自由主義国家と立憲主義 市場と政府 カール・ポランニーの議論 を手がかりに。 • 以下、カール・ポラニー『大転換』より 引用。 「[19]世紀前半には、立憲制は 禁じられ、神聖同盟が平和の名 のもとに自由を抑圧した」(p.7) 神聖同盟 1815年にナポレオン戦争が終結すると、ロシア皇帝アレクサンドル1 世は、オーストリア皇帝、プロイセン国王との間で神聖同盟を発足。 のちにローマ教皇・オスマン帝国・イギリスを除く全ヨーロッパの君主 が加わった。 「これにたいし[19世紀]後半に は、再びまた平和の名のもとに、 企業精神に富んだ銀行家たちに よって立憲制が暴君たちに押し つけられた。」(p.7) 19世紀前半における 神聖同盟と立憲制の禁止 19世紀後半における 立憲制の押しつけ 「企業精神に富んだ銀行家たち によって」 「このようにいろいろな姿で、しかも 変動常なきイデオロギーのもとで-と きには進歩と自由の名のもとに、とき には王冠や教会の権威によって、とき には株式取引所や銀行の慈悲によって、 あるいはまた買収や賄賂によって、道 徳論や啓蒙的な呼びかけによって、ま たときには大砲や銃剣によって-同じ 結果が生み出された。 すなわち平和が維持されたのだ。」 (p.7) 「金融--これは影響力を与えるチャンネ ルのひとつであった--は、多数の小さな 独立国家の政策決定にたいする強力な調整 者の役割を果たした。貸付とその更新は信 用にかかっており、その信用は行動のあり 方にかかっていた。立憲政府(立憲制でな ければ強い難色が示された)のもとでは、 行動は予算に反映されたし、通貨の対外的 価値は予算に対する評価と切り離しなかっ たから、債務国政府は、自国通貨の為替相 場を注意深く見守り、そして予算状態の健 全性に疑いを生じさせるような政策を避け るのが得策というものであった。」(p.17) 「ある国が金本位制を一度採用すれば、 この有益な格率が強力な行動準則と なった。そしてこれは変動しうる幅を 最小に限定することになった。金本位 制と立憲制は、新しい国家秩序への忠 誠を象徴するこれら二つの制度を採用 した多数の小国に、ロンドンのシティ の声を伝える媒体であった。」(p.17) 「パックス・ブリタニカは、と きには重艦砲の不吉な威厳でそ の権勢を維持することもあった が、それより頻繁に、国際通貨 の網の目の意図を適宜たぐりよ せることによって、その座を保 持したのであった。」(p.17) 国際的な金融が 各国の政策決定にたいする強力 な調整者であった 「信用としての立憲政府」 立憲政府の行動は予算に反映さ れ、予算に対する評価は通貨の 対外的価値と不即不離の関係を もつ パクス・ブリタニカのもとでの 金本位制と立憲制 (19世紀半ば) パクス・アメリカーナのもとで の為替相場制と立憲制 (20世紀後半) 「労働市場が労働者の生活をひ どくゆがめるほど、いっそう強 く労働者は声高に参政権を要求 した。大衆政治の要求が緊張の 政治的根源であった。こうした 状況のもとで、立憲政治はまっ たく新しい意味を獲得した。」 (p.302) 「それまでは、財産権の不法な侵害に対する法 的保護は上からの専横的行為に対してのみ向け られていた。ロックの見解も土地および商業上 の財産を越えるものではなく、王権の横暴な行 為、たとえばヘンリー八世のもとでの教会領の 没収、チャールズ一世のもとでの造幣局差押、 チャールズ二世のもとでの大蔵省の「支払停 止」等を排除することだけを目的としたもので あった。ロックのいう意味で、政府を商業から 分離させるということは、1694年のイングラン ド銀行創設の特許状において模範的なかたちで 実現されていた。商業資本は王権に対する戦い に勝利していた。」(p.302) 「100年後には、商業的財産で はなく産業的財産が、国王に対 してではなく大衆に抗して、保 護されることになった。」 (p.302) 「すでにモンテスキューが1748年に考え出して いた権力の分立は、いまや大衆自身の経済生活 を支配している権力から彼らを引離すために使 われた。アメリカ憲法は、農夫・職人的環境の なかで、イギリスの産業的光景から事前に警告 を受けた指導層によって作成されたものだが、 それは経済領域を憲法の支配から完全に隔離し、 それによって私有財産をこれ以上考えられない ような保護のもとにおき、世界で唯一の法的基 礎をもつ、市場社会を創出したのである。」 (p.302) 「普通選挙制のもとにあるにも かかわらず、アメリカの有権者 は財産所有者に対して無力で あった。」(p.302) アメリカ合衆国憲法と 連邦中央銀行の創設者としての ハミルトン 以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 「アレクサンダー・ハミルトン (Alexander Hamilton, 1755年1月 11日 - 1804年7月12日)は、アメリ カ合衆国建国の父の1人。政治家、 憲法思想家、哲学者であり、アメ リカ合衆国初期外交のリーダー。 独立戦争の際には総司令官ジョー ジ・ワシントンの副官(砲兵将校、 陸軍中佐)。」 「1787年のフィラデルフィア憲法起草会議の 発案者。アメリカ合衆国憲法の実際の起草者。 アメリカ合衆国憲法コメンタリーの古典 『ザ・フェデラリスト』の主執筆者。古き英 国の法思想「法の支配」に基づくコモン・ ロー化した憲法を生み出した、立憲主義およ び保守主義の偉大な思想家である。司法によ る違憲立法審査権の制度の理論は、ハミルト ンによる。アメリカ合衆国の初代財務長官。 陸軍少将。連邦党の党首。1801年、米国最古 の日刊紙ニューヨーク・ポスト紙を創業した。 1804年、決闘で死去、49歳だった。」 「1776年3月14日、ニューヨーク植民地砲兵中 隊を指揮する大尉に任命され、独立戦争に従 軍、幾多の会戦に参加して軍人としても優れ た才能を発揮した。1777年からワシントン総 司令官の副官に任命され、中佐として軍務に 奔走するかたわら、ヒューム、ホッブズなど の読書と研究に努めた。1779年12月から翌年 の3月にかけて、独立運動の指導者に書簡をお くり、その中ですでに合衆国銀行設立の構想 を立てている。1781年7月12日から4回にわ たって連載された論文『大陸主義者』では、 強力な中央政府樹立の必要を説いた。」 「軍務を解かれ1782年から弁護士 開業を目指し、ブラックストーン、 グロティウス、プッフェンドルフ について勉強する。4月18日から新 聞掲載された『大陸主義者』の続 編で、通商規制の必要を説く。7月 22日にニューヨーク邦大陸会議議 員に選出され、そこで大陸会議の 課税権強化を提唱。」 「1787年3月ニューヨーク邦議会によ り憲法制定会議への代表として派遣さ れ、9月17日にアメリカ合衆国憲法の草 稿を作成し、ついで憲法草案に署名を する。10月27日からジェームズ・マ ディスン、ジョン・ジェイと協力して 翌年5月28日までに『ザ・フェデラリス ト』論文を執筆して、合衆国憲法批准 を促進した。1789年9月11日、ワシン トン内閣の財務長官に任命される。」 「1790年から1791年までにハ ミルトンによって連邦議会に提 出された報告書は、《公信用》 《未占有地》《蒸留酒税》《国 立銀行》《貨幣鋳造所設立》 《製造業》と実に多種多様。」 「ハミルトンは、17世紀初頭の古き英国の法 思想にもとづき、国王なし、貴族なしの政体 において、コモン・ローの精神「法の支配」 を制度化できるよう、アメリカ合衆国憲法を 起草した。アメリカにおける立憲主義の創始 者である。アメリカ合衆国憲法は、コモン・ ローの憲法典化であり、コモン・ロー化した 憲法典の誕生であった。アメリカ合衆国憲法 がジョン・マーシャルの判決(1803)を通じ て司法の違憲立法審査権を「発明」したが、 それはハミルトンが書いた『ザ・フェデラリ スト』の第78篇その他の法理に依拠した。」 「ハミルトンのアメリカ合衆国への貢献 は、憲法や政治制度ばかりでなく、新生 の国家の財政/金融/貨幣/通商/産業 政策の基礎を未来図とともに整備したこ とである。アメリカ合衆国経済にとって 不可欠であった初の連邦中央銀行(1791 ~1811年)の設立と初のアメリカ合衆国 造幣局の設置による初のドル硬貨の発行 (1792年)は、ハミルトン一人の成果で あったといってよい。」 「この倫理・道徳を国策の根本とするのは、 ハミルトンがアメリカ合衆国の財政制度を創 設・整備していく際にも、また独立戦争時の 借金を全額額面どおり弁済する際にも(「公 信用について第一報告書」、1790年1月)、貫 いた。1792年の「財源制度の擁護Ⅲ」でハミ ルトンは「道徳と正義に関する確立している ルールは、個人と同様、国家にも適用される。 よって…国家もまたその約束を守り、契約を 果たし、各国民の財産権を尊重すべきある。 そうしなければ、社会や政府に関係して、善 と悪、あるいは正義と不正義を差別するすべ ての思考を終焉させる」と説いている。」 「信用としての立憲政府」 立憲政府の行動は予算に反映さ れ、予算に対する評価は通貨の 対外的価値と不即不離の関係を もつ 国際的な金融が 各国の政策決定にたいする強力 な調整者であった パクス・ブリタニカのもとでの 金本位制と立憲制 (19世紀半ば) パクス・アメリカーナのもとで の為替相場制と立憲制 (20世紀後半) 「これにたいし[19世紀]後半に は、再びまた平和の名のもとに、 企業精神に富んだ銀行家たちに よって立憲制が暴君たちに押し つけられた。」(p.7) 「100年後には、商業的財産で はなく産業的財産が、国王に対 してではなく大衆に抗して、保 護されることになった。」 (p.302) 「現代の暴君」としての大衆
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