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昭和13(1938)年「阪神大水害」に
おける神戸区町会連合会の対応
加藤 尚子
(元東京大学大学院博士課程)
目次
はじめに
1. 昭和13(1938)年「阪神大水害」とは?
2. 史料『神戸区水害復興誌』について
3. 神戸区の“独創性”
4. 神戸区の被災状況
5. 神戸区の「復旧作業」
おわりに
はじめに
<先行研究>
吉田律人「軍隊の「災害出動」制度の確立-大規模災害への対応と衛戍の変化から」
『史学雑誌』第117編第10号、史学会、2008.10.
北原糸子「関東大震災の行政対応を生み出した大正6年東京湾台風」
『歴史都市防災論文集』Vol.1、立命館大学歴史都市防災研究センター、2007.6.
川本三郎「『細雪』とその時代-谷崎の大水害描写を助けたもの」『中央公論』第122巻3号、2007.3.
土田宏成「関東大震災後の「市民総動員」問題について-大阪の事例を中心に-」
『史学雑誌』第106編第12号、史学会、1997.12.
神戸市赤塚山高等学校地歴部『「昭和13(1938)年の阪神大水害」についての聞き取り調査報告書』
神戸市赤塚山高等学校地歴部、1993.10.
(神戸市水害鳥瞰絵図)
『神戸区水害復興誌』より転載
2007年:「昭和13年「阪神大水害」における旧本山村(現神戸市東灘区)の災害対応
と復旧支援」『自然災害科学』26-3、pp.291-305.
 史料=『本山村水禍録』本山村役場、128p.、1940年3月.
 特徴=村議・区長・役場が一体となって活動
村の外から来た奉仕団の活動は「第二小学校」に限られていた
2008年:「昭和13年「阪神大水害」の被災地と勤労奉仕団」日本農業史学会2008年
度研究報告会個別報告2.
 史料=『湊区水害誌』湊区役所・湊区教化協同会、805p.、1939年6月.
 特徴=復興委員会結成、委員長は区長
復旧方針は「隣保協力」「自立自営復興」「町会中心」
奉仕団・支援物資などの配分は「区」の担当
1. 昭和13(1938)年「阪神大水害」とは?
自然地理的条件
• 六甲山系は極めて風化しやすい花
崗岩から出来ている⇒これが頂上
近くでは50°以上に傾斜している
• その下は水を通さない母岩
↓
母岩から上の土中が、多量の水により
飽和状態に達し、それが斜面であった
ために各所で山崩れが起こった
つまり、
梅雨前線豪雨による土砂災害
気象的条件
• 6月30日に台風が房総半島近くを
通過
• その通路あたりに梅雨前線が停滞
• 3日夕方には太平洋高気圧の勢力
が一層増した
• 等圧線の走向が南南西へ⇒神戸
地域へ梅雨に豪雨をもたらす形
• 3日の梅雨前線は4日に消えたが、
北陸沿岸に新たに発生したものが
瀬戸内西部のものと結合し、さらに
東の端にあたる奥羽地方に低気圧
を誘発し、日本海の高気圧が南東
に押し下げられ、結果的に、5日に
梅雨前線が再び神戸地方に停滞
し豪雨となった
人為的条件
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•
•
•
安政5年(1858)「安政仮条約」により兵庫開港が決定する
慶応3年(1868)神戸開港
外国人居留地の工事未完成⇒生田川(東)~宇治川(西)への雑居認める
土木事業の展開
→生田川付替:居留地へ氾濫し外国人から苦情→東へ付替(新生田川)
→旧生田川河川敷の埋め立て:約60000坪(加納宗七等請負⇒払下げ)
→旧居留地8万坪の再埋立(新政府)
→仲町一帯98000坪の区画整理
→神戸運河
→湊川付替:明治29大水害で具体化⇒新湊川(旧湊川は埋立てられ新開地に)
→市内河川の暗渠化⇒遊歩道へ
産業の勃興
六甲山のリゾート開発:別荘地、ドライブウェイ、スキー場、ゴルフ場など
平坦地の市街化⇒六甲山南麓の傾斜地の市街化(東西へ)
都市化の拡大、人口増加
神戸地域の災害の記録(除く地震・火事)
近世の水害
正徳 2(1712)年=武庫川~生田川、大洪水
元文 5(1740)年=生田川大洪水、湊川出水
宝暦 6(1756)年=生田川満水、水防を行う
天明 2(1782)年=住吉川大洪水
寛政12(1800)年=湊川出水
文化10(1813)年=住吉川氾濫
天保14(1843)年=湊川出水
慶応元(1865)年=湊川破堤、都賀川大出水
慶応 2(1866)年=天王谷川西堤防決壊
しかし、普段は川に水はなく(しかも暗渠で
見えない)、水害には無縁な土地だと安心
していた人が多かった
↑
(古くからの住民は別)
近代の水害
明治元(1868)年=天王谷川堤防決壊
明治 4(1871)年=暴風大雨、生田川出水
居留地以西一帯浸水
明治 7(1874)年2、6、7月
=湊川堤防決壊(7月は生田川も)
明治29(1896)年9月=10日連日大雨300ミリ超す
現兵庫区・中央区西部が大洪水
明治38(1905)年9月5日=時間最大雨量73.3ミリ
浸水一万余戸、死者3人
大正10(1921)年=台風通過。須磨区・兵庫区・
中央区で土砂崩れなどで死者7人
大正13(1924)年=中型台風。
死者10人、浸水1495戸
昭和 9(1934)年=室戸台風
昭和10(1935)年6/28-29、8/10-11、8/28-29
=床上・床下浸水、山崩れ、石垣崩壊
2. 史料『神戸区水害復興誌』について
上製、函付き、横16cm×縦23cm、413ページ、被災地の絵地図(折り畳み)1葉
1939年10月5日発行
編纂者=神戸区復興委員会、発行者=西川荘三(<神戸区復興委員会長)
編纂組織の詳細は不明だが、編集長は嘱託の加藤氏(神戸区記録係)であった
凡例によると、
地区(エリア・空間)⇒神戸区、活動主体⇒神戸区復興委員会乃至町会
↓
「災害及び活動の上に、神戸区および区民の特性と真価を示そう」との試み
当時の新聞記事や、『神戸市水害誌』(1939.7.25発行)に依拠している部分が大半で、そ
こに復興委員会の活動や町会長の報告を挟み込むような形になっている
↓
「本書は、勝田市長の水災禍一周年に際しての放送を、請うて序説に代えた如く、各所
に責任ある関係機関の言説を転載して、全市の大和総行進の光景を再現すると同時に、
新しき「大神戸」の出発を祝福せんと試みた」
西川荘三氏による序文
「昭和十三年七月五日の神戸市大水禍はこの地方未曽有の災禍であったと同時に、
市民的な生活とその活動に関する未曽有の記録を遺したと信ぜられる。
何にしても、須臾にして全市五割九分の地域に漲った濁水と、堆積した三十余万立
坪の土砂は、好個市民的の試練と大和の機会を与え得て、能く大神戸のよき市民性
の発揮と再認識を為さしめた。加ふるに、その泥土と濁水の中に逸早く手を伸ばされ
た近府県勤労奉仕団体六十万人の救援は、銃後の美しい国民性の再発見であった 。
殊に、水禍と共にこれを辱したる 畏き辺の勅使御差遣・御内帑金御下賜は、尊い
国体的な感激であった。
この一巻は、その再認識と再発見と斯の深き感激を以て、雄々しくも泥土の中から
起ち上がった、わが神戸区民の記念すべき生活報告である。或はこの国運を賭した
聖戦下に於て、聖められたる国民的意識を以て生活した、感激すべき活動記録である。
災禍以来すでに一年有余、市区の復旧と応急処置は殆ど成り、復興また漸くその緒
に就かんとしている。期待すべき『大神戸』は、国家の保護により、県民の支援により、
市民の奮発により、次第に建設されようとしている。然れども、羅馬は一日にして就ら
ず、永遠の楽土としての『大神戸建設』は新しき一大決心を以て起たねばならぬ。これ
はまた吾人に課せられたる長き価値ある試練であるであろう。わが神戸市民並びに区
民各位が、克く今の意気と誠実と大和を以て、今次の災禍を転じて福光となすの熱意
を継続されんことを切望するものである。」
この本が発行されるまでの経緯
昭和13(1938)年
7月14日 区内水害復興状況を撮影開始
7月25日 「水災物故者慰霊祭」について議論され始める
8月4日 「水害復興誌編纂ノ件」が初めて議題に上る
8月16日 「水災物故者慰霊祭」執行
8月26日 神戸区の水害復興写真が90余枚完成
9月30日 水災美談を市当局より求められ、回答する
昭和14(1939)年
2月2日 『神戸区水害復興誌』の資料提供を区内各町会長、学校長、各種団体長へ依頼
7月5日 水禍一周年。午前10時市民一同黙とう
神戸区では生田神社で一周年祈願祭を行う
7月25日 『神戸市水害誌』発行
9月3日 西川荘三氏、序文を書く
10月5日 印刷
10月10日発行
3. 神戸区の独創性
「神戸区復興委員会」の設立
=母体は「神戸区町会連合会」
(町会長もしくは町会の代表による連合会)
設立の目的=
各町会隣保の復興活動の後援
災害に対する応急措置、
復興計画の実行促進およびその統制
各町会の「自力更生」のためのサポート
神戸市・区当局とは協力関係にあったが、
あくまでも独立した組織として活動
「神戸区復興委員会」の体制
全体会(緊急町会町会も含む)
総務委員会
会長:西川荘三(神戸区町会連合会長)
副会長:永田良介・木下勢三(神戸区町会連合会副会長)
物資配給委員会
(後に救済慰問部)
⇒13名
衛生救済慰問委員会
(後に衛生部)
⇒12名
道路復旧委員会
⇒15名
(7/13に4名追加)
交渉委員会
(後に財務部)
⇒8名
(8/1に5名追加)
4. 神戸区の被災状況
被害棟数=5108/11750棟
被災戸数=7434/16686戸
流出381戸、埋没206戸、
倒壊86戸、半壊415戸
床上浸水2792戸、床下浸水4302戸
死者49人、重軽傷者128人
被災世帯数=8271/17558世帯
「添付折込地図」『神戸市水害誌付図』神戸市役所、1939.より転載
5. 神戸区の「復旧作業」
「復興作業人車配置予定表」(神戸市土木課京橋出張所作成より)
『神戸区水害復興誌』第一表(pp.217-218)より作成
神戸区内河川流域における災害復旧人員の状況(のべ人、7~8月)
『神戸区水害復興誌』第二表(pp.219-221)より作成
神戸区内河川流域における復旧作業用車両の使用状況
『神戸区水害復興誌』第二表(pp.219-221)より作成
まとめ
 『神戸区水害復興誌』は、「災害の記憶を後世に遺すため」、
「将来の災禍への教訓」あるいは「犠牲者の鎮魂」ではなく、被
災後、日々いかにして区民が奮起し、復旧・復興に携わったか
を記すことを目的に作成された。
・・・「記念すべき生活報告」(by 西川荘三復興委員会長)
 町会を中心とした隣保相扶による「自力更生」が中心にあり、
神戸区復興委員会=神戸区町会連合会は、町会長(あるい
は町会の代表者)や各種団体の長らによって組織され、より俯
瞰的に災害復旧・復興に関わっていた。
 旧居留地地区を中心とした国際地とよばれるエリアはビジネ
ス街のため町会がなかったが、商工会議所を中心として速や
かに町会を設立し、復旧・復興、さらには寄付金の募集に力を
注いだ。