2016 2016年 11 月 20 日 Nov 20, 2016 聖書:ヨハネ8章 聖書:ヨハネ8章1- ヨハネ8章1-11 1-11 節 Scriptures: John 8:1 - 11 タイトル:「 タイトル:「福音への招き:罪、赦し、そして、それから」 福音への招き:罪、赦し、そして、それから」 Title: "Invitation to the gospel: sin, forgiveness, and then" 序 論 Introduction ●私たちは、数週間前に、私たちの信じるキリスト教信仰が何であるかを、知る 私たちは、数週間前に、私たちの信じるキリスト教信仰が何であるかを、知るため、或いは、整理す 、私たちの信じるキリスト教信仰が何であるかを、知るため、或いは、整理す るために、「ローマ人への手紙」を学び始め るために、「ローマ人への手紙」を学び始めた 学び始めた。 Few weeks ago, we started to learn "the epistle to the Romans" to learn and organize what Christian faith that we believe is. ●その中で、最初の 1、2 章では、パウロが語る は、パウロが語る「 パウロが語る「人間の罪」 人間の罪」について学んだ について学んだ。 学んだ。 In the 1st and 2nd chapters, we learned about "sin of man" that Paul talks about. ●更に、 ●更に、3-5 章では、パウロは、 章では、パウロは、キリスト教信仰の中心、また パウロは、キリスト教信仰の中心、また土台である「信仰による救い」のテー キリスト教信仰の中心、また土台である「信仰による救い」のテー マについて語るのである。 In the 3rd through 5th chapters, Paul talks about "salvation by faith" which is the core and the basis of Christian faith. ●私もそのことについて 私もそのことについて語らせて頂いたが、 そのことについて語らせて頂いたが、11 語らせて頂いたが、11 月 6 日のメッセージのご奉仕に当たっておられた David Rockabrand 先生が、図らずも、その日 先生が、図らずも、その日が 図らずも、その日が 10 月 31 日の「宗教改革記念日 の「宗教改革記念日」 宗教改革記念日」直後であった こともあり、同じローマ書 3 章から、このテーマについてメッセージを取り次いでくださった。 I talked about that, and pastor David Rockabrand who was giving a message on 11/6 coincidentally talked about the same topic from Romans 3 as it was right after 10/31 "the Reformation Day." ●そのような中、先週 ●そのような中、先週の な中、先週の日曜礼拝では、私たちを「福音による救い」 日曜礼拝では、私たちを「福音による救い」へと導く 私たちを「福音による救い」へと導く鍵である「悔い改め」に へと導く鍵である「悔い改め」に ついて、旧約聖書のサウル王の例から学んだ。 ついて、旧約聖書のサウル王の例から学んだ。 In the Sunday service last week, we learned about "repentance" which is the key that leads to "salvation by the gospel" from example of king Saul in the Old Testament. ●今日は、「信仰による救い」についてもう一回実例か ●今日は、「信仰による救い」についてもう一回実例からの学びをしたい。イエス様のご奉仕の中で実 「信仰による救い」についてもう一回実例からの学びをしたい。イエス様のご奉仕の中で実 際に起こったできごとから、「人間の罪、その罪の赦し、それからの歩み 際に起こったできごとから、「人間の罪、その罪の赦し、それからの歩み」について学ぶ それからの歩み」について学ぶ。 」について学ぶ。 Today, I want us to have study on "salvation by faith" from an example again. We'll learn about "sin of man, forgiveness for the sin, and our walk afterwards" from true story of Jesus in His service. ●テキストは テキストは、ヨハネ 8 章 1-11 節に記されている「明け方早く 節に記されている「明け方早く、姦 早く、姦淫の現場を捕らえられ、そのま 、姦淫の現場を捕らえられ、そのま ま、イエス様の前に引きずり出された女性」 ま、イエス様の前に引きずり出された女性」の実話である。 の実話である。 The scripture is John 8:1 - 11 which writes about the true story of "woman who was caught in the act of adultery in the early morning and brought right up to Jesus." 本 論 Main Message Ⅰ. 最初に、聖書が、ここで教えている「人間の罪」について考えたい。 First, I want us to think about "sin of man" that the bible teaches us here. A. まず、聖書は まず、聖書は、 聖書は、人類の罪について、「すべて 人類の罪について、「すべての人は、 すべての人は、等しく の人は、等しく罪人である」と言う である」と言う。 」と言う。 First, as for sin of human race, the bible says, "All people are equally sinners." 1.第一に、 1.第一に、「すべて」 第一に、「すべて」の 「すべて」の人と言う点に心を留めたい 人と言う点に心を留めたい。 に心を留めたい。 First, I want us to note that it says "all people." (1)世の中では、普通、 (1)世の中では、普通、「 世の中では、普通、「悪い人と良い人」「 悪い人と良い人」「善人と悪人 」「善人と悪人」 善人と悪人」と、人々を「 、人々を「2 種類」 種類」に分ける。 Usually in this world, we divide people into "two kinds," "bad person and good person." (2)しかし、 (2)しかし、神の前には しかし、神の前にはそうではない。 神の前にはそうではない。ただ そうではない。ただ 1 種類の人々がいる 種類の人々がいるだけ がいるだけである。 だけである。 But it's not that in front of God. There is only one kind of peoples. 1 (3)即ち、「罪人」だけだと聖書は言う 即ち、「罪人」だけだと聖書は言う。すべての人が罪人 だと聖書は言う。すべての人が罪人なの 。すべての人が罪人なのである。 なのである。 That is, the bible says that there are only "bad people." Everyone is a sinner. (4)聖書は言う。「義人はいない。一人もいない。・・・。すべての人が迷い出て、みな、 ともに無益な者となった。・・・・。すべての人は罪を犯したので ともに無益な者となった。・・・・。すべての人は罪を犯したので・・・ ので・・・」と ・・・」と。 」と。 The bible says, "There is no one righteous, not even one… We all have gone astray, we all became futile… everyone committed sin…" 2.第二は 2.第二は、みな 第二は、みな「等しく」 、みな「等しく」罪びとである 「等しく」罪びとであるという点 罪びとであるという点に目を留めたい という点に目を留めたい。 に目を留めたい。 Second, I want us to note that all are "equally" sinners. (1) (1)仮に自分が罪人であることを認めている人でも、「 仮に自分が罪人であることを認めている人でも、「自分を極悪人と一緒にしないで欲し 自分を極悪人と一緒にしないで欲し い。私は、 い。私は、それほど悪く 私は、それほど悪くは それほど悪くはない。比較的良い罪人だ ない。比較的良い罪人だ」 比較的良い罪人だ」と思っていることが多い。 と思っていることが多い。 Even those who admit that they're sinners think in many cases that "I don't want to be put in the same category as wicked. I'm not that bad. I'm rather a good sinner." (2)即ち、比較的ましな罪人と、トンデモナイ 即ち、比較的ましな罪人と、トンデモナイ恐るべき罪人と言う具合に、罪人に トンデモナイ恐るべき罪人と言う具合に、罪人に「 恐るべき罪人と言う具合に、罪人に「等級」 等級」 をつけているのである をつけているのである。 のである。 That is, they're putting "ranks" to sinners such as rather better sinner and utterly horrible sinner. (3)即ち、皆等しく罪人だとは思っていないのである 即ち、皆等しく罪人だとは思っていないのである。しかし、聖書は、すべての人は、等 のである。しかし、聖書は、すべての人は、等 しく罪人だと言う。どんな人も、神さまの前には、等しく罪人なのである。 しく罪人だと言う。どんな人も、神さまの前には、等しく罪人なのである。 That is, they don't think everyone is equally sinners. But the bible says that everyone is equally sinners. No matter how they are, they're all equally sinners in front of God. (4)パウロは、イエス様の パウロは、イエス様の救 イエス様の救いに与る前 いに与る前でも、人間的には、真面目で、精錬潔白な人間であ った。表面的に言うなら、「 った。表面的に言うなら、「罪人」 罪人」と言うには余りに立派な人間であった。 Paul was sincere, innocent and honest person in eyes of man even before he accepted Jesus' salvation. On the surface, he was too noble to be called "a sinner." ●しかし、そんな ●しかし、そんな彼もまた、 そんな彼もまた、神の前には私たちと同じ、 彼もまた、神の前には私たちと同じ、即ち、 神の前には私たちと同じ、即ち、等し 即ち、等しく 等しく罪人であった。 But even he was equally a sinner like us in front of God. ●でも、彼の心の中には ●でも、彼の心の中には、 心の中には、人間的にはそんなに真面目でありつつも、反って、その逆に、 人間的にはそんなに真面目でありつつも、反って、その逆に、 「私は罪人のかしらです」と、自分を極悪人と等しく思う罪の 「私は罪人のかしらです」と、自分を極悪人と等しく思う罪の意識があった。 があった。 But in his mind, while he was such a sincere person in eyes of man he also had consciousness for sins thinking he was equal to horrible people and saying "I am the head of the sinners." (5)外側が、また人間的には、罪の形や内容がどんなに異なっていても、神の前には、「同 じ穴のムジナ」、「等しい罪人」 ジナ」、「等しい罪人」なのである。 、「等しい罪人」なのである。 No matter how different it is on the outside or how different it looks to people or how different the sin appears, they're "birds of a feather" and "equally sinners." (6)皆、 (6)皆、「 皆、「私も悪いが、でも、あの人ほど悪く も悪いが、でも、あの人ほど悪くは あの人ほど悪くはない」 ない」と思い易いが、神さまの前には、皆 等しく罪人 等しく罪人である。 Everyone tends to think that "I'm bad, but I'm not as bad as he/her." But everyone is equally sinner in front of God. (7)自分の兄弟や仲間を「バカ者」「能無し」と罵ってしまう人は、 ってしまう人は、決して少なくない。た からと言って、それを「殺人罪」と等しい罪だと言われて受け入れられるだ れられるだろうか?! Many people curse their siblings and their fellows calling them "idiot" and "no brainer." Can they accept that it's sin that’s equal to "murder"? ●マタイ 5 章 21- 21-22 節を見て頂きたい。 I want us to look at Matthew 5:21 - 22. ●即ち、イエス様はそれらは神の前にはどちらも等しく殺人罪だと言われるのである。 Jesus says that they're both equally murder in front of God. 2 B. イエス様は、このように「すべての人が、神の前に イエス様は、このように「すべての人が、神の前に等しく罪人 このように「すべての人が、神の前に等しく罪人である」ことを、 等しく罪人である」ことを、正に である」ことを、正に、姦淫の現場で捕らえら 正に、姦淫の現場で捕らえら れ、ご自分と群衆の前に引きずり出されたこの女性のことを通して明らかにされたのである。 Jesus made it clear that "everyone is equally sinners in front of God" through the woman who was caught right in the act of adultery and brought up to Himself and the crowd. 1.即ち、 1.即ち、この世 即ち、この世界は「善人と悪人」の集まりでなく、「悪人・罪人」の まりでなく、「悪人・罪人」の集まりであり、すべて まりであり、すべて の人が、例外なく、罪人なのであると言うメッセージをイエス様はここで なく、罪人なのであると言うメッセージをイエス様はここで伝えておられる。 えておられる。 That is, Jesus is saying that this world is not a group of "good person and bad person" but a group of "bad person and sinner" and everyone is a sinner with no exception. (1)そこには (1)そこには「モーセの そこには「モーセの律法によるなら、このような女は石打ちにされなければならない」 と正義を振りかざしていきり立つ していきり立つ律法学者、パリサイ人たちを中心とする人々がいた。 People were gathering around the scribes and Pharisees who were brandishing in rage saying "According to the law of Moses, a woman like this must be stoned." (2)そのような彼らに (2)そのような彼らにイエス様は言 そのような彼らにイエス様は言われた。「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼 れた。「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼 女に石を投げなさい」( なさい」(7)。(恐らくこの言葉を聞いて、この女は震え上がったであろう)。 Jesus said to them, "He who is without sin among you, let him throw a stone at her first." (verse 7) (This woman would have been shaking hearing this word.) (3)しかし、聖書は言う。「 しかし、聖書は言う。「彼らはそれを 聖書は言う。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、一人一人出て行 き、イエスが一人残された」( された」(9)と。 But the bible says, "Those who heard it went out one by one, beginning with the oldest even to the last. And Jesus was left alone." (verse 9) (4)イエス様が (4)イエス様が賭けに出たと思うか?! そうではない。イエス様は、「罪の無い者」など そうではない。イエス様は、「罪の無い者」など この世に存在しないことを、神として誰よりもよくご存知であった。 Do you think Jesus took chances? No. Jesus, as God, knew better than anybody that there is no "man without sin" in this world. (5)案の定、イエス様だけを残して、そこにいた全員が自分の罪を認め、この女に投げよう とした石をそこに置いて去ったのである。 Sure enough, everyone who were there admitted their sin, left leaving the stones that they were trying to throw at the woman, and Jesus was left alone. (6)ここで (6)ここで注目すべきことは、 Things that we should note here are: ●「一人一人」出て行ったことである:彼らが出て行ったのは、群集心理や、話し合い による合意によるものではなく、一人一人、 によるものではなく、一人一人、個人的に、良心に責められて、 められて、自責の念 からであったことが分かる。 They left "one by one": It is clear that they left not because of crown psychology or they agreed to leave by discussing it but because each one of them had guilty conscious. ●しかも、それは ●しかも、それは誰が見ても分かる ても分かる「 分かる「ならず者」 ならず者」のようない のようないわゆる罪人たちではなく る罪人たちではなく( 人たちではなく(そ ういう人もいたかもしれないが) ういう人もいたかもしれないが)、律法学者やパリサイ人たちを中心としていた人々 パリサイ人たちを中心としていた人々 であった。彼らさえ心 であった。彼らさえ心刺され、自分を含めたすべての人が罪人であることを自覚した。 Moreover, they were not typical sinners like "rogue" that everyone can tell just by looking at them (although there might have been some). Many of them were the scribes and Pharisees. Even their hearts were pierced and they all became aware that everyone was a sinner. 2.もう一つ、イエス様は、皆が 2.もう一つ、イエス様は、皆が等しく 皆が等しく罪人であることをここで教えようとされたのである。 等しく罪人であることをここで教えようとされたのである。 Another thing, Jesus tried to teach here that everyone was equally sinner. (1) (1)神の前に「より深い罪」「比較的軽い罪」は無い。みな等しく い罪」は無い。みな等しく地獄行きの罪人なのであ る。それがイエス様の教えたかったことである。 3 There is no "rather heavy sin" or "rather lighter sin" in front of God. Everyone is equally sinner heading to hell. That is what Jesus wanted to teach. (2)イエス様は (2)イエス様はそこにいた イエス様はそこにいた全員に、「神の前に 、「神の前には、皆が、 神の前には、皆が、等しく罪人である は、皆が、等しく罪人である」 等しく罪人である」ことを教えら ことを教えら れたのである。 れたのである。 Jesus taught everyone who were there that "everyone is equally sinner in front of God." (3)「皆が罪人である」ことをただ認めるだけでは (3)「皆が罪人である」ことをただ認めるだけでは十分ではない。 It's not enough to admit that "everyone is a sinner." ●そこには、道徳的エリートを自負するパリサイ人、 するパリサイ人、律法学者たちがいた。対照的に、 彼らが最も卑しめていた遊女、淫売婦もいた。 There were scribes and Pharisees who took pride of being morally elite there. In contrast, there were also prostitutes and whores whom they were despising the most. ●そんな中で、仮に、パリサイ人、律法学者たちが、自分たちも罪人であることを認め ても、「自分たちの罪は、この女の罪よりはましだ」くらいに思い、罪を ても、「自分たちの罪は、この女の罪よりはましだ」くらいに思い、罪を区別し、比 較、等級づけるような心があったら、彼らはきっとこの女を けるような心があったら、彼らはきっとこの女を石打ちにしたであ ちにしたであろう。 In that situation, even if the scribes and Pharisees admitted that they were sinners, if they had a heart that compares and make a rank thinking that "our sins are better than the sin of this woman" they probably would have stoned this woman. (4)しかし、な (4)しかし、なぜ、そうしなかったのか? なぜ誰も石を投げずに、そこを去ったのか? But why didn't they do that? Why did no one throw the stones and why did everyone leave? ●それは、イエス様が、その ●それは、イエス様が、その行動と人格をもってそこに臨在していたからであり、 していたからであり、 That is because Jesus was there being noble and doing right things. ●更には「あなたがたのうちで、罪の無い者が、最初に 更には「あなたがたのうちで、罪の無い者が、最初に石を投げなさい」と言って彼ら に自らを見つめさせる中で、 While He had them look at themselves saying "He who is without sin among you, let him throw a stone at her first," ●「あなたがたも、この女と同じ罪を持っている。あなたがたも、 っている。あなたがたも、この女と同じ、みな この女と同じ、みな 等しい罪人だよ」と教えられたから 等しい罪人だよ」と教えられたからであった。 られたからであった。 He taught them that "You have the same sin as hers."You are the same as she. Everyone is equally sinners." 3.あの頑なで傲慢なパリサイ人や律法学者たちが、そのような罪の 学者たちが、そのような罪の意識に目覚め、女に石を投 げなかったた なかったた大きな理 きな理由の一つは、 の一つは、6、 は、6、9 節のイエス様の御姿であろう。イエス様は、 う。イエス様は、身を かがめて指で地面に何かを書いておられたのである。 One big reason why the scribes and Pharisees who were arrogant and stubborn became aware of the sins and didn't throw the stones at her would be appearance of Jesus in verses 6 and 9. Jesus stooped down and wrote on the ground with His finger. (1)ある人は言う。 (1)ある人は言う。イエス様は、 ある人は言う。イエス様は、愛、赦し 、赦し、などの などの字を書いておられたのではないか? Some say that Jesus might have written a word like love and forgiveness. (2)また、 (2)また、ある人は言う。そこにいた一人一人に また、ある人は言う。そこにいた一人一人に、自分の罪を ある人は言う。そこにいた一人一人に、自分の罪を思い起こさせるように、そこ 、自分の罪を思い起こさせるように、そこ に様々な人の罪をリストアップされていたのではないかと。 Some say that He might have listed various sins of each one of them in order to remind them of their sins. (3)いずれであれ、 (3)いずれであれ、し いずれであれ、しゃがみこんで、何かを黙々と描いておられるイエス様の御姿の中には、 Whichever it might be, in the appearance of Jesus stooping down and writing quietly, ●すべての人の心を見通し、何もかもをご存知で、人を正義をもって裁くことのできる 義の審判官としての としての権威と、 4 authority as the Judge who sees everyone's heart, knows everything, and judges people righteously ●それとは真反対に、この女を に、この女を、 この女を、否そこにいるすべての人を愛し、赦そうとする神の し、赦そうとする神の愛 がほとばしり出ていたのであろう。 and, completely opposite to it, God's love which tries to forgive and love not only this woman but also everyone there would have been flowing out. (4)それは、パリサイ人 (4)それは、パリサイ人や律法学者たちとは全く異なった姿であった。 It was completely different appearance from the scribes and Pharisees. ●彼らは聖書を読み、学ぶところで止まっていた。もし私たちも、それと まっていた。もし私たちも、それと同じなら、 、それと同じなら、 They stopped at reading the bible and learning the bible. If we do the same, ●彼らのように 彼らのように、人を ように、人を律法によって裁き、人に「 き、人に「律法遵守 律法遵守による義」 による義」の重荷を負わせる 「律法主義」に陥るだけである。 we will just judge people by the law and fall into "legality" which put burden of "righteousness by following the law" onto people. (5)愛と正義は言葉ではない。教えでもない。 ではない。教えでもない。それは 教えでもない。それは行動であり、人格である。 Love and justice are not just a word. They're not teaching. They're actions and personalities. ●興味深いことは、聖書は、 いことは、聖書は、ここでイエス様 聖書は、ここでイエス様が ここでイエス様が字を書いているのか、絵を描いているの か、ましてや何を書( 何を書(描)いていた いていたかについては、何も については、何も触れていないことである れていないことである。 ことである。 What is interesting is that the bible doesn't tell at all whether Jesus was writing words or drawing pictures or what he was writing (or drawing). ●それは、取りも直さず、 それは、取りも直さず、ここでイエス様が、 取りも直さず、ここでイエス様が、何を書いて ここでイエス様が、何を書いておられたか 何を書いておられたかは おられたかは問題でないこと を意味している。 Another words, it means that it doesn't matter what Jesus was writing. ●むしろ、そこにしゃがみこんで、 みこんで、黙々と何かを描(書)いておられる いておられるイエス様の られるイエス様のお イエス様のお姿そ のものが、 のものが、人々にインパ が、人々にインパクトを与えたのである。 Rather, the appearance of Jesus itself, stooping down and writing (drawing) something quietly, made impact on people. ●私たちを ●私たちを変えるのは、イエス様の臨在である。私たちが、今一番必要としているのは、 イエス様のしゃがみこんでおられる背中に見られた、あの愛と正義の臨在感 臨在感に触れな がら、 がら、聖書を読み、また学ぶことである。 、また学ぶことである。 What changes us is presence of Jesus. What we need the most now is to read the bible and learn while feeling presence of love and righteousness that can be seen on the back of Jesus stooping down. Ⅱ.次に、この箇所から学ぶことは、その罪の赦しである。 Next, what we learn from here is forgiveness of the sin. A. イエス様は言われた。「婦人よ。あの人たちは、今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのです か」。彼女は言った。「誰もいません」。イエス様は更に言われた。「私もあなたを罪に定めない」(10-11)。 Jesus said, "Woman, where are those accusers of yours? Has no one condemned you? She said, “No one, Lord.” And Jesus said to her, “Neither do I condemn you.” (verses 10 - 11) 1.ここに明確にされていることは、誰も人が人を裁くことはできないことである くことはできないことである。 ある。 What is cleared here is that no one can judge anybody. 2.しかし、私たちを 2.しかし、私たちを裁くお方がいる。それがイエス様である。 But there is someone who judges us. It is Jesus. (1)イエス様は、この女に、 (1)イエス様は、この女に、「私もあなたを罪に イエス様は、この女に、「私もあなたを罪に定めない」と言われた。それは、 れた。それは、単に、自 分をそれらの人々と同等において、もう一人加えて「私も」と言うの えて「私も」と言うのではなかった。 と言うのではなかった。 5 Jesus said to this woman, "Neither do I condemn you." It is not to say "neither do I" simply adding Himself to others on the same level. (2)「イエス様」は、 (2)「イエス様」は、全く別のレベルのもう一人であった。それは、 ルのもう一人であった。それは、審判者である「 者である「神であ るイエス様」 イエス様」であった。 様」であった。 "Jesus" was another one who was on completely different level. It is "God Jesus" who is the Judge. (3)イエス様は、 (3)イエス様は、そのとき、 イエス様は、そのとき、明らかにご自分が罪を そのとき、明らかにご自分が罪を裁き、また赦す き、また赦す最 赦す最終権威を持っている神 っている神 であることを意識し、またそれを彼女に し、またそれを彼女に示そうとさ そうとされたのである れたのである。 のである。 Jesus was clearly aware that He was God who has ultimate authority to judge sin as well as forgive sin, and He was trying to show it to her. (4)即ち、彼女が、 (4)即ち、彼女が、他の人に、「私の罪は本当に赦されたのでしょうか?」と、いつまでも 聞いて回る いて回る必要がないようにである。 It was so that she doesn't need to ask others around saying "Was my sin really forgiven?" 3.それは、正に、マルコ 2 章 1-12 節でも、イエス様がなさろうとしたことである うとしたことである。 ことである。 It is exactly what Jesus tried to do in Mark 2:1 - 12 as well. (1)友人たちによって 人たちによってイエス様のとこ よってイエス様のところに運ばれて来た中風の男にイエス様が最初に言われ たこと、それは「 たこと、それは「癒やされた」ではなかった。「あなたの罪は赦された」 された」ではなかった。「あなたの罪は赦された」(5) 「あなたの罪は赦された」(5)であった。 (5)であった。 What Jesus told the paralytic who was brought to Jesus by his friends was not "You were healed." It was "Your sins were forgiven." (verse 5) (2)そ (2)その言葉に不快感を覚え、反発を感じていた律法学者たちが、「神お一人のほか、誰が 罪を赦すことが出来よう」( よう」(7)と呟いたとき、イエス様は言われた。「人の れた。「人の子が地上で、 罪を赦す権威をもっていることをあなたがたに をもっていることをあなたがたに知らせ あなたがたに知らせるために」と。そして、その 知らせるために」と。そして、その権威 の象徴・デモンストレーションとして、その中風の人を の人を癒やされた(10 された(10- (10-11)。 11)。 When the scribes who felt uncomfortable and were offended whispered "Who can forgive sins but God alone?” Jesus said, "so that you may know that the Son of Man has power on earth to forgive sins." Then as demonstration of the power He healed the paralytic. (verses 10 - 11) (3)この中 (3)この中風の男性がその時本当に必要としていたものは、中風が癒されること以上に、心 の罪の赦しであった。だからイエス様は開口一番、「あなたの罪は赦された」と言った。 What this paralytic actually needed was forgiveness of his sin of his heart more than being healed of paralysis. That is why Jesus said, "Your sins were forgiven" first. B.罪の赦しの必要:今日のメッセージの中心人物であるこの女性にとっても、一番必要なものは、「あなたの 罪は赦された」と言うお言葉をイエス様から頂くことであった。 Need of forgiveness of sins: For this woman in today's story, what she needed the most was to have the word "Your sins were forgiven" from Jesus. 1.即ち、この女性には、彼女を 即ち、この女性には、彼女を責める人が一人もいなくなったでは十分ではなか 分ではなかった。 はなかった。 That is, for her, it was not enough that all those who were condemning her left. 2.イエス様からの「私もあなたを罪に 2.イエス様からの「私もあなたを罪に定めない」、即ち罪の赦しの究極宣言が必要であった。 She needed the word from Jesus saying "Neither do I condemn you." That is, she needed ultimate declaration of forgiveness of her sins. 3.かつてテキサスで殺人犯として収監されて、処刑の日を待っていたタッカーと言う婦人がい た。彼女は刑務所で明確な悔い改めをし、人生が全く変わり、模範囚となった。そのあま りの変わり方に彼女の り方に彼女の減刑の署名運動がなされた。 がなされた。処刑前日までその運動は続けられたが、 結局受け入れられず死刑は執行された。しかし、その中で、彼女がハッキリ された。しかし、その中で、彼女がハッキリと 。しかし、その中で、彼女がハッキリとテレビ等で 証ししたことは、「 したことは、「処刑は、私のしたことの当然の報い(勿論、解放されたら、やりたいこ と、やり直したいこと一杯あるが) あるが)。しかし、私の最大の喜びは、私の罪が既に神の前に赦 されていること、死んで主に会えること・・・」 えること・・・」であった。 6 In Texas, there was this lady named Tucker who was in jail as a murderer and waiting for the day of her execution. She repented clearly in jail, her life was completely changed, and she became well-behaved prisoner. There was a petition for her sentence reduction because of her complete change. The petition went on until the day before her execution, but the petition was not accepted and she was executed. But she gave her testimonies clearly on TV programs saying, "Execution is a penalty of what I did. (Of course, if I'm dismissed, there are many things that I want to do and start over.) But my greatest joy is that my sins are already forgiven in front of God and I'll see the Lord when I die…" 4.罪が赦されることこそ、新しい人生の出発の原点であり、 であり、将来の人生が希望と祝福に満ちた ものとなる ものとなることの となることの確信の基礎である。 Being forgiven of sins is the starting point of the new life. It is basis of the assurance that your life in the future will be filled with hope and blessings. 5.だから「私もあなたを罪に .だから「私もあなたを罪に定めない。あなたの罪は赦された めない。あなたの罪は赦された」 あなたの罪は赦された」と言う主からのお言葉を一人 一人がしっかりと祝福の基礎と出発点として握り、確信し、感謝する必要がある。 Therefore, each of us need to be assured and be thankful firmly holding the word from the Lord, "Neither do I condemn you. Your sins were forgiven." as the basis of blessings and the starting point. Ⅲ.最後に、短く罪を示され、赦され、神の子とされた者が、これからどのように歩むべきかについて考えたい。 Lastly, I want us to think quick how we, who were shown our sins, forgiven, and became a child of God, should walk from here. A. イエス様は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(11)と言 われた。 Jesus said, "Neither do I condemn you; go and sin no more." (verse 11) 1.「行きなさい」:これは何を意味したか? どこへ行けと言うのだろうか? "Go": What did this mean? Where does He want us to go? (1)罪を犯した者が、その罪が (1)罪を犯した者が、その罪が神の前に 罪を犯した者が、その罪が神の前に赦され、 神の前に赦され、過去の清算をすることができたとき、 When a sinner is forgiven in front of God and past is cleansed, ●第一に行くべき所は、悔い改めの実として、罪を犯して迷惑をかけた人に御免なさい と言いに行くことである。 くことである。罪の始 である。罪の始末をすることである。 The first place to go is those whom we did wrong. As a fruit of repentance, we are to apologize to them for troubling them. We are to clean up our sins. ●第二に、いつまでも後悔したり、悔んで泣いたり、同じ たり、同じ所に留まっていないで、後 に留まっていないで、後ろ のことは忘れて、勇気をもってそこから出て をもってそこから出て行き、新しい生活を始めることである。 を始めることである。 Second, we are to start the new life by forgetting the past and having courage to get out instead of keep regretting, crying with regrets, staying at the same place. ●第三に、もし、今まで生きてきた環境や、システムに、また自分自身に問題があるな ら、それを改変するなり、新しいものにするなりして、今までいたとこ しいものにするなりして、今までいたところから出るこ とである。 Third, if there is any problem with environment we were in thus far or any system or even ourselves, we are to get out from where we were by changing them or replacing them. (2)この女性も、それらを実 (2)この女性も、それらを実行するようにイエス様に勧められたのであった。即ち: められたのであった。即ち: Jesus recommended this woman to do those things too. That is: ●赦された者となった今、謝るべき人に謝り、 Now that she is forgiven, apologize to those who she should apologize. ●昔の悪い習慣、生活スタイルから スタイルから、 から、丁度ヤクザが足を洗うように出て行く Get out of old bad habits and life style just like Japanese mafia quits. 7 ●そして新しい生活、職業、新しい人間関係を始めることが求められていた められていたのである。 He wanted her to start a new life, new job, and new relationships. 2.罪赦された者に、 2.罪赦された者に、イエス様 た者に、イエス様が言 イエス様が言われたもう一つ れたもう一つのことは、 う一つのことは、「 のことは、「今からは決して罪を犯してはな りません」であった。 りません」であった。Sin No More. No longer commit sins である。 Another thing that Jesus said to the forgiven was that "Sin no more." Sin no more, no longer commit sin. (1)聖書が (1)聖書が繰り返し強調していることは、 What the bible repeatedly emphasizes are: ●罪はそれが何回目であ ●罪はそれが何回目であろうと赦して頂けるということ( うと赦して頂けるということ(7を 70 倍するまで赦す) するまで赦す) Sin can be forgiven no matter how many times we commit. (Forgive 7 times 70) ●罪の増すところ恵みもいや増す。どんなに罪を犯すことがあっても、 す。どんなに罪を犯すことがあっても、恵みが及ばない ところはない。ローマ はない。ローマ 5 章 20 節後半 The more there is sin, the more there is blessings. No matter that the sin is, there is no place where blessings can reach. Romans 5:20 latter part. (2)しかし (2)しかし同 しかし同時に「犯しても赦される」、また「私たちは弱いから」とは言え、 But at the same time, even though "we can be forgiven even if we commit sin" and "we are weak," ●聖書は、明確に、「罪の中にはとどまるべきではない」と言う。ローマ 6 章 1-2 節 The bible tells us clearly, "We shouldn't stay in sins." Romans 6:1 - 2. ●気をつけなければならない、現 ならない、現代キリスト教の風潮に、「罪は犯しても良い」と言う のがある。 We need to be careful. In modern Christianity, there is a trend that says "we can commit sins." ●しかし、聖書のスタンスは違う。罪は犯さないように、罪の中に う。罪は犯さないように、罪の中に再び入り込まないよ うに、罪とは うに、罪とは戦わなければらないである らないである。 である。 But that is not what the bible stands for. We must fight with sins in order not to commit sins and go back in to sins. ●ヨハネ第一の手紙 2 章 1 節「私がこれらのことを書き 節「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を 犯さないようになるためです」。 1 John 2:1 "These things I write to you, so that you may not sin." ●聖書、また ●聖書、またイエス様の罪に 、またイエス様の罪に関する姿勢は、言い訳ではなく、SIN NO MORE である。 The bible and Jesus are not for excuses for sins. They say SIN NO MORE. ●そのために、祈り深い生活、いつもイエス様の助けを仰ぐ生活 For that, we need to live a life with deep prayers looking for help from Jesus. ●また、少なくとも、1 なくとも、1-3 人の信仰の仲間をもって、正直に信仰のこと、生活のこと を語り合う、仲間を持つことが必要であることを強調する。 Also, I emphasize that we need to have fellows; at least 1 - 3 fellows in faith whom we can honestly talk about faith and life. 結 論 Conclusion ●今朝(夕)もう一度、謙虚に、私たちは、皆、等しく、罪人であることを認めたい。 This morning (this evening) once again, with humility, I want us to admit that we are all equally sinners. ●同時にそのすべての罪が、ただイエス様ご自身の十字架 十字架の故にことごとく赦されたことを感謝したい。 したい。 At the same time, I want us to thank that all those sins were utterly forgiven only because of the cross of Jesus Himself. 8 ●そして SIN NO MORE を目指して、絶えず神様を畏れて、祈り合い助け合って救いの道を歩みたい。 Then heading to SIN NO MORE, I want us to fear God without ceasing and walk the road of salvation praying for each other and helping each other. 9
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