会員 寄稿 - 新潟県医師会

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会員
寄稿
聴 診 器
寺
島
雅
範
聴診器には、いくつかの思い出がある。
移ってもらったが、2週間ほどすると38度の熱を
新潟大学医学部に合格した昭和31年春、近所の
出して戻ってきた。それが2度続いた。孫娘は、
「イカリヤ商店」のおじいさんが、
「お兄さんもチョ
「おばあちゃんは、先生から離れることがイヤな
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ウオンキを持つようになったか」
と喜んでくれた。
んです。また、お願いします」と頭を下げた。そ
その店は、パンや駄菓子を買いにいったから、お
ん な こ と が あ っ て、 彼 女 は だ ん だ ん に 弱 っ て
じいさんとはすっかり顔なじみだった。店はもう
いった。
とうに無い。
ある日のこと、その胸部の聴診を終えた私にむ
新大病院時代、開心術後の ICU では、看護師
かって、彼女は突然、
「音きいても、オメエはちっ
が人工呼吸器につながれている患者の胸部に聴診
とも当ったためしがネエ」と、言ったのである。
器を当てた。ごく自然にそのようになっていたの
びっくりしたが、即座に、私の聴診能力を判定
である。看護師用の聴診器は、赤、青、黄など、
しているのだ、と分かった。婦長があわてて、
「マ
その色があざやかに作られている。それを離さず
ア、おばあちゃん、何ちゅうことを言うっちゃ」
身につけて、ICU ナースは、颯爽として頼もし
とたしなめたが、
婦長は、
笑いをこらえるのがやっ
く見えた。
とのようだった。
私は彼女らと一緒に、心音と呼吸音を聴き、と
「アンタ、よく解かるんだネエ」と、笑顔で問
きに腸雑音も聴いていた。
いかけた私に、彼女は無言のままだった。ただ、
そんなある日、総看護部長が血相をかえて、医
痩せてくぼんだ細い目で不思議そうにじっと私を
局長である私のところにやって来た。
「先生方は、
見つめていた。
自分たちの仕事を看護婦に押しつけるのですか」
。
普段は全くと言ってよい程無口なのに、どうし
昭和40年代半ば、そんな時代もあったのである。
て突然に、全く突然に、実にはっきりとした口調
県立がんセンター勤務のとき、肺癌手術後、追
でそんなことを言い出したのだろう。その胸中を
加治療を受けるため、放射線科へ転科した患者が
量る術はなかったが、余命いくばくもないまま、
あった。その患者さんが病棟で、私のことを褒め
最後に一言、何か言い残しておきたかったのだ。
てくれたそうだ。わけを問われて、
「あの先生は、
私には、そう思えた。
回診のたび必ず聴診器を当ててくれた」と答えた
彼女は、その2カ月ほど後、ローソクの火が消
そうな。
えるようにこの世を去っていった。
佐渡、相川病院で、年余にわたって寝たきり状
15年を経た今日、私は、あのおばあちゃんの言
態で入院している92歳の女性がいた。家人を、そ
葉を、そっくりと、そのしわがれた声のままに思
れと認識できない「認知症」があった。ブツブツ
い出す。そうして、その衝撃の一言は、ひょっと
と何か口ごもっているようだったが、回診時に返
すると、私にくれた彼女なりの親愛のメッセージ
事が返って来ることはほとんど無かった。だが、
だったに違い無い、と思い返す。
目は確実に私を追っていた。
長期入院となったので、自宅に近い特養施設へ
新潟県医師会報 H28.8 № 797
はか
すべ
(新潟県労働衛生医学協会)