Nara Women's University Digital Information Repository Title 「旅する巨人」の京都論: 宮本常一は都市を, どう眺めたか? Author(s) 内田, 忠賢 Citation 内田忠賢: 奈良女子大学地理学・地域環境学研究報告, 2010, 7号, pp. 77-84 Issue Date 2010-03-30 Description URL http://hdl.handle.net/10935/2704 Textversion publisher This document is downloaded at: 2016-08-17T13:59:52Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 「 旅す る巨人」 の京都論 :宮本常-は都市を、 どう眺めたか ? 内田忠賢 1.地理学出身の民俗学者 「 旅す る巨人」 と称 される宮本常- ( 1 907 ( 明治 40 )∼1 9 81 ( 昭和 5 6) ) は、地理学出 身の著名な民俗学者である。地理学出身 とい うことは、著名人としての彼の履歴の中では、 ほとんど知 られていない。山口県の周防大島で生まれ育った宮本は、地元の西方尋常小学 校高等科を卒業後、1 6歳で大阪に就職 した。逓信講習所を経て、大阪高麗橋郵便局に勤務 したが、勉学の思いが強く、天王寺師範学校 ( 現在の大阪教育大学)第二部および同 ・専 攻科にて、勤労学生として、地理学を学んだ。その後、関西で、小学校教諭 ( 1 9 2 9( 昭和 4)∼1 93 9( 同1 4)午)をしながら、農山漁村を調査 して回っている。 宮本が著名な民俗学者であることは、その膨大な著作により、誰 しも認めるところであ る。未来社 ( 出版社)がライフワークとする宮本常-著作集の刊行は、宮本の死後、3 0年 弱を経て、5 0巻を越えるものの、遺 された原稿の多 さもあ り、未だに完結 していない。著 作集を編む作業が中断されないことは、一般読者だけでなく、編集者にも、熱心な宮本フ アンがいることの証左であろう。 一方、アカデ ミズムの世界では、官本の研究や著作は、必ず しも評価が高 くないことは、 よく知 られる。その内容よりも、宮本の作品に、いわゆる論文調のものがないことが、大 きな理由らしいが、愚かな話である。その成果は、いわゆる 「 民間学」 とも称 され、網野 善彦 ・安丸良夫 ・鹿野正直 ・鶴見俊輔 ・鶴見良行 ら、アカデ ミズムとは一線を画 し、庶民 の生活に視点を置き続けた学者たちにより、その価値を絶賛 され続けた。 最初に、筆者は、わざわざ 「 地理学出身の民俗学者」 と書いた。民俗学は、今でこそ、 アカデ ミズムの一端に何 とか席を確保 したものの、長年、民間の学、在野の学 として、好 事家の趣味あるいは郷土史家の好学 と位置づけられてきた。 したがって、いわゆる学歴 と は無関係な研究活動である。地域で展開する庶民生活-の関心 と、それを記録 し、明 らか にしようとす る意欲 ・熱意だけが勝負 どころとなる、ある意味、純粋な学問研究である。 それに対 し、地理学 とい う分野は、 日本では明治以来、京大 ・東大等の帝国大学や高等師 範学校を根城にするアカデ ミズムの学 として生き延びてきた。いまだに、出身校がものを い う世界である。師範学校出の宮本による地域研究が、地理学ではなく、やは り民俗学 と して評価 されてきたのは、幸いと言えよう。独仏の地理学を直輸入 し、応用 してきた近代 の地理学 と、宮本の、良い意味で泥臭い、地を這 うような地域調査 とは、やは り相容れな い。 相容れない どころか、逆に、宮本の調査報告、旅の記録、古老か らの聞き書き、エ ッセ イの膨大 さは、アカデ ミズムに属する地理学者では、決 してなしえない偉業であった。そ の詳細については、ここで語るには、著作があま りに膨大すぎ、また、筆者の力量では措 -7 7- ききれない。第 28 回大宅壮-ノンフィクション賞を受賞 した佐野真一 『 旅する巨人 :宮 本常- と渋沢敬三』 ( 文峯春秋 、1 996 年) とい う、綿密な取材から、ジャーナ リス トの佐 野が措いた良質のノンフィクションがあるので、そちらを参考にされたい。 2.宮本に対する批評の少なさ 前述 したように、宮本の業績は、その膨大な著作の割には、アカデ ミズムの世界での評 価が、 とても低い。 したがって、研究者 としての宮本に関する評論、宮本の研究に対する 批判は、意外なほど、少ない。民俗学の祖、柳 田国男に関する膨大な評論に比べれば、な いに等 しい。官僚時代からアカデ ミズムとの接点が多 く、実際、アカデ ミズムに多大な影 響を与えた柳 田は、様々な分野か ら、高い評価 と、将来性を含む批評を与えられ続けた。 「 山人」 ( 農民に対する山の民の存在)、「 海上の道」 ( 南方からの人々の移動が 日本文化を 形成)、「 蛸牛考」 ( 言葉は、京都か ら地方- と同心円的に伝播)など、ダイナ ミックな 日 本文化論を、柳田は次々と発表 した。それに比べ、宮本は、どうだろ う。著作の膨大 さで は、柳 田に匹敵する。宮本の著作は、その数でいえば、少なくとも、柳 田の弟分、折 口信 夫を凌いでいる。また、調査歴では、 どうだろ う。全国各地か らの通信 ( 調査報告)を、 書斎で学説に練 り上げた柳 田と、1年のほとんどを調査旅行で過 ごした宮本では、およそ 比較にならない。 アカデ ミズムからの批評の少なさは、宮本の文章の簡明さ、論文調を避けた文体による ところが大きい。宮本の文章には、難解な言い回 しはなく、参考文献、注釈が、ほとんど ないため、学術論文 とは見なされてこなかったのである。一般読者 を想定 しているため、 実証のための、過剰な論理展開を意識的に避けている。 また、一般的な物言い、抽象的な物言いを嫌い、それぞれの地域に密着 した記述に拘っ たことも、アカデ ミズムにしがみ付 く学者たちからの評価を下げたようである。地域に密 着することが、地域研究の真髄のはずなのに、おか しな話である。柳 田国男のような大名 旅行的な調査を拒否 し、宮本は、行商人 と間違われなが ら、4 千 日を超える民俗調査を、 旅の空で過 ごした。恩師の渋沢敬三をして 「日本列島の白地図の上に、宮本 くんの足跡を 赤インクでたらす と、列島は真っ赤になる」 と言わしめた。晩年、親交があった作家の司 馬遼太郎も 「日本の山河をこの人ほどた しかな目で見た人はす くない」 と驚嘆 したとい う1)。 宮本に対する、本格的な評論 ・評伝の噂矢は、かな り遅 く、没後 1 4 年 目に出版 された 長浜功 『 紡径のまなざし :宮本常-の旅 と学問』 ( 明石書店、1 995年)である。教育学者 の長浜によれば、宮本に対する学問的な批評のなさについて、 1 :著作集が完結せず、「 宮 本」学の全体像が定まらない、 2 :宮本の後継者 よる 「 宮本」再評価がない、 3 :宮本の 学歴か ら、学界が相手にしない、 4 :庶民生活を肯定的にとらえる 「 宮本」 学は保守反動 的 と考えられてきた、 とい う4点を挙げている。特に、第 4点は、興味深い。庶民の暮 ら しの歴史を、否定的ではなく、肯定的にとらえようとした宮本に対 し、「 革新」 を自称す る教育学者や歴史学者が、保守反動 とい うレッテルを貼ったとい う。民衆を、権力による - 7 8- 搾取対象 とのみ壊小化 し、強引に理解 しようとした、戦後の社会科学に対する、長浜によ る批判でもある。た とえ、貧 しかろ うと、庶民の暮 らしには、前向きな、明るい未来があ るとい う ( 宮本の)戦前戦後 とも一貫 した信念を、机上の空論に耽 る社会科学者たちは、 保守反動だ と判断 した とい うのが、長浜の所論である。筆者 も同感である。 さて、宮本が書いた文章のみに頼 った長浜に対 し、官本の仕事の背景 となった地域や 人々を丹念に取材 して、裏を取った作品が、先に触れた佐野の著作である。佐野の 『 旅す る巨人』について、筆者は、以前、書評を書いたことがあ り2)、ここでは触れない。また、 この著作の補遺版が 『宮本常-が見た 日本』( NHK人間講座テキス ト、 日本放送出版協 会 、2000 年)である。 この冊子で、佐野は、「 高度経済成長 とい うものが、 日本列島の風 土 とそこに暮 らす人び との上に、何をもたらし、何を失わせてきたのか、宮本が提唱 して きたものの功罪をも検証 しつつ、いまあらためて 「 宮本常-が見た 日本」 と 「 忘れ られた 日本人」を訪ねる」 ( 「 宮本学」-の招待 ( 序) )と述べ、「 消え去る日本」 と 「 新 しい 日本」 を目にした宮本が、何を伝 えて くれるのかを論 じた。 なお、宮本の人生や業績については、彼の生前に出版 された、米山俊直 ・田村善次郎 ・ 宮田登 ( 編)『民衆の生活 と文化』 ( 未来社、1 97 8年) 、「 官本常-特集」 ( 生活学報 1 0号、 日本生活学会 、1 97 8 年) 、および、没後に刊行 された、宮本常-先生追想文集編集委員会 ( 編)『 官本常- :同時代の証言』(日本観光文化研究所、1 9 81年) 、「 宮本常-先生追悼号」 ( 生活学報 1 8、日本生活学会 、1 981年) 、「 宮本常-先生追悼号 ( 正 ・続)」( 未来 179・1 80 号、未来社 、1 981年) 、「 宮本常-追悼特集号」 ( あるく ・みる ・きく 174号、近畿 日本ツ ー リス ト日本観光文化研究所 、1 9 81年)などに詳 しい。 3.宮本が避けた都市論 宮本が生涯を賭けて記録 したのは、農 山漁村の暮 らしである。一方、宮本は、都市につ いて、ほとん ど記録を残 していない。 より正確に言えば、宮本の撮影 した膨大な写真資料 が、いまだ整理 されつ くされていないようだが 3)、それ ら写真 を除けば、都市生活を記録 した文章は、ほとん どない。 この事実は、管見の限 り、誰 も指摘 していない。 大阪で暮 らした 6年間、渋沢敬三 ( 1 896-1 9 63) のアチ ックミュージアムで過 ごした戦 前の東京での 5年間をは じめ、戦後の大部分を、渋沢邸ほか、宮本は東京に拠点を置いて いる。渋沢 とは、学者 となる自分の夢を宮本に託 し、宮本の調査研究を支援 した政財界の 大物である。 しば しば帰った郷里 ・周防大島や 、1年の大部分を調査旅行 として過 ごした旅先の村々 は、宮本の人生や研究を大きく規定するが、それでも、大都会で過 ごした経験を、彼は何 故、積極的に記録 しなかったのだろ うか。 この事実は、宮本が意識的に、都市を論 じるこ とを避けた としか言いようがない。 「 忘れ られた 日本人」 は、都市には見出せないのだろ うか。 宮本が都市について言及 した数少ない作品に、1961 ( 昭和 36)年、慶友社か ら公刊 され た『 都市の祭 りと民俗』 ( 著作集では、第 27巻 ( 1 982年)に収録)がある。 しか し、著作 17 9- 集版の解説で、宮本の愛弟子 ・須藤功が記す よ うに、 「 それ ら ( 各県の主要都市の祭 りと 民俗)について深い堀下げを試みよ うとしたものではなく、概説にとどまっている」 ( 311 頁) 。 しかも 「 この著書は宮本常- 自身が 自分の足で歩いて見て聞いて考えて執筆 した部 分が少ない」( 31 7頁)のである。この本 と対になるのが、『日本祭礼風土記 ( 善 3巻) 』( 慶 友社 、1 9 6 2-6 3年、著作集未収録)であるが、こちらでは、都市ではなく、村の祭礼を優 先 して紹介 している。 宮本が都市および都市生活について、まとまった記述を した著作は、今回、検討する 『 私 の 日本地図 1 4 京都』 ( 1 975 ( 昭和 5 0)年、同友社占以下、『 京都』)だけである。農山漁 村に深い愛情を示 した宮本が、その対極にあるような、千年の古都、京都の街 を、 どのよ うに、歩き、見て、考えたかは、非常に興味深い。東京ではな く、京都 を扱 ったことは、 むろj u , h宮本の著作の多 くと同 じよ うに、執筆要請による部分が大きい と思われ るが、そ れでも、宮本の眼に映った都市については、論 じる価値があろ う。 ちなみに、『 私の 日本地図』シ リーズは、1 96 0 -7 0年代に宮本が書き下ろし、同友館か ら出版 した地域 もの ( 全1 5巻)である。彼が生涯、実践 し続けた 「 あるく ・みる ・きく」 とい う調査スタイルの集大成 とも言われる。全 1 5巻の題名だけを列挙すると、 1 「 天竜 川に沿って」、 2 「 上高地付近」、 3 「 下北半島」、 4 「 瀬戸内海 Ⅰ 広島湾付近」、 5 「 五 島列島」、 6 「 瀬戸内海 Ⅱ 芸予の海」、 7 「 佐渡」、 8 「 沖縄」、 9 「 瀬戸内海Ⅲ 周防大 島」、1 0「 武蔵野 ・青梅」、ll 「 阿蘇 ・球磨」、1 2「 瀬戸内海Ⅳ 備讃の瀬戸付近」、1 3「 萩 付近」、1 4「 京都」、1 5「 壱岐 ・対馬紀行」である。瀬戸内海、佐渡、対馬な ど、宮本が得 意 とし、彼の名作を生んだフィール ドも含まれているが、そ うでないフィール ドも目に付 く。全 1 5巻の構成を見れば、出版社 と宮本の駆け引きが、何 となく推測 され る。 4.宮本にとっての京都 『 京都』の記述の端々に、宮本 と京都の街の関わ り、あるいは、関わ りのなさが、散見 される。た とえば、様々な機会に、彼が京都を訪れたことが、触れ られている。たとえば、 昭和 21年の塩業研究会 ( 本書 49-50頁)、昭和 47年に開催 された 日本文化の国際研究会 読 ( 7 2-7 4頁)、翌年に開かれた 日本民族学会 と日本人類学会の連合大会 ( 7 4-7 5貢)の よ うな、宮本には似つかわ しくない公務 とでも呼ぶべき会議を主 目的に、京都に立ち寄っ た。あるいは、宮本の若い頃、大阪時代ではあるが、昭和 2年に友人を弔 うため ( 23 4237 -23 8頁)、京都 を訪れた。 ところが、で 237頁)、その 5年後の句会に参加するため ( ある。宮本の真骨頂、庶民の暮 らしを 「 あるく ・みる ・きく」ためにだけ、京都を訪れた 記述を見出せない。むろん、一旦、京都の街 を歩き始めれば、 「 あとがき」にもあるよ う に、 「 できるだけ電車やバスにはの らないで歩 くことに したのである。つ とめてあるいた とい うのではなく、あるいているといろいろのものにぶつかる。その一つ一つが考 えさせ られる」 ( 2 48頁)宮本であったが、「 町中をあるいていて物を聞 くことはなかったが、田 舎道-出ると、よく声をかけて話をきいた」 ( 同) とい う。宮本 フアンである筆者の邪推 だが、実は、彼は京都の街が苦手だったのではないだろ うか。佐野真一が 「 旅する巨人」 - 80 - と名づけたように、宮本の人生は、庶民の暮 らしを訪ね歩き、その素晴 らしさ、力強 さを 紹介す ることがすべてであった。 しか し、『 京都』では、街の人々の生活 を知 るためにだ け、京都 を繰 り返 し訪れた とは、読み取ることはできない。 もちろん、宮本 も 「 この記録は一人の田舎者が京参 りを した見聞記」 ( 5頁)、「 京都 とい うところは京都 の中にいて京都 を見るのではな く、京都 の外にいて京都 を見 ることも重 要」( 2 51頁) と書いている。 しか し、地域の普通の人々か ら聞き書きした内容を重ねあわ せ、地方文書ほか、歴史的な背景を裏づける資料か ら肉付けし、整理 した上で、小難 しい 言葉 を慎重に避 けなが ら、ひたす ら紹介す るとい う 「 宮本 もの」の魅力が、 この本では、 十分発揮 された とは言いがたいように思 う。王都京都では、千年以上にわたる庶民の歴史 が重層 しているだけでな く、歴史の表舞台を当時の権力者たちが占めているため、農 山漁 村に 「 忘れ られた 日本人」の姿を見出 してきた宮本 にとって、正直言えば、京都は魅力 に 乏 しい街だったのかもしれない。「 あとがき」に、「 京都についてのくわ しい知識に乏 しく、 都名所図会 ・京都の歴史、京都庶民生活史 ・都市生活の源流 ・京都府の歴史 ・日本仏教史 をは じめ林屋辰三郎教授の諸著にはずいぶんお世話 になった。いちいち引用個所 をあげな いが感謝の意を表す る」 ( 2 51頁) と、博覧強記な宮本に しては、弱気である。なるほ ど、 平安時代か ら江戸時代に至る、京都の街の歴史について、宮本オ リジナルの見方、考 え方 が前面に出ていない記述が少な くない。 だか らと言って、『 京都』の評価が下がる訳ではない。宮本は、京都の街 をダシに して、 農 山漁村 を含む、 日本の庶民の生活文化 を紹介 しているか らだ。た とえば、 「 砥圃付近」 ( とい う章を取 り上げてみ よ う。砥園の神 ( 牛頭天王)、つま りスサノオ 『 京都』では 「 ス )を紀る八坂神社を紹介す る際には、八坂神社 については最低限の記述に止 め、 サノオノ」 彼の故郷、周防大島にある砥園社や砥園祭 りの様子 を詳 しく紹介 し、また、全国各地での 23-31頁) 。 砥園信仰 を比較す る ( 「 砥園祭は京都やふるさとだけでなく方々でおこなわれていた。そ して愛知県から長野県にかけては砥圃祭 と いわずに天王祭 とか津島祭 とかいっている。 ( 中略)名高 くにござかなものをあげてみると、九州では鹿児島県 の加治木、佐賀県の小城、大分県の臼杵 ・中津、福岡県博多の櫛 田神社の砥園山笠、久留米、小倉、山口、島 根県津和野、鳥取県米子市、広島県尾道、福山市鞠などが京都か ら西におこなわれているものであ り、京都か ら東では愛知県津島市の牛頭天王祭、岡崎市の菅生祭、長野阿南町の津島祭、さらにその東-ゆくと、千葉県 佐原の砥園などがある。 したがって砥園祭はひろく日本に分布 していると言われつつも西 日本に濃 く、東 日本 に うすいことがわかる。また、この祭は 日本各地におこなわれている夏祭の源流 といってもよいのではないか と思 う。夏祭は多 く厄病除けの祭 としておこなわれ 、 砥園は厄病を頑 う神 として尊ばれた。破いは多 くミソギ の形式でおこなわれ、 ミソギは水を必要 とし、砥園祭は水のほとりでおこなわれるものが多い」 ( 2 5 -2 6頁) 西国札所の 「 六角堂」を紹介す る章でも、宮本の個性は発揮 される。四国山中の梼原 ( ゆ すは ら)、彼 の名作 「 土佐源氏」 の舞台 となったムラでの、巡礼に出た武士についての話 に展開 し、前近代の旅 を論 じることになる ( 11 5-11 7頁) 。 - 8 1 - 「 近頃は三十三ヶ所をまわる人も少なくなったが、明治時代まではそ うい う人たちが多かった。西国三十三ヶ 所をまわるのはいろいろの理由によったのであろ うが、私の郷里の人たちで西国をまわったことのある人たち は広い世間を見てくるのが主な目的であった。巡礼の旅 といえば金もかからず、人 も親切、その上、疑いの 目 1 1 5-1 1 6頁) で見 られることがなかった」 ( やは り、宮本にとって、京都の名所 旧跡は、庶民の歴史を語 るきっかけにすぎない。名 所旧跡そのものを語る場合は少ない。そのことは、京都の代表的な仏閣にして、世界的観 光地である金閣 。銀閣が、およそ庶民生活に無関係なせいか、まったく触れていないこと からも、よく分る。 5.京都の街を歩 く ・見る ・聞く ・写す 『 京都』でのクライマックスは、第 1 6章の 「 京の町家」( 1 5 2 -1 8 3頁)かもしれない。 京都の旧市街を 「 電車やバスに乗 らないで」歩 く、見る、聞くを実践 した結果である。京 都関係の歴史研究書から借 り物ではない、宮本オ リジナルの記述が光る。見出しだけ拾 う と、「 飢える町民」、「 念仏聖」、「 法華宗」、「 町家」、「 町組」、「 辻仏」、「 通 りぬけ」、「 路次 奥」、「 小学校」、「 京都の旅寵」、「 室町」 。町名や通 りの形か ら、街の組織、庶民信仰のあ りかた-。たとえば、街の辻々に配 られる小 さい桐を見て、宮本は 「 身分の低い、道ばた 1 7 3頁)と語る。社会的な弱者に敏感な彼だか ら の行き倒れ もまたまつる必要があった」( こそ、着 目し、論 じる個所である。 「 町のいたるところに小 さな厨子仏がまつ られている。地蔵様であることもあ り、観音様であることもある。 多種多様である。そのはじめは何 らかの理由があってまつ られたのであろうが、まつってある近所の人に時折 きいてみるが、いつまつ られたか、何故まつったか知っている人に出逢ったことがない。 しか し辻にこうい う ものをまつ らねばならぬ理由があったのである。 ( 中略)洛北をあるいていると、道の辻に小 さい石地蔵などの ならんでいるのを見かけることがある。多くは不慮の死をとげたものをまつったのだ とい う。幼 くして死んだ 子供、行き倒れの人などいろいろあった。そのような行き倒れは明治の初めまで見 られたのである。京都の町 1 71頁) の人たちほど残酷な人の死にざまを見てきた人たちはなかったであろう」 ( それだけでなく、宮本 自身が写 した写真 も、この章では特に異彩を放ち、彼の姿勢が読 み取れる。 とりわけ、「 畑のおば」、 「 こむ僧」 ( 虚無僧)、「 道者」、「 野菜行商の トラック」 ( 1 7 9 -1 81頁)が素晴 らしい。この 4枚について、本文では一切触れていていないが、街 が、町に住む人々だけでなく、近郊の農村や流浪する人々の舞台であることを暗示 してい る。 『 京都』が収められる 「 私の 日本地図」シリーズの魅力のひ とつは、宮本 自身が撮影 し た膨大な写真群にある。あえて、名所 旧跡や美 しい風景を載せず、庶民 と街の関わ りに注 目している。たとえば、写真 「 クラシックを装 うモダンな食堂」 ( 47頁) とい う写真は、 一8 2- 歴史都市 ・京都の姿を上手 く表現 している。 この写真は、明治時代に内国勧業博覧会が開 催 された 「 岡崎」をシンボ リックに示 している。現在では、対外的に観光都市 としての色 彩が強い京都であるが、古 くか らの伝統を生か しながら、しか し、 したたかに近代化、現 本国寺 代化に対応 し生き延びる街の知恵が、この 1枚に暗示 されている。また、「 くず れる築土塀」 ( 1 07頁)とい う写真は、京都の主役である寺社が、庶民 とのつなが りを上手 く生かせない場合は、どのようになって しま うかを、端的に表現 している。続けて、解体 中の寺の建物を 3枚 も掲載 しているが ( 1 0 9-1 1 1頁)、「 京都の町はこうした人び とに背を 向けられるとその繁栄はなくなって しま う」 ( 1 0 9頁) とい う。 この個所でも、「 京都市民 の自覚 と努力」 ( 1 1 0頁)、「 都にはなやかな夢を寄せてきた地方民衆の期待」 ( 1 1 1頁)が 主眼にある。 さらに、専真 「 水のない堀川」 ( 1 21頁)では、「 京都市民にとっては、京都 の過去を語 りついでくるための素材でもあった。書物に書いてあるものを見ればわかると い うのではなくて、残っているものを見て語 りついでゆくとき血が通ってくる。 と同時に それを残そ うとするための試みもなされる」 と、京都で暮 らす人々の力を、宮本は信 じて いる。上で、本書のクライマックスと評価 した第 1 6章 「 京の町家」の大部分の写真 も、 京都の凡庸なガイ ドブックには収録 されない街の暮 らしを的確に表現 している。 6.宮本常-の京都論 本書が扱 うフィール ドは都市、都会。 しかも、古都、王都である。宮本の膨大な著作の 中でも異様 とい うしかない。読めば読むほど、彼がテーマ的に、かな り無理をして書いた のではないかと想像 して しま う。 一方、京都の街中から外れた郊外農村や、そこで暮 らす人々の記述になると、文章が生 き生きして くる。「 白川女その他」( 5 3 -5 5頁)、「 郵便配達の話」( 7 6・ 7 7頁)、第 1 7章 「 桂 の町」 ( 1 8 4-1 9 9頁)では、都市生活が郊外の人々に如何に支えられていたかを記述 して いる。宮本の観察眼が冴えわたる。 「 白川、大原、畑、賀茂などがそれであるが、物を頭にのせることは共通 していても服装には少 しずつの差が あった。 白川の女たちは手拭を姉 さんかぶ りにかぶ り紺の手甲をし、挟付の着物をタスキがけにし、三幅前垂 をつけ、着物の裾を端折 り、その下から白い腰巻を出し、白い脚枠をつけ、草軽をはいていた。そ して自家で 作った花などを頭にのせて京都の町-売 りに来たのである。 白川から西北にあたる上賀茂の里の女たちも物を いただく風習があ り、ここの女たちはスグキをよく売 りに来た。そのスグキは京都だけでなく、大正の終頃に は大阪- も売 りに来ていたのを私はおぼえている。黒禰子の襟をかけた紋付の着物を着てタスキをかけ、三幅 前垂をして着物の裾を端折っていた。 白い腰巻に白い脚枠は白川女 と共通 しているが、ここでは白足袋をはい て草鞍をはくことが多かった。洛北の大原か ら薪や芝を売 りに来 る女たちはカタソデ とい う刺 しゆうをした黒 い布をかぶ り、三幅前垂をしていることは上賀茂 とおな じだが、着物を端折ることはしなかった。着物は鉄色 の無地が多かった。そ して前垂は餅を用いていて、それがよく似合った。高尾の付近を梅 ヶ畑 とい うが、その あた りか らも物をいだいて京都-売 りに来る女たちがいた。これを畑のオバ といった。梯子やクラカケを頭に 53-5 5頁) のせて売 りに来たのだが、ここの女たちは紺のタチカケ ( 袴)をはいているのが特色であった」 ( - 8 3 - 宮本は、郊外から京都-物売 りに来る女たちを、 しっか り観察 し、分類 している。都市 の暮 らしが都市単独では成立せず、郊外に支えられていること、郊外農村にも多様なあ り 方があることを伝えたいのであろ う。京都論 とい うと、王侯貴族の歴史 と、都の雅 さが扱 われやすい。 しか し、観察 とい う点では、京都の市街地での華やかさには、彼は、実に冷 淡である。京都の街の、ふつ うの庶民の、ふつ うの暮 らしの背景を探ることのみに、宮本 の関心はあった。 いずれにせ よ、農山漁村を歩き続け、東京で暮 らす期間が長いにも拘 らず、東京ほか、 大都会に関する研究、作品を発表 しなかった宮本の数少ない苦心作が 『 京都』であること は間違いない。 この本には、宮本が秘めていた、都市に対する見方、考え方を垣間見るこ とができる。 ( 付記)『 私の 日本地図 第 1 4巻 京都』が宮本常-著作集別集に収められるにあた り、版元の未来社から、 筆者は解説を依頼 された。解説文では、本の内容よりも、筆者の、宮本に対する想いを吐露 してはしいとの編 集部の薦めもあり、かな り個人的な記述 となった。そこで、それを補 うべ く、小稿を執筆 した次第である。そ の際、宮本の著作を長年編集 した本間 トシ氏、宮本の愛弟子であ り、地理学出身の民俗学者、香月洋一郎氏か ら、ご助言を得た。この場を借 りて感謝する次第である。 注 1)佐野真一 『 旅する巨人 :宮本常- と渋沢敬三』文垂春秋、1 996年 、8・ 9頁 2) 内田忠賢 「 書架 佐野真一 『 旅する巨人 :宮本常- と渋沢敬三』 」地理 42-3、1 9 97年 3)宮本の膨大な写真は、周防大島交流センターにてデータベース化 されつつあ り、すでに下記の資料集が刊 宿) 行 されている。『 宮本常-写真 日記集成 ( 上 ・下 ・ 別巻) 』、毎 日新聞社、2005年。周防大島交流センターほか ( 2集』みずのわ出版、2007・9年o『 宮本常-が撮った昭和の情景 ( 上 ・下)』毎 日新 『 宮本常-写真図録 第 1・ 聞社、2009年 MI Y A M O T O , T s u n e i c hia n dK Y O T O:U r b a ni t yf r o mt h e vi e wo faF o l k l o r i s ta n dG e o g r a p h e r U C HI D A,T a d a y o s h i キーワー ド:宮本常-、京都、都市、フィール ドワーク、民俗誌 Ke ywo r d s : MI Y AMOTO, Ts u n e i c hi , KYOTO, u r b a it m y , 丘e l d wo r k, mo n o g r a p h -8 4-
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