天理大学人権問題研究室紀要 第 7 号 :45 一 59, 2004 イデオロギーとしての「漢字」 一 識字 り テラシ 角 づ の観点から 一 知行 oi 睡も oぞ Lite acy 一 Ⅱ・ SUMIゝomoyuki っているが,その 根底に共通するものがあ はじめに 1, それは漢字への 信頼であ る。 る。 カタカナ覚来語 2003 年から 2004 年にかけて, 日本語の文字 政策にかんするいくつかのニュースがつたえ のいいかえ語は ,その大半が漢語であ お なじ外来語であ っても西欧語ではなく 漢語が られた。 3 つだけあ げておくと,①国立国語 評価されていることがわかる。 研究所は,カタカナ外来語のいいかえ 語を 2 二 回にわたって 発表し,話題をよんだ。「アセ 信仰をものがたっている。 スメント」は「影響評価」に 子どもの 名 づけにおける 漢字の効用をみとめ 、ンップ」は「就業体験」に , , 「インターン 「バリアフリー」 は @ 壁なし」に, といった具合に 100あ ま 「 り 漢字教育というかんがえかたは 国語 力 の 向」 こ ,漢字への 人名漢字の増加は , たうえでの措置であ るといえよう。 このように日本語の 文字表記として 漢字を りのいいかえ 語が提案されている。 ②国語審 評価し擁護するかんがえは 現在の日本社会に 議会のあ とをついだ文化審議会国語分科会は 文部科学相への 答申をまとめた。 そこでは国 ひろくいきわたっている。 言語学者や国語学 者だけでなく ,小説家,漢字研究者,書道家, 諸力 め 向上がもとめられており ,小学6 年生 教育者などが ,いろんな観点から 漢字の効用 でだいたいの 常用漢字 (1945字 ) がよめるこ をといている。 極端な場合には ,「日本語の とを目標にするとしている。 そのため国語の 文字表記の優秀 時間のおおはばな 増加が提案されている。 ③ されることがあ る。 一方,新聞などのマスメ 法務省は,常用漢字以覚にみとめられている ディアは「いまどきの 若者は,こんなに漢字 が よめない」といったニュースを 定期的にな 人名漢字の増加を 法制密議会に 諮問した。 さ 」という国家神話まで 再現 1951年 当初は 92字しかみとめられて い なかっ がしては,漢字信仰を 補強する役目をはたし た 人名漢字は,何回かの改訂をへて現在 285 ている。 字 になっている。 これにさらに ROO 字から 1,000 字程度追加することを 想定しているそ うであ る。 これらのう ご きは発表機関も 目的もことな 大理大学人間学部 近代日本の歴史をふりかえってみれば , 漢 字削減論や ヵナ ・ローマ字採用論がおおきな 力 をもち, ときに主導権 をにぎっていたこと もあ った。 国語調査委員会や 国語審議会で 国 Faculty@of@Human@Studies 45 イデオロギーとしての「漢字」 語 政策に中心的な 役割をはたした 言語学者の よる文字ばなれ ,西欧語の流入といった 現実 上田万年や保科孝一は ,漢字制限,表音文字 も 他方にはあ る。 これらは漢字ばなれを 促進 の採用論者であ り, とくに上田は「確信にみ し , 日本語の表音文字採用を う ながす要因の ちた漢字廃絶論者,ローマ字論者」 (イ , ヨ ンスク : 1996, p.144) であ った。 カナ モジ はずだ。 あ るいはとなりの 離国 のように, 運動やローマ 字運動は,言語学者,国語学者, 放 をすすめている 国もあ る。 表音派が へゲモ 実業家,政治家等を 結集し,国論を二分する ニ ー をとるにいたった 背景には,ただメディ 一大勢力をなし , ァ状況の変化というにとどまらず ングルという 表音文字に専用化し ,漢字の追 これらの政策をバックアッ ,政治的力 学 が作用していると り わなければならない。 本稿の目的は ,現在主流をしめるにいたっ プ していた。 だが, こうした政策や 運動は,そのアピー ルがおもてにてでくることは ,現在ではほと た漢字擁護論を「イデオロギー」として んどなくなってしまった。 もちろんいまでも 表音文字の採用を 主張する論者 (梅林忠夫, することであ る。 「イデオロギⅡとはなん らかの立場の 利害を代弁する 言説であ る つ 会, ての「イデオロギー」であ カナ モジカイ などの 運動団体も活動をつづけている。 における影響力,運動論的な ろう ) 。 書道家, 漢字研究者,小説家,教育者などが 漢字を肯 しかし論壇 力量ははるかに ちいさくなっている。 正確な表現ではないが 漢字を表意文字ととらえて (も とも代表的な 用法は,階級利害の代弁とし 野村雅昭など ) は健在であ る。 日本ローマ字 日本のローマ 字 社 , 分析 , 漢字を評価する 人 走 するのはよくわかる。 漢字が自分たちの 商 売 道具であ り,これをうしなえば 商売道具を なくすことになるからであ る。 いまドイツで たちを表意派,かなやローマ 字を表音文字と 進行している 正書、 法改正にもっともつよく 反 とらえてそれらを 志向する人たちを 表音派と 区別することがあ る。 この用語をつかってい 対しているのが 教育者,出版業者,小説家な えば,現在,表意派は 表音派を圧倒するにい どであ るのと事情はおなじだ。 しかし, ここで解明しょうとするのはそう たったということができる。 した個別職業的,あ るいは階級的な 立場では その背景のひとつとして ,文字をめぐる 環 ・境の変化ということがかんがえられる。 文字 なく,「識字者」という 立場であ る。 とくに 漢字知識の有無によって ,識字者と非識字者, 教育の負担がおおきいこと 部分的識字者という 階層がちまれる。 現代の ,タイプライタ 一 など情報機器との 適合性におとること ,これ 根拠 らが漢字削減,表音文字採用のひとつの であ った。 しかし,「識字率の 向」」によっ こ て 1 番目の理由は 論拠をうしない ,最近のパ ソコンの発達によって 2 番目の理由も 論拠を 漢字擁護論は ,識字者によって 識字者のため に表明された ィ デオロギ一であ るという事実 こそあ きらかにしたり。 最近,文化人類学をはじめ 人文・社会話 科 学 において,「だれが , い っ,なにを目的に うしないつつあ る。 そうした文字・環境の変化 して, どのような主張をおこなっているの がおおきいということもできよう。 か」がとわれるようになった しかし文字環境ということでいうならば パソコンやインターネットの , 使用における 漢 字変換のハンザ ツさ ,映像メディアの発達に 46 (たとえば, 太 田好信 : 1998, 2001)。 言説はそれをかたる 社会的立場ときりはなせない。 植民地主義 民族主義などへの 反省から,言説の立場性, 発話のポジションがあ らためて,とわれてい る。 漢字をめぐる 言説についてもおなじこと がいえる。 そこにおいてだれが ,だれにむか って,なにを 発信しているのだろうか。 関連を早期に 指摘した文章として 注目される。 「国語国字論争」についていえば , そ甘 a@ 漢字知識を身につけた 知識人階級 と ま ,そうで はない階級との 階級闘争ということになる。 つぎの第 2 節では,社会言語学の 研究動向 漢字知識をもった 知識人にとっては ,かりに のなかから,漢字を 社会的立場との 閥逆 にお その知識が一夜のうちにほごになったとすれ いてとらえる 視座についてのべる。 第 3 節で ば,それはためこんでおいたお 札がすべて 紙 は「識字 ( リテラシ一 )」を手がかりにし くずになってしまったのとおなじことになる。 識字者,非識字者,部分的識字者の 区別につ したがってかのじょら ノ かれらは漢字を 擁護 いて説明する。 第 4 節では,戦後の漢字イデ する言説をのべ , 政治的にうご オロギ一の生成とその 構造をみる。 第 5 節で はもっとも現代的な 漢字イデオローバであ る をくりひろげるのであ る。 田中は, ロシア革命によるイスラム 教徒か 鈴木孝夫氏の 所説を例にとって ,それが識字 らのアラビア 文字盤 取 のこころみを 紹介して 者の立場から 識字者 のために論じられている ことをあ きらかにする。 最後に第 6 節では, き ,権力闘争 いる。 それはイスラムの 特権的な 旧支配属に 拘 撃 をくわえるためであ った。 日本でも近代 近年の識字研究を 紹介し, 9l,識字者,部分的 国家になって ,漢語の使用がきんじられ 識字者の声を 回復するための 方法を展望する 字そのものが 統制をうけるという 事態もおこ ことにしたが。 りえたかもしれない。 しかしそうならなかっ たのは「社会の 枢軸を・握った書生」 (柳田国 2. 漢字を論じる 立場 男 ) が漢語の権 威を利用することで 自分たち 日本では近代以降,漢字やかなづかいをめ ぐって「国語国字問題」とよばれる ,漢 論争がな がきにわたってくりひろげられてきた。 もは や 論点もでづくし の権 威をまもったからだという。 戦後の言語 的保守主義者はこの「書生」の 精神的後継者 ということになる。 言語や文字を 社会的立場との 関連で論じる ,かえりみられることもほ とんどなくなってしまった。 社会言語学者の 視座は, 自分自身がどのような 立場から発言 田中克彦は, 1984 年に初出のみ じ か いェッセ するのかを とい ただすことにもなる。 田中は 一のなかで, この問題をとらえなおすための 「ことばの真のガ は, 文字の知識に 甘えず頼 あ たらしい視座の 必要性をといた。 この論争 らない,強い 精神から生まれる。 漢語という は細部にわたる 問題群からなるが ,ただ- 点 便利ではあ るが,ことばの 力を弱める麻薬か において要約せよといわれればそれは らなるべく遠ざかったところでことはをみが 漢字へ の依存をこれ 以上ふかめて い いのかという 問 くのが理想であ る」と自分の 立場をあ きらか 題 に帰着すると ,田中は集約する。そして, にし,このエッセ ー をしめくくっている あ えてこれをもしかえすねうちがあ るとすれ ば,「ことはの 階級闘争」とでもよぶべき 性 中克彦Ⅱ 993, P.76)0 格の論点がここにひそれでいることであ たび光をあ てたのは, ましこひでのりであ る。 る, (田 漢字とそれを 論じる立場との 関連性にふた という (田中克彦Ⅱ 993, p.69)。 これは「国 ましこは 1993年の論文で,田中の 議論をふま 語国字論争」とそれを 論じる社会的立場との えつつ,漢字の 利害にかかわる 集団を環・ 境社 47 イデオロギーとしての「漢字」 全学の用語をもちいて マ字論者であ り, さきごろ視力を , a 「まったくの 受益 集団」,b 「受益集団であ るとともに受苦集 梅林忠夫は , 団」, c 「まったくの憂苦集団」という ムという巨大な 文化のめぐみを 理念型にわけている。 a 3 つの は外来一古来の 知識, ートからなる 特権集団のことであ る。b は a , は背のびしょうにもがりそではふれない 差別集団であ る (ましこひでのり 造る , 被 ましこの議論で 興味ふかいのは ,漢字をめ , 文化資本という 観点からえがきだしている 点 であ る。 特権 集団は覚来 - けられない う としている。 ダイナミックかつ 具体的にえがきだし たという点で 意味があ るが,問題点もあ る。 : 1993L。 ぐるこれら利害集団の 差別化のメカニズムを ぅ ましこの議論は 漢字をめぐる 利害集団の構 かまいりすることを 目ざす後続集団であ る。 c しなった ひとたちという 意味で,視覚障害者と 外国人 の受 苦 集団のなかにとりこも a にな くるしくても ぅ い まの漢字かなまじりシステ はつながっている」とのべている。 ましこは こうした発言を 手がかりにして ,両者を漢字 とりわけ漢語知識をもったひとにぎりのエリ を準拠集団としつつ 「 古来の知識を 学者 一家,芸術家一家といった 家庭環境から 自然 受益者,憂苦者 という区分は ,利害関係を表 現するのには 有効であ るにしても,漢字をめ ぐる関係のあ りようを記述する 概念としては 適切ではない。 また「視覚障害 かならずしも と身につけることができる。 これにたいして 者」,「覚国人」という具合に実体化してしま うのは危険性をともなう。 視覚障害者のなか 後続集団は,庶民におちこまないために にも 漢 点字をもちいたり ,パソコンの音声 ょ 知識 を身につけ,それをふりまわす 擬似エリート みあ げソフトをつかったりして ,かなり漢字 としてふるまう。 一方,文化資本のないひと をつか い こなしている 人もいる。 おなじょう びとは,識字層 のくらしぶりをひとみ み とと に,外国人のなかにも ,留学生によ くみかけ らえて, せのびせ さるをえなくなる。 こうし ることだが, ほとんど不自由なく 漢字をつか たしくみのもとに ,漢字が差別化装置として い こなす人もいるからであ る。 はたらいているというわけであ る。 もう一点興味ぶかいのは ,視覚障害者,外 能 的側面としての「識字 国人という社会集団を 登場させていることで 注目して,「識字者」「部分的識字者」「 9l,i駝 あ る。 文化資本からの「こぼれ」かたとはち 手者」に区分することにする。 漢字をめぐっ がって,メディアの 必要上から漢字がもちい て有利ノ 不利な立場にたったり ,あるいは利 られない場合があ るという。 それは点字,外 益/ 被害をうけたりするにしても ,それは結 国人のかきことばであ る。 視覚障害者のつか 呆 としてであ る。 漢字とのかかわりにおいて う点字の場合,基本的には 直接的にことなっているのは カナ に対応してお わたしは漢字をめぐる 社会集団を,その技 ( リテラシ一 ) 」に , どの程度よみ り,漢字と無縁のメディアであ る (現在では 漢 点字など,漢字と 対応した点字システムも かきができるのかという 能力差であ あ るが - 般 的ではない ) 。 外国人の場合,流 することにしたい。 暢に日本語をはなす 外国人でも漢字かなまじ り文の読解・ 筆記能力があ る者はごく少数で あ って,かな,ふりがなつき漢字,ローマ字 などのほうが 文字として一般的であ 48 る。 ロ一 を 区分する一次的な 基準として, る。 集団 これを採用 3. 識字 ( リテラシⅡからみた 漢字 文字のょ みかき活動をさす「識字 ( リテラ シⅡ」がとくにとりあ げられるのは ,その 能力の判定,つまり「識字率」の 文脈におい てであ る。 文字のょ みかき能力をもたない 井 識字者が人口比でどのくらいか ろ のか,さま ざまな歴史的,地理的文脈であ きらかにされ , さらに範囲を「円本人」にかぎらず「日本 請 人」 ( 日 ,叢的に日本語をもちいる ろ 人 ) にひ げれば,在日外国人にも 日本語の非識字者 はおおくいるはずであ る。 国際識字 年 推進中 議論されてきた。 央委員会では ,義務教育をうけていない 人が その場合,これまでのおおくの 研究では, 自分の名前をかくといった 必要最低限度の ょ 170 万人, これに障害者や 在日外国人あ わせ みかき能力がない 者を「 井 識字者」としてき た (島村直己 :1993, て ,非識字者300 万人という数字をだしてい る p.143)。 たとえば日本 で 1948 年におこなわれた「日本人の 読み書き 能力調査」では ,かな,数字がまったくよめ ない 1.6% が「完全文盲」,かなや 数字はよめ るが漢字がまったくよめない O.y/o が「不完 鰍、 仮有作編 Ⅱ 991, P.391)0 さらに,文字のょ みかきのできない 者を「井 識字者」,それ 以外を「識字者」とするニ 分 法にはおおきな 問題があ ると い わなければな らない。 識字とは社会生活のなかではじめて 機能し ぅる 能力であ る。 二分法ではなく ,社 全文盲」とされ ,あわせて2.1め が「文盲」 会生活との関連において ,段階的,漸進的に であ った。 1955 年にも同様の 調査がおこ か わ と れたが数字はほとんどおなじであ ている。 日本の識字率が ったとされ 99% であ るといわれ らえる必要性があ る。 ユネスコ (UNESCO) は「機能的識字 (ぬnct onal literacy)」という概俳を 提起している。 それ 王 ることがあ るが,その「根拠」はこのあ たり は自分自身と 地域社会が発展するために にあ る。 とされるよみかき 能力を意味する。 「社会生 しかしこの数字の 妥当,性はうたがうべきで 活に正当に参加する」ための 必要 文字の能力と り あ る。 2955 年の調査以降,本格的な 調査はお いかえてもいいであ ろう。 この意味で多少の こなわれていない。 現在の地点から 数字の妥 文字は 当性.を議論することはできないが ,「・ l,; 敬宇 能力をもちあ わせていない 人はおおいはずで 者 」がもっといることは ,いろんな点から 指 あ る。 ぎ 摘できる。 コ まず,被差別部落や 在日韓国・朝鮮人など に,義務教育の未就学, 未 修了者がおり つ. う めても社会生活を い となむに -l-分な よ ゾル, ジョナサンは「機能的識字」とい 用語を批判 し, 「 き @@ 分的識字 (semilI tterate) 」と いい かえている。 非識 主 ばわれた文字をとりかえすべく ,いまも識字 字者とは字はほとんどよめない 人のことであ 学級や夜間中学でまなんでいるという り,部分ほり 識字者とは字は 事実が よ めるが社会生 r舌 あ る。 あ るいは身体障害や 視聴覚障害によっ に必要な水準にたっしない 人のことであ る。 て,文字のよみかきからほとんどきりはなさ コ ゾルは, 1983 年にホワイトハウスが 配布し れた人たちもいる。 アンガⅠマーシャルは た 資料によって 身体・精神障害のためによみかきのできない 2,600 万人,部分的識字者が4,600 万人,合計 人はすくなくとも 人口の 7,200 万人が不完全な 識字能力の状態におか 1 拷以ュこいるという ,アメリカでは非識字者が約 (Kozol, 点からだけでもこの 数字はおかしいと 疑問を 呈している (Unger, J. MarshaI Ⅱ 1987= Jonath 1992,p.107) ゾルにならって ,「部分的識字」という 用語 。 れていることをあ きらかにしている 田打 985 二 1997, p.32) 。 以下では コ 49 イデオロギーとしての「漢字」 ているそうだ (Unger, をもちいることにする。 日本語の文字表記の 場合は,この「部分的 1992, p ユ 21) 。 J Marshall汀 987 曲 それからかなり 年数がたって 識字」という 概念がとりわけ 重要であ るとお いるにしても ,本も新聞もよまない / よめな もわれる。 かなと漢字がいく っかよ めるだけ い人たち, 日常のよみかきに 不便している 人 では, とても日常的に 流通する日本語の 文書 たちは,なお- 定の割合で,のこっているこ を理解できないからであ る。 漢字かなまじり とであ ろう。 文の場合,ひらがな , ヵ タカナ,漢字 (さら 視覚障害者や 外国人についても ,部分的識 日本語の識字には ,ほかのおおくの 言語とは ことなって,多数の 文字知識,ながい習得時 手者はおおいはずであ る。 文化庁が 2001年に おこなった『地域の 日本語教室に 通っている 在住外国人の 日本語に対する 意識等につい 間が必要になる。 漢字についていえば ,教育 て 漢字が約 1,000 字,常用漢字が約 2,000 字,新 表されている。 これによると ,地域の日本語 聞をよむのに 必要な漢字が 約 4,000 字という ことになっている。 さらに「五月雨 二さ みだ 教室にかよう 外国人のうち , 2 年以上かよっ ている人の場合でも ,「ひらがなが 読める」 れ」のように , 訓 よみした熟字 は86.3%, 「カタカナがよめる」は 85% にた には ローマ字 ) という複数の 文字をもちいる。 (熟字訓 ) が 皿 という調査結果がインターネット 上で公 あ る。 地名,人名には熟字訓がおおいのであ つ しているものの ,「漢字が読めて 意味も分 って,この読解までふくめればさらに おおくなる。 そうしたスケールのなかで 識字 かる」は 19.6%, 「漢字が読める」は 12.9% と,少数にとどまっている (「漢字が少し 読 をとらえるべきであ って,「漢字がいくつか める」とこたえた 人は66,3% いる )0 かのじ よめる」者を 識字者として 一括することはで ょらノ かれらが市役所,病院,学校,駅など きない。 日常生活のさまざまな 場面で, 日本語のよみ 現代でも部分的識字者は であ る。 一般紙の新聞を ょ 字数は ,かなりいろはず かきに苦労していることは みこなす能力や 習 ころであ り, その一端はこれらの 数字にもあ 蝦 のない人がいる。 マンガはよんでも 一般書 をよむ能力や 習慣をもたない 人もいる。 アン ガーが紹介している 例であるが,神戸のあ る , よく耳にすると らわれている。 このようにしてみると ,「識字率99% 」と いうのはまさに 神話であ るといわざるをえな 高校をたずねて 現代国語の授業参観をしたア い。 漢字かなまじりという 文字体系は習得に メリカ人研究者は ,つっかえ,たちどまりし かなりの時間を 要するのであ って,支障なく か文章をよめない 学生の識字能力のあ まりの 日常生活をおくるまでにいたらない 非識字者, ひくさ,解釈や 討論にはいる 前に多大の時間 をついやす国語の 授業のあ まりの退屈さにお 部分的識字者はかなり どろいたそうであ 1987 二 1992,p.119) (Unger, J. MarshalI る 。 おなじくアンガーが 引 用しているところによれば われた識字調査では , , 1955 年におこな 日本語をつかっている い るとかんがえられる。 そのうち部分的識字者がどの 程度いるのかは , いまのところ 明確な基準も 調査もなく,実数 でしめすことは 困難ではあ るが,識字者ノ部 分的識字者 ノ 非識字者との う 階層区分をたて ることは 虹 意味ではないはずだ。 これらの概 人の 20% から 50% が,かきことばの使用で, 念をもとにして ,現代の漢字擁護論を 気になるほどこまっているというデータがで てみることにしたい。 50 分析し 4. 現代の漢字擁護論 第二次大戦後の「国語国字問題」は ,「国 のへ ゲモニーを奪取していく。 1959 年,日本 経済新聞社長,小江利得 (おばまとしえ ) を 理事長に「国語問題協議会」が 結成され,国 語の民主化」というスローガンからはじまっ 語改革批判の 運動拠点がつくられた。 1961 年 た。 読売報知新聞は「漢字を 廃止せよ」とい には,舟橋聖- など,国語審議会のなかの 表 う社説をかかげ ,使用漢字を2,300 字程度に 意派委員 5 名が次期委員の 選出方法をめぐっ ひきさげる漢字制限を 自主的におこなった。 改正憲法はひらがな 口語体でかかれ ,公用文 て辞任するという 事件がおこっている。 以後,国語審議会委員から のひながたとなった。 則 ,倉石武四郎などの 表音派委員が 「当用漢字表」と「現 代かなづかい」の 制定はこれらのう ご きを完 成させた。 「当用漢字表」は 一般社会でもち いる漢字の範囲をさだめたもので 1,85(H 字 , これ 土岐善麿,松阪忠 追放され, 委員会の性格が 変化することになる。 1968 年には自民党文教部会の 国語問題に関 する小委員会が 答申をだした。 ここには当用 づ か い の尊重,人 がえらばれた。 現代かな づ か い は歴史的かな 漢字表の緩和,歴史的かな づかいをあ らため,現代語昔にもとづく 表音 名・地名等の 表記における 旧字体の尊重,公 式 かなづかいを 採用したものであ 用文の石縦書きの 原則化などが 提言されて ぃ る。 これら の改革は, アメリカ教育使節 団 が日本語の文 る 。 倉島良正が指摘するように 字 表記の改良,ローマ 字教育の導入をもとめ 国語政策の動きはほぼその 通りになった」の るという情勢のもと ,戦前から漢字制限案を 提案していた 国語審議会,表音文字への 移行 であ る (倉島良正 :2002, p.l0Uo 1981 年の 常用漢字表では 字数はt,945 字にふえ,音訓 をもとめていたローマ 字・カナ モジ 運動など 総数も 149 ふえた。 1986 年の「現代仮名遇い」 の理想の一部が ,国語民主ィヒ の潮流にのって では歴史的かなづかいの 尊重がうたわれてい 結実したということができる。 る 戦後の漢字擁護論は ,これらにたいする 反 発から出発している。 1953年に小泉信三は『文 芸春秋』誌上で ,歴史的かなづかい 改正問題 をもう一度白紙にもどすこと ,漢字制限をよ り ゆるやかにすることを 主張して,口火をき った 。 桑原武夫は国語改良支持の 立場からこ ,「その後の (「常用」「仮名遇い」という表記がその性 格の変化をよくあ らわしている ) 。 こうして, 1960 年代を転機として ,文字政策は漢字の制 限から緩和へとおおきく 変化した。 現在もこ のながれがつづいているといって よ いであ ろ う Ⅰ回青 吾言命争 」とも し 、 われるこの論争をにお いては,かなづ か い論が中心的な 論点で,漢 れに反論している。 おなじ趣旨の 論争は福田 恒存と金田一京助の 間で,拡大再生産される 字問題は二次的であ った。 漢字の必要性にか ことになった。 ふたりの論争は 回をかさね , んする積極的な 主張はかならずしもおおくは 「福田恒存氏 のかなづかい 論を笑う」「金田 一名のかな づかひ論を憐れむ」というタイト ルに象徴されるように ,過熱したものになっ ていった (西尾 実 ・久松潜一 : 1969) 文字改革を批判する 表意派は,その後,政 治的保守勢力のバックアップをえて ,表音派 ない。 当初の論点のひとつは ,文字改革への 直接的,個別的反発であ った。 当用漢字表に はあ れこれの漢字がな い ,新字体はおかしい , 漢字かなまじりになってしまう 語があ る 素 」,「 語い 」など) といった類のものであ る。 もうひとつは ,審美的,感性的な 観点から 51 イデオロギーとしての「漢字」 する擁護論で ,漢字は日本語の 表記の「目鼻 る 。 立ち」をととのえる ,語勢をつよくする ,読 解のスピードをたかめるといったものであ このまとまった る。 記述は,福田恒存の『私の 国 かな づか い にかんしても ,あたらしさがあ る。 従来の漢字擁護論は「歴史的かなづかい」 擁護論とセットであ った (福田恒存 : 1960 , 語教室J (1960) のなかにみいだすことがで 九谷 オー : 1983 など ) 。 漢字と歴史的かなづ きる。 漢字が必要な 理由は,第 1 は方言の克 かいが国語の 伝統あ るいは国語の 本質を構成 服,第2 は名詞, とくに抽象名詞をつくる 造 するとされたからであ る。 しかし鈴木にあ 語 力 ,第3 は語勢のつよさ ,第4 はよみやす ては「現代かなづかい」がもちいられている。 さであ るとされている (福田恒存 : 1960. このセットをぎりはなしたことは 1970 年代,言語学の知識 者の共感をよぶ 一因となったのであ ろう。 漢字のはたす 役割は,つぎの 2 点に集約さ をもちいて漢字の 必要性をより 精微に主張し たのが鈴木孝夫であ と よみやす い,モダンな表現を可能にした。 これも,読 pp.256-261)o こうしたなかで , , っ る。 鈴木は 1973 ばと 文ィ 劃を岩波新書として 年,に 刊行し, 日本 れている (鈴木孝夫 : 1975=2000, p.45)。 まず第 1 点は,漢字は音訓二重性をもち ,高 語ブームをおこすひとつのきっかけをつくっ 級語彙の造語力を 日本語にあ たえているとい た。 さらに 1975 年には『閉ざされた 言語・日 う 本語口を新潮社から 刊行した。 その第 2 章は 「文字と言語の関係」と題され ,漢字の役割 がテーマになっている。 おなじ趣旨は , 1990 年に岩波新書として 刊行された『日本語と 外 国語Ⅱの第 4 章「漢字の知られざる 働きい ) 」, 第 5 章「漢字の知られざる 働き (2) 」にお いてくりかえされている。 は ば ひろくよまれ , その影響力のおおきさからいっても 現代の漢字擁護論のもっとも ,鈴木は 有力なイデオロ ーグになっているといってよいであ ろう。 点である。 たとえば「水」という漢字は「ス イ」という 音 と「ミズ」という 訓をもつ。 ふ たとおりのよみかたがあ ることを古代ローマ の ヤ一ヌス 神にたとえて ,「ヤ一ヌス的 双面 , M;」とよんでいる。 水」という概俳は ,音 「 訓ふたつに音声化されるまえに ,「水 」とい う文字であ られされている。 したがって「水 」 という漢字をつかった 熟語,たとえば「水族 館 」「水素」「恐 水症」という 字をみれば,は じめてそれをみても ,およその意味を 理 M す ぬ ることができる。 いっぼう,英語などでは「ウ 鈴木の説は,現代の 日本語において 漢字が ォーター」と「ハ イドロ 」のあ い だに内的連 はたしている 役割を評価する 機能主義の観点、 関がないことからわかるように ,高級語彙の にたっている。 従来の漢字擁護論は ,戦前の 理解が困難であ る。 意味領域の判別にすぐれ 山田孝雄にみられるように 歴代の天皇名や 詔 た造語 力 があ ること,これが漢字の評価ポイ 勅,勅諭 (つまり「国体」 ) ントのひとつであ る。 この観点から 鈴木は外 の伝承に漢字が 必要だとしたり ,あるいは戦後の 福田恒存に みられるように 日本の古典文化の 伝承に漢字 来 語のカタカナ 表記に否定的であ る。 カタカ ナによる覚来語表記は「甘い 糖衣に包まれた が必要だとするなど ,歴史的な文脈において 毒薬」であ り,漢字表記は「口に 苦い良薬」 主張されてきた。 しかし鈴木の 場合にはそう ということになる。 した歴史意識は 希薄であ り, もっぱら 共時 的 場面における 漢字の機能がテーマになって い 第 2 点は,漢字が視覚的弁別のはたらきを もつということであ る。 日本語は音素の 数が すくないため ,同音語がたくさんうまれる。 本来であ れば,同音衝突の が姿をけすはずであ 原理によって 一方 る。 ところが日本語では そうはならない。 それは漢字によって ,「水 星」と「彗星」,「排水」と「廃水」,「私立」 と「市立」のようにかきわけられるからであ 者 という区分をもうけることができた。 この 区分をつかっていえば ,漢字擁護論は,どう いう立場からのべられているのか ,というこ とであ る。 5. 漢字擁護輪一だれが ,だれに ? る。 また,日本語の 基礎語彙は抽象的なもの まず 2 番目の論点,漢字の 視覚的弁別 力, がおおい。 これをより具体化するのが 漢字で つまり漢字は 昔をあ らわすだけでなく 意味を あ る。 たとえば「とる」という 語は,漢字で もあ らわしあ たらしい情報を 文字にくわえ 表記することによって「取る」「採る」「捕る」 ているという 点をみてみたい。 これはいうま 「 摂る 」などと分節化できる。 同音異義語, でもなく,識字者についていえることだ。 同 同訓異字 語がうまれる背景には ,こうした漢 訓異字詰 をみてみよう。 たしかに「とる」と 字の視覚的弁別 力 があ る。 この性質を利用し 撮 いう語を「取る」「 摂る 」「・採る」「執る」「 た日本語を,鈴木はテレビ 型言語とよんでい る」などとかきわけて 意味を分節化させるこ る。 「官房長官が シ とはできる。 しかしこれらの 意味のちがいを 案をつくりました」と 一スできくと ,「試案」か こ か 頭の なかでイメージをつくってきいているという 認識するためには「 取 」「 摂 」「 採」「 執 」「 撮 などの漢字の 知識をもち,それぞれの 意味の わけであ る。 ちがいをしっていることが 前提であ る。 漢字 ュ 「私案」 こうした漢字擁護論にたいして ,内在的な 批ヒ半 ・ Ⅱをすることは可能であ る。 たとえば,ま しこひでのりは ,「文脈さえはっきりしてい れば,漢字イメージぬきで , き 」 が視覚的弁別 力 をもつといっても ,それは読 者の側に視覚的弁別能力,つまり 漢字知識が あ ってはじめて 可能になるのであ きとれること」, 「わかちがきになれば ( ひとめよみ ) できる る。 このことは漢字の 視覚的弁別能力を 十分に もたない非識字者や 部分的識字者の 場合をか こと」,「かながきの情報伝達能力はすぐれて んがえてみればよくわかる。 非識字者は音声 いること」,「同音衝突の真犯人は漢字音のま コミュニケーションのレベルにおいていきて ずしさであ ること」,「漢字の能率性のほとん いるのであ って , どはたんなる (なれ ) がかんじさせるみかけ」 その意味は,たいていの 場合,前後の文脈か という諸事実をあ げ反論している。 (ましこ ら確定される。 確定できない 場合には「相手 - ひでのり : 1997, pp.84-85) に再確認する」,「ほかの手がかりをさがす」 これらの緒論点について ,論議をふかめる は興味ふか い ことであ るし,必要なことでも などのコミュニケーション い。 ただ,以下で確認したいのは ,漢字の必 立場からで ,ストラテジ ーな つかって意味を 推測しているはずであ あ る。 しかしここではそうした 方向はとらな 要性がとかれているのはどういう 「トル」は「トル」であ る。 る。 あ るいは,ひらがなぐらいしかよめない 部 公的識字者にとっては ,「とる」が「取る」「 摂 る 」「執る」などと 漢字をつかって 表現され あ るのか,その一点だけであ る。 すでに第 3 ていることは ,「余計なおせっか い」であ る。 節でみたように ,漢字をふくめた 識 わっかしい漢字によ る表現は,あらためて 辞 字能力には,識字者ノ 部分的識字者 ノ 非識字 書をひくことを 強要するからであ る。 同訓典 日月二言辞の 53 イデオロギーとしての「漢字」 字詰めかきわけは ,かのじょらノ かれらにと って辞書をひく 回数をふやすだけの 迷惑な表 記法でしかない の「・ (たとえば「撮る」という 字 ンセンスであ おろかしさ」を強調している (高島俊夫 , どれだけの てる : 2001, pp.86 づ 7) 。 同音異義語 撮」がわからずに ,画数や偏を手がかり にして漢和辞典をひくとしたら るとし,「オロ 言吾に 漢字をあ (同音類義語 ) についてもおな じ事情を指摘できる。 「科学」と「化学」,「民 俗」と「民族」,「創造」と「想像」,「好天」 時間がかかることだろうか ) 。 かなりの識字能力をもつ 者にとっても 同訓 と ド 荒天」といった 具合に, こうした語をか 異字のかきわけは 容易ではない。 パソコンの きだせばキリがないほどであ ワープロソフトでは 近代になって 西欧語を翻訳したりあ らたにつ ,カナや ローマ字で入力 る。 これらは。 くったりする 過程でうまれてきたものがおお するといくつかの 漢字変換候補があ らわれ, そのなかから 適切なものをえ も ぶが,選択に い。 その際に同音による こまる場合もおおい。 最近のソフトでは , ど しなかった。 ともかくテクストという 世界に の候補が適切か ,辞書的意味のちがいまで 画 おいて,同音ということには 無頓着に ,つぎ 面に表示されるようになった。 これも十分な かきわけ能力をもたない 多数者のための 補助 衝突の問題は ,配慮 つぎにあ たらしく漢語がつくられた。 高島俊夫は明治時代 ほつくられた和製漢語 的 機能といえるであ ろう。 視覚障害者のなかにもパソコンをつかって の特徴として「文字の かなりの漢字能力をもつ 人がいる。 かのじょ p.150)。 江戸時代以前の 和製漢語,たとえば : 2001, 「大工」「左官」などは,文字をみてもわか らない,むしろ 昔をきいてわかる 語であった。 な漢字を選択している。 たとえば「えいよう ところが明治時代につくられた 和製漢語は, をとる」といった 文章で「とる」を 墨字にな 耳から おす場合,「とる」の 変換キー をおすと,「① んでわかる」という 基準のもとにつくられた。 ものをとるのとる ,②えいようをとるのとる , いうまでもなく ,これは識字者の 地平に造語 ③……」などとよみあ げてくれる。 それらの 原則がうつったということを 意味している。 なかからふさわしい 候補をえ も ぶというしく みになっている。 しかし晴眼者が 漢字変換候 視覚的弁別にすぐれるという 理由で同音衝突 補を選択するときと 同様,手間と 時間が余計 れは識字者の 論理であ り,行動であ じ ) になお うことをあ げている (高島俊夫 す場合,音声よみあ げソフトをつかって 適切 ら ノ かれらは,点字を 墨字 (すみ 重視,昔の軽視」とい にかかることになる。 へと重心をうつし ,「みてわかる」「よ を苦にせずつぎつぎに 漢語をつくること る。 どれが適当であ る のか,判断するのがかっかしい 場合もおおい。 講話はやっかいな ,まぎらわしい存在であ 題となった書のなかで あ るかを確定しなければならない。 ,字音語としての 漢字 を評価しつつも ,いっほうにおいて しての漢字に 否定的であ 字訓話と る。 「とる」を「取 摂る 」などとかきわけるのは ナ る。 おなじ昔でふたつ 以上の意味をもつ 存在だか らであ る。 たえず文脈のなかで , 54 る。 (あ るいは「日本語大」 ) にとって,同音異 中国語・中国文学研究者の 高島俊夫は最近話 る」「・採る」「 ,こ 非識字者や部分的識字者という「日本人」 こうした点からみても 同訓異字 語 というの はやっかいな 存在であ 日 どの意味で のぞまし いのは,「私立」 / 「市立」,「科学」 ノ 「化 学」といった「かきわけ」ではなく ,「シリ 、ソ / 「ワタクシリツ」,「 カガク / 「バケ 」 」 角 ガク 」といった あ る。 ニュースで「官房長官が シ 案をつくり といった,熟語のもうひとつの 漢字知識も要 ました」ときいて「試案」 か 「私案」かなた のしみながら 詮索できるのは ,それらの漢字 求 されることになる。 たとえばフィリピン 知識を身につけた 識字者でしかなり。 鈴木は をまなぶために ,日本の医学書を 「日本人は表記が 興なれば同音衝突を 苦にし ないのであ る」といっているが 1975 Ⅰ 2000 , p.69), (鈴木孝夫 ここで いう 「田本人」 人 とかネパール 人 とか,非漢字圏 出身者が医学 ょ んで、) る としよう。 その時,かのじょ / かれは,こう したさまさまな 漢語に よ る専門語を目にし , それぞれの意味を 漢和辞典や国語辞典でたし とはだれをさしているのか ,とわれなければ かめなければならない。 たとえそれが「 ならない。 に 関係する 語 だということがわかったとして つぎにもうひとつの 点,音訓二重性による も,もうひとつの 語を理僻することは 血 」 大変で 造語カ ということをみてみよう。 そこであ げ あ り,学習もまた 困難であ る。 漢語による高 られている例によれば ,「血 」きつかった 熟 級語彙・専門語彙の 造語力 とは,いっほうに 語 ,「.血液」「血栓」「血漿」「 血疾」などは意 おいてこうした 代償をともなっているのであ 味がわからなくても「 血 」に関係する 語彙だ ということはすぐにわかる。 それは「 血 が る。 」 鈴木は漢字の 効用をのべ,漢字学習の 必要 ケツ 」という昔にくわえて「 チ」という 訓 ,性をといている。「漢字というのは 2000 字 余 をもち, 日本語の意味とつががりをもってい るからだということになる。 これが高級語彙, りの基本的なものをおぼえてしまえばあ とは 人生姉洋々として宇宙の森羅万象を 日本語の枠 専門語彙をつくる 漢字の造語 力 のみなもとと のなかで理解できる 便利この上を ぃ言語的手- されるのであ る。 段だ 」ということになる (鈴木孝夫Ⅱ 982 二 2000 , P.262, 1990 丁 1999, p.136)0 漢字2,000 「 たしかに歌語になかに「 血 」がはいってい れば,それは「血 」と関係する 語彙だという 字とはおそらく 常用漢字のレベルをさしてい 推測の根拠にはなるであ ろう。 しかしそれも るのであ ろう。 「 血 」という漢字 矢 n 識をもった者についてい しかし漢字 2,000 字を習得するのはけっし 1 級 (上 えることであ る。 さらにこれはテクストをよ て楽なことではない。 日本語教育では むという文字コミュニケーションのレベルに 級 ) の教育目標として 10 , 000 語の語彙と 2,000 ついていえることであ 字の漢字の習得をあ げている。 そしてこのた る。 音声コミュニケー 、ンョン にいきる非識字者にとっては ,「血液」 は「 ケツェキ上 「血栓」は「ケッセン」でし めに必要な学習時間を 900 時間と設定してい かない。 むしろ「 ケツ 」という音において 共 る。さらにいえば 漢字学習とはけっして 2,000 字にとどまるものではない。 まえにものべた 通性をもっている。 ように新聞や 専門書をよむにはさらにおおく さらに「 血」のついた二字熟語が 61 個 あ げ の漢字が必要であ る。 日本の地名や 人名は訓 られて,すべて「 血 」にかんするバループで あ るとして理解の 容易さがとかれている。 し よみした 執字 (大和 = ヤマト,飛島コアスカ など ) が大半であ って,地理や歴史の学習も かしそれぞれがどういった 意味をもつのかを 必要であ る。 これらをかんがえるならば , 理解するためには ,「j宙劃の 本語テクストの 自由な読者となるには , 900 「 清 」,「血栓」 日 イデオロギーとしての「漢字」 にのべられているのかが ,ハッキリしてくる。 時間の数倍の 時間が必要とおもわれる。 漢字をマスタ 一できるのはおおくの 学習時 それは漢字知識をもちあ わせた識字者 (知的 間 をもてる余裕のあ る者 (文化資本のもち ぬ エリート ) が,おなじ識字者(知的エリート ) し ) にかぎられるが , を相手としてつくりだした 言説であ こうした時間をもてな ぃ 非識字者や部分的識字者もいる。 落や在日韓国,朝鮮人のなかには 被 差別部 ,文字をと る。 理解 可能となり,共感されるのは ,読者の側にも 漢字知識が背景にあ るからだ。 部分的識字者, りもどすべく 識字学習をおこなっている 人が 非識字者は,あらかじめこの 空間から排除さ いる。 しかしとくに 高齢者にとって 漢字の学 れており,参入することができない 習 はたりへんであ る 老婦人から「この 年になると,なんぼ漢字を 店や新潮社などの 刊行物は,まず,よまない / よめない。 自分の意見を 文字によって 表明 おぼえても,すぐにわすれてしもうてねえ」 することもしない というなげきをきかたことがあ 共有する著者 ど読者からなる 特権的,排他的 な読書空間において ,漢字擁護論は生産され 消費されている。 したがつてその 真理も特権 ニュ一ヵマ一と よ (識字学級でまなぶあ る る )。 ばれる外国人のなかには , 仕事のため,あるいは不十分な 教育 環 ・境のた め, 日本語学習が 困難な人たちもいる。 とく に井 漢字 圏 出身者にとって ,漢字学習は同列 には論じられない 問題があ る。 あ る日本語教 師は「漢字学習の 位置づけと指導法の 転換が できていない ,問題点の整理と 解決法が見い (岩波書 人できない ) 。 漢字知識を 的であ り,部分的であ るといわなければなら ない。 6. む す び 運動論的には 現在。 ヵナモジ 運動や口一% だせていない ,学習者特性や認知・習得過程 字 運動の 力 は弱体化し , 逆に漢字学習を 増加 が解明されていない」という 漢字教育の問題 させる政策や 教育がすすめられている。 をのべている (高木裕子 : 1996)0 障害者のおおくにとっても し,皮肉なことに 日本語における 漢字の役割 漢字は負担であ る 。 あ る視覚障害者は「ただでさえ しか 困難な生 活を強いられている 障害者が何故限りなく 健 は縮小し,表記中の 漢字含有率はさがりつづ けている。 かつて安本美 典は ,漢字の含有率 の低下傾向を 将来に外挿して , 2190 年に漢字 常者に合わせて 生きていかなければならない が消滅するという 仮説をだして 話題をよんだ のでしょう。 点字には点字の 文化があ り,文 ことがあ った。 その後の調査によっても ,こ 字としての価値があ ります」とうったえてい の傾向は追認されている。 椛島忠夫は日本語 表記の文字 別 構成の将来変化を 予測し,現在 る (高橋実 (編 > :1999, p.132)。 視覚障害 者ばかりでなく ,弱視者,聴覚障害者,知的 はひらがなについで 第 2 位をしめている 漢字 障害者などにとっても ,漢字学習は不可能で はないにしても ,おおきなバリアであ が報告されている る事実 (あ べやすし :2002, キク チカズヤ :2001 など )0 こうして識字者 ノ 部分的識字者 という視座をもって / 非識字者 現代の漢字擁護論をなが めたとき,これがだれによって ,だれのため が ,やがてヵ タカナ, ローマ字にお い ぬかれ て,最下位におちるであ ろうという予想をた てている (ただし漢字は 国語政策によって 廃 止すると決定しないかぎり ,すぐにはなくな らないだろうとしている。 離島忠夫Ⅱ 98n 。 こうした漢字の 減少傾向はいった い何を意 味するのだろうか。 漢字をどう評価するかと いったイデオロギーをこえて ,文字をめぐる 的識字者,識字学級や 夜間中学にか よ う非識 現実がう ごいているということではないのか。 字者,日本語をまなぶ 外国人,点字をつかう 文字のあ 視覚障害者など り よう を議論する双提としてわたし たちにまず必要なことは ,さまさまな人々の ,さまざまな人々の文字をめ る社会的実践活動の 現実をあ きらかにする 漢字や文字をめぐる 社会的実践活動をあ きら 研究こそ必要なはずであ かにしていくだとおもわれる。 て漢字をめぐる 多様な現実が 総体としてあ き 1980 年十七よりイギリス,アメリカを中心に (NewLitlteracyStu山es) して,「新識字研究」 らかになるとともに ,「イデオロギーとして の漢字」の基盤や 限界がよりはっきりとする とよばれる研究がおこなわれるようになって とおもわれるからであ る。 それらをとおし る。 きた。 それは,識字 ( リテラシ づ を社会的 実践としてとらえようとする。 手がかりにな るのは「リテラシ 一実践」「リテラシーイベ ント」などの 概念であ る。 さまざまな人たち がどのようなリテラシーイベントをとおして 注 は は, 井識字者にたいする 当時の不適 切な表現である。 なお, この部分の数字は ,一次 き 能力 山 どのようなリテラシ 一実践をおこなっている 東大出版部) を人手,参照することができなかっ のか,多言語,多 文字社会において 権 力やイ たので, デオロギ一のもとにどんな の 影響をうけている のか,それらの様子を エ ス / グラフィ一の 手 法 をもちいてえがきだそうとしている。 そう した研究は,識字を 心理的過程や 教育的課題 としてきたこれまでの 研究と区別する 意味で, 「識字のイデオロギー・モデル」と こともあ る。 (Barton,D.1998; N.H.: 2000 ; Street,B.:2000 ばれる よ Ⅱor れ berger, など ) 。 囲 本語百科大辞典 0 二次資料によった " (2) 「 semi Ⅲt。rate 」は「半識字者」 字者」と訳されることがあ る。 半」という話で 「 「半分」というイメージがともな つ, いう語では,「準ずる」というイメージがともな つ , (3) 本稿では「部分的識字 考」とした。 本稿でも基本的に ,和語にはひらがなを あて, 訓 よみ漢字はつかわない 表現方法なとっている はたして同様の 研究が日本でも 期待できる のかどうかはわからない。 しかし, どんな 方 (やむをえず,め じかい和語に 漢字をあてた例外 もあ る )。 法 をとるにせよ ,新聞や書籍をよまない 部分 参考文献 (著者アルファベット 順) あべやすし 2002 「漢字という障害」『 と舎言語学 $ No 皿 ネ Barton, David l994 Literacy: A れ fn/ttroductionto the Ecol0 恩 ofWrritten Lan ざは age Blackwell 文化庁 200 Ⅰ『地域の日本語教室に 通っている在住外国人の 日本語に対する 意識等につい て J (文化G ホームページ ) 平井昌 夫 1949 丁 1998 『国語国字問題の歴史』姉元 社 Hornberger, H. con 伍 nua Nancy 2000 "Multili砧甲al literacies, 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