高度経済成長期における社会的養護問題の変 容と「血縁家族」 ――「親権問題」および「定員割れ問題」の系譜を中心に―― 報告者:土屋敦(つちや あつし) 徳島大学 総合科学部 社会学研究室 [email protected] 第24 回日本家族社会学会大会・企画全体テーマセッション「親子 関係と子育てをめぐる「新たな秩序」-「血縁」に着目して‐」 2014年9月6日(土)・7日(日)@東京女子大学 目次 1. 目的 2. 高度経済成長期に生じた児童養護施設の「定員割れ問題」 3.社会的養護問題のその後の展開 4.もっと詳細な議論をしたい方のために 1. 目的 1-1.高度経済成長期に生じた「社会的養護 問題」の変容を問う意味① 1-2.高度経済成長期に生じた社会的養護問題の 変容を問う意味② ●近代日本の社会事業における児童養護施設(孤児院)の設 置は、明治20-30年代までさかのぼる。 ●他方で、それが急速な進展を遂げるのは敗戦後期であり、そ こでは焦土にたむろする戦災孤児や浮浪児を収容・保護する 施設として、主に民間主導で児童養護施設の設置がなされた。 ●1950年時点で、児童養護施設数は500施設あまり、乳児院 は120施設あまりに達するが、この規模は、高度経済成長期、 低成長期、バブル期を経た現在社会においてもほぼ同じ規模 で維持されている。 1-3.高度経済成長期に生じた「社会的養護問題」 の変容を問う意味③ ●児童養護施設への入所において、戦災浮浪児や捨児など の「家庭のない子ども」「両親を亡くした子ども」が多くを占めて いたのは、敗戦後から1950年代初頭までの時期であり、1950 年代後半から1960年代初頭の時期は、戦災孤児たちの多くが 児童養護施設から退所していく時期に相当する。 ●仮に、戦後日本社会の児童養護施設が、戦災や戦後の混 乱期の中で専ら「家庭のない子ども」「両親を亡くした子ども」の みを保護する施設としてあり続けたならば、多くの施設は1950 年代後半から1960年代初頭にかけて、おおかたその役割を 終えていたはずである。 1-4.高度経済成長期に生じた「社会的養護問 題」の変容を問う意味④ ●にもかかわらず、その後の高度経済成長期以降も児童養護 施設を中心とする社会的養護体制の規模が維持されたのは、 なぜだったのか。 ●また、それを可能にしたのは、「公的に保護されるべき子ど も」という問題機制のあり方のどのような変容との交錯関係の中 で達成されたのか。 ★明治期から現在に至るまでの近代日本における社会的養 護問題の変遷を「保護される子ども」の問題機制の変容という 軸で辿るならば、最も大きな変容は高度経済成長期に生じた のではなかったか。 2.高度経済成長期に生じた児童養護施設 の「定員割れ問題」 2-1.社会的養護を必要とする児童は「減少している」① ≪1960年代初頭以降の「開差是正措置」「施設転換指示」≫ 【厚生省児童局長 黒木利克(1964)】 地域によっては、たとえば山梨県では養護施設の定員の 充足率はわずかに60%、その他の県においても地域によりま しては、そういう所があるのです。それにいわゆる戦災孤児、 あるいは親のない子供というものが、だんだん養護施設の収 容対象児童から姿を消しつつあるのです。一方においては、 精薄児、非行児、問題児というものが激増し、これも増加率は 世界一でありますが、これを受け入れる施設が足りない。こう いう事から養護施設の再検討というか、養護施設の使命につ いて、大いに考えていただかなければ、大いに頑張っていた だかなければならない。(全社協養護施設協議会 1965 : 42) 2-2.社会的養護を必要とする児童は「減少している」② ―1960年代における「開差是正措置」「施設転換指示」- ★1964年2月19-20 日: 厚生省、全国児童課長会議で養護施設の他 施設への転換ないし開差是正を指示 ★1964年9月: 第18回全国養護施設長研究協議会における黒木利克 児童局長の講演 ★1966年9月: 行政管理庁「社会福祉事業の運営に関する行政監察の 結果について」 ★1967年4月14日: 厚生省児童家庭局企画課長通達「児童福祉施設 における定員と在籍人員との開差の著しい施設に対する是正措置に ついて」 ★1968年4月3日: 厚生省児童家庭局長通達「児童福祉施設の定員と 現員との開差是正について」 ★1971年4月10日: 厚生省児童家庭局通達「児童福祉法による収容施 設措置費国庫負担金の交付基準について」 ★1972年4月3日: 児童家庭局企画課長通達「児童収容施設の定員と 現員との開差の是正措置の円滑なる実施について」 2-3.社会的養護を必要とする児童は「増加している」① ⇒この1960年代から70年代における子捨てや 子殺しをめぐる記事の論調においては、親を 非難するかたちで構成されたものが多くを占 めるようになる。(ex.コインロッカーベイビー) 捨て子、捨子 45 40 35 30 25 20 15 10 5 0 捨て子、捨子 1945年 1947年 1949年 1951年 1953年 1955年 1957年 1959年 1961年 1963年 1965年 1967年 1969年 1971年 1973年 1975年 1977年 1979年 「師走の/口にワタつめて/路地のボール箱に」 (1962年12月29日朝刊) 「“就職のじゃまだった”/捨子の両親見つか る」(1965年5月14日朝刊) 「車の幼児、暑さで死ぬ/窓を締切りプール へ」(1969年8月5日朝刊) 「早過ぎた結婚ごっこ/「面倒だ!」と捨子」 (1969年12月8日) 「置き去りにされる子供たち/母の家出・捨子・ 虐待」(1970年2月10日) 「また母が二児を殺す/町田 ノイローゼ、首し める」(1972年12月11日) 2-4.社会的養護を必要とする児童は「増加し ている」② 田間泰子(2001)『母性愛という制度―子殺しと中絶のポリ ティクス』 「母性愛」「子捨て」「子殺し」 ⇒新聞紙面の分析であり、そこで形成された「社会問題」 がその後社会的養護のあり方にどのような影響を与えた のか、という点に関しては分析がなされていない。 2-5.社会的養護を必要とする児童は「増加している」③ 母性的養護剥奪論に関する主要な研究論文(1960年代後半-1970年代) ●今村重孝(1969)「Deprivation Syndromeについて」『小児科』第10号 ●池田由子ら(1971)「双生児の人格発達の研究4 精神衛生の立場から 見た双生児の母親の研究」『精神衛生研究』第19号 ●山中樹ら(1971)「Deprivation Dwarfismと思われる症例」『小児科診 療』第34号 ●西田博文ら(1972)「長年、社会から遮断されて育った3きょうだい」『精 神医学』14巻8号 ●田野稔郎(1973)「Deprivation Syndrome」『小児内科』第5号 ●大久保修ら(1975)「Emotional Deprivation(情緒剥奪)の1症例」『小 児科診療』第38号6巻 (出典:子どもの虹情報研修センター(2007 : 21-2)より引用) 2-6.社会的養護を必要とする児童は「増加している」④ 「支弁定員払制」は児童行政の基本にふれた重要な問題 ■要保護児童(母子)は激増している 「施設の空所が目立ってきているからこのような措置を取らざるを得ない」と当 局はいうが、はたして施設に入所すべき児童(母子)は地域社会に放置され ていないのであろうか。現象だけを見て消極的な措置をとるのでは、真の解決 にならない。いったいこのような事態は何によって生みだされたのであろうか。 ■激増する要保護児童 児童福祉法20周年を迎えた今日、要保護児童の問題は増々増大している。 それは急激に都市化している社会構造の中で家庭崩壊と児童福祉の阻害が はげしく起っていることによる。毎日のテレビ、新聞で報ぜられる児童の虐待 事件、乳幼児の遺棄、青少年非行の増大、母子心中事件などは社会の耳目 にふれる氷山の一角にすぎない。ところが、これら要保護児童、母子世帯が 利用する乳児院、養護施設、教護院、母子寮の空所が問題になるのはまこと に皮肉な現象である。 (出典:全社協養護施設協会(1972: 19-20)より引用 傍点:引用者) 2-7.社会的養護を必要とする児童は「増加している」⑤ 「支弁定員払制」は児童行政の基本にふれた重要な問題 ■児童福祉行政の第一線機関 問題は地域社会の要保護児童、母子世帯を調査し、適切な施設の 利用、入所をはかるべき児童福祉の第一線機関である児童相談所あ るいは、福祉事務所の弱体にあるのではなかろうか。第一線機関の手 不足が厖大な要保護児童を眼前におきながら、施設への入所、施設 の利用を行うチャンスを与えることができないでいる。これ等の第一線 帰還の整備拡充と活動の強化なしに現在怠起している問題の本的な 解決はあり得ないと考えられる。 (出典:全社協養護施設協会(1972: 19-20)より引用 傍点:引 用者) ⇒「子どもの人権を守るために」全国集会(1968-1980) 主催:全国社会福祉協議会養護施設協議会、協賛:NHK、朝日新聞他 2-8. 社会的養護を必要とする児童は「増加している」 ⑦――1970年代後半からの「親権問題」の浮上―― 悩みの多い親権問題 都内のある不良環境地区といわれる旅館に生活している夫 婦に、双生児が生まれた。三疊に六人、生保家庭でもあった。 相談の結果、妹だけを生後直ちに、B乳児院に措置。まもな くA男も措置。その後、公営住宅があたって転居したが、旅 館の管理人を通して、生活状態はほぼつかめていた。生活 は依然として苦しいようであったが、ある日、A男の引きとりを 申し出てきた。法的には、れっきとした親ではあったが、飲酒 が度をこすこともあり、不安であったが…。結局それが事実と なってあらわれる事件がおこった。約半年位は、私は頑強に 親引き取りを拒んだ。早晩、再措置は目に見えている。しか し、たっての親の願いで、とうとう引きとりを認めた。二十日後、 父親が飲酒中に本児をコンクリートにたたきつけ、死に至ら しめるという事件をおこした。 2-8.社会的養護を必要とする児童は「増加している」⑧ ――「親権問題」の浮上と「児童虐待問題」形成の萌芽―― ● 1960年代後半から1980年代初頭の時期においては、養 護施設児童が「親達の状況は戦前の孤児院時代や、戦後の 戦災孤児等収容時期とは非常に異った様相を呈して」(全国 社会福祉協議会 1980 : 134)いることが盛んに述べられると ともに、近年の施設児童は「親の行方不明、離婚、棄児、虐 待、酷使、放任、怠惰、長期拘束、性格異常、精神障害に 基く施設入所が65.3%の高率を占め」(全国社会福祉協議 会 1980 : 134)ていることが強調されるようになる。 ● またその後に、「児童の人権」侵害の深刻さと「親権問題」 を、権限の一部停止を含むかたちで再考することの必要性 を説く論説が盛んに登場するようになると共に、「養護施設児 童の33%はその親による直接的暴力、遺棄、放任、過干渉、 性的暴力等により、小さな生命が脅かされることを始め、健全 な心身発達を阻害する重大な人権侵害の事実があること」 (全国社会福祉協議会 1980 :134)が盛んに強調されるよう になる。 2-10 高度経済成長期における児童施設の「定員 割れ問題」と「新しい児童問題」の形成―まとめ― ●1960年代半ばから後半の時期にかけて、児童施設から捨 児などの「家庭のない児童」が減少していく中で、「子捨て」 や「子殺し」などの捨児問題が、「家庭崩壊」や「母性愛の 喪失」といった言葉と共に、主にマスメディアの中で声高に 叫ばれ始めた。 ●児童施設における「開差是正措置」や「施設転換指示」に 対する抗議行動の中では、社会的養護を必要とする児童 は潜在的には膨大な数におよぶはずであるにも関わらず、 児童相談所などの児童福祉の第一線機関において、「問 題のある家庭」の中での生活を強いられる児童を十分に捕 捉できていないことが問題として取り上げられた。 2-11 高度経済成長期における児童施設の「定 員割れ問題」と「新しい児童問題」の形成―まとめ― ●そうした児童や育児をめぐる社会問題の興隆の中で、従来 は専ら「家庭のない児童」「両親を亡くした児童」を収容・保護 する役割を担ってきた児童養護施設に、 ●養育、育児上「問題のある家庭」の中での生活を強いられる 子どもを保護する役割が児童養護施設に求められるようになる とともに、「(問題のある)家庭」という私的空間の中で養育され ている子どもを早期に発見するための処方箋が練られた。 3. 社会的養護問題のその後の展開 3-2. その後の社会的養護問題の展開 ●日本社会において「児童虐待問題」が構築されるのは、19 90年以降の出来事である(上野加代子1996) ●他方で、明治期から現在までの「社会的養護問題」ないし は「社会的なもの」(Donzelot 1988=2000)の変遷や興隆と いう軸で「児童問題」の変容過程を顧みるならば、最も大き な分岐点は、1960年代に生じた「児童問題」や「育児問 題」の変容や興隆との交錯関係の中に見いだされる。 ●それは、児童養護施設の役割が、敗戦後における戦災孤 児や浮浪児などの「家庭のない児童」を保護する機関から、 「問題のある家庭」の中での養育をしいられる子どもを家庭 から切り離しながら保護する機関へと、徐々にではあるが確 実に変容していく軌跡でもあった。 もっと詳細に議論をしたい方に 土屋 敦 著 『はじき出された子どもたち: 社会 的養護児童と「家庭」概念の歴史 社会学』 勁草書房 – 2014/1/31 引用文献 Donzelot, J.,1977,La police des familles ,Paris (宇 波彰訳,1991,『家族に介入する社会――近代家族と国 家の管理装置』新曜社). 黒木利克,1964,『 日本の児童福祉』良書普及会. 田間泰子,2001,『母性愛という制度―子殺しと中絶のポリティク ス』勁草書房. 上野加代子,1996,『児童虐待の社会学』世界思想社. 以上、報告を終わります。 御清聴ありがとうございました。
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