011-19 伽陀 (19)

 白 装 束 に 身 を 包 ん だ 宮 城 暉 は 仏 壇 の 近 く に 安 置 さ れ て い た 。 老 婦 人 が 歩 み 寄 り 、仏 壇 へ 向 か っ て 深 く お 辞 儀 を し た あ と 、
布団の横へ膝をついて顔の布をそっと取った。一瞬にして涙が溢れ出す。
﹁ 坊 ち ゃ ん ・ ・ ・ ・ お 可 哀 想 に ・ ・ ・ ・ さ ぞ か し 苦 し か っ た で し ょ う ・ ・ ・ ・ ﹂
男性の方は歯を食いしばっていた。中年の女性はそこから一歩下がり、目頭を押さえている。
三人はしばらく宮城の死に顔に見入っていたが、やがて布を元通りに掛け、手を合わせた。宮城の布団の白と三人の喪
服 の 黒 が 強 い コ ン ト ラ ス ト を 放 つ 。倉 沢 に は そ の 場 の す べ て が モ ノ ク ロ の 世 界 に 見 え た 。彼 ら は そ れ か ら て き ぱ き と 動 き 、
仮通夜の準備を進めていった。倉沢は邪魔にならぬようその場を離れ、桐島と勝又へ告げて一度外へ出た。
車を停めたまま付近をゆっくりと歩く。死の静寂から離れた東京の濁った空気は今の倉沢には新鮮に思えて、何度も深
呼吸した。遠山の家が近付いて来る。門扉の前まで来て、倉沢は建物をもう一度見上げた。所狭しと外壁を這う蔦は、今
の倉沢の目には意志を持った蒼碧の龍に見えた。遠山の静謐を護ろうとする青龍。音も立てずにするすると近付いて来る
黒蛇から、遠山を、そして宮城を護ろうとする両刃の化身。遠山は今頃時空を辿っているだろうか。宮城の元へそろそろ
着く頃だろうか。そのことがやたら気にかかり、倉沢には不安が訪れた。俺の知らない世界で何かが起こっている。そん
な気がしてならなかった。
宮城の仮通夜には僧侶がひとり呼ばれた。浄土真宗。黒い袈裟の背を茫洋と眺めながら、倉沢は遠山が現れるのをひた
すら待ち続けた。会いたい。一目でいい。声はかけられなくとも、その姿を見られるならそれでいい。そう思っていた。
老体に鞭打って疲れたのか、桐島の横で勝又は壁に背を持たれて眠っていたが、突然目を覚まし、祭壇横の蝋燭を見つめ
た。倉沢がその視線の先を追うと、焔がまるで誰かが横から息を吹きかけているかのように激しく揺らいでいるのが見え
た 。 そ の 時 だ っ た 。 倉 沢 の す ぐ 横 、誰 も い な い 板 の 間 を ぎ い 、ぎ い 、と ゆ っ く り 進 ん で い く 不 気 味 な 足 音 が 聞 こ え て き た 。
倉沢は思わず勝又と桐島を見た。二人は倉沢へ同時に視線を向け、ゆっくりと首を横に振った。何も行動を起こすなとい
うことだと倉沢は理解した。
倉沢が板の間のほうへ集中していると、信じられない光景が目に入って来た。
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遠山は硬直した宮城の亡骸を優しく見遣った。倉沢には遠山の横顔が一瞬微笑んだように見えた。遠山の手が宮城の肩
低く続く。
る。勝又も桐島も微動だにせず前を凝視していた。誰もが金縛りにあったように動けなかった。僧侶の冷静な読経だけが
えた。遠山は僧侶の横を通り、宮城の遺体の前へ膝をついた。使用人たちは宮城の傍をそっと離れその光景を見つめてい
遠山はゆっくりと宮城へ近付いていった。凛とした後ろ姿。忘れもしない。倉沢の目に涙が溢れ遠山の幻姿が霞んで見
静かに握りつぶした。黒い粉となった蛇の欠片は宙を舞い、霧散していった。
え る 。 黒 い 影 の あ っ た 場 所 に 、小 さ く 干 か ら び た 黒 蛇 の 残 骸 が 転 が っ て い た 。 遠 山 の 長 い 指 が そ れ を ゆ っ く り と 拾 い 上 げ 、
月白正絹の狩衣を纏い青龍刀を下ろした遠山哲司は、静かにそこに佇んでいた。透けた身体の向こうに宮城の遺影が見
し倉沢は咄嗟に両手で顔を覆ったが、目を開けたときには跡形もなく消え去っていた。
光を放ったかと思うと、黒い影は倉沢たちの目の前で突然縦に真っ二つに割れた。墨汁をぶちまけたような色合いが飛散
は険しく、読経を続ける声が大きくなった。その不気味な影があと数歩で宮城の身体へ近付くという時、何かがきらりと
のか短剣を斜めに構えている。三人の顔は奇妙に無表情だったが、鋭い目線は黒い影の存在へ集中していた。僧侶の表情
ふたりの姿が一瞬大きな犬の映像と重なった。婦人のほうが白、老人のほうは黒犬だった。若い女性はどこに持っていた
城家の使用人たちは宮城の遺体へ近付き取り囲むようにして座っていた。彼らにもこの黒い影が見えているのだ。高齢の
見事に分解した。糸から離れた宝珠が砕け、飛散した。その中をあの黒い影がゆっくりと進む。恐ろしい光景だった。宮
くりと祭壇へ近付いていった。僧侶が読経を続けながら立ち上がり後ろを振り向いた。数珠を投げつける。数珠は空中で
沢 は 思 わ ず 口 許 を 両 手 で 押 さ え た 。生 暖 か い 空 気 が ぬ る り と そ の 手 を 撫 で て い く 。微 動 だ に せ ず 見 守 っ て い る と そ れ は ゆ っ
反対側の手に骸骨を持っている。目の空洞から別の蛇が艶めかしく出入りしている。恐怖のあまり声が出そうになり、倉
目を上へ向けた。骸骨のような手が見えた。黒いぼろ布の切れ端と、腕に巻き付いている真っ黒な蛇。首から上はなく、
り傷がたくさん見える。水が滴る様子が見て取れたが、足が通ったあとの板の間は濡れていなかった。倉沢はそろそろと
くるぶしから下のがりがりに痩せた両足がゆっくりと横切っていく。裸足のそれは透けていて、ひどく汚れていた。切
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へ触れる。すると宮城の身体から光の靄のようなものが立ち上り、それはやがて一筋の帯となり遠山の身体へ入っていっ
た。遠山が倉沢たちを振り返る。遠山の目はその時明らかに倉沢を捉えていた。倉沢は思わず身を乗り出した。勝又がそ
の腕をがっしりと掴む。倉沢は唇を噛んだ。
名前を呼んではいけない。話しかけてはいけない。
時空の規律を乱してはいけない。
倉 沢 た ち の 目 の 前 で 遠 山 の 姿 は 静 か に 消 え て い っ た 。 僅 か の 残 像 も な く 、そ こ に は 今 や 線 香 の 煙 が 儚 く 漂 う だ け だ っ た 。
高嶺真澄はソファへ寝そべり付けっぱなしのCNNを茫洋と眺めながら、夢の中に出てくる彼の存在を思っていた。海
を隔てた遠い外国の出来事が画面いっぱいに拡がる。普段は集中せずとも英語を理解するのに苦労はないが、今夜の真澄
はそれらの単語がまったく頭に入ってこなかった。それは昨夜見た夢のせいだった。あの彼が現実の世界で自分を探して
いる夢だ。いつもなら真澄のそばへ来て抱きしめ、優しく抱いていく。だが昨日の夢は、まるで彼一人が出演しているモ
ノクロ映画を見ているようだった。それはとても鮮明で、彼の息遣い、焦燥、絶望、そして一縷の望みを捨てない意志の
強さまでもが明確に感じられた。彼は現実にこの世に存在する、真澄はそう確信した。ずっと愛し続けてきた彼。夢の中
で し か 逢 え な い こ と を 判 っ て い な が ら 、そ れ で も い つ か き っ と 自 分 を 探 し 出 し て く れ る と 心 の ど こ か で 期 待 し て い た 自 分 。
そして、そんなことは叶わないのだと落胆する、医師としての冷静な真澄。現実と非現実の狭間で何度懊悩してきたこと
だろう? 脳神経外科の最先端にいた頃、精神医学との関わりで病んだ脳が見せる様々な事象を検証してきた。患者たち
の語る夢の多くは妄想、もしくは願望がいつしか現実となったパターンばかりだった。委縮した脳が記憶を消去する。そ
こへ新たにどこかで見聞きした情報をまるで自分の身の上に起こったことのようにインプットするのだ。心の隙間を埋め
るために。そうすることでやがて訪れる死までの時間、自分の人生を充実したものにしようとするために。真澄は医師と
してひたすら冷静に患者を扱ってきた。その実、ひとたび夢の中へと漕ぎ出せばあの彼が微笑みを浮かべて真澄に手を差
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頭を覆っていた分厚い雲が一斉に晴れていく気がしたものだった。濃い灰色の空にその建物の白さはよく映えていて、涙
小高い丘に見える白亜の小さな要塞。揺れながら徐々に島へ近付いていく船からその景色を見たとき、真澄はそれまで
した。そして、見つけたのだ。まるで奇蹟のように。
その夢を見たのは忘れもしない、山梨へ赴任してきた夜。それからというもの、研究に没頭しながら必死でその景色を探
今 、真 澄 は こ の 屋 敷 に 一 人 で い る 。 伊 豆 大 島 へ 来 た の は 、夢 の 中 の 彼 が 沈 ん で い く 直 前 に 見 え た 景 色 と 一 致 し た か ら だ 。
て、確信が欲しい。待っていてもいいのだと言ってほしい。
掠める。果たして俺は俺でいられるだろうか、と真澄は自問した。この夢の話を誰かにしたい、聞いてもらいたい、そし
ムの彼はそれに気付かない。これはきっと毎晩続くだろう、少しずつ時系列を辿っていくに違いない、そんな思いが胸を
の中で、もし彼が真澄を探し出すことができなかったら? どんなに叫んでも、どんなに手を差し伸べても、モノクロー
今夜はどんな夢を見るだろう? 真澄は早く夢の中で彼に逢いたいと思う反面、それを恐れる自分に気付いていた。夢
触れの低い地鳴り、水面の向こうに輝いていた低い太陽。
彼の頬を包む。唇をつけ、肺にありったけの空気を送り込んだ。身体を締め付ける水圧、水の冷たさ、地殻が変動する前
見たこともある。仄暗い海の底へ彼はどんどん沈んでいき、真澄は大急ぎでそのあとを追うのだった。両手を差し伸べて
猛り狂った炎の音、駆け寄ってくる複数の靴音。そうかと思えば、今度は船から身体を投げ出されて海に沈んでいく彼を
手を差し伸べ彼の身体を支えた。こめかみから噴き出す彼の血を浴びる感触、血と火薬の匂い、ごうごうと唸りを上げる
と思うと銃声が鳴り響いた。真澄に見えたのは紅蓮の焔と、その向こうに崩れ落ちていく彼の身体。真澄は無我夢中で両
夢の中で彼は自殺を遂げたこともあった。真澄が見ている目の前で拳銃を自分のこめかみに当て、そっと目を閉じたか
真澄は身体を起こし水割りへ手を伸ばした。一口飲んでほとんど氷水になっていることに気付き、ウイスキーを足す。
か。
返し現れ続ける彼の存在。これは夢などではなく、もしかしたら真澄自身のDNAに刻まれている記憶情報なのではない
し伸べてくるのだった。脳神経外科を離れ遺伝子工学を学び出したのは、記憶のもつ力に興味を持ったからだった。繰り
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の滲む真澄の目には射るような光を放って見えた。呼んでいる。ここだ。ここで再会するに違いない。岸へ上がり、その
脚 で す ぐ さ ま そ こ を 訪 れ た 。小 さ な 診 療 所 だ っ た 。真 澄 は 医 者 だ 。何 か 強 大 な 力 が 彼 を こ こ へ 導 い た と し か 思 え な か っ た 。
手 作 り の 古 び た 看 板 に は ﹃ 桐 島 診 療 所 ﹄ と あ っ た 。 外 科・内 科・小 児 科・精 神 科 。 青 銅 の 門 扉 の 横 に 掲 げ ら れ た そ れ は 、
白地に美しい黒の毛筆体で書かれていた。医師・桐島達也。その下には赤い毛筆体で﹃健全ナル國民ノ診療所﹄とある。
ひとりで診ているのだろうか。もし人手が足りていないのなら自分を使ってほしい、真澄は瞬時にそう思った。重厚な青
銅 の 門 扉 。そ の 片 方 が 内 側 へ 開 い て い る 。門 扉 か ら 玄 関 ま で は 美 し い 石 畳 が 続 い て い た 。石 の 間 を 薄 緑 の 苔 が 覆 っ て い る 。
両脇は見事な紫陽花が連なっていて、傾いていく陽の光を拾ってきらきらと輝いていた。
診療所の扉は昔ながらの引き戸だった。白く塗られた木枠をよく見るとところどころに小さな貝殻の破片が埋め込まれ
ていた。そっと触ってみる。ペンキだと思っていたそれは、膠で固められた胡粉だった。何という美しさだろう。真澄が
しばらくそれに見入っていると、後ろからゆっくりとした足音が近付いてきた。振り向くと、穏やかそうな表情を浮かべ
た男性がこちらへ歩いてくるのが見えた。白衣を着ている。彼が桐島医師か。
男性は真澄の前まで来て脚を止めた。しばらくその顔を見つめ、感慨深そうに微笑んだ。まるで知っている誰かを懐か
しむように。優しい大切な記憶を呼び起こしているかのように。
﹁ よ う こ そ 桐 島 診 療 所 へ ﹂
﹁ 初 め ま し て ・ ・ ・ ・ す み ま せ ん 、 船 の 上 か ら こ こ が 見 え て 、 と て も 惹 き つ け ら れ た も の で す か ら ﹂
高 嶺 と 言 い ま す 、と 真 澄 は 名 乗 っ た 。男 性 の 包 み 込 む よ う な 微 笑 み を 前 に 心 が 少 し ず つ 温 ま っ て い く 。不 思 議 な 感 覚 だ っ
た。
﹁ 医 師 を し て い ま す 。 専 門 は 脳 神 経 外 科 で 、 今 は 遺 伝 子 工 学 を 研 究 し て い ま す 。 僕 を こ こ で 使 っ て 頂 け ま せ ん か ﹂
出会ったばかりの男性に、気が付くと真澄はそんなことを言っていた。自分でもびっくりする。
男性は少し首を傾げ、興味深そうに真澄を見て、言った。
﹁ 不 思 議 だ ね 。 夕 べ 、 私 は き み が こ こ へ 来 て く れ る 夢 を 見 た の だ よ ﹂
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聞こえる? 俺は、ここにいるよ。
い。その手で俺を抱きしめてほしい。
なければと思いつつ、五分だけと目を閉じた。今夜はどんな彼に逢えるだろう? 今どこにいる? 早く逢いに来てほし
真澄はグラスをローテーブルの上へ置き、もう一度ソファへ身を投げ出した。ようやく眠気が襲ってくる。布団へ入ら
かったが、夢の中で彼の幻影を追い続ける間、自分はそれでも安心していられると思ったものだった。
た。自分はこの土地に受け入れられたのだと真澄は思い、とても嬉しかった。心にぽっかりと空いた穴は塞がることはな
とても優しかった。真澄は心を込めて診療に当たった。患者たちは皆一様に真澄に魅せられ、他と同じように慕うのだっ
を作ってきてくれた。三段の重箱いっぱいのそれはおせち料理のように豪華で、医局で桐島や早苗と一緒に食べる時間は
桐島は常に真澄を見守っていた。看護師長の野村早苗も真澄を実の息子のように可愛がった。早苗は何度も真澄に弁当
大切にしてくれる。ほんとうに幸せだった。
るゆっくりとした時間は真澄の性格にとてもよく合っていた。近所のひとたちともすぐに打ち解けた。皆が真澄を慕い、
真澄は山梨へ戻り、大学をすぐに退職して伊豆大島へ引っ越してきた。すべてがまったく新しい世界だった。島に流れ
配を知ってか桐島は﹁きみのための家だよ﹂と微笑んだものだった。
の曾祖父の代からのものだと言う。そんな大切な家に見ず知らずの自分が住んでいいものかと心配になったが、真澄の心
さ れ て い る 。﹁ 長 い こ と 空 き 家 だ っ た の だ が 、 近 い う ち に 使 う こ と に な る か と 思 っ て ね ﹂ と 桐 島 は 言 っ た 。 古 民 家 は 桐 島
んとうに驚いた。診療所からゆっくり歩いて十分ほどの距離にある古民家だった。昔の趣はそのままに完璧にリフォーム
まるで真澄を昔から知っているかのように招き入れ、その日のうちに契約書と、住むところまで用意してくれたのにはほ
桐島達也は不思議な男だった。年齢はまったく不詳、時に自分と同い年にも、もっと上にも見えた。初めて会った彼は
真澄は水割りを手にゆっくりと記憶を辿り続けた。
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