともなかったかの
ように、そして、つないだ手を解こうともせず、会話を再開した。
盗み見るようにして藤間くんの様子を窺えば、彼は少しだけ顔を
赤くしていた。
︵そうしてくれると思ったわ︶
わたしは最後まで藤間くんとはぐれることはなかった。
58
第四話 その1
八月の上旬、今日も朝から快晴だった。
むしろそんな言葉すら生易しく、猛暑、酷暑の類である。高層マ
ンションの上層に住んでいると太陽が近いせいか、砂漠の真ん中で
磔にされて炙られているような気分になる。雨はここしばらく降っ
ていない。まとまった雨でも降れば少しは涼しくなるのだろうが、
半端に降られるとすぐに陽が差して湿度と不快指数だけが跳ね上が
るなんて結果になりかねない。
これでも国の方針に協力的な一般市民のつもりなので、昼間から
極力エアコンは点けないようにしている。が、さすがに今日の暑さ
は限界だ。ソファで読書をしていた僕は、その本を閉じ、テーブル
の上に放り出した。図書館かコーヒーショップにでも避難するか。
カレンダで今日の曜日を確認し︱︱図書館に決める。
と、そのとき、エントランスのチャイムが鳴った。
誰かきたらしい。ソファから立ち上がり、インターフォンに出る。
﹁⋮⋮はい﹂
﹃きちゃった﹄
﹁⋮⋮﹂
見ればわかる。
連動してついたモニタには、しっかりと槙坂涼の姿が映しだされ
ていた。
﹃開けてくれる?﹄
﹁勝手にどうぞ。因みに、暗証番号を入れないと開かないが﹂
﹃せめてヒントをちょうだい﹄
まぁ、ヒントくらいはかまわないか。ヒントにもならないヒント
59
を与えて、それで音を上げてくれたら、突然の襲撃を受けた僕の溜
飲も下がるというものだ。降参したらエントランスのドアを開けて、
そこで待っていてもらおう。
﹁ひとケタと三桁の完全数をかけた数字だ﹂
﹃つまり、2976ね﹄
モニタを見れば槙坂先輩が、開いたドアへと入っていくところだ
った。⋮⋮くそ。瞬殺か。彼女の知識と計算能力を甘く見た。近い
うちに暗証番号を変えないと。
僕はそこから離れると、素早く身支度を整え、勉強道具を鞄に放
り込んで家を出た。
﹁あら、お出かけ?﹂
ちょうど槙坂先輩が上がってきたところだった。
今日の彼女は赤いチェックのミニスカートに、白いシャツとカー
ディガンを大人っぽく着こなしている。トップスはどちらもノース
リーブなので腕が肩から剥き出しだ。この陽射しで焼けなければい
いがと心配してしまった。普通に日焼け止めくらいは塗っているか。
﹁ああ。幸か不幸か、ね﹂
﹁そうなの? じゃあ、わたしはどうしたらいいかしら。一緒に行
く? それとも家で待っていたほうがいい?﹂
帰るという選択肢はないらしい。まぁ、僕にも帰すという選択肢
はないが。
﹁家で待ってたほうがいいなら、食事でも作ってるわ。もちろん、
藤間くんが帰ってきたら、﹃お帰りなさい、あなた。食事にする?
先にお風呂? それとも︱︱﹂
﹁わかった一緒に行こう﹂
同じ学校に通う先輩にそんなことさせられるかよ。
エントランスから上がってきたばかりの槙坂先輩をつれて、僕は
エレベータで下へと降りた。
炎天下の街を歩く。
60
昼前。
室内の暑さに耐えかねて外に飛び出しただけあって、真夏の日中
に外出するタイミングとしては最悪と言えるだろう。
隣を歩く槙坂涼は、こんなときでも涼しい顔で澄ましている。
﹁槙坂先輩、昼食は?﹂
その彼女に僕は問う。
﹁まだよ。藤間くんの家にあるもので何か簡単なものでも作ろうと
思っていたの。⋮⋮藤間くんは?﹂
﹁僕もまだだ。じゃあ、先に何か食べていくか﹂
こんなことなら何か食べてからにすればよかったな。労せず食事
が出てくるなら、と思わなくもないが、いや、やはり槙坂先輩を家
に上げる脅威のほうが勝るか。
﹁それはそうと、今からどこに行くの?﹂
今ごろ聞くかよ。
﹁あまりにも暑いんでね、図書館に避難しようと思ってた。こうい
うときアメリカだと一石二鳥なんだがな﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁アメリカで安く食事をしたいなら図書館に行けばいいと言われて
るんだ。向こうの公共図書館は、コーヒーショップや軽い食事ので
きる店が一緒に入っていることが多い﹂
﹁日本じゃあまりそういう図書館は見ないわね﹂
﹁ないこともないんだけどな﹂
地方の公共図書館で有名レンタルショップが業務を委託され、さ
らにコーヒーショップの店舗まで招致したことは、当時世間の耳目
を集めた。また、こういうのは限定サービスである大学図書館のほ
うが思い切った改革がしやすいのか、図書館の一部を洒落たカフェ
のようにしてしまった大学もある。関西の女子大だ。
﹁このへんは欧米と日本のスタンスの違いだろうな﹂
﹁どう違うの?﹂
﹁簡単に言うと、欧米の図書館は腰を落ち着けて勉強する場所なん
61
だ。だから、一日中いられるように施設内に飲食店がある。対して
日本は、ただ本を借りるための場所としか認識されていない。買い
ものや何かのついでに立ち寄る程度のところになってしまっている。
机でじっくり勉強をしていたら嫌な顔をされることもあるし、小さ
な分館だと閲覧席がほとんどないところもある﹂
日本の公共図書館が﹃無料貸し本屋﹄と揶揄される所以だ。
おかげでこんな話がある。ある図書館が利便性を高めようとコン
ビニや駅などに返却のためのブックポストを設置したら、逆に利用
者が減ったのだという。図書館が本を借りる場所としか思われてい
ない証拠だ。借りて返して、また借りてのサイクルが途切れると、
人は途端に足を運ばなくなる。
僕もそれが悪いことだとは思わない。アメリカで最初の大規模公
ポピュラー・ライブラリ
共図書館、ボストン公共図書館の設立に携わったジョージ・ティク
レファレンス・ライブラリー
ナも、図書館は読書の習慣をつけるための通俗図書館であるべきだ
と主張した。僕としては参考調査図書館であるべきというエドワー
ド・エヴァレットの考えを支持するが。
日本は図書館行政を誤ったと思う。刑務所があくまで更生施設、
社会復帰のための場だと主張するなら、欧米のように刑務所図書館
をもっと積極的に設置するべきだろう。先進国では日本だけが著し
く刑務所図書館の機能が弱いのは明らかだ。
そんなことをつらつらと語っていると、隣で槙坂先輩が小さく笑
い出した。
﹁相変わらず図書館に詳しくて、自分の考えを持っているのね﹂
﹁⋮⋮﹂
少ししゃべりすぎたか。
僕の趣味と興味は多分に図書館︱︱図書館という施設だけではな
く、図書館学や図書館行政、にある。なので、図書館に関する知識
は人並み以上にもっていると自負しているが、それを浮田ら友人た
ちに話すとたいてい呆然とされてしまう。しかし、その点、聡明な
槙坂先輩は興味深げに聞いてくれるので、ついつい調子に乗って多
62
弁になる。
そして、必ずと言っていいほど、語るだけ語った後、そんな自分
を恥ずかしく思うのだった。趣味について饒舌になる男など恰好い
いものではない。
ファミレスで軽く昼食をすませてから図書館へと向かった。
そこはこの地区の中央図書館で、今の僕の家からは歩いていくこ
とができる。中学生のころから電車に乗って通ってもいた。
ロビーに足を踏み入れれば、空調で下げられた空気が一気に体を
包んだ。家からここまで徒歩圏内なのはいいが、やはり夏はきつい
な。生き返る思いだ。
﹁ずいぶんと広いロビーね﹂
そう感想をもらすのは相変わらず涼やかな顔の槙坂先輩。手にハ
ンカチを持っているので、汗はかいたのだろうけど。
﹁広いのも当然さ。ここは体育館もあって、ロビーが共通になって
いるんだ﹂
ロビーの正面左手に図書館の入り口が見えている。逆にここを右
に行き、奥に進むと体育館がある。地上四階、地下一階の図書館に
体育館がくっついているような構造だ。
正面右寄りの壁面にはホワイトボードが設置されていて、今週体
育館を利用する団体の名前が書かれていた。僕はそれを確認してか
ら体を体育館のほうへと向けた。
﹁行ってみようか﹂
﹁体育館に?﹂
﹁そう﹂
短く答え、歩を進める。槙坂先輩もついてきた。
まずは多目的トイレを併設した化粧室があり、その先を曲がると
体育館の入り口がふたつあった。尤も、単にふたつあるというだけ
で、同じところにつながっているのだが。
角を曲がったあたりでバスケットボールをつく独特の音が聞こえ
63
てきた。練習中であろうことを想像させる声も。ただし、普通なら
それにつきもののバッシュを踏みしめる高い音が聞こえないのだが、
それに気づくのはバスケットボールをよく知る人間だけだろう。
出入り口からでも中を窺えないこともないが、左右が観客席にな
ってせり上がっているのであまり見通しはよくない。もう少し這入
り、コート全体を見渡せる場所にまで足を進める。
﹁これって唯子の?﹂
バッシュの音が聞こえないのも当然だ。中で練習しているのは車
椅子バスケのチームなのだから。ここには伏見唯子先輩も所属して
いる。
﹁夏休みは毎週この曜日に練習しているらしい﹂
﹁唯子は⋮⋮いたわ。あれね﹂
今はちょうど速攻の練習をしているらしく、車椅子を滑らせなが
らパスを回し、シュートしていく。車輪がついているから当然と言
ってしまっていいのかわからないが、なかなかのスピード感だ。伏
見先輩もいる。
﹁声をかけてもいいのかしら?﹂
思わぬところで友人の姿を目にした槙坂先輩が嬉しそうに聞いて
くる。
﹁あまり歓迎されないんじゃないか﹂
﹁聞いてみるわ﹂
僕の意見など欠片も参考にせず、彼女はコート脇に立つコーチら
しき女性に歩み寄った。短いやり取りが交わされ、その後、女性コ
ーチは伏見先輩の名前を呼んだ。どうやらお許しが出たようだ。そ
れくらいの融通は利くのか、それとも槙坂涼の力か。
伏見先輩がハンドリムを回しながら戻ってくる。そして、すぐに
槙坂先輩に気づき、笑顔を見せた。こうなっては僕だけ離れている
ふしみ・ゆいこ
わけにはいくまい。僕も近くに寄った。
伏見惟子先輩。
64
過去の不幸な事故により車椅子生活を余儀なくされているが、ス
ポーツ少女然と人だ。それもそのはず、この通り学業の傍ら日々車
椅子バスケに打ち込んでいるのだった。この人は槙坂涼とはまた別
種のカリスマを持っていると僕は思っている。
﹁おー、涼さん。それに藤間君も。⋮⋮もしかして図書館デート?﹂
途中、コート脇の自分の荷物からタオルを拾い上げてから、汗を
拭き拭きやってきた彼女は、僕たちふたりを見るなりにやにやと笑
う。
伏見先輩は、不自由な身体ながらそれをものともせずスポーツに
打ち込む人だが、こういう話が好きな人でもある。そういう意味で
はどんなハンデを抱えていようが、どこにでもいる女子高生という
ことなのだろうな。
﹁ええ。藤間くんが﹃薔薇の名前﹄を読む横で、わたしがアリスト
テレスの﹃詩学﹄を読むの。そんなデート﹂
槙坂先輩もさらりと笑って答える。
たぶん伏見先輩にはさっぱり意味がわからないと思うのだがな。
実際、首を傾げている。
﹁本当はそんないいものじゃなくて、ただ藤間くんの家に遊びにい
っただけなの﹂
﹁うわ、涼さんダイタン﹂
驚嘆する伏見先輩。実にまっとうな反応だと思う。
﹁お昼でも作ってあげようと思ったんだけど、ちょうど出かけると
ころだったみたいで﹂
﹁いったい今どういう関係?﹂
彼女は首を傾げつつ、こちらへと向く。
﹁一緒に図書館にくる程度の関係ですよ﹂
少なくとも食事を作ってもらうのが当たり前の関係ではない。
﹁前はふたりっきりで遊園地に行ったくせに﹂
そういえばあったな、そういうことも。あんな人の多いところで
65
同じ学校の生徒と会うことはないだろうと高をくくっていたら、事
後と伏見先輩と出くわしてしまったわけだが。
﹁そういう唯子は練習なのね﹂
﹁そう。普段だと日曜だけだけど、夏休み中は週二。今のうちにし
っかり練習しておかないと﹂
楽しげだな。僕も中学のときにはクラブに入っていたが、それも
一年で辞めてしまった。当時はあまり集団行動に向いている性格で
はなく、楽しいとも思えなかったからだ。なので、僕には伏見先輩
の気持ちはあまり理解できない。皆でひとつのこと成し遂げる喜び
を知った今なら、部活動もそれなりに楽しめるのだろうか。
﹁藤間君はよくこの図書館に?﹂
﹁ええ。中学のときから利用してます﹂
﹁む、相変わらず文系男子なやつ﹂
伏見先輩は笑いながら言う。
﹁あたしもそのころにはもうここにきてたかな。もしかしたら知ら
ずにすれ違ってたりするかもね﹂
﹁ですね﹂
僕は話を合わせ、そうとだけ答えておいた。
﹁おっと、そろそろ戻らないと。声をかけてくれて嬉しかった。よ
かったらこの後⋮⋮って、デートの邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、涼
さん、また連絡するね﹂
﹁ええ。唯子も練習がんばってね﹂
言葉を交わすふたりの横で僕は軽く頭を下げ、挨拶の代わりにす
る。
伏見先輩は練習に戻っていった。
僕と槙坂先輩はそれを見送ってから体育館を後にした。
66
第四話 その2
今は夏休みではあるが平日の日中のせいか、図書館にはあまり利
用者はおらず、思ったより閑散としていた。蒸し風呂みたいな家か
ら避難してきている人が多いかと思ったのだが。きてしまえば涼し
いが、まず家から出るところにハードルがあるということか。
僕は一階奥の全面窓に面した六人掛けの閲覧席に陣取り、勉強を
していた。向かいでは槙坂先輩が書架から取ってきた本を読んでい
る。このテーブルには僕たちのほかには誰もいない。
なにげなくその様子を窺うとと、彼女は本を読みながら難しい顔
をしていた。
﹁何を読んでるんだ?﹂
よほど硬い本でも読んでいるのだろうと思い、聞いてみる。
図書館は参考調査図書館であるべきと主張したエドワード・エヴ
ァレットは、硬い本を推奨し、将来のアメリカを担う若者を育てよ
うとしたのだそうだ。
﹁⋮⋮ボーイズラブ小説﹂
﹁⋮⋮﹂
軽い後悔が僕を襲う。
﹁そういうのが趣味なのか?﹂
我らが槙坂涼に意外な趣味が発覚、だろうか。僕はおそるおそる
問いを重ねた。
﹁趣味というよりも興味ね。わたしの周りでもたまにこの手の本が
話題にあがるから﹂
槙坂先輩は何の未練もない様子でページを閉じると、ようやく顔
を上げ、本を振って示しながら言う。
堂々と語る人がいるのか。猛者だな。
﹁藤間くんはこういうのも読むの?﹂
67
﹁なわけないだろう﹂
そんなのを積極的に読む男は稀有だろう。基本、僕は大多数に埋
没する人間なのだ。
﹁男の子ならやっぱり女の子同士のほうがいいのかしらね﹂
﹁僕は少数派の恋愛形態を否定するつもりはないよ﹂
笑いながら問うてくる槙坂先輩に、僕はあえて論点をずらして答
えた。
﹁それにしても、こういうのを図書館に置いていいものなの?﹂
﹁まぁ、尤もな疑問だろうな﹂
過去、図書館に所蔵するべきかどうか議論になった作品はいくつ
もある。﹃ピノキオ﹄、﹃ちびくろサンボ﹄などがそれに代表され
る。いわゆるBL小説と呼ばれるジャンルも﹃はだしのゲン﹄とと
もに近年話題の作品だ。尤も、ジャンルごと規制の対象にしようと
した例は初めてだろうが。
しかし、図書館は﹃図書館の自由に関する宣言﹄で、選書、収集、
としている限り、それ
基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と
所蔵の自由を声高に主張している。僕も図書館が宣言の前文にある
通り、
施設を提供することをもっとも重要な任務
は何ものにも侵されない権利として保障されるべきだと思う。所蔵
資料は国や自治体が頭ごなしに一括で規制するものではないし、図
書館も一部の団体による執拗な抗議や弾圧に屈するべきではない。
﹁つまり、特定の思想や信条に基づく所蔵資料の偏りがあってはい
けないということね﹂
僕の説明にそう納得すると、槙坂先輩は次の本を手に取った。
ほどなく︱︱、
﹁ねえ﹂
﹁うん?﹂
﹁逆ハーレムって効率が悪いんじゃないかしら?﹂
﹁⋮⋮﹂
今度は何を読んでいる!?
68
勉強に行き詰まった。
ずっと化学の演習問題を解いていたのだが、難問にぶち当たって
しまった。シャーペンを走らせる手がすっかり止まってしまってい
る。いいかげん化学式や構造式を見つめすぎたせいか、ゲシュタル
ト崩壊を起こして、意味がわからなくなってきた。何か参考になり
そうな資料を探してくるか、それとも気分転換に借りて帰る読みも
のでも物色するか。どちらにせよひと息入れようと顔を上げれば、
向かいでは相変わらず槙坂先輩が本を読んでいた。
いったい何を読んでいるのだろうか。またコアなジャンルの本に
意欲的に挑戦しているのだろうかと思ったが、今は涼しげな顔で読
書に没頭している。長く艶やかな黒髪が流れ落ちてきたのか、彼女
は髪をかき上げ、耳の後ろへと流した。
僕はそれを優雅な仕草だと思った。
見惚れてしまう。
と、そのとき槙坂先輩が僕の視線に気づいた。顔を上げ、軽く首
を傾げ︱︱問う。
﹁どうかしたの?﹂
それはあまりにもたちが悪かった。
槙坂涼ならとっくに視線に気づいていて、意地悪く﹁いつまで見
ているのかしら?﹂と不意打ちをしてきてもよさそうなのに。むし
ろそのほうがよかったとすら思う。しかし、今のそれにはそのまま
の意味しかなく、その笑みもとても自然だった。
だからこそ、どきっとする。
﹁あ、ああ、ちょっとわからないことがあって、考えてたんだ﹂
僕は思わずバカ正直に答えていた。
﹁あら、どうして早くわたしに言わないの﹂
﹁え? いや、わかると思わなくて⋮⋮﹂
﹁失礼な子﹂
槙坂先輩はくすりと笑う。
69
﹁あなたはすっかり忘れてるかもしれないけど、わたしは先輩なの
よ? 見せて。たいていのことはおしえられると思うわ﹂
﹁い、いや、いいよ。もう少し考えてみる﹂
﹁考えてもわからなかったのでしょう?﹂
彼女は立ち上がり、テーブルを回り込んで僕の隣に座った。
﹁さて、どんな問題?﹂
体を寄せ、手もとにあったテキストを覗き込んでくる。⋮⋮近い。
髪が揺れ、僕の肩に触れた。僕は慌ててテキストを押しやり、槙坂
先輩を遠ざけた。
﹁ああ、高分子化学ね。これなら大丈夫だわ。この問題のポイント
はここと︱︱﹂
これはマズいと思い、僕はポイントポイントにマルをつけていく
槙坂先輩の手もとに集中する。これが奏功し、ひとまず雑念を払う
ことができた。
一般に、できる人間はおしえるのに不向きだと言われている。す
んなりと理解してしまったが故に、できない人間がどこでどうして
躓いているかを理解できないからだ。しかし、どうやら槙坂先輩に
それはあたらないらしい。本当にできる人間は何でもできるという
ことか。
﹁わかった? じゃあ、やってみて﹂
﹁あ、ああ﹂
さっそくおしえられたことを念頭に、問題に取りかかってみる。
さっきまでできなかった人間が少しアドバイスをもらっただけで
劇的に変わるはずはないが、それでもところどころ詰まりながらで
はあるが解答まで辿り着いた。
﹁⋮⋮できた﹂
シャーペンを置き、ノートを眺める。さっきは何も書けなかった
そこには、解答とそれに至る過程がしっかり書かれていた。
﹁よくできました。さすが藤間くんね﹂
槙坂先輩は、弟を褒める姉のように微笑む。
70
邪気がなく、無垢なそれは、例えば学校で周りの生徒たちに見せ
・ ・ ・ ・
ている槙坂涼の笑みとは違っていて︱︱。
︵ダメだ。これはやられる⋮⋮︶
だから、たちが悪かった。
﹁ほかにわからないところは? なんでも聞いてくれていいわよ?﹂
﹁い、いや、いい。⋮⋮悪い。ちょっと書架を回ってくる﹂
僕は槙坂先輩の返事も聞かず、席を立った。
閲覧席を離れ、参考資料コーナーを抜け、カウンタ前の階段から
2階へ上がる。資料を探す利用者も排架している図書館員もいない
場所を探して辿り着いたのは、5門の技術・工学の書架だった。興
味のかけらもない本の背表紙を無意味に眺めつつ、深々とため息を
吐いた。
心がどうしようもなく揺さぶられる。
最初からわかっていた。初めて彼女を見たときから、僕は負けて
いたのだ。知れば知るほど敗色濃厚となり、今や惨敗だ。それでも
どうにか自分を誤魔化してここまでやってきたが、それもいよいよ
利かなくなってきたらしい。ため息とともに気持ちまで吐き出して、
どこかへやってしまいたかった。水の中に垂らした一滴の墨汁のよ
うに、雲散霧消してくれないものだろうか。
できないならせめてフラットにしろ。ニュートラルに戻せ。
だが、ときとして努力は嘲笑われるためにあるかのように振る舞
う。
﹁どうして逃げるの?﹂
それは槙坂先輩の声だった。
そっちこそどうして追ってくるんだよと聞き返したい。
声のしたほうを見れば、彼女は通路の真ん中で仁王立ちしていた。
﹁別に﹂
しかし、逃げたのが図星だっただけに、僕は饒舌に否定はできな
かった。
﹁ただ本を探しにきただけだ﹂
71
﹁あら、そうだったの? 藤間くんがこの手の分野に興味があると
は知らなかったわ﹂
﹁⋮⋮﹂
僕は書架に並んでいる本の題名を見た。材料力学に構造工学、低
温プラズマ材料化学。僕にこんな趣味があったとは、僕も初耳だ。
﹁ウソばっかり﹂
当然、槙坂先輩も本気にはしていなかった。あっさり一蹴する。
彼女は勝ち誇ったように、少しだけ意地悪く笑った。
﹁もしかしてどきどきしちゃった?﹂
﹁っ!?﹂
﹁そうね。夏は薄着だものね。恥ずかしがり屋さんの藤間くんには
刺激が強すぎたかしら?﹂
からかうように言う槙坂先輩は、スカートの裾を指でつまみ、横
に広げて見せた。フレアのミニスカートが扇状に広がる。
僕は顔を逸らし、投げやりに答えた。
﹁それだったらまだいいさ。単に僕が欲情したというだけの単純な
話なんだから﹂
だけど、本当はそんなシンプルな話じゃない。いや、ある意味で
はそうなのか。
槙坂涼は優雅で、知的で、そのくせいたずら好きで人を意地悪く
からかうのに、こちらがかまえているときに限って裏も表もなくや
わらかく笑ってみせる。
魅力的な女性だ。
それを今日、改めて思い知らされた。
尤も、ただ単に人を惹きつけてやまない魅力があるというだけな
ら、遠目に見ているだけでもわかっていた。でも、最近になって距
離が近くなって、僕に見せてくるのは誰も知らない姿ばかり。より
にもよってその姿が、その顔が、ことごとく心を揺さぶってくるの
だ。
目を瞑り逃げようとしても 僕の心をとらえて離さない。
72
﹁あなたが手の届かない高嶺の花であってくれたらよかったのに。
僕のところにまで下りてこなければ、こんな面倒なことにはなから
なかった﹂
言っても詮ないことを、僕は苦しまぎれに吐露する。
﹁これでも普通の女の子のつもりなのよ?﹂
﹁どこがだよ﹂
﹁そうね、少なくとも藤間くんの前では、かしら。こうして人を好
きになるし、今日家を出る前にさんざん何を着ていこうか迷ったわ。
どうかしら、この服﹂
槙坂先輩は片手を腰に当ててポーズを決めてみせる。
﹁それに藤間くんのことを考えると時々眠れなくなるわ。大変なの
よ、そういうときはいつも。詳しくはおしえられないけど﹂
苦笑ひとつ。
﹁どちらにしても、僕にとっては面倒だ﹂
﹁そう、藤間くんは今の気持ちを面倒と考えるのね﹂
そして、その表情は真剣なものへと変わった。僕を真正面から見
据える。
その視線は見透かしていた。
僕の心の動揺を。僕がどんな精神活動を面倒だと表現しているの
かを。
﹁その気持ちに素直になってはくれないの?﹂
槙坂先輩は寂しさを含んだ声で問いかけてくる。
﹁そんなことできるわけがない﹂
﹁怖い? そういう行為が﹂
﹁⋮⋮﹂
そうじゃない。
確かについこの間まで、僕は単に自分が臆病なだけだと思ってい
た。光の中に飛び込むようなその行為に、言い知れぬ不安を感じて
いるのだと思っていた。当たり前だ。僕はまだ十七歳のガキなのだ
から。︱︱でも、そうじゃなかった。
73
彼女は目を閉じ、首を横に振った。
﹁きっと違うわね﹂
槙坂涼はどこまでも僕を見透かす。
﹁あなたを足踏みさせているのは、わたし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁藤間くんは優しいから、自分の気持ちを押しつけていいのか迷っ
ているのね。わたしに、槙坂涼に﹂
そうだ。その通りだ。相手を誰だと思っている。槙坂涼だぞ。神
聖不可侵の。
﹁⋮⋮だから言ってあげる﹂
槙坂先輩はすっと間合いを詰めてきた。
﹁わたしはもう、心の準備ができてるわ﹂
﹁意味はわかってくれるわよね?﹂
74
第四話 その3
結局、その後、僕と彼女はあまり言葉を交わさなかった。
僕は黙々と勉強を続け、槙坂先輩も静かに本を読んでいる。
シャーペンを走らせる手を止めるとまた槙坂先輩に口出しされそ
うで、僕はひたすら解ける問題だけをやり続けた。勉強をする上で
これほど不毛なことはない。本来、勉強とは自分の解けない問題に
当たり、悩み、解に辿り着くことに意義があるわけで、解ける問題
をやり続けることに反復練習以上の意味はない。
槙坂先輩に気づかれないよう様子を窺えば、彼女は澄ました顔で
雑誌を読んでいた。
少し前、彼女にボールペンを一本貸してくれと言われた。いった
い何をするのかと思えば、槙坂先輩は長い黒髪をくるくると巻き上
げると、そこに僕が渡したペンを差し込み、髪止めの代わりにして
しまったのだった。本を読んでいる最中、髪が流れ落ちてくるのが
鬱陶しかったのだろう。おかげで今は髪をアップにしていて、普段
の彼女とは少し雰囲気が違っていた。だからこそ、油断するとすぐ
に目がそっちにいってしまう。僕が一心不乱に勉強に打ち込む理由
のひとつだ。
いきなり入口のほうから電子音が聞こえてきた。
﹁なに、今の?﹂
槙坂先輩が驚き、顔を上げる。
﹁BDSに誰か引っかかったんだろ﹂
﹁BDS?﹂
Detection
System。無断持ち出し防
聞き慣れない単語だったのか、彼女は首を傾げる。
﹁Book
止のセキュリティシステムだよ﹂
図書館の資料にタトルテープ︵磁気テープ︶やICタグを取り付
75
け、貸出処理をしないままゲートを通ろうとすると警告が発せられ
るシステムだ。BDSは正確には特定企業の商標なのだが、この手
のセキュリティシステムを指す一般名称としても用いられる。
﹁じゃあ、誰かが黙って本を持ち出そうとしたということ?﹂
﹁とも限らない﹂
このBDS、けっこういろんなパターンで引っかかってしまう。
強行突破を防ぐため、駆け抜ける人間に対しても反応する。だか
ら、例えば電話がかかってきたからと、慌てて図書館の外に出よう
とした人間が引っかかってしまうのだ。また、その携帯電話をはじ
めとする電子機器にもよく反応する。電源の入っている電子辞書や
音楽プレイヤなどだ。あと、なぜか折りたたみ傘や中国製の本も引
っかかる。
しまいには﹃体質﹄なんていう理不尽なものまであったりする。
中学のときの友人、雨ノ瀬がまさしくこれで、高確率でBDSに引
っかかっては、涙目の顔を僕に向けていた。
﹁ま、きっとうっかり何かと一緒に鞄に入れてしまったとか、タト
ルの消磁が弱かったとか、そんなところだろう﹂
その辺りのヒューマンエラーがいちばん多いのだと聞く。悪意の
ある人間などそうそういないと思いたいものだ。
とは言え、とある公共図書館では、市民から利用者を信用してい
ないなどの抗議を受けてBDSを撤去したところ、その直後の棚卸
では紛失図書が倍増した、なんて話もあるのだが。
僕は再び勉強に戻った。
槙坂先輩も雑誌に目を落とす。かさりとページをめくる音が聞こ
えてきた。
やがて時計の針は午後六時を指し、図書館は閉館の時間を迎えた。
退館を促すためのオルゴールが鳴る中、僕たちは荷物をまとめ、図
書館を後にする。
外はもう暗くなりはじめていた。空を見上げれば薄曇り。嫌な雲
76
行きだ。夕刻を過ぎて多少空気は変わったものの、日中の熱気の残
滓がまだ色濃く残っている。今日はいつも以上に湿気を含んでいる
気がした。むっとした不快な外気が体を撫でる中、僕たちは歩を進
めた。
隣の槙坂先輩がいつも通りに話かけてくる一方で、僕は﹁ああ﹂
とか﹁うん﹂とか、口数が少なくならざるを得なかった。
彼女は、昼間の書架の間での会話をどう思ってるのだろうか。
僕は今日、今まで目をつむって見ない振りをしてきたものを迂闊
にも直視してしまい、いよいよ誤魔化しが利かなくなってしまった。
そこにあの会話。
槙坂涼はきっと本気だ。
僕はどうしたいのだろうな。
自問自答してみる。
︵自問自答?︶
僕はその言葉を鼻で笑った。己に問いはしても答えを出そうとし
ない自分に気がついたからだ。完全に思考停止だ。
と、そのとき、鼻先に何かが当たった。
水滴?
いや、雨だった。
﹁藤間くん、傘は持ってきた?﹂
槙坂先輩もそれに気づいたらしく、問うてきた。
﹁いいや﹂
﹁そう。わたしもよ﹂
天気予報は何と言っていただろうか。基本的にニュースで天気の
話が出たら頭に入れるようにしているのだが、今日は聞いた覚えが
なかった。とすると、にわか雨か。駅か、最悪僕の家に着くまでも
ってくれたらいいが。
そう不安とともに空を見上げていると、僕のささやかな願いを嘲
笑うかのように雨滴はすぐに大粒になった。アスファルトの上にま
だら模様をつくったのは一瞬のこと。瞬く間に雨はどしゃ降りへと
77
変わった。さすがにこれは想定外。家まで走るとかコンビニで傘を
買うとかいう前に、今すぐ避難しないといけないレベルだ。
﹁あそこに入らせてもらいましょ﹂
槙坂先輩が雨宿り先として指さしたのは、本日の診察を終えたク
リニックの玄関ポーチだった。
僕たちはほかに選択肢もなく、ばたばたとそこに飛び込んだ。
降り出してからほんの数分しかたっていないのに、髪から服から、
全身びしょ濡れだった。これが噂のゲリラ豪雨というやつだろうか。
まさか久々の雨がこんなものになるとは。
﹁あ、あまりこっちを向かないでね⋮⋮?﹂
槙坂先輩が不安げに声をかけてくるので横目で隣を見れば、彼女
あまり
というのだから、それ以下でなら見
はシャツが体に貼りつかないよう胸元を指で引っ張っていた。⋮⋮
理解した。しかし、
てもいいということだろうか。まぁ、言葉の綾なのはわかっている
が。
今ここに僕たちと同じように誰かが雨宿りにきてそれが男だった
ら、僕はその人物を排除しなくてはいけないところだ。なに、カル
ネアデスの板の話もあるし、緊急避難は法律でも認められている。
僕は目を正面に固定した。
大粒の雨は真っ直ぐ叩きつけるようにして降り、砕けて散る雨滴
がまるで煙のようだった。排水が追いつかず冠水気味の道路の上を、
車が水飛沫を上げて走っていく。みんなどこかで雨宿りしているの
だろう、街からは人の姿が消えていた。
﹁⋮⋮﹂
空はいったい誰に味方して、この雨を降らせたのだろうか。
僕か、彼女か。
それともふたりのためか。
一度目を閉じ︱︱気持ちを落ち着けてから、再び目を開けた。
﹁家が、すぐ近くなんだ﹂
僕は切り出した。
78
﹁え? ええ⋮⋮﹂
わかりきったことだった。僕の家から図書館まで歩いていき、今
はその帰りなのだから。槙坂先輩は、何を言っているのだろうとい
った様子で、戸惑いがちにうなずく。
僕だって同じ思いだ。いったい何を言おうとしているのだろうな。
﹁ひとり暮らしで家には誰もいない﹂
これもまたわかりきったこと。
﹁そうね﹂と静かに答えた彼女は、すでに僕の言葉の意図を察して
いた。その上で次句を待つ。
﹁うちにこないか?﹂
﹁意味はわかってくれると思う﹂
﹁⋮⋮﹂
槙坂先輩は無言だった。
うるさいほどの雨。
車のエンジンと水飛沫。
音はあふれるほどあるのに、僕たちだけが無言。
槙坂先輩の長い沈黙に僕は、後悔交じりの不安を覚えはじめてい
た。⋮⋮ああ、バカなことを言った。これは言うべきじゃなかった
んだ。
彼女は今、何を考えているのだろう。
バカ
先の僕の言葉をどうかわそうか考えているのだろうか。調子に乗
ったこの僕に心の中でため息を吐いているのだろうか。
怖くて彼女の様子を窺うことができなかった。
僕は沈黙を埋めようと試み︱︱やめた。濡れた服のままじゃ電車
に乗れないだろうからとか、うちで夕食を一緒に食べないかとか、
今からどうとでも誤魔化せただろう。その気のない彼女も喜んでそ
の誤魔化しに乗り、なかったことにしたかもしれない。︱︱でも、
僕はすべて飲み込む。
79
不意に雨音が小さくなった。
どうやらにわか雨だったようだ。ツイてないな、こんな十分少々
の雨に遭うとは。この雨さえなければ僕も間違えることもなかった
のだろうに。
と、そのとき、まるでこれを待っていたかのように、槙坂先輩が
口を開いた。
﹁そうね。行くわ、あなたの部屋に﹂
その言葉は何の気負いもなく、ごく自然に発せられた。
驚き、ようやく隣に目を向ければ、彼女もこちらを見ていた。目
が合い︱︱槙坂先輩は微笑んだ。僕はどんな顔をしていいかわから
ず、ただただ戸惑うばかり。
ふと、槙坂先輩が空を見上げた。
﹁やんだわね﹂
﹁あ、ああ、本当だ﹂
確かにいつの間にやら雨はやんでいた。
﹁行きましょ﹂
彼女はそう言うと、躊躇いもなく足を踏み出す。
水たまりの水が跳ねた。
80
第四話 その4
毎日歩いているはずのマンションの廊下は、どことなくいつもと
違って見えた。
槙坂先輩が一緒にいるからだろうか。
いや、確かにそれもあるかもしれないが、それは表面的なものに
過ぎない。本当の理由はもっと奥、今ここに彼女がいる意味にある
に違いない。初めての行為の後は景色が違って見えるというのはよ
く聞く話だが、どうやらその前にも起こるらしい。
逆説的な考えになるが︱︱そうするとこの先に待ち受けているの
は、間違いなくそういう流れということか。
ドアの鍵を開けて中に這入り、リビングまで進んだ。夕闇に飲ま
れかけていた室内の照明を点ける。ついでにすぐそばにあるスイッ
チも押すと、開け放たれたままだったカーテンも自動で閉まってい
く。
﹁どうする?﹂
槙坂先輩はここまで黙ってついてきた。
﹁コーヒーでも淹れようか?﹂
﹁ううん。それより先にお風呂に入らせて﹂
この後のことを否応なく連想させる発言に、僕はぎょっとしてし
まう。
だが、槙坂先輩には少なくとも今の言葉に他意はなかったようで、
苦笑しながら言葉を継いだ。
﹁さすがに少し寒くなってきたもの。それにこのまま濡れた服を着
てもいられないでしょ?﹂
﹁あ、ああ。そうだな﹂
それもそうか。いくら夏とは言え、服が濡れたままでは体も冷え
てくる。一度湯に浸かって温めたほうがいいだろう。
81
﹁使い方はわかるか?﹂
﹁大丈夫よ。前に一度使っているもの﹂
そうだったな。
僕は風呂場の中をさっと確認する。特に異常なし。それから脱衣
場の戸棚からバスタオルを出す。以前槙坂先輩が使ったのと同じも
のだ。まだいくつか新品があるが毎度毎度新しいものを出してこら
れても気が引けるだろう。ついでに自分のタオルを手に取ってから
戻った。
﹁洗濯機も使わせてもらうわね﹂
﹁ああ﹂
出てきた僕と入れ違いに、槙坂先輩が脱衣場へと入っていく。僕
はタオルで髪を拭きながら、その姿を見送った。
私室でラフな部屋着に着替え、リビングに舞い戻る。
キッチンでコーヒーメーカーをセットした後、ソファに身を沈め、
ため息にも似た長い息を吐き出した。が、それでも気持ちはぜんぜ
ん落ち着かない。いくつかドアを隔てたその向こうで、彼女が風呂
に入っているからだろうか。槙坂先輩が言うように、前にも彼女は
同じことをしているのだが、あのとき僕は熱を出して眠っていた。
実質、こんな状況はこれが初めてだ。
あの槙坂涼が僕の部屋で風呂に入っているだって? 悪い冗談だ。
そう思いたいが、しかし、これは間違いなく僕の意志だ。僕が望ん
だことだ。
静寂を埋めるためにテレビを点け、僕はくだらないことを考えは
じめる、
さて、行為の知識とはどこで得たのだったか。
気づけば知っていたように思う。メディアで知って衝撃を受けた
覚えはない。学校で性教育の時間はあったが、中学のときは通り一
遍のもので、多少突っ込んだ話をした高校のときにはすでに知識は
あった。友人からだろうか? 周りよりひと足先にそういう知識を
もっていたやつは何人かいたようだが、知らない友人にわざわざお
82
しえるような悪趣味なやつはいなかった。
やはり種を残すための知識は、本能や遺伝子からくるということ
か。本能で漠然と理解していたからこそ、メディアは知識の補強で
しかなかったのだろう。
そんなどうでもいいことをつらつらと考えているうちにコーヒー
ができ上がった。コーヒーメーカーの電子音がそれを伝えてくる。
特に味を楽しもうと思って淹れたものでもなかったので、コーヒー
をマグカップに注ぐと、そこに適当な量の牛乳をぶち込んで飲む。
ソファに戻った辺りで忘れていた蒸し暑さを再び感じはじめ、エ
アコンのスイッチを入れた。
ただ何かをしていないと落ち着かないからという理由だけでぬる
いコーヒーを飲んでいると、脱衣場のドアが開く音が聞こえた。ど
うやら無意識のうちのテレビのボリュームを普段より大きくしてい
たらしいのだが、にも拘らずその音は明晰に僕の耳に届いた。
﹁⋮⋮お待たせ﹂
現れた槙坂先輩は体にバスタオルを巻いただけの姿だった。
湿ったバスタオルが貼りつき、彼女の体を隠してはいても、起伏
に富んだその体のラインはまったく隠せてはいなかった。首から肩、
腕にかけての見えている部分も、風呂上りで血色がよくなっている
せいか、昼間に見たときとは比べものにならないくらい艶めかしく
見えた。
単純な露出度ならプールに行ったときの水着のほうが上だ。だが、
今は大部分を覆ってはいるが、それはタオル一枚だけの頼りないも
の。その危うさが僕の呼吸を止めそうになる。
手に持ったマグカップを落としかけ、ようやく気づいた。洗濯機
に服を放り込んでしまえば、こうなるのは当然のことだ。
﹁悪い。気が回らなかった。何か着れるものを持ってくる﹂
目を逸らさねばという思いもあったので、僕は慌てて立ち上がり、
私室へと体を向けた。とりあえずTシャツでいいだろうか。
﹁待って﹂
83
しかし、呼び止められる。
﹁その⋮⋮藤間くんさえよかったら、もう⋮⋮﹂
消え入りそうな声で言う槙坂先輩。
すでに足を止めていた僕だが、このひと言ですべての動きが止ま
ってしまう。一緒に心臓まで止まってしまいそうな致死量のひと言
だ。
背中を向けたままで僕は問う。
﹁⋮⋮いいのか?﹂
﹁そのつもりでここまできたのよ?﹂
彼女はさっきよりもはっきりした口調に、かすかに笑みすら含ま
せていた。
意を決して振り返れば、変わらずバスタオル姿の槙坂先輩がそこ
にいた。意志は固そうだった。ならば、僕だってもう迷ってはいら
れない。
﹁寝室はあっちなんだ﹂
そんなことわざわざ言うまでもなく彼女は知っているはずだ。僕
が風邪をひいて槙坂先輩が泊まったあの日、僕がそこに出入りして
いるのを見ているのだから。
彼女の手を引き、寝室へと這入る。
空いている手で真っ暗な部屋に明かりを灯した。
﹁ごめんなさい。恥ずかしいから電気は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
点けたばかりの照明を消し、代わりに別のスイッチを入れた。部
屋の隅にある間接照明だ。僕が寝るときに点けているもので、睡眠
の邪魔にならない程度の光量しかない。これには彼女も何も言わな
かった。
ベッドに並んで腰を下ろす。
腰をひねるようにして向かい合えば、お互いの顔ははっきりと確
認できた。
どちらからともなく唇を重ね︱︱そのままベッドに倒れ込んだ。
84
僕が押し倒したのか、彼女が引っ張り込んだのか。それとも暗黙の
裡によるふたりの呼吸だったのか。
互いに貪るように、息も絶え絶えになるほど唇を奪い合う。
彼女の体を覆っていたバスタオルはいつの間にかなくなっていた。
僕が剥ぎ取ったのか、乱れているうちにはだけてしまったのかは覚
えていない。露わになった彼女の肢体を、僕は丁寧に触れていく。
やがて槙坂先輩の呼吸の中に切なげなものが混じりはじめ、押し殺
すように喘ぎ出した。
そこから僕の中では、知識と好奇心のせめぎ合いだった。
どこかで得た幼い知識と、その知識しか裏打ちのない拙い指使い
で彼女を導きたいという思い。その一方で、どこに触れたらどんな
反応を見せてくれるのだろうという好奇心︱︱ある種の嗜虐心があ
った。
行為をはじめてから、一切言葉はなかった。そんな余裕もなく、
ただただ夢中で僕は槙坂先輩の体を求め、彼女もそれに応じてくれ
る。
やがて初めての言葉が彼女の口から発せられた。
﹁⋮⋮きて﹂
暗闇の中、槙坂先輩はその潤んだ瞳の中に僕の姿を映しながら、
そう囁いた。いや、本当にそう言ったのだろうか。口がそう動いた
だけかもしれないし、ただの僕の錯覚だったかもしれない。
でも、それが合図だった。
僕は彼女の中心をゆっくりと貫いた。
まるでそれは光の中に飛び込むような感覚で、僕の意識はその光
に溶けていくようだった。
今度は理性と本能の間で揺れる。
僕の前に苦しみに耐えるような槙坂先輩がいた。僕が与える刺激
に合わせて戸惑いながらも艶めかしく喘いでいた先ほどとは違い、
85
今は透明できれいな何かの結晶のような涙が目尻に浮かんでいる。
苦痛が過ぎ去るのをただじっと待っているような。そんな彼女を見
て大事に扱わなくてはいけないと思う反面、欲望のままめちゃくち
ゃにしてしまいたいとも思ってしまうのを抑えられなかった。
正直、後のことはよく覚えていない。
ただ、絡み合う中で何かの拍子に槙坂先輩が身を起こしたとき、
乱れる彼女の裸身がカーテンの隙間から差し込む月明かりに浮かび
上がり、それが息を飲むほどきれいだったのを鮮明に覚えている。
次第に僕たちは、動きも呼吸も、何もかもが重なっていった。
初めての行為は、無我夢中のうちに終わった。
僕はベッドの上で突っ伏し、隣では槙坂先輩が仰向けで身を横た
えている。ふたりとも息が上がっていて、呼吸に合わせて体を大き
く上下させていた。
﹁意外に疲れるものね﹂
少しずつ呼吸が整ってきた槙坂先輩が、可笑しそうにそんなこと
を言った。
この疲れの多くは、初めてする行為への緊張によるものだろうと
思う。
﹁藤間くんが風邪をひいているときにしなくてよかったわ﹂
﹁ちょっと待て﹂
なんだその不穏な発言は。
あのとき、何もしないという約束で美沙希先輩が許可を出したん
じゃなかったか? 普通、女にさせる約束ではない気もするが。
﹁美沙希は期待してたみたいよ。わたしたちの間で何かあること﹂
﹁⋮⋮﹂
何を考えているんだろうな、あの人は。僕を殺したいのだろうか。
まぁ、どちらかをけしかけたわけじゃないから、本当に期待してい
ただけなのだろうけど。
﹁ああ、忘れていたわ﹂
86
不意に槙坂先輩が声を上げた。
﹁ベッドの上くらいは名前で呼び合いたかったのよね﹂
﹁⋮⋮﹂
正直なところ、そんな余裕は皆無だったな。僕だってこういうと
きは甘い言葉が交わされるのだと思っていた。だが、実際にはそん
なのはどこにもなく、ただただ夢中だった。
﹁ねぇ、次はそうしてくれる?﹂
疲れ果ててまだ伏せたままだった僕の背に彼女がのしかかってき
て、耳元で囁く。
﹁つ、次!?﹂
いろんなことに驚いてしまった。
不意打ちみたいにして肌と肌が再び触れ合ったこともそうだが、
・ ・
次なんてこと考えてもみなかった。普通に考えれば、これで終わり
ではない。互いの気持ちが重なれば、またこうしてするのだろう。
﹁知るかよ、そんなこと﹂
僕は今さらながら、とんでもないことをやらかしてしまった気が
して︱︱槙坂先輩を払いのけると、タオルケットを引き寄せ背を向
けた。
くすくすと槙坂の笑い声が聞こえてきた。
目が覚めると朝だった。
どうやら疲れと緊張による消耗で、あのまま僕は泥のような眠り
についてしまったらしい。
隣に彼女の姿はなかった。先に起きているのだろうか。僕は床に
散らばっていた服を着ると、寝室を出た。
﹁あら、おはよう﹂
迎えてくれたのは明るい調子の槙坂先輩の声と、ほのかに卵を焼
く香り。︱︱かくして、キッチンに彼女はいた。朝食の準備をして
いたらしい。
﹁お腹すいてるでしょう? 昨日、結局夕食も食べずに⋮⋮だった
87
から﹂
﹁あ、ああ、そうだな﹂
それはいいのだが︱︱、
﹁なんて恰好をしてるんだ⋮⋮﹂
彼女はカッターシャツを着ていた。胸のポケット部分に明慧の校
章の刺繍入り。間違いなく僕のだ。
そして、それだけ。
着ているのは、それだけだった。
いや、待て。
﹁ああ、これ? 着るものがなくて。何か借りようと思って藤間く
んの部屋を覗いたら、ハンガーに吊るしてあったから﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに学校が夏休みに入ってからも、カッターシャツはハンガー
にかけて壁のフックに吊るしたままにしてあったが︱︱まぁ、あち
こち探られるよりはマシだと思っておくか。
﹁それでもそれはないだろう⋮⋮﹂
カッターシャツの裾からは、すらりとした足が剥き出しのまま伸
びている。そして、素足にスリッパ。
﹁大丈夫よ。下着は上も下もちゃんとつけてるわ﹂
﹁だったらほかも着てくれ﹂
高層マンションでは洗濯乾燥機は必須アイテム。どれもこれも昨
夜のうちに乾いているはずだ。
﹁ダメよ。スカートもシャツも、まだしわくちゃだもの﹂
﹁⋮⋮わかった。後でアイロンを貸す﹂
いや、その前に何か彼女でも着れるものを探すのが先か。
僕は改めて槙坂先輩を見る。
さすがに僕のカッターシャツは彼女には大きいらしく、かなりゆ
ったりと着る感じになっている。それが幸いして、裾から下着が見
えるようなこともなかった。
﹁えっと、その、それでもジロジロ見られると、それはそれで恥ず
88
かしいのだけど、ね⋮⋮﹂
槙坂先輩は急に居心地悪そうな様子で、さほど乱れてもいないシ
ャツの裾を直し、下へと引っ張ったりしはじめる。
﹁わ、悪い⋮⋮﹂
昨夜あんなことをしておいて、それでも見られるのは恥ずかしい
のか。わからない︱︱というのは、きっと安直で勝手な男の理屈な
んだろうな。
僕はハイチェアのカウンターダイニングに腰を下ろした。極力彼
女を見ないような姿勢を取るが、どうにも落ち着かない気分だった。
昨日ついにそのラインを越えてしまったからだろう。料理をする槙
坂先輩の背中を盗み見れば、一方の彼女はいたって普段通り。今朝
になって僕と顔を合わせても動じた様子はない。ずいぶんと不公平
な話だな。
﹁僕は男だからよくわからなくて、これももしかしたら無神経な質
問なのかもしれないんだが︱︱体、大丈夫なのか?﹂
それは兎も角として、初めての行為の後の影響はあったりするの
だろうか。少し気になって僕は問うた。
﹁心配してくれるの? 嬉しい﹂
ガスコンロの火を止め振り返った槙坂先輩は、無邪気にも見える
笑顔を浮かべる。
﹁そうね。まだ少し下腹部に違和感があるけど、特に心配はないわ﹂
﹁そ、そうか。ならいいんだ﹂
反応に困る返事が返ってきてしまった。下腹部に手を当てる彼女
から目を逸らす。
﹁ところで︱︱﹂
と、切り出した槙坂先輩はカウンターダイニングを挟んで僕の正
面に立つと、テーブルに両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた。
その構造は今の恰好とも相まって、横から見たらさぞかし色気があ
るだろうが⋮⋮やめてくれ。今僕を真っ正面から見るのは。
﹁わたしに言うことはない?﹂
89
その言葉が僕を責めているように聞こえてしまうのは、多少なり
とも心当たりがあるせいだ。
行為の最中、僕はできるだけ彼女を丁寧に扱おうとした。でも、
それでも僕の中に抑えきれないものがあったのは確かだ。欲望に流
されるようにして、彼女のことを十分に考えることができていなか
ったかもしれない。だから、昨夜のことで彼女にひどい男だと思わ
れている可能性はおおいにあると思う。それどころかひそかに怒っ
ていてもおかしくはない。もしそうなら素直に謝るべきだろう。今
後のためにも。⋮⋮今後のためにも!?
﹁何をだろうか⋮⋮?﹂
僕はおそるおそる聞き返す。
﹁そろそろ言いたくなったんじゃないかと思ったの﹂
﹁今度の旅行のとき、やっぱり部屋はダブルにしないかって﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮。
﹁それは、ない﹂
僕はどうにかきっぱりと言い切った。
﹁シングルふたつで予約したと言っただろう﹂
尤も、一瞬今からでも変更が利くだろうかと考えてしまい、そん
なことは口が裂けても言えないこと︱︱なのだが、おそらく見透か
されているに違いない。
その証拠にさっきから彼女は、僕の顔を見たまま機嫌のいい猫の
ように笑っているのだから。
90
槙坂さん、朝を迎える
その日の朝の目覚めは、いつもより気怠かった。
頭が起ききらないまま目を開けると、そこには見慣れない天井が
あった。今わたしが身を沈めているベッドの感触もいつもと違って
いる。その理由を深く考えないまま体を横に向けると︱︱、
﹁!?﹂
そこに藤間くんの顔があった。
びっくりした。
・ ・
びっくりして︱︱ようやく昨日のことを思い出した。
︵ああ、そうだった。ついに藤間くんとしたんだった⋮⋮︶
顔が赤くなるとともに、頬も緩む。そう、わたしは初めて本気で
惹かれた男の子と初めての行為をした。それはとても幸せなことな
のだろう。その幸せが体にくすぐったくて、小さく笑ってしまう。
わたしは彼の寝顔を見つめた。
よく整った顔で、まつ毛が思ったよりも長いことに気づく。起き
ているときはわたしに隙を見せまいとかまえているのに、寝ている
今はとても無防備で、少し幼く見えた。
しばらくその顔を眺め︱︱まったく目を覚ます様子がないので、
わたしは先に起きることにした。今目を覚ましたら、このままベッ
ドの上でいろいろからかってやろうと思っていたのに。
体を起こし︱︱下腹部に感じる軽い違和感。
︵昨日、いろいろされたものね⋮⋮︶
お腹に手を当て、昨夜のことを振り返る。と、少しむっときた。
﹁よくもひどいことをしてくれたわね﹂
指で藤間くんのおでこを弾く。⋮⋮彼はわずかに顔をしかめただ
けで、やはり目を覚ます様子はなかった。
行為がどういうものかわかっていたつもりだったけど、彼の指の
91
動きひとつ、キスのひとつで、あんなにも反応してしまうものだと
は思わなかった。おかげでずいぶんと乱れた姿を晒してしまったと
思う。
﹁でも︱︱﹂
彼ができるだけわたしを優しく扱おうとしてくれていたこともよ
くわかった。行為が佳境に入って、初めての痛みに耐えるわたしを
見て、藤間くんが心配そうにしていたのを覚えている。
﹁嬉しかったわ﹂
その優しさが、そして、こうして一緒の朝を迎えられたことが嬉
しい。
だから、わたしはそのお礼を込めて、眠る藤間くんの額にキスを
した。
それから彼を起こさないよう気をつけながらベッドを降りた。脇
に落ちていたバスタオルを拾って体に巻き、寝室を出る。
脱衣場で下着を身につけた。でも、シャツやスカートのほうはし
わだらけで、先にアイロンをあてないとみっともないことになりそ
うだった。さて、着るものに困ったぞ、と。
﹁どうしようかしら⋮⋮﹂
少し考え︱︱、
﹁⋮⋮エプロン?﹂
いったいどこで得た知識なのか、そんな発想が出てきてしまった。
︵確か、そういうのが喜ばれるのよね⋮⋮?︶
いずれ起きてくるであろう藤間くんをそんな恰好で迎える自分を
想像し︱︱ぼふん、と一気に顔が赤くなった。何か違う、とすぐに
否定する。その場合、下は裸だったはずだし、どこかで得たという
その知識ではそのままただ朝食を食べて終わりではなかったはずだ
し⋮⋮。
﹁そんな、あ、朝からなんて⋮⋮! じゃなくて、それ以前にエプ
ロンがないわ﹂
すぐに否定の仕方が根本的に違うことに気づく。尤も、これにし
92
たってエプロンがあればやるのかという話になってしまうのだけど。
とりあえず脱衣場を出る。さすがに下着姿でうろうろするのは抵
抗があり、起きてきた藤間くんとその姿で鉢合わせでもしたら目も
当てられないので、さり気なく体を隠すような感じでバスタオルは
手に持ったままにした。
リビングで室内を見回し︱︱藤間くんの私室のドアが目についた。
やはり彼のもの借りるのがいちばん早そうだ。大きめTシャツ一枚
あれば十分だろう。
﹁お邪魔するわね﹂
小声でひとこと言い、後ろめたさとともに部屋に這入った。
照明を点けて全体を見渡せば、勉強机に本棚、洋服ダンスなど、
部屋自体が広いこと以外はごく普通の男子高校生の部屋だった。と
は言っても、その普通の基準を、わたしは知らないのだけど。もし
かしたらアイドルのポスターの一枚もあるのが普通なのかもしれな
い。仮にこの部屋にグラビアアイドルやセクシィなハリウッド女優
のポスターがあったところでどうということはない。そんな触れら
れもしない女の子など、今のわたしの敵ではないのだから。
ただ、少し気になったのは、本好きの藤間くんにしては本棚が少
ないこと。でも、これについては後で、ほかにもうひと部屋、書斎
として使っている部屋があるとおしえられ、納得した。
藤間くんはこのマンションについて常々一介の高校生には過剰だ
と口にしている。それでも与えられたものを自分の生活を充実させ
るため最大限有効に利用する辺り、彼らしいと思った。
ふと部屋の壁にカッターシャツを吊るしたハンガーがかかってい
るのが目に入った。
﹁これを借りましょ﹂
さっそくハンガーから外し、袖を通す。
当然のように藤間くんのシャツはわたしには大きく、それが幸い
して裾は太もも辺りにまで届いていた。ボタンを留めて改めて自分
の姿を見てみれば、これはこれでまたあざとくて、男の子に喜ばれ
93
そうな格好だった。エプロンよりはマシだと思うけど。
藤間くんのシャツに身を包んでいると、何となく彼に抱きしめら
れているような感じがして、顔が熱くなった。
自然と昨夜のことが思い出される。
正直なところを言えば、思い描いていたのと違っていた。もっと
甘い会話があったり、ちょっと意地悪なことを耳もとで囁かれたり。
大人っぽい恰好で挑発して、それをひとつずつ脱いでいったり脱が
されたり。
︵そういうのをいつも想像してたのだけど⋮⋮︶
あけてみれば行為に夢中で、そんな余裕はなかった。名前を呼ぶ
こともなかった。それも初めてだから仕方がないのかもしれない。
兎にも角にも、服を着たことで動きやすくなった。
﹁次は、朝ごはんかしらね﹂
藤間くんの部屋を出て、キッチンに立ってつぶやく。
考えてみれば、昨日は夕食も食べずにベッドに入ったのだった。
それもわたしから誘って。藤間くんにはシャワーも浴びさせずに。
﹁⋮⋮﹂
そんな昨日の自分を振り返り、思わずよろめいた。
︵もしかしてわたし、ものすごく積極的な女の子だと思われてるん
じゃ⋮⋮?︶
ダイニングのテーブルに手をつき、考え込んでしまう。どこから
か、今ごろ気づいたのかという声が聞こえてきそうだった。
なんだか昨日のことに対する思いが、どんどん複雑になっていく
ような気がする。思い出せばずいぶんと乱れた自分が恥ずかしくて、
それ以外にももっと初めての女の子らしい振る舞いがあっただろう
にと反省したくもある。でも︱︱それでもやっぱり彼に抱かれたこ
とが嬉しくて、油断すると頬が緩んでしまう。このままでは起きて
きた藤間くんと顔を合わせた途端、挙動不審になってしまいそうだ
った。
これではダメだと気を取り直し、とにかく体を動かすことにする。
94
冷蔵庫の中を覗き、朝食に使えそうなものを確認。それをもとに
メニューを決めた。いちおうモーニングプレートの体裁は整いそう
だった。フライパンの具合を確かめるため、失敗しても自分で食べ
るつもりで試しにベーコンエッグをひとつ作ってみる。
そんな家でもやっていることをしていると、次第に気持ちが落ち
着いてきた。
不意に寝室の扉が開き、中から藤間くんが顔を出す。
ドアの音が聞こえた瞬間、驚いて飛び上がりそうになったけど、
どうにか堪えた。深呼吸ひとつ。そして、ゆっくりと振り返ると、
学校で会ったときのように普段通りの朝の挨拶を投げかける。
﹁あら、おはよう﹂
わたしは起きてきた彼を笑顔で迎えた。
95
第五話 その1
一週間ほど槙坂涼と会わない日が続いた。
母が盆休みとして3日ほど休みがとれたというので、僕はそれに
合わせて家に帰っていた。とは言え、我ら母子には実家や田舎に帰
るという行事がない。母は親類にその生き方を理解されていないた
め、交流は専ら電話や手紙のやり取りくらいで、もう何年も直接に
は会っていないのだそうだ。僕も母方の祖父や祖母の記憶はほとん
どない。そして、父方のほうは言わずもがな。愛人やその息子が敷
居を跨げるはずもない。
そんなわけで僕はその三日間を生家である3LDKのマンション
で過ごした。
考えてみれば、僕が高校進学後にひとり暮らしをすると言って与
えられたマンションも同レベル。つまるところ父は、愛人にマンシ
ョンを買い与えるのと同じ感覚で、僕にあんな過剰なものを用意し
たのだろうな。愛人を3人もつくったり、金銭感覚がおかしかった
りと、いろいろ飛び散っている人ではあるが、それでも僕の父親で
あり、おおいに感謝はしている。おかげで将来やりたいことに対し、
僕は自分の努力と実力以外の心配をしないですむのだから。
家にいる間、母とはいろんな話をし、買いものなどにもつき合っ
た。おそらく僕は、この年ごろの男子高校生にしては母親と仲がい
いほうだと思う。家には父親の影がなく、ずっと母子ふたりで生き
てきたような連帯感があるからだろう。それに母はあまり母親らし
くなく、どちらかと言えば友人に近かった。
﹁ハァーイ、放蕩息子﹂
﹁家に帰ってないだけで、居場所ははっきりしてるだろ﹂
今回も帰るなりこれだった。
尤も、母のそういう接し方に関しては、ほぼ母子家庭という環境
96
だからか、意図的にそうしてきたのだろうとこの年になって思うの
である。加えて、親が鬱陶しく感じはじめる今の時期にひとり暮ら
しをはじめて適度な距離をおいたのも、良好な関係を築く一因にな
っているのかもしれない。
母のわずかばかりの休みが明けると、出勤する母と一緒に家を出
て、僕は自分のマンションに戻ってきた。
その翌日になってカレンダを見てみれば、前回槙坂先輩と会った
日から一週間がたっていたのだった。間、家に戻っていたこともあ
って、当然僕から彼女に連絡はしなかったのだが、槙坂先輩から僕
に対しても特にこれといったコンタクトはなかった。
夏休みに入ってからこっち、なんだかんだで一週間と間を開けず
顔を合わせていたのだが、だからと言って今の状況が異常事態だと
は思わない。しかし、一度その事実を認識してしまうと妙に気にな
ってしまうのも事実だった。
昼食を食べた後、意を決して彼女に電話をしてみた。
﹁⋮⋮﹂
が、いっこうに出る様子はなかった。やがて留守番電話サービス
に切り替わると、特に用件らしい用件もなかったこともあり、何も
メッセージを残さず切った。
あちらは両親がともにそれなりに地位のある立場にいる以外は普
通の家庭のようだし、普通の家庭らしく田舎に帰っているのかもし
れない。案外、外国へ家族旅行に行っているなんて線もありそうだ。
結局、ひとつ行動を起こしたことで僕の気はすんでしまった。この
前あんなことになったばかりなので、あまりしつこく連絡をとろう
とするとあらぬ誤解を受けそうだ。この辺りで諦めておくか。
代わりに、こえだに電話をしてみる。
﹃はいはーい。どしたのー?﹄
こっちはすぐに出た。ややテンション高めの発音が僕の耳に飛び
込んでくる。その後ろからはかすかに喧噪。どうやら外にいるよう
だ。
97
﹁ああ、こえだか? 僕だ。いや、暇かなと思ってさ﹂
﹃あー、ごめん。今⋮⋮え? あっ﹄
何やらこえだの慌てる声が聞こえ、そのまま途切れた。
やがて一瞬の空白の後、
﹃ウソ。今のチャイです。ヤーズのフードコートにいるので、待っ
てまーす﹄
そして、電話は切れた。
﹁⋮⋮﹂
最後の声と話し方、明らかにこえだじゃなかったな。というか、
どうも以前に聞いたことがある気がする。誰だ? いや、まぁ、だ
いたい見当はついてしまったが。
彼女の言ったヤーズとは、正式名称をサクラ・ヤーズといい、僕
のこのマンションから駅をはさんで反対側にある大型ショッピング
センターのことだ。⋮⋮あいつら、あの辺をホームグラウンドにし
て遊び回っているのか。
まぁ、丁度いいと言えば丁度いい話ではある。場所も因縁めいて
いるし、せっかくなので会いにいってみるとしようか。
さっそく身支度を整え、家を出た。
相変わらず今夏の陽射しが猛威を振るっているが、着くまでの辛
抱と足を踏み出す。
まずは駅へ行き、2階改札前のコンコースを通り、駅からの人の
流れに乗ってヤーズ直結の連絡通路へと抜ける。2階の出入り口か
ら入って1階へ降りれば、その一角にフードコートはあった。夏休
みとは言え今日は平日なので、休日のような家族連れよりは子ども
をつれた親子連れが目立つ。中には私服の中高生もいた。
とりあえずこえだの顔を探していると、
﹁せーんぱいっ﹂
いきなり腕をからめ取られ、引っ張られた。がくんと肩が落ちる。
そちらを見ればツインテールの髪に、くりっとした大きな瞳の少
98
女。皆が皆、口をそろえてかわいいと評するであろう女の子が、僕
の腕に自分の腕をからめるようにしながらこちらを覗き込んでいた。
﹁やあ、加々宮さん﹂
やはりいたか。
加々宮きらりだった。愛称、きらりん。無論、僕は呼んだことは
ないが。
﹁驚きました? わたしがいて﹂
﹁何を驚くことがある。電話に出ておいて﹂
﹁声だけでわたしだってわかったんですね。嬉しいですっ﹂
加々宮さんは胸の前で掌を打ち鳴らし、喜びを表現した。
﹁それは何よりだ﹂
僕はテキトーな調子で言い、
﹁で、こえだは?﹂
﹁あっちの席にいますよ﹂
ほら、と視線で示した方向には、テーブルのひとつに座るこえだ
がいた。何やら携帯電話を睨み、操作している。が、不意に、ぴく
り、と何かに気づき、顔を上げてきょろきょろと辺りに目をやりは
じめた。そして、僕を見つける。鋭く危険を察知した小動物のよう
な挙動だな。こえだは両手を上げて、全力でアピールしてくる。
﹁わかった。僕も何か飲みものを買ってからいくよ﹂
﹁はーい﹂
一旦加々宮さんと別れ、僕は近くのソフトクリーム屋でSサイズ
のジュースを買ってから席へと向かった。
﹁ほやほやー、真だー。いきなり電話なんかしてきて、どしたの?﹂
﹁ああ、ちょっと暇だったからさ⋮⋮って、さっきも言ったか﹂
僕は空いているイスに座りながら答えた。丸いテーブルには僕と
こえだと加々宮さんとで三角形を描くかたちになる。こえだはもう
携帯電話をしまっていた。
ここにきたのは暇だったからというのも当然あるのだが、加々宮
さんの声を聞いたのもきっかけとして大きい。尤も、くるまでもな
99
かったような気もするが。
﹁先輩、思ったより早くきましたね。もしかして家、近いんですか
?﹂
加々宮さんが身を乗り出し、訊いてきた。
﹁実はすぐそこなんだ﹂
﹁どこですか!?﹂
さらに身を乗り出してくる。
﹁それは内緒﹂
おしえたら絶対に襲撃してくるだろ。不意打ちで強襲してくる人
間なんざひとりで十分だ。
﹁何が暇だよぉ。この前は三人でプール行ったくせにー﹂
ふと見ると、こえだが口をへの字に曲げてやさぐれていた。
先日、バシャーンに行った際に仲間外れにされたことをまだ根に
もっているようだ。あの日、夜には連絡がついて、そのときにさん
ざん文句を言われたのだが。恨みはまだ晴れていないのか、はたま
た再燃か。
﹁仕方ないだろ。あの瞬発力の塊みたいな美沙希先輩が急に行くっ
て言い出したんだから。お前と連絡が取れるか、ほぼ一発勝負だっ
たんだよ﹂
さすがに電話に出なかったお前が悪いとまで言うつもりはないが。
こえだは拗ねたまま、まだ残っているらしいジュースをストロー
で吸い上げた。そんな彼女を見ながら僕は切り出す。
﹁じゃあ、今度、日にちを決めて行くか?﹂
﹁え? し、真と?﹂
こえだは目を丸くして驚いてから、かすかに頬を赤くしながら戸
惑った様子を見せた。流れからして、今度は自分もつれていけって
話じゃなかったのかよ。
﹁あと、美沙希先輩も﹂
改めてこえだの都合に合わせて日を設定し、つれていくことはや
ぶさかではない。どうせ埋め合わせをしないとと思っていたし。入
100
場料と、向こうでの飲み喰いくらいは奢ってやるか。勝手に美沙希
先輩がそこに乗っかってきそうで怖いが。
﹁涼さんは?﹂
﹁あの人には今回はパスしてもらおう﹂
僕はきっぱりと言い切った。
﹁え? なんで? 真のことだから、どうせ涼さんの水着姿見て鼻
の下伸ばしてたんでしょ。もう一度見たいんじゃないの?﹂
﹁お前ね、それは見てないから言えるんだ。実物見てみろ、破壊力
ありすぎるから﹂
何だあのグラビアアイドルも裸足で逃げ出すスタイル。あんなの
を惜しげもなく堂々と晒されたら、逆にこっちが気後れしてまとも
に見れなくなる。もしかしたら今ならそれくらいでは動じないのか
もしれないが、反対に意識しすぎる可能性もある。はっきり言って、
何が起こるか予想もつかない。
﹁あ、あれ? あたしは!? あたしの破壊力は!?﹂
突然、はっと何かに気づき、こえだは猛烈に問い詰めてくる。
﹁すまない。まことに遺憾ながら、こえだはいたって目に優しいほ
うだ。なにせ凹凸が緩やかだからな﹂
﹁し、しつれーな!﹂
こえだ撃沈。
﹁はいっ。はいはい、先輩。そのときはぜひわたしも一緒に行きた
いです!﹂
﹁は? 加々宮さんも?﹂
また何か企んでいるのか、これを好機と見た加々宮さんがいきな
り参加に名乗りを上げた。
僕はぎょっとして彼女を見た。加々宮さんは再び身を乗り出して、
僕とこえだを結ぶラインに顔を突っ込んできている。⋮⋮いや、ち
ょっと待て︱︱と、僕はその不敵な笑みを浮かべる顔から、清潔感
のある白いキャミソールに包まれた体へと視線を移す。
﹁⋮⋮﹂
101
あ、これはこえだと同じ系統だ。たぶん殺傷力皆無。
﹁わかった。そのときは声をかけるよ﹂
﹁素直にオッケーされた。なんか複雑な気分⋮⋮﹂
続けて加々宮さんも轟沈。落胆して項垂れるように着席した。
やけに自信たっぷりに言うから、その容姿通りに、あるいは容姿
に似合わず、スタイルも自慢なのかと思えば⋮⋮。よくそれで己を
武器にしようと思ったな。意外と身の程知らずな娘だ。まぁ、対抗
心を燃やしている相手が相手だからな、身の程知らずは今さらか。
こえだよりは将来有望そうだが。
閑話休題。僕はこえだに向き直る。
﹁そんなに槙坂先輩も誘いたいなら僕が話をつけてやろうか? そ
の場合、僕は行かないが﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
腕を組んで考え込むこえだ。ま、ゆっくり考えればいいさ。
とは言え、本当に加々宮さんがくるのなら、そんな内輪のメンバ
ーに彼女を放り込むわけにもいかないし、最悪、僕がこのふたりを
つれていくことになりそうだな。
﹁⋮⋮﹂
何か言い訳を考えておいたほうがいいだろうか。
102
第五話 その2
﹁さて、こえだ。ここでお前に指令だ﹂
僕は頃合いを見計らい、切り出した。
﹁少し腹が減ったので、何か僕にオススメを買ってきてくれないか
?﹂
﹁え? あたし?﹂
自分の鼻を指さすこえだ。
﹁お前がここで気に入ってるものでいいよ。ついでに自分のと、加
々宮さんのも買ってきていいから﹂
僕は財布から千円札を出し、こえだに渡す。
﹁いいの?﹂
﹁いいよ。でも、ちゃんと僕の分も買ってこいよ﹂
所詮ショッピングセンターのフードコート。こえだの選択肢にな
りそうなのは、アイスクリームにソフトクリーム、クレープといっ
たところか。ハンバーガーもあるにはあるが、基本こえだは小動物
だから食事でもない間食にこれはないだろう。
そうしてこえだは旅立ち、僕と加々宮さんが残った。
さて、この加々宮さん。色素薄めの髪をツインテールにし、大き
な目がくりっとしていて、とてもかわいらしい。しかも、自分がか
わいいことを自覚している。目下のところ、ライバルは槙坂涼。で
あるからして、自分のほうが上だと証明するため、彼女から僕を奪
取しようと目論んでいる。のっけから僕にベタベタしてくるのはそ
のためで、そこに好意は皆無だと思われる。
﹁加々宮さん、ひとつ聞いていいかな?﹂
先に口を開いたのは僕。
﹁君とこえだは友達だと思っていいのかな?﹂
﹁え? いきなり何ですか、それ。当たり前じゃないですか。まぁ、
103
そうなったのは夏休みに入る少し前で、きっかけもたまたまだった
んですけど﹂
加々宮さんはさも当然のように、且つ、不思議そうに目を丸くし
た。
﹁変なことを聞くんですね﹂
﹁ああ、悪かった。いや、うん、それならいいんだ﹂
電話でこえだと加々宮さんが一緒にいると知ったときから、たぶ
んそうなのだろうとは思っていたのだが⋮⋮やはりくる必要はなか
ったようだ。思わず苦笑がもれる。
加々宮さんはあざとくはあるが、基本的にはそこまで悪い子では
ないのだろうな。
﹁先輩こそ、サエちゃんとはどういう関係なんですか?﹂
今度は加々宮さんが聞き返してきた。
僕は彼女の言葉に、おやと思った。確か夏休みに入った辺りでは、
まだこえだのことを﹁三枝さん﹂と呼んでいたはずだ。そんな変化
が僕にはちょっと嬉しかった。
ただの
ですかぁ? なーんか怪しー﹂
﹁僕とこえだ? 別に、ただの先輩後輩だよ﹂
﹁えぇー、本当に
好奇心まじりの疑いの目が僕に向けられる。
﹁そうだな。僕はこえだをとても気に入ってるよ。かわいいやつだ
しね﹂
これでも二年になってから携わった学校行事のからみで何人かの
新入生と顔見知りになったが、やはりこえだは少し別格だ。最初に
知り合った後輩というのもあるし、リアクションが愉快なのもある。
細かいところでは、名前が気に入っていたりもする。美沙希先輩に
紹介しようと思う後輩なんて、まだしばらくは現れないだろうな。
﹁わたしは? わたし、かわいいですか?﹂
またも加々宮さんが身を乗り出してくる。
かわいい
は容姿的な意
どうやら誰かがかわいいと評されると、反射的にわたしはわたし
はになるらしい。こえだを対して言った
104
味ではないのだが、わかっていても彼女には関係ないのだろうな。
﹁そりゃあ勿論、かわいいと思うさ。誰が見ても明らかだろう﹂
﹁ですよねー﹂
加々宮さんは満足げに、うんうん、とうなずく
﹁じゃあ、槙坂さんは?﹂
﹁彼女については君と一緒で、世間がもう太鼓判を押してる。僕に
聞くまでもないよ﹂
尤も、かわいいとはまた別系統のような気もするが。
﹁ふうん⋮⋮﹂
しかし、彼女はこちらを観察するような、妙に冷ややかな反応を
示した。やはり僕の回答が不満だったか。将来有望そうだから二年
たてば互角に張り合えるくらいにはなるとフォローしておくべきだ
ろうか。
と、そこにこえだが戻ってきた。
﹁真、買ってきたよ﹂
器用に右手でふたつ、左手にひとつ、両手で合わせてみっつ持っ
ているのは、どうやらクレープらしい。
﹁お、クレープか﹂
﹁うん。⋮⋮はい、真にはカスタードチョコクランチ﹂
そう言ってこえだは左手のひとつだけ持っていたほうを差し出し
てくる。
﹁これがこえだのオススメか?﹂
﹁うん。まぁ、ここじゃこれがいちばん美味しいかな?﹂
少し歯切れの悪い感じの答えだった。
﹁ほら。別のところに行けばもっと美味しいお店があるからさ﹂
﹁あー、あるある。あるよねー﹂
そこに同調するのは加々宮さん。指を折りながらクレープ専門店
の名前をいくつか挙げていく。さすが女の子、よく知っているもの
だ。
﹁で、1000円で足りたか、これ?﹂
105
こえだと加々宮さんのクレープが僕のと同じものかどうかはわか
らないが、ひとつあたり333円で収まるだろうか。クレープの平
均価格からしてそんなものじゃすまないような気がする。
﹁あー、実はちょっとオーバったけど⋮⋮いい。それくらいあたし
も出すし﹂
﹁そうか﹂
こえだがそう言うなら、ここは僕が引いておこう。ふたりに奢る
のは別にかまわないのだが、押しつけるものでもないだろうし。
﹁うん、確かになかなか旨いな﹂
さすがこえだのオススメ︵ただし、ここ限定︶だけある。僕はひ
と口食べてから感想をもらした。
﹁ところで、こえだ。ここ数日で槙坂先輩と連絡とってたりするか
?﹂
﹁え、涼さん? 涼さんだったら︱︱あ⋮⋮﹂
不意にこえだは何か気づいたように声を上げ、僕の頭上を見た。
ついでに加々宮さんの視線も同じところに向けられている。
⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮。
なるほど。
﹁いや、もういい。だいたいわかったから。⋮⋮しかし、これ、本
当に旨いな﹂
僕は再びクレープを口に運ぶ。確かに美味しいのだが、ただ、カ
スタードクリームとチョコのコンボは甘さが半端じゃなくて、飲み
ものなしでは少々辛いな。コーヒーと組み合わせるのがベストか。
﹁あら、藤間くんはこちらを見ないの?﹂
﹁見ても状況が変わるわけでもないしね。⋮⋮座れば?﹂
僕は頭の上から降ってきた涼やかな声に答え、手でイスを勧めた。
やがて僕の視界に彼女が姿を現し、四つあったイスの最後の一脚に
腰を下ろした。
106
一週間ぶりの槙坂涼だった。
﹁このカスタードチョコクランチがなかなかいけるんだ。よかった
ら槙坂先輩の分も買ってこようか?﹂
﹁けっこうよ。すぐにお暇するもの﹂
﹁そうなのか。それは実に残念だ﹂
﹁⋮⋮藤間くんもよ﹂
﹁⋮⋮﹂
そんな予定はなかったと思ったのだがな。
槙坂先輩はこえだに向き直った。
﹁ごめんなさい、サエちゃん。急にお邪魔して﹂
﹁ううん。涼さんなら大歓迎﹂
こえだは首を横に振りつつ、イスの位置を微調整する。つられて
加々宮さんも。今までイスを一脚遊ばせたまま三人で三角形を描い
ていたのが、今度は四角形、あるいは、十字のフォーメーションに
なる。人が何人か集まれば等間隔に位置をとりたがるのがよくわか
る事例だ。
﹁あら、加々宮さん。あなたもいたのね﹂
最後に槙坂先輩は加々宮さんを見て言った。たった今気づいたみ
たいに言ってやるな。
﹁え、ええ。いましたよ﹂
油断していたらしい加々宮さんははっとし、つんと澄まして言い
返してみせる。が、槙坂先輩の時間差の不意打ちを受けて、慌てて
取り繕った感が否めない。早々に劣勢だ。
﹁さっきまでずっと藤間先輩と楽しくおしゃべりしてましたよ﹂
﹁そう。それはよかったわ﹂
微笑む槙坂先輩。
﹁ところで、知ってる? 藤間くんの部屋ってダブルベッドなのよ
? まぁ、ちょっと寝相が悪いから、ちょうどいいわね﹂
﹁べ、ベッ⋮⋮!?﹂
加々宮さんが言葉を詰まらせる。
107
おい、ちょっと待て。何を言い出す。僕はそこまで寝相は悪くな
い。しかし、僕が口をはさむ前に槙坂先輩がさらなる追撃をかける。
﹁あと、お風呂も広いのよ。ふたり一緒でも余裕で入れるわね﹂
﹁⋮⋮﹂
顔を真っ赤にして黙り込む加々宮さん。
どうも彼女は、口では自分のほうがいい女だと証明するだなどと
勇ましいことを言っているが、この方面はからっきしらしい。その
くせ知識はあるから、よけいな想像をはたらかせてしまうわけだ。
風呂の話なんて、結局のところただ広いという事実しか言っていな
いのだがな。
﹁口ほどにもないわね﹂
ショートした加々宮さんを見て、槙坂先輩はそうばっさり斬り捨
てる。遠慮ないな。
一方、わかってないのがひとり。
﹁ダブルベッドかぁ。いいなぁ。あたしなんて時々ベッドから落ち
るから﹂
こえだだ。
僕が卒業するまででいいから、お前は純粋無垢なままでいてくれ。
あと、怪我するなよ。
僕がこえだを見て癒されていると、内蔵している冷却装置でも作
動したのか、加々宮さんが我に返った。それからしばし考え︱︱、
﹁先輩、ちょっと﹂
と、僕の腕をつかみ、立ち上がらせた。
つれていかれたのは少し離れた席。近づかれるのを警戒してか、
加々宮さんは槙坂涼の姿を視界に入れつつ、僕に顔を寄せて聞いて
くる。
﹁先輩と槙坂さんって、今どれくらいの関係なんですか?﹂
﹁は?﹂
いきなり核を狙い撃ちしてきた。
﹁⋮⋮想像に任せるよ﹂
108
そんなもの具体的に言えるはずがない。
﹁何となく、この前のあれは、後から考えるとはったりだったんだ
ろうなって思うんですよね。でも、槙坂さんのさっきの言葉って、
もしかして本当だったりしません?﹂
﹁⋮⋮﹂
当然のことながら、ダブルベッドだ風呂が広いだの話ではないの
だろうな。彼女が言いたいのは、槙坂先輩がその言葉の裏に匂わせ
ているもののことだ。
この子はどうやら女としての勘ははたらくらしい。
遠目から槙坂先輩の様子を窺えば、彼女もこちらを見ていて、僕
の目には何やら怒っているふうに映った。何となくだが、こうして
加々宮さんと内緒話をしているからではないように思う。これは僕
の勘だ。
﹁ノーコメント﹂
返事としては下の下だな。
それから三十分ほどがたったころ、
僕と槙坂先輩はショッピングセンターの中を歩いていた。
サクラ・ヤーズは、ここから電車で駅をふたつ、みっついった高
級住宅地も商圏に含むので、老舗の百貨店に出店しているような店
まで店舗として入っている。従来のショッピングセンターに比べる
と専門店の価格帯は高めだ。
今、僕たちは特に目的もなくぶらぶら歩いていて、いつの間にか
ファッションのエリアに入り込んだのだが、ショーウィンドウのマ
ネキンはどれも高級感あふれる服を身にまとっている。僕など場違
いも甚だしい。一方、違和感がないのが隣の槙坂先輩で、オトナ美
人の彼女がショーウィンドウの前で足を止めようものなら、店員が
嬉々として飛んできそうだ。
﹁もう少し熱心にアプローチしてくれてもよかったんじゃない? 一回で諦めるなんて﹂
109
歩きながら槙坂先輩は、少し不貞腐れたようにそう訴えてくる。
どうやら今日僕が彼女に連絡をとろうとして、電話一本で早々に
諦めたことを言っているらしい。もしかしてそれで怒っていたのか
? だとしたらお門違いというものだろう。連絡をしなかったのは
そっちも同じなのだからお互い様だ。
﹁って、ん? まさか僕からの電話に気づいていたのか?﹂
﹁ええ。この耳で聞いていたわ﹂
僕はその言葉にがっくりと肩を落としそうになった。
だったら出ろよ。
﹁その一回に出てくれたら、こんな面倒なことにはならなかったん
だがな﹂
僕は多少の嫌味を込めて言い返した。
だが、槙坂先輩はそんなもの気にしたふうもなく続ける。
﹁わたしが藤間くんに会いたいと思っていたところに、ちょうどあ
なたから電話があったのよ。だから、もしかしたら藤間くんもわた
しに会いたいと思ってくれてるんじゃないかって思ったの﹂
勝手に決めないでくれ。僕が電話したのはそんなんじゃない。じ
ゃあ何なんだと聞かれたら困るが。
﹁それでちょっと焦らしてみようと思ってわざと電話に出なかった
のだけど、まさかそれっきりだとは思わなかったわ。おかげでよけ
いに会いたくなるし、わたしはその程度なのかと不安になるし、大
変だったんだから﹂
見事な自爆である。
僕に文句を言われてもな。
﹁それでサエちゃんに連絡をとってみたの﹂
なるほど。ここに現れたのはそういう経緯か。
なんかどっと疲れが出てきた。
﹁だったら、諦めて素直に僕に電話するなり何なりすればすむこと
だろうが﹂
﹁それはそうなんだけど⋮⋮﹂
110
しかし、槙坂先輩は言いにくそうに言葉を彷徨わせた。
﹁この前ああいうことをしたばかりだから、わたしから会いたいっ
て言い出したら、いやらしい女の子だと思われそうで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
その気持ちはおおいに理解できた。僕がしつこく連絡をとろうと
しなかったのも、よけいな誤解を招きたくなかったからだ。
﹁⋮⋮別にそんなことは思わないよ﹂
僕は後々の自分のためにもフォローする。
﹁そ、そう?﹂
﹁ああ。だから、僕から連絡したときも、できればそう思わないで
くれるとたすかるんだがな﹂
言葉はどうにもぶっきらぼうにならざるを得なかった。
﹁わ、わかったわ⋮⋮﹂
槙坂先輩が俯きかげんのまま、わずかにうなずいた。
これでどうにか一件落着、だろうか。
しかし、どことなく微妙な空気は依然として残っていて、おかげ
で﹁これからどうする?﹂のひと言がなかなか言い出せず、結局、
そうするまでにぐるぐると同じところを3周も回ってしまった。
そして、彼女の返事。
﹁ど、どこでもいいわ。藤間くんの行きたいところで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
よりにもよってそれか。
これで迂闊なことは言えなくなった。そんな恥ずかしそうに言わ
れたらこっちまで変に意識してしまって、どれが無難な答えなのか
わからなくなってくる。
果たして次の言葉を発するのに、今度は何周すればいいだろうか。
111
キラキラ☆シューティング・スター
それは8月に入ったばかりのある日のこと。
加々宮きらりは、少しばかり用があって学校へと足を運んだ。
行ったのは午後。幸いにして、朝から降っていた雨は午前中には
やみ、しばらくは晴れが続くとのことで、傘を持って出る必要はな
かった。だが、雨がやむと同時に太陽が照りはじめ、目下のところ
湿度は爆上がり中だった。
きらりの用はすぐにすんだのだが、そのせいで往路での汗がひく
間もなく取って返したかたちとなってしまった。駅から明慧学院大
学附属高校までは片道10分、往復で20分。学校へ行って駅まで
戻ってきたころには、きらりはすっかり消耗しきっていた。体もか
なり傾いている。
その駅で見知った顔に出くわした。
槙坂涼だった。
彼女はこの灼熱の太陽の下、暑さなど感じていないかのように涼
しい顔をしていた。冷房の効いた電車から降りてきたばかりだから
だろうか。いや、彼女はどこまでいってもこの顔のままのような気
がする。
槙坂はきらりを見つけると、にっこりと笑った。
だが、きらりはぷいとそっぽを向き、無視を決め込む。そして、
そのまますれ違おうとしたそのとき、がっし、と腕をつかまれた。
﹁わたしを無視とはいい度胸ね。少しお話しましょうか﹂
﹁え? ええぇ!?﹂
数分後、ふたりは駅前の喫茶店にいた。
﹁どうしてわたしが槙坂さんと一緒にお茶をしなくちゃいけないん
ですかね?﹂
112
出てきたお冷を一気に半分ほど飲み、人心地ついた、というより
は生き返ったきらりが、向かいの槙坂に文句を言う。
女同士の話し合い
でコテンパンにされたのがき
﹁あら、いいじゃない。たまには女同士、ゆっくり話をしましょう
?﹂
﹁⋮⋮﹂
初戦からその
らりである。そのトラウマを刺激され、気分は最悪。嫌な予感しか
しなかった。
﹁さて、何を飲む? わたしが奢るわ﹂
槙坂はラミネートされた小さな紙をテーブルに置きながら尋ねて
くる。所詮は小さな喫茶店なので、飲みものだけならメニューはこ
の紙の両面におさまるのだ。
﹁アイスコーヒーでいいですよ﹂
しかし、きらりはそのメニューを見ずに決めてしまう。
﹁あら、それでいいの? メロンソーダやクリームソーダもあるわ
よ?﹂
﹁そんな、子どもじゃあるまいし⋮⋮﹂
自分の扱いに口を尖らせるきらり。
﹁そう? じゃあ、わたしは⋮⋮そうね、今日は女の子同士だし、
レモンスカッシュにしようかしら﹂
﹁え?﹂
きらりの小さな発音。槙坂涼のイメージからしててっきりアイス
コーヒーだと思い、自分も子どもっぽいところは見せられないとソ
フトドリンクは避けたのだが。予想外だった。
﹁すみませーん﹂
そんな彼女に気づいた様子もなく、槙坂は軽く手を上げ、店員を
呼ぶ。
﹁レモンスカッシュと︱︱﹂
﹁や、やっぱりメロンソーダ、で⋮⋮﹂
槙坂は一度だけきらりを見たが、特には何も思わなかったようだ。
113
﹁じゃあ、それをひとつずつ﹂
﹁かしこまりました﹂
オーダーを受け、店員が戻っていく。
ソフトドリンクがふたつなので、きらりがよくわからない恥ずか
しさに黙り込んでいるうちに、すぐに注文したものが運ばれてきた。
﹁毎日暑いわね。ちゃんと水分はとらないとダメよ?﹂
﹁言われなくてもわかってますよ、もう。大きなお世話です﹂
ストローの袋を破りつつ聞いてくる槙坂と、とっくに飲みはじめ
ているきらり。
きらりは冷たくて甘いメロンソーダを飲んだことでさらなる復活
を果たし、舌も調子よく回りはじめていた。
﹁そう? ならいいけど﹂
槙坂は苦笑をひとつ。そうしてからレモンスカッシュに口をつけ
る。そんな絵になる仕草に、やっぱりこの人って、ものすごい美人
︱︱そうきらりが改めて思っていると、槙坂はまたくすくすと笑い
出した。
﹁⋮⋮何ですか?﹂
﹁ああ、ごめんなさい。ちょっとした思い出し笑い﹂
てっきり自分が笑わらわれたのだと思いむっとしたが、そうでは
なかったらしい。
﹁この前、暑いから藤間くんとプールに行ったの﹂
﹁⋮⋮﹂
藤間真。
その名前を聞いて、きらりは複雑な気持ちになった。
学校では、藤間と槙坂はつき合っているのだと専らの噂で、きら
りは自分が槙坂よりも女として上だと証明するために、藤間を槙坂
から自分へと乗り換えさせようと画策していた。それだけのことな
ので、藤間のことは特に好きでも何でもない。だが、その藤間は話
せば話すほど不思議な人物だった。きらりの目的を知っても怒りも
せず、飄々としている。相変わらず槙坂から乗り換える素振りだけ
114
はないのだが。
明慧に入学して二ヶ月も三ヶ月もたってから知り合った三枝小枝
とは、自分がすっかり困り果てているときに助けてもらったのが縁
だったのだが、何となく彼女は藤間の影響を受けているのではない
かと思っていた。先日などはそんな柄でもないだろうに、球技大会
に実行委員に名乗り出て、小さな体で走り回っていた。聞けば、去
年は藤間も同じ行事で実行委員をやっていたのだとか。
藤間とは妙な思惑など抜きにして、普通に先輩後輩としてつき合
えていたら、楽で楽しかっただろうなと思わなくもなかった。
﹁そのとき、わたしは白のビキニを着ていたのだけど︱︱﹂
﹁⋮⋮﹂
瞬間、きらりは﹁うわ﹂と思った。想像したらものすごい火力だ
ったからだ。同じ女だからひと目見てすぐにわかったし、夏服にな
ってさらに目立つようになったが、槙坂はとてもスタイルがいい。
その槙坂がそんな水着を着たら⋮⋮。
﹁そうしたら藤間くんはそれがすごく気になったみたいで、ちらち
らとこちらを見るの﹂
﹁⋮⋮藤間先輩、いやらしい⋮⋮﹂
これだから男は、と思う。藤間もそのへんの男と同類かと、ちょ
っと幻滅した。
﹁そう? かわいいじゃない。本当はよく見たいのに、恥ずかしが
ってるのよ?﹂
しかし、槙坂はしれっとそんなこと言うのだった。
﹁で、でも、ですね︱︱﹂
﹁藤間くんにも同じことを言ったけど︱︱プールに行って水着にな
ってるのよ? それを見るなと言うほうが勝手な話じゃないかしら
? まぁ、好きな男の子が見てくれないのは不満だけど、恥ずかし
がってるのだと思えば、それもかわいく思うわ﹂
﹁⋮⋮﹂
大人だときらりは思った。余裕のある態度が素敵で、自分もこん
115
な振る舞いができたら、と素直に思ってしまう。
﹁そうそう。ウォータースライダーを滑ったときにブラが外れてね﹂
﹁た、大変じゃないですか!?﹂
語られる一大事に、きらりの声が思わず大きくなる。
﹁大丈夫よ。すぐに藤間くんに抱きついたもの﹂
﹁⋮⋮﹂
えっと、それは何もつけないままその豊かな胸を押しつけたとい
うことだろうか? 想像したらあまりにもエロティックなシチュエ
ーションで顔が赤くなってしまう。
﹁﹃せっかくだからこっそり見る?﹄って聞いたときの藤間くんの
顔、すごくかわいかったわ﹂
み、見る!? 何を? いや、そんなの決まってる。
﹁そ、そそ、それで藤間先輩は何て⋮⋮?﹂
﹁それはもう、藤間くんだって男の子だもの、ただ見るだけじゃ⋮
⋮ねぇ?﹂
槙坂は意味深長に笑うだけ。
﹁周りにバレないかドキドキしたけど⋮⋮ああいうのもいいわね﹂
﹁⋮⋮﹂
何だろうか、そのただ見た見せただけじゃなさそうな言い方は。
さっきは大人の女性だと思ったが、この人はもっといらやしい名状
しがたい何かのような気がしてきた。
﹁あ、そうそう。その後には一緒にお風呂にも入ったわよ﹂
﹁お、おふっ!?﹂
ムリだ。この人には勝てない。少なくとも同じ方向性で戦ってい
る間は、絶対に勝ち目はない。
一緒にお風呂という刺激的なワードに、きらりが頭をぐるぐるさ
せていると︱︱おもむろに槙坂がお冷の入ったコップを手に取り、
こちらに近づけてきた。きらりは意図がわからず、その様子をぼん
やり眺めていると︱︱、
﹁わひゃおぅ﹂
116
そのコップを頬に押し当てられ、その冷たさに思わず悲鳴がもれ
た。
﹁な、何をするんですか!?﹂
﹁ごめんなさい。何だか顔が熱そうだったから﹂
槙坂はころころと笑う。
﹁そりゃ熱いですよ⋮⋮﹂
いったい誰のせいだと思っているのだろうか。
きらりはメロンソーダのグラスを両手で包み込むようにして持ち、
手が十分に冷たくなったところで、その掌を火照った頬に当てた。
冷たくて気持ちがいい。
﹁あら? 本気にしたの?﹂
﹁う、嘘だったんですか!?﹂
﹁そうね。本当半分、嘘じゃないのが半分、と言ったところかしら
ね?﹂
﹁⋮⋮﹂
微妙な言い回しだ。
つまり大部分が本当ということだろうか。
普段は大人っぽくて清楚な美人なのに、やることエロいとか、ど
んなチートだ。勝てるか、こんなの。︱︱内心で毒づくきらりだっ
た。
その日の夜、自室で勉強中だった藤間真の携帯電話に着信があっ
た。サブディスプレイに表示されたのは初めて目にする番号。本来
なら未登録の番号から着信は、少なくとも一回は無視するのだが、
今回はどういうわけは通話に応じてしまった。
﹁もしもし?﹂
﹃藤間先輩! 先輩はあんな、い、いやらしい女がいいんですか!
?﹄
相手は名も名乗らずいきなり用件らしきことを叫んできたが、藤
間には誰だかわかってしまった。一旦端末を耳から離し、そういえ
117
ば案外先輩と呼ばれることが少ないな、と今さらながらに思う。
﹁いったい何のことだ? 詳しく説明しろ﹂
﹃く、詳しくって、そんなの言えるわけないじゃないですか!? ばかぁ!﹄
そうして電話は切られた。
藤間はわけがわからないまま、ただ二回ほど耳を痛めつけられた
だけだった。
118
第六話
イギリス旅行から無事に帰ってきた。
向こうに滞在していたのは四日ほど。帰ってきたら日本は盆すぎ
で、二期制を採用している明慧学院大学附属高校の夏休みは、もう
終わりが間近だった。
︱︱今は午前中。
テレビから流れるワイドショーでは、歌姫などと称されるポップ
シンガーが突然の休業宣言を出したとのことで、それがまるで一大
事であるかのように報じていた。それを右の耳から左の耳に聞き流
しながら、僕は読書に勤しむ。
と、不意にチャイムが鳴った。
エントランスではなく、玄関のほう。ここは高級高層マンション。
セキュリティは厳重だ。暗証番号がなければ入ることはできないし、
知らなければ住人に開けてもらうしかない。⋮⋮エントランスを通
ってこの部屋の前まできたということは、母だろうか。
﹁はい﹂
インターフォンに出る。
﹃わたしです。槙坂です﹄
﹁⋮⋮﹂
ああ、そうだった。この人も知っていたな。先日暗証番号を看破
されてしまい、そのときに変えておこうと思ったのだが、すっかり
忘れていた。
そう言えば︱︱、
﹃そう言えば、前もこんなことがあったわね﹄
﹁!?﹂
僕が考えていたことと、槙坂先輩の言葉が重なる。
﹃あのときは、その後に何があったのだったかしらね?﹄
119
﹁⋮⋮﹂
何だっただろうな。彼女を部屋に上げたくなくて慌てて図書館に
行ったわりには、そのまま一緒に帰ってきてしまったような気がす
る。
﹃そろそろ開けてくれる? 外よりマシとは言え、ここも暑いわ。
倒れそう。そのときはしっかり看病してもらうわよ﹄
﹁もちろん、救急車を呼ぶくらいはするさ﹂
それで救護義務は果たしたことになるはずだ。
僕はインターフォンを置くと、まずは今日はまだつけずにいた空
調のスイッチを入れた。それから玄関へと向かう。
ドアを開けると、そこには間違いなく槙坂涼が立っていた。
白のシフォン地のティアードミニに、肩の大きく開いた黒のカッ
トソー。下にはタンクトップか何かを着ているのか、ボーダー柄の
肩紐部分が見えていた。そして、その肩からは︱︱。
﹁ひとつ聞いていいだろうか? その肩から提げている旅行にでも
行きそうな鞄は何なんだ?﹂
旅行に行く前にここに立ち寄って餞別をたかりにきたとかなら、
僕は喜んで差し出すのだがな。奮発してもいい。
﹁旅行というよりは外泊ね﹂
﹁⋮⋮どこに?﹂
﹁あら、言わないとわからない? 藤間くんにしては察しが悪いわ
ね。夏休みボケかしら?﹂
察しが悪いというよりは、察したくないというのが正確なところ
だ。
主婦の立ち話じゃあるまいし、玄関でこうしていても仕方がない。
目的がわかった今から追い返そうとしても、まず帰らないだろうし
な。
僕は無言で来客用のスリッパを床に置くと、踵を返した。歩き出
すと後ろから律儀に﹁お邪魔します﹂の声の後、軽やかな足音が追
いかけてくる。
120
﹁エアコン、今いれたばかりなんだ。もう少し我慢してくれ﹂
リビングに這入ると槙坂先輩は、テーブルの一人用のソファのと
ころに読みかけの文庫本が伏せられているのを見て取り、ふたり掛
けのほうに腰を下ろした。
﹁で、何でいきなりきたんだ?﹂
僕は座らず、キッチンへ行って冷たいお茶を用意する。
﹁そうね。夏休みももう終わりだし、思い出作りってところかしら
?﹂
彼女のその返答に、僕は一瞬ぎょっとした。
続く言葉に思わず身構えるが、実際には文章の上ではとても穏や
かなものだった。
﹁わたし、この部屋が気に入ってるの。だから、ここでゆっくり過
ごしてみたいと思って﹂
﹁なるほど﹂
僕は胸を撫で下ろし、余裕ができたところで言い返す。
﹁わかった。そこまで言うのなら仕方がない。僕は三日ほど実家に
帰ってるから、その間好きに使ってくれ﹂
﹁何を言ってるの。藤間くんもいるのよ。あと、実家に帰るのは将
来のわたしが、あなたと喧嘩したときにすることよ﹂
願わくば今すぐ実家に帰ってほしいのだがな。
僕はグラスに氷を入れ、そこに買ってきてあったペットボトルの
烏龍茶を注いだ。盆に載せて運ぶなんて面倒な上、ガラでもないの
で、両手にひとつずつ持ってリビングへと戻る。ひとつを槙坂先輩
の前に置くと、彼女は﹁ありがとう﹂とひと言言い、さっそくグラ
スに口をつけた。
槙坂先輩はソファに浅く腰掛けて、背筋を伸ばして座っている。
片手でグラスを持ち、もう片手はグラスの底に添えていた。とても
きれいな姿勢と所作だった。
﹁だいたい、女の子が好きな男の子と一緒に過ごしたいと思うのは、
ごく普通のことよ。理由が必要?﹂
121
﹁⋮⋮﹂
一般論にされると反論のしようがなくなるな。
僕もさっきまで座っていたソファに腰を下ろした。リビングのソ
ファは向かい合わせではなく、九十度写した位置で配置している。
ティアードミニで座る彼女を斜めから見ていると、特にその足が気
になってしまい、極力意識しないよう自分に言い聞かせる。
ソファを向い合せにしておけばよかったとバカなことを思ってい
る一方で、そうでなくてよかったとも思っていた。そして、後者の
ほうが支配的であるあたり、槙坂涼に曰く言い難い危険を感じてい
る証拠なのだろう。
﹁今さらだと思わない? イギリスでも素敵な夜があったじゃない﹂
﹁僕としては健全な旅行にしたかったんだけどな﹂
﹁あら、それはご愁傷様。最後の最後で、そうはならなかったわね﹂
僕が不満を隠さず言ってみても、しかし、槙坂先輩は気にした様
子もなく、くすくすと笑うのだった。
﹁藤間くんがあんな姿を見せるからいけないのよ﹂
﹁何のことだよ﹂
ともすれば妙な意味に聞こえてしまいそうだが、本当に何のこと
だかわからなかった。
﹁ほら、昼間、写真を撮らせてほしいって言ってきた人がいたじゃ
ない﹂
﹁ああ﹂
思い出した。
旅行中、槙坂先輩に先のようなことを頼んできた現地の人間がい
たのだ。一枚だけだと言うし、被写体となる当の本人が了承したの
だから僕が口をはさむ筋合いではないと思ったのだが、バシャバシ
ャ何枚も撮るものだから、いいかげん頭にきてしまった。﹁Oh,
Cute!﹂じゃねぇよ。人種的に小柄な日本人は、欧米人からす
ると、十代後半の少女でもかわいらしく見えるらしい。結果、僕は
拙い英語ながらいくらか文句を言い、むりやり槙坂先輩をつれてそ
122
の場を離れたのだった。
﹁あんなふうに嫉妬する姿を見せられたら、藤間くんのものになっ
てあげたくなるわ﹂
﹁⋮⋮﹂
男らしいとか恰好いいとかじゃないのか。
﹁でも、わたしとしては少しもの足りなかったかしらね。せっかく
外国にきたのだから、もっとそういう気になってくれると思ってい
たわ﹂
﹁まさか、それでうちにきたのか?﹂
もの足りなかったから?
﹁ええ。藤間くんの好きなミニをはいてきたわ。どうかしら、こう
いうの﹂
そこで何を思ったのか彼女は、太ももの上に乗っているスカート
の裾を少し自分のほうへと引き寄せた。これで本当にソファが向か
い合わせなら、確実に致命傷ものの行為だ。
﹁⋮⋮好きだと言った覚えはない﹂
僕は、ただでさえ気になって仕方がなかったそこから、強い意志
をもって視線を引き剥がした。
﹁あら、男の子ってこういうのが好きだって聞いたんだけど? そ
れとも見えないはずのものが見えるのがいいのかしら? 女の子が
自分からこういうことをすると魅力は半減?﹂
槙坂先輩は悪魔のような笑みを浮かべながら聞いてくる。
﹁⋮⋮だから、男のそういう心情に無遠慮に触れてくれるな﹂
どちらにしても槙坂涼であれば破壊力は抜群だ。明らかに致死量。
﹁わたし、あなたのそういう顔、大好き﹂
いたずらっぽい笑みを含ませた声で言う槙坂先輩。スカートの位
置をもとに戻すのが気配でわかった。ほっとする。尤も、そこにあ
る光景が気になることには変わりないのだが。
﹁こうなったら藤間くんの好みがどういうのか、ちゃんと聞かない
といけないわね﹂
123
﹁またわけのわからないことを﹂
そういうのはともすれば性癖みたいなものにつながりかねないか
ら、迂闊には口にできない。
﹁実はいくつか当たりはつけてあるの。後は学校の制服とか、意外
なところでこの前気に入ってくれた水着とか。藤間くんがカッター
シャツを貸してくれたら、いつかの朝みたいな恰好もできるわよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
彼女が嬉々として語るその内容に、思わず唖然としてしまう。し
かし、槙坂先輩はそんな僕を置いてけぼりにしたまま続ける。
﹁確かああいうことって、一枚ずつ服を脱いだり脱がされたりしな
がらするのよね? わたしもそのほうが盛り上がると思うの﹂
﹁い、いや、どうなんだろう⋮⋮?﹂
僕は槙坂先輩の勢いに、気持ちがたじろいでしまっていた。俗に
ドン引きというやつである。⋮⋮この人、知識はあるようだが、ど
うやらその知識が少し偏っているらしい。
そして、そんな僕の反応を見て、槙坂先輩は途端に自信をなくし
たようだった。
﹁ち、違うの?﹂
﹁さ、さぁ⋮⋮﹂
行為そのものを楽しむのなら、そういうのもあるのかもしれない。
だけど、経験値の低い僕には、正直何とも答えられなかった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
気まずい沈黙。
やがて、
﹁⋮⋮ごめんなさい。今の冗談です﹂
槙坂先輩は、目を逸らすようにして斜め下を見、ぽつりと発音す
る。
ふと、ソファの横に置かれた大きな鞄の存在を思い出した。彼女
がここにきたときに、肩から提げていたものだ。
124
﹁もしかして持って︱︱﹂
﹁も、持ってきてないわっ﹂
喰い気味に否定された。
そうか。持ってきたわけではないのか。なら、その大きな鞄には
何が入っているのだろうと当然の疑問がわくのだが︱︱きっと彼女
ほどの女性になると、単なる外泊にも用意するものが多いのだろう。
125
第一話︵前書き︶
すみません。いくつか書籍版掲載の話が混じっています。
・藤間は雨ノ瀬と夏休み中に連絡を取った
・槙坂先輩は藤間の母と会ったことがある
と、思っていてください。
126
第一話
セメスター
明慧学院大学附属高校は二期制を採用している。
だから、前期と後期の間に秋休みがある分、夏休みは普通の高校
に比べて短い。そして、夏休み明けは新学期でも何でもないため、
始業式はなく、いきなり初日から授業がはじまるわけある。
﹁ヤバい。さっぱりわからん﹂
その初日の授業の最中、隣に座る浮田がうめくようにつぶやいた。
どうやら夏休み中遊び呆けていて、休み前にやっていた授業の内
容をきれいさっぱり忘れてしまっているようだ。とりあえずホワイ
トボードに書かれたことはノートに書き写しているようだが、意味
が分からないまま写しているせいかヴォイニッチ手稿みたいになっ
ている。後で自分で解読するのだろうな。しかも、本家ヴォイニッ
チ手稿と違って学術的探究心からではなく、もっと切迫した理由に
よって。
﹁ま、がんばって思い出すんだな﹂
﹁ちっ、余裕ぶりやがって。これだから遊びもせず勉強ばかりやっ
てる真面目クンは﹂
浮田が忌々しげに舌打ちする。
﹁別に勉強ばっかりってわけでもないさ。それなりに遊んでたよ。
旅行にも行ったし、夏らしくプールにも行ってきた﹂
﹁ちょっと待て。プールって、誰と?﹂
プールは彼にとって聞き捨てならないフレーズだったようだ。
﹁⋮⋮今浮田が思い描いてる人物だよ﹂
﹁お前ぇ!?﹂
そして、授業中にも拘らず絶叫して立ち上がるバカ。
﹃そこ、何を騒いでいる﹄
当然、すかさず先生の叱責が飛んできた。大教室故にマイクを通
127
しての声だ。
﹁す、すいませんっ﹂
謝る浮田の横で、僕は彼にだけ聞こえる音量で﹁バカめ⋮⋮﹂と
つぶやいた。
着席した浮田は、しかし、まだ話題を終わらせない。
﹁写真とかないの? あるなら十万まで出す﹂
﹁残念ながら﹂
あるのは僕の頭の中だけだ。
加えてさらに残念ながら、仮にあったとしても、いくら金を積ま
れたところで譲る気はないのである。
もともとそのつもりはないが、この調子だと旅行のことは口が裂
けても言えないな。
と、そのとき、スラックスのポケットの携帯電話が震えて着信を
告げた。すぐに止まったのでメールのようだ。
﹁誰? 槙坂さん?﹂
それを耳聡く聞きつけ、尋ねてくる浮田。
﹁何でだよ。授業中だろ﹂
そう答えつつも、半々くらいの確率で彼女ではないかと疑ってい
た。
が、現実には違っていて、端末のサブディスプレイに表示された
のは、雨ノ瀬由真の文字だった。なるほど。雨ノ瀬ならこの時間の
メールも不思議ではないな。
メールを開封する。
﹃突然だけど、今日会えない?﹄
今日、か。
僕は一旦端末を閉じ、考える。
会うことに何も問題はない。もともと雨ノ瀬とは夏休み中に連絡
をとっていて、近々久しぶりに会おうという話になっていた。
128
そして、今日は今のところ特に何も用事は入っていない。
尤も、時間の経過とともに予定が入る、というか、ねじ込まれる
確率は高くなっていくだろうが。何せ、先日うちに泊まっていった
以来、彼女とは今日まで会っていないし、今日もまだ顔を合わせて
いない。会った瞬間、何かが振りきれて、放課後どこかにつき合え
と言われる可能性はおおいにある。
なので、とっとと約束を受けてしまおう。
僕は早速その旨を返信した。
そうして放課後、
﹁藤間くん﹂
ロッカーで荷物をまとめた後、外に出ようとしたところで、予想
通り槙坂涼に声をかけられた。
﹁やっと話ができたわ﹂
夏休み明けというのは、会う友人会う友人久しぶりに見る顔ばか
りなので、自然、話が弾むものだ。当然、槙坂涼の周りもそうだっ
た。実際、昼に学食で見かけたときも、彼女を慕う女子生徒や、久
々のご挨拶や自己アピールしたい男どもに囲まれていた。きっと各
教室でもそうだったことだろう。
﹁人気は相変わらずのようで何よりだ﹂
そのせいでお互いに目を合わせつつも、言葉を交わすこともなく
今に至る。
﹁おかしいわね。わたしに彼氏ができたら、興味を失くす子も出る
と思ったのだけど﹂
﹁できてないからだろ﹂
彼氏なんてものは。
﹁あら、大丈夫? そのあたりで変に突っ張ると、わたし、何を口
走るかわからないわよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
確かにな。
129
やれるものならやってみろ、と言いたいところだが、槙坂先輩な
ら本当にやりそうで怖い。
﹁⋮⋮きっと認知度がまだ低いんだろう。夏休みもあったことだし﹂
このあたりが落としどころか。ずいぶんと防衛ラインが下がった
ものだな。
﹁なお、先に言っておくが、今日はその認知度を上げるための努力
ができないので、そのつもりで頼むよ﹂
﹁そうなの?﹂
問い返してくる槙坂先輩。
そう意外そうに聞かないでほしいものだ。まるで僕がいつも暇み
たいじゃないか。
﹁この後、用事があるんだ﹂
﹁わたしより大事な用事?﹂
﹁現状、槙坂先輩より大事な用は腐るほどあるよ。例えば、親類の
冠婚葬祭とか、委員会関係の会合とかね﹂
今のところ、どちらもその予定はないが。ただ、秋休み明け、後
期の頭にある学園祭の運営委員に、今年は手を挙げようと考えてい
る。雰囲気がわからないままやってもろくなことはできないだろう
と思い、一年生だった去年はパスしたのだ。
﹁今日は?﹂
﹁中学のときの友人と会うんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
と、そこでなぜか槙坂先輩は黙る。僕に探るような視線を向けて
きた。おそらく友人と会うという僕の弁を疑っているわけではない
のだろう。何かを探っているのだとしたら︱︱、
﹁誤解のないように言っておくと、相手は男だ﹂
﹁⋮⋮あなた、その言葉がわたしの直感を補強してるってわかって
る?﹂
これがいわゆる女の勘というやつか。おそろしいな。
﹁そんなわけで、今日のところはこれで失礼させてもらうよ。また
130
明日﹂
これ以上傷口を広げたくないので、見破られた嘘には触れず、僕
は踵を返しひとり先に校門へと向かって歩き出す︱︱が、数歩歩い
たところでその足を止めた。嫌な予感、というか、胸騒ぎがしたの
だ。
振り返ると、さっきと同じ構造のまま僕を見送る槙坂先輩の姿が
あり、そして、彼女は︱︱、
﹁安心して。こっそり後をついていったりはしないわ﹂
そう言ってやけにきれいな笑みを、僕に見せるのだった。
﹁⋮⋮なるほど。これが直感を補強する行為というものか﹂
﹁わかってもらえた?﹂
よくわかった。僕が見事に墓穴を掘ったことが。
問題は、槙坂涼が本当にその行動に出るかなのだが、まぁ、今こ
こで考えていても仕方あるまい。
雨ノ瀬との待ち合わせは、地元の駅前だった。
当然と言えば当然。普通は家から通える範囲の高校を選ぶもので、
高校生で家を出るほうが珍しい。そして、それ以上に僕のように通
えるくせに家を出るのは、さらにレアケースだろう。家庭に問題を
抱えているのではないかと疑われるレベルだ。雨ノ瀬はもちろん前
者。自然、待ち合わせはここになる。
にしても、最近よく地元に戻ってくるな。今までは盆と正月、母
が週末に休みをとれるときくらいしか帰っていなかったのに、ここ
一ヶ月ほどで三度目だ。さて、今日はどうしようか。夜に母が家に
いるようなら、夕食を食べに帰ろうか。
などと考えているうちに、すでに待ち合わせの時間は過ぎていた。
雨ノ瀬はまだきていない。
﹁まさか、な⋮⋮﹂
雨ノ瀬が遅れてくる理由に心当たりがないわけではない。が、さ
すがにそれはないだろうと否定する。否定したい。否定したいのだ
131
が、前科があるだけに否定しきれない。
と、そのとき、僕の携帯電話が着信を告げてきた。噂をすれば何
とやら、ではないが、雨ノ瀬からだった。しかも、音声通話。これ
で遅れるという連絡ならまだいいほうだろうな、と半ば諦めにも似
た気持ちで電話に出る。
﹁はい﹂
﹃うわーん、藤間、ここどこー!?﹄
﹁⋮⋮﹂
やっぱりか。前科ものが過ちを繰り返しやがった。何年も暮らし
てきた地元だろうに。なぜ迷うのだろうな。まぁ、それこそ前科も
のなのだから今さらか。
雨ノ瀬がげっそりした顔で待ち合わせの場所に現れたのは、それ
から二十分後のことだった。
開口一番。
﹁つ、疲れた⋮⋮﹂
しかし、それは僕が言いたい台詞だ。何せここまで雨ノ瀬を電話
で誘導したのだから。尤も、それだけならこんなにも疲れはしない。
問題は雨ノ瀬が勝手な判断で勝手な動きをすることだ。
﹃あれ? こっちのほうが近くない?﹄
﹃近くねぇよっ﹄
くらいのやり取りならまだましなほう。早々にあらかじめ言うと
僕に止められると学習したらしく、いつの間にか僕に内緒で違う道
を進んでいたりするのだ。これだから決断力のある方向音痴は。
しかも、初めて見る場所を、そのあふれる表現力で魅力たっぷり
に説明してくれるので、何度か僕もそっちに行ってみたくなった。
というか、これなら雨ノ瀬をその場に留まらせて、僕が迎えにいっ
たほうが早かったかもしれない。
そんなこんなで一年半ぶりの再会は、お互いの顔を見つけてまず
疲労の色濃いため息を吐くところからはじまったのだった。
132
﹁改めて︱︱久しぶり、雨ノ瀬﹂
﹁うん、久しぶり⋮⋮って、ぎょっ! 何で藤間、制服!? もし
かして補習?﹂
雨ノ瀬は制服姿の僕を見て、盛大に驚いた。オーバーアクション
なところは昔とぜんぜん変わっていない。懐かしい思いだった。
﹁違うって。僕のところは二期制だからね。普通の学校より夏休み
が短いんだ。ちょうど今日からはじまったところ﹂
﹁ああ、それで待ち合わせがこんな時間だったんだ﹂
納得した様子の雨ノ瀬。
その彼女は、黒のトップスにデニムのカットオフショートパンツ
という実に夏らしい姿。ふたつ結びで下した髪は僕の記憶の中のま
まだ。ただ、とても大人っぽく、きれいになったと思う。中学のこ
ろからその素養はあったが、なかなかの変わりっぷり。見違えるよ
うだ。
﹁さて、どうする?﹂
僕は雨ノ瀬に尋ねた。
どこかゆっくりできるところに移動したいところだ。が、実は僕
はあまりこの付近のそういう店を知らない。人が聞けば地元なのに
と思うかもしれないが、何せ高校に上がると同時にここを離れてし
まったせいで、知っているところと言えば中学生でも立ち寄れるよ
うな場所ばかりだ。
これは雨ノ瀬だのみかなと思っていると、
﹁あそこがいい!﹂
その彼女が指さしたのは、駅前の大型スーパーだった。
そこは最近できたお洒落なショッピングセンター⋮⋮などではな
く、僕が生まれる前からあるような古い大型スーパーだった。決し
てそんな山のてっぺんを目指すみたいに胸を張って指さすような場
所ではない。
ただ、そこの一階にはフードコートがあり、当時ちょくちょく雨
ノ瀬と立ち寄っていたのだった。きっとそこに行こうというのだろ
133
う。
﹁いいのか、そんなところで﹂
﹁いいのいいの﹂
むしろ彼女は、そこがいいくらいの勢いだ。
雨ノ瀬がいいのなら、まぁ、いいか。僕としても懐かしくはある。
フードコートは昔と変わらずチープな雰囲気で、今僕が住んでい
るマンションの近所にあるサクラ・ヤーズのフードコートとは大違
いだった。夏休みだからか、親子で買いものにきてソフトクリーム
やジュースで休憩をしている姿が目立つ。フードコートのすぐ向こ
うはスーパーのレジだ。
僕らはバーガーショップのカウンタでドリンクを買い、空いてい
る席に腰を下ろした。
﹁では、あたしたちの再会を祝して⋮⋮かんぱーい﹂
﹁ん。乾杯﹂
ひかえめにドリンクの容器を合わせる。
﹁一年半ぶり?﹂
﹁そんなものかな﹂
中三の三月の卒業式以来なので、正確には一年と五ヵ月。一年半
と言ってしまってもいいだろう。
﹁藤間が変わってなくてよかった。おまえ誰?とか言われたらどう
しようかと思った﹂
﹁何でだよ。雨ノ瀬がそんな心配する必要ないだろ﹂
この再会のきっかけとなるメールを送ったのは僕で、今日までに
感満載の反応
電話で話もしている。むしろその心配は僕のほうだった。実際、久
こんなやつもいたな
とか?﹂
うわ、この女、メールだけのつもりだったのに、
しぶりのメールを送ったとき
も想定していた。
﹁いやぁ、ほら、
電話どころか会おうとか言い出しやがった!?
﹁お前、どれだけ自分に自信がないんだよ⋮⋮﹂
134
﹁だってさ⋮⋮﹂
雨ノ瀬は不貞腐れるみたいにしながら、ずずずとストローでジュ
ースを吸い上げた。
まぁ、雨ノ瀬が何を言いたいか、わからなくもないか。あからさ
まなかたちではないにしろ、僕は彼女を振っているのだから。
﹁僕はそこまで冷たくはないよ﹂
﹁優しくもないくせに﹂
雨ノ瀬は過去を懐かしむように苦笑した。
そこからお互いの近況報告に移る。
雨ノ瀬は高校に入ってから部活で本格的にダンスをはじめたそう
だ。それに加えて自転車も。このあたりのことは、前に電話で話し
たときに聞いていたが、それを詳しく話してくれた。
相変わらず方向音痴なのはさっき見た通り。それで自転車なんて
大丈夫なのかと心配になるが、話を聞く限りでは特に苦労はしてい
ないようだ。普通の自転車と文字通りひと桁値段の違うロードバイ
クで迷子とか、贅沢すぎて笑うに笑えない。自転車に乗ると脳が切
り替わるのだろうか。
﹁そっちは?﹂
﹁僕も相変わらずさ。電話でも話したけど、部活はやらずにイベン
トの運営にちょこちょこ首を突っ込んでるよ﹂
尤も、それも去年の話で、今年はそれほどでもない。一年のとき
にやったものは避けているからというのもあるが、うっかり誰かさ
んにつかまって正直それどころではないのが現状だ。
﹁後期がはじまってすぐに学園祭があるから、今度はそれに携わっ
てみようかと思ってる﹂
﹁そっか。学園祭が近いんだ﹂
雨ノ瀬はしばし考え、
﹁遊びにいっていい?﹂
﹁学園祭か? きたければくればいいんじゃないか?﹂
学校によってはチケットがないと入れないところもあるようだが、
135
明慧にはその手の入場制限はなかったはずだ。誰でも自由に入れる。
﹁じゃなくてさ、藤間が案内してよってこと﹂
﹁ああ、そういうことか。いいよ。時間があればだけど﹂
実行委員に入ったところで、そんな時間も照れないほど忙しくな
るわけではないだろう。詳しいことは近くなってから詰めるとする
か。
﹁明慧、明慧かぁ。明慧ってさ、確か上に大学があるんだよね?﹂
﹁附属の名の通りね。⋮⋮ああ、言っておくけど、エスカレータ式
じゃないぞ﹂
何となく彼女の考えていることを察してしまってそう言い加えて
やると、﹁あ、そうなんだ﹂と雨ノ瀬。案の定だったようだ。
﹁ま、普通に大学受験するよりはハードルが低いみたいだけど﹂
﹁藤間はどうするの?﹂
﹁僕は⋮⋮﹂
決まっている。高校を卒業したらアメリカの大学に入って、その
まま向こうで修士課程まで進むつもりだ。僕にはアメリカでやりた
いことがある。だから、大学に入った時点で生活基盤を向こうに移
すことになるだろう。
ただ、そのことはほとんど誰にも話していない。両親に自分の考
えを告げて、後は成り行きで切谷さんに言ったくらいか。つまり、
まだ槙坂先輩には話していないということだ。
﹁まぁ、上に進むのが無難かなとは思ってる﹂
結局、僕は迷った末に、ここで雨ノ瀬にも言わなかった。槙坂先
輩の耳に届いてもややこしくなりそうだしな。
﹁そうだ。でさでさ、藤間藤間﹂
と、雨ノ瀬はテーブルの向こうから、気持ち身を乗り出してくる。
ここからが本題、といった感じだ。
﹁前に藤間が言ってた女の人、どんな人?﹂
興味津々の様子で聞いてきた。
そんなことか、と思ったが、雨ノ瀬には単に女の子特有の恋バナ
136
好き以外にも、それを気にする理由が確かにあった。
﹁そうだな︱︱﹂
どう説明したものか考えて︱︱やめた。口で説明するより百聞は
一見にしかずだ。
﹁雨ノ瀬﹂
僕は彼女の鼻の頭あたりを指さした。何ごとかと首を傾げる雨ノ
瀬にかまわず、
﹁あっち向いて⋮⋮ほい﹂
指を右へと振ると、雨ノ瀬は反射的に反対方向へと首を向けた。
⋮⋮つられなかったか。ダンスをやっているだけあって、いい反射
神経だな。じゃあ、もう一回だ。
﹁あっち向いて⋮⋮ほい﹂
雨ノ瀬の顔がこっちに向き直ったところで、今度は指を左に振る。
と、やはり彼女は反対方向へと首を向けた。
﹁よし、そこでストップだ。そっちの方向に何かの冗談みたいな美
人がいるだろ? あれがそうだ﹂
﹁うわ﹂
雨ノ瀬が短く感嘆の声を上げた。
そう。そこにいるのである。僕が中学時代に仲のよかった女の子
と会うと知って様子を見にきたのか、はたまた冗談やいたずらの類
なのか、どうやら本当に後をつけてきたようなのだ。ある意味有言
実行。因みに、僕は見つけた瞬間から、もう見なかったことにして
いる。今もそうだ。彼女を見ない。
﹁確かに嘘みたいな美人⋮⋮﹂
﹁それを言ったら雨ノ瀬だってそうだろ。普通に美人じゃないか﹂
電話できれいになったと自己申告していたが、その言葉に偽りは
なかったようだ。正直、﹁変わっていなくて安心した﹂は僕の台詞
だった。こうして話してみれば、雨ノ瀬が見た目ほど変わっていな
くて本当に安心した。
﹁ん? ナチュラルに口説こうとしてる?﹂
137
﹁素直な感想だよ﹂
﹁じゃあさ、あたしとあの人、どっちが美人?﹂
雨ノ瀬は再び身を乗り出して聞いてくる。意地の悪い質問だと自
覚してるのか、にやにやと笑っていた。
﹁そんなの答えられるはずがないだろ。どうしたって贔屓が入る﹂
﹁どっちに贔屓? 今つき合ってる彼女? それとも中学が一緒だ
った女の子?﹂
﹁もちろん、そのとき目の前にいるほうに決まってる﹂
﹁うわ、サイテー﹂
呆れたふうの雨ノ瀬は、気持ちだけでなく体も引いて、イスの背
もたれにもたれた。
男の処世術だと言ってほしいものだな。普段から正解があるのか
怪しいような難解な問いを投げかけられることが多いのだ。こうい
うときに点を稼がないと。解ける問題を落とさないのはテストでの
鉄則だ。
﹁要するに、容姿なんて些末な問題ってこと。顔じゃなくて人を見
てるのさ﹂
﹁きれいにまとめようとしちゃって﹂
そこで雨ノ瀬は、槙坂先輩へちらと目をやった。
﹁でも︱︱かわいいじゃない、あの人﹂
﹁そうか?﹂
槙坂先輩は、どちらかと言えばどころか 明らかに美人系だろう。
かわいいと評されているのなど、僕はついぞ見たことがない。
﹁うん。藤間が女の子と会うのを気にして、ここまでついてくると
ころが﹂
ああ、なるほど、と思うが、実際はそんないいものではない気が
する。すぐに見つかるような場所にいるあたり、オールコートマン
ツーマン並のプレッシャだ。
﹁じゃあ、あたしはそろそろ帰ろうかな﹂
と、雨ノ瀬はやおら腰を浮かす。
138
﹁変な気を遣うなよ﹂
﹁そんなんじゃないけどね。お互い遠くにいるわけじゃないから、
いつでも会えるし。学園祭だって見にいくし。⋮⋮あ、もしかして
学祭デートのお邪魔じゃない?﹂
はっとそのことに気づき、聞いてくる。
﹁今のところ、その予定はないよ﹂
というか、学園祭の話すらしたことがない。まだ先のことだし、
その手前には学生の本分たる勉学の決算、前期試験が待ち構えてい
るのだ。それを無視して気持ちを学園祭に向けるのは、なかなか難
しい。
﹁仮にそうだとしても、ちゃんと雨ノ瀬の相手もするさ﹂
﹁やっぱり口説いてる? ごめんなさい。あたし二股かける男の子
はちょっと。部活に気になる先輩もいるし﹂
とても申し訳なさそうに言われてしまった。
﹁なんで僕が振られたみたいになってんだよ⋮⋮﹂
﹁さぁねー。いつかのお返しじゃない?﹂
笑顔で嘯く雨ノ瀬。⋮⋮そうか。ああいうのって断ると仕返しさ
れるものなのか。
﹁じゃあね、藤間。また連絡するから﹂
﹁ああ﹂
雨ノ瀬は改めて立ち上がると、自分のドリンクの容器を持ってテ
ーブルを離れていった。途中でダストボックスに容器を放り込み︱
︱そこで一度僕のほうに振り返ると、ぶんぶんと手を振った。仕方
なく僕も軽く手を上げて応える。⋮⋮もう少し落ち着いた立ち居振
る舞いを覚えればいいのに。そうすれば文句なく美人系だ。
ようやく去っていった。
﹁⋮⋮﹂
ところで、好きな先輩がいるというのは本当なのだろうか。本当
だとしたら、どんな男なのだろうな。気になるところだ。
さて、雨ノ瀬が帰って︱︱残る問題はひとつ。
139
槙坂先輩だ。
﹁仕方ない。いくか﹂
僕はつぶやいてから席を立った。
少し離れたテーブルに座る槙坂涼は、特に逃げ隠れする様子もな
く、寄ってきた僕をよそ行きの笑顔で見上げた。⋮⋮どうでもいい
が、こんな安っぽいフードコートに華やかな彼女の姿は、どうしよ
うもなく場違いだな。
﹁あら、奇遇ね。こんなところで会うなんて﹂
何を白々しい。
﹁前、いいかな?﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
僕は残り少ないドリンクとともに、彼女の正面に座った。
テーブルの上、彼女の前には小さなトレイがあった。ドリンクの
容器に、プラスチック製のスプーンと空になったコーヒーフレッシ
ュが載っている。コーヒーを飲んでいたようだ。
﹁どうしてここに?﹂
﹁偶然﹂
嘘つけ。
﹁きれいな子ね﹂
彼女はしれっと話を進め、ここにきた目的であろう僕の旧友をそ
う評した。
﹁中学のときはあそこまでじゃなかったんだけどな。少し会わない
うちに変わるもんだ﹂
﹁でも、そのころから片鱗はあったんじゃない?﹂
﹁まぁね﹂
十人が十人同じ感想を口にするほどではないものの、かわいいと
思っていた男子はそこそこいたはずだ。ただ、あの騒がしい、よく
言えば愛嬌のありすぎる性格のせいで、ぜんぶ台無しにしていたが。
いや、そこは今もそうか。
﹁今ならつき合う?﹂
140
﹁そうしたい気持ちもなくはないが、あいにくと先約がいるもので
ね。これでも順番は守るほうなんだ﹂
僕の言葉に、槙坂先輩はくすりと笑う。
﹁じゃあ、当時は? そういう気はなかったの? 仲がよかったの
でしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
それこそ僕の中に勝手な先約ができていたからな。そんな一方的
なものを理由に相手にされなかった雨ノ瀬が浮かばれない。悪いこ
とをしたと思う。
まぁ、そんなことを槙坂先輩に言えるわけはなく、
﹁⋮⋮考えもしなかったよ。そういうのって中学じゃ、ひと握りの
やつらだけだったからね﹂
結局、僕はそんな言葉で誤魔化した。
﹁実はわたしも、前につき合っていた男の子がいるの﹂
﹁それは初耳だ。まぁ、人にはそれぞれ歩んできた道があるからね。
そこを詮索する気は、僕にはないよ﹂
こっちはぜんぜん気にならないな。尤も、それが嘘だとわかって
いるからなのだろうけれど。少しでも真実味があれば、僕だって気
になっていたに違いない。
僕の反応が面白くなかったのか、槙坂先輩が不満そうな顔を向け
てくる。
﹁さて。じゃあ、僕は先に帰らせてもらうよ﹂
飲み終わったドリンクの容器を手に、僕は立ち上がる。
﹁あら、つれて帰ってくれないの?﹂
﹁僕がつれてきたわけじゃないからね。責任も義務も負う気はない
よ﹂
ここで会ったのが偶然だというのなら、槙坂先輩は槙坂先輩の理
由でここにいるのだろうから、僕の都合に合わせてもらうのは大変
に申し訳ない︱︱と付け加えておく。
﹁仕方ないわね。きたときと同じように、勝手についていこうかし
141
ら?﹂
それは先に偶然と主張したことの否定で、勝手についてきたこと
を自白しているようなものではあるまいか。
僕は嘆息ひとつ。
﹁わかったよ。場所が場所だし、勝手についてこられても困るので
つれていく﹂
僕が諦め気味にそう告げると、槙坂先輩は嬉しそうに笑顔を見せ
た。たぶん彼女は最後にはこうなることをわかっていたのだろう。
僕もそう。何となくこの流れになると思っていた。それでも彼女は
それを喜ぶ。
﹁でも、その言い方だと、真っ直ぐには帰らないのかしら?﹂
槙坂先輩もイスから立ち上がり、ふたりでダストボックスへと足
を向ける。
﹁母がまっとうな時間に帰ってこられそうなら、実家に寄っていこ
うと思ってる﹂
母はそれなりのポジションを得ている人で、いつも忙しい身だ。
僕が家を出てからは、さらに気兼ねなく仕事に打ち込んでいるよう
で、聞いた限りだと連日遅くに帰宅しているようだ。
﹁じゃあ、またお母様に会えるのね﹂
﹁そんなこと言ってると、夕食の準備を手伝わされたり、下手する
とぜんぶ丸投げされるぞ﹂
﹁それって何か試されてるのかしら? 真くんの彼女として。だと
したら張り切らないといけないわね﹂
﹁⋮⋮﹂
タフなことだ。あと、真くんって言うな。
とは言え、このまま母に引き合わせると、またいつぞやみたいに
槙坂先輩の口から﹃お母様﹄と﹃真くん﹄が連呼されるのだろうな。
あれは非常に落ち着かない気分になるのでやめてもらいたい。
まず、槙坂先輩がコーヒーの容器その他をダストボックスに捨て、
トレイをその上に置いた。続けて、僕が放り込み︱︱その手で携帯
142
電話を取る。
今日も母が忙しければいいのだが、と胸に淡い期待があった。
143
ハロウィンSS Ver.2014︵前書き︶
もう3日も過ぎていますが、ハロウィンSSです。
急にアイデアがきたので。
144
ハロウィンSS Ver.2014
10月31日。
世間は数日前から、ここ数年でいよいよ日本に定着しはじめたハ
ロウィンで盛り上がっていた。
そして、その世間にはわたしの通う明慧学院大学附属高校も含ま
れている。今年は今日という日が金曜日で、土日の学園祭とくっつ
いてしまったため、ハロウィンパーティ兼前夜祭となって、去年や
一昨年にない盛り上がりを見せそうだった。
﹁ハロウィン、ねぇ⋮⋮﹂
朝、わたしは洗面台の鏡に向かってつぶやく。
﹁わたしも何か仮装したほうがいいのかしら?﹂
今年のハロウィンパーティはサエちゃんが実行委員として参加し
ているので、顔を出す約束をしている。でも、仮装の予定はない。
そんな衣装を持っていないし、そもそも似合うものがあるとも思え
ない。藤間くんは﹁魔女をやれ、魔女を。ぴったりだ﹂としきりに
勧めてくる。あの子はいったいわたしをどう見ているのだろうか。
一度朝までじっくり問い詰めたほうがいいのかもしれない。
その藤間くんが喜びそうな格好ならいくつか思いつく。あれとか
これとか。うん。どれも仮装ではないけれど。こんなことばかり考
えているから、美沙希に激しい女扱いされるのだろう。
﹁よし⋮⋮﹂
決めた。
せっかくのハロウィンなのだし、わたしも楽しむことにしようと
思う。
145
10月31日。
僕は放課後の講堂へと足を運ぶ。
まだ時間的には最後の授業の真っ最中で、毎年恒例のハロウィン
パーティはまだはじまっていない。にも拘わらず、もういくらか人
が集まっているのは、この時間に授業を入れていなくて暇なのもあ
るだろうが、やはりパーティのはじまりが待ち遠しいのだろう。
で、この僕はというと、今年は明日から開催される学園祭の実行
委員なので、そこまで暇ではない。それでもその準備の合間を見て
ここまできたのは、こちらの実行委員にこえだがいるからだ。ちょ
っと様子を見にきたのだ。
実際のところ、特に心配はしていない。それはあいつならしっか
りやるだろうという信頼からではなく、ただ単に一年生である以上
下っ端だろうし、仮にこのイベントが失敗に終わったとしてもあい
つが責任をかぶるわけではないからだ。
﹁さて、こえだは、と﹂
講堂の入り口に立って中を見渡す。
先にも触れた通り、もうすでに生徒がそこそこ入っていて、並べ
られつつあるお菓子やらドリンクやらに手を出している。喰うな飲
むなまだはじまってないと実行委員が注意しているが、準備の片手
間に声を張り上げているだけなので、あまり効果は上がっていない
ようだ。仮装しているせいで、少々悪乗りしている部分もあるのだ
ろうな。もうすでにグダグダになりつつある。
やれやれ、とため息を吐いていると、
﹁おーい、しーん﹂
こえだの声だった。
二の腕に実行委員の腕章をつけただけの制服姿のこえだが駆けて
くる。その姿は相変わらず小動物のようだ。
﹁きたんだ﹂
﹁お前の様子を見にね。⋮⋮どうだ?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
146
渋い顔をするこえだ。その視線は、すでに一部の生徒が勝手には
じめてしまっている感のある会場に注がれている。
﹁まず入らせてしまった時点で失敗だな﹂
僕なら入り口に看板を立てるなり紐を張るなりして、時間まで入
らせない。
﹁注意はしてるんだけどね﹂
﹁誰が?﹂
﹁あたしとか、主に一年。下っ端の役目﹂
そこも失敗。人選ミスだ。そういうのは早めに、それも三年生が
やらないと。
﹁真ってよくこんなのいくつもやってきたよね。ぜんぜん楽しめる
気がしないんだけど﹂
もうすでに心底疲れたふうのこえだ。
﹁ま、イベント自体を楽しむことは諦めるんだな﹂
﹁滅私奉公?﹂
﹁というよりは、別の楽しみを見つけるんだよ。イベントを予定通
りに進行させて、成功させる楽しみだな﹂
そのあたりは自分の人生にも通じるところだ。
﹁ま、こうなったら時間前でもいいから、とっととはじめてしまう
べきだな。で、人が集まってきたところで、改めて開催宣言だ﹂
バカみたいにテンションが上がっているやつらなら、その手のセ
レモニィには何度でもつき合ってくれるだろう。
﹁真は参加しないの?﹂
﹁そんな暇あるかよ﹂
こっちは明日からの学園祭の準備で忙しさのピークを迎えている
のに。
﹁涼さんもくるのに﹂
﹁僕はあの人の附属品か﹂
﹁どちらかというと、今日はわたしが藤間くんの附属品ね﹂
そんな声と同時に、僕の腕に何かがからみついてきた。
147
﹁わ、涼さんだ﹂
そう。槙坂涼である。
いつの間に近づいてきたのか、いきなり腕を組んできたのだった。
﹁ちょっと早いかと思いながらきてみたのだけど⋮⋮もうはじまっ
てるの?﹂
﹁えっと、まぁ、そんな感じかも⋮⋮﹂
さすがになし崩し的にはじまってしまったとは言えず、こえだは
苦笑いを浮かべている。
ところで、である。
槙坂涼は今、僕の腕に自分の腕をからめてきている。しかも、何
を考えているのか、べったりと体を寄せてもきているのだった。ま
るで足をからめるみたいにして太ももまで。制服を着ているときに
はまずやらない行為だ。
僕は思わず彼女を見る。
﹁どうかした? 言いたいことがあるならはっきり言いましょうね﹂
そして、僕の非難めいた視線に気づき、槙坂先輩もこちらを見た。
体の距離が近ければ、当然、顔の距離も近くなる。その至近距離
で彼女は、まるで裏表などないかのように微笑んでみせるのだった。
﹁前に言ったはずだが?﹂
﹁忘れたわ。それに想いは口にしないと伝わらないものよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
もしや僕は試されているのだろうか。こういうのはなかなか言い
にくいものなのだがな。前と違って本人に自覚がある、というか、
わかっててわざとやっているのだろうから比較的指摘しやすいが、
今はそばにこえだがいる。あまりそんなやり取りは聞かせたくない。
なお、傍目ではわかりにくいが、このとき僕と槙坂先輩は熾烈な
争いを繰り広げていた。僕は拘束から逃れようと試み、彼女は僕を
逃すまいとがっちりホールドする。その力が均衡しているせいで、
外見上何も変化がないように見えるのだ。
148
力の限り振りほどけば逃れられないこともないのだが、それはそ
れでなりふり構っていないようで敗北感がある。
結局、僕は程なく抵抗を諦め、ほうっておくことにした。そう長
くは続かないだろう。
﹁ね、涼さんは仮装しないの?﹂
こえだは期待を込めて槙坂先輩に聞く。
﹁わたし、そういうのはよくわからないから。前に一度藤間くんに
も尋ねてみたのよ? どんな格好がいい? 好みに合わせるわよっ
て。でも、ちゃんと答えてくれなくて﹂
﹁せっかくだから何か言えばいいのに。涼さん、なに着ても似合う
んだからさー﹂
口を尖らせ、不満を僕に浴びせるこえだ。こいつは絶対平和的な
想像をしているに違いない。
﹁僕は魔女をやれと言ったただろ﹂
﹁魔女っていうと、魔法使い?﹂
と、こえだが首をひねる。
﹁そうとも言うな。それも悪い魔法使いだ﹂
﹁ほら。こんなことばっかり言うのよ。どう思う?﹂
槙坂先輩は苦笑。
﹁今さら何も用意できないし、悪いけど制服のまま参加させてもら
うわ﹂
﹁ちょっと残念だけど、うん、仕方ないね。じゃあ、涼さん、楽し
んでって。真も、またこれそうだったらきてよね﹂
﹁努力する﹂
正直ちょっとむりそうだが。
﹁こえだもしっかりやれよ﹂
﹁がんばってね﹂
僕と槙坂先輩は、手をふりふり張り切って戻っていくこえだを見
送る。
﹁で、いつまでそうしてるつもりだ?﹂
149
続けて、相変わらず僕の腕を取って体を密着させたまま、何やら
やわらかいものを押しつけている槙坂先輩に問う。
﹁あら、何も言わないから、このままがいいのかと思っていたわ﹂
﹁過去、僕がそれを望んだことがあったか﹂
ようやく離れてくれた。
なんだろうな、この普段やらないようなことをする槙坂先輩は。
今日のハロウィンや明日からの学園祭で浮かれているのだろうか。
﹁さて、じゃあ、僕も戻るとするよ﹂
﹁あなたもがんばってね﹂
﹁ああ﹂
僕は踵を返し、背中越しに手を振りながらこの場を後にした。
休憩は終わりだ。
よりよい学園祭のため、ひいては全校生徒のため、もうひとがん
ばりするとしようか。
そのもうひとがんばりは、夜九時まで続いた。
もとより学校に残っていられるのはその時間がリミットだとあら
かじめ言われていて、先生が様子を見にきたのと同時くらいに前日
の準備は終了したのだった。合間にちょっとした差し入れを口にし
たが、まともな食事にはほど遠い。空腹を感じつつマンションに帰
ってきたときには、時計の針は十時を指そうとしていた。
暗証番号を入力してエントランスに入り、ちょうど一階で止まっ
ていたエレベータに乗り込む。いつもならここで、自分の部屋がも
う目の前ということで、気を緩めてため息のひとつも吐くところだ
が、
﹁ところで、あなたはどこまでついてくるつもりなのだろうか?﹂
僕は一緒にエレベータに乗り込み、肩を並べている槙坂涼に問う
た。
﹁もちろん、ここに住んでる知り合いのところまでね﹂
﹁ほう、そんなのがいたのか﹂
150
初耳だな。
﹁ええ、そうなの。わたしの彼氏よ。素敵な男の子。ちょっと素直
じゃないけど、そこがかわいいと言えばかわいいわね﹂
﹁⋮⋮﹂
ダメだ。勝てる気がしない。
﹁僕は明日も準備で、朝が早いんだが?﹂
﹁知ってるわ。大丈夫よ。起こしてあげるわ。朝ごはんもわたしが
作るから、あなたはギリギリまで寝てなさい﹂
彼女の口調はまるで世話好きな姉のようで。
﹁まぁ、そういうことなら﹂
これはこれでやっぱり勝てる気がしなかった。⋮⋮せっかくなの
で、お言葉に甘えるとしようか。
明日の朝食どころか、今日の夕食まで槙坂先輩が作ってくれた。
別に冷蔵庫は開けたらいつも空っぽということはないのだが、所
詮は男子高校生のひとり暮らし。何でも作れるほどいろんなものが
詰まっているわけでもない。にも拘らず、﹁よくもまぁ⋮⋮﹂とた
め息が出そうなほど豪勢な夕食が出てきた。
それをありがたくいただき、十時半過ぎ。
それから風呂に入って出てくると、もう時刻は十一時を回ってい
た。
そして、現在、僕はリビングで読書をし、槙坂先輩は風呂に入っ
ている。
落ち着かない気分だった。
本当なら明日の朝も早いことだし、本など読まずに寝てしまいた
いところなのだが、槙坂先輩を放って自分だけそうするわけにもい
くまい。かと言って、彼女が風呂から上がってくるのを待っている
という今の状況も居心地が悪い。
そんなさっぱり内容が頭に入ってこない読書をどれほど続けてい
たのだろうか。やがて彼女が風呂から上がってリビングに戻ってき
151
た。
ちらと横目でそちらを見れば、丈の長いTシャツ姿。Tシャツワ
ンピースというやつだろう。下にレギンスなりスパッツなりを合わ
せればスポーティではあろうが、裾から伸びているのはすらりとし
た素足だ。そうなるとスカートの丈としては少々頼りない。
極力そちらを意識しないように活字を追っていると、こともあろ
うに彼女は僕の隣に座ったのだった。
﹁なぜここに座る?﹂
﹁このソファ、ふたり掛けでしょう?﹂
答える彼女が足を組むのが視界の隅に見えた。
確かにこのソファはふたり掛けだ。余裕をもって作られているの
で、ふたりで座ったとしても窮屈さはない。だからと言って、ふた
りしかいないときに、わざわざ並んで座ることもないだろう。そう。
特別な意図がない限り。
﹁わかった。僕が向こうに移ろう﹂
本を閉じ、立ち上がった。
が、しかし、腕を引っ張られ、また座らされる。それどころか︱
︱とん、と胸を突かれると、さほど力が入っていたようにも見えな
かったのに、僕はソファの上に仰向けにひっくり返っていた。いっ
たいどんな技だ。
﹁ここがいいわね﹂
そして、その僕に槙坂先輩が馬乗りになる。
﹁何をする!?﹂
﹁そうね。ハロウィンパーティかしら﹂
今まで僕が見たこともないような蠱惑的な笑みが、彼女の口許に
浮かんだ。風呂上りで肌が上気しているせいもあり、いやに妖艶だ。
﹁僕が知ってるハロウィンは仮装したりするものなのだが﹂
少なくとも人に馬乗りになったりはしない。
﹁してなくもないわよ。⋮⋮藤間くん、勝負下着って知ってる?﹂
﹁⋮⋮いや、残念ながら﹂
152
﹁そう。それはおしえ甲斐があっていいわ﹂
﹁⋮⋮﹂
まさかそれが仮装なのだろうか。どうやらハロウィンも日本に定
着すると同時に、さっそく多様化の道を辿りはじめたらしい。
セクシャル
﹁安心して。むやみに過激なだけのものじゃないから。なかなかセ
ンスのいいデザインで、適度に刺激的よ。それに我ながらよく似合
ってると思うわ﹂
聞かないほうが精神衛生上よろしいような説明をしてくれる。
﹁あなたの好みに合わせたつもりよ﹂
﹁僕の? 言ったか?﹂
﹁言ったわ﹂
﹁⋮⋮﹂
ぜんぜん覚えてないのだが。いったいいつの間に僕はそんな上級
者になったのだろうか。思わず今の状況も忘れて天を仰いでしまう。
﹁ああ、でも、今はダメね。半分しか見せてあげられないわ﹂
﹁半分?﹂
ところ
﹁わたし、寝るときはブラをしないもの﹂
﹁うぐっ﹂
またしても欲せざる情報を施され、僕は喉を詰まらせそうになる。
﹁じゃあ、はじめましょうか?﹂
そう言いながら槙坂涼は自分の唇を舐める。
女
だ
もとから大人っぽく魅力的な美少女ではあったが、今ここにいる
彼女はやたらと挑発的で、眩暈がしそうなほど艶めかしい
った。
﹁⋮⋮ま、待て﹂
どうにか声を絞り出す。
﹁なに? 今さら何をなんて聞かないでね?﹂
﹁明るいんだが、いいのか?﹂
いつもは恥ずかしいからと、必ず照明を落としている。
﹁そういう気分のときもあるわ﹂
153
あっさり一蹴。⋮⋮じゃあ、いつものあの態度は何なんだ。
﹁重い﹂
﹁普段はそんなこと言わないくせに﹂
﹁まぁ、思ってないからね﹂
苦し紛れに言ってみただけだ。
﹁大丈夫よ。仮にそうでも、すぐにそんなこと思ってる余裕なんて
なくなるわ﹂
槙坂先輩は、僕の前髪をそのしなやかな指で払い、頬をしっとり
とした手で撫でると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
冷静に考えるに、この状況に対し抵抗や拒絶をしなくてはいけな
い理由が僕にあるのだろうか。別に主導権を握りたいと思っている
わけではないので、そんな理由はないと言えばない。僕が戸惑う何
かがあるとすれば、昼間にも垣間見たこの彼女らしからぬ態度だろ
う。
と、不意に槙坂先輩がぴたりと動きを止めた。
お互いの瞳の中に自分の姿を見てとれるほどの距離だ。
﹁時間切れね﹂
﹁え?﹂
﹁日付が変わったわ﹂
彼女がすっと離れ、僕も首を巡らせて時計を見てみた。
午前零時過ぎ。
確かに日付が変わっている。
﹁ハロウィンは終わりね。どうだった、わたしの悪い魔女は﹂
槙坂先輩はいつものいたずらっぽい笑みで問うてくる。
なるほど。これが彼女なりの仮装だったわけか。仮装にもいろい
ろあるものだ。
﹁危うく毒でやられるところだったよ。⋮⋮まったく。僕がその気
になったらどうするつもりだったんだ﹂
僕は体を起こす。
﹁え? それは⋮⋮﹂
154
途端、彼女の目が泳ぎはじめた。
どうやら考えていなかったようだ。まぁ、僕が抵抗することはわ
かっていただろうし、からかっているうちに時間切れになるくらい
の計算は立っていたのだろう。
﹁も、もちろん思いっきり乱れてみせるわ﹂
﹁⋮⋮﹂
その様子では演じ切るのは難しそうだ。
でも、たった今、彼女の新たな素質を見せられたような気がして、
案外そう断言もできないのかもしれない。
155
第二話 その1
こえだがどうも怯えているらしい。
﹁バッ、バラライカってどんなイカー!?﹂
﹁⋮⋮﹂
ただ錯乱しているだけのようにも見えるが。
﹁お前みたいなイカだろ﹂
﹁イカじゃないもん﹂
﹁タコか﹂
﹁タコでもないもん﹂
こえだがテーブルから身を乗り出し、目を吊り上げる。
僕は今、こえだと昼食をとっていた。そのこえだの横には加々宮
きらりさんもいる。僕が学食にきて一緒に食べる知り合いを探して
いたら、真っ先にこのふたりを見つけたのだ。なお、加々宮さんは
スマートフォンを触っている真っ最中。果たして、話を聞いている
のかいないのか。
で、雑談が前期テストの話になったところで、このこだこ、じゃ
なくて、こえだがテスト恐いとか言い出したのだった。挙げ句、先
のような謎の錯乱ぶり。
﹁まんじゅう恐いの類か?﹂
﹁違うってば⋮⋮﹂
こえだは拗ねたように口を尖らせる。
世の中テストどんとこいな連中もいるけど、そこまでして招き寄
せるやつはいないだろうな。
﹁じゃあ、何なんだ? テストなんて中学のときからやってるだろ﹂
﹁いや、だって、高校生になって初めてのテストだしさ﹂
﹁そうだな﹂
当然、僕はそうでもないけど、一年前の僕は今のこえだと同じ立
156
場だった。
﹁それに前期と後期に一回ずつしかテストがなくて、それで単位が
取れるかどうかが決まるって、なんか怖くない?﹂
﹁明慧はそういうシステムだとしか言いようがないな﹂
中学なら各学期ごと、最終的には一年を通して赤点かどうかを見
る。一年に五回のテストがあるから、それだけリカバリの機会が与
えられているということでもある。まぁ、所詮は義務教育だから、
セメスター
赤点でもかたちばかりの補習をやって、拾い上げてくれるだろうが。
だが、我が明慧大附属では二期制ゆえに、前期に一回、後期に一
回しかテストがなく、それで判断が下される。前期で赤点なら後期
で挽回するしかない。できなかったらそれまでだ。補習もあるには
あるが、そのスタンスは先生による。何回かの補習と超絶に簡単な
追試で単位をくれる先生もいれば、救う気のさらさらない先生もい
るのだ。
二年、三年に上がって、マイナーな科目になると半期だけの授業
なんてのもあって、それだと一発勝負になるのだが⋮⋮まぁ、今そ
れをこえだにおしえてわざわざ不安を煽ることもないか。
﹁もしかして赤点を取りそうなほど授業についていけてないのか?﹂
﹁そういうわけじゃないけどさ﹂
もそもそと弁当のおかずを口に運び、それを飲み下してから、
﹁テストでどれくらい取れるか予想がつかにゃい﹂
﹁うん?﹂
﹁いや、自分ではわかってるつもりで、テストでも自信満々に解答
を書いて、でも、開けてみたらボロボロとかありそうでさ⋮⋮﹂
なるほど。要は、こえだは自分の理解度がいまいち信じられない
のか。
﹁加々宮さんは?﹂
﹁え? わたし?﹂
加々宮さんは僕の声に反応して、スマートフォンから顔を上げた。
美沙希組︵笑︶ではまず見ない光景だ。美沙希先輩は情報社会の
157
申し子みたいな人だが、意外にも人と話しているときに端末をいじ
ったりはしない。メールなどが着信すれば別だが。僕と槙坂先輩は
未だ昔ながらの携帯電話なので、そんな使い方はできない。こえだ
は夏休み中にスマホユーザーに転向しているが、そんな上級生たち
につられたのか、そもそもそんなに器用ではないのか、当初から今
の加々宮さんのようなことはなかった。
結果、端末片手に人と話をするような人間は、この美沙希組︵笑︶
にはいないのである。⋮⋮僕としては、ごく普通のことだと思うの
だが。
﹁わたしも少し不安はありますね﹂
加々宮さんは、僕の質問に問い返すようなことはなかった。ちゃ
んと話は聞いていたらしい。
ふむ、これでふたりか。
﹁わかった。こえだ、僕が勉強をみてやろう﹂
﹁え? 真が?﹂
﹁あと、加々宮さんも﹂
﹁わたしも、ですか?﹂
ふたりが立て続けに驚いた顔をする。
﹁何でもおしえられるわけじゃないけどな。でも、合ってるかどう
かくらいは見てやれるから、理解度の確認程度には使えるはずだ﹂
﹁うーん、それは助かる、かな?﹂
テストに対し不安しかないこえだとしては渡りに船だろう。
﹁でも、どこで? 図書室?﹂
﹁だと七時に閉室するからな﹂
それでも十分かもしれないが、興が乗っているときに腰を折られ
る可能性がある。なので、時間制限があるところは避けたい。
﹁いちおう僕の家を考えてるんだが﹂
﹁え、真んち!?﹂
﹁お前ね、余計な誤解を生まないよう、ふたり一緒に誘った僕の気
遣いを察しろよ?﹂
158
ひとりだけを家に誘ったら、さすがにこの呑気なこえだでも抵抗
があるだろう。だから、もののついでと思い、加々宮さんも巻き込
んだのだ。これでも警戒されるようなら、僕は自身の人徳のなさを
反省せねばなるまい。
﹁あはは。大丈夫。真があたしのことなんか相手にしてないのはわ
かってるから﹂
苦笑するこえだ。
きたるテストに向けて少しでも不安を取り除いてやろうと思うく
らいには、かわいい後輩だと思ってるのだがな。
﹁それで当日、サエちゃんがこられなくなって、わたしとふたりっ
きりなるんですね。わかります﹂
﹁僕はわからないよ﹂
こっちは相変わらずだな。
加々宮さんの妄言は無視して、僕は少し離れたところに目をやっ
た。そこでは槙坂涼が数人の友人とテーブルを囲んでいる。都合の
いいことにもうすでに昼食は終わっているようで、今は食後のおし
ゃべりタイムのようだ。
ここに座ったときから、そこに彼女がいるのはわかっていた。向
こうも僕に気づいているはずだ。実際、何度か目が合っている。
そのまま見続けていると、程なくしてまた視線が交錯した。その
タイミングで片手を軽く上げ、合図を送る。すると、槙坂先輩は目
をぱちくり数回瞬かせた後、周りの友人たちに何ごとかを断って立
ち上がった。
弁当箱の入ったトートバッグを提げ、こちらに歩いてくる。
﹁驚いたわ。藤間くんがわたしを呼ぶなんて﹂
﹁用があったからね﹂
こちらの意図が正確に伝わって何よりだ。
﹁何の用なの?﹂
彼女は僕の横に座る。
向かいでは加々宮さんがむっとしている。また無駄な対抗心に火
159
をつけたのだろうな。懲りないことだ。
﹁近々このふたりの勉強を見ることになったんだが、槙坂先輩もこ
ないか?﹂
﹁あら、そんな話があるのね﹂
槙坂先輩はしばし考える。
﹁それでなぜかふたりがこれなくなって、わたしと藤間くんだけに
なるのね。あらあら、何の勉強なのかしら。楽しみだわ﹂
﹁いや、そんな予定はないから﹂
どいつもこいつも。明らかに僕のほうが罠にかかる側だろうに。
実際、かかっているわけだし。
﹁別にむりしてこなくてもいいですよ。真先輩が優しくおしえてく
れるそうですから。⋮⋮ね、真先輩﹂
瞬間、びきっ、と槙坂先輩の顔が固まった。
まったく。僕をどんなふうに呼ぼうと気にしないが、人を煽るの
に使うなよな。これまでの対戦成績からして、十中八九反撃に遭う
んだから。
槙坂先輩は小さく咳払い。すぐさま体勢を立て直す。
﹁ええ、もちろん、行くわ。サエちゃんは藤間くんが見てあげてね。
加々宮さんのほうは、わたしが優しく見てあげるから﹂
﹁ひいっ﹂
ほらみろ。
槙坂先輩は、台詞の前半を僕に向けて笑顔で言い、後半を加々宮
さんに向き直って言った。果たして、そのときにはどんな種類の笑
顔を見せていたのだろうか。隣にいた僕には見えなかった。確かな
のは、加々宮さんがそれを見て悲鳴をもらしたことだけだ。
﹁美沙希さんは? 成績いいらしいじゃん。呼ばないの?﹂
幸いにしてそれを見ていなかったこえだが、緊迫した空気にも気
づかず聞いてくる。
﹁確かにあの人は成績はいいな。ただ、おしえ方が致命的に下手な
んだ﹂
160
そのくせスパルタだから、勉強よりも根性ばかりが身についてし
まうのだった。強いて言えば、弱いスポーツチームの体罰肯定派監
督みたいなもの。なので、今回は遠慮してもうらうことにする。
兎も角、このメンバーでの勉強会が決まったのだった。
161
第二話 その2︵前書き︶
書いたのにアップするの忘れてたわ⋮⋮。
162
第二話 その2
勉強会は土曜日に行うことになった。
各々自宅で昼食をとった後、昼過ぎに集まり夕方まで勉強の予定
だ。さほど時間をとるつもりはない。目的は一年生ふたりの授業の
理解度を確認することにあるのだから。これでまったくわかってい
ないことが発覚したら、そのときはそのときだ。何か手を考えよう。
集合場所は我が家の最寄駅の改札口。
僕の家でやるのだから、当然そうなる。ここからは大型ショッピ
ングセンター、サクラ・ヤーズにも直通しているが、今日のところ
は関係ないだろう。めでたくテストを乗り越えたら、秋休みにみん
なで遊びに繰り出してもいいかもしれない。
僕はここに、待ち合わせの三十分前には立っていた。
少々早すぎる気もするが、誰かひとりくらいは早くくるだろうし、
そこから一緒に待っていればそう苦にもなるまい。
そう思っていると、ここに立って十分もしないうちに、電車から
吐き出された乗客たちとともにホームから槙坂涼が上がってきた。
ソフトデニムのクロップドパンツ姿だった。細身の七分丈。足のシ
ルエットがとてもきれいだ。
彼女は僕の姿を認めると、微笑みを浮かべる。僕も軽く手を上げ
て応えた。
﹁こんにちは、藤間くん﹂
改札を出てきた彼女の第一声。
﹁ずいぶんと早いな﹂
﹁あなたのことだから、もうきてると思ったのよ﹂
﹁なるほど﹂
読まれているのも癪だな。
﹁見ての通り、あのふたりがまだなんだ﹂
163
こえだと加々宮さん。
たぶんふたりは一緒にくるだろう。それも待ち合わせ時間に最も
近い電車で。即ちそれは、五分前と二分後の電車があれば、二分後
の電車を選ぶということだ。
僕は隣で自動改札の向こうを眺める槙坂先輩に問いかける。
﹁で、何か話があるのか?﹂
﹁あら、察しがよくて助かるわ﹂
僕が早くきているだろうから、早くきた︱︱。もちろん、僕を待
たせないようにとも解釈できるが、何となくそこに誰よりも早く会
って話がしたかったという意図があるように感じたのだ。そして、
どうやらそれは当たりだったらしい。
﹁⋮⋮あなた、何を考えているの?﹂
彼女はこれまでの稚気を含んだ口調とは打って変わって真面目に、
問いかけらしきものを口にする。
﹁質問なら具体的に頼むよ。アバウトすぎる﹂
﹁加々宮さんのことよ﹂
固有名詞が出たものの、質問が具体的になったわけではない。が、
言わんとしているところはわかる。
﹁あの子があなたに何をしたか忘れたの?﹂
﹁何かするのは僕にじゃないだろう? 対象は槙坂先輩だ。僕は単
なるリトマス試験紙に過ぎないよ﹂
加々宮さんは僕にアピールとアプローチを繰り返してくるが、そ
れは自分が女の子として槙坂涼より上だと証明したいがためだ。そ
の最もわかりやすい指標として選ばれたのが僕。僕を槙坂先輩から
自分に振り向かせることで証明終了にしようとしているのである。
﹁単なる、ねぇ。だといいけど﹂
﹁⋮⋮﹂
あの加々宮さんが? あの容姿なら男なんてよりどりみどりだろ
うに。それをよりによって僕に本気になるだろうか? 尤も、すぐ
そばには槙坂涼という例がいるので、そういう意味では世の中なに
164
が起こるかわからないのも確かだ。
﹁僕としては、面倒を見る後輩がひとり増えたくらいの感じさ﹂
﹁それで名前で呼ばせてるのね。真先輩は﹂
﹁僕が一貫して呼び方に拘らないのは知ってるだろう﹂
むしろ﹃先輩﹄とつくだけましなほうだ。こえだや切谷さんなん
か、年下なのに呼び捨てだ。
﹁じゃあ、わたしも好きに呼んでいいのね?﹂
﹁もちろんさ。ただし︱︱ヴォルテール曰く﹃私は君の意見には反
対だが、君がそう発言する権利については私は命をかけても守る﹄。
僕も好きに呼ばせてもらう。これまで通りにね﹂
互いの意志と権利は尊重したいものだ。
﹁つまり、今まで通りベッドの中では名前で呼んでくれるってこと
ね﹂
﹁⋮⋮それ、あのふたりの前で言うなよ﹂
こえだにはまだまだ純心のままで、僕の癒やしになってもらいた
い。加々宮さんは人の男を奪おうと画策するような子だが、あれで
けっこう免疫がない。そのくせ知識はある上に女としての勘が鋭い
ので、よけいな想像をしてすぐに頭がショートするのだ。
﹁あなたは本当、面白ければ危険なものでも懐に招き入れるのね﹂
そこまで命知らずではないつもりなんだがな。
﹁まぁ、いいわ。後輩のひとりとして面倒を見ているだけというな
ら、わたしがとやかく言うことではないわね﹂
﹁さて、じゃあ、ここで言いそびれていたことを言っておこうか。
実は夏休み明け、八月最後の日曜日だったかな? こえだと加々宮
さんと三人でプールに行ってきたんだ﹂
がっし!
次の瞬間、僕は胸ぐらを掴まれていた。もちろん、槙坂先輩にだ。
マンガ的に表現するなら、こめかみに青筋を模した怒りマークが
浮かんでいる状態だ。口の端が吊り上っていた。
コンコースを行き交う人が皆、こちらに目をやりながら通ってい
165
く。﹁なんだ、ケンカか?﹂﹁男刺されろ﹂﹁男死ね﹂。⋮⋮世の
中同性を嫌う男が多すぎだろ。
﹁あなた、何を考えてるの?﹂
質問は具体的にしてほしいものだ。
﹁ほら、夏休みにこえだをプールに連れていき損ねただろ。あれの
埋め合わせだよ﹂
﹁そこまではわかるわ。でも、なぜそこにわたしがいないのかしら
?﹂
この人はあのふたりを公開処刑にするつもりだろうか。無慈悲な
格差が如実に表れるだろうに。
﹁話せば長くなる﹂
﹁手短にお願いするわ。いつまでもこの状態でいたくないのなら﹂
そうだな。こんなところで胸ぐらを掴まれたままでは注目を浴び
て仕方がない。
﹁実は槙坂先輩の水着姿をほかの男どもに見られたくなかったんだ﹂
﹁あら、そうだったの? 仕方ないわね。今度ふたりきりのときに
あなたにだけ見せてあげるわ﹂
﹁すまない。嘘だ﹂
﹁わたしは本気よ、真﹂
おいやめろ。この流れで僕を名前で呼んでくれるな。
僕たちは顔を近づけたまま、ふふふ、と笑い合う。そうしてから
ようやく槙坂先輩は手を離してくれた。
﹁まぁ、藤間くんがプールという場所でわたしを避ける理由はだい
たい想像がつくわ。さっきの言葉も半分くらいは本当でしょうし﹂
彼女は乱れた僕の服を直しながら言う。
﹁その上で、あのふたりのお守りとしてついていったんでしょうね﹂
﹁概ねそんなところだ。⋮⋮ああ、きたな﹂
自動改札の向こうを見れば、こえだと加々宮さんの姿があった。
予想通りふたり一緒にきたようだ。ふたりともこちらに気づくと、
小走りになった。
166
﹁後輩の面倒もいいけど、ちゃんと先輩の相手もしなさい﹂
﹁⋮⋮了解﹂
僕とて蔑ろにするつもりはない。
やってきたふたりは、こえだがキュロットスカートで、加々宮さ
んがキャミソールワンピースと、それぞれ夏らしいスタイル。改め
て見れば、女性陣は三者三様のファッションとなったのだった。
﹁待った?﹂
﹁いや、さほど。そっちがはやくきてくれたおかげだな﹂
時計を確認すれば、まだ集合時間の十分前だった。ふたり一緒に
くるという予想は当たったが、時間に関しては外れてしまったよう
だ。喜ばしいことだ。
そして、
﹁じゃー、さっそく﹂
﹁れっつ、ごー﹂
﹁待て﹂﹁待ちなさい﹂
僕と槙坂先輩は、いきなりサクラ・ヤーズに向かって歩き出した
後輩ふたりの襟を、同時に掴んだのだった。
167
第二話 その3
アホ面がふたつ並んでいた。
こえだと加々宮さんだ。
ふたりはそろって間の抜けた顔をして、僕の住むタワーマンショ
ンを見上げている。
﹁サエちゃん、知ってた⋮⋮?﹂
﹁話だけは⋮⋮﹂
どうやら高校生のひとり暮らしとは思えないほど豪華なこのマン
ションに唖然としているらしい。まぁ、僕だって過剰だとは思うが、
我が親愛なる親父殿がこんなものを用意してしまったのだからしよ
うがない。金がありすぎて、世間の感覚とずれているのだろう。
僕はエントランスのロックを解除する。
﹁ほら、ふたりとも、そんなところに立ってないで。入るわよ﹂
そう促すのは槙坂先輩だった。
そうして僕と彼女は、開いたドアをくぐり、エントランスへ。
﹁涼さん、普通に入っていったね⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
後ろからふたりのそんな声が聞こえてくる。そして、なぜか槙坂
先輩には、すまし顔の中にもどこか勝ち誇ったような様子が窺えた。
﹁真先輩って、もしかしてお金持ちなんですか?﹂
ボタンを押してエレベータを呼ぶ僕に追いついてきて、加々宮さ
んが興奮気味に聞いてくる。
﹁らしいね﹂
尤も、世間的にはあまり歓迎されない立場だけど。
﹁むむ、これはまた真先輩を落とす理由が増えたような⋮⋮﹂
﹁槙坂先輩、このまま彼女とつき合ってしまっていいだろうか? けっこう僕の好みなんだが﹂
168
﹁ダメに決まってるでしょう﹂
呆れ口調の槙坂先輩。
﹁まったく。本当にあなたは変わった子が好きなんだから。わたし
もその手のことを言えばいいのかしらね﹂
そして、彼女は何を思ったのか、髪をかき上げつつ、
⋮⋮
﹂﹂﹂
﹁⋮⋮お金のない男になんて興味はないわ﹂
﹁﹁﹁
図らずも僕とこえだと加々宮さんの三人は、そろって足を止めて
しまった。
そうとは知らず槙坂先輩は降りてきたエレベータに乗り込み︱︱
中に入って振り返ったところで、固まっている僕たちに気づいた。
﹁え? な、何⋮⋮?﹂
﹁いや、あまりにも似合いすぎて⋮⋮﹂
ドン引きレベルである。
やがて僕たちの間を決定的に隔絶するようにエレベータのドアが
閉まりはじめ︱︱それが閉まり切る直前、槙坂先輩が慌てて﹃開﹄
ボタンを連打したのだった。
エレベータで僕の住む二十八階へ。
途中、中でこえだと加々宮さんができるだけ槙坂先輩から距離を
とろうと、壁に貼りついているのがシュールだった。
エレベータを降りて廊下を進む。
﹁あ、やべ。緊張してきました﹂
数歩もいかないうちに加々宮さんの歩き方がぎこちなくなる。
このマンションは背だけでなくほかにもいろいろお高いので、ホ
テルのような趣がある。確かに慣れていないと緊張するかもしれな
い。こえだが押し黙ってしまったのも、その一種だろうか。
一方、もうここに何度かきて、すっかり慣れてしまった槙坂涼の
169
ようなのもいる。尤も、この人の場合は、慣れたというよりも似合
っているのだが。
﹁どうぞ﹂
鍵を開け、ドアを開けて、三人を招き入れる。
玄関には僕が家を出る前に用意しておいた来客用スリッパが三足
並んでいる。僕はそれをまたいで、自分のスリッパに足を突っ込む。
因みに、常備している来客用は二足しかなかったので、昨日買いに
いってきた。
﹁おじゃまします﹂
三人は口々に言って、玄関を上がった。
﹁おー﹂
﹁わあ﹂
初めてきたふたりが、リビングを見て感嘆の声を上げた。
﹁とりあえず一服しようか。暑かったしな。テキトーに座ってくれ﹂
駅からここまで徒歩圏内とは言え、さっぱり暑さのやわらがない
九月の昼過ぎを歩いてきたのだ。さすがにいきなり勉強という気に
はならない。
﹁じゃー、さっそくこれの出番ですね﹂
そう言って加々宮さんがバッグから出してきたのは、そこそこ大
きなコンビニの袋だった。どうやら中身は様々なスナック菓子のよ
うだ。集合場所に現れたときはずいぶんと大きなバッグを持ってい
るものだと思ったが、こんなものを入れていたらしい。
﹁うん。それは休憩のときにしようか﹂
だが、却下。
なお、持ちものがそこそこ多いのは、ほかのふたりも同じだ。加
々宮さんと同じように何かが飛び出してくるのか、はたまた勉強す
る気満々なのか。
﹁とりあえずコーヒーでも入れるわね﹂
﹁それは僕がやる。客は黙ってもてなされてくれ﹂
決して我が物顔で人の家のキッチンを使ってくれるな。
170
﹁真、コンビニスイーツ買ってきたんだけど、冷蔵庫に入れててい
い?﹂
やっぱり出てきたか。たぶんふたり一緒に途中で寄ってきたのだ
ろう。
女の子というのは、どうしてこうもコンビニのお菓子が好きなん
だろうな。しかも、決まって大量購入。スーパーで買えばもっと安
くすませられるだろうに。
﹁いいけど、うっかり自分が入るなよ﹂
﹁入らないもん!﹂
いくらこえだが小動物とは言え、さすがに冷蔵庫には入らないか。
そんなわけでひと休みしてから勉強がはじまった。
バカみたいに広いリビングの空きスペースに座卓を広げ、四人で
囲む。自然、一年生組と上級生組に分かれて座った。
﹁うん。だいたいわかってるんじゃないか﹂
手始めに数学の問題をいくつか解かせたところ、こえだは見事正
解した。
﹁よかったな。バカキャラが定着しなくて﹂
﹁え、あたしそんな危機的状況だったの!?﹂
少なくともこれで勉強ができなかったら、僕の中ではバカかわい
いやつという認識にはなっていただろう。
﹁基本はできてるから、ひねった問題の出ない前期テストは楽勝だ
ろ﹂
と、安心させるために言ってやったのだが、こえだは手元に返っ
てきたノートを睨み、﹁むー﹂とうなっている。
﹁どうした?﹂
﹁いや、この場合、合ってると言った真の判断が本当に正しいかは
わからないわけで⋮⋮﹂
むむむ、とわざとらしく難しい顔を作る。
﹁後期クィーン問題かよ﹂
171
﹁何それ?﹂
聞き慣れない単語だったのだろう、聞き返してくるこえだ。さす
がにこれを知らないことでバカキャラにしてしまうのはかわいそう
だろう。
﹁推理小説は読むか?﹂
﹁たまには﹂
﹁要するに、探偵が﹃犯人はお前だ﹄と結論を出したところで、そ
れが正しいという客観的保証がないという話だな﹂
探偵役が知らない情報がまだあるかもしれないし、知らない事件
関係者がいるかもしれない。それらがないと客観的に判断できず、
あくまで探偵が主観的な情報に基づいて下した結論が必ずしも正し
いとは限らない、ということだ。
逆に、推理小説はあくまでも小説という形態の娯楽であるとした
上で、﹁犯人は登場人物の中にいる﹂﹁犯人以外は嘘をつかない﹂
﹁作中で手掛かりがすべて明かされ、読者も犯人に辿りつける﹂と
いったルールを定めたのが﹃ノックスの十戒﹄や﹃ヴァン・ダイン
の二十則﹄なのだろう。
後期クィーン問題はほかにもあるのだが今は割愛。
つまり、これを今の状況に置き換えると、合っていると言った僕
の言葉が正しいと判断する客観的証拠がない、という話になる。
﹁というわけで︱︱﹂
僕は一度は返したこえだのノートを取り上げ、
﹁はい﹂
と、隣にいる槙坂先輩に渡した。
﹁⋮⋮大丈夫よ、サエちゃん。ちゃんと合ってるわ﹂
彼女はそれにさっと目を通すと、そう言って笑みを見せたのだっ
た。こえだもほっと胸を撫で下ろす。槙坂涼に太鼓判を押してもら
えれば、こえだも安心だろう。というか、むしろ僕なんかいなくて
も、彼女の保証さえあれば十分なのではないかとすら思う。
因みに、槙坂先輩の担当は加々宮さんだ。この勉強会が決まった
172
ときに言っていた通りになっている。
﹁こんなふうに真に何かおしえてもらうのって、履修届以来かも﹂
﹁確かにな﹂
あれからまだ半年もたっていないのか。もう四年くらい過ぎた気
分だ。
﹁そんなことがあったの?﹂
﹁まぁね。こいつが履修届を前にして、ない頭でうんうんうなって
から、少しばかりおしえてやったんだ﹂
﹁言い方ひどくないっ!?﹂
さすがにこれはこえだも心外だったらしい。
﹁涼さんにあのこと言いつけるもん﹂
﹁む。なんだよ﹂
言われて困るようなことは⋮⋮いくつかありそうだが、そういう
のはこえだは知らないはずだ。
こえだは、僕からは見えないよう口許を隠し、槙坂先輩に囁く。
﹁真ってばガイダンスの日に、新入生の中にかわいい女の子がいな
いかと思って、わざわざ早く学校にきてたんですよ﹂
﹁あ、バカ、お前︱︱﹂
しかし、こえだは止まらない。
﹁しかも、ちゃんと収穫があったって﹂
確かに前に、こえだに冗談めかせてそんな話をしたことがあるの
だが、残念ながらこいつにはそれの意味するところが伝わらなかっ
たのだ。よりにもよって槙坂先輩にそれを言うか。
﹁藤間くん、それって⋮⋮﹂
﹁よけいなことを話してないで、勉強しろ勉強﹂
僕は、案の定何かに気づいたらしい槙坂先輩の言葉を遮る。はす
向かいでは加々宮さんがいいことを聞いたとばかりに、意地の悪そ
うな笑みを見せていた。
173
第二話 その4
日中はまだ暑いとは言え、夕方になるとそれもやわらぎ、五時を
過ぎれば外もそこそこ暗くなる。
﹁はっはっはー。ぐみんどもめー﹂
そして、窓のそばで下界を見下ろしつつ、そんなことをのたまう
愉快なこえだ。
﹁お前はオレンジジュース片手に何をやっているんだ﹂
﹁や、こういう高いところにきたら言いたくならない?﹂
﹁なるか﹂
言い慣れていないから、ぜんぶひらがなみたいな発音になってい
る。それにどうせやるんだったら中身はジンジャーエールあたりで
いいから、せめてワイングラスを持ってやれ。オレンジジュースじ
ゃさっぱり恰好がつかない。
だいたい、そんなこと言い出したら、ここに住んでいる僕はとっ
くに人格が歪んていることになるのだがな。
﹁お前、発言には気をつけろよ。バカが定着するぞ﹂
何とかと煙は、と言うしな。
﹁あと、なぜ槙坂先輩まで立とうとしている?﹂
ついでに僕の隣で立ち上がりかけている槙坂涼も制する。
﹁え? わたしもやってみようかと思って﹂
﹁やめてくれ﹂
似合いそうで怖いし、その場合一年生ふたりがまた怯える。エン
トランスでやったのと同じ調子で﹁見ろ、人が⋮⋮﹂とか言われた
ら、メンタル弱いやつなら即死だ。
僕は立ち上がって壁にあるスイッチを押した。
﹁おお、カーテンが勝手にっ﹂
こえだが驚きの声を上げた。
174
このマンションではボタンひとつでリビングのカーテンが閉まる
ようになっている。とは言え、明慧大附属の一部の大教室でもでき
ることだし、そこまで驚くことでもないと思うが。
﹁ていうか、こえだ、教科書を取りにいくんだろ? バカやってな
いで、さっさといってこい﹂
﹁はぁーい﹂
一年生ふたりの授業の理解度を確認する目的で開かれたこの勉強
会だったが、早々にそのあたりに問題はないとわかり、途中からは
わからないことがあれば聞くというスタイルに移行していた。
で、ここにきて、こえだが最後にやろうとしていた科目の教科書
を忘れたことが発覚し、仕方がないので僕のものを貸すことになっ
たのだった。
こえだが僕の私室へと消えていく。
﹁真先輩、あれ何ですか?﹂
それを見送っていた加々宮さんが何かに気づいて聞いてきた。彼
女の視線の先にあったのは、壁に掛けられた額縁。中に入っている
のは︱︱
﹁それは装飾写本だよ﹂
﹁そうしょくしゃほん?﹂
聞いたこともなかったらしく、疑問形の発音を返してくる。
﹁要するに、まだ印刷技術がなくて、一文字一文字手で書き写して
いたころの本の一ページだよ﹂
﹁それだけ古いってことは、やっぱり高いんですか!?﹂
﹁そうでもない、かな﹂
目を輝かせて値段の話をしてくる彼女の姿に、僕は苦笑する。
﹁少なくとも高校生が貯金を切り崩せば買える値段ではあった﹂
買うかどうかは別として、ではあるが。
﹁でも、僕にとっては価値のあるものだし、大袈裟なことを言えば
人類にとっても価値があるものだと思う﹂
何せ、人間は大昔からこうやってひとつひとつ手作業で文献を複
175
製し、知識をつないできたのだから。ここにあるのはおそらく聖書
だが、日本人だって遣唐使が中国で経典を書き写し、仏教を取り入
れている。
因みに、僕がこれを見つけたのは大型書店の催事コーナーでやっ
ていた古書の催しものでだ。見つけた瞬間、強烈な力を感じて迷う
ことなく購入を決めた。何を思ってこんな価値のあるものをバラバ
ラにしたのかと怒りを覚えるが、その一ページが流れ流れて僕のと
ころに舞い込んできたのだから、多少は感謝してもいいのかもしれ
ない。
﹁はー、これってそんなにすごいものなんですねー﹂
加々宮さんはピンときていない様子。まぁ、興味がなければそん
なものだろう。趣味なんて人それぞれ。共有してほしいとは思って
いない。
僕も彼女も勉強へと戻る。
にしても、こえだのやつ遅いな。僕の部屋で教科書を取ってくる
だけなのに。去年使っていたやつだけど、書架に並べて置いてある
からどこにあるかわからないなんてことはないはずなのだが。
と思っていると、そのこえだがようやく戻っくる。
それはいいのだが、僕の気のせいだろうか、なぜか彼女は浮かな
い顔をしているように見えた。
﹁こえだ、わかったか?﹂
﹁え? あ、うん。これでしょ?﹂
そう言って取ってきた教科書と、笑顔を見せる。⋮⋮笑顔のほう
は、まるで慌てて作ったみたいだった。
﹁ちょっと借りるね﹂
そうして腰を下ろすと、さっそくそれを広げはじめる。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
何か変だな。
僕は、やはり僕と同じくこえだの様子がおかしいことに気づいた
176
槙坂先輩と、顔を見合わせた。
時計の針が午後六時を回ったころには、それぞれの勉強がひと通
り終わった。一年生組から上級生へだけではなく、僕が槙坂先輩に
聞くこともあり、なかなかに充実した時間だったように思う。
そして、槙坂先輩が切り出す。
﹁じゃあ、そろそろ夕飯にしましょうか﹂
﹁待て﹂
何やら僕の知らないイベントがはじまろうとしていないだろうか。
﹁あら、いいじゃない。せっかくこれだけの人数が集まったのだか
ら、一緒に食べるのもいいものよ﹂
﹁いいですねー。そうしましょうそうしましょう﹂
すかさず加々宮さんが同意する。
僕はすぐに察した。これは最初からこういう流れになることで話
がついていたに違いない。⋮⋮まったく。僕のあずかり知らぬとこ
ろで、どこまで勝手に話が進んでいるのだろうな。これで終われば
いいと思う。が、三人ともそれぞれ大きめの荷物を持ってきている
のが気になる。現状、その中身の半分も明らかになっていないはず
だ。もはや不安しか感じない。
﹁これじゃ心もとないわね⋮⋮﹂
冷蔵庫を覗き込んでいた槙坂先輩が、困ったように声を上げた。
当然だろう。その冷蔵庫の主はひとり暮らしなのだから。いいか
げんな食生活はしていないからそれなりのものが入っているが、作
れたとしても二人分がいいところだ。
﹁もう少し何か買ってくる必要がありそうね﹂
﹁じゃー、買いものですね。ここは真先輩に買いものの相手を選ん
でもらいましょう。この中でいちばんかわいいと思う女の子を選ん
でください﹂
加々宮さんがいきなり意味不明な提案をぶち上げた。
﹁さあさあ﹂
177
﹁⋮⋮﹂
急かされて思わず真面目に考えてしまう。まず槙坂涼を選ぶとい
う選択肢は僕にはない。加々宮さんを選べば彼女の思う壺だ。ここ
は無難にこえだか⋮⋮と思ったが、ああ、これこそ罠なのか。昼間
の話が地味に利いてくるな。
﹁バカなこと言ってないの﹂
そこに槙坂先輩が割って入ってきた。
﹁わたしが作るのだから、わたしが行かなくてどうするの。ほら、
行くわよ。あなたもつき合いなさい﹂
﹁え? わ、わたし!?﹂
槙坂先輩は加々宮さんの腕をがっちりつかむと、そのまま引っ張
っていく。
﹁た、助けて、真先輩。わたし、槙坂さんとふたりなんて嫌です!
この人、優等生ぶってますけど、絶対超高校級のいやらしい何か
︱︱﹂
そして、玄関ドアの向こうへと消えていった。加々宮さんの言葉
は途中で聞こえなくなり、彼女が何を言おうとしていたかはわから
なかった︱︱ことにしておく。
この場に残されたのはふたり。
僕とこえだ。
つまりはそういうことなのだろう。切谷さんのときにも思ったが、
あまりこういうのは得意ではない。が、彼女のときと違い、今回は
ここで起こったことだ。ならば、僕の役割なのだろう。
﹁こえだ、コーヒーでも飲むか?﹂
玄関に向かって﹁あははは⋮⋮﹂と乾いた笑いをもらしていたこ
えだに、僕は声をかける。
﹁ううん。あたしはいい﹂
﹁そうか。じゃあ、僕ひとりで飲むよ﹂
僕はキッチンに行くと、グラスにコーヒーを注ぎ、氷とミルクを
放り込んでお手軽アイスコーヒーを作る。
178
間、こえだの様子をそれとなく見ていたのだが、どうやらソファ
の上で膝を抱えながら彼女も僕のことを窺っているようだった。何
か話すタイミングをはかっているふうだ。
僕はコーヒーのグラスを持ってカウンターダイニングのハイチェ
アに尻を乗せた。
﹁こえだ、どうかしたのか? さっきから変だぞ﹂
﹁え? べ、別に何もない、けど?﹂
と否定はするが、僕にはそうは見えない。
僕の部屋に入ったときからだ。あのときからこえだは明らかに変
調をきたしている。あの部屋はいわゆる勉強部屋で、机と教科書や
参考書を詰め込んだ書架くらいしかなかったはずだ。こえだがこう
なる理由がわからない。
﹁いいから話せよ。僕とお前の仲だろ﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
改めて促せば、こえだは素直にうなずいた。普段ならどんな仲だ
よなんていう反問もありそうなものだが、それもない。
﹁⋮⋮あのさ﹂
それでもまだ迷っていたようだった。が、僕がじっくり待つつも
りでアイスコーヒーをひと口飲んだところで、ようやく口を開いた。
彼女は聞いてくる。
﹁部屋の本棚に留学関係の本がたくさんあったけど⋮⋮あれ、なに
?﹂
179
第二話 その5
三枝小枝は問う。
﹁部屋の本棚に留学関係の本がたくさんあったけど⋮⋮あれ、なに
?﹂
と︱︱。
しまったな︱︱正直そんな思いだ。カウンターダイニングのハイ
チェアに座りながら、僕は天を仰ぐように天井に目をやった。
あの部屋はいわゆる勉強部屋で、書籍の類は教科書や参考書など
が主だ。そして、そこにはこえだが見つけた留学関係の資料も含ま
れている。ちょっと興味があって、と誤魔化せる量ではない。
自分の迂闊さを呪う。
﹁そうか。あれを見られたか﹂
見られてしまったのなら仕方がない。最初に話すのがこえだとい
うのも、あまり真面目な話になりすぎなくていいのかもしれない。
﹁まだ身内にしか言ってない話なんだけど︱︱僕は高校を卒業した
らアメリカに留学しようと思ってるんだ﹂
﹁いつ、帰ってくるの?﹂
﹁帰ってこない﹂
言った瞬間、こえだが息を飲んだ。
﹁いや、それは大袈裟か﹂
むやみに驚かせてしまったことに苦笑しつつ、僕は訂正する。
﹁留学して順調に夢が叶えば、そのままアメリカに住むことになる﹂
アメリカで勉強して、なりたいものになって。そうしたら生活基
盤は当然向こうに置くことになる。在学中もその後も、頻度はわか
らないけれど、休暇に帰国するといった感じになるのだろうな。
僕はアイスコーヒーで喉を潤してから、改めて話しはじめる。
180
﹁こえだ。僕はね、アメリカの図書館で司書になりたいんだ﹂
﹁司書?﹂
問い返してくるこえだ。
﹁知ってるだろ? 図書館のカウンタで貸出とか返却をやっている
人﹂
本当はそれだけじゃないし、それだけしかできないようなら司書
とは言えない。させない図書館も図書館ではない。
﹁日本じゃダメなの?﹂
﹁ダメだ﹂
僕はきっぱりと答えた。
﹁日本とアメリカの図書館は、もう別ものなんだ。⋮⋮知ってるか
? 司書は本来、スペシャリストなんだぞ﹂
アメリカで司書になろうと思ったらALA、アメリカ図書館協会
が指定する大学で修士課程まで修めないとならない。大学の文系学
科で単位をかき集めて資格を取得できる日本とは大違いだ。だから、
僕は高校を卒業と同時にアメリカに渡る。
レファレンス
﹁蔵書を把握し、図書館コレクションを知り尽くし、地域のことま
で理解した上で、専門的な相談にも答えるだけの知識を頭に入れて
こそ司書と言えるんだ﹂
アメリカの公共図書館の司書は専門化していることも少なくない。
ビジネス支援をするビジネス・ライブラリアンや、法律の相談を受
けるロー・ライブラリアンなどだ。⋮⋮僕はいったいどんなライブ
ラリアンになるのだろうな。今はまだわからないけど、自分がこれ
と思った分野で人の助けになりたいと思う。
﹁アメリカじゃ引っ越ししたらまず最初に図書館に行けと言われる
くらいなんだ。地域のことは何でも知ってるからね。日本じゃ考え
られないだろ?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
アメリカの図書館では講師を招いて学習塾のようなこともするし、
企業と協力して就職支援もする。聞いた話によると、花を育てたい
181
と言われれば花の種を配り、そのためのスコップまで貸すそうだ。
もう何でもありだ。
日本には公民館というものがあるが、アメリカにはそれに該当す
る単語も施設もない。図書館がそれを担うからだ。
それに比べて日本の図書館は遅れている。もっと言えば、道を誤
った。図書館を単なる無料の貸し本屋にしてしまったからだ。
図書館員を貸出返却、排架をするための人員としか見ていないか
ら、指定管理者制度などで業務を委託してしまう。委託業者も数年
でスタッフを入れ替える。これでは専門家が育つはずがない。
おそらく図書館学における図書館情報学や図書館サービス論、専
門資料論といった各分野を文系の一科目にしてしまったのが誤りの
もとなのだろう。これらを総合的に人間社会学に位置づけておけば、
図書館も人間のあらゆる活動を支援するための施設になっていたに
違いない。
﹁僕はアメリカの図書館のそういう在り方に憧れる。そこで司書に
なるのが僕の夢なんだ﹂
そう語った僕を、こえだはソファの上で膝を抱えたままじっと見
ている。これだけ僕のはっきりした留学の動機を聞いても、彼女は
不満そうだった。
﹁なんだよ、こえだ。そんなに僕がいなくなるのが寂しいのか?﹂
﹁ち、違うもんっ﹂
からかうように言ってやると、こえだは顔を赤くして否定した。
﹁日本に帰ってきたときはちゃんと連絡するよ。だいたいさ、ほっ
といたって僕が先に卒業して、そのまま疎遠になることだって十分
にあるんだ。僕がどこにいるかなんてたいした問題じゃないだろ﹂
だが、我知らず多弁になる僕の言葉にかぶせるようにして、こえ
だは発音する。
﹁涼さんは︱︱﹂
﹁ん?﹂
﹁涼さんはどうするの?﹂
182
﹁⋮⋮﹂
その問いに、僕はすぐに答えられなかった。誤魔化すことも冗談
で返すこともできず、ただ無言になる。
﹁置いてくの?﹂
﹁まぁ、そうなるな﹂
普通に考えればそれしかない。
﹁ダメ! つれていって﹂
こえだは抱えていた膝を下ろし、身を乗り出すようにしながら言
葉鋭く僕に要求する。
﹁むちゃ言うなよ﹂
﹁どうして!?﹂
﹁どうしてってお前 むしろつれていくなんて選択肢のほうがあり
得ないだろ﹂
僕は留学するためにアメリカに渡るのだ。夢を叶えたのなら兎も
角、まだその途中。それどころか歩き出したばかりの第一歩だ。そ
こに誰かをつれていけるはずがない。
﹁真、無責任﹂
こえだは再び膝を抱えると、拗ねたような口調で僕を責める。
﹁涼さんのこと、好きなんでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
僕はこえだにずばり斬り込まれたことに驚き、言葉を失くす。
それから深々とため息を吐いて、明後日の方向を見つつようやく
次句を継いだ。こえだにまで白々しい嘘を吐くこともないか。
﹁⋮⋮まぁ、そうだよなぁ。ここでそんなことねーよって言っても、
説得力はないよなぁ﹂
だけど、さらにこえだは、追い打ちをかけるようにぼそりとつぶ
やく。
﹁手をつないでデートして、別れ際にキスしてって︱︱もうそんな
のとっくに過ぎてるくせに﹂
﹁っ!?﹂
183
さすがにこれはクリティカルだ。言葉を失くすどころか、息が止
まるかと思った。タイミングが悪かったらコーヒーを噴き出してい
たかもしれない。
﹁それでも置いてくんだ。真の無責任。サイテー﹂
﹁⋮⋮﹂
無責任という単語が急に重く感じられ、こえだの台詞が胸に突き
刺さってくる。⋮⋮サイテーというのは、やはり男としてだろうか。
返す言葉もないな。
﹁やっぱりお前は僕のことをよく見てくれてるな﹂
僕は思わず苦笑する。
まさかこえだにそこを言われるとは思わなかった。こいつも槙坂
先輩や加々宮さんと同じく女だったということか。侮れないな。僕
が抱いていたこえだ像があえなく崩壊していく。
﹁べ、別にそんなんじゃ⋮⋮﹂
﹁悪いけど、それでも安易につれていくとは言えないよ。それこそ
無責任の謗りを免れない﹂
それを言うことは、槙坂涼の人生に責任をもつことと同義だ。ア
メリカに渡るころ、僕はまだ十八とか十九。そんな歳と学生という
身分でとうていそんなことはできない。
こえだは僕の返事にむっとした顔を見せる。
﹁じゃあ、別れるの?﹂
﹁わからない。正直、僕はその問題を棚上げしてきたからね﹂
わかってはいたんだ。とっくに道は決まっていて、二年もすれば
渡米する︱︱いつかはそれを槙坂先輩に言わないといけないことく
らいは。でも、言うタイミングを逃したまま彼女との関係を深めて
いって、よけいに言いにくくなってしまった。
﹁ひとりでわからないなら、一緒に考えればいいじゃん﹂
﹁うん?﹂
﹁涼さんにさ、早くそのこと言ってあげてよ。そしたら涼さんだっ
ていろいろ考えることができるじゃん﹂
184
﹁⋮⋮﹂
何というか、びっくりするほど前向きでまっとうな意見だな。羨
ましくなる。そして、ようやくわかった。こえだが浮かない顔をし
ていたのは、僕と槙坂先輩のこの先を考えてのことだったのだと。
自然と笑みが浮かんでくる。
﹁そうだな。できるだけ早く言うようにするよ﹂
いつかは言っておかないといけないことなのだ。だったら、タイ
ミングを見て言うしかないだろう。
﹁ほんと?﹂
﹁⋮⋮努力はするさ﹂
でも、こえだはじっと僕を見る。疑いの眼差しだ。
僕はその視線にほんの少しだけ怯える。
こえだの勘が鋭いことはついさっき証明されたばかりだ。今のこ
いつなら僕の小さな嘘も見抜きそうだから。
﹁⋮⋮悪い。ひとついいか?﹂
僕は切り出す。
﹁お前、いくらキュロットだからって、そんな座り方をしてたら見
えるんだが﹂
こえだが今日穿いているのはプリーツキュロットパンツ。それで
もソファの上で膝を抱えて座ったりしたら、太ももの裏側どころか
キュロットの裾からけっこうきわどいところまで露わになってしま
う。
彼女は弾かれたように足を下ろすと、両手でキュロットパンツの
裾を押さえた。顔が真っ赤だ。
﹁前に水をかぶったときにも思ったけど、お前はあれだな、案外大
人っぽいのをつけてるよな﹂
﹁テキトーなこと言うなっ。そこまで見えてないもん!﹂
﹁おっと﹂
こえだはソファに置いてあったクッションを全力で投げつけてき
たが、僕は軽く片手でキャッチした。
185
﹁お前、人が飲んでるときにやめろよな﹂
﹁うるさい。真のばかっ﹂
僕がクッションを放り返すと、再び力いっぱい投げてくるこえだ。
この後しばらく、僕らはクッションのキャッチボールを続けたの
だった。
186
第二話 その6
﹁もちろん、泊まっていくわ﹂
そう言った槙坂涼の言葉に、僕は別段驚きはしなかった。この展
開はとうに読めていたからだ。
むしろ、うんうん、と横でうなずいているこえだと加々宮さんを
見て、あぁきっと音頭を取ったのは槙坂先輩なんだろうなと納得と
理解をしたものである。
というわけで僕は、食事がすんだらとっととシャワーを浴びて、
書斎にこもった。もっと正確に表現すると、立てこもった。日中の
勉強会なら兎も角、泊まりにきた女の子三人に混じるなど冗談では
ない。
この書斎は、勉強部屋、寝室に続く、第三の僕の部屋だ。いくつ
かある書架には趣味や娯楽の本が並び、後は本を置いたり書きもの
をしたりするための小さな丸テーブルとリクライニングする革張り
のイスがあるくらいだ。ここなら時間の使い方はひとつしかないが、
朝まで退屈しない。眠くなったらイスを倒してそのまま寝てしまう
つもりだ。女性陣には好きにさせておいて、僕はここでひとりのん
びりすることにしよう。
しかし、中には放っておいてくれないのもいる。三人とも大なり
小なりその傾向はあるのだが、ひとりそれが顕著なのがいるのだ。
ドアの向こうから聞こえるこえだと加々宮さんの声に混じって、ノ
ックの音が聞こえた。
﹁どうぞ﹂
そう返事をすると現れたのは、予想した通り槙坂涼だった。
彼女は風呂に入ったのか、英字プリントのTシャツワンピースに
着替えていた。ノースリーブに袖をぶら下げたような、肩が剥き出
187
しになるデザインだ。裾からはすらりとした脚が伸びていて、足先
にはスリッパ。ワンピースと名がついていても、ボトムの類なしに
着るには少々頼りない丈だ。この部屋にイスが一脚しかなくてよか
ったと思う。風呂上がりらしい色気はあるが。
﹁読書中?﹂
﹁まぁね。⋮⋮こえだ、と加々宮さんは?﹂
こえだのことを気にしていたせいで、﹁こえだは?﹂と聞きかけ
る。それを途中で軌道修正したため、言葉が変なところで切れてし
まった。
﹁みんなお風呂に入って、今は楽しそうにはしゃいでるわ。まるで
パジャマパーティね。藤間くんも出てきたら?﹂
﹁冗談を。あのふたりだって僕がいたら居心地が悪いだろうさ﹂
どうかしたら扇情的にも見える恰好しながら恥ずかしがる素振り
のないのもいるが。まぁ、今さらか。
僕の返事に槙坂先輩はくすりと笑った。
﹁そうでもないみたいよ。わたしがせっかくだからみんなで泊まり
ましょうって提案したら、迷ってたのは少しだけで、すぐに乗って
きたもの。かわいい後輩たちに信頼されてるわね﹂
やはり諸悪の根源は槙坂先輩だったか。
それはさておき、そのかわいい後輩であるところのこえだは、案
外侮れない観察眼の持ち主だったわけだがな。
﹁ところで、サエちゃんどうかしたの? 夕方、少し様子がおかし
かったようだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
やっぱり気づいていたか。だからこそ、あのとき僕とこえだをふ
たりきりにしたのだろう。
﹁藤間くん?﹂
﹁ああ、悪い﹂
僕がこのとき考えていたのは、こえだとの約束のことだった。僕
が卒業後にアメリカへの留学を考えていることを、できるだけ早く
188
槙坂涼に言う︱︱それがこえだとの約束なのだが⋮⋮。
︵やはり今はやめておくか︶
すぐ近くにはこえだと加々宮さんがいる。もう少しタイミングを
見ることにしよう。
﹁あいつ、僕の部屋にあった参考書の量を見てショックを受けたみ
たいなんだ。二年になったらこんなに勉強しないといけないのかっ
てね﹂
﹁そうだったの﹂
﹁参考書の類がバカみたいにあるのは僕の要領の悪さ故だって、こ
えだにはちゃんと言っておいた。よかったら槙坂先輩から勉強の仕
方をおしえてやってくれないか?﹂
﹁そうね。そのあたりは我ながら要領のいいほうだと思ってるし﹂
そう言って彼女は苦笑する。
﹁サエちゃんと一緒に藤間くんもどう?﹂
﹁僕はいいよ。そういう要領の悪いやり方が性に合ってるみたいな
んでね﹂
実際、僕は勉強に関しては要領のいいほうとは言えない。高校に
入ってからのこの一年半で、細長い書架が参考書で埋まりかけてい
た。でも、僕はそんな要領の悪い勉強方法が案外気に入っている。
巡り巡って後で何かの役に立つことがあるからだ。そのあたりは日
々を楽しむためには努力を惜しまないというスタイルに通じるもの
があるのかもしれない。
﹁そう? 残念ね﹂
﹁わからないことがあったときには頼りにさせてもらうさ﹂
と、そこで再びドアがノックされた。
﹁開いてるよ﹂
槙坂先輩がここにいる以上、ドアを叩いた主はこえだか加々宮さ
ん、或いは、ふたりともということになる。
入り口付近に立っていた槙坂先輩が脇に退くのと同時、ドアが開
いた。そうして顔を出したのは我らがかわいい後輩のふたりだ。し
189
かも、本当に文字通り顔だけ。
﹁どうした?﹂
そろりと顔を覗かせるふたりに、僕は声をかける。
するとふたりは顔を見合わせ、呼吸をはかるようにしてうなずき
合うと、
﹁じゃーん﹂
﹁どう?﹂
部屋の中に飛び跳ねるようにして入ってきて、両手を広げてみせ
る。
こえだは、デフォルメされたハムスターの絵がいたるところにプ
リントされた水色のパジャマ姿。一方、加々宮さんは濃紺に白の縁
取りがされた無地のパジャマだが、日中はツインテールにしている
髪を下ろしていた。普段かわいらしさをアピールしているわりには、
こうして見ると少し大人っぽい感じがする。
﹁かわいいんじゃないか、ふたりとも﹂
パジャマがどうのこうのというよりは、ゆったりめのそれを着て
いるふたりの姿がかわいらしかった。
﹁ほんと?﹂
﹁やったぁ﹂
互いに掌を合わせて嬉しそうに笑うこえだと加々宮さん。
﹁実はこれを見せたかっただけなんですけどね﹂
そう加々宮さんが照れたように締めくくると、ふたりはまたリビ
ングへと戻っていった。最後にこえだが﹁ばいばーい﹂と手を振っ
て、ドアは閉められた。
﹁なんだ、あれ?﹂
﹁だから見せたかっただけでしょ﹂
笑いをこらえるようにして槙坂先輩が言う。
﹁大丈夫か、あいつら。僕がひとつしか違わない同じ学校の生徒だ
ってこと、忘れてるんじゃないか﹂
﹁それだけ慕われてるのよ。ふたりともひとりっ子らしいし、無邪
190
気にお兄さんの部屋に遊びにきてる感覚なんじゃないかしら﹂
﹁妹なら最近ひとりできたばかりなんだがな⋮⋮﹂
まさか一気に三人に増えるとは思わなかった。
夜は女性陣三人が寝室のダブルベッドを使い、僕がリビングのソ
ファに寝ることになった。こえだも加々宮さんも小柄だし、ダブル
ベッドなら三人で寝ても大丈夫だろうという判断だ。
ソファで寝ているからか、それともすぐ近くに女の子が三人も寝
ているという普段ならあり得ない状況だからか、どうにも寝つきが
悪かった。なんでこんなことになったんだったかな、とリビングの
天井を見ながら考える。カーテンを通してわずかに入ってくる月明
かりと目が慣れてきたことで、薄ぼんやりと部屋の全体像は見えて
いた。
ふいに寝室のドアの開く音がかすかに聞こえた。
何の用で出てきたかわからないので、声はかけないほうがいいだ
ろう。僕は誰かを確認することもなく目を閉じ、寝た振りをする。
だが、その誰かわからない彼女は、足音を忍ばせこちらに寄って
きた。
﹁寝てる?﹂
槙坂先輩の声だった。
﹁寝てる﹂
﹁そう。じゃあ、せっかくだし、いたずらしちゃおうかしら﹂
﹁生憎と今起きたところだ﹂
僕はソファの上で体を起こす。すぐそばにTシャツワンピース姿
の槙坂涼が立っていた。
ソファの空いたスペースに彼女が座る。
﹁なぜこっちにくる﹂
﹁だって、向こうはせまいもの﹂
﹁こっちのほうがせまいだろ﹂
だが彼女はそれ以上何も言わず、また、何をするわけでもなく、
191
ただ座っていた。本当にこのままここで寝るつもりだろうか。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
何か言ったほうがいいのだろうか。例えば、いつかタイミングを
見て言おうと思っている話とか。
が、先に槙坂先輩が口を開いた。
﹁今日はしないわよ。すぐ向こうにあの子たちがいるもの﹂
﹁何のことを言っているのかわからないが⋮⋮あなたがそれを言う
か﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮わたしって、その、そんなにいつもしたがってるように見え
る?﹂
何か急に不安に駆られたようだ。
﹁いや、そこまで言うつもりはないよ。嫌々つき合わされたことは
ないし、僕も無理強いしたことはなかったと思ってる﹂
﹁それはわたしもだわ﹂
前から何となく思っていた。僕たちにはふとした拍子にお互いの
ほしいと思う気持ちが重なることがあって、そういうときにだけ行
為に及んでいると。そんなときはいつもどちらかが誘うわけでもな
く、自然とその流れになる。日ごろから挑発的な言動を吐く彼女だ
が、あんなものは単なる悪ふざけだ。逆にその気持ちがどちらかに
ない場合は、彼女が泊まりにきても朝まで何もないまま、ただ一緒
に寝ているだけのこともあった。今がちょうどそういうときなのだ
ろう。
﹁今度は秋休みにひとりで泊まりにくるわ﹂
セメスター
﹁⋮⋮わかった﹂
二期制を採用している明慧大附属では前期と後期の間に、一週間
ほどの秋休みがある。それだけあれば当然、槙坂先輩が遊びにくる
こともあるだろうとは思っていた。
192
﹁ひとつ言っておくと、こえだ、僕たちがどれくらいの関係か気づ
いてるぞ﹂
尤も、断言のかたちで明言したわけではないが、あの口振りだと
たぶん正確にわかっているのだろう。
﹁⋮⋮その話、聞かないほうがよかったわ。明日、サエちゃんとど
んな顔して会えばいいの⋮⋮﹂
肘掛けに倒れ込むようにして頭を抱える槙坂先輩。
﹁ここで寝てたら誤解されないかしら﹂
﹁だったら向こうに戻れよ﹂
結局、彼女は朝まで僕の隣にいた。
しかしながら、こえだや加々宮さんに白い目で見られることや誤
解されることもなく、かと言って逆に妙な理解をされることもなか
った。そうして三人の少女は朝食をとって帰っていったのだった。
193
第三話
こえだが必要以上に心配していた前期試験が無事終わり、秋休み
を経て、今年度のカリキュラムは後期に突入した。
新しい学期がスタートすると、まず最初にしなければならないの
が履修する授業を決めること。つまり、履修届の提出だ。
そして、ここ明慧学院大学附属高校においては、この履修届は悪
名が高い。
ただでさえ自分がこの半期に受ける授業の時間割りを、単位やら
必修科目やらを考えながら組み立てないといけないのに、そこに加
えて届の書き方がわかりにくいのだ。そのせいでいつもこの時期に
なると頭を抱える生徒の姿がそこかしこで見られる。
とは言え、履修届のおかげで過去いろんなことがあったのも事実
だ。こえだと仲よくなったりだとか、誰かさんにうっかり声をかけ
て墓穴を掘ったりだとか。
さて、僕と浮田は今、昼食をとった後の昼休みの残り時間を利用
して、そのまま学食のテーブルで後期の履修科目を決める作業をし
ていた。
向かいでは浮田がうんうんうなっている。
﹁授業、どれを取るべきか⋮⋮﹂
こいつには一年の後期と二年の前期に履修届の書き方を叩き込ん
でおいたので、今さらそれで頭を悩ませることはないはずだ。今は
純粋に授業の選択で迷っているようだ。
﹁問題は槙坂さんが何を取るかなんだよなぁ。毎日なんて贅沢は言
わないから、せめて週にみっつは同じ授業になりたいところだ﹂
純粋ではなかったか。
﹁藤間、槙坂さんからどんな授業とるか聞いてねぇの?﹂
﹁知るわけないだろ﹂
194
僕は浮田の問いかけを一蹴する。再び作業に戻ろうとして︱︱そ
こでふと手を止めた。
﹁ひとつ参考までに聞くが、なぜ僕が槙坂先輩が取る授業を知って
ると思った?﹂
﹁だって、お前、槙坂さんとつき合ってるんだろ?﹂
﹁⋮⋮﹂
なるほど。世間的にはそういう認識なのか。
僕と槙坂先輩との間に、そういったターニングポイントは今のと
ころ確認されていない。とは言え、男女交際において﹁つき合って
ください﹂と申し入れるのは日本特有のものらしいし、周りからは
そんなやり取りがあったかどうかは知る由もない。となれば、そう
見えたならそれが事実。案外拘るのは当の本人たちだけなのかもし
れない。
納得した僕は、再び履修届を書く作業に戻る。
﹁何か言えよっ﹂
﹁特にはない﹂
なにしろ概ね事実だ。
と、そこに、
﹁真先輩!﹂
快活で、それでいてどこか甘えるような響きを含んだ声。こちら
に小走りで駆けてくるのは加々宮きらりだった。
また妙なタイミングで現れたものだ。向かいの浮田が、そして、
彼女の声の届く範囲にいた男子生徒が、皆そろってぎょっとしてい
る。僕も内心ぎょっとした。
そんな僕を含めた男どもには目もくれず、彼女は僕の隣のイスに
腰を下ろす。
﹁やぁ、加々宮さん﹂
﹁真先輩も今、履修届を書いてるんですか?﹂
﹁まぁね﹂
答えつつ僕は書きかけのその用紙を裏返した。
195
﹁そっちは? ちゃんと書けてるのか?﹂
﹁それが⋮⋮﹂
と、ばつが悪そうに苦笑いをする加々宮さん。この調子では苦戦
しているようだ。
﹁四月にも書いたはずなんですけど﹂
﹁だったら、こえだに聞くといい。僕が直々におしえてるから、書
き方はわかってるはずだ﹂
﹁え、一緒に首をひねってますけど?﹂
﹁あいつ⋮⋮﹂
バカキャラが定着しても知らんぞ。
﹁真先輩は、後期はどんな授業を取るんですか?﹂
﹁おっと、悪いね。今日は店じまいだ﹂
加々宮さんは伏せていた僕の履修届を手に取ろうとするが、しか
し、それよりも先に僕がそれを掴み上げた。
﹁浮田、僕はそろそろ行くよ﹂
僕は履修届をクリアファイルに入れ、巨大な時間割り表をたたん
で、持ってきたもの一式をまとめた。午後は浮田とは別行動だ。
﹁それはいいけど、お前、加々宮さんとどういう関係なんだよ? 槙坂さんというものがありながら﹂
﹁その槙坂先輩が言うところによれば、妹なんだそうだ。⋮⋮じゃ
あ﹂
僕は立ち上がる。
﹁尚さら許せんな。⋮⋮俺、浮田。藤間の友達で︱︱﹂
﹁あ、いいです。真先輩以外には用はありませんから。⋮⋮待って
くださいよ﹂
そうして浮田があえなく撃沈するのを背中越しに聞きながらテー
ブルを離れた。
各講義棟をつなぐ中庭を、なぜかついてきた加々宮さんと並んで
歩く。
196
﹁誰が妹ですか、誰が﹂
﹁あの人が勝手に言ったことだよ﹂
彼女にとって僕の妹と言われたことはいたく不満だったらしい。
そう思うのだったら友人と一緒とは言え軽々しく泊まりにきたり、
パジャマ姿を見せにきたりしないでもらいたいものだ。そう言えば、
切谷さんにも兄貴面するなと言われたな。もちろん、昨日今日いき
なり湧いて出た身でそんなつもりはないのだが。僕という人間は兄
とするにはよほど魅力がないらしい。
﹁ところで、授業の話になりますけど、何を取ったんですか? 真
先輩のことだからもう決めてるんですよね?﹂
﹁まぁね﹂
各期開始一週間ほどは、受ける授業を決めるための期間だ。いち
おうかたちばかりの授業があって、期間中は出入り自由。生徒は好
きに先生の顔や話を見聞きして回れる。
が、僕は加々宮さんが予想した通り、すでに今期に受ける授業を
決めている。前期のときに後期も含めて計画を立てたからだ。
﹁おしえてください﹂
﹁どうして?﹂
ストレートに切り込んできた加々宮さんに、僕はあえて意味がわ
からないといった様子で聞き返す。
﹁一年生でも受けられる授業があれば、一緒に受けようと思いまし
てー﹂
﹁こういうのは自分で決めるものだよ。人に左右されるものじゃな
い﹂
﹁えー、一緒に受けましょうよ。楽しいですよー?﹂
彼女は甘えるように言ってくる。まるでじゃれついてくる仔犬か
何かだ。前からこんなだっただろうか。まぁ、自分のかわいさを知
っている彼女なら、何かを催促するときはこんなものか。
そんな彼女と歩いていると、槙坂先輩ほどではないにせよ、注目
される。世間的にももう槙坂涼とつき合っていることが事実になっ
197
ているから、いったい僕はどんなふうに思われていることやら。そ
れこそ浮田ではないが、槙坂涼というものがありながらといったと
ころか。
﹁それもひとつの考え方だろうね﹂
学校の授業なんてもとより面白くないものなのだ。だったら友達
と一緒に受けて、切磋琢磨なり苦労の共有なりグループ学習なりの
環境を整えるのも手だ。
﹁でも、僕の主義じゃない﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁そうなんだ。ついでに言っておくと、僕は槙坂先輩ともそういう
ことをしたことがないよ﹂
尤も、そもそもまともに話すようになったのがこの五月で、そう
いう機会自体今回が初めてなのだが。しかし、後期に入って僕たち
の間でそんな話が出たことはない。
﹁じゃあ、なおさらチャンスかもしれませんねー﹂
﹁チャンス?﹂
﹁だって、ほら、真先輩と一緒にいる時間が長いと、槙坂さんを出
し抜けそうじゃないですか﹂
ああ、そう言えばこういう子だったな。
﹁懲りないな、君も。じゃあ、せっかくだからひとつ僕が取る予定
の授業おしえておこうか﹂
﹁ぜひ﹂
加々宮さんは期待に満ちた目をこちらに向けてくる。
﹁サイモン先生の英語﹂
﹁ぐえぇ﹂
いきなりその口からカエルがつぶれたような声が飛び出した。
﹁授業ぜんぶ英語でするって噂じゃないですか!? 無理ですよ、
そんなの﹂
﹁そうかい? なら仕方がないな﹂
僕もこの子ならそうだろうと思って言ったのだけど。
198
﹁真先輩、本当にあの授業とるんですか?﹂
﹁もちろん﹂
これまでサイモン先生と校内で会うたびに会話をして、この夏に
イギリスでもそこそこ英語が通用したことで自信がついた。サイモ
ン先生にオール英語で授業をされても、まったくわからないなんて
いう無様なことにはならないだろう。
当然のことながら、普通の生徒が敬遠するような授業を取るのは
将来のためなのだが⋮⋮加々宮さんのこの様子を見るに、こえだか
ら何も聞いていないようだ。まぁ、ベラベラしゃべるようなやつで
もないか。
﹁じゃあ、僕はここで﹂
何となく加々宮さんの足取りの勢いから、僕と彼女の目的地が違
うことを察した。
﹁うー﹂
﹁ま、授業が一緒になったときは邪険にするつもりはないよ。仲よ
くやろう﹂
まだ不満そうな加々宮さんにそう言うと、僕は彼女と別れた。
放課後、
﹁で、後期はどんな授業を取るつもりなの?﹂
槙坂先輩と肩を並べて校門に向かっていると、彼女がそんなこと
を唐突に聞いてきた。⋮⋮どうも今日はそういう日らしい。
﹁それを聞いてどうする?﹂
﹁一緒の授業を並んで受けるのもいいと思ったの﹂
﹁槙坂涼らしくない行動だ﹂
孤高にして高貴、そして、ある種の禁忌。誰も彼女をグループや
派閥に組み込もうとしないし、してはいけない。それが槙坂涼とい
う存在のはずだ。
﹁そうね。わたしのイメージにはそぐわないわね﹂
そして、それをわかっているから槙坂先輩も求められるイメージ
199
通りに振る舞ってきた。仲よしグループを作ったりしない、友達と
一緒にわいわい時間割りを考えたりしない。誰もがそんな槙坂涼を
求め、彼女はそれに応じるのだ。
﹁ブランド戦略も大変だな﹂
﹁わたしが望んでやってることじゃないわ﹂
かと言って、まるっきり不本意だったわけでもないのだろう。彼
女にとって周囲の期待に応えて理想の槙坂涼を演じるのはごく自然
なことなのだ。
﹁望んでやっていたわけではないにせよ、それがどうして今になっ
てブランドイメージを壊すような真似を?﹂
﹁わたしが壊そうとしてるんじゃなくて、もう壊れつつあるのよ﹂
﹁うん?﹂
どういう意味だろうか。彼女がこれまでの清楚でオトナ美人のイ
メージを壊すような振る舞いを人前でするとは思えない。人前どこ
ろか僕の前でもそうだ。槙坂涼の基本はあくまでもそれ。ふたりき
りのときに意外な一面を見せて驚かされることはあっても、そのイ
メージが損なわれたことはない。
﹁だって、わたしと藤間くん、もう完全にそういう関係だと思われ
てるもの﹂
﹁ああ、なるほど﹂
周囲がそう認識しているというのは、昼の浮田の言動からもわか
ることだ。それはイコール槙坂涼に特定の男ができたということで
あり、確かにこれまでの神聖不可侵のイメージを壊すのには十分だ
ろう。
﹁つまり、これまで通りに振る舞わなくてよくなった、と?﹂
﹁そういうこと﹂
楽しげに肯定する槙坂先輩。
﹁もちろん、わたしが前からそういうことをしてみたかったという
のもあるけど、これもある意味では周りが望んでいることよ。夏休
みが明けてから、よく藤間くんとのことを聞かれるの﹂ 200
なるほど。神聖性を失った槙坂涼はその地位を失墜させるのでは
なく、今度は普通に恋愛もする身近な、或いは、一歩大人の存在と
して受け入れられているのか。
﹁わたしが藤間くんと一緒にいると、みんな喜ぶわ﹂
﹁僕は見世物になるつもりはないよ﹂
そもそも喜ぶのは槙坂先輩の周りの女子生徒たちであって、男連
中は嫉妬に狂うに違いない。絶対に暖かく見守ってもらえるような
状況にはならないだろう。
今だってそうだ。下校する生徒の流れの中、女子生徒は友達同士
何ごとかを囁きながらこちらをちらちら見て、きゃあきゃあと弾ん
だ声で笑い合っている。時々槙坂先輩が手を振って応えると、その
声はさらに高くなった。その一方で男子は、主に僕を見て舌打ちし
そうな顔をしている。
﹁だいたい槙坂先輩のことだから、単位なんてもうほとんどいらな
いくらい取ってるんじゃないのか? 三年の後期によけいな授業を
取ってる場合じゃないだろうに﹂
﹁ええ、残ってるのは必修科目くらい﹂
進学校である明慧大附属においては、三年生の前期までに可能な
限り単位を修得しておくのが一般的なスタイルとなっている。そう
して後期に履修するのは必修科目とそのほかいくつかの授業だけに
してしまって、授業以外の時間は受験勉強に費やすのだ。
﹁わたしがまだ取ったことのない授業、ぜんぶ一緒に取ってもいい
わね﹂
﹁やめてくれ﹂
受験をひかえた大事な時期に時間を浪費しようとするな。まぁ、
うえ
この人のことだから、そんなことをしながらでも大学入試なんて余
裕なのだろうけど。ひと言、明慧大に行くと言えば大学側は無試験
で歓迎してくれるに違いない。
﹁それに誰かと仲よく授業を受けたりするのは、僕の主義じゃない。
昼に加々宮さんにも同じことを言ったけどね﹂
201
﹁なに、あの子も聞きにきたの?﹂
呆れ口調の槙坂先輩。
﹁おしえてあげたの?﹂
﹁いま言っただろ、主義じゃないって。おしえてないよ﹂
正確にはひとつおしえているが、まぁ、加々宮さんのあの様子で
は取らないだろう。
﹁仮に彼女に言ったとしても、あなたにだけは言うつもりはない﹂
﹁ひどい話﹂
と言うわりには、槙坂先輩は気を悪くしたふうではなかった。
﹁あなたがわたしに対してその態度なのは前からだけど、それにし
てもずいぶんとあの子のことが気に入ったのね﹂
﹁気に入ってるのは否定しないかな。なかなかに愉快な性格をして
いるしね﹂
こえだとはまた違った面白さがある。
﹁でも、僕が加々宮さんに取る授業をおしえてもいいと思うのは、
たぶん彼女なら邪魔にはならないだろうと思うからだ﹂
﹁それじゃまるでわたしなら邪魔をするみたいね﹂
﹁そこまで言うつもりはないよ。でも、少なくとも僕は、あなたと
肩を並べて授業を受けたりしたら集中力を欠く﹂
僕がそう言うと、槙坂先輩は黙り込んだ。僕の台詞の意味を考え
ているのだろうか。言葉の応酬が一旦止まる。
そのまま僕たちは校門を出︱︱そこでようやく彼女は口を開いた。
﹁そう、ね。わたしもそんな気がしてきたわ⋮⋮﹂
それが何らかのシミュレーションをした結果らしい。
我ながらずいぶんとリップサービスをしたものだと思う。半分は
本当だが、もう半分は⋮⋮。
僕はこえだに嘘を吐いた。
あいつには悪いが、僕はまだ留学のことを槙坂先輩に打ち明ける
つもりはなかった。そうするためにはそれなりの下地が必要だ⋮⋮。
202
槙坂さん、フライング︵前書き︶
ぇろいの投下。
抵抗がある方はご遠慮ください。どうせ番外編だし。
203
槙坂さん、フライング
それは秋休みのこと。
その日、わたしは前期テスト前からの予定通り、藤間くんの部屋
に泊まりにきていた。
基本的に藤間くんは、わたしが部屋にいこうとすると渋い顔をす
る。嫌われているわけではないのはすでにわかり切っていること。
それだけに彼の反応は不思議だったのだけど︱︱最近ようやくわか
った。わたしが彼の部屋に泊まるということは、たいていの場合、
行為とセットになる。彼はそれに溺れることに抵抗があるらしい。
というわけで、藤間くんがそんなことなど忘れるよう、盛り上げ
てみようと思う。
今、彼はお風呂に入っていた。静かだ。湯舟に浸かっているのだ
ろうか。わたしは準備をすると、磨りガラス状のドア越しに声をか
けた。
﹁入るわよ﹂
﹁待て﹂
もちろん、待たなかった。
ドアを開ける。予想通り藤間くんは湯舟に浸かっていた。天井を
見ながら考えごとでもしていたのか、慌てて顔を起こしてこちらを
見た。バスタブのお湯に波が立つ。
彼はバスタオルを巻いただけのわたしの姿を見てぎょっとした。
﹁すぐに出るから待ってろ﹂
﹁ベッドで?﹂
﹁違う。順番を待てと言ってるんだっ﹂
だから出ていけと言外に言っているのだろう。本当にベッドで待
ってろだったら、わたしは素直に回れ右しているところだ。
﹁いいじゃない。一緒に入れば﹂
204
そのために普段なら暗黙の了解でわたしが先にお風呂を使うとこ
ろを、﹁いま読んでる本がいいところだから﹂と嘘をついてまで藤
間くんに先に入ってもらったのだから。
ここのバスルームは広い。バスタブも。わたしは当然のことなが
ら、彼も大柄なほうではないから、ふたり一緒でも余裕で入れる。
わたしは体に巻いていたバスタオルを外した。
﹁バカ。やめろ﹂
藤間くんが制止の声を張り上げる。⋮⋮なんなのだろう、このピ
ュアさは。夏に一線を越えて、以来、もう何度か朝まで一緒に過ご
しているというのに。
﹁大丈夫よ。下はこれだもの﹂
しかし、残念ながらバスタオルの下から出てきたのは、白いビキ
ニの水着だった。夏休みにプールに行ったときに着ていたものだ。
タオルは脱衣場に戻す。
﹁⋮⋮そこまでして一緒に入る必要があるのか﹂
呆れたような、不貞腐れたような口調の藤間くん。
わたしはシャワーで体を流しながら答える。
﹁やりたいことがあるの﹂
﹁やりたいこと?﹂
嫌そうな声音だった。それはわたしが部屋に行きたいと言ったと
きのものに似ていた。
何となく彼の考えていることがわかってしまった。さすがにわた
しもそこまでは考えていなかった⋮⋮けど、
︵お風呂でじゃれ合って、盛り上がったらそのまま⋮⋮という流れ
も、大人ならあるのかしら?︶
ちょっと真面目に考えてしまった。
わたしはシャワーを止めると、バスタブへとゆっくりと入る。
﹁やりたいことというのはね︱︱﹂
藤間くんはバスタブの端の背を貼りつけ、少しでも距離を開けよ
うと試みる。しかし、広いとは言え、所詮は同じお風呂の中。姿勢
205
を正しただけの微々たるものだ。
そんな彼に、わたしはいきなり正面から抱きついた。
﹁何をする!?﹂
﹁プールのときの再現とやり直しよ﹂
夏のプールでちょっとしたアクシデントがあり、あのときもこう
して抱きついたのだった。
﹁⋮⋮忘れた﹂
﹁そう? ああ、そうね。確かあのときはこうじゃなかったものね﹂
言ってわたしは自分の背に手を回した。そこにある結び目を解く
と、体を密着させたままで水着のトップスをするりと外した。早々
に用のなくなったブラはバスタブの淵にかけておく。
﹁こうだったかしら?﹂
何もつけていないわたしの胸が、彼の胸板に押しつけられてかた
ちを変え︱︱そうなることで大きさややわらかさを視覚的に鮮烈に
示していた。もちろん、体感もしてくれていることだろう。
﹁かもしれないが︱︱ここはプールじゃない﹂
しかし、藤間くんの反応は素っ気ない。努めてそうしているのだ
ろう。
﹁じゃあ、プールじゃできないことをしようかしら?﹂
﹁⋮⋮﹂
黙る彼。わたしのはその無言を了解と受け取った。
﹃再現﹄はここまで。では、ここからは﹃やり直し﹄だ。
﹁ね、周りにはわからないように、こっそり見せてあげましょうか
?﹂
私はそう言うと、密着させていた体を少しだけ離した。体と体の
間に隙間が生まれ、胸が露わになる。
瞬間、彼が息を飲んだ。
当然、視線はそこに注がれている。こんな明るいところで見られ
るのは初めてで、少し恥ずかしかった。しかも、視線を感じている
部分が心なしかくすぐったい。まるで見るという行為自体がやわら
206
かいタッチの愛撫のようだ。
﹁触ってみる?﹂
﹁い、いや、それは⋮⋮﹂
藤間くんの声に躊躇いと戸惑いの声が入り混じっている。
わたしはその様子に苦笑すると、顔を寄せて彼の唇に啄むように
何度かキスをした。藤間くんもまんざらではないようで、それなり
に応じてくれる。
﹁これで人目を気にせずベタベタしてるバカなカップルね。わたし
たちのことなんか呆れて、見て見ぬ振りするわ。⋮⋮ほら、触って
みて﹂
そこまでお膳立てをして、ようやく彼は水の中でわたしの胸に触
れてきた。最初はおそるおそる、やわやわと。それから確かめるよ
うに丁寧に。
次第にわたしの体も熱くなってくる。
﹁ん⋮⋮﹂
思わず声がもれそうになり、それを押し殺す。
その反応がきっかけだったのだろうか、藤間くんはついに胸の先
にまで触れてきた。
﹁ん⋮⋮やっ、くすぐった⋮⋮あン。⋮⋮ああっ﹂
敏感な部分に触れられ、わたしの声には自分の意思に関係なく濡
れたような、艶っぽいものが混じってくる。
﹁そんなに声を出したら周りに聞こえるけどいいのか?﹂
﹁っ!?﹂
彼にそんなことを耳元で言われ、わたしは慌てて人差し指の背を
噛んで耐えた。それでも藤間くんはあの手この手で、ときには全体
を、ときにはピンポイントで、わたしの胸を弄び続ける。意地悪を
しているようで、それでいて優しい手つきだった。人が大勢いるプ
ールでこんなことをしているかと思うとよけい体が熱くなってくる。
﹁ま、待って、藤間くん。このままじゃわたし、おかしくなりそう
⋮⋮﹂
207
わたしの哀願を聞いても尚、藤間くんは存分にわたしの反応と感
触を楽しみ、そうしてからようやく手を止めた。そのときにはわた
しはぐったりとして、息が上がっていた。
﹁ねぇ、お風呂から出たら、その⋮⋮﹂
頭の芯が痺れたようになっていて、そのせいか普段はしないおね
だりが口をついて出る。
なのに、
﹁ここはプールだったんじゃなかったか?﹂
﹁いじわる⋮⋮﹂
そこでわたしは目を覚ました。
目を覚ましたのだけど⋮⋮起き上がれなかった。
﹁∼∼∼∼∼∼っ﹂
布団を頭からかぶって、声にならない悲鳴を上げる。
自己嫌悪というか、恥ずかしさで死にそうだった。それこそ穴が
あったら入りたい、だ。このままもう一度寝てしまいたかった。現
実逃避の意味で。続きを見たいとかじゃなく。
夢、だったらしい。
しかも、いつもならたいてい起きると同時に忘れてしまうのに、
今日に限ってまだはっきりと覚えている。⋮⋮どれだけいやらしい
のだろうか、わたしは。
いろいろとひどい夢だった。よくよく考えてみたら、半分くらい
は加々宮さんをからかったときに語ったものだ。どうりでわたし好
みのシチュエーションだと思った。
まさか藤間くんの部屋に泊まる予定の日にこんな夢を見るとは。
いや、だからこそだろうか? 今日彼と会ったときに挙動不審にな
らなければいいけど。
わたしはため息とも深呼吸ともつかない深い息を吐いてから布団
208
を出た。
その後、夢のご多分にもれず内容はすぐに忘れたのだけど、お泊
りの準備をしている最中、洋服ダンスから水着が出てきてしまい、
また夢を思い出して床に崩れ落ちた。しばらくは頭から離れないか
もしれない。
あと、水着を戻すか鞄に入れるか迷った。
ちょっと死にたくなった。
209
第四話
後期の授業が本格的にはじまった。
結果から言うと、槙坂涼と同じ授業はひとつしかなかった。もと
より三年の彼女は、後期に入ってしまえば取るべき授業の数は絶対
的に少ない。相談して決めたわけでもないのに、ひとつでもあった
のが奇跡だろう。前期に比べれば彼女の背中を眺めながら授業を受
けることが一気に少なくなり、少しさびしくはあるが︱︱これでい
い。
さて、後期にはいきなり大きなイベントがある。
学園祭だ。
かねてから決めていた通り、僕は実行委員に立候補した。もちろ
ん、委員長などという重責は担いたくないので、こき使われる下っ
端である。
最初は週二回だった会合も、次第に当日が近づくにつれ頻度が上
がってきた。今では毎日のように会議室に足を運んでいる。
今、僕は模擬店の配置で頭を悩ませていた。
作業用の長机の上には、校内の平面図。その横には各クラス、部
活の模擬店の内容と希望の場所が書かれた紙の束。それも紙束は校
舎の内外で、山がふたつだ。
この紙に書かれた出展内容、使用する機材、希望の場所を見て、
可能な限り公平、公正に配置を決めていくのが、目下のところの僕
の仕事だ。
なお、僕は公平でもなければ公正でもないので、我がクラスの喫
茶店は、人通りの多いいちばんいい場所に真っ先に決めておいた。
後は公平公正に不満を分配する作業だ。
とは言え、
﹁⋮⋮﹂
210
煮詰まった︵誤用︶。
あちらを立てればこちらが立たず。どうもうまくいかない。
手を止めて顔を上げれば、会議室内のそこかしこで、僕同様書類
と格闘している姿や、二、三人で顔を突き合わせて話し合っている
姿があった。どれもこれも表情は険しい。各作業の期日が迫ってい
るからだろう。かく言う僕もそれほど余裕があるわけではない。次
の作業も待っている。
︵こえだがいないな⋮⋮︶
前期で球技大会の実行委員をやったことで思うところがあったの
か、この学園祭実行委員にはこえだも参加していた。のだが、その
姿が見えない。きっと外に出ているのだろう。
﹁美術部の進捗状況を見てきます﹂
人のことは兎も角、一度気分転換をしたかった。
僕はそう言うと席を立った。誰かの﹁頼んだー﹂という声を聞き
ながら会議室を出る。
美術部には当日校門を飾るアーチの製作を依頼していた。尤も、
これは毎年のことなので、美術部としても勝手がわかっているはず
だ。作業が遅れているようなことはまずないだろう。
時間ももう午後六時過ぎ。廊下にはほとんど人影がなかった。下
手すると目当ての美術部すら帰っている可能性がある。まぁ、単な
る気分転換なので、無駄足になってもかまいはしないのだが。
ひとまず気楽なひとり旅といこう。
と、思っていたとき、後方から小走りに駆けてくる軽い足音が聞
こえてきた。誰だろうと思って振り返ったときには、すでにその人
物はそこにいた。
﹁真先ぱーい。どーん﹂
そのままの勢いでジャンプして体当たり。もちろん、僕とて女の
子の体当たりで吹き飛ばされるほどヤワではないので耐える。
加々宮きらりだった。
﹁危ないだろ﹂
211
﹁真先輩、どこに行くんですか?﹂
僕の苦情は無視して彼女は聞いてくる。
﹁美術部にね。アーチの進捗状況を見にいくんだよ﹂
﹁あ、じゃあ、わたしも行きます﹂
あっさりそう言うと、僕の隣に並んだ。仕方なく一緒に歩き出す。
こえだのみならず、加々宮さんもどういうわけか学園祭実行委員
のひとりだった。確か今彼女が手がけているのは、体育館の舞台の
プログラム作成だったはず。要するに、演劇部や吹奏楽部、軽音楽
部など、舞台を使用する演目のタイムスケジュールを組んでいるの
だ。僕の作業と似ている。こっちが場所を考えているのに対し、彼
女は時間を考えているのだ。
﹁こえだは? 一緒じゃなかったっけ?﹂
﹁サエちゃんならもう別の作業に移りましたよ﹂
ということは、彼女とはまた別の件で外回りか。大丈夫だろうか。
いや、まぁ、ふたりそろっていたところで安心感が出てくるわけで
はないが。
﹁真先輩は捗ってますか?﹂
と、加々宮さん。
﹁正直、捗ってないね。捗ってないから、こうして散歩してるわけ
だ﹂
﹁散歩!? 美術部を見にいくんじゃなったんですか?﹂
﹁口実さ。外の空気を吸いたかったんだ﹂
外と言っても会議室の外だが。
﹁もちろん、ちゃんと美術部は覗きにいくけどね。⋮⋮そっちは?
進んでるの?﹂
﹁ついさっき終わりました。最終案を各クラブにねじ込んできたば
かりです﹂
﹁ねじ込むって⋮⋮﹂
その表現にそこはかとなく不穏なものを感じる。
﹁えー、だってぜんぶの希望を聞いてたらキリがないじゃないです
212
かー﹂
﹁そりゃそうだけどね。納得してくれたのか?﹂
﹁わたしがお願いすれば?﹂
なるほど。加々宮さんは交渉役だったのか。会議室にいなかった
わけだ。実際、適役ではあるな。彼女にお願いされて断れる男子は
少ないだろう。男子は。
﹁でも、女子が多いところはダメですね。すっごい文句言ってきま
す。⋮⋮滅びろ、女子!﹂
いきなり天井目がけて叫ぶ加々宮さん。
その括りで滅ぶと自分も巻き込まれると思うのだがな。あと、直
後に人類全体が絶滅する。
﹁文句を言われながらも、きちんとねじ込んだわけだ﹂
﹁そこは不満の公平な分配です。真先輩が言ったんですよ?﹂
そうだったな。僕は彼女にそうアドバイスしたのだった。結局の
ところ百パーセントすべての希望を叶えられるわけではないので、
みんなに少しずつ我慢してもらうしかない。﹁向こうもこの部分で
不便をしているので、こっちもこの部分は勘弁してほしい﹂と妥協
案を提示するのだ。
そうやって最終案までこぎつけたから、こえだは別の作業に移っ
たのだろう。
と、そのときマナーモードにしてスラックスのポケットに突っ込
んでいた携帯電話が、振動で着信を告げてきた。サブディスプレィ
を見ると槙坂涼の名前があった。
﹁⋮⋮﹂
音声通話だ。出るべきかどうか迷う。⋮⋮出なくても言い訳は立
つが。
﹁あ、どうぞ。おかまいなく﹂
唯一気を遣うべき相手である加々宮さんからお許しが出てしまっ
た。仕方なく電話に応じる。
﹁もしもし?﹂
213
﹃藤間くん? わたしです。槙坂です﹄
槙坂先輩の電話口での第一声は、普段よりも少しだけ丁寧だ。誰
からかかってきたかなんて、電話に出る前からわかっているという
のに。これが浮田だと﹁あ、オレオレ﹂である。まるで詐欺だ。こ
えだだと﹁あ、真? あたしあたし。ほら、あれあれ。あの話どー
なった?﹂になって、あたしあたし詐欺にあれあれ詐欺が加わる。
たぶん、こえだの話術では金を振り込ませるまでに半日はかかるだ
ろうが。
﹃まだ学校?﹄
﹁ああ﹂
﹃わたしも少し用事があって、まだ残ってるの。一緒に帰れる?﹄
﹁いや、たぶん今日はギリギリまで学校にいると思う﹂
﹃そう⋮⋮﹄
落胆したような槙坂先輩の声。
﹃わかったわ。じゃあ、また明日﹄
そうして電話は切れた。
端末をポケットに戻す。と、そこで加々宮さんがなぜか不思議そ
うな顔でこちらを見ているのに気がついた。
﹁どうかした?﹂
問うてみる。
﹁あの、まさかと思いますが、今の槙坂さんじゃないですよね?﹂
﹁いや、そうだけど?﹂
鋭いな。そうとわかる要素はなかったはずなのに。
僕が答えると、彼女は呆気にとられたようにぽかんと口を開けた。
僕の住むタワーマンションを見上げていたときのアホ面に似ている。
﹁⋮⋮なんですか、今の淡泊な会話は﹂
そして、ようやく声を絞り出したかと思うと、これだった。強烈
に非難めいた、冷めた声だ。
﹁おかしいかな?﹂
﹁つき合ってるんですよね?﹂
214
﹁らしいね﹂
僕と槙坂先輩のことは、加々宮さんはすでに知っている。それど
ころか学校中に公知されつつある。もしかしたら当の僕より周りの
ほうが、僕たちのことを正確に把握しているかもしれない。僕の他
人事のようなもの言いはそのあたりが理由、或いは、いつものこと
だ。今の心理状態は関係ないはず。
﹁そもそも、普段からベタベタしてないと思うけどね﹂
﹁確かにそうですけど⋮⋮﹂
消極的な納得。でも、加々宮さんは口をむにむにと動かして、何
か言いたそうだった。
﹁電話くらいそれっぽい会話してもいいんじゃないですか?﹂
やがて堪りかねたように彼女は、口の中で転がしていた言葉を吐
き出す。
﹁仕方ない。今は君がいるからね﹂
﹁いなかったらしてました?﹂
﹁いいや﹂
まさか、である。
﹁もぅ。しっかりしてくださいよ﹂
﹁君が心配するようなことではないと思うけど?﹂
﹁⋮⋮﹂
加々宮さんは黙り込んだ。
だが、口だけはまたむにむに動かしている。まだ何か言いたいこ
とがあるのだろう。その様子を見て、この子は鋭いなと僕は思った。
程なくして美術部の活動場所である美術室に着いたが、案の定す
でに全員帰った後だった。アーチの製作は順調だと思っていいだろ
う。
生徒が学校に残っていられるのは午後七時までと決まっている。
学園祭が近づけばもう一、二時間くらいはお目こぼしをもらえるか
もしれないが、今はこれが限界だ。
215
そんなわけで本日の実行委員は午後七時をもって散会となった。
今は帰り、僕はこえだ、加々宮さんとともに電車に揺られている。
ちょうど空いたふたり分のシートにかわいい後輩たちを座らせ、
僕はその前に吊り革を持って立っていた。
﹁あーあ、今日もこんな時間かぁ﹂
と、加々宮さん。
七時になってから片づけをはじめ、それから下校して駅で電車に
乗って︱︱で、今はもう七時半を回っている。
﹁学園祭が近づけば、もっと遅くなるだろうね﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁経験から言えば、たぶんそう﹂
中学のころからいろいろやってきたが、ほぼ例外なくそうだった。
イベント自体は立てた計画通りにいく。だが、その準備や計画に対
しても、誰が何をする、いつまでにする、といったスケジュールを
組むのに、なぜかそちらは計画通りにいかないのだ。だいたい最後
になってバタバタする羽目になる。今回も順調に予定が遅れつつあ
った。
﹁ぐえぇ﹂
﹁真ってば、よくこんなの今までやってきたよね﹂
謎のうめき声を発する加々宮さんの横で、こえだが感心したよう
に言う。
﹁苦労した分、成功したときの喜びは大きいからな﹂
結局、そのあたりが原動力なのだろうな。思い通りにならないこ
との多い世の中で、せめてイベントくらいは思い通りに進めてみた
いのだ。まぁ、さすがに高校の学園祭となればこれまでにない規模
で、次から次へとやることが回ってくるが。なかなか一筋縄ではい
きそうにない。
﹁終わって打ち上げでもやれば、報われたって実感も出てくるさ﹂
﹁やるのかなぁ、打ち上げ。ぜんぜんそんな話ないんだけど﹂
﹁そりゃあ今はそんな余裕ないからな﹂
216
終わってもないのに終わった後の話などできるはずもない。そん
な話ができるのは、まだはじまってもいないころ、取らぬ狸の皮算
用が笑って許されたころだ。
﹁でも、こんなのは終わったら打ち上げと相場が決まってる。なか
ったらなかったで、僕たち三人でささやかにやればいいさ﹂
﹁ほんと!?﹂﹁本当ですか!?﹂
ふたりが同時に喰いついてきた。
﹁あたし、そのほうがいいかも﹂﹁ねー﹂と言い合っているふたり
を見ていると、これは実行委員とは別個に身内だけの打ち上げをす
るのもいいもしれないと思えてきた。
﹁あ、わたし、次ですから﹂
次の駅名を告げるアナウンスの中、加々宮さんがそう切り出して
くる。
こうして委員会で帰りが一緒になってわかったことだが、加々宮
さんの家は学校からけっこう近いらしい。電車ならふた駅分。僕よ
りも先に降りる。
﹁今さらだけど、送ろうか?﹂
七時半なら夏場でも外は真っ暗だ。いつも別れた後に送ったほう
がよかったかと考えていたのだが、今日は忘れずに言い出すことが
できた。
﹁大丈夫です。お母さんに迎えにきてもらいますから。家まで歩い
て十分くらいなんですけど、遅くなったときは呼ばないとうるさい
んです﹂
そう苦笑しながら言うと、加々宮さんは立ち上がる。
と、思いがけず互いの顔の距離が近くなった。彼女が何も考えず
立ち上がったのと、僕が避けそこなったことが原因だ。お互い軽く
ぎょっとした。僕は慌てて一歩下がる。
﹁前言撤回。真先輩、やっぱり送ってください﹂
そう言う加々宮さんの頬は心なしか赤い。
﹁こちらこそ前言撤回だ。そこまで話がついてるなら、僕が送るほ
217
うがややこしくなりそうだ﹂
﹁ちぇー﹂
口を尖らせる加々宮さん。
間もなく電車は駅に着き、そうして彼女は開いたドアから出てい
った。ばいばーいと手を振る加々宮さんに見送られ、電車は再度出
発する。
ひとりが降りて、残ったのは僕とこえだ。
﹁お前は送らなくていいな﹂
﹁ひどっ。何その差!?﹂
﹁だってお前、駅からバスだろ?﹂
﹁そうだけどさ⋮⋮。なんか釈然としないんだよなぁ﹂
こえだは口を尖らせる。
シートはこえだの隣が空いたが、僕はそこに座らず立ったままだ
った。こんな時間まで委員の仕事をしていたせいかそこそこ疲れて
いて、一度座ってしまうと今度は立つのが億劫になりそうな気がし
た。どうせすぐに降りるのだし。
﹁あのさ、真﹂
やがてこえだがタイミングをはかるみたいにして口を開いた。車
窓の夜闇に浮かぶ街灯りをぼんやりと見ていた僕は、その視線をこ
えだへと向ける。
﹁あの話、涼さんとした?﹂
﹁あの話?﹂
﹁うん、あの話﹂
出たな、あれあれ詐欺。
﹁⋮⋮﹂
﹁留学の話っ﹂
僕が思い出せない振りをして黙っていると、こえだは怒って声を
荒らげた。
﹁ああ、その話か。⋮⋮まだしてない﹂
﹁なんでしてないんだよぉ。早くしろよ⋮⋮﹂
218
まるで泣きそうな声で拗ねたように言い、こえだは黙り込んだ。
﹁⋮⋮いずれな﹂
そして、僕もまたそう短く返して、口を閉ざした。
結局、これ以降僕が電車を降りるときまで、こえだと言葉を交わ
すことはなかった。
加々宮さんと同じで、こいつもこいつで何かを感じているのかも
しれないな。鋭いことだ。女という生きものは、年齢や人生経験に
関係なく女のカンがはたらくと思ったほうがいいのだろう。
駅を出て五分と歩かずに僕の住むマンションに着く。
と、そこに槙坂涼がいた。
エントランスの前の玄関ポーチに人待ち顔で立っている。制服姿
だが、制鞄は持っていなかった。家には帰ったけど着替えはしなか
った、というところか。
彼女は姿を現した僕を見つけて、笑顔を浮かべた。
﹁﹃また明日﹄なんじゃなかったか?﹂
﹁気が変わったのよ﹂
槙坂先輩はあっさりとそう言う。
僕はその相変わらずの調子に、思わずため息を吐いた。⋮⋮結局
こうなるのか。会えなかったら会いにくるのが槙坂涼という女性だ。
今さらながらにそれを実感した。
﹁待ってるんだったら連絡してくれ。だいたい、僕がもう家に帰っ
てたらどうするんだ﹂
﹁大丈夫よ。藤間くん、学校にギリギリまで残ってるって言ってた
もの。さほど待たなかったわ﹂
それでも何かの拍子に早く帰れたら、それだけでアウトだと思う
のだがな。まぁ、現状の進捗状況ではあり得ないか。
﹁このところ忙しそうね。ほら、ネクタイが緩んでるわ﹂
そう言うと槙坂先輩はすっと僕に近づき、ネクタイに手を伸ばし
た。そう言えば委員会のデスクワークのときに緩めてそのままだっ
219
たな。もう家に辿り着こうとしているのに今さらではないだろうか。
思えばこうしてネクタイを直されるのも久しぶりのような気がす
る。春にはよくされていたが、夏服にはネクタイがない。十月に入
り冬服に戻ったが、確か今期はこれが初めてだ。それだけ忙しさを
理由に槙坂先輩と会っていなかったということだろうな。正直、少
しだけ懐かしく思う。案外彼女もそう思ったから、あえてこんな無
駄なことをしているのかもしれない。
きゅっとネクタイが締められる。直ったようだ。
﹁で、何しにきたんだ?﹂
﹁藤間くん、忙しそうだから夕食でも作ってあげようと思ったの﹂
﹁それはありがたいね﹂
八時前の今から何か作るのは面倒だと思っていたところだった。
実際、ありがたくはある。
﹁でも、槙坂先輩を家に上げたくない。外に食べにいこう﹂
﹁あら、ひどい﹂
槙坂先輩はそう苦笑しながらも、踵を返した僕の後をついてくる。
このあたりだとどこがいいだろう。ファミレスか、駅前のショッピ
ングセンター﹃サクラヤーズ﹄のレストラン街か。
﹁学園祭の準備は順調?﹂
隣に並んだ槙坂先輩が問う。どうやら外で食べることに特段の異
論はないらしい。
﹁順調。順調に予定が押してきてる﹂
﹁大丈夫なの?﹂
﹁たぶんね。致命的な遅れや破綻は見当たらないから、ちゃんと間
に合わせるさ﹂
本番までの裏方なんてたいていはこんなものだ。多少予定が狂っ
ても、最後にはちゃんと帳尻を合わせる。
﹁そう。楽しみにしてるわ。特に今年は藤間くんが実行委員だもの
ね﹂
﹁別に僕がいたからって、これまでと違った学園祭になるわけじゃ
220
ないよ﹂
僕は何かやりたい企画があって学園祭の実行委員に名乗り出たわ
けではない。そこそこ企画立案はしているが、去年一生徒として感
じた運営側の不備を補強する程度のものだ。
それでも楽しみにされると悪い気はしない。成功させようと改め
て思う。
﹁当日は少しくらい一緒に回れそう?﹂
﹁生憎と僕は運営としての業務に従事する忙しい身でね﹂
と、はぐらかそうとしたのだが、
﹁嘘おっしゃい。サエちゃんから実行委員も交代で自由時間がある
って聞いてるわよ﹂
﹁⋮⋮努力する﹂
やはりこうなるらしい。
確かにその通りなのだが、努力しなければならなさそうなのもそ
の通りだった。与えられた自由時間でクラスの出し物も手伝わなけ
ればならないし、雨ノ瀬も遊びにくることになっている。時間のや
りくりが必要そうだな。
﹁⋮⋮﹂
ま、どうにかなるだろう。
221
第五話 その1
そうして学園祭当日。
初日である今日は幸いにして天気に恵まれ、十一月最初の週末と
いう時期にも拘らずブレザーなしで外を歩けるくらい暖かかった。
気象庁によれば明日も天候に不安はないそうだ。どうやら我が校は
日ごろの行いのいい生徒のほうが比率が高いらしい。
さて、時刻は開会五分前。
学園祭実行委員であるところの僕は、現在、クラスの出しものの
ある教室ではなく、校内の巡回の真っ最中だった。二の腕には実行
委員であることを示す腕章をつけている。使用機材関係のトラブル
がないかとか、生徒が羽目を外して馬鹿をやっていないかとか、そ
こそこ気をつけるべきことは多いのだ。今のところは喧嘩未満の口
論を一件仲裁しただけですんでいる。
と、そこで電話がかかってきた。相手は同じ実行委員のメンバー
だ。開会直前の定時連絡だろう。
﹁もしもし﹂
﹃あ、藤間? もうすぐ開会だけど、様子はどうだ?﹄
﹁現状、特に問題はないね﹂
前述の件も報告するほどのものではないだろう。
﹃わかった。そのまま見回り頼む﹄
﹁了解﹂
定時連絡らしい短いやり取りを交わして電話を切る。
それから程なくして校内放送が流れた。
﹃生徒の皆さんにお知らせします。ただ今より201x年度明慧祭
を開催します﹄
生徒会長による開会宣言だった。
それに合わせて手の空いている生徒は拍手をし、それでも足りな
222
いやつは﹁いぇーい﹂だの﹁うぇーい﹂だのと奇声を上げる。
︵去年も思ったけど、﹃明慧祭﹄って安直なネーミングだな︶
そこに少し不満がある。が、これまでそれでやってきたのだ。改
名を提案したかったが、却下されるのがオチだろうと思い、やめて
おいた。
開会宣言に続いて注意事項も並べられているのだが、もはや誰も
聞いていなかった。気持ちはすでに学園祭の真っ只中。ここで注意
を最後まで聞きましょうなどと言って水を差すのは野暮というもの
だろう。
では、僕も気を引き締めて、実行委員としての仕事をするとしよ
うか。
先ほども言ったが、今の僕の仕事は校内の巡回だ。
文字通り校内を回って、問題がないかを確認するのだ。この場合
の問題とはわりと広い意味を持つ。各クラスやクラブの出しものに
事前の申請と齟齬があったり、高校生の学園祭としてふさわしくな
いものがあったら、実行委員として注意して是正を促す必要がある。
また、生徒同士、或いは、学外者とのトラブルがあれば、速やかに
学校側に報告することになっている。
まぁ、人の行動を眺めるのが好きな僕にうってつけの仕事だと言
えるだろう。
﹁藤間﹂
自分のクラスを通りかかったとき、呼び込みをやっていたらしい
浮田に声をかけられた。
﹁浮田か。何か問題でも?﹂
﹁客がこん﹂
﹁それは企業努力でどうにかしろ﹂
割り当てられた教室を見れば、確かに盛況とは言い難い有様だっ
た。
とは言え、まだ午前中。勝負は昼から午後にかけてだろう。それ
223
なりに勝算もある。ひとつは、僕が実行委員としての立場を利用し
て、いい場所を割り振っておいたことだ。具体的には︱︱いちばん
賑わう中庭を貫くようにして講義棟と講義棟を結ぶ連絡通路がある
のだが、その出入り口から入ってすぐの教室。休憩場所を探しにき
た人が最初に目につく場所だ。加えて、お菓子作りが趣味のクラス
メイト数人によるクッキーやらケーキやらがメニューを飾っている。
それらにも期待したいところだ。
﹁実行委員で忙しそうだけど、シフトには入れるのか?﹂
﹁その点は大丈夫。ちゃんと戻ってくるさ﹂
心配そうに聞いてくる浮田に、僕はそう返す。
実行委員と言えどもクラスの一員、という主義のもと、学園祭実
行委員はクラスとの両立が大前提となっていて、各人多い少ないの
差はあれど、自由時間が確保されている。僕は前日までおおいに働
くことで、当日である今日明日の自由時間は多めにもらっていた。
尤も、その多めの自由時間でやるべきことはたくさんある。クラ
スの手伝いに入らないといけないし、明日になると雨ノ瀬が遊びに
くることにもなっている。何より槙坂先輩の相手もしなくてはいけ
ないだろう。
ああ、そう言えば、昨日不審な電話があったな。
相手は半分だけ血のつながった妹である切谷依々子。昨夜、唐突
に電話をかけてきて﹁真、明日から学園祭?﹂と、例の如く平坦な
調子で聞いてきたのだった。﹁そうだけど?﹂と僕が答えれば、彼
女は﹁⋮⋮そう﹂とだけ言い︱︱そして、電話は切れた。不審過ぎ
て嫌な予感すらする。
﹁どうした? やっぱむりか?﹂
と、浮田。
﹁いや、大丈夫だ﹂
﹁わかった。あてにしてる﹂
﹁ああ﹂
さてさて、客の入りにどれだけ貢献できることやら。踊らにゃ損、
224
ではないが、せっかくの学園祭だ。道化になるべく小道具も用意し
ている。役に立てばいいのだが。
さらに巡回を続けていると、やけに賑わっている一角があった。
単に賑わっているだけなら問題はない。何らかの騒ぎや羽目を外
したサービスで人を集めていなければいいのだが。
僕は手に持っていた実行委員用の資料を開き、何の出しものが行
われているか確認する。
ここは小教室ふたつ分の広さを持つ中教室。やっているのは⋮⋮
お化け屋敷? 定番ではあるがこんなにも盛況になるほどのコンテ
ンツではない気がする。が、続く項目を見て納得した。槙坂先輩の
クラスだったのだ。
この賑わいの原因も彼女か。なら大丈夫だろう。槙坂先輩なら馬
鹿はやらないだろうし、周りもさせはしまい。
にしても、あの槙坂涼を如何な配役に据えれば、こうも人を集め
られるのか。いや、何をやらせても話題にはなりそうだが、お化け
屋敷という舞台となるとどうにもピンとこない。気になるところで
ある。
しかし、気になりはしても、ここに問題がないなら長居はできな
い。次に行くか。
と、思っていたら、人だかりの切れ間から槙坂先輩の姿が見えた。
入り口の付近だ。なるほど。中での脅かし役ではなく、受付や呼び
込みをやっているらしい。確かにこれがいちばんの適役かもしれな
い。
そうして眺めていると、槙坂先輩は中に向かって何ごとか声をか
け︱︱その後に出てきた女子生徒にその場を任せると、自分は中に
這入っていってしまった。交代の時間だったのだろうか。集まって
いた生徒たちからは少なからず落胆の声が上がり、三々五々散って
いく。大半は彼女が目的だったようだ。実行委員としては不必要な
混雑は避けてもらいたいところなので、ありがたい状況ではある。
225
とりあえず、ここは今後も要注意の場所として頭の隅にとどめて
おくことにしよう。
﹁うらめしやー﹂
﹁うおっ!?﹂
いきなりの背後からの声に驚いて振り返ると、そこに槙坂先輩が
立っていた。
いったいいつの間に、と思ったら、彼女の向こうに﹃関係者以外
立入禁止﹄と書かれたドアが見えた。おそらくそこがこのお化け屋
敷のバックヤードなのだろう。彼女は中を通ってこのドアから出、
僕の後ろに回ったに違いない。
そして、改めて槙坂先輩の恰好を見れば、先ほどの群がるバカど
もの間からではわからなかったが、裾や袖のゆったりした白装束姿
だった。実際には白い浴衣なのだが、どうやら幽霊であるらしい。
長い黒髪が白装束によく映えている。先の﹁うらめしやー﹂の声も
これで納得した。
しかし、その表情は僕を驚かせることに成功したからか、幽霊に
はそぐわない満面の笑みだった。
﹁実行委員のお仕事、ご苦労様﹂
﹁もしかして気づいてたのか?﹂
おそらくこのために受付兼呼び込みを代わってもらったのだろう
が、それにしては僕がいることに気づいた素振りは見えなかった。
﹁ええ。これでもわたしは藤間くんの視線を感じながら一年間過ご
していたのよ? すぐにわかるわ﹂
﹁⋮⋮何のことだろうな。忘れたよ﹂
確かに一年ほど手の届かないはずの高嶺の花を眺めていたような
気もするが、それも今となっては遠い過去の日だ。思えば平和な日
々だったな。
﹁それは兎も角として︱︱クラスの出しものはお化け屋敷か﹂
226
﹁そうよ。実行委員でお忙しい藤間くんとは、そんな話はさっぱり
できなかったけど﹂
﹁⋮⋮﹂
もしかして責められているのだろうか。
﹁ま、何にせよ盛況なようで喜ばしいね﹂
﹁そうかしら?﹂
と、槙坂先輩は自分のクラスのお化け屋敷へと目を向けた。僕も
つられてそちらを見る。
先ほどまで大盛況だったそこは、一転して今やごくごく普通の賑
わいとなっていた。看板娘の槙坂先輩がいるのといないのとでは雲
泥の差のようだ。
しかも、だ。
﹁わたしが立つと人は集まるのだけど、中まで見ていってくれるか
というと、そうでもないのよね﹂
槙坂先輩は悩ましげにそう言う。
つまり、この学園祭でしか見れない幽霊スタイルも相まって、例
の如く人は寄ってくるけど、だいたいはそこで終わってしまうわけ
だ。
﹁せっかくクラスのみんなが、お客さん全員泣かせる気でがんばっ
てるのに﹂
﹁そりゃすごい意気込みだ﹂
どんだけ気合い入ってるんだ。
﹁まぁ、人が集まればそれだけ中に入ってくれる人間も増えるだろ。
そう割り切って客寄せに徹することだ﹂
﹁ええ、そうするわ﹂
そう言って槙坂先輩は、楽しそうに浴衣の袖を振った。
﹁あー、ところで、﹂
と、僕はタイミングをはかりつつ切り出す。
﹁そういう珍しい恰好をしてるからって、撮影会じみたことはやめ
てほしいんだが﹂
227
﹁あら、その注意は実行委員として? それとも彼氏として?﹂
彼女はまるで試すように、或いは、いたずらでも仕掛けるように、
問いかけてくる。
﹁言っておくけど、わたしこう見えて悪い生徒だから、お客さんに
きてもらうためなら写真くらい撮らせてあげてもいいと思ってるの。
実行委員の目を盗んでそうしようかしら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹃こう見えて﹄も何も、僕の目にはどこからどう見てもそうとしか
映らないのだがな。特に今は。
僕は、事前申請にないことをする場合は本部で許可を取るように
とか、廊下が混雑するからとか、そういう用意した言葉は一旦飲み
込み、
﹁⋮⋮後者だ﹂
﹁そう。じゃあ仕方がないわね﹂
僕の返事に満足したのか、槙坂先輩は笑みを見せる。
﹁藤間くんのクラスは確か喫茶店よね? 後で寄らせてもらうわ﹂
そうして彼女は袖を振り振り、再び自分の仕事に戻っていった。
228
第五話 その2
学園祭初日、
午後になって一旦僕は実行委員の仕事から解放された。
しかしながら、文字通りの自由時間というわけではなく、これか
らクラスの喫茶店の手伝いだ。実行委員の運営本部に腕章を置いて
から教室へと戻る。
﹁いま帰ったよ。何をすればいい?﹂
﹁藤間か。じゃー、フロア頼む﹂
この企画のリーダーである成瀬がさっと周りを見回し、指示を出
してくる。
僕が実行委員の仕事から戻ってこられなかった場合を想定して、
僕の役割はかっちり決まってはいなかった。戻ってこられたら忙し
いところを手伝う。その程度。
カーテンで仕切られたバックヤードから向こう側を覗き見れば、
そこは賑やかに、でも、統一感をもって飾り立てられた喫茶店ブー
ス。何人かのクラスメイトがウェイター、ウェイトレス役として忙
しそうに行き来している。客の入りは午前中とは一転してなかなか
のものだった。僕はこれからあちらを手伝うわけだ。﹃天使の演習﹄
の店長からコーヒーの淹れ方をレクチャーしてもらったのだが、ど
うやら無駄になりそうだな。まぁ、フロアのほうが僕向きの仕事で
はあるが。
次に僕は隅に置いてある大量の鞄から自分のものをピックアップ。
そこから取り出したのは眼鏡ケースだ。中は当然、眼鏡が入ってい
る。アンダーリムの眼鏡だ。それをかけて︱︱さぁ仕事だと振り返
ったところで、そこにいたクラスメイトの女の子にぎょっとされて
しまう。
﹁もしかして⋮⋮藤間か?﹂
229
れいべ・べにお
小柄でどこか少年っぽい雰囲気のある彼女は、名前を礼部紅緒と
いう。僕の記憶によると、確か礼部さんの担当は厨房だったはずだ。
﹁ああ、これ?﹂
顔を見ているようで見ていない視線に、礼部さんが眼鏡に注目し
ていることを察する。
﹁前にシャレで買ったんだ﹂
これを買ったきっかけは、我が異母兄がなかなかセンスのいいデ
ザインの、レンズに色のついた眼鏡をかけていたのを見てだった。
一度くらいかけてみてもいいかと思い、度の入っていない伊達眼鏡
を購入したのだ。
﹁今日はこれでいこうかと思ってるんだけど、ダメかな?﹂
﹁ダメ? ⋮⋮ん? んー、んん⋮⋮?﹂
礼部さんは一度僕の言葉を鸚鵡返しにし、首をひねりながら何や
ら考え込む。
やがて、
﹁採用﹂
と、きっぱり決断を下した。
﹁絶対に受ける﹂
﹁その言い方にただならぬ不安を感じるけどね。︱︱了解だ﹂
この眼鏡、夏前のある日曜に槙坂先輩と出かけた際にお披露目と
相成ったのだが、残念ながら彼女には不評だった。自分で思ってい
るほど似合ってはいなかったらしい。けっこう悩んで選んだのだが
な。まぁ、それならそれでこういう場面でネタとして活用すること
にしようかと、そう思いついたわけである。
礼部さんはやおらスマートフォンを取り出し、弄りはじめた。暇
があれば端末と睨めっこしているスマホユーザーの姿は、僕のよう
な古きよきガラケー使いからすると何かに操られているかのようで、
何とも言えない不安を感じる。
そんな彼女の様子を横目に見ながら、僕は歩を進める。
﹁ぬおっ、藤間!?﹂
230
今度は浮田だった。
﹁いかにも。僕だね﹂
﹁お前、なんで眼鏡なんてかけてんの?﹂
﹁同じ学校の生徒相手にウェイターの真似事をするんだ。眼鏡でも
かけないとやってられないよ﹂
どちらかというと、こっちの理由のほうが支配的かもしれない。
僕には経験がないが、バイトしているところをクラスメイトや知り
合いに見られるのに似ているのかもしれない。やりにくいだろうな
と思うし、実際僕もやりにくい。眼鏡はそこを誤魔化すためのフィ
ルタ、道化師の仮面だ。
浮田はしげしげと僕の顔を眺める。
﹁わかった。やっぱりお前は俺の、いや、全男の敵だ!﹂
﹁安心しろ。僕も浮田のことを味方だと思ったことはないよ。世界
中の男を敵に回すつもりはないけどね﹂
﹁やはり人間は平等ではなかった。神よ呪われろ!﹂
無神論者が呪詛の言葉を吐くためだけに神を求めるか。浮田の意
味不明な怨嗟の声を聞きながら、僕はバックヤードからフロアへと
出た。
クラスの喫茶店はなかなか順調だった。
所詮は高校生のお店ごっこだと思うのだが、時間と場所の恩恵か、
はたまた手作りお菓子の評判が人伝に広まっているのか。何にせよ
盛況で喜ばしい。
その中で僕の仕事は先ほど浮田に言った通り、要はウェイターだ。
客の注文を取ってバックヤードに伝える。用意できた注文の品をテ
ーブルに運ぶ。その繰り返し。
﹁コーヒーふたつに、手作りクッキーの盛り合わせひとつですね。
わかりました。少しお待ちください﹂
とは言っても、メニューはコーヒーに紅茶、ソフトドリンクがい
くつかと、手作りのクッキーとケーキが数種類︱︱と、たかが知れ
231
ているので、注文もややこしくなりようがない。楽なものである。
のだが、
︵なんかどんどん混んでいくな⋮⋮︶
僕がフロアに出たときよりいっそう混雑していた。ぱっと見、空
いているテーブルは見当たらない。バックに戻ったときに聞いた話
によると、行列というほどではないが、何組かの客を廊下に待たせ
ているそうだ。
やっていることは単純な作業なのに、ひっきりなしに客がくるお
かげでやけに忙しい。しかも、見た感じ明慧の生徒ばかりなのはど
ういうわけか。それも圧倒的に女子が多い。こうなるとこの盛況の
要因も手作りお菓子説が有力になってくるな。でも、みんなこんな
ところで油を売っていて大丈夫なのだろうか。
﹁すいませーん。こっちもお願いしまーす﹂
休む暇を与えない客の声。
さて誰がいくか、と周りを見回してみて︱︱僕は思わずたじろい
だ。なぜかフロア担当のクラスメイト全員が僕を見ていたのだ。﹁
お前がいけ、お前が﹂と言わんばかりの、無言の圧力を帯びた視線。
⋮⋮僕かよ。ここぞとばかりに僕をこき使うつもりか。そりゃあよ
うやくクラスに戻ってきた身だが、今まで遊んでいたわけではない
のだがな。
﹁お待たせしました﹂
ほかにも近いやつがいるにも拘らず、僕が注文を取りにいく羽目
になった。テーブルで待っていたのは一年生と思しき女の子の三人
組だった。
﹁えっと、コーヒーをみっつに⋮⋮手作りケーキって、どれがオス
スメですか?﹂
﹁残念ながら、僕は食べたことがなくてね。でも、どれも美味しい
と思うよ。なにせうちの主力商品だからね﹂
忙しいのだから、せめて注文を決めてから呼んで欲しいものだ。
と、心中で嘆息していると、今度は別の子が口を開いた。
232
﹁藤間先輩って、やっぱりあの槙坂さんとつき合ってるんですか?﹂
好奇心にキラキラと目を輝かせて聞いてくる。
﹁いきなりだな。⋮⋮さぁ、どうだろうね﹂
﹁先輩ってもっと地味な人だと思ってました。ほら、授業の前もよ
く本を読んでるし﹂
どうやらこの子たちとは何かの授業で一緒らしい。
﹁見ての通り、地味だよ﹂
﹁またまたー﹂
彼女たちは笑い出す。冗談と受け取られたようだ。
僕自身は、地味というよりは普通の一般生徒のつもりだ。少なく
ともそう振る舞ってきた。しかし、ここ最近槙坂涼という外的要因
のせいで、どうにも学校生活が派手になりがちなのも確かだった。
﹁そろそろ決めてくれるかな?﹂
﹁えっと、じゃあ⋮⋮﹂
さすがに無駄話が過ぎたと思ったのか、僕が促すと女の子三人組
は注文するケーキを決めた。僕はそれを書きとめる。
﹁すぐに用意するから、少し待ってて﹂
﹁えぇー、もう行っちゃうんですか。もっと話しましょうよー﹂
﹁⋮⋮﹂
ホストじゃないんだけどな、僕は。
バックヤードに戻って今聞いた注文を厨房係に伝えると、僕は深
いため息を吐いた。
﹁なんだろうな、この状況﹂
﹁言わないぞ? 私は何も言わないからな?﹂
礼部さんだった。
僕がそちらを見ると、彼女は口笛でも吹きそうな感じに顔を背け
た。しかし、基本的にしゃべり好きの礼部さんは再び口を開く。
﹁でもさ、わちゃわちゃしてて楽しいだろ﹂
﹁まぁ、楽しいか楽しくないかの二択なら、楽しいけどね。どうも
理不尽な忙しさを押しつけられてる気がしてならないよ﹂
233
同じフロア係なのに人の三倍くらい動き回らされるし、客も客で
わざわざ僕を狙って声をかけてくる。学校ぐるみで僕を嵌めようと
しているのだろうか。
﹁まー、兎に角、あれだ。クラスのために働け﹂
﹁もう十分働いてるよ﹂
あまりにもきっぱり言われると苦笑するしかない。
話しているうちに次なる注文の品の用意ができ︱︱僕はそれを持
ってバックヤードを出た。
﹁うわ、本当だった!?﹂
客足が途絶える気配は一向になく、忙しさは増すばかり。そんな
喧騒の中、僕の耳は聞き覚えのある声を拾った。入り口を見るとそ
こにはこえだと、車椅子の女子生徒、伏見唯子先輩の姿があった。
僕は持っていたコーヒーとケーキのセットをテーブルに運ぶと、
ふたりのもとへと向かう。途中、お客さんに声をかけられたが聞こ
えない振りをした。
﹁おー、藤間君。ちょっくら遊びにきてみたよ﹂
﹁ありがとうございます、伏見先輩﹂
僕は手で押し出すゼスチャーをしつつ、ふたりとともに廊下へと
出た。
﹁珍しい組み合わせですね﹂
並ぶこえだと伏見先輩を見やりながら、素直な感想を述べる。こ
のふたりが一緒のところなんて初めて見た気がする。
﹁そこでたまたま藤間君のかわいい後輩、えだちゃんと会ってね、
一緒にきた次第だよ﹂
﹁そうでしたか。⋮⋮こえだ、お前、車椅子を押すくらいしろよな﹂
見た感じ、こえだがそんな気を利かせた様子はない。
﹁だって、重いし﹂
﹁こら、重いって言うな﹂
こえだのひと言に伏見先輩が半眼になる。
﹁大丈夫だよ、藤間君。あたしがこれで何年やってきたと思ってる
234
の? よっぽどの悪路じゃない限り、普通の人より速いくらいだよ﹂
それもそうか。こえだにああ言ったものの、僕も車椅子を押した
ことはない。というのも、押したほうがいいだろうかと思いはして
も、彼女の巧みな操作を見ているとすぐにその必要なはさそうだと
思えてくるのだ。
﹁それにしても、見事に眼鏡男子だねぇ。文系男子から転向?﹂
﹁そういうつもりはありませんよ。単なるシャレです﹂
眼鏡男子と文系男子は相反する属性なのだろうか? どちらかと
いうと親和性が高そうなのだが。
﹁真ってば真ってば。ね、それどうしたの?﹂
興味津々といった様子のこえだは、もっと近くで見ようと僕の横
にきて背伸びをする。顔の近さに僕は思わず仰け反った。
﹁買ったに決まってるだろ﹂
﹁ぅぎゅ﹂
答えつつその顔を鷲掴みにして押しやると、こえだの口から小さ
なうめき声がもれる。
﹁ファッションとしてわりと本気で選んだんだけどな。残念ながら
不評だった﹂
﹁不評? 誰に?﹂
﹁槙坂先輩﹂
﹁﹁⋮⋮﹂﹂
答えた瞬間、こえだと伏見先輩は無言で顔を見合わせた。
そして、
﹁﹁そ、それは⋮⋮﹂﹂
今度はふたりして掌を額に当て、頭を抱える。ロダンの﹃考える
人﹄のようなポーズだ。そのシンクロした動きに、案外このふたり
似ているのかもしれないと思った。
﹁こんにちは、藤間くん﹂
235
﹁!?﹂
本日二度目となる背後からの声。
しかし、跳び上がるほど驚いたわりには、今度は僕の口から声は
出なかった。声にならない悲鳴というやつだ。東西のホラー映画の
違いを思い出した。洋画のホラーは登場人物が絶叫するが、邦画の
恐怖というのは声すら上げられない種類のものなのだそうだ。⋮⋮
こんなところでそれを実感するとは思わなかったが。
振り返ると、午前と同じく槙坂涼が立っていた。
ただし、幽霊スタイルではなく制服姿。そして、いきなり背後か
ら声をかけて驚かせるという悪ふざけをしたわりには真顔。という
か、表情が消えていた。本人としては驚かせる意図はなかったのか
もしれない。にも拘らず、今回のほうがよっぽど﹁うらめしや﹂が
似合いそうなのがすごいな。
﹁その眼鏡、学校にはかけてこないでって言ったはずだけど?﹂
﹁⋮⋮言ってたな﹂
確かにあの日、自信満々で眼鏡をかけていった僕に、彼女は冷や
やかな目を向けつつそんなことを言ったのだった。僕はその言いつ
けを破ったことになる。
﹁言い訳があるなら聞きましょうか﹂
﹁⋮⋮シャレでかけてみた﹂
﹁シャレになってないわ﹂
ばっさりと斬って捨てられた。
﹁⋮⋮﹂
そうだろうか、と僕は考え込む。似合わないなら似合わないで、
こういうお祭りの場でかけるくらい許されてしかるべきだと思うの
だが。
僕は意見を求めるようにこえだと伏見先輩を見る。と、ふたりは
そっと僕から目を逸らした。右にいる伏見先輩は右を向き、左に立
236
つこえだは左へと顔を向ける。やはり息が合っていた。
﹁わかったのなら外しましょうね?﹂
﹁⋮⋮仕方がない﹂
眼鏡を外すべく僕がそれに指をかけたときだった。
﹁あ、じゃあさ、その前に一枚撮らせてよ﹂
伏見先輩が自分のものらしきスマートフォンをひらひらさせなが
らそんなことを言う。一枚とは写真のことらしい。
﹁というわけで︱︱はい、えだちゃん﹂
伏見先輩はスマートフォンをこえだに手渡すと、車椅子を滑らせ
て僕の横にやってきた。あろうことかネタとして僕の今の姿を写真
に収めておくのではなく、ツーショットをご所望のようだ。
﹁いいのかなぁ⋮⋮?﹂
と、不安げなこえだ。
結論としては︱︱よくなかったらしい。
﹁⋮⋮唯子﹂
槙坂先輩は伏見先輩の後ろに立つと、ぬぅーん、と覆いかぶさる
ように上から顔を覗き込んだ。長い黒髪の美人がやると、ちょっと
したホラーである。伏見先輩の顔がかすかに引き攣っていた。その
調子で幽霊屋敷の脅かし役をやればいいのにな。
﹁運営の許可のない撮影会はダメよ?﹂
﹁涼さん、顔! 顔怖い! ⋮⋮そんな大げさな。一枚だけ。ダメ
?﹂
﹁それをきっかけに次から次へとくるかもしれないでしょう?﹂
ないと思うが。
﹁そ、そうかも⋮⋮﹂
⋮⋮ないと思うんだがなぁ。
﹁じゃ、行きましょうか﹂
槙坂先輩は車椅子の背部のハンドグリップを握った。
﹁え、涼さん、行くってどこに?﹂
﹁ここじゃないどこかよ﹂
237
哲学的な香りすら漂う回答を口にすると、槙坂先輩は車椅子を押
して歩き出した。
﹁ちょ、ちょっと涼さん、せめて行き先決めようよ。なんか怖いか
らっ﹂
伏見先輩の悲痛な声が次第に遠ざかっていく。
そうして取り残されたのは、僕とこえだ。
﹁それ、けっこう似合ってるじゃん﹂
こえだは横目でちらと僕を見ると、少し恥ずかしそうにそう言っ
た。人を褒めるときくらい照れなくてもいいと思うのだがな。
﹁そうか? ま、お世辞程度に受け取っておくよ﹂
﹁涼さんも罪なことするなぁ。完全に刷り込まれてるし。⋮⋮ま、
気持ちはわかるけど﹂
こえだはそこで一度嘆息、
﹁じゃ、あたしも行くね。これ返さないとだし﹂
よく見ると彼女の手にはまだ伏見先輩のスマートフォンが握られ
たままだった。こえだは、てててっ、と先に行ったふたりを追いか
け、走り出した。
僕はそれを見送りながら眼鏡を外し、教室の中に戻った。
238
第五話 その3
午後三時をもって僕のクラスの手伝いは終わった。
こえだと伏見先輩、それに槙坂先輩がきたあたりがピークだった
らしく、あれ以降は徐々に客足が遠のいていった。教室の中を覗き
はしても入ってこない、という光景も何度か見られた。僕のシフト
がもうひとつ前か後ろだったら楽ができたのにな。ちょっとの違い
で雲泥の差だ。
︱︱僕は今、実行委員の腕章をつけ、再び校内の巡回をしていた。
どこを見ても人、人、人。出しものの案内や店の呼び込みをする
明慧の生徒と、それを見て回る一般の参加者という構図が多いのだ
が、当然見る側にも明慧生は混じっている。生徒数の多い学校なん
だなと改めて思った。全校生徒数は何人だっただろうか。後で確認
してみよう。
壁や窓に目をやれば、そこかしこに飾り付けや宣伝ポスターが貼
られている。昨日の日中までは告知がちらほら見られる程度のいた
って普通の校内風景だったのに、一夜にして見事に学園祭モードに
転じてしまった。みんな昨日の放課後や今朝にがんばったのだろう
な。
校内放送からは音楽やイベントの案内が流れているのだが、場所
によってはそれとは別に野外ステージのパフォーマンスや司会進行
役の声が聞こえてきて、雑多な音の洪水となっていた。まぁ、学園
祭らしい言えば学園祭らしい光景ではある。
と、そこで正面から歩いてくる女子生徒の集団の中に見知った顔
を見つけた。加々宮きらりだ。
加々宮さんも僕の姿を認め︱︱ひとりグループを抜けて走ってき
た。僕の前で両足で着地するようにして止まる。
﹁お疲れ様です、真先輩﹂
239
そして、ぴっと敬礼。
﹁やあ、加々宮さん﹂
﹁もう眼鏡はやめたんですか?﹂
どこで知った!?
﹁あぁ、あれ? ちょっと事情があってね﹂
誰かさんがネタでかけることすら許してくれないから、とは言い
にくい。
他方、我がクラスメイトどもはというと、僕が眼鏡を外して教室
に戻るとがっかりしていた。むしろ失望されたと言っていい。しか
し、﹁お前は使えないやつだ﹂まで言うのはどうかと思う。
﹁それは残念です。⋮⋮で、今は何をしてるんですか?﹂
﹁見たらわかるだろう。校内の巡回中だよ﹂
だいたい同じ実行委員なんだから。僕のスケジュールまで把握し
ろとは言わないが、今の僕の姿を見て何をしているかくらいわかっ
てほしいものだ。
ところが、だ。
﹁ごめんなさい。見てわからないから聞きました﹂
そうして加々宮さんはちらと僕の横を見た後、再び視線をこちら
に戻す。むっとした顔をしていた。
﹁どうしてその人まで一緒なんですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
僕の隣にはなぜか槙坂涼がいるのである。
﹁⋮⋮ちょっと事情があってね﹂
﹁いったいどんな事情なんだか﹂
呆れたようにため息を吐く加々宮さん。
いや、まぁ、知人同伴なんて片手間で仕事しているみたいで褒め
られた姿勢ではないのは理解しているのだが、何やら怒っているふ
うで離れてくれないのだから仕方がない。
﹁勝手についてきてるだけだから気にしないでくれると助かる﹂
﹁気にしますよ﹂
240
と、彼女は口を尖らせる。
﹁それじゃ単なる学祭デートじゃないですか﹂
﹁そうとも言うわね﹂
槙坂先輩は挑発的な響きをもって口を開いた。⋮⋮いちおー言っ
ておくと、僕にそのつもりはない。
しかし、加々宮さんはそれを真に受けたのか、僕をキッと睨む。
﹁真面目に仕事してください 真面目に﹂
仕事の邪魔をしている槙坂先輩ではなく、僕を怒るのか。こちら
は被害者だと思うのだが。
﹁大丈夫よ。わたしはそろそろ行くから﹂
しかし、加々宮さんの不満も僕の苦悩もどこ吹く風で、槙坂先輩
はあっけらかんとして言う。
﹁それにデートの時間は明日ちゃんと取ってあるもの﹂
それを聞いた加々宮さんははっとして、それから何か言おうとし
︱︱やめた。うつむき、拳を固め、悔しそうに唇を噛む。
そんな彼女の様子が心配になって僕は声をかけようとしたが、し
かし、先を越されてしまった。
﹁きらりーん、行くよー﹂
加々宮さんのグループが追いついてきたのだ。
﹁ちゃんと仕事してくださいね、先輩﹂
顔を上げた彼女は、気持ちを切り替えたのか、眉をひそめてちょ
っと怒ったような表情を作ると、﹁めっ﹂といった感じで釘を刺し
た。そうして後ろからやってきたグループに合流すると、一緒に歩
いていってしまう。
何ごともなかったかのように友達同士きゃいきゃいとおしゃべり
しながら去っていく彼女の後姿を少しだけ見送ってから、僕も足を
踏み出した。当然、槙坂先輩もついてくる。そろそろ行くんじゃな
かったのだろうか。
﹁さて、槙坂先輩のせいで怒られてしまったわけだが?﹂
申し開きがあればぜひ聞かせてもらいたいものである。
241
﹁あら、わたしのせい?﹂
﹁ほかに何があると?﹂
﹁そもそもわたしがこうしているのは、唯子を連れ回していて藤間
くんのクラスに寄る時間がなくなったからなのよ?﹂
﹁自業自得だな﹂
というか、せっかくきた客をつれていかないでもらいたい。立派
な営業妨害だ。
﹁そうかしら?﹂
﹁そうだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
喰い違う意見。
なぜに僕がその責任まで負わされなければならないのか。自分が
勝手にやったことだろうに。
﹁さらに言えば、あなたが眼鏡をかけてきたことが原因でもあるわ
ね。学校ではかけないでって言ったはずよ﹂
﹁そこは確かに謝るほかないが、伏見先輩と一緒に回っていて時間
がなくなったこととは無関係だ﹂
﹁そうかしら?﹂
﹁そうだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
またしても意見が喰い違う。
そのまま互いに無言で少し歩き︱︱隣の校舎に移ろうと渡り廊下
に差しかかったところで槙坂先輩が口を開いた。
﹁ま、あなたにはそう見えるでしょうね﹂
諦めたようにそう言って、苦笑のような嘆息した。
﹁さぁ、もう本当に行くわ。じゃないと、それこそ藤間くんがちゃ
んと仕事をしていないように見えてしまうもの﹂
﹁ああ﹂
242
﹁明日はもっとちゃんとつき合ってもらいますからね﹂
そう言うと槙坂先輩はくるりと踵を返し、僕から離れていった。
明日、か。
時計の針は午後四時を回り、今日も残すところ一時間弱。尤も、
渡り廊下の窓から中庭を見れば、誰ひとりとして終わりのことなど
考えていないような盛り上がりっぷりだが︱︱どうやら学園祭初日
はこのまま無事に幕を閉じそうだ。
明日も何ごともなくすめばいいが。
243
第五話 その4
学園祭二日目。
本日も僕は朝から実行委員の仕事が入っていた。
アーチ
入場ゲートでの受付である。
チケット
校門には美術部謹製の入場門が設置されていて、それをくぐった
ところに受付がある。と言っても、明慧は招待券などによる入場制
限はないので、誰でも自由に入れる。僕がやっているのは希望者に
パンフレットを配布するだけの簡単なお仕事だ。
さて、二日目開幕から三十分がたったころ、朝からの入場者も一
段落したこともあって、僕は固まった体をほぐすため席を立った。
固いパイプ椅子に座っているからだろうか、まだ授業よりも短い時
間のはずなのに腰が痛くなってきた。少し後ろに下がって腰を伸ば
していると、そこに見知った顔がやってくるのが見えた。
長い黒髪の少女だ。切りそろえられた前髪の下にある相貌はどこ
となく和風で、硬質な感じに整っていることもあって、まるで日本
人形のようにも見える。
﹁本当にきたのか⋮⋮﹂
我が異母妹、切谷依々子だった。
まぁ、本当にも何も、くるとはひと言も言っていなかったので、
予想通り、或いは、悪い予感が当たったと言うべきか。
﹁にしても危ないな﹂
切谷さんはスマートフォンを見ながら歩いていた。にも拘らず、
正確に受付にやってきて、パンフレットを受け取った。コウモリの
ように超音波でも出しているのだろうか。
思わず感心して、切谷さんが通り過ぎるのを見送ってしまった。
彼女は受付を過ぎたところで立ち止まると、端末を耳に当てた。
244
電話をかけたのか、かかってきたのか。
それと同じタイミングで僕の携帯電話が着信を告げた。ポケット
から端末を取り出して見てみれば、案の定、相手は切谷さんだった。
﹁もしもし?﹂
少し考えた末、電話に出ることにした。
﹃真? 私﹄
相変わらずのつまらなさそうな声。
﹃今、真の学校にきてるんだけど﹄
﹁らしいね。すぐ近くにいるよ﹂
僕がそう答えると、切谷さんは弾かれたように周りを見回し︱︱
僕を見つけた。まるで睨みつけるみたいにして、目に見えてむっと
している。
互いに通話を切り、歩み寄る。
﹁⋮⋮いるんだったら言って﹂
﹁もう少し周りに気を配ったほうがいいね。事故に遭ってからでは
遅い﹂
しかし、切谷さんは僕の言葉には何も答えず、そっぽを向いてし
まう。恥ずかしいのと腹の立つのとがごちゃ混ぜになっているよう
だ。
僕はこれでこの話は終わりにすることにした。
﹁せっかくきてくれたところ悪いんだけど、実は実行委員の仕事の
真っ最中でね﹂
﹁真、そんなことやってんだ﹂
彼女は僕の二の腕についている腕章を見て、﹁面倒くさそう⋮⋮﹂
と率直すぎる感想を口にしてくれた。
﹁⋮⋮別にいい。ひとりでぶらぶら回ってるから。それに真に会い
にきたわけじゃないし﹂
﹁そ、そう?﹂
だったらなんで僕に電話をかけてきたんだろうと思ったが、それ
は言わないでおいた。言うといよいよ怒り出してしまいそうだ。
245
切谷さんはくるりと踵を返し、校内に向かって歩いていく。
﹁時間ができたら連絡するよ﹂
いちおう彼女の背中にそう声をかけておいた。
一時間ほどで受付の仕事は交代となり、僕は一旦運営の業務から
解放された。この本番までの準備におおいに携わったことや初日だ
った昨日働いたことで、今日はもう後夜祭や全体の片づけまで仕事
は入っていない。もちろん、クラスの手伝いはあるが、しばらくは
自由だ。
だが、僕は未だ入場門付近に立っていた。
ここで人と待ち合わせしているのだ。
﹁遅いな⋮⋮﹂
受付の仕事の終わりに合わせて待ち合わせ時間を設定していたの
だが、その約束の時間を過ぎても待ち人︱︱雨ノ瀬は現れない。い
いかげんこちらから連絡してみようかと思い、携帯電話を手にした
ところでちょうど着信があった。
雨ノ瀬だった。
﹁⋮⋮﹂
雨ノ瀬というのは僕が中学生だったころのクラスメイトで、当時
いちばん仲がよかった女友達だ。仲がよすぎてちょっとした噂が立
ったこともあり、しかし、根も葉もないまったくの噂というわけで
もなく、実際あと少し何か違う流れがあればつき合っていたのでは
ないかと思う。結果的には僕が彼女を振るようなかたちで決着がつ
いたのだが。そして、この夏休み前に思い立ってメールをし、再会。
その末に今回、明慧の学園祭に遊びにくることになったのである。
その雨ノ瀬だった。
雨ノ瀬である。
﹁雨ノ瀬か⋮⋮﹂
僕は思わず天を仰いだ。
そうしてから意を決して電話に出る。
246
﹁うわーん、藤間、ここどこーっ!?﹂
﹁⋮⋮﹂
やっぱりだった。
247
第五話 その5
幸いにして、十五分ほどで雨ノ瀬をつれて学校に戻ってくること
ができた。
﹁やー、ひどい目に遭った﹂
﹁うん。毎度のことながら、それは僕の台詞だからな﹂
僕は訂正しつつ、受付でもらってきたパンフレットを雨ノ瀬に手
渡す。尤も、今回は時間の無駄こそあれ、疲労はなかった。
雨ノ瀬は方向音痴のくせして、自分のいる場所を説明させたら意
外と的確に、且つ、表現力豊かに描写できるという謎の特技がある
ことが前回わかったのだ。そのときの失敗で得た教訓と副産物を活
かして、今回は僕が迎えにいくことにしたのである。
本日の雨ノ瀬は、ジーンズに裾の長いロングTシャツのような上
着をゆったりと着ていた。何となくストリートで踊り出しそうなス
タイルに見えないこともない。長い髪をふたつにまとめて首の後ろ
あたりで結んでいるのは相変わらずだ。
今日は昨日よりも気温が高いようで、今朝見てきた天気予報によ
ると九月中ごろの暑さなのだそうだ。僕もブレザーは教室に置いて
きていた。
さて、これからどうするか︱︱と僕は考える。
﹁ん? 藤間、どうしたの?﹂
﹁いや、この出オチみたいな女をどこにつれていこうか考えてた﹂
﹁ひっど。その言い方ひどくない!?﹂
実際、僕は雨ノ瀬をどこに案内するか考えていなかった。考えた
けど決まらなかった、というのが正しいか。
﹁雨ノ瀬、何か見たいものはあるか?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
と、パンフレットをめくりながら今度は雨ノ瀬が考え込む番だっ
248
た。⋮⋮ま、当然そうなるだろうな。特にこれと言った特徴のない
学園祭だし。
﹁藤間のオススメは?﹂
と、雨ノ瀬は逆に僕に聞いてくる。学内者の意見を参考にすると
いうのは至極まっとうな流れだが、そんなものがあれば僕も悩んだ
りしないのである。
﹁受付が最恐のお化け屋敷﹂
﹁何それっ。どんな強面入り口に置いてんの!? 見たいっ﹂
﹁僕から言い出しといてなんだけど、やめとけ。ろくなことになら
ない﹂
主に僕が。
﹁とりあえず学校見物を兼ねて、ふらふら見て回るか﹂
﹁そだね﹂
意見がまとまったところで僕たちは足を踏み出した。
確かに学園祭に関してはこれと言って見るべきものはない。ただ、
学校自体はそこそこ珍しい部類に入るのではないかと思う。
﹁藤間の教室は?﹂
まずは校舎内を歩き、屋内の出しものを見て回る。
﹁ない﹂
﹁ない!?﹂
雨ノ瀬が盛大に驚く。こういう感嘆の発音が大きいのはいつもの
ことだ。
明慧学院大学附属高校は単位制を導入している関係で、生徒が教
室を巡るスタイルとなっている。週に一度のホームルームを行う小
教室は決められているが、クラスの掲示物が貼られているような普
通の教室とは趣が異なるのだ。
﹁だから、こういう教室もあるわけだ﹂
学校見物をメインにすることにした僕は、最初に踏み入った校舎
を抜け、別の講義棟へと向かった。そこは学園祭には利用していな
いので、自販機目当ての生徒がちらほらしている程度だった。
249
僕は手近なドアを開けた。
﹁おお、大学みたい﹂
大教室だった。後ろ半分が階段状になった構造は普通の高校には
ないものだろう。
中では休んでいるのだかサボっているのだかわからない生徒たち
が、すっかりやる気を失くした調子で駄弁っていた。僕としては実
行委員という立場ではあっても、彼ら彼女らを注意するつもりはな
い。今は腕章をつけていない以前に、こういうイベントは人それぞ
れだからだ。乗り気の生徒もいればそうでないのもいる。楽しめな
い生徒をむりやり参加させる気はなかった。
﹁じゃあ、藤間のクラスはどこで何やってんの?﹂
﹁うちは喫茶店。実行委員に割り振られた教室でやっている。後で
つれてくよ﹂
その割り振りをしたのが僕なのだが。
﹁戻ろうか﹂
雨ノ瀬が感動してくれたことで満足した僕は、ドアを閉め踵を返
した。
次に入ったのは特別教室がある学務棟だった。
特別教室を活動場所にしている文化部が多いので、自然ここは文
化部の出しものばかりとなる。クラスや運動部での参加の場合、店
の類や何かしらの催しものが多いのに対し、文化部はどちらかと言
えば活動内容に沿った展示が多い。美術部や書道部は作品の展示、
機械工作やコンピュータ系のクラブなら成果物の披露。科学部や家
庭科部などはちょっとした教室を開いている。
それらを覗き見ながら、僕と雨ノ瀬は廊下を歩く。
﹁んー? あたしたち、なんか注目されてない?﹂
言葉にはできないちょっとした違和感に気づくみたいにして、不
意に雨ノ瀬はそんなことを言いながら首を傾げた。
﹁藤間、またカッコつけ過ぎて悪目立ちした?﹂
250
﹁⋮⋮﹂
忘れたい過去を知っているやつがいることの、なんとやりにくい
ことか。
とは言え、確かにさっきからすれ違う生徒がちらちらとこちらを
見ながら通り過ぎていくな。
﹁雨ノ瀬がかわいいからじゃない?﹂
ひとつの可能性。
﹁ごめん。藤間の気持ちは嬉しいけど、あたし、彼女持ちの男の子
はちょっと⋮⋮﹂
﹁うん。そういう意味じゃないから﹂
こちらにそのつもりもないのにお断りされてしまった。
﹁まぁ、雨ノ瀬が気にするようなことじゃないよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ああ﹂
たぶん僕が槙坂先輩とは別の女の子をつれて歩いているのが理由
だろう。こちらの可能性のほうが高そうだ。
﹁そう言えば、例の年上の彼女は?﹂
そんな僕の心情を鋭く読んだわけではないのだろうが、雨ノ瀬が
聞いてくる。
﹁安心しろ。健在だよ﹂
﹁いや、まず生きてるか死んでるかを確認しないといけないほど年
上じゃないでしょうが。うちのひいおばあちゃんじゃないんだから﹂
そっちの扱いもどうかと思うが。
﹁あたしとこうしてて大丈夫?﹂
﹁心配するな。後で時間を取ってあるよ﹂
さて、実習だの特別教室だの言っても、中身が違うだけで廊下か
ら見える外観は一緒である。窓やドアがそれぞれ一定の間隔でコピ
ィ&ペーストのように繰り返されているだけ。しかし、普段はそう
でも学園祭開催中の今は違う。壁や窓には飾りつけがされ、催しも
のの案内やついでとばかりに部員募集のポスターが貼られている。
251
実に賑やかだ。
その中にあってひときわ個性的な部屋がある。
礼法室と名づけられた和室だ。
授業でも使うことがあるし、放課後は筝曲部や茶華道部、日本舞
踊部などの活動場所となっている。普段ならここには障子窓が嵌め
られているのだが、この学園祭中はすべて取っ払われ、廊下から中
を見ることができた。
どうやら今は茶華道部による茶道体験教室の時間のようだ。歳も
様々な一般参加者が並んで正座し、茶道具の説明を聞いたりお茶の
点て方をおしえてもらっている。
﹁あ、見て見て、藤間、すっごいきれいな子﹂
と、雨ノ瀬がゴンゴン肘打ちでコンボ数を上げながら言うので、
参加者の面々をよく見れば中にひとりやけに様になっている女の子
がいた。
誰あろう切谷依々子だった。
もとより和風の面立ちで所作もきれいなので、こういうことをや
らせるとよく似合う。今日はスキニーなボトムスに黒いチュニック
ブラウスというスタイルなのだが、こうなるとなぜか和服っぽく見
えてくるから不思議だ。まぁ、それも黒なので喪服になってしまう
が。
それは兎も角として、彼女の茶を点てる手つきが明らかに経験者
のそれだった。おしえる側のはずの部員がため息交じりに見ている。
ふと、切谷さんは視線を感じたのか、ちらとこちらを見︱︱そし
て、そこにいるのが僕だとわかるとかすかに目を丸くして驚き、そ
れからむっとした様子で僕を睨んだ。しかし、それもわずかな時間
のことで、すぐに手もとに視線を落とす。心なしか顔が少し赤かっ
た。
程なく、切谷さんはきりのいいところで席を立ち、廊下に出てき
た。
﹁いるんだったら言ってって言ったわ﹂
252
そして、改めて僕を睨めつける。
﹁声をかけていい状況じゃなかっただろ﹂
あんなときに声をかけたりしたら、お互い恥ずかしいと思うのだ
がな。小学生のころ、運動会で徒競走のスタートラインに立った僕
に向かって、大声で名前を呼んだ母のことは未だにトラウマだ。早
くその場を離れたくて一心不乱に走ったものである。
﹁それにしてもずいぶんと慣れた手つきだったね﹂
﹁茶道、華道、お箏。このあたりはひと通りできるから﹂
﹁さすが老舗料亭の娘﹂
﹁古いだけよ﹂
切谷さんはぶっきらぼうに言い返しながらも、まんざらでもなさ
そうだった。
じゃあ、なんで体験教室なんかに参加したんだって話になるのだ
が、案外テキトーなところのある彼女のことだから部員に誘われる
まま入ったのだろうな。部員も部員で切谷さんの和風の見た目で誘
ったに違いない。
﹁ねぇねぇ、藤間。誰さん?﹂
と、再び肘打ちの連打を決めてくる雨ノ瀬。
﹁⋮⋮その人の妹﹂
しかし、それに答えたのは僕ではなく、当の切谷さんだった。
ちょっと驚いて、僕は彼女を見た。
﹁⋮⋮何?﹂
﹁いや、別に﹂
前は自分から妹なんて言わなかったのにな、と思っただけである。
口にするつもりはないが。
﹁妹なんていたの!?﹂
雨ノ瀬がびっくりするのもむりはない。僕の口から妹の話なんて、
中学のころでも一度も出たことがなかったのだから。むしろ兄弟姉
妹の話になってひとりっ子だと答えた記憶がある。
﹁いたんだ。今年になって初めて会ったけどね﹂
253
﹁何それ!?﹂
﹁そのへんややこしいから、また改めて説明するよ﹂
一昨日完成したばかりの妹とかではないのは確かで、それよりは
ましな関係だろうと思う。
﹁真、また新しい彼女?﹂
﹁僕は彼女を何人も作った覚えはないよ﹂
と、答える僕の横で、雨ノ瀬が﹁真?﹂と首を傾げている。
﹁前にいなかった? 駅の改札で、別れ話こじらせて揉めてるのを
見たんだけど﹂
何のことかと思えば、夏休みに入ったばかりのころの話か。こえ
だ他二名と遊びにいく約束をしたら、現れたのが加々宮さんひとり
だったあの日のことだ。そう言えば、あの場に切谷さんが通りかか
ったのだったな。
﹁ああ、あったね。そんなことも⋮⋮って、雨ノ瀬、なに距離を取
ろうとしてるんだ﹂
﹁あ、いや、やっぱ藤間ってモテるなぁって感心しちゃって⋮⋮﹂
感心したら距離をあけるのかよ。
﹁念のために言っておくと、誤解だからな? まぁ、それは兎も角
として、こっちは僕の中学時代のクラスメイトだ。僕たちもふらふ
ら見て回ってるところなんだけど⋮⋮切谷さん、どうする? 一緒
に回る?﹂
僕の視界の端で、今度は﹁切谷さん?﹂とまたも首を傾げる雨ノ
瀬。
﹁いい。ひとりのほうが気楽でいから﹂
しかし、切谷さんにはすげなく断られてしまった。最初にタイミ
ングを逃したことで意固地になっているのだろうか。
﹁それにあの人ほったらかしで違う女の子ふたりもつれてると、な
に言われるかわからないわよ﹂
﹁⋮⋮それもそうか﹂
認めたくないが、雨ノ瀬ひとりをつれてるだけでも、どうにも雲
254
行きが怪しいからな。
﹁ま、ふたり一緒につれて歩くか、次々と変えるかの違いだけって
気もするけど﹂
﹁⋮⋮﹂
切谷さんと別れた後、僕たちは校舎を抜けてグラウンドに出た。
グラウンドのメインは何と言っても野外ステージだろう。
ここではいろんな催しが、時間を空けずにいくつも行われる。今
は生徒会主催による景品付きクイズ大会だ。果たしてどれほどの参
加者ではじまったのかわからないが、もう大詰めに入っているよう
で、勝ち残った数名の参加者がステージ上の○と×を往ったり来た
りしている。
﹁あ、午後からは飛び入り参加歓迎のパフォーマンス大会だって﹂
と、パンフレットを見ながら、雨ノ瀬。
野外ステージは毎年それでラストを飾るのが伝統となっている。
要するに、最後は何でもありで、むりやり盛り上げようというわけ
だ。
﹁あたしも参加しよっかなー﹂
﹁いったい何するつもりだよ﹂
﹁もっちろん、ダンスで﹂
そう言えばこいつは昔から踊るのが好きで、高校に入ってから本
格的にダンスをはじめたんだったな。
﹁おい、真。三味線弾け、三味線﹂
と、不意に浴びせかけられた命令口調の声に振り返れば、そこに
いたのは美沙希先輩と︱︱
﹁あ、古河先輩!﹂
知らない仲ではない雨ノ瀬が、その懐かしい顔を見て嬉しそうに
声を上げた。一方、美沙希先輩のほうは﹁よっ﹂と、調子は軽い。
﹁え、ぁ⋮⋮﹂
そして、雨ノ瀬は美沙希先輩の横にいる人物を見て、わずかに戸
255
惑う。
槙坂涼がいたのだ。
﹁こんにちは、藤間くん﹂
﹁どーも﹂
何がどうというわけではないが、よろしくないタイミングで会っ
てしまった気がする。
﹁それから、あなたは確か藤間くんの中学のころのお友達よね?﹂
しかし、僕の漠然とした不安をよそに、槙坂先輩は雨ノ瀬によそ
行きの笑顔で微笑みかける。
﹁あ、はい。雨ノ瀬です。すみません。藤間、お借りしてます﹂
雨ノ瀬が彼女を見たのはこれが初めてではないが、間近で感じる
完璧超人オーラに圧倒されているようだ。そのお辞儀は、果たして
謝っているのか挨拶なのか。
﹁いいのよ。藤間くんからも聞いてるから。⋮⋮女の子だとは言っ
てなかったように思うけど﹂
槙坂先輩が非難の色を含んだ眼差しをこちらに向けてくる。確か
に友人が遊びにきて案内することになっているとは伝えていたが、
それが雨ノ瀬であることは伏せていた。たぶん自衛のためだろう。
﹁槙坂。真の元カノだぞ、元カノ﹂
美沙希先輩が面白がって煽るようなこと言う。
雨ノ瀬が﹁せ、先輩っ﹂と悲鳴じみた声を出した。実際そうはな
らなかったとは言え、あまり穿り返してほしくない過去である。
﹁元でしょ、元。知ってるわよ﹂
呆れ調子の槙坂先輩。
﹁そこを面白がってるのは美沙希先輩だけですよ﹂
﹁ちっ。つまんねーやつらだな。おい、真、ステージ上がって三味
線弾け﹂
﹁⋮⋮﹂
とりあえず、この人はほっておこう。酔っ払いが酔った勢いで思
いつきを口走ってるのと一緒だ。
256
そして、問題は僕をほっておいてくれない人がいることである。
﹁藤間くんは今は自由時間?﹂
槙坂先輩がすっと僕のそばにやってくる。
﹁ああ、朝から少し運営の仕事をやってたけど、今は何も入ってな
いよ。でも、午後から今度はクラスの手伝いだけど﹂
﹁忙しいのね、相変わらず﹂
﹁仕方ない。実行委員とはそういうものだ﹂
そこで槙坂先輩はさらに一歩近寄り、僕のネクタイに手を伸ばし
てきた。
﹁ほら、ネクタイが緩んでるわ﹂
そう言いつつ直してくれる。心なしかいつもより距離が近い気が
した。だからだろうか、﹁うわ、なんか夫婦みたい﹂と雨ノ瀬が思
わず感嘆している。
﹁ところで、今日はお母様はこられないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
それは僕のお母様のことだろうか。自分の母親のことを僕に聞く
のもおかしいしな。だからきっと僕のお母様のことなのだろう。尤
も、お母様と言うほどたいそうなものではないが。というか、なぜ
今その話を出した!?
﹁特にそういう話は聞いてないね﹂
今日も今日とて出勤していることだろう。
僕が小学生のときは学校行事もよく見にきていた。まぁ、きて徒
競走の件のようなことをやらかしもしたわけだが。しかし、中学に
上がったくらいからだろうか、普通の男なら親が学校に顔を出すの
を嫌がるころから、むりに都合をつけるようなことはしなくなった。
今回も母と学園祭の話はしたが、おそらく見にくることはないだろ
う。
﹁そう、残念ね。⋮⋮はい、できたわ﹂
僕のネクタイをきゅっと締め、槙坂先輩は一歩下がる。それから
改めてそれを眺め、
257
﹁ブレザーを着てないと、どうもネクタイのおさまりが悪いわね。
わたしがネクタイピンでも買ってあげましょうか?﹂
﹁⋮⋮いいよ、そんなもの﹂
確かに明慧の制服には大人がしているようタイピンはない。おか
げで今みたいにブレザーを着ずに動いていると邪魔に感じることも
あるが、誰もつけていないようなタイピンをしたいと思うほどでは
ない。
﹁槙坂、そろそろ次いこうぜ﹂
酔っ払い、もとい、美沙希先輩は学園祭を満喫しているようで、
槙坂先輩を急かす。
﹁そうね。じゃあ、藤間くん、また後でね。キャンプファイヤ、楽
しみにしてるわ﹂
﹁ああ﹂
そうして槙坂先輩は美沙希先輩とともに去っていき、僕たちはそ
れを黙って見送った。
程なくして雨ノ瀬が口を開く。
﹁うわー、やっぱすごい美人⋮⋮﹂
﹁まぁ、そこについては異論の余地がないな﹂
思わず嘆息感嘆するのもむりはない。
﹁しっかも、仲がいいし。⋮⋮いつもあんな感じ? うっらやまっ
しー、藤間うっらやましー﹂
﹁⋮⋮﹂
いや、あれは明らかにおかしい。ただ、それを素でやってるのか
わざとなのかは判じがたいところではある。
﹁あ、そうだ。キャンプファイヤなんてあるんだ﹂
﹁後夜祭的にね。尤も、不要なものをとっとと燃やしてしまおうっ
て意図もあるみたいだけど﹂
﹁ロマンがないなぁ﹂
雨ノ瀬が苦笑する。
﹁いちおうロマンらしきものはあるよ。﹃キャンプファイヤを一緒
258
に見よう﹄って誘いが交際の申し込みだとか、﹂
その場合、誘いを受けることは交際の了承でもあるわけだ。
﹁カップルが一緒に見たら長続きするとか、ね﹂
いつからか定着した明慧の慣習と都市伝説だ。生徒にとってはこ
れも含めて学園祭と言える。去年一昨年と、いったい何人が槙坂涼
をキャンプファイヤに誘い、玉砕したのだろうな。
﹁で、一緒に見にいく約束してんだ。やるじゃん、藤間﹂
と、雨ノ瀬は何やら僕の行動に感心しているふうだが、僕として
はそこに深い意味はなかった。今後の僕と槙坂先輩がどうありたい
などという願いや希望を乗せるつもりはない。
﹁さ、僕たちもいこうか﹂
僕は雨ノ瀬を促し、槙坂先輩たちとは別の方向に歩き出した。
時刻は十二時を回っている。そろそろクラスの手伝いに入らない
といけない時間だ。
259
第五話 その6
雨ノ瀬とふらふら校内を見て回っているうちに昼どきとなった。
﹁悪い、雨ノ瀬。そろそろクラスの手伝いに入らないといけない時
間だ﹂
それに関してはあらかじめ彼女に伝えてあった。だいたい今くら
いの時間ならひと通り見終って、雨ノ瀬も満足して帰るころだろう
と踏んでいたのだが⋮⋮あまりそんな雰囲気ではないな。
﹁残念。⋮⋮あ、じゃあさ、藤間のクラスで何かおごってよ﹂
﹁それはいいけど、喫茶店だからケーキとかクッキーとかしかない
ぞ﹂
いちおう自慢の商品ではあるが、昼食にするには少々もの足りな
いのではないだろうか。
﹁大丈夫。女の子だもの。お菓子でできてるから﹂
﹁マザーグースかよ﹂
しかし、雨ノ瀬は僕の言ったことの意味がわからなかったのだろ
う、頭の上にクエスチョンマークを飛ばしながら首を傾げている。
﹁あるんだよ、マザーグースにそういうのが。それによると女の子
は砂糖とスパイスと素敵な何かでできてるんだそうだ﹂
﹁へー、かわいいフレーズ﹂
因みに、男の子はカエルとカタツムリと子犬のしっぽでできてる
らしい。男に恨みでもあるのだろうか。
﹁でも、雨ノ瀬の場合、お菓子喰って生きてるだけだろ﹂
中学のときも、どこからともなくチョコバーを出してきては、よ
く僕に勧めていた。
﹁うーん、否定しきれないところもあるけど、そこまで食生活テキ
トーじゃないつもり﹂
﹁じゃ、行くか。何かおごるよ﹂
260
﹁へっへー。ごちそーさまー﹂
さっそく僕たちはクラスの喫茶店に足を向けた。
たかが喫茶店、されど喫茶店。昼どきとあって、客はそこそこ入
っていた。だが、学園祭なんかで昼食をとろうと思う学生や一般参
加者はもっと重い食べものをチョイスするようで、客層は明慧の女
子生徒を含めた女性客に比重が偏っていた。休憩の延長なのだろう。
適当に空いているテーブルを見つけて雨ノ瀬をそこに座らせる。
ラミネート加工したメニューを手渡すと、僕は﹁ちょっと待ってろ﹂
と言ってバックヤードに入った。
﹁遅ぇ!﹂
いきなり容赦ない文句を浴びせてきたのは、男ではないが少年の
ような容姿をした礼部紅緒さんだった。
﹁遅くはないだろ。交代の時間にはちゃんと間に合ってる。それに
客をつれてきたんだ。文句を言われる筋合いはないよ﹂
﹁客? 槙坂さん?﹂
﹁いや、中学のときの同級生﹂
いかん。ついに僕から槙坂先輩がナチュラルに連想されるように
なったか。いよいよ末期だな。
﹁藤間がつれてきた客というと、あの女の子だな﹂
と、口をはさんできたのは今回このクラスの出しものとして喫茶
店を提案した成瀬だった。彼はフロアとバックヤードを仕切りカー
テンを少し開け、向こう側を覗き見ている。
﹁前の彼女だったりして?﹂
礼部さんが面白がるように問うてきた。
﹁⋮⋮﹂
﹁ゆえや!﹂
黙っているとなぜか彼女にキレられてしまった。
﹁言えよ、何かっ﹂
﹁あ、いや、確かに仲はよかったけど、そういうのじゃなかったよ
261
なと思ってね﹂
さて、挨拶もすんだので雨ノ瀬のところに戻るとするか。こんな
ところでひとりほっとかれても居心地が悪いだろう。
﹁じゃ、僕は少しあいつの相手をしてるから。いよいよ手が回らな
くなってきたら手伝うよ﹂
﹁勝手なやつだなぁ﹂
こんなお祭りイベントなのだ、別のクラスや学外の友達が見にき
たからちょっとしゃべりにいく、なんてのはよくある話で、僕だけ
が堂々とサボっているわけではない。礼部さんのかたちばかりの文
句を聞きながらフロアに舞い戻ると、雨ノ瀬は脇目も振らずものす
ごい気迫でメニューを睨みつけていた。先の心配は無用だったよう
だ。
﹁雨ノ瀬、決まったか?﹂
﹁あ、うん。じゃあ、アイスコーヒーとね、クッキーのセット﹂
お願いします!とばかりにメニューを両手で突き出してくる。そ
れはそこに置いとけ。
﹁わかった。すぐ用意する﹂
そして、再びバックヤードに入る僕。
﹁成瀬、クッキーひと皿もらうよ﹂
﹁いいけど、金は払えよ﹂
わかってるよ、と僕は成瀬に手を上げて応え︱︱作り溜めという
か盛りつけ溜めしてあったクッキーの皿のひとつからラップを取り
外し、アイスコーヒーを添えて雨ノ瀬のもとへと運んだ。
﹁おおっ﹂
何やら感嘆の声を上げる雨ノ瀬。僕も自分のコーヒーとともに彼
女の向かいに座った。
と、そのとき、スラックスのポケットに突っ込んでいた携帯電話
が着信を告げてきた。メールだ。もしや学園祭中ろくに相手をして
いない誰かさんだろうかと思ったが、違っていた。僕の被害妄想︵
?︶だったようだ。
262
﹁何?﹂
﹁実行委員の業務連絡らしい﹂
聞いてくる雨ノ瀬に答えながら、僕はメールを開いた。
﹃一般参加者の中に素行のよくない人がいるとのことです。四人組。
各人注意してください。目に余る行為を見かけたら、近くの先生を
呼ぶこと﹄
︵素行のよろしくない連中、ね⋮⋮︶
こんなどこにでもある学園祭で何をするつもりなんだかな。⋮⋮
ま、いちおう気にしておくことにしよう。
﹁美味しい!﹂
携帯電話を閉じたところで、向かいの雨ノ瀬が歓声を上げた。見
ればクッキーを口に頬張っていた。
﹁このクラスの自慢の品だからね﹂
成瀬も喜ぶことだろう。何せ彼は企画立案者であると同時に、お
菓子作り班のリーダーでもある。お菓子作りが趣味なのだそうだ。
﹁すみませーん﹂
教室のどこかで店員を呼ぶ声がする。盛況のようで何よりだ。僕
はようやくコーヒーに口をつけた。
﹁お願いしまーす﹂
そして、もう一度。
早く誰か行ってやれよ︱︱と思っていると、
﹁藤間、頼むー﹂
﹁⋮⋮﹂
さっそくか。ゆっくりサボらせてくれ⋮⋮というのはさすがに勝
手な文句か。サボりもそこそこ認められるが、忙しいときにはちゃ
んと手伝うのが暗黙の了解だ。緩さの中にもルールあり、である。
﹁悪い。ちょっと行ってくる﹂
なかなか落ち着かせてもらえないな。僕は立ち上がると、注文を
263
取りにくるのを待っている客のところに向かった。
﹁すみません。お待たせしました﹂
﹁あ、藤間君だ。ラッキー﹂
明慧の女子生徒で、三年生と思しき二人組。ひとりは、背が高く
て髪も長く、見るからにスタイルもいい。もうひとりは、平均的な
身長ながらアスリートのような印象を受ける。髪も短めだ。名前を
呼ばれるものの、こちらはまったく見知らぬ顔だった。
﹁ねね、今そっちのテーブルに座ってたみたいだけど、もしかして
指名できたりするの? 後で話につき合ってよ﹂
スタイルがいいほうの女子生徒が、身を乗り出し気味にしながら
下から覗き込んでくる。
﹁ここはそういうシステムの店じゃありませんから﹂
僕はホストかよ。
﹁えー、三年のお姉様のちょっと大人の魅力に興味ない? 私、イ
ンナーに凝るタイプで、体育の前の着替えのときなんかエロかわい
いと評判なんだよー﹂
﹁あんたのは単に色気過多なだけでしょ。それにお姉様の魅力なら、
藤間君は槙坂さんで十分間に合ってると思うけどね﹂
アスリートのような先輩が、冷めた口調で口をはさむ。
﹁う、それもそうか。さすがに槙坂さんには負けるわ⋮⋮﹂
﹁下手すると、もう見慣れてる可能性も﹂
﹁も、もうそんな関係っ!?﹂
ががーん、とショックを受ける先輩。
﹁⋮⋮﹂
もう当事者がいなくても勝手に話が進みそうな勢いだな。
とりあえず僕はテキトーに話を受け流し、注文をバックヤードに
伝えて雨ノ瀬のところに戻る︱︱と、どういうわけか彼女はしらー
っとした表情をしていた。
そして、おもむろに口を開き、
﹁⋮⋮藤間ってさ、年上に好かれるタイプ?﹂
264
﹁知るかよ、そんなこと﹂
自分がどの層に受けるかなんて考えたこともない。
﹁そのうえ本人は年上に弱いとかね﹂
雨ノ瀬は呆れたようにため息を吐く。
いや、その自覚はないんだがな。しかし、言われてみると心当た
りがないこともない。中学のときは美沙希先輩に引っ張り回され、
今は槙坂涼に振り回されている。しかも、そこそこ悪くないと思っ
ているあたり、なかなか重症だ。
﹁それより雨ノ瀬、これからどうするんだ?﹂
僕は客観的に自分を見つめ直すことをやめ、話題を変えた。
﹁僕はまだしばらくここを離れられないぞ﹂
﹁んー、できれば古河先輩と合流したいと思ってる。それにあの人
に藤間のことも聞いてみたいしね﹂
あの人とは槙坂先輩のことだろう。
﹁わかった。後で僕から美沙希先輩に連絡しておくよ﹂
因みに、大学受験を目の前にひかえた三年生は、明慧祭への参加
は自由となっていて、クラスごとに参加不参加を決めることができ
る。槙坂先輩のクラスは例のお化け屋敷で参加している。一方、美
沙希先輩のクラスは不参加だ。よって、美沙希先輩は確実につかま
るだろう。そこに先ほど同様、槙坂先輩がいるとは限らない。⋮⋮
できればいないでほしいところだ。
程なくしてクッキーを平らげ、互いにコーヒーを飲み干すと、雨
ノ瀬を廊下に待たせて僕はバックヤードの会計係のところに向かっ
た。
飲み喰いした分の支払いを済ませてから廊下に出る。
さて雨ノ瀬はどこだ、と見回し︱︱いた。見つけた。が、いたの
はいいが、彼女はどういうわけか男数人に言い寄られていた。雨ノ
瀬の顔には困惑と戸惑いの表情が浮かんでいる。上手くあしらえな
いのか、男どもがしつこいのか。⋮⋮大昔もこういうことがあった
265
な。
男の数は、四人。どうやら素行の悪い連中といきなり遭遇してし
まったらしい。
僕はスラックスのポケットを探ると、運営本部に返さず持ったま
まになっていた実行委員の腕章を取り出し、腕に通しながら男たち
に歩み寄った。尤も、この印籠がどの程度効果があるかは定かでは
ないが。
まずは雨ノ瀬が僕に気づき、﹁あ⋮⋮﹂と小さく発音した。
﹁すみません。ほかの参加者の迷惑になる行為はやめてもらえます
か﹂
僕が声をかけると、男たちがいっせいにこちらを向いた。僕たち
と同じ高校生くらいだろうか。でも、あまりガラはよろしくなさそ
うだった。
﹁藤間っ﹂
雨ノ瀬が小走りに駆けてきて、僕の背に隠れた。彼女に逃げられ
たのを見て、男のひとりが﹁ちっ﹂と舌打ちする。
﹁お前、俺らに何か用かよ?﹂
﹁僕はこの学園祭の実行委員のものです。ほかの方に迷惑になるよ
うなことはやめてもらいたいのですが﹂
﹁あ? 俺たちはそっちのかわいい子にちょっと声をかけただけだ
ろうが。実行委員っつーのは、それだけのことまで取り締まんのか
よ﹂
うちの学園祭に何しにきたのかと思えばナンパかよ。まぁ、明慧
の女の子は全体的にレベルが高いと思うが、同時にこいつらみたい
なのに引っかかる子もいないだろう。
ひとりが威嚇するようにしてこっちに近づいてきて、僕の肩に手
をかけようとした。やっぱりこの手のやつらはバカだ。相手の実力
も測れず無防備を晒す。
僕は男の手が肩に触れる直前、その手を掴み、一気に後ろ手にひ
ねり上げた。
266
﹁い、いててててて⋮⋮﹂
肩が壊れる寸前までひねってから解放。男の背を突き飛ばして、
お仲間に返品する。
﹁実行委員なんて建前に決まってるだろ。この子は僕の友達だ。怖
がらせるなよ﹂
﹁て、てめえっ!?﹂
いきり立つ男たち。
相手は四人か。美沙希先輩なら兎も角、僕では無傷とはいかない
だろうな。とは言え、仕方ない。これも学園祭実行委員の責務⋮⋮
ということにしておこう。
一触即発の空気。
騒ぎを聞きつけた集まってきていた生徒や学外からの参加者も、
固唾を飲んで成り行きを見守っている。
﹁おーい、やめろやめろ﹂
と、そこに現れたのは、皺だらけのスラックスにワイシャツ、よ
れよれの白衣、ついでに無精髭と咥え煙草︱︱が、いかにも似合い
そうな我が担任教師、八頭司先生だった。
﹁せっかくの学園祭なんだ。乱闘騒ぎとかしてもつまらんだろうが。
⋮⋮お前ら、どこの学校だ? ん?﹂
八頭司先生は男たちに向き合う。
ちょっとした間があり、
﹁⋮⋮ちっ。はいはい。どうもスンマセンでしたー。反省してまー
す。⋮⋮行こうぜ﹂
男たちはあっさり拳を収めたのだった。それどころか捨て台詞の
ように代わるがわる舌打ちして去っていってしまう。
﹁⋮⋮﹂
その気持ちはわからなくもなかった。八頭司先生のやる気のなさ
そうな態度に気勢を削がれたわけではない。どうにもただならない
雰囲気があったのだ、この先生に。僕もそれを感じてしまった。
﹁ほら、お前たちも行った行った。見世ものは終わりだ﹂
267
その八頭司先生は周りの生徒たちを散らすと、僕へと向き直った。
﹁藤間、お前ってけっこう喧嘩っ早いのな﹂
﹁そういうつもりはありませんよ。これも実行委員の務めです。ラ
イフセーバーだって海水浴場にサメが出たら戦うでしょう﹂
﹁戦わねーよ﹂
苦笑する八頭司先生。
﹁ところで、先生は何か格闘技でも?﹂
﹁ああ、通信教育でジークンドーをちょっとな﹂
﹁⋮⋮﹂
またベタなネタを。
こうやって韜晦されると、けっこうイラッとくるな。⋮⋮やめた。
何だか狐と狸の化かし合いみたいになってきた。八頭司先生につい
ては後で美沙希先輩に意見を聞こう。
﹁お前も実行委員だからって厄介ごとに首を突っ込まず、学園祭を
楽しめよ﹂
と、そこで僕の後ろにいる雨ノ瀬をちらと見て、
﹁ま、言うまでもなさそうだがな。⋮⋮槙坂に刺されるなよ﹂
﹁よけいなお世話です﹂
僕がむっとして言い返せば、八頭司先生はやれやれとばかり肩を
すくめて去っていった。⋮⋮やれやれはこっちだ。
﹁雨ノ瀬、大丈夫か?﹂
﹁あ、うん。大丈夫﹂
﹁ならよかった。すぐに美沙希先輩と連絡をとるよ。後はあの人に
ひっついてればいい﹂
僕はさっそく美沙希先輩に電話をし、待ち合わせ場所を決めると
︵もちろん方向音痴の雨ノ瀬のために、この上なくわかりやすい場
所にした︶、雨ノ瀬をそこに向かわせた。
﹁これでよし、と。⋮⋮ん?﹂
雨ノ瀬の背を見送っている僕の携帯電話に、メールの着信があっ
た。開けてみれば槙坂先輩からだった。
268
﹃藤間くんは時間が空いたら、わたしに連絡すること。わたしは今
日はずっとあいているから﹄
どうやら美沙希先輩のそばにはまだ槙坂先輩がいたようだ。
クラスの手伝いが終わったら、次に実行委員の仕事に入るまで時
間があるし、そのときに連絡を入れるとしようか。
269
第五話 その7
槙坂先輩とは学務課前の掲示板の前で待ち合わせた。
連絡掲示板という性質上、ここに模擬店を配置して見えなくして
しまうわけにはいかず︱︱まぁ、学園祭の最中に掲示板を見にくる
生徒などいないだろうが、しかし、そのおかげでここは相変わらず
待ち合わせのメッカだった。
その掲示板前に行けば、槙坂先輩はいつもの通り話しかけてくる
同輩後輩には事欠かないようで、数人の女子生徒と談笑していた。
が、僕の姿を見つけると手を振って別れ、笑顔でこちらに近づいて
きた。
﹁お疲れ様。いま大丈夫なの?﹂
僕のそばまでくると聞いてきた。
﹁大丈夫だからきてる。大丈夫じゃないならこないさ﹂
﹁そういうときは、仕事はほうってでもくるとか、無理にでも時間
をつくるとか、そう言っておくものよ﹂
﹁僕にそんな器用な芸当を期待しないでくれ。それに僕が仕事を放
り出したらあちこちに迷惑がかかる。⋮⋮ところで、雨ノ瀬⋮⋮槙
坂先輩も見た僕の友人だけど、ちゃんとそっちに行っただろうか?﹂
﹁ええ、きたわよ﹂
そうか、無事美沙希先輩と合流できたか。あいつの方向音痴は時
々僕の予想の上をいくからな。あれだけお膳立てしておいても迷い
そうで怖い。
﹁わたしも少し話をしたわ。藤間くん好みのちょっと変わった子ね。
楽しかったわ﹂
﹁その言い方、自分もちょっと変わってるって自ら言ってるのと同
じにならないか?﹂
﹁そうね。この言い方、わたしが藤間くん好みだと言ってるのと同
270
じになるわね﹂
﹁⋮⋮﹂
なる、か?
﹁まぁ、気が合ったのなら何よりだ。⋮⋮よけいなことを言ってな
いだろうな?﹂
﹁あら、それはどっちへの心配? わたし? それとも彼女?﹂
﹁⋮⋮最悪なことに、どっちもだ﹂
どっちも僕が望んでないことをぺらぺらとしゃべりそうだ。
﹁それでどうする? 藤間くんはどこか見たいところはある?﹂
﹁いや、僕は特に。そっちにつき合うよ﹂
見たいところがないと言うよりは、ひと通り見てしまったという
ほうが正しいだろう。何せ実行委員の仕事の中には校内の巡回もあ
るし、今日の午前中には雨ノ瀬とあてどなくぶらぶら見て回ってい
た。もうあらかた見終った気がする。
﹁そう? なら、特別教室のほうを見て見たいわ﹂
まだあっちは見ていないの、と槙坂先輩。
どうやらクラスのお化け屋敷の客寄せとして存分に利用されてい
たらしい。
家庭科室や礼法室などがある特別教室は、僕らの目の前に建つ学
務棟の二階より上にある。僕たちはさっそく近くの入り口から中に
入った。
槙坂先輩が興味をもったのは、奇しくも雨ノ瀬と同じ礼法室の催
しだった。
ただし、そこを使っていたのは茶華道部ではなく、今は筝曲部だ。
近くまでくると筝の独特の音が聞こえてきた。でも、それは経験
者の演奏ではなく、ただ鳴らしているだけの曲とも言えないような
無秩序で雑多な音だった。どうやら午前の茶華道部が茶道の体験教
室をやっていたように、未経験者に筝を触らせているようだ。
﹁槙坂さんもどうですかー?﹂
271
礼法室の前で呼び込みや案内をしていた筝曲部の部員と思しき女
子生徒が声をかけてきた。
﹁興味はあるし触ってもみたいのだけど、時間があまりないの。見
せてもらうだけにするわ﹂
愛想よく笑顔で断る槙坂先輩。しかし、興味があるのは本当らし
く、足を止めて開け放たれた窓から中の様子を窺うのだった。
﹁お箏は結局やらなかったわね。何だか一度はじめると大変そうな
気がして﹂
彼女はそう言って苦笑する。
確かに両手で抱えるほどの筝を見ていると、その気持ちもよくわ
かる。あれだけ大きいと持ち運びも楽ではないだろうし、練習する
にしても場所を選びそうだ。
﹁ほかには何か?﹂
筝はやらなかったということは、何か別のことならやっていたの
だろうか。今のところ聞いているのはテニススクールに通っていた
ことくらいだが、筝と並べるにしてはカテゴリが違いすぎる気がす
るな。
﹁この類なら茶道をやったわね﹂
﹁⋮⋮お嬢様だな﹂
素直にそんな言葉が口をついて出てしまう。
﹁そうでもないわよ。父が会社で役員をしているから金銭的に不自
由しなかったのは確かだけど、家柄は普通だもの﹂
などとしれっと宣う槙坂先輩。
だとしたら、このいかにも育ちのよさそうな雰囲気は本人の素養
か。尤も、それすらも仮の姿で、中身は悪魔なのだが。
﹁そんなことを言ったら藤間くんだって︱︱﹂
と、そこで彼女は発音を途切れさせ、
﹁ごめんなさい。あまりいい話ではなかったわ﹂
﹁いいさ。境遇や家庭環境を嘆いたことはないよ﹂
うちも槙坂涼に負けず劣らず物質面で恵まれている家庭だが、そ
272
れもこれも母があまりまっとうとは言えない恋愛をしたせいだ。槙
坂先輩はそのあたりを気にしたのだろう。僕としては自分から言っ
て回るつもりはないが、ことさら隠すつもりもない。気を遣っても
らわなければならない部分でもないのである。
槙坂先輩が必要のない気まずさを感じて黙ってしまったせいで、
僕たちはしばらく礼法室の中の体験教室をおとなしく眺めることに
なった。
あらかた見てしまったと言っても、こういう時間が限定された催
しものは見れていないものも多い。この筝曲部も初めて見るものだ
し、筝自体生まれてこのかた生で見たことがなかったので、なかな
か興味深い。
部員たちには明確に役割が決まっているようで、説明しつつ実際
に演奏してみせる生徒は着物で筝の前に座っている。大会のような
公式の場で演奏するときはこういう恰好なのだろうか。それとも人
目を集めることを狙ってのパフォーマンスだろうか。筝の腕前も上
級者に違いなく、高校生ながら貫禄があった。
それとは別に、わからない人のそばまで行って手取り足取り指さ
しておしえる生徒は、動きやすさを重視して制服のままだった。
﹁茶道も着物でやるんだったかな?﹂
僕はこのあたりの知識が薄いな。今度調べてみよう。
﹁そうとも限らないけど、わたしは着せられたわね。どうも父も母
もかたちから入る人みたいで﹂
﹁なるほど﹂
その気持ちがわかってしまった。かたちから入るというよりは、
何を着ても似合う娘にここぞとばかりに着物を着せてみたのだろう。
﹁着物も確かに似合いそうだけど、これに関しては切谷さんのほう
に軍配が上がりそうだな﹂
何せ彼女は老舗料亭の娘で、相貌もなかなかに和風だ。家業を手
伝うときは和装らしいので着慣れてもいるだろう。案外、茶道だけ
ではなく筝の経験もあったりするかもしれない。
273
﹁あのね藤間くん、女の子と一緒のときにほかの子の話はやめまし
ょうね?﹂
﹁⋮⋮﹂
さっき雨ノ瀬の名前を出したときは何も言わなかったように思う
が。切谷さんを褒めたあたりが地雷だったか。⋮⋮いや、僕が無神
経なのは確かだが。
﹁自分で言うのあれだけど、わたしの着物姿、けっこう様になって
るんだから﹂
なんか対抗しはじめたな。
そりゃ似合うだろうさ。夏休みには浴衣姿を見ているし、だいた
い想像がつく。浴衣は似合うが着物では今ひとつ、なんてことはあ
まりないだろう。むしろ似合わない恰好を探すほうが難しいのでは
ないだろうか。当然、突飛な格好をさせれば似合わないものだって
出てくるだろうが、通常日常の範囲内なら何でも着こなすことだろ
う。
﹁それに着付けもできるわ。安心ね?﹂
﹁安心? 何が?﹂
﹁もちろん、着ていた着物を脱ぐことがあるかもしれないし︱︱そ
の、き、着たままで、とか⋮⋮﹂
しかし、勢いよく発した言葉は、後になるにつれ弱々しくなって
いった。
﹁⋮⋮恥ずかしくなるくらいなら最初から言うなよ﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
槙坂先輩は項垂れるが、むしろ項垂れたいのはこっちのほうだ。
彼女は、こほん、とわざとらしい咳払いをひとつ。それから仕切
り直すように口を開いた。
﹁ね、お正月には一緒に初詣に行きましょうか﹂
﹁初詣?﹂
唐突な提案に僕は鸚鵡返しにその単語を繰り返した。
﹁ええ、どうしても藤間くんに着物姿を見せたくなったわ﹂
274
どうやら着物が似合うことをわからせたいらしい。基本的にそこ
は否定していないつもりなんだが。それでも僕の勝手なイメージの
中でとは言え、切谷さんに負けたことが悔しかったのだろう。意外
と負けず嫌いだ。
﹁べ、別に変な意味で言ってるんじゃないから﹂
﹁⋮⋮﹂
そして、自ら蒸し返してしまうのも槙坂涼という女性である。
もうそこには触れないようにしつつ、
﹁そうだな。行けるうちに行っておくとしようか﹂
﹁真﹂
と、そこで名前を呼ばれる。振り返れば、そこにいたのは切谷さ
んだった。
﹁切谷さん。まだいたんだ﹂
﹁別に。⋮⋮悪い?﹂
彼女は恥ずかしかったのか、不貞腐れたようにそっぽを向いてし
まった。もちろん、悪くはない。楽しんでもらえているようで、実
行委員としても嬉しい限りだ。
﹁この子まで連れ込んでたの?﹂
﹁壮絶に人聞きの悪い言い方をしないでくれ﹂
呆れたように言う槙坂先輩をあしらいつつ、僕は再び切谷さんに
向き直る。
﹁実行委員の僕が言うのもなんだけど︱︱そこまで面白い学園祭で
もないだろうに。普通じゃないか?﹂
﹁でも、うちはもっと面白くなかった﹂
切谷さんはお嬢様学校で有名な女子高だったか。あれもダメこれ
もダメの、ガチガチな学園祭なのかもしれない。
﹁その言い方だともう終わったのか﹂
﹁先週。⋮⋮なに? 興味あるの? 女子高の学園祭に﹂
﹁ま、男だからね。そりゃあ見てみたい気持ちはあるさ﹂
次の瞬間、がすっと脇腹に肘打ちが入った。もちろん、槙坂先輩
275
である。
﹁うち、そのあたり厳しくて招待券がないと入れないわよ﹂
﹁それは残念﹂
さすがお嬢様学校。学園祭とは言えども、誰でも自由に入らせる
ようなことはしないか。
切谷さんは聞えよがしなため息を吐いた。
﹁目の前にいるの、これでも妹なんだけど﹂
それから槙坂先輩のほうを見、
﹁二枚用意するわ。見張ってて。この女の敵、何か起こしそう﹂
﹁ええ、そうするわ﹂
槙坂先輩は苦笑しながらも首肯した。⋮⋮そうか、僕はそういう
認識だったか。
﹁私ももっと学園祭の面白いところ行けばよかった﹂
﹁学園祭を判断基準にする人間も少ないと思うけどね﹂
どうやら我が明慧と自分のところの学園祭の差に嘆いているらし
い。
切谷さんのことだ、おそらく母親に言われるがまま今の学校を受
験したに違いない。尤も、彼女の性格では、学校行事が盛んな高校
に行ったところで、どれだけ素直にイベントを楽しめることやら。
周りで盛り上がれば盛り上がるほど逆に冷めていくのではなかろう
か。
﹁真はどうしてここを? 留学するって言ってたけど、それと関係
あるの?﹂
そう言えば、彼女にはその話をしていたな。切谷さんはこの明慧
に留学をサポートする体制や推し進め制度があるのかと思ったのだ
ろう。実のところ、そんなものはなくて、人に話せるまっとうな志
望動機と、人には言えないような実にくだらない理由によりここを
選んだのである。前者は聞かれたら答えるのだが︱︱ただ、今の彼
女の聞き方とタイミングは最悪だったと言える。
そして、
276
﹁留、学⋮⋮?﹂
そのことを初めて聞いた槙坂先輩は、唖然としてそうつぶやいた
のだった。
277
第五話 その8
校舎の廊下を槙坂先輩と並んで歩く。
互いに黙ったまま。
僕の留学の話を聞いて、ひと言ふた言言葉を交わした後、槙坂先
輩は黙り込んでしまい、僕もそんな彼女に話しかけられずにいた。
校舎の中には相変わらず音楽やイベントの案内をする校内放送が
流れているが、僕たちを素通りしていく。学園祭はまるで僕たちに
は関係ない出来事のようで、楽しむ生徒の喧騒もどこか遠くから聞
こえているようだ。
切谷さんはこの場にいない。先ほど帰った。
彼女があのタイミングで留学の件を聞いたことに他意はなかった
ようで、責められはしない。逆に﹁悪いことをしたわね﹂と言いつ
つ、﹁てっきりもう言ってるんだと思ってた﹂﹁ちゃんと言っとき
なさいよ﹂と僕が責められる有り様。まぁ、それも仕方ないことだ
ろう。
そう、責められるべきは僕だ。
﹁留学の話︱︱﹂
久しぶりに槙坂先輩が口を開いた。
﹁本当なの?﹂
﹁ああ、本当だ。僕はアメリカに行きたいと思ってる﹂
﹁いつから?﹂
おそるおそるといった調子で、問いが重ねられる。
﹁高校を出たら。向こうの大学で修士課程まで修めるつもりだ﹂
﹁そ、そう。長いのね。日本に帰ってくるのはかなり先になりそう﹂
﹁いや、﹂
ここで誤魔化しても仕方あるまい。僕は正直に話す。
﹁修士課程を終えても日本には帰ってこない﹂
278
﹁ぇ⋮⋮?﹂
短く小さいが、かすかに驚愕の声。
﹁向こうでやりたいことがあるんだ﹂
﹁やりたいこと?﹂
﹁僕はアメリカの公共図書館で司書になるのが夢なんだ。そのため
には大学院を出ないといけないし、夢が叶えばそのまま向こうに住
むことになる﹂
﹁司書⋮⋮﹂
彼女は意味を確認するかのように、その単語をつぶやいた。
﹁そう、司書。藤間くんらしい素敵な夢だわ﹂
﹁ありがとう。そう言ってもらえるなら嬉しいよ﹂
そうして微笑みと苦笑の入り交じった声音に、僕は少し拍子抜け
した。もっと何か違った反応があると思っていたのだ。
槙坂先輩は再び口を閉ざした。
目的を失った放浪のその道程は、示し合わせたわけでもなく校舎
の外へ出て、グラウンドへと至った。外は校舎の中以上に賑やかだ
ったが、やはり喧騒は虚しく僕たちをすり抜けていく。
やがて、
﹁どうして︱︱﹂
﹁うん?﹂
﹁どうしてもっと早く、自分から言ってくれなかったの?﹂
槙坂先輩は我慢していた何かを吐き出すみたいに、意を決したよ
うに切り出した。
﹁悪い。言いそびれてた﹂
﹁嘘﹂
ぴたりと彼女が足を止めた。
﹁ここしばらく藤間くんはわたしを避けていたわ﹂
﹁⋮⋮﹂
遅れて僕も立ち止まり、槙坂先輩に向き合う。
例えば加々宮さんは、僕の槙坂先輩への態度を心配していた。
279
例えばこえだは、僕がなかなか留学の話を槙坂先輩にしないこと
に不安を覚えているようだった。
ふたりとも雲行きの怪しさを漠然と感じていたのだろう。
では、槙坂涼は?
聡明で頭も切れる彼女のことだ、勘づかないはずがない。
槙坂先輩が察した通り、僕は忙しさを理由に彼女を避けていた。
あの夜、こえだが僕に突きつけた、槙坂先輩はどうするのかという
問い。こえだは、早く彼女にそのことを話せと模範解答とも提案と
も言えるものを示したが、僕が出した結論は﹃言わない﹄だった。
槙坂先輩が卒業すれば自然と顔を合わせる機会も減る。僕が留学
の話を切り出しても、納得し受け入れる状況ができると思ったし、
それが高校生の僕たちにとって最適の結果だと思ったのだ。
尤も、こうして思わぬところから知られてしまって、すべてを曖
昧にしてしまうような答えを選んだそのツケがきてしまったわけだ
が。
だから、責められるべきは僕なのだ。
﹁初詣も行けるうちに行っておこうって、そういう意味だったのね﹂
﹁⋮⋮﹂
今この場でそうすることは肯定の意味しかないと知りつつ、僕は
沈黙した。
互いに黙って見合う。
﹁藤間くんはわたしを︱︱﹂
﹁あ、涼さんと真だ。おーい﹂
何をか言いかけた槙坂先輩の言葉を遮ったのはこえだの声だった。
僕はどこかほっとした気分で、逃げるように声のしたほうへと体
を向ける。
﹁なんだ、その恰好﹂
そして、思わず出たのがこの台詞。
こえだはいわゆるゴスロリと呼ばれるファッションに身を包んで
いた。スカートは膝丈で、足元はボーダー柄のハイソックス。頭に
280
はミニハットまで乗っている。
﹁うーん、クラスの悪ノリの結果、かなぁ?﹂
どうやら自分でもわかってない様子だ。
﹁今、教室でバズーカ砲作ってるんだって﹂
﹁⋮⋮﹂
どんなノリと流れかはわからないし、説明されても理解できる自
信はない。が、とりあえずこいつがおもちゃにされていることだけ
は確かのようだ。
﹁でも、かわいいわ。よく似合ってる﹂
﹁ほんと!?﹂
こえだは槙坂先輩に褒められて、嬉しさと照れが同居したような
しまりのない笑みを浮かべた。
僕は横目で槙坂先輩の様子を窺ったが、先ほどまでの切羽詰まっ
たような感じはもうどこにもなかった。こえだの前ということで抑
え込んでしまったのだろう。
﹁こえだ、お前そのままキャンプファイヤの火にくべられるんじゃ
ないか。悪ノリで﹂
生贄は神への捧げものだから着飾るのだと聞く。
﹁く、くべられないもんっ。ていうか、それもう悪ノリってレベル
じゃないしっ﹂
﹁あまり遊んでばかりいるなよ。実行委員なんだから﹂
﹁そっちだって同じ立場じゃん。そういう真は⋮⋮ん? 何かあっ
た?﹂
不意にこえだは不思議そうに僕と槙坂先輩を交互に見、首を傾げ
た。僕たちは思わず顔を見合わせる。
﹁ううん、何もないわよ。一緒に見て回ってただけ﹂
﹁そうだ、お前、美沙希先輩を知らないか? 僕の友人を預かって
もらってるんだ﹂
さすがこえだ。つい最近僕に認識を改めさせただけある。僕と槙
坂先輩の間に漂う不穏な空気の残滓を鋭く感じ取ったらしい。が、
281
こちらもたたみかけるようにして言葉を発し、誤魔化す。
﹁美沙希さん? 美沙希さんなら⋮⋮ほら﹂
こえだが体の向きを変えて目をやったのは、グラウンドに設置さ
れた野外ステージだった。客の入りはなかなのもので、席はすべて
埋まっているし、その後ろには立ち見もいる。美沙希先輩もそのひ
とりで、立ったままステージを眺めていた。しかし、そばに雨ノ瀬
の姿はない。もう帰ったのだろうか。
﹁行ってみよう﹂
僕たちは美沙希先輩のところに移動し、かくして図らずも﹃美沙
希組︵笑︶﹄の三人とその客分的存在の槙坂先輩がそろったのだっ
た。
﹁美沙希先輩﹂
﹁おう、真か﹂
ウルフカットに猫目の我が師が振り返る。
﹁雨ノ瀬はどうしたんですか? もう帰りました?﹂
﹁お前の元カノならあそこだ﹂
そんなんじゃないけど、と思いつつ︱︱美沙希先輩が顎で指し示
したのは、男子生徒ふたりが三味線を弾くステージ⋮⋮ではなく、
その横だった。そこに確かに雨ノ瀬の姿があり、彼女は野外ステー
ジ担当のスタッフと何やら言葉を交わしていた。
今ステージで行われているのは、本日の、ひいては今年の学園祭
の最後のプログラム、飛び入り歓迎のパフォーマンス大会だ。⋮⋮
まさかあいつ、本当にやるつもりなのか? だとしたら、今は打ち
合わせの最中だろうか。
パフォーマンス大会は、何が出てくるかわからない妙な期待感で
毎年人を集める人気のイベントのひとつだった。この盛況ぶりもう
なずける。
﹁それよりも真。三味線だ、三味線。混ぜてもらってこいよ。お前、
弾けんだろうが﹂
﹁何をわけのわからないことを。飛び込みは飛び込みでも、そんな
282
飛び込みしたらあのふたりに迷惑ですよ﹂
思いつきでしゃべる人だな。
﹁もしかして藤間くん、本当に三味線が弾けるの?﹂
てっきり美沙希がまた適当なことを言ったのかと思ってたわ、と
槙坂先輩。
﹁昔、何かひとつくらい楽器を扱えるようになりたいと思ってね。
でも、ピアノとかバイオリンとか、ありきたりのものじゃ面白くな
かったから三味線にしたんだ﹂
﹁あなた、昔からひねくれてたのね﹂
﹁ほっといてほしいね﹂
中二病の結果である。
因みに、ひねくれていたのは昔だけで、今はそのつもりはない。
少なくとも僕自身は、だが。
くすくすと笑っていた槙坂先輩だったが、それも長くは続かなか
った。不意にはたと止まり、彼女の顔から表情が消えた。僕たちの
間に横たわる大きな問題について思い出したのだろう。
再び重苦しい空気が落ちる。
﹁こいつ、ロックバンドのギタリスばりにむちゃくちゃな弾き方で
きるぞ。一度見せてもらえよ﹂
おかげで、そんな美沙希先輩の茶々も彼女の耳には届いていない
ようだった。
程なくして三味線の演奏が終わった。
﹃ありがとうございました。和楽器同好会のおふたりでしたー﹄
拍手を求める司会の声。
そんな同好会が明慧にあったとは露ほども知らなかった。だから
こそアピールのためにこのステージに上がったのだろう。
﹃では、次の方です﹄
礼をして下がる和楽器同好会のふたりと入れ替わるようにしてそ
たきえ
こに上がったのは、案の定、雨ノ瀬だった。
﹃滝杷高校からきました未確認動物、UMAです﹄
283
そんな自己紹介があるか。見事にすべったようで、観客は無反応
だった。
あと、その言い方だとUMAという名前の未確認動物のようだ。
まぁ、﹃決断力のある方向音痴﹄という謎の生態を指して僕がUM
A扱いしていたので、あながち間違ってはいないのだが。
﹃今日は友達に誘われて遊びにきました﹄
そこで雨ノ瀬は客席を見回し︱︱僕を見つけた。
﹃あ、藤間だ。やっほー。見にきてくれたんだー﹄
そして、あろうことか僕の名を呼び、手まで振りやがった。
周囲の視線がいっせいにこちらを向く。﹁藤間だ﹂﹁また藤間か﹂
﹁藤間死ね﹂﹁刺すぞ藤間﹂。⋮⋮おい、超えちゃいけないライン
超えてるのがいるぞ。突き刺すのはその負の感情も露わな視線だけ
にしておけ。ここの生徒で、しかも実行委員までやっているという
のに、アウェー感が尋常ではない。
﹃じゃー、一曲踊ります﹄
そう言うと雨ノ瀬は舞台袖にいたスタッフにマイクを渡した。ス
テージ中央に戻ってきたところで音楽がはじまる。音源はおそらく
彼女がスマートフォンかデジタルオーディオプレイヤに入れて持っ
ていたものをスピーカから流しているのだろう。確かどんな飛び入
りのパフォーマンスにも対応できるようにと、そういう機器も用意
していたはずだ。
踊り出す雨ノ瀬。
ダンスはステップが中心といった感じだろうか。リズムに合わせ
てステップを刻み。そこに手振りがつく。ダイナミックな動きはな
い。その上で軽快に踊るものだから簡単そうに見えるが、冷静に見
て真似できる気がしない。しかし、合間合間に一瞬の鋭い絶技を入
れてきて、それが披露されるたびに観客が湧き上がった。
僕は素直に感心した。中学のころより格段に上手く、本格的にな
っている。ちょっと大きめの目と口が例の如く舞台の上でも映え、
楽しげに踊っているのがよくわかる。
284
︱︱が、その雨ノ瀬の表情がわずかにくもった。
何かミスでもしたのだろうか。何せ見ているこっちは素人。踊っ
ている雨ノ瀬にしかわからないような失敗があったのかもしれない。
だとしてもすぐにリカバしたようで、彼女は気を取り直した様子で
表情にも余裕が戻った。
しかし、また少しして雨ノ瀬が眉根を寄せた。
﹁⋮⋮﹂
気になるな。雨ノ瀬から見えるものというと客席か?
僕は客席に意識に向けると、
﹁へたくそー﹂
﹁!?﹂
そんな声が耳に飛び込んできた。どうやら野次を飛ばしているバ
カがいるようだ。素人の僕が上手いと思っていても、玄人目から見
たら本当はそうでもないのかもしれない。でも、こんなお祭り騒ぎ
のときにわざわざ野次る必要もあるまい。
﹁おい、真。聞こえたか?﹂
﹁はい﹂
美沙希先輩も気がついたらしい。地獄耳だな。
﹁ちょっと行ってきます﹂
﹁アタシも行く﹂
そして、こういうイベントごとに水を差すような輩が好きではな
いのも古河美沙希という女性である。尤も、そこは僕も同じだ。こ
の師にしてこの舎弟あり、というところか。
僕と美沙希先輩はバカを確かめにいくことにした。
﹁あ、藤間くん⋮⋮﹂
が、そこで槙坂先輩に呼び止められる。
﹁悪い。実行委員の仕事が入った。話は後でしよう﹂
﹁そう⋮⋮﹂
僕は彼女に背を向けた。
さっそく二重三重になっている人垣をかき分けて進んでいく。
285
﹁槙坂と何かあったのか?﹂
﹁別に何もありませんよ。⋮⋮すみません。実行委員です。通して
ください﹂
人が苦労して作った道を通り、悠々とついてくる美沙希先輩が問
うてくるが、僕は今その話は関係ないとばかりに短く返した。
人垣を抜け︱︱バカ発見。
四人組だ。しかも、見覚えがある。先ほどうちのクラスの前で雨
ノ瀬に声をかけ、僕と八頭司先生に追い返された連中だ。やつらは
ステージの真ん前にふんぞり返って座り、歓声に紛れて野次を飛ば
しているようだ。そこまであからさまではないからステージスタッ
フとしても注意しにくいのかもしれない。
少しばかり性善説的に語れば、こいつらとてかわいい女の子に声
をかける目的があったとしても、初めから学園祭を邪魔にしにきた
わけでもないだろう。が、さっき僕に撃退された憂さ晴らしをここ
でしているのだとしたら、僕にも多少責任はあるというものだ。⋮
⋮まぁ、精一杯好意的にとらえただけで、あくまでも建前だけど。
曲が終わり、雨ノ瀬のダンスパフォーマンスも終わった。
大きな拍手が沸き起こる。
雨ノ瀬にはこうしてイベントに参加して盛り上げてくれたという
のに、くだらない邪魔が入って申し訳ないと思う。もう遅いが、こ
の後の参加者のためにも注意はしておこう。
連中のもとへと歩み寄る。ステージの上では雨ノ瀬が僕に気づい
て心配げな視線を向けていたので、軽く手を上げて応えておいた。
﹁すみません。イベントの邪魔はやめてもらえますか?﹂
四人組がこちらを見上げ︱︱僕の顔を見て、舌打ち。
﹁またお前かよ﹂
﹁うるせーな。個人の感想だよ、個人の感想。なんか文句あるんで
すかー?﹂
そろってバカ笑いをはじめる。それで論破した気になっているら
しい。
286
﹁おい、真。こういうやつらにははっきり言わないと伝わらねーぞ。
邪魔だから出ていけってな﹂
﹁あ? なんだこの女﹂
男のひとりが立ち上がる。
どうやらこいつらは学校や表通りで粋がっているだけの連中らし
く、不幸にも﹃猫目の狼﹄のことは知らなかったようだ。
美沙希先輩は近寄ってきた男の手をごく自然に、無造作に捻り上
げた。
﹁いててててて! は、放しやがれ!﹂
まるで時代劇のkirareyakuのように、エビ反りになっ
て身動きが取れなくなる男。唯一動く口で抵抗を試みる。美沙希先
輩は知らないことだが、そいつはさっき僕がひねり上げたのと同じ
アマ
やつだ。手は逆。⋮⋮ああ、なんだ、ただのやられ役だったか。
﹁クソ女ァ!﹂
殴りかかってくる仲間の男。
しかし、そこに僕が割って入り、拳を腕でブロックした。なお、
美沙希先輩は微動だにしていない。もちろん、男を拘束していて動
けなかったわけではなく、僕が飛び込んでくると踏んでいたのだ。
﹁よし、でかした真。これで正当防衛成立だ﹂
﹁⋮⋮﹂
いや、そこにはおおいに疑問の余地が残るのではないだろうか。
美沙希先輩が固めていた男を突き飛ばし、そいつが殴りかかって
きた男とからまるようにして倒れたのが開始の合図となった。仲間
ふたりが無様に転げたのを見て、残りのふたりも襲いかかってきた。
周りにいた観客が距離をとり、驚いた女の子たちが悲鳴を上げる
中、乱闘がはじまる。
正直、実行委員がこんなことをしてどうするとは思うのだが︱︱
丁度むしゃくしゃしていたこともあり、こいつらで気晴らしをさせ
てもらおうと思う。それこそ美沙希先輩の言う通り正当防衛が成り
立つだろうし、治安維持の名目もある。
287
向かってきた男の顔面にカウンタでストレートリードを打ち込み、
頭が揺れたところで腹を思いっきり蹴飛ばす。と、ほぼ無人となっ
た観客席に突っ込み、パイプ椅子をまき散らした。
﹁っの野郎!﹂
今度は最初に倒れた男のひとりが、そのパイプ椅子を振り上げて
襲ってきた。
師曰く﹁鈍器は、1.避ける、2.耐える。そのへんで拾える程
度の鈍器じゃ死なねーよ﹂。やや死角気味からこられたため、避け
るのが間に合いそうにない。耐えるほうを選択する。平たくたたま
れたパイプ椅子が持つのに手ごろだったのだろうが⋮⋮バカか。面
で殴ってどうする。プロレスかよ。僕は比較的やわらかい座面を狙
って受け止めた。
﹁ぐっ!﹂
尤も、それでも痛いのは痛いのだが。
﹁ったく、面倒くさい!﹂
その痛みを振り払うようにして、苛立ちに任せて男の顎を掌底で
突き上げた。パイプ椅子の海に沈む。
ものの数分で決着はつき、連中は逃げ帰った。
相手は四人とは言え、こっちは自慢じゃないが喧嘩慣れしている。
僕はパイプ椅子の一撃をもらっただけで、美沙希先輩に至っては無
傷である。
だが、さすがにこれだけの騒ぎを起こしておいて無罪とはいかな
かった。
駆けつけてきた先生たちに事情聴取の目的で生徒指導室へと連れ
ていかれる。その際、槙坂先輩と目が合い︱︱彼女は何か言いたげ
な顔をしていたが、しかし、何も言うことはなかった。
そして、僕もまた、彼女にかける言葉を持ち合わせていなかった。
288
第五話 その9
事情聴取は僕と美沙希先輩、別々の部屋で行われることになった。
夏休み前の槙坂先輩とのときと同じだ。そういうマニュアルでもあ
るのだろうか。
僕がつれてこられたのは会議室。奇しくも、これも前回と同じだ。
乱闘の場に駆けつけた先生によってここにつれてこられ、しばら
くひとりで待たされているとしばらくして八頭司先生が入ってきた。
﹁職員室で吸うとうるさいんでね﹂
八頭司先生は煙草をくわえながらやってきたが、まだ火は点いて
いないかったようで、ドアを閉めるなりライタを取り出した。しか
し、ここなら堂々と吸えるわけでもないのか、或いは、生徒への影
響を考えてか、窓を少し開けてそのそばにもたれて立つ。
﹁いちおー聞き取りってことになってるけど、お前が悪くないこと
はわかってる。その場にいた生徒にざくっと聞いた感じじゃ、先に
手を出したのは向こうらしいしな。なんで、実際はお説教だ﹂
悪くないのにお説教とはこれ如何に、と思っている僕の前で、八
頭司先生はまるでため息みたいに紫煙を吐き出した。
﹁藤間、お前なにやってんの? 厄介ごとに首を突っ込むなって言
ってあったよな?﹂
﹁仕方ないでしょう。サメが出たんですから﹂
﹁だからライフセーバーはサメと戦わねーっつってんだろうが﹂
呆れ半分で苦笑する我が担任教師。
﹁お前ならもっと穏便にやれたんじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
それは僕を買いかぶりすぎだと思うが⋮⋮どうだろうか。確かに
言われてみれば、別に乱闘をせずとも収められた気がしないでもな
い。いや、美沙希先輩もいたし、むりだな。
289
﹁それとも中学のときの血が騒いだか?﹂
﹁!?﹂
思わず僕は八頭司先生の顔をまじまじと見てしまう。
﹁そんなに驚くことか? これでも教師なんだ。生徒が夜遅くに出
歩いてないか見回ったりしてりゃ、中学生のくせに高校生だろうが
何だろうおかまいなしに喧嘩を吹っかけてるのがいるなんて話も耳
に入ってくるんだよ﹂
明慧には基本的に素行の悪い生徒はいないので、夜に徘徊したり
喧嘩に巻き込まれたりするような生徒はいないだろう。それでも繁
華街の見回りをしなくてはいけないのだから、教師というのはつく
づく大変である。しかし、その暴れ回っている中学生が立て続けに
入学してきたときには頭を抱えたに違いない。
﹁お前さ、なんかイラついてない?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そんなことありませんよ﹂
少しの間の後、僕はどうにかそれだけを絞り出した。たぶんそん
なことはないはずだ。自分の精神状態を確認する。
﹁まぁ、いい。せっかくの学園祭に何時間もここに閉じ込めておく
のもかわいそうだ。もう行け。今度また改めて話を聞く。呼ばれた
ら素直にこいよ﹂
﹁わかりました。失礼します﹂
しっしっと手を振って面倒くさそうに追い払う八頭司先生。僕は
椅子から立ち上がると、一礼して会議室を後にした。
すでに夕方。
僕は実行委員としての仕事が入っていて、すぐにそちらに取りか
かった。また見回りだ。
特に誰にも連絡はしなかった。きっとこえだは心配しているだろ
うから、夜にでもメールを送っておこう。槙坂先輩の顔もよぎった
290
が、それでも僕は連絡する気にはならなかった。
携帯電話には雨ノ瀬からメールが届いていて、もう帰る、また連
絡すると書いてあった。せっかくステージに上がってくれたのにい
やな思いをさせ、挙げ句に僕自身が乱闘騒ぎ。彼女にはいよいよ悪
いことをしたと思う。
もう一時間もすれば今年の学園祭も閉幕だ。片づけに時間がかか
る模擬店や催しものをしていたところはぼちぼちその準備に入って
いて、喧騒の種類も日中とは違ったもののように感じた。皆、祭り
の終わりの気配を感じ、それを振り払うように気持ちを盛り上げて
いるのかもしれない。
その中を僕は歩く。
﹁いったい何やってるんですかね、真先輩は﹂
そして、横にはなぜか加々宮さんもいた。
警察のパトロールみたいに二人一組で回らないといけないという
決まりはないはずなのだが、さっきからずっとついて回っているの
だった。
﹁何の話?﹂
﹁とぼけてもむだですよ。野外ステージで嫌がらせをしてきた部外
者をひとりでぶっ飛ばしたって、LINEやツイッタで話題になっ
てます﹂
﹁⋮⋮﹂
情報伝達が早いのも考えものだな。しかも、そのどちらも僕には
馴染みのないツールときている。まさしく噂のひとり歩きだな。
それにしても、なぜ僕ひとりで撃退したことになっているのだろ
う。伝言ゲームの末に情報が正確性を欠いたのか、面白おかしく脚
色されたのか。
﹁まったく。連日話題に事欠かない人なんですから﹂
呆れたように、加々宮さん。
﹁待て。昨日は何もしてないはずだ﹂
﹁知らないなら知らないでいいです。そのほうがいいです﹂
291
と、ついには突き放されてしまった。
はて、昨日は何かやらかしただろうか。特に自覚はないのだが。
だとしたら槙坂先輩のほうか。何せただ歩いているだけで話題にな
る人だ。一緒にいればこっちまで渦中の人である。
﹁先輩ってそうやってずっと周りを騒がせて生きてきたんですか?﹂
加々宮さんからどことなく失礼な質問が飛んできた。
﹁まさか。これでも僕は平和と退屈と本を愛する一介の高校生だよ﹂
﹁本当ですかぁ?﹂
そこには明らかに疑いの響きがこもっていた。
﹁本当。上級生に知り合いがいるなら聞いてみるといい。少なくと
も去年の僕は目立たない一生徒だったから﹂
正確には、目立つような下手は打っていない、だが。
﹁それが何で今年はこんなことになってるんですか⋮⋮﹂
﹁そりゃあ何かに憑りつかれたからだろね﹂
思わず苦笑する。
ちょうど渡り廊下に差しかかっていた僕はそこで立ち止まり、窓
から中庭を見下ろした。学園祭の閉幕が見えてきた中でも、まだ賑
やかに生徒や一般参加者が行き交っている。本当なら僕もクラスと
実行委員を行ったりきたりしつつ、ごく普通の生徒としてごく普通
に学園祭を楽しんでいたはずなのだがな。槙坂先輩と関わってしま
ったばかりに、同じことをやってもどうにも目立って仕方がない。
﹁⋮⋮﹂
不意に僕の顔から笑みが消える。彼女のことを思い出してしまっ
たのだ。どうしているのだろうか。僕が言い訳の言葉を持ち合わせ
ていなかったこともあり、ろくに話をしないまま別れてしまった。
後でキャンプファイアで会ったときにでももう少しちゃんと話をす
るべきだろうな。
﹁し、真先輩っ﹂
と、加々宮さんの妙に力のこもった声が耳に飛び込んできた。
﹁わたし、真先輩のことが好きです﹂
292
﹁そう? それは嬉しいね﹂
僕は少し面食らいつつ、そう返事をした。
﹁ち、違いますっ﹂
しかし、どこか焦燥感漂う彼女の否定。
﹁わ、わたしは本気です。真剣に真先輩のことが好きなんです﹂
﹁⋮⋮﹂
僕はそこでようやく加々宮さんと向き合った。
渡り廊下には僕たち以外にも生徒が行き交っているが、皆、自分
のことやクラスのことで手いっぱいなのだろう。誰も僕らのことは
見向きもしない。
僕は改めて加々宮きらりという女の子を見た。彼女は自分のほう
がかわいいという槙坂涼への対抗心から、僕をリトマス試験紙にす
るべく近寄ってきたはずだ︱︱というのは、人の心が変わらないと
いう前提に立っての話だろう。実際には人の心は変わるし、何が出
会いのきっかけになるかわからないのは身をもって知っている。
彼女が本気なのは耳まで赤くなった顔と、逃げ出したいのを堪え
てその場に踏みとどまっているようなその姿を見ればよくわかった。
もっと言えば、ひと言めからそんな気がしていたのだ。
﹁嬉しいよ。僕も加々宮さんのことはけっこう好きだからね﹂
﹁それだけ、ですか⋮⋮?﹂
おそるおそる問いを重ねてくる。
﹁うん。君には悪いが、それだけだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
しばらく黙って互いの顔を見合う。
﹁やっぱり、槙坂さんですか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮﹂
そして、先に彼女が言葉を発しても、僕はまだ何も言えないまま
だった。
渡り廊下の窓にもたれる。
293
彼女か、槙坂涼か。その二択である必要はないはずだ。だけど、
加々宮さんはそんな曖昧な答えは望んでいないだろう。もしそのふ
たつ以外を選ぶなら、それに勝る誠実で真剣な答えでなくてはなら
ない。
﹁そうだね。僕は槙坂先輩が好きだ﹂
だから、彼女の望み通りに、そして、彼女の期待には応えられな
い返事を僕は口にする。
﹁人前じゃなんだかんだと潔くないことを言ってるけど、それが嘘
偽りない僕の気持ちだろうね﹂
普段のやり取りを思い出して、自然と笑みがこぼれる。結局のと
ころ、僕は彼女とああやっているのが楽しいのだろうな。駆け引き
みたいな会話。うっかり相手のペースに飲み込まれたら、気がつい
たときには手持ちのカードをすべてオープンにしてしまっていそう
な、そんなスリルのある言葉の応酬だ。
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
加々宮さんは一度、項垂れるようにして顔を伏せると、
﹁ちょとだけ⋮⋮もしかしたらって思ったんですけど、やっぱりダ
メでしたね﹂
次に顔を上げたときには、もうそこには微笑みが浮かんでいた。
⋮⋮もちろん、むりをしているのは明らかで、その姿にとても申し
訳なく思う。
﹁じゃあ、わたし、自分の仕事に戻りますね﹂
﹁ああ﹂
そうして加々宮さんはぱたぱたと走り去っていった。
﹁⋮⋮﹂
僕は彼女を見送り︱︱そして、見えなくなると、自分の後ろ頭を
軽く窓ガラスに打ちつけた。
ため息をひとつ。
このタイミングでの加々宮さんの告白に、僕は誠実に返事をすれ
ばするほど自分を最低な気分にさせた。
294
午後六時にはすっかり日は暮れ、
校庭の真ん中では沈んでしまった太陽の代わりに、キャンプファ
イヤがあたりを煌々と照らし出していた。
火の付近には何人かの実行委員がいて、持ち込まれる不用品を見
て燃やしていいものかどうかを判断している。このチェックに通れ
ば火に放り込まれるのだ。今のところこえだが担いで運ばれてきた
様子はない。
さらにその周りにはキャンプファイアを眺める生徒たち。高校に
もなってフォークダンスもないので、ただ見たり騒いだりしている
だけだ。異性とふたりきりで見ているものもいれば、同性同士でわ
いわいやっているのもいる。
火は案外ずっと見ていても飽きないものだし、心が落ち着くもの
である。雪山で遭難したとき、安全が確保されて後は救助を待つだ
けといった状況なら、ロウソクに火を灯して見ているといいなんて
話も聞く。また、ノルウェーの公共放送では十二時間ひたすら燃え
る薪の映像を放送したところ、二十パーセントの視聴率を記録した
そうだ。火を起こすことによって文明を築いた人間が火に惹かれる
のは当然のことなのかもしれない。
僕も火を眺めている生徒のひとりで、立っている場所は校舎にほ
ど近いところ。おそらく火を見ている生徒の中では僕が最も遠い位
置にいるに違いない。
そして今、僕の隣には誰もいなかった。
ここで槙坂先輩と待ち合わせになっているのだが、彼女はまだき
ていない。尤も、﹃まだ﹄ならいいほうで、きっともうこないので
はないかと思っていた。
﹁すっぽかされたか。むりもない﹂
思わず苦笑がもれる。まぁ、間が悪かったと言うよりほかはない
だろう。
明慧祭のキャンプファイヤにはいろいろと伝統や迷信みたいなも
295
のがある。﹁一緒にキャンプファイヤを見よう﹂が交際の申し込み
だったり、カップルで一緒に見ると長続きすると言われていたりだ
とか。
僕としてはそのどちらも気にしていない。誰と見ようがそこに何
か意味をもたせるつもりはないし、一緒に見た相手とどうこうなり
たいという期待も込めていない。同じ理由で、逆もまた然り。誰か
と一緒に見れなかったとしても仕方がないと思うだけ。何ひとつ気
負う必要がないので気楽なものである。
﹁あ、真先輩⋮⋮﹂
と、そこで校舎から出てきた加々宮さんとばったり会ってしまっ
た。どうやら僕と違ってまだ仕事があったらしく、実行委員として
東奔西走しているようだ。
﹁どうしたんですか、こんなところで﹂
戸惑いを見せたのは一瞬、しかし、すぐに先ほどのことなどなか
ったかのように、何気ない調子で世間話を振ってきた。強い子だ。
﹁キャンプファイヤを見てた﹂
﹁ひとりでですか?﹂
﹁まぁね﹂
我知らず自嘲とも苦笑ともつかないような笑みが零れ落ちる。こ
うなったのは当然の帰結、むりからぬことと思ってはいても、約束
をすっぽかされたと人にまで言うのは抵抗がある。
そんな僕の返事と様子に何かを感じ取ったのか、加々宮さんは怪
訝そうな顔をした後、
﹁じゃあ、わたしもちょっと休憩です。せっかくだからもっと近く
に寄って見ませんか?﹂
﹁⋮⋮﹂
思わず僕は黙り込み︱︱そして、彼女は﹁あ﹂と短く発音。
﹁えっと、そういう意味じゃなくてですね⋮⋮﹂
﹁いや、今日はもう帰ることにするよ﹂
僕は慌てる彼女の言葉に自分の言葉をかぶせた。
296
きっとひとりぼんやり火を眺めている僕につき合ってくれようと
したのだろう。だけど、加々宮さんには悪いが、今はそんな気分で
はなかった。
﹁そうですか﹂と残念そうにつぶやく彼女に背を向ける。
これで学園祭も終わりだ。二日間あったが、終わってみればあっ
という間。実行委員なんてものをやっていれば尚更だ。それでもい
つもならバタバタしたが楽しかった、やり遂げたと思えるのだが⋮
⋮。
﹁⋮⋮﹂
今年の感想は保留だな。もう少し後で振り返ってみることにしよ
う。
297
ハロウィンSS Ver.2015︵前書き︶
ハロウィンの日から書きはじめたSS。
略してハロウィンSS。
298
ハロウィンSS Ver.2015
﹁今週の土曜日、あいてるだろうか﹂
唐突に藤間くんにそう言われたとき、わたしは思わず二、三度、
目を瞬かせてしまった。
﹁あら、珍しい。どこか誘ってくれるの?﹂
﹁不本意ながらね﹂
でも、態度は相変わらず。
﹁それで、どこに?﹂
﹁ここだよ﹂
と、ブレザーの内ポケットから取り出したのは二枚のチケット。
チケットがいるところとなると⋮⋮映画? 遊園地? プール⋮
⋮は、ないわね。藤間くんの性格からして。
わたしは差し出されたチケットを受け取った。
そこに書かれていたのはハロウィンパーティの文字。どことなく
ホラーハウスを連想させるロゴになっている。これを見てようやく
土曜日は十月三十一日で、ハロウィンだったことを思い出す。
いったいどこが主催しているパーティだろうかとチケットをよく
見てみれば、隅には私立愛華女子高等学校と書かれていた。
﹁⋮⋮藤間くん、これをどこで?﹂
入手経路が謎だ。
愛華女子と言えば有名なお嬢様学校。当然、普段から外部の人間
が入れるものではないし、学園祭のようなイベントでも生徒に何枚
か配られる招待券がないと入場できないと聞く。
﹁もちろん、切谷さんだよ﹂
﹁ああ、そういうことね﹂
切谷さんは藤間くんの異母妹だ。彼女が愛華女子に通っているこ
とは初耳だったけど、それを聞いて納得した。
299
裏返してみれば自署欄には、切谷依々子、とすでに彼女の名前が
あった。達筆だ。字は妙に和風で、筆を持たせたらさぞかし素晴ら
しい書をしたためるのではないだろうか。彼女も藤間くんと同じで
何でもできる子なのかもしれない。
﹁必ずこい。ただし、絶対に槙坂先輩もつれてこいと言われてるん
だ﹂
﹁ずいぶんと面倒くさいことを言われたものね﹂
尤も、気持ちはわからなくもない。
﹁あなた、絶対に父親似よね﹂
奥さんのほかに三人も愛人をつくった父親の血を引いているのか
と思うと心配でならない。実際すでにその片鱗をみせつつある。
﹁いや、僕は母親似だが? 前に僕の目の話はしただろ。というか、
なんで今そんな話になる?﹂
こちらの不安は露ほども伝わらなかったようで、藤間くんは本気
で首を傾げていた。
ともあれ、せっかくのデートのお誘いを断る理由はなく、わたし
は一緒にお嬢様学校のハロウィンパーティに行くことに決めたのだ
った。
そうして当日。
土曜日は学校がないので、藤間くんとは外で待ち合わせをした。
愛華女子のパーティ会場は午後五時の開場。わたしたちはほぼその
Halloween!﹂
時間に校門に到着した。
﹁Happy
そこでは受付の女の子がふたり、さっそく魔女の恰好で出迎えて
くれた。
﹁愛華へようこそ。招待券を拝見させていただきます﹂
言われて藤間くんはチケットを二枚差し出す。
受付の女の子は受け取ったそれを、まずは表面を確認し、続けて
裏面の自署欄に目をやり︱︱瞬間、﹁え?﹂と小さな声を上げた。
300
さらには隣の子までそれを覗き込み、驚いたように目を丸くする。
﹁あの⋮⋮切谷さんとはどういう⋮⋮?﹂
やがて顔を上げた彼女たちはおそるおそる、しかし、どこか期待
するような様子で藤間くんに聞いた。
﹁僕? ひと言で言うにはちょっと複雑でね﹂
﹁何が複雑よ。兄妹でしょ。ちゃんと言いなさいよ﹂
そこに言葉をかぶせ気味にして現れたのは、当の切谷さん。
彼女は黒のセーラー服にやはり黒のサイハイソックスという、何
度か見たことのある制服姿だった。相変わらず妙に色気のある脚だ。
今日は学校が休みだろうけど、学校にくる以上制服かイベントに合
わせて仮装するかの二択になるようだ。
﹁やあ。わざわざ迎えに出てきてくれたんだ﹂
﹁こんにちは、切谷さん。今日は楽しそうなイベントに呼んでくれ
てありがとう﹂
これは社交辞令ではなく本心だった。このところ日本でも毎年の
ようにハロウィンが取り沙汰されていて、日本式のハロウィンがい
よいよ定着しつつあるようだ。けれど、そのわりにはわたしの周り
にはそれらしきイベントはなく、どことなく自分とは縁のない行事
のように感じていた。そんなときにここの招待券が舞い込んできた
ので、大袈裟ではなく今日の日を楽しみにしていたのだった。
﹁お礼を言うのはこっちのほうだわ。真ひとりでこさせるのは心配
だったの。つき合わせて悪いわね﹂
﹁⋮⋮やっぱり僕はそういう認識なんだな﹂
わたしたちのやり取りの横で藤間くんが苦笑いをこぼす。
﹁切谷さんのお兄さんだったんですね﹂
そんな彼に声をかけたのは先ほどの受付の女の子。
﹁私たち彼女のクラスメイトなんです﹂
﹁よかったらメアドおしえてもらえませんか? 今度連絡しますか
ら﹂
目を輝かせて言う彼女たち。何というかすごい喰いつきようだ。
301
女子校故の出会いの少なさからか、それとも同じ理由からくる単な
る怖いもの知らずか。
対する藤間くんはというと。
﹁悪いけど、それはちょっといきなりだね﹂
と、ここまではいい。
﹁でも、僕は二度目の縁は大事にしててね。どこかで見かけること
があったら遠慮なく声をかけてくれたらいいよ。そのときは⋮⋮う
ぐっ﹂
隣にいたわたしは彼の言葉が終わるのを待たず、肘を脇腹にめり
込ませる。それと同時に怪しげな流れを鋭く察したのか、切谷さん
もいつの間にか藤間くんの横にきていて、反対側から肘打ちを入れ
ていた。両側から肘鉄を受けた藤間くんは、お腹をおさえ、受付の
テーブルに手を突く。
そして切谷さんは、続けてキッとわたしを睨むと、
﹁あなた、ちゃんと見ときなさいよ。何のために一緒にきたのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
さすがに今のは止められないと思うのだけど。
そもそも藤間くんは面白ければ危険物でも招き入れてしまうたち
なのだ。例えナンパ目的で女の子が声をかけてきても、とりあえず
最初は肯定的に応対してしまう。わたしとしては頭の痛いところだ
けど、だからこそわたしたちは互いに惹かれ合ったに違いない。わ
たしが裏表のない﹃槙坂涼﹄だったら見向きもされなかっただろう。
﹁あなたたちもよ。そこに彼女らしきものもいるでしょうが﹂
﹁えー、だって⋮⋮﹂
切谷さんに怒られても尚、彼女たちは藤間くんが気になるようだ
った。
﹁⋮⋮﹂
それは兎も角、彼女らしきものとはわたしのことだろうか。さっ
きわたしを怒鳴りつけたことと言い、この言いようと言い、さすが
藤間くんの妹だと思う。
302
﹁会場に案内するわ。ついてきなさい﹂
くるりと踵を返す切谷さん。
お腹をおさえながらついていく藤間くんに続き、わたしも歩き出
した。
﹁切谷さん、君は普段どういう扱いを?﹂
会場である体育館へ向かう最中、藤間くんが先導する切谷さんに
聞く。
﹁⋮⋮﹂
﹁切谷さん?﹂
が、なぜか黙ったままの彼女に、藤間くんは重ねて呼びかけた。
﹁⋮⋮別に。私、自分のことあんまりしゃべらないから。それで興
味もったんじゃない﹂
なるほど。この容姿で寡黙なら、さぞかしミステリアスだろう。
﹁あと、﹂
と、そこで彼女は立ち止まり、こちらを振り返った。当然、わた
したちも足を止める。
﹁真、いいかげんその言い方やめて。妹に対する呼び方ってものが
あるでしょ﹂
﹁⋮⋮﹂
言い放ったのはそんなこと。
思わずわたしたちが言葉を失くしていると、彼女はうっすらと頬
を赤くして、ぷいと顔を背けるようにしてまた前へと向き直った。
再び歩き出す。
﹁今の、どういう意味だろうか﹂
口を手で覆い、小声で聞いてくる藤間くん。
﹁いちおう兄妹なんだし、そろそろ苗字で呼ぶのやめたら?﹂
﹁⋮⋮それはまた難しいな﹂
そして、彼は言葉通りに難しい顔をするのだった。
303
会場は立食パーティの形式だった。尤も、テーブルの上に並んで
いるのは料理ではなくお菓子やジュースなので、どちらかと言えば
茶話会の延長みたいなものだろう。
その一方で、茶話会とは程遠い部分もある。
参加者の半数くらいが何らかの仮装をしているのだ。先ほど受付
で見た魔女のようにハロウィンらしいホラーっぽいものもあれば、
ぜんぜん関係ないキャラクタものの恰好をしている子もいる。さな
がら仮装大会で、しかも、テーブルのない広いところでは互いに写
真を撮り合ったりもしているのだった。
ハロウィンってこんな行事だったかしら? と思わなくもないけ
ど、きっとこれが日本式のハロウィンなのだろう。
﹁あなたはああいう仮装はしないの?﹂
﹁⋮⋮するわけないでしょ﹂
まぁ、年に一度くらいこんな日があってもいいのかもしれない︱
︱と思いつつ切谷さんに聞いてみれば、ばっさりと一蹴されてしま
った。
﹁でも、参加はするのね﹂
なんだかんだ言いつつもこうしてここにいるのだから、完全にそ
っぽ向いているわけでもないのだろう。
﹁別に﹂
と、切谷さんは持っていたジュースを呷った。
﹁毎日つまらないつまらない言ってても変わらないし、少しくらい
面白いかもと思ってきてみただけ﹂
﹁そう﹂
わたしは彼女に気づかれないよう小さく笑う。どことなく藤間く
んに似た発想だと思ったのだ。やはり兄妹だからだろうか、それと
も彼の影響か。
﹁あなた、共学にいたらすごくモテそう﹂
和風の美人で、あまり自分のことを語らないからミステリアスで。
こんな子がそばにいたら男の子は放っておかないだろう。
304
﹁⋮⋮﹂
しかし、わたしとしては褒めたつもりだったのに、彼女はちらと
こちらを見︱︱ため息を吐いた。
﹁わたし、変なこと言った?﹂
﹁⋮⋮言っとくけど、そういうの共学じゃなくてもあるのよ﹂
とても面倒くさそうに言う切谷さん。何やら余人にはわからない
悩みがありそうだった。
﹁ところで、藤間くんは?﹂
あまり触れてほしくないようなので、話題を変えることにする。
わたし
美人だとかモテるだとかいった話は、人によっては苦手だろう。﹃
槙坂涼﹄の場合は笑顔でお礼を言うことを覚えてしまったけど。
それにしても藤間くんはどこにいったのだろう。さっきまでそば
にいたと思ったのに。
﹁真なら⋮⋮ほら。そこでまた新しいのにつかまってるわ﹂
と、切谷さんがすっかり諦めきった顔で、少し離れたところを顎
で示す。と、そこには何人かの女の子と話をする藤間くんの姿が。
切谷さんがそんな顔になるのもわかった。今のわたしもきっと同
じ顔をしているに違いない。⋮⋮まったく。相変わらずコミュニケ
ーション能力の高いこと。呆れるやら感心するやら。
﹁あの⋮⋮﹂
彼を眺めていると、不意に呼びかけられる。制服姿の二人組の女
の子だった。
﹁もしかして明慧の槙坂さんではないでしょうか?﹂
﹁ええ、そうだけど?﹂
﹁やっぱり!﹂
ふたりはそれぞれ手を叩いて表情をぱっと明るくさせ、互いに顔
を見合わせた。動きが見事にユニゾンしている。きっと似たもの同
士の友達なのだろう。
﹁ごめんさい。どこかで会ったことあったかしら?﹂
喜んでいるところ悪いが、わたしには見覚えがなかった。
305
﹁いいえ。でも、噂は聞いてます。明慧大附属高校にすごく美人で
大人っぽい方がいると。そちらにまで見にいった子もいるんですよ﹂
﹁そ、そうなのね⋮⋮﹂
今のところそういう女の子に出くわしたことはないのだけど。も
しかしたら見にいくときは気づかれないように、なんてルールがあ
るのかもしれない。
﹁私たちもいつかはと思っていたのですけど、こうしてお会いでき
て嬉しいです﹂
ふたりは感極まったのか、ずいと一歩距離を詰めてきた。思わず
わたしは軽く仰け反る。なるほど。これが女子校のノリというやつ
だろうか。
﹁ところで、立ち入ったことを聞くようですが、もしや切谷さんの
お兄様とおつき合いされてるのですか?﹂
﹁ええ﹂
わたしにとっては未知の事実と行動が立て続けに繰り出されてき
て面食らったけど、そこはまぎれもない真実なので自信をもって肯
定する。
﹁まあ!﹂と歓声を上げて、またも顔を輝かせるふたり。切谷さん
がどういう立場でどういう扱いを受けているかはわからないけれど、
彼女の兄と槙坂涼が交際しているというのは、このふたりには喜ば
しい展開のようだ。
せっかくなのでサービス。
﹁いずれは依々子さんの兄嫁という立場になるのかしらね﹂
﹁﹁﹁えっ﹂﹂﹂
今度は驚きの声。その中には切谷さんも混じっていた。
﹁じゃ、じゃあ、結婚を前提におつき合いを?﹂
﹁素敵!﹂
どうやらわたしのひと言は、見事彼女たちの乙女心を射抜いたよ
うだ。
それから少しばかり話をし、彼女たちは至極感激した様子で去っ
306
ていった。
﹁はぁ⋮⋮﹂
聞えよがしなため息が、切谷さんの口からもれる。彼女は文句言
いたげな顔でわたしを見据えていた。
わたし
﹁私、あなたを真のブレーキのつもりでつれてこさせたんだけど?﹂
﹁あら、﹃槙坂涼﹄はどこに行ってもこんなものよ?﹂
実際に文句を言われたが、わたしはしれっと返す。
﹁失敗したわ。根掘り葉掘り聞かれそうなネタがふたつも増えるな
んて⋮⋮﹂
頭を抱える切谷さん。
しかし、ふと何かを思い出し、聞いてきた。
﹁ところで、真が誰かと結婚したら、私とはどういう関係になるの
かしら?﹂
﹁さぁ。あなたのところは複雑すぎるから﹂
腹違いの兄の配偶者とはまた面妖な。いちおうそれでも義理の姉
ということになるのだろうか。
﹁⋮⋮﹂
ということは、つまり⋮⋮?
﹁仲よくしましょうね?﹂
﹁うるさい黙れ﹂
ぴしゃりと言われてしまった。
﹁どいつもこいつも。つくづくおかしな家庭環境に生まれたと思う
わ﹂
そして、また深々とため息を吐く切谷さんだった。
ハロウィンパーティは午後七時までで、わたしたちは結局最後ま
でいた。
︱︱今はその帰り道。
わたしはすっかり暗くなった夜道を藤間くんと一緒に歩いている。
切谷さんはここにはいない。まだ学校に残っているのだ。別れ際、
307
﹁つき合いがあるのよ﹂と実に面倒くさそうに言っていた。
﹁最後、キレ気味だったんだが、何かしたのか?﹂
﹁何かあったのか、とは聞かないのね﹂
わたしだけに責任をかぶせないでほしい。半分は藤間くんのせい
でもあるというのに。
﹁でも、楽しかったわ。わたし、ハロウィンのイベントは初めてだ
ったから。誘ってくれてありがとう﹂
﹁それは重畳﹂
と言う藤間くんの声はとても平坦だった。
﹁あなたはそうでもなかった?﹂
﹁悪いね。こういう物言いしかできないんだ。これでも楽しんだつ
もりだよ﹂
確かに藤間くんが興奮冷めやらぬ様子で﹁楽しかった!﹂なんて
言っているところは想像できない。この子は終始この調子なのだろ
う。特にわたしの前では生の感情を見せたがらないし。
﹁そう。ならよかったわ。⋮⋮そうだ。せっかくだから藤間くんの
家で続きといきましょうか﹂
まだ七時を過ぎたばかりで、どうせ明日は日曜日なのだし。
﹁続きねぇ。いったい何するつもりだ? 仮装でも⋮⋮ああ、その
ままでも十分魔女か﹂
﹁ひどいわね﹂
本人の言う通り、こういう物言いしかできないのが藤間くんだ。
でも、いやとは言っていないので特に異論はないのだろう。尤も、
パーティの続きをすると言っても、帰って一緒に夕食を食べるくら
いのものだけど。
どうせならお望み通り魔女にでもなってみせようかしら。
男の子を誘惑する魔女とか、お菓子をもらっても悪戯しちゃう魔
女とか。
308
ポッキーの日SS
11月11日。
﹁ようやく季節通りの気温になった感じね﹂
そう言ったのは槙坂先輩だ。
場所は﹃天使の演習﹄。そろってホットのブレンドを頼んだ直後
の台詞だった。ついこの間までは僕か彼女、どちらかがアイスコー
ヒーを頼んでいた。さらに遡れば、ふたりともアイスだ。
やがて美味しい上にリーズナブルで速いのが自慢のブレンドコー
ヒーが、店長夫人キリカさんの手によって運ばれてきた。﹁お待た
せしました﹂とカップがそれぞれの前に差し出され、最後にスティ
ックタイプのチョコ菓子が数本入ったグラスが真ん中に置かれた。
﹁なんですか、これ?﹂
﹁あら、知りません? ポッキーっていうんですよ。ひとつ利口に
なりましたね?﹂
と、にこやかにキリカさん。
そう、ポッキーの商品名で有名な、万人に愛されているお菓子だ。
﹁いや、そういう意味じゃなくて、どうしてこれが? わたしたち、
頼んでませんけど﹂
槙坂先輩が僕の言いたいことを引き継ぐ。
頼んでいない以前に、こんなものがメニューにあることすら知ら
なかったし、おそらくなかったと記憶している。
﹁今日はポッキーの日らしいので、サービスです﹂
﹁ああ﹂
そう言えば数日前からテレビのCMでやっていたな。見た覚えが
ある。
﹁これで500円くらい取るとか?﹂
﹁どこのぼったくりですか。サービスって言ってるじゃないですか﹂
309
かわいらしく怒ってみせるキリカさん。
﹁これで好評ならバレンタインにはチョコを出そうと思うんです。
小さいのをふたつみっつ。まぁ、男性限定になっちゃいますけど﹂
その情報が事前にもれたら、当日は男どもが殺到しそうだな。夏
休み、キリカさんが毎日いるってだけで客が3割増しになったとい
うのに。
﹁では、ここでカップル限定サービス。ポッキーゲームをやってく
れたおふたりには本日無料とさせていただきます。⋮⋮では、どう
ぞ﹂
﹁やりませんよ﹂
どうしてやる前提で話が進んでいるのだろう。
﹁え、でも、槙坂さんはやる気みたいですよ﹂
﹁さぁ、藤間くん。無料よ﹂
﹁やらないと言っている﹂
コーヒー代が無料になるとしてもだ。尤も、この人はそんなのと
関係なく、ただやりたいだけだろうが。
﹁残念ね﹂
ポッキーをくわえてスタンバっていた槙坂先輩は不満げにつぶや
いた。
﹁あんまり変なことおしえないでください﹂
ただでさえ妙なことを口走って勝手に自爆する癖があるというの
に。
﹁え?﹂
﹁え?﹂
唐突にキリカさんが疑問符付きの発音をするものだから、僕も驚
いて彼女を見る。と、キリカさんは明らかに目を泳がせていた。⋮
⋮出所はここかよ。
﹁じゃ、じゃー、ゆっくりしていってくださいね﹂
そして、コーヒーを運んできたトレイを胸に抱え、ぱたぱたと去
っていった。逃げたな⋮⋮。
310
僕はコーヒーにフレッシュを垂らしながら、向かいに座る槙坂先
輩の様子を窺う。
彼女がここ以外でキリカさんと交流を持っていたことには驚くに
値しない。まぁ、そういうこともあるだろう。しかし、いったい普
段どんな話をしているのだろうか? 気になるところであり、しか
し、気になりはしてもさすがに聞けはしなかった。
﹁残念だけど、男の子には話せないガールズトークよ﹂
そして、こういうとき槙坂先輩の察しのよさに助かる。聞きたい
ことを先回りしてくれるのだから。尤も、今はおしえてもらえなか
ったが。
﹁そういう点では美沙希はダメね。あの子、煽ったり期待したりす
るわりには、この手の話題に耐性がないもの﹂
﹁あの人がねぇ⋮⋮﹂
普段からわりと平気の平左で下世話な話をしているくせに。
﹁気になる?﹂
槙坂先輩はこちらの心を見透かすような視線を投げかけてくる。
﹁まぁ、少しは﹂
﹁素直ね。じゃあ、帰りにこれを買って帰りましょうか﹂
言いながら、グラスに入っているポッキーを指で弾いた。
﹁これを食べながら話してあげるわ。正確には食べさせてあげなが
ら、だけど﹂
そして、槙坂涼は意味ありげに微笑むのだった。
311
第六話
二日間の学園祭の翌日は、学校は休みだ。
とは言え、各クラス、各クラブの片づけ担当が、それぞれの模擬
店や催しものの最終的な後片づけに登校してきている。もちろん、
それは学園祭実行委員も同じで、そこには僕も含まれる。
とりあえず僕は何も考えず、ひたすら仕事に従事した。
その後、夕方からは打ち上げ。
この手の慣例に従って打ち上げをすることは学園祭開催直前にな
って決まった。もとより雑談レベルでは早い段階で話が出ていたの
で、みんなそのつもりでいたようだ。当然、僕もそうだった。が、
今となってはそんな気分ではなく、欠席する旨をまずは幹事役の生
徒に告げた。それからこえだと加々宮さんにも。
それを聞いたこえだは﹁あたしも行くのやめようかな⋮⋮﹂など
と言い出した。
基本的に小動物であるこえだにとっては打ち上げなどという場所
は苦手なのかもしれない。が、そこは加々宮さんにひっついとけと
言って説得した。実行委員としてイベントに関わった以上、皆で成
功を喜ぶ場にもちゃんと参加するべきだろう。⋮⋮欠席する僕が言
うことではない気もするが、少なくとも今まではそうしてきた。
その夜には電話でこえだの報告があった。楽しかったそうだ。そ
れは重畳、である。その後も彼女はとりとめのないことを無秩序に
話していたが、本当はもっと別に聞きたいことがあったのだろうと
思う。だが、僕はあえて気づかぬ振りをして長話につき合い、今度
加々宮さんも誘って改めて三人で打ち上げをしようと約束だけをし
て電話を切り上げたのだった。
そして、その翌日からは授業が通常通りにはじまる。
312
結論から言えば、学園祭以降、僕は槙坂涼とほとんどまともに話
さなかった。
まず休み明け初日はまったく会わなかった。まぁ、同じ授業のな
い日だったのでこういうこともあるだろうと、このときの僕は思っ
たのだ。
その次の日は昨日と違い、一緒の授業があったため遠目に姿を見
ることはできた。あいかわらずの優等生、完璧超人っぷり。そして、
あいかわらず彼女を慕う生徒に囲まれていて、話しかけることがで
きなかった。
それ以降も似たようなものだ。
教室で見かけても声をかけられるような状況ではなく、たまに学
食で近くの席になったりもしたがやはり同じだった。そのくせ時折
目が合うので、呼吸みたいなものが同じで似たもの同士なんだなと、
今さらながらに自覚させられた。
一度だけ校内ですれ違い、声が届く距離まで近づいたことがあっ
た。
槙坂先輩の周りにはやはり四、五人の女子生徒がいて、僕も数人
の友人と一緒に歩いていた。彼女は向かいからくる僕に気づき、か
すかに驚いたような表情を見せたが︱︱それも一瞬のこと。すぐに
僕に微笑みかけてきた。
まるで﹁また後でね﹂なんて言葉が聞こえてきそうな、いつも通
りの微笑。
︵いつも通り?︶
いや、いつも通りとは言えないここ数日の状況でいつも通りの笑
みは、それこそがいつも通りではない証拠だ。
そのまま彼女は僕の横をすり抜けていく。
後ろから声が聞こえ︱︱、
﹁あれ? 槙坂さん、いいの?﹂
﹁気にしないで。お互いがもってる交友関係も大事にしないといけ
ないもの﹂
313
そして、遠ざかっていった。
﹁⋮⋮﹂
至極まっとうな意見。
素通りするには十分な理由だ。
﹁おい、なんでスルーなんだよ、藤間!?﹂
これはこちらの友人だ。
﹁向こうだってひとりじゃなかっただろ﹂
﹁三年のお姉様方とお近づきになるチャンスじゃねぇか﹂
﹁知るかよ﹂
こっちは自分のことで手いっぱいだ。人の事情だか欲望だかにつ
き合っている余裕はない。まぁ、そうじゃなかったとしても、槙坂
涼に憧れる男どもの仲介役をやるつもりなどないのだが。
そうしていつかは話せるだろうと思っているうちに数日がたって
いた。その間、彼女のほうからのアプローチもなかった。
そんな状況が続けば不審に思うやつも出てくるわけで。
﹁お前、槙坂先輩と今どーなってんの?﹂
ある日の学食、昼食を食べながら聞いてきたのは浮田だった。
こいつには前にも同じことを聞かれた。あのときは僕と槙坂先輩
の親密ぶりを不思議に思ってのことだったが、今回はまったくの逆。
一緒にいるところを見なくなったのを気にしてのこの台詞だった。
﹁別に﹂
﹁って感じじゃないけどな﹂
と、これは成瀬。
彼は先の学園祭におけるクラスの喫茶店の企画立案者にしてパテ
ィシエ班のリーダーだった。
﹁そうは思っても追求しないのが友人というものと思うけどね﹂
﹁仕方ない。槙坂さんがからんでるんだ。どうしても気になるよ﹂
開き直ったか。友情よりも好奇心らしい。
僕はため息をひとつ。
314
﹁そういう成瀬は瀬良さんとどうなんだ?﹂
﹁っ!?﹂
そんなわけで反撃に出たのだが、思いのほか効果があったようだ。
瀬良さんというのは同じクラスの女の子である。カナダ帰りのけ
っこう気合いの入った帰国子女で、会話の中でナチュラルに英語が
飛び出してくるのはご愛嬌。僕は時々彼女に英会話の表現について
教えを乞うている。
﹁悪いね。キャンプファイヤで一緒にいるところを見たんだ﹂
そういうきっかけを目にしてしまえば、後はふたりの様子を見て
いればわかることだった。どうやらあのときから交際がはじまった
らしい。あれを見ていなかったとしても、少しばかり勘が鋭ければ
気づくのではないだろうか。
﹁言っとくけどあたしも知ってたからな。言わなかっただけで﹂
この場にいる最後のメンバー、礼部さんはやや白けた調子でそう
言うと、学食のラーメンをすすった。こうやって平気で男連中と一
緒に食事をし、気取ることなく食べる姿はとても好感がもてる。
彼女も成瀬と瀬良さんのことは気づいていたようだ。
﹁しまったな。藪をつついて蛇を出したか﹂
﹁そういうこと。この手の話は好奇心でつつくものじゃないよ﹂
頭を抱える成瀬に僕は諭す。
成瀬は悪いやつではないし、瀬良さんがOKするくらだから、ど
ちらかと言えばいい男なのだが、友人同士になると遠慮がなくなる
のが玉に瑕だ。その遠慮のなさも普段なら好印象をもつことが多い
のだが、話題にもよるということか。
﹁けっ。どいつもこいつも彼女持ちかよ﹂
そして、ぼやくは独り身の浮田。
彼はふと何かに気づくと、視線で礼部さんをロックオンした。
﹁礼部さん。俺たちつき合わね?﹂
﹁よし、まずは死んでバカをなおせ。話はそれからだ﹂
見事な撃沈だった。
315
その日の放課後、少しばかり調べたいことがあり、僕は隣接する
明慧学院大学の図書館へと足を向けた。
附属高校と大学の位置関係の都合上、道路に面した門ではなく、
利用する学生の少ない住宅地側の門から敷地内へと入る。明慧大は
総合大学故にキャンパスは広い。門をくぐっても図書館まではまた
さらに歩く。門のところで全行程の半分といったところか。
中心部に行くと次第に人の姿が増えてくる。午後四時にもなれば
本日の講義の終わった学生がほとんどなのだろう、行き交う大学生
は皆一様に解放感に満ちた顔をしていた。キャンパスが広いと自転
車で移動する学生もいるのか、いたるところに駐輪スペースが設け
られている。僕の横を二人乗りの自転車が通り過ぎていった。
門から五分ほど歩いたところで図書館に到着した。
図書館は学術情報館と呼ばれる建物の中にある。中に入るとまず
はテーブルや椅子の置かれたロビーがある。ここでは飲食も私語も
制限はされない。そこを抜けると図書館の入り口があるのだ。
今日、家を出る前に見たい本の検索はすませていたので、入館ゲ
ートを通ると真っ直ぐに目的の書架へと向かった。
﹁え⋮⋮﹂
しかし、その途中、僕は思わず立ち止まってしまう。
槙坂先輩がいたからだ。
彼女は何か資料を探しているのか、手にしたメモと書架の側面に
書かれた請求記号とを見比べている。が、程なくして人の気配を感
じてこちらを向き︱︱通路に立ちすくむ僕を見つけた。
﹁あら、こんにちは。藤間くん﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
思わぬ遭遇に僕は呆けたような返事をする。
﹁奇遇ね。どうしたの、こんなところで﹂
テリトリィ
﹁それはこっちの台詞だと思うけどね。どちらかと言うと、ここは
僕の領域だ﹂
316
﹁それもそうね﹂
それでもすぐに立て直して言い返せば、彼女は楽しげに笑った。
﹁ちょっと調べたいことがあったの。⋮⋮ロビーに出ましょうか﹂
話し声を気にしたのか、槙坂先輩はそう促した。
僕たちはロビーを出ると、まずは自販機で缶コーヒーを購入した。
先に槙坂先輩が買い、さっさと空いているテーブルへと向かって
しまう。僕はその姿におやと思いつつも続けて自分のコーヒーを買
い、彼女を追った。向かい合って座る。
私服の大学生ばかりの中にあって制服姿の僕たちは少々浮いてい
た。果たして大学の学生、附属の生徒で、どれだけの人間が附属生
も自由に図書館を利用できると知っているのだろうか。
レファレンス
﹁藤間くんの影響かしらね。最近、調べものは図書館でするように
なったわ﹂
﹁それはいいことだ。それに、正しい﹂
僕たちはコーヒーを飲みながら話す。
最近は何でもネットで調べがちだが、司書が相談を受けたときは
まず自館のコレクションをあたる。それでダメなら参考になりそう
な資料が他館に所蔵されていないか調べ、あれば取り寄せる。ネッ
トは基本的に最後の手段か、調べるとっかかりにする程度だ。
司書がネット上の情報を信用しないのは、正確性に欠けるからだ。
確かに速報性は高いが、どこの誰が書いたかわからない、明日には
消えているかもしれない情報を信用することはできない。信用する
としたら﹃電子政府﹄のような公的機関が発信しているサイトだろ
う。
﹁唐突だけど︱︱富士山の標高は?﹂
﹁三七七六メートルね﹂
﹁そう。これくらいは知識で答えられる。でも、根拠を求められた
ら?﹂
僕が重ねて問うと、彼女は考える様子を見せ、
317
﹁百科事典かしら?﹂
﹁それもひとつの手だ。でも、これがもっとマイナーな山になると
百科事典には載っていない可能性がある。﹃日本山名事典﹄あたり
がベストだろうね﹂
事典、辞典の数はけっこうバカにできなくて、ほぼすべての分野
にあると思っていい。百科事典、国語辞典にはじまり、音楽辞典や
心理学用語辞典、もっと掘り下げたものだと夏目漱石周辺人物事典
やモーツァルト全作品事典なんてものもある。
因みに、﹃事典﹄と﹃辞典﹄は読みが同じなので、会話の中では
前者を﹃ことてん﹄と呼ぶこともある。
﹁じゃあ、もうひとつ。大浴場や噴水でライオンの像の口から水が
レファレンス
出ているのがあるけど、あれはどうしてだと思う?﹂
﹁見当もつかないわね﹂
これは実際に図書館に持ち込まれた相談だ。
質問を受けた司書は、まず﹃世界大百科事典﹄でライオンの項を
見た。そこには﹁古代エジプトでは、太陽がしし座にはいる八月に
ナイル川の増水が始まるため、泉や水源にライオンの頭を模した彫
刻を飾った。この風習がギリシア・ローマに伝わり、口から水を吐
くライオンの意匠が浴場などで使われるようになった﹂と書かれて
いたそうだ。
次に﹃世界シンボル辞典﹄のやはりライオンの項目で、﹁樋口お
よび噴水口として使われているライオンの頭部は、昼間の太陽、大
地の贈り物として吐き出された水、をあらわす﹂の文章を見つける。
さらに﹃インテリア・家具辞典﹄﹃水のなんでも小辞典﹄﹃古代
ギリシャの都市構成﹄にもあたり、そちらでは建築学的な理由が書
かれていたようだ。
最後に﹃英米故事伝説辞典 増補版﹄で、﹁これは古い習慣で、
エジプト人はナイル川の洪水を象徴するのにししの頭をもってした。
けだし、その洪水は太陽が獅子宮の所にあるときに起こったからで
ある。このようにしてギリシアおよびローマでは、噴水にこれを用
318
いるようになった﹂の記述が見つかった。
﹁司書って何でも調べるのね﹂
僕が話し終えると、槙坂先輩は感心したようにそんな感想を口に
した。
﹁本来そういう仕事だからね﹂
この例では結局、最初に百科事典を調べたこと以上のものは出て
いないが、司書は質問に対して自信をもって答えるためにはここま
で調べるのだということがよくわかる話だろう。
﹁それでもわからなかったら国会図書館に調査を依頼したり、わか
りそうな専門家や研究機関を紹介したりするんだ﹂
後者はレフェラル・サービスという。
﹁本で調べようと思ったわたしって、案外司書に向いてるのかしら
?﹂
﹁かもね﹂
僕はテキトーに話を合わせる。
安易にネットに頼らないという姿勢は正しい。次は世の中にどん
な資料があるかを把握することだろう。尤も、それに関しては僕自
身にも言えることで、僕は同年代の人間より調べものが上手いほう
だと自負しているが、それでも時々調べきれないことがある。そう
いうとき大きな公共図書館やこの大学図書館のカウンタで尋ね︱︱
そして、勧められた資料を見て、こんなものもあるのかと驚かされ
るのだ。まだまだ経験が必要なのだろう。
﹁じゃあ、﹂
と、槙坂先輩。
﹁わたしもアメリカにつれていってくれる?﹂
無邪気とも言える笑顔で聞いてくる。
僕はその問いにどきっとしながら、慎重に言葉を紡ぎ出した。
﹁むりを言わないでくれ﹂
319
﹁でしょうね﹂
彼女は笑った。
そう。そんなことできるはずがない。年が明ければすぐにセンタ
ー試験で、それが終われば受験本番だ。僕は聞いたことがないが、
槙坂先輩にだって志望校があるだろうし、その気になったらどこに
だって行けるはずだ。それなのにこんな時期に思いつきで日本を飛
び出そうと考えるなんて馬鹿げている。
そもそも親が許すのか? 資金は? 向こうでの生活はどうする
? 冷静に考えれば考えるほど無理な話なのがわかる。彼女だって
それくらい理解しているはずだ。
﹁⋮⋮帰るわ﹂
唐突に、槙坂先輩は席を立った。
﹁調べものは?﹂
﹁急いでるわけじゃないから、日を改めるわ﹂
そう言って笑う。
その笑みにはどこか寂しげな陰のようなものがあって︱︱僕は﹁
そ、そうか﹂と何とも間の抜けた返事で応じた。
そして、
﹁さよなら﹂
彼女は今まで聞いたこともないようなフレーズを最後の言葉にし
て去っていった。
320
第七話 その1
﹁さよなら﹂︱︱そう槙坂涼は言った。
今まで彼女の口から聞いたことのない言葉。
僕はそれを聞いてからずっと、その意味を考えている。
﹁⋮⋮﹂
そう言えば、前にもこんなことがあったのを思い出した。
﹃そろそろ遊びは終わりにしましょう?﹄
あのときはメールで、こんな文面だったか。尤も、翌日にはサン
ドウィッチを持って僕のところにやってきたが。今回はどうなるこ
とやら。
さて、その槙坂先輩はというと。
︱︱今は休み時間。この教室での授業が終わったばかりで、彼女
は前のほうの席で周りの女子生徒としゃべりながらテキストやノー
トをまとめていた。
Anybody
home?﹂
僕はそれをぼんやりと眺めている。
と、不意に、
﹁Hello.
やけにかわいらしい声の、しかも、きれいな発音の英語が僕のす
ぐそばで聞こえた。
見上げればひとりの女の子。
﹁やあ、瀬良さん﹂
せら・れいな
﹁ノンノンノン。⋮⋮れいれいと呼んでください﹂
瀬良麗奈、通称れいれい。もちろん、呼べるわけがないので無視
する。
﹁僕に何か用?﹂
﹁んー?﹂
と、瀬良さんは少し考えた後、とてもアバウトな質問を投げかけ
321
てきた。
﹁最近どうかなと思いました﹂
﹁上々だね﹂
お返しというわけではないが、僕もかなりいいかげんな返事をす
る。円滑な人間関係を保つために必要なもののひとつは、オチと意
味のない雑談だろう。
﹁そのわりにはぼうっとしてますねぇ﹂
﹁⋮⋮疲れてるんだよ﹂
いろいろ進行中だしな。
﹁どれどれ、なに見てたんですか?﹂
突然、瀬良さんは僕の後ろに回ると、僕の肩に自分の顎をちょこ
んと載せた。たぶんできるだけ目の位置を同じ座標に寄せて、こち
らの視線をトレースしようとしているのだろう。が︱︱
﹁⋮⋮瀬良さん﹂
﹁なんですか、ふじまん?﹂
僕が黒目を限界いっぱいまで端に寄せて呼びかけると、瀬良さん
もまた同様に目だけでこちらを見、応える。やけにフレンドリィな
呼び方をされたものだ。
﹁⋮⋮近い﹂
﹁藤間君の意見はおおいに尊重する心づもりですが、今はガン無視
です﹂
﹁⋮⋮﹂
ガン無視か。まぁ、僕も先ほど彼女の要求を無下にしたばかりだ
しな。これでおあいこか。或いは、これは彼女の仕返しなのかもし
れない。
﹁おお、槙坂さん﹂
そうして無事見つけたようだ。
﹁槙坂さんを覗いてたんですか?﹂
﹁⋮⋮まぁ、ね﹂
概ね間違っていないが、覗くとはまた人聞きの悪い。
322
﹁何でまた? 彼女とつき合ってるんだから、藤間君ならもっと近
くで着替えもお風呂も覗き放題でしょうに﹂
﹁瀬良さん? 勝手に僕を犯罪者にするのはやめてくれるかな﹂
﹁いえいえ、もちろん合意の上でですよ。そういうプレイもあるか
と﹂
瀬良さんは槙坂先輩のことをどう見ているのだろうな。少なくと
も対外的には清楚清純を絵に描いたような人だろうに。
と、そのとき、槙坂先輩が席を立った。もう教室を出るようだ。
そして、間の悪いことに、この大教室の前半分と後ろ半分を分断す
一瞬、視線が交錯した。
る通路を通るつもりらしく、数人の女子生徒と一緒に一旦後ろに向
かって歩き出す。
当然、彼女の目に僕の姿が映り︱︱
が、すぐに槙坂先輩は、ふい、と僕から目を逸らすと、何も見な
かったかのように中央の通路を通って教室を出ていってしまった。
﹁あらあら、無視でしたね﹂
﹁⋮⋮﹂
僕は少しだけ呆然となる。この前とは違う反応。先日はまだ、ほ
ぼかたちだけとは言え、微笑んでみせていた。だが、それが今日は
どうだろう。無視、いや、どちらかと言えば、無反応か。
﹁⋮⋮それはさておき、瀬良さんは今のこの状態が問題だと思わな
いのかな?﹂
﹁Oops!﹂
瀬良さんはようやくこの状態︱︱僕の肩に顎を載せて顔を寄せ合
っている状態から飛び退いた。つまり僕は槙坂先輩にそれを見られ
たわけだ。
﹁これは実にマズいところを見られました。先ほどの無視は機嫌を
損ねてしまったが故でしょうか?﹂
﹁⋮⋮﹂
あれをマズいと思う判断能力があるのなら、気軽にやらないでほ
しいものである。
323
﹁たぶん、怒らせたんだろうね﹂
﹁やっぱり!?﹂
ぎょっとする瀬良さん。
﹁いや、安心していいよ。怒らせたのは僕だ。とっくの昔にね﹂
﹁うそやんー!﹂
アクセントのおかしい、とても下手な関西弁が飛び出した。そう
言えば、関西弁はどうにも騒がしいイメージがあるが、我が義兄は
非常にクールだったな。人によるということか。
周りが何ごとかと彼女に目を向ける中、瀬良さんだけはじっと僕
を見る。
﹁藤間君は槙坂さんと何かあったんですか?﹂
﹁核心をついた鋭い質問だね﹂
﹁ふっふっふ。壁に耳あり障子に目あり柱に白アリ。私メアリー、
今あなたの後ろにいるの。⋮⋮いえ、ただナッセが藤間某の様子が
ちょっとおかしいと言っていただけです﹂
ナッセとは成瀬のことのようだ。瀬良さんの口から成瀬の名前が
出るのを初めて聞いた気がするな。それだけ彼が密かにアプローチ
しつつ、先日のキャンプファイアで勝負に出たということか。
僕は遅ればせながらテキスト類をまとめ、瀬良さんとともに教室
を出た。
﹁実は留学しようと思っていてね﹂
僕は歩きながら瀬良さんに話す。
﹁おお、それで私を都合よく利用して英語力を上げようとしていた
んですね。汚いですねさすが藤間君きたない﹂
﹁君は定期的に人聞きの悪い言い方をしないと死ぬのか?﹂
言い方は兎も角として、帰国子女である瀬良さんの英語力はとて
も勉強になるのである。
﹁いえいえ、これでも私は大いに大歓迎してるんですよ。サイモン
先生には及びませんが、グーグル先生よりは役に立つと自負してい
324
ますので。ぜひとも利用してください。私も大サービスで、本当に
嘘を織り交ぜつつ、本場の英語を教えて差し上げます。⋮⋮さて、
私は今、﹃大﹄を何回言ったでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
急に彼女から教えてもらった英語が不安になってきた。スラング
とか混ざってないだろうな。夏のイギリス旅行中、知らない間に人
を不愉快にさせていなければいいが。
﹁留学、素敵ですね。カナダはいいところですよ﹂
﹁勝手に人の留学先を決めないように。僕が行くのはアメリカだよ﹂
カナダ帰りの瀬良さんは、かの国が気に入っているらしい。
﹁ところが、僕はそのことをずっと黙っていてね。つい先日、とう
とう知られてしまったんだ﹂
﹁それで槙坂さんを怒らせた、と?﹂
﹁たぶんね﹂
槙坂先輩が自らの口でそうと言ったわけではないが、おそらくそ
うだろうと思っている。だた怒っているだけならまだいいほうだろ
う、という気もしないでもないが。
むーん、と瀬良さんは考え、
﹁土下座ですね﹂
﹁えらくまた極端な解決方法が出てきたな﹂
或いは、妥当な、か。
﹁たぶん頭を踏まれるでしょうが、上手くいけばその瞬間踏まれる
喜びと踏む喜びに目覚めて、すべて丸く収まります﹂
﹁そんなものすごく薄い確率に賭けなくても、ほかに何かあると思
うけどね﹂
今のところ、そこまで追い詰められているつもりはない。
﹁注意点としては、制服でとか20デニールの黒ストでとか、そう
いう露骨な注文をつけないことですね。うわ面倒くさっと思われた
瞬間、もうそれはプレイじゃなくなります。きっと情け容赦なく踏
みつけられることでしょう﹂
325
﹁目覚めた後の注意点を言われても困るが。そのときがきたら思い
出すよう、心の隅のほうに押しやっておくよ﹂
﹁ありがとうございます。こちらもほっとしました。それでもいい
と言われたらどうしようかと。藤間君とのつき合い方を考え直さざ
るを得ないところでした﹂
僕は現在進行形で彼女との友達づき合いを考え直しているところ
だ。
僕と瀬良さんは、講義棟1と講義棟2に囲まれた中庭を歩く。目
指すはロッカーだが、彼女は肩からトートバッグを提げているので、
次の授業の用意はもうできているのかもしれない。
﹁僕の心配をしてくれるのはありがたいけど、そっちはどうなんだ
? 成瀬とはうまくいってるのか? まぁ、つき合いはじめたばか
りだから、何もないだろうけど﹂
﹁おや、なぜ藤間君がそれを? ⋮⋮はっ、さては私のファンです
ね? わかりました。クラスメイトのよしみで握手券なしでいいで
す。バルたん星人の握手になりますが﹂
﹁いや、何となく気づいてね。成瀬に聞いたら、素直に白状したよ﹂
瀬良さんのエキセントリックな言動にいちいちつき合っていると
先に進まないので、要点にだけ答える。
﹁むう、ナッセめ。口が軽いですね。⋮⋮ときに藤間君。今日、何
か予定はありますか? よかったら帰りにカラオケに行きましょう。
もやもやした気持ちを抱えているときはシャウトするに限ります﹂
﹁解決方法ではないけど気分転換、或いは状況打破のための第一歩
としては傾聴に値する意見だね。でも、遠慮しておくよ﹂
この瀬良さん、普段のかわいらしい声に似合わず、歌声はなかな
かに男前なのである。そして、知った歌を人が歌っていると、その
卓越した英語力でもってオリジナルのラップをぶっ込んでくるとい
うカラオケ暴走族でもある。
﹁残念です。でも、そうですね。藤間君は歌うよりも槙坂さんと話
をするほうが先かもしれません﹂
326
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ま、そうなるんだろうね﹂
槙坂先輩が怒っているのは確かだろう。でも、それでも話をしな
くてはいけない。この前もそのつもりだったのに、結局よけいな話
ばかりして、肝心なことは話せていなかった。
﹁藤間君の当面の予定が決まって何よりです。⋮⋮では、私はちょ
っとナッセを引っ叩いてきますね﹂
瀬良さんはぐっと拳を固めてそう言うと、近くの昇降口から講義
棟2に入っていった。⋮⋮つき合いはじめたばかりのふたりが、い
きなり破局を迎えなければいいが。
327
第七話 その2
彼女と話をしなくてはと思うものの、これが想像していた以上に
難しかった。
相変わらず槙坂先輩は、彼女を慕い、憧れる生徒に囲まれていて、
さすがにそれをかき分けて話しかけるのは抵抗があった。
こうして改めて見ると、とても近寄りがたい存在なのだと痛感す
る。
当然のように向こうからのアプローチもなし。こんな状況が続け
ば、おのずと解のようなものも導き出せるというものである。
︵要は、避けられてるんだろうな⋮⋮︶
メールや電話はしていない。こういうことは直接話すべきだとい
うのが主たる理由だ。だが、後になって振り返ってみれば、僕は怖
かったのかもしれない。それらを無視されることがではない。普段
と変わらない文面や声が返ってくることがだ。そうなったら僕はま
た決定的な話を先送りしてしまうだろう。
だが、それは単に僕の弱さでしかなく、総じて言えば、僕は槙坂
先輩と会うことに消極的になっていたのだろうと思う。
そうして数日、ようやく僕は望んでいた機会を得た。
そのドア︱︱カフェ﹃天使の演習﹄をドアをくぐる。もう聞き慣
れた、でも、何度聞いても飽きないドアベルの音が僕を出迎える。
店の中に入ると、カウンタの向こうにいたのは店長だけだった。
キリカさんはまだ大学のようだ。
店長は僕を見ると、いつもの﹁いらっしゃい﹂ではなく、あえて
﹁いらっしゃいませ﹂と改まった口調で言った。それから視線だけ
でテーブル席のひとつを示した。
そこに槙坂涼がいた。
後ろ姿。当然表情は窺えないが、角度の関係で本を読んでいるの
328
はわかった。そして、つまらなさそうに読んでいるなと思った。
僕はお礼を込めて店長に軽く頭を下げてから︱︱ほかにも客が数
人いるようだが、真っ直ぐに彼女のいるテーブル席へと向かった。
﹁前、いいか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
不意を突くようにして問うと、槙坂先輩は僕の登場など予想だに
していなかったのか、驚きとともに顔を上げた。
﹁藤間、くん⋮⋮﹂
僕は彼女の返事を待たず、向かいに腰を下ろした。
﹁どうしたの、こんなところで?﹂
﹁このところ話す機会がなかったからね﹂
﹁そうだったわね﹂
槙坂先輩は、動揺したのも束の間、すぐに平静を取り戻した。今
まで読んでいた文庫本を閉じる。本には書店のブックカバーがかか
っていて、タイトルはわからなかった。
そこでお冷と、まだ注文していないはずなのにホットのブレンド
が運ばれてきた。
﹁お待たせしました﹂
僕は少しびっくりして店長を見上げると、彼はわずかに笑みを見
せた。ここにきたらたいていブレンドを頼んでいるというのもある
が、きっとこれは何度も話を中断させないようにとの店長の気遣い
なのだろう。僕はその気遣いに感謝し、また小さく頭を下げた。
﹁ごゆっくりどうぞ﹂
店長はひとこと言い、戻っていく。
﹁三年生は学園祭が終わると、途端に忙しくなるのよ﹂
﹁だろうね﹂
槙坂先輩は大学入試をひかえた受験生だ。推薦入試ならもう目の
前だろう。その口調は無感動で、だから、一見して毎日の試験勉強
にうんざりしているかのようだった。だが、その一方で内に抱えた
感情を押し殺しているようにも聞こえた。
329
﹁上にはいかないのか?﹂
僕はコーヒーにミルクを垂らしながら聞いてみる。
この場合﹃上﹄とは明慧学院大学のことを指す。実のところ、彼
女なら受験勉強の煩わしさも回避しようと思えば可能だ。附属生は
エスカレータではないものの、明慧大に進むのであれば一般入試よ
りも簡単な試験ですむのだ。槙坂涼ほどの成績優秀者になれば諸手
を挙げて歓迎だろうし、無試験なんてこともあるかもしれない。
だが、槙坂先輩からはもの憂げな答えが返ってきた。
﹁どうしようかしら? 今は気持ちが宙ぶらりん﹂
﹁⋮⋮﹂
それを僕のせいだと思うのは自意識過剰だろうか。
槙坂先輩が考え込むような素振りでコーヒーをひと口飲み、カッ
プを置いた。よく見れば中身は半分も減っていない。今までほとん
ど口をつけていなかったようだ。
﹁来年は藤間くんの番ね﹂
﹁うん? まぁ、そうなるか﹂
海外の大学の多くは八月からはじまる。それだけいわゆる受験シ
ーズンと呼ばれるものもずれるだろうが、やろうとしていることの
ハードルは高いのだ。おそらく来年の今ごろ、僕は周りの生徒以上
にがむしゃらに勉強しているかもしれない。
一般教養の単位は日本で取得して、それを留学先の大学につけ替
えるという手もあるようだが、今のところそれは考えていない。修
士課程まで進み、修了後もアメリカに残ることを考えれば、一般教
養も向こうで学びたいと思っている。
そんな僕の考えを読んだわけではないだろうが、槙坂先輩がひと
言。
﹁ああ、あなたは留学だったわね﹂
﹁⋮⋮﹂
ちくりと、刺さる。
そうだ、その話をしなくてはならない。そのためにここにきたの
330
だから。︱︱しかし、僕が口を開きかけたときだった。
﹁藤間くんはいつから司書を?﹂
槙坂先輩は機先を制し、まるで世間話か夢を語らうかのように、
ごく自然に問うてきた。
﹁⋮⋮中三のときだったかな﹂
僕は、それを無視するわけにもいかず、素直に答える。
当時の僕は美沙希先輩に散々振り回された後で、世の中は自分が
思っていた以上に面白いものだと考えはじめていた。その中で僕は
図書館という施設を知り、司書という職業を知ったのだ。きっかけ
は何だっただろう。クラスメイトの小椋さんが図書委員をしていた
からか? まぁ、いいか。
やがて興味をもった僕は、独学で図書館学の勉強をするに至る。
教材は図書館に行けば腐るほどあった。何せ司書の資格を取得する
講習にも用いられるようなテキストが置いてあるのだから。タダで
好きなだけ学べることに驚きながら知識を深めていくうちに、日本
の司書が軽視されている実情を知り︱︱そうして僕は今の夢をもつ
ようになったのだった。
﹁そう。そんな前から決めていたのね﹂
﹁まぁね﹂
果たして、あのころ周りに将来のビジョンをもっているやつがど
れだけいただろうか。きっとほんのわずかだったに違いない。それ
がよりにもよって、少し前まで世の中くだらないと斜に構えていた
僕が夢なんかをもったのだ。恰好悪くて美沙希先輩にも、当時仲が
よかった雨ノ瀬にも言わなかった。
﹁それなのに、あなたはわたしを⋮⋮﹂
﹁っ!?﹂
言葉が、胸に刺さった。
それはきっと怒りや悲しみといった、押し殺されていたはずの感
331
情で︱︱それがこぼれてしまったことに槙坂先輩自身もはっとした
ようだった。
後悔交じりのため息。
それで彼女は気持ちをニュートラルに戻す。
﹁ごめんなさい。女として最低のことを言おうとしたわ。忘れて﹂
﹁いや、﹂
忘れろと言われて忘れられるはずがない。えぐられた傷の痛みは、
僕が咎人であることを思い知らせる。流せはしない。
﹁その話なんだが︱︱悪かった。言うのが遅くなってしまって﹂
本当はわかっていたのだ。僕がアメリカに留学すると言えば、彼
女がどんな反応をするか。そして、本当は怖かったのだ。それを見
て自分の決心が鈍るのが。
だから、僕は先送りし︱︱気がついたときには最悪の選択肢しか
残っていなかった。
﹁怒ってるだろうと思う﹂
﹁別に︱︱﹂
まるで僕の言葉を遮るように、槙坂先輩が口を開く。
その声はとても無感情で、現国の授業で教科書を音読するかのよ
う。目はカフェの全面窓の外に向けられ、僕を見ていない。
﹁別に怒ってないわ。ただ、あまりにも予想外だったから動揺した
の。だから、藤間くんが謝る必要はない。わたしのほうこそ悪かっ
たわ﹂
﹁槙⋮⋮﹂
﹁はい。じゃあ、この話はこれでおしまいにしましょう?﹂
槙坂先輩はようやくこちらを見て笑い︱︱でも、ぴしゃりと言っ
た。
ぴしゃりと、シャットアウト。
こうして謝られてしまっては、僕からはもう何も言えなくなる。
﹁安心して。藤間くんの夢の邪魔をするつもりはないから﹂
僕が黙り込んでいると、槙坂先輩が伝票を持って席を立った。
332
﹁だから︱︱さよなら﹂
﹁⋮⋮﹂
二度目の﹁さよなら﹂は、否が応でも僕にその意味をわからせる。
⋮⋮ああ、やっぱりそういうことなんだな、と。わかってしまえば
何てことはない。そのままの意味だったわけだ。
僕はコーヒーカップに目を落とし、黙って耳だけで彼女が去って
いく足音を聞く。
槙坂涼は会計をすませると、何の躊躇もなく店を出ていった。
﹁くそ⋮⋮﹂
僕は思わずうめくようにこぼす。
よかったな、藤間真。予定通りじゃないか。おめでとう。お前が
選んでしまった最悪の選択肢の通りだ。
333
前編
かくして、僕の日常から槙坂涼が消えた。
まぁ、慣れてしまえばこんなものかと思う。
そもそもこれまでの高校生活において、槙坂先輩がいた期間より
もいなかった期間のほうが長いのだ。そう考えれば、ただ単にもと
に戻っただけとも言える。
そんなわけで僕は本来あるべき高校生活を連日謳歌するわけであ
る。
本日の昼食はずいぶんと大所帯だった。僕、浮田、礼部さん、そ
れに成瀬と瀬良さん、の総勢五人。
﹁あー、学園祭が終わって気が抜けた⋮⋮﹂
と、言葉通り気の抜けた調子で言うのは、僕の正面に座る浮田だ。
食べているのは親子丼だか他人丼だかの学食メニュー。
﹁すごいな。もう二週間がたつのに、まだ抜けたままか﹂
これは成瀬。完全に呆れている。
彼は、人ひとりがやっと通れる通路とも言えないような隙間を隔
てた、隣のテーブルに座っていた。トレイの上には日替わりランチ
が広がっている。僕と同じだ。
﹁次はクリスマスかなぁ﹂
﹁藤間、なんで浮田がクリスマスを気にしてるんだ? あいつ、下
手したら一生縁がないだろ﹂
僕の隣にいる礼部さんが、きつねうどんを食べる手を止め、当の
本人にも聞こえるであろうボリュームで聞いてくる。
﹁そこ、一生とか言うんじゃねぇ。来年には何とかしてやるよ。今
に見てろっ﹂
334
﹁箸で人を指すなよ﹂
﹁今年はもう諦めたんだな。⋮⋮ハロウィンがあっただろ。あれは
どうしたんだ?﹂
別に仲裁というわけではないが、僕は浮田と礼部さんの間に割っ
て入る。
ハロウィンパーティは、学園祭同様これまた明慧大附属の恒例行
事だ。完全に生徒主催で行われ、参加費を徴収するが、食べて飲ん
でしゃべって、仮装して写真を撮ってと、ただひたすら楽しむだけ
なので生徒の間ではけっこう好評である。年々参加者が増えている
そうだ。
﹁もちろん、行った。でも、あれって学園祭とくっつき過ぎてて後
夜祭って感じなんだよな。もっと離してくれりゃいいのに。こう、
学園祭の熱が冷めたころにハロウィン、みたいな﹂
﹁お前は祭りがないと生きていけんのか﹂
またしても成瀬が呆れる。
﹁そういう藤間は? 行ったのか?﹂
﹁いや、行ってない。学園祭の実行委員で本番前後はバタバタする
のがわかってたからね。あっちをやると決めた時点で不参加のつも
りだった﹂
学園祭は十月の最終週の土日。そして、ハロウィンパーティは同
じ月の三十一日。先にも浮田が述べた通り、どうしても日が接近す
る宿命にある。さすがに学園祭の後片付けにも出て、二、三日おい
ただけのハロウィンパーティにまで参加する気力はなかった。
﹁おかげで、手もとには愛華女子のハロウィンの招待状もあったの
に、そっちにも行ってないよ﹂
﹁何だと!?﹂
﹁マジか!?﹂
﹁あ、男どもが喰いついた。サイテー﹂
色めき立つ浮田と成瀬に、それを見て蔑んだ調子の礼部さん。浮
田はそういうキャラだから仕方がないとして、成瀬は瀬良さんもい
335
るんだからもう少し隠せ。その瀬良さんに目を移せば、彼女は家か
ら持ってきた手作りのサンドウィッチを頬張りながらニコニコと笑
顔で成瀬を見ていた。後で引っ叩かれるパターンだな。
しかし、男連中が目の色を変えるのも無理からぬ話。愛華女子︱
︱愛華女子高等学校はこのあたりでは有名なお嬢様学校で、普段は
当然のこと、学園祭のような学外者を招くイベントでも招待状がな
いと入ることができない。各種イベントの招待状を欲しがる男は山
ほどいるだろうが、どれも入手困難な代物だ。
﹁男は殴って、女はたぶらかす藤間君や﹂
﹁ここにそんな董卓みたいなやつはいないはずなんだがな。いつも
通り人聞きの悪い言い方、ありがとう。⋮⋮なに、瀬良さん﹂
くだり
これまで黙って食べていた瀬良さんが声をかけてきた。男は殴る
の件は学園祭での一件を指しているようだ。あの話はそこそこ広ま
ったと聞いている。
﹁どうやって手に入れたのですか?﹂
﹁親類縁者が愛華にいてね﹂
誰あろう切谷さんのことである。女子高の学園祭に興味があると
言った僕の言葉を真に受けたのか、学園祭はもう終わったけど、と
ハロウィンパーティの招待状を送ってきたのだ。槙坂先輩と一緒に
こいという指示つきだったのは、果たして何かを心配してのことか、
それとも自分のひと言で僕と彼女の間の空気が悪くなってしまった
ことへのお詫びだったのか。場合によっては、これに応える未来も
あったのかもしれないが、残念ながら招待状を無駄にする結果とな
ってしまった。
﹁その親類縁者とやらをぜひ紹介してくれ﹂
浮田が腰を浮かしそうな勢いで身を乗り出してくる。
﹁僕の妹だぞ。よし、僕を倒していけ﹂
﹁ダメだ。勝てる気がしねぇ﹂
が、すぐに絶望的な表情とともに背もたれに身を投げた。
安心しろ。僕も負ける気がしない。
336
﹁かー、もったいない。這ってでも行けよ﹂
﹁うるさいな。気分じゃなかったんだよ﹂
しつこく話題を引っ張る浮田が鬱陶しくなって、思わず吐き捨て
るように言い返せば︱︱瞬間、場がしんと静まり返った。⋮⋮しま
ったな。僕は後悔する。
当時、僕と槙坂先輩の様子がおかしかったことは、わりと近しい
人間なら周知の事実だ。そして、ここ数日はいよいよ話もしなくな
って、遡れば学園祭付近で何かあったのだろうと誰もが容易に想像
できたはずだ。
﹁⋮⋮悪い﹂
ばつが悪そうに浮田が謝った。
本当に謝るべきは、気を遣わせている僕のほうなのだが。
﹁それにしても、ほら、学園祭が終わってカップルが増えた気がす
るよな﹂
おそらく浮田は話題を変えるつもりだったのだろう。だが、学園
祭の話自体が禁句のようなこの雰囲気下で、それは選定ミスではな
いだろうか。実際、浮田の隣にいる成瀬は﹁あ、こいつバカだ﹂と
呆れ顔。⋮⋮そこまで気を遣ってくれなくてもいいのだが。
﹁即席急増カップル死ねと思うわ﹂
﹁それでお前たちは俺と瀬良さんの邪魔をしにきたのか﹂
合点がいったとばかりに、成瀬。
﹁いや、浮田だぞ? ここにしようって言ったのは浮田だからな?﹂
先ほどのお返しなのか、礼部さんは箸で浮田を指し、言う。
彼女の言う通りである。僕と浮田と礼部さんがこの学食にきて、
どこに座ろうかと席を探していたところ、浮田が仲よく一緒に食べ
ている成瀬と瀬良さんを見つけ、嬉々としてその横のテーブルに決
めたのだ。
﹁安心しろ。即席カップルが数多く誕生したかもしれないが、その
一方で僕みたいなのもいる﹂
直後、再び空気が凍りついた。
337
沈黙。
僕としてはこんなふうに深刻に黙られるのは不本意なんだけどな。
その中でカツカツと音が聞こえた。何かと思えば、礼部さんが苛
立たしげに塗り箸の先でトレイを叩いていた。
程なくして浮田が、どっと疲れた様子で口を開く。
﹁お前なぁ、俺たちがその話題を避けてるのに⋮⋮﹂
﹁いや、お前は微妙に避けられてなかっただろ﹂
﹁いいよ、成瀬。変に気を遣わなくても﹂
﹁あああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああっ!﹂
突然、礼部さんが叫び声を上げた。
頭を掻きむしりながら立ち上がる。いったい何ごとかと周りにい
た生徒の目が集まる。しかし、礼部さんは気にした様子もなかった。
﹁藤間! お前ら、いったい何があったんだよ!? あんだけ仲が
よかったのにっ﹂
どうやら彼女の中で耐えられない何かが爆発したようだ。
﹁⋮⋮礼部さん、まずは座ろうか﹂
と、僕が促せば、礼部さんは素直に着席した。むすっとした顔な
がら黙って僕の次の言葉を待つ。彼女だけではない。ほかの三人も
同じだ。興味、と言ってしまうと言い方が悪いか。きっと気にして
くれていたんだろうな。
︵何があったのか、か⋮⋮︶
瀬良さんには先日少しばかり話したが、途中までだ。その後の顛
末は知らない。とは言え、聞かれるままほいほい答えて回るような
話でもないだろう。
心配してくれるのは嬉しいが⋮⋮
僕は周囲の生徒がこちらへの興味を失くすのを待ってから口を開
いた。
338
﹁悪いけど、話が個人的すぎるからね。聞いても面白くはないよ。
とりあえずは見ての通り、お察しの通りだ。まぁ、みんなは笑っと
いてくれたらいいんじゃないかと思う﹂
僕は努めて明るく、そう告げた。
何せ僕にとっても槙坂先輩にとっても大事な話をずっと黙ってい
て愛想をつかされたなんて、自分でもお笑い草なのだ。ならば、身
の丈に合わない高嶺の花とつき合って、案の定続かなかったと笑っ
てくれたほうが気が楽だ。
﹁これが浮田なら指さして笑ってるところだけどな﹂
﹁おおおいいいっ﹂
浮田が隣にいる成瀬に顔を向け、悲痛な声を上げる。
騒々しいな。それにどうにも思っていた以上に友達思いのやつら
だ。⋮⋮いいかげんな自分には逆に居心地が悪い。
僕は席を立った。
﹁何てことはない。春ごろの僕に戻ったというだけのことさ﹂
食べ終わったことだし、先に行かせてもらおう。
みんな立ち上がった僕を見上げるが、特に何も言う様子はない。
僕が気分を害して立ち去ろうとしているのだと思っていなければい
いが。
﹁藤間君﹂
瀬良さんだった。彼女は僕を呼び止める。
﹁時間は不可逆ですよ。⋮⋮ああ、これ早口言葉にいいですね。今
度考えてみましょう﹂
﹁それくらいわかってるよ。でも、状況が戻ることはある﹂
僕はそれまでしていたように、槙坂涼や彼女を取り巻く連中を遠
くから観察して楽しむ日々に戻るわけだ。それでこそ退屈と平和と
本を愛する一介の高校生に相応しい平穏な︱︱
﹁⋮⋮﹂
平穏?
︵それではまるで⋮⋮︶
339
その他大勢。
そんな言葉が頭をよぎった。
僕はこれから槙坂先輩にとってのその他大勢になるのだと考えて
︱︱ぞっとした。
﹁わかっているならいいのです。本当にわかっているのなら、です
けど﹂
﹁何か言いたいことでも?﹂
自然に答えたつもりだったにも拘らず発音に力がこもってしまっ
たのは、先ほど頭に思い浮かんだ﹃その他大勢﹄という言葉のせい
か。聞き咎めた成瀬が﹁藤間﹂と僕をたしなめる。
瀬良麗奈は侮れない。
エキセントリックな言動とは裏腹に、妙に核心をついてくること
がある。自然、こちらも言葉選びが慎重になるというものだ。
﹁藤間君は槙坂さんとつき合っていたころのほうが楽しそうでした
よ?﹂
﹁そりゃああんな美人と一緒にいたからね。男としちゃ笑いが止ま
らないよ﹂
ナンパ
今度こそいつもの調子に戻り、言い返す。
﹁藤間くんらしからぬ軟派な言い方ですね。見直しました。⋮⋮い
えいえ、槙坂さんが横にいなくてもですよ。私たちと一緒にいると
きでも毎日楽しそうでした﹂
﹁⋮⋮﹂
僕は思わず黙り込む。彼女の指摘を否定しようとして︱︱しかし、
そうするだけの言葉を継ぐことができなかったのだ。
﹁⋮⋮なら、またつまらない毎日に戻るだけさ。⋮⋮お先﹂
僕はトレイを手に取ると、それを持って逃げるように立ち去った。
理解した。
︱︱時間は不可逆。
340
確かにそうだ。
僕はもう槙坂涼のことを知ってしまった。
心の中の多くを彼女が占めている。
ならば、環境だけをそっくりそのまま巻き戻したところで、それ
は似て非なるものでしかない。
341
中編
今の僕の日常に槙坂先輩の影はない。
正確にはひとつだけ同じ授業があるので、そのときだけは姿を見
ることができる。このような状況になっても、お互いお決まりの席
に座っているものだから、授業中、嫌でも彼女の後ろ姿を見ること
になる。そして、気がつけば僕は、先生の声は右の耳から左の耳で、
槙坂先輩の背中ばかり見つめていた。我ながら気持ちが悪い。
学食でも彼女の姿を見なくなった。
槙坂先輩は弁当だし、どこか別の場所で食べているのだろうかと
思ったが、すぐにその考えを否定する。僕がそうしているように、
おそらく彼女も自分の行動パターンを変えていないだろう。探せば
この学食のどこかにいるに違いない。
少し前まで僕は、彼女と話をせねばと思っていた。だが、いざ会
えば面と向かって別れを告げられてしまったのだった。大事なこと
をひた隠しにされていた彼女の怒りや悲しみを思えば、それも仕方
のないことなのかもしれない。
結局それ以降、彼女とは何も話せなくなってしまった。
僕は、ひたすら悪手を打つ己の馬鹿さ加減に嫌気がさしつつも、
﹁これでいい﹂と状況を受け入れようとしていた。選んだ最低の選
択肢が最悪の結果をもたらしたが、これも僕が望んでいたことなの
だから。後はもとの学校生活に戻るだけ。
だが、先日、瀬良さんによって無自覚だった喪失感を自覚させら
れてしまった。
そうだ。僕は槙坂先輩がそばにいる日々を楽しんでいた。彼女と
342
交わす言葉のひとつひとつが刺激に満ちていた。言われるまでもな
いことだ。しかし、今や僕は槙坂先輩と無関係であり、彼女にとっ
ての﹃その他大勢﹄でしかない。
僕は今、いったい何をすべきで、何がしたいのだろうか。
﹁ずいぶんとシケた面してんな、オイ﹂
本日の授業がすべて終わり、ひとり駅へと向かっていると、いき
なり正面から声を投げかけられた。それが自分のことだとすぐに察
したのは声の主が誰かわかったのもあるが、シケた面だという自覚
があったからだろうか。
最近では、僕は浮田や成瀬たち級友とも最低限のつき合いしかし
ておらず、ただでさえつまらなくなった毎日をさらにつまらない方
向へつまらない方向へと追いやっていた。シケた面にもなろうとい
うものだ。
まるで行く手に立ちはだかるようにして待ち受けていたのは美沙
希先輩だった。
﹁⋮⋮﹂
美沙希先輩のはず。
僕の知る彼女と大幅に違っていた。気性を体現するかのような荒
々しいウルフカットはしっかりとブラシで梳かされ、いつも着崩し
ている制服も正しくきっちりと着こなしている。その上には高校生
らしくも上品な白のコートを羽織っていた。⋮⋮誰だ、これ。
﹁どうした、間の抜けた顔して﹂
思わず言葉を失う僕に、美沙希先輩と思しき人物は問う。
﹁先輩って女だったんだなと﹂
﹁ぶっとばすぞっ!﹂
周りには僕と同じく駅へと向かう生徒が少なからずいて、ただで
さえ道の真ん中で仁王立ちする美沙希先輩を、﹁げ、古河だ﹂と恐
343
れ半分、﹁え? あれ古河なの? マジで?﹂と興味半分の視線を
向けつつ避けているのに、これまたさらに怯えさせるようなこと口
走る。
﹁別にお世辞で言ってるわけじゃありませんよ。なかなかどうして、
そうしているといいところのお嬢様っぽいです。愛華の生徒だって
言っても通じるんじゃないですか﹂
﹁お、おまっ、お前もう黙れ! ねーよっ﹂
これは珍しい。美沙希先輩が壮絶に照れている。
こうして改めて見ると、案外素材はいいんだなと思う。身だしな
みを整えれば別人だ。こうなるといつも爛々としている猫目もきれ
いなアーモンドアイだ。後はその伝法な口調か。とは言え、普段か
らずっとこれだと、それはそれでこっちの調子が狂ってしまう。
﹁それで、どうしたんです? そんなよそ行きの恰好して﹂
﹁試験だよ、試験。推薦入試。今はその帰りだ﹂
﹁ああ﹂
そうか。そうだったな。もう十一月も下旬。入試の種類によって
は試験日程がはじまっていてもおかしくはない。なるほど。それで
美沙希先輩もその恰好なのか。
﹁そういうお前は随分と覇気のない顔してやがるな﹂
﹁ほっといてください﹂
シケた面と間の抜けた顔の次は覇気のない顔か。散々な言われよ
うだな。まぁ、自分でもあながち間違ってはいないのだろうと思う
が。
﹁まぁ、いい。ちょっとつき合え。学校に用があんだよ﹂
﹁わかりました。いいですよ﹂
僕が了承したのは拒否権がないほど美沙希先輩が傍若無人なわけ
ではない。どうせ状況を巻き戻すのなら美沙希先輩とつるんでいた
ころにまで戻すのもいいかと思ったのだ。
僕と美沙希先輩は下校する生徒の波に逆らい、学校へと向かった。
344
さっきまでその下校する生徒のひとりだった僕は、きた道を戻るこ
とになる。
﹁どうですか、試験は?﹂
﹁ぼちぼちだな。さすがに三回もやりゃ場馴れしてきたしな﹂
へっ、と笑う美沙希先輩。この人も緊張することがあるのか。ま
さかと思うが、スマートフォンを使った不正に慣れてきたきたとか
じゃないだろうな。
﹁因みに、槙坂はひとつ決まったからな﹂
﹁⋮⋮﹂
不意に出てきた彼女の名前に、僕は何も言えず黙った。
槙坂先輩はさっそく合格をもらったか。附属生が上へ上がるため
の試験はもう少し先のはずなので、明慧大ではないのは確かだ。⋮
⋮どこだろうか。そして、合格したというその大学に決めてしまう
のだろうか。尋ねようとした言葉は、すぐに飲み込んだ。僕がそれ
を知ってどうする。
何にせよ、ひとつ決まって何よりだ。
︵僕がいなくてもあの人はいつも通り、か⋮⋮︶
さすが槙坂先輩。特に調子を崩したりはしていないらしい。
ふいに美沙希先輩が僕を横目で見た。この人、目力が強いからな。
視線を向けられるとすぐにわかる。
その美沙希先輩はやおらため息を吐く。
﹁おい、真。槙坂はどうしたよ?﹂
聞いてきた。
﹁さぁ? 最近会ってませんから﹂
﹁そうじゃねぇよ。なんでお前は今、あいつと一緒にいないんだっ
て聞いてんだよ﹂
まるで一音一音区切るようにして、僕を問い質す。
美沙希先輩は、彼女の所在や動向を聞いているのではなく、理由
を問うているのだ。僕と槙坂先輩のことを知っていて、その上でな
ぜ別れたのか、と。
345
﹁サエに会ったか?﹂
﹁え? そう言えば、このところ見てませんね﹂
正直、自分のことでいっぱいいっぱいで、周りに目が向いてなか
った。確かに最近あいつの姿を見ていないな。冬だから大量のどん
ぐりと一緒に家にこもっているのだろうか。
﹁ったく。テメーの女と舎弟の面倒くらいちゃんと見ろよな﹂
言いながら頭をがしがしと掻く美沙希先輩。せっかくブラシで梳
かした髪が台無しだ。
﹁サエ、怒ってたぞ﹂
﹁こえだが?﹂
どうして? と聞こうとして︱︱やめた。僕と槙坂先輩がこんな
ことになってしまったからに決まっている。
あいつはそのへんの連中と違って事情をよく知っているし、僕に
助言までしてくれていた。そして、槙坂涼を慕い、憧れていること
は言わずもがなで、こんな僕のことも好いてくれている。そのふた
りには長く一緒にいてほしいと強く願っていたのだろう。
しかし、結局こんな結果になり、ふがいない僕の顔など見たくも
ない、といったところか。
﹁高校生ですよ? くっついただの別れただのなんて、よくある話
でしょう﹂
周りが騒ぐような問題ではないだろうに。
﹁アタシは普通のヤツを舎弟にした覚えはねぇよ﹂
﹁⋮⋮普通ですよ、僕は﹂
普通だからどうにもできないことがたくさんあって、自分は本当
は何ひとつひとりでは満足にできない子どもなのだと思い知らされ
る。
ふと、僕は聞く。
﹁先輩はどう思いますか?﹂
﹁あン?﹂
﹁僕を、情けないと思いますか?﹂
346
僕を見込んで舎弟にした美沙希先輩も、その期待に応えられなけ
れば、見込み違いだった、ふがいないやつだと思うのだろうか。
﹁お前さ、その聞き方からして、自分で自分のことを情けないと思
ってるって言ってるようなもんだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だったら、アタシが何を言ってもムダだろうさ﹂
その通りだ。僕は常に常識的な判断を下している。だが、その一
方で、それは僕が足りていないからではないかとも思うのだ。例え
ば、彼女をつれていく覚悟が。例えば、ひとりの女性のために夢を
諦める勇気が。
﹁それともこう言ってほしいか? まぁ、確かにお前の言う通り、
くっついたり別れたりはよくある話だよな。わかるわかる。仕方な
いよな、って﹂
﹁⋮⋮﹂
たぶん、今の言葉を真剣に言われたとしても響きはしなかっただ
ろう。きっと僕はそんなものは求めていないのだ。
﹁でもよ、槙坂と別れたからって、すべてがなかったことになるわ
けじゃないだろ﹂
それは先日、瀬良さんが言ったことと同じだった。
時間は不可逆。
環境だけを戻したところで、時間とともに積み重ねたものまでな
くなりはしない。こうやって美沙希先輩と歩いて過去を懐かしみ、
昔に戻ったような気になったところで、そんなものはうわべだけの
ことでしかないのだ。
﹁ま、せめて終わるなら終わるで、グッダグダな終わり方はするな
よ。でもって、できれば男を見せてくれたら、アタシも自慢の舎弟
だっつって胸を張れる﹂
美沙希先輩はそう朗らかに言ってのける。
こえだと言い美沙希先輩と言い、みんな好き勝手に期待してくれ
る。僕はどこにでもいる平和と退屈と本を愛する一介の高校生だと
347
いうのに。そんな力などあるはずがない。
僕はため息をひとつ。
﹁張るほどないでしょう、胸﹂
﹁なにおう!﹂
さて、道中半殺しの目に遭いながら学校に戻り、向かった先は職
員室だった。
何の用事かは聞いていないが、僕をつき合わせるくらいなのだか
ら、そんなに時間がかかることでもないのだろう。廊下で待ってい
ればいいか。
そうして辿り着いた職員室で、美沙希先輩がドアに手をかけよう
としたときだった。そのドアが触れてもいないのにひとりでに開い
た。ついに学校にも自動ドアが、と思ったが、何てことはない、一
瞬早いタイミングで中から人が出てきただけだった。
そして、その出てきた人物というのが僕の見知った顔︱︱加々宮
きらりだったのである。
﹁すみま⋮⋮あ﹂
彼女は反射的に謝っている最中、美沙希先輩の肩越しに僕の姿を
認め、小さく声を上げた。驚き、それからキッと僕を睨む。
加々宮さんは知識として知っていたのか、この状況から判断した
のか、僕を美沙希先輩のつれ合いだと正確に理解したようだ。
﹁すみません、先輩。真先輩をお借りしてもいいでしょうか?﹂
﹁お、おう⋮⋮?﹂
美沙希先輩は目をぱちくりさせ︱︱たかどうかはこちらからは見
えないが、面食らった様子で首肯する。
﹁⋮⋮行きましょう、真先輩﹂
加々宮さんは僕の返事も聞かず、歩き出した。
つれてこられたのは渡り廊下だった。
放課後の渡り廊下は、文科系部員が活動場所である特別教室に向
348
かうくらいにしか利用されることはなく、生徒の姿はほとんどない。
ここは僕にひとつの記憶を呼び起こさせる。
そう、学園祭二日目の夕刻の、加々宮さんの告白だ。これを奇し
くもと言うべきなのか、それとも狙ってのことなのかは、加々宮さ
んの意図がわからない以上、僕には判断できない。
加々宮さんはその渡り廊下の中ほどのところで立ち止まり、くる
りとこちらを振り返った。
﹁真先輩、槙坂さんと別れたって本当ですか?﹂
神妙な面持ちで、いきなり切り込んでくる。
﹁うん。世間ではそうなってるね﹂
こんなもの言いは僕の癖か、或いは、案外それを認めたくないと
思っているからか。後者なら我ながら女々しい話である。
僕の返事を聞くと、加々宮さんは﹁よしっ﹂と小さく拳を握りし
めた。
そして、
﹁じゃあ、わたしとつき合ってください﹂
ぱあっと顔を明るくして言う彼女に、僕は思わず呆気にとられた。
﹁⋮⋮なぜその話が復活した?﹂
﹁えー、だって、今がチャンスじゃないですかー﹂
﹁⋮⋮﹂
ですかー、と言われても賛同しがたいのだがな。
﹁悪いけど、僕は上にはいかないんだ。この付近の大学でもない。
卒業したらこの街を離れるよ﹂
﹁あ、大丈夫です。それ、知ってますから。サエちゃんから聞きま
した。留学するんですよね?﹂
知ってる? 知っていてそれを言っているのか? いよいよ彼女
が何を考えているかわからなくなってきた。
﹁だったら、どうして?﹂
349
﹁それでもいいんです﹂
僕の当惑をよそに、加々宮さんは至極簡単に、あっけらかんとし
て言う。
﹁それにあくまでも可能性の話だと思うんですよね。もしかしたら
行けな⋮⋮もとい、行かなくなるかもしれないじゃないですかー?﹂
﹁今さらっとひどいことを言いかけたな、おい﹂
だからなんで賛同できそうにないことを﹁ですかー?﹂と聞くの
だろうな。
確かに可能性の話ではある。何せ決して簡単なことではないのだ。
下手をしたら試験問題すら読み解けなかった、なんて事態もあるか
もしれない。それでも僕が今まで確定事項として語ってきたのは、
自分ではどうしようもない壁にぶち当たらない限り諦めるつもりが
ないからだ。
加々宮さんは、己の暴言と僕の抗議には知らん振りで話を進める。
﹁というわけで、日本にいる間だけでもつき合ってください﹂
﹁その場合、僕が槙坂先輩から君に乗り換えた最低男として見られ
かねないのだが﹂
それは御免こうむりたいところである。
﹁人目を気にするような人じゃないでしょう﹂
﹁かもね﹂
実際、いちいち気にしていたら槙坂涼と一緒になんていられない。
そこにいるだけで人目を惹く人なのだから。とは言え、妬みやっか
み嫉妬の類ならどこ吹く風だが、さすがに白い目は気にすべきだろ
う。
﹁それにわたしなら槙坂さんと違って、残り一年も学校で一緒です
よ﹂
﹁ああ、本当だ﹂
なぜか妙に納得してしまった。
﹁でも、さっきも言ったように、僕はいずれいなくなる身だ﹂
﹁そこは、ほら、あらかじめわかってたら、そういう心構えでつき
350
合えますし?﹂
ある意味、加々宮さんらしいタフでポジティブな考え方だ。
僕も最初から槙坂先輩にそれを告げていればよかったのかもしれ
ない。そうすればもっと穏やかに別れられただろう。いや、そもそ
もつき合っていなかったか。どちらにしても今のような事態は避け
られたに違いない。
﹁それで一年たって、それでもやっぱり別れたくないって思ったら、
わたし、後から真先輩のこと追いかけちゃうかもです﹂
﹁アメリカまで?﹂
﹁もちろんです﹂
僕が加々宮さんの思い切った発言に驚き聞いて返すと、彼女はき
っぱりとうなずいた。
﹁でも、サイモン先生の授業を怖がってる加々宮さんにそれができ
るとも思えないけどね﹂
﹁で、できますぅ。サイモン先生でもニャンコ先生でもなんでもこ
いです﹂
﹁それは頼もしいね﹂
加々宮さんの勢いに微笑ましいものを感じてしまう。
僕も似たようなものだ。自分の夢を見定めた後は、父の援助をあ
てにし、外国人教師や帰国子女の級友から実践的な英語を学び、盗
もうとしている。夢のためなら何でもやってやる、である。
﹁⋮⋮真先輩、今﹃お前じゃない﹄って顔してますよ﹂
まるで心臓を撃ち抜くような指摘。
気がつけば加々宮さんの顔から笑みが消え、真剣な眼差しをこち
らに向けていた。
﹁わたしじゃないなら楽しそうに話を合わせないでください。槙坂
さんじゃないとダメなら簡単に諦めないでください﹂
﹁⋮⋮﹂
351
それは文句というよりは、叱咤に聞こえた。ならば、彼女は僕を
試していたのだろうか?
﹁⋮⋮何も知らない君が口をはさむ話じゃない﹂
それでも僕は思わずむっとして言い返す。
本当にみんな好きに言って、勝手に期待してくれる。例えそれが
彼ら彼女らなりの叱咤激励や応援だったとしても、だ。
﹁知らなくありません。サエちゃんから聞いてます﹂
﹁あいつにだってそれほど話していない﹂
﹁サエちゃんを甘く見ないでください。真先輩と槙坂さんをいちば
ん近くで見てきた子ですよ!? 槙坂さんを置いていくんですか?
恋人じゃなかったんですか? 好きだって言ったじゃないですか﹂
加々宮さんは支離滅裂にも聞こえるほど、矢継ぎ早に僕を問い詰
めるてくる。
﹁それに、お、お、お風呂も一緒に入ったくせにっ﹂
﹁それは知らん!﹂
身に覚えのない罪状を追加してくれるな。
﹁いったいどこでそんな話を聞いたんだ﹂
﹁槙坂さんに決まってるじゃないですか﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに、彼女に決まってるな。
いったい加々宮さんに何を吹き込んでいるのだろうな、あの人は。
加々宮さんなんて単に耳年増なだけで、どうかしたらこえだより耐
性がないかもしれないというのに。
一気に気勢が削がれた。
僕は深々とため息を吐き、それから体を渡り廊下の窓にもたせか
けた。
﹁そんな気持ちでアメリカに行けるんですか?﹂
加々宮さんが改めて問う。
﹁行けるか行けないかで言えば、行けるさ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
352
加々宮さんが泣きそうな顔をする。
これが彼女の本質なのだろう。普段なんだかんだと悪女ぶっては
いるが︵そして、いつもマジもんの悪女にコテンパンにされている
が︶、僕と槙坂先輩の行く末を心配してくれているのだ。
対して僕は、先のように言い切ってみせた。
そのときがきたら何もかもを振り切って僕は行くだろう。いま僕
が思い悩み、周りが気を揉んでいる問題も、所詮は時間がたてば忘
れる種類のものでしかない。
﹁でも、それでいいかと言えば、きっとダメなんだろうな﹂
僕は彼女のため、そして、それ以上に自分のために言葉を継ぐ。
﹁じゃあ!﹂
﹁無茶を言わないでくれ。ただ単にこのままじゃいけないと思った
だけだよ﹂
やはりもう一度、槙坂先輩と話をすべきだろう。
改めて彼女に謝って、それで︱︱笑って見送ってくれというのは、
僕の身勝手でしかない。でも、せめてわかってほしいと思う。僕が
抱く夢を。彼女と過ごした日々の中で積み上げた想いを。そして、
願わくば、僕が日本にいる残りの一年もそばにいてくれたら、と。
﹁明日、彼女に会ってくるよ﹂
僕は今決めたことを口にする。
﹁大丈夫ですよ、真先輩﹂
﹁うん? そうかな?﹂
我知らず、口許に笑みが浮かぶ。
僕のことを親身になって心配してくれた加々宮さんがそう言うの
なら心強い。
﹁振られてもわたしがいますから﹂
﹁⋮⋮﹂
別に不退転の決意で臨みたかったわけではないが、そういう滑り
止めがあるのもどうかと思う。というか、加々宮さんとしては、己
の立ち位置はその座標でいいのだろうか。
353
後編
幸いにして、そのときの授業は先生の事情か、はたまた単なる気
まぐれか、終業のチャイムが鳴る五分まえに終わった。好都合だ。
僕は先生が授業の終わりを告げると、すぐさまテキスト類をまとめ、
教室を出た。
歩く速度はやや速め。
逸る心が表れているのだろうか? いや、気持ちは落ち着いてい
るつもりだ。
教室を出て向かった先は、また別の教室。辿り着いたときには、
時計は授業の終わり二分前を差していた。自分で思っていたのより
早い。
その教室の前で待っていると、程なくしてチャイムが鳴った。続
けて、あまり間をおかず先生が出てくる。どうやら授業の延長はな
かったようだ。好かれる先生の第一条件だな。入れ違いに僕が中へ
と這入る。
教室の中は授業が終わった解放感に満ちていた。皆、テキストや
ノートをまとめながら、固まって座った友達同士で話に夢中で、入
ってきた僕に気づいたのは入口付近にいた数人だけだ。それもちら
とこちらを見ただけで、気にも留めていないふうだった。
教室を見回さなくても彼女︱︱槙坂涼の姿はすぐに見つけること
ができた。
槙坂先輩は、教室は変われどいつもの場所に座っていた。ほかの
生徒と同じように片づけをしながら、話しかけてくる周りの女子生
徒に微笑みと相づちを返している。
僕は意を決して足を踏み出した。
早々に教室を出ようとする生徒何人かとすれ違いながら、彼女の
もとへと歩を進める。最初に僕に気づいたのは槙坂先輩ではなく、
354
周りにいる女子生徒のひとりである伏見唯子先輩だった。
﹁おー、藤間君だ。久しぶり﹂
﹁どうも﹂
座った状態から僕を見上げてくる伏見先輩に軽く頭を下げ、挨拶
を返す。確かに久しぶりだ。このところ槙坂先輩と顔を合わせてい
なかったからな。自然、彼女の周囲の人物とも遠ざかる。
﹁丁度いいところにきたね﹂
﹁何ですか?﹂
と聞き返せば、伏見先輩はイスに座ったまま両手を広げて何やら
アピールしてきた。
﹁ああ、乗り移るんですね﹂
授業も終わったことだし、そばに置いてある車椅子に移りたいの
だろう。そして、それを僕に手伝えと言っているのだ。
﹁その通りだけど、なんか言い方が怨霊っぽくない?﹂
﹁どうせなら飛び移ったらどうです?﹂
﹁涼さーん、最近藤間くんが冷たいんだけどー﹂
伏見先輩は腰をひねり、槙坂先輩のほうを向いて訴える。
しかし、
﹁そういう子よ﹂
と、槙坂先輩。どうにも含むところのありそうなニュアンスだ。
ため息がここまで聞こえてきそうである。
﹁ほら、いいから手を貸す﹂
﹁仰せの通りに﹂
僕が伏見先輩の前に回り、顔を寄せるようにして腰を曲げると、
彼女はその僕の首にしがみついてきた。﹁失礼します﹂と声をかけ
てから腰に手を回し、抱え上げてそのまま車椅子へと移す。
﹁おー、さすが男の子、安心感がちがうね﹂
﹁というか、これくらいなら自分でできるでしょうに﹂
伏見先輩は車椅子で日常生活を送っているが、足がぴくりとも動
かないわけではない。やろうと思えば自分の足で立つこともできる
355
し、ごくごくゆっくりとなら歩くこともできる。イスを移るくらい
なら、こういう補助も必要はないのだ。でも、逆に言えば、その程
度しかできないのである。
﹁役得役得。お互いにね﹂
まぁ、女の子に抱きつかれ、腰に手を回しているのだから、そう
と言えなくもないか。
そうしてから僕はようやく槙坂先輩へと向き直った。
﹁こんにちは、藤間くん﹂
﹁⋮⋮﹂
普段通りの挨拶に添えられた微笑を見て、僕は何も言葉を返せな
くなる。
ああ、この笑みは﹃槙坂涼﹄のものだ。彼女が﹃槙坂涼﹄を演じ
るときに浮かべる微笑み。普通のやつなら、これで心を鷲掴みにさ
れるのだろう。それほどたおやかで淑やかで魅力的な微笑だ。だが、
本当の彼女を知る僕は、もっと別のものに心を締めつけられる。⋮
⋮僕に、そんなふうに笑うな。
だが、この程度で怯んではいられない。
﹁⋮⋮話がある﹂
﹁そう。でも、わたしにはないわ﹂
すっ、と槙坂先輩の顔から表情が消え︱︱その口から紡ぎ出され
た返事は、実にあっさりしたものだった。
﹁あ、あのさ、涼さん。そう言わずに聞いてあげたら?﹂
まるで睨み合うようにして対峙する僕と槙坂先輩の間に、狼狽し
た様子の伏見先輩が割って入る。当然ながら、彼女も今の僕たちが
どうなっているかは知っているだろうし、気を遣ったのかもしれな
い。
槙坂先輩はため息をひとつ吐く。
﹁どうぞ。⋮⋮ここで話せるような内容なら、だけど﹂
﹁⋮⋮﹂
周りを見れば伏見先輩をはじめとして、幾人かの生徒がこちらの
356
動向を窺っていた。確かに人目の多いところでするような話ではな
いかもしれない。︱︱が、かまうものか。
﹁僕の留学の件だ﹂
僕は切り出した。
最初に反応したのは、そばにいた伏見先輩だった。﹁え、留学!
?﹂と、車椅子の上で体を跳ねさせる。それを皮切りにほかの生徒
もざわつきはじめた。﹁留学?﹂﹁藤間君って留学するの? すご
ーい﹂﹁じゃあ、槙坂さんと彼って⋮⋮?﹂。
﹁それはもう終わった話ね﹂
周囲のざわめきをよそに、槙坂先輩は静かに言い放つ。⋮⋮やは
りもとより聞く気はないようだ。まぁ、想定の範囲内か。
﹁大事な話なんだ。逃げずに聞いてほしい﹂
﹁逃げる?﹂
途端、槙坂先輩の表情が一変する。
﹁逃げてるのはどっちよ!? いつもいつも手を伸ばせば逃げてば
かりで。今度は本当に手の届かないところに行ってしまおうと言う
の!?﹂
両手で机を叩き、立ち上がった。
﹁仕方ないだろう。僕にはアメリカでやりたいことがあるんだ﹂
﹁だったら、なぜそれをもっと早く自分の口で言ってくれなかった
の!? 大事な話なのよね!?﹂
﹁それは悪かったと思ってるさ﹂
切谷さんの口から伝わってしまったのは不慮の事態だったとして
も、ずるずると先延ばしにしたのは僕の悪手だった。そこは責めら
れても仕方のないことだろう。
﹁勝手なことばかり言って﹂
槙坂先輩は鼻で嘲り笑う。
﹁わたし今、藤間くんのことがきらいよ﹂
357
﹁っ!?﹂
思わぬひと言に絶句する僕に、槙坂先輩はここぞとばかりにまく
し立ててくる。
﹁あなたの笑顔が不愉快! わたしだけのものじゃないどころか、
わたしにだけ笑ってくれない!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁優しいところがきらい! 誰にでも優しくして。さっきだってそ
う。唯子にはあんなことも自然にできるのに、わたしには甘い言葉
のひとつもないわ﹂
それを聞いた伏見先輩が﹁あちゃー﹂と天を仰いだ。いや、たぶ
ん伏見先輩は悪くない。まぁ、間が悪かったのは確かだが。
﹁それにすぐに女の子と仲よくなるところもきらいよ。唯子に加々
宮さんに切谷さん。この前は別の女の子とも仲よく顔を寄せ合って
いたわ﹂
最後のは瀬良さんのことだろう。その場では無視していても、し
っかり頭にはとどめていたらしい。
ヒートアップしていく槙坂先輩とは逆に、僕は冷静になっていく。
冷静ついでに︱︱改めて聞くとひどいやつだな。何だその男のクズ。
どこのジゴロだ。
﹁バカバカしい。まさか槙坂涼ともあろうものが、そんなわかりや
すいものを求めていたわけじゃないだろう﹂
﹁当たり前よ。そんなものもう間に合ってるわ﹂
だろうな。下心からであれ、槙坂涼の人徳のなせる業であれ、彼
女に笑顔を投げかけ、優しくする人間はごまんといる。
﹁だったらなぜ言う﹂
﹁言いたくなることもあるわ﹂
まるで八つ当たりだな。
とは言え、きっと言わせてしまったのは僕なのだろう。
﹁そうか。あなたが僕を嫌いと言うなら、僕も言わせてもらおう。
⋮⋮僕はあなたが好きだ﹂
358
﹁え⋮⋮?﹂
槙坂先輩の口から小さな声がもれた。
彼女の頬がかすかに赤くなり、目も居心地悪そうにわずかに泳い
でいた。ずいぶんと珍しい反応だ。尤も、言った僕も恥ずかしくて
︱︱おかげで互いにこうして次に口にすべき言葉を見失ってしまっ
ているのだが。
﹁⋮⋮言いたくなることもある﹂
その沈黙を埋めるように、僕はようやくの思いで発音した。
槙坂先輩がはっと我に返る。
﹁じゃあ、どうしてつれていくって言ってくれないの!?﹂
どうやら先のひと言は槙坂先輩の神経を逆撫でしてしまったらし
い。彼女の語気がまた荒くなる。怒って照れて、また怒って。忙し
いことだ。そして、らしくない。
﹁わたしは前に聞いたわ。つれていってって。でも、あなたは⋮⋮
っ﹂
﹁⋮⋮﹂
そうだ。確かに聞かれた。明慧大の図書館で、﹁わたしもアメリ
カにつれていってくれる?﹂と。冗談めかせて。でも、彼女は本気
だったのだ。それに対し僕は、ろくに考えることもせずに拒絶した。
今にして思えば、あれが決定的な決裂の瞬間だったのだろう。
それでも、
﹁それでも僕の答えは変わらない。︱︱無茶を言わないでくれ。今
の僕にそんな覚悟ができるわけがないだろう﹂
そして、おそらく今のらしくない彼女も、本音を吐いているのだ。
﹁いいわ。なら勝手についていくから﹂
﹁勝手に決めてくれるな。それこそ勝手な話だ。人に言えた義理か
よ﹂
再び僕たちは睨み合う。
本当に勝手だ。それでこそ槙坂涼と言うべきか。
しかし、それなら僕にも考えがある。
359
﹁やれるものならやってみればいいさ。そこまで勝手なら勝手を貫
けばいい﹂
﹁いいのね?﹂
﹁ああ﹂
挑戦的に問い返してくる彼女に、僕はうなずく。
一年﹂
﹁だけど、僕はそんなことをさせるつもりはないよ。勝手について
こられるなんてたまったものじゃない。⋮⋮だから︱︱
僕はそこで言葉を切った。
一拍。
その一拍で次の台詞を吐く覚悟を決める。
﹁僕が卒業するまでの残り一年で、僕は覚悟を決めてみせる。あな
たを一緒につれていく覚悟だ﹂
槙坂先輩が目を丸くする。
﹁それでもし僕にそれができなかったら、そのときは槙坂先輩の勝
手にすればいい﹂
﹁⋮⋮﹂
まだ固まったままの槙坂先輩。
やがて彼女は、ぷっ、と噴き出し︱︱腹を抱えて笑い出した。そ
の様子は可笑しくて可笑しくてたまらないと言わんばかりで、僕は
もちろんのこと、周りにいた生徒も呆気にとられる。誰もこんな槙
坂涼は見たことがないに違いない。
そして、そこからはあっという間の出来事。
﹁それでこそ藤間くんだわ﹂
どこか誇らしげにそう言うと、彼女はいきなり唇を重ねてきた。
衆人環視の中でのキス。
僕はいったい何が起こったのかわからず、頭の中が真っ白になっ
た。
周囲の﹁えっ?﹂や﹁あっ!﹂の驚きの声に混じり、﹁きゃー!﹂
360
といった歓声にも似た声も上がったが、それらもどこか遠くのもの
のように聞こえる。
やがて顔が離れ︱︱彼女はいたずらっぽくも艶めかしく、舌で唇
を舐めた。
そこでようやく僕は現実を取り戻す。
﹁こんなところで何を!?﹂
﹁そうね。じゃあ、外に出ましょう﹂
僕の文句などどこ吹く風で、テキストやノートを手に取ると、槙
坂先輩は颯爽と教室の出入り口へと歩き出した。僕がついていくこ
とをまるで疑いもせずに。おとなしく従うのも癪なのだが、しかし、
この場に残ったところで針のむしろは必至なので、僕は逃げるよう
にして足早に彼女の後を追った。
槙坂先輩と中庭を歩く。
﹁まったく。これで学校にきにくくなった﹂
﹁そう? わたしは平気よ﹂
まぁ、そうだろうな。そうじゃないと﹃槙坂涼﹄なんてやってら
れないに違いない。
僕も登校拒否するわけにもいかないだろう。逃げれば逃げるほど
出ていけなくなるパターンだ。先ほどの授業をとっていないのだけ
が救いか。
﹁本当、あなたは天邪鬼ね﹂
﹁何のことだ?﹂
と聞き返してみたところで、心当たりがありすぎる。そして、今
に限って言えば、どのことかは明々白々だ。
﹁さっきのことよ﹂
﹁⋮⋮﹂
それしかないだろうな。
﹁だってそうでしょう? 藤間くんがわたしをつれていくにせよ、
わたしが勝手についていくにせよ、結果は同じだもの﹂
361
﹁だが、僕の矜持の問題が残る﹂
勝手についてこられるというのもそれはそれで男冥利に尽きるの
かもしれないが、僕としては立つ瀬がないのである。
それはさておき。
﹁さて、これからどうするか⋮⋮﹂
覚悟を決める覚悟はできたが、覚悟だけではどうにもならないこ
ともある。現実的なことも考えなければな。
﹁どうにかなるわ﹂
﹁簡単に言ってくれる﹂
と、そこで不意に槙坂先輩は、一見して関係ないと思えるような
話を振ってきた。
﹁藤間くん、1450年は何の年だったかしら?﹂
﹁1450年? ずいぶんと曖昧な問題だな﹂
歴史の教科書を開けばいろいろと出てきそうだが、ほかでもない
僕に出した問題であることを考えればおのずと答えは見えてくる。
﹁グーテンベルクの活版印刷?﹂
﹁正解﹂
出来のよい弟を褒める姉のように彼女は言う。
図書館史はヨハネス・グーテンベルクの活版印刷を抜きにして語
ることはできない。書物の大量生産を可能にした革新的な技術がこ
の活版印刷で、火薬、羅針盤とともにヨーロッパに変革をもたらし
た三大発明のひとつとされている。
その最初期に印刷された聖書は、﹃グーテンベルク聖書﹄﹃四十
二行聖書﹄と呼ばれ、世界大百科事典には次のように記されている。
﹃それはゴシック書体の傑作であるうえ、いずれの点からみても非
のうちどころのない、活版印刷最初の本であり、人はその語間から
発する精神に読む以前すでに打たれたという﹄
僕はいくつかの書籍のカラー口絵でしか見たことがないが、美し
362
い書体と五百年以上たってなお色鮮やかな装飾は、百科事典にそう
書かれるだけのことはあると万人が認めることだろう。
グーテンベルク聖書の印刷部数は百六十∼百八十で、現存してい
るものは四十八部のみ。それらは世界中の大学図書館や博物館で厳
重に保管されている。
日本にも一冊、慶應義塾大学の図書館に所蔵がある。1987年
に競売に出され、丸善が八億円弱で落札したものだ。本来、グーテ
ンベルク聖書は上下二巻なのだが、これには上巻しかない。しかし、
それでも現存するグーテンベルク聖書の中で最も美しいものの一冊
とされているのだ。
﹁知ってる? グーテンベルクは1450年よりも以前に印刷技術
を完成させていたの。でも、すぐに世に出すことを躊躇った。これ
によって悪書が粗製濫造されることを心配したのね﹂
﹁それは知らなかったな﹂
図書館史には当然興味はあるのだが、あまり人物背景には目を向
けたことはなかった。
﹁どこでそんな知識を?﹂
﹁もちろん図書館よ。言ったでしょう? 最近わたしも図書館で調
べものをするって。グーテンベルクのことを調べようと思ったのは、
藤間くんが興味をもつものにわたしも惹かれたからかしらね﹂
そう言って槙坂先輩は苦笑した。
再び話を戻す。
︵Que
﹁結局、グーテンベルクは数年考えて世に送り出した。どうにかな
る、そんなに考えることじゃない、って﹂
﹁まさかそれが結論か?﹂
﹁ええ﹂
自信満々でうなずく槙坂先輩。
La
Vie=人生そんなもの︶といったと
Sera=なるようになる︶かよ。僕としてはセ・
希望的観測。楽観論。オプティミズム。ケ・セラセラ
Sera,
ラヴィ︵C'est
363
ころなんだがな。
﹁心の持ちようでどうにかなる問題じゃないよ﹂
尤も、それについては僕にも言える話ではある。
校舎に囲まれた中庭の小道は、校舎同士をつなぐ連絡通路の役割
を果たしていて、休み時間ともなると教室の移動のために多くの生
徒が行き来する。皆が皆ここを通るわけではないが、それでもこう
して歩いているとたくさんの生徒とすれ違う。そして、その中の何
人かは並んで歩く僕と槙坂先輩を目で追うようにしながら通り過ぎ
ていった。どうやら久方ぶりのふたり一緒の姿が目を引くようだ。
今でこれなのだ。先の一件が広まるのかと思うと頭が痛くなる。
﹁そうね。わたしも藤間くんと同じように留学するのがいちばん現
実的な手じゃないかしら。ひとまず日本の大学に進んで、その後で
海外でやりたいことができたとでも言えばいいわ﹂
﹁それでいいのかよ。家の人は?﹂
﹁うちは放任主義だから。ほら、たびたび外泊しても何も言わない
でしょう?﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
うなずく僕の声が自然と苦々しいものになる。人の家をセカンド
ハウスにしないでもらいたい。
﹁それでも世間体は気にするし、案外ブランド志向だから、成績優
秀、眉目秀麗な娘がアメリカに留学するとなったら、きっと諸手を
上げて喜ぶわ﹂
自分で言うかよとも思うが、それが僕の前での槙坂先輩であり、
まったくもってその通りなのだから困ったものである。
﹁後で男の子と駆け落ち同然の留学だと知ったらどんな顔をするや
ら見てみたいところではあるけど、向こうで知り合った男の子と一
緒になった、くらいにしておきましょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
親もまさか娘がこんな神算鬼謀、怜悧狡猾な少女だったとは思う
まい。
364
それにしても、親を試すような彼女の言動に正直驚かされた。槙
坂先輩なら家に帰っても絵に描いたような仲のよい母娘、円満家庭
だと思っていたのだが、意外とそうでもないのかもしれない。それ
とも放任主義というところに、彼女自身にも無自覚な不満があるの
か。⋮⋮まぁ、僕が詮索するようなことではないな。
﹁考える時間なら十分にあるわ﹂
﹁そうだな﹂
僕が卒業するまで残り一年。それ以降の僕らのことを決めるのに、
一年という時間は長いのか短いのか。
﹁朝までじっくり話し合いましょう?﹂
﹁そっちじゃねぇよ﹂
しかし、槙坂先輩にとってはあながち冗談でもなかったようで︱
︱彼女はまるで行く手を遮るようにして素早く僕の前に回り込んだ。
こちらが思わず足を止めたところで、僕のネクタイに手を伸ばして
くる。
そうして器用にもテキストを小脇にはさんだままでネクタイを整
えながら、諭すように言うのだった。
﹁あのね藤間くん、一度は捨てようとした彼女が戻ってきたのよ?
それなりの態度というものを示しましょうね?﹂
﹁⋮⋮﹂
どっちが捨てただの見限っただのは、この際問うまい。少なくと
も、悪いのは僕であることだけははっきりしているのだから。
﹁⋮⋮悪かったと思ってる﹂
﹁そう。じゃあ、しっかり行動で証明してもらうことにするわ。⋮
⋮もちろん、優しくなんてしなくてもいいわよ﹂
槙坂涼は笑う。
例の小悪魔めいた笑みで。
僕は内心の動揺を悟られまいと、顔を逸らす。と、丁度そこに通
りかかった男子生徒に舌打ちされてしまった。往来の真ん中でこん
なことをしているのだから当然か。
365
僕はネクタイが直った頃合いを見計らい︱︱というか、ほってお
くといつまでも触っているので、槙坂先輩の手をやわらかく払いの
け、歩き出した。
彼女がくすりと笑ったのが聞こえた。
﹁わたし、藤間くんと一緒になってよかったわ﹂
追いついてきて横に並んだ槙坂先輩が言う。
﹁まさか日本を飛び出すことになるなんて。きっとこの先ずっと退
屈しないわ。藤間くんもそう思うでしょう?﹂
ああ、そうだ。彼女はこういう性格だった。︱︱槙坂涼は何より
も退屈を好まない。
メフィストフェレス
ならば、退屈と平和と本を愛する一介の高校生である僕はこう答
えよう。
﹁まさか。ないね。ファウスト博士じゃあるまいし、僕には悪魔と
契約する趣味はないよ﹂
﹁もぅ⋮⋮﹂
僕の返事がお気に召さなかったようだ。
僕は槙坂先輩とは違う。退屈な日常を好み、その退屈の中に時々
スパイス程度に面白いことがあればいいのだ。でも、彼女はそのス
パイスにしては少々強すぎる。
﹁それで、あなたの本音は?﹂
﹁ま、最悪、僕が迎えにいくさ﹂
﹁⋮⋮天邪鬼﹂
彼女は呆れた調子で苦笑する。
そもそも、槙坂先輩が留学を反対されるかもしれないし、彼女を
つれていくという僕の覚悟が固まらないかもしれない。今ここで話
していることもこれから決めることも、きっと課題の多いものばか
りになることだろう。前途は多難だ。
それでも僕は、例え今は無理だったとしても、必ず彼女を迎えに
366
いこうと思う。
好みなんて変わるものだ。
読書の傾向がころころ変わるように。
恰好つけることに飽きるように。
どうやら僕はいつの間にか、退屈な毎日より刺激的な日々を好む
ようになっていたらしい。
強めのスパイスも悪くはない。
願わくば、いつまでも彼女の小悪魔のような微笑みが僕の隣にあ
りますように。
本編 −了−
367
キラキラ☆シューティング・スター2
加々宮きらりは少しばかり複雑な心境だった。
というのも、どうやら藤間真と槙坂涼がよりを戻したらしいのだ。
まぁ、尤も、どうにもうだうだしているふうのふたりを見かねて、
とりあえず藤間に発破をかけたのはほかならぬ自分なのだから、こ
の結果に文句を言う筋合いではない。
ただ、ちょっとだけ、このままもとの鞘に戻らなければ、自分に
さえぐさ・さえだ
もチャンスが回ってくるだろうかと、淡い期待をしただけだ。
その話は三枝小枝から聞いた。彼女は藤間本人からその結末を聞
き、心配かけたから今度何か買ってやる、とも言われたのだとか。
︵わたしには⋮⋮?︶
いや、何か買ってくれというのではなく、自分も心配していたの
だから、報告があってもいいのではないかと思うのだ。
すぐに別の生徒からもその話は耳に入ってきた。どうやら噂にな
っているらしい。それもそのはず。聞くところによると、多くの生
徒の前で盛大に痴話喧嘩をした挙げ句、キスまでしたらしい。なん
でそんなことになったのだか。いよいよ文句を言ってやりたいきら
りだった。
そんなもやもやした思いを抱えて、友達数人と昼休みの廊下を歩
いていると、なんとその噂の主役のひとり、槙坂涼と出くわした。
彼女は生徒指導室から出てくるところだった。先の噂について先
生に何か聞かれていたのだろうか。或いは、こんな時期だから進路
や志望校について相談していたのかもしれない。生徒指導室と言え
ばイメージは悪いが、実のところ進路指導室も兼ねているのである。
扉を閉めた槙坂が体をこちらに向ける。ロングの黒髪が美しい、
はっと息を飲むような美人だ。いつ見ても目を奪われる。
﹁ごめん。みんな、先に行ってて﹂
368
言うなり、きらりは小走りに駆け出した。
槙坂の前に立ち塞がる。
もうこうなったら藤間でなくてもいい。彼女に文句を言ってやろ
う。そう思ったのだ。しかし、ふたりを知る人間がこの場にいたな
ら、こう思ったことだろう。⋮⋮よせばいいのに。
﹁あら、加々宮さん﹂
﹁こんにちは、槙坂さん。⋮⋮ちょっといいですか﹂
同性をも魅了する笑みの槙坂に、やや緊張の面持ちで切り出すき
らり。
﹁ええ、いいわよ﹂
すると槙坂はその笑みの質を変え︱︱まるで挑戦を受ける王者の
貫録で快諾したのだった。
ふたりは場所を変えた。
特別教室の集まる一角。ここなら人通りが少ない。
﹁真先輩と仲直りしたんですね﹂
﹁ええ、おかげさまで﹂
果たして、その﹁おかげさまで﹂はただの受け答えの決まり文句
としてか。それとも、きらりが藤間の尻を引っ叩いた経緯を知って
のことか。
何にせよ、その余裕が気に喰わない。
とは言え、よりを戻したことを大喜びされたり、自分に感謝する
槙坂涼というのも何か違う気がして、それはそれで馬鹿にされたよ
うな気がするだろうが。
﹁そう言えば、槙坂さん、わたしに嘘つきましたよね?﹂
﹁あら、どれのことかしら?﹂
どれ、とはどういうことだろうか? まさかひとつではないのだ
ろうか?
﹁お風呂の話です。一緒に入ったなんて嘘じゃないですか。真先輩
言ってましたよ。そんなの知らないって﹂
369
﹁ああ、あれ﹂
と、合点がいったように、槙坂。
﹁嘘は言ってないわよ。ちょっと説明が足りなかっただけで﹂
﹁?﹂
﹁ほら、あなたも藤間くんにつれていってもらったでしょう? ウ
ォーターワールド。あそこのお風呂に一緒に入ったの﹂
夏に小枝とともに藤間につれていってもらったウォーターワール
ド﹃バシャーン﹄には、屋内施設上層階に大浴場があるが、
﹁み、水着を着てるじゃないですかっ﹂
その通り。﹁水着で入れる大浴場﹂が謳い文句であり、当然なが
ら男女の区別はない。
﹁でも、嘘は言ってないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに嘘は言っていない。だが、釈然としないものが残るのは確
かだ。
﹁あ、そうそう。この前、藤間くんの部屋に泊まりにいったの﹂
﹁と、泊まりにいったんですか!?﹂
﹁何を驚くことがあるの? 仲直りをしたのよ。次はお互いの気持
ちを確かめ合う行為がくるのは当然でしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
当然、なのだろうか? そのあたりよくわからないが、仮に当然
だとしても、さっそくすぎないだろうか?
﹁そのときに一緒にお風呂に入ったわよ﹂
﹁っ!?﹂
思わず絶句するきらり。
だが、ついさっき意図的にミスリードしていたことを悪びれる様
子もなく白状したばかりなのだ。これも嘘という可能性はおおいに
ある。
﹁ま、また水着を着てたっていうオチじゃないでしょうね?﹂
もう騙されないぞという思いで問う。
370
﹁あら、正解。よくわかったわね﹂
﹁え⋮⋮﹂
意外にも槙坂はあっさりとそれを認めた。本当にそんなオチだっ
たらしい。だが、それはそれですごくはないだろうか。きらりも藤
間の部屋には、勉強会からのお泊り会で、足を踏み入れたことがあ
り、バスルームも知っている。
高級タワーマンションで、バスルームもふたり一緒に入れるくら
いに広いが、しょせんはバスルーム。密着しないまでも、手を伸ば
せば届く距離。そこに槙坂が水着でいるのだ。
﹁因みに、白のビキニだったわ﹂
﹁前に言ってたやつですか?﹂
ウォーターワールドに行ったときはそうだったと聞いている。
﹁まさか。同じものだと藤間くんだって飽きてしまうわ﹂
﹁あ、飽きる⋮⋮?﹂
飽きさせてはいけないだろうか。
自分が行ったときは、ピンクのボーダー柄のビキニだった。次に
行くときは違うものにしたほうがいいのかもしれない。いや、でき
れば来年にはその水着も少しきつくなっていてほしいのは確かだが。
特にトップスが。
﹁具体的に言うと、トップスは胸が大胆に開いていて、ボトムはス
トリングでなかなかのハイカットよ﹂
﹁ひいっ﹂
覆わずきらりは悲鳴を上げる。なんだその全身凶器。
﹁そ、そんな恰好してたら、真先輩が、その⋮⋮﹂
きらりは言葉にするのを躊躇う。
要するに、藤間が変な気を起こして、お風呂どころではなくなる
のではないか、ということである。
﹁ええ、もちろん、そうなったわ﹂
﹁えっ!?﹂
あっけらかんとして言った槙坂の返事に、きらりは驚きの声を上
371
げた。
﹁言ったでしょう。お互いの気持ちを確かめ合う行為だって。最初
からそのつもりでお風呂に入ったし、水着はそれを盛り上げるため
のツールね﹂
﹁そ、それでどんなことを⋮⋮?﹂
﹁そうね︱︱﹂
と、槙坂は妖艶な笑みを浮かべながら、きらりへと一歩近づいて
きた。ただならぬ空気を察し、思わず詰められた距離だけ下がる。
が、背中が廊下の窓に当たった。
﹁わたしが彼の膝の上に座るようにして向かい合って⋮⋮まずはキ
スね﹂
槙坂は密着一歩手前まできらりに身を寄せ、語りはじめる。
﹁キス⋮⋮﹂
﹁ええ。キスは性的興奮を高めるけど、それ以上にやっぱりムード
は大切だもの。その点、藤間くんはそこを大切にしてくれるわ。だ
から、いつも最初はキスから﹂
﹁さ、さすが真先輩⋮⋮﹂
当人の知らないところで、実に不本意であろう部分で、藤間が株
を上げた瞬間だった。
﹁そうしながら︱︱﹂
と、不意に槙坂はきらりの胸︱︱残念ながら、まだ年相応で、で
も、自分では将来有望だと思っている︱︱の上に掌を置いた。
﹁ななな、何を⋮⋮!?﹂
﹁こうして胸に触れてくるの。すごく優しく丁寧な感じ。だけど、
キスをしながらだとゾクゾクするのよ﹂
﹁そ、そうなんですね⋮⋮﹂
まだキスの経験すらないきらりにはわからない感覚だが、憧れに
も似た気持ちで感心してしまう。
﹁でも、次第にそれだけじゃ物足りなくなってくるの。そうしたら
まるでそれをわかっているかのように、するっと︱︱﹂
372
その言葉通り、するっ、と、
﹁彼の手がブラの中に入ってくるの﹂
﹁ふぁっ!?﹂
槙坂の手がきらりのブレザーの内側へと忍び込んできた。
しなやかな指の一本がブラウスの上をカリカリと軽く引っ掻く。
ブラのカップ越しのせいか、くすぐったいような、妙な感覚だ。こ
の動きは何を意味するのだろうか?
﹁それもやっぱりキスをしながら⋮⋮?﹂
きらりは力が抜けそうになるのを堪えつつ、聞く。
﹁ううん﹂
槙坂は首を横に振った。
﹁だって、声が出ちゃって、キスどころじゃないもの﹂
﹁こ、声!?﹂
﹁そう、声。知ってる? バスルームだと声が響いちゃって、すご
く恥ずかしいのよ﹂
槙坂がきらりに優しくおしえる。
﹁でも、そういうのが気持ちを高ぶらせるの。恥ずかしいとか優し
くないとか、いじわるなことを言われるとか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁わからない? あなたもいずれわかるようになるわ﹂
槙坂は大人びた笑みで、諭すように言う。
﹁そ、それで次は⋮⋮?﹂
きらりは熱に浮かされたような赤い顔で、話の続きを求めた。
﹁次は⋮⋮どうすると思う? ブラを脱がす? はずれ。言ったで
しょう、水着は盛り上げるためのツールだって。脱いでしまったら
もったいないわ﹂
そう言うと槙坂は、ブレザーの内側にある手を上方へとスライド
させた。まるで優しく脱がせるみたいにして、ブレザーの肩のあた
りをはだけさせる。
﹁こうやって半分だけ脱がされるの﹂
373
﹁そ、そんなことしたら見えちゃうんじゃ⋮⋮?﹂
今していること、これからしようとすることを考えれば、これほ
ど的外れな心配もないのだが、槙坂はくすりと笑う。
﹁ええ、見られちゃうわね。あなたも経験ない? 男の子が自分の
どこを見てるかわかってしまうことって﹂
﹁⋮⋮ありますね﹂
得てして女は異性のそういう視線に鋭いものだ。当然きらりにも
経験がある。ふとももを見てるとか揺れるスカートが気になってる
とか、いま胸をスルーしやがったとか。
﹁こういうときってね、敏感になってるから、見られてるだけで感
じるの。ちくちくするような、くすぐったい感じね。指でいたずら
されてるみたい﹂
﹁か、感⋮⋮っ﹂
﹁そこで藤間くんは、おもむろにわたしの腰に手を回して、ぐっと
自分のほうに⋮⋮って、あら?﹂
槙坂の言葉が途切れる。きらりが立ったまま目を回して、頭をふ
らふらさせていたからだ。どうやらここにきてついに直接的な表現
が出たせいで、オーバーヒートを起こしたらしい。﹁お、おふ、お
ふ、おふぅ⋮⋮﹂と意味不明な言葉をうわ言のように繰り返してい
る。
﹁もう限界? 他愛もないわね﹂
そんな彼女を見て、槙坂は呆れたように肩をすくめた。
﹁まぁ、いいわ。わたしもありもしないことを言ってて虚しくなっ
てきたところだったし﹂
どうやら創作だったらしい。
しかし、熱暴走を起こしたきらりには、その言葉は届いていなか
った。
その夜、
藤間のもとに加々宮きらりから電話がかかってきた。
374
正直、嫌な予感しかしないのだが、しかし、それでも出ることに
する。
﹁もしもし?﹂
﹃せ、先輩が必死でよりを戻そうとした理由がわかりました。ドン
引きですっ﹄
﹁⋮⋮﹂
いきなり何なのだろうか。ドン引きはこちらのほうである。
﹃それに危うく新しい人間関係ができてしまうところだったんです
からねっ﹄
﹁それは悪いことじゃないだろう﹂
﹃お姉様なんていりませんよ!﹄
なぜか半泣きで言い返されてしまった。
そうか、僕はいきなりお妹様ができたが、そこそこ楽しんでいる
けどな。と、藤間は心中で思う。これは何の差だろうか。宗派の違
いか?
﹁さっきからさっぱり要領を得ないんだが。とりあえず理由を︱︱﹂
﹃言えるわけないじゃないですかっ。ばかー!﹄
そうして電話は切れた。
﹁おい、前と同じオチかよ⋮⋮﹂
藤間は誰への文句かわからない言葉をつぶやき、静かに携帯電話
を置いた。
375
クリスマスSS Ver.2015︵前書き︶
去年のクリスマスに書いたものです。
ただ、当時、本編が終盤の佳境に入っていて、こんなものを割り込
ませるわけにはいかなかったんですよね。
そんなわけで時季外れのアップとなりました。
376
クリスマスSS Ver.2015
12月24日。
﹃天使の演習﹄でささやかなクリスマスパーティをやるとのことで、
僕と槙坂先輩は店に招かれた。
﹁だって、常連さんですから﹂
と、キリカさん。
そんな彼女はイベントに合わせてサンタ風の衣装に身を包んでい
た。尤も、いつものジーンズにトレーナーといった普段着っぽいス
タイルの上に、一枚サンタカラーのものを着込んだだけだが。
そうか、僕たちはもう常連だったのか。槙坂先輩は個人的にキリ
カさんとつき合いがあるようだが、僕はそこまでのつもりはなかっ
た。
﹁常連ならほかにもいそうなものですが?﹂
﹁いるにはいますが、どうせ呼ぶなら同世代がいいですから﹂
そう言えば、普段はあまり意識していないが、歳が近いんだった
な。振り幅は四つ。上から順にすべてひとつ違いで、店長、キリカ
さん、槙坂先輩、僕、となる。
﹁でも、いいんですか、こんな日に﹂
今度は槙坂先輩が問う。
その疑問も当然だ。何せ今日は貸し切りなのだ。まぁ、そうは言
っても飾り付けなどをしてパーティ仕様にしているわけでもなく、
ただ単に閉めた店でコーヒーとケーキを楽しんでいるだけだが。
じゃあ、キリカさんのサンタの衣装は何のためなのだろうか。客
もいないのに。個人的にクリスマスを堪能しているだけか?
槙坂先輩とキリカさんはテーブル席で向かい合って座り、僕はカ
ウンタ席のハイチェアに腰かけている。店長はいつも通りカウンタ
の向こうだ。コーヒーは店長が淹れてくれたものだが、ケーキはど
377
こぞの高級店で買ってきたものらしい。
﹁大丈夫。だって、クリスマス・イブですよ? こんな小さなお店、
誰もきませんって﹂
と、笑って言うキリカさんだが︱︱いや、普通にきそうなんだけ
どな。そのクリスマス・イブに予定のない連中が、キリカさん目当
てで。何ならそこにいる槙坂先輩を臨時アルバイトとして雇って、
同じ衣装を着せてみたらどうだろうか。たぶん客が殺到するはずだ。
﹁そう言えば、おふたりは何か予定はなかったんですか?﹂
キリカさんにそう問われ、僕と槙坂先輩は顔を見合わせる。
﹁いちおうクリスマスだし、会ってどこかぶらぶらしようかとは言
ってたんですけど。でも、ほとんど何も決まってないようなものだ
ったので、呼んでもらえてよかったです﹂
﹁そうでしたか﹂
キリカさんは嬉しそうに笑う。
﹁そう言うキリカさんとマスターは?﹂
﹁うーん、お店も閉めて久しぶりに一緒にゆっくりできるし、夜に
なったらどこか食べにいこうかと⋮⋮﹂
﹁じゃあ、早めにお暇したほうがよさそうですね﹂
﹁そこまで気を遣わなくても大丈夫ですよ﹂
とは言え、時間無制限とはいくまい。そこそこのところでお開き
にしたほうがよさそうだ。もともとクリスマスパーティというより
は、お茶会や茶話会に近いものだし。
と、そこで店の電話が鳴った。少々懐かしさを感じる音で、この
店の雰囲気によく合っている。
反射的にキリカさんが腰を浮かしかけたが、電話機の近くにいた
店長が掌を見せて彼女の動きを制した。
﹁はい、﹃天使の演習﹄です﹂
店長自ら電話に出る。
﹁ああ、これは。ええ、店にいますよ。⋮⋮そうでしたか。では、
すぐに開けましょう﹂
378
Artの司さんでした。今店の外にいるそうで
短いやり取りの後、受話器が置かれる。
﹁誰だったの?﹂
﹁Tsukasa
す﹂
店長は答えながら出入り口に向かうと、内側から鍵を開けた。
﹁どうぞ﹂
﹁ごめんなさい。お休みのところ。でも、お店にいてくれてよかっ
たわ。うっかり休みだってこと忘れてここまできたのよね﹂
入ってきたのは、これまたすこぶる美人だった。長いハニーブラ
ウンの髪は、ボリュームを押さえるためか、左右非対称の位置でリ
ボンが結ばれていた。吸いこまれそうな深い色の大粒の瞳がとても
印象的だ。
後で聞いた話、彼女は現役の美大生で、この店の店頭にあるメニ
ューボードを描いてくれているのだそうだ。ここで頼まれたのをき
Artは屋号だろうな。
っかけに、依頼を受けてチョークアートを制作する仕事をはじめた
のだとか。とすると、Tsukasa
﹁今日はこれを持ってきたの﹂
そう言って司さんが肩から提げていた大きなキャンバスバッグを
Happy
New
Year﹄の文字を見る
テーブルの上に置くと、そこから取り出したのは新しいメニューボ
ードだった。﹃A
に新年仕様のようだ。
﹁ありがとうございます。⋮⋮今回のもいいですね。さっそく年明
けに使わせてもらいますよ﹂
﹁あ、そうだ。司さんも一緒にどうですか?﹂
ビジネスの話も早々にキリカさんが誘う。
これがクリスマスパーティに見えたかどうかは兎も角、少なくと
もコーヒーとケーキを誘われたことはわかっただろう。
﹁ええ、ぜひ⋮⋮と言いたいところだけど、これから旦那様とクリ
スマスデートなのよね﹂
そう断りつつも笑顔なのは、隠しきれない感情の表れか。よほど
379
この後の予定が楽しみなのだろう。
﹁あれ? 司さんってご結婚されてましたっけ?﹂
キリカさんが首を傾げる。
僕も驚いた。歳は店長やキリカさんと同じくらいに見えるのに、
すでに結婚しているのか。⋮⋮いや、まぁ、そのふたりからして結
婚しているのだが。
﹁いいえ、まだよ﹂
﹁じゃあ、婚約?﹂
﹁それもまだね。でも、今日あたりプロポーズしてくれるんじゃな
いかと思ってるわ。だから、正確には﹃未来の旦那様﹄ね﹂
すごい自信だな。それともそれだけのつき合いだということか。
とは言え、歳を考えれば、そこまで長いつき合いになるとも思えな
いのだが。
﹁出会って三年目の、初めてのクリスマスだもの﹂
そして、続く言葉が混乱に拍車をかける。計算がさっぱり合わな
いな。
﹁じゃあ、わたしはこれで失礼するわ。また新しいのができたら持
ってくるから﹂
そうして司さんは颯爽と去っていった。
夕方、まだ早い時間に﹃天使の演習﹄でのクリスマスパーティは
散会となり、僕と槙坂先輩は駅へと向かって歩いていた。暗くなる
までにはまだもう少しあるようだ。
﹁司さん、美人だったわね﹂
﹁そうだな﹂
槙坂先輩にとっても印象的だったのか、隣を歩く彼女はそんなこ
とを言ってくる
僕としてもあんな美人がプロポーズを待つ相手とはいったいどん
な男なのか、気になるところではある。やはり高身長、高学歴、高
収入の、いわゆる3高というやつだろうか。
380
﹁そういうときは﹃君のほうが美人だよ﹄くらい言ってほしいもの
ね﹂
﹁僕がそんなキャラかよ﹂
いったい僕に何を求めているのだろうな。
そんなことを言っているうちに、目の前に駅が見えてきた。
﹁これからどうするの?﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
キリカさんたちは食事で、司さんはデートだとか言っていたか。
﹁僕たちはこのまま帰るというのはどうだろうな﹂
﹁却下よ﹂
即答だった。
まぁ、僕とてこのまま解散するつもりはなく、ただ言ってみただ
けなのだが。
﹁今日は藤間くんに任せるわ。わたしはついていくだけ﹂
そう言いながら彼女はパスケースを取り出した。
﹁早く決めないと家までついていくわよ?﹂
﹁安心してくれ。それはさっき却下されたばかりだからね。意地で
も何か考えるさ﹂
店長や﹃未来の旦那様﹄に負けないようにしないとな。
ひとまず母に電話して、展望レストランの状況を確認してみるか。
381
第一話
時間は遡って、これは夏休みの話。
﹁さて、約束は守らないとな﹂
と言っても、槙坂先輩をどこか遊びに誘うとか、夜の電話やおは
ようおやすみのメールではなく、別の件である。
言ったことには責任をもつし、約束は守る。
まぁ、嘘も吐くが。
そんなわけでイギリス旅行の詳しい話を詰めようと、ある日の昼
食後、僕は槙坂涼にメールを送った。
﹃話がある。﹄
返事はすぐに返ってきた。
短くこうである。
﹃話ならせめて電話でしない?﹄
﹁⋮⋮﹂
それもそうか。
正確には話自体は直接会ってからするつもりで、メールは彼女を
呼び出すためのものだった。確かにすぐ読むとは限らないメールで
会う約束を取りつけるというのもおかしな話だが、そこは単に僕が
今日でも明日でもいいと思っていただけのことである。
僕は改めて電話をかけた。
﹃はい、槙坂です﹄
ワンコールと待たずに彼女は出た。いつものことながら電話での
382
槙坂先輩はどことなく丁寧だ。
﹁僕だ。話があるので今から会えるだろうか?﹂
﹃あら、どんな話かしら?﹄
僕があまり自分から電話したりメールを送ったりしないせいだろ
うか、槙坂先輩の声には期待の色が窺えた。
﹁実は別れ話なんだ﹂
﹃それは大変ね。﹁天使の演習﹂でいい?﹄
その期待を叩き潰すつもりでくだらないことを言ってみたのだが、
彼女の反応は実に見事なものだった。驚きもしなければ疑うわけで
もなく、ただくすくすと笑うだけ。さすがである。まぁ、僕もこの
程度で槙坂先輩がありきたりの反応をするとは思っていなかったが。
﹃じゃあ、駅前で待ってるわ﹄
﹁⋮⋮ああ﹂
と、こうして会う約束もまとまり、電話を切ったのだが、
﹁どうも僕ひとりで踊ってるような気がしてならないな﹂
自分で自分に呆れてしまうのだった。
無難に黒のデニムにプリントTシャツという姿で外に出る。
おそらく今が一日で最も暑い時間帯だろう。遠慮ない陽射しは肌
に痛いほどだが、それ以上に高温多湿の日本の夏は気持ちにくる。
うんざりするような暑さとはよく言ったものだ。
しかし、これも駅に着くまでと思い、我慢する。
徒歩五分という立地条件が幸いし、暑さに心身が消耗する前に駅
に着いた。乗車カードを改札機にかざし、改札を通る。通学に使っ
ている定期券もあるが、今回は逆方向なので意味はない。
ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗った。
冷房の効いた車内でほっとひと息ついたのも束の間、ふた駅ほど
いったところで僕はまた外に放り出される。
駅の改札を出たところで、槙坂先輩がすでに待っていた。
今日の彼女は水色のワンピース姿だった。セーラーカラーっぽい
383
ラインが入っているせいで、見た瞬間、海を連想した。足もとは素
足にミュール。そして、肩にはトートバッグを提げていた。
槙坂先輩も僕を見つけ、にこりと笑う。
﹁こんにちは、藤間くん﹂
﹁どーも﹂
行き場所が決まっていたこともあり、僕たちはさっそく歩き出し
た。向かうは駅前の賑やかなところではなく、住宅街のほうだ。
﹁今日も暑いわね﹂
そう言う槙坂先輩は、言葉のわりには爽やかで涼しげだ。
﹁悪い。こんな暑い日に呼び出して﹂
﹁気にしないで。夏なんだもの、暑いに決まってるわ﹂
確かに彼女の言う通りではある。暑いからといって呼び出すのを
躊躇っていると、夏休みが終わってしまう。
﹁こう暑いとプールに︱︱﹂
﹁断る﹂
ほぼ反射的に、僕は槙坂先輩の台詞を遮って拒否の言葉を口にし
ていた
﹁あのね藤間くん、人の話は最後まで聞きましょうね?﹂
﹁聞かなくてもだいたいわかる。なら無駄な行程は省くべきだ﹂
時代はエコである。特に夏の今は省エネが声高に叫ばれているこ
とだし。
槙坂先輩は﹁もぅ﹂と呆れ調子。
しかし、すぐに次の話題を展開する。
﹁プールと言えば、サエちゃんはどうだった? この前、一緒につ
れていってあげられなかったけど﹂
﹁ああ、あいつな。後でその話をしたらむくれてたよ﹂
文句ならばぜひ企画立案の美沙希先輩に言ってもらいたい。スケ
ジュールにはもっと余裕を見ておくべきだと。
﹁こえだは、まぁ、また改めてつれていってやるさ﹂
別にプールじゃなくてもいいし。とりあえず、何かで埋め合わせ
384
はしてやらないとな。
﹁サエちゃんは平気なのね﹂
﹁あいつは凹凸が少なくて目に優しいからね﹂
それに比べて槙坂先輩の目の毒なこと。
﹁いくらサエちゃんでも怒るわよ、その言い方﹂
﹁⋮⋮前言を撤回して言い直すなら︱︱かわいい後輩だから、とい
うところだろうな﹂
こえだに甘いのは自覚しているのである。
﹁美人の先輩にもそうあってほしいものね﹂
﹁前にも思ったが︱︱それを自分で言うかよ﹂
﹁仕方ないわ。周りが求める﹃槙坂涼﹄を演じているうちにそうな
ってしまったんだもの。﹃自他﹄の﹃自﹄の部分で否定しても、﹃
他﹄が認めるでしょうし﹂
槙坂先輩は堂々とそんなことを言ってのけるのだった。
容姿なんて大半が生まれ持った素養だと思うが、その一方で努力
した部分もあるのだろうとも思う。所作や立ち居振る舞いといった
美人が台無し
なんてこともよくある話だ。
ものも﹃美人﹄を構成する重要な要素となり得るに違いない。逆に
そのあたりが残念で
案外、美沙希先輩もこの部類ではないかと思う。
﹁自分でもバカなことをやっていると思ったことがあるわ。でも、
おかげで藤間くんがつれて歩いても恥ずかしくない女の子になれた
わ﹂
﹁むしろ僕が役者不足だけどね﹂
自分磨きに張り切り過ぎだ。完全にオーバーキル。いったいどん
な男なら彼女に釣り合うというのか。尤も、それだけ周りが槙坂涼
に高い理想を求め、彼女もそれに応えてしまったということなのか
もしれないが。
﹁大丈夫よ。藤間くんなら﹃槙坂涼﹄に相応しいわ。それにわたし
は好きになった相手なら、どんな男の子でもそばにいて恥ずかしい
と思ったりはしないわ﹂
385
そのあたりは僕も似たような考えか。好きになった異性への周り
の評価なんて知ったことではない。尤も、現状むしろ嫉妬されるほ
どで、その嫉妬をこそ知ったことではないと思っているのだが。⋮
⋮我ながらなかなか図太いな。確かに自分で自分のことを美人と言
ってしまう誰かさんに相応しいのかもしれない。
程なくして、﹃天使の演習﹄が見えてきた。
あの店に入ればこの暑さからも解放されるのだと思うと、少しほ
っとする。
ワンシーン
と、そのとき、店から年配の男性が出てきた。
﹁⋮⋮﹂
どこにでもある風景。
だが、なぜだろうか、僕はそこにかすかな違和感を覚えた。
その男性と入れ違うようにして、僕と槙坂先輩は店に入る。ドア
を押し開けると、店長が拘ったというドアベルが心地よい音色を奏
でた。
﹁いらっしゃいませー﹂
そして、そのベルと同じくらい旋律的で涼やかな発音が僕らを迎
えてくれる。店長夫人︱︱キリカさんの声だ。
店内を見渡して、僕は軽く驚いた。
席の八割くらいがすでに埋まっていたのだ。ここまで盛況なのは
初めてではないだろうか。先ほどの違和感も、店から人が出てくる
という光景を初めて見たことに起因するものなのだろう。
﹁あ、槙坂さんに藤間くん、いらっしゃい。えっと⋮⋮テーブル席
がひとつ空いてますね。あそこにどうぞ﹂
客の数に比例して忙しそうなキリカさんは、ほとんど通り過ぎる
ようにしながら席を案内してくれる。それでも笑顔を忘れないのは、
これが仕事だからというよりは彼女のひととなりによるものなのだ
ろうな。カウンタの向こうには店長がいるが、この人の眠そうな顔
386
は店がこんな様子でもいつも通りだった。
僕たちは案内された席に座った。これでもうテーブル席に空きは
ない。
﹁今日はまたずいぶんと混んでるな﹂
﹁ええ、そうね⋮⋮﹂
槙坂先輩もこの状況に少しばかり戸惑っているようだった。
やはり暑さのせいだろうか。節電には協力したいけど、クーラー
の類を切ると家の中が蒸し風呂になる。ということで、みんな涼し
くて、少なくとも我が家の電力は消費せずにすむ喫茶店に避難しに
きているのかもしれない。
すぐにキリカさんの手でお冷が運ばれてきた。互いにぶつかって
音を立てる透明な氷と、グラスに薄くついた水滴が、まずは気持ち
を涼しくしてくれる。
﹁今日もデートですか? 若いなぁ。羨ましい﹂
僕たちそれぞれの前にグラスを置きながら言う店長夫人。でも、
彼女は高校を出たばかりの大学一年生。槙坂先輩とひとつしか変わ
らないはずである。
﹁藤間くんに呼び出されたんです。別れ話だそうですよ﹂
﹁まぁ﹂
⋮⋮引っ張るなよ、その冗談を。
しかし、槙坂先輩のよけいなひと言にキリカさんは驚いてみせる
ものの、顔はあいかわらずの笑顔だった。電話での槙坂先輩もそう
だったが、本気だとは欠片も思われていないようだ。見事に聞き流
されている。果たして、僕の日ごろの行いがいいからか悪いからか。
﹁今日はどうします?﹂
﹁わたしはアイスのブレンドで﹂
﹁僕もそれでいいです﹂
僕も槙坂先輩も、メニューも見ずに注文した。
﹁今日はお客さんが多いですね﹂
槙坂先輩が、改めて店内を見回しながら言う。
387
﹁実は今日だけじゃなくて、最近ずっとこうなんです。みんな暑い
から涼しいところに逃げてくるのかもしれませんね﹂
と、キリカさんは苦笑。
﹁それにいつもなら母が手伝ってくれてるんですけど、今ちょっと
夏風邪で倒れてしまって。それでよけいに忙しいんです﹂
﹁すみませーん﹂
そこで男性客から声がかかった。
﹁はーい、今いきまーす。⋮⋮見ての通りです。じゃあ、ブレンド
ふたつ、できるだけ早く用意しますから。もう少し待っててくださ
いね﹂
そうしてキリカさんは離れていく。
なんというか、見るからに忙しそうだが楽しそうでもあった。
涼を求めて店にくる︱︱確かにそれも客が多い理由のひとつだろ
う。だけど、それ以上に彼女の存在も大きいのではないだろうか。
キリカさんも大学が夏休みに入って毎日店に出ているだろうし、彼
女目当てに足繁く通う客がいても不思議ではない。
実際、楽しそうに働いているキリカさんを見ていると心が和んで
くる。
頼んだコーヒーは、テキパキと動くキリカさんの仕事ぶりのおか
げで、さほど待つこともなくテーブルの上に並んだ。
﹁それで、今日は何の話なの?﹂
ミルクを少量入れただけのアイスコーヒーをひと口飲み、槙坂先
輩は聞いてくる。
﹁お望みなら別れ話でもしようか?﹂
﹁あら、わたしはいいわよ?﹂
いいのかよ。
﹁でも、もちろん首は縦に振らないし、藤間くんに思い直させる自
信はあるわ﹂
﹁⋮⋮やめとくよ﹂
もとよりそのつもりもないし。今のところは。
388
﹁それがいいわね。無駄な行程は省くべきだわ﹂
﹁⋮⋮﹂
どうやら先ほどの意趣返しのようだ。
僕はコーヒーで喉を潤してから、気を取り直して切り出した。
﹁そろそろイギリス旅行の話をしておこうと思ってね﹂
﹁わたしもきっと今日はその話だと思ってたわ﹂
そう嬉しそうに言った彼女は、隣のイスの上に置いたトートバッ
グから一冊の冊子を取り出した。どうやら有名な旅行誌が編集した
イギリス観光のガイドブックのようだ。
用意のいいことだ、と心中で感心しながら僕は先を続けた。
﹁日程は無難に三泊五日。僕としては大英図書館、オックスフォー
ド、ケンブリッジは外せないと思ってる﹂
﹁どういうところなの?﹂
と、問う槙坂先輩に僕は簡単に説明する。
リーディングルーム
大英図書館は、日本では国立国会図書館にあたる国立の図書館だ。
閲覧室には入れないが、一度は見ておきたい。
オックスフォードは、イギリス最古の学園都市。前述の大英図書
館に次ぐ規模のボドリアン図書館もここにある。欧米の公共図書館
を肌で感じるという僕の目的には、大英図書館よりはこっちのほう
が合致するかもしれない。
ケンブリッジも、オックスフォードほどではないが多数の大学を
擁する都市だ。ニュートンやダーウィンもここの大学を出ている。
サイモン先生が口添えしてくれた大学もここにあり、そこの図書館
を見せてもらう約束になっている。
槙坂先輩は、ガイドブックを見ればわかるだろうに、僕の言葉に
耳を傾けていた。
﹁そっちは? どこか行きたいところはあるのか?﹂
ガイドブックを眺めていたら、自分の目で見てみたいところのひ
とつやふたつ、出てくることだろう。
﹁いいの?﹂
389
﹁まぁね﹂
僕にすべて任せてもらうことにはなっていたが、どうにも時間が
あまりそうだ。期待に応えられるかわからないが、善処はしようと
思う。
﹁嬉しい。じゃあ、お言葉に甘えて。いくつか目をつけてあるの。
まずは︱︱﹂
﹁すみませーん﹂
﹁はーい。ありがとうございまーす﹂
言いかけた槙坂先輩の言葉を遮ったのは、客とキリカさんの声だ
った。どうやら帰る客が会計のためにキリカさんを呼んだようだ。
ちょうどフロアで別の客の対応をしていた彼女は、僕たちの横を小
走りで通っていった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
どうにも落ち着かないな。ここならゆっくり話せると思って足を
運んで、思いがけず騒がしかったからだろうか。もしかしたらそれ
だけではないのかもしれないが。
槙坂先輩も同じ気持ちだったらしく、キリカさんを見送った後、
僕たちは無言で顔を見合わせた。
﹁わたしは大英博物館を見てみたいわね﹂
改めて槙坂先輩が希望を述べる。
大英博物館か。悪意を込めてイギリスの略奪の象徴と呼ばれたり
もするが、世界中の文明の歴史財産がここに集まっているのも確か
だ。
﹁あそこにも図書館があるのよね?﹂
﹁ああ、あるな﹂
大英博物館図書、或いは大英博物館図書室だ。
かつてのイギリスの法定納本図書館で、第一司書の許可がないと
閲覧室に入ることができなかったが、その機能が今の大英図書館に
移ってからは一般にも開放されている。もちろん蔵書の多くも大英
390
図書館に移ったようだが。
﹁別に僕の趣味に合わせる必要はないよ﹂
﹁そういうつもりはないわ。純粋にわたしが見てみたいだけ。エジ
プトなんてロマンにあふれてると思わない? 四大文明の中ではエ
ジプト文明がいちばん好きね﹂
まぁ、それならいいか。僕としても博物館図書館が見れるなら願
ったり叶ったりだ。
と、そのとき、二人組の女性客が僕たちの横を通り、いつの間に
か空いたらしいひとつ奥のテーブル席についた。それを追いかける
ようにして、トレイにふたつのお冷を載せたキリカさんがやってく
る。
﹁いらっしゃいませ。注文はお決まりですか?﹂
﹁私はアイスコーヒーで﹂
﹁ボクはアイスラテ﹂
﹁かしこまりました。お待ちください﹂
思わずこちらの会話をやめ、ひと通りのやり取りを聞いてしまっ
た。
キリカさんが戻っていく︱︱と思いきや、僕たちのところで足を
止めた。テーブルの上のガイドブックが目に入ったようだ。
﹁あ、旅行ですか? もしかして、ふたりで?﹂
﹁ええ﹂
と、嬉しそうに槙坂先輩。
﹁今度ぜひ話を聞かせてくださいね﹂
そうしてキリカさんはパタパタと、今度こそカウンタに戻ってい
った。⋮⋮忙しいならよけいな寄り道をしなければいいのに。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
僕たちはまた顔を見合わせる。
どうにも落ち着かない。
それは周りが騒がしいからというだけの理由ではないのだろう。
391
﹁ねぇ、藤間くん﹂
今度はすぐには会話は再開されず︱︱互いにコーヒーのグラスを
何度か口に運んでから、ようやく槙坂先輩が切り出した。
﹁言いたいことはわかる。でも、何ができる?﹂
﹁何かはできると思うの﹂
﹁⋮⋮﹂
できない理由をさがすよりは、何かできることがあるだろうと足
を踏み出すほうが健全なのだろうな。こえだも似たようなことを言
っていた気がする。
﹁とりあえず言ってみたら? 向こうがいいなら僕も乗るよ﹂
﹁ええ﹂
僕の消極的ながらも賛同の返事を聞き、槙坂先輩はかすかに笑み
を見せた。
﹁あの、キリカさん﹂
先の女性二人組にコーヒーを運んだその帰りを狙って、彼女はキ
リカさんに声をかけた。
﹁はい?﹂
﹁わたしたち、何か手伝いましょうか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
さすがにこれにはキリカさんも戸惑う。
僕だっておかしな話だと思っている。立ち寄った店が混んでいて
忙しそうだからと言って、自分が手伝おうだなんて。少なからず顔
馴染みになったからだろうか。キリカさんが忙しなく行き来してい
るのを見ていると、どうにも落ち着かない気持ちになってしまうの
だ。
﹁や、でも⋮⋮﹂
﹁忘れました? わたしたちいつでもアルバイトで使ってもらえる
ことになってたはずですよ?﹂
そうなのだ。いつだったか店長のたった一問だけの面接で採用に
なり、先のようなことを言ってもらったのだった。
392
途端にキリカさんは破顔する。
﹁そうでしたね。じゃあ、主人に聞いてきますね﹂
キリカさんはカウンタ向こうにいる店長のもとに行くと、二、三
言葉を交わし︱︱そして、足早にこちらに戻ってきた。満面の笑み
だ。どんな結果になったかだいたい想像がつくな。
﹁オッケーだそうです。じゃー、ふたりとも、こちらにきてくれま
す?﹂
役割の分担としては僕がフロア係。槙坂先輩は、キリカさんが軽
食メニューの担当でもあるので、その手伝いとなった。
注文取りはファミレスのようにハンディターミナルを使ったりは
せず、紙の伝票に書き取る方法なので、初めてながらもどうにかこ
なすことができた。⋮⋮まぁ、接遇が見様見真似で、どうにもぎこ
ちなくならざるを得なかったが。
﹁なるほど。何かしらやれることはある、ということか﹂
納得して僕は独り言ちる。
﹃天使の演習﹄はしょせんは喫茶店なので、軽めの昼食をとること
はできても夕食向きの店ではない。午後七時を過ぎたころにはいつ
もの雰囲気に戻り、僕と槙坂先輩はカウンタにいちばん近いテーブ
ル席で、休憩がてらコーヒーとサンドウィッチの盛り合わせをいた
だいていた。
﹁藤間くん、これからの予定は?﹂
不意に槙坂先輩が、やや抑え気味の声で聴いてくる。
﹁それは今日の残りの時間のことだろうか﹂
﹁今日この後なら、わたしがあなたの部屋にいくことで決まってる
わ﹂
勝手に決めてくれるな。
﹁そうじゃなくて、明日以降という意味よ﹂
﹁それなら幸か不幸か、特に予定はないな﹂
﹁じゃあ、決まりね﹂
393
槙坂先輩はこの展開に満足して笑みを見せる。
﹁マスター、キリカさん。わたしたち、明日からも手伝いますから﹂
そして、彼女は店長夫婦に朗らかに告げた。やはりこうなったか。
しかし、これに再び戸惑いの表情を見せたのがキリカさんだ。彼
女は店長を見る。
確かに僕たちはいつでも使ってもらえることになっていた。だが、
店の忙しさに見るに見かねて手伝ってもらうという流れは、キリカ
さんとしてはあまり本意ではないのだろう。その一方で、僕たちも
目についたときだけ手伝って、明日以降のことは知りませんという
のもあまりにも自己満足すぎて、やはり本意ではない。やりはじめ
た責任というものがある。
そこで槙坂先輩がさらにもうひと押しする。
﹁ほら、わたしたち今度旅行に行きますし。そのためにも資金はあ
ったほうがいいですから﹂
もちろん、嘘である。今さら資金が足りなくて頓挫するような段
階でもないし、そもそも僕も槙坂先輩も金銭面での心配はなかった。
﹁なるほど、そうなんですね。⋮⋮どうする?﹂
おそらく彼女の気遣いのような嘘に気づいているであろうキリカ
さんは、店長にお伺いを立てる。
﹁じゃあ、せっかくですからひとまずお義母さんが戻ってくるまで
手伝ってもらいましょうか。バイト代はあまり期待しないでくださ
いよ?﹂
﹁ええ、かまいません﹂
僕としては愉快な経験ができるなら無給でもいいくらいである。
︱︱結局。
僕も見知った顔が忙しさに四苦八苦しているのを見て素知らぬ振
りはできず、その助けになれることが嬉しいのだろうな。どこかほ
っとしている。
こうして僕と槙坂先輩の短いバイト生活がはじまったのだった。
394
第二話
やれることをやるだけだった初日と違い、翌日からはきちんとし
た指導のもと、仕事の範囲が広がった。
槙坂先輩は、フロア係と軽食メニュー担当であるキリカさんの補
佐の二足のわらじ。接遇もそつがない。一方の僕は、コーヒーを美
味しく淹れる技術もなければ人に振る舞えるほどの料理の腕前もな
いので、もっぱらフロア係が専門である。まぁ、人の行動を眺める
のが趣味の僕向きではある。
︱︱さて、問題は二日目に起きた。
﹁店長、客が増えてますね﹂
﹁そのようですね﹂
客が何割か増加したのである。
理由はいたって簡単。キリカさん目当ての客がいるのだから、槙
坂先輩目当ての客が発生しても何ら不思議なことはない。つまり臨
時アルバイトの彼女の姿を見た何人かがリピーターと化したのだ。
結果的に﹃天使の演習﹄の忙しさを見かねて手伝いに入った僕たち
が、より正確に言えば槙坂先輩が、さらなる忙しさの原因をつくっ
てしまったのである。⋮⋮仕方がないので、そのあたりのお詫びも
兼ねて、男性客は僕が積極的に対応するように努めた。
﹁でも、まぁ、君たちがいるおかげでちゃんと楽にはなってますよ﹂
店長はあいかわらず呑気だった。
実際その通りなのだろう。忙しさが増しても同時に働き手も増え
ているので、差し引きとしては負担は軽減されている。そもそも店
長としては客が増えること自体は、そのまま売り上げの増加につな
がるので大歓迎だろう。尤も、僕たちのバイト代を含めた収支まで
考えた場合、どうなるかは知らないが。
﹁そうだ。君がいる間に例の件を進めておきましょうか﹂
395
﹁例の件?﹂
不意に店長がそんなこと言い出し、カウンタをはさんで次に運ぶ
注文の品がそろうのを待っていた僕は、何のことだかわからず首を
傾げた。
﹁ほら、コーヒーハウスでしたっけ?﹂
﹁ああ﹂
思い出した。前に店長と店の外で会ったときのことだな。あのと
き店長は僕に、店を盛り上げる方法はないかと聞いてきた。素人に
アイデアを求めるのもどうかと思うが、その素人の僕としては知っ
ている知識の中からコーヒーハウスの話を出したのだ。
﹁藤間君。君、明日は午後から出てきてくれたらいいので、午前中
に置く本を適当に選んできてもらえますか?﹂
収書、選書は僕に一任されるらしい。
﹁だったら、槙坂さんも一緒に行ってもらわないと﹂
いったいどういう発想なのか、キリカさんが口をはさむ。
﹁え? わたしが、何ですか?﹂
そこにちょうどテーブル席にコーヒーを運んで戻ってきた槙坂先
輩が、自分の名前を拾って話に加わってきた。
﹁槙坂さん。明日、藤間くんとデートしてきてください。時給は発
生しませんけど、デート資金は出しますよ﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
ウィンクしながら言うキリカさんだが、槙坂先輩はいったいどう
いう話の展開なのかさっぱりわからず、曖昧な返事をしたのだった。
﹃天使の演習﹄はだいたい午後七時を過ぎると客が疎らになり、そ
のあたりで僕たちはお役御免となる。
︱︱その日の帰り。
﹁ねぇ、コーヒーハウスって何なの?﹂
ようやく薄暗くなりはじめた真夏の夜の住宅街を歩きながら、槙
坂先輩が聞いてきた。こんな時間でも気温はまだ下がり切っておら
396
ず、蝉もまだヤケクソのように自己主張を続けている。
﹁コーヒーハウスは、一六五〇年のオックスフォードで生まれた図
書室の性質を併せ持ったカフェのことだよ。正確には当時のコーヒ
ーハウスが次々と本や雑誌、新聞を置くようになったわけだが﹂
﹁オックスフォード⋮⋮。そう言えば、今度の旅行でも立ち寄る予
定だったわね。その関係も?﹂
﹁まぁね﹂
最大の目的はボドリアン図書館だが、確かにそれもある。オック
スフォードにある最古のコーヒーハウスは未だ営業を続けているら
しいし、一度は見ておきたいところだ。
﹁当時のコーヒーハウスは、ただコーヒーを飲むだけの店じゃなか
ったんだ。新聞や雑誌が置かれていて、数軒も回ればいろんな情報
が手に入ったらしい﹂
そうやって新聞や雑誌、そして、コーヒーの魅力に惹かれて人が
集まるコーヒーハウスは、新聞にニュースを提供する場にもなった。
新聞屋は情報を集めるためにしばしばコーヒーハウスに足を運んだ
という。
また、ときには読書会を開いたり、討論を繰り広げたりもしたの
だそうだ。かのアイザック・ニュートンもそこで毎日のように常連
客と討論し、﹃プリンキピア﹄を書き上げるに至ったと言われてい
る。
﹁だけど、店長には悪いけど、コーヒーハウスは十八世紀に入ると
次第に排他的になっていくんだ﹂
コーヒーハウスが会員制の集まり︱︱クラブと同意義のものへと
変わっていったのだ。
クラブが集会の場をコーヒーハウスにしたことで、だんだんと客
層が偏りはじめていく。弁護士、株式仲買人、ある政党の支持者、
銀行家や商人⋮⋮。そういった特定のグループや職業の人々がこれ
また特定のコーヒーハウスをたまり場にすることで、初期の誰でも
入れる民主的側面が失われていったのだ。
397
ブックセラー
しかし、そのおかげというべきか、文士や出版者の集まるコーヒ
パトロン
ーハウスには、彼らとお近づきになることを期待して、文学を志す
若ものが集まってきた。そこで支持者を得て世に出るチャンスを掴
んだ有名作家も少なくない。
﹁まぁ、それはコーヒーハウスが一度衰退しはじめたころの話で、
初期のコーヒーハウスは読書の場でもあったんだ﹂
当時のコーヒーハウスには、新聞や雑誌だけでなく、軽い読みも
のも置いていたようだ。文献の中には、静かに読書をするための図
書室を設けている店や、別料金をとって貸本屋的なことをしていた
店もあったとの記述も残っている。尤も、そのせいで売れ行きの落
ちたブックセラーによる怒りの投書もあったようだが。曰く﹁ひど
い下品な習慣﹂だそうだ。
そのあたりは近年一時期話題になった、市立図書館によるベスト
セラー小説の大量購入も似たようなものか。
それについては僕はあまり問題だと思っていない。ひとつの市に
図書館は、中央館と分館を含めて通常複数ある。政令指定都市にな
ると二十、三十あるところも珍しくない。仮に市が百冊買ったとこ
ろで、一館あたりの複本は五冊から二十冊程度。そこに予約が殺到
した場合、半年待ちや一年待ちはざらだ。それだけ待たされる上、
本当に読みたい本ならおそらくもう自分で買うだろう。そして、大
ベストセラーなら千部くらいは誤差の範囲だ。いくつかの市が一括
購入して図書館で無料で貸し出したとして、大騒ぎするほどのこと
ではない。
﹁悪い。どうも話が逸れたな﹂
つらつらと語ったところではたと気づく。
今は現代の図書館の話ではなく、かつてのコーヒーハウスの話だ。
﹁わたしは藤間くんのそういう話、とても好きよ﹂
﹁⋮⋮﹂
得意な分野で多弁になる男というのも、あまり格好いいものでは
ないと思うのだがな。
398
﹁それでマスターは藤間くんの意見を採用して、コーヒーハウスの
ように本を置こうとしてるの?﹂
﹁みたいだな﹂
とは言え、本当にコーヒーハウスを再現したいわけではないだろ
う。当時とは本の価格や新聞の普及率がぜんぜん違う。図書館だっ
てある。とすれば、目指すイメージとしては図書室というよりは、
美容院のようなサロンの系統だろうか。槙坂先輩も一緒に行かせる
というキリカさんの選択と指示は正解だな。
﹁兎も角、明日は選書ツアーだ﹂
﹁そうね﹂
話しているうちに駅が見えてきて、僕たちはそこで別れた。
399
第三話
翌日、僕と槙坂先輩はこの付近で最も大きなターミナル駅近くに
ある大型書店の本店に足を運んだ。
ふたりで店内をぶらぶら歩く。
﹁当時のコーヒーハウスは、具体的にはどんな本を置いてたの?﹂
﹁主に新聞や定期刊行物、それに新刊本なら何でも。⋮⋮ま、あま
り参考にはならないな﹂
昨日帰ってから該当する資料を読み返してみたが、時代と価値の
違いを再認識しただけだった。いまどき新聞を置いたくらいで客が
増えるとも思えない。
当時新聞は法外に高く、かなりの金持ちでなければ定期購読はで
きなかったようだ。それがコーヒーハウスに行けばコーヒー一杯の
値段で読むことができるのだ。朝早くにスリッパとガウン姿で足を
運んだり、ひとりが新聞を読み上げて周りが熱心に耳を傾けたりす
る姿がよく見られたらしい。
﹁たぶんイメージとしては美容院のようなサロンじゃないかと思う
んだ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
ようやく具体的なビジョンを得たらしい槙坂先輩がうなずく。
﹁それなら大丈夫ね。わたしもそれなりのヘアサロンに行くもの﹂
﹁それなりの?﹂
﹁ええ、有名な読者モデルも通う高級ヘアサロンよ﹂
さすが槙坂涼としか言いようがないな。
それにしても。
﹁読者モデルねぇ⋮⋮﹂
これまた聞いたことはあってもイマイチ理解の及ばない職業が出
てきたな。
400
﹁たまにその人と会うんだけど、そのたびに読者モデルをやらない
かって誘われるわ﹂
﹁⋮⋮そういうのに興味が?﹂
﹁そうね。ないわけではないけど⋮⋮﹂
と、槙坂先輩は曖昧な返事を口にする。
﹁あなたが自分の彼女に何かステータスをつけたいのだったらやっ
てもいいわね﹂
﹁⋮⋮﹂
ちょうど雑誌コーナーを歩いていたこともあり、ファッション誌
の雑誌架へと足を向けた。テキトーに一冊手に取り、ぱらぱらとめ
くってみる。
僕にはどれが読者モデルという人種でどれが専属のモデルかは区
別がつかない。でも、槙坂先輩がモデルをすれば、こういう雑誌の
表紙やピンナップを飾ったりするのだろうか。何となく彼女にはそ
ういう派手派手しいことは似つかわしくないように思うが、きっと
やればできるのだろうな。そして、やることによって、明慧では知
らない生徒はないという槙坂涼は、その知名度をさらに上げること
になるだろう。
﹁まぁ、﹂
僕は努めて平坦に発音する。
﹁やりたいのなら好きに︱︱﹂
﹁冗談よ﹂
が、しかし、言葉はすぐに遮られた。思わず僕は彼女を見る。
﹁⋮⋮どこからだ?﹂
﹁﹃それなりの﹄からね。本当にそれなりのところ。高校生が行け
る程度の普通の美容院よ﹂
その普通の美容院とやらでこんな普通じゃない高校生が出来上が
っているわけだが。まぁ、もとがいいからな。
﹁⋮⋮無意味な嘘を吐いてくれるな﹂
僕は少しだけ乱暴に、持っていた雑誌を置いた。
401
実際のところ、彼女ならどこぞの通りを歩けば、本当にスカウト
されそうだが。
﹁じゃあ、これは本当のこと。藤間くんの専属モデルならやってあ
げてもいいわ。どんなのがお好み? 水着? ランジェリー? そ
れとも︱︱﹂
﹁僕に写真の趣味はないよ。⋮⋮さて、そろそろ本を選ぼうか﹂
己の動揺に言葉をかぶせて覆い隠し、話を本題に戻した。しかし、
あまり上手く隠せていなかったらしく、槙坂先輩はくすくすと笑っ
ている。
﹁そっちは大人向けのファッション誌を選んでほしい。僕は経済誌
と文芸誌、それと最近話題になったベストセラー小説を見繕ってく
るつもりだ﹂
男性、女性ともに時間の余っている中高年︱︱狙うべき客層はだ
いたいそのあたりだろうと思う。品ぞろえでは図書館に劣るが、そ
の差はコーヒーの味で埋めてもらうことにしよう。
そうして僕たちは三十分ほどをかけて雑誌や書籍を選び、まとめ
てレジで購入した。当然ながら、それを抱えて持って帰るのもバカ
らしいので、﹃天使の演習﹄に着払いで送ってもらうことにしたの
だった。
店長に言われた仕事を終えたその帰りのこと。
﹁すみませーん﹂
書店を出て駅へと向かう僕らに、誰かが声をかけてきた。
女の人だ。それも大人の。
彼女はラフなパンツルックに、肩からはごついカメラ一式でも入
っていそうな大きく膨らんだ鞄を提げていた。
﹁はい?﹂
応対したのは、警戒してまず相手を観察してしまった僕ではなく、
槙坂先輩だった。
女性は営業スマイル寄りの笑みを浮かべると、名刺を取り出した。
402
﹁私、こういうものでして﹂
槙坂先輩が受け取ったそれを、僕は横から覗き込む。と、そこに
は有名なティーンズ誌の名前が印字されていた。今日の選書ではタ
ーゲットとする年齢層が違うので取り上げなかったが、雑誌架には
並んでいた。発売日直後に学校で待ちもの検査をしたら、少なくな
い数の女子生徒の鞄からこの雑誌が見つかることだろう。
﹁何かご用でしょうか?﹂
﹁はい。できれば写真を撮らせていただきたいんです﹂
﹁写真、ですか?﹂
槙赤先輩は怪訝な面持ちで問い返す。
僕は、詳しい内容まではわからないまでも、ある程度の方向性は
読めていた。こういうのは本人よりも周りのほうが鋭く察するのだ
ろう。
﹁ええ。何枚か撮らせていただいて、いいものがあればぜひ紙面で
使わせてもらいたいんです﹂
予想通りだった。店内であんな話をした矢先にこれとは。狙いす
ましたようなタイミングだな。
槙坂先輩は意見を求めるように僕を見た。
﹁⋮⋮好きにすればいいさ﹂
少しだけ険のある言い方になった気もするが、今回はすんなりと
言えた。
すぐに断りの言葉が出なかった以上、少なからず興味はあるのだ
ろう。ならば僕から言うことはない。好きにすればいい。ついでだ、
それこそこれを機に読者モデルデビューでもしてしまうのもありだ
ろう。これで我らが槙坂涼も一躍全国区だ。
﹁いえ、そうじゃなくて﹂
しかし、口をはさんできたのは雑誌社の女性だった。
﹁撮らせてほしいのは、ふたり一緒の写真なんです﹂
403
﹁⋮⋮﹂
﹁おふたりは恋人同士なんですよね?﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
うなずくのは槙坂先輩。僕はいつもの調子で否定したかったのだ
が、一気に先が読めなくなった話の続きが気になり、黙っていた。
﹁ですよね!﹂
女性は破顔する。
﹁中にですね、街で見かけたカップルの写真を掲載するコーナーが
あるんです﹂
今度は僕が槙坂先輩を見た。⋮⋮あるのか? 目で問うと、彼女
はうなずいた。あるらしい。槙坂先輩もこの手の雑誌を読むんだな。
﹁そこでぜひおふたりの写真を使わせてもらいたいんです。絶対と
は確約できませんが、おふたりならきっと大丈夫です!﹂
﹁けっこうです﹂
僕は即答していた。
﹁いいじゃない。面白そう﹂
﹁僕はいやだ﹂
何が悲しくて自ら晒しものになりにいくような真似をしなくては
ならないのか。槙坂先輩ならさぞかし絵になることだろう。⋮⋮僕
はそんなもの見たくはないが。
﹁だいたい、午後には店に出ないといけないだろ﹂
﹁キリカさんなら事情を話せば納得してくれるわ﹂
﹁⋮⋮いや、まぁ、そうだろうな﹂
反対する材料として勝手に持ち出しておいてあれだが、あの人な
ら諸手を上げて喜んでくれるだろう。この手のイベントが好きそう
だし。
﹁早く戻ろう﹂
結局、僕は自分の感情以外に説得力ある反対材料を出せないまま
踵を返した。
槙坂先輩のため息が聞こえた。
404
﹁ダメみたいですね﹂
﹁そうですか、残念です⋮⋮﹂
言葉通り残念そうに発音する女性。
当然だろう。僕は兎も角として、槙坂先輩ほどの被写体はそうは
いまい。みすみす見逃したくはないはずだ。しかし、素人にお願い
する手前、断られてしまえば無理強いはできないだろう。
が、しかし、直後にまた話の流れが変わった。
﹁でも、わたしひとりならいいですよ。読者モデルっていうんです
か? 実はああいうのに興味があるんです﹂
﹁え、ほんとに!?﹂
﹁ちょっと待て!﹂
僕は、一度は背を向けたものの、再度向き直る。と、そこには僕
の次の言葉を期待するかのような槙坂先輩の微笑があった。
﹁⋮⋮わかった。ふたりでいこう﹂
しばしの葛藤の末、僕はそこを妥協点としたのだった。
その後、雑誌社の女性の車で近くの緑地公園へと移動し、そこで
三十分ほどの時間をかけてスナップ写真を撮った。
女性の鞄からは最初の印象通り本格的なフィルムカメラが出てき
た。当然、撮影にはそれを使ったのだが、そうかと思えば片手で持
てるくらいのデジタルカメラを使うこともあった。槙坂先輩はデジ
カメで撮った写真の中で気に入ったもののデータをもらっていたよ
うだったが、僕は見返す気もしなかった。
何か決まったことや相談があれば連絡するということで、その窓
口を槙坂先輩に決めて僕たちは別れた。
﹁遅くなってすみません。いま戻りました﹂
﹃天使の演習﹄に着いたのは午後二時前だった。
﹁おかえりなさい。ずいぶんと時間がかかりましたね。もしかして
本当にデートしてました?﹂
405
迎えてくれたキリカさんの第一声は、しかし、遅くなった僕たち
を怒ったり嗜めたりするようなものではなく、いつも通り少し茶化
したような口調だった。
﹁というわけでもないんですけど、ちょっと面白い経験してきまし
た﹂
﹁なんですか? ぜひ聞かせてください﹂
むしろさっそく喰いついている。
もちろん、僕はこの話題に積極的に加わる気はなかった。ふたり
の横を素通りする。
﹁すぐに仕事に入ります﹂
﹁お疲れさま。少し休んでからでかまいませんよ﹂
店長にそう言われ、改めて店内を見回してみれば、今はいつもに
比べると落ち着いた様子だった。槙坂先輩狙いのリピータが、彼女
の姿がないのを見て早々に帰ってしまったのだろうか。
慣れないことをやった疲れもないわけでもないので、店長の言葉
に甘えてあまり急がないことにした。奥の事務室兼控室に行き、急
ぎはしないがひと休みもせず、身だしなみだけを確認して店に出る。
﹁あ、このベンチに座ってる写真、いいですね。藤間くんが横を向
いちゃってますけど、完全には背を向けてない感じがいいです﹂
﹁ええ、わたしも気に入ってます﹂
女性陣は頭を突き合わせて槙坂先輩の携帯電話を覗き込み、実に
楽しげに盛り上がっていた。⋮⋮仕事しようぜ。
﹁お疲れさま﹂
そして、何があったか知ったであろう店長は、再度ねぎらいの言
葉を僕にくれたのだった。
翌日、﹃天使の演習﹄に行くと、見慣れないものが店内にあった。
正確には、それ自体は決して見慣れないものではなく、見慣れた
景色の中に昨日までなかったものがあった、というべきだろう。
406
それは書架だった。
たぶんインテリアショップで購入したのだろう、格子状のなかな
か洒落た書架だ。それが店の奥の壁に設置されていたのだ。
﹁店長、何ですか、あれ?﹂
﹁昨日の午前中に手配して、閉店後に搬入してもらいました﹂
なるほど。本や雑誌を並べるための書架か。見れば書籍を展示す
るための木製のイーゼルもある。よくこれに思い至ったな。店長は
のんびりしているようでやることは速いし、意外に着眼点が鋭い。
﹁今日中には君たちが選んでくれた本が届くんですよね? よかっ
たら今日は閉店後まで残って、一緒に本を並べてくれませんか?﹂
﹁わかりました﹂
ちょうど今、僕ならどう並べるかを考えていたところだった。デ
ィスプレィを一緒にやらせてもらえるなら僕としても願ってもない
ことだ。
︱︱そうして閉店後。
当然のようにそこには槙坂先輩もいて、現従業員四人全員でまず
は日中に届いた本を箱から出し、近くのテーブル席に並べていった。
文芸誌に経済誌、大人の女性向けのファッション誌、それにベス
トセラー小説がいくつか、である。
﹁なかなかうちの客層にあったチョイスですね﹂
﹁ありがとうございます﹂
ほかにも週刊誌という選択肢もあったのだが、今回は避けさせて
もらった。電車の吊り広告を見ていると、眉をひそめたくなるよう
な文言が踊っていて、あまりにも低俗に思えたのだ。需要があるか
は店長かキリカさんに判断してもらおう。
﹁うち、高校生はあまりこないもんねー﹂
と、キリカさん。閉店後だからだろうか、今の彼女はどこか幼い
感じの口調だった。
ここ数日働いてみてわかったが、確かにこの店にはあまり僕たち
407
と同じ年代の客はこない。もちろん、今が夏休みということもある
が、この付近に高校や大学の類がなくて学生御用達の店になりにく
いのだ。だからこそ槙坂先輩は静かな時間を過ごせるここを気に入
り、だからこそ僕たちは客を増やす策を練っているわけである。
さっそく書架に本を並べていく。
書架はそれほど大きなものではないが、そこに収める本も少ない
のでどうしてもスペースが余り気味になってしまう。尤も、いっぱ
い詰めると図書館みたいになるので、これくらいがちょうどいいの
だろう。
中綴じの雑誌は寝かせて置き、背表紙があるような文芸誌は立て
て置いた。書籍も立てるが、目を惹く表紙のものはイーゼルを使っ
て展示する。⋮⋮こんなものだろうか。もう少し大きいイーゼルな
りスタンドがあれば、面積のある雑誌も表紙をこちらに向けておき
たいところだ。
﹁あ、そうだ。今度槙坂さんたちの写真が載る雑誌も、出たらここ
に置かないと﹂
これぞ名案とばかりにキリカさんが言い出す。僕らが昨日のよう
な経験をしたことを誰よりも喜んでいるのは、冗談でも何でもなく
この人なのかもしれない。
﹁まだ載るとは決まってませんから﹂
﹁それにそれこそ高校生向けの雑誌ですよ﹂
僕たちは言外にやめてくれと口々に頼むが、果たして聞いてくれ
るだろうか。さすがにそんなものを置かれては恥ずかしいのである。
408
第四話
﹃天使の演習﹄でバイトをはじめて最初の日曜日。
基本的に今までは開店後、本格的に忙しくなる前に店に入ってい
た。が、日曜は平日より何割か増しで忙しいらしく、開店前から出
勤してほしいと店長に頼まれた。もちろん僕は、そして、槙坂先輩
も、特に断ることなく引き受け、こうしてここにいる。
忙しい店内の様子に慣れてしまったせいか、開店前の雰囲気はな
かなか新鮮だった。
店長夫婦はすでにきていた。店の鍵を持っているのだから、当然
と言えば当然だ。軽食関係の仕込があるのか、カウンタの向こうで
はキリカさんがもう仕事をしていた。
単純に店を開けるための作業自体はそれほどなくて、僕と槙坂先
輩は店長の指示通りに動き回る。
﹁きゃっ﹂
と、そのとき、槙坂先輩の口から小さな悲鳴が上がった。
﹁どうした?﹂
﹁ね、猫が⋮⋮﹂
猫?
何か小物でも落としかけたかと思ったが、返ってきた答えは妙な
ものだった。彼女はテーブルクロスを抱えたまま困り顔で足もとに
目をやっていて、そこには確かに小さな三毛猫が一匹、槙坂先輩の
足に体をこすりつけていた。
﹁君⋮⋮﹂
その非難めいた発音は店長のものだった。目はキリカさんに向け
られている。
﹁や、槙坂さんたちに見せてあげようと思って﹂
﹁それならそれで奥の部屋から出てこないようにしてください﹂
409
﹁はーい﹂
怒られて拗ねる子どもみたいな返事をしつつ、キリカさんはその
仔猫でも成猫でもないような大きさの三毛猫を抱き上げた。
﹁もしかして家で飼ってる猫ですか?﹂
﹁ええ。ヴィーちゃんっていうんですよ﹂
こちらに見せるようにして、嬉しそうに紹介してくれる。
彼女︵高確率で﹃彼﹄ではない︶は﹃ヴィー﹄という名前らしい。
改めてその姿を見ると、今はずいぶんとどうでもよさそうな、やる
気のない顔をしていた。挙句の果て、あくびまでしはじめる始末。
槙坂先輩の足もとにいたときとはえらい違いだな。
﹁後でかまってあげてくださいね﹂
そう言うと、キリカさんは彼女をつれて奥の部屋へと消えた。
﹁すみません。驚かせてしまいましたね。今日は僕がひと足先に出
てきたから、つれてきてるのを知らなかったんです﹂
﹁猫を飼っていらしたんですね﹂
槙坂先輩が店長に聞く。
﹁彼女が飼いたいというもので、司さんの伝手で一匹いただきまし
た﹂
﹁司さん?﹂
誰だ、それ?
﹁ああ、君たちはまだ会ったことがなかったですね。この店の入り
口に飾ってあるメニューボードなんかをお願いしている美大の学生
さんですよ﹂
美大ということはキリカさんと同じ学校ではないのか。どういう
経緯で知り合ったのだろうな。
﹁そう言えば、近々店にくる予定なので、君たちも会うかもしれま
せんね。⋮⋮さて、続きをお願いできますか﹂
﹁あ、はい﹂
﹁そうですね﹂
そうだった。まだ開店準備の最中だった。言われて僕らは作業を
410
再開。程なくカフェ﹃天使の演習﹄は時間通りに開店したのだった。
日曜は確かに普段よりも何割か客が多い。が、臨時アルバイトが
加わって人手に余裕ができ、僕たちもそこそこ仕事にも慣れてきた
こともあって、比較的忙しくないときは心にもゆとりができる。
︱︱ふたりの女性が雑談をしていた。
﹁槙坂さん、夏休みはもうどこかに遊びにいったんですか?﹂
﹁ええ、プールに。藤間くんたちと﹂
﹁夏の定番ですけど、いいですね。彼の家にいったりは?﹂
﹁残念ながら、それはまだ。そういうの、なかなか許してくれなく
て﹂
﹁いきなり遊びにいけばいいんです。行けば藤間くんだって喜んで
家に上げてくれますよ﹂
﹁そうでしょうか。⋮⋮キリカさんはよくマスターの家にお邪魔し
てたんですか?﹂
﹁あはは。わたしたちの場合、高校のときにはもう同棲してました
から﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁いろいろ事情があったんです。だから、槙坂さんと藤間くんみた
いな関係もいいなって思います﹂
﹁わたしはキリカさんがちょっと羨ましいかな﹂
﹁隣の薔薇は赤いってやつですね。そう言えば今度、ふたりで旅行
に行くんですよね?﹂
﹁はい、イギリスに。実は彼のお母様からも許可を頂いてるんです﹂
﹁じゃあ、親公認? いい思い出になるといいですね﹂
﹁ありがとうございます﹂
嬉しそうに微笑む槙坂先輩。
﹁⋮⋮あっちですっごい勝手なこと言ってますね﹂
﹁ほうっておきましょう。女性のおしゃべりなんて止めようと思っ
411
て止まるものじゃありませんよ﹂
それもそうなのだろう。
そして、それ以上に槙坂先輩が楽しそうに話をしていることが、
僕に口をはさむことを躊躇わせた。
かつて彼女は﹃槙坂涼は会話をしていない﹄と表現したことがあ
る。槙坂先輩はカリスマでありすぎるが故に、意見や背中を押して
シーン
もらうための同意を求める人間は集まってくるが、普通の女子高生
のように談笑している場面は極めて少ない。
槙坂涼と対等に会話する相手としては年上くらいがちょうどいい
のかもしれない。
昼のピークを過ぎるとようやく休憩となる。ここの手伝いをはじ
めてから昼食をまともな時間に食べたことがない。そういうものな
のだろう、飲食業とは。
僕と槙坂先輩はいつも一緒に休憩をとらされる。ふたり一緒に休
むと店のほうの人手が少なくなるので別々でいいと何度か言ったの
だが、ひとりずつ順々だと最後に休憩をとる人が遅くなるからと、
このスタイルに落ち着のだいた。
順番はたいてい最初が僕と槙坂先輩で、次がキリカさん。そして、
その最後に休憩をとる人である店長は半々よりもやや低い確率で昼
食を抜いていた。
︱︱さて、休憩中である。
場所は奥の事務所兼控室。事務デスクと簡素な応接セットがある
だけの部屋だ。デスクの上や書棚には経理や経営に関する書籍が並
んでいる。聞くところによると、店を手伝ってくれているというキ
リカさんの母親は、こういう経理のような事務面でもサポートして
くれているのだとか。やはり高校を卒業すると同時に店をもつとい
うのは一筋縄ではいかず、いろいろと周りに支えてもらっているの
かもしれない。
412
ローテーブルの上にはキリカさんが作ってくれたサンドウィッチ
の盛り合わせの載った大皿と、ふたり分のコーヒーがあった。それ
が昼食だ。おかげでここで働いていると一食浮く。
向かいでは槙坂先輩がイギリスのガイドブックを読みながら、サ
ンドウィッチを口に運んでいた。その本はここ数日この部屋に置き
っぱなしだ。僕は僕で、やはり本を読んでいる。
なお、部屋の隅では店長夫妻の愛猫、ヴィーちゃんが丸くなって
眠っていた。キリカさんにはかまってやってくれと言われたが、当
の本人がこれではな。﹃V−C﹄というイニシャルらしき文字が書
かれたエサの皿には、少しだけ食べ残しがあった。この猫だけは時
間通りに食事にありつけたようだ。
﹁ねぇ、藤間くん﹂
不意に槙坂先輩が話しかけてきた。
広げたガイドブックを僕に見せるように掲げ、その中の記事のひ
とつを指さす。
﹁このホテル、ブティック・ホテルって紹介されてるのだけど。日
本でブティック・ホテルって言ったら、あれよね?﹂
﹁⋮⋮まぁ、あれだな﹂
互いに直接的な名詞は避けた。おしゃれな単語だが、要するにい
かがわしいことをするためのホテルである。一泊いくらの宿泊代の
ほかに、時間あたりの料金が設定されているあれだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
気まずい沈黙が降りる。
と、
﹁ここにしましょう!﹂
﹁もう決めてあるって言っただろうが﹂
因みに、イギリスでのブティック・ホテルは、日本で言うところ
のデザイナーズ・ホテルに近い意味合いのようだ。
413
休憩を早めに切り上げ、店へと戻る。
と、そこには不機嫌顔のキリカさんと、やれやれといった様子の
店長の姿があった。夫婦喧嘩とは人柄的にもTPO的にも考えにく
いので、たちの悪い客でもきたのだろうか。
﹁どうかしたんですか?﹂
その雰囲気を鋭く察した槙坂先輩が尋ねる。
﹁聞いてくださいよ、槙坂さん。お客さんの回転が悪いんです﹂
﹁え⋮⋮﹂
言われて僕たちは店内を見回してみた。
席は八割方埋まっている。盛況だ。だが、そのほとんどが休憩前
と同じ顔ぶれのようだった。理由はすぐにわかった。お一人様の客
が皆、熱心に本や雑誌を読んでいるのだ。もちろん、出どころは言
うまでもなく、店の後方にある書架である。
確かに席が埋まったところで、注文が最初の一回だけなら意味が
ない。僕としては、固定客がつけばと長期的な視野でコーヒーハウ
スという手段を提案したのだが、口をへの字に曲げているキリカさ
んを見るに、この状況をあまりよく思っていないのかもしれない。
﹁これは確かに困りましたね⋮⋮﹂
同意するは槙坂先輩。⋮⋮ここにも即物的な考えの人間がいたか。
店長に目をやれば、そんなふたりの様子を見て苦笑気味。どうや
ら彼のほうはそこまですぐに効果を求めていないようだ。現実主義
なのは女性陣だけか。
﹁槙坂さん、ちょっと﹂
﹁はい?﹂
キリカさんに手招きされて寄っていく槙坂先輩。何やらこそこそ
と内緒話がはじまった。現状を打破するための作戦会議のようだ。
﹁では﹂
﹁わかりました﹂
すぐに話はまとまったのか、ふたりは力強くうなずき合うと、そ
414
れぞれフロアに散っていった。
僕の目は自然、槙坂先輩を追う。
彼女が向かっていったのは、話題のベストセラー小説を読んでい
る中年の男性客のところだった。
﹁お客様、コーヒーのおかわりはいかがですか? 二杯目というこ
とで少しサービスさせていただきますが?﹂
﹁え? あ、ああ、そうだな。せっかくだからもらおうか﹂
男性は驚いて顔を上げた後、すぐに表情を緩めた。⋮⋮きっと槙
坂先輩は満面の笑みで接客したのだろうな。果たして、彼は本当に
二杯目のコーヒーが必要だったのか、それとも槙坂先輩の笑顔にや
られたのか。或いは、コーヒー一杯で長居していることの申し訳な
さもあったのかもしれない。
槙坂先輩が空のグラスを持って戻ってきた。
﹁マスター、アイスコーヒーひとつお願いします﹂
﹁こっちもー。ついでにサンドウィッチも頼んでくれました﹂
キリカさんも同じタイミングで帰ってきた。どうやらこちらはア
イスコーヒーに加えて、軽食の注文ももぎ取ってきたようだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
僕と店長は思わず顔を見合わせる。
ふたりの手腕に軽く戦慄した瞬間だった。
415
槙坂さん、キャンパスライフ︵前書き︶
最近ちょっと思うように筆が進みません。
そんなわけで夏休み編の途中ですが、気分転換に番外編を書いてみ
ました。
416
槙坂さん、キャンパスライフ
﹁涼さーん﹂
四限目の講義が終わった後、キャンパス内︱︱明慧学院大学の構
内を足早に歩くわたしに、誰かが呼びかけた。
聞き慣れた声。
立ち止まって振り返ると、車椅子の女の子の姿があった。︱︱唯
子だ。膝の上にはスマートフォンが乗っている。
﹁レアキャラ発見﹂
﹁失礼ね﹂
唯子が横に並ぶのを待って、また歩を進める。歩く速さは先ほど
よりも落として、普通。別に車椅子の唯子に合わせたわけではない。
車椅子を自分の足の如く巧みに操る彼女にそんな気遣いは無用だ。
ただ単に先ほどのような速さでは話をするのに不適なだけ。
﹁会わないのは学部の違いじゃないかしら﹂
わたしは工学部の建築デザイン学科で、唯子は保健学部のリハビ
リテーション学科。
聞けば彼女は理学療法士になりたいのだという。残念ながら彼女
の足の運動機能が今以上に回復する見込みはないが、それでも理学
療法を学び、少しでも可能性のある人がいればその力になりたいの
だそうだ。
高校と同じ感覚で通えるこの明慧大に彼女の希望を叶える学部が
あったのは幸運だったと思う。車椅子が不可欠な唯子にとっては、
生活スタイルや生活圏を変えるのは容易ではないはずなのだから。
﹁そもそも涼さん、あまり授業とってないでしょ?﹂
﹁そうね﹂
わたしは来年、アメリカに渡る。藤間くんがわたしをつれていっ
てくれるのか、わたしが勝手についていくことになるかはわからな
417
いけれど。どちらにしても、図書館学を本場アメリカで学び、その
まま向こうで司書になりたいという藤間くんと一緒に渡米すること
になるだろう。
だから、今の明慧大は腰かけ。
講義もあまり取らず、取るにしてもテキストを買わなくていいも
のばかり選んでいる。唯子にレアキャラと言われてしまう所以だ。
﹁おかげで涼さんのことよく知らない男連中に、﹃今日槙坂さんは
?﹄とか﹃槙坂さん紹介して﹄とか﹃槙坂さん合コンに呼んで﹄と
か言われるんだから。人の顔見るなりそんなこと聞く? フツー﹂
唯子は頬を膨らませる。
どうやら附属から上がってきたのではない、よその高校からきた
学生が﹃槙坂涼﹄の噂を聞きつけ、唯子を頼っているらしい。
﹁そう。でも、わたしにはもう決まった子がいるって言っておいて﹂
﹁はいはい。言ってます言ってます。数々の偉業とともに、ちゃん
と言ってますとも﹂
とても面倒くさそうに言う唯子。
数々の偉業? 最新のものは、さしずめ人前で藤間くんとキスを
したことに違いない。
﹁学部と言えば、涼さんが工学部に進んだのは意外だったなー。し
かも、建築﹂
﹁正確には、建築デザインね﹂
やはり﹃槙坂涼﹄のイメージだと、人文学部か外国語学部あたり
だろうか。
﹁涼さんってさ、やっぱ今年一年しかいないんだよね?﹂
﹁そうね。たぶんそうなるわね。でも、適当に学部学科を決めたつ
もりはないわ﹂
本当に腰かけのこの一年を適当にやり過ごすつもりなら、それこ
そ﹃槙坂涼﹄のイメージに合わせた学部や、もっと単位の取りやす
そうな学科に行けばいい。でも、わたしはちゃんと考えた末にこの
道を選んだ。
418
﹁わたしね、大きな建物をデザインしてみたいの﹂
﹁国立競技場?﹂
﹁それはちょっと手に余るわね﹂
スポーツ少女である唯子は気になる建物かもしれないけれど。
﹁そこまで大きくなくていいわ。でも、街のシンボルになるような
建物をデザインしたいの﹂
それを見るために人が集まってくるような、そんな建物。そして、
それをきっかけにしてそこに興味がなかった人にも興味をもっても
らえるような、外観だけでなく機能性も兼ね備えたような施設。
そう、例えば図書館とか。
へぇ、と唯子が感心していると、わたしたちの目の前に学術情報
館が見えてきた。
中にはパソコンが並んだ情報学教室やその方面の先生方の研究室、
大学の情報システム部、そして、図書館とラーニングコモンズがあ
る。学術情報館とはその総称だ。
﹁涼さんはあそこ?﹂
﹁ええ、そう﹂
﹁じゃあじゃあ、藤間君もくる?﹂
どこか期待したふうの唯子の声。
﹁今朝、そう言っていたわね。お風呂のときだったかしら?﹂
﹁あたし、藤間君のこと気に入ってるけど、別に取ろうとか思って
ないから、そんな強烈なアピールしなくても⋮⋮﹂
唯子が引き攣り気味の苦笑をもらす。
こういうことは、折に触れ、はっきりさせておかないと。特に唯
子は、ことあるごとに足の不自由さを理由に藤間くんとくっつこう
とするのだ。
﹁て、ていうか、涼さんと藤間君って、その、もうそういう関係な
の?﹂
﹁﹃もう﹄というよりは﹃とっくに﹄というところね。去年の夏休
みにはそうだったもの﹂
419
﹁え?﹂
唯子のハンドリムを回す手が止まり、車椅子が減速した。
思えばあの日の昼には市立の体育館で唯子と会ったのだった。初
めてはその夜。とは言え、あまり関連性をもたせても唯子が困るだ
ろうから、このことは黙っておく。
﹁さすが涼さん、なのかな?﹂
うーん、と首を傾げる。手は再びハンドリムを回しはじめていた。
﹁詳しいこと聞きたい? 好きよ、そういう話﹂
﹁い、いや、いい、いい。あたしにはまだ早そうだから﹂
それは残念。せっかくだから先日藤間くんの部屋に行ったとき、
漫画雑誌が置いてあったので、そこに載っていた水着グラビアの真
似をしてあげた話でもしようかと思ったのに。
なお、藤間くんは最初、くだらないことをするなと言っていたけ
れど、最後にはわたしがトップレスでポーズを決めて攻め落とした。
﹁涼さんっていつから藤間君に目をつけてたの? 誰もあんな子が
いるなんて気がつかなかったのに﹂
﹁それなら忘れもしない、二年の春ね。みんなが今年の新入生には
カッコいい男の子がいないって騒いでたときよ﹂
気がつかないのも当然だ。あの子は、休み時間にはまるで気配を
消すかのように顔を伏せて本ばかり読んで、サイレントな目立たな
い生徒を装っていたのだから。
﹁うわ、最初から!? ⋮⋮意外とハンター?﹂
﹁かもしれないわね﹂
退屈な日常の中に現れた彼。
わたしは自分の頭に押し当てていたピストルを彼に向け、見事撃
ち抜いたのだから。
学術情報館が目の前まで迫ってくると、わたしたちは緩やかなス
ロープをのぼって入口へと向かった。唯子もついてくるらしい。最
初から行くつもりだったのか、それとも久しぶりに藤間くんの顔が
見たいからか。
420
学術情報館の入口は、四限目が終わった後という時間もあって、
図書館やラーニングコモンズ、情報学教室を利用する学生がひっき
りなしに出入りしている。
と、その中に見知った顔の男子学生二人組の姿があった。
﹁あ、槙坂さん。ちょうどよかった﹂
彼らはわたしたちとは反対にそこから出てきたところで、こちら
に気づき、寄ってくる。
同じ建築デザイン学科の、確か幸塚君と安森君という名前だった
と記憶している。今、声をかけてきたのが幸塚君だ。
﹁今度、何人かで遊びにいくんだけどさ、槙坂さんも一緒に行かな
い?﹂
﹁あら、いいわね﹂
﹁え、マジで!?﹂
彼は驚きながらも喜色満面だ。そういう返事が返ってくるとは思
っていなかったのだろう。
﹁でも、ごめんなさい。休みの日は彼と一緒に過ごすことにしてい
るの﹂
だけど、続きを聞いて、がっくりと肩を落とす。
よく藤間くんに言われる。期待をもたせておいてひっくり返すの
はやめろ、と。別にそんなつもりはないのだけど、どうやら一度は
相手の意見や提案を肯定的に受け止めるのは﹃槙坂涼﹄の癖のよう
なのだ。
﹁ていうか、彼!?﹂
安森君がはっとしたように我に返り、問い返してくる。
﹁ええ、彼氏。ロビーに高校の制服を着た男の子がいなかった?﹂
﹁え? ああ、そう言えばいた、かな?﹂
やはりキャンパスの中で制服は目立つのか、少なくとも安森君は
視界にその姿を認めていたらしい。そして、どうやらあの子はここ
にきているようだった。
﹁え、いや、でも、高校生⋮⋮﹂
421
﹁そ、年下の彼﹂
﹁﹁⋮⋮﹂﹂
幸塚君と安森君は言葉を失くしたまま、説明を求めるように唯子
を見た。
﹁残念だけど、本当なんだよねー﹂
ふたりにそう伝える唯子は実に楽しそうだった。
﹁都合がつけば行くかもしれないから。また誘って。じゃあね﹂
﹁あ、ああ、うん⋮⋮﹂
気の抜けたよう返事をする幸塚君、安森君と別れ、私たちは自動
ドアから学術情報館の中に入った。
﹁あーあ、見事撃沈。絶対もう誘わないと思うけどなぁ﹂
﹁そう? だったら縁がなかったのね﹂
二枚の自動ドアにはさまれた前室を抜けると、そこはロビーにな
っていて、たくさんのテーブルとイスのセットが置かれている。左
には図書館への入口があり、右手には情報学教室が並ぶ廊下が伸び
ている。上階へ行く階段やエレベータはその廊下に入ってすぐのと
ころにある。
ロビーを見渡すと、おしゃべりをする学生でテーブルはほとんど
埋まっていて︱︱その中に制服を着た男子高校生の姿があった。藤
間くんだ。
彼はテーブルの上に数枚のプリントの束を広げ、ぱらぱらとめく
り見ている。わたしたちが近づいていくと、ある程度のところでこ
ちらに気がついた。わたしを見、唯子を見て︱︱そうして立ち上が
った。人好きのする笑みを浮かべる。
﹁お久しぶりです、伏見先輩﹂
﹁あ、うん。久しぶり⋮⋮って、涼さんより先にあたし!?﹂
こういう子だ。
もちろん、先の笑みもわたしに向けたものではない。
﹁わたしとは毎日会っているものね﹂
﹁三日ぶりくらいと思ったが?﹂
422
笑みを消し、しらっとした顔と口調の藤間くん。
﹁涼さん⋮⋮﹂
斜め下から唯子の視線が突き刺さってくる。
確かにわたしもそれくらいだと記憶している。先ほど唯子に言っ
たことは嘘だ。心の中で舌を出す。でも、だいたい週に二日くらい
は彼の部屋に行っているだろうか。
あのね藤間くん、だったら先に彼女であるわたしに声をかけまし
ょうね、と言いたくなったけどやめておいた。それでも藤間くんと
唯子が顔を合わせるのが久しぶりであることには違いない。
﹁藤間君、藤間君﹂
と、唯子が車椅子の上で両手を広げ、何やらアピールしている。
これはイスに移動させてほしいという要求だ。もちろん、わたしと
してはそんなことはさせないのだった。
﹁はいはい、こうしましょうね。このほうが速いから﹂
わたしはテーブルを囲むイスのひとつを横によけると、そこに唯
子の車椅子を滑り込ませた。イスと机が固定されている大教室なら
兎も角、こんなところでいちいちイスを乗り換える必要はない。
﹁もー、ちょっとした冗談なのにー﹂
唯子は苦笑。
わたしよりも先に藤間くんにお姫さま抱っこをしてもらった恨み
は、ちょっとやそっとで晴れるものではないのである。
﹁で、藤間君、なに読んでたの?﹂
﹁論文です。読みたいのがあって、複写の取り寄せを頼んでいたの
が今日届いたんです﹂
途端、唯子が、ぎぎぎ、と首をこちらを向いた。
﹁⋮⋮涼さん、こんな子、あたしたちの周りにいたっけ?﹂
﹁この子が特別なのよ﹂
高校生で論文を読みたがり、そのために大学図書館で文献の複写
を取り寄せる高校生などそうはいないだろう。少なくとも高校の三
年間、わたしの周りでは藤間くんしか知らない。
423
﹁これは帰ってから読むことにして⋮⋮ふたり一緒とは珍しいです
ね﹂
藤間くんは文献の複写をA4サイズの封筒にしまいながら聞く。
﹁うん、たまたまそこで涼さんと会ってね﹂
﹁今度、唯子が合コンに誘ってくれるらしいの。なかなか学生らし
いと思わない?﹂
隣では唯子が﹁え?﹂という顔をしているけど、それにはかまわ
ずわたしもイスに腰を下ろした。
﹁そんなことしてる場合か﹂
﹁あら、勝手に行けとは言わないのね﹂
﹁僕は冷静に判断して、そんなことをしている余裕はないと言って
いるんだ﹂
むすっとして言葉を重ねる藤間くんと、思わず頬が緩むわたし。
最近の藤間くんは、以前のように突き放したことを言わないこと
をわたしは知っていた。ようやく彼氏としての自覚が出てきたのだ
ろうか。
そして、実際にそんなことをしている余裕がないことも確かだっ
た。留学の準備もあるし両親への説明説得もある。何より急務は英
語力の向上だ。語学学校への留学やワーキングホリデーではないの
で、求められる英語力は高い。ひとまず条件付きで出願して、指定
の期日までに結果を出すというかたちになることだろう。
でも、そこは同じ目的を持つ藤間くんがいる。彼と一緒に勉強す
ることで目に見えて成果が出ていた︵週に何度か彼の部屋に行くの
は、その勉強も含んでいる︶。
﹁じゃ、あたしはそろそろ﹂
唯子は車椅子を少し下げると、先ほどわたしがどけたイスをテー
ブルに戻した。
﹁もう?﹂
﹁うん。もともと藤間君の顔を見るのが目的だったから。人と約束
もあるしね。⋮⋮じゃあね、藤間君、涼さん。また今度﹂
424
そうして笑顔でそう言うと車椅子を泳ぐように進ませ、人にもイ
スにもぶつかることなくテーブルの間をすり抜けて、エントランス
から出ていった。
テーブルにはわたしと藤間くんが残る。
周りからはいくらか好奇の視線が向けられているのがわかった。
﹃槙坂涼﹄は大学に上がっても相変わらずで、高校のころのように
知らない生徒はいないとまではいかないものの、そこそこ噂になっ
ている。そのわたしが高校生の男の子と一緒にいるのだから目を引
かない理由がない。わたしと藤間くんの関係は、附属から上がって
きた子なら誰でも知っているだろう。でも、それは総合大学の学生
の全体数から見ればほんのわずかでしかない。
﹁ねぇ、藤間くん。今度ちょっとした学園祭があるんだけど、こな
い?﹂
﹃遊友祭﹄と名付けられたそれは、新入生歓迎の意味を込めて行わ
れる小規模の学園祭だ。五月の最終週の土日に開催される。
﹁なぜ僕が?﹂
﹁わたしが合コンに誘われる確率が、たぶんぐっと減るわ﹂
もちろん、わたしが藤間君と一緒に楽しみたいのもあるけど、彼
氏がいると周知させることで唯子に迷惑をかけることも減るだろう
し、わたしも煩わしさから解放される。先にも述べたように、わた
しも暇ではない。高校のときみたいに曖昧なことや思わせぶりなこ
とを言って、周りを楽しませたりわたし自身が﹃槙坂涼﹄で遊んだ
りしている余裕はない。
﹁⋮⋮わかった。都合をつけるよ﹂
藤間くんは殊更平静を装って、そう返事をした。
﹁さて、藤間くん。改めて、三日ぶりね﹂
﹁そうなるかな﹂
話が変わって少しほっとした様子の彼。
﹁どうしてここに?﹂
﹁さっきも言っただろう。文献の複写が届いたから取りにきたんだ。
425
それをここで読んでいた﹂
﹁それだけ? 読むのは家でも図書館の中ででもできるわ﹂
わたしはまっすぐ藤間くんを見据え、重ねて問う。
彼はしばらくの間、言いにくそうにしていたが、やがて観念した
ように口を開いた。
﹁今日あたりここで待っていたらあなたがくるかと思ったんだ﹂
﹁そう﹂
わたしは思わずにっこり笑う。
﹁じゃあ、そろそろ行きましょうか﹂
﹁おい、それだけか﹂
イスから立ち上がり、図書館へ向かおうとするわたしを、藤間く
んが慌てて追いかけてくる。彼としては、わたしがもっと喜んだり
藤間くんのことをからかったりするのを予想していたのだろう。
でも、
﹁ええ、それだけよ。それ以上の言葉はいらなさそうだもの﹂
今日、藤間くんとは特に約束をしていなかった。
でも、彼はここにきた。
昨日ではなく、明日でもなく、今日ここにきた。
わたしもそう。
今日ならここにくれば藤間くんに会える気がしたから。
つまりはそういうこと。
言葉は必要ないのだ。
﹁今日、部屋に行っていい?﹂
﹁⋮⋮勝手にすればいいさ﹂
藤間くんは、わたしが話題を変えたことや、女の子が言うにはと
ても大胆な、それでいて実にわたしらしい発言、それらをひっくる
めて、あきらめた様子で投げ返してきた。
﹁あら、ここでその台詞?﹂
﹁どうせ僕が何を言ってもくるだろうしね﹂
﹁ええ、もちろん﹂
426
わたしははっきりと言い切る。
﹁それに︱︱そろそろそう言い出すと思ってた﹂
﹁わたしもよ。そろそろそう言ってもいいころだと思ってたわ﹂
わたしと藤間くんは図書館の自動ドアをくぐると、それぞれ学生
証とライブラリーカードを読み取り機にかざして、入館ゲートを通
過した。
427
第五話︵1︶
﹃天使の演習﹄でのアルバイトも一週間近くがたとうとしていた。
本日も、午前は何ごともなく過ぎた。このまま夏風邪で倒れたと
いうキリカさんの母親の復帰までつつがなくすめばいいのだが。
︱︱今は午前の忙しさが一段落して、奥の事務室兼控室で休憩の
最中だった。
ローテーブルの上にはサンドウィッチが盛られた大皿が載ってい
る。ここでバイトをするようになって昼は毎日サンドウィッチだが、
不思議と飽きない。間にはさむ具材がバラエティに富んでいるから
だろう。時にはパンをトーストして、クラブハウスサンドになって
いることもある。
﹁何を読んでいるの?﹂
向かいから、同じく休憩中の槙坂先輩が聞いてくる。
その問いの通り、今、僕は本を読んでいた。
﹁﹃コーヒーとパン好きのための北欧ガイド﹄﹂
それがタイトル。
因みに、改訂版である。
﹁北欧? ああ、やっぱり行くのね﹂
﹁行かない。仮に行くにしても、あなたをつれていくつもりはない﹂
特に後者ははっきり言っておかないと。
さらに僕は続ける。
﹁急にコーヒーに興味が出てね﹂
コーヒーはよく飲むほうだ。部屋にもコーヒーメーカーがある。
ついでに中学のころは味もろくにわからないのにブラックで飲んで
いたという痛々しい過去まである。でも、その毎日のように飲んで
いるコーヒーを、僕は単なる飲みものとしてしか見ていなかった。
店長が今の僕と同じ高校生のときから凝り、こうして店を持つにま
428
で至ったコーヒーの魅力とは奈辺にあるのだろうか。それを知るた
めに、簡単な本から読んでみているのだった。
僕は黙ってそれを読む。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ひたすら読む。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ねぇ﹂
と、槙坂先輩。
﹁ずいぶんと熱心に読んでいるのね﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
﹁隠して別の本を読んでたりして﹂
﹁見たらわかるだろう﹂
別に小学生が国語の教科書を音読するように机の上に立てている
わけではないので、そんなことをしていないのは彼女の目から見て
も明らかなはずだ。尤も、授業中なら似たようなことをすることも
あるが。
﹁ならどうしてこっちを向かないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
僕は本を閉じ、ため息をひとつ。
あきらめた。
﹁⋮⋮自分の格好を見ろ﹂
僕は顎で指し示すようにして促す。
槙坂先輩は不思議そうに己の姿を見下ろした。
今日の彼女はミニ丈のティアードスカート。低めのソファに座る
姿は、ローテーブルをはさんで向かいにいる僕から見ると、いろい
ろと非常に危うい。
僕が言いたいことを的確に察した彼女は、さっと両の掌を重ねて
スカートの上に置いた。顔が赤い。
429
前にも似たようなことがあったが︱︱目のやり場に困っても、こ
ういうことは指摘しにくいのである。だから、そちらを見ないよう
に読書に集中していたのだが。
﹁キ、キリカさんが言ったの﹂
槙坂先輩は言い訳のようにそんなことを言う。
﹁キリカさんが? 何を?﹂
﹃明日はミニでお願いします。あ、ないなら制服でもいいですよ。
それはそれで需要がありますので﹄
﹁って﹂
﹁真に受けるなよ⋮⋮﹂
軽い頭痛に見舞われる僕。何を考えているのだろうな、あの人は。
そして、何で素直に従っているのだろうか、この人は。
呆れる僕の前で、槙坂先輩はこのところこの部屋に置きっぱなし
になっていたイギリス観光のガイドブックを引き寄せ、膝の上に置
いた。
﹁いいじゃない。これくらい普通よ﹂
まぁ、普通、なんだろうな。実際、このスタイルも夏休みに入っ
て二、三度見たことがある。
﹁こんなどこにでもあるような格好でお客さんが喜んでくれて、多
少なりとも売り上げが上がるならいいことじゃない﹂
﹁喜ばせなくていい﹂
そして、これで喜ぶやつは死んでしまえ。
﹁気になるの?﹂
﹁っ!?﹂
槙坂涼は悪魔じみた笑みとともに膝の上のガイドブックを持ち上
げてみせ︱︱僕は反射的に顔を背けた。彼女がくすりと笑う。行儀
よく足をそろえて上品に座っているので奥まで見えるようなことは
ないが、心臓に悪い光景であることには変わりない。
430
槙坂先輩が再び本を膝の上に載せたのが気配でわかった。が、僕
はそのままそっぽを向いたままでいた。向いたままで、ひと言。
﹁⋮⋮僕の気持ちも考えてくれ﹂
そして、沈黙。
やがて僕が思わず口をついて出たひと言を後悔しはじめたころ、
槙坂先輩はまたも小さく笑った。
もちろん、僕は目のやり場に困るから今みたいなことを言ったの
ではなく、槙坂先輩もそれを正確に理解したようだった。
﹁それは彼氏としての気持ち?﹂
﹁⋮⋮そう思ってもらってかまわない﹂
﹁そう。じゃあ、午後はできるだけカウンタの向こうにいるように
するわ﹂
そうしてもらえるなら僕としてもよけいなことで心乱さなくてす
む。何の罪もない男どもに憎しみを抱きたくはないものだ。
と、そこで槙坂先輩が立ち上がった。何だと思って様子を窺って
いると、彼女はローテーブルを回り込んでこちら側へとやってきた。
ぼすん、と隣に座る。
﹁横にいれば短いスカートも気にならないでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
僕は軽く天を仰いだ。尤も、見えるのは事務室の天井だが。
﹁それは確かに名案だが、﹂
今度は僕が立ち上がった。
﹁ちょうど僕の休憩が終わりのようだ。⋮⋮どうぞごゆっくり﹂
今でこそこうしてふたり一緒にいるが、今日の昼休憩は三十分ほ
ど差をつけてはじまった。僕が先で、彼女が後。よって、僕が先に
フロアへ戻ることになる。
﹁もぅ﹂という槙坂先輩の声は聞こえないことにして、僕は事務室
兼控室を後にした。
431
第五話︵2︶
休憩を終えて仕事に戻る。
食事をするには不向きな喫茶店の昼どきとあって、客の入りはほ
どほどといったところ。尤も、これも一時的なもので、言っている
うちにまた賑やかになることだろう。
と、そんな店内で、キリカさんが奥に設置した書架を睨んで仁王
立ちになっていた。あまりの異様にお客さんも声をかけるのを躊躇
っている。
﹁どうしたんです、あれ﹂
僕はカウンタの向こうにいる店長に聞いてみた。
﹁どうやら本の並びが気に喰わないみたいですよ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
言われてみれば、何やら考え込んでいる様子。ここまで﹁うーん
⋮⋮﹂とか﹁むー﹂といった声が聞こえてきそうだ。
﹁因みに、普通図書館ではどういう順番で並べているんですか?﹂
﹁通常はNDC︱︱日本十進分類法という規則に従って分類して配
架していますね﹂
図書分類の歴史は古い。何せ世界最古の図書館であるアッシュル
バニパルの図書館にまで遡ることができ、紀元前3世紀のアレキサ
ンドリア大図書館にはすでに、司書のカリマコスによって、詩人、
法律家、哲学者、歴史家、雄弁家、雑、の6つに分類された﹃ピナ
ケス﹄と呼ばれる目録があったと言われている。
近代になって1870年、ウィリアム・ハリスが新たな分類法を
もり・きよし
考案し、さらにメルヴィル・デューイがそれを整備した。その﹃デ
Decimal
Clas
ューイ十進分類法﹄をもとにして、1928年、森清が現在の﹃日
本十進分類法︵NDC=Nippon
432
sification︶﹄を発表したのである。
これらに共通して根底にあるのは、哲学者フランシス・ベーコン
が著書﹃学問の進歩﹄において提唱した人間の精神活動の分類だ。
それによれば人間の精神活動は記憶、想像、理性に分類されるの
だという。ハリスやデューイは、記憶=歴史、想像=詩学、理性=
科学、と置き換え、図書分類に当てはめた。なおかつ、ベーコンの
分類順を逆にしているので、﹃逆ベーコン式﹄﹃逆ベーコン順﹄な
どと呼ばれている。
こうしてできたNDCが、日本の公共図書館や大学図書館では用
いられているのである。⋮⋮明慧大の図書館で顔見知りになった女
性の司書さんは﹁せっかくきれいに並べても一瞬でぐちゃぐちゃに
されるので、学生死ねと思いますねー﹂と、さらりと言っていたが。
﹁まぁ、こんな私的な書架で分類法通りに配架しても無意味でしょ
うね﹂
因みに、﹃配架﹄は本来﹃排架﹄という字を当てる。﹃排﹄の字
には﹁一定の順序で連ねる﹂という意味があり、図書館学のテキス
トにもこちらを使っているものが少なからずある。だが、どうして
も﹃排除﹄﹃排斥﹄といったネガティブなイメージがつきまとうた
め、﹃配架﹄のほうが一般的になっているようだ。
﹁なるほど。なら、彼女に任せておきましょうか。細かいところに
までこだわりますが、何だかんだで落ち着くところに落ち着きます
よ﹂
どこか実感のこもった発言だった。店長は高校のときからキリカ
さんと同棲していたというし、実際に身をもって知っているのだろ
う。⋮⋮なぜか僕は﹃苦労﹄という言葉を連想した。
不意にドアベルが涼しげな音を奏でた。客がきたようだ。
﹁いらっしゃいませ﹂
店長が応じる。
入り口のドアを開けたままで顔を覗かせたのは、僕と同年代くら
433
いの女の子ひとりだった。
﹁すみませーん。ふたりなんですけど空いてますか? あ、テーブ
ル席で﹂
﹁ええ、空いてますよ﹂
﹁ああ、よかった。⋮⋮唯子、空いてるってー﹂
女の子は嬉しそうに破顔した後、外に向かって呼びかけた。連れ
合いがいるようだが⋮⋮
唯子?
奇遇なことに僕にも唯子という名前の知り合いがひとりいるな。
気になって見にいってみると、入り口の外の三段ほどの階段、とい
うか段差の下に、車椅子に座ったスポーツ少女然とした女の子がい
た。
﹁伏見先輩﹂
﹁ん? おお、藤間君じゃーん﹂
やはり伏見先輩だった。
隣では最初に店に入ってきた伏見先輩の友達と思しき女の子が驚
きの声を上げる。
﹁えっ、藤間君って、あの!? 私、初めて見たかも!﹂
﹁そう、﹃あの﹄藤間君﹂
伏見先輩が得意げに答えた。⋮⋮いったい﹃どの﹄藤間君なのだ
ろうな。
﹁どうしたの、こんなところで。って、その恰好、もしかしてバイ
ト?﹂
﹁そんなものです﹂
結果的にそうなのだがそこには、客としてきたら忙しそうだった
ので見るに見かねて手伝うことにした、なんていう普通ではお目に
かかれない経緯があったりする。
﹁そっかそっか。よし、じゃあ、せっかくだから介助の経験をさせ
てあげよう。⋮⋮悪いんだけどさ、入り口まで運んでくれる?﹂
そう言うと伏見先輩は、ヘイカモン、とばかりに両手を広げて何
434
やらアピールしてくる。⋮⋮マジか。
まぁ、これも店員の仕事と思っておこう。
﹁でも、どうやればいいんです?﹂
﹁とりあえずこの上まで運んでくれたらいいから﹂
と、伏見先輩は実に気楽にいってくれる。
仕方がない。僕は車椅子の横に回った。
﹁失礼します﹂
片手を彼女の背に回し、もう片手は両足まとめて膝の裏に差し込
む。
﹁やった、お姫様抱っこ!﹂
介助である。
そうやって伏見先輩を持ち上げると、彼女は僕の首に手を回して
きた。
﹁重くない?﹂
﹁特には﹂
これでもその昔、我が師につき合わされて喧嘩に明け暮れていた
身だ。別にセンスや才能だけでやってのけていたわけではなく、そ
れなりに体を鍛えもした。尤も、今はその遺産を喰いつぶしている
わけだが。それでも伏見先輩を重いと感じない程度には力はある。
﹁男の子だねぇ。⋮⋮槙坂さんとどっちが軽い?﹂
﹁あの人を運搬した経験がないので、何とも﹂
槙坂先輩は平均よりも背が高い。一方、伏見先輩は小柄な部類だ
ろう。だからと言って、どちらが軽いなどと予想をつけるつもりは
ない。たぶん僕にとってはどちらも軽い。
最上段に辿り着いた。
﹁どうします? 店の中までつれていきましょうか?﹂
﹁うん、と言いたいところだけど、もう下ろしてくれていいよ。立
てるから﹂
﹁え? 立てるんですか?﹂
信じられない思いで、おっかなびっくりそろっと下ろせば、伏見
435
先輩はその言葉通り自力で立ってみせた。ただし、あまり足に力は
入っていない様子で、手は店の入り口のドアレバーをつかんでいる。
聞くところによれば、いちおう立って歩けないこともないのだそ
うだ。ただし、段差はむり。平地でも何かをまたいだりするのも、
やはりできないとのこと。
﹁ほら、情報学の授業のとき、プリントアウトしたものを前のプリ
ンタまで取りにいったりするでしょ? あれくらいだったら歩いて
いくし。まぁ、だいたい誰かがついでに取ってきてくれるんだけど
ね﹂
伏見先輩はそのまま店の中へ。
﹁車椅子はどうします?﹂
﹁邪魔にならないところによけとけばいいよ。そんなもの誰も盗ら
ないしね﹂
す
伏見先輩はあっさりとそう言う。そして、その車椅子はすでにも
うひとりの彼女が動かし終えていた。いつもの流れなのだろう。
空いていたのは店に入ってふたつめのテーブル席。伏見先輩は擦
るようにして足を運びつつ、手は手前の席のソファの背やテーブル
に順々に添えていく。間、僕は何があってもいいように、彼女の横
について歩いた。さっきまで書架を睨んでいたキリカさんがこちら
に気づいたが、僕は自分に任せてほしいと目で合図を送った。それ
でも心配そうに最後まで見守ってくれていた。
そうして伏見先輩が席につく。
僕はそれを見届けてから、ようやくお冷をテーブルへと運んだ。
そうしてから改めて、
﹁いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?﹂
﹁あっはっは、勤労少年だー﹂
﹁茶化さないでください。バイト中なんですから当たり前でしょう﹂
面倒くさい先輩がきたものだ。
﹁⋮⋮で、どうします?﹂
ややぞんざいな口調で僕は再度問う。
436
﹁じゃあ、おすすめで。ふたつね﹂
﹁わかりました﹂
﹁あ、そうだ。紹介しとくね。こっち、サナ﹂
えぐち・さな
伏見先輩は向かいに座った友達を示してそう言った。
﹁江口咲那です。よろしくね﹂
﹁藤間真です﹂
﹁うん、知ってる。﹃あの﹄藤間君だよね﹂
だから、﹃どの﹄だ。
﹁サナね。あのとき遊園地にいたんだよ﹂
﹁え、なになに? 遊園地って?﹂
伏見先輩は含み笑いで言い、その意味ありげな物言いが気になっ
たのか、江口先輩が喰いついてきた。
遊園地の件と言えばひとつしかない。夏休み前の六月くらいだっ
たか、僕は槙坂先輩とともに遊園地に遊びにいったことがあり、そ
こでこの伏見先輩と出くわしたのだった。
そのときはたまたま彼女ひとりだったが、当然ひとりできている
はずがなく、友達も一緒だと言っていた。その友達の中にこの江口
先輩もいたのだろう。
﹁んー? もう時効かな? 時効だよね。実はね、ほら、前にみん
なで遊園地に行ったでしょ? ビビューン。あのとき、涼さんと藤
間君、デートしてたんだよねー?﹂
時効早いな、おい。
結局、僕が止める間もなく、伏見先輩は話してしまった。やはり
こういうところはスポーツ少女然としていても、噂好き恋バナ好き
の女の子だと思う。
﹁うっそ!﹂
﹁しかもね、あのときだけふたりは︱︱﹂
﹁あ、バカ!﹂
瞬間、彼女はぐりんとこちらを向いた。
﹁あ? 今あたしにバカっつった?﹂
437
おっと、つい。
だが、もう遅い。伏見先輩は、正義は我にあり、もう話す、とば
かりに意地の悪い笑みを浮かべた。
﹁唯子?﹂
と、そこに誰かさんの声。
﹁あぁ、槙坂先輩﹂
僕はその呼称を殊更はっきりと発音した。
どうやらもう休憩を切り上げて出てきたようだ、いちおう時給で
働いている身で、一時間の休憩がちゃんと確保されているが、実際
はけっこういいかげんだ。店の状況を見て、勝手に早く戻ってくる
こともよくある。
さてさて、これはタイミングがいいのか悪いのか。
﹁え、涼さん? もしかして涼さんもここで一緒にバイト?﹂
﹁ええ、そうよ﹂
槙坂先輩は知り合いの予期せぬ来店にも慌てた素振りはなく、落
ち着いた態度で受け答える。﹁あっやしー。ますますあやしー﹂と
江口先輩。
﹁あ、涼さん、すっごいかわいい恰好してる!﹂
﹁そう? ありがとう﹂
例の服にエプロンをつけた槙坂先輩は、褒められても照れたり否
定したりせず、大人っぽく微笑みを浮かべつつそう返した。
伏見先輩が僕に囁いてくる。
﹁そういうお店?﹂
﹁⋮⋮違いますよ﹂
まぁ、店長夫人は時々妙なことを考えつくみたいだが。
﹁さて、僕は戻るよ。注文も受けているしね﹂
いつまでもしゃべっていてはさすがに怒られる。槙坂先輩も出て
きたことだし、ここは槙坂先輩に任せて僕は仕事に戻るとしよう。
﹁涼さん、聞いて聞いて。あたし、藤間君にお姫様抱っこしてもら
ちゃった﹂
438
﹁あら、そうなの?﹂
踵を返した僕の背に、嬉々とした声の伏見先輩と相変わらず余裕
のある槙坂先輩の、そんなやり取りが聞こえてきた。⋮⋮いらんこ
とを言ってくれる。背中にいやな汗が流れる思いだ。
僕はカウンタに戻ると店長に注文を伝えた。
﹁お友達ですか?﹂
その店長は、さっそく本日のおすすめコーヒーをアイスで用意し
ながら僕に聞いてくる。
﹁学校の先輩です﹂
﹁そうでしたか。⋮⋮ああいうお客さんがくるときのことも考えな
いといけないのかもしれませんね﹂
おそらく入り口の段差のことだろう。
確かに。後付けでバリアフリーにするには構造的に難しそうだが、
せめて段差のところに手すりをつけるくらいはしたほうがよさそう
だ。現状のように左右が植え込みではお年寄りだって危ない。
程なくして槙坂先輩も戻ってきた。
﹁なんだ、もう戻ってきたのか。せっかくだからもう少し話してき
たらよかったのに﹂
﹁あら。藤間くんが相手してあげたほうが喜ぶんじゃない?﹂
少し棘を感じる言い方だった。
﹁⋮⋮﹂
やはり原因はあれだろうか。
そんな槙坂先輩の微妙な変化に気づいているのは僕だけのようで、
横ではキリカさんが﹁こんなところに不良バイトがおる﹂と呑気に
のたまっていた。
﹁藤間君、お願いします﹂
﹁あ、はい﹂
店長がカウンタにコーヒーの入ったグラスをふたつ置いた。
僕はそれをトレイに載せると、コーヒーミルクとガムシロップ、
ストローを添え、テーブルへと運ぶべく体の向きを変える。
439
と、一瞬、槙坂先輩と目が合ったが、彼女はぷいとそっぽを向い
てしまった。
やれやれ、失敗したな︱︱頭を掻きたい思いだったが、あいにく
と両手がふさがっていてそれも叶わない。仕方なく僕は槙坂先輩の
横を抜け、コーヒーを伏見先輩たちのもとへと運んだ。
﹁お待たせしました﹂
﹁ねねっ、藤間君。涼さんと一緒に雑誌の取材を受けたって本当?﹂
﹁本当です﹂
僕はふたりの先輩の前にそれぞれグラスを置きながら答える。
﹁とは言っても、載ると決まったわけではないですが﹂
できれば載らないでほしいところだ。
﹁いーや、絶対載るね﹂
だが、僕の淡い期待を、伏見先輩は無情に打ち砕く。
﹁それも最初の見開き2ページで。だって、わざわざ場所変えて何
枚も撮ったんでしょ? 1ページでまとめて四組紹介されるような
カップルのために、そこまでやらないよ﹂
伏見先輩の言葉から何となく紙面の構成の想像がつくな。おそら
く最注目は見開き2ページで紹介されるのだろう。そのほかは1ペ
ージを四分割して四組。もしかしたらその中間として、1ページを
独占するひと組があるのかもしれない。
江口先輩が首を傾けるようにして、僕の顔を覗き込んできた。
﹁藤間君ってさ⋮⋮もしかしてけっこうイケメン?﹂
﹁さぁ、どうでしょうか。僕はいたって普通のつもりですけどね。
⋮⋮では、ごゆっくりどうぞ﹂
僕はその問いをかわし、軽く一礼してからテーブルを離れた、
伏見先輩たちは特に長居することなく帰っていった。
出るときもまた僕が呼びつけられるかと思ったが、レジを打った
キリカさんがそのまま伏見先輩の手を引き、ゆっくりと段差を下り
たのだった。
440
︱︱そうして、夜。
おそらく今日はもう何事もなく閉店となることだろう。いつもな
ら僕と槙坂先輩はこのあたりでお役御免となるのが常だ。
︵とは言え、今日は一緒に上がらないほうがよさそうだな︶
そう思っていると、さっそく店長が店の様子を見、口を開いた。
﹁もう君たちは上がってくれてもいいですよ﹂
﹁いえ、僕は最後まで手伝いますよ﹂
いたらいたで助かるはずなので、こういう申し出をしてもまず断
られることはない、
だが、
﹁ダメです﹂
キリカさんだった。
﹁今日は槙坂さんと一緒に上がってください﹂
彼女はにっこり笑って、そう言った。
帰り道、
僕たちは並んで駅へと歩く。言葉はない。
やがて行程も半ばまできたころ、ようやく槙坂先輩が口を開いた。
﹁あなたは誰にでも優しいのね﹂
少し呆れた調子の声音。
﹁正しくは、わたし以外には優しい、ね﹂
﹁⋮⋮﹂
ひどい天邪鬼もいたものだ。
﹁いちおう弁解するなら︱︱別にサービスでやったわけじゃない。
店としての必要な介助だよ﹂
尤も、相手が伏見先輩だから手っ取り早くあんなことができたの
も確かだ。見ず知らずの女性であれば、きっとキリカさんの手を借
りただろう。
﹁ええ、それはわかるわ。でもね︱︱﹂
441
﹁わたしの気持ちも考えてほしいわ﹂
だが、僕の言い訳じみた主張を、槙坂先輩はそんな言葉で一蹴し
た。
どこか拗ねたような響き。
﹁⋮⋮わかったよ。僕が悪かった。次からは気をつける﹂
降参するしかなさそうだ。
何せ昼には同じような台詞を吐いた身なのだから。
﹁いいわ。じゃあ、今度はわたしがお姫様抱っこしてもらおうかし
ら。ベッドまで﹂
﹁僕の部屋で貧血でも起こせば、そういうこともあるかもね﹂
次の瞬間、思いっきり二の腕を叩かれた。
痛かった。
442
クリスマスSS Ver.2016︵前書き︶
イベントSSですが、こっそり話が進んでいたりー。
443
クリスマスSS Ver.2016
12月25日の夕暮れ。
カフェ﹃天使の演習﹄で催されたクリスマスパーティの後、わた
しは藤間くんとともに帰路を歩いていた。
パーティの参加者はマスターとキリカさんに、藤間くん、そして、
わたし。四人だけの実にささやかなクリスマスパーティ。
﹁キリカさん、楽しそうだったな﹂
﹁そうね﹂
わたしは小さく笑う。
もしかしたら一番楽しんでいたのはキリカさんだったかもしれな
い。
﹁前に言っていたわ。常連のお客さんを集めてクリスマスパーティ
をするのが夢だって﹂
そういう意味では楽しむと言っても、料理を出したりケーキを用
意したりと、主催者側としてわたしたちに楽しんでもらうのを楽し
んでいるといった感じだった。
24日ではなく25日にしたのは、わたしたちのことを考えての
ことかもしれないし、自分たちの都合もあったのかもしれない。
昨日はもちろん、藤間くんとクリスマスデートだった。そのまま
彼の部屋に泊まったけど、大学に上がって週に一、二回は寄ってい
るので、あまりそこに新鮮味はない。
来年はどうしているだろうか?
わたしも藤間くんも、来年にはアメリカに渡る予定でいる。﹃天
使の演習﹄のふたりは縁を切るにはもったいない人間関係なので、
日本に帰ってきたときには顔を出したいと思っている。どうせなら
ばクリスマスに合わせたいところだ。
それよりも︱︱と、わたしはちらと藤間くんを見た。
444
︵彼はどういうつもりでいるのかしら?︶
現状、﹃藤間くんがわたしをつれていく﹄か﹃わたしが勝手につ
いていく﹄かの二択になっている。どちらでも結果は同じ。でも、
意味は大きく違うし、それが決まらない今は気持ちが宙ぶらりんだ。
藤間くんはそのあたりどう考えているのだろう⋮⋮?
程なくして駅に着いた。
と、そのとき、駅前を行き交う人々の中に見覚えのある顔を見つ
け︱︱わたしは咄嗟に藤間くんを引き寄せ、駅前ピロティの柱を背
にするかたちで彼にキスをした。
﹁何をする!?﹂
当然、唇を離した藤間くんは文句を言ってきた。もともとこうい
うのを好まない子だし、あまりにも唐突だったからだろう。
﹁あら、知らなかった? わたしってこういう女よ?﹂
﹁⋮⋮﹂
冗談めかせて言ってみたけど、あまり成功しているとは言えず︱
︱藤間くんは懐疑の眼差をわたしに向けてきた。
﹁ごめんなさい。もう少しこのままでいて﹂
わたしは彼の腕の中に身を隠した。
端から見れば、人目を気にしないカップルが抱き合っているよう
に見えただろう。
﹁どうした?﹂
当然、彼はわたしの様子がおかしいことに気づき、そう問うてき
た。が、わたしはすぐには答えられなかった。
§§§
近くのコーヒースタンドに場所を移した。
駅前が見渡せる窓際の席に座る。頼んだコーヒーを飲めば、﹃天
445
使の演習﹄のほうが安くて美味しいと思った。
﹁⋮⋮小学校のときの担任の先生がいたわ﹂
そのコーヒーで喉を潤してから、わたしはようやくこの件につい
て口を開いた。
﹁それはまた偶然の再会だな﹂
﹁偶然だったらいいのだけどね﹂
これが本当に偶然で、わたしと先生の間にあるのが懐かしさだけ
なら何も問題はない。
そうではないことを藤間くんも察したのだろう。
﹁何かあったのか?﹂
彼はそう問うてきた。
わたしは黙ってカップを口に運ぶ。味は気に入らなくても、考え
をまとめるくらいの役には立ってくれた。
﹁先生にプロポーズされたの﹂
﹁は?﹂
藤間くんが素っ頓狂な声を上げる。その反応も当然だろう。
﹁最近の話か?﹂
﹁いいえ、当時の話よ﹂
﹁いや、だって⋮⋮﹂
彼は言い淀んだ。
そう。そのときわたしは私立の小学校に通う六年生だった。先生
は小六の少女にプロポーズをしたのだ。
﹁自分で言うのもなんだけど、当時からわたしは頭の回転も速かっ
たし、大人びていたから﹂
わたしは、このときばかりはそのことに自虐的に苦笑した。
頭がよくて、信頼もされていた。大学を出たばかりの先生となら、
ほとんど対等に話ができていた。そして、何より将来藤間くんの目
と心を奪うための容姿があった。先生が、そんなわたしに何か勘違
いをしたのか、それともただ単にその手の趣味があっただけなのか
446
は、今となっては定かではない。
事実として、先生は真剣にわたしにプロポーズしたのだった。
もちろん、わたしはそのことを両親に告げ、両親はそれを問題視
して学校に抗議した。それでも父と母は可能な限り穏便にすませよ
うとしていた。校長と理事長にだけ話をして、先生を担任から外し
て近づけないようにしてくれればいいと。それで手を打とうとし、
学校もそれに応じた。
だけど、所詮は学校という小さな社会での話。唐突で不可解な担
任の交代があれば話題にもなる。やがて事実はほかの先生方の知る
ところとなり、保護者にも伝わった。
﹁保護者たちはそんな教師のいる学校に子どもを通わせられないと
猛抗議して、結局、学校はその先生を解雇せざるを得なくなったわ﹂
﹁ま、自業自得だな﹂
藤間くんは呆れたように言い、コーヒーを呷った。
﹁そうね。自業自得だわ。でも、それですまなかったのよ﹂
﹁まだ続きがあるのか?﹂
﹁ええ、あるわ﹂
後日先生は、事前に連絡してきた上で、家を訪ねてきた。
謝罪をしにきたのでもなく、恨み言を言いにきたのでもなく︱︱
改めて娘さん︵わたし︶をくださいと頼みにきたのだ。土下座まで
して。
両親は取り合わず、追い返そうとした。
そして、先生が顔を上げたとき、手には隠し持っていたサバイバ
ルナイフが握られていた。狙いはわたしだった。わたしを殺し、自
分も死ぬと口走っていた。
﹁父はわたしを身を挺して守ってくれたわ﹂
447
﹁⋮⋮それで、お父さんは?﹂
藤間くんが緊張の面持ちで尋ねる。
わたしは首を横に振った。
﹁大丈夫よ。少し怪我をしただけ。後から聞けば、最初から様子が
おかしかったから警戒していたのだそうよ﹂
少なからず武術の経験があった父は、軽い怪我をしつつも先生を
組み伏せ、警察へと突き出した。当然、先生は殺人未遂の現行犯で
逮捕だった。
それがそのときの顛末だ。
﹁その先生がいたのか?﹂
﹁ええ。見間違いでなければ﹂
確か先生には実刑判決が下されたと記憶している。あれから六年。
罪状が殺人未遂なら刑期を終えていてもおかしくはない。風貌はか
なり変わっていたけど、おそらくあれは先生だろう。
﹁まさか責任を感じているのか?﹂
﹁え?﹂
藤間くんの思いがけない言葉に少し驚きつつも、わたしは己を顧
みた。
﹁⋮⋮そうね。確かにそれは少しあるわね﹂
わたしが先生をおかしくさせたのだろうか。そのせいで父は怪我
をすることになったのだろうか。︱︱そういう思いはある。
﹁気にするな。ただの犯罪者予備軍だ。むしろ槙坂先輩と家族のお
かげでよけいな被害者が出なくてすんだくらいだ﹂
﹁ええ、そうね﹂
彼の乱暴な慰めに、わたしは苦笑する。
﹁ねぇ、藤間くん。藤間くんが当時のわたしと会ってたらどうして
た?﹂
448
気まぐれに聴いてみる。
﹁どうもするか。小学生だろうが﹂
﹁そう? わたしは藤間くんが真剣に交際を申し込んできたらOK
してたと思うわ﹂
﹁人を犯罪者にしてくれるな﹂
藤間くんは不貞腐れたように、そう言い放つ。照れているのかも
しれない。
わたしとしてはまんざら冗談でもなかった。尤も、その当時のわ
たしはピュアだから清いおつき合いになったことだろう。中学生だ
ったら、彼に女の子のことをおしえてあげて、反対に少しくらいい
やらしいことをおしえてもらっていたかもしれない。
﹁さ、そろそろ帰るわ﹂
面白い想像をして、少し気が晴れた。⋮⋮うっかりすると変な初
夢を見そうだけど。
わたしは席を立った。
﹁送ろうか?﹂
﹁ありがとう。でも、大丈夫よ。わたしももう大学生だもの﹂
こうしてわたしはここで藤間くんと別れた。
§§§
駅で改札を通る藤間くんを見送ってから家路を急ぐ。
わたしが住んでいるところは、いわゆる高級住宅地と呼ばれてい
ひとけ
る場所で、北部にそびえる山に向かって緩く傾斜した坂の街だ。わ
たしの家はその中ほどにある。
駅からは十分少々の徒歩圏内。普段からあまり人気のあるほうで
はないのだけど、今日はいつも以上に人影がないように思えた。コ
ーヒースタンドに寄ったせいで、遅くなってしまったからだろうか。
夜道にわたしの足音だけが響く。
449
﹁⋮⋮﹂
いや、かすかにわたし以外の足音がもうひとつ。まるで歩調を合
わせることで、足音を隠そうとしているかのようだ。
誰か後ろを歩いている? 気のせい? 神経質になっていて、そ
う聞こえる気がするだけ?
それを確かめるため、わたしは唐突に足を止める︱︱と、ひとつ
多く足音が聞こえて、それっきりだった。
﹁っ!?﹂
わたしのはるか後ろ。確かに誰かいる。その誰かはわたしが歩み
を止めると、同じようにして︱︱でも、一歩遅れて、立ち止まった
のだ。
わたしは再び歩を進める。
後ろの人物も歩き出した。
﹁⋮⋮﹂
緊張に心臓の鼓動が速く、大きくなる。
息苦しかった。
それでもわたしは心の中でみっつ数え、立ち止まると同時に振り
返った。
︱︱そこに男の人がいた。
顔は暗くてよく見えない。でも、少なくとも身近な人物ではない
ことは確かだ。
﹁せ、先生⋮⋮?﹂
呼びかけたつもりの声は、自分でも驚くほどかすれていた。
﹁そこにいるのは槙坂じゃないか﹂
﹁ッ!?﹂
わたしの口から声にならない悲鳴がもれた。
450
﹁偶然だなぁ。⋮⋮そうか。覚えてくれたんだな、先生のこと﹂
これが偶然のはずがない。先生はわたしを探していたのだ。わた
しはてっきり駅前でやり過ごしたと思っていたけど、そうではなか
ったようだ。
にも拘らず、先生の話し方はわたしが知っているそれと何ら変わ
らなくて、逆にそれが不気味だった。
先生が足を踏み出した。こちらに近づいてくる。
﹁大きくなったなぁ、槙坂。もう大学生か? なぁ、今ならわかる
だろ、先生の気持ちが、だから、今度こそ⋮⋮﹂
逃げなくてはと思う。
でも、足が思うように動かなかった。足がカタカタと震えている。
誰か呼ばなくてはと思う。
でも、喉がひりついて、声が出なかった。浅い呼吸が繰り返され
るだけ。
やがて先生が街灯の明かりが届くところに出てきた。間もなく顔
が見え︱︱
﹁おい﹂
と、そのとき、誰かが先生の肩に手をのせ︱︱そのまま後ろに引
き倒した。先生が道に転がる。
現れたのは藤間くんだった。
﹁大丈夫か?﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
彼の姿を見て、ようやく声が出せた。でも、逆に足からは力が抜
けて、今にも崩れ落ちそうだった。
﹁な、何なんだよ、お前。お、俺の邪魔をしてっ﹂
先生がのそのそと立ち上がる。
﹁邪魔? そ、そうか。ま、また俺の、じゃ、邪魔をするつもりな
んだな。ふひ、ふひひひっ﹂
451
先生の様子が明らかにおかしくなった。吃音気味の声の間に、奇
怪な笑い声が混じる。
そして、今回もまた隠し持っていたのだろう。手にはナイフが握
られていた。
﹁下がってろ﹂
﹁藤間くん!﹂
わたしは、先生に向かっていく藤間くんの名を呼ぶ。
先生はおそらく彼にあの日の父を︱︱自分の邪魔をした父を重ね
ていたのだろ。それと同じように、わたしもそこに父の姿を見てい
た。わたしのために怪我をした父を。
だけど、藤間くんは止まらなかった。
﹁お、お前がっ。お前があっ!﹂
先生が奇声を上げながらやたらめったらとナイフを振り回し、藤
間くんを切りつけようとする。が、彼にはかすりもしない。
その一方で、喧嘩にはめっぽう強い藤間くんも、闇雲に凶器を振
り回すだけの先生に対し攻めあぐねているようだった。ナイフの切
っ先を躱したり、ぶつかってくる先生をよけたりするだけで、自分
からはかなか手が出せないでいる。そのせいかふたりの位置はめま
ぐるしく入れ替わった。
それをわたしはオロオロと、ただ見ているしかなかった。
そして、その瞬間は唐突に訪れる。
先生がひと際大きな奇声を上げて突き出したナイフの刃が、深々
と藤間くんの体に刺さったのだ。︱︱少なくとも、わたしからはそ
う見えた。
﹁藤間くんッ!﹂
思わず彼の名を叫ぶ。
だけど、藤間くんはそのまま先生の腕をつかむと、自分の側に引
き寄せた。腹に膝蹴りを見舞う。二度、三度と、そのたびに先生の
452
体が浮き上がる。
先生が倒れた。その拍子に手から離れて転がったナイフを、彼が
蹴飛ばし遠くにやる。
﹁これでっ﹂
なおも立とうとした先生の顎を、彼は容赦なく蹴り上げ︱︱それ
で終わり。それきり先生は立ち上がることはなかった。かすかにう
めき声は聞こえているが、戦意は喪失したのだろう。
﹁藤間くんっ﹂
わたしは慌てて彼に駆け寄った。
﹁ああ、大丈夫だ﹂
﹁で、でも、さっき刺されて!﹂
藤間くんの体をまさぐる。すぐに手当てをしないと。傷が深いよ
うだったら救急車を呼ばないといけないかもしれない。
﹁ごめんなさい。またわたしのせいで⋮⋮﹂
﹁涼!﹂
そんなわたしを彼は言葉を遮るようにして一喝した。両肩に手を
置き、一度大きく揺さぶる。
﹁落ち着け。僕は大丈夫だ。誰も怪我なんかしてない﹂
﹁え?﹂
その声でようやくわたしは動きを止めた。
﹁見ての通りだ。暗いし、そっちからはそう見えたかもしれないが。
うまい具合に脇の下を通るかたちになったから、そのまま腕を固め
てやったんだ﹂
よく見れば確かに傷などどこにもなかった。服すら破れた様子は
ない。
緊張の糸が切れたのか、彼に何事もなくて安心したのか、わたし
は今度こそ膝から崩れ落ちそうになり︱︱それを藤間くんが支えて
くれた。
§§§
453
そこからはバタバタと事後処理だった。
警察を呼んで、先生は二度目の現行犯逮捕。わたしと藤間くんも
警察署で事情を聞かれたが、詳しいことは後日で、今日のところは
簡単な話で終わった。
両親はこんな時間でも忙しいようで、ともに電話に出なかった。
もうすべて終わったし、帰ってから話せばいいと思い、切り替わっ
た留守番電話には何も入れなかった。
そんなわけで今は藤間くんと、本日二度目となる帰路の途中だっ
た。
先生の身柄はすでに警察にあって、もう危険はない。でも、送っ
ていくと言ってくれた彼の言葉に甘えることにした。
﹁何が、もう大学生だから大丈夫、だ﹂
﹁仕方ないじゃない﹂
呆れた調子言う藤間くんに、わたしは不貞腐れたように言い返す。
どうやらわたしが思っていた以上に、わたしの抱えるトラウマは
大きかったようだ。わたしに真剣に愛を告げた先生が豹変したこと
や、わたしのせいでまた誰かが傷つくこと。それらすべてがあの日
のことと重なった。
﹁それよりも、あなた、わたしの後を尾けていたの?﹂
わたしは話題を逸らすようにして、彼に問うた。
﹁ああ。改札を通った後、何となく振り返ってみたら、槙坂先輩を
尾つけてるふうの男がいたから追いかけてみたんだ。何もなければ
それでよしで帰るつもりだったんだが、案の定だったな﹂
﹁そう⋮⋮﹂
そうひと言だけ返す。
恐怖がぶり返してきた。自分が気づかないまま誰かに尾行されて
いるなんて、ぞっとしない。藤間くんが機転を利かせてくれなけれ
ばどうなっていたか。
454
そのままわたしたちは黙って歩いた。
﹁日本も物騒になったな﹂
﹁そうね﹂
しばらくして藤間くんが口を開き︱︱わたしはため息まじりの相
づちを打った。
と、そのとき、
﹁僕と一緒に、アメリカに行かないか?﹂
﹁え?﹂
それはあまりにも唐突で、思わず藤間くんを見た。
だけど、彼は前を向いたまま。こっちを見ようとしない。たぶん
恥ずかしかったり心配だったり自信がなかったり、いろんな感情が
入り混じっているに違いない。
その姿がおかしくて。
おかしくて。
﹁泣くことないだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
おかしいはずなのに、わたしは気がつけば泣いていた。ポロポロ
と涙がこぼれる。足はもう止まっていた。
﹁遅いのよ、もう﹂
手の甲で涙をぬぐう。
﹁悪かったよ。決心するのに時間がかかったんだ。⋮⋮それで、そ
の、返事を聞かせてくれないか?﹂
わたしはハンカチを取り出し、改めて目もとを拭いた。これだけ
待たせておいて返事はすぐにほしいだなんて、本当に自分勝手。
﹁⋮⋮80点﹂
﹁おい﹂
455
だって、どうせなら﹃ついてきてくれないか﹄とか﹃つれていき
たい﹄とか、もう少し強引で男らしい言葉がほしかったのだから。
でも、そんなことは些末なことだ。
﹁ええ、もちろん一緒に行くに決まってるわ﹂
それ以外の返事は持ち合わせていなかった。
﹁そうか。それはよかった。うん﹂
藤間くんはぶっきらぼうにそれだけを言うと、再び歩き出した。
わたしも後を追う。
﹁ねぇ、藤間くんのお母さま、お正月にお時間とれるかしら?﹂
﹁うん? なんでまた?﹂
﹁新年のご挨拶よ﹂
尤も、まずは、だけど。
﹁残念ながら、一流のシティホテルは年末年始も繁忙期らしくてら
しくてね。それが落ち着いてから正月休みだそうだ﹂
﹁そう。お忙しいのね﹂
﹁でも、ラウンジで会うくらいならできると思う﹂
お母さまの働くホテルのラウンジか。初めてお会いしたのもそこ
だった。ご挨拶には着物でいくつもりだったけど、ホテルのラウン
ジでは浮かないだろうか。なかなかのインパクトだとは思うけど。
﹁じゃあ、それでお願いするわ﹂
お母さまに挨拶をした後は、藤間くんと一緒に初詣と洒落こもう。
それから︱︱そろそろ父と母に彼を紹介したい。藤間くんには今日、
危ないところを助けてもらったし、ちょうどいい機会だと思う。
︵問題はこの子が素直に会ってくれるか、だけど︶
と、わたしは彼の横顔を盗み見る。案の定、こちらの両親に挨拶
することなんて、欠片も考えてもいない顔だ。
仕方がないので、さっそくわたしは彼を両親に会わせる算段を立
てるのだった。
456
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7930q/
その女、小悪魔につき――。
2016年12月25日00時48分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
457