Page 1 宇佐地方における八幡若宮の発生 ― 33 ― はじめに 鶴 岡 八 幡

宇佐地方における八幡若宮の発生
―
宇佐地方における八幡若宮の発生
鶴岡八幡若宮を検討するために
―
小 脇 拓 行
(史学専攻博士後期課程二年)
・
宮の奉行となり度々鶴岡の若宮殿(下宮)の造営 作事を担当して
こうした性格があったのではないかと推察する。しかし、この点を
霊を新たに勧請した神社、と説明されており、創建当初の鶴岡にも
まな辞書で概ね、①本宮の祭神の子を祀った社、②本宮の祭神の分
「鶴岡」と略す)が創建当初「八幡若宮」であったこ
鶴岡八幡宮(
(1)
とは、
『吾妻鏡』や文書史料に見ることができる。
「若宮」はさまざ
式目』の第一条に「神社を修理し、仏事を専らにすべきこと」にか
『御成敗
が多数ある。そのなかでも鶴岡と鎌倉幕府をつなぐ研究は、
従来の鶴岡に関する研究は、その論旨から同質と考えられる見解
解が示されていないのが現状である。
のように山本氏の指摘を除けば、
「鶴岡八幡若宮」について明確な見
はじめに
(4)
いることなどを取り上げている。この指摘は若宮と御家人(相模武
掘り下げた検討は行われてこなかった。
幕府による政祭一致の理念の象徴は、創建当初の同宮が「八幡若宮」
士)の関係性に着目している点で鶴岡研究の展望を示している。こ
かつて、宮地直一氏は寿永二年二月二十七日付「源頼朝寄進状」
に記載されている「鶴岡八幡新宮若宮」という記述について「鶴岡
であったのならば、その実態の究明は重要な課題といえよう。とい
(2)
の名に負ふ八幡の新宮たる若宮の謂で……由来を飾らふとして八幡
うのも、これまでの研究では、『吾妻鏡』に記されている「本社者、
らは鎌倉幕府の政治理念を鶴岡が支えていることを彷彿とさせる。
(5)
新宮なる名辞を以てしたまで……」と述べている。しかし、この後
(3)
の文章では鶴岡における祭神の問題にぶつかり、鶴岡の若宮は仁徳
後冷泉院御宇、伊予守源朝臣頼義奉 イ勅定 、
ア征 伐ハ安陪貞任 之ア時、
有 丹
イ祈之旨 、ア康平六年秋八月、潜勧 請ハ石清水 、
ア建 瑞イ籬於当国由
比 郷 、ア〈今 号 之
レ 下 若 宮〉 永 保 元 年 二 月、 陸 奥 守 同 朝 臣 義 家 加 修
イ
天皇であると解釈するなど論旨の一貫性を欠く。近年では、山本幸
司氏が「鶴岡八幡宮について史料の「若宮」という文言にもっとこ
復 、
ア今又奉 遷
レ 小イ林郷 、ア致 蘋
イ蘩礼奠 云
ア々、」という記事から、
(6)
だわるべき」と問題を提起し、具体的な事例として、大庭景能が若
― 33 ―
けは、承和十一(八四四)年六月十七日「弥勒寺建立縁起」に初め
(
石清水八幡宮から勧請した国家的な神格をもつ「八幡神」を勧請し
て登場する概念であって、「八幡若宮」の発生はそれ以前の天長元
(
た神社という認識で語られてきたきらいがある。しかし、
『吾妻鏡』
(八二四)年であることから、本宮(八幡神)の子神(仁徳天皇)と
(7)
は後の編纂物なので、治承四年の鶴岡の様子を正確に描写している
ることながら「八幡若宮」自体についての知識が必要不可欠である
きりさせるための史料は見当たらないし、鶴岡のそれについてもさ
のような方法を用いるべきなのであろうか。
「鶴岡八幡若宮」をはっ
以上のように創建当初(一一八〇~一一九一年)の鶴岡が「八幡
若宮」であったのではないかという問題点を解消するためには、ど
代の研究では「八幡若宮」をどの神にあてるかについての見解が主
以上、「八幡若宮」についての研究をまとめると、一つ、宇佐神宮
の拡大に伴って現れた神と位置付けられていること。二つ、昭和年
しての政治的側面を論じた。
を根拠に宇佐神宮の譜代神官大神氏 宇佐氏が朝廷の神社政策に対
た軍神としての機能を「八幡若宮」が肩代わりしたと解釈し、それ
する見解は整合性に欠けると言わざるを得ない。
が、この神については未だ辞書的な一般的解釈を確認するのみであ
流であること。三つ、近年の研究では、律令政府の神社統制の政策
とは言えず、今日の研究水準においては根拠に乏しいと言わざるを
る。そこで、本稿では一度鶴岡から離れ、
「八幡若宮」に焦点を合わ
を背景として、それに対抗する宇佐神官団の政治作為のなかで生ま
得ない。
せて、この神の出現の経緯や性質などについて究明することを通し
れた神であるとの見解がみられること。これを踏まえて検討に移り
・
(
て、
「鶴岡八幡若宮」解明の一助としたいと思う。
たい。
一「八幡若宮」発生の史料
(
「八幡若宮」は宇佐神宮に示現した神である。この神につい
さて、
この他に八幡神研究の祖宮地直一氏は、宇佐八幡宮の祭神増加に
(
「八幡若宮」発生に関する根本史料である「貞観十八年十一月大神
蘊麻呂弟助雄等解文」(以下「貞観解文」と略記)には、管見の限
(
着眼して、若宮を応神(八幡神)の子神とし、
「八幡若宮」を仁徳天
(9)
乙
り、
(イ)
『託宣集』若宮部(ロ)
『宮寺縁事抄』第二 所
収「原題 八
め「八幡若宮」そのものを論じたものではない。
(8)
あるが、氏の論旨は中世における童形図像に主眼が置かれているた
ての論考や指摘は、わずかに福地佳代子氏の論文をあげうるのみで
(以下『託宣集』
近年では、飯沼賢司氏が『八幡宇佐宮御託宣集』
と略記)の「若宮部」の記述を、八幡神の大菩薩化によって失われ
(1
皇霊に当てている。だが、史料上において八幡神=応神霊の位置づ
― 34 ―
(1
(1
宇佐地方における八幡若宮の発生
第十三「原題 宮寺遷座極楽寺縁起」以上の四本がある。このうち
乙
幡大菩薩託宣記 」
(ハ)
『宮寺縁事抄』第十一(ニ)『宮寺縁事抄』
何大神宮之辺禱神可 顕イ申 」
ア、即託宣、
教
湏
久
宣、陰陽師更不 用
レ 、但汝能 彼神奉治
然間陰陽師不 聞
レ 神
イ
『宮寺縁事抄』所収の三本は誤脱が多い。なかでも(ロ)は文章の途
「汝所 申レ頗有 道レ、但大菩薩、宮大祭之後、以 午イ日夜亥時
(注7)
(注8)
(注5)
(注9)
(注6)
弖
、
ア
弖
湏
、
ア 急死亡 、汝不 見
レ哉」者、蘊麻呂等申云、「己身命取給、
陪
志、
中に致命的ともいえる脱落があり、
(ハ)と(ニ)もそれぞれ誤写と
容戸代出居、以後午日丑時、吾霊気奉、勿 令レ 告レ 他イ人 、ア神吾
(
考えられる箇所が多い。それに比して(イ)の『託宣集』に所載本
牟
弖
三年之内霊気顕 、
不 状
レ 可 見
レ」者、蘊麻呂等随 神イ教命 、
ア以
(
は、読みにくい箇所はあるものの、誤字なども少なく、概ね文意は
③
後彼期時 戸ア代出居、即申 禱
レ云、「 以 何
イ因縁 、
ア雖 多レ 他イ処 、ア
(
(注 (
イ
通っている。よって、本稿では、(イ)を底本に(ハ)(ニ)で校訂
(
大菩薩宮辺顕給申」、即神託、
(
したものを基本史料として用いることにしたい。左にその全文を掲
④
打レ 隼イ人兵 尓アン
、大菩薩行幸給 志時
「 為
ン 、吾御伴為 将イ軍 而ア奉仕、
気
彼隼人等打還坐之時、大菩薩之等給 彼イ将軍器杖 、
ア皆授 吾
レ 給
ン
(注
了、因 玆レ為 戦
レ 彼レ竊吾身老労侍 於イ外門 、
ア為 立
レ 慰
イ安願 慕
ア処
也」者、
(
・
(注 (
(注
(注
― 35 ―
げ、必要な部分に適宜傍線や註釈を施して「八幡若宮」発生につい
ての検証を行うことにしたい。
(注1)
『託宣集』若宮部
若宮社祝大神朝臣蘊麻呂弟助雄等解
(注 (
随 神イ教命 、ア以 去イ仁寿二年十一月秋祭之後 、ア以 午
イ日亥時 、
ア
⑤
(
竊戸代甕二口置 之レ、時造宮使正六位上藤原朝臣藤主、主典正六
(注
菱形小椋山宮西方隠坐神一所、
(注3)
(
位上香山宿祢永貞、以 同イ年十二月 造ア宮政所召 人レ了、門主女等
(注2)
(
(注
傜丁三人 、ア宮書生膳伴福雄令 預レ之間、使藤主被 任
レ 大イ隅守 、ア
(注
因 玆
レ使藤主為造 宮
イ殿 、ア作 支
イ度帳 、
ア供 奉
ハ稲百束、檜皮百囲、
(注
右神、以 去
イ天長元年 、ア蘊麻呂母酒井勝門主女、就 神
レ祭経 七イ
(注4)
②
可 告
レ」者、 而思忘経 年
レ不 顕レ、而後、
土波
①
波 形宮西方荒垣之外隠居神 曾
、
ン
ン 若不 顕
イ申
「 吾 菱
牟
曾
ア物 、其時吾喩為
未 造レ 宮イ殿 、ア爰蘊麻呂并前擬少宮司大初位上宇佐公豊川共建立
気
神気入 真
イ守之家
死、然後、門主女依 神
イ託宣 、
ア告 蘊イ麻呂
畢、廿二日宮殿一宇、亦蘊麻呂 助雄等依 神イ教命 毎
ア年奉幣之
(注5)
(注
礼 命取 利
牟
曾 者、
陰陽師 、
「
死
未 経レ 幾イ年 、ア陰陽師真苗頓
ア 吾 其
ン
ン 物
ン 」
ン
、陰陽師川辺勝真苗録申云、為 託イ宣神向卜
アン
(注
間、大宮司正六位下大神朝臣佐雄在任之時、以 去イ貞観五年 、ア
爾
(注
乃
助雄等 云ア、「神 託
(注
波
仁
ア汝家 入 神
イ
利 者、
門之神木経 三イ日内忌慎 之
ア間、神託宣、「覆間毎事淂 実レ 」
ン
(注
箇年 、ア而間父従八位下大神朝臣真守之宅、就 門イ主女 託
ア宣、
申奉 顕レ若宮祝記文事、
(注
(1
(1
・
(注 (
(注
(
(
・
蘊麻呂等、 ⑦而間以 去
イ貞観十一年二月七日符 、
ア以 蘊
イ麻呂 ア
(注
顕後、其威光示 于
イ 禁掖 、ア任国守瞻仰貴敬奉 粧
レ 神
イ徳 、
ア任中
(注 (
顕申 、ア方今若宮神名未 顕
レ時、放 異イ恠 祟
ア 国ア守有忠 、
ア今霊験
段三百十六歩 、ア其獲稲毎年二季神祭奉仕、然則神霊本尊不 可
レ イ
任 用
ハ祝 也ア、任 守
イ従五位下藤原朝臣海雄 、
ア供 奉ハ地子田一町玖
川
供 奉
ハ絹六疋、綿六十長 、
ア建 立ハ檜皮葺四間宮殿一宇 、ア専当豊
臣仲直、以 去
イ貞観十一年京上之時 、
ア請 若イ宮 申
ア上、京下之後
(注
朝占合既畢、仍載 宮
イ解文 、
ア言上已了、而前守従五位下藤原朝
占定」者、蘊麻呂申云、
「菱形宮西方隠神未 顕
レ、若以神漸大者、
名 若
イ宮神 、ア今天皇不預大坐、時奉 護イ守 神
ア也者、依 勅
イ詔 乃ア
⑥
「大 菩 薩 宮 西 方 隠 坐 神 未 顕
因 玆
レ召 陰
イ 陽寮 嘗
ア 申云、
イ 給 、ア 其
呂参坐之日、朝詔云、天皇不予大坐、而件神霊験示 見
ハ禁中 、ア
奉幣朝使左中弁従五位下紀夏井朝臣、占部外従五位下占部平麻
(注
(注 (
无 恙
レ者也、而今諸人等見 霊
イ験之顕 、ア非 氏レ之人競以任 祝イ部 、
ア
而漆嶋有 人
「任 若
、即申之間、同去年正月二日移
レ、偁、
イ宮祝 」ア
・
【註釈】
(注1)宇佐宮の大神氏については、後の系図を参照されたい。
(注2)淳和天皇 天長元(八二四)年。
(注3)豊前国宇佐郡酒井郷に起こった。宿祢姓をもつ。大宮司公通の
一族といわれる。
(太田亮『姓氏家系大辞典』
)
(注4)神の託宣や引用部分には「 」を付した。
(注5)川辺勝は豊前国「仲津郡丁里戸籍」に確認できる。真苗につい
ては不明。
(注5)例大祭のこと。三月十八日に行われている宇佐宮の最重要神事。
(注6)午後十時。
(注7)御戸代(みとしろ)
『日本国語大辞典』には、「神戸の意」とあ
る。
(注8)午前二時。
(注9)古代将軍が出征の時に天皇より授かる節刀のこと。
(注 )文徳天皇 仁寿二(八五二)年。
(注 )仲秋祭のこと。毎年十月に行われ放生会の神事を伴う。
(注 )藤原式家、太宰大貳従四位下藤原仲成の子。長岡京遷都を主導
した種継を祖父に持つ。
(『尊卑分脈』
)
(注 )重松氏によれば、香山氏は百済系渡来人で、大和国十市郡香山
よりおこったとする。永貞については不明。
(注 )帳簿のこと。
(注 )
『姓氏家系大辞典』によれば、豊前から豊後に分布する一族。福
雄については不明。
(注 )宇佐宮神官。
(注 )清和天皇 貞観五(八六三)年。
(注 )善峯の子。正五位、讃岐守 播磨介 式部少輔 右中弁などを
歴任し、五筆の一人であった。土佐国に配流されている。(
『尊 卑
分脈』
)
)藤原京家流豊並の子。太宰大貳。(
『尊卑分脈』
)
)清和天皇 貞観十一(八六九)年。
)朝廷のこと。
(注
(注
(注
・
・
・
弟大神朝臣助雄 祝大神朝臣蘊麻呂
・
符偁、蘊麻呂如 元
レ定 祝
レ、亦有 神
イ人御田事 、
ア別当者望請 国
宮任 公イ験記文 、
ア以 蘊
イ麻呂 同弟助雄等 令
ア 任レ 祝イ部 、ア仍記 イ
事状 、ア為 後イ世 注ア 顕ハ記文 申ア上謹解、
壬
貞観十八年 子十一月廿三日
― 36 ―
(注
(注
12 11 10
13
15 14
18 17 16
22 20 19
(注
宇佐地方における八幡若宮の発生
書学入門』によれば、
「解」は、管轄関係にある下級の被官から上級
(
右掲の「貞観解文」は、宇佐での若宮神の発生を伝える唯一の史
料である。神吽編著の『託宣集』には、筆者の若宮神に対する考え
している。次に以上の二様式と「貞観解文」を比較してみたい。書
何々事」として、書き止めに「以解」と記す点において両者は共通
(注
(
の所管へ提出する文書であり、これを拡張して個人からその所属官
司や一般の上位者に提出する場合にも用いられた。また、『雑筆要
方の根拠となる史料として引用されている。こうした状況から、は
きだし部分の事書と書き止めの部分に注目すると、事書で若宮社祝
)漆嶋氏の出自については不明である。飯沼氏『八幡神とはなに
か』によれば、漆島氏の代表的な人物として赤蜂(時守)を挙げ
る。赤蜂は延暦九(七九〇)年に下宮の地に卜居し、上宮を護っ
た。また、宇佐の駅館川に辛島井堰を築き辛島田圃を開発した。
じめに「貞観解文」の信憑性について検証する必要があると思う。
の大神蘊麻呂と弟助雄が記文をあらわし、それを「解申」すとある。
(
『公式令』には「解式」として、また『雑筆要集』では三十二通の
また、書き止めの部分で「謹解」とあり、それより前の傍線部⑦の
(1
次に「貞観解文」の内容について考えたい。まず疑問に思うのは、
先述のとおり、なぜ大神氏は若宮社祝の正統性を主張するかという
二 創出時の「八幡若宮」の性質
ものと認めることができる。
件が本文中に盛り込まれており、すなわち本解文は様式上疑いない
文書の要素もみることができる。以上のように解文として必要な要
の祭祀権をめぐる相論を想定していることからわかるように、訴訟
み取ることができる。蛇足だが、この解文においては「八幡若宮」
張するためこの記文を作成したことあらわし、その主張の根拠を読
(
例が挙げられている。
( (
文では後世に大神蘊麻呂以下の一族が若宮社祝としての正統性を主
まな書き方があるが、
【史料二】のように書きだしは「何某解……申
集』も参照すると、そこに収録された解文や解状の雛型にはさまざ
(1
【史料一】
『公式令』
(解式条)
式部省解 シ申 ス其 ノ事
其事云々、謹解、
( (
年 月 日
許 、
ア仍勒仕状、以解、
右謹検案内、ム申事極 愁レ也、望請 鴻恩、早仁道理、将被 裁イ
官位姓名解、 申進申文事、
【史料二】
『雑筆要集』
(解状)
(下略)
(1
(1
年號― 官位姓名上
「解」は、公式令に規定された様式の文書である。佐藤進一『古文
― 37 ―
23
神朝臣小吉備売、祝辛島勝竜麻呂、大宮司大神朝臣田麻呂が後継者
件の結果、祢宜辛嶋勝与曽女、宮司宇佐公池守が解任され、祢宜大
大宮司から没落している。さらに神護景雲三(七六九)年の道鏡事
と呼ばれる不祥事を起こしており、事件によって大神氏は宇佐宮の
五四)年に薬師寺の僧行信と八幡宮の神職大神田麻呂等が厭魅事件
ことである。この解文が出された頃の宇佐宮では、天平勝宝六(七
所」であった。「貞観解文」以前の宇佐神宮における託宣は、主に
姫 宇礼
「貞観解文」によると天長元(八二四)年には「八幡若宮」創出の
動きがあったことがわかる。
『託宣集』の作者はこの神を、若宮 若
宣命体を用いたのであろう。
命体の文章で書き記したものが宣命であるように、神の託宣部分に
れている。これは、大王や天皇の命令が口頭で宣布され、これを宣
( (
に挙げられたが、最終的には祢宜に辛嶋勝与曽女、忌子に大神朝臣
・
・
(
(大神氏関係系図)
久礼の四所(柱)と説明しているが、創出当初は「神一
・
・
(
同豊比売、大宮司に大神朝臣
・
同女悲売 辛島勝阿古女
・
小吉備売
田麻呂、少宮司に宇佐公池守任じられて、事件は終結する。道鏡事
( (
件後、八幡神の託宣の力は失墜し、八幡神は出家を遂げて大菩薩と
なる。一方で宇佐神官に復職し、宮司職に任じられた大神氏ではあっ
代わる新たな神の出現が必要だったとすれば、
「八幡若宮」創出の動
( (
機が説明され得る。そして、この神の機能を「貞観解文」で確認す
ることができる。
( (
大神比義─春麻呂┬胤守─社女
│
└諸男┬田麻呂
│
└種麻呂─雄黒麻呂─家弘─┐
│
┌───────────────┘ │
┬氏麻呂(下略)
└家頼─宮次│
└真守┬犬子
│
(母酒井勝
├蘊麻呂 門主女)
│
└助雄
(
女禰宜が行っていたが、平安時代以降はその数が減少するという。
(
たので、隼人征伐に際し若宮に対して大菩薩と同等の権威を持つ器
酒井勝は豊前宇佐郡酒井郷より起こった氏族で宿祢姓を持つ。蘊麻
呂の父真守の宅にいる、同母門主女に若宮神が憑き託宣をしている
(2
は八幡神の身代としての神格を有していたのである。
(2
ことは、宇佐の託宣において一つの画期であろう。右に示した「大
( (
杖(節刀)を授けた。つまり、若宮神は、その創出の当初において
傍線部④に着目すると「大菩薩の等しく彼の将軍に器杖を給ふ」
とあり、八幡神は大菩薩となったため殺生ができなくなってしまっ
(2
『託宣集』においては、神の託宣部分はほとんど宣命書きが用いら
(2
― 38 ―
(2
(1
たが、依るべき八幡神の権威は失墜してしまった。ここに八幡神に
(2
宇佐地方における八幡若宮の発生
( (
神氏関係系図」でわかるように、大神大宮司家嫡流は氏麻呂の子孫
に相伝されていく。庶流の家系である真守の系統が、八幡神分身で
内部での祭祀権をめぐる政治的争いのなかで創出された神であるこ
ると、若宮造営の次第は次のとおりであった。
天長元(八二四)年にはじめて現れた「八幡若宮」は「一所」で
あった。この神はどこに出現し鎮座したのだろうか。傍線部⑤によ
三 若宮社殿の位置からみる特徴
とを示している。
天長元(八二四)年に姿を現わした「八幡若宮」を奉斎する社殿
の造営が約三十年後の仁寿二(八五二)年に始まった。そのときの
ある「八幡若宮」を祀る社の祝になっていることは、若宮が大神氏
傍線部②のでは、陰陽師川辺勝真苗が神の託宣を採用せずに頓死
してしまったことを記している。真苗という人物について詳しいこ
費用
若宮造営の責任者と費用
主典
建立の実行者 建立年月日
費用や責任者などを「表1」にまとめた。
表
造宮使
費用の管理者
とがわからないが、陰陽師である真苗と「八幡若宮」の託宣が対立
しており、真苗の頓死によって失墜した託宣の力を取り戻そうとす
る宇佐神宮側の意図がうかがえる。すなわち神社統制に乗り出した
朝廷への抵抗であった。この真苗の頓死の記事からは、神の託宣を
聞き入れない人間を祟り殺すという祟る神としての神格を読み取る
日に崩御した。
「今天皇不預大坐」の一文は、天皇の身が芳しくな
王(陽成天皇)に譲位している。そして元慶三(八七九)年五月八
より六日後の貞観十八(八七六)年十一月二十九日に皇太子貞明親
る神なり」とある。清和天皇は「貞観解文」に記されている日付け
傍線部⑥に「其を若宮神と名く、今天皇不預大坐、時に護守し奉
託宣を合図に、社殿の造営が着手されたかに見えたが、造宮使藤主
宮殿造営の長官に就任している。同年十二月に入ると神(若宮)の
薬子の変で一族の存亡が危ぶまれるなかで、藤主が新たに現れた若
不明だが、藤原藤主は仲成の子で種継の孫にあたる。長岡京遷都や
造宮使藤原藤主、主典香山宿祢永貞が任命された。永貞については
仁寿二年十一月、戸代(神に供する米を作る神田)を設定して、
稲100束
仁寿二(八五
正六位上
大神蘊麻呂
桧皮100囲 膳伴福雄
二)年十二月
香山宿祢永貞
宇佐公豊川
傜丁3人
二十二日
かったことを伝えている。八幡大菩薩の分身であるからこそ「八幡
が大隅守に任じられると造営料を宇佐宮書生膳伴福雄に預けてしま
藤原藤主
若宮」が天皇を護る神としてあらわれているのではないだろうか。
ことができる。
1
う。これを見かねてか大神蘊麻呂と宇佐公豊川が協力して社殿を造
― 39 ―
(2
命された役人が造営を行わず、在地の神官でことがなされている。
宣の権威が復活したのと同様に、社殿の造営についても中央から任
以上の経緯より、若宮社殿の造営は中央の官人から在地の宇佐宮
神官に委ねられた。
「八幡若宮」の託宣と陰陽師の占いが対決して託
営するに至った。
清水の模倣のように考えがちだけれども、建物の配置を見るとむし
水の神を勧請した。このときから上下宮となったためか、鶴岡は石
したとおり、鶴岡は、建久二(一一九一)年十一月二十一日に石清
つの境内図を並べてみると、類似している点がみられる。先に指摘
院建築が廻りに配置されて、境内を構成していることがわかる。二
れるものがあり、社殿が上下宮に分かれ、本地堂や千躰堂などの寺
(
こうしたことから、八幡神が国家的な神となり中央に取り込まれて
ろ宇佐宮に通ずると思われる。これは、宇佐に発生した「八幡若宮」
(
いくなかで、
「八幡若宮」という新たな神を創出することによって自
が鎌倉に勧請されたことに結びつくと考えられる。
( (
己の利権を守ろうとする宇佐神官の意図をうかがうことができる。
四「八幡若宮」の伝播
宇佐宮はじめて菱形宮西方に発生した「八幡若宮」が次に登場す
るのは、筥崎宮においてである。本稿では、その史料について『託
(
これは傍線部① に「菱形宮西方荒垣の外に隠れ居る神」とある場
所に相当し、現在もこの位置に若宮殿がある。上宮の西、本殿鳥居
宣集』所載のものを使用する。その理由は以下のとおりである。
「石
(
「宇佐神宮境内トレース図」
しかも造営された若宮社殿の位置は、
(本稿 頁図参照)によると、本宮の西側、鳥居の前の近くである。
の目の前に創建されたことから、宇佐宮境内における重要性を確認
ヲハ」が神の託宣部分だけではなく地の文にも用いられて文章全体
清水八幡宮記録」の「筥崎宮縁起」は『託宣集』のそれに比して、
ある。
に渡っている。今回は「八幡若宮」の託宣や活動に力点を置いてい
るので、託宣の原史料ともいうべき『託宣集』所載のものを使用す
することができる。それは傍線部③の「何の因縁を以て、他処多し
(2
宇佐宮を描いた最古の絵図に「応永古図」と呼ばれるものがあり、
頁参
当 該 期 に お け る 宇 佐 宮 全 体 の 状 況 を 見 渡 す こ と が で き る(
ることにしたい。右に掲げる。
( (
治三十三年、
照)
。これをみると上下宮の体裁が整えられており、神社建築と寺院
一、醍醐天皇御宇、
『託宣集』筥崎宮部
41
建築がそれぞれ一群となり境内を構成している。一方で鶴岡を描い
42
― 40 ―
(3
若干文章が長いく所々に脚色がみられる。しかも、宣命体の「テニ
(2
と雖も、大菩薩宮の辺りに顕し給ひ申すや」という一文にも明瞭で
41
た最古の絵図に「豊臣秀吉奉行等加判造営指図」
( 頁参照)と呼ば
(2
宇佐地方における八幡若宮の発生
宇佐神宮境内トレース図
①上宮 ⑦木屋 ⑬和間浮殿 ⑲田笛社
②下宮 ⑧能舞台 ⑭鷹居社 ⑳春日社
③弥勒寺 ⑨宮迫 ⑮百大夫 ㉑北辰社
④女祢宜社 ⑩大元山 ⑯薦社 ㉒住吉社 ⑤上宮仮殿 ⑪奈多宮 ⑰小山田社 ★若宮殿
⑥下宮仮殿 ⑫大尾社 ⑱妻垣社 ☆若宮仮殿
⑩
南
⑨
⑱
⑦
御 食 川
⑰
②
㉒ ①
★
⑳
㉑
⑪
⑧
③
菱形池
⑤
⑮
☆
⑭
⑥
④
⑲
⑬
川
館 浅 瀬 川
駅
大鳥居
大塔
馬場殿
⑫
⑯
北
・
・
― 41 ―
・
・
国立歴史民俗博物館資料調査報告書情報資料研究部『社寺境内図資料集成1 東北 関東 中部
四国
九州』(国立歴史民俗博物館、2001年)の「宇佐神宮絵図」をトレースした。
また、境内の建築物名については真野和夫「宇佐神宮の古絵図」
(中野幡能編『八幡信仰事典』戎光
祥出版、2002年203頁図解)を参照し、池と川の名称のみ図に書き入れた。
⑦経蔵
⑩五大堂
⑬桂社
⑧鐘楼
⑪熱田社
⑭松童社
③白旗社
⑨北斗堂 ⑫三島社
⑮天神社
⑥千躰堂
□ろ
とをいかき
御ほぢどう
下のわかミや
とをいかき
やなぎ原 しゆろう
ひかしの御門
二かいのろう門
二かいのろうもん
くわいろう
くわいろう
くわいろう
南大門
くわいろう
くわいろう
にしの御もん
とをいかき
●
●
●
くきぬき
から門
●●
● ●
●
八はし
やふさめの馬場
●●
●●
●
●
やふさめの馬場
天正十九
(とを)
とをいかき
あかはし
とをいかき
山中橘内
□□いかき
内のとりい
とをいかき
五月十四日 増田右衛門尉
出典:『鎌倉市史社寺編』(吉川弘文館、1958年)のものを使用した。
⑤
へいでん
はいでん
くわいろう
きやうざう
大夫
天神
げん
まつ
どう
かつら
ミしま
あつた
御こうし
いしばし
あか井
北斗たう
くわいろう
五大だう
二町つヽ四方八町也
― 42 ―
千躰どう
いがき
いがき
⑪ ⑫ ⑬⑭ ⑮ ⑯ ⑦
御しんでん
⑥
二かいのろうもん
⑧
豊臣秀吉奉行等加判造営指図(トレース)
くわいろう
ひかしの御門
くわひろう
御かうし
たけうしの御てん
くわいろう
大こく
にしのとりい
にしの御門
くわいろう
(しらはた)しや
ゑびす
いしばし
ひらはし
くわいろう
くわいろう
②
⑨
①
④
いしばし
⑩
御しんでん
③
北
⑯源大夫
④えびす社
②若宮殿(下宮) ⑤御本地堂
①本殿(上宮)
宇佐地方における八幡若宮の発生
条々有 二
其員 、ア
第二十四年、延喜廿一年辛巳六月廿一日、於 観イ世音寺西大門 、ア
若宮、一御子七歳女子橘滋子、去 地レ七尺而託宣、
波
抑末代 尓人力弱 久、公家勢衰之比、新羅国 是
我古敵也、可 起イ来
寇
志
乃
乎
弖
ア、因 茲
レ筥崎新宮 礎之面、敵国降伏之字 書付 、可 立
レ 其イ
者、
志奈
利、
志
照 於イ朝野之人 、
ア 神劔
遠志
弖、
乎志
弖
乃
尓
乎
志
乃
波
柱 、
ア又吾座 下 同件字 可 置レ 、其宮殿 柱 可 用レ 栢
レ也、如 此レ
乃
則新羅 敵
国自然 仁降伏
世波
弖
又云、吾将以 戒
イ定恵 之
ア力 、霊鏡
宇佐宮に発生した「八幡若宮」は、延喜二十一(九二一)年に観
世音寺(現福岡県太宰府市)の西大門に顕れ、七歳の橘滋子に託宣
(
(
を下した。先行研究においては、この最初の一文を「若宮一御子」
と読んで、若宮四所のうちの一御子仁徳天皇と解している。しかし、
この一文を「若宮、一御子七歳女子橘滋子に地を去ること七尺にし
て託宣」したと読むことで、応神信仰のなかの若宮四所の一御子で
はなく、八幡神の分身として発生した「八幡若宮」であると解する
ことができる。この史料の内容は、一つめに、筥崎新宮を造営し敵
国降伏の字を書きつけて社殿を造営すれば敵国である新羅は自然に
乎
振 隣
イ国之敵 者
ア 、
一、朱雀天皇御宇、
降伏するというもので、九〇七年に唐が滅び、九一八年に高麗が建
治十六年、
午
元年、天慶元年戊戌十一月十三日壬寅、 時
託 大イ分宮権大宮司藤
国され、九三五年に新羅が滅んで高麗が朝鮮半島を統一する、とい
州の海岸近くに造営されたことからも理解できる( 頁図参照)。二
う朝鮮半島情勢を反映していると思われる。それは、筥崎宮が北九
原実元女子七歳 宣
ア、
波
礼 迦如来乃変身、
、
ア 本体 是
ン 尺
ン
湏
久
乃
、申 女イ躰 者ア、我母阿弥陀如来 変
アン
尓
我 礼為 持
レ 日
イ本国 示
ア 現ハ大明神
自在王菩薩是也、名 法イ躰
志
ア
乃
加
身也、申 俗
イ体 者
ア、観世音菩薩 変身我 弟也、爰母大多羅志女
利
湏
ア軍発来 、為 打
レ 取
ハ 此朝
つめに、傍線部「八幡若宮」は託宣に注目すると、釈迦如来の変身
であるとか、法躰であるとか、母は大帯姫(神功皇后)であると託
宣している。この内容から、「八幡若宮」が八幡大菩薩の分身とし
志
志
ア給 時、従 新
イ羅
天
礼
湏
乃
久
天
見
布
時、大帯姫託 子
レ 生 月時満 、産生 期近 成 、御腹病 給 、
天
て、その意思を七歳の女子に伝えていることが確認できる。筥崎新
指
ア 御
イ裳腰
天
宮の造営と遷座において一番重要なことは、八幡大菩薩の分身とし
、取 白イ石
江土
弖
おりた。西の方角は仏教では浄土を指し、なによりも地理的に宇佐
割を果たしたことである。今回も西の方角に顕れて、女子に託宣が
て「八幡若宮」が託宣をくだし、八幡大菩薩の意向を人に伝える役
天
天
久
当 時
レ 誓 言 、我子々孫々代々可 領
レ 此
イ朝 者
ア、過 経
ハ 七日 之
ア
礼
後、生 給
良牟
天
志
尓
女
奴
土 、云畢 、合戦 給 令 勝
レ 給竟 、各尋 住イ
天
礼
加
乃
天
天
ア隠 居給之時、我 累世 舎弟穂浪山 勤 修
ハ仏法 ア、祈 天イ下
日之間 者、
ア 我祈 神
レ
所
国土 者ア
― 43 ―
(3
久 若此石有 験 、
者
宣 、
ア
レ 過 七イ
者、為 領
レ 此
イ朝
44
筥崎宮の位置概略図
筥崎宮
宇佐神宮
の地域からみれば北西の方角から敵が侵入してくるので、ここを守
り固めることが重要だったのであろう。また、託宣が女性にくださ
れることで女祢宜の力を飾ろうとするものであった。
筥崎新宮の造営遷座の史料にあらわれた「八幡若宮」は、前節で
確認した武神としての側面と託宣の機能を兼ね備えた八幡神の分身
であり、御子神ではないことが確認できたと思う。第一の託宣があっ
た延喜二十一年のころには、応神信仰が普及されてくる。その一面
をなす大帯姫すなわち神功皇后の腹から生まれたというエピソード
からは、宇佐宮に祀られる神たちの家族化を垣間見ることができる。
けれども、ここでの「八幡若宮」は、その信仰のなかの若宮四所=
応神の御子神としての位置付けがあった一方で、それとは別に八幡
大菩薩の分身としての活動を続けていたのである。筥崎宮への遷座
は「八幡若宮」託宣がおりてその神が勧請されるというパターンを
示している。
おわりに
本稿では、鶴岡が「八幡若宮」であったことに着目し、その起源
を確認して、その発生地域周辺へどのように伝播していったのかを
考えた。検討の結果は次の二点にまとめられる。一つめは、
「貞観解
文」によって天長元(八二四)年に発生したことが確認される。
「八
幡若宮」は、八幡神が出家を遂げたことによって顕れた分身ともい
― 44 ―
宮 崎
熊 本
国東半島
大分八幡宮
福 岡
佐 賀
大 分
宇佐地方における八幡若宮の発生
うべき神であり、宇佐宮神官大神氏の政治的意図のなかから生み出
されたという一面をもっていた。二つめに、応神信仰が広がりをみ
0
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0
せる時代においても、応神の御子神ではなく、八幡大菩薩の分身と
して「八幡若宮」は活動していた。
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創建当初の鶴岡は、史料上「鶴岡八幡新宮若宮」とか「鶴岡八幡
若宮」と呼ばれており、
「鶴岡若宮八幡」とは表記されない。このこ
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とから、いわゆる仁徳天皇や若宮四所を主祭神とする若宮八幡宮と
は区別されるべきものであり、鶴岡の場合、八幡の若宮として鎌倉
に勧請されて発展していったと考えられる。今後の課題は、九州地
(講談社、一九九八年)二二二~二四二
(4) 山
本幸司『頼朝の精神史』
頁。
(5) 鎌
倉幕府と鶴岡八幡宮に関する研究は数多くある。それをここで
挙げることはしないが、鶴岡から幕府を見ると幕府や中世社会の本
質をあぶり出すことができると考え、この手法で議論していきたい。
(6)『吾妻鏡』治承四年十月十二日条。このほかにも『鶴岡社務記録』
や『群書類従』の関係史料にも同様の記述がみられる。
(7)『吾妻鏡』建久二(一一九一)年十一月二十一日条に「鶴岡八幡宮
幷若宮及末社等遷宮也」とある。この日、現在もみることができる
上下宮の社殿を構えた新たな鶴岡八幡宮へと遷宮が行われた。
(8) 福
地佳代子「八幡若宮に対する一考察―石清水八幡宮所蔵の童形
像を通じて―」
(
『東北福祉大学研究紀要』三十二号、二〇〇八年)
。
その他、民俗学の研究として堀一郎「若宮信仰」
(『民間伝承』十六
号、一九五二年)がある。
(9) 宮
地直一『八幡宮の研究』(蒼洋社、一九八五年)九〇~九二頁、
一三九頁。
。
( )『神道大系 神社編四十七 宇佐』(神道大系編纂会、一九八九年)
(角川書店、二〇〇四年)一二九~
( )飯
沼賢司『八幡神とはなにか』
一三四頁。
(現代思潮社、一九八六
( )重
松明久校注訓訳『八幡宇佐宮御託宣集』
年)三七六~三九三頁。本稿では『託宣集』と略記する。また、
「貞
観解文」の註釈においても参照した。
(神道大系編纂会、
( ) ②~④の史料は『神道大系 神社編七 石清水』
一九八八)
、
『大日本古文書 家わけ四ノ五 石清水文書五』に所収さ
れている。本稿では『縁事抄』と略記する。
( )『託 宣 集』 と「宮 寺 縁 事 抄」 に 所 載 の「貞 観 解 文」 の 検 討 か ら、
『託宣集』では「私曰」をもとにして写した可能性も指摘できると思
われる。
(吉川弘文館、一九六六年)
。
( )『国史大系 第二十二巻 令義解』
( )『続群書類従』公事部。
(法政大学出版局、一九七一年)第三
( )佐
藤進一氏『古文書学入門』
― 45 ―
方に発生した「八幡若宮」がどのように伝播して鎌倉に勧請された
のかを究明することである。
注
・
・
(1) 二
通の寿永二年二月二十七日付「源頼朝寄進状」と嘉禄二年二月
二十六日付「将軍藤原頼経下文案」には「鶴岡八幡新宮若宮」とあ
る。『吾妻鏡』にも「若宮」を冠した記述が多数認められる。
「生島足島神社文書」所収、永禄十年八月七日付「望月信雅
また、
起請文」には、
「関東守護二所 三嶋 若宮八幡大菩薩」との記述が
みえる。
(2)国史大辞典や日本国語大辞典をはじめ、
『神 祇 辞 典』
(平凡社、一
九二四年)、
『日本神祇由来事典』
(柏書房、一九九三年)
、
『神道史大
辞典』(吉川弘文館、二〇〇四年)に同様の説明がなされている。
(
『神 祇 と 国 史』 古 今
(3) 宮
地 直 一「 鶴 岡 八 幡 宮 寺 の 組 織 と そ の 性 質 」
書院、一九二六年)一一三~一二五頁。
11 10
12
13
14
17 16 15
章第四節参 照 。
( )上
杉和彦「『雑筆要集』を中心とする日本中世文例集史料の研究」
(『明治大学人文科学研究所紀要』第五〇冊、二〇〇二年)
。
)の5
( )八
幡大神による奈良 東大寺大仏礼拝(天平勝宝元年 -749
年後 天平勝宝4(七五四)年、薬師寺の僧 行信と八幡宮の神職
大神田麻呂らによって「厭魅(エンミ)事件」と呼ばれる不祥事が
起こっている。
『続日本紀』には「人を呪い殺そうとする呪法を行っ
た……」とあるが、何のために、誰を呪詛したのかなど細かい内容
は不明。説によれば、当時の朝廷での実力者 藤原仲麻呂(恵美押
勝)を追い落とそうとする橘奈良麻呂に荷担した行信が、大神田麻
呂を引き入れようとして発覚した事件ではないかともいう。中央勢
力と結ぶことで勢力を広げてきた八幡大神(大神氏系神職団)が、
逆に中央での勢力争いに巻き込まれて失脚したともいえ、これによ
り大仏造立時の立役者 大神杜女 大神田麻呂は流罪となり、大神
氏一族は宇佐八幡宮から退去している。
(中野幡能編『宇佐神宮の
( )清
輔道生「道鏡事件の謀略と史的背景」
研究』国書刊行会、一九九五年)
。氏によると道鏡事件の結果、宇佐
神宮内では大神氏と宇佐氏との間に大宮司職争奪戦の火ぶたが切ら
れたという 。
( )飯
沼賢司『八幡神とはなにか』九八頁。天応元(七八一)年に「大
自在王菩薩」、その二年後(七八三)には「護国霊験威力神通大自在
王菩薩」と 称 し た と い う 。
( )前
註 飯 沼 の 書 に お い て も「 八 幡 若 宮 」 創 出 に か か わ る 宇 佐 神 官 た
ちの政治的策謀についての言及がなされている。氏の論旨に沿うも
のであるが、大神氏内部においても神の祭祀権をめぐる争いがあっ
たように思 う 。
「凡 大 将 出 征
( )『律 令』 に は 以 下 の よ う な 規 定 が あ る。
レ、皆授 節
イ
刀 、」
ア 遠征する将軍が、天皇の命令を受けて出征することの証とし
て「節刀」を授かることが規定されている。
( )前
掲注⒑飯沼賢司『八幡神とはなにか』一一〇~一一一頁。
(角川書店、一九六三年)二四
( )太
田 亮『 姓 氏 家 系 大 辞 典 第 二 巻 』
(
(
(
八三頁。
(神道大系編纂会、一九八九年)七
)『神道大系 神社編四十七 宇佐』
四四~七五三頁。
(東京美術、一九八一年)一七四頁。
)前
久夫『社殿のみかた図典』
氏の解説によれば、
「透垣の一種で、粗垣と書かれることでもわかる
ように、玉垣よりも更に柱の間隔の疎らないもの」であるという。
(中野幡能編『八幡信仰事典』戎光
)真
野和夫「宇佐神宮の古絵図」
祥出版、二〇〇二年)。
(中央公論美術出版、一九八四年)に
)福
山敏男『神社建築の研究』
よれば、鶴岡を描いたこの絵図は、設計図であり当時の境内の諸相
をそのままの描いたものではないという。しかしながら、主要な建
物は絵図の位置にあったと思われる。他に関連する論文として、浪
川幹夫「鶴岡八幡宮の諸堂について―創建期から寛永造替までの諸
相―」
(
『鎌倉』一〇四号、二〇〇七年)がある。
)当
然二つの絵図は性質が異なる。宇佐神宮の絵図が曼荼羅の世界
を表現したものである前註( )真野論文に対し、鶴岡のそれは、
破損した社殿の修理を秀吉が行うことを約束し、それを引き継いだ
家康によって作成された設計図のようなものである。
)飯
沼賢司『八幡神とはなにか』一四〇頁。
・
・
― 46 ―
(
(
(
26
26
27
28
29
30
31
18
19
20
21
・
・
・
・
・
22
23
25 24