Page 1 ー論文ー九四 『資本論』第二部第三篇の課題と恐慌論 との関連

一論
文1
﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論
との関連についての一考察
火田
一富塚良三氏の﹁均衡蓄積率の概念﹂の検討1
目 次
はじめに
憲
九四
子
おわりに
は﹁過剰蓄積﹂を規定する﹁理論的基準﹂である、という主張について。
皿 ﹁均衡蓄積率﹂とは、 ﹁消費と価値増殖との間の正常な比例関係﹂を保つような蓄積率であり、それ
主張について。
n 蓄積率は独立変数、部門間比率はその従属変数であるという命題はトヵガン説にほかならない、という
をとりえないという側面である、という主張について。
一 ﹃資本論﹄第二部第三篇の再生産論が明らかにしているのは、蓄積額したがってまた蓄積率は任意の値
目巳
品
はじめに
﹃資本論﹄第二部第三篇﹁社会的総資本の再生産と流通﹂は恐慌論にとっていかなる意義をもちうるか、という問
題は、戦後のわが国における恐慌論研究の一つの中心論点をなしてきたが、最近、この問題に関する従来の有力見解
に対して、新たな視点からいくつかの疑問を投げかけた久留間鮫造編﹃マルクス経済学レキシコン﹄⑥︵﹁恐慌1﹂︶
および、それに付された﹁栞﹂が公刊されるに至って、再び論議がまきおこっている。ここで示された従来の見解と
︵1︶
の相違点は、次の三点に要約される。ω ﹁恐慌の一層発展した可能性﹂は、﹃資本論﹄第二部全体にわたって展開
されているのであって、第二部第三篇にのみ見出ださるべきものではない。図富塚良三氏の﹁均衡蓄積率一という
考え方は、蓄積率と部門間比率との関連における﹁顛倒的発想﹂に基づくものであり、その関連は.前者が独立変数、
後者はその従属変数と考えるべきでありその逆ではない︵一ジキシコン﹄⑥の項目冊、小項目9に関連して︶。働 マ
ルクスによって﹁現実の恐慌の究極の根拠︷とされた生産力の無制限的発展傾向と大衆の消費制限との矛眉、いわゆ
る﹁内在的矛盾﹂は、第二部第三篇の問題ではない︵“.資本論﹄第二部第二篇に付された注記に関連して︶..
この見解は、第二部第三篇と恐慌との関連に関する従来の有力な見解 :−恐慌論にとって第二部第三篇がもつ意味
を特別に重視する見解! に対して根本的な疑問を投げかけたものであり、したがって右の諸論点は、いずれもその
当否が明らかにされなければならない重要論点をなしていると思われる。
パカロ
周知のように、富塚良三氏は、久留間氏への﹁質問状﹂ iこの論稿は、H 再生産論と恐慌論との関連について
︵さきの三論点のうち、ωおよび⑥に対する批判︶、口 均衡蓄積率の概念について︵同じく吻に対する批判︶、日
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 九五
一論 文一 九六
︽恐慌の必然性︾の項を設けることの是非について︵﹃レキシコン﹄⑦、﹁恐慌H﹂に関連する批判︶の三項目から成
っている一を公開され、﹃レキシコン﹄の構成およびそれに付された﹁栞﹂での久留間氏の見解を批判された。そ
れに対して久留間氏は、富塚氏の﹁質問状﹂におけるHの項目での問題について﹁回答状﹂を書かれ、富塚氏の見解
︵3︶
を反批判されるとともに、 ﹃レキシコン﹄において示された右記ω、㈲の論点の内容を詳細に述べられた。こうして
︵4︶
現在われわれは、①、⑥についてはその問題の所在を明確に把握することが可能になったのであるが、ωの問題、す
なわち富塚氏の﹁均衡蓄積率﹂という考え方は、いまだ委細をつくして論じられているとは言えず、この考え方に対
する﹃レキシコン﹄での批判の内容もーー久留間氏の﹁回答状﹂では、続稿での主要問題となるべきものであるがー
ー、十分に明らかにされているとは言えない。小論は、富塚氏がその﹁質問状﹂の口の項目で主張されている主要論
点を取り上げ検討することによって、残されたこの働の問題を考察し、あわせて、第二部第三篇、とくに第一二章
﹁蓄積と拡大再生産﹂が恐慌論にとってもちうる意義と限度とを明らかにしたいと考える。
レキシコンの栞﹂恥6、大月書店、 一九七二年九月。以下﹃レキシコン﹄、 ﹁栞﹂と略記する。
︵1 ︶ 久留間鮫遺編﹃マルクス経済学レキシコン﹄⑥︵﹁恐慌1﹂︶、大月書店、一九七二年。同書に付きれた﹁マルクス経済学
︵2 ︶ 富塚良三﹁恐慌論体系の展開方法について一久留間教授への公開質問状1﹂。﹃商学論集﹄第四一巻第七号、一九七四
年七月。以下﹁質問状﹂と略記する。
︵3 ︶ 久留間鮫造﹁恐慌論体系の展開方法について︵これと同じ表題に﹃1久留間教授への公開質問状 ﹄という副題をつ
けて発表された富塚良三氏の論文にたいする公開回答状︶﹂e、口、﹃経済志林﹄第四三巻第三号、第四四巻第三号、一九七
五年一〇月、 一九七六年一〇月。以下﹁回答状e﹂、﹁回答状口﹂と略記する。なお、富塚良三氏は久留間氏の﹁回答状e﹂
に対して﹁量産論と恐慌論あ関蓬ついて−久留騒擾への翁書簡︵その一一!−︶﹂︵﹃商学聾﹄篁暮第二
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一
本論に入る前に、富塚氏の﹁均衡蓄積率﹂とはいかなるものか、簡単に見ておこう。
九七
同﹁再生産表式の構造について1部門構成と蓄積率の関連性を中心にt﹂ ︵同、第九巻四号、一九七八年︶。
討を中心にtD・m・m﹂︵﹃岡山大学経済学会雑誌﹄第八巻三、四号、第九巻一号、第九巻一一一号、一九七七−七八年︶。
︵﹃明治大学大学院紀要﹄第一五集、 一九七七年︶。高木彰.恐慌論の体系構成における問題点一久留間鮫造氏の所説の検
論研究﹄の批判t﹂ ︵﹃経営論集﹄第八号、 一九七七年︶。高橋輝好﹁恐慌の可能性とその一層の発展との関連について﹂
︵﹃讐学雑誌﹄筆六拳喜、充喜年︶.松田弘三﹁﹃恐慌の必然性﹄はいかに﹃論定﹄すべきか−富塚鼻、一﹃恐慌
︵昊阪実塗﹄第二弩、充七葦︶.同﹁﹃資本論﹄第、一部の論理構造と﹃恐慌の藩発展し奇薩﹄について﹂
慌論研究の現状と問題点︵上︶﹂︵﹃経済評論﹄、充七五年δ具︶.松尾純.﹃恐纂体系の展舅法﹄歯す至考察﹂
過程﹄といわゆる星産と消費との矛盾﹄について﹂︵﹃経済論叢﹄第二署第五.六号、死菌年︶.井皇目代子﹁恐
把握の否定論によせて一﹂︵大島雄一・岡松栄松編﹃資本論の研究﹄、日本評論社、 一九七四年︶。角田修一﹁﹃資本の流通
稿には・以上の他に次のものがある.二濃.崖産論と﹃藩震し態慌の可鐘﹄一表式勇ける﹃内在的矛盾﹄
慌﹄書木書店﹄九七歪︶を発毒・れている.なお、﹁レキシコン﹄が羅しや﹄問題に直接関連する、最近発表さ墾に論
七三年粛6︶を、ω、留賠饒連して、﹁資本の流通過程と恐慌﹂︵経轟論学会年報箆号、﹃現代資奎義と恐
︵4︶﹁栞﹂聖の執筆者であ臭繕之介昏、留問題臨連して、.﹃内在的矛盾﹄の問題を﹃再生産論﹄腫せしめる
見解の一論讐ついてi﹃資本論﹄第二響三二の﹃宴書き﹄の考証的検討1﹂︵﹃経済讐研究所研究報告﹄、充
・充七六先月︶を・﹁回答状9に対して﹁再生産論と恐慌論との関藩つい函−久留間教授の翁回答状。に
対する再批判﹂︵﹃商学論纂﹄第充拳喜、充薯年五月.以下﹁甕判﹂と略記する︶を発表さ紮.
一論 文− 九八
ハ ロ
富塚氏は、その労作﹃恐慌論研究﹄の第二章﹁発展した恐慌の可能性﹂のなかで、この概念を﹁定立﹂されている。
すなわち氏は、 ﹁発展した恐慌の可能性﹂は第二部第三篇で明らかにされる再生産の諸条件︵口諸法則︶一とくに
拡大再生産におけるそれ,11の﹁析出﹂によって把握されるものであるとし、 ﹁それによって同時にまた、恐慌の必
然性の基礎的論定への媒介環があたえられる﹂︵﹃恐慌論研究﹄六九頁︶とされるのであるが、そのさい氏は、トウガ
ン批判を念頭におきつつ拡大再生産の諸条件の﹁発展﹂・﹁精密化﹂ ︵同右、七二頁︶の必要を強調され、次のような
議論を展開されている。すなわち、生産部門︵1・H部門︶の構成︵比率︶は、 ﹁技術的柔経済的な関連性﹂“﹁生
産と消費との連繋﹂を表現するものであるから、ブてれは、資本の有機的構成および剰余価値率とともに、 ﹁生産力が
不変の場合は不変とされねばならぬ﹂とされ、この一定の部門間比率を維持する蓄積率を﹁均衡蓄積率﹂、その︵1
.H部門が等しい率での拡大をとげる︶軌道を﹁均衡蓄積軌道﹂とよび、これが、マルクスによって明らかにされた
部門間均衡条件、 ズ﹃−丁ミミ+ミ勘︶月ロ︵︵ギ冬︶のうえに﹁拡張再生産の均衡的進行の条件として付加されなけれ
ばならない﹂︵同右、八九 九〇頁︶、とされる。ツてして、資本主義的蓄積過程は﹁均衡蓄積率﹂というこの﹁条件﹂
を超える蓄積すなわち﹁過剰蓄積﹂,、.一−これは必ず﹁第−部門の自立的発展として現われる﹂ ⋮をおこなう﹁内的
傾向をもつ﹂︵同右、一〇三頁︶ことを明らかにして、第二部第三篇を恐慌の必然性の論証にとっての﹁不可欠の媒介
環﹂ ︵同右、二九一頁︶として規定されるのである。
富塚氏のこのような﹁均衡蓄積率﹂という考え方は、諸論者によって、 ﹁再生産の条件を動学的に発展よ顧﹂たも
の、あるいは、 ﹁﹃生産と消費の連繋﹄という観点から部門構成、1・H部門の拡大率の関係の問題を提越﹂したも
のとして、高く評価されてきた。だが果してそのように言うことができるのであろうか? いったいマルクスは第二
一七一頁︶。
以下、富塚氏の恐慌論展開のか
一章で何を問題とし、何の条件を明らかにしょうとしているのであろうか? あるい は、そこでマルクスは蓄積率と
部門間比率との関連を、どちらを主導的なものとして考察しているのであろうか?
なめともいうべきこの概念を立ち入って検討してみよう。
︵5︶ 富塚良三﹃恐慌論研究﹄、未来社、 一九六二年︵増補版、 一九七五年︶。
︵6︶ 鶴田満彦﹁資本蓄積論争﹂、越村信ご、一郎他編﹃資本論の展開﹄、同文館、 一九六七年、
︵7︶ 井村喜代子、前掲論文、些一、一−九四頁。
1 ﹃資本論﹄第二部第三篇の再生産論が明らかにしているのは、蓄積額したがって
また蓄積率は任意の値をとりえないという側面である、という主帳について。
この論点は、﹁﹃均衡蓄積率﹄の概念を定立することの是非に関する議論と密接に関連﹂︵﹁質問状﹂二六一頁︶して
いる。富塚氏は、蓄積率は独立変数であり部門問比率はその従属変数−.、あるという﹃レキシコン﹄の﹁栞﹂での見解
を批判して、次のような議論を展開される。
⋮社会の総資本の総生産物が左記のような価値的・素材的構成であったとします。
劉①OOOO十窃OO曳+窃OOミー10000ミ\ ︹弁弦、牌唱潭︺
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 九九
800モ\1︵HOOOOO十自NOOOO︶11一〇〇〇﹂、ミ
両部門の不変資本の補填に要する以上の余剰の生帝、手段は
目卜oOOOO+80く十80ミロoo80ミ=、 ︹さ躍“癬︺
{
一論 文一 一C︵︶
これを過不足なく吸収すべき均衡蓄積額は
一〇〇〇§十N㎝Oミ壁n一語Oミ段
となります。現実の蓄積額一一−一⋮⋮−一が、この均衡蓄積額に一致する場合には、その蓄積額が両部門にどういう割
合で配分されようと︵⋮⋮︶、マルクスのいう再生産の条件︹H︵﹃+ミ鱈+墨蕎︶蛙P︵O+墨ら︶︺は充たされます
が、現実の蓄積総額が均衡蓄積額に一致しない場合には、その蓄積額が両部門にいかなる割合で配分されようとも、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
再生産の条件は充たされえません。⋮⋮だから、均衡蓄積率に一致しない蓄積率は、マルクスのいう﹁再生麿み基
本条件﹂を充たさない蓄積率、その意味で﹁不均衡﹂を生ぜしめるような蓄積率だということになるわけです。そ
れゆえ、もしマルクスの析出した﹁再生産の条件﹂の理論的意義を認めるのならば、蓄積率は﹁独立変数﹂、すな
わち独立に任意の値をとりうるという命題は、少なくとも無条件的には主張しえないはずです︵﹁質問状﹂二六五
1六頁︶。
ここでの富塚氏の問題設定は、はじめに社会的総生産物の一定の﹁価値的・素材的構成﹂を所与のものと前提し、
そのうえでそれらの諸要素の転換が過不足なく行なわれ、しかも現存する部門間の比率︵この例では、Hり目11ω旨︶
が維持されるためには蓄積率はいかにあるべきか、というものである。たしかに、このように問題を設定するのであ
れば、蓄積率は任意でありえず、ある一定のものであるほかはない。したがって、もしも第二部第三篇第一二章でも
このように問題が立てられているのだとすれば、 ﹁拡張再生産の均衡的進行の条件﹂として氏が﹁定立﹂された﹁均
衡蓄積率﹂の概念は、 マルクスの拡大再生産の分析の﹁発展﹂ら精密化﹂であり、また﹁﹃均衡蓄積率﹄を析出する
こととマルクスの﹃再生産の条件﹄を明らかにすることとは、殆んど同一事﹂ ︵同右、二六三頁︶だと、言いうるかも
しれない・だがはたして・第二部第三華二一章ではこのよう簡題が立てられているであろうか.これが享考察
されねばならない点である。問題をどのように設定するかは、そこでなにを解明しようとするのかということによっ
て規定されるものであるから、前者を検討することによって同時に、第二一章でマルクスが明らかにしょうとしてい
るのはどのような﹁側面﹂であるのか、という当面の問題もおのずから明確になるはずである。
﹃資本論﹄第二部第三篇第二一章﹁蓄積と拡大再生産﹂ ︵とくに第一節、第二節︶においてマルクスが単純再生産
から拡大再生産への移行の問題を取扱っていることは、窶しがたい妻であろう.ここにわれわれは、蓄積率と部
門間比率・あるいは部開均衡条件との関連を、マルクスがどのように取扱っているかとぢことを如実に知ること
ができるのである。マルクスの論述を見てみよう。
マルクスは次のように議論を進める.社会的再生産の規模の拡大が行なわれるためには、なによりも享、生産資
本の諸要素が従来の生産に必要であった吉も吉多く市場に存奮てい各れば奄ない.いま、追加的労働力の
供給に制限がないとすれば、問題は追加的生産手段である。これが市場に存在し、個々の資本家がそれを購買しうる
ためには、それがすでに年間総生産物のうちに含まれていなければならない。 ﹁剰余価値が資本に転化できるのは、
それをになう剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならない﹂︵﹃資本論﹄第一巻、マ
ルクス”エンゲルス全集刊行委員会訳、大月書店、七五六頁、ヴェルケ版、、一八D七頁。以下﹃資本論﹄からの引用は
すべてこの両者による︶。つまり、年間総生産物を二大部門に分割すれば、単純再生産のように H︵く+ミ︶U目Oで
はなく、H︵思+さ﹀頃○︵同右、第二巻、六三九頁、原典、五て﹂頁︶、あるいはH︵園+ミ︶”目O+一§+目さ
︵同右、第二巻、六四二頁、原典、五二一頁。この等式は、部門間転換条件の別表現である︶でなければならない。
1﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論あ関蓬ついての喜察 石一
1論 文− 一C二
社会的総生産物の諸要素の配列がこのようになっていることによって、1・H部門とも現実にその生産を拡大するこ
とができ、また同時に一での今期の生産拡大によって、次期のHの継続的拡大を保証することになる。だが、このよ
うな一.H部門とも蓄積可能な要素配列は、前期における1部門での現実の蓄積を前提する。今期補填されねばなら
ぬ一〇+目qは前期の1部門の生産物価値に等しい。したがって、今期一〇+口Oを補填した上で両部門とも蓄積が可
能になるために必要な生産手段︵H寒+目ミ偽︶が1部門に残らねばならぬとすれば、今期の1部門の生産物価値は
前期のそれより大でなければならない。そしてそれは、静期にお小か1部門での蓄積によるほかはない,
では、この1部門の先行的拡大はいかにして可能か。追加的労働力が与えられているとすれば、問題は追加的生産
手鑑である.すなわち問題は、この堅いかにして離されるか・である・さらにそれ以前の年度における−での
蓄積を前提することによってであろうか? もし、そのように答えるとすれば、 ﹁⋮⋮事実上、次のようなことに帰
着する、すなわち、生産の増大は、生産が前もって増大していなければ生じえないということ・言い換えれば・どん
な増大も不可能だということである﹂ ︵﹃資本論﹄第一巻、七九七頁、原典、六三八頁︶。だから、問題は、まだ1部
門が拡大していない場合に、いかにしてこの拡大のために必要な追加的−部門用生産手段が薪だbひ↑勝跡ぎか弘か
か、換言すれば、拡大再生産の﹁物質的基礎﹂・﹁物質的前提﹂が、噂純再生産︵価値から見ての︶の内部でどのよ
問題なのだから、生産の拡大は剰余価値の追加資本への転化を条件としており、したがってまた生産の資本基礎の拡大を条
蓄積によらないで.ての生産量を拡大することも、ある限界のなかではできる。しかし、ここでは独目な意味での資本蓄積が
︵8︶第二部第一一一篇霧いては、再生産過程の弾力窪捨象される.﹁⋮⋮笙部で詳しく述べ茱“うに・与えられ並資奔
うにしてつくり出されうるか、である。これが、単純再生産から拡大再生産への移行の際の特有な問題をな弥一、
ハヨロ
ヤ
件としているのである﹂ ︵﹃資本論﹄第二巻、六二〇1一頁、原典、四九七頁︶。
︵9︶この問題は、年間生産を一括して考察するという方法のもとで、﹃資本論﹄第一部第七篇第二一、=章第一節でも論じられて
いる︵﹃資本論﹄第一巻、七五四−七頁、原典、六〇五−七頁参照︶。 マルクスはこの分析に基づいて、これにつづく第二
節﹁経済学の側からの拡大された規模での再生産の誤った把握﹂において、蓄積される剰余価値はすべて生産的労働者の賃
金︵V︶になるというスミスおよびリカードらの誤りを指摘しているが、その十全な批判は、年間の再生産過程の﹁現実の
関連の分析﹂布、行なう第二部第三篇で行うと予告している︵同右、七六九頁、原典、六一七頁参照︶。また、 ﹃剰余価値学
説史﹄nの第一七章﹁りカードの蓄積論、それの批判﹂においても右のスミスおよびりふ、ードの見解を批判し、事実上﹃資
本論﹄第二部第三篇第二一章第一、二節と同様の、単純再生産から拡大再生産への移行の問題を論じている︵﹃剰余価値学
説史﹄ マルクス・エンゲルス全集、第二六巻H、大月書店、六五六一六六四頁、原典、四八六一四九二頁参照︶。ここか
ら、第二部第三篇の課題たるV+Mドグマ批判にとって、移行の分析が重要な意味をもつことが知られるであろう。なお、
この移行の分析のもつ学説史上の意義は、この問題︵V+Mドグマ批判︶にとどまるものではない。この点についてはきら
に、第二部第三篇第二一章第三節の注58を参照のこと。また、久留間鮫造﹁回答状口﹂一の二八!九頁を参照されたい。
マルクスは、この問題を解決するための鍵を、価値の大きさとしては前年度と同じである1部門の生産物の諸要素
の組み合わせの変更に見出した。すなわち彼は、たとえば次のように論じている。
⋮⋮単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには、部門−一.、の生産は、nの不変資本の諸要素をよ
り少なく、しかしそれだけ一の不変資本の諸要■素をより多く生産できるようになっていなければならない。⋮⋮
︵10︶
そこで、 単に価値量だけから見れば!1単純再生産のなかで拡大再生産の物質的な基礎が生産されるという
ことになる︵﹃資本論﹄第二巻、六一五頁、原典、四九二頁︶、
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 一∩﹁三
一論 文− 一〇四
︵10︶ この文章は、文字どおりには﹁単に価値量だけから見れば⋮⋮生産されるということになる﹂というつながりであるが、
すぐ次に引用するところがらも明らかなように、 ﹁単に価値量から見れば単純な﹂という意味に解すべきところである。
また次のようにも言っている。
この︹拡大された規模での︺再生産は、⋮⋮与えられた生産物のいろいろな.要素の組合せの相違またはそれらの
機能規定の相違を前提するだけであり、したがって、価値量から見ればさしあたりは単純再生産にすぎない⋮⋮。
単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくその質的な規定が変化するのであって、この変化が、そのあとにくる
拡大された規模での再生産の物質的前提なのである︵同右、六二七頁、原典、五⊃二頁︶。
このようにマルクスは、1部門の拡大にとって必要な追加的生産手段は、それに先行する蓄積を前提することなし
に新たに造り出されるとした。すなわち、単純再生産の場合にはそのすべてが﹁不変資本10をその現物形態で再び補
−
瞑するべき生産手段だけから成っていた﹂ ︵同右、六一五頁、原典、四九二頁︶ところの剰余価値1のうちの一部分
する具体的労働の形態から1部門用生産手段を生産する具体的労働の形態に転換することによって造り出される、と
を1部門用生産手段に転換すること、したがって、Mを形成する剰余労働のうちの一部を、H部門用生産手段を生産
1
したのである、
︵11︶
このような﹁1の諸要素の違った組み合せ﹂なしには1部門での拡大は行なわれえず、この拡大があらかじめ行な
われることなしにはn部門用生産手段は増産されえず、したがってH部門の拡大は不可能になる.、要するに、それな
しには、 ﹁およそ拡大された規模での再生産が行なわれない﹂ ︵同右、六二六頁、原典、五令︶一頁︶のであり、 ﹁一
般に資本の蓄積が行なわれえない﹂ ︵﹃剰余価値学説史﹄H、六六⊃頁、原典、四八九頁︶のである。だが、一;単
に価値量だけから見れば1!単純な再生産であるのだから、この拡大再生産のための﹁物質的基礎﹂.﹁物質的前提﹂
の生産は、H部門用生産手段の犠牲においてーー1部門の資本家が商品Hへの支出を減少させることを通じてーー行
なわれるほかはない。そしてその結果、両部門間の比率が変化する。すなわちH部門は1部門に対して相対的に縮小
することになる。つまり、社会的生産の継続的拡大のためには、H部門が一時的に1部門に対して相対的に縮小しな
ければならない・そしてそこに憂の羅奎ず穣︶ということに馨わけである.以上が、ここでのマルクスの問
題提起とその解明との大きな筋道である。
︵n︶﹁⋮で︹剰余価値の嘉蓋讐不変資歪転化汽うるかどうかという問題において︺問題になるのは、剰禽働を
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
表わしている働駐極低飢秘愁、すなわち、それが再び生産条件としてこの剰余生産物の所有者である資本家の生産部面には
いっていくことができるかどうかということだけである。ここにもまた、経済的な形態規定にとって使用価値の規定が重要
であるということの一例が示されている﹂ ︵﹃剰余価値学説史﹄n、六六〇頁、原典、四八九頁︶。
このように、マルクスは拡大再生産の場合には斑内部の使用価値の質的規定を重視しているのである。育同須賀義博氏が主
張されているような﹁拡奇生産の畠度﹂論は、それが過度に衰化汽、絶対喫ものとして毒されるならば、誤り
に陥ることになろう。この議論は右の区別の捨象した場合にのみ成り立つものだからである。もちろん生産手段のなかには
両部門に共通な生産手段があるのであって、その範囲内では.経済全体の成長率罵一定の幅“自由度がある﹂ ︵﹄口同須賀義博
﹃再生産表式分析﹄、新評論、 一九六八年、九七頁︶が、しかし、どちらか一方の部門でのみ使用されうるものの方が圧倒
的に多いと考えるべきであろう。例えば、動力装置などは両部門共通でありうるが、紡織機や耕転機などは、 .機械を生産
する機械装置﹂にはなりえない、というように。
︵12︶ 移行の場合、この困難はH部門の過剰生産となって現われる。この消費財の過剰生産は、資本主義社会にあってはH部門
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 一〇五
一論 文− 一〇六
の資本家の損失において解決される他はなく、したがって、再生産過程の撹乱要因を、すなわち﹁発展した恐慌の可能性﹂
の一つをなすことになるのである。この点、 ﹃資本論﹄第二部第三篇第二一章第二節を参照されたい。
富塚氏は、この移行の場合の困難々、、 ﹁部門間資本移動にともなう困難﹂ ︵﹁質問状﹂二五八頁、 二六四頁︶だと述べら
れているが、この場合の困難は、1部門内部の編成替.凡の結果として生ずる困難であって、 ﹁部門間資本移動﹂によって生
ずるものではない。このように氏が述べられるのは、この移行が資本移動によって可能になると考えられているからではな
かろうか︵﹁質問状﹂二六六一七頁、 ﹁再批判﹂六五頁参照︶。たしかに﹁社会的需要構造の変化﹂にともなって、部門間貸
本移動が行なわれるであろうが、どの部門において生産された剰余価値の実現による貨幣で、1部門の剰余生産物が購買さ
れようとも、購買されるべ・、。1部門の生産物h追加的−部門用生産手段が現実に存在していなければ、この移行は不可能で
あって、問題は、これがいかにして新たに造り出されうるかである。この問題は﹁資本移動﹂によって説明されえるもので
はない。
以上から明らかなように、ここでマルクスが行なっているのは、社会的総生産物の一定の﹁価値的・素材的構成﹂
を、したがって、一定の部門間比率を所与のものと前提し、ユ、れに適応すべき、均衡的進行のための条件としての蓄積
率を究明しているのではない、そうではなくて、現存の部門間比率に適応する蓄積率とは異なった任意の蓄積率を、
すなわち蓄積率の一定の変化を前提し、その変化した一定の蓄積率で再生産が継続的に行なわれるためには社会的総
生産物の諸要素の配列がどのように変化しなければならぬかを、すなわち、蓄積率変動の際に充たされねばならぬ社
会的再生産の条件を、・ての際に妥当する法則を究明しているのである。換言すれば、ここでマルクスは、蓄積率を独
立変数とし、部門間比率を妾、の従属変数として問題を設︷、疋しているのである.、
ところが富塚氏は、本節のはじめに見たように、これとは逆に、もともと蓄積率の高低に照応して決定されるはず
の部門間比率を、まず所与のものとして前提し、それに適応する一したがってまた均衡的進行の条件としての∼
蓄積率はいかにあるべきかを問題にされる。すなわち、部門間比率を独立変数、蓄積率をその従属変数として問題を
立てられるのである。そして、そこから出発して、一定不変の部門間比率に適応する蓄積率は一定不変でなければな
らないという結論に到達される。もともと、一定の部門間比率は一定の蓄積率に適応するものとして与えられたもの
であるから、一定の部門間比率に適応する蓄積率は一定でなければならないということは、したがって、現実の蓄積
率がそれに一致すればその限りで何らの撹乱もなく均衡的に過程は進行しうるということは、いわば当然自明のこと
である。それは、なるほどまちがったことではないが、しかし同時に、まったく無意味な、一種のトートロジーにす
ハむロ
ぎない。ところが寓塚氏は、これこそが第二部第三篇でマルクスが明らかにしている﹁側面﹂であると主張され、
﹁均衡的進行の条件﹂として﹁定立﹂した氏の﹁均衡蓄積率﹂こそ、マルクスの叙述の正しい解釈にもとづく、この
叙述の﹁発展﹂だとされるのである。だが、以上のところがら、この概念はマルクスとはまったく逆の問題設定にも
とづいて導きだされたものであることが明らかであろう。
︵13︶ 例えば、H︵勺+ミ︶11目Oを満たすある一定の部門間比率があるとすれば、この場合の﹁均衡的進行の条件﹂としての蓄
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
積率は、ゼロでなければならない。 と乙ろが、そもそも、この H︵﹃+ミ︶口口Oという関係は、 ﹁単純再生産という前提
0いひ暦応﹂︵﹃資本論﹄第二巻、五〇一頁、原典、四〇六頁︶、すなわち蓄積率“ゼ・という﹁前提のもとでは﹂、ン、うなら
、、、、、、、轟
ねばならぬ条件、その場合に妥当する法則として与えられたものなのであるから、それに適応する蓄積率はゼロでなければ
ならない、ということは、まったく無意味な、 一種のトウトロジーにすぎないであろう。
このように、富塚氏とマルクスとの根本的相違は、何を独立変数とし何を従属変数として問題を立てるかについて、
一﹃資本論﹄第二部第ゴ、篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 一〇七
i論 文一 一〇八
氏とマルクスとがまったく反対のことを考えているところにあると考えられるのであるが、そうだとすると、この二
つの問題の立てかたのうちそのどちらが理論的に正しいのか、橡 、一・すれば、現実の再生産過程の正しい理解のために
解明さる必要があるのは、富塚氏の﹁拡大再生産の均衡的進行の条件﹂としての蓄積率であるのか、それともマルク
スの蓄積率変動のさいに充たされねばならぬ社会的再生産の条件、そのさいにつらぬく社会的再生産の法則であるの
か、が問われねばならないことになる。
前にも述べたように、一定の部門間比率に適応する蓄積率は一定であるし、現実の蓄積率がそれに一致すれば、確
かにその限りでは過程は均衡的に進行するであろう。しかし、それは現実の蓄積率が偶々それに一致すればそうであ
るということだけであって、それだから蓄積率は所与の部門間比率に適応しなければならない︵これは事実上、生産
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う や
力一定ならば蓄積率は変化してはならない、ということに帰着する︶、ということになるわけではない。というのは、
そもそも蓄積率は部門間比率によって規定されているのではないからである.、すなわち、現実の蓄積率は、部門間比
率を含む表式を構成する諸要因によってではなく、その時々の種々の社会的必要によって規定されているのだからで
︵U︺
ある、このことは、資本蓄積率を生産拡大率と解せば、資本主義的生産に特有な事態ではなく、超歴史的な事実であ
る。生産力水準が一定であっても、例えば、人口の急激な増加が見込まれるとか、軍備の急激な拡張が必要になると
か等々の場合、それに対応すべく従来以上の率での生産拡大が要請されるであろう。現実がこうであるのに、均衡的
進行のための、所与の部門間比率に適応する蓄積率はいかにあるべきか、と問題を立てることにどのような現実的意
義があるのだろうか。現実に蓄積率は表式を構成する諸要因によってではなく、その外部のその時々の事情によって
規定されている以上、理論的にもそれ自体独立変数として取扱かわれるべきではなかろうか。もちろん、この第二部
第三篇では、具体的に何によってその拡大の必要が生じるか、したがってまた、その必要はどのような動機︵利潤動
機か否か︶に基づくものかは問題にしえないし、また問題にすべきでもない.、ここでの問題は、この必要が生じたと
きに、社会的再生産過程はどのように変化しなければならないか、そしてそこにどのような問題が生ずることになる
かを明らかにすること、すなわち、蓄積率︵U生産拡大率︶の変動を常に伴なって運動している現実の再生産過程を
つらぬく法則の解明を志向する理論を打ちたてることであって、そうしてはじめてその理論によって現実の過程を正
しく理解することができるのではなかろうか。富塚氏の問題設定からは、このような法則の解明は不可能であろうし、
また、その問題究明の結果としての﹁均衡蓄積率﹂の概念も、氏の恐慌論体系にとってはいかに重要な意義を有しよ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
はないように思われる。
うとも、それは現実の事態に無縁な﹁概念﹂であり、したがってまた、現実の理解に役立ちうる理論たりうるもので
補注1
︵14︶ 高木彰氏は、蓄積率が独立変数、部門間比率はその従属変数という﹁命題﹂は、 .超歴史的事態ではなく、特殊資本制的
性格において理解されねばならない﹂︵﹁再生産表式の構造について﹂一六頁︶と述べられているが、蓄積率は表式を構成す
る諸要因によってではなくその外部にあるその時々の︵生産力一定としても生じる︶種々の社会的必要によって規定される
︵汽がその﹁命題﹂の意味である︶、とい≧とは、超歴史蟹態である.あように高木氏奎誉れるのは、あ﹁命
題﹂の意味する内容を、ある期の部門構成は、 ﹁⋮⋮独自的に⋮⋮消費需要とは全く無関係におこなわれる﹂ ︵同右、十五
一六頁︶前期の1部門の蓄積率によって規定される、ということに求められるからであるが︵このような議論が第二部第一一一
篇で論じうるかどうかについては次節参照︶、少なくとも﹁栞﹂および久留間氏の前掲論文では、かの﹁命題﹂をそのよう
な意味で主張されているのではないと思われる。
補注1
1﹃資本論﹄第二部第一一、[篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 一〇九
一論 文一 一一〇
単純再生産から拡大再生産への移行の固有の問題とは、1部門での拡大がまだなされていない場合に、いかにしてこの拡大に
必要な追加的−部門用生産手段が新たにつくり出されうるか、であり、この問題の解答は、価値量としては単純な再生産の範囲
1.第n両部門の不変資本の補填に要する以上の⋮⋮生産手段の生産が、第−部門においてあらかじめなされていなければなら
内での1部門内部の編成替えであった。ところが富塚氏は、この問題の解答を、 ﹃恐慌論研究﹄の七一頁においては、 ﹁⋮⋮第
れとしては誤りである。これでは、 ﹁生産の増大は、生産が前もって増大していなければ生じえない﹂という、まさにマルクス
ない﹂とされた。これは、拡大再生産の進行一般の条件如何に対する解答としては正当であるが、しかし右記の問題に対するそ
がそこで批判しようとした学説︵﹃資本論﹄第二部、注58を参照︶そのものにほかならない。この点を久留間氏は﹁回答状口﹂
︵二九1三〇頁︶において批判されたのである。この久留間氏の批判に対して富塚氏は、前掲の﹃恐慌論研究﹄での叙述が﹁量
的増大﹂を問題にしている、という批判は﹁重大な誤解﹂ ︵﹁再批判﹂六〇頁︶であるとされ、その叙述を﹁偏見なしに読みさ
えすれば﹂、そこでは﹁余剰生産手段を生みだすようなその﹃機能配列﹄の変化﹂、 ﹁生産諸部門間の編成がえ﹂が、拡張再生産
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
の﹁物質的基礎﹂をなすのだ、というにあることを知られるはずだ︵同右︶、と反論されている。しかし、﹁第−部門において﹂、
﹁第1.第H両部門の不変資本の補填に要する以上の⋮⋮生産手段の生産が﹂、﹁あらかじめなされていなければならない﹂とい
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
うことと、 ﹁機能配列﹂の変化、 ﹁生産諸部門間の編成がえ﹂によって、 ﹁余剰生産手段﹂が生みだされうる、ということ、ー
一この二つのことはまったく別の事柄である。富塚氏のはじめの主張を﹁偏見なしに読みさえずれば﹂、それがのちの反論にお
いて氏が説明されているようなことを意味するものだとはとうてい考えることはできないはずである。
さらに、これに関連して富塚氏は、﹃資本論﹄第一部︵﹃資本論﹄第一巻、七五六頁、原典、六〇六頁。本論文一〇一頁に一
ゐ ヤ ヤ
部引用︶のマルクスの叙述を援用され、次のように述べられている。
⋮⋮みられるように、︵右記の︹資本論﹄の箇所において︺︶剰余生産物が﹁すでに﹂新資本の物的諸成分を含むがゆえにの
み剰余価値は資本に転化しうるのである、と述べられている。このマルクスの叙述もまた、﹁蓄積の前に蓄積を前提する﹂の
であるから、 ﹁誤り﹂だと教授はいわれるのだろうか?⋮⋮前掲の私の叙述︹﹃恐慌論研究﹄での見解︺は、..−−さきのマル
クスの叙述と同じく極めて当然至極なことを述べたにすぎず、絶対に﹁誤り﹂ではない︵同右、六二一三頁︶。
だが、マルクスのそこでの叙述も、氏の主張を支持するに役立つものではない。蓄積のためには蓄積に必要な物的諸要素があ
らかじめ存在していなければならないのは自明のことであっザ\それはけっして、そのような物的諸要素がまだ実在しない場合
にそれがどのようにして造り出されうるか、という問題を排斥するものではないのである。蓄積が現実に行なわれるためには追
加的生産手段の増産が必要不可欠であるからこそ、それがまだ現存していない場合にそれはいかにして新たに造り出されうるの
か、ということが問題になるのであり、それこそ単純再生産から拡大再生産への移行の固有の問題をなすのである。この固有の
問題が当面の問題である時に富塚氏が右のようなマルクスの叙述の一部をもちだされるということは、氏が拡大再生産進行の一
般的な条件と移行の場合の特殊な条件とを混同し、移行の場合の独自な問題を独自なものとして設定する意義に、あるいはむし
ろその問題の所在にすらまったく気づかれていないことを自ら示されているわけである。そして、この問題に対する氏の無理解
が、蓄積率と部門間比率とに関してマルクスとまったく逆の問題設定キ、される一因をなしているように思われるのである。
且 蓄積率は独立変数、部門間比率はその従属変数であるという命題はトウガン説に
ほかならない、という主張について.
富塚氏は、蓄積率は独立変数であり部門間比率は・ての従属変数である、という﹁命題﹂について、それは、単純再
生産から拡大再生産への移行の論理を一般化する、という点でも、また蓄積率の変動に伴なって部門間比率の変更が
加ぎかかゆ卦い、とする点でも、 ﹁第−部門の独立的発展﹂は無限界だとするトウガン説そのものである︵﹁質問状﹂
二六こi一頁、二六四1五頁︶、という批判を加えられている。このうち、後者の、﹁なされればよい﹂といわれるい黒
t﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 一一一
1論 文一 一一二
についてはすでに、大谷氏︵﹁資本の流通過程と恐慌﹂一五五頁︶、久留間氏︵﹁回答状口﹂︶の立ち入った批判がある
ので、ここでは前者の、﹁移行の論理を一般化する﹂という点を中心に、氏の主張を検討することにしよう。まず、ト
ウガンの主張とはどのようなものか。当面の問題にかかわるかぎりでそれをみれば、次のようにまとめることができ
よう。
トウガンは、彼の単純再生産の表式と拡大再生産一の表式︵第−表式と第n表式の初年度および二年度︶とを比較
し、ワゲ、こで彼のいわゆるH部門と皿部門との総計︵マルクスの表式ではn部門にあたる︶の縮小によって1部門が拡
大している、という事態に注目し、そこから、 ﹁⋮−資本主義経済においては、商品の需要が社会的消費の総規模と
は、ある意味で無関係である⋮⋮社会的消費の総規模が縮小しながら、それと同時に、商品に対する社会的需要が増
大することがあり得る⋮⋮﹂ ︵新訳﹃英国恐慌史論﹄、救仁郷繁訳、ぺりかん社、一九七二年、三三頁︶という﹁結
論﹂を導きだし、それを一般化して、 ﹁社会的生産の比例的配分﹂さえ存在するならば 1部門間比率の変更さえな
されているならば一−、 ﹁社会的消費﹂から離れてどこまでも1部門が拡大しうるとし、そこから、 ﹃資本論﹄第三
部でマルクスが搾取の実現の条件に社会の消費力を掲げるのは、第二部の分析と矛盾する︵同右、二一八頁︶、と言
うのである。
このようなトウガンの主張に対しては、とりあえず次のように言うことができるであろう。前節で見たように、①
この事態︵H部門の犠牲において1部門が拡大する︶は、 ﹁社会的消費﹂から離れて、その意味で﹁独立的に﹂1部
門が拡大しうる、ということを示しているのではなく、次年度におけるH部門の拡大のためにこそまず1部門が先行
的に拡大しなければならないということ、そしてその拡大は、H部門の犠牲によるほかはないということを、つまり
単純再生産から拡大再生産への移行のために必要な条件、そのさだ妥当する法則を示しているのであって、それは
けっして資本主義的生産に特有なものではなく、超歴史的な拡大再生産の物的条件をなすものである。⑧ したがっ
てまた、この部門間比率の変更は、それが﹁加ぎか加齢わい﹂︵﹁部門間比率が”変化しさえずれば万事OK﹂︶という
ものではなく、移行の場合にはそれが﹁なされねばならない﹂ということ、すなわち、移行が行なわれるための必要
条件だということである。
したがって、 ﹁移行の論理を一般化する﹂とするならば、それは次のようなしかたでなされるのでなければならな
い。すなわち、単純再生産から拡大再生産への移行について明らかにされた条件、そのさいに妥当する法則は蓄積率
の変動一般︵単純再雀から拡大再生産への移行とは、蓄積率がゼ・からあるプラスの数値に変化することで融
て、蓄積率変動の特殊な場合と見ることができる︶の場合にも妥当するものだ、というように一般化することである。
換言すれば、蓄積率が独立変数、部門間比率はその従属変数という﹁命題﹂は、トウガンが主張するのとはちがっ
て、1部門の拡大がn部門の拡大と無関係にその意味で﹁独立的﹂に行なわれうるということを意味しているのでは
けっしてなく・むしろF蔀弥み掛沁ひかかPγ、﹂もまずもって1部門が先行的に拡大しなければならない、ということ
を、そして、このH部門の拡大の要求一1さらに具体的にはそれがどのような率で拡大しようとするのか一−iは、そ
の時々の事情によってきまるのであって、それが何によってもたらされ、決定されるかは、表式の問題ではなく、そ
の外部の問題であるどいうこ菱意味しているのである.このように見るならば、前述2口壕氏の批判は、この﹁命
題﹂に対する誤解にもとづくものであり、的をはずしたものであることは明らかであろう。
︵お︶契塁産がすでに行耄れている場合でも、社会的生産諜の︵3“り結局は第H部門の︶拡大率を高めゑ﹂め窪、
−﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察1 一ゴ一一
一論 文− 一一四
ゆマ“ずもって1部門を従来以上の率で拡大しなければならない。その場合、1部門の蓄積額が﹁余剰生産手段﹂の範囲内であ
れば、単純再生産から拡大再生産への移行の場合のようにH部門の生産物が過剰になることはないが、しかし、従来の率で
の消費手段の増産は一時的であれ望めなくなる︵つまりn部門の蓄積率が一時的に低下せざるをえない︶、という﹁困難﹂
が生ドノることになる。恐慌の問題においてはとくに蓄積率の急激な低下の場合の困難が重要である。この点は、久留間﹁回
答状口﹂二四−五頁参照。
ところで、第二部第三篇の方法的前提のもとで、そもそも、H部門の生産拡大︵少くともその見込み︶から離れて
﹁独立的﹂に、1部門が拡大するという事態を考えうるであろうか? ここでは諸資本の競争は捨象されている。こ
のことは1部門を単一の企業として考えることを許すであろう。この場合には、生産手段を生産するための生産手段
︵10︶は、その企業にとっては自家用生産手段である。この企業が自家用生産手段を増産するのはどのような理由に
よるのであろうか? それは、H部門用生、薩手段に対する需要が増大したからであり、この後者はまたこれで、消費
財に対する需要が増大した結果であろう.、もし増大した需要が︵少くともその見込みが︶なければけっして自家用生
産手段を増産することはないであろう.、H部門に売ることから離れて自家用生産手段を増産する資本家が考えられる
であろうか.現に、資本家が生産を拡大するのは、 ﹁新たに生じた社会的欲望による新たな市場や新たな投資部面な
どの開発﹂︵﹃資本論﹄第一巻、八︹×し頁、原典、六四一頁︶などが現われたときであり、生産の拡大を促がす需要の
パめロ
増加は1一i生産方法の変革の場合を除けばr消費財に対する需要の増加であって、それから独立に生産手段の増加
のための生産増加︵消費財の需要から独立した︶が生じるなどということは、およそ考えられないことである。 ︵改
めていうまでもないことであるが、第二部第三篇の段階での再生産過程の分析では、資本家間の競争の作用は捨象さ
れる。このことは、ここで明らかにさるべき基本的法則の純粋な析出のための必要条件なのである。︶
︵聡︶﹃マルクス類学レキ;ン﹄⑨、﹁恐欝︵肇纂︶﹂の習−の小智﹁・、生産に衝馨与えて.ての蓑の蟹を
ひきおこすものはなにか?﹂を参照。
現実には両部門ともそれぞれ墜の企蓬よって担われているのではないのだから、このような前提そのあ栗
自然だという反論があるかも知れない。しかし、これを複数の企業として考えるア﹂とによって何が付け加わることに
なるだろうかぞうした前提のもとでの考察は、そうした前提をお寒暑察の奎で明らかにされる資本主義的
生産の内的制限が暮本の競詮よつて弗簸されるというこ差明らかにするだけであって、内的制限そのものは、
−部門内部の馨本の撃を鎖することによξ﹂萌らかにされるであろう.個々の資本が市場の関連を見失な
い・﹁生産のための生産﹂に熱をあげ、消費需要から﹁独立﹂して生産を拡大させるが、それによってま萱爵に
対する蒔的霜葉護される、といった雷的な拡蓋程電たらすのは、まさに諸資本の競飽ほか奄蕪.
したがって﹄あ過撃分析するためには、われわれは、諸資本の競婁引きおこす諸契讐分析しなけれ建らな
い・そのよう藷契撃分析す重差しには、このよう鑑程は論じえびも窪のである.そうし藷麗を捨
象してはじめて社会的量産の進行のための茱的諸父樺、それを支配する禁的諸法則の解明−,−それこ・てが第二
部第三藝の課慶のだ−−−が麗肥髪る.﹁第−部門の独立的叢﹂という腿は篁部第二募騨の膿なの
で輪・
︵η︶ト疹ンの馨はごのような第二部第三篇の方法霞奪覆し、こ・しでは蒙凸eれている種々の現実的要男.導入し
て噛めて論じうる賎を∈叫唾私讐れうるあであ象のよ彦考える一こ盤第二部第一二篇の課題についての
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 一一五
1論 文− 一一六
無理解に基づくのだが一ところにある。したがコ一、また彼は、そのような事態をもたらす現実的諸契機を考察に入れない
ヤ ヤ ヤ
で、一般的法則として、 ﹁第−部門の独立的発展﹂を論じるのだから、その当然の結果として、資本蓄積の無限進行の可能
性をそこで﹁論証﹂することになるのではなかろうか。
ア﹁一のようなトウガンの基本的謬見を批判する代りに、 ﹁第−部門の独立的発展﹂という事態が第二部第三篇で論じられう
るという前提のもとで、彼の﹁誤り﹂を指摘しようとするいろいろの試みが見受けられる。例えば、トウガンの﹁誤り﹂
浄、、彼が﹁﹃生産財需要﹄の拡大に支えられた拡大再生産について、﹃均衡﹄が維持されるかどうかという点⑳かにしか着目
しなかったということ そこでは生産が消費との﹃照応﹄関係を破って拡大しているという関連・矛盾⋮⋮を全く無視し
ている﹂ ︵井村喜代子﹃恐慌.産業循環の理論﹄、有斐閣、昭和四八年、 一一八−九頁︶ということに求められる見解、あ
るいは、トウガン﹁批判の核心は、︹﹁第−部門の独立的発展﹂を支えているところの︺資本家の蓄積需要の停滞もしくは停
止の必然性を示すことにある﹂︵置塩信雄﹃蓄積論﹄、筑摩書房、一九六七年、一七四頁︶とされる見解等。いずれも納得し
がたいものといわざるをえない。
第二部第三篇で解明さるべき問題と、その問題の純粋な解明のために必要な方法的限定とに対する無理解は、再生
産の条件、法則としての第−部門の先行的拡大の問題と、諸資本の競争によってひきおこされる、消費需要から離れ
た生産手段の生産という顛倒的な生産拡大の問題との混同をひきおこす。その結果、再生産の現実の諸要因を導入す
ることなくしては論じえないこのような問題を第二部第三篇での問題だと考え、そのような過程の限界の有無をそこ
で論証しようとすることになる。トウガンは、単純再生産から拡大再生産への移行の﹁分析﹂から﹁第−部門の独立
的発展﹂の問題をひき出し、その﹁論理﹂を一般化することによって、その過程の無限性を、したがって、資本蓄積
の無限進行の可能性を﹁論証﹂しょうとする。一方富塚氏は、第二部第三篇で何が問題にされ、また殖純再生産から
拡大再生産への移行の分析で何が明らかにされているのかを問われることをしないで、移行の﹁論理﹂生般集れ
ばトウガンのように﹁第−部門の独立的発展﹂は無限界だということになってしまう、と考えられる。すなわち、1
部門に任意の蓄積率議定するマルクスの仕方では、﹁第暴門は発ら拡張することなく第−部門のみが急速に拡
張してゆくといった﹃拡張表式﹄を展開することは、その場合明らかに可能﹂︵﹃恐慌論研究﹄九九頁︶であり、これ
では﹁トウガン流の想定︹⋮⋮︺に対する批判の論拠を失う﹂ ︵同右︶と考えられるのである。そこで、氏は、マル
クスの蓄積率の設定方法を否定して、 ﹁均衡蓄積率の概念﹂を﹁定立﹂される.、すなわち、これ以上高くなってはな
らないという蓄積率の上昇の限界、したがって資本蓄積の﹁基準﹂を示すことによって、トウガンを批判しようと
し、同時にそれによってまた、第二部第三篇を恐慌に﹁連繋﹂させようとされるのである。
われわれは、このような富塚氏の議論のなかに、トウガンと同次元でトウガン批判をしたローザとの共通点を見出
すことができるゴーザは言っている.﹁マルクスの表式がそれだけ薯察すれば事実上かような︹トウガン流の︺
解釈を許すということは﹂︵ローザ・ルクセンブルク﹃資本蓄積論﹄、長谷部文雄訳、圭目木文庫、下、一九五五年、三
八五頁︶・マルクスの表式そのものに難点があるからだ、と.、また、﹁拡大再生産の表式窪鳶マルクスの理孤弱見
地から吟味するならば、この表式は彼の理論と多くの点で予盾する﹂ ︵同右、三九一頁︶と。
蓄積率は独立変数、部門間比率はその従属変数である、という﹁命題﹂をもってトウガン説そのものだとする富塚
氏の批判は、この﹁命題﹂の誤解に基づくものであることを、私は前に説明したが、以上のように見てくると、この
氏の誤解はたんなる字句の上での咄碗み違えといったものではなく、氏の第二部第三篇の理解の仕方にその根源をもつ
と言わざるをえなくなってくる。換言すれば、右の﹁命題﹂をトウガン説そのものだ、と考えられるところに、まさ
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 一一七
一論 文f 一一八
しく富塚氏のトウガン・ローザ流の第二部第三篇理解が示されているということになる。そして氏の﹁均衡蓄積率の
概念﹂はまさに、このような氏の第二部第三篇理解のうえに︵トウガン・・ーザと同様にそこで資本蓄積限界の有無
が論じうる、という理解のうえに︶立てられたものであり、したがって、マルクスの第二部第三篇とは無縁な概念で
︵18︶
補注且
あると考えざるを え な い の で あ る . 、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
︵18︶ 富塚氏は、 ﹁再批判﹂の五一頁において、 ﹁部門間比率が変化すればよい﹂といっても﹁変化しなければならない﹂とい
っても、 ﹁それほど決定的な相違があるとはとてもおもえない﹂と述べられている。しかし、今まで見てきたところがらも
明らかなように、この相違は、結局第二部第三篇で何を明らかにしているのか、ということの理解に係わるのであり、 ﹁決
定的な相違﹂である。この相違冷、どうでもよいものと考えるところにも、富塚氏の第二部第三篇理解の一端がよく示されて
いるように思われる。
補注H
蓄積率と部門間比率との関連について、久留間氏は、戦前、高田保馬氏が行なった﹁各部門の資本構成と剰余価値率とが一定
されている限り両部門の規模の割合は常に一定でなければならぬ﹂︵久留間鮫造﹁高田博士による蓄積理論の修正﹂、 ﹃恐慌論研
究﹄、北隆館版、昭和二四年、二五二頁︶という、富塚氏と同様の主張に対して、﹁両部門の規模の割合の一定性は、各部門の資
本構成と剰余価値率との一定性のみによっては、決して与えられない。それは更に、前年度における第一部門の蓄積率の一定性
を前提する﹂ ︵同右、二五三頁︶と批判された。久留間氏のこの批判に対して富塚氏は、 ﹁質問状﹂の二七〇1一頁で、口口、こ
の命題は固定資本要因を考慮すれば成立しえない。図 第−部門の蓄積率が一定のまま維持されると何故に翌年度から﹁両部門
の規模の割合﹂が一定となるかの経済学的な論証はなされていない。それは少くとも経済学上の法則というものではない、と批
ヤ ヤ ヤ や
判されている。まず図の問題から見てみよう。
前述の久留間氏の叙述は、前年度における1部門の蓄積率が前々年度のそれと同一であれば、今年度の両部門の規模の割合
は、前年度におけるそれと同一になる、というものであった。富塚氏のいわれる﹁経済学的な論証﹂とは、前々年度の1部門の
ヤ ヤ
蓄積によって増大した︵前々年度と同一の蓄積率によって規定される前年度の第−部門の︵﹃+ミ駕+ミごの︶生産手段を、はた
して前年度のH部門がすべて吸収しうるかどうか、この点の論証がない、ということであると思われる。しかし、その前提のな
かにはH部門が吸収した、ということが含まれているのであって、あらためて﹁論証﹂される必要があるような事柄ではないで
あろう。というのは、前年度の1部門の蓄積率が前々年度のそれと同一であった、ということは、前々年度の1部門の蓄積は、
前年度のH部門の拡大のために必要な生産手段の増産に照応したものであったことを示しているからである。もし、H部門に吸
収されえない生産手段を増産したとすれば、前の蓄積率を維持することにならないであろう。要するに、前々年度の1部門の蓄
積は、前年度のH部門の拡大のために必要な生産手段の増産に照応したものであったことが、ここでは前提されている、という
ことになるのである。
次に田の問題である。ここでの︵高田氏と久留間氏との︶議論の主要な問題は、部門間比率は、ある一定の生産力水準に照応
する資本構成・剰余価値率によってのみ一義的に規定されるのか、それともそれは1部門の蓄積率にもかかっていス・のかどう
か、というところにあった。そして、それは1部門の蓄積率にもかかっている、ということは一つの事実である。蓄積率と部門
間比率との関連におけるこの事実は、固定資本要因を導入すれば変わるというものではけっしてない。問題はまずこの事実を認
めるか否かにあるのではなかろうか.
皿 ﹁均衡蓄積率﹂とは、 ﹁消費と価値増殖との間の正常な比例関係﹂を保つような
蓄積率であり、それは﹁過剰蓄積﹂を規定する﹁理論的基準﹂である、 という主張
について。
﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 一一九
!論 文− 一二〇
富塚氏は、 ﹁均衡蓄積率の概念﹂を﹁析出・定立﹂された﹁意図﹂について、次のように述べられている。
⋮・﹁全般的過剰生産﹂は商品が、たんに﹁消費に対して過剰に﹂ではなく、 ﹁消費と価値増殖との間の正常な
比例関係︵α器ユ。日蒔。<o旨巴ぎ冨N且ω9窪区8窪目毒血<R毛Rε口瞬︶を保つには過剰に﹂生産され、かく
して、﹁価値増殖のための生産が価値増殖にたいして過剰となる﹂ことによって生ずる、という﹃経済学批判要綱﹄
三四七頁の示唆的な叙述の含意は、︽過剰蓄積︾の概念を明確にすることなしには把握しえない、と考え、ああい
う方法をことさら試みたわけです。すなわち、﹁均衡を維持しうべき蓄積率﹂とは、﹁消費と価値増殖との間の正常
な比例関係﹂を保つような蓄積率だ、ということなのです。こういう理論的基準なしには、 ﹁過剰蓄積﹂といって
も、いったい何に対して過剰なのかがはっきりしません⋮⋮︵﹁質問状﹂二六三頁︶。
みられるように富塚氏は、﹃経済学批判要綱﹄三四七頁における、 ﹁全般的過剰生産は⋮⋮︹たんに商品が︺消費
にたいして過剰ではなく、消費と価値増殖との間の正しい比例関係を確立するには過剰に、すなわち価値増殖に対し
て過剰に生産されたために生ずる﹂︵ここでの訳文と挿入部分は富塚氏のもの︶、というマルクスの叙述を氏の﹁均衡
蓄積率﹂概念の﹁想源﹂とされ、この概念とそれを﹁基準﹂とする﹁過剰蓄積﹂の概念とを﹁明確にする﹂ことによ
って、このマルクスのコ不唆的な叙述の含意﹂を把握できるのだ.と考えておられるようである。すなわち、氏の﹁均
衡蓄積率﹂とはマルクスのいう﹁消費と価値増殖との間の正しい比例関係﹂を維持しうる蓄積率であり、これを越え
る蓄積が﹁過剰蓄積﹂だ、というわけである。
だがはたして、富塚氏の﹁均衡蓄積率﹂とそれを﹁基準﹂とする﹁過剰﹂概念とは、右の個所におけるマルクスの
叙述の﹁含意﹂を明確にしたものと言いうるであろうか?
そのように言いうるためには、右のマルクスの叙述についての特定の解釈が容認されなければならない。すなわち、
この個所でマルクスが﹁示唆﹂しているのは、所与の生産力水準に照応する部門構成が蓄積率を規定するとvうこと
、 、 、 ・ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 “ 、 、 、 、 、 、
であり、そのような蓄積率を超える蓄積が﹁愚瓢﹂か静魯とみなされている、ということである。この解釈によれ
ば、 ﹁消費と価値増殖との間の正しい比例関係﹂とは、一定の生産力水準に照応している部門構成11部門間比率のこ
とをさしているということになろう。じっさい富塚氏の解釈はこうしたものである︵﹃恐慌論研究﹄一∩︶二!六頁参
照︶。
それでは、この個所でマルクスはそのようなことを言っているであろうか? 結論から言えば、否である。むしろ
右の解釈とは全く反対に、ここでマルクスが コ示唆﹂どころではなく−明一一一・しているのは、蓄積率の変化が与
えられるともか降応ひで部門構成が変わらねばならぬということ、つまり、所与の蓄積率が部門構成を規定するとい
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
うことである。 ﹁消費と価値増殖との間の正しい比例関係﹂という言葉もこうしたなかで言われているものである。
そこで、以下、マルクスの叙述のなかの問題となる個所について、展開の流れをとらえることにしよう。この個所
は、富塚氏も述べられているように、 ﹁後の﹃資本論﹄第二巻第三篇の再生産表式論の原型ともみるべき⋮⋮一種の
表式分析⋮⋮を承けて﹂ ︵﹃恐慌論研究﹄一〇三頁︶展開されている。次のような﹁一種の表式分析﹂で、 マルクス
は何を問題にしているのだろうか。
%の原料、%の機械類、%の労働者用必需品、%の剰余生産物ii⋮⋮i−と想定したその関係割合にしたがっ
て、われわれは、各A・B・C・D・Eのそれぞれの生産物総額が㎜にイコールのばあい、労働者用必需品のため
の一人の生産者E、他のすべての資本家のために原料を生産する二人の資本家AとB、機械類を生産する一人のC、
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 一二一
1論 文一
藤鶏 邉 悔
一〇〇
HOO
Nま
剰余生産物を生産する一人のDを必.要とする。
計算は次のようになるであろう︵−
愚璃 爵饗︸
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一〇〇
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切︶亘 ﹂P
O︶藤葛燧漆無銭,
国︶愚蜜鐘三家 訪 ﹁ 窪
U︶塑分皿ご煮蚤,
N⊃轟轟“・令・農
:︶。
一二二
身も10だけより少なく費消し、また他の資本家もすべて10だけより少なく費消するであろう、したがって全体とし
だけ、すなわち︽全生産物価値\の矯だけ、つまり剰余価値の半分だけを費消すると仮定すれば、剰余生産者D自
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
は終りにも初めと同様の状態にとどまっており、彼らの資本の剰余価値が増大することはないであろう。後かが捧
産物と交換することのできるその垢すなわち20である。もし彼らが剰余のすべてを消費してしまうとすれば、彼ら
とにのこしておく。他の資本家も同じような関係にある。彼らの剰余価値を構成するものは、彼らすべてが剰余生
びく次期にV労働者必需品にむけるために保存し、さらに20は自分の生活のための剰余生産物の購入用として手も
Dの労働者のための労賃20と交換で手ばなす。そのかわりに彼は、原料40、機械20を交換で手に入れ、20はふたた
めの労賃20、原料︽製造業者︶Bの労働者のための労賃20、機械製造業者Cの労働者のための労賃20、剰余生産者
すなわちEは、10からなる彼の全生産物を、彼自身の労働者のための労賃20、原料︽製造業者︾Aの労働者のた
一bのNNNN
OOoooo
パ め り
てはDは、彼の商品の半分n50だけを売ることになり、彼の営業を再開することはできないであろう。ツμ、こでDが
消費物品を50だけ生産するとしよう。⋮⋮︵﹃経済学批判要綱﹄、高木幸二郎監訳、大月書店、H、三七五−六頁、
原典、三四五一六頁。傍点一前畑︶。
マルクスはここで、次のように叙述を進めている。① まず﹁資本内部の区分﹂︵後出のマルクスの表現︶である
C:V:Mの一定の比率を想定する、ω 次にその﹁関係割合にしたがって﹂、各天×一︶の資本をもつ五つの部門を
おく、⑥ 次に単純再生産の場合の補填関係を述べる、㈲ 次に蓄積率を50%と仮定する、㈲ その結果Dの生産物
の垣が過剰になる、⑥ そこでDが巧に縮小するとする、① すると次年度はこうなる、云々。このような論旨をも
った叙述のなかから、生産力水準←部門構成←蓄積率、という規定関係を読みとることはまったく不可能である。こ
こでは逆に、この場合仮りに50%の率で蓄積が行なわれることになると︵つまり単純再生産から拡大再生産に移行す
るとなると︶必然的に部門構成が変わらねばならないことが示されているのである。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
︵19︶ 以下このパラグラフでは、Dの生産が%に縮小されると仮定した場合、いまや蓄積を含むことになった社会的再生産がど
のように進行するか、ということについて、部分的な展開を試みている。この部分の叙述には若干の論旨不明な点がみられ
るが、ともあれ、単純再生産から拡大再生産に移行する場合の再生産の進行をみようとしたものであって、部門構成が蓄積
率を規定するというようにマルクスが﹁示唆﹂しているとみることは不可能である。
これに続いて、蓄積は生産物諸部分の資本家間の交換によって行なわれるということ、そのさいMは資太.家の消費
元本と追加資本とに分割されるのだということ、これが強調されたのち、富塚氏の﹁想源﹂となった次の叙述が来る。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
価値増殖の本旨は、より大きな価値増殖−−−新たな、より大きな価値の生産−の現実的可能性ということにあ
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 ごゴニ
一論 文− 二一四
る。このばあい次のことは明らかである、−−すなわち、す。へて労働者にとって消費される商品を代表しているE
と、すべて資本家によって消費される商品であるD、そのDとEとがあまりに多く生産してしまうであろうという
こと、一1つまり資本のうち労■働者に支払われるべき部分の割合との関係であまりに多く、それとまた資本家が消
費することのできる資本部分の割合との関係であまりに多く︵︽要するに︾資本家たちが資本を増加させなければ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ならない関係割合がある、それに比較してあまりに多く。そしてこの関係割合はのちに利子で最低限界をあたえら
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
れる︶。一般的過剰生産は.⋮:両種の商品があまりに多く生一産されたことのためにおこる。 あまりに多くとは
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ
消費にたいしてではなく、消費と価値増殖のあいだの正しい関係︹魯ω二。注鴨<R匡犀口乞を確保するにはあま
りに多く、つまり価値増殖にたいしてあまりに多く、ということである︵同右、三七六−七頁、原典、三四六−七
頁︶。
蓄積の﹁現実的可能性﹂が問題だと言い、続いてマルクスは、 ﹁このばあい︹三R︺次のことは明らかである﹂と
して、ご言で言えば過剰が生じる、ということを述べる。 ﹁このばあい﹂というのは、蓄積一般のことでないことは
ヤ う ヤ や
明らかであろう。蓄積が必らず過剰を生むとは言えないからである。それでは﹁このばあい﹂とはどういう場合か?
それは先行する﹁一種の表式分析﹂における論述を顧れば、疑問の余地なく、蓄積に移行する場合、すなわち単純再
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
生産から拡大再生産に移行する場合を意味することがわかる。 ﹁このばあい﹂には、第H部門一 DとE一での過
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
剰が生じるのであるが、それはDとEとの不均衡による相対的過剰生産ではなくて、蓄積への移行の結果としてのH
部門全体の過剰生産なのである。なにに対して過剰なのであろうか? もちろん、前提された蓄積率のもとでの﹁諸
資本間の交換﹂にとって過剰なのである。 ﹁あまりに多くとは−⋮、消費と価値増殖のあいだの正しい関係を確保す
るにはあまりに多く、つまり価値増殖にたいしてあまりに多く、ということである﹂、というのも、このような文脈のな
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
かで読むかぎり、与かかかか欝積率ひ赴どで分再生産にとってこれまでの部門構成のままではH部門が過剰になる、
ヤ や ヤ
ヤ
ヤ ヤ ヤ
ヤ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ
ということを示していることは明らかであって、富塚氏のように、与えられた部門構成のもとでの再生産にとって蓄
積が愚珊だ、ということを言わんとするものとはとうてい考えられない。
さらに富塚氏は、右の部分に続く次の部分をも、自説を裏づけるものと考えられる。
別のことばで言えば、生産力発展のあるあたえられた地点では一︵なぜならこの発展が必要労働と剰余労働と
の割合を規定するであろうから︶−一生産物が−原材料・機械類・必要労働.剰余労働に対応するところの−
部分に分割され、そして最後に剰余労働自身が消費に帰着する部分とふたたび資本になるもう一つの部分とに分割
されるところの・ある固定した関矯合が生ず強資本のこの内的儀念上の区分は、交換のばあだは、ある定
まった制限された比率−−もっとも生産の進行とともにたえず変わるものではあるが が、諸資本相互間の交換
のために生ずるというように現われる︵同右、三七七頁、原典、三四七頁︶。
ここではマルクスはまず、所与の生産力に照応して﹁資本の内的な概念上の区分﹂が生ずることを述べ、次にこれ
が諸資本相互の比率として現われる、としている。前者がC+y+M︵励+㎜︶への四の価値分割を、後者がこれに
対応する諸部門への総資本、総生産の配分を一、心していることは、これに続く次の叙述からも明らかである、
たとえば、%が原料、%が機械類、垢が労賃、%が剰余生産物!そのうち昂はふたたび消費に、舶は新しい生
三五
産にあてられる−−一といった関係割合−−−1こうした資本内部の区分1は、交換では、いわば五つの資本のあいだ
の配分として現われる︵同右、三七七−八頁、原典、三四七頁︶.、
一﹃資本論﹄第二部第三篇の軽と恐慌論あ関讐ついての募窄 一箪細 文一 一二山ハ
ところが富塚氏はさきの引用のうちの、 ﹁生産物が⋮−−原材料、機械類、必要労働、剰余労働に対応するところの
ーー、部分に分割され、そして最後に剰余労働自身が消費に帰着する部分とふたたび資本になるもう一つの部分とに分
割されるところの、ある固定した関係割合﹂という部分について、まことに独特な読み方をされる。氏は、この部分
を次のように解釈されるのである。
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、■ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
生産力の所与の発展段階においては、資本構成・剰余価値率ならびに諦降瀞成︵密生童部貯∼分資本ど杢謄悔ど
の配分比率︶などが決まり、﹁そして最後に﹂︵これらの相連繋する諸条件との関連において︶、剰余価値のうちの
どれだけが蓄積にふりむけられどれだけが消費にむけられるかの割合が決まり⋮⋮︵﹃恐慌論研究﹄ζ三二頁、傍点
一前畑︶、
マルクスがたんにC+y+M︵励+伽︶への区分1このなかには有機的構成、剰余価値率・蓄積率が一、小されて
いる一−を述べているところに﹁部門構成﹂を読み、さらにこの部門構成を含む﹁諸条件﹂によって蓄積率が規定さ
れることが述べられていると読む、その想像力のたくましさには驚くほかはない。マルクスは逆に、蓄積率←部門構
成、の規定関係を示そうとして、まず﹁資本内部の区分﹂をあげ、次に、 ﹁五つの資本のあいだの配分﹂をあげるの
である。さきの部分に続く、次のマルクスの叙述も、それを明瞭に示している。
もし必要労働の資本の不変部分にたいする割合が、たとえば上例のように口%:%どすれば、さきに見たように、
資本家と労働者の両方の消費に役だつ資本は、5の資本−それぞれ一の資本を表わす の%+舶彗垣の資本
1
より大きくなってはならないということである︵同右、三七八頁、原典、三四七頁︶。
これはつまり、蓄積率が50%であれば、部門構成はこれこれでなければならぬ、ということである。
︵2・︶この文単一﹁別の裏弔言えば⋮ある固定−差関係割合が穿る﹂一は原音身が需点を含んでいる.この雰
の原文は次のようなものである。
冒弩昏g毛。幕ヨ>覧㊤コ昏鴨鴨ぎ窪ωa巳2鼻こ震顫箸一。乙⋮内α震ギ。α美身ζ弾。一︵α9口象。ω。註Hα
の一9鼠犀3ωマ。o爵=嘩一覧ミ隷﹃匙1。三ω冥。3。&閃。げヨ暮豊無言蝉ω3ぎ。幕一p。薯。且蒔。門>州σ。鮮ω仁﹃℃一口の釦Hσ。幽什
σ。¢け首ヨ8計ω<R茎ぎすαRき箸。且蒔窪>a。詳国ξω弩巳仁器3。ε一︷一包簿Φぎ臨×。の<。﹃冨犀コ一ω器Fミ。︻一。
﹂。&ω。﹃=。雲3α凶。ω霞。富貴匿;。一σω二p。肖p8↓Φ一一し震αR囚。・置巨幽。口四口﹃。目塗F¢pα。一コ。ロ四口α増。ロ・
αo弓ξ一〇αO弓N但民国巳什鉱毒片聾
みられるように・この文章にはき戴嵩§臼織hに対応するき鳥蕊辱§臼虹、がなく、この山一“ゆ一“では意味が通じない。こ
の鷺“醤昏§刈.無、は次の個所にあるべきものが書き落されたものと考えられる。
■■占巳象。ぎ幹8<震﹃警急の誓貧層ミ。旨旨﹃け。洋舞ωマ。身ζ嘗恥詮§﹃匙一。耳ω℃唱。。ず①コ伍幻。げヨ讐。H一国一・
宝器。三見旨﹄。薯。注置忠>3窪茎§氏無ミき“ミミ醤1qミ句㌣恥q香肉醤§ω。︻巳βω曽芒。白け⋮
また、この叙述では、剰余価値率が生産力の発展によって規定されるという理由によって、生産力の所与の地点では、生
産物のC+V+Mの分割のみならず、Mの響響雰割箸﹁ある固定ンに関係割合が生ずる﹂となっており、梨価値
率は落率を義的規定するかのように蓼“れることになる.だが、梨価値率轟と響の分割比率を規定するもので
はなく、分割さるべきもとの大きさ、すなわち剰余価値量を規定するだけである、剰余価値量が大になればより大なる率で
蓄積しうる可鍾が与えられるという意味で籍積率影響を与えるであろうが、しかし梨価値率籍積率を義的窺
定するものではない﹄﹂うしをとからす段、落率に関する﹁あ論定し畠係割合が等る﹂という文句援切でな
いように思われる。このように種々の問題点を含む文章であるが、しかし、ここでマルクスは資本内部の区分、炉、問題にして
いるということは明らかであって、けっして富塚氏の解釈を許すものではない。
1﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察− 二一七
一論 文− 一二八
以上の考察からわかることは、 ﹃経済学批判要綱﹄におけるマルクスの叙述と富塚氏の﹁議論﹂とはまさに正反対
のものであるこど、前者はむしろ、 ﹃資本論﹄第二部第三篇第一二章での、単純再生産から拡大再生産への移行どそ
のさいの困難との問題そのものを論じていると見ることができるのであって、久留間氏の見解どマルクスの見解との
一致を、久留間氏のマルクス解釈の正しさをこそ示すものだ、ということである。マルクスの右の叙述と富塚氏の議
論との関係を、前者は後者の﹁想源﹂となったもの、と考えることはなかなかむずかしい。むしろ逆に、後者が前者
についての富塚氏の解釈の﹁想源﹂であったと考えるほうが納得が行く。ともあれ、富塚氏とマルクスとの相違は、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
おおいがたいものと言わざるをえないのである。
︵飢︶
, ︵21︶ 富塚氏の﹁均衡蓄積率﹂概念は、マルクスのいう﹁消費と価値増殖との正しい比例関係﹂に結びつきうるものではないこ
とは以上のとおりであるが、かりに氏のこの概念が﹁消費と価値増殖との正しい比例関係﹂を維持しうる蓄積率なるもので
あることを容認し仁としても、ただちに生じるであろう次の疑問を指摘しておく必要があろう。氏の﹁過剰蓄積﹂の﹁理論
的基準﹂は﹁均衡蓄積率﹂であるから、 ﹁均衡蓄積率﹂が維持されるかぎり﹁過剰蓄積﹂は生じないはずである。そういう
状態を氏は﹁均衡蓄積軌道﹂と呼ばれるが、この軌道は、当初x%の﹁均衡蓄積率﹂で出発したのち、以後このx%が維持
されていくというものである。この持続はいうまでもなく、資本の有機的構成に変化がないかぎり、継続的にVをx%ずつ
増加させていく。したがってこのx%が労働人口の増加率を上回るならば、遅かれ早かれ﹁過剰蓄積﹂という事態が生ぜざ
るをえないであろう。﹁人口の絶対的増加﹂は﹁絶えず進行する蓄積過程﹂の﹁条件﹂であり﹁基礎﹂なのであるから︵﹃剰
余価値学説史﹄H、六四六頁、原典、四七八頁︶、これとまったく無関係に設定された﹁均衡蓄積率﹂を﹁過剰蓄積﹂検出
の﹁基準﹂たらしめることに、どのような意味があるのであろうか。なお、この点については、久留間鮫造﹁回答状口﹂の
二二一二三頁、および、大谷頑之介﹁資本の流通過程と恐慌﹂一六一頁、を参照されたい。
お わ り に
以上・﹃資本論﹄第蔀第三纂三章﹁蓄積と拡大再生産﹂において、何が解明されているのかという膿を中
心に・壕氏の﹁均衡蓄積率﹂の概念を検討してきた.限定された視点からではあるが、ここで私は、﹁拡大再生産
の均衡的進行の条件﹂として﹁定立﹂された氏のこの概念は、マルクスの﹁再生産の条件を動学的に発展させ﹂たも
のと言いうるものではない、ということ、それはマルクスとはまったく逆の問題設定から導き出されたのであり、現
実の事態に何の根拠ももたず、したがってまた、それを﹁理論的基準﹂としては﹁過剰蓄積﹂を把握することはでき
ない、ということを明らかにしょうと試みた。
富塚氏が、拡大再生産の条件は部門間均衡条件だけでは不充分だとして﹁均衡蓄積率の概念﹂をマルクスの分析の
ヤ
﹁発展﹂ら精密化﹂として﹁定立﹂されたのは、第二部第三篇において、 ﹁﹃全般的過剰生産﹄となって現われるべ
ぎ、 ﹃不均衡化﹄の条件そのもの﹂が﹁析出﹂︵﹃恐慌論研究﹄三〇五頁、傍点−前畑︶されうるはずだという認識に
基づいているように思われる。そもそも第二部第三篇において明らかにされている再生産の条件がこのような性質の
ものであるのかどうか、すなわちそれが充たされなければ必ず﹁全般的過剰生産﹂になるといったものであるのかど
うか、という問題は、従来、再生産の条件を﹁法則﹂として理解すべきか否かという問題として論じられて来たので
あ勧癬、本稿ではこの問題について直接取りあげることはしなかった。しかし、本稿での検討だけからでも少くとも
次のようには言うことができるであろう。すなわち、このような第二部第三篇に対する認識と、第二部第三篇にこの
ような内容を求める﹁恐慌論体系の展開方法﹂とが、本来マルクスがそこで解明している内容を見過し、あるいはそ
一﹃資本論﹄第二部第三篇の課題と恐慌論との関連についての一考察一 . 二一九
一論 文− 一三〇
れを重要でないものとして閑却するという結果をもたらすようなものであるとするならば、この篇に対するそのよう
な認識、また﹁展開方法﹂そのものが、再検討を要するのではないか、と。
ヤ ヤ
︵22︶ この問題についての富塚氏の見解一,再生の産条件は法則を意味すると同時に再生産の正常な進行を制約する恥郷条俸を
も意味するという一について、水谷謙治氏はこのような見解が﹁いかなる主張と結びつき、またいかなる論拠と意味内容
で把握されているか﹂︵﹁﹃再生産論﹄の課題と意義︵下︶﹂、﹃立教経済学研究﹄第二九巻第四号、昭和五一年、一八二頁︶と
いう観点から右論文で批判的に検討きれている。
︵脱稿 一九七八年八月︶