てる しぇ 行谷 Ⅰこ と山 の 宮 神 上 (研究ノート ) 稔 井 藤 奈良県天理市布留 町に鎮座する石上神宮は、 古代史や考古学に おいて興味深い 古社 であ る。 大和王権 の武器 庫 であ ったという、 この古社 には、 円本書紀』神功皇后摂政 52年 条 に記述のあ る、 「セ校刀 」とされる「 セ 文月」が伝来している。 金 象眼の銘文 あ り、 倭と 百済、 東晋との交流を 示すとされる、 奇妙な形状の 国 宝 であ る。 また、 同神宮には神剣アソノミ タで とされる 素環頭鉄 刀や多数の玉類などが 出土した禁足 弛 もあ る。 この「セ文 刀 」と禁足 地 に関してはすでに 多くの先学の 研究が あ る。 しかし、 「七支刀」の 銘文には、 刺 傷などのために 明確に 判読できない 部分があ る。 禁足 地 に関しては発掘に 関する情報が 少ない。 これらが「 セ 立刀」と禁足地の 研究においてだれもが 乗 り越えられぬ「厚 い壁 」となっていた。 そこで、 筆者は石上神宮 の大宮司となり、 セ 立刀」の銘文を 発見し、 禁足地を発掘した、 菅 政友関係の末公刊文書や、 「 同神宮関係の 文書などをもとに、 検討を試みた。 そして、 その成果を 2005 年 5 月に吉川 @ 文館 からⅡ石上神宮の セ支刀と菅 政友 J a以下、 拙著と記す ) として刊行した。 拙著で、 「厚い壁 」を克服できたかどうかは 別にして、 従来の研究になかった 新たな視点は 提 供できたと考えている。 つまり、 「 セ 立刀」に関しては、 『覚来金器文字 詞 』などの 菅 政友関係 の末 公刊文書によって、 その名称の根拠となっている 政友の「 セ支 」という秘説に 問題があ る ことを指摘し、 『日本書紀コ 神功皇后摂政 52年 条 にあ る「七枝刀」の 束縛から離れた 研究の必要 性を述べた。 そして、 石上神宮関係の 文書などをもとに「 セ支刀 」は同神宮では 布に留まった 剣の伝承や草薙剣、 若宮出雲建雄神と 結びつく、 神剣であ ったことを明らかにした。 禁足 地 に関しては 菅 政友関係の末公刊文書によって、 政友が発掘した、 正中の小円丘以覚に も、 その少し後ろの 左右に二つの 小円丘があ り、 合わせて三つの 小円丘があ ったことや、 明治 7 年は 874) の発掘で、 宋銭 (北宋の煕 寧銭 ) や籠手残欠も 出土していたことなどを 明らかに した。 また、 同神宮関係の 文書などをもとに、 明治Ⅱ 年 (1878) にも禁足 他 が発掘され、 多数 の出土品があ り、 その中には「晋ニ 処々 金象眼 / 跡 」のあ る大刀も含まれていたことも 指摘し た 。 そして、 三つの小円丘の 存在や宋銭や 籠手残欠、 「青ニ処々 金 象眼 / 跡 」のあ る大刀などが 出土していることも 踏まえての研究が 今後必要だとした。 このような拙著に 関して、 祭祀考古学会の 会長でもあ る 杉 m 林継氏が 、 『闘争院 雑誌』第 108 号 第 6 号 (2007年 6 月 ) に書評を発表された。 この書評で「タイトルを 見た時、 かなり期待し て見ただけにあ と残俳さ。 。 も大きい」と 記されている。 学術書の書評というのは、 著者の論述の マ マ 筋道をたどりながら、 使用している 史料等を吟味し、 結論の妥当性なり、 その独自,陸 なりを論 一 38 一 ずるものであ り、 評者にはその 分野の専門知識が 要求される。 したがつて、 祭祀考古学に 造詣 の深い、 優れた先学であ る杉山林網底による 書評を、 著者としては 光栄に感じ、 拝読した。 そ して、 「あと残金さ ,し、 マ マ も 大きい」というような 失望感を杉 m 氏もこもたらしたことを 矢口 り 、 著者とし ては恐縮した。 それとともに、 書評の内容に 、 先にも記したような、 拙著で新たに 紹介した 史 料・文書を詳細に 吟味した上での 評価・批評であ ろうかなどと、 いくつかの疑問も 感じた。 さ らにこの書評だけを 読まれた方が 拙著の内容を 誤解する可能,性もあ ると考えた。 そこで、 浅学 の 身を顧みず、 この杉山氏の 書評に対して 次の 5 項目について、 弁明を試みる 次第であ る。 1 番目は次のような「 セ 立刀」という 秘説に関することであ る。 藤井は政友が 当初「大父方」と 呼んでいたことにこだわりがあ るようだが、 大場 磐雄が昭 和 四十 セ 年の 神道考古学講座ロ「石上神宮」でも 書いているように「大父 鉾 」「大父方」 ぽ は当時神宮周辺で 使われていたもので、 政友もそれを 使用していただけであ ろう。 銘文中 に「セ 立刀」と確認したことから「 セ支刀 」に改めたのであ って、 『日本書紀』から「 セ支 刀 」としたものではなく、 政友の在任中に 読み取っている 可能性が最も 強い。 この指摘にあ るような、 菅 政友が石上神宮の 大宮司在任中 (明治 6 年一明治 9 年・ 1873 一 1876) に銘文から「 セ支刀 」と読み取っていた 可能性はない。 拙著 19頁 一 21頁に政友の「 セ支刀 」に 関する記述を 一覧表にしておいたが、 その表でも明らかな よう に、 大宮司退職後も 政友は「 六 叉刀 」という名称を 用いている。 もし大宮司在任中に 銘文から「 セ 立刀」と読み 取っていたの であ れば、 「大父方」という 名称を使い続けることはなかったはずであ る。 「大父刀 」から「 セ支刀 」へと政友がその 訳読を修正した 時期は 、 序に「ひとみたりかはしく、 見るにた、 なりあ しかれハ 、 こ たびかきと、 のふる」とあ る『覚来金器文字 詞コ で、 一旦書い た「大父」の 文字を墨で抹消して 右横に「 セ支 」と書き加えていることから、 序が記された 明 治 2cW午は 887) 7 月 15 日以降であ ることは確実であ る。 また、 政友は「七支刀」の 「左右共トモ ニ刀アリ」から、 「左右二姉支 ヅツ 、 正中%台 ヮセテ セ文アリ」という 形状に関して、 星野 恒が 明 治 25年 (1892) 12月に発表した「 セ 枚方 考 」の表現に似た 記述に変えている。 このことなどを 根拠に、 星野 恒の 「 セ 枚方 考 」の影響で『覚来金器文字 詞コ にあ る銘文模写を 再検討すること によって、 明治25年 12月以降明治 26年 5 月までの間に 政友は「 セ支刀 」と 釈諒 したと推定でき る。 明治 26年 (1893) 5 月までとしたのは、 同年 5 月 25 日の序があ る『任那 考コ ですでに政友 が「 セ 立刀」と 釈誌 していたことが 判明しているからであ る。 同様に「 セ支刀 」と 釈誌 してい たこと示す、 『覚来金器文字 詞 』の「セ 立刀」銘文模写にあ る頭注の記述も 、 同じ明治 25年 12月 以降明治 26 年 5 月までの間に 記されたと推定できる。 このことは拙著 14 一 17 頁・ 57 一 58 頁に詳 しく述べている。 杉山氏は、 先の頭注の記述に 関して、 「藤井の言うように 星野恒の影響と 言えるのか」とし、 その記された 時期についても、 「藤井によっても 証明されていない」とも 記しておられる。 この ように、 批判されるのであ れば、 その根拠を示すべきであ る。 拙著 16頁でも紹介しているよう に 、 星野 恒の 「セ校万考」の 影響で政友が「 セ支刀 」という名称を 用いたことは、 すでに宮崎 市定も『謎の セ 文月』 け983 年 吉田 晶氏は 「星野恒の 『 中分新書 ) で記している。 さらに、 拙著では紹介していないが、 セ枝 力者』が、 この刀 と神功皇后 52年 条の 「セ枚方一口」とを 結びっ け 、 それによってこの 銘文を仁 セ 立刀』と読む 道を開いたことは、 研究 更 に明らかであ る」㎝セ 一 39 一 支刀の謎を解く』 2001 年 新日本出版社 ) と 述べておられる。 ちなみに、 杉山氏は「『大父 鉾 』『大父方』は 当時神宮周辺で 使われていたもので、 政友もそ れを使用していただけであ ろう」とされているが、 拙著 t3 頁 一 Ⅱ頁に記した 26 に、 政友大宮 司 退職後の明治Ⅲ 年 (1878) 頃 と明治 24 年 (1891) の石上神宮に 関する明細帳 なども「 セ支刀 」 を「大父」や「大父」としながらも「 鉾 」としており、 刀 」とはしていない。 また、 拙著 151 「 真一 152 頁の「 セ 立刀」の名称一覧表を 見れば明らかなように、 政友以前の文献に「大父 鉾 」や 「大父方」という 名称はない。 「大父」としたのは「七支刀」の 形状からであ り、政友が、 鉾 「 」 ではなく「 刀 」としたのは、 拙著 14 頁でも記したように 銘文から「 刀 」の字を読みとっていた からであ ろう。 石上神宮で用いられていた「大父 鉾 」ではなく、 銘文から読みとった「 刀 」を もとに、 「大父方」という 名称を用いているのであ る。 このことからしても、 在任中に「 セ支 刀 」と読み取っていたのであ れば、 その後も「大父方」という 名称を政友が 用い続ける可能性 はないであ ろう。 なお、 大場 磐雄は 『神道考古学講座』第 5 巻 (1972年 雄山 閣 ) の「石上神宮」で、 セ支 「 刀 」について、 「大父銭。 七支刀については 近年その銘文の 釈 読 にっき学界の 問題となり、 わが 同上代における 日韓の交渉を 物語る重要な 史料とせられ、 一面『神功皇后 紀 』の記事とも 符号 すると推定されている」と 記しているだけで、 杉山氏が記されたようなことは 述べていない。 『石上神宮宝物誌山行 929 年 石上神宮 ) においても「 社伝 では人文 鉾 又は六 叉鉾と 称する」と 記しており、 「大父方」が 当時神宮周辺で 使われていたと 大場は述べていない。 2 番目は、 拙著第 5 章における禁足 地 に関する記述についての、 次のような批判であ る。 第五章では小杉 温邨 『 徴古 雑抄』に筆写されていた 栗田寛 宛 政友の明治七年十月十五日付 書簡や、 天理図書館蔵 の政友の『新聞紙抄録 コ の裏 文書中、 宍戸 磯 完本殿造営願書下書と 恩、 われる文書などをあ げ、 禁足地内に「正中 / 封土」の他、 「 少シ 俊ニ左右 . ケ処相並 ニテ ママ 脚力 高キ 所有 之 」に注目し、 政友は「 伴 佐伯」の「石工 殿 / 跡 ニモ可 有志 欺 」と延喜式 所載社を考えているのに 対し、 江戸期の ニ 石上根神宮 _ 座 』などから「布都御魂大神・ 布 瑠御 現神・有部新 御 現神の三座の 神が埋 荒 されていたことになる」などと 変った論になっ ていく。 伝承と史実を 混ぜると政友も 大場も考えつかなかった 話になる。 この記述からは、 拙著で断定的に 述べているようにも 読める。 しかし、 203 頁で述べている ように、 三つの小円丘が 存在した禁足地を 考える際には、 三座の神との 関連も重要な 課題であ るとしているのであ って、 断定しているわけではない。 同 203 頁には、 「正殿・伴殿 ・佐伯殿 や 神庫と、 禁足 地並びに禁足 地 にあ った三つの小円丘などとの 関係についても 今後の課題とした ぃ 」とも述べている。 ちなみに、 政友も大場も、 禁足 地 には布都御魂大神が 埋 斎 されているという 伝承しか記して おらず、 有理 御 現神・有部新 御 現神も含めて 三座が埋 斎 されている伝承については 何も述べて いない。 さらに、 大場は禁足 地 に三つの小円丘が 存在したことについても、 何も記していない。 したがって、 この二人が、 禁足 地 にあ った三つの小円丘と、 禁足 地 に埋 斎 されたと伝承のあ る 三座の神との 関係について、 考えつかなかったのは 当然であ る。 また、 三座の神が禁足 此 に埋 荒 されているとの 伝承を認知しながら、 三つの小円丘が 存在した禁足地を 考える際に、 その伝 承との関係について 無視して、 検討する万が 不自然であ ろう。 一 40 一 3 番目は、 拙著第 5 章の神論に関する、 次のような批判であ る。 また 補論 として「鎌倉時代双期における 石上神宮の造営を 示す和歌」をあ げる。 P新撰六帖 和歌』の衣笠内大臣藤原家 良の 「 ぃ そのかみ ふ るの社のみや うつし あ らたまるとも 名や はかはらむ」の 歌が寛元元年十一月十一日から 翌年三月 廿 五日の間に詠まれたことをあ げ ているが、 何故か拝殿とか 境内の造成に 結ばれる。 この当時石上神宮の 本殿と 伴 佐伯の二 殿は確実に存在し、 造替遷宮が行なわれていたことをあ げられない。 藤原家良の和歌と 拝殿や境内の 造成と結びつけた 理由にらいては、拙著の神論 214 頁に記して あ る。 考古学的所見から、 鎌倉時代に石上神宮で 境内の造成があ ったことが指摘され、 現在の 拝殿も建築様式から 鎌倉時代双期のものとされている。 つまり、 先の和歌と境内の 造成並びに 拝殿の建築は 時期的に結びつけることが 可能なのであ る。 また、 補論に 、 本殿と 伴 佐伯の二股に 関する造替遷宮について 記さなかったのは、 藤原家長 (1241) 頃 も本殿と 伴 佐伯の二股が 確実に存在し、 造 の和歌を根拠にその 当時つまり寛元元年 替 遷宮が行なわれていたとは 考えていないからであ る。 『延喜式』巻 3 に記載のあ る、 本殿と 伴 佐伯のニ殿が、 石上神宮に存在したことは 確かであ るが、 律令制が崩壊するとともに、 国家に よる維持管理が 行き届かなくなり、 朽ち果てたままになったと 著者は推定している。 Ⅱ世紀 や 12世紀に同神宮が 衰退していたことは 拙著 214 頁にも記している よう に、 『更級日記』の 記述や 平経正の和歌からわかる。 本殿と 伴 佐伯の二股が 禁足 地 に存在したかどうかや、 その朽ち果て た時期、 伴 佐伯の二 股 と現在の神庫との 関係など、 さらに検討する 必要があ る。 しかし、 少な くとも藤原家良の 和歌が詠まれた 13世紀前半に石上神宮の 禁足 地 に本殿はなく、 その造替遷宮 も行われていなかったであ ろう。 白井伊佐 牟氏も 、 「石上神宮の『正殿 コ 」㏍古事記の 新研究』 200f 午 学生社 ) において、 石 土神宮の本殿などが 再建されることなく、 荒廃したままで 放置されたことを、 律令制の弛緩か ら 崩壊により、 国家的祭祀の 性格が弱まり、 反対に布留郷の 神社、 地域の神社としての 性格が 強まったことによると 記されている。 造営にかかる 費用が地元では 負担しきれないほど、 その 本殿の規模は 大きかったためではなかろうかとも 述べている。 さらに白井氏は 藤原家良の和歌 を 拝殿の造営を 詠んだもの、 『更級日記 コの記述や平経正の 和歌から、 少なくともⅡ世紀中頃 で も、本殿は荒廃しながらも 存続していたとも 推定している。 ちなみに、 拙著 245 頁にも記したよ うに、 石上神宮では、 拝殿にあ った棚にも ゼ 座の神が奉安されていた。 このような拝殿も 神を 奉安する機能を 果たしていた 姿が藤原家良の 和歌が詠まれた 13 世紀前半にまで 遡るとしたら、 藤原家良の和歌は、 白井氏の推定されるよ う に拝殿の造営か、 その造替遷宮を 詠んだものであ る可能性がょり 高くなる。 4 番目は、 拙著第 6 章に関する、 次のような記述であ る。 第六章は「石上神宮禁足 他 出土の「青二処々 ママ 金 象眼 / 跡 」があ ママ る大刀」と題し、 明治十一 年正殿幣殿新築の 際出土した遺物について 取りあ げている。 奈良県立奈良図書館所蔵 『 明 浩二十四年調官幣社明細 帳』所収「官幣大社石上神宮明細 帳 」の「石上神宮古文書宝物」 と題する部分の 刀剣玉 ロ の 内 、 「一 太刀 壱 国 焼刃不分明 朽錆 無銘鉄製 眼 / 跡 アリ 発頭同上 晋三処々 金 象 長四足 壱 才六分」 とあ るものから論を 進める。 藤井は「一ハセ 八 年の発掘時の 宮司でもあ った池田昇が、 この明細 帳 にも宮司として 関わっており 記述の相 一 41 一 違 ないことを記している」としてこの 記述を信用し、 以下このような 説明記述のない『古 器 彙纂 』の刀剣絵図などを 使用して話を 進める。 この絵図をトレースした 目なども載せる が、中間抜けの図をトレースしたため 三ロともにずんぐりむっくりの 図ができている。 古 『 器彙纂 』を実見していないので 確かなことは 言えないが、 中一丁 ゥ ラオモテが省略されて いるのではなかろうか。 仲略 ) 藤井の「背 こ 処々 金 象眼 / 跡 」あ る記載は始めから 見直す必要があ りそうだが、 石上の地 で 漢代銘文刀の 発見される可能性はまだあ ると思われる。 この記述にあ る、 「藤井の『青ニ 処々 金 象眼 / 跡 』あ る記載は始めから 見直す必要があ りそ う 」とはどのような 意味であ ろうか。 文脈からは明細 帳 に 「育ニ処々 金 象眼 / 跡 アリ」とあ っ ても、 『古器量 纂ロの刀剣絵図にはそのような 記述はないから、 石上神宮にそのような 大刀はな かったというようにも 理解できる。 もしそうであ れば、 この明細帳 は拙著 248 頁にも記したよ うに、 奈良県の行政文書であ るが、 信用できないということになる。 また、249頁に紹介してい るように、 天理図書館 蔵 の同神宮に関わる『一社所蔵 宝物什器書籍台帳 コ にも同じ大刀の「青 二処々 金象眼 / 跡」があ ることを記しているが、 これも信用できないということであ ろうか。 そもそも、 国家管理時代に 内務省および 管轄都道府県へ 提出することになっていた 神社明細 帳 という公簿で、 宝物の大刀について、 あ りもしない「晋ニ 処々 金 象眼 / 跡 」があ ると石上神宮 が書く可能,性は 低い。 それぞれの刀剣については、 長さや 幅 、 厚さについて 記すだけで、 詳し C 恩 A 婁 八分 図Ⅱ ① 一寸ニ分 U の 長 三尺 壱寸 ロ 三分五塵 図六分 冊巾 一寸五分 ヴ 二分五便 婁 田尾 の長田 尺壱才六分目田長武尺六才士下分 ヰ 忠一寸一骨 早ヴ一一八万 画一寸四分 ゆ 月- ② ① や ) ④ は 図 l0 刀剣 3 口の絵図をトレースした国 l878 年に出土した 刀剣 3 口の絵図 ぴ 一 42 一 古器繁繁 より) よ い 注記のない絵図の 方が「育ニ処々 金 象眼 / 跡 」について書き 漏らしている 可能性が高い。 少 なくとも、 この絵図だけで 先の明細帳 の記述を信用できないと 断定することは 不可能であ ろう なお、 著者の拙い図がこのような 誤解を招いたのかもしれないが、 中間抜けの図をトレース しておらず、 中一丁ウラオモテが 省略されているようなこともない。 この 国 (拙著では 図 Ⅱ ) は、 二 折りの状態で『古器 彙纂コに 綴じられていた 刀剣 3 口の絵図 (拙著では 図 10) の 表 と裏 の写真をトレースして、 合成したものであ る。 拙著 227 頁には、 この 国 (図 Ⅱ ) と二 折りの 表と 裏 を合成した刀剣 3 口の絵図 (図 10) とを左右に並べて 掲載している (前頁の図版参照 ) 。 そし て、 図 10 ・図11 が掲載されている 頁の石の 226 頁に「この刀剣姉ロの 絵図 (図 10) は、 二 折りの 状態でⅡ古器 彙纂コに 綴じられており、 広げて見ることはできない。 」と記している。 さらに 同 真 には「この絵図には 右側にに石上神社宝器 という題が記され、 続いて『 此 古剣三本寸法 如 ョ 因明治十一年五月正殿幣殿新築ニ 村地形取 直シ 土石人啓之 節 発頭若者明治 セ年 発掘立隠見 残シ 之分ト見へ 彼之唐櫃二人為後年神庫ニ 綱 ム 』と四行にわたって 先の明細 帳 にあ った記述とほぼ 同じようなことが 記されている。」とも述べている。 この 4 行にわたる記述は、 図 10 の写真でも わかるように、 ニ 折りの 表 と裏 (図 i0 では上下 ) にわたって記されている。 この 4 行の記述が 過不足なく、 読み取れることからも、 杉山氏が推定されているような 中一丁ウラオモテが 省略 されているということはあ り得ない。 5 番目は、 「禁足地から 出土している 遺物は総合的に 見れば四世紀代の 祭祀遺物であ る」と 述 べられていることについてであ る。 拙著では、 明治 7 年行 874) の発掘で、 宋銭や鎌倉時代 切 斯 のものとされる 籠手残欠が出土していたこと、 並びに明治Ⅱ年け 878) の発掘で平安時代後 期 頃 の鏡 4 面が出土したと 推定できることも 記している。 また、 明治Ⅱ年の発掘では、 5 口以 上の刀剣が出土しており、 その中には遡っても 5- は紀後半のものと 推定できる「背 こ 処々 金 象 眼 / 跡 」があ る大刀も含まれることも 述べている。 これらの出土物は「総合的に 見れば四世紀 ィモ 」とすることには 矛盾するが、 どのように評価されたのか、 杉山氏の記述では 明確ではない。 この 5 項目のほかに、 この書評では 拙著の付 編で 紹介した、 菅 政友の末公刊文書の 名称を 『深田随筆』と 記しているが、 正しくは『 探旧 随筆 ョ であ る。 また、拙著第 3 章にあ る 外来 ぽ 金器文字 詞ョの 影印と村山正雄編著の『石上神宮セ 文刀銘文図録』 る写真とを、 「両者同じもの」とされるが、 け996 年 吉川腔文館 ) にあ 同じではない。 拙著 91 頁にも記しているよ の影印は天理図書館によって 撮影されたマイクロフィルムをもとになされたものであ う に拙著 り、 『覚来 金器文字 詞コ 0 表紙・裏 表紙を含めた 28 丁すべて 嵯し 込まれていた 文書を含む ) に、 「大和国 石上神宮宝庫所蔵 六 叉刀 」が付されている。 そして、 口絵として『覚来金器文字 詞 』にあ る 「七支刀」銘文模写のカラー 写真も掲載している。 これに対して、 『石上神宮 セ 立刀銘文図録』 の 追録には、 抄 」と記している 「 よう に、 ヵ ラ ー 写真ではあ るが、 菅家所蔵 の『石和見聞 志 』の 一部分、 「大和国石上神宮宝庫所蔵 六 叉刀 」とともに、 『覚来金器文字 詞 』一部分、 すな ね ち、 その表紙・ 序 ・銘文模写を 含む「七支刀」関する 記述の部分だけを 掲載している。 なお、 拙著で『覚来金器文字 詞コ 全部を掲載したのは、 菅 政友の「 セ支刀 」研究、 銘文の釈 読を理解するためには、 『覚来金器文字 詞コ の他の記述も 重要と考えたからであ る。 拙著 70 頁 一 71 頁でも記している よ うに、 政友は『覚来金器文字 詞凹 において、 「 セ支刀 」以覚の鐘の 銘文な どを 釈諒 する場合も、 銘文そのものからではなく、 文献にあ る図などに基づいて 行っている。 一 43 一 しかも、 予断に基づく 懇意的な釈読を 行ったと推定できる 例があ る。 また、 杉山氏は『覚来金 器文字 詞ロほ ついて、 草稿であ り、 今後 完 稿の浄書本などが 発見される可能性も 指摘している。 しかし、 そのような可能性は 低い。 この 外来金器文字 詞 』は拙著 32一 39 頁でも記したように、 に その序ににたびかきと、 のふる」とあ ることなどから、 「古鐘反古刀 之銘 」などの先行文書を もとに明治 ZcW年 (1887) に書き整えられたと 推定できるからであ る。 さらに付け加えると、 杉 m 氏の書評では、 「本人の言を 見落としているかと は、 ぅが」と断って はいるが、 「著書が何故 77 菅 政友について 論文をまとめたのか」について、 金 閨怨 氏 による拙著の 序文や『石上神宮 セ支 刀銘文図録』の 編著者村山正雄氏の 記述によって 、 述べておられる。 先 にも記したように、 拙著は石上神宮の「 セ 文月」と禁足 地は ついて、 菅 政友関係の末公刊文書 や 、 同神宮関係の 文書などをもとに、 検討を試みた 書であ る。 したがって、 「何故菅 政友につい て論文をまとめたのか」については 記していないが、 拙著のあ とがき ⑫ 75 頁 一 277 頁) には、 なぜ拙著をまとめたのかについては 記している。 そして、 その中でⅡ外来金器文字 詞 ] などの 菅 政友関係文書を 閲覧するに至った 経緯についても 述べている。 また、杉山氏の書評では、 セ 文月」と何に 留まった剣の 伝承や草薙剣、 若宮出雲建雄神との 「 関係のように、 拙著で記したことで、 ふれられていない 内容もあ る。 このようなことは、 時間 的 、 字数的にも制約のあ る中で杉山氏が 書評を記されたからかもしれないが、 著者としては 残 念 なことであ る。 この弁明を契機に 拙著への関心が 高まり、 紹介した 末 公刊文書の内容も 活用されて、 石上神 富め 「七支刀」や 禁足地の研究の「厚 い壁 」の克服に少しでも 役立っことを 期待したり。 なお、 杉山林 継氏の 杉 m 」については、 「福山」と表記されることもあ る。 例えば、 祭祀考 「 古学会の機関誌 仁 祭祀考古学』では「福山」が 用いられている。 どちらが正しいのかなど 詳細 は存じ上げないので、 ここでは『 國 摯院 雑誌』 第 108号第 6 号に掲載された 拙著に対する 書評に 基づいて「杉山」と 表記した。 一 44 一
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