言語と表現 第十二号 05

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漏困
田
炉よ-
看護ケアにおける﹁気づき﹂の語りの分析
│看護師Sさ ん の ラ イ フ ス ト ー リ ー か ら │
はじめに
>J
を話したいと思った時、もっとも近くにいる看護師がその話を聞い
てくれる 。
本稿で描写する 一人の看護師Sさんは、最期を迎える人に深く関
わりその人が語ることができなかったことを聞ける人物である 。 他
の看護師には必ずしもできることではないのに、なぜSさんはその
ように話を聞き、人生の最期を迎える人に、癒しゃ救いを与えるこ
とができるのかを考察する 。
本稿は、そのような看護師Sさんがどのようにして、今のような
看護師になったかを彼女自身の﹁語り﹂に基づいて 、Sさんのライ
フストーリーを描写することを通して、 Sさんが看護師として経験
人は 一人で死と向かい合い、自分が生きてきた人生の意味について
しての父親の死についての語りを描写する 。 次に、彼女が看護学校
ら私たちは何を学ぶことができるかを考察することを目的としてい
る。 本稿はまず、 Sさんが今のような看護師になった﹁原体験﹂と
した ﹁気づき﹂について分析することで、 S さ ん の 個 人 的 体 験 か
考えざるを得ない 。 その時に、人を支えることができるのは家族で
に進学し看護師になり、さまざまな看護ケアの実践をしていく成長
本稿のまとめ方の基本方針を記しておく 。 まず、 Sさんの語りを
あると一般的に 言 われている 。 家族に見守られて人生の最期を迎え
復の語り﹂をその大切な人に語り続け、絶望の淵に追い込むかもし
全面 的に引用する形で、彼女自身が語る﹁物語世界 ﹂を忠実に描写
のプロセスを書いている 。 そ し て 、 最 後 に 、 現 在 の 彼 女 が 看 護 師 と
れない 。 ターミナル期の人は回復できないことを自覚し、最期の別
する 。 その語られた﹁物語世界﹂について、筆者が、思い付く限り
ることが理想でもあるかもしれない 。 し か し 、 実 際 に は 、 家 族 は 変
れを 言 いたくても、また、今まで心の奥の底に秘めていたことを生
解釈し、彼女の﹁物語世界﹂ の特徴について整理する 。 この 整理す
してどのような態度で看護ケアを実践しているかについて描写して
きている聞に話したいと思っても、家族を傷つけまいと何も 言 わず
る作業は、彼女の語りを単に再構築するだけではなく、 Sさんの看
わり果てた大切な人の姿を受け入れることに戸惑い、自らの不安を
に沈黙する 。 一
言 いたいけれど、家族だから 言 え な い こ と も あ る 。 意
護ケアについての﹁気づき﹂に焦点を当て、﹁看護ケアの実践﹂や﹁人
いる 。
識レベルが低くなりつつある日々の中で、最後まで秘めていたこと
払しよくするために、ァlサ1 ・フランク(二O O二年)の 言う﹁回
てきた人生の意味が左右される﹂と 言う人もいる 。 人生の最期に、
﹁人生の最期にどのような看護師に出会えるかで、その人の生き
塚
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間 の 成 長 ﹂ に 関 す る 普 遍 的 な テ l マに関連できれば、本稿の目的が
ことで、 意 味ある経験として自らの 生きる基本としているようであ
をした語り、﹁決定的瞬間﹂を語った大学教授は、その体験を語る
二O 一O年)。また 、看護師だった佐々木(佐々 木他
ケアの基本を学んだ意味ある経験とした 。 意味ある経験として語ら
寄り添うことの重要性を体験したと語ることによって、彼女の看護
一九九六年)もまた、看護師中心の看護ケアではなく、患者の心に
る(塚田
達成された ことにな る。
分析の枠組みとインタビュー調査について
本研究の基本的枠組みとしては、語りを聞き取ることにより﹁生
としてとらえることである 。柳田 等(二O 一一年)が編集した ﹃
そ
て語られたSさんの ﹁
気づき﹂は単なる過去の体験ではなく、看護
その人物に影響する経験である 。 そ の 意 味 で は 、 意 味 あ る 経 験 と し
れた物語は、その人の基本的な考え方を生成する経験として、今も
の看護を変える気づき│学びつづけるナl スたち﹄で議論されてい
師としての今の S さ ん の 看 護 ケ ア の 基 本 と し て 生 き 続 け る 経 験 な の
一人 の 看 護 師 の 成 長 と 変 化 を ﹁ 気 づ き ﹂
るナl スによるさまざまな﹁気づき﹂があるが、そのような﹁気づ
である 。 本研究は、そのような意味ある経験としての ﹁
気づき﹂を
きられた経験﹂を分析し、
き﹂について、柳田等が行った反省的に書かれた看護ケアの体験に
Sさんへのインタビュ ー は
、 二O 一O年 一O月 二四日午後三時か
描写することによって、看護師Sさんの成長について分析しようと
いる 。﹁書 か れ た も の ﹂ と ﹁ 語 ら れ た も の ﹂ の聞には、内容的に異
ら 四 時 間 ほ ど 非 構 造 的インタビ ュー形式で行った 。 筆者の質問は、
ついてのエッセイの分析とは異なり、一人の看護師のライフストー
なる場合がある 。 インタビ ューで聞き取られた語りは、自分史で 書
一、看護師になるまでの体験、 二、看護師になってからの体験、そ
している 。
かれた以上のことが表現され、生き生きとした描写が得られる(塚
して、三、看護師として働いている ﹁
今のあなた ﹂ について教えて
リー ・インタビュ ーという方法で聞きとり、分析する方法をとって
二O O九 年 二二五l 四一頁)。 イ ン タ ビ ュ ー で 聞 き 取 ら れ た 語
言語 行 為 の 繰 り 返 し に よ っ て 経 験 に な る 。 その経験は常に書き換え
その結果、その生活史的な体験を蓄積しながら回顧し、語るという
き手に過去の自分の体験を語るもので、経験として物語化を試みる 。
りは、過去をぼんやり思い起こすことと違って、インタビューで聞
目的したが、ライフストーリー・インタビューはインタビュー対象
リーを聞き、彼女が語る﹁物語世界﹂をできるだけ描写することを
くれたことに相槌を打ちながら、話を聞いた 。
S さんのライフストー
くださいの三点だけであった 。基本 的には、 Sさんが自由に 話して
ライフスト ーリー・ インタビュ ーを行う時に、二人の間にある関
者とインタビュアの相互作用から生まれてくる﹁ストーリー領域﹂
二O頁)。 そ の よ う な 意 味 あ る 体 験
られ、未来に聞かれているだけでなく、物語として他者に伝えるこ
二O 二三 年一一七
の語りも描写している 。
(桜井
とができる資源であり、それを経験した人にとって重要な意味を持
田
つ
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係 性 が そ の 内 容 に 影 響 す る こ と が あ る の で 、 筆 者 とS さ ん と の 関 係
性について触れる 。筆者は 、Sさんたち 看護師が毎月 一回自主的に
第一節亡くなった父が語らなかった無念一看護師として
まな語りに興味を持ち、看護師たちの体験を研究してみたいと思っ
ない社会学者として、いのちに関わる看護の現場についてのさまざ
面的に話を展開するものである 。筆者は 、看護の現場の体験が全く
事例について話をし 、看護ケアとは 何かについて、 参 加者全 員 で 多
るという形式で行われている 。 他の 参 加者たちもそれぞれの悩んだ
発表し、そこの参加者たちにさまざまな意見やアドバイスを受け取
ナーは、現役の看護師が医療現場で直面した問題を﹁事例﹂として
亡くなった経験、そして、その時の医療関係者の態度についての S
場合があるであろう。 ど ち ら に せ よ 、 父 親 が 肺 が ん で 二 二歳の時に
今の視点から、彼女の信じる﹁看護のあり方﹂として語られている
井二
という相互作用から生まれた語り方としての﹁スト ーリー 領域﹂(桜
生きられた体験﹂としての﹁物語世界﹂であるか 、イン タビュ ー
んの ﹁
なったSさんの﹁原点﹂になる体験として今もある 。 それは 、Sさ
歳の時に父親を肺がんで亡くしたという経験が、看護師に
一
一
一一
のSさんの﹁原体験﹂
ていた 。Sさんは、六月と九月に二回発表を行った 。その 二回のテー
さ ん の 記 憶 は 、 今 の 看 護 師 と し て のS さ ん の ﹁ 原 体 験 ﹂ の よ う に 思
聞いているセミナーに 二O 一
O年六月から参加している 。 そのセミ
マはターミナル期の患者についてのもので、 Sさんの関わりに関す
われる 。
よって、筆者がSさんから、看護の現場について教えてもらうとい
員というものに過ぎず、 利 害 関 係 も 権 力 関 係 も な い も の で あ っ た 。
とを基本とした 。 また、 Sさんと筆者との関係は、看護師と大学教
﹁無知のアプロ ーチ ﹂ ( 野 村 ニO O 一年)でインタビュ ーを行うこ
と思い、インタビューを行った 。看護の現場について知らないので 、
たと思、つんですけど、手術したのは八月だったんですけ
た
﹂ っていう話を 聞いてたんです。 それが六月ぐらいだっ
だから取ってしまえば治るがんだからよかった、よかつ
私 は そ の 場 に い て 話 を 聞 い て い た ん で す け ど 、 ﹁初期がん
いうのは小学校六年生 。 父親が診断を受けてきた時から、
私が 二二 歳の時に父親が亡ったのですが、肺がんだって
O O五年 ・四三 │四 五頁)として、看護師になったSさんが
る 事 例 報 告 だ っ た 。 そ の 報 告 を 聞 き 、 筆 者 は 、 な ぜS さ ん は 事 例 報
うことを前提に、 Sさんがどのような体験をしてきたかを学ぶこと
ど、どうも日に日に痩せていく 。痛がっている 。 血を吐く 。
告の時に語ったような看護ケアをする ようにな ったかを理解したい
がインタビュ ー の目的で、その体験を理解した上で、看護師の語り
﹁
え l﹂っていうふうに子供ながらに思っていて 。
がん細胞がかなり 心臓に近い部分にあったので、取らずに
実は父親にも告知はしていなくって 。開けたんですけど、
を通して﹁看護の世界﹂を描写しようとした 。
以上、インタビューの方法としては、﹁無知のアプロ ー チ ﹂ で 看
護 師のSさんの体験をひたすら聞くという形式のものであった 。
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て いう話を聞こ えてき て。﹁え っ、やっぱり駄目な んだ﹂ つ
家を留守番をし て いてくれたので、 電話で ﹁
もう駄目か ﹂っ
先に行っていましたが 、 母 親 方 の祖母が 来 てくれていて 、
う ことで、また帰 って くる と思 ったんですが。母親が入院
た んで、輸血をし たりとか化学療法をした りだとか そうい
て九月の中旬に 入院して 、また、何回も入退院を繰り返し
分に葛藤しながら、父は﹁ちょっと病院に行くよ﹂ って言っ
出していて、家族中熱を 出していたので、 よくならない自
たのが移ってしま って 、 それ で九 月におじ いちゃ んも熱を
た﹂ってことは 告げら れず。ちょ っと私が実は風邪を引 い
早 かったんだろうと思、つんですけど。父親 には﹁取れ なかっ
ふさいだので 、 そのま またぶん、 さらに散らばって進行が
くれたり、し んどいのに毎日お風呂に 一路に入 ったりだと
黒になる ぐらい 取りに行 ってくれたり、竹ト ンボを作って
ろに入って 行 って 、 カブトムシを本当に虫龍い っぱい真 っ
シを取り に連 れて行ってくれたり。火口を越えみたいなとこ
変な状態なのに、私と弟を連れて毎晩毎晩八月はカブトム
でも、きっ と自覚してたんだろうと思うのは、動くのも大
んですけど、﹁何も語れずにいっち ゃった﹂っ ていうか 。
ず っと最後の最後まで知らせずに 。絶対わか つてたと思う
とか﹁何か語り た いことがあったんじ ゃな いかな﹂とか、
亡くなって い ったので 。﹁ いろいろ無念だ った んだろうな﹂
るんです けど。その時になんかこう切なそうな涙を流して、
そこから ず っと一 二時間ぐら い昏睡で 、最期の息を引き取
な夜な走り、病院に着いたのが夜中のO時かそれぐらいで 、
か、そうい う の も あ ったので 、﹁なんか語りたいけど語れ
て いうのを初め て知 って。もう行っ た時に はもう昏睡状態
で。
﹁ちょ っと病院に行くよ﹂と 言っ ているよ う に 父 親 は疑心 暗鬼のま
、
Sさ ん の 父 親 も 告 知 さ れず、よ く な ら な い 自 分 に 葛 藤 し なが ら
なんか語りたい
たんじゃないかな﹂と言 って いるよ うに、父親が ﹁
さんは 、﹁いろいろ 無念だ ったんだろうな﹂﹁何 か語りたいことがあ っ
父親はがん を告知され ないままに最期を迎えたことについて、 S
なかったっていう思いはきっとあるんだろうな﹂ って 。
ま入院していた 。子供だ ったSさんも、日々 衰えて いく父親 に対し
けど 語れな か った っていう思いは きっとあるんだろ うな ﹂と想像す
まだ、がんの告知が 行われない 三O年 ほ ど 前 の 時代だ ったので 、
て、不安を持って生きていたと記憶している 。
くな ってい った﹂と 語り、最期に 言 いたいことが 一
口えない こと の ﹁
切
一
ニ
なさ ﹂について 言 っている。Sさ んが看護実践で一番大切にしてい
る。 それを 、父親の最期を思い出し、﹁切なそうな一課を流して、亡
家 から二時間ぐらいか かるようなとこ ろで 、そこに 行 って
ることは 、
日
夜期を迎えた患者か ら、語りを聞き出し、その人が人生
がん専門病院が県立 のところが あって、 高速に 乗っても
た のですけど、親戚 のおじさん、おば さん に連れ られ
、 夜
9
ずに﹂逝った父親の無念を 思 い出し、今の時点から再解釈したもの
きか 。 それとも、看護ケアの実践を通して、﹁ 言 いたいことを 言え
ケアの実践経験の﹁原点﹂にあったのがこの経験だった 、と
つ
べ
一言、
最 期 を 幸 せ に 迎 え て も ら い た い と い う こ と で あ る 。 そのような看護
を振り返り、意味ある人生を生きてきたことを受け入れることで、
な﹂っていうのは 。 そういう、たぶん、人の思いつていう
だろうっていうのに ﹁
や っぱり思いは話せないといけない
言えますからいいんですけど、本人はどんな思いでいるん
て遺族になっている方はこうやって今話せますし、文句も
るんだろう っていうのはすごく感じて 。まだその生き残つ
そ の そ ば に い る 家 族 、遺 族 に な る 人 た ち は ど ん な 思 い に な
のは 。 そこがかなり ﹁原点﹂ かなって思、つんですけど 。
かもしれない 。
この語りに続き 、父親が亡くなった日の看護師の態度についての
がなくなったので、 ナlスコールを﹁ぴ﹂っと押して、﹁す
﹁しゅぱしゅぱ﹂してるんだと思うんですけど、酸素の水
なげてて 、 水 が 入 っ て る の も 意 味 が あ っ て 、 水 を 入 れ て
係ないと思うんですけど 。家族とか親族としたら酸素をつ
ば確かに酸素を流そうが点滴しようがしまいがそんなに関
その時に夜勤だった看護師さんが酸素を流して 。今思え
といけないな﹂と、患者が最期に自分の言いたいことが 言えないと
ずに 亡くなったという思いがあるので、﹁やっぱり思いは話せない
いる 。 そのような語りの中に、患者である父が言いたいことを言え
として患者の家族へのあるべき態度を学んだ経験として位置付けて
家族の心情には大きく異なると語る 。Sさんはこの出来事を看護師
る水入れを快くするか、﹁めんどくさそう﹂にするかでは、患者の
ど く さ そ う な 嫌 そ う な 顔 ﹂ で あ っ た 。今 考 え れ ば 、 酸 素 吸 入 に 関 わ
語りが展開された 。
いません、お水がありません﹂って言った時に、すごいめ
悔いが残ると考え、看護師としてのケアとして、患者の最期の語り
子供の Sさんの記憶に残っている看護師の態度は、﹁すごいめん
んどくさそうな嫌そうな顔をしたんですよ 。言葉には 出 さ
を聞くことの大切さを強調している 。
たんですけど、 でも水がなかったですね 。 ﹁すぐ入れましょ
医者さんがこんなによくしてくれたから﹂っていう人もい
多分﹁(看護師になったのは)その時に看護師さん 、 ぉ
関される 。
看護師の態度への不満に続き、主治医への不満の語りがさらに展
なかったけど 。 ﹁はい﹂って感じで 。 その時の対応がもの
すごい悪印象で、﹁数時間で旅立つだろうに 、 そ ん な 嫌 そ
うな顔をしなくても﹂っていう。﹁確かにそんなに過失の
うね﹂って言ってくれて動くのと、めんどくさそうにその
るでしょうし 。私はどっちかつて 言、っと、途中経過はすご
意味はなかったんだろうな ﹂ って、 この職についてわか っ
仕事をやるのとでは、その本人は口に出せないけれども、
1
0
思えば、 先生だって休暇は必要だし、肺がん専門の病院な
て い く 時 に 先 生 は ゴ ル フ パ ッ ク を 持 っ て 玄 関 に い た の 。今
先生がお看取りだからね﹂っていうふう話だったのに、帰っ
そして、﹁主治医の先生は学会に行っていないから当直の
くよくしてくれたのに、 父を亡くす時のその看護師さん、
厳しかったので、学校から帰ったら毎日バイトする生活をしていた 。
校に通うことができたが、それでも、名古屋に通うことは経済的に
が支給され、授業料を病院が全部払ってくれたことで、どうにか学
なるために、看護学校に進学した 。Sさんにとってみれば、奨学金
Sさんは、 ﹁家族のため﹂﹁自分のため﹂に経済的な理由で看護師に
﹁いるじゃん 、先生、そこに ﹂ っていうのがあって 。 ﹁一生
がもたんと思うので、 いたしかたないと思うんですけど、
を出 て、家に着くのが二時間か 二時間半かかるので、学校
でアルバイトをして 。 =一時半まで 学校。四 時ぐらいに 学校
学校が終わって帰つできたら、地元のガソリンスタンド
ので主治医の先生がそうそう呼ばれてたら、そりゃあ身
懸命そこまでやってきて、最後の最後に気を抜いてはいか
から帰るのに 。 ですので 、五時半から六時半ぐらいまでに
同じように、父親の最期の時に、心のこもった対応をしてくれなか っ
行為は理解できるが、﹁めんどくさそうな嫌な顔﹂をした看護師と
が最期を迎える時に看取るべき主治医が休暇を取り、ゴルフに行く
この語りにあるように、 看護師 として働いてみれば、自分の父親
二年と半年してました 。二年半。家で食べる分は遺族年金
うようなことをしてました 。 ガ ソ リ ン ス タ ン ド の バ イ ト は
いにいらっしゃれば、ポリ缶 二杯持って走ったり、そうい
セルフではなかったので、 ガソリンを入れたり、灯油を買
ドで、 ﹁いらっしゃいませ﹂ って 。 今はセルフですけど、
っていうのは 、そこで 学んだ というか 。
たことでは同じであった 。 ここの語りは ﹁一生懸命そこまでや って
と母子家庭の御手当てと、おじいちゃんの国民年金三万円
入って、ラスト九時ぐらいまで毎日毎日 。ガソ リンス タン
きて 、最後の最後に気を抜いてはいかん﹂という看護師としてのケ
なかった 。
の学校にいた﹁きらきらした﹂学生たちとうまく接することができ
経験をすることになる 。
﹁ 回全口﹂出身の Sさんは、﹁都会 ﹂ の名古屋
その厳しいバイト生活そのものよりも、看護学校生活の 中 で辛い
ですか 。
看護学校での経験
看護専門学校で一バイトしながら、劣等生として
一三歳の時に、大黒柱である父親を亡くし、経済的に困難だった
第二節
アのあり方の態度についての決意を表明する語りになっている 。
ん
1
1
様が多かったんですよ 。 きらきらした子たちが多くて 。
嬢が多くてですね 。多分大学 出身の子も 何 人もいて 、 お嬢
看 護 学 校 が 私 立 の 看 護 学 校 だ っ た の で 、むちゃくちゃお
生 ﹂ だ っ た 。 ま た 、 周 り は ﹁ む ち ゃ く ち ゃ お 嬢 ﹂﹁きら き ら し た ﹂
バイト中 心 の生活で勉強せずに、看護学校では成績が悪く﹁劣等
しかし 、 その辛さを学校以外のところで 、埋め合わせていた 。 当
い頃から女の子の関係にも嫌気がさしていた 。
女子学生ばかりであった 。 さらに 、 三重県の﹁ 田舎﹂出身というこ
とで 、言葉 でからかわれる ことがあ った。 それに、 Sさんは 、小 さ
宿題がありま したが、やりませんでした 。 看護学校で
は 実 は す ご く 劣 等 生 で 、 多 分 五O 人 中 び り か ら 五 ぐ ら い 。
五O人 一ク ラ ス だ け な ん で す け ど 、 全 然 勉 強 し な く っ て 。
われたのがすごくいやで 。
さ れ た ん で す ね 。 ﹁靴ってるだらあ l﹂ って 三河の子に 言
すごく意地悪なので 。あとは 三重県の方言をすごく馬鹿に
名古 屋 に出てきて、名古屋の子がいやでいやで仕方がなく
て。 きらきらとして、きらきらしてるだけならともかく、
アルバイ ト に行く 。 夜になると、私がアルバイトから帰っ
で帰って 、﹁じゃあ私アルバイ ト行ってくるね﹂って言って 、
迎えに来てくれて 。 それから 二人乗りをして帰り 、地元ま
登校して 、 実 は 看 護 学 校 ま で 二 人 乗 り し て 送 っ て く れ て 、
緒に 登校するんです。D大学 に通 っていたので 。朝 一緒に
恥ず か し い で す け ど 、 当 時 彼 氏 が お り ま し た の で 、 朝 一
時
、 Sさんは 、地元の彼氏と付き合 っていた 。
﹁=一重だね ﹂ っていう分にはいいんですけど 、 な ん か く
すくすくすくすと 。三重県 からが私 一人。 あとは高校から
てくる時間になると、家に遊びに来て、家族みんなでトラ
ずっと田舎の 保 育園、 小学 校 、 中 学 校 、 高 校 と 過 ご して、
来てる子がもう一人いたんですけど、その子は名古屋の 言
何 て 言 う ん で し ょ う。 な の で 、 勉 強 を 集 中 し て 頑 張 る と
ンプをして遊んだり、ファミコンしたりして遊んだりって
で突き通 し ていくんですけども 、 それですごく言葉の こと
いう。 ただ実習があ って、レポ ート 書 かないといけないつ
葉に合わせて話してるっていう子で 、 一人滋賀の子がいた
を言 われただけならともかくなんですけど、なんでいうん
ていう時は、見張っててくれて 、 一生懸命書くのを ﹁
早く
いうような 。
ですかね 、小さい時から女の子の噂話的なことに入るのが
ゃれ 、 早くやれ ﹂ って言って 、ちゃんと協力はしてくれた
んですけど 。 滋賀の子は完全に関西弁なので、それはそれ
好きじゃなかったんですけど、あまりにも顕著だ ったので 。
りはしていたので 、 そんなような生活だった ように 。
彼 氏 も お り 、 な ん て 言 う ん で し ょ う。 そ の 子 も 来 て 、 母 親
車で五分ぐらい 。 一級上の彼だ ったんですけど 。 そんな
﹁これはちょっと仲良くできん﹂ っていうのもありました
し
1
2
か
、 いろいろ看護師になろうと思ったことに思い悩む頃が
一年生の基礎実習。基礎実習 二期って 言っ て、ほんとに
も弟もみんなで夜を過ごし 。 お父さんじゃないですけど、
ごく大事で 。その時には患者さんのためにとか、そんなこ
見学だけの=一日間とその後少し血圧を測らせても らったり
一年生だったんですよね 。
とを思える余裕もなく、自分のためにとか、自分の家族の
だとか、そういうことをさせてもらえるこ回目の実習に
いてくれて 家族団壌の時聞が笑いがあるっていう時聞がす
ために毎日があったっていう感じですね 。
した専門職としての看護師としてしか考えていなか った。そのよう
ため ﹂ ではなく、 ﹁
自分のため﹂﹁家族のため ﹂という経済的に安定
そしてその時もにもまだ、看護師になるというのは、﹁患者さんの
いがあるっていう時間﹂が唯一の憩いの場になっていたようである。
たSさんにとっては、バイ トから帰った夜の﹁家族団築の時聞が笑
名古屋の看護学校生活の中で 、
うまくなじめず、成績も良くなかっ
らせてくださいっていう思いが自分の中にあったな あ﹂ っ
技術が足らなかったり、私が実習をするために血圧を測
やっぱりその時のことを後からそれを振り返って、﹁私の
じことできるのになんでだろう ﹂ って思ったんですけど、
﹁同
て言われて 。 その時すごく衝撃的だったんですけど 。
たじゃ嫌だ﹂って言われて 。﹁看護師さんを呼んでこい ﹂
っ
時に、﹁血圧を測らせてください﹂って 言っ た時に、 ﹁あん
行った時に、あるおばあさんが心不全ですごく苦しかった
な考えに変化が起こるのは、学校の看護実習を経験した後であった 。
ていうのを気づかせてくれたのが、そのおばあさんだった
一年生の 時の 看護実習で 、看護師になる自信を失う経験をしなが
なぜ、﹁あんたじゃ嫌だ﹂と 言 われたかについて振り返り、その後
Sさんは 実習で正規の看護師さんと同じことをや っているのに、
なあというふうに今振り返れば思います。
ら、人としての患者に出会うことになり、看護師としての初めての
その経験を再解釈し、 ﹁
技術がたらなかった ﹂ ことはもちろんであ
看護実習一﹁あんたじゃ、嫌だ﹂と言われて
﹁気づき﹂を経験する。
ショックっていうか自分がイメ ージしていた看護とかこん
護師さんがどえらい恐ろしい方ばっかりで、リアリティ
一年生の九月に一期の実習に行くんですけど 、病院の看
ている 。
﹁初めての気づき﹂の経験と して、今も ﹁
衝撃的な﹂事件として残つ
なかったことがその原因だったと考え、この経験は看護師としての
圧を測らせてください、と 言 い、患者に一人の人間として接してい
るが、自分が﹁患者さんのために﹂ではなく 、﹁実習の ために ﹂血
な人たちに教えられて、私はこう育っていくんだろうかと
1
3
二年生と三年生の実習 一人が喜んでくれていることに 喜び
を感じて
二年生になり、看護師になることに少し自信が付いたのは﹁私で
ういう具体策だったのが、自分の中で少し腕に落ちなくて 。
﹁
触 ってくれるな、ほ っといてくれ﹂ って言う人を、﹁無理
やり触ることに意味があるんだろうか﹂ っていうのをすご
い思い 悩 んだんですけど 。あんまり勉強を積んでいなかっ
たので、自分の中ではあまり思い浮かぶ案がなく、﹁何か
二年生の時に出会った方がまだ四O代ぐらいの方だった
のようにすれば良いか悩み、先生や担当看護師に相談したが、技術
﹁本当に何もしてくれるな﹂というおばあさんの患者のケアをど
やらなきゃあ実習が終わらない﹂っていうのがあったので 。
んですけど、骨折されて入院してみえた女性の方だったん
的なアドバイスをしてくれたが、﹁無理やりさわることに意味があ
も役立つ﹂と頼りにされた初めての経験だった。
ですけど 。 本当に頼りにしてくださったっていうとこで、
るんだろうか﹂と悩みながらも 、Sさんらしい方法で、そのおばあ
うちは仏教で浄土真宗なんですけど、毎朝通学路で通る
なんかこう﹁私でも役に立つんだ﹂ っていう思いを実感さ
そして、 三年生の実習でSさんが看護師としての生き方を﹁決定
ところにお寺があって 。 そこの黒板にいつも何か﹁人生は
さんのケアする経験をする 。
づける経験﹂をすることになる。それはターミナル期の気難しいお
何々を光る、照らすなんとかだ﹂ってそういう言葉が、週
せていただいて 。
ばあさんとの出会いであった 。
師さんに相談したんですけど、その時に与えられた答え
う毎日を送っていて 。 学 校 の 先 生 だ と か 実 習 担 当 の 看 護
に、この方は、この時 ﹁本当に何もしてくれるな﹂ ってい
三年生の時に、 ターミナル期、終末期の方に出会った時
行ったんです。 ﹁あれ本ですか 。 本貸してください﹂ って
そのお寺に﹁こんにちは﹂って駆け込んでいって、相談に
ので、実は平成二年の九月の実習の時だったんですけど、
詩集なの﹂ って、﹁あれつてなんか本なのかな﹂ ってい、っ
んでたんですよね 。 ﹁なんかそういう人生を照らすような
単位か月単位で書き換えられているのを何気なくいつも読
は、﹁おばあさんが安楽な方法でおしも洗う方法を 工夫せ
いうふうに 。 そしたら、その時に﹁どういう事情なの﹂
て聞いてくださって 、斯く斯く云々 ﹁末期がんのおばあさ
よ﹂とか、﹁たとえば移動式のストレッチャ lに乗せて外
に連れて行って、気分転換をはかったらどうだ﹂とか。そ
つ
1
4
だそのおばあさんの 宗教が何か っていうところでも、こう
気持ちっていうのが、まず一番だね﹂っていう話と 。
﹁た
住職と奥さんはその地元の方なんで 。 ﹁
Sちゃんの優しい
ばお貸ししてほしいんです ﹂ って話をした時に 、そこのご
なって思いついたので、 もしあれが本とかでお借りできれ
た ら 、 少 し は お ば あ さ ん の 気 が ま ぎ れ る ん じ ゃないのか
でこういう話がありますよ っていうのを少し読んだりし
んに私は何もできないので、そばでそういう短文で耳元
さん、これほしいんです ﹂ って言 って 。
﹁ どういう事情な
の田圃まで行 って、管理しているおじさんがいて 。
﹁ おじ
じゃないかな﹂ っていうのを思って 。
﹁ 花い っぱ い 運 動 ﹂
て行って、見てもらうだけでも季節を味わってもらえるん
﹁この私がきれいだと感じるものを一輪でもおそばに持っ
て通 ってたんです。 で、﹁あ っ、そうだ ﹂っ ていうことで、
きれいだなあ ﹂っ
田岡 一面に作 っていて、それがいつも ﹁
ど秋でちょうど私の住む町が花いっぱい運動でコスモスを
私がこういうおば
って聞かれたので、斯く斯く云々 ﹁
あさんに持って行きたい ﹂ って 言 ったら、 ﹁
新聞にくるむ、
ちょ っとこれを持って ってもらって、読むっていうのに問
題があるかもしれないよね 。だから、あなたの気持が 一番
まんぱんぐらい持 って っていいよ ﹂っ て言っ て、大きな花
がまぎれるんじ ゃないのかなって ﹂ 思 って本を借りようとしたが、
の黒板に 書 かれていた短文を読むことで、 ﹁
少しはおばあさんの気
ターミナル期のおばあさんに対して、自分が日ごろ通っていた 寺
を喜 ばすことだけを考え、大きなコスモスの花束を翌日もっていく
だけでも季節を味わ ってもらえるんじ ゃないかな ﹂と、おばあさん
たコスモスの花をおばあさんのそばにも っていって、 ﹁
見てもらう
いう教えを受けた 。 そして、悩んだ末に、自分がきれいだと感動し
ターミナル期がんのおばあさんの気を紛らわせるための本を借り
ることができなか った。 しかし、 ﹁
あなたの気持ちが 一番だよ ﹂と
借りることができなかった 。 そして、その住職夫妻から ﹁
あなたの
らず、悩やむSさんだった 。
どうしたらいいのかなあ ﹂
結局その本も借りれず、 ﹁
て思ったんですけど、ふ っと真っ白になった時に、ちょう
んのところに、朝 一番に 。本当は詰め所に行って、 スタツ
せ
、 ﹁
何もしんでくれ ﹂っ て言 って、む っとしてたおばさ
本当に朝から晩まで顔を出せば、い つも眉間にしわをよ
ことを決めた 。
借りてこなかったんです。
ざいました ﹂ って元気 になって帰ってい って、結局、本は
束にして次の日持って行 ったんですね 。
の
だよ ﹂
っ て話をされて あなたのその 気持ちが通じるよ ﹂っ
﹁
。
ありがとうご
ていうのを住職に 言っ ていただいて、私は ﹁
し叫ー
気持が一番だよ ﹂ということを教えられたが、どうしてよいかわか
つ
1
5
言ってくださった 。これがそのす ごいターミナル期の方の
ていうふうに、そのおばあさんが﹁にこにこ﹂って笑って
しした時に、あふれ出るような笑顔で﹁わ iきれいだね﹂つ
て行って ﹁こん こん ﹂っていって 、詰め所に行く前にお渡
さんに見せたい﹂って思いがあったので、 ﹁とことことこ﹂っ
に行くんですけど、﹁これは誰に見せるよりも先におばあ
フに挨拶をして、その後散って受け持ち患者さんのところ
あるという自覚が生まれたのであった 。
になると同時に、﹁患者に喜んでもらうこと﹂が、﹁自分の喜び﹂で
自分のため﹂ではなく、﹁患者のため﹂という考え
を目的とした ﹁
んだことだった 。 この時には、看護師として働くのは、経済的安定
学校では成績が悪かったSさんが、患者と人として関わることで学
くれていること﹂にSさん自身がうれしかったとい、つことを経験し
た。
Sさんの看護師としての基本的態度が形成された出来事であり、
と振り返る。﹁自分が役立つこと﹂に喜びを見出し、﹁患者が喜んで
すか、経験で知っていった。きっとベ l スどこかそこかで
らう中で、﹁看護って何だろう﹂って。経験知って 言 いま
学生たちに看護体験に関する振り返りをするエ ッセイを書く ことを
一 年一三五四頁)は、看護
く体験が多いという柳田邦男(二O 一
看護学生として実習を経験して、初めて看護ケアとは何かに気づ
まとめ
身内でない人に対するターミナル期の関わりっていうとこ
ろで、感じた 。 ﹁その人が喜んでくれていることが自分が
すごくうれしかった﹂ っていうのが第一歩だったと思うん
先生たちが教えて、教えようとしていたものがあると思う
勧めている 。 その振り返りのエッセイを書くことを通して、何が大
ですけど 。 そんな学生の時にお 一人お一人に関わらせても
んですけど、なかなか机上では感じるものができないもの
切かがわかることがある 。Sさんが看護学生としての 体験を振り返
護師の卵としての Sさんにはやりがいになった 。
﹁自分が 役立っている﹂﹁ 必要とさ れている ﹂という思いが、 看
者を人間として尊敬してケアすることが大切である 。
うケアはその人には歓迎されない 。
﹁ 我と汝﹂の関係として患
ブl パl (一九七 三年)の 言、っところの人を﹁それ﹂として扱
患者を実習のための道具、
患者を人間として扱うことの大切さ 。
うにまとめられる 。
が実習の場ではあったっていうので、そこでベ l スができ
くれ﹂ って 言っ て、むっとしてたおばさん﹂のところに全面の笑顔
で持って行ったら、﹁あふれ出るような笑顔で ﹃
わ1きれいだね﹄
てい、つふうに、そのおばあさんが ﹃
にこにこ ﹄っ て笑って 言っ てく
ださった﹂ことで、そのおばあさんが﹁喜んでくれていることが自
分がすごくうれしか った﹂ ことが、看護師としての ﹁
第 一歩だ った﹂
①
②
コスモスの花束を朝一に真っ先に、﹁とことこ﹂と﹁ ﹁
何もしんで
ることで、様々な﹁気づき﹂をした 。 その﹁気づき﹂は、以下のよ
五
てきて。
つ
1
6
するものになり、笑顔で﹁他人のために﹂ケアをする看護師を
づき﹂は、 Sさんのその後の看護師としての基本的態度を形成
﹁人に喜んでもらえる ことが自分の 喜びでもある﹂という﹁気
勉強していなかったので、頭悪かったので、いろいろ聞か
れを学ばせてもらえて 。また就職してすぐって、 私本当に
たり、家に帰れない方は施設に行かれるっていう一連の流
って o Sさんじゃなくて、 Sち ゃんっていうふうに 呼
ごくかわいがってくださる 。 みんなが﹁Sちゃん、 Sちゃ
そういう言葉を患者さんがかけてくださる 。患者さんがす
だ﹂とか﹁あんたが来てくれるだけで元気になる﹂ とか、
ら何 て言うんだろう。 患者さんが﹁その笑顔が何よりも薬
れたことに笑ってごまかしたりしてたんですけど、 そした
脳神経外科での経験
めざすことになった。
仲間開三時即
自分の看護師としての存在価値を見つけて
﹁
他人のために ﹂に働きたいという強い思いで卒業したSさんは、
看護学校で不勉強だった自分を反省して、﹁厳しいと ころ ﹂に勤め
ら失敗も許されるかな﹂とか。 ﹁初めから修行してもらえば、
たら、駄目になる﹂と思ったっていうか 。 ﹁
若 い時だ った
こう﹂ と思ったんですね 。 ﹁初めから楽そうな ところに行 っ
﹁どうせ看護師になったんだったら、厳しいところに行
で、﹁自分の存在価値を認めてもらえた﹂と思い、 Sさんは、看護
だけだったが、患者に﹁その笑顔が何よりの薬だ﹂と言われたこと
なった 。勉強してなかったので 、 ﹁笑って ごまかしたり ﹂ していた
はましな看護師になるかな﹂と思い 、脳神経外科に就職することに
一つの病院
の高い科を選ぼうと思ったので。脳外科を選んだんですね 。
で、当時の K病院は IC Uとかがあまりなく、
で本当に入院から退院まですべてを担っていたので 。
ので、本当に重症な瀕死の状態で入院される方が命が助
時に起こ った。﹁不幸がいっぺんにやってきた﹂と実感したことで
しかし、看護師として楽しく働き出した Sさんに二つの不幸が同
てきた
かった後、一緒に リハ ビリをやって、そして帰っていかれ
K病院は私の母体の病院です。またその時 脳外科だ った
彼氏との別れとおじいちゃんの死 一不幸がいっぺんにやっ
師として働くさ らなる喜びを見出してい った 。
看護学校では、﹁勉強のできない学生﹂だったいう自覚で 、﹁少し
らえた﹂ っていうのがすごくあったんですね 。
んでくれて 。 何でし ょうね 。 ﹁自分の存在価値を認めても
ん
少しはましな看護師になるかな﹂ って自分に少 しハードル
たいと思い、脳神経外科に勤めることになった 。
L一
③
1
7
げ な い ん だ ﹂ っ て い う ふ う に 母 親 と け ん か し ま し て 。﹁ お
療を受けている。なんでおじいさんに治療を受けさせてあ
療をし、九O歳であっても 一
O O歳であっても。 先端の治
母親とすったもんだしまして 。 私 は ﹁ 脳 外 科 で 最 先 端 の 治
そこでおじいさんを病院に連れていくか、いかないかで、
幸がいっぺんにやってきた﹂って感じだったんですけど 。
ど、寝たり起きたりだったのが意識膿膿としてまして 。 ﹁
不
あれはきっと脳幹部梗塞か何かを起こしたと思うんですけ
まあ破局という日を迎え、なんとその次の翌朝に祖父が、
うまくいかなくなって 。
気がそっちにいってしまいまして 、
職で、女の子がいっぱいの職場に行ってしまいまして 。 で
、
就職した年の七月に、 お付き合いしていた彼も同時に就
朝の六時半ぐらいだったんですけど、息引き取ったのが 。
と 思 っ て も う ま く 入 ら な い 。﹁ あ れ よ あ れ よ ﹂ と い う 聞 に
軌道を確保する道具なんですけど、そういうのを入れよう
じいちゃんだと思うと入らない。 エアウ ェイってい 、つのは
もう気が動転して 。 いつも、だったらできるのに 、自分のお
き取る時は何もできず、エアウェイを入れようと思っても、
り、すごい一生懸命やってたんですけど、結局最後息を引
いさんに 一生懸命やってました 。瞳孔見たり、意識を見た
りおじいちゃんの傍にいて、病院でやっていることをおじ
る 二日ぐらい前がちょうど休暇だったので、二日間びっち
け る た め の 道 具 を 持 っ て 帰 っ て き た ん で す ね 。 家で亡くな
機械を借りてきまして、婦長さんに許可を得て 。 脳死を助
その時に私は病院から気道確保の道具と疾を取る吸引の
を助けるだけがケアではないということを学ぶ 。
母 さ ん 他 人 だ か ら 、 そ う い う こ と 言 う ん だ ﹂ という話をし
私だけ隣で寝ている時で 。 何を優先したらいいかパニック
あった 。
たんですけど、母親は﹁それで先端の治療を受けて、命が
でわからなくなっていて 。 母親を起こしに行って、 主 治医
父親が 一人っ子だったので、親戚のおじさん 。 甥つ子と
保たれでも植物になって生きながらえては、おじいさんは
に見送るのも家族の役目だ﹂っていうようなことで、討論
かのおじさんに連絡をしたり、看護師の叔母の家に電話し
の先生に来てもらって 。
しあいまして、母親の意見が通って、家で 一週間。一 本だ
たり、母親が 。 はっと気づいたら、叔母が来てたんですけ
これは時が来た ﹄ っていうふう
かわいそうだろ、つ﹂ と。 ﹁﹁
け 点 滴 を 開 業 医 さ ん に 替 え て も ら い な が ら 、家で過ごして
ど。 ﹁エンジェルケアの道具は持ってきたの﹂っていうふ
で、家で臨終を迎えて、その後.とうするかつて思ってもい
うに叔母に言われ、私は命を助けることしか考えてないの
そのまま 一週間後に亡くなったんですけど 。
おじいさんが亡くなった時に、 Sさんは新米看護師として、患者
1
8
なぁと思いますけど 。
だろう﹂というのをやっぱり考えるチ ャン スにはなったか
ごい置いていた自分﹂っていうのと、﹁何が大事だったん
んですね 。私は本当に﹁命を助けるだけに、ウェイトをす
セットがでてきた って いうので、 ﹁すごい な あ﹂と 思った
こと思いもよらず、叔母のかぱんか らちゃ んとエン ジェル
後 の処置はさせてい ただいたりして たんで すけど、 そんな
なかったので、もちろ ん他の患者さんが病院で亡くなった
にな ったんですね 。そ の後私が チl ム編成で、違うチl ム
んと ﹁
あ いうえお ﹂ の文字盤を文字で指すまで できるよう
ました けど、私 の受け持ちの 期間に 関わ って いた時は、な
もんですから 、ちょっと いろ いろ看護師さんの動きがあり
しゃ ったんですけど、 当時は年単位 に結構病院 にい られた
がもう、意思疎通がそんなに図れないような方がいら っ
呼 吸 し た り す る と こ ろ が 微 妙 に も う あ ぶな いような 意識
私が一年目の時に見ていた脳幹部挫傷 って、交通事故で
の後のエ ンジ ェルケアの 道具を持 ってきて処理して くれたことを思
戚などに 連 絡 してくれた。そ して、看護師をし てい る叔母が、 臨 終
いか分からなくなっていた時に、頼りないと思 って いた母親が、親
身内のおじいさん の死に 立ち会いながら気が動転し、何をしてよ
わる﹂ っていうのを目の当たりにした っていうのが、すご
こでまた ﹁看護師の 関わ り一つでその人の人生が大きく変
にな って いたのに、 ま ったくできなくな っていたので 、そ
ていて 。O Kサイ ンとか Vサインとか文字盤が指せるよう
まり関わってくれてなか ったみたい で、全然できなくなっ
に行って いて 半年 か 一年ぐらい後に戻 ったら、 看 護師があ
い起こし、 ﹁
何が大事だ ったん だろう﹂かと自問した経験だっ た。 ﹁
命
くそれも衝撃的で 。
なので 、 一生懸命関わらなきゃいけない 。 ﹁
自 分の関わ
を助けるだけ﹂でなく、 その人の ﹁人生 の最期を看取ることの大切
さ﹂を気づ いた経験にな ったよ うだつた 。
好転する
り方でこの人の人生が変わる﹂っていうので 、 ﹁
方の 看護帥になりたい ﹂ って いう のがまたそこからも思 っ
病状が安定した後は、リハビリをする 。 その患者に 看護師がど のよ
、
脳神経外科という医療の現場では 、脳 幹 挫 傷 な ど の 患 者 が 多く
なに悪くな った って いうので、 リハ ビリテ ーシ ョン ってい
ションで こんな に変わ った。だけど、やらないこと でこん
あ って、今にいた ってるんですけど 。そ の方の リ ハビリ テー
看護師の関わりの大切さとリハビリ
うに関わるか でその人の 人生が変化するとい う 経 験をした 。次の語
うところ に興味を わく部分であったり。実は 、こん な大き
たので。 自分 一人の限界 って いう のも そこで感じるものも
りは看 護 師としてリハビリをした 時の経験で ある 。
、
く床ずれ が できた方が 、その 看護師の知識と技術によ って
1
9
学校では、消毒する、薬を塗る、そのぐらいのことしか
すごく左右する﹂と自覚し、勉強することの大切さを再確認するよ
を反省しつつ、﹁看護師の知識と技術によって、治るか治らんかが
人の人生が変わる﹂ことを学んだSさんは﹁好転する方の看護師に
習わないんですけど 。 現場で、﹁お医者さんが処方された
うになり、自分で勉強をしたりセミナーに参加するようになった 。
治るか治らんかがすごく左右するっていうことも現場で出
ものを塗っておけば治るか治らんかは運だな﹂ぐらいに
﹁不勉強の看護学生だった﹂ Sさんが﹁勉強に熱 心な 看護師﹂に変
な り た い ﹂ と 強 く 思 う よ う に な っ た 。 そして今までの自分の不勉強
思 ってたんですけど 、実はすごく勉強された薬剤師さんを、
わりたいと思 ったのは、﹁好転する方の看護師になりたい ﹂と い
、
っ
会って 。
勉強しているうちに誰かが知っていて、 ﹁あの薬剤師さん
強い思いがあったからだった 。
んと準備運動だけなので、 専 門職と 言つ でもあまりにも分
学んでいきましたね 。 ﹁やっぱり看護学校での教育ってほ
買ってそれをいっぱい読んだりとか 、そういうふ、つにして
さんではなく、 Sちゃん﹂とかわいがられていた 。自分が好かれて
れまでの Sさんは、患者の人たちに笑顔で接するだけで好かれ、﹁
くしていた時、出会ったのが、﹁失語症のおばあさん ﹂ だ った。そ
患者の人生を﹁好転する方の看護師になりたい﹂という思いを強
思いは伝わらないんだな あ﹂
失語症のおばあちゃん一﹁本当にその人を好きにならないと、
に相談してみよう﹂って言って 。 その薬剤師さんが現れて、
﹁
Sさん、これを こういうような理由でこうするとこうや っ
て治っていくんですよ﹂っていうふうに教えてくださって 。
そこから、その学習は自分で 。 セミナーがあったり、そう
野が広すぎて、エキスパート的には習わない﹂ 。 エキスパー
いる、必要とされているから笑顔になれていた Sさんであったが、
好きですか ﹂っ て聞かれたので、﹁私が嫌われているから、
んで婦長さんに相談した時に、 ﹁
あなたはその人のことを
てさせてくれないおばあさんがいて、 その時ちょっと私悩
これさせてください﹂って言っても、 本当に抵抗して怒っ
二年目の時に失語症のおばあさんがみえて、﹁何々さん、
s
トになってくのは、自分がいかにそれを学ぼうと専門的に
自分を嫌っている患者に出会って 戸惑った経験をする 。
ことを目の当たりにして、看護師としての﹁自分の関わり方でこの
の後、リ ハビリをしなくなり元の麻庫状態になってしまったという
脳神経外科で働く中で、一生懸命にリハビリを手伝 った人が、そ
の治りも遣うんだなというのも学ばせてもらって 。
る学びをした時に、 自分が勉強してるかしてないかで、傷
努力していくかなので 。 そ こ で 床 ず れ を 治 る お 手 伝 い を す
いうのがあれば一つでも多く参加したり、本をたくさん
四
2
0
って言った 時に、﹁嫌われていても自分がまずその人
好きにはなれないかもしれません 。だって、嫌われてるも
てけ﹂とその Hさんのところに戻り、満面の笑みを浮かべながら、
と思っていたが、それでは看護ケアができないと思い、﹁てけてけ
ん
を開いてもらえたっていう経験がやっぱり現場であって 。
ような関わりをして 。 ﹁うーん﹂って言って 。少しずつ心
しれませんが、大好きなので我慢してください﹂っていう
ん、私、大好きです﹂ って言って 。 ﹁嫌なこともするかも
だったので、﹁てけてけてけ﹂つで もう一回戻って、﹁Hさ
わよ﹂って当時の婦長に言われて、 私もまだ二年目で子供
的に ﹁好きです﹂と笑顔で言うようになるSさんらしい 看護ケアを
なった 。単にかわいがられて、笑顔でケアをしていたSさんが積極
を学んだ 。 それがSさんの看護ケアの重要な部分を占めるように
の人を好きにならないと、思いは伝わらないんだなあ ﹂ということ
だら、 Hさんのこころが少しずつ聞いていく経験をし、﹁本当にそ
Hさん、私、大好きです﹄っ て言って、 ﹃
嫌なこともするかもし
﹃
﹁
れませんが、大好きなので我慢してください ご という態度で臨ん
嫌われてるもん 。私が好きなんて言えない﹂って思ったん
﹁
好きです効果﹂が。、だから、 やっぱりその時は、﹁本当に
て、そしたら、﹁にこ﹂って笑ってくださるようになって 。
﹁過去を悔んで﹂いた人だった。患者に寄り添う ことで、話したい
護ケアの重要な部分だと考えていた。次の語りに出てくる患者は 、
しながら接し、その人が語りたいと思っていることを聞くことを看
父親を亡くした経験から、 Sさんは患者を 一人の人間として 尊敬
大丈夫﹂
ヒステリーの四O歳代の女性一 ﹁
傍にいるから、大丈夫、
確立していった 。
だっていうのはないですね 。 経験の中で 。
﹁ 好 き で す。 だ
から、血圧測らせてください ﹂っ て言 った 。確か 。
﹁ 車い
すに座りませんか﹂って 言っ たら、嫌そうな顔をしつつも
ですけど、﹁本当にその人を好きにならないと、思いは伝
ことを聞くことができた経験であった 。
てことがあって 。
﹁本当に抵抗して怒ってさせてくれないおばあさん﹂がいて悩ん
でいた時に、婦長さんから、﹁あなたはその人のことを好きですか﹂
と問いかけられた 。 その時は、嫌われているから好きになれない、
ぐ来て﹂﹁プ lプ l﹂っていうような感じで呼ばれるよう
ようが痛みが取れず、激しくヒステリーになって、﹁今す
四二歳の子宮がんだった方で、本当に薬を使おうが何をし
過去を悔んで﹂っていうケ l スで、印象が強かったのは 、
﹁
わらないんだなあ﹂ っていうのはそこで学んだのかなあっ
やらせてくださって 。毎日毎日 ﹁
好きです﹂って言い続け
五
要所、要所で﹁経験知﹂というか、本を読んでこ こで学ん
のことを好きにならなきゃ あ、好きにはなってもらえない
し一一
21
てくれていて、身の回りことをしてくれてても 、すごいス
嫌で母親と弟を置いて逃げてきた そのことを謝りたかっ
﹁
。
た﹂っていうよ うなことで、その後、東北からお母さん来
の時に東北地方に住んでみえたんですけど、父親の折艦が
って傍にいましたら、ふっと語りだしてくださって 。一 七
な方 がいたんですけど 。 ﹁傍にいるから、大丈夫、大丈夫
ですけど、そういう場面もありますね 。
かなっていうのは 、亡 くなっているので、そこは聞けない
所はどこでもよくて、生きる場所は家だったっていうこと
て い う 話 だ っ た の で 、 な ん で 最 後 だ け 病 院 行 ったんやろ
﹁
途 中の 真ん中の五分ぐらいのところで息を引き 取 った﹂っ
O分もあれば病院に着く距離だったんですけど 、
乗って 、一
看護に﹁今すぐ来て﹂﹁プ lプ l﹂だったのに、最後患を
か呼吸の苦しみとか訴えなくなって 。何かあるとすぐ訪問
て、翌日けろっと﹁昨日はごめんね﹂って感じで、痛みと
めんね﹂ って言って 、﹁いいよ 、いいよ ﹂っ ていう場になっ
語るシチュエ ーションができたので、語ってもらって 。
﹁ご
どな﹂ って 思 ったんですけど、その時にちょうどその人が
な話をして、その時は臨終の時じゃなくって 。
﹁ まだだけ
って電話したんで、ご 主 人も帰 ってきて 、その場でいろん
るんですよね 。お母さん 呼んで、ご 主人にも﹁帰ってきて﹂
東北にいる母親の元ふを逃げて出てきたことだった 。 そのことを謝り
自然と話し始めた 。
﹁ 過去の悔やまれる﹂こととは、
大丈夫﹂って傍にい続けたら、彼女が﹁過去の悔やまれる﹂経験を
さんは覚悟して彼女から逃げるのではなく、 ﹁
傍にいるから、大丈夫、
ばれるような方﹂で、看護師にとっては扱いにくい患者だった 。S
今すぐ来て﹄﹃プ lプl﹄ってい うような感じで呼
リーになって、 ﹃
女性で 、 ﹁
薬を使おうが何をしようが痛みが取れず、激しくヒステ
性の看護する中で、そのことを再度実感した 。 四二歳 の子宮がんの
過去と和解をすることが理想だと 、Sさんが考えていたが、この女
﹁悔やまれる過去﹂を持っている人は、最期の時期になるとその
ね ってすごい不思議だったんですけど 。考えれば、死に場
卜レスのはけ口に、 お母さんを大攻撃してたんですけど、
引き取る時は自分で救急車に乗って、救急車の中で息を引
たいと思っていた 。 母親に連絡を取り再会した最初ごろは母親にも
言葉で 。 で,も、それが実は﹁母親に謝りたい﹂って言って
き取ったって 。﹁病 院には絶対行かない ﹂って言ってたん
ごめん
あたっていたが、 ﹁
悔やまれた﹂経験をSさんに話した後、 ﹁
一七歳の時に
ですけど 。多分私たちの出番っていうのは、本当に何かを
とで語れたっていうのを何かで感じてたのか、 ﹁
自分はも
もしなくなった 。 この事例にあるように、人が 最期になった 時に、
それまで激しかったヒステリ ー的な態度が落ち着き、ナ l スコール
って言って 、﹁いいよ、い いよ﹂ って いうことになり、その後は、
う死 亡確認されるだけだから、自分は病院に行こうかな﹂っ
言 いたいことをいうことが大切だという ことをSさんは父親を亡く
語ったりとか 、そういう時の手段に私たちがいてくれるこ
て思ったのか、自分で 一一九番 し て乗ってって 。救急車に
ね
2
2
聞き出すことができ、女性ー さんは穏やかな最期を迎えられたよう
と言いながら、その女性ー さんのそばにずっといて 、結果的に話を
した時の経験から理解していた 。
﹁ 傍にいるから、大丈夫 、大丈夫﹂
かぱんぱか﹂呼ぶもんですから、もう本当に看護師の中で
ングして、呼んでもらうようにしたんですけど。 ﹁ぱんぱ
病院の中じゅうで探してきで、あったのでそれをセッテイ
﹁
あlよかった﹂って 。
﹁ あんたが来てくれたから、私たち
行かなくて済むわ﹂っていうようなことがあって 。 ﹁そん
とかゆくても自分でかけないし、ちょっと窓が開けてほし
なにおじいさんのことを嫌わんでほしい﹂ って。鼻がちょっ
Sさんにも ﹁
悔やまれる体験﹂があると言、っ。 それは、自分がい
くても自分で開けれないし、ご飯の食べさせ方だって、自
よいかわからなくなった ﹁
問題児のおじいさん ﹂への自分の態度だっ
た
Sさんは担当看護師として、﹁問題 児 のおじいさん﹂に最初は、
ですか 。 やっぱり ﹁はんばんばんばん﹂ナ lスコールがた
くさんきて、その都度行くのは、私らが予測立てて﹁おじ
を圧迫されるっていう御病気になられたおじいさんが、お
脳外科の病棟時代に首の神経の周りが石灰化し て、神経
ナlスコールが減るはずだっていうのを必死に伝えて、 そ
ですか、これはどうですか﹂って聞いてから帰ってくれば、
いを酌み取ってないから呼ばれるんだから、﹁あれはどう
いさんがこんなことしてほしいんじゃないか﹂っていう思
ばあさんがくも膜下出血になられたので、そこで命を助け
れでなんとかまた落ち着いたんですけど 。
で、ここ にナl スコ ー ルがこういうふうに押せれるものを
けど 。私受け持ちで 。なんとか手がちょっとだけ動いたの
なくなっちゃったので 。神経質なおじいさんだったんです
けで 、別 に自分のことはできていたのに、首から下が動か
ですよね 。ただしびれてて、歩くのは少し不自由だっただ
わっていた 。 その基本的な態度として、﹁﹃おじいさんがこんなこと
とを嫌わんでほしい﹂と他の看護師たちに 言 いながら 、率先して関
ないと思っていた 。 しかし、 Aさんは、﹁そんなにおじいさんのこ
たちの中では﹁問題児のおじさん﹂となっていて、誰も関わりたく
この患者からはひんぱんにナI スコールがあるので、他の看護師
術をされて 、 四肢まひになった方がみえて 。まあストレス
てくれた脳外科の先生に﹁自分の首も託す﹂って 言 って手
懸命にケアをした 。
分なりのル l ルがあるけど、それもまあ細かく言、つんです
よ。だけど、自分なりのル 1 ルとかべ l スがあるじゃない
くら努力しても、結果が出ず、最終的に、どのように ﹁寄り添って﹂
悔やまれる体験 一﹁絶対に逃げてはいけない﹂
は﹁問題児のおじいさん﹂になっていて 。私が 出勤すると、
、
z
コ ご。
半/ て ふ/
.
.
.
L
.
.
2
2
3
に伝えて﹂と言っているように、患者自身のニ lズを耳を傾け、そ
てから帰ってくれば、ナl スコ ー ルが減るはずだっていうのを必死
れるんだから、 ﹃
あれはどうですか 、これ はどうですか﹄って聞い
してほしいんじゃないか﹄ っていう思いを酌み取ってないから呼ば
されたのは自分のせいなんじゃないかなあ﹂ って思ったり
ぺらなきゃあよかった﹂ って思うぐらい 、﹁二回目の手術
面なおじいさんだったので 。私も﹁あんなこと先生にしゃ
てイライラ 。もとからストレスがあったんですけど、九帳
せんでした﹂っていう。おじいさんも自暴自棄になっちゃっ
しっかりぽこつと入る入れ物を作業療法士さんに頼んで
作ってもら って 、それでセツテイングすれば、自分のベ l
ち ょ っ と ず っ ち ょ っ と ず っ 運 動 を し て 、 実はお皿とかを
それだけが望みです ﹂っ ておっしゃって 。 ﹁たったそれだけの望み
けど、﹁味噌汁を自分の飲みたいタイミングで飲むことです。 ただ
﹁じゃあ 、ちょ っとベッド サイドでみんなおじいさんに話を聞き
に行こうか﹂ って って 、 ベッドサイドカンファレンスっていうの
言
一
を聞いて 。﹁ おじいさんのやってほしいことって、一番望んでいる
ラウマ ﹂ になった 。
その後、そのおじいさんから﹁逃げて﹂しまったと悔いの残る﹁ト
そして、ベッドサイドカンファレンスでおじいさんの様子を見て、
れない﹂ っていうふうに自分も落ち込んでしまって 。
して、すごい落胆してて 。 ﹁おじいさんに何もやってあげ
れに応えれば 、 ナl スコ ール を減るというSさんの確信だった 。
しかし、その後、このおじいさんの様態が大きく変化することに
なる 。主治医が再手術をして、回復しつつあった状態から、さらに
麻療が固定化されてしまった 。Sさんは自分が主治医に 言っ た一言
がそうさせたのではないかと悔やむ。
私も馬鹿だったんですけど 、主治医の先生に﹁あのお
じ い さ ん の 手 足 は ど う に か な ら ん で す か ね ﹂って 相 談 し
スでおかゆだけ食べれるようになってて、﹁ゃった 、 ゃっ
すら、私は叶える手伝いを今の自分の力ではできん﹂ というふうに
ち や っ た ら 、 も う 一 回 手 術 し ち ゃ っ て 。 で 、 私 と 一緒に
た﹂って喜んだんですけど、 先生が二度目の手術をしちゃっ
﹁ はい、おじいさん、ありがとうございました﹂って、﹁そ
思って 。
トレーニ ン グ を し て い て 、 交 代 で こ う 器 具 を 巻 き つ け て
て 、 ま た 動 か な く な っ て し ま っ て 。も う お じ い さ ん は 立 ち
れに近づけるように頑張るね﹂って言って、みんなで 出 てきたんで
こと って 何かなあ ﹂って聞 いたら、思い出しても泣けてくるんです
直れず、私も立ち直れず 。
がわからない﹂って言って、実はまたそのおじいさんから逃げてし
すけど、その後は私泣き崩れてしまって 。 ﹁そこに私は近づける術
こっちからやってこの前駄目だったから、今度はこ っちか
まって 。 たぶん過去高校のクラブをやめたこととそのおじいさんか
先 生 だ っ て 、 上手に 言 いますもん 。 ﹁これをやったら 、
らやったら広がって治るよ﹂ って 言 ってやって、﹁あきま
2
4
添い方がわからなくな ってしま って。だから 、その後おじ
ラウマ﹂になった 。
﹁看護師が関わる ことで、患者の人生を変える
その﹁逃げた﹂ことが高校時代の部活を止めたことと重なり﹁ト
はどうしてみえるかわからんけど、それはずっと私の戒
りしたんですけど 、私 一人ょう行かんかったんですよ 。今
て入られて、うちのスタッフはみんなでお見舞いに行 った
ら逃げてしまったことが、自分の中では結構トラウマにな っていて 。
ことができる﹂という信念でやってきた Sさんが初めて経験した、
めになっていて 。 ﹁絶対どんな患者さんでも逃げてはなら
いさんはおばあさんとともに長期療養型の病院に 二人揃っ
自分にはできん ﹂という悔しい思いだった 。
﹁
聞いてきて、ナ l スコールが減ったら、おじいさんたち喜
んですけど、部署の 。
﹁ そのおじさんの思いを五つぐらい
実はその時のことを今の看護部長、その時の婦長だった
んですけど 。
﹁それを絶対逃げん﹂ っていうふうに力にはしてると思う
で乗り越えれなかったっていうか、トラウマにはなりつつ、
ラブを途中でやめてしまったことが、自分の 中 では、自分
ん
﹂ っていうのは、そのおじいさんの経験と一つ高校のク
ぶよ ﹂っ て、よそでいっぱいするんですね。
﹁ 私 一緒に働
付けなくなったんです 。
﹁ 私の力ではどうにも し てあげら
私は結果的にそのおじいさんから逃げていて 。部屋に寄り
﹁
そ れを絶対逃げん﹂というSさんの決意は、その後の看護ケアの
刻まれて、看護師としての生きる原動力になっているのではないか 。
この経験がSさんにとって﹁トラウマ﹂になって、心の奥深くに
いた看護師さんがね ﹂っ て講演会とかでするんですけど、
れない﹂っていうので 。そこでや っと閉じ同僚の先輩も後
基本になっているようである 。
離れさせてもらったんですけど 。本当に夜間夜勤のラウン
が一生懸命ゃるから 二 回離れた方がいいよ﹂って言って、
言葉 として聞き取れない場合にも﹁何を語りたいか﹂をイメージす
る。ケアの基本はその患者本人の意思を聞き取るところから始まる 。
Sさんのケアの仕方は徹底して、患者本人の意思を大切にしてい
患者の ﹁声﹂に耳を傾けるケア
輩も、﹁私一人がすごくそのおじいさんの人生を背負おう
と頑張ってたけど、この子一人に押しつけていた﹂ってい
うのに気付いてくれて、﹁もういいよ、いいよ、ちょっと
ドにちょっと入るぐらいで、おじいさんの傍にいけなく
ることで 他 の看護師には聞き 取れない﹁声﹂を聞き取る努力をする
休めばい﹂ って言って 。
﹁ おじいさんの受け持ちは私たち
なってしまって 。後ろめたさですよね 。おじいさんが嫌い
のがSさんの態度である 。脳挫傷で失語症になった患者に対するS
七
とかじ ゃなくて、なんか自分、かどうしたらいいのか 。寄り
一
2
5
さんの関わりについての語り。
いかんって決めるじゃないですけど 。﹁窒 息しても文句言
わない﹂ って言っていうふうに。そしたら、﹁うんうん﹂
ていうふうだつたので 、先生に﹁ちょっとお楽しみ程度で
練習したら駄目ですか﹂って 。確認を取って、 本人は
落馬 して脳挫傷になられた方がおられて、 リ ハビリも積
んでみえて 。すごく有名なとこらから、帰ってみえた時に
息しても文句言わん﹂って約束して 。
Sさんの 問 いかけに対して、意味不明 の擬音でお答えるだけの患
やっぱり食べるのは駄目 、寝たきり。 なんとか介助で車い
すって方。言葉 が 守えない失語だった。言葉って言っても
一
号
﹁
あ l、あ 1、あl﹂って一一言、つんですよ 。 言葉が組み立て
葉が出ないだけで、よくわかつてくださってる っていうふ
言っ てくださったっていうのがわかったので 、この人は言
うl﹂って言われたので、﹁こんにちは 、 よろしく﹂って
て
、 ﹁
よろしくお願いします﹂って 言っ たら、﹁うI、う1、
その人に初めて出会った時に 、 ﹁こんにちは﹂ って三口つ
の意思﹂が大切だと実感した経験であった 。どのように練習したか
ハビ リをやったら 、どんどん回復していった 。 リ ハビ リには﹁本人
わん ﹂という本人の約束と主治医の許可を得て食べさせるという リ
いて 、 ﹁自分本人が食べたい﹂と言ったものを、﹁窒息しても文句言
像して対話していた 。 そして 、﹁どうしたい、 何 が一番望み﹂と聞
と聞こえてきたんですけど﹂と言っているように 、患者の意思を想
者であったが、﹁何を言いたいか﹂をイメ ージして、﹁私にはちゃん
うに思って 。 ﹁一生懸命やりますからね﹂ って言ったら、
の語り。
られない障害の方で 。
﹁
う l、う l﹂ って﹁よろしく﹂ つてなふうに、私にはちゃ
たい﹂って 。
﹁絶対駄目﹂って 言わ れてきたんですけど、 ﹁
自
すがきやのラ ー メンの話なんですけど 。
﹁ おにぎりが食べ
けど、どうも白いラ ー メンとおにぎりが食べたいというふ
うに聞こえたんですけど 、そうって 言っ たら ﹁
そう﹂ って 。
み﹂って聞いたら、 ﹁
あ l、あ l、あl﹂って言、
つんです
トレスで大爆発していた時に 、﹁どうしたい、何が一番望
思ってみえたんだと思うんですけど、 全然良くならないス
んもんね﹂ って。でつ1 l﹂ って 一
言っ て食べてみえるので 。
いいから﹂って言って、﹁つまってもつまっても文句言わ
すけど、﹁むせて出すから大丈夫﹂って 言っ て。
﹁ いいから
んですね 。 でも、﹁むせるで、 怖 い﹂ってみんな言うんで
ご
ごほごほ ﹂するんですけど、お若いし、 ﹁
きれないので ﹁
ツの千切りと串カツが食べれるようになって 。上手に食べ
練習を始めたんですけど、なんと半年ぐらいにはキャベ
ほ﹂って 出すんですね 。 だから、誤腕一性肺炎を起こさない
分本人が食べたい﹂ っていう思いがある人が誰が食ぺちゃ
んと聞こえてきたんですけど 。自分が実は多分良くなると
て
コ
窒
2
6
言われるんですけど、何を語りたいかをイメージするから
すけど 。 ﹁なんであんたは言ってることがわかるの﹂ って
さんは﹁何を言ってるかわからない﹂っておっしゃるんで
てるかよくわかるんですけど 、 通 っ て る デ イ ケ ア の 看 護 師
いまだに 言葉 がはっきり話せないというか、私は何を 言っ
ってやってたんですけど、本当に食べれるようになって。
で歌を歌いながら、その後﹁ちょっと食べる練習しょうね
でも歌って歌にはならないんですけど、ハミング的な感じ
二 人 で い つ も 歌 っ て た ん で す。
とラジカセを持っていって 。
カラオケのテlプがあったので 。古いものですけど、それ
もカラオケが大好きだったので 、ちょうど ﹁北国の春 ﹂ の
いいかな﹂ って言いながら考えて 。実は北海道 出身の人だっ
て。 カラオケが好きだったっていう話を聞いて 、うちの父
まあまあリハビ リ には いろんなのを本人と話して、﹁何が
玄関までは歩けるようになったりとか 。 その人の回復を極
て立つ練習をしま し ょう﹂とかつて言って 、今は歩行器で
﹁
手だけで移動しましょう﹂ って ことと、その後 、 ﹁
頑張っ
らって 、 そ こ か ら は ま ず 目 標 は 車 いすに 。 手は強いので、
ば﹂というふうに思って、そこからベットの横に座 っても
ですから、これは完全麻痩ではないので、 ﹁なんとかせね
ちょっちょっと触ったらびくびくってちょ っと動いたもん
ちは﹂ って言った 時 に、ふつうに会話はできるので、足を
けでも家に帰れるようにって帰ったんですけど、﹁こんに
れもできてて 。 たぶんすぐに戻ってくる 。 だから、少しだ
言っ ておなかの管から ご飯だったんですけど 、 その後床ず
ぐらいで髄膜炎になられて食べれないからって、胃痩 って
が抜けでたからおじいさんに見えてたんですけど、六O歳
髄膜炎で腰から下が麻描押してたおじいさん、おじいさん
う患者がいた 。 そこに ﹁
家 のパワl﹂を見る 。
から、病院ではできないことが 、家に帰る ことによ って できたとい
て大きな力になるのは家族であるとSさんは言う。訪問看護の経験
看 護師 が本人の意思を尊重することを 同じようにリハビ リにとっ
家族の愛がリハビリのエネルギー
力信じるというか、ゴールを勝手に決めてはいかんとか 。
じゃないですね 。 まだ若かったですね 。 六O歳ぐらい 。 歯
だよ って。
リ ハビリ中 、患者と話 しながら本人の意思を聞き取りながら、リ
ハビリをするSさん 。 そして 、時には リ ハビ リそのものには直接関
係のない好きなカラオケも一緒に歌うことによ って、患者に寄り添
いながら 、 リハビリをする 。 そのように寄り添うことで 、他 の看護
師には聞こえない﹁言葉 ﹂ を聞き取ることができたのであった 。
Sさんは、どんな人にも可能性があると信じ﹁絶対に逃げない ﹂
という態度で リ ハビリをしていた 。 そのベ l スには患者を見る観察
力 と 患 者 本 人 の ﹁ 回 復 を 信 じ る﹂という確信を持っていた 。
)
¥
.
2
7
いうのを栄養学の先生に教わって、 ﹁なるほ ど ﹂ と 思 っ た
おいしいと思うもんが一番自然にここが動くんだよ﹂って
み と か 刻 み と か つ て 習 い が ち な ん だ け ど 、 い や い や 本人が
とかで、勉強会に行った時に、﹁膜下障害の人には、とろ
お家とか帰られたりすると 、家 で 味 と か 。 実 は 暁 下 障 害
患 者 を 愛 す る 傾 向 が あ る と い う。
すことできない 。 家 族 が そ の 患 者 を 愛 す る 分 だ け 、 看 護 師 も 医 者 も
いている 。 そ の よ う に 働 く な か で 、 必 ず し も 、 す べ て に 全 力 を 尽 く
も 影 響 を 与 え る と い う。 看 護 師 は 時 間的制 約のなかで常に忙しく働
そして、家族の愛は、ケアをする看護獅や治療をする医師たちに
お 好 み 焼 き は ね ぎ も き や べ つ も 入 る じ ゃ な い で す か 。﹁ 危
娘さんが買ってきた二、三O O円 ぐ ら い の お 好 み 規 き を 。
とろみをなかなか食べなかったおばあさんが、家なので、
思うんですね、私から言えば 。 やる力は絶対みんな看護師
にやってると疲れるので、出すところを出し惜しんでると
たぶんそこまでやるパワーがみんなにはないというか 。常
本当はみなさんに変わらぬことをすべきなんですけど、
のが、味噌汁にとろみをつけたりとか、そういうおかゆに
ない﹂ って思、つんですけど 、 それをあげると、 ﹁もぐもぐ
ていう 言 葉 を語ってくれてることがあって 。 それは私も思
も医師もあるんですけど、私の友達のドクター目く、﹁家
本当に半年ぐらい前に帰って見えた方も、全然病院では
、つんです。﹁ お 金 だ け 出 し て 、 体 裁 だ け で 生 か し と い て く
もぐ﹂ って食べるんですね 。まぐろのたたきとかをあげる
食べれない末期がんの方だったんですけど、ちょうど脳出
だ さ い ﹂ っ て い う 患 者 さ ん も い ま す。 そ う い う 人 に 無 理 に
族が愛していない人は私たちも愛せない﹂とか 。 ﹁だけど、
血も起こされてて、 高 次 機能 障 害 が あ っ た ん で す けど 。家
い ろ ん な リ ハ と か や って、下手にいろんな こ と が わ か る よ
と
、 ﹁もぐもぐもぐ ﹂ って食べるんですね。 そ の 本 人 の 口
lジリ
家 族 以 上 の 愛 を 私 た ち に 求 め ら れ で も 難 し い よ ね 。だけど、
に帰ってきたとたん、ミルクティ l でしたかね、
うになって、 で も 動 け な い っ て い う ふ う に な っ て 。 ﹁家族
にあったおいしいもの ってい うのが、それが自然に動くと
ンティ l でしたかね、﹁ごくごくごく﹂ って。 そ れ ま で 全
は来てくれない、お金だけ出してくれて﹂ っていうような
家族がすごく愛している人には私も愛を注がなきゃあ﹂ っ
然 飲 め な か っ た ん で す け ど 、 家 に 帰 っ た ら 飲 め た 。お話も
ところになんの幸せもないかもしれないと思えば、逆にあ
ぃ
、
っ。
できるようなった 。 で 、 家 で 半 年 ぐ ら い 過 ご さ れ て 、 ま あ
まり手を出さないかもしれないし 。
ダ
、
旅立たれたんですけど、 ﹁家のパワーっていうのはすごい
なあ﹂ っていうのはありますね 。
看護師も医者も家族の関わりがない患者に対して、 やる気を起こ
2
8
さない傾向があるという。看護ケアや医療行為は、その患者の家族
リハビリの頑張り次第だから、一緒にリハビリ頑張りま
い﹂ってすごく怒ってみえた方に、 ??っお薬じゃないよ 。
くださるようになって、その方も歩けるようになったりと
ね。そしたら、次の 日か らちょっと一生懸命リハビ リして
しょう﹂ って怒って、私もちょっと勢いよく言ったんです
との協同行為なのである。
回復しようとする意欲が重要
看 護 師 も 精 一杯のケアをし、家族が患者を愛する 以 上 に 大 切 な こ
九
わ寄せて怒るわけじゃないんですけど、髄膜炎で下半身ま
厳しいって仕方ですけどね 。 そんないつも こう 眉聞にし
ているSさ ん で あ る 。 頼 る 人 の い な い ﹁ 独 り 者 ﹂ の 男 性 の 回 復 に そ
ひ だ っ た お 父 さ ん は 、 ﹁必ず私が行く時には こんにちは つ
だもんで、必死になって頑張った﹂ って 。 ﹁足はひきずっ
なによくなったの﹂ って聞いたら 、﹁独りだもんで働かな
りで走ってるんですよ 。 ﹁あれ﹂って言って 。 ﹁なんでそん
けど、半年後か一年後ぐらいに会ったら作業服着て、小走
療で退院の時には杖をつかないと歩けない方だったんです
独 り者 の 男 性 が 脳 出 血 か 脳 こ う そ く に な ら れ て 、 す ご い 麻
自 分 の 意 欲 を 学 ば せ て く だ さ っ た のが、五O代ぐらいの
こまでたどり着かないです。
の方その方 。 そ れ は あ り ま す 。 本 人 の 気 持 ち が な い と 、 そ
座っとるで﹂ っていうような 、 飴 と 鞭 的 な と こ ろ は こ う そ
あl﹂っ
寒い時期は 、 ﹁えへ﹂って言って笑ってるんで 。 ﹁
て。 ﹁もう来んと こかな ﹂って言うと、﹁今度からちゃんと
﹁待つとった﹂って待っててくださったり 。 寒 が り な の で 、
いくと、ちゃんと 一生懸命ベットサイドに自分で座って、
帰 っ て く ん で す 。 そうすると、﹁ぴんぽ l ん
﹂ って入って
﹁治ってった﹂ って 言うので、﹁すごいな ﹂ っていうのは本
当に感じた。
また、その本人の意欲を引き出すのが、看護師の役割だとも 守
つ。
一
吾
事 故 だ っ た 方は、﹁どうやったら治る、早く薬持ってこ
は、リハビリを断ることにしている 。
Sさんは、本人の意思を大切にするので、本人の意思がない場合に
がり、 Sさんがある家族に紹介されて、訪問看護を依頼されたが、
Sさんがリハビリしたことで劇的に回復させたといううわさが広
と ったけど、 トラック乗 っとったじゃんね﹂って言ったら、
て 行 っ た 時 に 布 団 に 入 っ て た ら 怒 る か ら ね ﹂ って 一
言って
の﹁自分の意欲﹂の大切さを実感した。
とは、患者本人の﹁自分の意欲﹂だということでリハビリを実践し
か
一
.
一
2
9
しょ ﹂ って言わ れたんですけど、私は﹁こんなにご本人が
嫌がってるから無理﹂ って 。 ﹁それはできるようにしてさ
んたは食べれん人を食べれるようにする看護師さんで
よ﹂って家族との交流があり、﹁先々どこに向かって頑張っ
の人が助かって、﹁その後はお薬だけじゃあよくならない
よ。 リ ハビリだよ﹂﹁自分の気持ちだよ﹂って、﹁こうだ
かにも今すぐ亡くなりそうな時を頑張って一緒になってそ
う体感したのは、やっぱり脳外科の時で 。脳外科なんです、
しあげたいけど、本人が強く望まない限り私たちがいくら
てく﹂って言って 。
﹁ ここまで頑張れたから帰ろうね 。 家
な ん と そ の 話 を 聞 き つ け た 脳 外 科 の 先 生 が 、食 べ れ る
願っても御父さんのストレスになるから、私はそれを勧め
ではここは整えてないから、ここ整えますか﹂っていう一
私の根源が 。根源がというかベ l スが 。 で、それが今の脳
ない﹂ って言って、そういう時の決断はするんですけど、 ﹁
誰
連の流れが一つの病院でできたんですけど、 今は治療を分
ようになってほしいと願っている家族に私のことを紹介
もが元通りの健常な機能に戻ることが幸せか ﹂
っ ていうと、
けてきていて 。集中治療室、収監の一般病棟、リハビリ病
外科では駄目です。昔は入院から退院までずっとそこだっ
﹁今頑張れな い人に無理やり頑張らせるのはよくない ﹂と
棟に分かれているので、駒切れなんですよね 。あの時の瀕
して、 訪問看護がスタ ート した方があったんです。 でも、
いうか 。 ストレスにさせてしまうっていうのはすごく思っ
死の状態は知らない 。あの頃のちょっとよくなるかならな
たので、ともに戦ってきたというか、本当に意識膿鵬、
てるので、そういう時には誠実に断るというか、﹁できま
いか 。でも、その先対処療法はここでは考えない 。でも、﹁な
本人が全く食べる気が、なくて、嫌で嫌で仕方がない 。
﹁あ
せんよ﹂ って いうところは伝えるんですけど 。無理なこと
んかリハビリになって﹂って言、
つんですけど、瀕死の時は
新人看護師として勤めた脳神経外科で看護師として成長した経験
まとめ
それこそ驚くわけ。
を言って初めて物を食べれるようになった時に、こちらは
あっても、診る側の 。 子供が成長していくようにね。 それ
知らないから 、展望がお互いに薄いんですよね 。 ご本人は
は無理。
本人の治したいという気持ちと意思があり、看護師が本気で努力
すれば、患者は良くなるという実感したのが、脳外科での経験であっ
た。 しかし、いまの脳外科の治療は分断され、かつてのように、発
症からの回復のプロセス全体を看ることができなくなっているのが
問題であるようだ 。
私、﹁自分が願えば私たちの想像以上によくなる﹂とい
。
し
、
3
0
について描写してきた。その過程で看護師として 、さまざまな﹁気
づき﹂を したSさんであった 。まとめると以下である 。
なぜ訪問看護師に
看護師の関わりが患者の人生を大きく変えることができるとい
﹁自分の存在価値 ﹂があるという﹁気づき﹂ 。
ケアを受けるわけではない現状をみて 、その家族の中で看護に関わ
になった 。病院でケアをした後、 家族の 中 で必ずしも質の良い看護
患者を看た いと思うようになり、訪問看護師になりたいと思うよう
一連の流れになっていた病院が無くなった今、 Sさんは退院後の
う﹁気づき﹂ 。
りたいと思った 。 しかし、訪問看護師になるまでの過程はそんなに
0
患者に人間として尊敬の念を持って接する以上に大切なこと
看護師の思いが患者に通じるという﹁気づき﹂
好きになり患者に寄り添う ことで、患者自身が思いを語り、患
者自身が癒され、家族関係も変わる可能性があることを知った
後の患者が語ることの大切さについての﹁気づき﹂。
0
看護 師として、患者の人生を好転できることができなく、 ﹁
逃
げてしまった﹂経験をしたが、﹁逃げないこと﹂の決 心 は後の
看護師としての生き方の基本だという﹁気づき﹂。
看護ケアをする時に、最も大切なことは、患者自身の﹁声﹂に
耳を傾けることであるという﹁気づき﹂。
患者をケアするという行為は、看護師と医者などの医療関係者
と家族の協同作業であるという﹁気づき﹂ 。
リ ハビ リにおいては、本人の﹁ 回復したい﹂という思いが最も
訪問看護師として働いて
大切で、それがなければ看護ケアはできないという﹁気づき﹂
第四節
たかったんですね 。 で、﹁そのコーディネーターをするた
を安心して家に帰ってもらえるためのコ lディネ lトがし
やるつもりはなくって 。脳外科、一 般病棟から家に帰る人
か現状がわからなかったので 。私、実は私訪問看護を一生
じゃない ﹂ってい うような感じで、本当に実質サポートと
ても先輩も﹁知らん﹂って 。 ﹁
訪 問看護を受け ればいいん
の現場のサポー トをわからなかったんですね 。先輩に聞い
私が安心して家に帰ってもらう準備をする、本当に家で
良くなったのに、なんで﹂ ってい うのが 。
くって。ショックでショックでならなくって 。 ﹁あんなに
三 カ月ぐらいで 当 時 亡 く な っ た ﹂ っ て 耳 に す る こ と が 多
ていう方は、﹁じゃあ二次施設へ﹂って入られて、﹁半年か
特に女性が受傷されて、﹁家事も世話も何もかもは無理﹂っ
たのにね﹂っていう方を受け入れられないご家族が多くて 。
﹁それこそ 、 そうやって共に頑張ってここまで良くなっ
たやすいものではなかった。
笑顔で看護ケアをする Sさんは 患者に歓 迎され、 看護師として
四
は、﹁患者を好きになる﹂ことで、好きになることができれば、
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
3
1
めに、現場を見に行きたいから﹂ って 、 ﹁一、二年でいいか
ら訪問看護をさせてほしい﹂ っていうふうに頼んで 。ただ
﹁訪問看護はト ー タルで見なくちゃいけないから 、外 科 系
だけで行っちゃ駄目だ ﹂っ て言われたので、内科に勤務異
た。
最期を看取る態度の基本
私、脳外科にいる時から、そこの大元の所長が保健師で
最期を迎えた患者に声をかけ、﹁自分の人生まんざらじゃなかった
事象でも幸せと取れるか、不幸と取れるか﹂という信念のもとに、
Sさんの看取りの基本的態度としては、 ﹁関 わり方一つで、同じ
固めてる 。﹁ 地域の保健師さんと渡り合うためには看護師
な﹂と思ってもらうことを手助けすることである。
い﹂って。﹁看護師でいいんだけど、うちの K病 院 の 訪 問
看護ブランドは保健師で揃える﹂っていうのが所長のプラ
イドだったので、﹁保健師じゃない子はいれない﹂って 言
われて、保健学科の受験にかかったんですね 。 で、現場で
働きながら 。ぱ ーんと辞めて、予備校に行ってとか、さす
がに経済的にできなかったので、でも、まあ 二度ほど受験
に失敗しまして 。 一 四 倍 の 難 関 を 私 に は 乗 り 越 え ら れ ず 。
で、 三回目受けようとしてたんですけど、二年受験頑張 つ
たところで、﹁認めてあげるから来なさい﹂ ってお っし ゃっ
一、二年勉強
て、平成一一年に訪問看護に異動して 。で、
したら、 戻 る予定だったんですけど 、後になるものが誰も
入ってこず、なんか今のポス ト に成りあがってというかな
んというか 。
訪問看護師になれたのは、 Sさんの努力と熱意とある程度の偶然
の成り行きであったが、 Sさんは天職ともいえる訪問看護師になれ
れないですし、そういうチャンスをよう作らんというの
そのなかなか、日本人 ってそういうチ ャンスがないと語
にもですし 。自分自身にも言い聞かせてるんですけどね 。
少しでも短く過ごしてもらえたい っていうのは 、遺族の方
トーとしてや っていて 。何でしょうね。癒されない期間を
一応自分では言い聞かせてるんですけど 。それが一番モ ツ
てもらうことが 、
私の役割だと思 ってます﹂ っていうのは、
﹁自分の人生まんざらじ ゃなか ったな っていう最期を迎え
な
。 私がよく言 っているのは、私は気合と愛情を込めて、
ありますので 。まあそういうところも、お手伝いできたら
かの 一声で考えが瞬間的に変わったり﹂とかつてところも
のはこういうふうにちょっと覗いてみたら っていう、﹁誰
なんですけど、ものの考え方とか、やっぱり見方 っていう
と取れるか ﹂っ ていうのは本当に、きっと宗教とかもそう
﹁関わり方 一つで、同じ事象でも幸せと取れるか、不幸
じゃ駄目だ、保健師じゃないと訪問看護はさせてあげな
動出して、循環器科に異動になったのと(中略)。
四
3
2
ごめんなさい﹂とか﹁別れを惜しんだり﹂
、﹁こんな良いこ
が、現場で見ていて感じるんですね 。今ここで﹁いろんな
が﹁いろいろ無念だ ったんだろうな ﹂とか﹁何か語りたいことがあ っ
流して、亡くなって﹂った記憶が強烈に残っており、その時の父親
それは、
なんかこう切なそうな涙を
一三歳の時に亡くした父親が ﹁
とあ ったよね ﹂ とか、﹁これだけ 言 っとかな﹂ってことを
原体験 ﹂がSさんにあったのであろう。
たんじゃないかな﹂と感じた ﹁
訪ねた時に、おばあさんが 心 から 喜 んでくれた 。﹁喜 んでくれてい
れは、気難しいおばあさんにコスモスの花束を満面の笑みで持 って
れる、人とともに 喜び合う、ということを生きがいとしている 。 そ
つ人であ った。無理をして看護をしているというよりは、人に 喜 ば
Sさんは満面の笑顔と勢いで看護ケアをしているという印象を持
﹁楽しい﹂って思う時ですけど 。
に笑えたね﹂って言う時は一番﹁ゃったあ l﹂っていうか、
共
あろうと、回復期のことであろうと 、なんかその瞬間 ﹁
い時はや っぱ患者さんと笑顔で過ごせる時は、末期の人で
会的に参画している欲求が満たされてる﹂というか 。楽し
社
ろは大きいと思います。 ﹁私が役に立ってる ﹂っていう、 ﹁
味っていうのを逆に表してくださっている﹂っていうとこ
自分の存在意
看護師としての魅力ですね 。 私の場合は ﹁
最後に、看護師として生きがいについて聞いてみた 。Sさんは 言
。
ノ
つ
、
看護師としての生きがいは﹁患者さんと笑顔で過ごせる時﹂
語ってほしいんですけど、 やっぱそういうことを思み嫌う
そうすることで、患者本人、看
四
ばっ
ので、﹁頑張れ、頑張れ、生きて、生きて﹂ってこと 、
かりは伝えて 。そういうところを見てきて、私たちは現場
で、それもあるけど、それもわかるけど 。 ﹁今語ろう﹂とか 。
﹁今は人生を共に振り返ってどうだつたか﹂とか、﹁もしか
して伝えてないこととかを伝えた方がいいよ﹂とか、もう
膿鵬としている人に﹁奥さんのこと好きだよねとか言って
言って﹂ って。
﹁まあね ﹂とか 。まあねでもいいんです。オツ
ケー ってことなので 。、っーんとか 言うわけではないので、
そういうシチュエーションを作ったりだとか 。 よく医療処
置だけしているように思われるんですけど、いやいやそう
じゃないですよ やっぱり心がみんなが癒されるようにっ
﹁
。
ていうのを手伝わなきゃね﹂ っていう。
家族が最期を迎える時に、﹁ ﹃
頑張れ、頑張れ、生きて、生きて ﹂
てことばっかりは伝えて﹂いる家族を見てきて、 Sさんはそのよう
にする家族の 心情はわかるが、それ以上に大切なことは、患者本人
が自分の語りたいことを聞くことではないかと考え、﹁今は人生を
O
共に振り返ってどうだつたか ﹂とか、 ﹁
もしかして伝えてないこと
とかを伝えた方がいいよ ﹂とき号
ノ
取る家族が﹁やっぱり心がみんなが癒されるように﹂と願っている 。
つ
3
3
経験した﹁看護ケアする喜び﹂体験が 二O年たった今も父親の死の
ることが自分がすごくうれしかった﹂という看護学校の学生だった
でも役立つんだ﹂と実感した体験。 そして、 三 つ目の体験は、﹁そ
て接していなかったと気づいた 。二 つ目は、患者に頼りにされて﹁私
その患者に拒否された 。 その体験を通して、患者に一人の人間とし
る体験﹂として語られことをSさん自身が用いた表現に言及し、看
護師としての成長のプロセスを見てみたい 。
したことだった 。 その人とは、﹁触ってくれるな 、 ほっといてくれ﹂
という気難しいターミナル患者であった 。 その患者を喜ばそうと悩
んだ末、その患者に喜んでもらうことだけを願って、コスモスの花
束をその患者のところに持って行ったら、﹁笑顔で ﹃
わlきれいだ
ね﹂﹂って言ってもらえた体験。特に、一二つ目の体験はSさんの看
護師としての患者に対する接し方の基本となったと思われる 。
験をしたことで、タ ーミナル患者に最期に﹁今まで語ってこ、なかっ
語らなかった父親の ﹁
無念﹂を感じた Sさんの﹁原体験﹂ 。 この体
たいけれど語れなかったという思い﹂という表現を用いて、最期に
影響していると号守える 。
﹁ いろいろ無念だったろうな﹂﹁なんか語り
一三歳の時の父親の死は看護師として基本的態度に大きく
り一つでその人の人生が大きく変わる﹂ということを目の当たりに
そして、患者のリハビリを支援した体験を通して、﹁看護師の関わ
た体験。 それが看護師として生きることへの自信になっていった 。
なる﹂という患者の言葉を開き﹁自分の存在価値﹂を認めてもらえ
門的技術を持っていない時にも﹁あんたが来てくれるだけで元気に
の大切さを実感しながら成長した体験。一 つ目は看護師としての専
第 三に、看護の現場で、新米看護師として積極的にかかわること
た思い﹂を語ってもらえるようにすることが看護師Sさんの役割だ
して、その人の人生を ﹁
好転する方の 看 護師になりたい ﹂と思い 、
習するために﹂血圧を測らせてくださいと言ってしまったことで、
﹁あんたじゃ 、嫌だ ﹂と言われた体験。
﹁ 患者のため﹂ではなく、﹁実
アをしたいと思う看護師を志向するようになった 。 その一つ目は、
看護学校の実習での三つの 体験を通して、 ﹁
他人のため ﹂の看護ケ
分のため﹂﹁家族のため﹂に看護師になろうと思っていたSさんが、
笑顔で接することができなかったようだつた 。
﹁ 何々さん、これさ
していた 。しかし、患者がSさんを嫌 っていた場合には、 必ずしも
するまでのSさんは、患者に好かれていたから 、笑顔でやさしく接
感情的関わりの重要性を実感する 三 つ自の体験をする。その体験を
看護としての専門的技術の向上を目指すようになった二つ目の体
験。次に、看護師としての技術の大切さに加え、患者への積極的な
次に、家庭の経済的な現実の中で、﹁他人のため﹂ではなく、﹁自
と考えている 。
まず、
の人が喜んでくれていることが自分がすごくうれしかった﹂と自覚
経験と同じように﹁原体験﹂として残っているのであろう。
第五節
Sさんの看護師としての段階的成長の解釈
結
論
Sさんのライフストーリーの中で、今のSさんにと って﹁意味あ
五
3
4
婦長さんのアドバイスに従い、そのおばあさんを好きになることを
いおばあさん﹂と接した時に、 Sさんは困ってしまった。しかし、
せてください﹂と笑顔で言っても、﹁抵抗して怒ってさせてくれな
じいさんから距離を持つことになった 。 その体験をSさんは、﹁悔
直れず﹂の 状態になり、 Sさんは、 寄り添い 方が分からず、そのお
てしまった。その結果、﹁もうおじいさんは立ち直れず、私も立ち
第六と して、 ﹁逃げない﹂決意をした後は 、回復の希 望がわずか
やまれる体験﹂として、心に刻むことになる。この体験後、﹁絶対
極的に患者を﹁好きになる﹂を実行する看護師Sさんが生まれた 。
であっても、﹁その人の回復力を極力信じ﹂逃げない看護ケアをし
決心し、積極的にケアをすることで、﹁本当にその人を好きになら
第四と して、患者への積極的態度を 一歩進め、患者に寄り添う看
てきでいる。その 一つ目の体験。脳挫傷で失語症になった患者への
に逃げん ﹂という看護師としての 生き方を決意した。
護ケアをした体験は、今の S さ ん の 基 本 に な っ て い る よ う で あ る 。
関わりは、言葉が出ない患者の﹁声﹂に徹底して耳を傾け、本人が
ないと、思いは伝わらないんだなあ﹂と実感した体験。その後は積
末期がん症状を持つ患者は、﹁本当に薬を使おうが何をしようが痛
望んでいる こと理解した上でその希望を 実現するために患者と共に
第七として、 Sさんはリハビリに関わる体験の中で、患者が回復
みが取れず、激しくヒステリーになって﹂、ナ l ス・コ 1 ルを頻繁
Sさんに語った 。 そして、母親に﹁謝りたかった﹂というその語り
するのは、﹁家族の愛﹂と患者﹁本人の意欲﹂があることが前提で、
行動した。ほかの看護師には必ずしも間こえない患者の﹁声﹂を聞
に従い、生き別れになっていた母親を呼んだ 。最初は、病気のスト
その前提で Sさんたち看護師、医療従事者たちのケアが効果をもた
していた 。 その患者に﹁傍にいるから、大丈夫、大丈夫﹂と言い、
レスから母親を攻撃していたが、最終的には謝ることができた 。 そ
らすと確信し、患者の回復は、周りの関わる人たちと本人の意欲の
く態度の根底には、﹁逃げない﹂という態度が根底にあった。
してその日から、ナi ス・コ 1 ルもしない患者に変化した。この体
協同作業であると考えている。﹁家族の愛﹂を受けていない患者に
徹底して 寄り添っていたら 、その患者が悔やんでいる過去について、
験を通して、 Sさんは、徹底的な寄り添いを看護の基本的態度とし
看護師も医者もエネルギ ーを注げない 。 また、本人の意欲がない場
合には、看護師が何かケアをする意味はないのではないかと考える 。
て身に付けたようだつた。
しかし、第五として、その﹁徹底した寄り添い﹂ができない体験
をして、そのおじいさんの心を落ち着けるケアをしていた。その後、
に対しても、他の看護師にはできないほどの﹁徹底した寄り添い﹂
の語り﹂をベ l スにした接し方は、その回復の見込みがなくなった
じてケアをしている場合である。ア l サ1 ・フランクの 言う﹁回復
第一から第 七までの体験は、患者がなんらかの形で回復すると信
患者自身の望みがすべてだとSさんは考えるからである。
Sさんが主治医に提案してしまったことで、そのおじいさんは再手
とわかった時、患者自身、その患者をケアする看護師にも﹁失望 ﹂
をすることになる 。 四肢麻療になっていた﹁問題児のおじいさん﹂
術を受け、回復しつつあ った 状態から、また動かなくなる状態に戻つ
3
5
した看護ケアだったので、回復の見込みがなくなった時には、﹁そ
い方が分からなくなり、﹁逃げた﹂のは、﹁回復の語り﹂をベ l スに
あ る い は ﹁ 絶 望 ﹂ が 必 ず や っ て く る 。 第六の体験でSさんが寄り添
で き る と い う こ と を 彼 女 の ケl ス か ら 学 ぶ こ と が で き た 。 最後に、
Sさんの語りから学べることの 三点について述べ、本稿の結論とし
たSさんだった 。 その後さまざまな体験を通して看護師として成長
うことで、﹁他人のため ﹂ にケアをするという看護を身に付けて行っ
れができん ﹂と 失 望 せ ざ る を 得 な い 結 果 に な る 。
しかし、今のSさんは、﹁回復の語り﹂だけに執着するのではなく、
(
柏木
一九九O年 ) な ど の 形 式 で 尋 ね る こ と で 、 患 者 自 身 が
はどうお感じになりますか ﹂﹁ 何 か 悩 ん で い る こ と あ り ま す か ﹂
に 質 問 を す る の で は な く 、 そ の 人 の 思 い を 聞 く 質 問 、 ﹁あなた
さ れ る こ と が あ る 。 そ れ に 対 し て 、 医 療 処 置 の対象として患者
る悩みを語る可能性がある 。 患 者 の 苦 し み は 、 怒 り と な り 表 現
であろう。 そのように寄り添うことで、患者自身が苦しんでい
医療的介入や措置ではなく、患者自身の気持ちに寄り添うべき
表面に現れた怒りや行動の背後にあるものを感じ取るために、
相手の心は聞かないことがあることがある 。
できる 。 医療者としての立場で、技術的に傾聴をしたとしても、
になり、傾聴してこそ、患者の ﹁
声
﹂ が本当に聞き取ることが
例を示してくれている 。患 者 に 人 と し て 接 し て 、 そ の 人 を 好 き
することができるのかという点について、 Sさんの語りはその
であると言われて久しい 。 しかし、旦ハ体的にどのように﹁傾聴 ﹂
﹁
患者の 言う こ と に 傾 聴 す る ﹂ と い う こ と は 、 看 護 ケ ア の 基 本
し
、
に、身体的苦痛について何も言わなくなった 。
ルをした患者の場合、その悩みを 語り 、 結 果 的 に 解 消 で き た 時
んで苦しみ、そのことを表現できなかったことで、ナ1 スコ 1
感じる今の状態を患者自身の 言葉で語り始める 。 親子関係で悩
① た
②
﹁
病 い の 語 り ﹂ に基づき、人生の最期を迎える患者たちの﹁声﹂﹁語
り﹂に耳を傾け、彼らが生きたことに対しての証人として、最期の
時 が 来 る ま で 、 と も に 生 き る と い う 立 場 を と っている 。訪 問看 護師
として、患者の最期に立ち会う時、﹁気合と愛情を込めて、 ﹃
自分の
人 生 ま ん ざ ら じ ゃ な か っ た な ﹄っていう最期を迎えてもらうことが、
私 の 役 割 だ と 思 っ て い ま す ﹂ と 言 い、患者の最期の生きざまの証人
になろうと思っている 。 また、最期の時期を患者と ﹁
共に笑えたね ﹂
と ﹁
楽しい ﹂ って思っている時に、 Sさんの看護師としての生きが
いを持つことができると 言、っ 。患者とそのように過ごすことは、 S
さん自身に﹁自分の存在意味﹂を与えてくれている、﹁私が役立っ
ている ﹂ いう社会的参画の欲求を満たすものになり、 Sさん自身は
看護ケアを楽しんでいるのではないかと思える 。
Sさんの看護ケアの語りから学べること
家族のため ﹂ というものであっても、看護学校で学び、実習を行
﹁
描写してきた 。看護師になった動機が経済的な理由で、﹁自分のため ﹂
たかついて、 Sさんの ﹁
語り﹂を用いてライフストーリーを詳細に
看 護 師Sさんが、どうようなプロセスを経て、今のSさんになっ
五
3
6
最期を迎える患者は、語りたいという﹁思い﹂を持っている。
それをどうにか語ることができれば、患者自身、周りにいる家
んに行われ、看護実践の語りに見られる看護実践の現象そのものを分析
注1 一看護実践の研究方法として、最近、現象学的ア プローチに よる研究が盛
し、そこに発見された看護実践の普遍的な構造を理解する研究が注目さ
れ て い る 。 福 田 (二O 一四年)は本稿で用いている﹁気づき﹂の構造的な
要素の概念としての﹁節目﹂という言葉を用いて、一人のソ lシヤルワ l
族 に と っ て も 、 悔 い の な い 最 期 の 別 れ に な る 。 固定化されてし
まった家族関係の中で、自分の思いを語ることはそれほど簡単
カl の成長について、現象学的に分析している。また、看護実践そのもの
参考 文献
柏木哲夫
桜井
ライフストーリー論﹂ 弘文堂
﹁
せりか書房一一五五頁
二O 二 一
年
号
東洋
﹁
(C)(
ニ
)
﹃
庶 民 に よ る 語 り か ら み た 戦 後 の 世 相 史 の 社 会 学的研
一一│五 三頁
ライフストーリーを手掛かりとして﹂﹁言語と表現i 研究論集﹄第七
二O 一
O年﹁﹃決定 的瞬間﹄ についての語りの考察i ある大学教授の
科学研究補助金研究成果報告書(一七五三O三九六)
究﹂(
研究代表者 )平成一七 年度1平成一九 年 度 基 盤 研究
三O O九年
寄り添うということ │ ﹂﹃臨林看護﹂ 二 三 会 乙 一 一四八 │ 二五四 頁
医学と宗教と現代医学との問で揺 れ動いた Tさんの心│患者 の心に
一九九六年
スピスケアの展望﹄
一
五 │ 一三 四頁
一
二O O七年 ﹁ライフス トーリー・インタビ ューを始める ﹂桜井厚 ・
ラ イフストーリー・インタビ ューi 質的研究入門﹄
小林多寿子編著 ﹃
一九九O年 ﹁ 末 期 患 者 を 支 え る 人間的対話 ﹂﹁現 代 のエスプリ│ホ
の一部である。
C) ﹁﹁語り﹂を取り
注2 ・本稿は、平成 三五年度i平成二 七年 度 基 盤 研究 (
入れた看護ケアの社会学的研究﹂の科学研究補助金によって行われた研究
一
二 年などがあるが、本稿の今後の課題はこ
上靖彦 ﹃
摘便とお花見﹄ 二O 一
のような現象学的研究を学ぶことによって可能になるであろう。
看 護 師 た ち の 現 象 学 協 働 実 践 の 現 場 か ら ﹄ 二O 一四年、村
二O O一年、 ﹃
語 り か け る 身 体 看 護 ケ ア の 現 象 学﹄
の構造に焦点を当てた、西村ユミ ﹃
なことではないように思われるが、語り易い環境づくりをつく
ることができるのが看護師ではないか 。看 護 師 は 、 患 者 の 最 期
の生きざまの証人としてそこにいることが重要な役割ではない
かとSさんは述べ、身体的、医療的な看取りだけでなく、心の
一人の看護師Sさんが語 った看護ケアに関する
﹁看取り﹂をすることが看護師の役割であるとしている。
最後に、本稿は、
経 験 に つ い て の 語 り を ラ イ フ ス ト ー リー と し て ま と め た も の で あ
る。 一人の看護師が経験した成長の過程で具体的に経験したことに
ついての語りを描写し提示することで、看護の現場で働く一人の看
護師の﹁気づき﹂について示してきた。しかし、このようなまとめ
方 で で き て い な い こ と が あ る 。 そ れ はS さ ん の 看 護 師 と し て の 看 護
ケアの実践そのものに関する具体的な行動の考察である 。Sさんは
τ
T
佐々木裕子・木 全幹夫 ・二之方恭子・馬場昌子・馬場俊彦
享
!
r
.
.
筆 者 が 参 加 し て い る 看 護 実 践 に 関 す る セ ミ ナ ー で、いくつかの事例
報告をし、看護実践で具体的にどのように思い、行動したかについ
ての発表を行っている 。 今後の課題は、そのSさんの事例報告の内
容について具体的にインタビューし、その内容を現象学的アプロ ー
チ (
注1) で詳細に読み込むことで、看護実践 の構造を考察し、他
の看護師の経験とも共通する普遍的な看護実践の構造とは何かを分
注2)
析 す る こ と で あ ろ う。 (
塚
田
③
3
7
西村ユ
野村直樹
二O O一年﹃語りかける 身体│看護ケアの現象学﹄ ゆみる出版
看護師たちの現象学協働実践の現場から﹂青土社
三O 一四年 ﹃
三O O一年﹁無知のアプローチとは何か﹂小森康、氷 ・野口裕二 ・野
ナラテイヴ・セラピの世界﹄日本一評論社 一 六 七 │
村直樹編著 ﹃
一八六頁
ー﹁節目﹂の体験として語られたテキストの分析l ﹂口頭発表、ケ
ブiバ1、マ l ティン(野口啓祐訳) ﹃
孤独と愛│ 我と汝の問題﹄ 創文社
福 田 俊 子 二 O 一四年﹁精神保健福祉領域のソ 1シヤルワ lヵ!の自己生成
アの現象学的研究の実践、東京大学、 一
一 日
二 月二
﹃
傷ついた物語の語り手i
﹃
その先の看護を変える気づき│
二O 二三 年﹁摘便とお 花見 ﹄ 医学書院
フランク 、 アl サ1 W ( 鈴木智之訳)三 O O二年
身体 ・病い ・倫 理﹂ゆみる 出版
村上靖彦
二O 一
一 年
学び続けるナl スたち﹄ 医学書院
柳田邦男・陣田康子 ・佐藤紀子