画像を拡大する - 株式会社エス・ハート

宮城代協 第
る。
力していくだけ」と語
代協としての責務に注
課程、代理店賠責など
ら会員増強や保険大学
の意思を引き継ぎなが
多くを語る必要はない
人物といえば、あまり
泰史氏と対談を行った
務局長(当時)の栗山
震保険中央対策本部事
損保協会常務理事で地
険金」の巻末でも、前
2000 億円の地震保
ら天国ではないが、手
までもない。「地獄か
に救われたことは言う
大震災の中でも経済的
険契約者が、未曽有の
氏に説得された地震保
を与えた。当時、小林
にも大きなインパクト
業界だけでなく、地域
念から出た言葉は損保
勧める」という強い信
カしてでも地震保険を
めに奔走した。「ケン
の地震保険契約者のた
支えとなる一方、多く
がらも地域の被災者の
小林氏は1984年
にカーオーディオ関係
た。
届け、多くの賛同を得
店の役割など生の声を
県岩沼市の様子や代理
行った。被災した宮城
て」をテーマに講演も
日本大震災を振り返っ
3月、大阪代協で「東
とだろうか。小林氏は
う言葉を幾度聞いたこ
が神様に思えた」とい
た被災者から「代理店
震災後、取材に当たっ
理店が数多くあった。
時、道場では子どもや
と な っ て い る が、 当
れていた。今は相談役
道場岩沼分道場を任さ
理店を営む傍ら、仙台
真空手を始め、保険代
氏は学生のころから極
大山倍達総裁だ。小林
家がいた。極真空手の
は尊敬する一人の武道
か―。実は、小林氏に
ようにして養われたの
こうした自信はどの
た。
の責任感と自信があっ
対に守るという小林氏
そこにはお客さまを絶
林氏の重視する視点
空手を含めスポーツ
を通した社会貢献は小
た。
だけとなってしまっ
われ、数本の松が残る
け、合宿した施設は失
津波で壊滅的被害を受
地区は東日本大震災の
古や合宿を行った閖上
し、子どもたちと寒稽
息 づ い て い る。 し か
真の自信と誇りが今も
心の中にはそうした極
説いていた。小林氏の
会貢献に当たることを
イドを持って仕事や社
( )年に有限会社、
を立ち上げる。平成元
険会社の研修生を卒
【小林良昭氏プロフ
ィル】1985年に保
◇
ーの姿を期待したい。
協をけん引するリーダ
く元気に明日の宮城代
厳しさを増す中、明る
り代理店経営も一段と
氏。保険業法改正によ
が信条だと語る小林
「ネアカのびのびへ
こたれず」という言葉
行する予定だという。
代会長 小林 良昭 氏
小林氏は東日本大震
災の発生した年、宮城
かもしれない。
の仕事から、自分自身
前会長や武田忠穂顧問
するのではなく、折橋
れまでと違うやり方を
長になったから特別こ
が小林良昭氏だ。「会
代協会長に就任したの
今年度、折橋久昭前
会長の後を継いで宮城
ネアカのびのびへこたれず
県代協地震対策委員長
を合わせて、涙を流し
業、小林保険サービス
として地震保険普及に
東日本大震災では小
林氏の経営するエス・
努め、本紙書籍「証言
平成 (2002)年
消防団O
あ っ た。
水被害に
る。
の第2の原点」と語
か。そこが、いわば私
客さまが何人いたこと
れ。俺を試してくれ」
った。「俺を試してく
スタートは厳しさもあ
た。しかし、一からの
業界へと足を踏み入れ
なければならない」と
くても社会に認知され
氏は「道場でいくら強
で合宿を行った。大山
閖上(ゆりあげ)海岸
導。夏や冬には名取市
イロ五輪にも応援で同
出場するリオデジャネ
め、女子柔道部選手が
ダーズ」の副会長を務
後援会組織「ガッテン
る保険会社のスポーツ
内会の副会長、所属す
現会長に。
員長、副会長を歴任、
CSR委員長、組織委
長、企画環境委員長、
活動では地震対策委員
織・社名を変更。代協
に㈱エス・ハートに組
だ。現在、小林氏は町
Bでもあ
と、一人一人に自動車
常々語り、極真のプラ
学生、大人に空手を指
る小林氏
宮城代協には小林氏
のように、地震保険付
保険を勧めていった。
の力で勝負できる保険
は自らが
帯率100%に近い代
て喜んでいただいたお
被災しな
ハートも津波による浸
89
14
17
・東日本大震災~1兆
小林氏
(第 3 種郵便物認可)
2 0 1 6 年(平成 2 8 年)7 月 2 6 日(火曜日)
(7)