にんげん

第36回全国中学生人権作文コンテスト愛知県大会名古屋グランパス賞
にんげん
名古屋市立有松中学校1年
池田優
にんげん にんげん じぶん にんげん
にんげん じぶん にんげん
これは,ある日の新聞の社説に載っていた障害者の方が書いたという短詩だ。何となく
心に残っていたのだが,この夏私はその詩の持つ意味を深く考えた。
八月、とても悲しいニュースを目にした。盲導犬を連れた視覚に障害のある方が駅のホ
ームから転落するという事故が起きた。私はこれまで知らなかったが同じような転落事故
は,年間八十件近く起きているという。「どうしてそれだけ沢山の事故が起きているのに
周りの人は助けなかったのだろうか。」と疑問に思った。そして同時に,私も周りにいる
その一人なのだと気づいた。
私の毎日は,誰かの手を借りなくても過ごすことができる。起きる,食べる,歩く,寝
る,などの全ての動作を一人で行っている。
だが障害のある方の中には,私が当たり前のように行っているそれらの動作を,時間を
かけて一生懸命に行っていたり,物や誰かのサポートを必要とする人がいる。
私が手をケガした時,一人では頭を洗えず,母に手伝ってもらった。赤ちゃんの時には
意志を伝えることさえできなかったが,沢山の人に支えられて今まで生きている。一人で
はできないことを,誰かのサポートを受けて生活するということは,当たり前の権利なの
だと思う。
でも私はこれまで誰かの手助けをしたことがあっただろうか。車椅子の人,白杖で歩い
ている人、手話をしている人,それらの人を特別な目で見てはいなかっただろうか。「話
しかけられたらどうしよう。頼まれても何もできないから。」と距離をおいたことはなか
っただろうか。人間は誰でも平等であると言いながら,私のものさしで人を区別していた
ような気がする。健常者であるというだけで,自分は優位な人間なのだと勘違いしている
人が多いのかも知れない。
私はこの作文を書くにあたって障害のある人の立場になって考えてみようと思い,タオ
ルで目隠しをして過ごしてみた。そんな体験で何が理解できるのかと言われるかもしれな
いが,沢山の発見と自分の弱さを知った。普段から生活している家の中なら手探りで何と
かなるだろうと簡単に考えていた。だが想像以上に“見えない”ことへの恐怖に足が立ち
すくんだ。
壁,ドア,床,あらゆるものに触りながら歩いた。途中で可動式の椅子につかまり,転
びそうになった。右なのか左なのか,自分がどこに立っているのかさえ分からなくなり,
目隠しを何度もはずしたいと思った。
次に食事をした。出されたおかずが何なのか当然分からない。どこに何が置かれている
のか食器を触りながら位置を確認してみた。ご飯茶わんが熱くてびっくりして落としそう
になった。味わう余裕なんてひとつもなかった。泣きたい気持ちになった。その様子に気
付いた母が隣に来て介助をしてくれた。食器の位置,メニュー,調理法を細かく説明し,
時々スプーンで口に運んでくれた。安心して食べることができた。
目隠しをはずした瞬間,緊張が解けてしばらく何も考えられなかった。ものすごく疲れ
ていた。そして自分はなんて弱い人間なのだろうと情けなく感じた。半日も過ごせなかっ
た。障害をもって生活するということは,ものすごく労力のいること,常に危険との隣り
合わせであることをこの体験を通して実感した。それは外に出た時にはもっと感じると思
った。昔と比べて社会の環境は変わりつつある。しかし,それでも事故が減らないのは,
人間同士の思いやりが足りないからではないだろうか。私が母のサポートを受け感じたよ
うに,思いやりの言葉掛け一つで事故が防げたり,安心した生活が送れたりするのだと思
う。
最近はスマホに夢中になって,周りをよく見ていない人が多いように感じる。顔を上げ
て見渡して見ると,誰かの手を必要としている人がいるかも知れない。「何かお手伝いし
ましょうか。」と声を掛けたり,障害物を脇に寄せたり,濡れた床を拭くことなど私にで
きるサポートをやっていきたいと思う。
健常者も障害者も同じ“にんげん”として支え合いながら,私は特別なにんげんではな
いのだと思い,生きていきたい。
にんげん にんげん わたし にんげん
にんげん わたし にんげん