ある皇后の一生 - タテ書き小説ネット

ある皇后の一生
雪花菜
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︻小説タイトル︼
ある皇后の一生
︻Nコード︼
N8003BE
︻作者名︼
雪花菜
︻あらすじ︼
許婚に振られ、初恋の人に振られ、出世したら恋人に振られ⋮⋮
でもそんなことは特に気にせず、軍人として生きてきました。最終
的には、自分でも好きなんだか嫌いなんだかよく分からない元部下
︵現皇帝︶と半強制的に結婚。でも、皇后になっても軍人としての
仕事は続いているから、まあいいか。愛はないけど、友情はある。
そんな客観的に見れば、男運の悪い関小玉の一代記。結婚しても働
き続けていたい女性達に捧げる物語だと、半ば本気で思っています。
1
10月17日、突っ込みどころはありますが、完結いたしました!
読んでくださった方、ありがとうございます。引き続き、ここで
番外編を連載しております。
4月30日追記 新人賞応募のため、一部の章を除き削除いたしま
おかげさまで受賞しました。応援ありがとうござ
した。番外編は連載を継続いたします。
2月9日追記
いました。
2
身も蓋もない﹁ある皇后の一生﹂あらまし︵前書き︶
﹁ある皇后の一生﹂大規模削除に伴い、概略をアップしました。ざ
っくばらんにまとめたら、あるキャラに対する扱いがひどかったこ
とをしみじみと感じ、今さら胸が痛い⋮⋮。
3
身も蓋もない﹁ある皇后の一生﹂あらまし
序章
若くしてズンドコ出世した三十女・関小玉が元部下で現皇帝と結婚
して、ある意味女の最大の出世である皇后になってしまった形。こ
ある少女
の時点ではどう見ても、夫婦関係に愛はなかとです。
一章
なんで小玉さん、軍人になったんだべさというストーリー。要する
ある少年
に、削除を免れた部分だんべ。未来の夫はこれっぽっちも出てませ
ん。
二章
二十歳になってスレた小玉さんが、未来の夫と出会うでごわす。め
っちゃ仲悪いけど、そこから愛は芽生えない。とりあえず、小玉さ
んが戦場で功績をあげて、未来の夫が実力を認めるという、どちら
異動
かといえば青春もの。
三章
後宮の新設部隊に配備されることになった小玉さんと、離れたこと
でそろそろ小玉さんを意識し始めた夫。牛歩の歩みの関係かと思い
きや、酔ったはずみで一夜をともにしてしまう。なんでやねん。つ
左遷
いでにそのことを無かったことにする。更になんでやねん。
四章
色々あってドカンと飛ばされた小玉さんが、元気に土木工事したり、
漬物をつけたりする。その裏で置いていかれた未来の夫が女遊びし
たり、裏工作して小玉さんを連れ戻します。この時点で、未来の夫
4
帰還
の小玉さんへの想いは大分本気なものになっとりますだ。
五章
実母が死んで、服喪のため故郷に戻る小玉さんに、昔彼女を捨てた
許婚が言いよってくる。しかし、小玉さんは村ごとあっさり彼を振
り切り、自分の生き方について決意を固める。未来の夫はせっかく
迎えに来たけど、扱われかたが結構ひどいずら。
終章
小玉さんが、年取って自分の人生を振り返り、満足して逝く話。し
んみりしたストーリーの裏に隠された事実としては、夫の愛は終生
カケラも成就してなかったというね⋮⋮。
5
1
ところで、自立というのは難しいと思いませんか。
⋮⋮などと呼びかけ調にしてみても、この場には自分一人。そし
て、﹁ところで﹂などと、話を変える時に用いる言葉を使うのも不
適当だ。さっきから、同じようなことしか考えていないのだから。
そう、自立とか自立とか⋮⋮あと、ちょっと捻って自活のことを。
などと考えていたら、日が傾いていることに気が付いた。
あーあ。
小玉はため息をついて立ち上がった。尻に付いた草の切れ端をぱ
んぱんと払う。そうして籠を手に取ると、えっちらおっちらと歩き
始めた。今日も建設的なことは何一つ思い浮かばなかった1日だっ
た。
﹁どうしようかなあ⋮⋮﹂
歩きながらぼそっと呟く。ここ最近の口癖だ。
何度呟いても悩みの答えは出ないとわかっているのだが、それで
もまた﹁どうしようかなあ﹂と呟いてしまう。なんとも不毛だ。
そもそも本来なら今頃は、もっと別なことで悩んでいるはずだっ
たのだ。そう⋮⋮たとえば嫁姑問題だとかね。
嫁姑問題に悩む前提として必要なものは、結婚である。あと、相
手の母親が存命だということも。
だが、悩むも何も、小玉は現時点では独身で、特定の男もいない。
あくまで現時点では。
だが未来の時点はわからないが、過去の時点でいえば、小玉には
6
言い交わした男がいた。単なる口約束ではなく結婚まで間もなくと
いうほどの相手だった。小玉はまだ15才だが別に非常識な話では
ない。事実、小玉の兄と数ヶ月前に結婚した相手は、小玉と同じ年
である。ついでに、小玉の幼馴染みだったりもする。本来ならば幼
馴染みが嫁に来るのと入れ違いに、小玉も先方の家に嫁ぐ予定だっ
た。
そう、﹁だった﹂
その予定が予定のまま過去のものとなったのは、小玉のせいでは
ない。3ヶ月前、許嫁が地主の娘に見初められた。それだけで大体
の事情は分かるだろう。つまり小玉は捨てられたのだ。
今に至るまで、そのことを特に悲しいとは思わない。
多分、心のどこかが麻痺している。男の家から一方的な破談を言
い渡された日から、心の一部が暗くて見えないのだ。直視してしま
えば泣きだしそうな気がするから、小玉はその暗がりを覗き込まな
い。
率直に言おう。男はそんなにいい男ではなかった。小玉と容姿の
上で釣り合う程度だったのだから推して知るべしというものである。
だが、気のいい男だった。共にいて苦にならない相手だった。
かといって、男が好きだったのかと言われれば、それほどでもな
い。近くにいて、なにかの切っ掛けでお互いを結婚する相手として
意識したにすぎない。その切っ掛けさえも覚えていないのだから、
きっとささいな何かで左右される程度のものだったのだ。一歩間違
っていれば、幼馴染みである兄嫁が今の自分の立場にいたかもしれ
ない。そんな取り替えが可能な関係ではあったのだから、彼が地主
の娘を選んでも無理はないのだろう。金とかの問題ではなく、自分
に熱烈に惚れている娘の方が結婚相手としてはいいだろう。むろん、
金があればなお良いのだが。
でもなあ、と思う。それほど好きなわけじゃなかったけれども、
好きであることには変わりなかったのだ。
7
許嫁との破談によって小玉が得たものは何もない。それでいて失
ったものはあるという、割に合わない結末だった。失ったものは未
来の夫だ。それは小玉を捨てた許嫁のことだけを示しているわけで
はない。
既に嫁入りまで秒読み状態だったところをいきなり破談にされた
娘に来る縁談などある訳がない。
むろん小玉には何の責任もないことだ。それは村中の人間が分か
っているし、同情も寄せていた。しかし、それとこれとは話が違う
のである。そう思うご近所さんたちの心理を小玉は良くわかってい
た。なんといっても彼女もここで15年間生きてきたのだ。おそら
く自分のことでなければ、小玉もまた村人と同じ対応をとってその
ことに疑問さえ抱かなかったのだろう。
救いといえば家族が優しいことだ。父は既にいないが、母も兄も
兄嫁も自分を疎むことなく扱ってくれる。だがそれだけにこう思う
のだ。
自分はここにいてはならない。
母が夜、こっそり涙をぬぐっている姿を見ることもある。その度
にその気持ちはますます強くなる。自分はいるだけで母を悲しませ
る存在なのだ。
今はまだいいが、10年、20年と実家に居座り続けたらどうな
るだろう。家族が自分を疎ましく思ったら、自分は心の意味でもい
る場所がないのだ。それくらいならば今出て行けばいい。全てに疎
まれた後に出て行くのと違い、今出て行くのならば、故郷は優しい
場所として思い返せる。
だが、どうやって出て行けばいいのだろう。考えはいつもそこで
行き詰まる。単に村を出て行くだけならば簡単だが、その後自活し
ていかなければならないのだ。何とかなるさと楽観するには自分が
あまりにも田舎娘だということを小玉は知っていた。男に食い物に
されて、落ちぶれるのがせいぜいである。行方をくらますだけなら
ば話は早いのだが、それをやれば家族はとてつもなく心配するはず
8
だ。どこか自分を雇ってくれるところがあればいいのだが、これま
で村から出たことのない自分にそんな伝手などあるはずがない。
だから今日も小玉はため息をついて、家に帰る。
﹁ただいま⋮⋮﹂
家に帰り、小玉は目を見張った。家の中で母、兄、兄嫁が通夜の
ように暗い顔で顔をつきあわせていたのだ。
だが当然通夜ではない。小玉の家族はこの四人だけであり、他に
身内はいない。まあ、狭い村のこと、村人全員が血縁関係を持つの
だが、村人の誰かが死んだのならば今この場で沈み込んでいる余裕
などあるはずがない。
﹁な、何があったの⋮⋮?﹂
慌てて家に上がり込むと、兄嫁がさっと顔を上げた。真っ青だっ
た。
﹁小玉⋮⋮﹂
そして袖を顔に当ててすすり泣き始めた。
村には数年に1度、立派な身なりの軍人がやってくる。人狩り、
と揶揄を込めて囁かれるそれは徴兵のための役人である。どのよう
に徴兵するのかというと、彼らは単に村長に徴兵する人数を告げる
だけだ。あとは村がそれぞれの方法で徴兵される者を選ぶ。選ばれ
た者は大抵雑務に従事したり、国境付近の警備にあたるらしい。数
年経てば帰ってくる者もいれば、帰ってこない者もいる。帰ってこ
ない者は死んだのか、それともここに帰るのが嫌なのか。
今回この村から連れて行かれるのは5人。この村ではくじでそれ
を決める。各家の家長がくじを引き、当たった家から兵を出すのだ。
そして兄は見事その当たり⋮⋮人生においてははずれきわまりな
9
いくじを引き当ててしまったのだという。
﹁兄ちゃん⋮⋮﹂
家族全員が通夜気分になるのも無理はない。小玉もその話を聞い
た途端にまったく同じ気分になった。この家に男は兄しかいない。
兄がいなければ家は立ちゆかなくなる上に、兄は少し足が悪い。帰
ってこれる保証はどこにもない。
これは一体誰の悪意なのだろう。そのくらいの事情はくじを引く
前に汲み取ってくれてもおかしくないはずだ。まったく同じ事を母
も思ったらしい。虚脱した体に急に生気をみなぎらせた。
﹁ちょっと文句付けてくる!﹂
﹁あたしも!﹂
﹁待て母ちゃん!﹂
立ち上がる母と妹を兄が慌てて止める。曰く、そんなことをすれ
ば村から爪弾きされる、と。その言葉はこの上なく正しい。だが納
得できるものではない。
﹁でも、兄ちゃん!﹂
やりきれない思いを込めて小玉は兄を呼んだ。
そのとき。
一つの考えが頭に浮かんだ。後に思い返しても、なぜ自分がこの
ような思いつきをしたのかまるでわからない、当時の自分としては
あまりにも突飛なものだった。それははたして天啓だったのか、そ
れとも魔性のささやきだったのか。ともかく、そのときの小玉にと
ってそれは、今彼女に重くのし掛かる悩み全てを解決する、すばら
しい考えに思えた。
﹁じゃあ、じゃあ⋮⋮あたしが行く!﹂
兄嫁が思わず泣きやんで、大口を開けた。
10
2
翌日。
関一家は揃って村長の家まで来た。彼らを見た者は皆一様に怪訝
そうな顔をする。それもそうだろう、旅支度をしているのは、兄で
はなく妹の小玉なのだから。
村長の家の前にはすでに他の四人とその家族が集っている。当然
ながら皆男だ。彼らと並べば15才の彼女はとても小さく見える。
﹁これは⋮⋮一体﹂
戸惑いを隠せない顔で村長が呟く。小玉は一歩踏み出して、きっ
ぱりと言った。
﹁あたしが行きます﹂
周囲が息を呑む音が聞こえた。揃って同じ音を立てたため、存外
大きく当たりに響いた。そして誰もが沈黙した一瞬の後。
﹁ばっ⋮⋮馬鹿もん!﹂
村長に罵倒された。
﹁なぜですか。一家から一人を出せばいいなら、あたしが行っても
いいでしょう。女が兵になったって話はあたしも聞いたことありま
す﹂
本当にごく稀な話だが。それを盾に、昨日は家族を説得した。む
ろん大反対されたのは言うまでもないが、説得の成否は今彼女がこ
こにこうしていることが示している。
今もまた、村長に向かって言いつのる。
﹁うちには男は兄ちゃんしかいません。兄ちゃんがいなくなれば家
がたちいかなくなるし、足が弱い兄ちゃんは帰って来れないかもし
れない。そしたら面倒見てくれるんですか﹂
﹁いやしかし、﹂
﹁なにより兄ちゃんは新婚です﹂
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﹁誰もが妻と離れるのだ。それくらい我慢⋮⋮﹂
﹁兄ちゃんの話じゃありません。義姉さんの話です。兄ちゃんが行
っちまったら、新婚なのに姑と小姑との三人暮らし。しかも兄ちゃ
んに何かあったらそのまんま寡婦としてずーっとうちにい続けるん
です。子供もいないのに。あんた自分の娘にそんなひどいことでき
ますか﹂
﹁⋮⋮だがなあ﹂
﹁兄ちゃんに何かあったら、祖先の供養はあたしの子供がしなくち
ゃいけないから、結婚する必要がある。その場合、兄ちゃん行かせ
た責任者として、結婚相手世話してください﹂
﹁⋮⋮﹂
ここにおいて、村長は完全に黙り込んだ。勝った、と思った。
村長は明らかに悩んでいる。良いと言え、良いと言え、良いと言
え⋮⋮と呪いのように頭の中でくり返す中、横から声が放たれた。
﹁良いではないか﹂
徴兵しにきた軍人である。おそらく責任者なのだろうその人物は、
あごをさわりながら、しきりにうなずいた。
﹁いや、孝女だな。実に見事だ﹂
﹁いや、ですが⋮⋮﹂
汗を拭きながらなにか言おうとする村長を、その人は大らかに笑
って遮った。
﹁なに、心配ない。女でも使い道はある﹂
使い道、という言葉になにやら不吉な予感を感じた。同じことを
感じたのか母が声を上げた。
﹁あの、使い道というのは⋮⋮﹂
まあ、後宮の警備などだな﹂
すると責任者らしい人間はこう言った。
﹁んん?
﹁コウキュウ?﹂
耳慣れない言葉だった。横で聞いていた小玉も首を傾げた。
﹁お上のお妃さまの住まわれるところだ。男は入れんからな﹂
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﹁で、では国境に送られるということは⋮⋮﹂
﹁まずないな﹂
母の顔が明るくなる。小玉の心も明るくなる。それはなんだか危
険なことがなさそうな気がする。あとは徴兵期間の間になんとか自
活する方法を探っていこう 。久しぶりに明るい未来をのぞけたよ
うな気がした。
かくて関小玉は軍人としての第一歩を踏み出したのだった。
﹁あでで⋮⋮﹂
小玉は腰をなでて呻いた。先ほどうったせいで、じんわりと痛い。
自然、腰を曲げた姿勢になってしまう。手にした剣を杖にしてしま
いたいところだが、それが見つかれば上司に滅茶苦茶に叱られるだ
ろうから、それはやめておく。代わりに、後宮の塀に手を添えて進
むことにした。
ひょこひょことへっぴり腰で兵舎の自分の部屋へと向かう。早く
戻って膏薬を塗らないと痛みが長引いてしまう。ずっと老婆みたい
な姿勢でいるのは嫌だが、それ以上に腰痛を抱えたまま仕事をする
のが嫌だ。泣きたくなるくらい辛くなるのを、小玉は身をもって知
っていた。
でもその前に厠に行かなくてはならない。この腰で屈むのは想像
するだけで身もだえしたくなるような責め苦だが、こっちもこっち
で限界なのだ。こっちの限界と腰の痛みの両方を延々抱え続けるく
らいならば、一時の苦痛を耐えて片方の苦しみを解消すべきである。
決然と思いながらも、そうだよね、そうだよね! と誰に聞かせて
いる訳でもないのに、同意を求めたりする。やっぱり痛いのは嫌だ。
あれん
厠で予想通りの苦痛に苛まれ、ひいひい呻いたあと小玉がよろよ
ろと部屋に入ると、同室の阿蓮があれま、と呟いた。同輩が怪我を
していることに特に驚く様子がないのは、彼女が薄情だからではな
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く、慣れっこな事態だからだ。小玉の物入れの中から、手慣れた様
子で膏薬を出すことからそれが伺える。小玉も一言の断りもなく物
入れに手を突っ込まれても何も文句を言わない。すでに暗黙の了解
が出来ているのだ。
﹁はい、腰出してー﹂
﹁はーい⋮⋮﹂
のそのそと帯をとき、ぺろんとめくる。粘りのある液体が塗りつ
けられるひんやりとした感覚に、小玉は軽く身を震わせた。
﹁はい、いいよ﹂
小玉はのろのろと衣服を整え、自分の寝床にうつぶせになって寝
ころんだ。ようやく人心地がついた思いに、我知らず深いため息を
すいた。
﹁今日もだいぶしごかれたねえ﹂
膏薬を片づけながら、阿蓮が言う。
﹁うん⋮⋮﹂
小玉は力なく答えた。
ちょっかつ
徴兵された後、小玉は都へと連れて行かれた。王領ならばきっと
王城に連れて行かれたのだろうが、小玉の故郷は皇帝の直轄領にあ
ったため、帝都に連れて行かれた。そこに至るまでにも実は結構大
変なことがあったのだが、過ぎてしまえば瑣末なことだ。というか、
それが瑣末に感じられるくらい、帝都についてからが大変だった。
小玉は後宮周辺の警備に配備された。徴兵しに来た役人の言った
通りになったわけだ。しかし、小玉はまだ15歳の、しかも結構発
育の悪い上に武道など嗜んだことのない少女だ。まともに警備でき
る訳がないということは、本人を含めた誰もが正しく認識していた。
その場合どうするのかというと、そういう人間は、実際に警備を
している兵の付き人のようなものをすることになっている。要は使
いっ走りだ。小玉も例外ではなく、その立場に落ち着いた。
特に不満はない。小玉の主目的は故郷から離れることであって、
14
軍人として大活躍することではないのだから。それに人にはそれぞ
れ向き不向きがある。少なくとも警備よりは小間使いのようなこと
りゅう
ぎんよう
をしている方が自分には向いていると小玉は思っていた。
⋮⋮のだが。
小玉がついている人は柳銀葉という。もちろん女性だ。警備隊全
体の中では割と偉い人だと小玉は認識している。そして、剣術のイ
ロハもしらない徴兵されたばかりの者達の教育係の一人でもある。
決して悪い人ではない。むしろとても親切な人だが、仕事中はと
ても厳しい。いや、それは職業人として大変結構なのだが、剣術の
しごきをかける時の彼女は親切な時を差し引いてあまりあるほど恐
ろしい。しかも⋮⋮これは誰にも言えない考えなのだが、彼女が自
分をしごく時は他の者より厳しい気がするのだ。
おかげで修練が終わった時にはまるでボロ雑巾のようにへろへろ
になる。
といっても、自分にだけ厳しいのではというのは、自分でさえ被
害妄想のようにも思えたりする。あるいは単に、自分が使っている
娘に対してはより力を入れて鍛えてやろうと思っているのかもしれ
ない。そういう生真面目なところがある人だし、仕事と修練を除け
ば、彼女はとても優しい。それに今小玉の腰痛を和らげている膏薬
をくれたりもする。
そういう訳で、勤めて1年弱。小玉は職場に概ね不満なく過ごし
ていた。あとは小玉が上司のしごきに耐えられるだけの技術と体力
を身につけることさえできれば問題はない。もし問題があるとすれ
ば、徴兵期間終了後の身の処し方が決まっていないことくらいだ。
阿蓮などは﹁ここで結婚相手を探してもいいんじゃない?﹂という。
実際、そういう風にして結婚していった女性も何人か知っている。
当初は自活する方法を⋮⋮と考えていたのだが、そういえばここ
には自分の前歴を知る者もいない。よしんば小玉の抱える事情を知
ったところで、この程度で結婚をためらうような風潮はないのだと
15
いうから、それもありなのだろう。しかし、相手を探しに行こうと
思うほど積極的にはなれなかった。去年の一件以来、結婚というも
のがなんだか面倒くさくなってきたのだ。これは男性不信になった
せいなのか、それとも生来のものぐさのせいなのか⋮⋮あるいは単
に、今それどころではなく忙しいせいか。
﹁寝るよ。消すよ﹂
阿蓮が明かりを吹き消そうとしている。小玉は慌ててそれを止め
た。
﹁待って、剣の手入れまだ⋮⋮あ﹂
言いつつ、腰に手をやった瞬間、小玉は大変なことに気が付いた。
﹁剣⋮⋮忘れた﹂
顔から血の気が一気に引く。
﹁えっ、どこに!?﹂
阿蓮も動揺して尋ねる。質の良いものではないが、れっきとした
官給品。無くしたとなれば、まず上官の叱責以上のことはまぬがれ
ないからだ。小玉は慌てて記憶をさかのぼりはじめる。稽古終わっ
た時はあった、その後部屋に引き上げる時もあった⋮⋮あったはず。
うん、杖にしたいとか何とか思った覚えがある。その後、厠行って
⋮⋮ああ。
小玉は両手で顔を覆った。
﹁用たした後、そのまま手ぶらで出てきちゃった⋮⋮﹂
﹁ああ、ありがち⋮⋮﹂
実によくある話である。
﹁どうする、明日の朝行く?﹂
﹁ううん、今行くよ⋮⋮﹂
よっこらせと立ち上がる。腰に走る痛みに軽く顔をしかめるが、
先ほどよりは軽減されている。これなら行って戻ってくるくらいは
大丈夫だろう。
﹁あたし行ってこようか?﹂
阿蓮の親切な提案に、一瞬それもいいかなと考えたが、すぐに考
16
え直す。
﹁いいよ阿蓮。あたしのだし⋮⋮それにお湯使っちゃったんでしょ
う。風邪ひくよ﹂
そう言って、上着を羽織ると小玉は部屋を出た。
17
3︵前書き︶
流血描写ありです。苦手な方はご注意ください。
18
3
寒い日にはよくある、月がきれいな晩だった。
外を1歩出て、小玉は身震いした。雪が無い夜にありがちな鋭い
寒気が身を苛む。
﹁さむっ﹂
言葉と共に白い息が吐き出される。息を吸えば鼻の奥がちりちり
と痛んだ。
腕をさすりながら、小走りで鍛錬所の厠へと向かう。幸い、月光
のおかげで足下ははっきり見える。厠の中もすき間から差し込む光
のおかげで明るく、探し物はすぐに見つかった。安普請も時に利点
があるものだ。あまりにも限定的な上に特殊な状況下であるため、
利点といえるかどうかは難しいかもしれないが。
﹁あー、よかった⋮⋮﹂
見つけた剣を鞘から引き抜く。確かに自分のものだ。鞘に収める
と、小玉は剣を抱えてそそくさとその場から立ち去った。
先ほど兵舎へ戻った時同様、後宮の塀に沿って進む。寒いし眠い
しで、足は自然小走りになる。順当にいけば、ほどなく小玉は兵舎
にたどりつき、剣の手入れをした後布団に潜って熟睡したであろう。
しかし、そうはならなかった。そしてこの夜の不眠の理由が、小玉
の人生における転機の一つとなる。
あれ?
前方になにか動くものを認めて、小玉は足を止めた。動くものと
いえば生き物であろうが、警備の者ではないはずだ。さっき小玉が
通った時には、そこには誰もいなかったのだから。かといって野生
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動物でもない。宮城の内部の、それも後宮の周辺に生息していると
いうのは、ちょっと考えられない。当然不審に思って、小玉は目を
こらしつつ、歩を進めて近づいた。高い塀のせいで月光がかなり遮
られているが、夜に慣れた目はそれが一組の男女であることを認め
た。
その時、小玉が思ったのはこんなことだった。
はあ、こんな寒い夜に逢い引きかあ。熱いねえ。
小玉はこれを、後宮警備の女性兵と一般兵の逢瀬だと考えた。と
なると、その横を突っ切るのはあまりにも気まずい。どうしようか
な、と考えていると男の方がこちらを向いた。
その瞬間感じたものを、小玉は何と表現すればいいかわからなか
った。彼らの置かれた状況からして、それはおそらく、驚愕、怒り、
憎悪、恐怖などの感情が渾然一体となって男から発せられたものだ
ったのだろう。だが、まだ人生経験の浅い小玉には﹃嫌な何か﹄と
しか感じ取れなかった。しかし、それだけでも今自分が目にしてい
るものが、ただの逢い引きではないということがわかった。
そして、自分は今何かまずいものを見ているということも。
我知らず、手にした剣をぎゅっと握りしめた。するとまるでそれ
を合図にしたかのように、男が歩み寄ってきた。シャッという音が
響く。何の音だろうと疑問に思うより早く、月光を反射した刃が目
に入った。男が剣を抜いたのだ。
小玉がはっと息を呑んだ瞬間、男が斬りかかってきた。
その時の自分のことを、小玉は覚えていない。もしかしたら訳の
分からない絶叫をしていたのかもしれないし、あるいは無言であっ
たのかもしれない。気がついた時には小玉は、抜き身の剣を手にし
地に伏した男をぽかんと見下ろしていた。
男の体は左の脇腹から右の肩まで斜めに開かれ、ぴくりとも動か
20
ない。絶命しているのは明らかだった。どうしてこうなったのだろ
うかと思う以前に、今自分が何を見ているのかがわからない。
﹁ひっ⋮⋮﹂
声が聞こえた。小玉はのろのろと顔を上げた。女がいた。夜目に
も白く見えるかんばせを引きつらせて、彼女は言った。
﹁ひとごろし⋮⋮﹂
喉からやっと絞り出した、微かで裏返った声だったが、小玉は打
たれたようにびくりと身をすくませた。
それに力を得たかのように、女は絶叫し、駆けだした。手には匕
首。
﹁人殺し!﹂
思考は停止したまま、それでも今度はきちんと覚えていた。
まるで動いていない頭と裏腹に、体は滑らかに動いた。女の手か
ら匕首をはじき飛ばし、その首を薙ぐ。噴き出す血が全身にかかる。
女が地面に倒れ臥す。生暖かかった血が急速に熱を失っていく。
手から力が抜け、剣が滑り落ちた。がちんという鈍い音が耳に入
った瞬間、小玉の頭は﹃記憶﹄するだけの状態から、﹃理解﹄とい
う状態に移行した。
おこり
﹁あ、ああ、あ⋮⋮﹂
体が瘧のように震える。足に力が入らず、崩れるようにその場に
座り込んだ。
何が起こったのか、何をされたのか⋮⋮何をしたのか。
理解はした。だが、受け入れられるかどうかは話が別だ。思わず
震える手を口元に持って行き、ぬるりとした感触と生臭さに気づい
て盛大に吐瀉した。地面に手をこすりつけて必死に血を拭う。手が
土まみれになることを今日ほど歓迎したことはない。血まみれより
ずっとましだった。
21
やがて小玉は、うずくまってすすり泣き始めた。いつまでも帰っ
てこない小玉を心配した阿蓮が駆けつけてくるまで、ずっと。
何とも面倒なことになったと、銀葉はため息をついた。もっとも
それは心の中でのみ留めておく。なんといっても上官の前なので。
おそらく、自分と並んでいる同輩も同じ気分であろうが、今もっと
も憂鬱なのは自分だろう。
夕べ、ある事件が起きた。といっても、事の次第は単純な話であ
る。
後宮に入った女には言い交わした男がいた。男は後宮に忍び込み、
二人は手に手を取り合って逃げようとしたところを見つかってバッ
サリやられた。なんてかわいそうだこと。小話などでよく聞くよう
な悲恋である。しかし、関係者にとっては単純に同情できる話では
ない。おそらく彼らの身内は刑に処されるであろうし、銀葉ら後宮
周辺の警備を行う者たちも、男を侵入させたということで責任を問
われかねないからだ。
だが、今回それは無いだろうということを銀葉は予測していた。
逃げようとした二人を始末したのは警備隊に属する者だ。もし男の
侵入についてこちらに非があったとしても、これで相殺されるはず
だからだ。上官の気分次第で変わることも考えられるが、今回この
事件の後始末をしている上官は、謹厳実直で人望をあつめている人
間だ。そういうことはまずないだろう。
﹁⋮⋮次はない。それを覚悟しておくように﹂
案の定、上官からは叱責というか訓戒で終わった。安堵してもい
い。実際、同輩たちはそうしているだろう。しかし、銀葉はまだ安
堵できない。
﹁ところで、彼らを斬った者は誰だ?﹂
22
予想していた問いがついに発せられ、銀葉はああ、と頭を抱えた。
もちろんこれも、心の中でのみのことだ。
同輩の視線が自分に集まる。銀葉は口を開いた。
﹁今はおりませぬ﹂
﹁では連れてこい﹂
上官の言うことはもっともであるが、銀葉はそれをしたくなかっ
た。
﹁⋮⋮どうかお許しくださいませ﹂
﹁なぜだ?﹂
ふ
当然、理由を聞かれる。銀葉は重ねて言った。
﹁今、臥せっておりますゆえ﹂
﹁怪我でも負ったか?﹂
怪我ではない。上官もそれはわかっているだろう。死んだ男の剣
にも、女の匕首にも誰かを刺した跡はなかったということを気づい
ていない訳がない。それなのに、このような問いを発せられるとい
うことは、自分が部下の手柄を横取りするつもりで連れてこなかっ
たのだと思われているのかもしれない。もちろんそんなことはない。
銀葉はきっぱり言った。
﹁いえ、風邪をひきました﹂
一拍間をおいて、上官が呟く。
﹁風邪﹂
﹁はい。夜間に大立ち回りを繰り広げた後、汗を拭く余裕がなかっ
たらしく﹂
﹁なるほど﹂
相手が納得した顔で頷いた。実際、銀葉が言ったことに何ら偽り
は交じっていない。
﹁ならば、本復した後に私の元に連れてくるように﹂
﹁御意﹂
それで話は終わりだった。銀葉たちは礼をすると、上官の前から
退出した。
23
確かに銀葉の部下は風邪をひいている。だが、銀葉が部下を連れ
てこなかったのは、別の理由からだ。
ゆうべ、銀葉が報告を受けて現場に駆けつけた時、彼女の部下は
うずくまって震えていた。怪我はなかったが、初めて人を殺したこ
とで心に大きな負荷が掛かっていることは明白だった。15歳とい
っても兵士なのだから、甘いといえるかもしれない。だが、銀葉た
ちの仕事というのは少し特殊で、誰も傷つけずに仕事を終える者も
いるのだから、部下には人を殺す心構えが出来ていなかったはずだ。
精神的な打撃は相当なものだっただろう。
かわいそうに。
銀葉はため息をついた。銀葉にとっては死んだ二人よりも、それ
を斬った部下の方が哀れだった。しかしそれは、部下が人を殺した
ことに対してではなく、心構えなしに人を殺したということに対し
てだった。
銀葉は将来的に部下は人を斬るであろうと思っていた。もちろん、
滅多に刃傷沙汰にならない後宮周辺の警備の場においてではない。
あれはその枠に収まらない器だと銀葉は考えていた。
銀葉は、図らずとも部下の修行の成果を示した死体を思い出す。
見事な切り口だった。
もちろん、一流の腕とはいえない。しかし、あれを為したのが剣
を握って約1年の少女だと考えると、なんとも末恐ろしい。
銀葉はその才能を潰さないよう慎重に育ててきたつもりだった。
だから、そのために人を斬る覚悟をおいおいつけさせて行こうと思
っていたというのに、ここで潰れてしまうのだろうか。
銀葉はもう再びため息をついた。そうはさせたくない。だが⋮⋮
そうなった方が、人として幸せな人生を送れるかもしれないという
ことも頭にはあった。
24
4
泣きながら目をさました。
﹁起きた?﹂
阿蓮の気遣わしげな顔が目の前にある。
﹁あ⋮⋮﹂
悪い夢を見た。そう言おうと⋮⋮思おうとしたが、しかしそれは
出来なかった。
だって血のにおいがする。小玉が殺した二人の血のにおいが。そ
れは決して幻覚などではなかった。
﹁洗いたい⋮⋮﹂
発見された時にはすでに高熱を発していた小玉は、当然身を清め
る事はできなかった。阿蓮が濡らした布で体を拭いてくれてはいた
が、当然こびりついた血が全て落ちるわけもなかった。風呂に入り
たい。小玉の希望は至極もっともであろう。しかし、
﹁あんた死にたいの!?﹂
この場合、阿蓮の一喝の方が更にもっともだった。この時期に、
風邪を引きながらなお風呂に入りたがる奴は、ただの馬鹿か自殺志
願者だ。もちろん、小玉はそのどちらでもない。しかし、消えてし
まいたいような気分は少しあった。
熱に浮かされた頭で、それでも頭の隅は冴えていた。その部分で
昨晩よりはずっと冷静に小玉は自分の為したことを考えていた。
人を殺してしまった。
正直、覚悟などしていなかった。仕事は安全だと思っていたし、
誰かを傷つけるようなことが起こるとは思っていなかった。そもそ
も小玉たちがいるところにたどりつくまでに、他の警備を乗り越え
る必要があるのだから、そう思うのも無理はない。だが兵を置き、
訓練させるからには相応の必要があるのだ。甘かった、と小玉はほ
25
ぞをかんだ。自分は甘かった。次はうろたえないようにしなければ
ならない。理性はそう考えた。
しかし、頭の大部分は感情で埋め尽くされ、それは泣きわめいて
いた。もう嫌だ、こんなところ。一生嫁に行けなくてもいいから、
故郷に帰りたい。母ちゃん、兄ちゃん、義姉さん。
小玉の目の縁から涙がこぼれ、頬を伝った。阿蓮がはっと息をの
むと、彼女はゆっくりと瞼を閉じ、かくんと首が落ちた。そう、そ
れはまるで臨終にありがちな光景⋮⋮まさか!
﹁ちょっとおぉぉぉ!?﹂
阿蓮は慌てふためいて小玉の元に駆け寄って、そのまま覆い被さ
る。
﹁小玉? 寝たの? 寝たのよね? 死んでないよね!?﹂
もちろん襲おうとしている訳ではない。呼吸を確認しようと思っ
たのだ。阿蓮は彼女の口元に寄せた頬をよせる。呼吸を確認するに
は、頬が一番いいと誰かが言っていたようなそうでないような。ほ
どなく、規則正しい呼気を肌に感じてほっと肩の力を抜いた。よか
った、寝ただけか。
身を起こし、小玉の顔を見下ろす。真っ赤に染まった顔に汗の球
が浮いていた。阿蓮は寝床の近くに置いていたたらいの水に布を浸
し、そっと拭った。それが終わると、今度は小玉の髪を布で挟んで
引き抜く。布を開くと赤黒い線がうっすらと浮いていた。阿蓮はた
め息をついた。
小玉が浴びていた返り血を拭ったのは阿蓮だ。しかし、すでに乾
きかけていた血は完全にはぬぐい取れなかった。特に髪にはしっか
りとこびりついていて、完全には落ちない。風呂に入れるほど小玉
の体調が回復するまで、おそらく髪は保たないだろう。
だからといって阿蓮にはどうすることもできなかった。無駄とは
わかっていても、再度小玉の髪を拭う。すると、部屋の外から呼ぶ
声が聞こえた。
26
﹁はい、どうぞ﹂
呼びかけると、一人の女性が部屋に入ってきた。阿蓮と小玉の上
官だ。阿蓮は慌てて礼をとる。上官は寝床に臥す小玉を見て、ほう
とため息をついた。
﹁まだ目は覚めないのね?﹂
﹁はい⋮⋮あ、いえ、さっきちょっと起きましたが、また寝ました﹂
﹁そう﹂
頷くと上官は険しい顔でじっと小玉の顔を眺める。無言のまま時
が過ぎる。はっきり言って、居心地が悪い。
﹁あのぉ⋮⋮﹂
恐る恐る声を掛けると、上官はふっと顔を上げ、懐から何かを取
り出した。
﹁あの、これは⋮⋮﹂
﹁起きたら彼女に渡すように﹂
そう言うと、上官は部屋を出て行った。阿蓮は手渡されたものを
ためつすがめつし、少し考え小玉の枕元に置くことにした。そうす
れば風邪も早く治るのではと思った。
いつの間にかまた眠りに就いていたのであろうか。
再びの覚醒は唐突だった。まるで水面へと急上昇するように、頭
の奥底から押し上げられるような感覚。ぱちりと目を開くと前回の
覚醒の時に頭にまとわりついていた靄が取り払われたように、意識
は澄み渡っていた。どうやら熱は下がったらしい。目の奥に微かな
痛みを感じるが、これは寝すぎたからであろう。
あたりはもう暗い。自分のやったことを意識しないようにしな
がら身を起こし、視線を巡らしても暗がりしか見えない。しばらく
闇に目を凝らしていると、ようやく物の輪郭が見えてきた。隣の寝
台にある膨らみは阿蓮だろう。起こさないようにそろりと寝台から
降りると、小玉は部屋を出た。決して自棄を起こそうとしている訳
ではない。喉が渇いているのと、用を足したかっただけだ。
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部屋に戻った頃には、すっかり目が暗さに慣れていた。阿蓮の
寝台の膨らみが呼気にあわせて微かに上下しているのもおぼろげに
見て取れた。自分も布団の中に潜り込もうとして、ふと枕の脇に置
かれたものに気がついた。なにやら白いもの。手に取るとそれが紙
であることがわかった。
すぐわかった。この大きさは手紙だ。
小玉は転がるように寝台から降り、部屋にただ一つある明かりと
りの下へと行った。微かに漏れでる月光にかざせば、表書きが見え
た。小玉は字を読めないし書けない。だから表書きも模様にしか見
えないが、それが実家から来る手紙にいつも書かれているものだと
いうのはわかった。
小玉はすがりつくように手紙を胸に抱え込んだ。帰りたい、帰
りたい。静かに嗚咽をこぼしていると、肩に手が置かれた。いつの
間にか起きていた阿蓮だった。その手に促されるまま、小玉は自分
の布団の中へと潜り込んだ。しっかりと手紙を抱きしめたまま。
やはり若さが物を言ったのだろうか。小玉の風邪は数日間で完治
した。
﹁こじらせなくてよかったね、ほんとに﹂
﹁ん⋮⋮﹂
小玉の髪を切る阿蓮が呟くのに軽く頷いた。頭がどんどん軽くな
っていくのは、それが毛先を整えるような簡単なものではなく、首
の付け根からばっさりと切り落としているからだ。ここまで思い切
りよく散髪しているのは、もちろん精神的な区切りをつけようとい
うものではない。血がこびりついた状態で洗えなかった髪は、やは
り手の施しようがないほど傷んでいた。
仕方がない。髪はまた伸びるのだし、風邪っぴきの風呂で死ぬよ
りはましだ。小玉は自分にそう言い聞かせる。桶に張った水に映る
28
自分はまるで少年のようだった。
﹁はい、これで⋮⋮﹂
﹁ありがとう﹂
阿蓮に礼を言って、小玉は頭に手をやる。襟足の短くなったとこ
ろに触れ、さわさわとその場所を何度も撫でる。無心に同じところ
を繰り返し撫でる小玉に、阿蓮は怪訝そうに尋ねた。
﹁どうしたの?﹂
小玉は真顔で答えた。
﹁意外に手触りがいいんだね、ここ﹂
﹁やぁだ、何言ってるの!﹂
隊正さまのところへ行くのよね?﹂
たいせい
阿蓮が大笑いしながら、小玉の肩にかかった細かな毛をバシバシ
払い落とす。
﹁これから、柳
柳隊正は、小玉の上官・柳銀葉のことで、隊正とは、軍において
50人の兵を率いる地位である。そこそこ偉い。
﹁うん。なんか呼ばれてて﹂
﹁何だろうね。ご褒美でももらえるのかな?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
小玉は曖昧に頷く。ご褒美を貰えるような﹁何か﹂をしたのを思
い出して、少し気が重くなった。それを見て、阿蓮が慌てて場を取
り繕うとする。
﹁あ、や、えと、ほら柳隊正さまのご用が終わったら、手紙読んで
もらえばいいんじゃないかな、あなたの実家から来たやつ!﹂
なるほど。それは⋮⋮
﹁いいね!﹂
小玉は顔をほころばせた。
実家から来た手紙はまだ読んでいない。というか、読んでもらっ
ていないといった方が正しい。読み書きができない小玉は、誰かに
朗読してもらわないことには、内容を把握出来ないのだ。しかし、
風邪で臥せっていた間、小玉が誰かにお願いしに行く余裕など有る
29
わけがなかった。もちろん、同室である阿蓮も文字を読めない。だ
が上司である柳銀葉は読み書きができる。そしてしばしば部下の手
紙を読んでやったり、代筆してやったりもしていた。小玉も阿蓮も
そのお世話になっているクチである。
思い立つと、今すぐにでも手紙の内容を知りたくなる。これまで
精神安定の道具としての活用にのみ終始させて、本来の用途を失念
していたが、そもそも手紙は情報を伝達するものである。小玉はよ
うやくそのことを思い出した。
小玉は毎晩抱きしめて寝ていたせいでしわが寄っている手紙を懐
に入れた。
﹁じゃあ、行ってきます﹂
行ってらっしゃいという阿蓮の声を背に、小玉は部屋を出た。
﹁関小玉参りました⋮⋮﹂
いらえに応じて柳隊正の部屋に入ると、彼女はどこか困ったよう
な笑いを小玉に向けてきた。
﹁これから、私と一緒に出かけてもらうわ﹂
﹁ど、どこへですか?﹂
唐突な宣言に、小玉はうろたえて尋ねた。
﹁沈中郎将閣下のもとよ﹂
﹁しんちゅうろうしょう⋮⋮﹂
﹁偉い人です﹂
小玉が﹁それって誰ですか?﹂と聞く前に、上官はさっさと答え
た。部下の質問を先読みする洞察力。これが上に立つ人の力⋮⋮!
などと小玉は胸の裡で感心するが、この場合は単に小玉があまり
にも読まれやすいだけであって、むろん柳隊正の指導力その他とは
一切関係がない。
﹁そのぉ、偉い人の所にあたしなんかがどうして行くんでしょうか﹂
この場合の﹁なんか﹂というのは、謙遜でも卑下でもない。なん
といっても、小玉は下っ端の中の下っ端。﹁沈中郎将閣下﹂という
30
のがどれくらい偉いかわからないが、自分よりずっと偉い上官が更
に偉いと言うのだ。本来自分が目通りできるような相手ではないと
いうことくらいはなんとなくわかる。
﹁沈中郎将閣下は今回の事件の後始末をなさった方で、あなたから
話を聞きたいそうよ﹂
一拍の沈黙。
﹁あー、えー、何を話せばいいんでしょうか⋮⋮﹂
﹁聞かれたこと何もかもを、よ﹂
恐る恐る尋ねる小玉に、柳隊正は明快に答えた。明快だがあんま
り参考にならない。なんかこう⋮⋮。
﹁そうね、付け加えるならば、聞かれない事は何も言わないように。
ボロが出るから﹂
﹁わかりました!﹂
すごく参考になった。小玉は力強く答えた。何か喋るとボロが出
ると思われていることに、馬鹿にされたとは思わなかった。だって、
あまりにも当然すぎる。小玉は己を知っていた。
﹁あとは、部屋に入る時⋮⋮﹂
その後、いくつか礼儀上の注意が続く。小玉はそれを神妙に聞き、
あとはとりあえず大人しくしてりゃいいんだろうと腹を決めた。一
つ気になることは、懐の手紙はいつ読んでもらえるのだろうかとい
うことだった。
31
4︵後書き︶
中郎将は軍での階級のことです。将軍の次くらいに偉いかな。
32
5︵前書き︶
作法は、雪花菜のでっち上げである。
33
5
宮城は広い。広すぎて訳がわからない。勤めて1年近く経つが、
小玉は自分が職場を把握している自信をこれっぽっちも持っていな
かった。宮城を人体で喩えるならば、多分自分は右足小指の爪1枚
分程度しか分かっていないだろうと思う。だから柳隊正の後をひた
すらに追う小玉は、﹁沈中郎将閣下﹂のいる所まで、どこをどう進
んでいるのかまるで分からなかった。それでも進んでいるうちに、
行き違うお兄さん︵まれにお姉さん︶が、何だかあか抜けてきてい
るのはわかった
自分はすごく場違いな気がする。なんだか落ち着かなくて、小玉
はそっと自分の胸を撫でた。正確には、そこに収められている手紙
を。どうやら手紙にはもうちょっとの間、本来の用途以外での活躍
をお願いすることになりそうだった。
﹁ここよ﹂
ある一室の前で柳隊正が立ち止まる。扉の前に立つ者と2、3言
葉を交わし、取り次ぎを待つ。やや待ってから、室内に通された。
柳隊正の後について部屋に入り、中にいる人間を確認するよりも早
く跪いて礼をとった。頭を下げている隣で柳隊正が用件を手短に伝
えているのを聞く。
﹁顔を上げよ﹂
許されて顔を上げて、小玉は驚いた。この方が、沈中郎将閣下な
のか。
﹁きれーな人だなあ﹂というのが第1印象だった。
﹁で、男?女?﹂というのが第2印象だった。
目の前にいる人は、すっきりした顔立ちで色が白かった。多分男
34
なんだろうとは思うが、自信はない。着衣が男物であるからといっ
て、単純に男として見るにはためらいがある。かといって男装の麗
人と表現するにも違和感があった。
﹁お前が関小玉か﹂
問う声も男としてはやや高いが、女としては低い。
﹁はい﹂
返事を返しながら、小玉はこの険のある美女に見えなくもない人
物が、ますます男なのか女なのか本格的に悩む⋮⋮わけもなかった。
だって、他人の性別である。それも、多分今後関わることもなさ
そうな偉い方の性別など、気にしたって意味がない。人でさえあれ
ば、性別など大した問題ではない。妖怪である方がよっぽど問題で
はないか。
小玉は激しくなにかが間違っている結論に至ると、さくっと沈中
郎将の性別のことを忘れた。小玉には他に気にすべきことがあるの
だ。粗相をしないでこの場を立ち去ることと、懐の手紙を読んでも
らうことと。
﹁では、お前は出ているように﹂
﹁はい﹂
⋮⋮あと、居るだけで頼りになりそうな柳直長が退室してしまっ
たこと。
しかし、小玉に抗議する権利などあるわけがなかった。
沈中郎将とのやりとりは、型どおりに始まった。相手が小玉の年
齢や出身を淡々と質問し、小玉も淡々と答える。その後、﹁後宮か
らの逃走阻止事件﹂の顛末についてやはり淡々と聞かれた。
﹁なぜその時その場にいたか﹂﹁なぜ斬り合いになったのか﹂﹁
なぜそうなる前に話しかけなかったのか﹂等々。
以前柳隊正にも同じ事を聞かれているので、おおむねすらすらと
答えることができた。時折つっかえてしまったのは、正直に﹁うっ
かり厠に剣を忘れてしまいました﹂とまで話すのが恥ずかしかった
35
せいだ。あと緊張と。
質疑応答が終わると、沈中郎将はそんな小玉をじっと見て、呟く
ように言った。
﹁随分と度胸が据わっている﹂
小玉はそれを聞いて身を固くした。それは小玉が最近気にしてい
ることだった。
今も時々、剣が肉を裂いた感触が手に蘇って震える。思い出して
は気が重くなることがある。実家に帰ってしまいたいとも思う。
だがそれは、精神的な傷というには浅すぎる気がするのだ。許嫁
に捨てられた時といい、自分は嫌なこと極まりない経験をしたにし
ては、落ち着きすぎというか立ち直りが早すぎる。
小玉は、自分が人間としてどこかおかしいのではないかと思うよ
うになっていた。それは今後、小玉の心につきまとうことになる思
いだった。
﹁関小玉﹂
﹁は、はい﹂
軽く落ち込んでいたところ唐突に呼ばれ、小玉は慌てて返事をす
る。
﹁今回のことは良くやった。今後とも職務に精勤せよ﹂
﹁はい﹂
小玉は頭を深々と下げた。きっとこれで終わりだ。柳直長さまの
ところに戻ったら手紙⋮⋮。
﹁ついてはお前に褒美をとらす。何か欲しいものはあるか?﹂
終わりではなかった。
褒美ですか。期待はしていなかったが貰えるとなると嬉しいもの
だ。そういえば、阿蓮も﹁貰えるんじゃない?﹂みたいなことを言
っていた。
36
しかし、﹁何が欲しい﹂と聞かれるとは思わなかった。こういう
ものって相手の方から渡すものをあらかじめ決めておくものではな
いだろうか。例えばほら、金一封とか。いや、銀でも銅でもなんで
もいいが。
こういうのは困る。すごく、困る。
今こそ柳直長がいてくれれば良かったのに。あの部下の質問を先
読みした彼女の慧眼ならば、不安げな目を向けるだけで助け船を出
してくれたのではないかと小玉は思う。もちろんそれは願望にすぎ
ない。
えーと、えーと、えーと⋮⋮。
小玉は悩んだ。悩んで⋮⋮そもそも自分欲しいものあったっけと
いうことに思い至った。これについては考え込む必要などない。今
一番欲しい﹁物﹂⋮⋮いや﹁事﹂はすぐに思い付く。
小玉は力強く頷いた。これだ、という確信に満ちて高らかに言い
放つ。
﹁手紙読んでください!﹂
沈中郎将の表情が、この時初めて動いた。純粋な驚きに。それは
やがて怪訝そうなものとなった。
﹁⋮⋮手紙?何のだ?﹂
﹁実家から来た手紙です﹂
小玉は柳直長に言われたとおり、聞かれたこと﹁は﹂素直に答え
る。
﹁なぜ私に読めと?﹂
﹁あたし字が読めないので、誰かに読んでもらおうと思っていたん
です﹂
﹁⋮⋮今持っているのか?﹂
﹁はい!﹂
37
小玉は喜々として懐から手紙を出した。数日抱きしめていたせい
でしわが寄ったそれを。
﹁⋮⋮﹂
沈中郎将は、無言で小玉の顔と手紙を数度見比べると、一度天井
を仰いでこう言った。
﹁渡しなさい﹂
﹁はい!﹂
小玉は勢いよく立ち上がると、のしのしと歩いて沈中郎将に手紙
を渡した。
﹁あっ、ついでで良いんですが、返事を代筆してくれるととても嬉
しいです﹂
﹁⋮⋮いいだろう﹂
微妙に震える声で沈中郎将は承諾した。
そうして読んでもらった手紙の内容は、小玉にとってある決心を
促すものとなった。小玉は少し考えて実家への返事を口にし、中郎
将に書き留めてもらった紙をもらうと礼を言って退室した。
後に残された沈中郎将が、墨の付いたままの筆をそこら辺に転が
して、身を小刻みに震わせながらしばらく笑い続けたことを、彼女
は知るよしもない。
∼褒賞の受け方作法︿兵卒編﹀∼
褒賞を受け取る時は必ず1回断りましょう。相手は必ずこう尋ね
てきます。
﹁何か欲しいものはあるか?﹂
※回答例
﹁お心だけで結構でございます﹂﹁滅相もございません﹂﹁その
ような物をお受けする訳には参りません﹂⋮⋮
38
断った後、相手はこう言ってきます。
﹁そうか。では○○をとらす﹂
ここで立てた功に相応の物品が下賜されますので、ありがたく受
け取り、感謝の言葉と共に押し頂きましょう。この時は決して立ち
上がらず、動く時はにじり寄ること。
この場合、慣例を知らない新米が悪いのか、教えなかった周囲が
悪いのかは各人の判断に任せる。
39
5︵後書き︶
上司の柳銀葉は、あとで部下の振る舞いを聞いて、死ぬほどの胃痛
と後悔に苛まれます。何で教えてなかったんだ自分、と。
40
6
かんがん
﹁宦官? あの人が?﹂
小玉は驚きに目を見張った。その目を向けられた阿蓮もまた、驚
いた顔になった。
﹁そうよ。というか、沈中郎将さまのこと、あなた知らなかったの
?﹂
有名な方よ∼と言われ、へえと生返事をする。脳裏にはつい先ほ
ど見た美貌が浮かぶ。男性的でもあり女性的でもあった姿。この国
で尊ばれるという両性というのは、あのような姿をしているのだろ
うかと思った。
宦官とは、去勢した男性官僚のことだ。官僚といっても、彼らが
司るのは表向きの政治ではなく、後宮での諸々の業務である。男性
皇帝の時代においては完璧な男子禁制の場になるこの世界では、宦
官という存在はなくてはならない存在であった。
しかし、皇帝の妃の側近くに使え、時には皇帝の生活の世話さえ
もする彼らは、大きな実権を握りがちであり、結果として専横を招
いた例がままあった。小玉の死から約100年後にこの大宸帝国は
2度目の滅亡を迎えるが、その原因の一つは宦官による国政の乱れ
である。
しんけんきょう
しかしその中でもごく僅かであるが、忠臣として名を残した人物
もいる。その中の一人が沈賢恭である。先ほど必死に笑いを堪えて
関小玉の実家への手紙を読み上げた人物のことである。彼は、後に
﹁最後の忠良な宦官﹂とまで呼ばれるほどの人物だった。
彼は宦官としては珍しく武勇にすぐれ、武官として多大な功績を
あげた。しかし、本来後宮の業務に専念すべき彼らが職分から逸脱
したところで功績を上げたために、宦官が重用されるようになった。
41
それを考えれば、結果として沈賢恭らは大宸帝国滅亡の遠因になっ
たともいえる。
もっともそれは、沈賢恭ら個人の功績を宦官全体に投影して、宦
官を重用した者の責任であるともいえる。別に彼らは、宦官だから
有能であったり忠良であったりした訳ではないのだから。
⋮⋮などという話は置いておいて。小玉が考えているのは、﹁欲
しい物はないか?﹂と聞かれた時、﹁性別教えてくださいって言っ
たらまずいかなー﹂とちらっと考えた自分は正しかった、というこ
とである。
宦官に性別を聞くほどまずいことはないとされる。性の象徴を切
り落とした彼らは、なぜか感情の起伏が激しい者が多く、自らの性
別について触れられると激昂する場合がままある。宮城での慣例に
明るくない小玉ですらこのことを知っているのだから、相当なもの
だ。
もっとも、たとえ宦官であろうがなかろうが、性別を尋ねるのは
失礼なことであるに違いない。良識に従って変なことを頼まなかっ
た自分は正しかったと、小玉は頷いた。あー良かった。
もちろんこの時、彼女はまだ自分がとんでもなく無礼なことをし
たことを分かっていない。
﹁あ﹂
唐突に阿蓮が声を上げた。小玉が彼女の方を見ると、阿蓮はぱっ
ちりとした目を向けて尋ねてきた。
﹁それで、手紙は読んでもらえたの?﹂
﹁あーそのことね⋮⋮﹂
小玉の返事は歯切れは悪い。
﹁え、読んでもらえなかったの?﹂
意外そうな顔での問いに、小玉は苦笑しながら手を横に振った。
﹁いや、そんなことないよ﹂
﹁そう?﹂
42
﹁うん﹂
﹁じゃあ、何か悪い知らせとか?﹂
﹁それもない。全然﹂
﹁ふうん﹂
それで話は打ち切りになった。
嘘は何一つ言っていない。手紙に書かれていたのはむしろめでた
い話だ。
小玉は自分の寝台に転がり、手紙を広げた。自分にはまるで読め
ない黒い線が行き来しているが、この線のどれかが義姉の懐妊を伝
えているのだと思うと不思議な気持ちになる。
しばらくそれを見つめて、小玉は深くため息をつくと、手紙を胸
に押し当てた。甥か姪が生まれるのが嬉しくない訳ではない。とい
うか、すごく嬉しい。ただ、これは戻れんよなあと思うのだ。
これから子が生まれる兄夫婦の元に迷惑の種が転がり込むことは、
絶対に避けなくてはならない。小玉は実家に帰るのをすっぱりと諦
めた。自分はここで何とか生きていかねばならない。
だけど、と小玉は自分のことを複雑に思う。
これですっぱり諦められるあたり、やはり自分はどっかおかしい
のだろうか。それとも、嫌なことは3歩歩いてすぐ忘れるトリ頭な
だけなのだろうか。それはそれで嫌だ。
でも考えてみれば、沈中郎将閣下が﹁欲しいもの﹂を聞いた時、
目先の願望に囚われて手紙を読んでもらうことを請うたが、大局を
見れる人間だったのならば﹁実家に帰らせて欲しい﹂と頼んでいた
はずだ。 結果としてはそうしなくて正解だったのだが。
自分はやっぱりトリ頭なのかなあと、小玉は自身以外にとっては
どうでも良い悩みに頭を抱えた。
小玉は思わず叫んだ。
43
﹁えー、嘘!﹂
﹁ちょっと小玉!﹂
阿蓮が血相を変えて叱りつける。小玉の叫んだ対象が阿蓮だった
訳ではない。むしろそうではなかったからこそだ。
﹁本当です。それからあなたはもう少し言葉に気をつけなさい﹂
叫んだ対象こと、柳直長は厳しい声でたしなめた。
﹁すみません⋮⋮﹂
小玉は素直に謝る。謝るだけのことをした自覚はある。だがそれ
以上に、思わず叫んだのも無理はないと認識していた。その認識は
彼女だけのものではなく、その証拠に柳直長もそれ以上言いつのる
ことはなかった。
今彼女たちが取りざたしているのは、小玉たちの人事のことであ
る。軍に入ってようやく1年目が過ぎた。新米兵卒にだって一応異
動だのなんだのがあるのである。
といっても、ほとんど無いが。
う おうおうえい
あったとしても、同じ部署内だが。
﹁でも、何であたしが右鷹揚衛に移ることになったんでしょうか?﹂
だから、この質問も、小玉が思わず嘘と言ったのも決しておかし
いことではなかった。
ほくが
小玉が所属している軍は禁軍である。禁軍とは皇帝を護衛するた
なんが
めの存在だ。この禁軍は二つに分けられ、片方を北衙禁軍と、もう
片方を南衙禁軍と呼ぶ。
この二つの違いは何かというと、北は皇帝が直接指揮下に置いて
ある軍で、南は総じて宰相の指揮下にある軍であるということだ。
また、南は皇帝の護衛だけではなく、都の警備なども行っている。
したがって狭義の意味では、禁軍とは北衙禁軍のことのみを示す
えい
が、そこはあまり気にしなくていい。北と南とでは北の方が格上で
あり、もちろん小玉が所属しているのは南衙禁軍である。
この南衙禁軍は十六衛と呼ばれる。その名の通り、十六の﹁衛﹂
44
うぎょく
けん
という単位に別れ、それぞれの衛の頂点に大将軍を擁している。小
玉はその十六衛の一つである右玉鈐衛で後宮警備に従事していた。
女性の場合、士官はともかく兵卒は基本的に後宮の警備にあたる
のがほとんどなので、衛内でさえ異動することが特に少ない。まし
てや、衛を飛び越えての異動など、一大珍事と言っていい。衛が変
わるということは、後宮警備以外の仕事に就くということなのだが
⋮⋮後宮警備以外の何をしろというのだろう。小玉は自分に何が期
待されているのか、まるでわからない。そして多分柳直長もわかっ
ていない。
﹁それは⋮⋮沈中郎将閣下のご意向です﹂
としか言わなかったのだから。
沈中郎将閣下。縁が切れていると思っていた⋮⋮そもそも結ばれ
てさえいない相手の名前が、なぜここに出てくるのか。
今の小玉には、ちょっとばかり心当たりがあった。
﹁⋮⋮ふ、復讐戦ですか!﹂
﹁そんな訳ないでしょう。しかも﹃戦﹄って何なの﹂
一刀両断のもとに否定された上に、突っ込みまで入れられた。
﹁じゃあ、何でしょう﹂
実は言った小玉も、相手が復讐するとは思っていない。するなら
とっくの昔に懲戒されているはずだ。そんなありそうにない可能性
ぐらいしか心当たりがない。
﹁多分⋮⋮閣下のお心に触れるものがあなたにあって、目をかけら
れたのではないかと思うわ﹂
それ﹃目をつけられた﹄の間違いじゃないかと、誰もが、言って
いる本人でさえ思った。
ほらあなた、一応武功立てているから⋮⋮一応ね、という柳直長
の言葉が空々しい。そして繰り返される﹁一応﹂という言葉が柳直
長の本心を反映していて素敵である。
﹁まあ、﹂
ふっと微笑んで、柳直長が小玉の肩を叩いた。
45
﹁なるようになるから、なるようになりなさい﹂
禅問答のような激励だったが、小玉は結構無責任なそれに反発せ
ず素直に頷いた。
﹁はい、そうします﹂
いや本当に、なるようにしかならないのだし。
異動まで三日間の猶予が与えられた。三日目には荷物をまとめて
新しい宿舎に移らなければならないが、元々私物は少ないのだから
急ぐことはなかった。小玉が荷物をまとめ始めたのは、二日目の朝
からだった。
小玉以外の女性の兵卒は、定型通りに異動はない。従って、宿舎
で荷物をまとめるのは小玉だけだった。片づける小玉を手伝いなが
ら、阿蓮がぽつりと言った。
﹁寂しくなる⋮⋮﹂
﹁⋮⋮うん﹂
小玉の声も浮かない。気心の知れた仲間と離れるのは寂しいし、
何より不安だ。特に、これから行く先に女性がほとんどいないとあ
れば。
二人はしばし無言で手を動かす。それほどたたずに荷物はまとめ
終わった。あとは明日掃除して、転居すればおおしまいだ。
﹁おつかれー、ありがとう﹂
﹁ちょっと汗かいたね﹂
二人、汗を拭きがてら水でも飲みに行こうかと部屋を出た。そし
て気づいた。どことなく騒がしい。
﹁なんかうるさい﹂
﹁何だろ﹂
と首を捻りつつ、井戸まで行く。そこには数人の同僚達がいて、
何やらさざめき合っていた。世に言う井戸端会議の様相である。
46
その中の一人が、近づいてくる小玉達に気づくと手招きしてくる。
二人はそれに従い、彼女たちに近づいていった。
たいか
手招きした相手が、開口一番言ってくる。
﹁ね、聞いた? 昨日の夜、大家が崩御なさったらしいわ﹂
﹁へ?﹂
﹁えっ!﹂
この時代、皇帝の尊称として﹁大家﹂という言葉が使われている。
47
6︵後書き︶
なぜ十六衛の中で右玉鈐衛が後宮を警備しているのかというと、単
にこの衛は宮城の西側を警備するのが仕事で、たまたまそこに後宮
があったというだけの話です。
48
7
一天万乗の天子の死。それは、国家が大きな変化を迎えるという
ことを示す。
﹁そりゃー大変﹂
﹁次、どなたなのかしら﹂
⋮⋮が、それは彼女たちの心を、激しく揺さぶるものではなかっ
た。
周囲の人間も、二人の反応に対して冷淡だのなんだの言うことは
ない。下っ端にとっては、皇帝の代替わりなど世間話の材料程度で
しかないのだ。特に、昨夜死んだばかりの皇帝のような、毒にも薬
にもならないような人間が皇帝だった場合には。願わくば自分たち
の生活に悪い影響が出ないよう、何事もなく代替わりが済んでくれ
とただ祈る程度である。
だが、今回の場合、すでにもう影響を及ぼされていることがあっ
た。
﹁あ、そういえばさ、今日の夜の事だけど⋮⋮﹂
誰かが言い出したことに、皆が﹁あっ﹂と声を上げる。しばらく
顔を見合わせると、皆が思案げな顔をして言った。
﹁さすがに⋮⋮まずいわよねえ﹂
﹁無理ね﹂
﹁飲めないわね﹂
﹁さすがに、大家がお隠れになった直後は、ちょっと﹂
﹁うん⋮⋮下手すればとっ捕まるから﹂
﹁ですよねえ⋮⋮﹂
かくて、今晩予定されていた小玉の歓送会は、満場一致で中止と
相成ったのだった。
49
最後の最後でこれかいと、小玉は幸先の悪さに、ちょっと遠い目
をした。
翌日、小玉は阿蓮と簡単に別れの言葉を交わすと、送ってくれる
者の後について、荷物を担いでえっちらおっちらと異動先へと旅立
った。
旅立ったといっても同じ敷地内なのだが、ここは皇帝の住む宮城
である。﹁同じ敷地内﹂という表現がなにかの冗談に思えるくらい
広い。敷地内移動ですら﹁旅立つ﹂という表現が似合う、珍しい場
所である。
なお、﹁ここから○○歩先便所﹂などという親切な標識はもちろ
んない。小玉をわざわざ送ってくれる人がいるのも、別に小玉に限
った話ではなく、異動する者全員にとられる措置である。迷って当
たり前なのだから。
やがて、異動先の衛が管轄する場所に入ると、小玉を連れてきた
相手は手近にいる者を捕まえて、小玉を引き渡した。
﹁あとは、こっちの方で連れて行くから﹂
﹁じゃあ、私はこれで⋮⋮﹂
﹁はい、どうもありがとうございました﹂
送ってくれた相手に、小玉は深々と頭を下げる。相手は﹁達者で﹂
と言うと、軽く手を振って立ち去っていった。小玉はその背を見送
りながら、これでまた見知らぬ人間に囲まれる生活が再び始まるの
だと思った。そんな小玉に声がかけられる。
﹁来な。宿舎まで行くぞ﹂
﹁はい﹂
小玉は、言い出すなりさっさと歩き始めた男の背中を追い掛けた。
相手の歩幅が大きいので、自然小走りとなる。ずり落ちる荷物をよ
いしょと背負いなおすと、振り返った男が﹁持ってやる。よこせ﹂
と言って、小玉の荷物を片手で持った。
﹁荷物少ないなぁ、お前﹂
50
﹁あまり、物持ちじゃないんで﹂
元々実家から持ってきたものは少ないし、衣食住は官給品でほと
んどこと足りる。そのため、小玉が、この1年で買ったものは極め
て少ないかった。せいぜい、私服1着とたまに食べる干し芋とか木
の実くらいである。それ以上のものを買うだけの給与は貰っていた
が、将来のことを考えると消費より蓄財に傾くのは当然のこととい
えた。
男はさらに尋ねてきた。
﹁お前、何でここに来たんだ?﹂
それはむしろ小玉の方が熱烈に知りたい。
﹁わかんないんです。ここでどんな仕事するのかも、全然﹂
なるようになるとは思っていても、やはり多少は不安に成る時も
ある。へにゃ、と眉を下げると、相手はそれ以上追求せずに、
﹁ほら、これやる﹂
なぜかアメをくれた。いつも持ち歩いているのだろうか、この人
は。それより、このアメやたらと大きくて、拳骨くらいあるのだが。
小玉は後で砕いて食べようと、アメを大事に懐にしまい込んだ。
そうこうしていると、やがて平屋の建物が見えてきた。あれかな、
と思いながら前を行く男の背を追い掛けていると、
﹁ほらよ、ここだ﹂
案の定、建物の前で立ち止まった男がそう言い、荷物を手渡した。
﹁ありがとうございました! アメも大事に食べます﹂
宿舎に入り、中にいる人に声をかけて事情を説明する。しばらく
待つと、年配の女性がやってきた。宿舎の管理をしている人なのだ
ろうか。
小玉が来ることはきちんと伝わっていたらしく、怪訝そうな顔を
されることもなく中に通された。もう少しで自分の部屋に入れる。
そうしたら一休みして荷ほどきをしようと思ったのだが、
﹁あなたが来たら、すぐ来るようにと沈中郎将閣下が﹂
﹁へ!?﹂
51
荷ほどきどころか、一休みさえする暇はなかった。慌ただしく荷
物を部屋に放り込むと、小玉は部屋まで案内してくれたおばちゃん
に、沈中郎将の元まで連れて行ってもらった。なんだか今日、誰か
の尻を追い掛けることしかしていないような気がする。
﹁久しいな﹂
沈中郎将は相変わらず性別不詳の端整な顔をしてらっしゃった。
相変わらずといっても、以前会って3ヶ月も経っていないので、変
わっていなくて当然なのだが。
﹁はあ、どうもお久しぶりでございます﹂
小玉がぺこりと頭を下げると、沈中郎将は急く口ぶりで言った。
﹁大家がお隠れになったため、忙しい。本題に入る﹂
﹁⋮⋮はい﹂
そういえばそうだったと、小玉は皇帝の崩御を思い出した。不敬
極まりないが、今日は引っ越しに神経を尖らせていたせいで、その
ことをすっかり忘れていた。言い方を変えれば、忘れられるくらい
小玉を取り巻く環境に緊張感がなかったと言える。アメくれた人も
いるし。
結局、兵卒にとっては皇帝の死はあまり大きな衝撃ではないのだ。
長い歴史の中ではその死にあたって﹁泣かぬものなし﹂と言われる
皇帝もいるのだから、皇帝全般の死がそうであるとは言い難い。だ
が、﹁ことごとく躍り上がって喜ぶ﹂と言われた皇帝よりはマシで
あるのも事実だ。
﹁お前には、これから私の従卒をつとめてもらう﹂
﹁はい﹂
やっぱりそれだったのかと、小玉は内心安堵した。自分にできそ
うな仕事はそれくらいだから、多分そうなるのではないかと思って
いたのである。しかし、わざわざ自分を異動させてまでその仕事に
52
従事させる理由が見つからなかったのも事実だ。もしかしたら、ま
ったく違うとんでもない仕事をさせられるのではないかと思ったり
ぎょうせい
もしたのだが⋮⋮そうならなくて、よかったよかった。
﹁あとのことは、この者に聞いてくれ。暁生、任せる﹂
沈中郎将はその隣に立つ男を示した。それで話は終わりだった。
本当に忙しいんだなあと思いながら、暁生と呼ばれた男に促され、
小玉は部屋を退出しようとした。
﹁ああ、ちょっと待て﹂
呼び止められ、小玉は振り返った。沈中郎将は真顔で尋ねてきた。
﹁その後、実家から手紙は来たか?﹂
﹁はっ⋮⋮﹂
あまりに不意打ちな問いに、小玉は大きく口を開けた。
﹁お前の兄の子は⋮⋮まださすがに生まれてはいないか。経過はど
うだ?﹂
﹁あ、はい、順調そうです﹂
義姉の腹の子は、そろそろ6ヶ月になっているはずである。
﹁そうか、それは良かったな﹂
と言うと、微笑んだ。そこまでは良かった。
﹁次に手紙が来たら持ってきなさい。読んでやろう﹂
﹁いや、もう⋮⋮どうか忘れてください、あの、もう!﹂
小玉はちょっと泣きそうになりながら叫んだ。なにかのイジメな
んだろうか、これは。
だが小玉は、数ヶ月後には﹁本人が良いって言ってるんだから、
いっか﹂と驚異的な適応力を発揮して、堂々と手紙を読んでもらっ
ている自分がいることを知らない。
53
7︵後書き︶
次から異動先での話。
54
8
﹁ええっと、今日は⋮⋮﹂
小玉は今日やらなくてはならないことを、口の中でぶつぶつと呟
いた。あれと、これと、それと⋮⋮やらなくてはならないことは、
合計で七つだ。
﹁七つね﹂
頭に刻むために、はっきりと口に出して言った。
小玉の1日はとてつもなく忙しい。去年軍に入ったばかりの時も、
毎日やることが多くて目が回るようだった。1年目が終わる頃には
大分慣れたつもりだったのだが、異動したとたんにまた忙しくなっ
た。それは環境が変わったからというだけの問題ではなく、去年よ
り明らかにやることが増えているからだ。
しかし、人間というのはどんな環境にも適応する生き物なのだか
ら、生きていればそのうち慣れていくのではないかと、小玉は楽観
している。
異動先での小玉の仕事は、沈中郎将の従卒であるが、これまでも
柳隊正相手に似たようなことをしていたので、ある程度要領は掴め
ている。相手が自分で出来ることは自分でする人間であるため、仕
える相手の地位が高くなったからといって仕事量が増えたという訳
ではない。あくまで、この件については。
べん
すい
やることが増えたのは、武術の稽古である。これまでは一般的な
武器のみの稽古だったが、今は鞭だの錘だの、これまで名前も聞い
たことがなかったのも含めて、武器全般を一通り学ばされている。
体を動かすことは嫌いではないが、ここまでして将来何の役に立つ
のかという疑問はある。というか、役に立たせる以前に、重くて持
つのも難しい武器もあるんですが、どうせよとおっしゃる。
55
まあ、芸は身を助けるというし、誰かに襲われた時は本当に助け
になるだろう。それ以外役に立ちそうもないが⋮⋮あ、武器商にな
るか、嫁入りするかすれば、役に立つのかな⋮⋮? あと、鍛冶屋
とか。
小玉が思い付くのは、せいぜいそのくらいだ。
そもそも自分のように徴用されたばかりの兵って、数年間は雑用
と使いっ走りで終始される方が普通なのではないだろうかと小玉は
思う。率直にいえば、彼女としてはそちらの方が嬉しかった。稽古
における人間関係があまり良くないので、余計にそう思うのだ。
小玉は、基本的には職場での人間関係には困っていなかった。異
動前は言うに及ばず、今いるところも上司には恵まれていると思う。
直接仕えている沈中郎将は、最初会ったときは少し怖いと思ってい
たが、側近くにいると下の者にも気配りをする人だということがわ
かる。その周囲も同様だ。怒られることもあるが、それについては
自分の方の問題だ。
生活する場も大体同じ。女性が少ないために士卒入り交じった寮
は結構気を使うが、小玉くらいの年頃の者がいないせいか、かなり
可愛がってもらっているのも事実だ。みんなアメをくれる⋮⋮とい
うか、なんでみんなくれるのはアメなんだろう。
閑話休題。
そんな生活の中、武術の稽古を共にしている相手たちとの関係だ
けは少しぎくしゃくしていた。
武術の稽古は、小玉だけ特に受けるというものではない。小玉の
ように、従卒をしている若年の者が15人ほど集められているのだ
56
が、その中で性別が女性なのは小玉だけである。それまで女ばかり
の職場で気楽に過ごしていただけに、とてもやりにくい。多分向こ
うもそうなのだろう。
それに加えて、嫉妬を向ける、あるいは、なんでこんな身分の奴
がと思う者がいるようだった。小玉は全然わかっていなかったが、
今回の異動はどうやら異例の栄達ということになっているらしい。
小玉の稽古仲間たちは、小玉と同じ従卒だが、小玉よりちょっと家
柄がいいか、小玉よりちょっと長く軍に身を置いている者ばかりだ
ったのである。
とはいっても、別に苛められているわけではない。中には相性の
悪い者がいるが、好意的に接してくる者もいるというくらいだ。現
時点では特に実害はない。生きている限り悩みが尽きるということ
はないのだし、悩みがこれ以上のものでなくて良かったではないか
と、小玉はなるべく割り切ろうとしていた。
思春期って難しいと、自分自身のことを含めてそう思う昨今であ
る。
⋮⋮などと考えながら仕事をしていると、地味に焦る事態発生。
﹁ええっと、今日やったのは、あれ、これ、それ⋮⋮あれ、六つ?﹂
やるべきことの最後の一つが、どうしても思い出せないんですが、
こういう場合どうすればいいんでしょうか。
こういう時、読み書きが身に付いてたら、覚え書きとか出来るの
になあと思ったりする。だが、最近になってようやく自分の名前を
書けるようになった程度なのだから、そこまで到達するのは無理だ
ろう。
⋮⋮いや、それより、忘れた用事って本当に何だっけ!?
考えこみながら、小玉は足早に進む。前方にあまり注意を払って
いないが、向かいからやってくる人間に軽く会釈した後、ぶつから
57
ないよう半ば無意識に体をよける。そのまますれ違おうとすると、
相手が声をかけてきた。
﹁ああ、待て﹂
﹁え、はい﹂
顔を上げ、相手の顔を確認すると、すぐ小玉は礼儀に則って目を
伏せた。髪に白い物が交じった壮年の男性だ。見知らぬ相手だが、
おそらくはかなり地位が高い武官であるはずだ。
﹁何のご用でしょうか﹂
﹁沈中郎将はどこにいるかな?﹂
仕えている人の名を出され、小玉は少し考えて、心当たりを述べ
る。
﹁この時間なら多分⋮⋮﹂
﹁わかった﹂
これで用は済んだだろうと思うのだが、相手の許しが無い限り、
立ち去ることができない。だが、﹁もう良い﹂という言葉は発せら
れず、小玉は恐る恐る目を上げた。目がバッチリ合う。相手は小玉
の顔を覗き込んでいた。
小玉はひゃっと驚いて、再び目を伏せる。
﹁ああ、すまない。もしかして、君は沈中郎将のところに新しく来
た子かい﹂
﹁は、はい⋮⋮!﹂
小玉はこくこくと頷く。
﹁呼び止めて悪かった。もう行って良いよ﹂
﹁はい!﹂
小玉は一礼して、その場を立ち去った。あー、なんかびっくりし
た。
そのまま数十歩ほど歩いて、はたと歩を止める。
﹁あ、そうだゴミ捨て⋮⋮﹂
忘れていた用事をようやく思い出したが、頭を悩ませた時間がも
58
ったいないくらいささやかなものだった。
従卒というのは、主の側近くに控えて雑用をこなすのが仕事であ
る。つまり、雑用をこなした後は、ただただ待ちの姿勢でいなけれ
ばならない。小玉にとっては、これが結構苦痛な時間である。
今日も墨を擦り、茶を出すなど細々したことを済ませると、あっ
という間に暇になった。しかし、この暇な時間を、たらたらと待っ
ていてはいけない。﹁いかにも真面目に待機しています﹂という風
に見せるのが、従卒の腕の見せ所である。
顔はきりっと引き締める。耳と目は主の言動に集中させる。そう
すれば、頭は多少お留守にしていいのだが、考えることがそうある
わけでもない。だから基本的に、小玉は沈中郎将の横顔をぼーっと
眺めることが多い。あくまで、ぼーっとしているようには見えない
ように。
小玉が仕えている沈中郎将は、もうかなり見慣れているが、これ
まで会ったことのある人間の中では文句なしに1番美しい人だ。後
宮におわすお上のお妃さま方も、このように美しいのだろうかと思
うが、この人の場合、男性的でもあり、女性的でもある美しさだか
ら、多分ちょっと違うのではと思うことがある。比べたことはない
が。
宦官は、実年齢よりも早く老けていくため、皺だらけの者が多い。
だが、ごく若い頃は、特に端整な容姿を持つ者については、一種独
特な美しさを誇る。沈中郎将は典型的ともいえるほど、この類に属
していた。
小玉は、後宮の警備をしていたが、それは外部のことであって、
中のことは覗きすらしていない。時々、塀の近くを歩く者たちの笑
59
いさざめく声を聞くくらいで、妃嬪を見たことは1度もなかった⋮
⋮いや。
そういえば、一度だけ妃嬪を見たことがある。後宮から逃げ出そ
うとし、小玉が斬り殺した女。だが、闇の中に浮かび上がる肌の白
さと、瞳に宿した憎悪の色しか覚えていない。だがその僅かな記憶
の鮮やかさ。一生忘れることができないのではないかと思う。
小玉は、脳裏に蘇った記憶をもとあった場所にしまった。そして、
沈中郎将に意識を戻し、ふと考えた。この人は職業柄、何人もの人
間を殺しているはずだ。しかし、そのような人でも、初めて人を斬
った時は何かを思ったのだろうか。それを今でも覚えているのだろ
うか。
何かを書きつけている横顔は、﹃綺麗﹄という言葉が似合うが、
生きている人間という感じが少ない。まるで川底に転がる、磨きぬ
かれた石ころのようだ⋮⋮と、小玉は失礼なことを思い、いや、石
ころなんかよりはずっと綺麗ですよと、口にしてもいないことに対
して弁解した。もし自分が、宝石など話でしか聞いたことのない美
しいものを見たことがあるのならば、多分それに喩えていただろう。
﹁小玉﹂
名を呼ばれ、はっと我に返ると、書き付けをしていたはずの沈中
郎将が、こちらを向いて湯飲みを差し出していた。中身は空。
﹁はい、ただいま!﹂
手を伸ばして受け取ると、小玉はお茶のお代わりを煎れ始めた。
その間、沈中郎将は仕事を再開せず、小玉を考え深げに眺めていた。
﹁何を考えていた?﹂
小玉が差し出す茶を受け取りながら、沈中郎将が尋ねてきた。
﹁え、何の⋮⋮いつのことでしょうか?﹂
﹁茶を煎れる前。心ここにあらずという風であったが﹂
﹁⋮⋮﹂
繰り返すが、﹁いかにも真面目に待機しています﹂という風に見
せるのが、従卒の腕の見せ所である。小玉、かなり駄目である。
60
﹁考えて、いたこと⋮⋮﹂
茶を煎れる直前に考えていたことは、絶対に口に出せんと小玉は
思った。石ころ云々はちょっと。
それに、聞いてみたいと思うこともあったから、石ころ云々の前
に考えていたことを口にした。
﹁閣下は、初めて人を殺した時、何か考えたことはあるのかと思い
ました﹂
沈中郎将は、小玉の顔を見て眉を微かに動かすと、何も言わず茶
杯を机案の上においた。コトッという音が、やけに耳に残る。彼は
机案にひじをつき、手の甲にあごをのせると考え込む風情で目を伏
せた。
小玉は、やはり言うべきことを間違えたのだろうかと、どこか落
ち着かない気持ちで沈中郎将を見つめた。しかし、相手が何も言わ
ない以上、謝罪するのもはばかられる。
しばらく無音の時が部屋を支配し、やがて沈中郎将が口を開いた。
﹁何も思わなかった。不思議なくらい﹂
﹁は⋮⋮あ、そうですか﹂
それはあまりに唐突なことだったので、一瞬何のことかと思った
が、すぐにそれが、小玉が抱いていた疑問の答えなのだとわかった。
だが、わかったところでその後の反応に困る回答である。﹁何も思
わなかった﹂とは。
しかし、小玉が次の言葉を選ぶより先に、沈中郎将は言葉を続け
た。
﹁その事に恐怖した﹂
小玉は口をつぐみ、沈中郎将の顔をまじまじと見つめた。彼はど
こか遠い目をして、ここではないどこかを見つめているようだった。
見つめているのは自身の過去なのだろうか。
﹁それは、私生来の気質によるものだったのかもしれない。だが、
環境さえ整えば、初めての殺人にさえ何も思わない子供が出来上が
るのだということに、私は恐怖した。だから、私は⋮⋮﹂
61
不意に言葉を切ると、沈中郎将はかぶりを振った。
﹁少し話しすぎたようだ。今日はもう下がっていい﹂
﹁はい、わかりました﹂
何と言えばいいのかわからなかった。ならば、何も言うべきでは
ないのだろう。だが、聞くのではなかったとは思わなかった。小玉
はただ諾々と沈中郎将の命に従って、部屋を出た。
そして立ち去ろうとして、小玉は不意に振り返った。その顔に浮
かぶのは驚愕。だがそれは誰かに声をかけられたなどの外部からの
刺激による者ではなかった。むしろ内部からの刺激。自分の心の動
きが信じられず、小玉は呆然とした。
どうしよう。あたし、あの方が好きだ。
まるで逃げるように自室に戻った。あの場で退室を命じてくれた
沈中郎将に感謝である。もし、一緒にいる時に自覚していたら、ど
んな醜態をさらしたか想像すらしたくなかった。
沈中郎将に恋をした。
その感情はいきなり芽生えたものではなく、元からあったものだ
った。ただそれに、ついさっき気づいたのだった。
だが気づいた小玉は、恋する少女としてときめいたり心を弾ませ
たりすることはなかった。ただただ混乱していた。そもそも、何故
自分が沈中郎将に恋をしたのか、それがわからない。小玉にとって、
沈中郎将は決してその対象にならない存在であるはずだった。
女性は子を産んで当然という環境に育った小玉にとって、恋愛と
は結婚に結びつくものであり、結婚とは出産に結びつくものであっ
た。自分が独身で生きるということは考えたとしても、出産・結婚
に結びつかない恋愛をするなど想像もしていなかった。だから宦官
である沈中郎将ははなから恋愛の対象外だった。どれくらい対象外
62
なのかというと、元上司の柳隊正︵注:同性︶と同じくらい対象外
なのだ。
そんな相手に恋愛感情を抱いてしまった。
小玉は自分の心のありようがまるでわからなかった。だからこそ、
自分の感情に気づくのが遅れたともいえる。
だが、思い返せば、自分が彼に好意を持っていたという心当たり
はある。
沈中郎将は時々、思い出したように尋ねてきた。
﹁もう慣れたか?﹂
小玉はちょっと笑って答えた。
﹁はい、仕事には﹂
そんな何でもないやりとりですら無性に楽しかったという時点で、
自分の気持ちに気づいても良さそうなものだった。
恋をしたことについて、﹁これからどうしよう﹂ではなく﹁なぜ
そうなったのか﹂の方が気になって仕方がない。多分今夜は眠れな
い。
63
8︵後書き︶
すみません。小玉さんの初恋は、未来のダンナじゃないです。
でも、そういうもんだと思います。
64
9
睡眠時間を削ってまで悩んだ小玉は、夜が白む頃になって結論を
出した。
悩んだってなんだって、自分が沈中郎将に恋をしている事実は変
わらない。ならば事実を受け入れる以外、できることは何もないの
だ。
小玉はこと悩み事に関しては、短期集中・決戦型を以て鳴らした
女である。しかし、得た結論がそれだけというあたりで、一晩とい
う時間を長いと感じるか短いと感じるかは人によるだろう。
事実を受け入れたからといって、小玉は別に沈中郎将に猛攻をか
けようという気にはならなかった。かけたところで、相手が応えて
くれる望みなどカケラもないからだ。それは相手が宦官だからとい
うこと以前の問題で、あそこまで申し分のない人間が小玉に恋をす
る可能性など、万に一つもないように思えたからだ。自分を卑下す
る以前の問題だ。
沈中郎将に恋をしているという事実を割とすんなり受け入れられ
たのは、このことが大きい。未来がない恋なので、未来を思い悩む
必要がないからだ。
あの方の側にいれる限り想っていこう。小玉の心中はきれいにま
とまっていた。
が、体はそれについていかなかった。
睡眠時間って、すごく大切だよねーと思うのはこういう時である。
ぜいじゃく
小玉は貧しい村の出で、自身も貴重な労働力として日々働いてい
た。だから脆弱とはとてもいえないし、多少睡眠時間が足りないく
らいで仕事に差し障りがでるほどひ弱ではない。しかし、己の力を
65
出し尽くして鍛錬に励むとなれば話は別である。
稽古の合間の小休止。小玉は己の愚かさを呪いながら、空を見上
げた。目を刺す日差しが憎い。
⋮⋮太陽にしてみればとんだ八つ当たりであるが。
そこまで体力的に限界なのにもかかわらず、小玉は立ったままだ
った。なぜなら、座り込んだらそのまま燃え尽きてしまいそうだっ
たからだ。
あたし、恋する乙女のはずなのに、なんでこんなに荒んでいるん
だろうと小玉は思った。恋愛がこういう形で心の余裕を失わせると
は知らなかった。
ぼーっとしていると、稽古仲間の陳叔安が色々と心配してきた。
うんまあ言われてみれば確かに迷惑だし⋮⋮ということで、今日は
帰らせてもらうことにした。何かしら罰則をくらうかと思ったが、
陳叔安が色々と口添えしてくれたおかげで︵注:小玉主観︶、わざ
わざ付き添いまでつけてもらえた。途中退場の理由が限りなく私事
ぎ こう
によるものなので、なんだか心苦しい。
付き添ってくれる少年の名は魏光という。小玉が異動してきた直
後から何くれと世話をやいてくる、誰に対しても人当たりの良い少
せんせい
年だ。その彼が吐き捨てるように言った。
﹁あいつ、本当に性根が悪い﹂
﹁誰?﹂
﹁誰って⋮⋮叔安だよ﹂
﹁そう?﹂
魏光はまじまじと小玉を見た。
﹁君、心広いな。あいつ、さっきも老師にあんなこと言って﹂
﹁そうでもないよ﹂
ああいう人は見慣れてたからとは言わなかった。
陳叔安は母に対する父方の祖母の態度そっくりなのだ。今は亡き
祖母は、近隣の誰よりも嫁いびりしてているようでいて、全然いび
ってない姑だった。善意が逆に見える不器用な人だったわーと母は
66
よく言っていた。
もちろん小玉は、陳叔安の言動が全部善意によるものだとは思わ
ない。祖母と母との関係とは違い、自分は明らかに叔安に嫌われて
いるからだ。だが彼は、理不尽なことはできない人だということは
なんとなくわかる。
根拠があまりない上に、うまく説明できないのが辛いところだっ
た。
翌日。沈中郎将に伺候していると、厳しい顔つきで言われた。
﹁体を壊したと﹂
﹁あ、はい。でも大した事じゃないです﹂
寝不足由来の体調不良なので、睡眠さえ取れば回復する。昨日は
部屋に戻った後ぐっすり眠ったため、小玉はあっさりと本復してい
た。
見た目からして小玉は不調には見えないだろうに、沈中郎将は念
を押す。
﹁本当か﹂
﹁はい﹂
﹁そうか⋮⋮ならばいい﹂
え、もしかして心配してくださってる?というときめきは、
﹁だが不注意極まる。体調は常に最高の状態を維持しろ﹂
厳しいがあまりにももっともなお言葉であっさりと消えた。すみ
ません。自分、浮ついていましたと、小玉は猛省する。
﹁反省してます﹂
﹁職務上の義務だ。いざ戦うとなった時に、体調不良で戦えません
では話にならん﹂
小玉は、﹁はい﹂としか言えない。
沈中郎将はここで少し言葉を途切れさせると、感情を含まない声
で言った。
﹁⋮⋮近々、戦がある﹂
67
てんほう
天鳳元年。
そう
この年が歴史的にどのような意味を持つのかといえば、後に天鳳
帝と呼ばれる第49代皇帝・滄が即位したことが挙げられる。それ
に何かを加えるとしたら、この皇帝が行った度重なる派兵の第1回
が為されたことくらいだろう。あまり重要な年ではない。
もっとも、この天鳳帝の在世中、歴史的に重要なことが起きた年
はほとんどない。したがって彼は、後世多くの人間に、﹁へー、そ
んな皇帝いるんだ﹂と言われる。
とはいっても、天鳳帝前後の皇帝は大体皆、同じようなことを言
われるのばかりが揃っている。例外は天鳳帝の2代後の徳昌帝くら
ごじん
いなのだが、彼自身、皇后の方が⋮⋮いや、皇后﹁が﹂有名という
御仁である。基本的に影が薄い皇帝が揃った時代だった。
そんな天鳳帝は、影が薄くはあるが、良い皇帝か悪い皇帝かを問
えば、間違いなく悪い皇帝という答えが得られる人物である。
天鳳帝を簡単に説明するならば、﹁実力を伴わない野心家﹂であ
る。
毒にも薬にもならなかった先帝を父に持つ彼は、そんな父親に反
発し、意欲的に国政に取り組んだ。それ自体は真に結構なことであ
る。また、天鳳帝は決して無能な人間ではなかった。
無益極まりない派兵を繰り返してなお、歴史に悪い意味で名を留
めなかった彼は、内政に関してはそこそこの手腕を振るった。能力
がないわけではなかったのだ、本当に。
問題は天鳳帝が見る目を持っていなかったことである。物事の大
局を見る目、時機を見計らう目、自分の才能を正確に見定める目⋮
⋮彼は持てる才能を叩きつぶしてあまりあるほど、これらのものを
持ち合わせていなかった。そしてそれをまるで自覚していなかった。
68
こう
かん
天鳳帝の時代、この宸帝国は二つの国と接していた。﹁寛﹂と﹁
康﹂である。天鳳帝は即位直後から、自国がまだ大して落ち着いて
いないというのに、他国の領土に色気を示した。そして、腹に一物
ある者も巧みにそれをあおった。
かくて、先帝の死からまだ半年も経っていないというのに、派兵
が決定されたのである。むろん、この派兵は歴史的に重要な意味を
持つ結果には終わらなかった。
だが、行かされる当事者にとっては、とんでもない大事である。
小玉はおずおずと尋ねた。
﹁中郎将さまは、行かれるん、ですよね?﹂
﹁ああ﹂
予想通りの返答に、小玉はこくりと唾を飲んだ。
﹁というと、当然あたしも⋮⋮﹂
﹁むろんだ﹂
光あるところに必ず影あるように⋮⋮というほどではもちろんな
いが、従卒は仕える主に付き従うのが常識である。
﹁覚悟をしておけ。遺書を残しておきたいのならば代筆してやる﹂
小玉は身震いした。沈中郎将の親切と断言するにはちょっと内容
に問題がある提案を、受けるかどうか検討する余裕はなかった。
率直に言おう、怖い。もしかしたらいつかはと、思っていた。だ
がいざ行くとなると、やはり怖い。もしかしたら死ぬかもしれない
ということ。そして、人を殺すかもしれないということ。
初めて人を斬った感触が生々しく手に蘇り、ぎゅっと握りしめた。
自分はまたあれを経験するのか。
ぞわりと背中になにかが走る。心もとなさに目が泳ぎ⋮⋮自分を
見る沈中郎将に気が付いた。見通すような眼差しだった。
すっと頭が冷えた。そう、もう行くことが決まっているのだ。う
ろたえてどうする。ならばすべきことは⋮⋮。
69
﹁お願いします﹂
小玉はきゅっと唇を噛みしめると、深々と頭を下げた。身辺整理
の一貫として、確かに遺書は外せまい。
﹁今、書くか?﹂
﹁はい﹂
﹁何と書く?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
遺書の文面を練りながら、ふと、小玉は気づいた。戦に対する怖
れを感じても、﹁拒む﹂という選択をまるで思い付かなかった自分
に。思い付いて拒んだところで行かずにすむ訳はないのだが。
自分はもう戻れないところに来ているのではないか、この時小玉
は初めてそう思った。
戻れないとしたら、自分はどこへ行くのだろうか。
70
幕間∼名も伝わらない少年の独白∼
今日の彼女は、明らかに精彩を欠いている。少年が時折視線をや
る先には剣を持った少女。彼の仲間の一人である彼女の名は関小玉
という。
少年が彼女と出会ったのは、つい数ヶ月前である。沈中郎将の従
卒として彼女を紹介されたとき、率直にいって羨ましかった。沈中
郎将はやたら人望がある上に、地位も高い人なのに、なぜかこれま
で従卒を持とうとしなかったために、多くの者がその座を目指して
いた。少年も例外ではない。それをぽっと出のよそ者に奪われたの
だから、あまりいい感情を抱けなくて当然といえる。
だが、少年も所詮年頃の﹁オトコノコ﹂であった。ずっと同性に
囲まれて、近い年の異性とは会話をすることさえなかったのだから、
そこに一人現れた少女が気になるのは仕方がない。たとえそれが、
娘とは思えないほど短い髪をした、大して可愛くもない女の子であ
ってもだ。
そんな気になるあの子は、性別以外でも結構気になる人間だった。
まず、やたら武術の上達が早いという点で。次に、性格で。
ちんしゅくあん
ここに陳叔安という人物が登場する。最も年嵩だということがあ
ってか、彼は稽古仲間の中で最も腕の立つ奴だった。
大体予想がつくと思うが、小玉は初めての手合わせの時、そんな
陳叔安に快勝してしまったのである。
陳叔安は年下の少女相手ということで、多少油断していたのであ
ろう。また、小玉は年上の少年相手ということで、全力でかかって
いったのかもしれない。しかし、それを考慮したとしても見事な負
けっぷりであり、また勝ちっぷりであった。
陳叔安は常日頃から己の腕と年齢を頼みにして偉そうだったが、
71
小玉はその鼻っ柱を折ってしまったのだ。それはもう根本から見事
にバッキリと。以来、陳叔安は小玉への隔意を隠そうとしなくなっ
た。
最初は傍観していた少年だったが、それが続くとさすがに関小玉
が心配になる。ある日会話をかわしてみると、
﹁や⋮⋮そりゃ、気になりはするけどさ、特に困ってはいないよ﹂
特に堪えていなかった。
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
あそこまであからさまに嫌われているというのに。
﹁本当だって﹂
関小玉にしてみれば、陳叔安は小玉を嫌っているが、嫌がらせを
しようとはしないし、仕事の上でも先輩として、聞けば教えてくれ
るらしい。一々嫌みったらしいが。
それ以前に、そこまで嫌われてる相手に仕事のこと聞くなんて蛮
行、普通はやらないものである。
﹁いやだって、近くに奴しかいなかったから⋮⋮﹂
﹁にしたって⋮⋮﹂
だから小玉は、陳叔安のことはあまり好きではないが、それなり
の敬意を彼に持っている。
﹁やー、偉そうにしてるだけのことはあるよね!﹂
なんかその感心の仕方、間違ってると少年は思った。
﹁でもさ、今のところあたしから働きかけても、多分関係改善しな
いよ?﹂
関小玉にしてみれば、男の面目を潰してしまったかなという気は
するが、意図してやった訳ではないし、全力を尽くして勝った以上、
自分に悪いところはない。だから謝ったことはないし、多分謝れば
事態がもっと悪くなるだろうと思っているのだという。一応きちん
と考えてはいるのだなと少年は思い、以降陳叔安とのことについて
は触れないことにした。
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この時の会話がきっかけで、少年は関小玉と徐々にうち解けてい
った。陳叔安は少年が関小玉に近づいていっても手前勝手にそれを
止めようとはせず、なるほど案外に公正なんだなと少年は感心した。
関小玉に言われなかったら、ただの偉そうな奴としか思わなかった
だろう。
そして少年は関小玉と親しくなり、その人柄に触れれば触れるほ
ど惹かれていった⋮⋮ということは全然無い。触れた人柄が嫋々︵
じょうじょう︶とか繊細とかだったりするならばそういうこともあ
ったろうが、関小玉を一言で表現すると﹃飄々︵ひょうひょう︶﹄
である。こいつ女としてこれでいいのかという気持ちが強くなって
いくばかりであった。
少年より先に関小玉と親しくなった者たちの中には、一部、
﹁女だと思うからいけないんだよ﹂
﹁ていうかお前、まだあいつのこと女だと思っているのか﹂
とぬかす者もいたが、大半の者は苦笑いで同意した。そんな風に
つかみ所がない人間のはずだったのだが⋮⋮。
今の関小玉の状態は、とてつもなく掴みやすい。超調子悪い。
関小玉は溌剌という感じの人間ではないが、消沈という言葉とも
縁がなさそうな少女である。決して落ち込んだり反省しない訳では
ないが、根っこの部分まで痛めつけられることはないだろうと、安
心して見ていられるところがあった。しかし、今の彼女は見ていて
安心できるところが少しもない。とてつもなく心配である。
短い付き合いとはいえ、こんな彼女を見るのは初めてだった。と
ても心配だった。後で声をかけよう。そうちらちらと彼女の方に目
をやる。すると、陳叔安が彼女にズカズカと歩み寄っていた。
﹁腹具合が悪いんだか何だか知らねえが、調子悪いなら帰れ! 迷
惑なんだよ!﹂
お前、それは無いだろう!
さすがに呆れた少年だったが、言われた当の本人は、
73
﹁うん⋮⋮心配してくれてありがと﹂
︵そこでお礼言っちゃうの!?︶
︵無敵に前向き!︶
︵それ超皮肉じゃない!?︶
︵だから嫌われるんだよお前!︶
などという心の声が、周囲から聞こえてくるのを少年は感じた。
いや、自分も全く同じことを思ったもんで。
当然、陳叔安は怒った。
﹁はぁ!? 心配なんてしてねえし! 馬鹿にすんじゃねえよ!﹂
そう言って立ち去って行ったが、そもそも調子悪そうな関小玉を
放っておかないあたり⋮⋮。
誰かがぼそりと呟く。
﹁あいつって、絶対天邪鬼だよな⋮⋮﹂
声には出さなかったが、少年は心の中で激しく賛同していた。
⋮⋮まるで走馬燈のように過去の記憶が頭をよぎる。視界はまる
で振り回されているかのように目まぐるしく変わる。目に空が一杯
に写し出された時、少年は自分の首が宙に舞っているのだというこ
とを理解した。
﹁ように﹂ではなく、本当に走馬燈だったらしい。
一瞬、関小玉の姿が見えた気がした。目をこらそうとした瞬間、
視界が激しく揺さぶられた。
自分の首が地面に落ちたのだと認識することもなく、少年の意識
は闇に覆われた。
74
10
﹁うわっ﹂
﹁え?﹂
かがんだ状態から立ち上がろうとすると、背後から焦った声が聞
こえた。慌ててその体勢のまま振り向くと、その拍子に背負ってい
た剣で相手の足を見事に払ってしまった。
﹁いっ⋮⋮づ!﹂
﹁わー、ごめん!﹂
さすがに転びはしなかったものの、痛かったらしい。腿のあたり
をさする相手は、小玉の同輩の従卒仲間だった。
﹁⋮⋮というか、最初の﹁うわっ﹂って何があったの﹂
﹁お前な⋮⋮﹂
たまたま小玉の背後を通ろうとしたとき、立ち上がりかけた彼女
の剣が突き出され、思わず声を上げてしまったのだという。
﹁あー、それもごめん。本当にごめん﹂
﹁いや、わざとじゃねえからいいんだけど、お前、これ邪魔だよ。
外せば?﹂
﹁だよなー﹂と、同意する声が右方から聞こえる。これ、という
のは小玉の背負う剣のことである。彼がそう言うのも無理はなかっ
は
たが、小玉は外す気はさらさらなかった。
﹁さすがに腰に佩いてる訳じゃないんだし、これくらいは﹂
だってここ、後方とはいっても戦場ですから。
派兵の決定から実行までの間はおどろくほどに短かった。遺書を
書いてもらってから1月も経たないうちに、小玉はせっせと国境へ
と行軍することになった。実家に出した手紙は、多分まだ届いてい
ない。
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そして戦端もあっさりと開かれたのだが、小玉はまだ誰も殺して
いないし、誰にも殺されそうにはなっていない。小玉を含む従卒仲
間たちは、高位の武官に付き従っているということもあってか、前
線に送り込まれることはない。戦闘中はもっぱら後方で待機するこ
とになっている。
もっとも、のんびり休む暇がある訳ではなく、ありとあらゆる雑
用にかり出されてはいる。そんな中、小玉は意外に重用されていた。
戦場では女手が不足する。女性の士卒も従軍してはいるのだが、
数は少ない。その中で後方の業務に専従している者は更に少ない。
したがって、手すきの男性が炊事、洗濯その他の作業を行うが、普
段やりなれていないことなので、効率はあまり良くないし、完成度
も低い。
それに対して、小玉はこれでも一応、嫁入り直前まで話が進んだ
娘である。一流とは言い難いが、一家の主婦としてやっていく上で
恥ずかしくないだけの技量は持ち合わせていた。
まさに、﹁大活躍﹂という言葉が相応しい。小玉は、身につけた
まま廃れていくのではと思っていた花嫁修業の成果を、思う存分発
揮していた。
まさか、ちょっとつくろい物をしてやっただけで、これほどまで
に喜ばれる日がくるとは思っていなかった。そしてお礼には何故か
また、アメ。
まあ、﹁女なんだからお前がやって当然﹂と、自分に割り振られ
た雑務を押しつけてこようとする輩がいるのにはむかっ腹が立つが、
そこらへんは何とかかわしているのでいい。たまに失敗するが。
さて、ちょこまか動くとなると、身軽にしておいた方がいいのは
当然のことである。そして、後方にて待機して数日。危険なことは
何も起こらない。
後方では徐々に気がゆるみ始めていた。
雑用に従事する者たちは、すでに武装を解いている者が多い。小
76
玉の従卒仲間も殆どそうである。殆どというか、未だに律儀に武装
しているのは、小玉と陳叔安の二人だけである。
﹁警戒しすぎじゃねえ?ここに敵が来るわけないだろ﹂
あきれ顔で言い放つ相手に、小玉は困り顔で言った。
﹁あたしにしてみると、敵が来ないと言い切るのも、ちょっと⋮⋮﹂
﹁でもお前、遺書といい、心配しすぎだと思うよ﹂
沈中郎将に遺書を書いてもらった。そう言うと、同輩達に笑われ
たのだ。これについては、陳叔安にも。
﹁初めての戦だからって、そんな気負わなくてもいいと思うんだけ
ど﹂
そういう彼らは、盗賊の討伐などには参加したことがあったのだ
が、全くの無傷で終わったのだという。だが、それと戦は違うので
はないかと小玉は思い、すぐさま自らの考えを一部訂正する。
いや、同じだ。たとえこれが盗賊の討伐だったとしても、戦だっ
たとしても、油断をしてはならないのではないかと思う。何が起こ
るかわからないのだから。
かつて小玉がいた場所は後宮の近辺だった。軍内で1、2を争う
ほど危険の少ない場所であったにも関わらず、小玉はそこで生命を
脅かされ、そして人を殺した。むろん、あんなことがそうそう起こ
るわけはないということは、わかっている。だが、起こらないとは
言い切れない。
まして、ここは後方とはいえ戦場だ。後宮の周辺などよりずっと、
死の可能性が高いに決まっている。それをどうして否定できるのだ
ろうか。敵の思考を読めない限り、油断すべきではない。そもそも
下っ端の小玉たちは、味方の作戦行動自体、全て把握しきっていな
い。
例えばの話である。
あくまで例えばだが、いまここで敵襲があったと仮定しよう。
そうなると、残っている人間だけではここは支え切れず、この部
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隊は瓦解するだろう。運良く逃げ出せたとするが、その後どうすれ
ば助かるだろうか。沈中郎将などが率いる前線部隊が襲撃された後
方部隊を見限り、移動してしまった場合、最悪自力で合流しなけれ
ばならない⋮⋮。
﹁お前、よくそこまで悲観できるな﹂
﹁⋮⋮否定はしないけどさ﹂
小玉にしたって、自信を持って武装している訳ではない。経験が
少ない上に、数少ない経験があまりにも特殊だったから、もしかし
たら従卒仲間の言うとおり、自分は考え過ぎなのではないかと思う
こともある。同時に、そう思うのは自分の願望のあらわれなのでは
ないかとも思うのだ。
揺らいでいるのなら、とりあえず武装はしとこう、安心だし。
それくらいの考えである。
それにもう一つ、武装を解かない理由がある。というか、最初の
理由を長々と説明していて悪いのだが、実はこっちの理由の方が強
い。
沈中郎将は派兵の前に、小玉にこう言った。
﹁いいか、小玉。戦の最中は、気が昂ぶるせいで不届きな輩が現れ
やすい。たとえお前でも襲われる可能性がある。決して一人になる
な。警戒も怠るな。武器は必ず身につけていろ﹂
小玉の両肩を掴んで、それはもう真剣に。小玉は﹁たとえお前で
も﹂という言葉に失礼さではなく、真実味を感じた。
好きな人の言葉だからという以前の問題だった。
先触れが戻ってきた。今日の戦闘が終わったのだという。がぜん
後方の者たちの動きが慌ただしくなる。小玉たちもまた例外ではな
い。戻って来るであろう⋮⋮もしかしたら来ないかもしれない上官
78
のために、色々と用意した上で所定の位置で待機しなくてはならな
いのだ。
﹁戻ってきた﹂
遠くから風にはためく旗が見え、その下にいる人影が徐々に浮か
び上がってくる。やがて、小玉は沈中郎将の姿を認めて、ほっと息
をついた。血に汚れてはいるものの、怪我はないように見えた。
号令が響き、軍勢は小玉の目と鼻の先で止まる。指揮官が全軍に
待機命令などの指示を出し始めた。命令が後方の兵にまで伝わった
ことを確認すると、騎乗していた者が馬から下りる。小玉たちは駆
けだして、自分の仕える上官の元へ行き、竹筒に入った水を差しだ
した。
沈中郎将はそれを一息に飲み干すと、何も言わずに容器を返し、
歩き始める。これから軍議があるのだ。小玉はそれを追わず、沈中
郎将の乗っていた馬を引き取った。気が昂ぶっているせいで動きが
荒いのを、なんとか引っ張って所定の位置へとつなぎ、水を与えて
から走る。沈中郎将が自らの天幕に入った時には、そこに待機して
いなくてはならない。
天幕にたどり着きしばし待つと、沈中郎将が入ってきた。再び飲
み水を渡し、飲み終わるのを待ってから水でぬらした手拭いを渡す
と、沈中郎将はまず顔を拭いた。手拭いを顔から離すと、隣に立つ
だけで突き刺さるような感じを与える気配がすこし緩む。沈中郎将
は続いて手を拭くと、身につけた甲冑を取り外し始める。小玉もそ
れを手伝う。血でぬめった甲冑は取り外しづらい。二人は無言で作
業を行った。
甲冑を取り外し終えると、小玉は桶にくんだ水を沈中郎将の前に
置き、新しい手拭いを渡す。そして、血で汚れた甲冑を持つと、天
幕の外へ出た。血が完全に乾く前に、手入れをしなければならない
のだ。
天幕に戻ると、沈中郎将は身から血を落とし、小玉が洗濯してお
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いた服に着替えていた。ざっと汚れを落とした甲冑を見て、軽く微
笑む。
﹁仕事が早いな﹂
﹁ありがとうございます!﹂
小玉はにかっと笑うと、沈中郎将が脱いだ服と、赤く染まった水
の入った桶を持って再び出て行った。これから食事の支度をしなけ
ればならないので、今すぐ洗濯をすることはできないが、汚れ物は
今の内に水につけておきたい。
沈中郎将の食事の給仕をすませた後も、小玉の仕事は終わらない。
食器を下げに行ったついでに、自分の食事をもらい、立って食べる。
この時、従卒仲間たちも一緒にいるが、特に会話などはしない。忙
しいし、相手もそうだということがわかっているので、ただひたす
らに口に物を運ぶ。
食べ終わると、今度は馬の世話をしなければならない。餌をやら
なければならないのはもちろん、乗っている主同様に血で汚れた体
を洗ってやるのだ。ここで必要なのは口ではなく手であるから、無
駄口をたたく者も出てくる。
この場にいるのは、従卒ばかりではない。従卒を持たないために、
自分で馬の世話をしている者⋮⋮つまり、ついさっきまで戦ってい
た者たちもいる。そういう者たちの間から聞こえる話を、小玉は注
意深く聞いた。
あちらの誰かは敵将の首を取った⋮⋮。
こちらの誰かが討ち取られた⋮⋮。
戦っている最中、敵がこんな風に動いた⋮⋮。
周囲から得られる情報の断片から戦況を組み立て、それを日々更
新するのがここでの小玉の日課である。今日も話を聞きながら、自
軍が今どのように戦っているのかを小玉は思い浮かべた。
そして、首をかしげた。
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興奮しながら語る者たちは、さも自軍が優勢であるように言って
いるが、そんな彼らから得られる情報から考えると、どうやっても
自軍の方が不利のように思えるのだ。
小玉は不安になった。だが、自信満々に語る当事者たちの態度と、
実際に戦っていない、情報は少ない、おつむの中身が足りない、つ
まるところ有るものの方が少ない自分の見解のどちらが正しいのか
を考えると、自ずと答えは出る。
自分はどこかで判断を、あるいは情報の拾い方を間違えたのだ。
もし、小玉の考えが、これほどまでに他者の見解と異なっていな
ければ、小玉は結論を急がなかったかもしれない。
しかし、あまりにも自分の考えが他者と違いすぎたために、小玉
はどちらかの考えが間違っているのだと考えた。そして、それは順
当に考えれば自分であると。小玉以外の大多数とっても、それはす
さまじく説得力のある答えだっただろう。
だから小玉はあーあ、と思いながらも、かけらも疑問を持たず馬
を洗い終え、飼い葉を与えるとその場を立ち去った。
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11︵前書き︶
流血の描写があります。苦手な方はご注意ください。
82
11
﹁小玉です。只今戻りました﹂
そう言って天幕に入り、小玉はおやと首を傾げた。沈中郎将がそ
こにいなかったからだ。しかし明かりを消していないところからし
て、すぐ戻ってくるだろう。おそらくは厠なのではないだろうか。
さっさと結論づけると、小玉は明かりの近くに座り、つくろい物
を始めた。
小玉はしばらく作業に熱中していたが、やがてふと顔を上げた。
さすがに不審に思うくらい時間が経っても、沈中郎将が戻って来な
いのだ。
小玉は呟いた。
﹁便秘⋮⋮?﹂
あるいは、下痢?
恋をしていても、その相手に変に理想を持たないのが小玉である。
いくら綺麗な顔をしていても、人間である以上出る物は出るし、そ
れが詰まる時も下る時もあるはずだ。体調は最高の状態を保てと言
い、多分それを実行している沈中郎将だが、便通はしばしば人の意
志を裏切る。特に、戦場なんて緊張感の連続なのだから、そうなっ
たとしてもなんらおかしくはない。メシも悪いし。
小玉は、沈中郎将が戻ってきたら腹具合を尋ねてみようと思った。
あるいは、本人から言い出すかもしれない。それでもし、下ってい
るか詰まっているかすれば、何か煎じてあげよう⋮⋮。
そう思っていると、天幕の入り口にかけられた布が揺れ、沈中郎
将が入ってきた。
﹁ああ、戻ってきていたのか﹂
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﹁はい﹂
やりかけのつくろい物を一旦置いて一礼する。そのまま、沈中郎
将が腹の具合について言い出すことを待とうと思ったが、すぐにそ
んなことはどうでも良くなった。沈中郎将が先ほど手入れをしたば
かりの甲冑を身につけ始めたからだ。もう、これから寝るという時
間だというのに。
むろん、戦場である以上、沈中郎将は寝る時でも完璧に武装を解
くということはなかった。だが、このように完全武装までして寝よ
うとすることも、これまでに無かったことだ。
小玉は条件反射で沈中郎将が武装するのを手伝い始めたが、頭の
中は当然疑問で一杯だった。
﹁これから出撃ですか?﹂
沈中郎将は手甲の紐を結びながら、淡々と答えた。
﹁違う。だが、お前も今日は武装して⋮⋮眠らないように﹂
﹁それは⋮⋮﹂
小玉にでも分かる。沈中郎将は今晩、襲撃があるのだと言ってい
るのだ。
小玉は、沈中郎将を手伝い終えると、自らもぎこちなく武装した。
沈中郎将の腹具合のことは、当然頭からすっとんでいた。というか、
この展開からして、沈中郎将が長く天幕を空けていたのは、厠では
なく何らかの打ち合わせか対策のせいだと考えるのが妥当だろう。
落ち着け、とまじないのように頭の中で繰り返す。負けると決ま
っている訳ではない。そう、襲撃があればかならず負けると言うも
のではない。
勝ったとしても、自分が死ぬ可能性があるということは無視しよ
うと努めた。別のことを考えようとして、ふと、あることに気づい
た。まさかね、と思う。だってそれはさっき否定したばかりの考え
だ。しかし⋮⋮。
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﹁あの、中郎将さま﹂
堪えきれず、小玉は声を上げた。自分の疑問に的確な回答をくれ
そうな人に。
﹁何だ﹂
﹁うちの軍は今不利なんでしょうか﹂
沈中郎将は小玉を安心させるように、軽く笑んだ。
﹁襲撃は敗北と同義ではないが﹂
あ、はい。それはわかってます。
﹁そうなんですけれど。今うちの軍がここにあって、で、襲撃があ
るってことは、敵はこう動けるってことですよね。そう動けるって
ことは、不利なんじゃないかと思って⋮⋮﹂
小玉はここ、こう、そう、と指示語の部分で身振り手振りを交え
る。怪しい踊りにも見えるその動作を、沈中郎将は笑わなかった。
それどころか鋭い目を向けてきた。沈中郎将は率直にいって厳しい
人だが、そこまでにらまれたのは初めてだ。小玉は体を強ばらせた。
﹁もう1回﹂
﹁え?﹂
﹁今の動きをもう1回⋮⋮いや、そこに書け﹂
そこ、と地べたを指された。
﹁あ、はい﹂
小玉はぎくしゃくと槍を取り、柄で地面に図を描いた。子供のお
絵かきそのものなそれを、沈中郎将は厳しく見つめる。
沈黙。
彼から発せられる緊張感に、体が押しつぶされそうだった。
﹁小玉﹂
﹁はっ、はい﹂
﹁お前はこのことを誰から聞いた?﹂
小玉はあわあわとしながら答えた。緊張と、説明という行為に慣
れていないせいで、それは全然まとまりのない言葉の羅列だった。
﹁いえ、誰からも。あの、いろんな人から戦の噂とか聞いて、自分
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で今こうかなって考えて、なんか他の人と自分、違う考えみたいだ
ったんですけれど、でもなんかそれ以外考えられなくてですね。え
ーと⋮⋮﹂
まるで要領を得ないであろう小玉の言葉を、沈中郎将は辛抱強く
聞いていた。そしてぽつりと呟いた。
﹁自力でこの布陣を予想したのか⋮⋮﹂
﹁ふじん?﹂
﹁軍の配置のことだ﹂
おお。一つ語彙が増えた。
﹁あの⋮⋮あたしの考え、どんな風に間違っているんでしょう﹂
間違いを訂正してもらうこと前提で問いかけると、沈中郎将はき
っぱりと言った。
﹁どこも間違っていない。お前の言っている通りだ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ﹂
それじゃあなんで他の人は自分と違う意見なんだろう。
自分の考えが合っていたことの喜びよりも、戸惑いの方が強い。
困った顔を向けると、沈中郎将はどこか疲れたような笑みを浮かべ
て言った。
﹁だが、それを誰にも言うな﹂
どうしてでですか。
小玉はその言葉を飲み込んだ。
それは決して居丈高な口ぶりではなかった。だが、それだけに言
葉にこもった有無を言わせない何かをひしひしと感じた。 この時の沈中郎将の言葉は、小玉を守ろうとしたものだったのだ
ろうかと、小玉は後に思う。だが、この時の小玉は、沈中郎将の諦
観と苦悩を知らず、
﹁お前なら、これから先、軍をどう動かす?﹂
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﹁あたしならこれを⋮⋮﹂
地面に描いた丸を槍で示し、線を引く。
﹁こう動かします﹂
手の動きと共に、槍が地を抉りシャッと砂が鳴く。沈中郎将がふ
っと微笑んだ。
﹁私も同じ考えだ﹂
好きな人と同じ考えだったということに、ささやかな喜びを感じ
ていた。それどころではないというのに。
そう、本当にそれどころではなかった。
遠く、悲鳴が聞こえた。
小玉はびくりと顔を上げた。
﹁来い﹂
沈中郎将が立ち上がり、天幕を出る。小玉は震える手足を叱咤し
ながら、その後を追った。
暗くはなかった。
火矢がまるで雨あられのように降ってくる。それが何かに引火し
て炎を上げる。明るい⋮⋮いや、眩しいとさえいえた。天幕の中の
ほの暗さに慣れた目が、一瞬驚く。
きか
どこかで、襲撃、襲撃という絶叫が聞こえる。そんな中、沈中郎
将は槍を携えて堂々と歩んだ。彼と同じように武装した麾下の者た
ちが、その側を固める。あわてて武装する者、とりあえず武器を持
って走る者、派手にスッ転ぶ者などが行き交う中で、その姿はとて
も目立った。敵にも、味方にも。
明らかに高位の武官と見えるその姿に、敵が殺到する。沈中郎将
はそれを片っ端からなぎ払った。その側で戦う者達の中に、小玉の
姿はない。
最初は沈中郎将の側にくっついていた小玉だったが、彼を守ろう
とする精鋭が集まってくると、小柄な彼女は押され、揉まれて、人
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の輪から押し出された。
彼らが守るのは沈中郎将であって、小玉はそのおまけにもならな
いほどの小者である。むしろ邪魔者とさえ言っていい。小玉はそれ
に対して文句を言う資格はないし、あったとしても言わないだろう。
そんな暇などない。
頭にあるのは、目の前の敵をどうやって倒すかということ。そし
て、﹁来い﹂という沈中郎将の一言。思考はその2点に特化され、
すでに恐怖も、他の一切の感情も感じなかった。戦場の中で小玉の
頭はおそろしく冴えていた。
体は鍛練の時の非ではないほど軽やかに動く。おかしい、自分の
体力でここまで動けるはずがない、こんな状態、長く続きっこない
と頭の隅で鳴る警鐘を無理矢理止める。手の震えなど、とっくの昔
におさまっていた。
さっき手入れしたばかりの槍は、敵兵の体に穂先を残して、中途
から折れた。すかさずそこに突きかかってくる敵兵の槍を、手元に
残った棒きれで払い、その眼球に突き刺した。絶叫。目から棒を抜
こうとして倒れ込む敵兵の手から槍を奪った。その槍もまた、あっ
という間に役に立たなくなった。躊躇無く投げ捨て、腰から剣を抜
く。三人ほど突いて切って、手が血で滑る。服の裾で叩くようにし
て拭く。こんなことをしている暇さえも惜しい。ほらまた敵が迫っ
てくる。肩を切られた。大丈夫、これぐらいならば動く。不思議と
痛くない。汗が目に入り、視界が霞む。うっとおしい。その隅で、
誰かの首が飛ぶ。そんな光景、さっきから幾らでも見ているのに、
意識に留まったのは見知った顔のせいか。誰だっけ駄目だ今は気に
するな自分の首が飛ぶああほら危ない!
新たな敵が立った。壮年とおぼしい。鍛え上げられた体が、その
甲冑の上からもわかる。その甲冑も、やけに立派で、おそらくは将
官級の武将だった。本来ならば歩行で戦うようなことなどないはず
88
の者が、何故ここに立っているのか。おそらく落馬したとか、馬に
問題が発生したとかあたりなのだろうが、小玉にとってそんなこと
はどうでも良かった。重要なことは、相手がどう見たって自分より
強いということ。
どう攻めればいい? 目まぐるしく頭を働かせる。逃亡という選
択肢が頭にちらつくが、それを一蹴する。駄目だ背後からばっさり
やられる。敵将が武器を振り上げた。
うそ、隙?
訝しむ余裕も罠かと疑う間もない。とにかくその隙に一縷の望み
をかけて、小玉は突撃しながら剣を捨てた。敵将の顔に浮かぶ驚愕。
動きが微かに鈍る。その腕をかいくぐり、小玉は相手の懐に飛び込
み力任せに体当たりをした。さすがに不意を突かれて、相手の体が
傾ぐ。小玉は共に倒れ込みながら、小刀を抜き、伸び上がるように
相手の首をかき切った。血しぶきがほとばしる。
すかさず身を起こし、けいれんを起こす敵将の手から大刀を奪い
取った。自分の剣を拾うより手っ取り早い。すこし自分には大きい
が、贅沢は言っていられない。そして立ち上がり、もう振り返らな
い。
89
12
﹁あ、ああ⋮⋮!﹂
小玉はどうと倒れこんだ。地に伏してしまいそうなところを、手
にした大刀で身を支え、何とか膝を突く程度で留める。体の節々が
痛い。手足が震えているのは肉体を限界以上に酷使し続けたせいだ。
このまま眠り込んでしまいたい。その思いは、疲労からだけのも
のではない。
立って歩いている者は味方のみという状態。そう、勝ったか負け
たかどうかはわからないが、戦いが終わったのだ。夜は、とっくに
明けていた。
とてつもない安堵が小玉の心に満ちる。
生きている。
小玉は乾いた笑みを浮かべた。長く水分を補給せずにかさついた
唇が引きつれて痛むが、そんなことはどうでも良かった。誰かが死
んだなどということは、考えもしなかった。ただ、自分が生きてい
ることが嬉しくてたまらなかった。
﹁おい﹂
後ろから片腕をぐいと引かれた。のろのろと目だけを向けると、
そこには見知った顔があった。名前は⋮⋮ええっと、誰だ。頭が動
かない。沈中郎将の側近の一人。
﹁無事だったか⋮⋮﹂
相手は安堵の表情を浮かべ、また小玉の腕を引いた。
﹁ほら。こっちに来い﹂
小玉は動かない。もう1歩も動きたくない。拒絶のために首を左
右に振るのさえ億劫だ。
﹁お前ここでぼうっとしてると、襲われるぞ﹂
オソワレル?⋮⋮って何だ。ああそう、強姦されるとかそういう
90
こと。いーよもう、休ませてくれるなら襲われたって。
疲労しきった頭は、とんでもなく投げやりだった。
相手はため息をつくと、小玉の両脇に手をかけて、体をむりやり
引き起こした。そのままずりずりと引きずる。小玉は抵抗しない。
相手が連れて行ってくれる分には、問題はないからだ。だが、
﹁閣下がお前のことを心配なさっておいでだった。来い﹂
1拍どころか10拍ほどおいて、小玉は言われたことを理解する。
閣下。閣下は沈中郎将さま。あの方は自分に﹁来い﹂と言った。自
分はそれに従わなければならない。
小玉は、自分を引きずる男の腕をぺしぺしと叩いた。
﹁⋮⋮た⋮⋮ち、ます﹂
喉からしぼりだした声は、老婆のようにしわがれていた。男の腕
を支えに立ち上がる。そして足を踏みだそうとして⋮⋮コケた。
生まれたての子馬。そう言えば今の小玉の状態がわかるだろう。
それでも何とか身を起こし、2、3歩あるいたが、真っ直ぐ進めな
かった。
結局。
﹁すいません⋮⋮﹂
﹁いや、最初からこうしてりゃ良かったなあ﹂
男に負ぶって連れて行ってもらった。恥ずかしくはなかったが、
とても辛かった。何がって、眠ってしまいそうになるのを耐えるの
が。だが実際のところ、忍耐かなわず、軽く寝てしまったようであ
った。
後に男が言うには、
﹁お前、俺のこと﹃父ちゃん﹄とか呟いてなかったか?﹂
﹁そ、そんなことありませんよー?﹂
多分。
そうして、沈中郎将のところに連れて行かれた小玉を待ち受けて
91
いたものは、熱烈な再会の喜び⋮⋮などではなかった。いや、生存
を喜ばれなかった訳ではない、断じて。ただ、沈中郎将は事後処理
で猛烈に忙しく、小玉のために割ける時間も感情も少なかったのだ。
小玉の方にしても、相手はもっと喜ぶべきだと思うほど頭は悪くな
い。
﹁無事で結構﹂
﹁ありがとうございます﹂
至極あっさりとしたやり取りの後、沈中郎将はまた方々に命令を
下しながら、事後処理に奔走し始めた。そして、小玉もまた。
小玉を真に待ち受けていたのは、後片づけである。すでに火は消
し止められていたが、焦げた天幕を片づけたり、死体を運んだりと、
やらなくてはならない仕事は幾らでもあるし、手は圧倒的に足りな
かった。
傷の治療を終えた小玉は、疲れた体に鞭打って、無言で仕事を始
めた。ひいひい言わないのは、小玉が偉いからではない。ひいひい
言うだけの余裕すらないからだ。それは他の者も同じであり、結果
として辺りに声は殆ど響かない。
いや。
﹁おい、お前﹂
呼ばれたのは小玉だった。下らない用事で呼び止めたんだったら、
心の中で八つ裂きにしてくれる⋮⋮体動かしたくないからな! そ
んな気持ちで振り返ると、
﹁叔安⋮⋮﹂
どうやら生きていたらしい。疲労しきった顔に、血と煤が悪い意
味で彩りを添えている。小玉もきっと同じような顔をしているのだ
ろうが、その顔には小玉とは決定的に違う点があった。
怒りである。
陳叔安は、小玉の肩を掴んで言った。
﹁お前、あれでいいのか!?﹂
﹁⋮⋮何が?﹂
92
小玉は、確かに疲労のあまり、思考が大宇宙近くをさまよってい
る。しかし、たとえそうでなかったとしても、まったく同じ反応を
しただろう。
まったく、心当たりがなかった。
﹁お前、お前って奴は!﹂
元気だね。激怒する陳叔安に揺さぶられながら、小玉は場違いな
ことを考えた。それは、疲労の極致であろうに、よくぞそこまで力
が残っているもんだと、感嘆すらできる勢いだった。しかし、やっ
ぱり陳叔安も疲れているらしい。いつまでたってもお前、お前とし
か言わないので、何に対して怒っているのかがさっぱりわからない。
﹁ごめん、やめて﹂
揺さぶられすぎて、なんだか気持ちが悪くなってきた。自分の襟
元を掴む陳叔安の手を引きはがす。
﹁﹃あれ﹄って何?何のことか、ほんと、わかんない﹂
﹁手柄横取りされて、何も思わないのか!?﹂
﹁⋮⋮手柄?﹂
ますます心当たりがない。
﹁⋮⋮本当に覚えてないのか?﹂
﹁うん﹂
完璧に困り切った様子の小玉に、陳叔安も勢いを緩め、確認の体
勢に入る。
﹁お前、敵の偉い奴倒したろ﹂
それは⋮⋮
﹁気のせいでしょ﹂
小玉はきっぱりと言った。まるで記憶にございません。しかし、
陳叔安は更にきっぱりと言った。
﹁いや、間違いない。俺は見てた﹂
⋮⋮じゃあ、問いかけの形を取るの、やめといた方が良かったん
じゃないですかね。何とはなしにカチンときつつも、小玉は再び否
定した。
93
﹁混乱で、誰かと間違ったんだと思う﹂
﹁絶対無い。だってお前、相手倒した後、そいつの剣奪ってたろ。
今持ってるやつ﹂
⋮⋮そういえば。
何の疑問も持たずに背負ってしまっているが、今身につけている
剣は、明らかに小玉のものではない立派なものだ。しかし、自分の
官給品から何をどう変遷して今に至ったのかは、まるで思い出せな
かった。
だから、こういうのも成り立つ。
﹁奪った人が落とした後、あたしが拾ったという説はどうだろう﹂
﹁いい加減、観念して思い出せよお前﹂
その後陳叔安が、小玉はいかに敵将を倒したのかということを事
細かに説明してようやく、小玉は何となくだが思い出すに至った。
﹁よく覚えとく余裕あったね。あたし、目の前の敵倒すので精一杯
だったよ﹂
﹁お前のいたあたり、近寄りたくないくらい激戦だったからな﹂
高位の武官である沈中郎将には敵が群がっていた。その辺りをう
ろちょろしていた小玉は、格好の標的だったらしい。何の間違いか、
ことごとく返り討ちにするか逃げ延びて生きているが、沈中郎将か
ら離れて戦っていた方が、生存確率はもっと高かったに違いない。
﹁⋮⋮﹂
いやでも、中郎将さまは﹁来い﹂って言ってたし。うん、まあ⋮
⋮良いことにしておこう。
﹁で、その⋮⋮横取りってなに。﹂
そう。話は小玉が敵を倒したかどうかでは終わらない。重要なこ
とがまだ説明されていなかった。
﹁倒した奴放っといたせいで、他の奴が首をあげて自分のものにし
ちまったってことだ!﹂
94
﹁ああ、そういうことなんだ﹂
口にするのも忌々しいといった風の陳叔安に対して、小玉の返事
はしごくあっさりとしたものだった。
﹁⋮⋮﹂
そんな小玉に、陳叔安は信じられないものを見る顔つきで押し黙
った。そして小玉の顔を伺い、そこに何の衝撃も無いのを見て、不
愉快そうに眉を顰めた。
﹁怒らないのか、お前﹂
﹁いや、別に⋮⋮欲しい人は持っていけばいいんじゃないかと思⋮
⋮﹂
﹁お前、最低だな﹂
最後まで言わせてもらえなかった。思いも寄らないことを言われ
て、小玉の口は﹁も﹂の音を発し終えた形のまま固まる。そんな彼
女に、陳叔安は吐き捨てるように言った。
﹁軍隊を本当に腐らせるのは、お前みたいな奴なんだ。くそ、忠告
して損した﹂
そうして踵をかえし、陳叔安はずかずかと足音高く立ち去ってい
った。小玉は目をぱちくりさせ、その姿を見送る。そうして、﹁も﹂
音の唇の形のまま、小首をかしげた。
﹁⋮⋮?﹂
自分は何か、間違ったことを言っただろうか。小玉はなぜ陳叔安
が怒ったのか、まるでわからなかった。
95
13
﹁⋮⋮と、いうことがありました﹂
帝都に帰還して、10日ほど経っていた。
陣を立て直したあと、何度かの出撃があり、戦は実にあっけなく
終わった。だがその勝敗は、実に曖昧なものだった。何となくこち
らが優勢?という感じである。ろくに準備もしていない戦争なのだ
から、むしろ負けなかっただけありがたいというべきであろう。そ
れで戦死した方はたまったものではないが。
ただ1度の襲撃の後、小玉は武器を手にとって戦うようなことは
なかった。だが、別の意味で戦いのように忙しかった。襲撃自体は
決して被害が大きかった訳ではないが、その被害の大部分が後方支
援の作業に従事する者たちであった。したがって、残った者にその
しわ寄せが及んだのである。先にも述べたが小玉は家政能力に関し
ては、本職の主婦ならばともかく、そこらの男連中には負けない。
よって、一気に任される仕事の量が増えた。
忙殺。そんな言葉がもっとも相応しい。関小玉15歳。敵の凶刃
ではなく、野菜の皮むきに死すのかと真剣に思ったほどだった。結
果、後方で﹁皮むきなんて無視し隊﹂及び﹁それでも我らは皮むき
隊﹂の2派からなる分裂、熾烈な争い、そして友情の芽生えがあっ
たことなど前線は知らないだろう。彼らの知らないところで、後方
もまた戦っていたのである。ちなみに、その時仲良くなったおばち
ゃん士官こそが、この戦における小玉の戦友である。
それほど忙しかったから、陳叔安に言われたことで落ち込むこと
はなかった。だが、落ち込みはしないが、なぜ陳叔安が怒ったのか
ということは、純粋に疑問で、時たま考え込んでしまった。本人は
96
ひそかに悩んでいるつもりだったし、事実共に働く者たちも、その
生態上、人の悩み事には鋭いはずのおばちゃん士官たちですらも、
小玉が悩んでいることに気づいた者はいなかった。また、陳叔安と
関小玉の関係が更に悪化したことに気づく者もいない。元々が悪す
ぎるのだ。102の険悪が108の険悪になったとしても、他人に
とってはどうでもいいことである。
だが、沈中郎将は違った。戦場から帰り、戦後処理が一段落つく
と、小玉を呼び出して言った。
﹁何か悩んでいるのならば言え﹂
気づかれてしまった。
﹁⋮⋮﹂
小玉は隠せる気がしなかった。 本当は自分で解決しようと思っ
ていた事柄だったが、こうなった以上は仕方がなかった。
小玉が語り終えたると、沈中郎将は言った。
﹁それならば、私も見ていた。あれは良く戦ったな﹂
褒められた。だが、その事実は小玉の心を浮き立たせない。
﹁⋮⋮あたしは、あそこで首を刈るべきだったんでしょうか﹂
﹁それを決めるのはお前だ。首級をあげるべきだったと思うか?﹂
﹁いえ、全然﹂
首を取ろうとしていたら、多分自分は他の兵に殺されていただろ
う。
﹁だろうな。ならば何故、叔安が怒っていたかわかるか?﹂
﹁横取りに対して怒らなかったから⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
﹁ですが中郎将さま﹂
小玉は声を上げた。
﹁あたしは、それを横取りじゃないと思うんです﹂
それこそが、小玉の悩んでいたことだった。小玉は敵の体を完全
に放棄した。放棄したものを誰がどうしようと、放棄した人間がど
うこう言える問題ではない。
97
むしろ、そんな激戦区の中で首を取るために、一瞬でも無防備な
姿をさらそうなどという勇気を発揮した人間こそが、首を持ってい
くにはふさわしいのではないかと思う。
語り終えると、沈中郎将はしばし考え込んでから口を開いた。
﹁小玉。お前は寮に住んでいるな?﹂
﹁は?⋮⋮はい﹂
あまりにも唐突な質問に、裏返りかける声を必死におさえた。
﹁ごみは出るか﹂
﹁ええ、まあ﹂
むしろ、ごみの出ない生活ってありえるのだろうか。いや、この
方なら実践できてそうで、少し怖い。
﹁お前はそれを、指定通りに焼き場で燃やすだろう?﹂
﹁はい﹂
まるで関係なさそうな質問。しかし、沈中郎将は最後にこう言っ
た。
﹁ところが、塵を焼かず、焼き場に放り投げておくだけの者がいた
とする。それを猫や烏が荒らして、一帯が散らかってしまった。後
から来た者はどう思うだろうな?﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
小玉は口を手に当てた。沈中郎将の言わんとすることが、わかっ
た。沈中郎将はなおも言葉を続ける。
﹁相手には何かやむを得ない事情があったのかもしれない。しかし、
捨てた塵を猫や烏が食い散らかすのは仕方がないと言って、反省の
態度を見せなければお前はどう思う?﹂
﹁ああ⋮⋮はい、わかりました。すごくわかりました﹂
手柄に執着しないのは美徳である。だがそれは、上げた手柄を放
棄する理由にはならない。放棄した手柄を誰かが横取りする。する
と、横取りするようなろくでもない輩が出世し、人の上に立つのだ。
それは長い目で見れば、軍全体に悪影響を及ぼす。
98
﹁だから、手柄は立てた本人に帰属させなくてはならない﹂
﹁はい﹂
もっとも、実際の問題は塵のたとえよりも複雑だ。散らかった塵
は掃除をすることができるし、猫や烏は追いはらってしまえるが、
戦の場合はその限りではない。様々な利害と派閥関係が混じり合っ
て、正道を貫くことが生命を脅かすことさえある。小玉にも、沈中
郎将にもそれはわかっている。
陳叔安にしろ、戦っている最中で首を取ることが不可能だったこ
とくらいはわかっているだろう。そして、今更、あれは自分の功績
だと名乗り出ることは難しいことも。陳叔安の場合、目撃者として
小玉の代わりに抗議の声をあげるくらいはしそうではあったが、今
回それを為さなかったのは、おそらく事態が拗れることを怖れた直
属の上司に止められたからだろう。沈中郎将はそう言った。
どうあっても、異議の申し立ては出来ない。だが、略奪されたと
いう理不尽を、感情の上で許さないということは出来るのだ。だか
ら陳叔安の怒りは、出来ることをしなかったことに対するものだ。
﹁叔安に謝ってきます﹂
﹁そうか﹂
沈中郎将は手を伸ばすと、小玉の頭を撫でた。
﹁ところで、横取りさせるのが駄目ってことは、立てた本人が手柄
を誰かに譲るというのは?﹂
﹁時と場合によるな。だが、放棄するよりはましだ﹂
話がまとまったところで、沈中郎将が不意に居住まいを正した。
﹁ところで小玉﹂
﹁は、はい﹂
その妙な迫力に、小玉は気おされる。何を言われるのだろうか。
自分は何かやっただろうか。そんな不安を瞳に宿し、沈中郎将を見
99
つめる。
﹁私は⋮⋮どうやら、異動することになりそうだ﹂
﹁え⋮⋮﹂
全然予想していなかった事だった。
﹁えーと、どこにですか?﹂
﹁まだ出来てはいないが、新設される軍にということになっている﹂
それは⋮⋮。
﹁お⋮⋮めでとう、ございます?﹂
ことほ
新しいという事が良い事であるとは限らない。小玉はそれが栄転
なのかそうでないのか、まるでわからなかった。疑問系の言祝ぎと
いう、貰っても嬉しくないであろうものを受けた沈中郎将は、注意
しなかった。苦笑いを口元に浮かべている。どうやらこの人事は、
小玉の言祝ぎ同様、微妙なものであるらしい。
﹁そこで、だ。小玉﹂
﹁はい﹂
﹁お前は連れて行かない﹂
小玉は絶句した。
なぜ、という疑問を発する前に、沈中郎将は淡々と説明した。
今回の戦いを受けて設立が決まった軍は、隣国・康との国境付近
の防衛を目的とした守備軍である。したがって、とてつもなく辺鄙
なところに設置される。新設の軍、しかもほとんどが錬度の低い兵
で構成されるため、全体の統制を取るのは難しい。しかも、女性が
皆無である。そこに小玉を連れて行くのは危険である。異物に対し
て人間は過敏に反応する。兵が落ち着かないことにより、練兵に支
障が出る可能性が高い。
﹁士気の問題だ。だからお前には残ってもらう﹂
小玉は呆然と沈中郎将を見つめた。完膚無いまでの正論だった。
そんなことない、と抗弁できるはずもない。
100
さ ぶい
﹁お前のことは、左武威衛の王将軍に頼んである。安心しろ、信頼
できる方だ﹂
そんなことはどうでもいいと言いたかった。子供のように駄々を
こねたかった。自分も連れて行ってくださいとわめきたかった。
だが、そうすれば迷惑を被るのはこの方だ。
それでも堪えきれない感情が、漏れ出る。
﹁あたしは⋮⋮邪魔ですか?﹂
﹁そうなるな﹂
泣くな。
小玉は奥歯を噛みしめた。変な希望を持たせようとしない、これ
は沈中郎将の思いやりだ。自分がそう思いだけかもしれないが、少
なくとも﹁邪魔ですか﹂などと困らせるような質問をする小玉より
は、ずっと誠実だった。
きっと、もう会えないのだと思った。
小玉と沈中郎将の地位は、水たまりと湖くらいかけ離れている。
従卒のように直接仕えているからこそ毎日のように顔を合わせてい
るのだが、本来ならば目通りすることは滅多にない相手だ。まして
や、所属する軍が変わってしまった日には⋮⋮明日小玉が結婚する
という話の方がまだ有り得る。
出会ってまだ1年にも満たない。恋を自覚して、半年。自分の恋
は叶うことなく終わるだろうと思っていたが、まさかこんなにも早
く、あっさりと終わってしまうとは思わなかった。終わるのは良い。
だが、せめて。
﹁あ、あたし⋮⋮﹂
﹁小玉﹂
一言、名を呼ばれただけで、言葉を封じられた。
﹁それは、言わなくて良い﹂
何をとは言わない。だが、小玉にはわかった。沈中郎将が自分の
気持ちを知っていて、そして当然のことだが応える気がないという
ことを。
101
深く俯いた。視界が滲む。ちくしょう。
涙腺に悪態をついた。
言ったとしても振られることはわかっていた。だが、言って振ら
れるよりも、何も言わせてもらえずに振られたことの方がずっと辛
かった。
102
13︵後書き︶
論功行賞については色んな考えがあると思います。これはその中の
一つということで。
103
14
叔安は悩んでいた。かつてないほどに悩んでいた。
悩んでいる対象は同輩の少女のことである。別に恋愛がらみのこ
とではない。叔安にとって少女こと関小玉は、恋愛対象とは対極に
位置する存在だとさえいえる。
叔安が悩んでいることは、彼女に謝るべきか、謝らないべきかと
いうことだった。
それは別に、嫌いな相手に謝りたくないという葛藤によるもので
はない。良くも悪くも真面目な叔安は、謝らなければならないのな
らば、対象が親の仇だろうが絶対に謝るタチであった。だから、叔
安が悩んでいるのは、自分は謝るべきことをしたのか、していない
のか、それがわからないという点につきる。そして、それを判断す
るには、情報があまりにも少なかった。
叔安は手を顔に持って行き、目頭を揉んだ。ここ数日、途方に暮
れていた。そして、そのことに疲れていた。
その時、
﹁じゅぐあ゛ーん!﹂
﹁?﹂
叔安が振り返った理由は、自分の名を呼ばれたと認識したからで
はない。どこかから聞こえてきた謎の音が気になったからである。
あんな声でさえない音の連なり、断じて自分の名とは認めない。
その濁音の連なりは、こちらに駆けてくる人間から発せられたも
のだった。うっとひるんだのは、それが叔安のここ数日の懸案事項・
関小玉だったから⋮⋮という訳ではない。それ以前の問題で、涙と
鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした娘がいきなり全速力で接近してきた
ら、たとえ好きな娘が相手であろうと引くはずだ。
それでも、顔で個人判別ができないというのに、相手が関小玉で
104
あるとわかったのは、叔安の彼女に対する愛⋮⋮と正反対の感情の
たまものであろう。
関小玉は、叔安の前まで来ると、立ち止まって何かを言おうとし
た⋮⋮が、その前に袖で顔をぬぐった。ずひー、と鼻をすする音が
聞こえる。
﹁ど⋮⋮どうした﹂
関小玉が大嫌いな叔安でも、さすがにちょっと心配になった。す
ると関小玉は顔を上げて言った。
﹁ごめんね⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁⋮⋮﹂
虚を突かれて黙り込む叔安に、関小玉は自分が軍律を乱しかねな
い行為をしたこと、それに対して悪びれなかったことを詫びた。
﹁お前⋮⋮それで泣いてたのか﹂
﹁あ、いや、それとは別件﹂
﹁⋮⋮﹂
そうかい。
すごく水を差された気分になった。
だが叔安は、やはり自分は間違っていたのではないかと思った。
謝るべきことを自分はしたのではないかと。そしてそれを、関小玉
に確認しても大丈夫だと叔安は確信した。
そう、謝るべきか否かは関小に確認を取りさえすれば、判別でき
る問題だった。もっとも、嘘をつかれたらそれまでなので、ずっと
一人で思い悩んでいたのだ。だが、今、自分に対して謝る彼女を見
れば、彼女はきっと誠実に答えるだろうと思った。
それは間違っていなかった。
﹁えー⋮⋮ありえない﹂
そう、関小玉はとても率直だった。口もそうだが、目はそれ以上
だった。石で口をすすぐと言う奴がいたら、叔安も同じような目を
したであろう。そんな、ものすごく可哀想な人をみる眼差しだった。
そんな態度に対して腹が立たなかったのは、﹁あれ?言われてみ
105
ればそうかも﹂という気持ちがわいてきたからだ。
実をいうと叔安が関小玉に隔意を持ち始めたのは、関小玉に打ち
負かされたからではなく、もっと前、彼女と面識を持っていない頃
からのことだった。叔安の同輩の一人がこう言ったのだ。
﹁なんだか⋮⋮沈中郎将閣下の従卒が決まったらしい﹂
﹁本当か!?﹂
叔安は沈中郎将を尊敬していた。彼に出会うまで、宦官という存
在は卑しいものであるという認識を持っていた叔安だったが、あっ
という間に宦官を見る目が変わったほどだった。当然、そんな人の
そば近くで仕えたいと思っていたが、残念ながら沈中郎将は、従卒
を持たないことで有名だった。
その美貌と性別の故から、沈中郎将は男との関係が噂になりやす
い存在だった。本人もそれを配慮して、側近たちとの関係において
も、常に注意深く振る舞っていた。そんな彼が従卒のような常に身
近に控える者を持つことは、まずないだろうと叔安は考えていた。
なのに、何故。叔安の疑問は、すぐに氷解した。
﹁女だって﹂
﹁女⋮⋮﹂
それならば。
同性同士の主従関係ならば、ほぼ四六時中付き従うのが常である。
そうしなければ従卒失格の烙印を押される。だが、︵めったにない
が︶異性同士の場合は、当然だがある程度の距離が求められる。宦
官と男性ならば、常に共にいるせいで噂になりやすいが、宦官と女
性ならばかえってそれよりはましだろう。もっとも、歴史上宦官と
女性との結婚の例もあるので、噂になる可能性は皆無ではない。だ
が、宦官と女性の上司部下の場合、恋愛関係は精神的な結びつきが
主になり、主従愛と区別がつけづらいため、問題になりにくい⋮⋮
ような気がする。
まあ、一番噂にならないのは、宦官が従卒になることなのだが⋮
106
⋮。
うらやましいと叔安は思った。超うらやましい。だが、叔安が文
句を言えた筋ではない。そんなに沈中郎将の従卒になりたければ、
ぶっちゃけた話、叔安が宦官になればいいのだ。だが、さすがにそ
こまではできなかった。
だから仕方がないんだろうなとすね始めた叔安。そんな彼の長く
ない導火線に、同輩の言葉が火をつけた。
﹁なんか、そいつは、上役に取り入って、沈中郎将の従卒に収まっ
たらしい﹂
﹁何!?﹂
叔安は話し終えた。
﹁うん、それで?﹂
話し終えたつもりだった。
﹁それで、って⋮⋮﹂
叔安にしてみれば、あとは小玉の返事を待つだけのつもりだった
ところに続きを促され、軽くうろたえる。自分は何か話し足りない
のだろうか?
まさか、やっぱり。
﹁言った通りなのか!?﹂
﹁いや、違うよ。違うんだけどさ、あんた魏光の話に、一応突っ込
むだけは突っ込んだんでしょ?﹂
﹁は?﹂
﹁⋮⋮まさか、鵜呑みにしたの?﹂
そして、哀れみの目へ。
上役の誰に取り入ったのとか。取り入ったのならばどんな手を使
ったのとか。そもそもその話を誰から聞いたのとか。
探すまでもなく突っ込みどころはいくらでもある。
107
それを見なかったのは、どこか不自然な人事だったからだ。後宮
警備からのいきなりの大抜擢。めったに聞かない女の従卒。だがそ
れ以前に。
﹁⋮⋮嫉妬したんだよ、畜生!﹂ ﹁わあ、短絡的﹂
とか、
﹁わあ、単純﹂
とまでは、小玉は言わなかった。
﹁わあ、た⋮⋮ううんなんでもないだれにでもあるかんじょうだと
おもうのー﹂
その半端な気の使いようが心に痛い。
﹁ていうかお前、上役に取り入ったんでなければ、どうやって出世
したんだよ﹂
﹁えっと⋮⋮これ、取り入ったって言うのかな⋮⋮?﹂
∼小玉抜擢概要∼
1.後宮から逃げだそうとする不逞の輩を切った。
2.事件の担当である沈中郎将に報告した。
3.お手紙読んでもらった。
4.異動命令が出た。
﹁手紙って何だ﹂
当然、そこが気になる。3と4の間に、深淵が横たわっているよ
うに思えてならない。
﹁あ、実家からの﹂
﹁何で﹂
﹁たまたま、誰かに読んでもらおうと思ってたから、あっちょうど
いいなって思って﹂
108
それは⋮⋮。
﹁バッカヤロウだな、お前﹂
﹁知ってる﹂
真顔の叔安に、真顔の関小玉。
さすが沈中郎将閣下。馬鹿に対しても寛容であらせられると、叔
安は感嘆していた。
﹁まあ、順当な出世ってやつだろうな、それは⋮⋮ああ、ないな。
不正なんてあるはずがないな﹂
そう、考えてみれば、そんな人格者が誰かに取り入るような輩を
身近に置くわけがない。したがって、関小玉の出世は妥当に決まっ
ているのだ。自分はなんと愚かな考え違いをしていたのだろうか。
﹁いやさ﹂
と、小玉は口を開く。
﹁あっさり考え変えられるのもなんだけど、そもそも、そこまで揺
るぎなくあたしの不正人事を信じてたのに、なんで今更疑問持った
の﹂
﹁う⋮⋮﹂
叔安は言葉に詰まった。だが、言わない訳にはいかなかった。
﹁言い出したのがさ、光だったもんでさ⋮⋮﹂
﹁あー、光﹂
﹁そう、光﹂
沈黙。ややあってため息。
魏光。二人の﹁元﹂同僚。誰にでも人当たりが良く、気の良い少
年と思われていた。そして、
﹁いや、人間って見かけとか態度とかによらないよね﹂
﹁まさがあいつがとは思ったんだけどな⋮⋮﹂
小玉の手柄を横取りした張本人であったりもする。
109
15
あーなるほどねーと、小玉は納得していた。陳叔安は馬鹿ではな
い。他人の言葉をあっさり信じたのは、よほど相手が信頼のおける
人物だったからだ。魏光は確かにそういう人間だった。つい先日ま
では。
その魏光は、論功行賞で褒美をもらい、近々階級が上がるそうだ。
魏光の直属の上司の後押しもあって、今や彼は見事な出世株。常日
頃良い子で通っている魏光の武勲を立てたという主張は、誰も疑わ
なかった。まだ沈中郎将に相談する前の小玉は何も言わなかったし、
陳叔安も黙っていた。彼にしてみればとてつもなく不本意だったよ
うだが。
上司に相談したら、制止されたらしい。おみごと中郎将さま。あ
なたの言った通りでした。
今や魏光の人物評価は、陳叔安の中で最低値を更新し続けている。
彼は小玉にも憤っていたが、小玉を嫌うに至った経過をふと思い出
し、あんな奴の言うことを信じて良いのかと疑問を抱いたのだとい
う。
﹁や、嘘だからね。でまかせだからね﹂
﹁わかってる﹂
叔安は重々しく頷いた。そして、ちっと舌打ちすると呟いた。
﹁あいつ、天罰とか当たって、今雷にうたれないかな⋮⋮﹂
﹁死んじゃうじゃない。仮にも仲間に物騒なこというもんじゃない
わよ﹂
小玉はそっとたしなめた。陳叔安はそんな彼女をきっと睨んだ。
﹁仲間じゃなくて、仲間だったんだ﹂
﹁だった﹂の部分が強調される。小玉はぽりぽりと頬をかいて、
﹁でもさあ、あたしにも責任あることだし﹂
110
﹁⋮⋮そうか﹂
その言葉に、陳叔安は渋い顔になったが、
﹁だからせめて、いきなりイチモツが役立たずになったせいで世を
儚んで山に引きこもるとか⋮⋮願うならそれくらいでいいんじゃな
いかな﹂
﹁そっちの方がエグいわ! せめてひと思いに殺してやれ!﹂
小玉にしてみれば、雷にうたれて死ぬよりは、生きているだけマ
シだと思うのだが。結局、この件に関して二人の意見は、平行線の
まま終わった。
こいつ、光のヤツに怒っていないように見えて、相当怒っている
⋮⋮?
叔安は、関小玉の表情を伺った。怒りの色は見えないが、その事
にかえって不安を感じた。そんなエグい発言を、素で出来るという
ことになるからだ。もう1回まじまじと、関小玉の顔を見たが、や
はり怒っているようには見えなかった。代わりに別のことに気づい
た。目元が赤い。
そういえばこいつ、さっき泣いていたんだっけと思い出した。そ
してそれは、叔安に対する申し訳なさによるものではないという、
関小玉の申告も。叔安は尋ねた。
﹁なあお前、さっきなんで泣いてたんだ?﹂
﹁あー⋮⋮それはー⋮⋮﹂
関小玉の目が泳ぐ。言ったらまずいことならば別にいい。そう口
を開こうとするのが、あとほんの少し早ければ。
﹁失恋しちゃってさあ﹂
叔安が硬直するようなこともなかったはずだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
それでべそかいたらあんたを見つけたんだけど、﹁あ、そういえ
ば謝らなくちゃいけないな﹂ってこと思い出しちゃったんだ。そし
たら、頭ン中に余裕なかったからさ、それ以外考えられなくなって、
111
泣いてるまんま突進しちゃったよ、あはは。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
などと脳天気に頭をかく少女を、叔安はアホみたいに目をかっぴ
らいて、声もなく眺めていた。
失恋。こういう状況に対して、どういう反応をすればいいのかわ
からない。お前も女だったんだなとか、おいおい誰に振られたんだ
よとかいう疑問を抱いて、そして口に出せるような人間ならば、叔
安はもっと気楽な人生を送れるはずだ。
しかし、この時の叔安は、
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
︵失恋したということは傷ついているということでだから泣いてい
たのであってこの場合なにか慰めの言葉をかけるべきなのだろうか
とも思うが何を言えばいいのかわからない上にかろうじて思い浮か
ぶ言葉を検討しても例えば﹁ご愁傷様﹂というのはなんだか不吉だ
し﹁男は他に幾らでもいる﹂というのは男がいてもこいつが惚れる
かどうかはまた別の話であって⋮⋮︶
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
大まじめに、︵しかもいささか明後日の方向に︶悩んでいた。句
読点は適度に入れよう。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
︵考えろ、陳叔安。お前はこんな事でくじけるような男ではないは
ずだ。突発的な事態に対処できない武官など、オガクズにも劣る。
いいか、お前は今、男としての、武官としての度量を試されている
んだ⋮⋮!︶
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
そして、勝手に己に試練を課していた。
長い沈黙。叔安の首筋を、一筋の汗が伝う。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか﹂
﹁うん、そう﹂
結局、何の捻りもないたった3音の言葉しか発せられなかった己
112
に、叔安は言いようのない敗北感を覚えた。
風が吹く。
1年前に比べると大分伸びた髪がなぶられる。視界を遮られ、小
玉は手で髪をおさえた。別れる相手をその瞳に焼き付けようと思っ
て。
引き継ぎのやりとりを、同輩達に混じって小玉は黙って眺める。
それはどこか儀式めいていた。声は聞こえない。距離が離れている
からだ。
去っていく人を、所属する軍の多くの士卒が途中まで見送る。相
手が兵卒ならばこうはならないが、今日出て行く人は文句なしの高
官だ。その地位の高さに正比例して、見送りの数は多いし引き継ぎ
は長い。
沈中郎将との個人的な別れは、もうとうに済ませている。これは
公的なお別れだ。そして、今日を境に、自分は沈中郎将と2度と会
うことはない。
だが、まあ⋮⋮機会が有れば、遠目で姿を見ることはあるだろう。
だが、元より成就するはずのない恋だったのだから、その相手が下
手に近くにいるよりはそれだけという方が良いのかもしれない。
小玉はそう思うようになっていた。この考えが前向きなんだか後
ろ向きなんだかは、今後の自分次第だろう。
あ。
小玉にはよくわからない、なんやかんやのやりとりが終わったら
しい。沈中郎将が馬に歩み寄り、軽々と騎乗した。あの馬、小玉が
世話をした沈中郎将の愛馬ともお別れだ。
113
ふと、ここ数日の記憶が頭に溢れかえった。
沈中郎将に連れられ、対面した新しい上官。ずいぶん気さくそう
だが、堂々とした武人らしい人だった。今度の小玉の仕事は従卒で
はなく、一般の兵卒としてのものらしい。おそらく、補給とか、後
方支援関係の仕事をやらされるのであろう。
特に不満はない。性に合っている仕事だ。
それに、不満があったとしても、それが個人的なものであるのな
らば口にも顔にも出さない。それが勤め人というものだということ
を、小玉は軍に入る前から知っていた。その考えは、今後も変わら
ないだろう。だが、軍に入ってから考えが変わったことがある。
自分は、このままずっとここでそういう仕事をしようと思った。
徴兵される前は、そして、徴兵されてしばらくは、軍にいる間に
後々の生活の算段をつけるつもりだった。退役が前提であるという
ことが、小玉にとっては当たり前だった。
だが、自分が求めていたのは、自分の力で自分の口を養うという
ことだ。それが軍の中であっていけない理由はあるだろうか。
そう考えた時、小玉は軍に骨を埋めることになっても悪くはない
と思ったのだった。どこかに行くことも、戻ることもない。自分は
ここにいるのだ。
覚悟というほど強いものではない。それに、一生を決めるには弱
すぎる考えかもしれない。
たまたまやった仕事を惰性でずるずる続けていると、たしなめら
れても否定できない。するつもりもない。
実際、これ、と決めて軍に入った訳ではない。だが、2年働いて、
この仕事を続けることを嫌だと思わない⋮⋮その﹁嫌だと思わない﹂
ということも、仕事を続けるに足る理由になるのではないだろうか。
114
小玉にとって、1番重要なことは、自分で生きていくということ
だ。仕事はそのための手段であって、手段まで﹁これ﹂と決めてし
まうほど拘りはない。そもそも、そんな余裕がない。
自分は今、色んなものに押し流されている最中なんだと、小玉は
思っている。選べるのは流れる時の体勢くらいだ。それで、流れの
中に時々突き出る石にぶつからないようにすることが、出来ること
のせいぜいなのだ。
だから⋮⋮そう、﹁悪くない﹂は今の自分の精一杯だ。
それに小玉は、人生が自分以外の意志で容易く左右される可能性
があるということを、これまでの経験からよくわかっていた。あま
り頑なに決意していると、それで頭がいっぱいになってしまう。す
ると予想外の事態が起こった時、頭にはそのことを思考に組み込む
余地がなく、取り乱したり、足下をすくわれてしまいかねない。
そう考えた。
それは賢い考えなのかもしれないし、臆病な考えであるのかもし
れない。
沸き起こった声に思考を中断された。
沈中郎将と共に出立する兵達が一斉に声を上げた。沈中郎将が馬
上で片手を上げ、号令をかけたのだ。
沈中郎将の馬が動く。軽やかな並足で小玉達の前を横切る。それ
に続く兵達。向かう先には遮蔽物がなにもない。だから小玉は、人
影がどんどん小さくなり、やがて見えなくなるまでをつぶさに見届
けることができた。
何も見えなくなっても、沈中郎将の消えた方を見つめた。やがて
士官が号令をかけ、小玉達も動き出す。去っていった人たちとは反
対側の方向に。
小玉は1度だけ振り返った。
吹き付ける風から砂のにおいがした。
115
116
15︵後書き︶
以上で、﹁なんで小玉さんは軍人になったのか編﹂終わりました。
次章、彼女の夫がようやく登場します。
できれば、沈中郎将さんのことも書きたいです。第一章で彼の視
点はあえて入れていませんが、いろいろとオイシイ人なので、どっ
かで小話として書きたいなあと思ってはいます。
小玉さんのことどう思ってたのとか、そもそもなんで彼女を、手
元に置こうと思ったのとか。
次章以降では頭文字Gさんのその後についても触れます。彼は
⋮⋮いいですね。底の浅いところがとても気に入っているキャラで
す。
意外にあっさり戦死しても、出世して小玉さんの地位を脅かして
も、雷に打たれても、それこそイチモツが再起不能になってもイイ
⋮⋮!
彼の可能性は、主人公夫妻のそれより∞です。選ぶのに迷う。
G某さんの末ろ⋮⋮行く末は、キャッキャウフフしながら書くつ
もりです。
117
今後書く予定の話一覧 ︵前書き︶
﹁ある皇后の一生﹂の今後書く予定の番外編の内容を一覧にしまし
た。
ここに書いてある以外の内容で読みたいエピソードがあれば、随時
受け付けて一覧に足します。
拍手などで、﹁こんなの読みたい∼﹂という風にお伝えいただけれ
ばと思います。
○⋮⋮書き終わりました。
△⋮⋮書きましたが、他にまだ書くかも。
・⋮⋮まだ書いてません。
118
今後書く予定の話一覧 ○文林さん視点臨終話+文林が生前でも死後でもいいので、気持ち
がむくわれたと感じた話︵涙︶
↓﹁告白にはちょうどいいお天気﹂
○小玉さんの義姉さんが文林さんに恋して、蛇蝎のごとく嫌いにな
るまで+義姉さん臨終話+丙くんがそろばんでスケートして、文林
さんに逆さ吊りされる話。
↓﹁星霜﹂
・小玉さんが後宮入りする際の周囲の動き。
・楊清喜の兄ちゃん話。
○明慧さんの結婚話。
↓﹁皇后かく語りき﹂
○黄復卿が結局男に走るまで。
↓﹁その問いに君がいいえと言ったから本月本日交際記念日﹂
○帝姫とその娘の話。
・丙くん結婚話。
○小玉さんと文林がやることやった話。
↓﹁当て馬礼賛﹂︵裏︶※引き下げ中
・蘭英さん、40代にして文官にジョブチェンジする。
・小玉さん出征︵皇后時代︶
○小玉さん、40代で20代の信奉者を作った話。
↓﹁当て馬礼賛﹂︵裏︶※引き下げ中、﹁早めにすませておきまし
ょう﹂
・文林が皇帝になるまでのいきさつ。
・もし小玉さんが賢恭さんと幸せになっていたら︵if話︶
○皇帝夫妻の穏やかな日常
↓﹁皇后関小玉の生活と意見 上・下﹂
119
皇后陛下﹂シリーズ
△死後の世界で再会話︵もしかしたら対談︶
↓﹁教えて!
○二人が結婚してもいいなーと共通認識を持つに至った話。
↓﹁恋にはあらねど﹂
○文林が小玉さんの初恋の人の正体を知り、嫉妬する話
↓﹁相思相愛﹂
・文林と小玉さんとの間に娘が生まれていたら︵if話︶
・小玉さんと後宮の女たちとの話
皇后陛下﹂シリーズの﹁サスペンス劇場の舞台裏
△父が息子をボコる時。
↓﹁教えて!
∼後宮の女たち∼﹂
○ラブらしいラブがある現パロ
↓﹁小玉、空軍やめるってよ﹂+裏
・左遷前∼もしあの時子供が出来ていたら∼
○帰省中の手紙を受け取った文林視点
△文林と賢恭さんのバチバチ
↓﹁相思相愛﹂
・小玉さんのことを嫌いな人たちの話↑NEW!
120
今後書く予定の話一覧 ︵後書き︶
﹁ある皇后∼﹂のプロットもそうだったんですが、箇条書きにする
と、すごく身も蓋もない上にカオスな内容です⋮⋮。
121
青春残照
目があった。外された。
それは礼儀通りの行いで、決して悪意からくるものではないと文
林はわかっていた。彼女に礼儀作法を叩き込んだのは他ならぬこの
自分だ。彼女が礼を失さなかったことに安堵するとともに、胸にど
す黒い物が広がるのを止められなかった。
彼女はもはや、自分の目を直視することもない。
クソッタレ。
これもみんな、先代の皇帝のせいだ。 文林は3代前の皇帝の息子として生を受けた、いわゆる皇子であ
る。しかし、つい最近までそれを知る者はほとんどおらず、ここ1
0年は自分でさえ自らの血筋を意識することなく生きていた。文林
の母は身分の低い宮女で、人員整理で後宮から出された後、実家で
文林を産んだ。そのまま後宮に戻らず、実家で文林を育てたのはと
りもなおさず、彼が必要のない皇子だったからに他ならない。
例えばこれが皇帝の唯一の男児であったり、そこまではいかなく
ても5男以内であったならば跡継ぎ問題などを懸念して宮中に迎え
られたのであろうが、彼は皇帝の11番目の息子であった。しかも
当時は皇子どころか皇孫の幾人かまでが成人しており、皇室は男児
供給過多の状態だったのである。
そんな中、わざわざ身分の低い宮女の産んだ第11皇子を迎えよ
うという声は、当の父親からも上がらなかった。というか彼の存在
を皇帝の耳に入れた者もいないかもしれない。何しろ皇帝は女好き
で、文林と同じ境遇の子は彼以外にも多く存在した。したがって皇
122
室は文林の母である周氏からの届け出は受理したものの、とりたて
て援助するでもなく文林を放置していたのだった。
そんな文林が母の実家でのびのびと育ったのかといえば、あまり
そうとも言えない。母である周氏は文林が10にも満たぬ内に病没
し、彼は祖父母に育てられた。祖父母は優しかったが、彼をどこか
腫れ物に触るように扱っていた。生来あまり溌剌とした性質でなか
ったのもあってか、出生と環境は彼の精神にどこか影を落とした。
﹁いやあ、どこかっていうか⋮⋮あんたあからさまに性格悪いよね﹂
などと関小玉は言うだろうが。
そんな彼が後に皇帝になるとは、本人も含めて誰一人思っていな
かったに違いない。しかし、そのまさかが今現実となっていた。
嬉しさはまるでない。10年前ならば、朝廷に対して反感を持っ
ていた自分は、見返してやった気分になれたかもしれない。だが今
の文林にとっては、得る物よりも失う物の方が大きかった。失う物、
それは今反らされた目線に象徴される。
長く民間で育った文林は、民間人として軍に入った。皇室に近づ
こうという意図はなかったが、そうする方が自分にとって都合が良
かったのだ。
どのような都合が彼にあったのかというと、それはその容姿であっ
た。仮にも後宮に入るだけあって、文林の母は美しかった。しかし
息子はそれに輪をかけて美しかった。そのため、不埒な目的で近づ
いてくる輩が多かったのである。
身分を笠に関係を迫る輩には血筋をちらつかせて追いはらうこと
もしたが、それがどこまで通用するのかわからず、また自分の血筋
を疎ましいものと感じていた文林にはそれに頼ることが不愉快でも
あった。したがって、彼は身を守るために士官することにした。自
らの力で出世し、それによって身を守ることが一番効果的であるよ
うに思えたのだ。もっとも、出世したとしてもその地位は皇帝、つ
まり文林が疎む血筋によって成立している以上、その考えは矛盾を
123
はらむのだが。
文官の道は最初から諦めていた。いくら帝位に関係のない第11
皇子といっても、政治に関わる仕事をして警戒されずにすむとは思
えない。そもそも政治の中枢に食い込むような地位に就ける日さえ
ないだろう。だから武官を選んだ。伝統的に文官より武官の方の地
位が低いこの国では、自分はかえってそちらの方が出世できると文
林は見込んだ。
そしてそこで関小玉に出会った。彼女は当時20才。文林は17
才であった。
⋮⋮出会ったというか、その下に就かされたといった方が正しい
か。そこには男女の出会いにありがちな甘やかさなどはまるでなか
った。なにより文林は関小玉を嫌っていた。何故学のない者の下に
就かねばならないのかと一人憤っていた。おそらく、兵卒を経た叩
き上げの、しかも女性の下に皇族の自分がなぜ就かねばならないの
かと無意識に感じていたのだろう。しかし二人は、紆余曲折を経て
うち解けた間柄になっていった。
こうなるまでに至ったのは、彼女の才能が大きく物を言っている。
関小玉はある点において希代の天才だった。それはおそらく関小玉
が徴兵されなければ永遠に発揮されなかったであろうもの、用兵に
ついての才であった。それは運命を信じない文林でさえ、彼女はな
るべくして軍人になったのだと思うほどだった。自然に敬意が生ま
れ、そして友情が育まれた。
彼らは立場の上では上官と副官であったが、心情の上では友人で
あった。そこから更に新しい感情が生まれた。
愛だとか恋だとか、そう言えるような激しいものではなかった。
ただ関小玉以上に大切に思える相手はいなかったから、彼女さえよ
ければ一緒になりたいと思っていた。相手も大体同じ気持ちである
と共通認識を持つに至ったのは、出会って7年くらいたってのこと
である。7年もたってそれ。
124
生まれた時から7年間一緒にいる幼馴染み同士でさえもう少し進
んだ恋愛をしているが、自分たちはそれくらいでいいと思っていた。
死ぬまでになんとかなればそれでいい。
年を経るにつれ、関小玉の才がますます磨かれていった。それを
最も間近で見つめていた文林は、関小玉の才能を誰よりも理解して
いた人間であり、その才能を誰よりも正確に評価していた。そして
彼女の立てる作戦を補強する立場であることを、関小玉には口が裂
けても言わないが、誇らしいことと思っていた。関小玉に恋人がで
きる気配もなく、焦る必要もどこにもなかった。ほんの数ヶ月前ま
で、文林の人生は充実していたのだ。
皇帝になったということは、それが奪われたということであった。
さきほど反らされた視線は、目を交わすだけでお互いが何を考えて
いるのか読み取れるほどの関係、それが崩壊したことを示した。
だが、それを無理矢理接いでいこうとは思わなかった。事の前兆
があった時点で手を打てばどうにかなっていたものを、あえて放置
したのは自分だ。
だから今更失われたものを求めるような無様な真似はしまい。だ
が、葛藤なしにそれを為した訳ではないし、不満の全てを押し殺せ
た訳でもない。だから、涼しい外面とは裏腹に、心の中で悪態をつ
いた。それ位は自分に許そうと思った。
3年が経った。
それだけの時間をかけて何を為せたのかといえば、子を儲けたこ
と以外特に思い付かない。そのために後宮に通うことに抵抗がなか
ったと言えば嘘になる。だが妃嬪の大半もまた皇帝に対して子を儲
けること、それによって自分に権力を授けることしか望んでいない。
そんな中、女色に楽しみを求めた文林の父は、 もしかしたら建設
的であったのかもしれない。生きているうちに父に共感めいたもの
125
を見出すことが出来るようになるとは、思いもよらなかった。
関小玉とは会っていない。直接顔を合わせることも、口を利くこ
ともたまにはあるが、その相手は関小玉ではなく関将軍である。そ
して相手も周文林という人間ではなく、皇帝という存在に対して接
している。
だから、﹁周文林﹂と﹁関小玉﹂は3年間会っていない。もう2
度と会わないのだろう。そうしなくてはならない。
⋮⋮と、思っていたのに。
優れた人材を登用するのは皇帝の義務である。しかし、群臣の反
対によって取り立てることのできない人間もいる。その中の一人が
関小玉であった。
﹁身分が低いから﹂﹁女だから﹂
反対する者は皆そう言う。しかし大部分がその裏に﹁寵臣になら
れては困る﹂という本音を隠しているのは見え見えである。条件が
揃いすぎているのだ。
かつて、文林が関小玉の片腕として、最高に息のあった仕事をし
ていたことを誰もが知っている。そして、もしかしたら結婚してい
たかもしれないということも、少なくない人間が知っているのだ。
文林は、誓って私情で関小玉を取り立てようとしている訳ではな
い。また、公人としての自分たちが、男女の関係になるのはあり得
ないということも知っている。だが、それを納得してくれる人間は
少ない。皇帝は最高の権力者であるが、絶対の権力者ではなかった。
それでも、一つ抜け道がある。それは関小玉を後宮に入れること。
この国では、一定の条件を満たせば、高位の妃が軍を率いることが
できる。
だが、文林は決断をためらっていた。冷静に考えて、関小玉の後
宮入りは今考えられる最高の措置だ。女として寵愛を受けかねない
将軍を取り立てるのは難しいが、後宮で寵愛を受けた女に軍を率い
らせることはあまり難しいことではない。
しかし、私人としての文林にとっても、その考えはあまりに都合
126
が良すぎた。後宮に入れるのが私情での行為ではないとしても、後
宮という﹁私﹂の部分に入れてしまったら、あの心地よい関係を取
り戻せるのではないかという期待がちらつく。それが、どうしよう
もない自己嫌悪と後ろめたさと迷いを生むのだ。
﹁あの才能を捨てるのは惜しい﹂という考えと、﹁お前はアレを
手元に置きたいだけではないのか?﹂という考えがせめぎ合う。
何度も検討した。何度も何度も。だが、もうこれ以上ないところ
まで考えてもなお、結論はこれしかなかった。
すまない小玉、と文林は心の中で謝った。俺が皇帝になったこと
が、ただでさえ狭いお前の出世への道を更に狭め、お前を望みもし
ない地位へと縛り付ける。
だが、あの才能を埋もれさせることだけは、絶対にあってはなら
ない。それだけは、公人の﹁皇帝﹂と、私人の﹁文林﹂が限りなく
一致している思いだった。
たとえそれが、関小玉の意向と逆らうことになったとしても。関
小玉に裏切りと思われたとしても。
それでも後ろめたい喜びを感じる自分が、どうしようもなく嫌だ
った。
127
青春残照︵後書き︶
文林さんは小玉さんのためにそれなりに頑張ってくれる人だと思
います。もっとも、国益の方が優先です。
128
呪縛︵前書き︶
※関小玉の初恋の人、沈賢恭さん視点の物語。
﹁ある皇后∼﹂第一部、﹁青春残照﹂、﹁呪縛﹂で、立后にまつ
わる三部作という感じです
129
呪縛
人生でもっとも後悔していることは、彼女のことだ。
それは誰にも言えないことだ。だが、もし仮に誰かに言ったとし
たら、必ず言われるだろう。もっとも悔やんでいるのは、おまえの
体のことではないのかと。
だがそれは違う。賢恭は自らの体のことで苦労と苦悩をし続けて
きたが、それは悔やむことではなかった。
賢恭は宦官だ。宦官とは皇帝の后妃に仕えるための存在で、男性
機能がない。それは、事故や病気でそのような体になった者が集ま
った訳ではなく、人為的にそうさせられるのだ。
賢恭とて例外ではない。 賢恭は5歳の時に宦官となった。幼い頃に去勢される者は、大抵
貧しい家の口べらしの結果なのだが、賢恭は違った。
賢恭の家は、貴族と言っていいほどの家柄だった。本来ならば、
何不自由なく育てられたはずだった。
それがかなわなかったのは、彼の一族が政争に負けたからだ。贅
沢をしなければ何の問題もなく暮らしていける程度の家財は残って
いたものの、焦った彼らの一族は権力者に取り入ろうとした。
当時の皇帝に。
権力者への貢ぎ物として、昔から有効なのは美女である。しかし、
当時後宮には美女三千という言葉が、誇張なしにあてはまるくらい
だった。そこに新しい美女を送り込んだところで、皇帝に相手にさ
れるとは限らない。
また、身も蓋もない実際問題として、一族に美女がいなかった。
そこで一族は男に目をつけた。皇帝は男もいける口だったが、周
130
囲に侍る美男子は少ない、そして一族にはまだ幼いながらも、愛く
るしい男児がいた。
それが賢恭である。
一族が彼を去勢したのは、皇帝の心をとらえる確率をひきあげる
ためである。
幼少の頃に去勢した見目麗しい宦官は、10代から20代にかけ
て、独特の中性的な美しさを持つ。それを狙ってのことだった。
また、宦官として後宮に送り込むことで、幼少の頃から皇帝の目
に触れさせようとしたのである。長期的というか、無謀にもほどが
ある。
しん
こうして、後宮に送り込まれた賢恭は、それまでの名字を捨てさ
せられ、﹁沈﹂という名字を得た。
後世、忠臣か姦臣か評価が分かれる宦官・沈賢恭が誕生したので
ある。
身よりのない後宮の中で、賢恭を育てたのは、一人の老宦官だっ
た。
賢恭に自らの姓を与えたその老宦官は、疑いなく人格者であった。
賢恭は彼から多大な知識と、皇帝への敬意を学んだ。
だが、愛された訳ではない。
老宦官は確かに賢恭を大事に育てたが、それは淡々としたものだ
った。彼の周囲は静謐な空気に支配され、側にいるだけで自らがう
るさいものであるかのような気後れがあった。
それでいて、賢恭は老宦官の空気になじみたいと思ったわけでは
ない。
幼く、自らがなぜここにいるのか理解していない賢恭は、自らが
このまま老宦官のようになってしまうのではないかと思った。
このまま自分はここで朽ちていくのかという焦燥を覚えた矢先の
131
ことだった。
﹁おまえ、名は﹂
白く、細い手、美しいがどこか虚ろな瞳。疲れきった表情。
賢恭が出会ったのは、そんな人だった。
彼女がなぜ自分に目をとめたのかはわからない。だが、焦燥を抱
く自分が気になったのではないかと、後に思うことはあった。
ある日、彼女は賢恭に言った。
﹁おまえはここから出たいのだね﹂
﹁⋮⋮﹂
答えられるわけがなく、うつむく賢恭に、彼女は独り言のように
つぶやいた。 ﹁⋮⋮では、強くあらねば﹂
賢恭が武官としての訓練を受け始めたのは、その頃からだ。
老宦官は、賢恭が武器を持つことを気に入らない様子だったが、
何も言わなかった。
賢恭が時の皇后に気に入られたことを、一族は喜ばなかった。皇
帝に取り入るためには、本人でなければ、皇帝の寵愛を受けている
女に気に入られなければならない。
皇后は、すでに皇帝の寵愛を失って久しかった。
ただし、彼女は決して哀れなだけの女ではなかった。後宮の熾烈
な闘争を勝ち抜き、かつていた皇后を蹴落として、自分がその座に
ついたくらいだ。善人であるわけがない。
だが、賢恭が会った頃の彼女は、すでに疲労と諦観で淀んだ瞳を
した無力な女だった。何もかもを捨てて戦いに挑み、勝ち抜き、そ
して破れた。その勝敗を決するのは、皇帝というきまぐれな男の心
132
一つ。
すべてを諦めた女は、自分の生が終わることにも諦めたようだっ
た。ある冬の夜、彼女は誰も気づかないまま寝床で息を引き取った。
賢恭が10歳の時だった。彼女の死後、1年経たないうちに、皇
帝は新しい皇后を立てた。
皇后が、賢恭に残したものは、皇后は不幸な存在であるという認
識だった。
そして、感謝。彼女が何を考えていたのかはわからないが、賢恭
に将来の可能性を与えてくれたのは、間違いなく彼女だった。
武官としての賢恭は、幸い、才能があった。また、頭もよいとあ
り、彼は着々と出世していった。
その過程で美貌が皇帝の目に触れ、二、三度召されたことはある。
賢恭は淡々と皇帝の求めに応じ、すぐ飽きられた。体に傷があるの
が、興の醒めた理由だったとか聞くが、それだけのことだ。
気づけば賢恭は、人格者としての名声、多大なる武勲を持つ存在
となっていた。
その立場後宮で朽ち果てるよりは、はるかに充実したものであっ
た。がむしゃらに働き続け⋮⋮そのうち、老宦官が死んだ。
賢恭が会った頃、すでに老人だった彼は、まるでしわくちゃな布
のかたまりのようになって死んだ。
老宦官が賢恭を育てたように、淡々と見送った彼だったが、心の
どこかにぽかりと穴があいた気がした。
自分はこれで、身内と呼べる者を失ったのだと思った。
そのころ、彼の実家はすでに存在していなかった。存在していた
としても、賢恭は一族の者を身内として認識していなかった。
実家が取りつぶされたとき、助けを求める手を拒んだのだから。
賢恭が連座させられなかったのは、宦官として表向きは実家との
133
縁を切っていたからだ。
賢恭が生きていられるのは、一族の愚考によるものだ。皮肉さを
感じてならなかった。
だが、そのことを笑わないくらい、賢恭は醒めていた。
自分が、心底おかしくて笑ったのは、どれくらい前だろう。
そう思ったのは、彼女と初めて会った時のことだった。
彼女を身近に置いたことに、深い理由はない。いくつかの面で都
合が良かっただけだ。
それでも、彼女が側にいると楽しかった。成長過程にいる若者は
見ていてすがすがしいし、何より小気味よいほど覚えが良かった。
そして新鮮だった。身内に愛されて育った子供が持つ感性は、時
折賢恭をはっとさせた。
何の下心もなかったと断言できる。
しかし、いつのまにか彼女が自分に恋心を抱いたと知ったとき、
胸にわき上がったのは喜びだった。そのことに愕然とした。
なぜ、そう思ったのか。思考をたどって、﹁それ﹂にたどりつい
た時、肩の力が抜ける思いをした。
彼女が自分に恋をした。それは﹁男性として扱われた﹂というこ
とだ。それが嬉しかったのだ。
去勢され、宦官として後宮に入って二十余年。物心ついた頃から
ずっと宦官だった。しかし、自分は﹁男でなくなった﹂ことに対し、
こんなにも傷ついていたのか。
賢恭は苦笑し⋮⋮そして涙を流した。自分でも覚えていないくら
い久しぶりに流した涙は、心の中に空いた穴をほんの少しだけ埋め
134
てくれた。
とはいえ、だからといって、いや、かえって彼女の気持ちに応え
ようとは思わなかった。
彼女の恋心に喜びを感じたのは、恋ではない。彼女の気持ちが、
自分の心の傷を癒やしてくれるというだけのことだ。そのようなこ
とに付き合わせることはできない。
よしんば、気持ちに応えたとしても、自分は体で応えてやること
はできない。宦官が結婚するということはこれまでもあったが、心
がしっかりと結びつけられていないと、維持は難しい。そして、圧
倒的に辛い思いをするのは女のほうだ。
だから突き放した。彼女が自分の身近にいなくなり、自分でも驚
くほどの喪失感を覚えたが、その時は、それがずっと続くことにな
るなど思ってもいなかった。
何年も経ち、彼女の自分に向ける感情は愛情から尊敬に代わり、
そのことに苦しみを覚え⋮⋮そして気付いた。
ああ、自分も彼女を愛していたのだ。
自分をどうしようもなく愚かだと自嘲し、仕方ないとあきらめた。
賢恭はいつか、彼女が幸せな結婚をするだろうと思った。その時、
この苦しみも終わるだろうと思っていた。
だが、彼女はいつまでたっても結婚せず、そして皇后になった。
あの、辛く、苦しい存在に。
その時、賢恭は年甲斐もなく叫びたかった。こんな結果を望んで
などいなかった。
皇后となった彼女を支えたいと思い、軍人をやめて本来の職分に
135
戻った。側に仕える自分を、彼女は最大限の敬意と信頼を寄せてく
れている。だが、愛情ではない。
時々夢想する。自分たちが結婚して、どこかから養子をもらって
大事に育てている家庭を。皇后になるより、彼女は間違いなくその
方が幸せだったと断言できる。
なぜそうしなかったのか、生涯悔やむ。しかも、皇帝が彼女を皇
后としたのは愛情によるものではなく、打算だ。後に愛情があるこ
とは知ったが、それはそれで賢しらな手を使い、彼女を騙して皇后
に仕立てたようなものだ。
皇帝個人を許そうとは思わない。だが、同時に皇帝という地位に
対して敬意を捨て去ることのできない自分もいる。
彼女への後悔ともども、それはもはや自分にかけられた呪いだ。
136
呪縛︵後書き︶
中国の宦官の本を読んで、宦官の葛藤というものを書いてみたいと
思いました。その結果が彼です。
でも、書いてみて、自分でもびっくりするくらい、彼が不幸でど
うしようと思います。どこかで救済したい。
137
その問いに君がいいえと言ったから本月本日交際記念日︵前書き
︶
※bl、死にネタ注意!
138
その問いに君がいいえと言ったから本月本日交際記念日
復卿には、付き合っている女に戯れに聞く問いがある。
﹁お前は、俺に惚れているか﹂
﹁はい﹂
﹁俺が死んだら悲しいか﹂
﹁はい﹂
﹁俺を死なせる者を恨むか﹂
﹁はい﹂
大抵、このやりとりで、復卿は女との別れを決める。
﹁あの﹂黄復卿が男に走った。
その噂はあっという間に広がり、復卿を知らない人間でさえも、
と言ってやりたいくらいだ。
今や彼が誰と付き合っているのかを知っているくらいだ。そういう
人間が、こんな噂知ってどうする?
その噂の伝播の速さといったら、先日上司主催で行われた、第8回
焼き芋大会の際に、上司がワラに放った火が燃え上がるがごとく激
しかった。
余談だが、この大会、さすがに8回も回を重ねると、イモ以外の
ものを焼く者が多く、最近は食べ比べ会のようになっている。今回
は朴の葉に包んだ羊の肉を焼いた上司が優勝を勝ち取った。主催者
が優勝してどうするんだ。
139
閑話休題。
比較的身近にいる人物は、最初その噂を信じなかった。彼らは﹁
黄復卿﹂と﹁女好き﹂が枕詞のごとく深く結びついていると知って
いる。だが、﹁相手﹂を知った途端、﹁そうか!﹂と叫んで頭を抱
えてうめき出す者が多数いたことから、復卿と同じくらい、﹁相手﹂
も身近な存在だったからだ。﹁相手﹂は虎視眈々と復卿を狙ってい
たらしい。
言えよ。そしたら、俺、警戒したんだけど。
⋮⋮というのが、復卿の率直な感想である。知らぬは本人ばかり
なりというやつだった。
はっきり言おう、﹁相手﹂との関係は合意の上ではない。
酔いつぶされたすきに乗っかられて以下略というやつである。
そして、その事実は、翌日、最も身近な連中に伝わっていた。重
い腰を抱えて出勤した復卿の目に飛び込んだのは、普段飄々として
いる上司の沈痛な顔、普段磊落な同輩の慈しみに満ちた微笑、普段
邪険な弟分の憐れみの眼差しだった。特に弟分は、似たような危機
に幾度かあっているため、限りなく親身な感情がそこにこもってい
た。
追い打ちをかけるように、普段不仲な同僚が、そっと痔の薬を手
渡してくれた。奥方から預かったらしい。﹁そのうち、家内が詳し
い話を聞きたがってる﹂という声に、からかいの色は一切なかった。
正直、心が折れそうになった。だが、ここで折れたらなし崩しに
なることは目に見えていた。
140
そして、復卿の闘いの日々が幕を開けた。必死に逃げ回り、一時
年も相当離れてるだろ﹂
は女装もやめた。だが、﹁相手﹂は一切諦めなかった。
﹁なあ、お前、なんで俺がいいんだ?
すると相手⋮⋮楊清喜という、上司の従卒はにっこり笑ってい言
った。
﹁それはあなたが、閣下に心底誠実にお仕えしているからです!﹂
その答えに虚をつかれ、あの問いを発した。
﹁お前は、俺に惚れているか﹂
﹁はい﹂
﹁俺が死んだら悲しいか﹂
﹁はい﹂
﹁俺を死なせる者を恨むか﹂
﹁いいえ﹂
﹁そうか﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
その解答を聞いたから、こいつで良いと思った。﹁回答﹂ではな
く、復卿にとってそれは、限りなく模範的な﹁解答﹂だった。
﹁俺、あいつと付き合うわ﹂
そう言った時、弟分の眼差しが憐れみを通り越し、ついには哀し
み、更には絶望に満ちたことについては心がいたむ。
だが、楊清喜は自分の死後に禍根を残さないという点では理想的
な相手だった。
復卿はいつか﹁彼女﹂のために死ぬと思っていた。自分の上司、
141
誇りの恩人である関小玉のために。だが、その時、彼女に恨みを持
つ者を残したくなかった。
楊清喜は決してそうならない相手だった。なぜなら彼も、関小玉
に心酔しているからだ。
だからきっと、彼は自分が死んだ後、悲しみ、それでいて彼女の
ために死んだことを褒め称えてくれるはずだ。
それはいいなあと、心の底から思ったのだ。
だから。
だから今、腹を貫く熱い塊も、肺腑からこみ上げる鉄くさい液体
も気にならない。
目の前の敵を切り伏せて、ふと空を見上げた。
声なき声で楊清喜に、決して届かぬ言葉をつぶやく。
︱︱なあ、俺たち付き合ってから、今日が1年目だな。
142
その問いに君がいいえと言ったから本月本日交際記念日︵後書き
︶
いつも思います。箇条書きの身も蓋もないイメージと、実物とのギ
ャップがどこから来るのかと⋮⋮。
143
ところで、報われるってこうですか!?
告白にはちょうどいいお天気︵前書き︶
死にネタです!
限界です!
これが
144
告白にはちょうどいいお天気
彼女に自由になってほしいと思った。
﹁文林﹂
呼び声にゆったりと目を開けた。それだけの動作がとてつもなく
おっくうだ。
まるで、残った体力をやりくりしているみたいだ。
そんな主婦じみたことを思っていると知ったら、彼女はきっと﹁
もう動くな喋るな﹂と言うに違いない。自分の想像が妙におかしか
った。
目を開くと、相手がもう一度自分の名を呼んだ。
﹁文林﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁何か欲しいものは?﹂
欲しい物は何もない。そして、もうすぐ自分は何も欲しがらない
世界に行く。
だが、やらなくてはならないことがまだある。
﹁太子を⋮⋮﹂
﹁わかった﹂
そういって身軽に立ち上がる姿は、もう良い年なのに、出会った
頃からさほど変わらないように見える。しかし、そこはかとない優
雅さが漂うのは、彼女の後半生によるものだろう。
自分がそう変えた。
その事実にそこはかとない喜びを感じるのは自分の度し難さによ
るものだと自嘲した。
145
﹁大家、御前に﹂
望んでいた相手はすぐに来た。次の間に控えているからだ。彼女
は来ない。気を利かせて、席を外しているのだろう。常識的には正
しい態度だ。傍目には父と子の別れなのだから、子の生母ではない
彼女は邪魔になるのが普通だ。
だが、彼女は勘違いをしている。自分と息子との間には親子の情
愛は存在していない。彼女の認識をあえて正そうとしなかったのは
自分と息子の責任だ。
﹁太子⋮⋮﹂
﹁はい﹂
﹁余は間もなく死ぬ﹂
﹁はい﹂
そこで、﹁そのようなことをおっしゃらないで下さい﹂と言わず、
淡々と肯定する息子が面白い。もし言ったのが彼女ならば、必死に
否定しただろうに。
だが、それでいい。
そんな息子だからこそ、後継者に据えた。他の息子は皆、生母の
影響で彼女に敵意を持っていたから排除した。どの息子も似たり寄
ったりの力量しか持っていないから、彼女に決して危害を加えよう
としない息子だけを残した。
無理矢理今の立場に押し込めた以上、自分は彼女の安全に責任が
ある。自分の死後に至るまで。
彼女は真相を知らない。幸せな誤解をしたままだ。自分が我が子
を本意ではなく処刑したのだと。彼女は、彼女の甥を自分が可愛が
っていたことから、自分を子供好きだと考えていたようだったが、
そんなことは一切なかった。あの子が可愛かったのは、彼女の甥だ
ったからだ。
146
そんな秘密も何もかも、自分は明かさずに逝く。
残りわずかな力を振り絞って、息子に言う。
﹁余の死後、皇后を⋮⋮﹂
﹁っ、はい!﹂
﹁皇后﹂という言葉が出た途端、息子の食いつきが良くなった。
こいつに難があるとしたら、彼女のことを好きすぎるところだと思
いながら、言葉を続ける。
﹁自由にしてやってくれ﹂
﹁⋮⋮陛下、それは﹂
﹁太子、勅命だ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
彼女は、もう十分すぎるくらい拘束された。自分によって後宮に
入れられてから何年間も。だからもう、自由になるべきだ。
︱︱詭弁だ!
頭のどこかで誰かが叫ぶ。それは自分だ。まだ若く、純粋だった
自分の名残が叫んでいる。
︱︱その通りだ。
悪びれずに肯定するのは今の自分だ。そう、自分は自分以外の者
に拘束される彼女を許容できない。
このくらいのわがままくらいは許されてもいいだろう。自分はほ
ぼ全ての人生をこの国に捧げた。そんな自分の、純度混じり気なし
のわがままだ。ただ、もう一つわがままが許されるのならば⋮⋮。
147
︱︱大家!?
︱︱文林!
どうなさいましたか⋮⋮誰がある!
文林しっかり!
︱︱皇后陛下、どうぞお控えに⋮⋮!
︱︱でも!
︱︱大家、お手をお離し下さい!
嫌だ。
⋮⋮いかないで!!﹂
力を振り絞って、彼女の手を握りしめる。彼女も、それにもう片
方の手を重ねる。
﹁いかないで!
必死の形相でしがみつく彼女に思う。なあ、俺は今お前が涙を流
すほど、お前の心に食い込んでいたんだな。
お前に言いたいことがあるんだ。最期にそれを言えれば悔いはな
いんだが⋮⋮。
どうやら無理らしいと苦笑した。
世界が暗転する。
気づくと、見知らぬ場所に立っていた。やけに見晴らしのよい場
所だ。そして、いい天気だ。
148
なにより、彼女がいる。若い頃の彼女。出会った頃の姿。
﹁文林!﹂
駆け寄って抱きついてくる。これは夢か。それとも死後の世界は、
自分の願望を実現化するところなのだろうか。
だが、そんな思いも彼女の言葉で霧散した。
﹁ありがとう。あんたと一緒で幸せだった。あんたとじゃなきゃ作
れない幸せだった﹂
胸に迫るものがあって、ただ抱きしめ返した。
﹁ああ、俺も⋮⋮、俺もだ﹂
そして、彼女の顔に唇を寄せて言う。どうしようもなく言いたく
て、でもずっと飲み込んでいた言葉。
︱︱愛しているんだ。
149
告白にはちょうどいいお天気︵後書き︶
﹁⋮⋮でも、小玉さんがこの後、ちゅーを避けるかもねー﹂と言っ
たら、友人kが目頭を押さえました。ごめん。
なんだか、これでようやく﹁ある皇后∼﹂が本当に完結したような
気がします。
実は文林は、一番キャラを掴みにくい奴で、中途半端な立ち位置に
いました。だから、﹁小玉相手に不憫な奴﹂という形で焦点を絞っ
て書いたのは否めません。
でも、やっぱり彼もどこかで報われなきゃなーと思いましたし、﹁
死後でもいいから!﹂というコメントをいただき、生前の彼の不憫
通り越して不幸な状態を再認識したというか⋮⋮。
150
皇后関小玉の生活と意見 上
小玉は三日に一日は一人で目が覚める。
つまり、三日に二日は誰かと一緒に寝ているわけだ。まあ、夫な
んだが。
体を起こし、目を少しこすっていると、遠くで鐘の音が響いた。
それと同時に、宦官と女官たちが部屋に入ってくる。
﹁おはようございます陛下﹂
﹁はい、おはようございます、太監﹂
そのやりとりを皮切りに、部屋の中が一気に慌ただしくなる。小
玉の身支度のためだ。はっきり言って、いらんだろーと思うのだが、
これも彼女たちの雇用のためなので、小玉は諾々としたがっている。
﹁陛下、今日のお召し物はどれにいたしましょうか﹂
だが、こういう意見を問われても、答えるのに窮する。
﹁どれでもいい﹂
と答えると、ああでもないこうでもないと話し合いが始まるので、
小玉はある方法を取っている。
ひんしゅく
正義の味方、サイコロである。さすがに女官たちの前で振ってし
まうと、顰蹙をかうので、前日の夜に振っておいて、その番号を覚
えておいている。
﹁右から6番目ので⋮⋮﹂
あ、しまった。
今日は少し失敗した。よく見ずに番号だけ言ってしまったため、
なんというか⋮⋮
﹁まあ、陛下、めずらしいですわね﹂
151
女官の声が一気に明るくなった。薄桃色に金糸で縁取りした、若
かんざし
々しいというか、かなり華やいだ衣服だった。
今更嫌とはいえず、女官たちが簪はどれにしよう、いや生花の方
が、帯留めとどう合わせようと話し合うのを﹁あー⋮⋮﹂と思いな
がら眺める。が、やめさせることはしない。
彼女たちは、女主人に飾り気がないことをいつも嘆いており、隙
あらば着飾らせようとする。別に小玉の素材が良いというわけでは
なく、楽しみがあまりにも少ないのだという。数少ない娯楽がこれ
とはかわいそうすぎる。
だから、こうなった日は、腹をくくって、女官たちへの日頃の感
謝を込めて、おとなしく着せ替え人形になるようにしている。
今回はちょっと、派手すぎたような気もするが。
﹁大家もお喜びになりますわ﹂
いえ、お笑いになりますわ。
言葉には出さず、夫のところに向かう。
すると、相手は笑うどころか大きく目を見開いた。
﹁どうした。ずいぶんかわいいな﹂
﹁それは40近い女に言うべきことではないねえ﹂
軽く返して、その場にしゃがみこんで額ずく。日課のご挨拶だ。
﹁おはようございます大家。大家の御代の万歳長久をお祈り申し上
げております﹂
﹁立つが良い﹂
そういわれて、よっこらせと心の中でのみつぶやいて立ち上がっ
て、夫の隣に座る。実際に口に出すと、夫に色々と言われるのだ。
言論の自由を訴えたい。
﹁花、ゆがんだぞ﹂
﹁いいよ、別に﹂
﹁他の妃に馬鹿にされるぞ、隙を作るな﹂
152
これから、皇子とその生母が挨拶に来る。
夫が手を伸ばし、小玉の頭に飾られた生花の位置を直す。
それと同時に先触れの声が聞こえる。第1皇子とその生母が来た
のだ。彼らのあいさつを、夫の正妻として小玉も受けなくてはなら
ない。
夫には3人の息子がいる。そのどれも、小玉の産んだ子ではない。
それぞれに生母がいる。3人目の子の母はもう他界しているため、
じょうし
その実家が名目上の、小玉が実質の後見を行っている。
﹁大家、娘子、両陛下のご健康をご祈念もうしあげます﹂
他の皇子⋮⋮というか、その生母は、小玉が健康を害することの
方を願っているに違いないという目で、こちらを見ている。気持ち
はわかるし、態度はもっとわかりやすいので、特に問題視はしてい
ない。
だがなぜか夫はその事実に苛立たしさを感じているらしい。最低
限の態度をとりつくろうところまではできているんだから、別にい
いだろと思うのだが。
﹁じゃあ、仕事頑張ってね﹂
﹁おお、お前もな﹂
朝の挨拶が終わると、そこで夫婦は別れる。夫は政務、妻は軍務。
軍務に美麗な服は必要ない。つまり、脱ぐ。
﹁短い命でございました⋮⋮﹂
そっと目頭を押さえる女官たちを急かしつつ、衣服を改める。急
いでくれ。一人では着脱できないんだよ、この服!
着たときよりも長い時間をかけて服を脱がされる。挨拶のためだ
けに着飾るというのは、正直もったいないうえにめんどうくさいの
だが、これも威儀のためといわれたら断れない。戦に置き換えれば、
ハッタリということなのだから、それは大切なことなのだ。
最近夫に、
153
﹁お前さ、なんでも軍事に結びつけるのやめようよ。本当に仕事人
間だなあ﹂
と言われた小玉である。
人生を畑か軍に費やしてきた女に何を求めているのだ。腹がたっ
たので、ダイコンの成長と結びつけて話したら、﹁軍事でいい⋮⋮﹂
ひと
とがっかりされた。それもそれで腹がたつ。半分本気でツンとそっ
ぽを向きながら﹁それなら他のことと結びつけられる女性を正妻に
したら?﹂と言ったら、予想外の反応を示された。
﹁も⋮⋮もう一回、やってくれ、今の!﹂
なんでだ。
結局、3回やらされた。
﹁あ、本当にそのつもりになった?﹂と思って、皇后の印と綬を
渡そうとしたら、すごい勢いで怒られた。理不尽すぎる。
154
皇后関小玉の生活と意見 上︵後書き︶
なんか、嫉妬されてるみたいな気持ちになれたらしい⋮⋮︵涙︶
155
皇后関小玉の生活と意見 下
服を脱いだら、髪を外す。﹁髪を外す﹂というのも、面妖な表現
だが、小玉の場合は付け毛なので、文字通り﹁外す﹂のである。
付け毛になったのは、数年前だ。
もはやそうしないと落ち着かないくらいの習慣になってしまった
ことだが、小玉は開戦前にはばっさり髪を切り落とす。
別の面をいうと、そういう機会でもないかぎり、髪を切らない。
だから、しばらくは髪を伸ばしっぱなしな時期もあった。それは、
夫が帝位につき、小玉が皇后になってしばらくたつまでのことだ。
戦がなかったため、小玉の髪は伸び放題に伸び、腰を越すくらい
までになった。しかも、後宮の妃嬪となってしまったため、美容に
ついては手厚く処置された結果、自分でもびっくりするくらいつや
やかになってしまった。
そしてそれはちょっとした悲劇を招いた。
ある日、隣国から急に宣戦布告され、小玉が出征することになっ
た。承諾した小玉は、まっさきに髪を切り落とした。左手に束ねた
髪を巻きつけて固定し、小刀でばっつんと切り落とした直後、部屋
に夫が駆け込んだ時のことが忘れられない。
﹁間に合わなかったか⋮⋮!﹂と絶叫し、膝から崩れ落ちた。わ
けがわからないまま、とりあえず慌てて駆け寄った時に髪を床に投
げ捨てたら、﹁馬鹿、やめろ!﹂と言われた。これも理不尽⋮⋮!
その後、小玉づきの宦官やら女官やらが次々と駆け込んで、夫と
同じ末路をたどった。
何が何やらわからなかったが、皇后として着飾る時の格好がどう
156
のと言われ、なんとなく納得した。でも、切ったものはしょうがな
い。ごめんねーとそそくさ出征し、来た見た勝った状態で、さっさ
と戻ってきた小玉を出迎えたのは、切り落とした髪で作ったかもじ
である。
床に放り投げた髪を女官たちが泣きながら一本一本拾い集めたの
だとか。ごめんなさい、お手数かけました。でも、かもじなら馬の
尻尾の毛とかでもいいのにと言ったら、やっぱり怒られた。思いや
りが伝わらないって辛い。
ともあれ、小玉はここ数年、公的な場ではかもじをつけて生活し
ているが、これが結構快適だったりする。だって、日常生活で頭が
軽い。これはもう、定期的に髪を切って、私的な時間はずっと断髪
状態にしてもいいような気がすると思うのだが、それは周囲に止め
られている。
だから、小玉はやや短い髪を首の後ろで結び、通常生活、すなわ
ち軍事関係の仕事を行っている。
やることは実は単純である。練兵、練兵、軍議、練兵等々。別に
皇后が軍事を取り仕切るという訳ではなく、ある部隊の統率を任さ
れているというだけのことなので、やっていることは指揮官の裁量
の範疇と大して変わらない。ただ、大将軍や夏官︵軍事を統率する
機関︶尚書たちの会議にも顧問のような立ち位置で常に参加してい
るし、望めばこの国の軍に関する情報はいくらでも得ることができ
るが、そんなところまでは特に必要ないと思うのだ。
自分、実は一指揮官としての能力しか持っていないと思うんだよ
ねというのが小玉の見解である。あと、おじさんたちの﹁こいつ邪
魔だな﹂という視線は結構痛い。気にしないが、おばさんのツラの
皮の厚さにだって限界はある。
それでも最近は、ちょっとした企画にも携わっている。自身の経
157
験を踏まえて、若い段階から軍隊で教育を行って兵を育てるという
部署を作ろうとしているのだ。小玉本人がそのように育てられたお
かげで、長じて他の衛にいってもなんとかやれたので、それを系統
立ててできないかと思っている。
武科挙での合格者は、単に個人の力量が優れているというだけに
すぎない。それはそれですばらしいことなのだが、軍は命令系統の
整備によってなりたっている。指揮する部分の能力をはかれないと
いう点で武科挙は心許ない。それが、かねてからの小玉の見解だっ
た。
それを何とかする機会を与えられたのは、嬉しい。現在、他のも
のの意見を採り上げながら、企画書の草稿を作っている。初めて作
るものには慎重さが必要なのだ。まさに農業に似ている思う。初め
て蒔く種がきちんと実るか、実らなかった場合、損害をどう補填す
るか、長所と短所、成功した時と失敗した時のすべてを想定した上
で行動に出なければならない。
この日は午前中、自分のところの兵の練度を確認し、他の衛の見
学をしてきた。皇后陛下がご覧になるということで色めき立って士
気が向上するのですと、あちこちの将軍に苦笑されたので、なるべ
くいろいろなところに足を運ぶようにしている。午後は、先に述べ
た企画の打ち合わせでつぶれた。
夕飯は夫ととる。なぜかこれは習慣化している。
﹁今日は何があった?﹂
﹁そうね⋮⋮﹂
やったこと、思ったことをぽつぽつと話し合う。小玉は機密も含
め、自分の言いたいことをすべて最高権力者である夫に言えるが、
夫は状況によっては言えないこともあるので、大変だろうなと思う。
だが夫は、妙にこの時間を大切にしている。疲れているんだろうな
と思う。
158
本当ならこの時間帯に、宦官が妃嬪たちの名が彫られた翡翠の板
を持ってくるのだという。皇帝が一枚それを選んだら、その夜、そ
の女が枕席に侍るのだというが、小玉はそれを見たことがない。夫
は基本的に自分のところで休むからだ。傍目には仲の良い夫婦だな
あと思う。実際はどうだろう、不仲ではないと思うのだが。
夜、二人きりの寝所。しかしそんな意味深な状況設定にもかかわ
らず、お互い着衣を乱すこともない。わざわざ何をやっているのか
というと、当初、それは簡単に言えば勉強会であった。
後宮に入った頃、ろくに準備もせずやってきた小玉は武官として
の作法はともかく、妃嬪としての作法は無知に近かった。それどこ
ろか田舎娘から軍人として生きてきたため、貴族女性としての作法
も身につけていない。必要性を感じていなかったからなのであって、
それについて皇帝は一切文句を言わなかった。そんな無駄なことを
するならば行動に出る男だ。その通り、彼は小玉が入ってきた当初、
その寝室で、後宮において身につけるべき礼儀作法教養講座を開催
するようになった。あまりにも豪華な教師。嬉しくて涙が出るよと
ぼやいた日のことを忘れられない。
その流れが実は今も続いている。今はもう勉強会という感じでは
ないが、二人でのんびり本を読んだり、どうでも良いことを話した
り、酒を飲んだり、囲碁に興じたりする。
むろん徹夜をする訳ではなく寝台も一つしかないので、それが終
わると二人で同じ床に入るのだが、むろん体の関係がある訳でもな
い。恥じらいだってない。なにせ戦争中、雑魚寝した仲なので割り
切っている。だから、一見強化合宿という感が漂う同衾となる。
だがそれが毎晩続けば、内実を知らない者にはいかにも皇帝の寵
愛が深いと見えるだろう。小玉は何度か他の妃の元へ行くことを勧
めたが、
﹁別にいい。既に皇子も3人いる﹂
159
で済まされた。
﹁⋮⋮﹂
その時小玉は黙ることしかできなかった。以前ならばその言葉を、
女を子を産む道具としか見てないと食ってかかったかもしれない。
だが妃嬪の大半もまた皇帝に対して子を儲けること、それによって
自分に権力を授けることしか望んでいない。後宮という特殊な競争
社会においては人の感情というのは、徐々に摩耗させられていくの
だということを小玉は早い時期で感じ取っていた。夫の息苦しさも
分かるようになっていた。
静かな寝息を立てている夫の寝顔を見る。まるで死んだように寝
る男だ。体をまっすぐにして、寝返りだってめったにしない。それ
が彼の人生やら性格やらを表しているようで、時々気の毒だと思う。
だからかなあ、と思う。
ここに来てから、嫌だな、理不尽だなと思うことは結構多い。そ
れは、小玉が正しいからというより、この世界で良しとされること
に、自分が合っていないだけなのだと思う。それでもここにいる理
由をたびたび考えてみたことがある。
実をいうと、嫌なら逃げ出すことだって可能なのだ。下手をすれ
ば国賊として追われる身になってしまうが、何なら外国に逃げ出せ
ばいい。逃げた先で何とかやれるであろう人脈も、財力も、今の小
玉は持ち合わせている。でも、そうしないのは、10年以上前に自
分に誓ったことの他に、この男を残したくないのだ。そして、この
男はここに残るしかないのだ。だから自分もここにいなくてはなら
ないのだ。
そんなことをごく自然に思えるくらい、この男への情が深い。き
っと、こんな風に思える人間は、自分の一生かけても他にいない。
160
161
皇后関小玉の生活と意見 下︵後書き︶
それをご本人に言って差し上げて⋮⋮!
162
早めにすませておきましょう︵前書き︶
小玉さんが、40代で20代の信奉者を作る話です。彼女がきちん
と皇后やっているので、﹁誰だおまえ﹂みたいな感じになっていま
す。でも、裏では﹁めんどくさ!﹂と思っているのだと、暖かく見
守ってやってください。
163
早めにすませておきましょう
深層の育ちなせいで、顔もみたことのないまま従姉が嫁ぎ先で死
んだのは、何年も前の話だ。安慶雲は、そんな彼女にはあまり興味
がなかった。
当然、彼女の産んだ子にも会ったことはない。だが、こちらに対
しては興味は少しある。なにせ、この国で一番重要な子どもだから
だ。
皇帝の息子で、先年立太された。つまり、次代の皇帝というわけ
だ。そうであれば、自分の一族は外戚となり、権勢をふるうことが
できるはずなのだが、今の時勢だとそれはかなり難しそうだ。なぜ
なら、当代の皇后が、太子への関与を遮断している。
生母である安徳妃の死後、太子の実質的な後見は彼女が行い、外
戚が入り込む隙間はないのだ。安一族はそのことに不満を抱いてい
る。政治的なことにあまり興味がない慶雲も、一族がないがしろに
されているような気がして、いい気分はしない。
⋮⋮いや、﹁しなかった﹂。
そんな気持ちはもはや過去のことだ。今の慶雲は、緊張と興奮の
あまり高鳴る鼓動と赤らむ頬を、必死に抑えようとしながら、皇后
の前に跪いていた。
﹁素晴らしい働きでした。これからも大家のため、お働きなさいね﹂
もらった言葉にくらくらする。
﹁もったいないお言葉でございます。臣のごとき若輩者に!﹂
頭を更に深く垂れながら、言葉をつむぐ。これが儀礼的な意図で
の謙遜ではないとわかってほしかった。
164
そうだ、自分の働きなど、この方のそれに比べれば何ほどのもの
でもない。
どちらかというと、文官の家系である安一族の中で、慶雲は例外
的に軍人を志していた。家族が反対していたため、なかなか戦に出
ることはできなかったが、今回の出征でようやく初陣を飾ることが
できた。その喜びの前には、あまりよく思っていない皇后が総指揮
をとっている事実など霞むと思っていたが⋮⋮。
全然霞まなかった。度肝を抜かれた。
﹁そなたは、初陣を終えたばかりの武者とは思えませんね﹂
ゆったりと椅子に腰掛けて皇后が言う。さすがに宮城に置いてあ
るような精緻な細工の椅子ではないものの、戦場にはちょっと似つ
かわしくないような豪華な椅子。出征する前の自分ならば、無駄だ
と思い、皇后に対する悪感情を高めていただろう。だが今は、当然
だと⋮⋮それどころか、この方はこの椅子程度にはもったいないと
すら思える。
﹁頼もしいこと﹂
皇后がふっと笑って言う。もったいなさすぎて、もはや言葉も出
ない。
落ち着き払って見えるのは、恐怖以上の驚きと感動があったから
だ。あんな風にまるで手足のごとく兵を用いることができるなど、
想像したこともなかった。
伊達に庶民から皇后に成り上がったわけではない。
そんな声をちらほらと聞いたことはあったが、それどころの話で
165
はなかった。
慶雲も、末は将軍と思い、用兵を学んだことはあるし、それほど
多くはないが私兵を指揮したことはある。だからわかるのだ。皇后
がどれ程の手腕で軍隊を運用しているのかを。自分など到底及ばな
い境地に彼女は達しているのだ。
もはや抱く感情は尊敬を越え、崇拝に近かった。
そんな相手に呼ばれ、間近で尊顔を拝し⋮⋮といっても、ずっと
頭を下げっぱなしなので、皇后の顔を全然見ていないのだが⋮⋮あ
おもて
まつさえ誉め言葉を賜っているのだ。信じられない。
﹁面を上げなさい。先ほどから許可しているのですから、遠慮しな
くとも良いのですよ﹂
﹁⋮⋮はっ!﹂
間があいたのは、真っ赤な顔を見られたくなかったからだ。だが、
皇后にそのようなことを言われて上げない訳にはいかなかった。
そして、初めて皇后の姿を見た。
皇后もなぜかじっくりと自分を見つめる。そして、親しげに微笑
みかけてきた。
﹁そなたは太子の血縁だとか﹂
﹁⋮⋮は、はい﹂
﹁確かにどことなく似ています。太子がもう少し大きくなったら、
そなたのようになるのでしょうね﹂
ここで、皇后はため息をついた。
﹁そなたも知っているでしょうが、太子は肉親の縁が少し薄い方で
す。今後、太子の力にもなってください﹂
太子の生母と異母兄のことを言っているのだろう。太子への接触
を断っているはずの皇后から、そのような言葉が出たことに疑問を
持たないわけでもなかった。
だが、それよりも、彼女の姿が目に焼き付いて離れない。
思っていたより、ずっと若く見えた。顔立ちは凡庸だが愛嬌があ
166
る。これまで聞いた噂のように、肩のあたりで切りそろえられた髪
のおかげで童女のような印象を受けたが、同時に存在する老成した
雰囲気が、なんともいえない不均衡さを醸していた。そのせいだろ
うか、目が離せなかった。
いつの間にか皇后の御前から辞去していたのだろう。自分の部隊
に向かって、ふらふらと歩いていた。
﹁おい、どうしたんだ﹂
たまたま外に出ていた同輩が声をかけてきた。身分も同じくらい
で、つい先日まで、皇后に対して隔意を持っていた者同士、話があ
っていた仲間だ。だから、今はもう敵だ。無視する。
そのまま上官のところに行って尋ねた。
﹁龍武軍に入るためにはどうすればいいのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮なにがあった?﹂
﹁できれば、左龍武の方がいいのですが﹂
﹁おい、本当になにがあった?﹂
皇帝は器量好みではなく、軍人としての力量のため、皇后をその
位につけているのだという噂がある。そのことについては、以前も
今も苛立たしさを感じている。ただ、理由が違う。つい先日までは、
﹁下賤な女が﹂という気持ちで、今は﹁皇后を愛していないくせに﹂
という気持ちからだ。
だが、同時にその噂は、希望も持たせてくれた。
皇后が愛されていないのであれば、側近くに仕えていれば、もし
かすると⋮⋮という気持ちを。だから、皇后の率いる軍に異動する。
﹁したい﹂ではなく、慶雲にとってそれは決定事項だった。
安慶雲は実にこの時22歳。人生経験上ではまだまだ若造だが、
167
初恋を経験するには遅すぎる年齢である。そして、遅い初恋はこじ
れるという事例を見事に体現した人間でもあった。
168
相思相愛︵前書き︶
文林が小玉さんの初恋の人の正体を知り、嫉妬する話です。
169
相思相愛
﹁沈将軍が?﹂
関賢妃改め、最近皇后になった小玉が驚いた顔を向けた。
﹁ああ。適任だろう。本人からも自薦があってな﹂
﹁なんで閣下⋮⋮ああもう閣下いらないんだ、将軍が?﹂
﹁⋮⋮嫌なのか?﹂
かなり強い語気に、文林は怪訝に思った。
﹁うーん⋮⋮﹂
小玉はばりばりと頭をかきながら、唸った。
﹁うしろめたい? でも、やましいこと自体はなにもないから複雑
な感じ?﹂
﹁どういうことだ?﹂
話は少し前にさかのぼる。
晴れて小玉を皇后に立てた文林は、私的な感情面では至極満足し
ていた。だが、公的な方ではまだまだ色々と足りない。小玉に思う
存分軍事の采配をふるわせるために皇后に立てたのだ。そのお膳立
てをしてやらねばならない。特に人事方面で。
小玉の側近には、軍事に明るい者をつける必要があった。だが、
後宮の内官でそれに明るい者は非常に限られる。というか、まずい
ない。
そこで白羽の矢が立ったのが沈賢恭だった。
彼は後宮から離れて久しいが、元は後宮勤めの宦官である。そし
て、軍事の経験も豊富。言うことはなかった。
問題は、彼が拒否した場合のことだったが、そんなことは全くな
170
く、むしろそうさせて欲しいとまで言っていた。
実をいうと文林は彼が気にいらない。小玉の元上司であり、お互
い気にかけあっているという存在。だがそれが、子供じみたやきも
ちだということはわかっているし、なんといっても小玉は今や自分
の正妻なのだ。なにも気にすることはないはずだった。
だから、小玉本人への内諾が後手に回ったのは、優先順位が低い
と判断したからだ。本人から、とんでもない発言を聞くまでは、確
かにそうだった。
﹁あの方、あたしの初恋の人なんだよね⋮⋮﹂
なるほど、それは確かに複雑な気分になる。聞いている文林はな
おさらだ。
﹁おい、聞いてないぞ﹂
﹁そりゃね、言ってないから﹂
﹁どうして言わなかったんだ﹂
﹁えっ⋮⋮皇后って初恋とか申告する必要あったの﹂
﹁それはないから﹂
嫌味ではなく、真剣に言われたので、少し我に返った。
﹁⋮⋮別にお前らが交際していたわけではないんだろう?﹂
小玉が現在、彼に恋していない以上、それなら許容できると思っ
た。
﹁うん。でも彼、あたしの気持ち知ってた﹂
﹁おい待て、告白したのかお前﹂
相手は宦官だぞという言葉は飲み込んだ。宦官に恋した相手に言
う言葉ではない。
﹁してないんだけどぉ⋮⋮、なんかばればれだったみたいで、告白
しそうになった直前に止められた﹂
171
﹁ほ⋮⋮ぉう﹂
それは告白したも同然じゃねーかという言葉は飲み込んだ。小玉
が、心底困り切っていたからだ。
考えてみれば、彼女にはなにも責任はないのだ。あるのは自分と
⋮⋮沈賢恭だ。
彼は聡明な人間だと聞いていた。その彼が自身に思いを寄せてい
た皇后に近づこうという気になるだろうか。下手をすれば身の破滅
である。だが、うまくすれば皇后を手玉にとり、多大な権力を握る
ことも可能なのもまた事実。
まあ、小玉なら手玉にとられることはないだろうが。
とにかく、一度沈賢恭を引見せねばならない。そう思った文林だ
ったが、彼を一目見てわかった。これは小玉を利用しようとしてい
るわけではない。
もっと性質が悪かった。彼は小玉に恋をしていた。いつからなの
かは知らない。だが、小玉が彼に恋をした時期からだったのならば、
彼らは一時でも相愛だった時期が存在するということだ。
ああ、こいつとは生涯相容れまい。文林は腹の底が焦げ付くよう
な気持ちでそう思った。相手もまたそう思っていると確信していた。
相愛ではないが、相思だな、と自嘲気味に思った。
172
相思相愛︵後書き︶
奥様本人が告白したので、けっこうあっさりとしました。小玉さん
はそういうの隠す人じゃないし、ほどほどに﹁言った方がいいな﹂
と判断できる人なので、こういう展開です。
173
どっちもどっち︵前書き︶
ええ、実はうっかりしておりまして、リクエストを若干勘違いして
いましたというか、要望の半分は叶えたのですよええ⋮⋮すみませ
ん!言い訳です!手紙を受け取った文林視点⋮⋮視点、文林じゃな
かった!一応投稿します!
174
どっちもどっち
小玉が実家に帰った。別に夫と喧嘩したわけではない。そもそも
彼女は結婚していない。もっと深刻な理由だ。彼女の母が亡くなり、
その服喪のためだ。
気の毒なことだと明慧は思う。
彼女はずっと実家に帰りたがっていた。それがこのような形でか
なったこと、本人が一番残念に違いない。
でも、少し羨ましかった。
明慧の両親はぴんぴんしているし、なにより自分とは不仲なので、
仮に彼らが死んでもそう悲しめるかわからない。だから、あそこま
で嘆き悲しめるほど仲の良い親子関係というものは、明慧にとって
は憧れに近いものを抱かせた。
ゆっくり母と別れを告げてくればいい。そう思い、心づくしの品
を贈ったら、丁寧な礼状がかえってきた。まあ、どうやら元気でや
っているらしい。
こちらには、元気じゃないのがいるのだが。
小玉の手先一号こと文林はなんだが日に日に難しい顔だちになっ
てくる。一体なんだというのか。
そして、変なことを聞いてくる。
﹁女が家を用意したいというとき、それはどういう意味なのだろう
⋮⋮﹂
﹁わからんね﹂
きっぱりと答える。
175
そもそもこの国では、家を用意するのは、男の役割である。そん
な例外的な行動に規則性を見いだすのは、不可能に近いし、なによ
り、
﹁一般的な女性の行動原理など、あたしに聞くものじゃあない﹂
﹁自分で言うか﹂
明慧は自分を知っていた。言ってて自分で虚しくなるような柔な
性格だったら、彼女は今頃軍になどいない。
文林はふう、とため息を一つついた。
﹁まあ、相手は一般的な女性枠に入らないがな﹂
﹁ああ、小玉か﹂
﹁なぜ特定できる﹂
﹁お前さんの人付き合いが、至って悪いからさ﹂
憮然とした文林に、明慧はからかいではなく笑みを向けたのだが、
相手はそう思わなかったようだった。憮然とした表情をさらにしか
めた。
﹁それで、小玉はなぜ家を用意したがってんだい﹂
復帰したら宿舎をでたい。家族で住める家を手配してほし
明慧のその質問に、文林は黙って紙切れを渡した。
﹁前略
い。かしこ﹂
読み終わった明慧はのんびりと言った。
﹁明瞭じゃないか﹂
﹁目的がな。理由が不明瞭極まる﹂
﹁別に理由なんてどうでも良いだろう。もしかしたら小玉、ようや
く自分の地位を自覚したのかもしれんよ﹂
まあ、ありえないなと思いながら明慧は言った。将官になっても
かたくなに宿舎住まいだった小玉である。
﹁本気でそう言っているのか﹂
﹁まさか。でも、あんたたちよってたかって小玉に宿舎から出ろ出
176
ろって言ってたんだから、いざそうなった時にうだうだ言うんじゃ
ないよケツの穴の小さい奴ってのは、本気で言ってる﹂
﹁⋮⋮﹂
文林は黙り込んだ。
﹁なんか他に気になることがあるんだろう﹂
かしこ﹂
。
かしこ﹂
明慧はそんな彼に声をかけ、そして見せてもらった。小玉がこれ
元気?
まで出した2通の手紙を。
﹁前略
楊清喜が元恋人の弟だった。
なんかね、最近元許婚に迫られて嫌
﹁前略
ああ、これは⋮⋮。
明慧は心の中で嘆息して文林を見た。この男が小玉に対して特別
な感情を持っていることはわかっている。それは恋慕というには泥
臭いものだったが、独占欲らしいものをはらんでいた。こんなにも
あからさまに他の男が関わってきていることを示された日には、彼
の中の焦げ付きは想像にかたくなかった。
それにしても、わざとではないかと思う程煽り立てる文面だ。そ
して、小玉を少しでも知っていたらわかる。絶対にわざとではない。
それだけに罪な女だ。
﹁しかし、清喜が昔の男の弟だったとはねえ⋮⋮﹂
楊という名字ということは、小玉の3人目の男の弟だろう。対文
林限定でそれは少しやっかいだ。楊という男は、小玉の過去の男の
中でも特別な存在だったからだ。
﹁でもまあ、所詮過去は過去だよ。小玉は許婚のことも彼氏のこと
もすっかり清算している。そんなに不安がらなくていい﹂
﹁別に不安になど思っていない﹂
きっぱりと言われ、明慧は苦笑した。
177
こちらも無自覚な分、罪な奴だと思った。
そんな明慧が文林に誘われて小玉の村まで行くのは、10日後の
ことである。
そういえば、泰のやつが言っていたとおり、小玉は引越しするこ
とになったなあと思いながら、明慧は馬にゆられて歩む。多分、彼
が想定した理由ではないだろうが。
178
星霜 1︵前書き︶
義姉さんが文林を好きになって嫌いになるまでの話&臨終話&村を
出てからの関一族についての小説です。なんちゅーか、オカルト風
味。
179
大人になって、子どもを産んでもなお忘れられないことがある。
星霜 1
さんじょう
二人で夜空を見上げたあの夜。はしゃぐ幼馴染に対して、自分
﹁星が落ちたよ、三娘!﹂
の顔は青ざめていたはずだ。それは、その日の昼に起こったことに
よるものだった。
さんじょう
三娘にとって、夫の妹である小玉は、幼馴染である。それどこ
文字通り、生まれた時からの仲だ。特に幼少時はいつも一緒に
ろか、父方の従姉妹でもある。彼女の母が三娘の父の妹だった。
野山を駆け巡った。少し大きくなると、活発な小玉と、それよりお
となしい三娘の行動範囲は少し重ならなくなったが、それでもなに
だから、その日も、何かが原因で二人で連れだったのだ。山道
かあれば一緒に行動した。
を歩いていると、一人の老婆に出会った。道端の石に腰掛けている
たいじん
内心びくびくしながら、すれ違おうとすると、声をかけられた。
姿は、見るからに怪しそうだった。
﹁なんですか、大人﹂
びっくりして声も出ない三娘に対し、小玉は人懐っこく一礼し
て返答する。目上の人には礼儀をつくせと言われているが、こんな
怪しげな老婆に対して必要だろうか。
目を見合わせる。持っていない。小玉が再び口を開く。
﹁嬢ちゃんたち、水をくれんかねえ﹂
﹁ええと、今持っていません。でも、この先に湧き水が出ていると
ころがあります。一緒にいきませんか﹂
180
と首をかしげて言った。
なにこの人、厚かましい。そう思ったのは、三娘だけだった。
﹁もし汲んできてくれたら嬉しいんだがねえ﹂
小玉はうん?
﹁大人、足が痛いんですか?﹂
﹁ああ、よくわかったねえ﹂
﹁水だけでいいんですか? 人は呼ばなくていいんですか?﹂
﹁そこまでは必要ないよ、ありがとう﹂
小玉が背負っていた荷物を下ろし、手ぬぐいを握りしめて走り
﹁⋮⋮三娘、これ見てて﹂
だした。水のあるところに行くのだ。
﹁嬢ちゃんたち、ありがとうねえ﹂
﹁いいえ⋮⋮あたしはなにもしてないから﹂
少し、うしろめたかった。
﹁そんなことはないさ﹂
老婆はそう言って、少ししてから﹁お礼をしなきゃねえ﹂とつ
ぶやいた。
﹁そんなのはいりません。あたしたち、大人がお礼を言ってくれる
だけで、十分嬉しい﹂
それに、自分も、小玉も、困っている人には親切にしなさいと教
えられているから、帰って両親に報告したら、ほめてもらえるはず
だ。
それが一番嬉しいと思えるほど、二人ともまだ子どもだった。
﹁嬢ちゃんは、自分がどうなるか、興味はあるかい?﹂
唐突な問いに小首をかしげるが、素直に﹁はい﹂と答える。
﹁じゃあ、それを教えてあげよう﹂
﹁大人は、占いができるんですか?﹂
声がはずむ。ここよりもっと都会には、そういう人たちがいると
聞いたことがある。
﹁そうさ。あんたは⋮⋮﹂
181
その時聞いたことを、三娘は一言一句たがわず覚えているという
自信がある。
そして、そのことを誰にも言ったことはない。
﹁ねえ、小玉﹂
﹁なに、義姉さん﹂
今や義妹となり、それ以上に大きく変化した小玉に声をかけると、
すぐ返答が帰ってきた。
身体を起こし、更に言葉を連ねようとして、咳にはばまれる。口
の中にかすかな血の味がする。
﹁義姉さん、無理しないで﹂
彼女が背中をさすってくれる。それが心地いい。
咳が少しおさまると、また寝台に横たえられた。
胸がひゅうひゅうという音を立てる。
﹁ああ⋮⋮﹂
﹁義姉さん、胸のところ、少し楽にするよ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
肌ざわりのいい寝巻の胸元が少しからげられる。少し呼吸が楽に
なった。
﹁落ち着いた?﹂
﹁ええ⋮⋮小玉。昔、道端でお婆さんに水をあげた日のこと、覚え
ている?﹂
すると、小玉は顔をしかめた。
﹁いやだ、義姉さん。この状況で思い出話なんて不吉﹂
﹁いいから⋮⋮覚えている?﹂
言を重ねると、小玉は何かを思い出す時特有の表情で、少し黙っ
た。
﹁⋮⋮ううん。そんなこと、あった?﹂
﹁そう、覚えてないの。一緒に星が落ちるのを見た日のことは?﹂
182
﹁ああ、覚えてる。たくさん落ちたよね﹂
﹁覚えているのね⋮⋮﹂
なら、言うべきなのだろうか。彼女に警告を発するべきなのだろ
うか。
もはや、顔すらも覚えていない老婆に問う。あなたはなぜ、私に
それを告げたのか。
183
星霜 1︵後書き︶
お子様をお持ちのお母様視点からすると、三娘の反応の方がまっと
うだと思う。
184
星霜 2
ーーあんたはね、今好きな人がいるだろう? その人と結婚するこ
とができるよ。
﹁わあ、大きい家!﹂
息子が大声をあげる。それをたしなめなかったのは、三娘自身も
驚いていたからだ。村を出て、義妹と都に出ると決めてはいたが、
いろいろと覚悟がたりなかったらしい。義妹は家を用意するといっ
ていたが、まさかこんな大きな家だとは思っていなかった。横目で
そっと彼女を見ると、そこにはぽかんと口を開けた彼女が⋮⋮ねえ、
なんで、あんたまで驚いているの。
﹁え、ねえ文林、大きすぎない﹂
﹁お前、自分の地位考えろ。まだ小さすぎるくらいだ﹂
文林と呼ばれた青年が呆れたようにつぶやく。彼の方をそっと見
て、すぐに目をそらす。直視できないほど美しい人だった。こんな
人がこの世にいるなど、想像すらしたことがなかった。
﹁そうですよ。閣下はもはや軍の要人ともいえる方なんですから﹂
楊清喜という少年が、はつらつと言う。
﹁え、うそ﹂
﹁ああまあ、それは若干うそだな﹂
﹁うそじゃありませんよう。僕そう思ってるんですから﹂
﹁それ根拠になるんだ?﹂
﹁なるわけないだろ﹂
引越しはあっという間にすんだ。家財はすでに家に入っていたの
で、自分たちの少ない荷物を入れるだけだった。
185
﹁空気悪いわねえ、風入れるわ義姉さん。文林手伝ってよ﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ、私、お茶いれてるわね﹂
﹁僕、お手伝いしますよ﹂
﹁⋮⋮なあ、なんでごく自然にこいつが同居する流れになってるん
だ、小玉﹂
﹁うん⋮⋮なんでだろうね﹂
﹁だってほら、僕従卒ですし﹂
﹁それ根拠になるんだ?﹂
﹁なるわけないだろ﹂
そんなやりとりを聞いて、三娘はくすりと笑った。
都での生活は、思ったより充実していた。朝、義妹が仕事に出る
のを見送ってから、家中の掃除をする。市に出て買い物をし、料理
をする。残りの時間はひたすら糸を紡いだり、布を織ったりする。
そういう風にできるようにとりはからったのは義妹だった。そん
なことをしなくても、生活がなりたつということは薄々であるが気
づいていた。
だが、何もしないでいることには耐えられない。働かないと、働
き続けないと生きていけない。そのことを義妹はよくわかっていた
のだろう。彼女もそういう人間なのだ。
糸をよっていると、息子が声をかけてきた。
﹁母ちゃん、俺、外行ってくる!﹂
子どもは順応が早い。彼は早々に近所の子どもたちと仲良くなっ
ていた。彼までやらなくてもいい仕事をやらせる必要はないので、
義妹との相談の上、勉強をさせている。
﹁学問はさあ、させておけば、最悪身一つでもメシ食っていけるか
らねえ﹂
と義妹は言う。同感だったし、彼女がいうならば、より間違いな
186
いと思った。
﹁でも、不向きだったら、手に技術つけさせよう。あの子、落ち着
きないし﹂
それについても同意だが、共感はできなかった。なんというか、
お前がいうか、という感じである。息子は義妹の幼いころによく似
ている。そんな義妹でも、今ではいっぱしの人間になっているのだ。
案の定、いきなり勉強三昧な日々に息子は特に不満を持たず、それ
なりに楽しそうにやっている。
﹁叔母ちゃんたちからの宿題、ちゃんと終わらせた?﹂
﹁うん!﹂
﹁おやつの時間には戻っておいで﹂
﹁はーい!﹂
許可を与えると、息子は元気そうに駆け出していった。
ふう、とため息をついて、右肩を回す。こういう作業は肩が凝る。
今日のおやつは何にしてやろうかと思ったところで、頭の中に引っ
かかるものをふと感じた。
義妹は確かにいっぱしの人間になった。それはどの位のものなの
だ? 偉くなったのはわかる。だがその度合いを実は三娘はわかっ
ていなかった。だが、もし自分の予想以上のものであるならば⋮⋮
同じだ。
ずっと忘れていたのに、なぜなのだろう。あの日、老婆から聞い
た言葉が頭の中に甦った。
187
星霜 3
ーーでも、そんなに長くは続かないね。子どもができた後、あんた
か相手のどちらかが先に死ぬね。
﹁ただいま∼﹂
帰ってきた息子におやつを食べさせ、待っていると、義妹が帰っ
てきた。おかえりなさいと、口々に言い、そのまま食事にする。こ
の時間に、義妹はその日あったことと、明日の予定を簡潔に話す。
﹁明日ね、文林連れてくる﹂
﹁⋮⋮そう﹂
周文林。あの美しい人。彼を思うとき、胸が高鳴る。その感情を
何と呼ぶか、三娘は知っていた。恋だ。そしてそれは、亡き夫への
裏切りを意味する。
夫を失って何年目になるだろう。だんだん記憶の中の顔がおぼろ
げになってきている。それも裏切りのように思えてならない。
ふと、義妹が真剣な顔でこちらを向いた。まじまじとみつめてく
る。
﹁⋮⋮義姉さん、後でちょっと話がある﹂
﹁え?﹂
その夜、三娘の部屋に、義妹がやってきた。﹁呑もう﹂と言われ、
酒杯を手に持つ。三娘はあまり酒を飲めない。そもそも村では飲む
機会すらなかった。ちびちびと舐める三娘とは反対に、義妹はくい
くいと酒を干す。
同じように育ったはずなのに、もはや道を違えてしまったのだと
188
いうことを、こういう時に意識する。
﹁話って、何?﹂
﹁⋮⋮義姉さん。兄ちゃんに操だてしてくれるのは嬉しい。でも、
自分の幸せを追及してもいいと思う﹂
心臓が、跳ねた。
﹁文林のこと⋮⋮好きなんでしょ﹂
言いづらそうに義妹が言う⋮⋮知っていたのか。知られてしまっ
ていたのか。
﹁あ⋮⋮わたし⋮⋮﹂
﹁義姉さん、これは裏切りなんかじゃないよ。兄ちゃんはもういな
くなって何年も経つ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁文林は、いい男だよ。義姉さんさえ良ければ、再婚の話を持って
いってもいい。丙も連れて行っていいし、嫌ならあたしが育てても
いい⋮⋮まあ、お断りされる可能性もあるけど﹂
﹁そうね﹂
付け加えられた言葉にはっきりと同意した。とてつもなくあり得
ると思った。
でも⋮⋮どうせ駄目なら、話を持っていってもらうくらい、いい
かもしれない⋮⋮。
そう思ったところで、義妹が急におずおずとした態度になった。
﹁ただ、承知しておいて欲しいことが一件ございまして、実は⋮⋮﹂
耳を疑った。
﹁⋮⋮どういう、こと﹂
目が据わっていることがわかる。義妹は身を縮こませている。
﹁本当にごめん。まさか、義姉さんが、あいつのこと、好きになる
なんて思ってなくて⋮⋮﹂
﹁あんたに怒ってるわけじゃないわ、あの男によ!﹂
189
﹁え⋮⋮!﹂
いきなりの﹁あの男﹂呼ばわりに目をぱちくりさせる義妹をよそ
に、三娘は手に持った酒杯を一気に干して、勢いよく卓上に叩きつ
けた。
﹁なに⋮⋮? なんなの? あの男はつまり、あんたと関係を持っ
たのに、責任とらなかったってわけ?﹂
義妹の話によると、かなり前、二人はうっかり肉体関係を持ち、
そしてそれをなかったことにしたのだという。
﹁えーっと、まあ、そうなる⋮⋮かな?﹂
﹁信じられない、なにそれ!﹂
三娘は絶叫した。
ーー幼にして父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う。
婦徳とされる有名な言い伝えである。女性を男の付属品であると
いう見方ではあるが、反面、女性を庇護する考え方でもあった。
さて、義妹はまだ未婚である。従って、関一族は彼女を庇護しな
くてはならない。現存する関一族の男子は三娘の息子だけであり︵
捨ててきた村の親戚は除く︶、息子が幼い以上、全ての権利と義務
は、母であり、後見である三娘に帰する。
現在、経済的に義妹に頼っていようと、それでも彼女は、三娘に
とって守らねばならない存在なのである。村を早々に出た義妹には
わかりにくい感覚かもしれないが、結婚して、別の一族に入って生
活した三娘にはそれは世界の真理ともいうべき事柄だった。
大事な義妹が男に手を出されて、責任もとってもらえずに放置さ
れている。
これは許してはならない事柄だった。三娘はぎりぎりと歯ぎしり
190
した。周文林に対する淡い恋心など、もはや心の中のどこにも見出
せなかった。
﹁待って、あたし、他の男と付き合って、その時関係持ってたりも
してるんですけど! その話しした時、義姉さん、何も言わなかっ
たよね!﹂
﹁それは、その時点ではお互い将来責任を取るつもりで関係を持っ
て、そのあと合意の上で別れたんでしょ。それなら問題ないのよ!﹂
﹁なに、その理屈! それなら、あたしたち、一応、合意の上で無
かったことにするって決めたのよ。同じじゃない!﹂
﹁違うわ!﹂
﹁どこが!?﹂
結局、殴り込みをかけるのを義妹に止められた。
翌日。
あによめ
﹁なあ、お前の嫂に、やけに睨まれてるんだが﹂
﹁なんか⋮⋮ごめん。あたしが悪いんだと思う﹂
義妹たちがそんな会話をしているのをよそに、三娘は影から二人
を見つめていた。頭の中には、あの言葉がぐるぐると渦巻いていた。
191
星霜 4
ーーもう一人の子、あの子は複雑だねえ。あんな相、聞いたことは
あったけど見たことなかった。
みくらい
﹁いと高き御位⋮⋮﹂
三娘はぼそりとつぶやいた。初めて聞いた時、まるで意味がわか
らなかった言葉だ。今はわかる。ただし、それが何をさしているの
かわからない。
あの日、占い師の老婆はこう言った。
。彼女は四人の男によって不運へと進む。
﹁あの娘の相は貴相だ。いと高き御位にのぼるだろう。だが、それ
は幸運と同義ではない
彼らは皆、彼女を愛している男だ﹂
﹁はっ⋮⋮ええと﹂
三娘は目を白黒させた。10歳児には難しすぎる内容だった。
﹁要するに、とても偉くなるけど、男で苦労するってことさ。しか
も、惚れられている男に。まあ、その中で幸せになれるかどうかは、
あの子次第だね﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
なんとなくわかったが、なぜそれを自分に言うのか。
﹁よかったらあんたが教えてやっておくれよ﹂
﹁ええ?﹂
﹁言うか、言わないか、決めておくれってことさ﹂
なんで私が。そう思った三娘は間違いなく正しい。
﹁あたしからは、とても言えない⋮⋮おそれおおすぎて﹂
最後の呟きだけは、聞き取れなかった。
192
﹁言うだけなら、別にいいですが⋮⋮﹂
釈然としないながらも、三娘はあっさり頷いた。老婆は、その様
子に、片眉をピンと上げた。
﹁お嬢ちゃん、無理もないが、あんまり信じてないね﹂
﹁え? あっ、いや⋮⋮﹂
図星である。老婆は顎に手をやり少し考えると、こう言った。
﹁手っ取り早く予言をしよう。明後日の夜、星が降るよ﹂
﹁星が⋮⋮降る?雨とか、雪みたいに?﹂
﹁そう。と言っても、実際にあたしたちのいるところに落ちてくる
わけじゃない。あれさ、流れ星、見たことあるだろ? あれが何百
何千も同時に流れるんだよ﹂
﹁ええっ?﹂
それは三娘の想像の及ぶところではなかった。情景をうまく想像
できなかったが、それでも、その予言の真偽を確認してから小玉に
言おうかと、なんとなく思った。
その日のその後の記憶はなぜかない。おそらく義妹が水を持って
帰って来たのだろうが、まったく思い出せない。代わりに、二日後
のことはよく覚えている。
義妹を誘ってこっそり抜け出した夜中、それを見た。それはまさ
しく、﹁星が降る﹂夜だった。
恐ろしかった。その威容に圧倒された。そして同時に、あの予言
が頭をよぎった。
その横で義妹は綺麗だとはしゃいでいた。信じられない。こんな
に恐ろしいのに。
その時、思った。
彼女は、自分とは違うと。うまくは言えない。だが、自分たち⋮
⋮村の誰もがが畏れるようなものを、彼女は敬意や好意を持ちつつ
も、突き放して見ている。そのことがなによりも、老婆の予言に信
193
憑性を与えた。
貴相。いと高き御位。
それを彼女に⋮⋮誰にも言わなかったのは、口に出すことで真実
に近づくことが恐ろしかったからだ。三娘は、言葉の力を心から信
じていた。当たる可能性の高さを、さらに高めたくなかった。
自分が何も言わないことで、部分的にでも、成就しなくなるので
はないか。祈るようにそう思った。
それでも、義妹が許婚に捨てられ、軍に入った時に、彼女の予言
が始まったと思った。捨てる時まではどうだかわからなかったが、
義妹の許婚は、本当に彼女のことを好きだったから。そして、自分
の夫が若くして死んだ時、老婆の予言は生きているとしみじみ思っ
た。
軍で義妹がどんな生き方をしたのか、三娘は今でもよくわからな
い。彼女はあまり語ろうとしなかったから。きっと、余人には想像
しがたいものなのだろうと思っている。
ただ、救いらしきものを感じたことはある。義妹が一度帰って来
た時に、彼女の恋愛遍歴を聞いた。軍で三人の男と付き合ったのだ
という。
元許婚と合わせて、これで四人。予言が終わったのだと思った。
それなりに辛い別れをしたのだというが、それも予言通りだ。そ
して、彼女がいまはもうふっきれているようだったから、なにも問
題はなかった。
軍で﹁閣下﹂と呼ばれるくらいの地位にもついた。これも予言通
りだが、彼女はなんやかんやでうまくやっているようだった。
あとは、彼女が戦死しないように、日々祈るだけだと思っていた。
194
なのに、
﹁彼は⋮⋮何?﹂
周文林という五人目の男が現れたことに、三娘は言い知れぬ不安
を覚えた。
195
星霜 5︵完︶
周文林という男は、頻繁にこの家にやってくる。副官だからとの
ことだが、それだけでこんなに私的な部分まで踏み込んでくるのだ
ろうか。最近では、三娘の息子である丙の勉強の面倒も、厳しく見
ている。
先日は義妹が買い与えたそろばんを足にくくりつけて遊んでいた
息子を、井戸に逆さ吊りにしたくらいだ。もちろん、この場合は道
具を大切にしなかった丙が悪いのだが、要するに、彼はこの家に対
して遠慮ない立ち位置にいるのだ。
それはなぜか。副官というものがみなそうなのかは、軍に明るく
ない三娘にはわからない。ただ⋮⋮年頃の男と女にしては、義妹と
周文林は近すぎると思う。義妹が特に周文林のことを異性として意
識していないことは言動からわかる。長らく離れて暮らしていたと
はいえ、そこは幼馴染としての感覚だとか、女の勘が教えてくれた。
だが、周文林の方は?
義妹曰く、彼は大層頭が良いのだという。そういう人間が、こん
なに近い関係を保つことについて、特に何も考えていないというこ
とがあるだろうか。きっと何かを考えている。そしてそれは、義妹
への好意に類する感情ではないだろうか。
系統立てて思考できたわけではない。だが、とりとめもない思考
の中、三娘のぼんやりとした終着点はそのようなものだった。
じっくりと周文林を観察してみた。
真っ黒だと思った。三娘には、彼が義妹に好意を持っているよう
にしか見えなかった。
196
あの老婆が言ったことを再度反芻する。四人と言ったはずだった。
だが、五人だったのか? 聞き間違ったのか? あるいは、義妹の
かつての恋人の中に、義妹を好いていない男がいたのだろうか。そ
うならば、恋人とは限らないのか。
悩んでも、わからないことはわからない。確かなのは、目の前に
義妹への好意を持つ者がいる。そしてそいつが、義妹を不幸にする
かもしれないということだ。
でも、引き離し方がわからない。彼は義妹と仕事上の付き合いを
持っている人間だ。おいそれと失礼な態度は取れない。
とりあえず、彼に対する隔意を義妹にだけは見せてみた。すると、
義妹は周文林を家に呼ぶのをやめた。どう言い訳したのかはわから
ない。気を遣わせたとは思うが、他にやりようはない。とりあえず
は、﹁家﹂という場において、周文林を拒むことを続けようと思っ
た。
それがこんなことになるとは。
最近体調が悪いと思っていた。それがあっという間に寝付いてこ
のざまだ。
げほ、と嫌な咳を一つ。
うつらない病気であることがせめてもの救いだった。義妹は金に
糸目をつけず、治療のために力を尽くしてくれている。申し訳ない
ことだ。そして更に申し訳ないことに、自分は多分、長くない。
自分が死んだ後、周文林がまたこの家に入るのかと思うと悔しく
て仕方がない。
﹁義姉さん⋮⋮水飲む?﹂
197
﹁いいえ﹂
そう答え、一度起こした体をまた横たえた。その動作に手を添え
て手伝う義妹は家にいる間、ずっと自分の看病をしてくれている。
﹁小玉、寝ないの?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
曖昧に返事をする義妹もわかっている。自分が助からないことを。
掛布を少し持ち上げて、言ってみた。
﹁ね、子どもの頃みたいに、一緒に寝てみない?﹂
﹁え?﹂
﹁懐かしいと思って。ちょっとでいいから﹂
﹁うーん﹂
小玉は少しだけ悩む素振りを見せたが、のそのそと寝台に入って
きた。余命いくばくもない自分の望みをかなえてやろうとしている
のだろう。
懐かしいというのは口実のはずだった。少しでも彼女を休ませた
いという理由で誘ったのだったが、いざ彼女が自分の隣に横たわる
と、一気に昔に戻ったような気がした。
﹁こんなこと、何回もやったね﹂
﹁うん﹂
お互いの家にしょっちゅう泊まっては、同じ布団で寝た。薄い掛
布に潜りこんで、こそこそと内緒話をした。
遠い昔の話だ。そして、義妹にとっては、自分の死によってその
過去はさらに遠のく。もう彼女には昔話をする相手がいなくなるの
だ。
でも⋮⋮。
ぎゅっと右手を握って、三娘は言った。
﹁小玉﹂
﹁何?﹂
198
﹁丙を呼んでほしい⋮⋮﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
義妹が、寝台からするりと抜け出した。やがて、彼女が息子を連
れてきて、二人きりにしてもらった。
﹁丙。お母さんは言い残したいことがある﹂
舌が回らなくなる前に、やらなくてはならないことだった。
﹁うん﹂
﹁お母さんがいなくなった後、叔母ちゃんの言うことをよく聞くの
よ﹂
﹁うん﹂
﹁そしていつか、叔母ちゃんに恩返しをして。お前がここにいるの
は、全部叔母ちゃんのおかげだから﹂
﹁うん﹂
﹁お母さんは色々と話せなかったことがあるの。それは叔母ちゃん
に聞いてちょうだい。いっぱいお話しするのよ﹂
﹁うん﹂
﹁ご先祖様を大切にして、そして時々お父さんとお母さんとおばあ
ちゃんのこと、思い出して﹂
﹁⋮⋮うん﹂
息子が顔をくしゃっとさせた。
﹁それと⋮⋮﹂
周文林を近づけるな。
そう言うべきか悩んだ。息子にそれができるかどうかわからない
からというわけではない。そもそも周文林が老婆の予言の人間だと
決まった訳でない。
結局のところ、周囲があがいても、﹁そうなる﹂と決まったこと
は必ず﹁そうなる﹂。ここに至り、三娘はそう思ったのだ。
199
だが、同時に思った⋮⋮思い出したことがある。遠い昔、義妹と
一緒に眠った夜。明日やることを、彼女はわくわくと語った。なん
でもない、つまらないことなのに、彼女は本当に楽しそうで、自分
もそれが楽しみになった。
﹁幸せになれるかは、あの子次第﹂
あの老婆はそう言った。﹁いと高き御位﹂とはどれほどのもので、
どれくらいの重荷なのかついぞわからなかったが、彼女なら与えら
れた命運の中でそうなれると、信じたい。
だから、
﹁⋮⋮幸せになるのよ﹂
最期の言葉は、この場にいない義妹に向けたものでもある。
200
星霜 5︵完︶︵後書き︶
小話としては、かなり長い後書きです。
義姉さんの信仰とか、精神面は、この時代の平均値です。田舎の人
なので、若干そういう面は強めですが。
アニミズムとか言霊とか、今だったら﹁そういう考えもあるよねー﹂
というものも、昔の人は本気で信じていて、それを﹁物語﹂ではな
く、﹁記録﹂として残していました。そういう感覚を持つ義姉さん
と、そこから逸脱していた小玉さんを書きたかったのですが、書き
切れたか自信がないので、ここで補足しておきます。かといって、
小玉さんが故郷でうまくやれなかったという訳ではないです。順応
性の高い人なので、元許婚と結婚してたら、それはそれでいい家庭
を築いていたはずです。与えられた命運の中で最大限のものを掴み
取れる人間というものを書きたくて、義姉さんの思考にもそれを反
映させました。
ここで本編第一章のことに話は変わりますが、もし、小玉さんが義
姉さんのような人だったら、母も兄も軍に入るなんてこと、絶対に
許さなかったでしょう。それどころか、軍に入るという発言自体、
出なかったはずです。身内も小玉さんが若干異質だとわかってて、
それでも手元に置きたがっていたかったのですが、こんなことにな
ったのならば致し方なし、それに彼女なら⋮⋮と踏み切った次第で
す。
そういう点で、﹁ある皇后∼﹂の根幹にも関わる話です。
あと、私が有名人や時代の節目にちょこちょこ関わる怪しげな占い
とか言い伝えが好きなので⋮⋮好み丸だしの内容です。ジョゼフィ
ーヌとエイメとか、カトリーヌ・ド・メディシスの臨終とか、﹁百
201
の眼の怪物が宋を滅ぼす﹂という、﹃東方見聞録﹄の記述とか⋮⋮
大好きです。
202
燕雀いずくんぞ 上
あこがれの方のお側にいたい。
それは、紅燕の夢だった。
紅燕は、やや辺境に所領を持つとはいえ、歴とした王家の娘とし
て生まれた。母は皇女であるため、紅燕は申し分ない身分と血筋で
あるといえる。
父は幼い頃に亡くしたが、その後幼い弟の摂政として実権を握っ
た母によって、紅燕は何不自由なく育てられた。母からは溺愛され
たとまではいかないが、それなりに仲が良く、気の合う親子関係だ
と思う。内面が似ているからであろう。
だから、今も。
﹁わたくしは、大家の後宮へ上がります﹂
家中のものの前でそう言い放ち、騒然とする場の中、母だけは悠
然とした笑みを浮かべ、頷いていた。
﹁姫さまならきっと、皇后の座に最も近いはずですわ﹂
その夜、夜着に着替えるのを手伝う女官が、興奮を抑えきれない
という様子でささやいた。紅燕はそれに肯定も否定せず、昼間の母
と同じような笑みをうかべる。
とうぎん
彼女の言うことは文句なく正しい。家中の者も、結局はそのこと
で、皆納得したほどだ。当今の後宮には、皇后以下、自分ほど血筋
と身分が確かな者は存在しない。
﹁それに姫さまはお美しくあられるのですもの﹂
その言葉も正しい。父帝に溺愛されたという母から譲り受けた顔
203
立ちは、自分が見てもろうたけている。さすがにこの点では、後宮
でも際立っているとは限らないが、それでも比肩できる者はごくわ
ずかであろう。
﹁それにお若くていらっしゃる﹂
これも正しい。当今は、現在の皇后を後宮に指名して入れてから、
妃嬪を一人も増員していない。それはもう10年以上も前のことだ。
現在15歳になる紅燕より若い者は一人もいないはずだった。
現在の皇帝は淡白なことで有名である。即位してから数年は後宮
ほしいまま
に足しげく通い、何人かの妃嬪との間に男児を三人設けたが、その
後は極端に渡る回数が減った。
同時期、後に立后する関氏が入宮したため、彼女が寵愛を恣にし
ているのではという説も流れたが、それも過去の話だ。
皇后を知る者は、大抵﹁いやぁ⋮⋮﹂と苦笑いする。故に彼女は
相当の不美人と言われている。まだ皇后が風よけとして使われてい
るだとか、皇帝が実は男色家だとかいう噂の方が信じられているく
らいだから、なおさらその認識に拍車がかけられている今日この頃
だ。
ともあれ、皇后への義理かあるいは本当に風よけにしているかは
わからないが、先に述べた通り、皇帝は現在の皇后が入ってきてか
ら、後宮に一人も妃嬪を入れない。家臣からの提案があってもだ。
そこをおして紅燕が後宮入りすることになったのは、母の人脈と手
腕によるものだった。
故に紅燕は、家中の者に宣言してからわずか数ヶ月で、帝都の地
を踏んでいた。
﹁まあ、ここが⋮⋮﹂
車の中から、紗越しに宮城を眺めつつ、胸の高鳴りをおさえられ
なかった。ここに、ずっと憧れていた人がいるのだ。そしてもう少
204
しでお目にかかれる。
母と共に宮城に入ると、すぐに皇帝夫妻による謁見のため呼び出
された。もうすぐお会いすることができる。そう思うと手が震えた。
通された場で母と共に跪いて待つ。生まれてこのかた、誰もが自
分に傅く自宅から出たことのない紅燕にとっては、やりなれない所
作だ。せいぜい祖先に対する祭祀の時くらいしかやった覚えがない。
床の固さが少し気になる。だが、立って待つことは許されない。
母は皇女ではあるが、今は一王家の王太后という立場でしかない
し、自分も王女であるが、まだ後宮においては無位の状態。これで
母と皇帝との関係が近しいものであるならば、話はやや異なるので
あろう。皇帝と母は叔父姪というやや遠い関係だ。
とはいえ、血縁が薄いからこそ、自分の後宮入りが許されたので
あろうから、文句は言えない。
ぬか
やがて、皇帝夫妻の訪れを告げる声が響き、紅燕はますます深く
額づいた。
205
燕雀いずくんぞ 下
﹁息災であったか﹂
入室して椅子に着座した皇帝の声が響く。跪いたまま母が答えた。
﹁大家の聖恩をもちまして﹂
同様に跪いたままの紅燕だが、そっと目だけを上げて様子をうか
がった。
皇帝はもう40歳頃のはずだが、とてもそのような年頃には見え
ず、おまけにたいそう秀でた容色をしていた。その横に皇后が座し
ている。おそらく彼女は、後宮の監督者として同席しているのであ
ろう。紅燕はそっと視線を外し、また目を伏せた。
﹁⋮⋮後は皇后から沙汰があろう。皇后、任せた﹂
﹁御意﹂
皇帝は母と形式的な挨拶を済ませた後、さっさと退出していった。
皇帝がいなくなってからややあって、皇后のひそやかな声がした。
﹁⋮⋮あなたたち、椅子を﹂
そして、はっきりとした口調で自分たちに声がかけられた。
﹁帝姫さま、王女さま。どうかお顔をお上げ下さい。そしてこちら
へおかけください﹂
横で母が身を起こす気配を感じ、自分もそうする。
皇后のすぐ前に二つの椅子が配置されていた。おそるおそる母の
後についていき、腰かける。すぐに香り高い茶が菓子とともに運ば
れる。
じょうし
﹁帝姫さま、ご無沙汰しております。息災でいらっしゃいましたか﹂
し
﹁ええ。娘子も、お元気そうでなによりですわ。折に触れて文など
交わしておりましても、直にお目にかかることに如くものはござい
ませんわね﹂
問いかけの内容は先程の皇帝からのものと同じであった。しかし、
206
それに対する母の反応は全く違う。声の華やぎも、言っている内容
の分量も数段違う。皇后の方もまた、母に対する親しみを込めた態
度だった。
母がうらやましい。この方にこんな風に親しげに話しかけられて、
話しかけることができるなんて。いやでも、自分だってもう少しす
れば同じくらい近しく接することができるようになるのだ。
幼い頃から、色々な人から当代の皇后の逸話を聞いて育った。特
に母からはいつもその素晴らしさを聞いていた。彼女が一武官の時
からあこがれていたのだ。その人の側に上がることは、紅燕の夢だ
った。
﹁帝姫さま。この場では、そのようにお気を使った振る舞いなどせ
ずとも良いのですよ。帝姫さまは今も昔も高貴な女人ですし、かつ
てわたくしは帝姫さまにお仕えしていた身分です﹂
﹁昔は昔です。わたくしの身分が高いのは確かですし、あなた様が
わたくしに遠慮なさるお気持ちもわかります。ですが、今この国で
最も高貴な女人は、皇后であられるあなた様をおいてほかにござい
ません﹂
皇后がため息をついた。
﹁もう⋮⋮昔から頑固なのですから。皇后でなくなる日まで、昔の
ようにお話はできないわけですね﹂
皇后の苦笑いを含んだ冗談に、母はきっぱりと言った。
﹁ご冗談を。わたくしは大家のことははっきり申し上げて嫌いです
が、それでもあなた様を立后したことにおいては、手放しで評価し
ておりますのよ﹂
暗に、あなたが廃后されれば、当今への後押しは全て退けると言
っているのである。
﹁⋮⋮買いかぶりすぎです﹂
﹁まさか﹂
207
母は優雅に茶を一口含んだ。
﹁ところで今日は、王女さまが後宮にお入りになるということで⋮
⋮﹂
皇后の目が自分に止まった。一瞬、心臓が跳ねる。
﹁ええ。至らない娘ではありますが⋮⋮﹂
母の言葉と共に、深く頭を下げる。ここで少しでも彼女に好印象
を与えなければ、意味がない。
﹁本当によろしいの? 皇子の後宮の方が良いのではないの?﹂
﹁いいえ﹂
皇后の前で初めてはっきりと声を出した。それだけで鼓動が速く
なった。憧れの人の近くに行くという夢がもうすぐ叶うのに、その
人の前で挙動不審になってどうすると自分に言い聞かせる。
﹁わたくしは大家の後宮がよいのです﹂
仮に太子の正妻になれるのであれば、それも悪くないと思う。そ
うなれば皇后のことを﹁お義母さま﹂と呼べたからである。しかし、
太子自体、まだ決まっていない。ならば、皇帝の後宮に入り、﹁お
姉さま﹂と呼ぶ方が良い。
一応内定では自分の位は﹁貴妃﹂と決まっている。妃嬪の最高位
⋮⋮皇后に一番近い地位だ。ならばこちらの方を取る。後は皇后の
承諾をここで正式に取るだけであった。
﹁わかりました。お迎えします﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁感謝いたします﹂
母と二人頭を下げた。これから夢の生活が始まると思った。
その後である。皇后が冷水をぶっかけるようなことを言い出した
のは。
﹁実を言うと、後宮に上がりたいというお言葉をいただき、安心し
ましたのよ。実は大家は、わたくしの甥の妻に王女さまをと考えて
おりまして﹂
耳を疑ったのは、母も同様のようだった。
208
﹁え⋮⋮﹂
﹁今なんと⋮⋮﹂
皇后は呆れたように言う。
﹁信じられませんでしょう? わたくし、ご存知のとおり、微賤の
家の出ですし、甥自身も無位なのです。そのような者に王女さまが
嫁に来るなど気の毒で止めていたのですが⋮⋮﹂
つまり、である。仮に自分が後宮に入りたいと言わなければ、自
分は皇后の甥の妻となり、皇后の本物の身内になれたかもしれない
のだ。
そっと母の方を見ると目を大きく見開いている。母もそのことを
知らなかったことがわかる。仮に知っていたら、そちらの話の方を
ごり押ししていただろう。
絶句する自分たち母娘の前で、皇后はにっこりと笑った。
﹁ですから、そちらから妃嬪にというお話をいただき、安心いたし
ました。きっと、王女さまならば大家の寵愛を受けることができま
すでしょうし、わたくしも精一杯後押しいたしますわ﹂
﹁娘子、お待ち下さい!﹂
悲鳴のような声で母が言った。
﹁娘は別に大家の寵愛を受けに来た訳ではありません﹂
﹁えっ?﹂
心底不思議そうに首をかしげる皇后の様子から、いろいろなこと
がこの人に伝わっていないとわかった。
209
燕雀いずくんぞ 下︵後書き︶
今更話を流せるわけもないので、結局紅燕は後宮入りします。あこ
がれの人のお側にいれるので満足っちゃ、満足。
当然文林は手を出しません。
で、彼女はなんかの折に丙くんを見て、一方的に恋に落ちます。小
玉さん似なので、彼。
彼女は小玉さんが皇后を廃された後、一緒に後宮を出て、そのまん
ま丙くんとこの押し掛け女房にもなります。
だから、本編の最終章に出てきた彼の嫁は紅燕です。
この話、裏でいろいろな情報が錯綜したり、伝わらなかったりして
いたので、結構謎が残る話だとは思います。そこの補完をいつかし
たいと思います。
210
小玉、空軍やめるってよ 1 ※現パロ︵前書き︶
ラブがある現パロをとのリクエストにお応えしました。苦手な方は
お読みにならない方が良いと思います。
お読みになる方も、以下の注意を読まれてからの方が話が早いと思
われます。
注意
・舞台は小玉さんたちの国が近代化したところです。なので、日本
に似ている別の国です。現パロというより、転生パロと言った方が
近いかも。
・この時点では立憲君主制に移行しています。現在の元首は女帝で、
子供は5人います。世継ぎは長女です。
※補足:﹁花信風∼﹂の5代くらい後に、両性皇帝が出たからみで、
﹁皇子﹂﹁皇女﹂の呼称は廃止されています。また、継承順位は男
女問わず出征順です。
・主要キャラは皆軍人です。復卿さんは服務規程にひっかかるので、
きちんと男装しています。
・キャラの生い立ちの違いに伴い、性格の違いが出ています。特に
文林は円満な家庭で生まれたので、変なトラウマがなく、やや明る
い性格です。
211
小玉、空軍やめるってよ 1 ※現パロ
ふざけるな。
スパーリングをしてくれる相手がいないから、サンドバッグを力
一杯殴りつけた。物に当たるのは大人気ないが、何かに当たるとし
たらこれほど的確なチョイスはないだろう。
もう一発。
大丈夫、手首を痛めるほど我を失ってはいない。
後から部屋に入ってきた連中がざわめくが、故意に無視する。で
も、後で組手に付き合わせよう。
﹁あれ、遊園地とかでさ、あるよな。あれ。パンチ力測定のやつ。
今関大尉がそれやったら、すごい数字でそう﹂
﹁なんか気ィ立ってんなぁ。あの日?﹂
﹁マリッジブルーじゃねぇの﹂
﹁違うから!﹂
最後の発言に思わず叫んだ。
思いっきりからかわれたが、それもマリッジブルー云々と言った
やつを叩きのめすまでの話だ。彼が三度マットに沈んだ頃には、ま
わりでニヤニヤしていた連中の表情は完全に凍りついていた。言う
までもなくやりすぎである。もちろん自分でもわかっている。
﹁どうしたんだい、こんなところで﹂
隅のほうにあるため、普段人気のない自販機コーナーでワンコイ
ンのコーヒーをすすっていたら、声をかけられた。
﹁明慧﹂
212
同僚で友人の張明慧である。
その言葉、そっくりそのままお返しするわと思ったが、彼女がこ
こにいる理由はわかっているので、口には出さなかった。
明慧はスカートのポケットから、小銭入れを取り出し、自販機に
コインを投入した。押したボタンはホットミルクセーキ。
﹁珍しい﹂
﹁ああ、この前間違って押したやつ飲んだら美味しくて﹂
ぽつんと漏らした言葉に、明慧は破顔して答えた。
﹁ここ、コーヒーはあんまりおいしくないのにね﹂
﹁うちンとこの煮詰まったコーヒーに比べりゃマシだよ﹂
﹁まあね⋮⋮﹂
明慧が紙コップの中身に静かに息を吹きかける。彼女はやや猫舌
だ。
小玉は残り少なくなった紙コップをなんとなく手でもてあそびな
がら、その場を立ち去りかねていた。
﹁司馬中尉の件、片付いた?﹂
﹁ああ⋮⋮まあ﹂
一番聞かれたくなくて、それでいて誰かにぶちまけたい事柄を聞
かれ、小玉はやや顔をしかめて言いよどんだが、それもわずかな間
のことだった。
﹁すっぱり別れた。もうあいつがあたしにちょっかいかけてくるこ
とはない﹂
﹁何したんだい?﹂
﹁人聞きの悪い。つかんどいた二股の証拠使って、円満にお引き取
りいただいただけよ﹂
﹁そもそも二股するような奴と付き合ってたこととか、それをつか
んでたこととか、色々気になるが⋮⋮まあ、いいか。おおむね解決
したんだね?﹂
﹁そうね。あとはあいつの残した噂にひたすら耐え忍ぶだけよ﹂
213
噂。
一度人の口に登ったら、あとは戦闘機の最高速度よりもすばやく
伝播するというアレである。
今回元カレから流れた噂は、﹁小玉が結婚する﹂というものであ
り、その発展形である﹁小玉、空軍やめるってよ﹂というものでも
あった。
小玉は前者も後者も了承していないし、そもそも相手から聞いて
もいなかった。
元カレ曰く、結婚にこぎつけるために外堀から埋めていきたかっ
たとのことだった。そこまで愛されてるなんて⋮⋮と小玉が思うわ
けもなく、このカップルは見事に破局したのだった。
相手は﹁そんなことで!﹂と叫んでいたが、そんな発言が出てく
ること自体が、小玉には許容できない。特に前者の噂ならまだ許せ
るが、後者は許せん。この国では女性軍人など歴史的に珍しくもな
いが、その中でも小玉世代以前には女性がいたことのない部署に小
玉は配属されている。ここに至るまでの苦労たるや並大抵のもので
はなかった。当然愛着もプライドもある。
﹁ご愁傷さま。でも、これに懲りたらもう少し相手を選んで恋愛す
ることだね﹂
﹁そうね。やっぱり同じ職場の人間は駄目だわ。何かあった時、す
ぐ仕事に影響が出るから﹂
﹁そういうことじゃない﹂
﹁わかってるわよ﹂
コーヒーを飲み干し、紙コップをくしゃりと潰す。
そう、本当にわかっている。自分にも問題があることも。
ふうとため息をつき、潰れた紙コップを、ダストボックスに放り
込んだ。
﹁ん、休憩時間終わりか﹂
明慧が残りの飲み物を少し早いペースで飲み始める。
214
﹁急ごう。次、ミーティングだから﹂
﹁先行ってて﹂
﹁わかった﹂
ひらりと手を振って歩き出した。ふと最近パンプスがややすべる
ことを思い出した。次の支給はいつだったかと考え、まあいいかと
思い直した。元カレのことより、ちょっと重要度が高いくらいの事
柄だ。
だから小玉は、それっきり靴のことを忘れた。特に、終業間際、
男子たちにパンチングマシーンを殴りたいので、今週の非番、みん
なで遊園地行きませんか? というアホなお誘いを受けた印象があ
まりにも強くて、その日の大抵のことはかき消されてしまった。
ちなみに遊園地に行きたい連中は、いい年した男だけで遊園地に
行くのは痛々しい上にさみしいからという理由で小玉を誘ったらし
い。本当にアホだ。行くけど。
215
小玉、空軍やめるってよ 1 ※現パロ︵後書き︶
次話で文林が出てきます。
216
小玉、空軍やめるってよ 2
一週間後。
﹁なにやってんだ﹂
呆れたような声に、顔を上げた。懐かしい顔があった。
﹁あ、久しぶり﹂
﹁ああ、久しぶり⋮⋮で、なにしてんの﹂
﹁いや⋮⋮靴がね﹂
小玉は右手を壁につき、左足を上方に折って靴裏を覗き込んでい
た。すり減り具合を確認していたわけではない。
﹁画鋲刺さったのよ。おかげでタップダンサーみたいな音してうる
さいったら﹂
﹁靴脱いで持てばいいだろ。スカート際どいところまでめくれてる
ぞ﹂
﹁おっと﹂
もらった指摘に、太ももの半ばまで引き上がったスカートを慌て
て引っ張った。
﹁これ、どこの画鋲よ﹂
近くの掲示板を見ても、画鋲が足りないところは無さそうだった。
﹁隅にでも刺しておけば?﹂
﹁そうねー﹂
アドバイス通り、何も貼られていないところに軽く刺した。そし
て改めて相手と向き合った。相手が笑いかけてくるのを契機に、長
年の付き合いならではの呼吸で、言葉を投げかけ合う。
﹁変わりなかった?﹂
﹁大体は。あんたは?﹂
217
﹁変わりあってほしいところだよ﹂
﹁ああ、忙しいまんまなんだ﹂
﹁そう﹂
二人、くつくつと笑う。
特に示し合わせたわけでもないが、並んで喫煙スペースに移動し
て、タバコを咥えた。
相手⋮⋮文林は、士官学校時代からの同期で、一時期はペアで仕
事をしていた仲だった。今は配置転換したせいで、所属する基地自
体離れている。でも、彼はこの基地も含めてしょっちゅうあちこち
の基地に顔を出している。
﹁︻殿下︼、ここ来るの久しぶりね⋮⋮公務?﹂
﹁それもある﹂
理由は、小玉が彼をそう呼んだ通り、彼が皇族だからだ。
この国では立憲君主制とはいっても、皇族の役割は非常に大きい。
大きな機関・団体の総裁や理事など、色々なところで活動している。
文林は当代の先帝の弟の長男の三番目の孫という、帝室マニア以
外にはあまり知られていない存在だ。本人曰く、結構自由度も高い
らしい。だが、それでもれっきとした﹁殿下﹂で、継承権も結構高
く、主に軍事方面の公務を担当しているという。もっとも、それは
彼だけではない。皇族の、特に男子は伝統的に軍に入れられること
が多い。
特に徴兵制の無い国だが、皇族に限ってはそれが求められている
のだから、不自由な身分だよまったくと小玉は思っている。
ただ、一見優男である彼が軍に入ったのは、その限定的な徴兵制
度だけが理由ではないことを小玉は知っている。彼以外にも軍人を
やっている皇族は何人かいる。ただ、空軍にいるのは彼だけだ。普
通は陸軍か、海軍に入る。
彼のその理由を知っているから、小玉はこんな雲の上の人間と友
達づきあいなんてものができている。
218
﹁他に何の用で?﹂
﹁そろそろ資格維持のために飛ばなきゃならんの﹂
﹁あー⋮⋮ああ、あれ﹂
ファイター
空軍では年間に規定の時間、戦闘機の操縦をしないと、戦闘機パ
イロットの資格を失う。
﹁そう、あれ⋮⋮もうパイロットの資格維持のために飛ばなきゃな
らないくらい、操縦桿握ってない﹂
文林の口調が、どこか自嘲を帯びている。それにやや鼻白んだ小
玉は、口早に言葉を紡いだ。
﹁別に飛ぶだけが空軍じゃないでしょ。あんたそれだけ出世したの
よ﹂
﹁慰めてくれてる? らしくないな﹂
﹁殴るぞ﹂
﹁あ、ごめん﹂
文林は素直に謝った。
﹁いつから飛ぶの?﹂
﹁しあさってから﹂
﹁単座? 複座?﹂
前者は一人乗りの戦闘機、後者は二人乗り以上の戦闘機を指す。
﹁複座。後ろお前さんに乗ってもらうから﹂
﹁えっ、ヤダ﹂
﹁もう決まったから。多分これから通達されるはず﹂
﹁心中は嫌だなあ﹂
﹁お前、死んだら鬼火になりそうだなぁ、︻火の玉︼だし﹂
﹁やめてくんない、それ﹂
小玉はしかめっ面をして、口から細く煙を吐いた。
タックネームというものがある。パイロットが飛行中に使う非公
式の愛称だ。大抵は新人の頃に先輩につけられるものだが、小玉は
︻火の玉︼という、微妙な命名をされた。一応、本名と一部重なっ
てはいるものの、むしろ重ねる必要は特にないので、もう少し練っ
219
て欲しかったなーというのが本音だ。ちなみに文林はそのまんます
ぎる︻殿下︼である。
彼の場合、皇族に下手な愛称をつける度胸のある人間がいなかっ
たので、自然に普段の呼称が定着してしまった形だ。本人は﹁予想
していた﹂と、達観の姿勢を見せている。
おとこ
ちなみに、歴代のタックネームの中で最高にかっこいいとされて
いるのは、明慧の︻漢︼である。
﹁今晩はあいてるんだが、飲まないか?﹂
﹁おごり?﹂
﹁もちろんワリカン﹂
﹁︻殿下︼、せっこいなあ!﹂
﹁年上だろ、お姉さん。むしろ俺におごってくれ﹂
﹁半年の違いじゃない。しかもあたしたち同期でしょ⋮⋮まあ、い
いわ﹂
﹁あ、おごってくれるのが?﹂
﹁違う! 一緒に飲みに行くのが。えーと⋮⋮﹂
頭の中でめまぐるしく訓練日程をめくる。
﹁⋮⋮明日は地上訓練だけだから、飲み過ぎなければ大丈夫﹂
﹁OK﹂
﹁あんた足あんの?﹂
﹁ここ出てから車拾う﹂
﹁じゃあ、あたし車出すから、乗ってって﹂
﹁帰り、代行頼むんだ?﹂
﹁そう。あんたあたしの家まで乗ってって、そこから車拾って帰れ
ばいいんじゃない?﹂
﹁ああ、なるほど。いいな⋮⋮うん﹂
文林は灰皿に短くなったタバコを押し付けた。
﹁それじゃあ後で﹂
220
﹁はいよ﹂
そして、ドアを開けて出ようとした時、文林はふっと首だけ振り
向いて言った。
﹁小玉、結婚退職するっていう今年一番笑える噂聞いたんだが、詳
しいことは夜聞かせてもらうからよろしく﹂
﹁えっ、ちょっ⋮⋮!﹂
誰に聞いた!?
バタン。
後を追いかけようにも、まだ手にタバコを持っていることに気づ
いた。このまま出て行ったら、何のための喫煙スペースだかわかっ
たものではない。あっさり追いかけるのを諦め、小玉は思いっきり
煙を吸い込んだ。
どうせ夜になったらまた会うのだ。笑われそうで嫌ではあるが。
221
小玉、空軍やめるってよ 3
終業のラッパの音が鳴り響いた。
ロッカールームで私服に着替えて、鏡を覗き込むと、やはり顔が
少し疲れている。しかたがない、たしなみだと、化粧をやや念入り
に直した。指に車のキーをひっかけて駐車場に向かうと、そこに文
林がいた。
ラフな格好に、前髪を下ろした髪型、伊達眼鏡。
彼のプライベート時のいつもの格好である。これだけで印象はが
らりと変わる。見事だ。でもイケメンなのには変わりない。何故だ。
﹁待った?﹂
﹁少しだけ﹂
﹁後ろ乗って。今、場所あけるから﹂
後部座席に上半身を突っ込んで、エコバッグやら、CDやらを後
部座席の後ろに放り込んだ。
もう慣れっこの文林は、何も言わずに待っている。
助手席には乗せない。
職場で変な噂にならないようにという、最低限の配慮だ。それを
言うなら、同じ車に同乗して飲みに行くこと自体がアウトであるが、
それだからこそ、維持しておきたい一線はあると思う。すごく小さ
なこだわりだ。
⋮⋮まあ、現実問題として、助手席には自分のカバンを置きたい
派なので、座られると困るということがあるのだが。
﹁じゃあ、行きます﹂
﹁はい、お願いします﹂
基地のゲートを抜けると、それまで窓の外の流れる景色を眺めて
222
いた文林が口を開いた。
﹁⋮⋮噂﹂
﹁あ、今その話行く?﹂
﹁結婚はともかく、退職ってあたりが嘘だと思った﹂
﹁結婚も嘘よ﹂
﹁なんでまたそんな噂が流れたんだ?﹂
﹁これでも大分、下火になったんだけどね﹂
仕方なく、いきさつを話した。文林は時折相づちを入れながら、
それ以外は黙って話を聞いていたが、小玉が話し終わると、こう聞
いてきた。
﹁その男とは別れたか?﹂
﹁もちろん﹂
﹁そもそもそんな男とはつきあうなよ﹂
﹁うん﹂
﹁というか、小玉、相手がダメ男だって、多分、付き合う前からな
んとなくわかってるだろ﹂
﹁⋮⋮うーん﹂
あれ、予想していた風向きと違うと、小玉は思った。笑い飛ばさ
れると思っていたはずが、説教モードに入ってる。しかも、まこと
にもっともすぎる類の説教だ。
﹁そういう自分の勘大事にしろよ。大体お前、男の趣味悪すぎ。本
当にダメ男ホイホイなの? それとも世界で唯一吸引力の落ちない
ダメ男引き寄せ機なの?﹂
﹁なにその表現、少し面白い﹂
﹁バイ復卿﹂
﹁⋮⋮深海に沈んじまえって言っといて﹂
今頃、航行中の潜水艦の中にいるはずの黄復卿は、二人の共通の
友人であり、海軍に所属している。
﹁もう、30過ぎなんだからさ、結婚とか視野に入れて付き合えよ﹂
﹁ん⋮⋮﹂
223
別に生返事をしたわけでは無い。ちょうど、有料駐車場についた。
﹁そういえば、あんたはどうなの?﹂
﹁ん?﹂
高級店には程遠い、居酒屋チェーン店の個室で二人向き合って、
安いビールを飲む。平然と場に溶け込む彼を見ると、たまにこの男
がこの国トップクラスの家柄だということを、嘘じゃないかと思っ
たりする。それでも、飲食の時の所作の美しさがふっと目に止まる
ので、育ちが良いのは確かだ。
それになぜか自分は、士官学校時代彼の実家に何度か訪問したこ
とがあるので、彼のハイソサエティぶりはよくわかっている⋮⋮決
してご家族が傲慢な人たちだった訳でなく、ええ、やけにフレンド
リーでしたが、特にパパ。
﹁あんた、いいとこのボンボンでしょ。あんたこそもう身を固めな
いといけないんじゃない?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
文林は、グラスをテーブルに置き、右ひじを背もたれの上に置い
て、くつろいだ姿勢を取った。
﹁別にそこはせっつかれてない。まあ、家柄がいいのは否定しない
けど﹂
彼の場合、肯定するより否定する方がイヤミだ。
﹁むしろ、逆だなあ﹂
﹁なにそれ﹂
﹁俺はうちの跡継ぎじゃないのは知ってるだろ?﹂
﹁うん﹂
﹁一応俺の子どもまでは殿下って呼ばれて、準皇族扱いされるんだ
けど、あまり皇族が増えてもね、管理しきれなくなるのよ。税金も
その分使わなくちゃならんし﹂
﹁結婚するなって言われてるの?﹂
﹁まさか。ただ無理に結婚しなくてもいいってこと。これで、財界
224
とのつながりを作るってことになったらまた話は別で、俺たちみた
いな傍系が動員されるんだけど、両親はもちろん、陛下もそういう
のお嫌いだからさ﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
小玉は頬杖をついた。文林が喉の奥でくっと笑う。
﹁お前、昔だったらなにそれって、ちょっとむっとしたんじゃない
か?﹂
﹁ああ、そうかも。でも、それぞれの業界の事情だし、あんたが何
か強制されてるって訳でもなさそうだし、あんたも納得してるし﹂
﹁丸くなったねえ﹂
﹁元々まん丸ですよ、あたしは⋮⋮でも、皇族同士だったらどうな
の?﹂
こうか
﹁ん?﹂
﹁紅霞さま。年齢的に釣り合いとれてるでしょ﹂
紅霞とは、現在の皇帝の第一子で、次代の皇帝と目されている女
性である。年は20代後半にさしかかったところで、まだ独身であ
る。文林とは又従姉妹の間柄だ。
ただ、紅霞は本名ではない。皇帝の子女たちは、それぞれ宮城の
宮を割り当てられており、そのままその宮の名前が呼び名になる。
れいげつ
ちなみに紅霞宮は代々世継ぎに与えられるところである。
﹁令月? ないない﹂
﹁えー、でもさらっとお名前を呼べるってあたり、どうなのよ﹂
にやにやと聞くと、文林はしれっと否定する。
﹁いや、そこは俺たち親戚だからね。小さい頃から遊んでる仲だか
ら﹂
﹁それはそれで悪くないでしょ。幼馴染の恋って、典型的だけどお
いしいよね。でも、それだったら他の家の姫君もアリか﹂
文林の顔がすっと真面目なものになった。気圧される。
﹁なんか吹き込まれた?﹂
﹁いや⋮⋮吹き込まれたっていうか、この前髪切った時に、目の前
225
に置かれた女性週刊誌に色々載ってた﹂
﹁今度から、オシャレなファッション誌しか置いてないとこに行け﹂
文林はため息まじりに吐き捨てた。色々と嫌な思いをしているら
しい。ちょっと反省した。
﹁ごめん﹂
﹁いや⋮⋮それで、そういうモロ下世話な話読んでどう思った?﹂
﹁話半分⋮⋮ううん、10分の1くらいに思ってる。だってあんた
ホントに男? ってくらい淡白なんだもん﹂
﹁大体どんなこと書かれてたかわかった⋮⋮いや、そこは話半分く
らいでいい。俺にも性欲はあります﹂
﹁そ⋮⋮そう﹂
一瞬、こいつがしたたかに酔いつぶれて、自分︵一応女︶の家に
転がり込んで、何もせずにただ寝こけた夜が片手できかないのを思
い出した。だが、まあ、自分の前で性欲らしきものを見せたことが
ないことと、性欲が実際にあるかどうかはイコールで繋がれないし
な、と思いなおす。
﹁それで、どう思った?﹂
﹁今、言ったじゃない﹂
﹁嫉妬してくれなかった?﹂
何言ってんのこいつ。
226
小玉、空軍やめるってよ 4︵完︶︵前書き︶
完結しました!
書いてて楽しかったけど、なんかこっぱずかしかった!
227
小玉、空軍やめるってよ 4︵完︶
右腕から、ずるりと顎がすべり落ちそうになり、あわてて姿勢を
立て直した。なんの冗談だと、改めて相手を見ると、彼は存外真剣
な眼差しだった。
﹁まさか、本気でそんなこと聞いてんの?﹂
﹁本気だったら、どう答えてくれる?﹂
﹁⋮⋮読んで、嫉妬は、して、なかったけど﹂
実際、そうとしか答えようがない。美容室で誇張が2倍だという
その記事を読んでいる最中、こみ上げていたのは笑いだけだったか
ら。
文林は、背もたれに置いていた右腕を下ろすと、左手をテーブル
の上に置いて言った。
﹁じゃあ、質問を変える。もし俺が今日まで結婚していないのは、
お前が好きだったからって言ったら、どう思う? ⋮⋮逃げんな﹂
思わず身を引いた小玉だったが、頬杖をついていた腕の退去が遅
れ、伸びてきた文林の手にはっしと掴まれた。
﹁どう思う?﹂
﹁えーと⋮⋮﹂
ガラッ
﹁失礼しまーす! つまみ三点盛りお持ちしましたー!﹂
底抜けに明るいバイトのにーちゃんの声が響いた。
この状況はまずい。身を引いた女の腕を、身を乗り出した男が掴
んでいるという男女関係のアレコレを連想させるシチュエーション。
慌てて腕を引くが、案に反して文林はますます強く腕を握ってきた。
228
まさかの状況維持!? 待って、そこは状況終了でしょ、軍人な
らさあ!!
﹁あー⋮⋮﹂
ほら、にーちゃんもめっちゃ困ってるし! ごめんね! そして、
忘れて!
﹁すみません、そこ置いていただけますか? あと、ビール追加お
願いします。二つ﹂
あんたよく品行方正スマイル浮かべてられるわね。あとなんであ
たしの分まで注文してんの! ありがとう! ﹁あっ、はい﹂
にーちゃんはぎくしゃくと皿を置いて、風のように去ってった。
心中の絶叫を心中にのみとどめておいたのは、なけなしの自制心
による。
﹁ビール来たら、答聞くから﹂
そうささやくと、彼はようやく腕を離して、背筋を伸ばして座り
直した。
とてつもない速さでビールは来た。
恨めしげにグラスを眺める小玉の横で、さっきのにーちゃんは、
ビールを持ってきた速度とは裏腹に、ゆっくりと空いた皿を片付け、
すごく興味津津にこちらをチラチラ見ながら去ってった。
この店もう来れない。というか、今すぐ出て行きたい。
﹁で、どう?﹂
文林は、平然とした様子でグラスを口に運んでいる。苛立ちを感
じたが、同時にこれは素直に言わないと帰れないなとも漠然と感じ
た。
229
﹁ちょっと⋮⋮びっくりした、かな。なんでここでそんなこと言う
の?﹂
﹁もっとロマンティックな場所が良かった?﹂
﹁そういうことじゃなくって﹂
﹁⋮⋮なんかもう、我慢する必要ないなって思ったんだよ﹂
文林がボソッと呟いた。
﹁ええ?﹂
聞き返した次の瞬間から、文林の流水のようになめらかな弁舌が
冴え始めた。
﹁いやさ。身分違いの恋って聞こえはいいけど、俺はお前がどう考
えても皇族のお妃向きじゃないってわかってたから、諦めた方がお
前にとってはいいんだろうなと思ってたわけよ。でもさ、お前のつ
かまえる男って、揃いも揃ってどうしようもない奴ばっかりでさ、
しかもお前30過ぎてもそれだろ。﹃まだ俺の方がマシ﹄って思っ
たわけ﹂
半ばあっけに取られた小玉は、どこか見当違いな相槌を打った。
﹁今日⋮⋮よくしゃべるね﹂
﹁だから、ずっと我慢してきたって言ったろ⋮⋮そう、我慢してき
たんだよ、5年以上も。おい、小玉、こんな純情にお前に惚れてる
男がいるんだぜ。しかも、職業上お前の仕事にきちんと理解があっ
て、辞めろだなんて口が裂けても言わない。顔も体もそれなり以上
にいいし、浮気だってしない。したら親父とお袋に八つ裂きにされ
るしな。自分の力で稼いだそこそこの財力だってある。で、どうだ
? こんなにお前にとっていい条件の奴、他にいるか?﹂
文林の目は据わっている。
前半はともかく、後半は誰にとってもいい条件だと思うのだが、
とりあえず言ってることは確かにその通りだった。
﹁え、はい、いませんね﹂
﹁じゃあ、付き合うぞ﹂
﹁うん⋮⋮うん?﹂
230
﹁言質は取ったから﹂
﹁えっ?﹂
﹁あと、結婚を前提にしてるから﹂
﹁えっ?﹂
﹁じゃあ、記念に乾杯しようか。ほらグラス持って﹂
﹁えっ?﹂
﹁はい、かんぱーい﹂
文林の若干棒読みの音頭と共に、グラスとグラスの触れ合う音が
響いた。
帰り、車中にて、双方無言だった。何たって、運転しているのは、
どこの誰だがよくわからない運転代行のおじさんだから。
文林は、先ほど小玉が運転し始めた時のように、窓の風景を眺め
ているし、小玉は小玉でぼんやりと前を見ている。おじさんがなん
だか興味深げにこちらの様子を伺っていることはわかったが、相手
をしたくなかった。
思いっきり流された。こんなに自分が相手のペースに乗せられた
のは初めてだ。それは、文林の手腕と、自分に対する理解によるも
のだろうが、もう一つ理由がある。
少なからず、ときめいた。
さっき鼓動が速くなったのは、動揺や羞恥だけのものではないと、
小玉はわかっていた。
それに、我に返った今、やっぱナシとか言い出さない自分にも気
づいている。そして、それらのことに戸惑っている。
﹁またお願いしまーす﹂
﹁はい、どうもー﹂
231
代行のおじさんを見送ると、隣の文林は、片手を挙げた。
﹁じゃあ、俺帰るわ﹂
一瞬、﹁泊ってけばいいのに﹂と言いそうになり、あわててやめ
る。もう、なんの含みもなしにそれを言うことが出来ないのだと、
気づいた。
文林の目が少し笑っている。何もかも見透かされているような気
がして、いらっとした。
﹁⋮⋮おっ?﹂
文林の襟元に手を伸ばして引き寄せて、唇を重ねた。舌を差し入
れ、相手のそれとからめる。即座に応えてきたことに、なるほど、
性欲は確かにあるらしいと納得する。いつの間にか、文林の手は小
玉の腰に添えられていた。ややあって身を離すと、くそ、と呻く声
がした。
﹁お前今日、泊めろよ!﹂
﹁やだよ、明日仕事あるもん﹂
2、3歩後退し、距離をおく。文林は、ちくしょうなどと言いな
がら、右手で頭をかきむしった。今日初めてイニシアチブを取った
気分で、大層胸がすく。
やがて彼は苦笑すると、再び手を挙げた。
﹁また、しあさって﹂
﹁うん﹂
小玉も手を振り、彼の背中を見送った。
駐車場と、アパートとの間は少し距離がある。小玉は自分の部屋
に向かって歩きながら、笑みが浮かぶのを感じた。
多分、彼と付き合うのは大変だろう。だが、歴代の元カレに対す
るよりは、大変ではないだろう。まあ、大変さの内容のベクトルは
これまでとは違うだろうが。
アパートの鉄製の階段をカン、カンと音を立てて上がる。熱を帯
232
びた頬に冷たい外気を感じ、もうすぐ冬なんだなあとなんとなく思
った。
233
小玉、空軍やめるってよ 4︵完︶︵後書き︶
いやー、男が押せ押せになるだけで、この二人ってくっつくんです
ねえ。
やっぱり生い立ちが違うと、まったく別の人格になるなと思います。
だから、この小玉さんと文林さんは、オリジナルとは似て非なる存
在だと思います。
以下、盛り込みすぎた設定。読まなくても問題なし!
・関小玉
父は空軍︵すでに殉職︶、母は陸軍︵現在予備役︶という、軍人家
系。兄︵妻子持ち︶は陸軍にいて、たまに家族に﹁これから雪中訓
練だよ、パパがんばる^︳^﹂とかメールしている。
ご本人は空軍の戦闘機パイロット。お仕事は優秀だが、ダメンズキ
ャッチャーとして、友人に心配される日々を送っていた。始末が悪
いことに、生活が脅かされるレベルの男は避けて通っていた。
・文林
お家の名字は周じゃなく茹です。傍系ではあるが、そこそこ格が高
い皇族の家の出。両親と姉二人と弟一人の家族。家族仲は良い。パ
パのみフツメン。女性陣は夢見がちなので、小玉への告白が居酒屋
チェーン店で行われたことに大ブーイングした。弟は兄の女の趣味
は悪いと思ってる。
小玉のことは、ダメンズキャッチャーを心配しているうちに恋に高
じた。
他キャラもそれぞれあるんですが、またの機会があれば。
234
一応、﹁小玉、独身やめるってよ﹂、﹁小玉、結婚やめるってよ﹂
という三部構成で考えましたが、めっさ長くなるし、一応第一部で
リクエストのラブらしくはなったので、ここで切っておきます。続
きはお月様で!
235
皇后かく語りき︵前書き︶
明慧さんの結婚話です!
236
皇后かく語りき
﹁そういえば、ねえ、明慧。文林が皇帝になって、あたしが後宮入
りするまでの間、一回だけ、文林が恋しくなったときがあんのよ﹂
小玉は愉快そうに笑って、杯の中身を干した。一身上の都合によ
り、最近は禁酒しているので、小玉が飲んでいるのは茶だが、相手
にはきちんと酒を出している。
﹁亡命?﹂
しゅる、と頭に巻いていた巾を取り、小玉は聞き返した。
﹁そう、亡命﹂
張泰が重々しく頷く。
﹁へえ⋮⋮﹂
小玉は気のないそぶりで頷いた。なんでも、隣国からそれなりに
名のある武将が落ち延びてきたらしい。
﹁うちの国、そんなに魅力的だったの? それともお隣さんがそこ
まで駄目すぎだったの?﹂
﹁後の方です﹂
なんでも、去年即位した新帝︵男︶が、その武将︵やっぱり男︶
に言いよったらしい。
﹁駄目だそりゃ!﹂
小玉は、ぴしゃりと額を叩いた。
﹁一応聞いておくけど、それって性的にごにゃごにゃな言いよりよ
ね﹂
﹁他にどんな言いより方があるって言うんですか﹂
﹁勧誘とかさー⋮⋮﹂
それはさておき、結果、強制的に関係を持とうとした皇帝から、
237
その武将は逃げてきたのだという。
﹁気の毒だな⋮⋮﹂
ちょっと前の興味のないそぶりが嘘のように、小玉は心底同情し
ていた。
﹁大家はどうなさるおつもりかしら﹂
隣国は、今でこそそれなりに穏便な関係を保っているが、つい先
年まで戦をしていた仲だし、現在も訓練する時には仮想敵国として
扱っている存在だ。向こうから見たこの国も同様だろう。
下手に迎えて、隣国の感情を刺激していいものか。小玉はそう思
った。だが、張泰は首を横に振った。
﹁おそらく丁重に迎えるでしょう。新帝即位に伴い、両国の関係は
不安定になっています。隣国の情報を持つ武将を引き入れる方が得
策です﹂
﹁そう。また戦になるのね﹂
﹁おそらくは﹂
その時点では、問題はそれくらいだった。
しかし、数日後、小玉は皇帝に呼び出された。そして、小玉の部
下として、その亡命武者を迎えるよう命じられた。
﹁恐れながら、直言お許しいただきたく﹂
﹁許す﹂
﹁御意のごとくいたしますが、大家。臣よりも適任の者がいるかと﹂
小玉は確かに将軍であるが、他にも同格の者は多く存在するし、
小玉以上の経験を積んだ者もいる。
﹁⋮⋮本人の希望だ。それ以上の発言は許さぬ。下がれ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
ならんじゅか
小玉は深く頭を下げ、皇帝の御前から下がった。
﹁納蘭樹華と申します。何卒よしなに﹂
引き合わされたその武将は、皇帝に言い寄られたとあって、さす
238
ひげ
がにいい男ではあったが、なんだか予想していたのと違った。
すごくでかかった。明慧より大きい⋮⋮あと髭すごいと思いなが
いくさ
ら、小玉もせいぜい偉そうに挨拶をする。
﹁良き戦働きを期待している﹂
﹁令名高い関将軍閣下の下につくことができ、誠に名誉なことと存
じます。閣下の武勇は、私の生国にも轟きわたっていました﹂
﹁そうか﹂
﹁時に閣下。閣下の下には、鬼神の如き武者がいますな?﹂
﹁⋮⋮まあ、いるが﹂
もちろん、明慧一択である。
﹁私は数年前、そのものと槍を交わしまして﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
記憶に引っかかるものがあった。あれは⋮⋮文林の初陣あたりだ
ったか。明慧と歴史的な大立ち回りをやった武将が⋮⋮。
﹁あれ、あんたか!﹂
﹁はっ?﹂
偉そうに振る舞うことも忘れて、小玉は叫んだ。
なんでも、それまで負け知らずだった彼と、唯一引き分けたのが
明慧だったらしい。
並んで歩く樹華は、目をキラキラさせながら語った。
﹁あれほどまでに血が沸くような思いは、あの者以外に抱いた覚え
はございませぬ﹂
﹁ま、ケガしない程度に楽しんで。彼女も多分喜ぶわ﹂
その時、樹華がぴたりと立ち止まった。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮彼女?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
もはや小玉たちには常識すぎて誰も気にしないが、明慧はれっき
239
とした女である。そして、どう見ても女には見えないことも常識で
ある。
﹁なるほど⋮⋮ますます会うのが楽しみになってまいりました﹂
﹁あ、そう﹂
まあ、確かに会ってみたくはなるだろう。小玉はそう思い、練兵
の場に彼を連れて行った。そして後悔した。
﹁その武勇に惚れもうした! どうかそれがしと一緒になってくだ
され!﹂
彼は明慧を見るや否や跪いていきなり求婚したのだ。
誰もが凍りついた。そして誰もが、樹華の言葉の後半をなかった
ことにするか、別の意味に取ろうとした。
一方、当の本人である明慧は、全く事情と相手のことを知らない
にもかかわらず、一切の動揺を見せなかった。後にある新兵はこう
証言している。
おとこ
﹃おそらく生まれて初めての求愛⋮⋮しかも人前、唐突という条件
の中、堂々と受けて立ったあの姿はまさしく漢でした﹄
そう、受けて立ったのである、彼女。
﹁その意気やよし! お受けしよう!﹂
その時、小玉は思った。なんで明慧は良くて、隣国の皇帝駄目だ
ったの⋮⋮。
後に聞いたところによると、皇帝のもやしっ子っぷりが嫌だった
らしい。むきむきに鍛えていたら良かったのかという突っ込みは、
怖くてできなかった。
きっと文林ならできるのに⋮⋮。そう思った小玉は、その時初め
て遠いところ︵玉座︶に行ってしまった自分のところの皇帝を恋し
く思った。
さて、彼ら二人の結婚は、多大な困惑をもって迎えられた。
240
きっと結婚しても、毎日手合わせしかしていないはずだ。そんな
下馬評︵一部願望︶があちこちで聞かれたが、それも祝言から数ヶ
月後に明慧が懐妊したことによって、ある種の絶望とともに終息へ
と向かったのだった。
﹁まあ、でも、仲いい夫婦だったわよね﹂
そう、非常に睦まじい夫婦だった。公私共に支え合った、人もう
らやむ関係だったと思う。
﹁でも、それも昔の話になっちゃったね﹂
小玉は、自分の杯をコトリと置いた。その前には、決して中身の
減らない杯が、ぽつんと置かれている。
﹁⋮⋮今、あんたが恋しい﹂
今日は明慧の3回目の命日だ。
241
皇后かく語りき︵後書き︶
書いてて切なくなりましたが、結構この話好きです。
242
恋にはあらねど︵前書き︶
リクエストの、二人が結婚してもいいなーと共通の見解に至るまで
の話。
243
恋にはあらねど
ああ自分、本当に嫁き遅れたなとしみじみと思う今日この頃、み
なさまいかがお過ごしでしょうか。
⋮⋮みなさまって誰よと自分で突っ込むのも虚しい。 周囲がバタバタと結婚している中で、自分がまだ結婚していない
ということに、もう無理なんじゃないかなという思いがひしひしと。
かといって、男を探すつもりはない自分は女として終わっている
のだろうか。いやそんなことはないと、反語で決めたいが、自分で
も﹁そうかも﹂と思うあたりがそれこそ終わっている。
そんな関小玉、27歳になりました。
結婚の話どころか、交際の話さえ影も形もない状況である。だが、
普段はそんなこと気にもしないのに、なぜこんなにも悩んでしまう
のだろう。
﹁欲求不満なのかなー﹂
﹁何に?﹂
文林に聞き返されて少し慌てる。しまった、声に出ていたらしい。
﹁運動不足なら、まず手の運動してから出て行けよ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
言うまでもなく、書類仕事を終わらせろということである。大人
しく手を動かし始める小玉だったが、ふと気付いた。そうか、書類
仕事嫌だから、今あたし現実逃避してたな、と。
間違いなくそれで正しい。
まあ、それはともかくとして、もうひとつ気付いたことがある。
﹁文林、あんた結婚しないの?﹂
周文林24歳。今がまさしく旬の男だった。彼は小玉を一瞥して、
244
﹁お前、まず自分のこと片付けてから言えよ﹂
﹁⋮⋮﹂
今、ちょっと堪えた。
それでも彼はこちらの反応を待ってる。一応話には乗るつもりら
しかった。
﹁良い相手はいないのか?﹂
﹁うん。なんか⋮⋮結婚に夢見てるわけじゃないんだけど、最低条
件を満たす相手が見つからない﹂
﹁その条件って?﹂
﹁丙﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
文林は納得したように頷いた。
小玉は現在、甥を引き取って育てている。もはや唯一の身内であ
る彼を成人するまで見守ることが、小玉の使命だった。だが、そん
なこぶつきの年増を損得抜きで相手にしてくれる男はいない。それ
に、丙がいるなら無理して結婚しなくてもいいやという気分にもな
っている。決して彼を言い訳にしているつもりではないけれど。
﹁あと、今のところ、あんた以上にいい男がいない﹂
ぶっ!
文林が吹いた。
﹁ちょっと待て、なんで俺﹂
﹁いやね、何様? みたいな発言これからするけど、結婚してもい
いなって思える相手、今のところあんた以外いないのよね。だから、
基準はあんた﹂
文林の口がぱかっと開いた。おお、珍しい表情だ。
﹁お前⋮⋮俺のことが好きなのか?﹂
﹁いや、全然﹂
﹁じゃあ、なんで﹂
﹁なんかね、ここに⋮⋮軍にいて、隣にいるのがあんただととても
245
やりやすいの。だから、あんたがいてくれるために、結婚って形式
が必要なら、絶対結婚するだろうなって感じ﹂
﹁お前⋮⋮いや、想像はしていたが﹂
文林はなにやら愕然としていた。そして、あとそこで言葉を切ら
ないでほしい。なに想像してたのあんた。
まあ、いい。
﹁でも、あんた個人に対して思うところもあるのよ。不満とかじゃ
なくって、尊敬ってこと。別に恋愛じゃないけど、それだって結婚
の条件としてはいいじゃない?﹂
﹁⋮⋮結婚しようか?﹂
少し考えたあと、文林が言った言葉は飛躍しすぎだった。
﹁別に結婚したいわけじゃないんだって。大体あんたの今のお相手
はどうなのよ﹂
﹁今は誰とも交際していない﹂
﹁あ、そう。好きな人もいないの?﹂
﹁まあなあ⋮⋮﹂
﹁ふうん、いいけど。でも意識してないと、適齢期ってあっという
間に過ぎるからね。あんたなら大丈夫だろうけどね﹂
﹁どうだろうな。まあ、いわゆる適齢期過ぎてもまだ俺とおまえに
相手がいなかったら、また声をかける﹂
﹁え、なんで?﹂
﹁俺だって、お前とだったら結婚してもいいってくらいに、お前と
一緒にいることが大事なんだよ。どうせ、そのうち俺らは結婚しろ
だのなんだの言われるようになるだろうから、それだったら俺たち
で結婚した方が面倒くさくないだろ?﹂
不意に笑いがこみ上げてきた。相手を馬鹿にする笑いではない。
それは心底楽しくて、心地よい時に出る笑いだった。
﹁ふふっ⋮⋮あー⋮⋮いいわ、それ。いいわね、本当に。じゃあ、
お互い結婚から縁遠くなったら、結婚しましょうか。きっとお似合
いよ、あたしたち﹂
246
﹁そうだな﹂
文林も肩を揺らしながら頷く。
﹁求婚の言葉、お待ちしておりますよ﹂
冗談めかして言ったが、割と本気だった。
247
恋にはあらねど︵後書き︶
文林は﹁もし∼﹂とか言ってるけど、この話以来、女を寄せ付けま
せん。お前、ここで告っちゃえよ。でも、プロポーズはしてるって
⋮⋮。
こう書いてみると、この二人って、文林が即位しなければ、それは
それでいい夫婦になったのかもなと思いました。結婚してから、小
玉さんの愛が追いつく感じの。
248
此より始まらんとす 序︵前書き︶
﹁ある皇后の一生﹂の序章でちらっと出た、小玉さんが親征クラス
の兵を率いて出陣する話です。賢恭さん存命。
249
此より始まらんとす 序
きれ
戦装束の中、そこだけはっとするほど目を引く紅の巾を頭に巻き、
めと
騎乗の人となった彼女を見る。そして自問自答する。こんな姿を見
るために、自分は妻を娶ったのかと。
答えは是だ。自分は、この瞬間を見るために彼女を皇后にした⋮
⋮彼女の副官としての自分は。それは、皇帝としての自分の望みで
あり、男としての自分の望みでもある。
それらの望みを背負って、彼女は戦いに赴く。大勢の兵を連れて。
﹁帰ってこい﹂
そっと囁いた言葉は、誰にも聞かれたくないという希望のままに
風に散った。
﹁寛と康か⋮⋮﹂
隣国の名をぼそりと呟いた。文林のその言葉に誰も反応を返さな
いのは、それが無礼であるからだ。皇帝である自分からの下問や命
令がなければ、彼らは何も言うことはできない。それに苛立たしさ
を覚えたことは遠い昔のことだ。
その体制を変えることはきっとできた。それを自分の存命中に維
持することもできた。だが、自分の死後にそれが維持されるかどう
か、あるいは自分の変革が国家をゆがませないかという面では確証
はなかった。
なし得る限りでいちばん良い方法を取る。その点では自分の人生
は﹁最良﹂ではなく、﹁最善﹂を追求したものなのだろう。それが
自分の人生を貫く言葉なのだと、最近、文林は苦く思っている。
250
ふと妻に話してみようかと思った。多分彼女ならば、下手な慰め
などはせず、多分、大笑いしながらその二字を来年の書き初めの題
材にでもするだろう。そこまでしてくれると、却って気が楽になる
というものだ。
だが、彼女に今伝えるべきことは、そのことではないのだ、残念
なことに。
かかんしょうしょ
﹁いたしかたあるまい⋮⋮夏官尚書﹂
りくぶ
﹁はっ﹂
六部の中で軍政を担う機関の長が進み出て一礼する。文林は簡潔
せいとう
に命令を下した。
﹁征討軍を編成せよ﹂
﹁御意﹂
続いて動員数を告げると、相手の表情に驚きが滲み出た。
﹁何が言いたいことはあるか?﹂
﹁おそれながら、征討大将軍には誰を任命されるおつもりでござい
ましょう﹂
彼のその問いも無理はない。文林の告げたそれは、ほとんど皇帝
による親征規模の人数であったからだ。そして、これだけの人数が
動員されると、帝都の守りは手薄になる。その軍を率いた者が裏切
ることも危惧すれば、かなり難しい人選だ。
﹁生なかな者には務まるまいよ﹂
﹁仰せの通りでございます﹂
﹁故に、皇后を出す。勅命である﹂
文林の正妻である関皇后は武官から後宮入りした人間で、今でも
武官としての官位を所持したままだ。そのため兵を率いる資格を有
しており、事実なんどか指揮をとらせたことはあった。
はっと息を飲む音が複数聞こえた。それを聞きながら、文林はそ
っと目を伏せた。いつかこの日が来る事を、自分は知っていて、し
251
かも願っていたのかもしれないと。しかし、半ば自覚しているにも
かかわらず、いざそうなると胸の奥には重苦しいものがあった。そ
さいころ
れに名前をつけることができるほど、追究する時間などなかった。
とにかく、賽子は振られた。後は止まるところまで転がり尽くす
のみだ。
徳昌13年。
宸帝国は隣国である寛と康の連合軍と戦うこととなる。未曾有の
規模のこの戦いが、武威皇后伝説を燦然と輝かしめることになると、
漠然とでも予想している人間はこの時一人だけだった。
252
此より始まらんとす 1
﹁聞いたわ﹂
妻の部屋に入ると、文林が口を開く前に、そう言われた。
何を、と言うまでもない。妻が手に持っているものを見れば、彼
女が聞いたことがなんなのかすぐわかる。針と糸と、修復中の戦装
束。女官たちは慌ただしく立ち働いている。
どこかから伝わったのであろう。彼女が出征することが決められ
たことを。
話が早いのは確かだ。だがそれは、決定した自分が伝えるべきで
あったという気持ちがもやりと胸にくすぶる。同時に、それは妻に
ぶつけるものではないなということもわかっていたから、文林はた
だ一言だけ返した。
﹁そうか﹂
﹁予想はしてた﹂
彼女はそう言い、針刺しに糸のついたままの針を刺した。戦装束
も卓上に置き、立ち上がる。ひたと、文林の目を見据えてはっきり
と言った。
﹁この国の興亡は、おそらくこの一戦で決まるわね﹂
﹁ああ﹂
﹁行ってきます。生きて帰れるかわからないけれど、望む結果は必
ず残す﹂
声は発さず、頷くことで答えを返した。
小玉の目線が外される。斜め下を見つめ、ややしてから、ぼそり
と彼女は呟いた。
﹁⋮⋮準備で忙しいの﹂
﹁そうか。ではまた来る﹂
﹁うん⋮⋮ああ、待って文林﹂
253
きびす
踵を返そうとする文林を小玉が呼び止めた。
振り向く文林に、小玉は何かを悟り得たような顔で言った。
﹁今、実感してる。このために皇后になったんだわ、あたし﹂
その一言は、思いもよらず文林を打ちのめした。なぜならばそれ
はまごうことなき﹁真実﹂だったからだ。対外的にも、文林の心中
においてさえも。
そして、今、関小玉という皇后はそのことを納得した。
その事実は、今後その﹁真実﹂が、決して揺らがないという証を
文林に突きつけた。その﹁真実﹂を大義名分にして小玉を迎えた、
心の奥底の文林にも。
だから、﹁真実﹂を否定することは許されないのだ。
だから、一つ頷くだけで、文林は部屋から出て行った。扉の前で
ぬか
文林を待っていた護衛を率い、廊下を歩く。前の方から人が来たか
と思った途端、相手は廊下の端によって額づいた。文林が相手を視
認したのと同時に、相手も皇帝である自分が歩んできたことに気づ
いたのであろう。
構わず歩く。それが皇帝の振る舞いだ。
だが、額づく相手が誰なのかわかるほど近づいた時、文林は誰に
もわからぬ程度に眉をしかめた。それでも足は止めない。そして、
しんたいかん
相手の前に至った時、文林は立ち止まった。
たいか
﹁沈太監。息災か﹂
﹁大家の聖恩をもちまして﹂
﹁皇后が戦場に赴くこと、そなたは知っておろうか﹂
﹁は⋮⋮すでに耳にはさんでおります﹂
﹁そうか﹂
おそらくは、彼が妻に伝えたのだろうと、文林は当たりをつけた。
その有能さは役に立つが、ときおりうとましい。
相手を見下ろす。服の裾から覗く手は皺が刻まれている。まだ5
0代の半ばだというのにだ。それは宦官の宿命だ。
文林は一度だけ、若々しい頃の彼を見たことがある。まだ自分が
254
20代の頃、当時上官だった妻と話しているのを遠くから眺めた。
老いが皮膚の裏側にまで迫っているがゆえの、鬼気迫る美しさだっ
た。
だが、今はかつては後宮の美姫にも匹敵するほどの美貌が跡形も
ない。美しいままならば良かったのに、と文林は思う。彼の醜さを、
おそらく彼自身より憎んでいる。今、彼が小玉に慕われているのは、
内面によるものだということが、わかりすぎるくらいわかってしま
うのだ。
﹁沈太監﹂
﹁はっ﹂
それでも、彼は利用価値があった。
﹁そなたも皇后に従い、戦に赴くがよい﹂
彼の指がぴくりと動いた。おそらくそれは、喜びや安堵によるも
のだ。よくわかる。 彼ならば、妻を自身より先に死なせることはないだろうと思う。
妻が死んで、彼が生きているということなど許せない。かれも同じ
気持ちだろう。妻が死んだのに、自分と顔を合わせ続けなくてはな
らない事態に陥るくらいならば、死んだ方がましなはずだ。
自分としては、彼に死なれたら困るが、死んでしまってもかまわ
ないとも思っている。そんな暗い思いを罪悪感なしに抱けるのは、
やはり彼に対する感情が、憎悪と共感が結びついたものだからなの
だろう。
﹁微力を尽くしたく存じます﹂
だから、そう言って更に深く頭を下げる彼に、励ましの言葉を投
げかけたのも、本心から出た行動だ。
255
此より始まらんとす 1︵後書き︶
暗ッ!
256
此より始まらんとす 2
自室に戻ると、宦官が耳打ちした。妃の一人が会いたがっている
と。常ならばはねつけるが、その妃の名が気にかかったので、会う
ことにした。彼女の宮に赴き、部屋に入ると跪く女が目に入る。
﹁大家に御意を得ます﹂
﹁楽にせよ﹂
言葉を投げかけ、椅子に腰掛ける。すぐさま運ばれる茶と菓子に
ふう
手をつけず、人払いをした後、女を一瞥する。
﹁して、馮貴妃。そなたは何用で余を呼びつけたのか。この時に﹂
この時、というのは、言うまでもない。国家の危機の時というこ
とだ。他の妃ならば、何を言っているかわからないであろう。だが、
じょうし
この女ならばわかるはずだった。
﹁大家、娘子が出征なさると伺いました﹂
﹁そのことか。耳が早いな。誰から聞いた?﹂
﹁ご本人からです﹂
﹁なに?﹂
忙しい最中、わざわざ他の妃に対してそれをわざわざ言う必要が
どこにあるのか。確かに妻は、自分の娘といってもいいくらいの年
齢のこの側室を可愛がっていたが⋮⋮。
こうえん
馮貴妃が急に身震いをし出した。
﹁大家、この紅燕とて、危急の時に、大家を呼び出すことがどれほ
どわきまえておらぬことか、よく存じております⋮⋮ですが、です
が⋮⋮此度の戦は、それほどまでに危険なものなのですか?﹂
﹁話が見えぬ。順を追って申せ﹂
馮貴妃は一つ頷いて語り始めた。
257
彼女が午睡から覚めたのは、女官からの呼びかけによるものだっ
た。
﹁起こさないでと言ったでしょう?﹂
﹁御無礼お許しください。娘子がお見えでございます﹂
その言葉で、やや不機嫌だった気持ちも吹き飛んだ。
﹁まあ、なんてこと! よく気を利かせてくれたわね、すぐ身仕度
を整えなくては﹂
﹁こちらにご用意しております﹂
紅燕は寝台から滑り降りた。
慌てて着替えて、応接間に飛び込むと、そこには皇后が茶碗を片
手に女官たちと談笑している光景があった。
﹁まあ、紅燕殿。急にすみませんね﹂
﹁お姉様! こんなところにわざわざ足をお運びにならなくても、
愚妹を呼びつけてくださればよろしいのですよ!﹂
﹁紅燕殿、そうはいきませんよ﹂
一蹴された。
正妻である彼女と、側室である自分とは、お互いに﹁姉﹂、﹁妹﹂
と呼び合う慣わしになっている。だが、皇后は自分のことを﹁妹﹂
と呼んではくれない。紅燕がかつて仕えてた者の娘だからなのだが、
それがいつも不満だった。だが、同時に、彼女から目をかけられて
いるのも、そのことが理由だとわかっているから、なんともいえな
い。それに素っ気なく﹁馮貴妃﹂と呼ばれるよりは、名前で呼ばれ
る方がいい。
﹁それで、お姉様。本日は何用でお越しになったのですか?﹂
相手の茶碗に茶を注ぎながら、紅燕は問いかけた。
﹁実は、わたくし、戦に赴くことになりました﹂
﹁まあ、また?﹂
紅燕は眉をひそめた。さまざまな軍功を立ててきた彼女にあこが
れているが、だからといって彼女が死地に身を置くことを望んでい
るわけではない。だが、それを彼女に向けることはお門違いという
258
ものだった。
がいせん
﹁でも、きっと娘子なら凱旋なさりますわね﹂
だからつとめて明るく振る舞う。そんな紅燕に、皇后は居住まい
を正して改まった口調で言った。
﹁今日は、紅燕殿にお願いがありまして、参りました﹂
﹁⋮⋮お願いですか?﹂
﹁ええ。やや難題かとは思いますが⋮⋮﹂
皇后が憂いを帯びたため息をついたので、紅燕は慌てて言った。
﹁なんでも構いませんわ。なんなりとご用命ください﹂
﹁そうですか? では⋮⋮﹂
そして皇后は、﹁お願い﹂を口にした。それはとんでもないもの
だった。
﹁わたくしの後に皇后になってください﹂
﹁⋮⋮娘子は、自分が生きて帰れるかわからないとおおせになって
⋮⋮もし死んだら、その後の皇后にわたくしを推したいと⋮⋮でも、
そんな、ああ、大家、娘子が戦死なさるなどありえませんわよね?﹂
馮貴妃は錯乱した様子で言葉を紡ぐ。無理もないと文林は思う。
彼女はまだ10代なのだ。しかも深宮の育ちで甘やかされて育った
ときている。後宮で役立つ権謀術数は得手としているが、あからさ
まに血なまぐさい話は苦手なはずだった。しかもそれが、慕う相手
が関わるときては。
﹁もし娘子がお隠れになったら、わたくし尼寺に入りとうございま
す﹂
いや、それは飛躍しすぎだろう。
﹁大丈夫だ。あれは死なぬ﹂
﹁本当ですね?﹂
馮貴妃がここでようやく、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。文林は
手巾でそれをぬぐってやる。この妃に愛情は一片たりとも持ってい
259
ないが、身内としての情は少し持っている。なんといっても、自分
の兄の孫娘だ。できることならば、妻の甥の嫁にしたいと思ってい
た程度には大事だった。
それがまあ、何の因果か自分の妃の一人になってしまった。妃に
なった理由が理由なので、今日に至るまで肉体関係を持っていない
が頭の痛いことだ。だが、おかげで役立つこともある。
部屋を出る直前に、馮貴妃が耳打ちした。
﹁大家、娘子が戦に出られている間に動こうとする者がおります。
娘子に害を及ぼそうとしているものかと﹂
﹁淑妃か?﹂
﹁賢妃もです﹂
﹁皇子の生母か⋮⋮﹂
﹁ご確認の上、良きにはからってくださいませ﹂
無言でうなずくと、馮貴妃も無言でしとやかに礼をとった。
260
此より始まらんとす 3
娘はそれをいつも苦々しく聞く。
﹁あの女、今度こそ死ねばいいのに﹂
それは、娘の女主人の口癖だった。それをいかにも憎々しく、毒
々しく言うのだ。
気持ちはわからないでもない。女主人に取って、﹁あの女﹂は夫
の正妻だ。しかも、家柄・容貌・年齢において女としての優位性を
持っているはずの女主人が、下風に立っているのだ。この現状は耐
え難かろう。まさしく、目の上のたんこぶだ。
﹁子も産まぬくせに⋮⋮﹂
ギリギリと歯ぎしりしながら、女主人は今日も毒づいた。またか、
と内心ため息をつく。
昔はこうではなかった。世間知らずではあるが、邪気のない姫君
だった。それが後宮という場に入ればこうだ。自分の心中に流れる
血を、誰かの心に傷をつけて流した血で争う生活に、あっという間
にこの人の心は歪んでしまった。
娘にとってそれはとても悲しいことだった。だが、誰を恨みよう
もない。女主人に関わる人々全てが、彼女が歪むことに関わっては
いるものの、それは複雑に絡み合い、特定の誰かに責任を追及でき
るものではなかった。
女主人の夫である皇帝も、女主人が目の敵にしているあの皇后で
さえ、恨む対象ではない。特に皇后は、女主人が歪み切ってからこ
の場に訪れたのだからなおさらだ。
皇后のことを娘は嫌いではない。女主人をはじめ、後宮の女たち
にきちんと気遣いをしているからだ。女主人はそれを拒んでいるが、
皇后のそれは上辺だけのものではないということを、娘はわかって
261
いた。
皇帝の正妻となっていれば歪まずにいられるというものでもない。
むしろ、嫡子がないままその座にありつづける皇后の心的負担は相
当なもののはずだ。
娘は皇后が気遣いをしてくれているから好意を持っているわけで
はない。皇后が他の妃に気遣いできるほど歪んでいないから、好意
を持っていたのだ。それは敬意と言い換えてもよい。女主人の変貌
を見てきただけに抱いた思いだ。
しゅうぎく
女主人が語りかけてきた。
﹁ねえ、秋菊。今度こそあの女は死ぬべきだと思うの﹂
﹁さようでございますか、淑妃さま﹂
いのちみょうが
﹁幸い、大きな戦があるわ。あの野蛮な女はまた行くようだけれど、
命冥加だからまた生きて帰ってくるかもしれない。だから、わたく
し、お父さまにお願いして、あの女を始末してもらおうと思うの﹂
ああ。
娘は目を閉じた。これまで他者に対し大なり小なり危害を加えて
きた女主人だが、それでもそれは嫌がらせの域を出なかったはずだ
った。それがここにまで至ったとは。
終わりだ、と思った。湾曲の果てにきっと彼女は破滅するであろ
う。
それがわかっていて、自分はどう答えるべきか。
迷いなく答えた。
﹁かしこまりました。筆と紙を用意いたいます﹂
止めるつもりはない。もはや止まらないとわかっているからだ。
それでも、彼女と運命を共にしようとする自分もまた、歪んでいる
のだろう。
満足げに笑う女主人を尻目に墨をすりながら、娘は思った。
後宮。正しく、ここは華麗な地獄だ。
262
此より始まらんとす 4
自分がいなければ、全てが丸くおさまるのだろうなと常々思う。
悲劇的な自分に酔っているとかではなく、客観的な事実として。
戦装束を身につけ、小玉は宮城のある場所へと向かった。会わな
くてはならない人間がそこにいる。
小玉が部屋に着いた時、会おうとした相手は年かさの男と話をし
ははうえ
ていた。そっと立ち去ろうとした時、
﹁義母上!﹂
目ざとく小玉の姿を見つけた少年⋮⋮義理の息子が、ぱっと立ち
上がり、駆け寄ってきた。
じょうし
﹁皇子、お勉強中なのでしょう﹂
﹁いえ、娘子のおなりとあらば、そちらを優先すべきです﹂
そう言ったのは、義理の息子ではなく、教師である男性だ。彼は
一礼すると、辞去の言葉と共に立ち去っていった。
﹁⋮⋮皇子、いい子にしていたようですね﹂
﹁はい!﹂
彼はキラキラとした目を向けてくる。なさぬ仲だというのに、彼
は小玉のことをよく慕ってくれる。それも赤子の頃から面倒をみて
いるからだろうか。
この少年の生母は産褥熱で亡くなった。そのため、小玉が母代わ
あつれき
りとして後見をしている。実質は皇后の養子になった形だ。それが
無用の軋轢を生んでいる。
文林はまだ世継ぎを立太していない。
彼の長男は淑妃の腹だ。そして、三男は皇后が擁している状態。
263
どちらを立太しても角が立つのだろう。小玉はどちらも文林の息子
なのだから、正直、長幼の序列に従って長男を立てるべきだと思う。
その旨を文林にも伝えている。だが彼は動かない。政治は当事者の
都合だけで動けるものではないと分かっている小玉は、きっと動け
ない事情が何かあるのだろうと思っている。その事情を追究するこ
とは、してはいけないことだと思っているから、知ろうとはしてい
ない。
それでもどこかで後ろめたさを感じる。自分の存在、子供の無条
件の思慕、そしてそのことに嬉しいと思ってしまう心のありよう。
頭を撫でると、少年は嬉しそうにする。そんな彼にこんなことを
言うのは酷かもしれないが、それでも言わないわけにはいかない。
﹁私はこれから戦に行きます。これまでと同じようにいい子で待っ
てくださいね?﹂
﹁いい子にしていれば、義母上は帰ってきてくれますか?﹂
﹁わかりません。私の意思でどうこうなるほど、甘い場所ではない
から﹂
そこで、﹁ええ﹂と答えるほど、小玉は夢見がちな女ではなかっ
た。少年の目が泣きそうになる。
﹁でも、私はあなたのところに帰ってきたいので、精一杯つとめま
すよ﹂
﹁⋮⋮本当ですか?﹂
﹁ええ﹂
もう一度彼の頭を撫でてから、小玉は名残りを惜しむ彼を振り切
るように、部屋を出た。
小玉は武官に人気があるが、文官に対してはさほどではない。文
きょうせい
官と武官は伝統的に仲が悪いものではあるが、それ以外にも理由が
あった。たとえば今、文林の目の前にいる姜成という男は、声高に
小玉への批判を口にしている。
264
だが、彼が私利私欲からそれを行っているわけではないのも明ら
かだった。彼は政治の根幹がゆらぐことを恐れている。古来、皇帝
の配偶者が政治に関わることで、国政は何度も危機にさらされてき
た。今回がそうでないとどうして言えようというのが、彼の言い分
である。
小玉が政治に関わっているのは事実だ。だがそれは、文林の意を
受けて動いているのならば、﹁小玉﹂が関わっているといえるので
あろうか。それを語ろうにも、彼は原理を盾に意見を曲げようとし
ない。苛立たしいが、私欲からではなしに正論を貫こうとする姿勢
は得難いものであった。だから文林は彼を更迭しない。そして、そ
れによって辛い思いを小玉にさせている。﹁すまない﹂と言うこと
すらできない。そんな資格がないことを自覚しているからだ。
そして今日もまた、彼は自分に抗議している。何度も同じことを
繰り返すのを、聞き流しはしないが、くどいと思う。
﹁⋮⋮畏れおおくも大家をさしおいて、これほどまでに多くの兵を
率いらせるなど﹂
﹁⋮⋮成、控えよ。皇后が来る﹂
宦官からの耳打ちで、小玉が来ることを知り、文林は成の言葉を
とどめる。彼がぴたりと口を閉じたところで、小玉が入室した。
鎧を身につけ、帯刀した姿。成が驚きの顔を見せる。彼は小玉が
軍隊を指揮することに批判はしても、実際に武装した姿は見たこと
が無かったようだ。そういえば、小玉はこれまで、文官の前でその
ような姿を見せることを、つとめて控えていた。それは彼女なりの
公私の別であったらしい。役目上、武官の前では仕方がないが、文
官の前では皇后らしく振る舞うことを自分に課していた。
だが、今日は。
﹁大家、これより行って参ります﹂
小玉はその場に跪き、拱手した。成が目を白黒させる。このよう
にはきはきとした振る舞いと物言いを、小玉は彼の前では見せなか
った。
265
﹁⋮⋮勝て﹂
返せる言葉はそれだけだった。今日の彼女の振る舞いの理由がわ
かったからだ。
彼女は、死ぬ覚悟を決めている。死にたいわけでも、諦めている
わけでもなく、ただ覚悟を決めている。
その証拠に、小玉は﹁御意﹂とは言わなかった。ただ深く頭を垂
れたのみだった。
そして、意外なことを言った。
﹁⋮⋮大家、そこの姜成に言葉をかけてもよろしいか﹂
﹁かまわぬ﹂
﹁ありがたき幸せ﹂
すっくと立ち上がると、小玉は成をひたと見据えて言った。
﹁成﹂
﹁⋮⋮なにか﹂
慇懃に答える成に、小玉は笑って言った。
﹁そなたが私を厭っていることはよく知っています。別に責めてい
るわけではありません。しかし、覚えておいてください。わたくし
はただ大家の剣なのです。剣がどのように使われるかは持ち主次第。
剣は代えがききますが、持ち主はそうではありません。そなたは持
ち主が誤った使い方をせぬよう、これからも直言を心がけておくれ﹂
成が目を見開いた。彼も愚かから程遠い男だ。小玉が自分の死を
じょうし
前提に話していることに気づいた。
﹁娘子⋮⋮﹂
﹁大家を頼みます﹂
そう言うと、小玉は外套を翻し、足早に去っていった。立ち尽く
す成に声をかける。
﹁成﹂
﹁⋮⋮は﹂
﹁余にはあれ以上の剣を得ることができまいと考えている。余はあ
れ以外の剣はいらぬ﹂
266
独白に近いそれに、答えは無かった。
267
此より始まらんとす 5︵前書き︶
インターバルです。これまで名前が出なかったかわいそうなマザコ
ンの独白。
268
此より始まらんとす 5
紫煙がくゆる。
こう
一瞬ごとに変わる形のある瞬間に、それがまるで人の形に見えて、
鴻は瞬いた。
まるで、両腕を広げた人のように見えた。胸に蘇るものがある。
︱︱大好きです!
︱︱ありがとう。
︱︱本当ですよ、これくらい大好きです。
きせる
いとけな
鴻はいささか乱暴に、煙管をひっくり返して火種を落とした。 大好き、という言葉はどこか稚い印象がある。この年になるとそ
うそう使えないものだ。
だが、大人になっても、皇帝という立場になっても、その言葉を
向けることをはばからない相手が鴻には一人だけいる。
血のつながりはない義母。父の正妻で、早くに実母を亡くした自
分を慈しんでくれた人。だが、自分の感情はそれに対する恩義だけ
によるものだけというには強い。少し、恋に似ていた。
男の子は皆、母に恋めいた感情を抱くのだという。成長して血族
に対する倫理観を身につけるにつれて、それは薄れていくものなの
だという。だが、義母と自分は血がつながらない。彼女に抱いたそ
れは、まさしく恋に近いものだったのだろう。年齢が離れすぎてい
たので、﹁近いもの﹂以上にはなり得なかったけれども。
それでも、自分は幼い頃から、義母が大好きだった。今も大好き
だ。
幼少時はなにも考えず、可愛がってくれる義母を慕っていた。成
長して分別がついた後も、義母が敬慕に値する人だと知って慕い続
269
けた。生さぬ仲でその感情を持てる相手であることが、どれほど難
しいものなのか知ってからは尚更。
彼女は最期まで、そういう人間だった。
鴻はぽつりと彼女を呼んだ。この場にはおらず、もうこの世にす
ははうえ
らいない相手だ。
﹁義母上⋮⋮﹂
つい先ほど、彼女の死を知った。先日、自分が訪問した直後の死
だったという。あの日、無理をしてでも泊まっていればと思わずに
はいられなかった。
最後を看取れなかった。そのことが苦しくて仕方がない。だが同
時に看取らずにすんだという気持ちもあった。
一度だけ、彼女が死の淵に落ちそうになったことがある。あれは、
自分がまだ幼かったこと。父の治世中未曾有の戦乱のことだった。
毒を受けて倒れた義母のことを今も忘れられない。
中でも忘れられない記憶が一つ。
意識を混濁させた義母がふと目を開き、自分の顔を見て﹁文林﹂
と呼んだ。
確かに自分は父と幼い頃からよく似ている。朦朧としていた義母
が見間違うのも無理はない。だが、義母にとってこの顔を見たとき、
最初に出てくる相手は自分ではなく父なのだと、言い知れぬ寂しさ
を覚えたものだった。
その父のもとに義母が逝った。良かったとは思えない。義母が父
に対して、一定の情を持っていたのは確かだ。だが父がそれに値す
る感情を彼女に対して持っていたかどうかは、あやしい。愛してい
たのなら、なぜ母を廃するような遺言を残したのか説明がつかない。
義母はわかっているようなそぶりを見せた。だが、それは本当にわ
かっているのだろうか。父に利用されたというだけのことなのでは
ないか。
とりあえず、父の遺言のおかげで義母を公に弔うことはできない。
270
服喪もできない。
たいか
じょうし
だから、鴻は父を恨んでいる。
﹁⋮⋮大家、娘子がお越しです﹂
宦官の控えめな呼びかけに、鴻は手で弄んでいた煙管を置いて立
ち上がった。
ため息を一つ。いつもそば近く仕えていた宦官ならば、このよう
な時に声をかけなかっただろう。だが、かつて義母に仕えていたこ
ともあった彼は、先ほど職を辞すことを申し出、もう二度と自分の
前には現れない。
気の利かない宦官を責めるつもりはなかった。
気の合わない妻だが、会えば気は紛れるだろう。ついでに同衾の
一つでもしてやれば、今月分の夫としての役目は果たせる。
かつて、このくらい好きだと言って腕を精一杯開いた時のような、
あの純粋さはもうない。ついさっきまでわずかに残っていたそれは、
義母の死を知らされたのと同時に完全に過去のものとなった。
だが、過去にそうであった自分がいるから、今もこうして立てる
のだろう。
そして思う。
義母はあの時に死んでいた方が、もしかしたら幸せだったのでは
ないかと。
少なくとも自分は、心おきなく泣けた。
271
此より始まらんとす 6
﹁壮観だこと﹂
小玉はぽつりと呟いた。周囲は気心の知れたものばかりではない
ので、皇后らしく言う。そうでなければ、﹁やー、すっごいわー﹂
とか言ってただろう。若干無意識的に発した言葉も自在に切り替え
ることができるようになった自分を、小玉はそれこそ﹁やー、すっ
ごいわー﹂と思っている。
高く組まれたやぐらの上からは、河の向かい側に敵軍が広がって
いるのが見える。数はこちらと同程度。こちらが皇帝親征級の人数
を率いているのだから、推して知るべしといったところだ。
﹁左様﹂
隣で賢恭も頷く。だが、お互いそれは敵兵の数に対する感想では
ない。
﹁整然としているわ﹂
野営のためのかまどの組み方、人の組み方、それらの動きが速や
かで丁寧だった。それは敵兵の練度と規律が極めて洗練されている
ことを示す。
そのような敵は、もっとも戦ってはいけない相手だ。
﹁おそらく、敵将も我らの軍を見てそう思っていることでしょう﹂
後ろからかけられた言葉に、小玉は苦笑する。おべっかではない
ということはわかっている。こちらの軍の練度もまた、相手と同程
度のものである自信があった。
数も、質も同程度の相手。
272
こわいな、と思った。下手をすればこれは単なる潰しあいになる。
一人が一人を倒し、一人に倒されるような。それは戦とはいえない
し、なにより先方は、今でこそこちらと同程度の数だが、おそらく
ならん
増援がある。どのみち、兵は可能な限り温存しなければならない。
﹁⋮⋮納蘭将軍。そなたはなんとみます?﹂
声をかけてきた相手の方を振り向く。相手の背が相当に高いため、
最初に目に入るのは髭だ。とてつもなく立派なそれは、彼の個性と
して周囲から認識されていた。
きこう
もし髭剃ったら、絶対に本人だとわからないだろうなーと思うく
らいに。
﹁は。陣の組み方に覚えがございます。おそらく、総指揮は姫昴で
はないかと﹂
彼は立派な髭をしごきながら答えた。
ならんじゅか
﹁そう。わたくしも一度戦った覚えがある﹂
この納蘭樹華という男、今回戦う国から亡命したという経緯があ
る。そのため、相手の手の内を相当知ることができた。もちろん、
内通が疑わしい面もあるのだが、彼はこの宸を裏切らないだろうと
小玉は踏んでいる。それは相手の人柄を信じるという感傷的といえ
ば感傷的な面と、もう一つ実際的な面があった。
彼の一人息子はいま、宮城にいる。小玉の育てる皇子の遊び相手
といえば聞こえはいいが、要は人質である。
世知辛い話ではあるが、人質を取られている本人はあっけらかん
として、出征前にこんなことを言っていた。
﹁いや、この国で一番安全なところに置いてくれますしなあ。それ
に息子も、殿下をお守りするんだ! と張り切っておりました。さ
すが妻の血を引く子です。勇ましく育ちました﹂
こっちの気を楽にするために言ってくれているのかもしれないが。
﹁それに、今回は丙どのが同行してくれるので息子も安心しておる
ようで﹂
多分うちの丙の方はおたおたしてるな、と小玉はふと宮城に思い
273
をはせる。樹華の息子にくっつけて、今回甥も宮城に放り込んでき
た。まあ彼だってもう嫁がいてもいい年頃だ。不測の事態くらい自
分でどうにかすればいいと、15で自主的に軍に入った叔母は若干
突き放している。そして、すぐ忘れた。
宮城にいろいろな思い残しはあるが、とりあえずそれは全面的に
けれんみ
忘れることにする。それは戦での小玉の常だった。
﹁外連味のない用兵をする御仁だった⋮⋮﹂
﹁いかにも﹂
小玉は唇に人差し指を当てて考えこんだ。
なぜ両国がこの時期にこの国を落とそうとしているかはわからな
い。両国には文林が間諜を潜り込ませていたが、半年ほど前に連絡
がとれなくなった者が数名出た。おそらくはそれが予兆だったのだ
ろう。何名かからは異常なしとの連絡が来ていたので、その数名だ
けが摘発されたのであろうと、再度潜り込ませようとしていた矢先
にこの展開となった。おそらくは連絡をよこした数名も、殺された
か丸め込まれたのであろう。文林らしくない失敗だとは思ったが、
かといって自分がもっとうまくやれるわけでもなく、それどころか
彼の半分もうまくいかないのはわかったいるので、責めるつもりは
毛頭ない。
今回敵国が用意周到だっただけだ。そして、それほどまでに、
﹁これは、完全にこちらを落としにきているとみた﹂
小玉は唇を歪めた。それは楽しそうといえるものではなく、苦笑
いに近かった。
ふう、とため息を一つ。
﹁まずは相手の出方から見ましょう。そろそろ相手から使者が来る
はず﹂
すかさず賢恭が口を開く。
﹁会見の用意はしております﹂
﹁ありがとう﹂
小玉は背に垂らした外套を翻し、踵を返した。部下が自分の後に
274
続く気配を背後に感じながら、おそらくは明日から開かれる戦端の
ことだけを考えていた。
勝機が、あるとすれば。
275
此より始まらんとす 7
考えながら歩く。
やぐらから降りた後、小玉は夕食をとろうと陣の中を移動してい
た。行軍元帥としての天幕に向かっているのだ。
直接調理している場に食べ物を取りに行くわけではない。小玉個
人は別にそれでもいいが、他のものがそれを許さない。立場という
ものがあることは、もはや骨身にしみてわかっているので、小玉は
基本的にそれらの意向には従うことにしている。それに今回はうる
さいのがいないので、結構気楽だ。
うるさいの⋮⋮小玉が後宮入りする時に、自主的に宦官になって
自分も後宮に入ったという、誰が聞いても一歩引くような経歴を持
つ楊清喜は、今回帝都でお留守番である。本人は連れて行かなけれ
ば腹を切ると騒いでいたが、彼の﹁死ぬ死ぬ詐欺﹂に慣れている小
玉はあっさりと彼を置いて来た。髪を自分に切らせないと腹を切る
から始まって、はや二十年。ここまで続くと、もうすぐお迎えが来
るといつも言いながら中々死なないご隠居に似た扱いしかできない。
要するに、﹁あーはいはい﹂と若干流す感じである。付き合いが長
いゆえの対応である。
今回彼を置いていったのは、すでに同じ宦官である賢恭が同行す
ることが内定していたのと、小玉が養育している皇子と樹華の息子
の面倒をみて欲しかったからである。あとついでに自分の甥も。そ
ういう理由がなければ、多多分彼、口実を設けて追いかけてきただ
ろうなーと、小玉は結構本気で思っている。前科もあることだし。
給仕をするという賢恭を追い払って、食事にとりかかる。給仕と
いっても、一品しかないものに、なにをどうするというのだ。食べ
るもの自体は兵卒と同じものだ。これは、質の良し悪しを自分の舌
で確認することで、物資の流れを見る意味も込めている。横領を防
276
ぐ上でも、結構これは大事なことだった。そうでなければ、兵卒と
同じ食事など許されなかっただろう。
お湯というより、まだ温かい湯冷ましで口を湿らせ、運ばれてき
た食事を口に運ぶ。
おお、と思った。
らくへい
あ、この烙餅うまいわ。
⋮⋮横領的な何かに気づいたわけではない。
烙餅は、練った小麦粉の生地でネギのみじん切りなどを巻いて焼
いただけのものだ。単純なだけに、作り手の腕が問われる料理であ
り、小玉もこれに関しては結構うまく作る自信がある。母と義姉の
得意料理で、義姉の死後は甥によくせがまれたものだ⋮⋮まあ、当
然山海の珍味を集めた宮廷料理に勝りはしないが。
そういえば、その宮廷料理を食べ慣れているはずの文林も作って
欲しいとたまに言ってくる。あいつも中々冗談の好きな奴だ。そし
て何度も同じ冗談を言ってくるのがいただけない。
完全に冷えた湯冷ましで烙餅の最後の一口を流し込むと、小玉は
立ち上がった。と、同時に部屋に賢恭を含む数名が入ってくる。
﹁太監、いかがしました? 先方の使者ですか?﹂
﹁はい﹂
﹁そう、では会わないと﹂
唐突ではあるが、実をいうとこの時代、﹁外国﹂という概念はな
い。自民族中心主義がさかんであるため、自国以外の国を認めない
のである。したがって、今回宸に戦を仕掛けた寛と康も、﹁賊軍の
自治集団﹂という扱いとなる。それは先方から見たこちらについて
も同じことだ。
277
もちろん建前である。
先方が﹁国ではない﹂と思いながら生活している人間は、少なく
ともこの場にはいない。法整備がされていて、税制度も確定してい
る集団のことを、頑なに﹁賊軍﹂と思いながら見下し続けるのは、
油断につながる。
とはいえ、表向きはやはり相手のことを﹁賊軍﹂として扱わねば
ならない。
かんぞく
﹁来たのはどちらの方? 両方?﹂
﹁寛賊の者です﹂
﹁あら。ではこの同盟、それらの方が立場は上なのかしら﹂
まあ、この国に恨みがある方は間違いなく、寛の方だろう。先々
帝の時代に散々喧嘩を売ったのだからして。それについては、こち
らですら先々帝が悪いと思っているのだが、﹁ごめんねー﹂とか言
えるわけもない。国の威信的に。
﹁そう⋮⋮対等ではないのね﹂
﹁どうやらそのようです⋮⋮娘子、ご支度を﹂
﹁ええ﹂
支度といっても、付け毛を装着するだけだが。もはや小玉とその
周囲は慣れっこだが、女の断髪はとんでもないことであるし、その
状態で公的な場に立つことはあってはならない。したがって、小玉
はこの使者との会見のためだけに、付け毛を戦場に持参している。
そんなところが厳しく見られるのに、戦装束は別にあらためなくて
も良いという点に、小玉はいびつさを感じる。国の威信ってはっき
りいって面倒くさい。
そして、いびつといえば。
﹁武人として名高い皇后陛下に拝謁することがかない、恐悦至極﹂
﹁楽になさい﹂
﹁ありがたき幸せ﹂
内輪では相手が﹁国家﹂であると暗黙の了解をしているのに、表
278
向きは﹁寛賊﹂と呼ぶ。そして、実際にその相手に接する時は、き
ちんと一国からの使者として扱う。これもまた、なんともいびつな
ものだった。
おそらく相手側もそうなのだろう。どっちもどっちだ。
﹁して、この度そなたが参ったのは何用か﹂
お決まりのやりとり。そしてお決まりの要求。
領地の割譲の要求を皇帝の意向を問わず、独断ではねのけるのは、
それがもはや定型文通りのやりとりにまでなっているからに過ぎな
い。極めて淡々と、両国の戦いの火蓋は切られることになった。
﹁では、明日正午より﹂
ただし、明日から。
戦いの始まり方にも色々あるが、法治国家同士の戦いの場合、使
者がたてられて、お互いの要望が噛み合わない場合に、よしじゃあ
戦おうという場合が多い。お互い最終的には戦になるとわかりきっ
ている、今回のような定型文状態でも、悠長にやりとりしているの
は、それを無視できないほどまでに戦が最終手段だからだ。戦上等
というが、実際、戦に至るのは下策である。損害を考えると、戦に
ならずに解決するに越したことはない。
まあ、それを軽やかに無視していたのが、先々帝なのだが。
本当に戦の才能ない人だったなあと、小玉はしみじみ思う。﹁本
当にやってくれましたよ、義兄さん﹂と心の中で言う。文林の異母
兄である彼は、小玉にとっても一応身内であった。彼の死後に文林
の嫁になったので、身内感はあまりないが。
279
此より始まらんとす 7︵後書き︶
今回のサブタイトルはたぶん、
︻俺には︼嫁の手料理を食べさせてもらう方法︻作ってくれない︼
280
此より始まらんとす 8
そんなことを考えているとは、おくびにも出さずに、小玉は鷹揚
に頷いた。
﹁では、使者どの⋮⋮﹂
大儀、と言って、とっとと追い払おうとしたのだが、相手に遮ら
れた。
﹁あいや、お待ちくだされ﹂
﹁無礼であろう﹂
横に立つ賢恭が鋭い声を発す。小玉は片手を上げて、それを止め
た。
﹁何か?﹂
﹁恐れながら、知己に挨拶をさせていただきたく﹂
﹁知己?﹂
﹁そちらにお立ちの⋮⋮納蘭殿に﹂
賢恭とは反対側に、樹華がいる。確かに彼は、亡命してきた身で
ある以上、寛にいた頃の知り合いが、目の前にいるこの使者であっ
てもおかしくはない。だが、問題はそんなことではないのだ。
なぜいま、それをするのかということ。その一言に尽きる。
使者からしてみると敵地のど真ん中である。そんな状況で、そん
な悠長なことをやるからには、かならず意味があるはずだ。
もちろん、その憶測だけで断ってもよかった。この場においては、
小玉が主導権を握っているのだから。だが、相手の目論見をはっき
りさせたい気持ちがまさり、小玉は﹁よろしい﹂と頷いた。横にち
ならん しゅこく
らりと目をやった。
さんかんい
﹁納蘭守国、旧交を温める良い機会です﹂
﹁守国﹂というのは、彼に与えられた散官位を表す。これは、地
位に応じて与えられる称号で、文官武官両方に存在するものだ。樹
281
華は﹁守国将軍﹂の位を持っていた。この散官位、名誉職とおなじ
ようなもので、与えられたからといって、特別な権限はなにも付加
されない。公の場では名字と位の名を合わせた形で呼ぶのが通例な
ちゅうぶ
のだが、もはやそれだけのために存在してるといっても過言ではな
いほど、名前だけの存在だ。
かくいう小玉も、もはや過去の話であるが、﹁忠武将軍﹂という
位を後宮入り前から持っていた。だから、﹁関忠武﹂とか呼ばれて
いた時代が、小玉にもあったのである。ちょっとかっこいいと思っ
ていた。
実はいまでもその﹁忠武将軍﹂位は持っている。返上しなかった
のは、これを所持することによって、小玉が后妃になっても軍を指
揮する名目が立つからだ。歴代の后妃が軍を率いた場合も、必ずこ
の位が与えられてから許された。その点では、この散官位は后妃に
与えられた時のみ特別な権限を持つといえるのかもしれない。
納蘭守国と呼ばれた樹華はうやうやしく一礼した。
﹁いかにも﹂
こぼ
そして、使者に向き直ると、
﹁胡母殿、一別以来無沙汰をしておりましたが、息災でしたかな?﹂
﹁おかげさまで。納蘭殿も息災そうですな⋮⋮それにしても﹂
使者は口元に薄く笑みを浮かべ、続けた。
﹁守国、とは立派な名前を授かりましたな。とても納蘭殿にふさわ
しい名でございます⋮⋮しかし、愚鈍なそれがしにはわかりかねる
のですよ。守国の国とは、どこのお国を指すのでしょうな﹂
要するに、﹁生国裏切った奴のくせに、大層な名前名乗ってんじ
ゃねーよ、バーカバーカ﹂と言ってるのである。
大体これで相手の思惑は分かった。元々自国の人間だった樹華を
つついて、小玉に裏切りを危惧させようとしているのだろう。
まあ、手段は有効だし、言ってることにしてももっともなんだが。
﹁いやあ、名前負けもいいとこですなあ、わはは﹂
とは、この位を授けられた樹華が、自分で言ってたことだ。その
282
程度のことなら、こっちも承知していることだ。
だが、この位は樹華にとっては亡き妻が所持していたという思い
入れがあるものだ。だから、彼が称号名を変えて欲しいなどと言っ
たことは一度もない。
使者がこちらに声をかけてきた。
﹁実にそちらのお国に敬服いたします。重用すべき人材をよく御存
知で﹂
︵意訳:お前んとこの国節操ねーな︶
﹁おや、納蘭守国は、敬意に値する相手には全力で仕える者。なら
ばこちらも相応の報いを授けねば﹂
︵意訳:お前んとこの皇帝がアッパラパーだったんだろ︶
﹁⋮⋮確かにわが国の産の人間は、忠義ある者が多くおります﹂
︵意訳:俺んとこの皇帝だって、たくさん部下いるし! あと、う
ちの国の人間は、忠義に篤いから、樹華だってまたこっちに寝返る
かもよ!︶
﹁さようか⋮⋮﹂
ちょっとまずいなと思った。自分はともかく、他の将官に疑惑の
種をまかれては困る。どう返答しようかと思い⋮⋮ここはもう、直
接的な返答でいいやと思った。めんどくさくなったというのもある。
小玉は足を組んで、言い放った。
﹁そちらの国は大変魅力的だ。だが、納蘭守国はそちらには戻らぬ
よ。戻ろうものなら、あの世から彼の妻が怒りのあまり戻ってくる
⋮⋮あら、そうかんがえれば、彼女が戻ってきてくれるなら、あな
た一度裏切らない?﹂
最後の問いかけは、あえて冗談まじりに樹華に投げかけたものだ。
彼は豪快に笑いながら返答した。
﹁はは。私も妻が戻ってきてくれるなら、なんでもやりますが、妻
は私のことを信じておりますのでね。裏切ったとしても、そんなの
嘘だと思って戻ってきてはくれませんよ﹂
ああ、それは明慧らしいと小玉は思った。樹華の話はまだ続く。
283
﹁そして、それが本当だとわかった時にはもう手遅れなので、私が
死んだ時、あの世で一発殴られた後、二度と会ってくれないという
展開になる公算が高いかと﹂
何人かが軽く吹き出した。彼の妻を知る者達だ。
﹁となると、裏切るだけ損というものですなあ。こちらには妻の墓
もありますから、裏切れば供養できませんしな﹂
最後まで妻のことで話は終わった。話を振ったのは小玉だが、ど
んだけ妻好きなんだよというところだ。他のものも肩を震わせてい
る。使者の顔はやや引きつっている。まあ、普通ここまで妻大好き
を露わにする者はいないのだから、無理ないだろう。
﹁まあ、そういうことなので、使者どの。ご心配なく﹂
﹁いえいえ⋮⋮納蘭殿の奥方はよほどの佳人だったのですね﹂
佳人。
故・樹華の妻を知る者は一人を除いて皆、一瞬だけ目線を明後日
の方向へ向けた。
﹁いや、まったくそうだったのですよ﹂
唯一の例外は、夫である樹華だけであった。
﹁⋮⋮使者どの、大儀﹂
熱く語りそうな樹華を止めるためにも、今度こそとっとと追い出
そうとした小玉に、樹華以外の全員が協力的だった。
使者が帰った後の軍議で、小玉は開口一番言った。
﹁おのおの方、明日から戦です﹂
284
此より始まらんとす 9
部位ごとに分かれている甲冑を一つずつ丁寧に、身から取り去る。
最後に、兜を外したことでやや逆立った短髪を適当に撫でつけた。
普通女が戦に出る場合は、結い上げた髪に色のついた布を巻くのだ
が、小玉は違う。出立の時は見栄え優先で、付け毛に布を巻いたが、
他の場面ではなんとなく習慣でそうしている。ここで飾ったところ
で見せるべき相手はいないしねえというのが理由である。しかも仮
に見せるべき相手がいたとしても、それは文林であるというところ
がなんとも言えない。
開かれることが分かり切っていた戦端が開かれて三日。
戦況はあまりよろしくない⋮⋮いや、すこぶる悪い。
負けているわけではない。だが、勝っているわけでもない。少な
くとも、指揮官である小玉が、まだ敵兵と直接切り結ばない程度に
は。当初の予測通り、一進一退を繰り返している。そんな状態だっ
た。
このままでは本当にいずれはつぶし合いになってしまう。そんな
ことは小玉をはじめ、彼女の幕僚たちにもわかり切っていたことだ
った。そのことを意識すると、腹の中で焦燥感がじわりと頭をもた
げる。
だが、それらのことは敵側も承知のはずだった。今、小玉たちは
相手の様子をうかがう姿勢を取っている。受け身といえば受け身だ
が、今回の戦自体、侵略する側に対し防衛する側であるという自分
たちは受け身の姿勢を取らざるをえない。反面、地理に対する知識
において有利という側面はあるが。
小玉は軽くため息をついた。少なくとも一週間は様子見、という
ことになるだろう。撫でつけた直後の髪を軽くかきながら、自分の
285
天幕を出た。彼女の側付きの兵士が気遣わしげに声をかけた。
﹁娘子、お休みになっては﹂
﹁ええ、まあ休みます。ですが余力がある今のうちに、視察してお
きたくて﹂
﹁さようでございますか。お供は?﹂
その問いに、小玉は少し考えてから答えた。
﹁あなた、着いてきてくれる?﹂
﹁御意﹂
身軽に動こうと思えば動ける。だが、心配なこともあった。自軍
の士気を信頼しているが、それでも不埒な輩はどこにでもいる。単
独で動いて、自軍の兵に皇后が襲われたとなったら、笑い話どころ
の騒ぎではない。それに、一番迷惑を被るのは文林だ。
だから小玉は、近くにいた幕僚にそこらをうろつく旨を伝えると、
お供を一人引き連れてえっちらおっちら歩き出した。
まだ先端が開かれて三日目とあって、良い意味での緊張感はまだ
保たれているようだった。
これがもうしばらく経つと、疲労と慣れでなんともいえない雰囲
気を醸し始めかねない。今回のような泥沼風の展開になりそうな時
は特に。そうなったときにどう対応するかが、この戦いの肝の一つ
だなと小玉は自分に言い聞かせた。
ふと、立ち止まる。
﹁⋮⋮娘子、どうなさいましたか?﹂
﹁夕食の支度をしているのね﹂
いいにおいがする。それもかなり間近で。
﹁そのようですね﹂
﹁ちょっと、そちらも覗いてみたいわ﹂
言って、小玉は右側に足を向けた。別におなかがすいたからとい
う訳ではない。
必死に芋の皮をむく娘たち。雑に野菜を切って、おばちゃんに叱
286
られるごつい男。
とても懐かしい光景だった。自分も始めて出征した時はこういう
ところで戦っていたのだ。あの日友情が芽生えた王蘭英という士官
は、今華麗なる転職を遂げて、文官として活躍している⋮⋮そうい
うところでも時間の流れを感じる。
小玉は少し離れたところから食材を眺めた。物資に劣化はないよ
うだ。毎日食べて確認しているが、こうやって調理しているところ
を見るのが確実だ⋮⋮まあ、確実性を求めるならば、自分で調理す
るのが一番なんだが。
ふと、大鍋をがちゃがちゃかき回しているおばちゃんがこちらの
方を向いた⋮⋮目を大きく見開く。
﹁娘子!?﹂
そのままお玉を放り投げようとして⋮⋮一瞬我に返ってお鍋の中
に突っ込んだあと、おばちゃんはその場に跪いた。おばちゃんの状
況判断力、素晴らしい。
そしておばちゃんの無駄にでかい声を聞いた周囲のざわめきがそ
れまでと違って指向性を持つ。
﹁娘子?﹂
﹁本当に?﹂
﹁えっ? えっ?﹂
そして次々と場に跪き始めた。あっちゃーと小玉は内心で頭を抱
えた。下っ端の兵卒が多いこの場で、自分の顔を見知っている者が
いるとは思わなかった。最近は女性の士官も増えているので、その
うちの誰かだと判断して、流してくれるだろうと思っていたのだが。
﹁良い。皆、お立ちなさい。忙しい時間ですから、職務に専念する
ように﹂
小玉がそう言うと、皆、おずおずと立ち上がり始める。その中か
ら場の責任者が進み出た。小玉に対してではなく、お供に話しかけ
る。皇后である小玉に直言することは、許可されないかぎりできな
いのだ。
287
﹁このようなところにどのようなご用で⋮⋮﹂
﹁視察だ。その方らに落ち度があるという訳ではないゆえ、気にす
るな﹂
﹁さ、さようで⋮⋮﹂
責任者は見るからにおびえている。小玉は少し気の毒になって、
前向きな言葉をかけてやることにした。
﹁限られた物資の中で、よくやりくりしてくれていると思います。
そういえば、こちらには烙餅の名手がいますね⋮⋮適所によく配置
していること﹂
﹁あ、ありがたきお言葉!﹂
相手が額を地面にすりつける。皇后からの言葉というのは、それ
ほどまでにありがたみのあるものなのかと、皇后本人はたまに思う
のだが。
﹁お立ちなさい⋮⋮その烙餅の名手はどなた?﹂
﹁はっ⋮⋮環! こちらに来い!﹂ 小玉にしてみれば何気なく出た質問だったが、その回答として出
てきた相手を見て軽く驚いた。まだ10代の半ばとおぼしき娘だっ
たからだ。
﹁娘子がお前の烙餅をお気に召したと﹂
﹁あ、ありがたき幸せ!﹂
娘は顔を真っ赤にしてその場に倒れ込む勢いで土下座した。それ
を立たせ、小玉は彼女に問いかけた。
﹁直言を許すわ。あなたはまだ若いようだけれど、何故軍に?﹂ 相手が緊張しないように、口調をやや砕く。
娘はあわあわと落ち着かない様子だったが、やがてこれ以上真っ
赤にならないだろうとさっき思った顔をさらに真っ赤に染めて言っ
た。
﹁じょ、娘子に憧れて、軍に入りました!﹂
﹁⋮⋮そう﹂
え、具体的にどこらへんに? と思ったが、それより気になるこ
288
とがあった。最近女性兵増えたのって、もしかしなくても自分のせ
いなんだろうか。
確かに、軍人時代から後輩に憧れの目線を向けられたことはある。
だがそれは、軍に入ってから憧れました! というものばかりだっ
たので、ずっとそういうものだろうと思っていたのだが。
いや、深くは追及しまい。
﹁今後とも励みなさい。期待しているわ﹂
そう言って話を打ち切ろうとした小玉だったが、ここで娘が再び
地面に這いつくばって声を上げた。
﹁お、恐れながら! ご指導を、ほし⋮⋮いただきたく! わたく
しめのようなおなごの身で娘子のように武芸に秀でるためにはどの
ようにすれば良いでしょうか﹂
はっきり言って、これはきわめて無礼な態度である。実際、小玉
の側付きは何言ってんの小娘という気持ちを隠そうともせずに一歩
踏み出そうとした。小玉はそれを押しとどめる。彼女には、娘が今、
一世一代の勇気を振り絞って言葉を発しているとわかっていた。
﹁そうね⋮⋮﹂
とはいえ、小玉は自分の腕っ節がそこまで素晴らしいとは思って
いない。なんといっても身近にいたのがあの張明慧だったのだから。
だが、一通りの武器の使い方を学んで感じたことはある。
小玉はその場にかがみ込んで、娘にささやいた。皇后としてでは
なく、先輩としての言葉。
﹁もしも女の子が軍人でメシ食っていきたいなら、槍とか棍棒とか
持った方がいいわよ﹂
まあ、一般論でしかないが。
﹁はっ⋮⋮﹂
ぽかんとした娘に、小玉は立ち上がり、手をひらひら振った。
﹁では、お励みなさいな﹂
﹁あ、ありがとうございます!﹂
娘の言葉を背中で受け止め、小玉はふっと笑った。
289
さくさくと草を踏みながら進む小玉に、側付きが声をかける。
﹁娘子、よろしいので?﹂
﹁良いのよ。あなたにだってあんな時、あったでしょう?﹂
﹁⋮⋮まあ、ございましたね﹂
小玉はその後、口を開かずに天幕に戻った。
あの娘が、小玉の与えた助言を生かすことができるまで、本人が
生きていられるかはわからない。そんなことを考えていた。
290
此より始まらんとす 10
そんなことを思ったせいだろうか、眠気は少し小玉から遠く、手
持ち無沙汰な小玉は丁寧に絹の一枚布を広げた。戦場に絹はそぐわ
ないかもしれないが、これが実はかなり重要な役割を持っている。
具体的には地図として。
戦の趨勢を決めるのは地図といっても過言ではない。正確であれ
ばあるほど勝率は高まる。
その地図が汚損するのは軍にとって死活問題だった。紙だと何度
も折りたたむうちにボロボロになる。あまつさえ虫に食われて大事
なところが読めなくなることもある。だが、絹は何度でも折りたた
みが出来るし、虫に食われにくい特性を持っている。
広げたそれを、小玉はじっくりと眺めた。もう何度も指差した場
ごすい
所を、今も指でなぞる。自分たちがいる所。国境線の近く。
わかりやすい地形だった。午水と呼ばれる川が寛とこの国との境
目で、寛側が河を渡ったところで両軍が対峙している。
小玉たちは峠を背にしており、これがかなり峻烈なものだ。仮に
小玉たちの軍を破ったとしても、これを越えるのには手間取るだろ
う。
だが、その後は。
小玉は、峠の先に指を走らせる。特に何も書かれていない⋮⋮つ
せっかたいげん
まり、平原を。
﹁雪華大原﹂と呼ばれるそこは、名前に反して雪などめったに降
らないところである。だが、この地に敵軍の侵入を許してはならな
い。ここを突っ切っていけば、帝都まで到着できてしまう。駐屯地
はいくつかあるが、敵軍の規模だと障害にもならないだろう。
よしんば帝都までたどりつかなかったとしても、この平原には大
切なものがある⋮⋮塩水湖だ。﹁雪華﹂という名の由来である、雪
291
のように白い、上質な塩が取れる。
おそらく、少なくとも寛の方はここを狙って午水側から侵入した
のだろう。あそこは海に面していない。仮に和睦が成立するにして
も、あちらは雪華大原を押さえた上で戦を終結させ、ここの割譲を
求めようとするはずだ。認めるまでは退却せずに。
だが、こちらもここを取られては困るのだ。宸は海に面した領土
も持っているが、とかく広い国であるため、内陸地方ではここの塩
が重用されていた。ここがなければ塩は当分の間高騰する。生活必
需品の値上がりは、特に農民階級には死活問題だ。いつも結構ぎり
ぎりのところで生活していた娘時代の家計を思い出し、小玉は眉根
を寄せた。絶対にここを明け渡してはならない。
ふと、顔を上げた。呼ぶ声が聞こえる。
﹁⋮⋮子、娘子﹂
﹁はい、どうぞ﹂
いらえの直後に、側付きが入ってくる。
﹁沈大監らが、お目にかかりたいと﹂
﹁わかりました。通してください﹂
小玉はすぐに答えて、立ち上がった。こんな時間に? などとい
う疑問は浮かびさえしない。今は一日中非常事態で、いつ何が起こ
ってもおかしくない。
通した側も通された側も、時間を無駄にしなかった。手短に会話
を交わす。
﹁何事ですか?﹂
﹁密使が参りました﹂
﹁どこから?﹂
﹁康賊です。ただちにお越しを﹂
﹁わかりました﹂
小玉は剣を手に取ると、さっさと歩き出した。賢恭がそれに続く。
ち
今回は付け毛を付けない。非公式のものに必要はないし、それに、
夜中に人ん家にいきなり来る輩は、ぞんざいに扱われるのがお約束
292
である。
まあ、付け毛を付けて歩いている姿を周囲に見せたら、何かあり
ましたと言いふらしているのも同然というところが一番大きいが。
歩きながら、はて、密使とは一体何の用であろうかと、小玉は内
心で首を傾げた。まだ開戦して三日。先方から何か反応があるにし
ても、もっと先だと思っていたのに。
密使がいるという天幕に入る前に、賢恭が﹁娘子のおなりである﹂
と告げる。彼に続いて小玉が中に入ると、すでにその場には、数名
の将軍達が揃って拱手の礼をしていた。見慣れない男⋮⋮密使は平
伏している。何も言わないまま、小玉は中央に置かれた椅子につか
つかと歩み寄り、どっかりと座った。その上で一言告げる。
﹁免礼﹂
それを合図に将軍達は、直立の姿勢に戻る。そして密使は平伏し
たまま口を開いた。
﹁評判の、麗しくも強い皇后陛下にお会いすることがかない、感に
耐えません。ご威光眩く、直視するのも恐れ多い﹂
深く地に伏す、地味な服装の男を見下ろし、小玉は思った。
あんた、外交下手っぴだろ。
ちょっとおべっかが多すぎて、裏があることがあからさますぎる。
それとも、密使なんて裏があって当然な存在だから、そこら辺は気
にしたらむしろ駄目なんだろうか。
社交辞令というものを、小玉は嫌ってはいなかった。人間関係の
潤滑油みたいなものだ。だが、油は差しすぎたり、差す場所を間違
えていたら、無駄が目立って気に触るものだ⋮⋮油にたとえるのは、
主婦根性だろうか。
﹁面を上げよ﹂
293
小玉のその声に、﹁直視するのも恐れ多い﹂とか言ってた割りに、
密使は結構あっさりと顔を上げた。一瞬その目に驚きを見つける。
多分、断髪が異様に見えたのだろうが、それくらいで驚くような相
手が密使とは、康という国の底が知れると、小玉は値踏みした。
それが相手側の演技である可能性もあるし、もしそうなら逆に大
層な食わせ者であるが。
294
此より始まらんとす 11
賢恭は剣に手をかけた状態で、注意深く皇后と密使を観察した。
皇后は内心を全く読ませない態度で、淡々と話を切り出す。
﹁本題は何か?﹂
その姿に、三十年前の彼女の姿が重なった。
あのくるくると表情が変わった娘が今や、ここまで自己を律する
女性へと成長した。それを見事と思うべきか、あるいは無残と思う
べきか。
公人としては前者なのだろう。だが、個人としては後者だった。
﹁はっ⋮⋮実は我々は、皇后陛下に提案がございます﹂
密使の言葉で、一気に現実に引き戻された。
﹁申してみよ﹂
密使はすぐには答えなかった。
﹁時に皇后陛下におかれては、大変武勇に優れたお方と心得ており
ます﹂
﹁それは光栄なことだ﹂
皇后は椅子の手すりに置いていた手を、ゆったりと手を腹の前で
組む。
﹁⋮⋮それで?﹂
首を傾げて、言葉の続きを促す。
﹁我らが王は、それを大変惜しいと思われました﹂
﹁惜しい? 何を惜しむ?﹂
﹁皇后陛下の武勇が埋もれていくことに﹂
その言葉に、皇后ではなく、周囲の武将たちがかすかに反応した。
自分もまた。
﹁わたくしは惜しいとは思わぬが﹂
﹁いいえ。惜しむべきです。皇后陛下は天下に鳴り響く武人でござ
295
います。ですがそれは、誰かの妻である限り目立たないものになっ
てしまいます。そう、誰かの妻ならば﹂
﹁ほう?﹂
﹁しかもその誰かは多くの妻を抱え⋮⋮皇后陛下をその中の一人と
してのみ扱っている﹂
﹁⋮⋮そなた、何を申したい?﹂
皇后は口元に笑みさえ浮かべながら問いかけた。
使者はきっと皇后を見据えて言い放った。
﹁⋮⋮皇后陛下、お立ちくださいませ。宸の兵権はいま、ほとんど
があなた様のお手にあります。皇帝を倒し、あなた様が女帝にお立
ちになることはたやすいことでございます。我らもそれを後押しい
たします。そして三国は絆を深め⋮⋮﹂
一瞬、賢恭の頭に一つの光景が浮かんだ。華やかな衣装を身にま
とった皇后が玉座に座る姿。
それをかき消したのは、皇后の鋭い声だった。
﹁その者を捕らえよ!﹂
彼女の顔には怒りと嫌悪が渦巻いていた。誰もが一瞬、ぽかんと
した。良くも悪くも彼女がここまで感情をあらわにするところなど、
誰もが見たことが無い。皇帝の妃になってからは特に。
真っ先に口を開いたのは、さすがに命がかかっている密使だった。
﹁お、お待ちください皇后陛下! そんな、そんな⋮⋮﹂
﹁そなたは心得違いをしている。わたくしは名を残したくて戦って
いるのではない﹂
皇后はその表情こそ変えないものの、いっそ淡々としたといって
もいいような調子で密使に語りかけた。
﹁武人として名を残すことのどこが良いのだ? それほど国がおさ
とくぶ
まっていないということではないか。仮にわたくしが名を残したと
しても、それは瀆武と呼ばれるものであろうよ⋮⋮さて﹂
ここで皇后は、自分を含む将軍たちのほうに目を向けた。
﹁わたくしはこれほど飲み込みの悪い部下を持っていたとは⋮⋮残
296
念です。なぜその無礼者を捕らえぬのですか﹂
﹁も、申し訳ございませぬ!﹂
比較的位の低い将軍がすかさず動き、呆然としている密使を後ろ
手に縛り、猿ぐつわを噛ませた。
﹁今は殺さずとも結構です。朝、兵たちの前で斬首しましょう﹂
﹁⋮⋮はっ、士気が高まるでしょう﹂
そのやりとりを聞いて、密使が俄然もがき始めるが、時すでに遅
い。
﹁また、その時に全軍を激励します⋮⋮沈太監﹂
皇后が賢恭に目を向ける。表情こそ常のものに戻っているが、そ
の目にはまだ怒りが宿っていた。
﹁はっ﹂
﹁檄文の草稿を作成します。祐筆を頼んでもよいでしょうか﹂
﹁無論でございます﹂
﹁ここで記します。準備なさい。そこの無礼者は、明日までどこか
に転がしておきなさい。くれぐれも自害などさせぬように﹂
﹁ただちに用意いたします﹂
﹁御意﹂
賢恭の返事と、密使を取り押さえている将軍の返事が重なった。
皇后のために墨をすりながら、賢恭はさきほどのやり取りを思い
出していた.
あの一瞬、誰もが皇后の指示に動けなかった理由は賢恭にはよく
わかっていた。きっと、賢恭と同じことを考えたからだ。玉座に座
る彼女を。それは壮大で魅力的で⋮⋮そして今思えば、どこか哀れ
な姿だった。だが、あの時彼女が否定しなければ、その哀れさは一
切感じなかっただろう。あの瞬間、彼女が是と言っていれば、自分
たちはきっとその姿を見るために動いた。見たいと思った。至尊の
冠を戴いている姿を。
297
そう思わせるほど、そしてその強烈な欲求を自身のわずかな言葉
で吹き飛ばすほど、皇后の影響力はすさまじいものがある。そのこ
とを賢恭は強く意識した。今や軍にとって彼女の存在は無くてはな
らぬものであろう。
先ほど彼女は自らの名を残さないと言った。残すとしてもそれは
﹁瀆武﹂であると言った。﹁武を汚している﹂者として名を残すだ
ろうと。
だがそれは本当にそうだろうか。彼女が一皇后として史書に数行
だけ残るということがありえるのだろうか。
少なくとも、皇帝はそうは思っていないだろうと、戦地に赴いて
から賢恭は考えるようになっていた。その根拠は勘ではあったが、
確信に近いものとして賢恭の中にあった。自分と彼の思考には﹁彼
女﹂という一点において共通項がある。それはとても不本意なもの
であったが、同時に紛れもない事実だった。その共通項のために、
自分は彼の考えがある程度わかる。彼が自分に対してそうであるよ
うに。
そして自分﹁たち﹂は思っている。彼女が残すとしたら、その名
は歴史上に燦然と輝くものになるであろうと。
予想は外れるかもしれない。正解は歴史だけが知ることだ。だが
知りたいとは思わない。﹁知る﹂ということは、彼女と同じ時代で
生きられないことだ。自分たちは後世で正解を知ることはできない
代わりに、同じ時代の存在として彼女と共に駆けることを許された
のだ。
彼女の手がすっと伸び、手にした筆の穂先が賢恭のすった墨に浸
される。賢恭はふと外をうかがった。
夜明けが近い。
298
此より始まらんとす 12
一段落ついた時には、もはや朝はとてつもなく近く、高揚した神
経は眠りたくないと小玉に告げていた。
それでも彼女が天幕に戻ったのは、一人になりたかったからだ。
感情の整理がまだついていなかった。
あの時、使者の言葉に泣きたくなるほどの怒りを覚えた。
そのことに戸惑いは覚えず、心はただ﹁当然だ﹂と断じていた。
あの男は文林を侮辱した。そして自分たち夫婦を侮辱したのだ。
自分たち夫婦が世間一般のものと違うのだということは、よくわ
かっていた。というか、当事者こそが一番よくわかっている。それ
は身分云々というものではなく、﹁夫婦﹂という定義から完全に離
つうよう
れているも部分すらあった。
だが、そのことに何らの痛痒も覚えない。自分たちは自分たちな
りの形で﹁夫婦﹂という関係を築いて、維持してきた。それは小玉
にとって何ににも代えがたいものだった。
後宮に入り、色々なものを手に入れた。そして色々なものを失っ
た。
手に入れたものは、大半が求めていなかったものだ。そして失っ
たものは大半が大切なものだ。
だが、欲しくないものを得たのと同時に、欲しくてもなかなか手
に入れられないものを手に入れた。それは男女の情愛ではないが、
愛と呼べるものだ。そして他の誰にも抱けなかったような信頼でも
ある。
299
皇帝という立場中、文林は誰でも切り捨てる可能性を持っている。
しかし、小玉は、文林が決して自分を切り捨てないのだと、﹁確信﹂
よりもなお強く、﹁知っている﹂。それは小玉を皇后の位から廃す
ることがないという問題ではなく、心情の上での話だ。第一、立場
はどうでもいい。
そこまで信頼できるような男は、これまでにも現れなかったし、
これからも現れまい。下手をすれば一生を何回か繰り返して、よう
やく一人得られるほど稀少なものであると、小玉はひしひしと感じ
ていた。
改めて思う。自分は文林の妻で、文林は自分の夫だ。
その関係をあざ笑うかのようなことを提案した敵軍を、自分個人
は決して許さないだろう⋮⋮死ぬまで!
小玉は隙間から差し込んでくる、何の罪も無い朝の日差しをきっ
とにらみつけた。
朝霧が立ちこめる中、小玉は整然と並ぶ兵の前を外套をなびかせ
ながら横切り、正面に設けられた壇に登った。その前には、ぐるぐ
る巻きにされた昨夜の密使が転がされている。それを冷ややかに一
瞥すると、小玉はすぅと息を吸って静かに語り始めた。
﹁昨夜、この者が我が軍をおとないました。康賊からの密使である
そうです﹂
かすかなどよめきが聞こえる。それを無視して、小玉は続けた。
﹁この無礼者は、大家に尊称をつけず、﹃皇帝﹄とのみ呼び、わた
くしに大家を倒して国を捕れと申しました。そうでなければわたく
しの名が後世に残らぬと﹂
さらに大きくなったどよめきだったが、それは小玉の﹁しかし!﹂
というぴしゃりとした声で収まる。
300
﹁わたくしが戦っているのは名のためではありません。天下万民は
大家のお子。大家のお子はわたくしの子。わたくしの大義は、大家
とわたくしとの子らのためにある!﹂
一気に言い切り、小玉は軽く息を整えてから再び静かな口調に戻
した。兵士はそのような彼女を食い入るように見つめる。
﹁わたくしはその方らにあえて、こう呼びかけます⋮⋮子らよ。賊
軍の申していることは、母に父を殺せとそそのかしているも同然。
子としてその方らは、このようなことを許せますか?﹂
否! 否! 否!
将軍たちが足を踏みならして絶叫し、兵士たちもそれに倣う。小
玉はそれをぐるりと見回し、彼らの叫びが落ち着いたところで再び
口を開いた。
﹁わたくしも許せません。大家とわたくしの子らよ、宸の子らよ、
わたくしたちが今なすべきことは、もはや自明の理であるはず。宸
というこの一家の和を乱す不埒者を倒すのみ!﹂
応! 応! 応!
小玉がさっと片手を挙げると、全員が一斉に声を上げた。怒りに
満ちた顔で、手にした武器を突き上げる。小玉は突き上げた手をさ
っと振り下ろしながら叫んだ。
﹁首を刎ねよ!﹂
その言葉と同時に、剣を抜いて待ち構えていた者がさっと振り下
ろす。あっけないほど簡単に密使の首は胴から離れ、てん、と地面
に転がった。
一瞬、全ての者が沈黙する。
301
その一瞬が終わる直前に、小玉は声を張り上げた。今日、最大の
音量で。
﹁皇帝陛下万歳!!﹂
皇帝陛下、万歳! 万歳! 万々歳!
皇后陛下、千歳! 千歳! 千々歳!
全軍が唱和する中、小玉は地に降り立った。彼女の前に広がる血
だまりを躊躇なく踏みしめて、外套を翻す。
﹁馬を引け!﹂
この一連の激励は、武威皇后伝説の中でも最も印象的な場面とし
て特に語られることとなる。また、この激励は武威皇后が公的に残
こくもきんげん
した発言として、唯一後世に全容が残るものとなった。特に﹁天下
万民は大家のお子﹂から始まる一節は﹁国母金言﹂と呼ばれ、歴代
皇后が頻繁に引用した。音源が残るはずもないそれが残った理由は、
今回の征討軍が大規模だったためである。
拡声器などないこの時代、皇后がどれだけ声を張り上げたとして
も、全軍に声が届くはずもない。したがって、武威皇后はあらかじ
め言うことを書き留め、それを何枚も複写させた。そしてそれを、
一部隊ごとに文字が読めて声が大きいものに持たせて、皇后が語る
のと同時に読み上げさせた。軍の規模の大きさに比例した枚数であ
るため、その文を武威皇后が庶人に落とされた間も大事に保管する
者が複数名おり、それが名誉回復された後に世に出たのである。
長らくその文の真偽は疑われたが、それでもその内容自体は武威
皇后が話したものであると、ほぼ公的に認められていた。また、近
代に入り放射性炭素年代測定によって、武威皇后の存命時と同時期
に書かれたものであるという確証が得られたため、本物であること
がほぼ確定している。
302
303
此より始まらんとす 12︵後書き︶
まあ多分、夫側はこの夫婦関係について、不満持っていると思う。
304
︵ほぼ︶の話。
此より始まらんとす 13︵前書き︶
再びインターバル。三国首脳
305
此より始まらんとす 13
﹁何!?﹂
自身の天幕で、女王ツェレンスレンは目を瞠った。
﹁ダシュプルフが斬られた⋮⋮だと⋮⋮﹂
﹁は⋮⋮﹂
彼女の前に跪く臣下は、苦い顔で頷いた。
﹁信じられぬ⋮⋮ではあの皇后は、我らの提案を蹴ったというのか
⋮⋮﹂
足下がふらつくような気分になった彼女は、はっとして地を意識
的に踏みしめた。
﹁信じられぬ。あの皇后は武勇に優れていると聞く。それが男に隷
属したまま、それを甘んじるというのか﹂
女系で存続する王家の一人娘として産まれたツェレンスレンにと
って、それは信じられないことであった。男は力だけの存在。それ
を上手に活用するのが女の仕事であるという気風の国の人間には、
敵国の皇后はいつか夫に取って代わろうとしているとしか思えなか
った。
﹁女と産まれながらなんと⋮⋮なんと、覇気の無い。私はあの女を
見くびっていた﹂
軽蔑の色さえ顔に浮かべながら言うツェレンスレンに、報告した
男⋮⋮アクアンリンチンが気遣わしげに言う。
﹁しかし、相手の軍勢はあなどれませぬぞ﹂
﹁黙れ!﹂
ツェレンスレンは整えられた眉をつり上げながら、吐き捨てた。
﹁はっ、しかし⋮⋮寛に無断でこのような提案をしたことを⋮⋮﹂
﹁もう良い、下がれ!﹂
﹁はっ⋮⋮﹂
306
アクアンリンチンが唇をかみしめて一礼する。ツェレンスレンは
退出する彼を見届けもせず、爪を噛みながらいらいらと天幕の中を
歩き回っていた。
自分がまさか、おそらく隣国でも一二を争うほど怒らせると怖い
⋮⋮そして、ここ何年も本気で怒ったことがないくらい、実は性根
が温厚な女の逆鱗に触れたことなど、彼女は知るよしもなかった。
﹁何だこれは!?﹂
昴は放った密偵が持ち帰った文を見て驚愕していた。それは敵国
の皇后が味方に向けて発した激励文を書き留めたものだった。
それをのぞき込んだ同輩が、苦虫をかみつぶしたような顔になる。
﹁おそらく⋮⋮康側が独断で話を持ちかけたのであろう⋮⋮しかし、
あさはかな﹂
激励文の内容を読めば、事情はよくわかる。これらを自分たちま
で荷担していると思われるのは大層屈辱的だ。昴は一時的な同盟国
の女王の顔を思い浮かべて、舌打ちをした。女上位の国はこれだか
ら困る。
﹁女か! ⋮⋮女! なんと面倒くさいことをしてくれるものだ﹂
敵も女、味方も女。そして両方とも、昴にとって迷惑な存在だ。
﹁しかし、宸賊側の申しておることはもっともであるぞ﹂
男性優位の社会に育った彼らにとっては、皇后の激励文は非常に
説得力のあるものだった。昴はふんと鼻を鳴らした。
﹁まあ、良妻の部類に入るであろうな﹂
﹁真の良妻は戦いの場に赴くまいよ﹂
﹁しかしあの国の問題は、妻ではなく夫であろう。妻を前に出して、
自分はぬくぬくと安全なところにおる﹂
﹁違いない。所詮はそのような国だ﹂
ははと、嘲笑が辺りに響く。
彼らがあなどっている男の妻は、何度も剣を交えた存在である。
307
したがって、どれほど恐ろしい存在であるかを彼らは知っているは
ずだった。しかし、それを見ようとしなかったのは、誰のせいであ
ろうか。
まあ、大体そのような話をしているはずだ。
文林は秀麗な顔の口元を、意地悪そうにゆがめた。これまで大量
に密偵を送り込んできた両国の気質を、彼はほぼ正確にとらえてい
た。おもしろい二国であると思う。かなり対照的なところが。片方
は極端な女性優位の国。もう片方は、極端というほどではないが、
かなり男性優位の国。
どちらの国もその一方的なところが欠点だ。だが、中立だからと
いってそれが理想であるとも限らない。
たとえばこの国。どちらかというと、後者の型に傾いている国だ
ろう。他の二国に比べれば中立ではある。だが、それでも歪みはあ
るし、小玉はこの国で苦労した。そしてこの国を含め、それぞれの
国がその国に合わせた形で日々何とかしようとしている。
完全な中立になれば、何の問題もなくなるのか⋮⋮いや、そうで
はない。それはそれで何かしらの問題は発生するだろう。
そう、理想郷はどこにもない。﹁ましな方﹂というものはどこか
にあるだろうが、問題のない国などありえない。
だが、個人に関していえば、その心の持ちようで変わる。
文林は微笑みながら、妻から贈られた文を眺めた。その笑みには、
さきほどの意地悪さは微塵も含まれていない。それは行軍元帥から
皇帝に対する﹁こんなこと言いました﹂という報告書である。
一見、夫に隷属することを良しとしている文章にも見える。だが、
そうではないのだ。﹁父﹂と﹁母﹂という﹁子﹂から見て対等な立
場から語られるそれは、小玉が自分からあえて文林に従う形を取り
つつ書いているのだと、文林にはわかる。それはあの沈賢恭にすら
わかるまい。
308
彼女が自分に心底服従している訳ではないことに、文林はむしろ
喜びを感じる。小玉は自分自身は意識していないが、女性優位に染
まっているわけでもなく、男性優位に染まっているわけでもない。
その彼女があえて自分という存在を選んだということなのだ。
文林は笑みを深める。
それは、文林にとっては、生涯で空前絶後の、妻からの恋文だっ
た。
309
此より始まらんとす 13︵後書き︶
康の国の人たちの名前は、こちらは宸との文化的な共通点は結構少
ないのでカタカナ表記。
寛の方は、若干西方からきた民族が宸の文化に大分影響されて、漢
字の名前持ってるようなイメージです。
310
此より始まらんとす 14
騎乗の人となった小玉は、左手で手綱を軽く握り、右手で剣を押
さえながら、眼前の敵を見据えた。相手側の敵将も、こちらをにら
みつけているのだろう。
短く切った髪が頬を嬲る。風が強い。だがここ数日、ずっとこち
らが風下だ。
風上ならば火をかけられたのにと、内心で残念に思う。相手は川
を背にしているため、火に追い立てられれば相当な混乱が招ける。
人家もないことだし⋮⋮いや。
午水はそれほど流れが速くなく、大きい川でも無い。敵軍は川の
中に隙間無く小舟を並べ、それを鎖でつないだ上で、いくつもの板
を並べて、歩行には問題がない程度の足場を作っている。その手際
たるや、準備に対する並々ならぬ気合いがうかがえる。多少揺れる
が、それを問題としない程度には退却の訓練はしているだろう。一
か八かで試すには、危険が大きすぎる。
唇にかかった髪を、ふっと吹いて、小玉はそっと呟いた。
﹁残念だわ⋮⋮﹂
そして振り返る。
﹁納蘭守国、沈太監﹂
﹁はっ﹂
﹁御前に﹂
馬上にいる状態のまま、樹華と賢恭が深く頭を垂れる。
﹁当初の予定通り行いましょう⋮⋮むろん、今更反対などしません
ね?﹂
二人が無言のまま、さらに深く頭を下げた。
小玉は右隣にいる側付きを見やる。心得ている彼女は、手にした
311
ものを高々と掲げた。黄色い布で織られた皇后旗を。強い風にあお
られ、旗は華やかにひらめき、皇后はここにいると知らしめる。敵
にも味方にも。
﹁参りましょう﹂
小玉のその言葉を合図に、皆が行くべき方向へ向かう。樹華は右
へ、賢恭は左へ⋮⋮小玉は前へ。
前へ。
今頃叔母は戦っているのだろうか。
丙は遠い空へと思いをはせる。目前の状況には思いをはせたくな
かったので。
﹁丙、気を楽にしろ⋮⋮といっても無理か﹂
はい、無理です。
答えることすらできないくらい、丙は緊張していた。目前の状況
⋮⋮皇帝と一対一という状況に。信じられないことに、彼は丙と長
いつきあいの知己だった。というか身内なのである。叔母の夫なの
だから。つまり自分はいわゆる外戚である。外戚ってもっと害があ
ったり、もっと役に立ったりするものではないだろうか。自分で言
うのもなんだが、丙は毒にも薬にもならないのが特徴というほど、
得意なものも苦手なものもない人間だ。
一点においてのみ、それを惜しんだことがある。自分にもし叔母
のような軍事的才能があれば、叔母を助けて働くことができただろ
うに。だがそれを自分の個性と割り切っているところが、丙の叔母
そっくりの思い切りの良さだった。
皇帝はこれ四十代? と久々に会ったときに丙が驚いたほど、若
々しく美しい顔に苦笑を浮かべた。
﹁叔父さんと呼んではくれとは言わないが、もう少し旧情をかえり
みることができないものか? 昔の呼び名を思い出せ﹂
312
言われて素直に自分が皇帝を﹁おじちゃん﹂とか呼んでたり、つ
いでに﹁おじちゃん﹂に逆さづりにされたりしたことを思いだし、
胃が痛くなった⋮⋮温めた牛の乳が飲みたい。
しかし、今彼には乳を温めてくれる母も叔母もなく⋮⋮というか
叔母は﹁もういい年してんだから自分で温めろ﹂とか言うはずだ。
もっともです⋮⋮むしろ今の自分は、誰かに乳を温めてやるような
世話をしてやらなくてはならない立場だ。
皇子と、納蘭将軍の息子と。
納蘭将軍は今回の敵国から亡命してきた存在で、出征にあたりそ
の息子は宮城に呼び寄せられた。さほど頭のよくない丙にもこれは
人質だとわかる。そしてそれを慮った叔母が、丙に世話を命じたの
だ。丙に否やはなかった。彼が産まれたときから遊び相手をしてい
た子どもが、父親と引き離されて一人宮城に放り込まれると知り、
心配であった。
が、その時の自分は、その少年より宮城に放り込まれたときの自
分をこそ心配しておくべきであった。彼は子どもの特性か意外に柔
軟で、割とすぐに順応して、叔母が養育する皇子と仲良くなってい
た。一方丙は、全然宮城になじめず、おまけに子ども二人になつか
れて、心身ともにやつれはてている。こんなところにいい年してか
ら住み始めた叔母はやはり偉大な存在であったよと、戦場にいる叔
母に対して彼は時々礼拝している。
﹁え⋮⋮あの⋮⋮大家とお呼びしたいんですが⋮⋮﹂
とりあえず、ある程度の自己主張はしておく。丙の言葉に、皇帝
は少し落胆した色を顔に浮かべるが、ごめんなさい、無理なものは
無理です。
﹁そうか⋮⋮わかった。今日は下がれ﹂
﹁はっ!﹂
そこだけは力強く返事して、丙はそそくさと下がろうとした。こ
の皇帝は、義理の甥である丙をとかく呼びつけて話し相手をさせよ
うとするが、気の利いた話はできないということを、この英明な男
313
性はそろそろ気づきべきだと思う。もっとも、皇子や納蘭将軍の息
子について聞いてくるので、そういう情報収集が目的の一つなので
あろうということは、なんとなくわかっている。
出口に向かおうとした時、そこに人の姿が現れた。
紅の衣装をまとった、目がつぶれそうなほど美しい女性⋮⋮察し
だけは結構よい丙は、すぐにわかった。これは皇帝の妃の一人だと。
目がつぶれそうというか、お妃さまを皇帝以外の男が見たら、目を
つぶされるかもしれないと思い⋮⋮慌てて皇帝の方を振り向く。
﹁ああ、気にせず下がれ﹂
﹁ありがとうございます!﹂
そそくさを通り越して、とてつもなく早いすり足で丙はその場か
ら逃げた。
文林はとくに良い感情も悪い感情もなく、馮貴妃を眺めた。
﹁何か新しい情報が入ったか?﹂
だがその問いかけに彼女は答えず、茫洋と呟いた。
﹁大家⋮⋮あの、素敵な殿方は⋮⋮まさか、娘子の⋮⋮﹂
文林は無言で天を仰いだ。
だからお前はおとなしく、丙の嫁になっていれば良かったんだよ
と思ったが、それを口にしたら彼女がどん底まで落ち込んでしまう
ことはわかったので、何も言わなかった。それは大叔父として姪孫
にかけてやる、なけなしの情だった。
314
此より始まらんとす 15︵前書き︶
うむ、今日はちょっと短い!
315
此より始まらんとす 15
丙がほうほうの体で自分に割り当てられた部屋に戻ると、一息つ
く前に来客が現れた。
﹁殿下﹂
さっき別れた相手の息子である。それにしてもこの父子は本当に
よく似ている⋮⋮顔だけは。大きさはもちろん違うが、何より身に
纏う雰囲気が違う。父親の方は、顔だけはやたらと若いのに、妙な
気だるさというか、色気というか⋮⋮あれが叔母の夫とか、ほんと
にもう。
﹁丙、母后陛下の話の続きを聞きに来た﹂
目をきらきらさせているこの少年は、丙の前で叔母のことが大好
きで仕方がないと、態度でも口でも表現することをはばからない。
生さぬ仲なのによくまあ、こうもいい関係を築けたもんだと、丙は
叔母に感心している。そしてこの皇子がいることについて、叔母の
ために感謝している。
﹁はあ、娘子はですねえ、ええと⋮⋮﹂
身内ゆえに色々叔母のことはよく知っている。実際見聞きしたこ
とはもちろん、亡き祖母や母に聞いた話もあるので、叔母の一代記
の四分の一くらいは執筆できる自信がある⋮⋮あれ、けっこう少な
いな。
だが、量が少なかったとしても、知ってることをなんでも話すと、
後が怖い。自分の知らないところで色々話されたことを叔母が帰っ
て来て知ったら、あんた何話しちゃってんのとどついてくる可能性
が大きい⋮⋮いやむしろ、他の可能性どれかあんのってくらい、そ
の未来しか脳裏に描けない。
丙は叔母が必ず帰ってくるのを固く信じている。だから、帰って
来た時に怒られるようなことは、絶対したくない。
316
宮城で丙が小玉から伝授されたジャガイモ料理の作り方を今度は
皇子に伝授し、皇子が自分で作るわけでもないのに一生懸命筆記し
ているという、見ようによってはこの世で一番役に立たない授業の
最中、小玉はその二人のことに思いをはせていることはもちろん無
りゅうぶ
かった。それどころではない。
ほくが
今小玉が率いているのは、龍武軍という名がついている部隊だ。
うりん
皇帝の直属である北衙禁軍に数年前に新設されたものだ。それまで
左右の羽林軍しかなかった北衙禁軍にこの部隊が新設されたのは、
他でもなく小玉に率いらせるためだ。そのため、口さがない者は﹁
皇后の私兵﹂と神策軍を呼ぶ。小玉は皇帝への不敬に繋がらない限
りはこの陰口は無視している。
最初はいらんわ、そして名前が大げさすぎるわ、と思っていたの
だが、実際に創設されると、出征時の小玉にとってはとてつもなく
使い勝手が良かった。直接指揮する部隊が、小玉が好きなように訓
練したものだけであることが、こうまでも意のままに動けるとは思
わなかった。他の部隊など及びもつかない。だから、陰口について
もその通りではあるよね、と小玉は思っているのである。
ついでに名前についても、所属する将兵のためにある程度は見栄
どとう
えするものをつけてやらねば気の毒だと、今は納得している。たと
えば﹁土豆軍﹂なんかだと、すごく堅実な感じがして小玉は好きな
のだが、それじゃあだめだとわかるようになった自分は大人になっ
たものだとしみじみ思う。
なお、土豆とはジャガイモのことである。千切りにしたジャガイ
モを水にさらして毒を抜き、塩と香辛料と油でさっと和えて生のま
ま食べるのが小玉は好きだ⋮⋮それはともかくとして、そんな神策
軍だからこそ、勝てるという確信を得られるのだと小玉は思う。
﹁はッ!﹂
掛け声を一つ。
317
小玉はつと、馬の足を早めた。兵たちはそれにぴったりとついて
りゅう
ぎんよう
おんせいほう
くる。小玉はちらと左後ろに目をやった。一人の将官の目が合う。
相手⋮⋮柳銀葉という初老の女が頷く。続いて右後ろにいる温青峰
という、若いながらも見所のある将軍を見ると、こちらも軽く微笑
みながら、銀葉と同じ行動をした。ならばもう振り返る必要はない。
小玉は更に加速した。馬もまた小玉の意を受けて、心地よさそう
にいななく。
午水の乱。
後世そう名付けられた戦いのいくつかの局面の中でも、両軍の雌
雄を決する戦いは、皇后の率いる部隊が友軍と足並みを整えず、突
出したことから始まった。
318
此より始まらんとす 16
比喩としていかがなものかとは思うが、まるで膨らんだ餅のよう
だと、軍の右翼を指揮する樹華は思った。自軍の中心部だけが、敵
軍に向けて膨らんでいる状況。
そこに向けて、敵軍が殺到する。その部分が一番守りが薄くなる
からだ。左右から挟まれればひとたまりもないだろう。
⋮⋮そこに、皇后がいる。
そう思うと、焦燥感を覚える。おそらく、左翼にいる賢恭はなお
さらであろう。特に根拠はないし、追及しようとも思わないが、彼
の皇后に対する思い入れが強いことを、樹華はなんとなくわかって
いた。
自分自身、彼女には思い入れがある。かつての上官としても、亡
き妻の親友としても。
そんなことを考えているうちに、皇后の率いる軍が敵軍に接触し
た。膨らんだ餅は突くと破裂するものである。それと同様に、皇后
たちは自分たちより多くの兵力に押されながら四散した。
﹁よし、行くぞ!﹂
同時に樹華が号令を発し、右翼が動き出す。横に目をやれば、左
翼も動き出していた。
かくして、両翼の軍は散った兵を回収しながら二つの塊になり、
左右に離れていった。
﹁⋮⋮娘子! ご無事で!?﹂
﹁ええ、まあ!﹂
皇后は血に濡れた槍を片手にしていた。その姿にぞっとする。下
手をすれば総指揮官である彼女が戦死していたかもしれないのだ。
本来ならばこのようなことはありえない。だが今回の場合、そうす
るしかなかったのだ。
319
﹁うまくいきましたな﹂
﹁いまのところは﹂
皇后は硬い表情で頷く。目は敵軍の動向から離れない。この軍の
中心部が崩れ、雪華大原に殺到していく敵軍から。
﹁ではこのまま予定通りに。こちらの軍の全権はわたくしに戻す﹂
﹁はっ!﹂
樹華は恭しく一礼した。
紅燕は走っていた。今も昔も深宮に住まう彼女が走るなど、それ
り しょうぎ
自体が非常事態だ。目的地に着くなり、叫ぶ。
﹁李昭儀はおいでかしら!?﹂
﹁何事ですか、貴妃さま﹂
奥から理知的な美貌の女性が現れる。後宮で紅燕の次に若い妃嬪
だ。そして、紅燕の数少ない友人でもある⋮⋮つまりは皇后派だっ
た。
紅燕が息を整えながら言った。
﹁淑妃が、愚かでした﹂
﹁あの方の頭が空っぽなのは、今に始まったことではありませんわ﹂
李昭儀は事もなげにひどいが、紅燕も淑妃が馬鹿だと思っている
ので、そんな発言に眉をひそめるわけもない。
﹁予想をはるかに超えて愚かだったのです!﹂
問題は淑妃の馬鹿が度を超えているところにあった。
﹁何事か起こったのですね?﹂
李昭儀がそんな淑妃とは真逆な頭の持ち主であることを、聡さが
滲み出る言動で示した。
﹁あの女、娘子を亡き者にするため、寛賊と密通しました!﹂
正確には、大官である彼女の父親が。
﹁⋮⋮なんですって?﹂
それはもう、どこから見ても誰もが頷くほど立派な大逆罪だった。
320
﹁粛正台は何をやっているのかしら!﹂
政治のあれこれの監査を務める機関としては、今回粛正台は確か
にへまをした。だから李昭儀の批判は正当である。
それにしても、皇后に対する暗殺の企て、敵国との結託⋮⋮。
﹁つまり、数え役満ですわ﹂
﹁いえ、貴妃さま、一個だけでも十分役満貫です﹂
この二人、皇后とよく三人麻雀をするくらいの仲である。
﹁⋮⋮淑妃の処遇は?﹂
李昭儀は細い指を顎に当てながら尋ねてくる。
﹁大家の命により、宮にて謹慎中です。父親は官位剥奪の上、他の
家人と同様に捕縛したと﹂
その答えに、李昭儀は顔をしかめた。
﹁生ぬるいですわね。今すぐ処刑するくらいでなくては﹂
その意見には同感であるし、実は皇帝も同意するだろうが、そう
もいかない事情があった。
﹁もはや、娘子の暗殺のための手は放たれているのだそうです。今、
大家が手を打っているそうですが、もし万が一のことがあれば、楽
には死なせないと⋮⋮﹂
﹁それほど、危ない状況⋮⋮﹂
﹁ええ﹂
二人の表情は硬い。
﹁⋮⋮今、あの女を一発くらい殴ってもいいのでしょうか﹂
しばらく沈黙した後、李昭儀は顔に似合わずやたらと暴力的なこ
とを言った。
この女性、元々は顔の通り学識の高さで名高い人間であったが、
現在は結構体育会系である。そうなったのは、皇帝の寵愛を得るた
めにどうすればいいか考えた結果、最も寵愛されている皇后を手本
にしたことが原因だった。
剣術等に打ち込む日々を送ったあげくに、皇后に傾倒し、皇帝の
寵愛がどうでも良くなったのである。だが、結果的にはそれによっ
321
て皇帝の覚えはめでたくなり、四夫人に次ぐ九嬪の中でも最高位の
昭儀の位を賜ったという、本末転倒なんだかそうでないんだかよく
わからない人生を送っている人間だった。
﹁⋮⋮後宮内での妃の断罪は、主である娘子のご判断が必要になり
ますわ。我々が独断で動くことはあってはなりません﹂
﹁それもそうですわね﹂
紅燕がどう答えようかしばらく悩んでいる間に、李昭儀は侍女に
持ってこさせた指輪を利き手の全部の指にはめていたが、あっさり
納得すると、すぽすぽ外しはじめた。そのやたらとごつごつした作
りの指輪は、最初からそういう意匠だったのか、それとも特注品な
のか、少し気になる紅燕だった。
322
此より始まらんとす 16︵後書き︶
李ちゃんの選んだ道は、確かに皇帝︵ただし文林に限る︶に気に入
られる最短ルートではあるんだ⋮⋮これが。
323
此より始まらんとす 17
雪華大原に殺到していく敵軍が、恐慌状態に陥っていく様子が眼
前で繰り広げられていた。小玉は持っていた槍を手ばなさずにそれ
を観察する。
峠の出口に待機していた友軍によって敵軍の侵入口が塞がれたの
だ。同時に、峠の裏側に控えていた遊軍によって、崖の上から岩と
矢が敵兵に降り注ぐ。敵からすると青天の霹靂そのものだろう。彼
らにしてみると、相手がまるで地から生えたようにすら思えるかも
しれない。
それらの全てを直接見ているわけではないが、小玉には手に取る
ように状況がわかった。それでありながら、別に誇らしいと思うわ
けでもなく、策というにはあまりにもお粗末だなと、自分自身に対
して思う。それは自嘲ではなく、客観に近いものだった。
最初から確信を持ってこの展開を想定はしていたわけではない。
自軍の全てに峠を越えさせずに、一部を待機させていたのは、自
軍が敗れたときに、大原になだれ込むのを食い止め、その間に帝都
に連絡をするための時間稼ぎになる⋮⋮と思っていたからである。
兵力を分散することについての危険はあったとしても、それはそれ
で大事なことだと判断した。
それでも、脳裏には﹁もしかして﹂という思いがあった。うまく
いけば、峠に追い込み、左右から撃破することができるのではない
かと。狭いところに追い込んで、敵を潰す用兵は、小玉の得意とす
るところであった。そのため、極力峠の裏側に兵がいることをとに
かく敵兵に伝えないよう、徹底的に相手側の密偵を狩った。もう、
きれい好きな主婦が小バエと戦うくらいに徹底的に。そしてきっか
けは相手から与えられたのだ。
昨日、密偵が来たとき、小玉は思った。今ならば皇后⋮⋮そして
324
こちら側の兵が少なからずが激昂していることを、敵兵に印象づけ
ることができると。そうであれば、やや冷静さを欠いた動きをした
としても、変には思われまい。特に、あの国ならば。
あの檄文は、味方のためではなく、実は敵のためでもあった。も
ちろん本心から出た言葉ではあった。だが、本音と建て前を使い分
けるのではなく、本音に建て前を上手に同居させる。いつの間にか
そういう技術も身につけてしまった自分がいる。
そして、運の捕まえ方もうまくなった。
そう、結局のところ今の流れの大本は運で動いている。お粗末、
と思うのはそのせいだ。同時に、思い通りにならない﹁戦﹂という
場で、運というものとつきあい、掴み方を覚えることの重要性を、
小玉は今実感していた。
小玉は樹華に向かって頷く。
﹁そろそろ後ろから押しましょう﹂
﹁はい﹂
小玉の号令によって、午水側にいる軍がゆっくりと峠の入り口で
詰まっている敵軍を追い詰めていく。ほどよく恐慌状態になってい
た。
これでおそらく、今いる兵は叩けるだろう。この場をのみ見れば
大勝利だ。
だが、問題はその後だ。彼らの本国にはまだ多くの兵が残ってお
り、おそらくはそれが送られてくる。そして、この地形では、今と
同じ策は使えないだろう。
かといって、場所を変えることはしない。今できることは進むか
退くかであるが、退くことは論外である。雪華大原に引き下がった
場合、新たにやってきた敵軍が迂回し、それに間に合わなくなる可
能性がある。同時に、進むこともしない。この戦いの目的は防衛で
あって、侵略ではないからだ。それに、補給線はおそらくこれが限
界だわ、と小玉は判断していた。その判断には少し苦いものが含ま
れている。
325
現在、後方支援関係でいい人材があまりいない。もちろん、今小
玉が率いる将兵の中には、現時点で最も実力者といえる者が揃って
いるが、小玉からすると、かつてに比べると確実に見劣りしていた。
あの三人のうち、誰か一人でもいれば、と思う。全員引き継ぎを
しっかりして去って行ったのが、さすがではあったが。
そちら方面で無類の実力者であった小玉の元副官は、なんかもう
色んな意味で誰も文句がいえない事情で引退した。小玉の知己で、
かつて後方にこの人ありといわれていた蘭英は、文官に華麗すぎる
転職を果たしてしまった。一時期小玉の下にいた泰は、﹁帰りなん
いざ、女房まさに逃げんとす﹂という、これまた誰もなにもいえな
くなるような詩を作って田舎に引きこもってしまった。
もう本当に人生色々、人それぞれに歴史あり、である。考えてみ
れば、自分だって一介の武官から皇后になったのだから、昨今のこ
のあたりの人事の動きが激しすぎる。
現在の副官は決して悪い人材ではないが、意外に指揮での才覚を
発揮しつつあるため、そちら方面で伸ばしていくつもりであった。
そう思うと本当に悩ましい。もう三十顧くらい礼でもして、泰にも
う一回来てもらうべきだろうか。いやしかし、本人に礼するよりも
⋮⋮奥さん、なにが好物だろうか。
⋮⋮そんなことを考えていたからというわけではない。油断など
決してしていなかったといえる。
しかし、それは起きてしまい、起きてしまったからにはそれは小
玉の責任であった。少なくとも小玉は生涯そう思い続けた。
326
此より始まらんとす 18
不意に左方から降ってきた矢に、それまで整然と進んでいた部隊
が動揺する。特に馬が。小玉の乗っていた馬も例外ではなかったが、
彼女はそれを素早くなだめ、姿勢を整える。元々小玉の意を汲んで
よく動く馬なだけに立て直すのは早かった。小玉は眉根をよせなが
ら、事態の把握に努める⋮⋮といっても、努力するまでもなくそれ
はすぐわかった。
伏兵。
ありふれた展開ではあった。なぜならば、他ならぬ小玉自身が同
じことをしていたからだ。それだけにあらかじめ防ぐことができな
かった自身にいらだちを感じる。同時に自分自身に対する軽い不安
感。敵を見くびっていたつもりではかったのに、実は見くびってい
たのではないかと。
だがそれらは今考えるべきことではなかった。小玉はそれらの感
情を一端心の隅に放り込む。
﹁娘子をお守りせよ!﹂
小玉とほぼ同時に姿勢を立て直した樹華の声に、兵たちが動こう
とする⋮⋮が、なかなかそれはかなわない。そうしているうちに、
再び矢が天空から降ってきた。それも小玉がいるあたりめがけて。
避けられないと見て取った小玉は、ちっと舌打ちをして、盾を持つ
手に力を込める。いくつかは刺さってもしかたがないと覚悟を決め
る。まずは急所を守らなければ⋮⋮そう思って盾をかざした彼女の
視界が、突如大きな﹁もの﹂に遮られた。
一瞬それが何だかわからなかった。
わかったのはその﹁もの﹂に矢が刺さったのと同時のことだった。
ひっと喉でなにかが引きつるような音がする。次の瞬間、それは
327
声として小玉の口から飛び出した。
﹁⋮⋮樹華!﹂
こんな風に恐怖と怯えが混じった叫びを発したことなど、もう何
年もない。
ゆっくりと樹華の体が小玉の視界から崩れ落ちていく。小玉は手
にしていた盾をかなぐり捨てて、馬から落ちかけたその体を支えた。
その時に、遅れて飛んできた矢が一本肩口に刺さったが、知ったこ
とではない。
﹁樹華!﹂
﹁娘子⋮⋮お退きください⋮⋮私のことは、お捨てに⋮⋮﹂
言いたいことはわかる。言われる通りにするべきだということも
わかる。だが、小玉の胸にわき起こった﹁予感﹂が、この時小玉か
ら冷静さを失わせていた。樹華のずっしりと腕にかかる重み、途切
れ途切れの声がわき上がらせた﹁予感﹂⋮⋮いや、確信に近い未来
が。
それでもその場にぐずぐず留まっていることを選ばない程度には、
小玉は愚かではなかった。それでいて彼を捨てておくのもまっぴら
だった。肩に刺さった矢傷から、血が流れるのもかまわず、小玉は
彼の体をむりやり引っぱって自分の馬に乗せる。急にかかった重み
に、愛馬の体が一瞬ゆらぐが、構わない。馬も不満を示さない。普
段はちょっとわがままな馬だが、こういう時は常に小玉の思うとお
りに動いてくれる。
﹁⋮⋮退却!﹂
そうして、小玉の号令とともに部隊は撤退を始めた。とはいえ、
いずれは追いつかれるのは目に見えていた。彼我の距離はかなり近
い。だが時間さえ稼げば、こちらの異常を察知して援軍が来るはず
だった。おそらくは沈賢恭が来てくれるはずだ。
﹁娘子⋮⋮﹂
﹁しゃべらないで﹂
328
矢が刺さったまま、馬上に横向きに乗せられ、しかも常時揺らさ
れている状態はさぞ苦しいはずだ。それでも樹華は口を開こうとす
る。
﹁娘子⋮⋮私の墓はぜひとも、何がなんでも妻の横に﹂
﹁あんたなに前向きに自分の埋葬なんて後ろ向きなこと考えてんの
!﹂
﹁いえ、娘子を⋮⋮お守りして、死ぬ⋮⋮のであれば、下手をすれ
ば⋮⋮国葬になるので﹂
﹁妙に現実的だな!﹂
時々血混じりに咳き込みながら言うことではない。
﹁言われなくても、あんたが死んだら明慧んとこに埋めるわよ! でもそれは今じゃないからね! こんなふうにあんたを死なせて⋮
⋮死なせたら、あたし明慧に合わせる顔がないじゃない!﹂
﹁娘子! 敵が!﹂
切羽詰まった状況な割に妙に間の抜けた会話を交わす二人を、隣
で馬を走らせていた銀葉が現実に引き戻した。
﹁⋮⋮一回止まって食い止めるわ。たぶん沈太監がすぐ近くまで来
ているはず。ここが踏ん張りどころよ﹂
﹁はっ!﹂
そうして馬上で指揮を執りながら、小玉は時折震えていた。
自分の手に触れる体が徐々にぬくもりを失うのを感じながら、怯
えていた。
こんなふうな死に方をする人じゃない。そんな思いは願望にすぎ
ないのだと知っている。
だって、人は往々にして﹁こんなふうに﹂死ぬのだ。
なんの必要性もなく、なんの脈絡もなく。
⋮⋮これまで、小玉が見てきた死のほとんどがそうであるように。
329
此より始まらんとす 19︵前書き︶
※ばっちい話が含まれます。苦手な方と、食前食後の方はご注意く
ださい。
330
此より始まらんとす 19
賢恭が到着し、伏兵を全て片付けた頃には、樹華はすでに虫の息
だった。助からないことは誰の目にも見えていた。おそらくは皇后
の目にも。
むしろこの時点まで生きていること自体が、奇跡的だ。それは彼
の鍛え上げた肉体による生命力の賜物だろう。
皮肉な見方をすれば、それだけ死までの苦しみが長引いたという
ことになる。ただ、それを悪いととるかは、事態を受け取る側の心
持ち次第であろう。そして樹華本人は、この瞬間まで命があること
を喜ばしく思っているようだった。
今、この時、皇后に最期の言葉を残せることを。
﹁娘子⋮⋮息子を⋮⋮﹂
頼む、と言いたいのだろう。
語りかける樹華に、皇后は感情を押し殺した態度で答えた。
﹁わかっています。誠のことは任せなさい﹂
﹁いえ⋮⋮そうでは﹂
﹁んっ?﹂
まさかの否定に、皇后をはじめ、全員が妙な顔をした。
断片的な樹華の言葉をまとめると、﹃もし息子が、娘子をお恨み
申し上げることがあらば、それは妻の心意気に反することなので、
殴り倒して妻の墓前に土下座させてください﹄とのことである。
皇后の顔がくしゃりとゆがんだ。泣けばいいのか、笑っていいの
かわからないというような表情だった。
﹁ねえ樹華、樹華⋮⋮あんたって本当に⋮⋮﹂
その後のことは、言葉にならないようだった。その彼女に樹華は
331
ふっと笑いかけた。その様子を見ていた賢恭は、見事だ、と思った。
もし彼のこの言葉がなければ、皇后は彼の息子が恨みを抱いたと
き、その感情をただ受け止めただろう。彼女の負い目まで拭って去
っていくその忠義の有り様に、賢恭は内心喝采を送る。
その目の前で、樹華の目が急に虚ろになった。
−−ああ、逝くのだ。
亡命者である彼は、常に裏切りの可能性を危惧されてきた存在だ
った。賢恭自身ですらそれを危ぶんだことがある。しかし、そんな
彼がこのように見事に死んでいく。
﹁娘子⋮⋮きっと⋮⋮妻が、笑って⋮⋮迎え⋮⋮﹂
母国から亡命し、その母国によって殺される⋮⋮それはきっと一
つの悲劇なのだろう。しかし、地べたに横たえられて、皇后に手を
取られて死にゆく彼は、満ち足りた顔をしていた。それは心残りの
あるなしとは関係のないことだ。自分が彼の立場であったとしたら、
今死ぬことに心残りはある。しかし、死に方自体には悔いがない。
−−むしろ、彼のように死ねたら。
心に浮かぶ思いを、﹁ああ、そうだな﹂と認めつつ賢恭は皇后に
歩みよった。今は自分の死に方よりも大切なことがある。
﹁娘子、怪我の手当てを﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
遅ればせながら到着した軍医たちを見て発せられた賢恭の声に、
肩に矢を受けた皇后が素直に頷く。
332
皇后の傷は傍目にも深くはなかった。肩口に刺さったままでも腕
は動いていたので、刺さった矢を抜き、傷を洗い清めれば良いと思
っていた。
しかし、
﹁沈太監。あまりよろしくない可能性が出てきました﹂
治療を終えた皇后は、賢恭を呼び寄せて淡々と言った。受けた矢
が糞尿で汚されたものであったと。
皇后の言葉に、賢恭の深く皺が刻まれた顔に、さらに皺がよった。
古来、矢に毒を塗るのはよくあることである。しかし、毒という
のはそれなりに入手できるものではあるが、持ったまま移動したり
維持するのは、結構難しいものである。したがって、こういう場合、
武器を糞尿で汚して攻撃することがままある。それは傷口が不衛生
になればなるほど、その傷を受けた者が、悪い病を発する可能性が
高いからだ。持ち運びも入手の難易度も、他の毒とは比べようもな
い。一見問題になりそうな臭気も、常時死臭が漂う戦場ではあまり
問題がない。嗅覚というものはほぼ麻痺しているし、無視されるも
のだからだ。
それは矢を受けた側にとってもそうで、だから皇后は矢を受けた
時に気づかなかったのだろう。彼女も戦地での経験が長いのだから、
嗅覚は意図的に意識から遮断していたのだろう。無理もない。
﹁わたくしもうかつでした⋮⋮ですがとりあえず、ある程度のけり
はつけていますから、わたくしが倒れても、今から想定をしておけ
ばなんとかなるはず﹂
﹁娘子、めっそうなことを仰せになりますな﹂
諌めつつも、賢恭は彼女の言葉に一定の理があることを認めた。
今から対策をしておけば、混乱を抑えることはできる。また、﹁あ
る程度のけり﹂がついているというのも事実だ。
皇后のいる部隊が奇襲を受けたものの、軍の大勢は問題なく敵軍
を追い込み、峠での封じ込めはほぼ完了している。ほどなく、敵軍
の壊滅が報告されるであろう。気になるのは他の伏兵だが、先の奇
333
襲の生き残りを捉えているので、これからねっちりと﹁話し合い﹂
をして情報を引き出すつもりだ。皇后に傷を負わせた者たちに対し
て手加減をするつもりは、もちろん賢恭にない。
﹁これから問題になるのは、相手の本国からの増援、我々の退却⋮
⋮早い段階で落としどころをみつけなければ⋮⋮﹂
半ば独り言のように皇后がつぶやく。
先ほど頼りにする部下を死なせたことに対する悲嘆は、その表情
から見当たらない。なすべき時になすべきことをし、とるべき態度
を取ることに、賢恭は批判する言葉を持たない。しかし、自分自身
を大切にする態度は持ってほしいと思う。今の皇后からは、近々病
に倒れるかもしれないという恐れは見当たらなかった。
それはもしかしたら、現況が自分自身への罰だと思っていたから
かもしれない。
334
此より始まらんとす 20
七日が経った。
﹁⋮⋮今のところは大丈夫ね﹂
斥候からの報告を受けながら、小玉は安堵の形に表情を少し緩め
る。
雪華大原に控えていた兵たちが残党狩りをしながら小玉たちと合
流し、現在午水を挟んで再び送られてきた敵軍と向かい合っている。
各個撃破の心配を脱した点では、こちらに都合のよいように戦況が
動いている。
で、問題はこれからどうするかだ。
渡河して相手の領地に侵入するつもりは、相変わらず小玉にはな
い。現在、こちら側が有利であるため、相手が和睦を申し込みやす
い機会、それらを作らなくてはならないと思っていたが、決めてに
欠けるという状態だった。相手もまた、引っ込みがつかなくなって
いる可能性が高い。
どうしたもんかなーと内心で砕けた言葉遣いで悩んでいると、一
人の兵が天幕に入ってきた。知っている顔だ。
﹁何事か﹂
そば付きの者が声をかけると、相手は懐から紙を取り出す。
﹁大家からのお文でございます﹂
彼は文林が小玉に緊急に連絡をとりたい時に伝令として走る男だ。
彼からの手紙は、小玉が直接受け取ることになっている。
﹁そう、こちらへいらっしゃい﹂
口を動かしながら、ふと顎に違和感を覚えた。どことなく動かし
にくいような気がする。だが、手渡された手紙に意識が移ると、そ
の感覚は自然と小玉の頭の中から追い出された。
開いてざっと目を通し、小玉は軽く眉を動かした。そして軽くた
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め息をつき、その手紙を閉じて端をつまむと、灯火に寄せた。あっ
という間に火がつき、白い紙を侵食する。それが小玉の指に達する
直前に、小玉はぱっと手放した。後には黒い燃えかすがしばし舞う
のみだった。
﹁大家にお伝えして。委細承知いたしました、と﹂
﹁はっ﹂
小玉の言葉に従順に頷き、男は場から下がった。
軽く瞑目して、書かれた内容を胸中で反芻する。書かれている内
容は驚愕すべきものではあった。しかし、予想できなかったことで
こ
はなかった。よりによってこの時期か、という思いはあるものの。
︱︱あの娘、もう我慢できなかったのか。
噛みしめる思いはどこか苦い。敵に通じるほど追い詰めたのは、
自分の存在のせいなのだ。
﹁沈太監﹂
﹁はっ﹂
﹁先日、わたくしに矢を射かけた者たちの裏について、なにかわか
りましたか?﹂
﹁いえ⋮⋮他の部隊に遅れてしまったため、その場に潜んでいると、
たまたま娘子たちが通りがかったので奇襲したとしか﹂
﹁そう⋮⋮﹂
それが正しいか、誤りなのかはちょっとわからないなと小玉は思
った。せめて使われた毒が特殊なものならば、自分を目当てに襲い
かかった連中なのだと断定ができただろうに、あいにく﹁特殊﹂と
は正極に位置するブツである⋮⋮残念だ。もしそうならば、淑妃の
父親を糾弾する材料にして、文林の政敵を徹底的に除くことができ
ただろうに。
なんともなしに、肩の傷を撫でる。
﹁娘子、よもや傷が痛むのでは﹂
﹁あ、いえ。違います﹂
痛いといえば痛いが、小玉の立場は﹁皇后﹂だ。この場における
336
最高の医療が彼女には提供される。毎日軍医たちの鬼気迫る治療を
受けているおかげで、傷の治り自体はすこぶる早い。
だが、気にかかることはある。それは矢傷を負った傷口に手が加
えられなかったことだ。何かしらの要因で傷口が汚染された場合、
普通はその周辺の肉ごとえぐりとることで、傷口を清める。荒っぽ
いが効果的な手法だ。だが小玉は﹁皇后﹂であるため、その肉体に
新たな傷をつけることは許されない。それは軍医たちの間でも意見
が分かれることで、小玉の前で何度も喧々囂々と話し合いが行われ
た。
皮肉な話だな、と小玉は他人事のように思う。﹁皇后﹂であるが
ゆえに最高の治療を受け、﹁皇后﹂であるがゆえに効果的な治療が
受けられない。そして小玉のほうからは、そのことについて指示を
出せない。他者の身の安全を守るためならば﹁皇后﹂としての権威
を振りかざせるが、自分自身のことについてはなにもいえない。下
手をすれば﹁皇后﹂の権威自体を損なう可能性があるからだ。それ
は自分自身のこととして嫌なわけではなく、管理者の立場として嫌
なのだ。﹁皇后﹂の地位に就いたからには、その地位が持つものを
損なうことなく次へ渡すのが、自分の責務だと思っている。だから
小玉は自分から口を挟まなかった。
もちろん死ぬかもしれない。
死にたいわけではないというのは若いころから現在に至るまで思
っていることで、それ自体は小玉の中でなにも変わっていない。だ
が年を重ねるごとに加わった気持ちがあって、それらを総合すると、
今の小玉の気持ちはこうだった。
死にたいわけではないが、いつ死んでもいい。
これまでの生の中でそれなりのことを成し遂げたという実感があ
るからだろう。そしてたどり着いた死が意味のあるものならば、な
おさらその気持ちは強くなる。誰に理解されなくても、その﹁意味﹂
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を自分は知っているし、文林も共有しているという確信がある。
とはいえ、と小玉は自嘲した。
この気持ちは決して美しいものではない。そのことを小玉はわか
っている。しかし、思うのだ。これは老いの一つの形だ。そして今
の自分は間違いなく老いつつある。それを自分自身に対してごまか
してはならない。
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此より始まらんとす 20︵後書き︶
ダンナはたぶん、現状知ったら血相変えて治療させると思う。
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此より始まらんとす 21
りしんけい
小玉がそんな暗いことを考えている頃、宮城では別の女が小玉を
思って暗い顔をしていた。
こくも
その女︱︱李昭儀こと、李真桂は入宮前から才女と名高かった。
そんな彼女は現在、自他共に認める皇后の片腕である。国母と言わ
れるだけあって、皇后というのは実はなかなか忙しい。その職務を
補佐することにおいて、真桂の右に出る者は一人もいない。もう一
人、馮貴妃も皇后に助力しているが、こちらは人脈面のほうに傾い
ているため、実務面で真桂は皇后からの絶大な信頼を得ていた。
妃嬪とは皇帝の妻たちであるが、同時に実は官僚の一部であって、
後宮内で皇后の補佐をしながら様々な業務をこなす⋮⋮ということ
になっている。もちろんそれは建前で、通常であれば皇帝の寵愛を
競う関係である以上、妃嬪が黙って皇后の補佐をするなどというこ
とは、まずない。したがって真桂と馮貴妃は、皇后と本来の関係を
築いている希有な妃嬪である。実はほかにも皇后を慕う妃嬪はいる
が、彼女たちは良くも悪くもお嬢様育ちなので、皇后を敵視する妃
嬪たちと別の意味で皇后の補佐ができない。
だがそれは別にいい。彼女たちが皇后の周りをきゃっきゃうふふ
と取り巻いていると、皇后はちょっとほほえましそうだから⋮⋮と
真桂は割り切っている。それに彼女たちが使えないから、自分が重
用されていると思えば非常に小気味よい気分でもある。
しかしそれも、皇后が間近にいればこその話である。ましてや、
皇后が今傷を負っていると聞けば、小気味よさとは対極の気分にな
る。
﹁娘子⋮⋮おいたわしい。そして淑妃は死ねばいい﹂
まなじり
真桂はせきあえぬ涙に、左手に持った手巾をぬらす。見る者に理
知的な印象を与える切れ長の眦はすでに赤い。
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﹁あの女⋮⋮役に立たない上に有害かつ娘子に仇なすだなんて、な
んでこの世に生まれてきたの。死ねばいい、死ねばいい⋮⋮﹂
ぼっこん
しば
そう暗くつぶやきながら、手巾を持つ反対側の手で、大きな人形
をドスドスと殴りつける。その人形の頭には墨痕鮮やかに﹁司馬淑
妃﹂と書いてある。言っていることと口調がねっとりと暗いくせに、
やっていることはやたらと激しい。しかも人形に食い込む拳は、腰
の入った非常に重いものである。見る者がみれば、それなりの訓練
を受けた身であるということがわかるほどに。
﹁ねえ、李昭儀⋮⋮﹂
そんな真桂に、おそるおそるといった風に、馮貴妃が声をかける。
彼女は武術に関して見る目を持たないが、それでも真桂の言動の落
差が激しいことはわかったようである。
真桂は手を止めて振り返った。
﹁なんですの?﹂
﹁あなたは⋮⋮なにをやっておいでなの?﹂
真桂はふんと鼻をならした。
﹁おわかりになりませんの? 淑妃に天罰があたるように祈願して
いるのですわ。貴妃もやっておいででしょうに﹂
﹁やっているけれども、わたくしは人形に針しか刺してないわ﹂
﹁まあ、それでも娘子にお仕えする身なのですか? これだからひ
弱なお姫様は﹂
せせら笑う真桂に、馮貴妃が目をつり上げた。
﹁なんですって?﹂
﹁あら、わたくしなにか間違ってますか?﹂
この二人、日常の八割は仲が良いが、残りの二割は仲が悪い。仲
が良いのも悪いのも、すべて皇后が理由である。
ひとしきり言い合った後、気が済んだ二人は会話をし始めた。談
笑という類のものではないのは、二人がいさかいを引きずっている
からではなく、話している内容が深刻なものだからだ。
馮貴妃が冷ややかに言った。
341
しゅうぎく
﹁淑妃付きの⋮⋮秋菊とやら、あれはどうなったのかしら?﹂
﹁まだ吐かないそうです﹂
淑妃の処遇は、皇后が戻るまで保留状態だが、彼女に仕えて者た
ちのことは貴妃や昭儀の裁量で動かすことができる。淑妃の宮にい
る者たちは事態が発覚した後に皆とらえられ、それぞれ尋問されて
いた。それは皇后が傷を負ってからは拷問に切り替わっている。そ
うするよう命令したのは皇帝だが、馮貴妃も真桂も拒否しようとす
ら思わなかった。
﹁なかなかに⋮⋮主思いな様子で﹂
それでも、そう言う真桂の表情は憐れみに満ちている。
﹁そうね。主が忠義に見合っていない器量だというのに﹂
馮貴妃も同様だ。そういった感情を皇后から教わった。同時に感
情と行動は時に切り離すべきだということも教わった。それを行う
ときは、彼女たちにとってまさに今だった。
なんとはなしに二人、沈黙する。やがて馮貴妃が口を開いた。
﹁娘子の御身は、今のところ快癒に向かっているようです﹂
﹁そう、それはよかった⋮⋮﹂
真桂は安堵の笑みを浮かべる。少し気分が明るくなった。
皇后が今、ある危険にさらされていることは、彼女たちには伝わ
っていなかった。それは情報の伝達の精度に問題があるからなのだ
が、結局のところ、彼女たちは戦場がどういうところであり、どう
いう危険があるところなのか、本当の意味で理解できていなかった
のだ。それは彼女たちが悪いからでも、彼女たちが甘いからでもな
い。
ただ、違うのだ。どれほど近しい関係でも、身を置く場所が違う。
それを近い将来彼女たちは痛感する。
342
此より始まらんとす 22
︱︱これはまずい。
舌がもつれる。体がこわばる。顔がひきつる⋮⋮確実に予兆が出
てきている。
誰よりも早く異変に気づいたのは、当然のことだが小玉だった。
そしてそれに気づいていたのは彼女だけではなかった。
当然ではあるが、医師たちも気づいた。毎日小玉の容態を確認す
るし、小玉本人が自身の異変を隠す必要性もないからだ。診断と問
診のたびに医師たちの顔が青ざめていく。
そして激しい協議が小玉の前で展開され、ついに彼らは未病の段
階であると判断した。このままだと必ず病を発症する。
﹁娘子、お飲みください﹂
うやうやしく差し出された薬湯を手に取る。少し匂いをかいだ。
当然のことだが、おいしくはなさそうである。
﹁なにが入ってるの?﹂
聞いたところで、それがどういう効能を持っているかなどわかる
わけもないが、なんとなく聞く。
﹁芍薬と甘草が﹂
﹁そう﹂
やっぱりわからなかったし、飲んだからといって病気にならない
という保証もないが、飲まないよりは確実によいということもわか
っているので、小玉はそれを一気に干した。
器を返し、側近くに控えていた賢恭に言う。
﹁太監。この前から言っていた通り、もしわたくしが、れっ、あ⋮
⋮﹂
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思わず口元をおさえる。やはり舌が回らない。
﹁娘子、ご無理をなさいますな﹂
﹁だいじょうぶ﹂
今のところは、まだ。
すでに、自分が無力化したときに誰がどう動くかの段取りは整え
ていた。またその指示は出していた。だから、なにか起こったとき
になにをすればいいのかわからない、というような最悪な事態は起
こらないはずだった。
もっとも、自分がこのまま健在であるのにこしたことはない。そ
れは言うまでもないことだ。この出兵の総大将である自分が倒れた
場合、確実に動揺が広がるであろう。それは上層部ではなく、兵卒
たちにだ。浮き足だった兵たちほど扱いにくいものはない。
﹁もし、なにかが、あったら、てはずどおりに、おねがい﹂
噛まないように、ことさらにゆっくりと言葉を発する。この時点
で小玉は、間違いなく自分は使い物にならなくなるであろうという
確信を持っていた。歯がゆさを覚える。
敵軍のほうに小玉の不調が知れ渡った場合、事と次第によっては
均衡状態が崩れ、先方がまた攻めてくるかもしれない。せっかくこ
の状態にまで持ってきたというのに。樹華の命まで犠牲にして。
だが、現実から目をそらすことはできなかった。近々確実にその
日は来る。
しかし、その近々は実際に起こったよりも、もうすこし先のこと
だという予想をしていた。予想を裏切られたのは、その日の晩のこ
とだった。
休んでいた小玉は、息苦しさで目を覚ました。それと同時に、自
分の体が思うように動かないことに気づいた。全身がけいれんして
いる。
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﹁ぐっ⋮⋮﹂
震える手で喉元をおさえながら身をよじった。それほど立派な造
りではない寝台から、体が落ちる。どさりという音に、外から声が
かかった。
﹁娘子、なにごとですか!﹂
不寝番の女性兵の声だ。それに応えることができず、小玉はただ
身を震わせた。異変ありと察して入ってきた彼女は、地に伏せる小
玉を見て悲鳴をあげた。
﹁⋮⋮誰か! 娘子が! 娘子!﹂
抱え上げられながら、小玉は失敗したな、と思った。こんなこと
になるなら、最初から天幕に誰か入れておけばよかった。呼吸困難
の苦しみの中でも、小玉の意識はとてつもなくはっきりしていて、
自分の行動を冷静に反省できるほどであった。それはつまり、意識
を混濁させることで苦しみをやわらげることができないということ
であった。
慌ててやってきた医師たちに処置をされるが、その間にも症状は
進んでいった。
自分の意志に反して体は弓なりにのけぞる。このままでは背骨が
折れるほどに。そう判断した医師たちの手で、小玉は寝台に布で縛
り付けられた。
その間にもけいれんは激しくなり、口の中で勢いよく噛み合った
歯が一部砕けたのを感じた。咳き込みながらそのかけらを吐きだし
た小玉を見て、このままでは舌をかみ切ると医師たちが判断する。
小玉は彼らによって、猿ぐつわをかまされた。
誰かの叫びが聞こえる。
﹁娘子の御身になんという無礼なことを!﹂
黙れ、治療の一環だ。そう自分で言えたらどれだけすっきりする
だろう。しかし今、小玉は誰かと意思の疎通をするのもままならな
い状態だった。手足も自由に動かせないから、筆談もできない。そ
のくせ、頭は依然はっきりしていた。
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︱︱文林がこの状況を知ったら、どう思うだろう。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n8003be/
ある皇后の一生
2016年8月22日07時34分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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