KOJ001101

古
の 築造技術 一 葺石構築法からみた 古墳築造研究 一
小林
恒孝
はじめに
現存している 多くの古墳が 樹木に覆われるなど 原状を留めるものは 皆無に近い。 しかし、 現
代の技術により 全国で何 基 かの古墳は整備・
復原されている。 古墳という巨大な 構築物に一つ
一つ石を構築して い くには、 ただ乱雑に積んでいくだけでは 不可能であ り、 その構築にも 定型
化された技法があ ったはずであ る。 本稿では葺石構築 法 の各事例との 比較
検討を行い、 その
結果を基にその 分類や変遷などについて 考える。
第
1
章
研究 史
これまで古墳の 築造技術に関してはどのような 設計方法に基づいて 築造されたかを 研究する
企画論が多数を 占めてきた。 しかし、 墳丘そのものの 構築方法や葺石に 関する研究は 築造の企
画論に比べ数が 少なく、 特に葺石研究は 概要にとどまるものがほとんどであ
る。
戦前の発掘調査においては 葺石の具体的な 調査が行われた 事例は皆無に 近い。 しかし、 1915
年に宮崎県西都原古墳群の 第 21号墳の発掘調査を 行った今西 龍は 、 その報告書において 葺石を
いち早くその 対象とした。 実測図に葺石の 分布状況を記入するだけでなく 項目を設け、 考察が
なされている (今西 1915)0
1922 年、 高橋健自は、 発掘調査の経験や 文献史料などから、 葺石の目的に 関して、 封土の風
雨などによる 流失や温度変化による 崩落を防ぐための 実用的な意義と、 墳丘に美観を 添え人々
の目を引くための 装飾的な意義を 兼ね備えたものであ ると考察した。 しかし、 高橋の研究は 専
ら
副葬品を中心に 進められたため、 葺石を墳丘の 外部施設と定義し、 葺石という考古学用語を
定着させたものの、 それ以上の進展を 見せなかったようであ る (高橋 1922)0
戦後、 葺石が実測図に 記入される例が 増加し、 科学的な調査が 導入された。 その先駆的な 事
側 が 1949 年に梅原末治を 中心に実施された 厄神・仁徳・ 履中 3 天皇陵の調査であ る。 葺石や墳
丘の地質学・ 土木工学的調査がなされ、 今日の墳丘構造研究の 基礎となった
(梅原 1949)。
また、 前方後円墳の 企画論もこのころから 活発に議論されるようになる。 先駆けとなった 上
田安 範は 、 それまでの考古学的資料の 乏しさから型式学的な 研究方法が有効であ ると考え、 墳
形を構成する 長さの比率を 基に畿内の前方後円墳を 分析した。 結果、 比率が個々の 前方後円墳
において変化していること 指数化することで、 明確な企画論が 存在すると主張した (上田 1950)。
1953 年、 近藤義郎を中心に 岡山県月の輪古墳の 発掘調査が実施された。 古墳の性格を 徹底的
に 明らかにするため、 多大な労働力を 費やして築造されたであ ろう外部施設にも 内部施設並み
の調査をする 価値があ るとの判断がされた。 そのため、 葺石 1 つ 1 つの固化に始まり、 分布範
囲や形と大きさ、 地質学的調査などから 葺石の構築技術の 検討がなされている。 1960年に刊行
された報告書に
よ
ると、 古墳の表面の 4 分の 3 が調査され、 葺石の総数は 約 8 万個が使用され
ていたと推定されている
(近藤 1960)0 1963 年の原口正三・
一
l一
西谷正に
よ
る大阪府弁天山 C I 号
墳の発掘調査では、 葺石の構築方法や 単位面積当たりの 使用個数と重量、 石材採取地の 検討が
行われた。 調査者は墳丘構築法の 徹底的調査ができなかったと 報告しているが 外部施設の調査
において、 弁天山古墳群は 最も成果をあ げた遺跡の一つと 言える (原口・西谷 1967)0
上田の企画論は 甘粕 健 や棚国男らによって 、 新たな視点が 加えられる。 甘粕は上田の 計測点
を用いて双方後円墳のくびれ 部の位置に注目した。 これにより畿内の 大型前方後円墳の 築造の
ための尺度や 原理などが新たな 分析視角となった (甘粕 1965)。 一方、杷は縦と横の 設計基準線
に 注目し、 前方後円墳が 8 分比を基に設計されたと 主張し独自の 研究方法に至った
( rgl975)。
を
葺石の発掘調査研が 徐々に増加する 中、 史跡の整備事業に 伴う調査による 成果もあ げられて
いる。 1965 年から 1975 年にかけて、 播磨最大の双方後円墳であ る兵庫県五色 塚 古墳の復元・ 整
備 事業が実施された。 総量約 2,233万 5,000個、 約 2,784tV
の葺石が使用されていたことが 明らかに
なった 本 古墳は築造当時の 姿に戻すことを 基本方針とした 事業であ った。 残俳なことに、 莫大
な費用を費やしたこの 事業は、 古墳整備の先駆的な 業績であ るものの、 その成果が復元・
整備
の概 報の刊行にとどまっており、 正式な報告書が 未刊であ る (神戸市教育委員会 1975)0
築造企画論は、 石部正志・田中英夫・ 堀田啓一・宮川渉らが 共同研究を進め、 新たな展開を
見せる。 独自の観点から 企画の基準を 定義し 、 尋 という単位が 用いられた可能性を 示唆した。
また、 企画の基準をいかに 設定するかも 明確にしている (石部・田中・ 堀田・宮川 i978 、 1979)0
1980 年代になると、 墳丘構築を詳細に 調査した事例が 増加した。 群馬県元島名将軍塚古墳は
推定墳丘 長が 96m であ りながら約 7,000m3もの盤上が行われており、 墳丘構築に対する 労働力
を 考える上で重要となる (高崎市教育委員会 i981)。 また、 墳丘構築 法 自体を追求した 例もこの
ころから増加する。 なかでも、 大阪府 蔵 塚 古墳 (大阪府文化財調査研究センター 1998) や京都
府椿井 大塚 m 古墳 (山城町教育委員会 1996)、 奈良県黒塚古墳 (奈良県立橿原考古学研究所 1999)
など、 比較的大型の 古墳が明らかにされっ っ あ る。
泉森咬によ り封土と葺石の 構築 法 について具体例をあ げて検討されている。 この研究は封土
の構築法を中心に 進められており、 葺石に関する 記述は多いとは 言えない。 しかし、 五色 塚 古
墳や弁天山 C l 号墳の成果から 列右 によりいくらかの 単位で区切ることのできる 区画の存在を
作業分担にょり 生じたものであ ると考察している 線森 1983)。 一ノ瀬和夫はこれまでの 調査資
料を基に地山と 盛土の比率などから 墳丘の構造を 検討し、 前方後円墳の 発達について 考察して
いる (一瀬 1983)。 また、 葺石構築の祖形を 弥生時代の墳丘墓に 求め、 その具体何として 四隅 突
由基の 列石と貼石 をあ げている。 これらの例につながる 構築法を持った 古墳から墳丘斜面の 勾
配と葺石構築法の 関係を示唆しているが、 それ以上の考察はされていない。
しかし、 畿内の葺
石を有する古墳に 関して年代を 追って例にとり、 葺石の使用石材やその 供給地の総合的な 考察
がなされている。 また、 列右 に よ る作業単位の 区画の時期,立地差 やこの区画研究の 蓄積によ
る将来の尺度研究への 期待、 そして葺石を 持たない古墳との 規模や比率から 葺石終息の意味の
考察など以後の 葺石研究に大きな 影響を与えたのではないだろうか
(一ノ瀬 1984)0 1985 年には、
白石太一郎によりこれまでの 葺石に関する 調査の成果を 総合した上で、 葺石の意味について 検
討されている。 外観が積石塚に 似ていることから 装飾的目的と、 墳丘の平坦面やテラスには 葺
石が葺かれていないことから 墳丘斜面の崩壊を 防ぐ機能的目的の 総体であ ると結論づけている
)る
( 白石 1985)。 同年、 大林組のプロジェクトチームが
大阪府大仙陵古墳の 築造に必要とされた
建設工期と経費を 築造当時の工法で 試算した。 その結果、
t 日にピーク時において 2000 人が動
員され、 延べ 680 万 7000 人を動員した 場合 1W 年 8 ケ月 かかり、 総工費は約 796 億円相当を要する
と算出された
(大林組プロジェクトチーム 1985)0
盛 土の体積に関しては、 畿内の主な前方後円墳の 盛 上に ついて集成した 石川昇の研究が 挙げ
られるが地山と 盛土の区別が 暖味 で問題点が多い (石 7円 989)0
その後、 より詳細な科学分析による 学術調査が実施されるようになる。 京都府令 里 車塚古墳
や 同県鳥居前古墳、 良法音南原古墳などについて、 橋本清一が風化度や 石材採取的などを 検討
している。 奥田尚も葺石一つ 一つを計測することによって 奈良県乙女山古墳などで 同様な研究
を進めている。 石塚人別 は 1980 年代までの葺石に 関する研究史を 整理し、 葺石を今 皇 車塚古墳
や 鳥居前古墳の 調査を中心に 構成要素に注目して 構造工学的な 面からその構築方法について 考
拓塚 1992)。 京都府 鴨谷 1 号 墳 においては葺石の 構築単位が調査され、 長野県森 将
察している
車塚古墳や京都府椿井大塚山古墳などの 発掘調査においては、 葺石の内側に 裏 込め石が構築さ
れている事例も 明らかになってきた。
2003 年には、 青木 敦が 墳丘構築法や 企画論についてさまざまな 観点から研究を 行い、 葺石 構
築 法の事例を集成・
分析し、 構築 法 を分類した。 さらに、 構築形態と傾斜角の 関係を検討し、
その変化から 収束について 考察している (青木 2003)0
第
2
章
第
1
葺石構築 法は ついて
節
事例
これまでの葺石を 中心とした墳丘構築 法は ついては、 前述のとおり、 体系的に研究した 例は
ほとんどないと 言える。 しかし、 近年になって 葺石に関する 詳細な発掘調査が 増加し、 また最
近になって通観的な 研究が少数ではあ るが見受けられ、 さまざまなことが 明らかになってきた。
本稿では全国の 古墳の葺石構築 法は ついての事例を 考察した青木 敦著 『古墳築造の 研究 一 墳丘
からみた古墳の 地域性一山を 参考にして、 構築 法は ついて構成要素に 注目して論を 進めた い 。
葺石構築の構成要素としては 基底荷、 区画面 列 、 充填石などに 分けられる。 本稿では、 他の
葺石に比べて 明らかに大型のもので、 墳丘の裾部に 設置されるものを 基底荷と呼称することと
する。 葺石構築法を 考える上で特に 注目すべき要素であ り、 分類して い く上でも最も 重要なの
が基底荷であ る。 この基底荷に 関しては各報告書において、 根石や基石、 基底荷とさまざまに
呼称されており 統一はされていない。 ただ、 葺石構築において 基底石の下に 小さな石を部分的
に設置する事例が 少数ではあ るが明らかになっている。 寺院建築において 柱の礎石の下に 設置
する小さな石を 根石と呼ぶことから、 本稿では、 これに倣ってこの 基底石の下に 設置する小型
の 石材を根石と 呼ぶこととする。 しかし、 名称については 今後検討していく 必要があ る。
では、 葺石構築 法 はどのようなものが 存在するのか、 時期や地域の 代表的な事例について 検
討してゆきたい (表 i) 。 古墳の編年に 関しては和田清吾の 編年案を参考とした (和田 1987)0
一 3一
[表 1] 葺石構築法 の一覧表
備考
古墳客
所在世
中山大塚
示
ま良
前方後月
/小
一穂-
木
ま良
前方後田打
京都
94 前方後方
桜井 茶 白山
示
ま良
207 前方後月
秋葉山
静岡
50 円
森将軍塚
長野
99 前方後月
群馬
兵庫
30 円
ホケ
5号
義久 山 l号
同
44
前方部と後門部で
前方部と後岡部で
基底石を立てて
基底石を立てて
95 前方後方
築造区画明瞭
-示 都
l40 前方後日
示
太良
2l9 前方後白
箸寒
木
ま良
280 前方後月
波多子 塚
大阪
木
ま良
緒立 八幡神社
新潟
赤土山
示
ま良
前方後門
今坂 塚
大阪
l90 前方後月
京都
@l0 前方後 門 28
l号
前方後方
大阪
62 前方後門
古墳
大阪
86 前方後門
2号
田
宝塚
i号
l号
白米山
蛭子 山
青 @家
昼飯大塚
長塚
中道銚子 塚
7号
玉手 山
西都原 i00 号
和泉黄金 塚
五色 塚
郡家車塚
大石塚
壺井
お
旅出
佳紀石塚 山
島の山
鳥居前
宝塚
t号
西寺 m
下郷 天神 塚
朝倉
作山
2号
4号
高根山
都都知草草 架阪崎阪庫阪 阪阪 長良 都 童車馬馬部 岡
岐 岐山大宮大兵火 大大禁 奈 京三股群群 京静
兵 法 寺 南原
都
東 京宗室
佳味
阪阪阪阪 良忠
渋谷向山
大大大大茶茶
弁天山 D4 号
46
マンジユウ
兵庫
堂山
静岡
御葡 手塚
茶 すり出
大阪
兵庫
石m
Ⅱ
票神陵
色の違う石を 別に配する
60 前方後 円
3 3
3 3
3 3
73 前方後周
25
自然石小口積み
40 前方後門
45 前方後 門
5l 前方後門け
5
3
3
5
3
3
3
3
5
3
3
5
3
3
3
3
3
3
3
3
3
3
3
3
4
4
300 前方後周
具行 陵
it2 前方後 門
原 位置確認されず
2 列にわたって
i23 前方後門
i50 前方後 円
87 前方後 門
l69 前方後出
25
il0 前方後 門 35
59 前方後月
85 前方後 門
t94 前方後月
23
86 前方後月
29
76 前方後月
45 前方後月
245
3 4
築造
i45 前方後 門
い
い
Ⅱ
3 4
3 4
不明
60 前方後方
92 前方後門
前方後月㌍
98 前方後月
成務陵
28
5l 帆立貝 弍
前方後門
3 4
3 4
40
60 前方後方
i02 前方後日
23 円
3 4
30 前方後日
京都
太良
墳丘墓とも。 裾部に列 百
37
東京
i号
山-
40 前方後方
大阪
玉手 uli0 号
鴨沓 東
28 万
池田 茶 白山
弁天山 D2 号
-示官都
-都
恵解山
三山
平尾城山
弁天山 Rl 号
私雨丸山
25 前方後方
242 前方後月
真名 井
設置
飯氏
木
ま良
山
大阪
36
国森
日号丸山
津皇 城山
35
行障 山
闘鶏
設置
野毛大塚
不明月
雨 の宮
太良
30 円
正慶
,
奈良
大阪
婁 山陵
.
m口
39 号
山
太良
l号墳
心 合 寺山
l75 前方後月
5号
七つぐら
太良
築山
64.6 前方後月㏄
東殿塚
綾部
設
l45 前方後方
丁兵
ま
9号
玉手 山
3 4
大阪
築造区画明瞭
57.5 円
一4一
ll0 前方後月
ワ
割石・
自
岡山
巣山
36 円
西 殿塚
月の輪
平塚
基底石を立てて
椿井 大塚山
大飯
i号
大阪
34 円
兵庫
築造 法 に差異
38
32 前方後 門
3号
松岳 山
Z 女山
美和 Lu2 号
山
に差異
36
80 前方後 門 32
西 求女塚
法
玉手巾
美和 uJi 号
美和
築造
大阪
_塚
福岡
群馬
@
Ⅱ
3
3
a
3
5
5
5
5
築造区画明瞭
l30 帆立貝 弍
204 前方後月
27
70 前方後門
2l0 前方後 門
前方後 門 26
Ⅱ
3 5
208 前方後門
3 5
3 5
i20 前方後田
3 6
3 6
3 6
347 前方後門
7l 円
82 帆立貝 式
50 円
築造区画明瞭
4B 帆立貝 式
ii3 前方後 門
55 前方後門
自然 礫貼 万状
に
1 基底荷がほとんどみられない 事例
大きく 2 種類が存在する。 1 点目は、 表面の葺石の 下に裏 込め石を施し、 石垣 状 に構築して
ゆく事例であ る。 この事例は古墳の 出現 期 に多くみられる。 2 点目は、 墳丘法面に直接、 葺石
を横積みにせずに 貼 万状に構築していく 事例であ り、 古墳時代後期に 比較的多くみられる。
①
石垣 状 に構築する事例
中山大塚古墳 り期 ) (奈良県立橿原考古学研究所 i996) L図 l- 11 奈良県天理市に 所在する
墳丘 長は Om の前方後円墳で、 奈良盆地東南部の 低丘陵地に立地する。 葺石は石垣 状 に構築さ
れ、 ほぼ人頭大の 石材を斜面に 対して平行に 小口積みにしている。 また表面の石とかみ 合 6 2
うに 裏 込めが施されている。 主な使用石材は 片麻 状 黒雲母庇面 岩と 黒雲母花岡君で、 ペバマタ
イトが含まれることから 東方の河川で 採石されたと 推定されている。
桜井 茶 白山古墳 (2 期 ) (奈良県教育委員会 i961) 奈良県桜井市覚山に 所在する墳丘 長 207m
の 前方後円墳で、 奈良盆地の東南端に 位置する。 北には姉輪山がそびえ、 束には初瀬谷が 存在
する。 葺石基底部については、 最下段の石材を 掘った穴に据え 付け、 その上の石材は 墳丘内側
最下段の石材の 半分ほどよせて 構築されている。 上部の葺石を 支えやすくする 工夫であ @
石垣 状 に構築する他の 前期古墳に比べ、 複雑化されている。 主な使用石材はアプライト 質 黒雲
黄花岡岩や斑状黒雲母花岡君で、 栗原川や付近の 谷で採石された ど推定されている。
森 将軍塚古墳 (3 期 ) (東京教育大学文学部 1973 、 矢野ほか 1992) [図 1- 2] 長野県更埴市大
字森 に所在する墳丘 長99m の前方後円墳で、 屈折した尾根上に 築造されている。 人頭大の角 礫
を 石垣 状 に構築し、 砂岩礫の裏 込めが施されている。 主な使用石材は 安山岩で葺石傾斜角, ) は
40 。 に達する。
② 貼 万状に構築する 事例
、ンショッ ヵ 古墳は 0 期 ) (大阪府教育委員会 2003) 大阪府南河内郡河南町に 所在する墳丘 長
34m の方墳で、 葛城 m 系 西 麓の丘陵地に 立地する。 最大で約 40x60cm 、 厚さ約 locm の板石が
斜面やテラスに 貼り付けられ、 それらの間に 小石が充填されている。 また、 版築 状 盛り土に直
接設置するのではなく、 暗褐色の粘 質 土を敷いた上に 貼り付けられている。 そのほとんどが 河
原石で、 一部に榛原石を 含む。
アカハゲ 古墳 (Ⅱ 期) (大阪府教育委員会 2005) [図 i- 3 」大阪府南河内郡河南町に 所在す
る墳丘 長45m の方墳で、 葛城山系 西 麓の丘陵地に 立地する。 裾 部からテラスまでほぼ 全面に賄
方が施され、 最大で 50一70cm の石材が使用されている。 貼 石下には黒褐色粘土が 敷かれ、 こ
の 粘土に石を押し 付けて固定されている。 主な使用石材は 黒雲母 花 南君、 片麻 状 黒雲母花間 君
で採石地は平石谷流域や 飛鳥川流域と 推定されている。
Ⅱ
基底荷 を 2 段構築する事例
基底面を 2 段またはそれ 以上にわたって 構築する事例であ る。 人頭人、 またはそれ以上の 大
きさの石を墳丘 裾部 に別状に積み、 その上に 拳大の大きさの 石を構築する。 この事例は前期に
多くみられ、 中期や後期にかけてはほとんどみられない。
2. 石垣 状 に構築する事例
森将軍塚古墳・ 1 期
(東京教育大学文学部 1973)
ェ
.石垣状 に構築する事例
中山大塚古墳・ 1 期
Ⅰ
(奈良県立橿原考古学研究所 1996)
Ⅰ
/
俸㎡
ボ弗クポ
"
ノ
% りケハ神 -,-"。
ム
3. 貼石状に構築する 事例
㌧Ⅰ
こ
アカハゲ 古墳・Ⅱ 期
(大阪府教育委員会 2005)
蕊
4. 基底五を 2 段構築する事例
5. 基底有を 2 段構築する事例
西殿塚 古墳・ i 期
(天理市教育委員会 2000)
東殿塚 古墳・ 2 期
(天理市教育委員会 2000)
惣
Ⅰ
7. 基底荷 を 2 段構築する事例
西都原 100 号墳 3 期
"
る究
す研
薬 学
構期首
段5者
l.
原
檀 を墳
る古立
広山県
基支度
三︵
奈
例
l98
事前
巳
。
"
Ⅰ
、
Ⅰ
、
(原口・西谷 1967)
一
基底 石を 段構築する事例
弁天山 C l 号令・ 3 期
Ⅰ
殊
""""-
2m
・
(宮崎県教育庁文化 課2002)
図
「
葺石構築法の 事例
箸墓古墳Ⅰ 期 ) (白石,養成・杉山・奥田 1983 、 奈良県立橿原考古学研究所 2002) 奈良県桜
井市大字 箸 中に所在する 墳丘 長 276m の前方後円墳で、 奈良盆地の東南端に 位置する。 纏向遺
跡の南端に位置し、 三輪山東麓の 扇状地に立地する。 詳細な調査は 行われていないが、 外部か
らの観察から 径 40cm ほどの石材を 基底にし、 その上に小型の 石材を構築したものであ ると推
測されている。 また、 周 溝の渡り土手の 状況から基底荷 が 2 段構築されていると 推測されてい
る (青木 2003)。 主な使用石材が 黒雲母花岡君 と斑 レイ岩を用いた 河原石であ る点から、 採石地
は 近くの 巻向 川や初瀬川と 推定されている。
椿井大塚山古墳Ⅰ 期 ) (山城町教育委員会 1986) 京都府山城町に 所在する墳丘 長 140m の前
方後円墳で、 東から西へ舌状にのびる 丘陵の尾根を 切離した台地に 立地している。 墳丘 裾部に
は 人頭人据え、 比較的小ぶりの 石材で裏 込めをしたあ とに上面に人頭大の 石材をのせている。
地山をあ らかじめ 30cm ほどの深さまで 掘り、 そこの塊土とともに 基底石を据えている。 葺石
傾斜角は約 28 。 で、 地山に盛 土 なして、 それを基盤に 葺石を構築していることが 判明している。
主な使用石材は 花間 岩 、 砂岩、 チ ヤートであ る。
四股 塚 古墳 (1 期 ) (天理市教育委員会 2000) [図 1- 川奈良県天理市費生町に
所在する墳丘
長 230m の前方後円墳で、奈良盆地東部の 春日断層崖の 東綾部からのびる 丘陵地上に立地してい
る 。 墳丘 裾部 に人頭大の石材を 2 段重ねているが、 部分によってはさらに 大振りの石材が 使用
されており、 幅 g0cm に達するものも 確認、されている。 基底石の上面には 拳 大の石材が小口積
みに構築されており、 裏 込め石は確認されていない。 主な使用石材は 黒雲母花間 岩 、 斑 レイ 岩 、
片麻 黒雲母 花 南 君 で、 片麻黒雲母花岡君が 大半を占める。 使用されている 石英資片岩の 特徴な
どから付近を 流れる河川から 採石したと推定されている。
東殿塚 古墳 (2 期 ) 0天理市教育委員会 2000) [図 1- 5] 奈良県天理市中山町に 所在する墳丘
長 17Rm の前方後円墳で、 奈良盆地東部の 春日断層崖の 東綾部からのびる 丘陵地上に立地して
おり、 西殿塚 古墳が隣に存在する。 後世の開墾等のため 遺存状況は良好ではない。 基底石は人
頭大の石材を 2 段に横積みにし、 その上に 拳 大の石材を構築している。 また、 裏 込め石が確認
されているが、 掌大の石材を 構築するにあ たっては雑然とした 手法をとっている。 葺石傾斜角
は約 30。 で、 人頭大の石材による 区画万列も確認ほれている。 葺石の主な石材は 片麻 状 黒雲母
花岡君で、 チャートがみられない 点などから付近を 流れる高瀬川や 初瀬川と推定されている。
Ⅲ 基底 石を 1 段構築する事例
人頭大の石材を 1 段のみ墳丘 裾部に 別状に配し、 その上に 拳 大の石材を構築していく 事例で
あ る。 葺石の構築が 確認されている 古墳に関しては、 この事例が全国的に 大多数であ る。
弁天山 C 1 号 墳 (3 期 ) (原口・西谷 1967) [図 1- 6] 大阪府高槻市に 所在する墳丘 長 73m
の 前方後円墳で、 北摂 山塊縁辺の丘陵地帯に 立地する弁天山古墳 群 に属する。 径 20 一 50cm 前
後の石材を基底部に 別状に 1 段 据え、その上に 径 10 一 20cm 前後の基底面 た 比べ小型の石材を 小
口積みに構築している。 また、 下方の段ほど 大型の石材を 使用し、 上方の段ほど 小型の石材を
使用している。 地山と葺石の 間に 10一 20cm の厚さで 裏 込めの土砂が 施されているため、 地山
面の傾斜角が 28 。 程度であ るのに対し、 葺石傾斜角は 30 一 39 。 になっている。一週 3
一ア -
一
5 m の三
角状の区画を 連接して構築している。 全斜面の表面積は 1,886.61
㎡で、 葺石の総量は 28.675個、
総重量は 392t であ る。 採石地は付近を 流れる芥川一帯と 推定されている。
西都原 100号墳 (3 期 ) [図 i- 7] (宮崎県教育庁文化 課 2002) 宮崎県西都市大字姉宅に 所在
する墳丘 長 59m の前方後円墳で、 一 ノ 瀬川右岸の沖積 微 高地から西に 立地する西都原古墳 群 に
属する。 墳丘 裾部に 20 一 50cm の比較的大型の 石材を 1 段設置しているが、 部分的には 2 段設
置されている。 斜面部の石材の 大きさは箇所によってばらつきがあ
り、 基底荷よりも 大型のも
のも使用されている。 l m 前後の間隔で 区画面 列 が設置されている。 使用石材の大半が 河原石
状の砂岩であ り、 一 ノ 瀬川が採石地であ ると推定されている。
五色 塚 古墳 (4 期 ) W神戸市教育委員会 1975) 兵庫県神戸市垂水 E 五色 出 に所在する墳丘 長
194m の前方後円墳で、 須磨から明石への 海岸線が最も 突き出た垂水丘陵 南 麓の台地上を 利用
して、 前方部を明石海峡に 向けて築造されている。 比較的大きな 基底荷 が 2 列にわたり設置さ
れている。 基底万列間の 間隔が広く、
1 段にわたって 構築されたと 考えるべきであ る。 葺石下
には か 砂利を混ぜた 砂質 土が 10 一 20cm 敷き詰められている。 上 ・中段の方が 下段より大振り
の石材が使用されている。 主な使用万種 は花窩 閃緑岩で、 黒雲母花間 岩や サヌカイト、 チャー
トなどが若干含まれることから 付近の海岸や 河川で採石されたと 考えられている。
鳥居前古墳 (4 期 ) (大阪大学文学部考古学研究室 1990)京都府乙訓郡大山崎町に 所在する墳
丘 長 51m の帆立貝 式 古墳で、 天王山の北方の 丘陵地に位置する。 古墳の北側には 尾根が緩やか
に下り、 東 ・南側では急斜面になっている。 基底部に人頭大の 石材を 1 段 設置し、 その上に 拳
大の石材が構築されているが、 くびれ部においては 基底荷よりやや 上にはなれて 基底 石 と同大
の 石材が設置されている。 また、 3 段目の基底荷 は 1
.
2 段目の基底 石 はくらべ、 やや小さめ
であ る。 主な使用石材は 貢 岩 ・粘板岩・砂岩・チャートであ る。 葺石の使用石材、 大きさ、 風
化度などから 付近の小泉川中流域から 河床礫などが 採取・運搬されたと 推定されている。
乙女山古墳 (5 期 ) [図 1- 8] (奈良県立橿原考古学研究所 1988) 奈良県北葛城郡河合町に 所
在する墳丘 長 130m の帆立貝 式古墳で、 ニ上山の東部に 広がる 低 丘陵に立地する。 付近には大
小さまざまな 古墳が分布し、 馬見古墳群として 知られる。 人頭人、 またはそれよりやや 大きめ
の 石材を基底荷として 設置し、 その上に若干小振りの 石材を積んでいろ。 基底石は直線的には
据えられておらず、 一定の幅で凹凸が 確認されている。 主な使用石材は 流紋岩質凝灰岩などで、
円 礫を含むことなどから 二上山や付近の 河川で採石されたと 推定されている。
鴨谷東 1 号 墳 (6 期 ) (和田ほか 1992) 京都府与謝郡 加 , 暁 町に所在する 墳丘 長 50m の円墳で、
阿蘇海から宮津 清 に流れる野田川付近に 展開する 小 盆地に立地する。 比較的大型の 石材を基底
面として i 段 設置し、 その上に 拳 大や平板な石材を 構築している。 また、 基底荷と同大の 石材
を約 L2 一 4.8m 間隔で縦方向に 1 列 設置し、 区画を形成している。 主な使用石材は 亜 円 礫の花
岡君で、 蛇紋岩などが 僅かに含まれる。
茶 すり m 古墳 (7 期 ) (兵庫県教育委員会 2003) 兵庫県朝来郡和田山町に 所在する墳丘 長 86m
0 円墳で、 和田山盆地東南端の 筒 江 の 谷と 山東盆地を結ぶ 宝珠峠の西に 立地する。 梶原山から
南に伸びた尾根に 築造され、 付近には黒川や 円山川が流れる。 葺石は残存状況が 良好ではなく
中世に城郭築造の 際に削り取られている。 墳丘 裾部に 幅 40cm 程度の比較的大型の 石材を 1 列
にならべ、 その上に 15cm 程度の石材を 墳丘表面に貼るように 設置されている。 使用石材や採
石 推定地などについては 検討されていない。
W 特殊な事例
他 のどの事例とも 似つかなり特殊な 事例であ る。 奈良県三吉石塚古墳
(6 期 ) は基底 石 と同
大の石材を縦に 1 列 ずっ等間隔に 並べて区画をつくり、 その区画ごとに、 基底荷 を 1 段据えて
その上に横積みにしていく 技法と貼り石状に 構築する技法を 交互に採用している
(井上 i996)。
この技法は古市古墳群の 数基 にもみられる。 また、 大阪府唐櫃 山 古墳 (8 期) は長径 l5cm の
細長い石材を 基底部に据え、 その上に長径 20cm の石材を階段状に 構築している。
第2節
基底荷と根石
これまで葺石構築 法 に関して基底荷に 注目してきたが、 基底石の下に 拳 大の石材を据える 構
築 方法を採用した 事例がいくつか 存在する。 その事例は古墳時代中期に 非常にまれに 見られる
が、 後期以降の事例が 確認されていない。 このため、 後の寺院建築にみられる 礎石の下に設置
される根石との 関連は薄いと 考えられる。 根石が確認、 されているのはごく 僅かであ る。
小令寺山古墳
(第 3 類 5 期 ) ( Ⅰ 尾 市教育委員会 2004) 大阪府八尾市大竹に 所在する全長
ノ
140m の前方後円墳で、 生駒山麓に形成された 扇状地の先端部に 立地する。 ほとんどの部分で
人頭大の石材を 基底荷として 1 段 設置している。 1
る 箇所が存在するが
ケ
所であ るが基底面 が 2 段積みになって い
下段の基底石は 墳丘を掘り込んで 設置されている。 根石は中段斜面から 検
出された。 「小振りの石が 葺かれた後に 基底荷と同様の 大きめの石が 設定され、 この大きめの 石
都側に向かって 行われている。 (八尾市教育委員会 2004; 19)
とあ る。 しかし、 この根石の目的については 検討されていない。 主な使用石材は 黒雲母花岡 君
の 設定作業は後同部側からくびれ
で、 僅かに 斑 レイ岩が使用され、
巣山古墳
(第 3
類
」
付近を流れる 谷川が採石地と 考えられる。
5 期 ) (奈良県広陵町教育委員会
2005) 奈良県北葛城郡広陵町に
所在する
全長 204m の前方後円墳で、 奈良盆地西部に 位置する馬見丘陵に 立地する。 西には幕下川が 、
東には高田川、 北には大和川が 流れる。 幅 30cm 前後の石材を 基底に 1 列にならべ、 その上に
幅 20cm 前後の石材を 積み上げる。 根石は後月 郡で 確認,されているがくびれ部からは離れた 箇
所であ る。 葺石傾斜角は 14一 26。 程度で、 根石が確認された 箇所は 20。 前後であ った。 京芋 と 西
半で構築 法 に多少の違いがみられる。 主な使用石材は、 柘瑠 石黒雲母家 m 岩 、 輝石安山岩、 流
紋岩 、 安山岩などであ る。 採石地は飛鳥川上流と 幕下川上流と 推定されている。
以上のように 僅か 2 例であ るが事例が確認されている。 これらに設置されている 根石の特徴
は 墳丘 裾 部の全域にわたるのではなく、 限定された箇所にのみ 設けられている 点であ る。 この
2 例の根石が設置されている 部分の墳丘傾斜角は 心合寺山古墳においては 27。 前後、巣山古墳に
おいては 20。 前後と大きく 差があ る。 基底 右 の 丁 という非常に 目立たない部分に 設置されてい
るため装飾的な 目的とは考えにくく、 機能的な目的で 設置されたと 考えられる。 しかし、 傾斜
角の面からみてもその 差が非常に大きいなど、 共通の要素が 少ないため、 その目的を断定する
一 9一
臼痔
図2
ことはできず、
第
3
節
3 業頁
官簿
葺石基底部分の 構築方法による
(青木2003 をもとに作成 )
4
炎夏
分類
今後検討が必要であ ろう
分類
青木は葺石構築法を 基底荷に注目して 以下のように 大きく 4 種類に分類した (青木 2003) [図
2] 。 しかし、 この 4 つの区分の中でも、 地域や時期によって 小異が認められるため、 さらに細
別を試みた。 なお、 前節で紹介した 特殊な事例は 全体からみれば 例外的なものと 考えられ、 本
筋 では扱わないものとする。
①
第 1類
基底 右 が認められず、 人頭大の石材を 石垣 状 に構築してゆく
万法であ る。 裏 込め石が厚く、
ほぼ同大の石が 積まれている。 事例が少なく 詳細な地域差はあ まり検討できないが、 畿内にお
いては奈良県中山大塚古墳 や、 同ホケ /m 古墳などの初期の 古墳にみられるため 最古の葺石橋
築法 の一つと考えられる (青木 2003)。 2 期になると畿内で 確認されるのは 奈良県桜井 茶 白山古
墳のみであ るが、 本 古墳の葺石の 基底部は穴を 掘って据えるなど 荷重を軽減させる 工夫がみら
れる。 このため、 単純に石垣 状 に構築していくものを
ものを l
②
一
l
一
a
類 、 掘った穴に基底部を 設置する
b 類に細別する。 3 期以降は畿内での 事例は激減し、 畿内以外の地域にみられる。
第2類
人頭大の基底荷 が 2 段にわたり構築されるのが 主な特徴であ る。 基底石の上の 構築は小口 積
みにする例と 横積みにする 例が確認されている。 箸墓古墳など 初期の古墳に 事例が多いことか
ら、第 1 類 と同じく最古の 葺石構築 法 の 一 っと考えられる (青木 2003)。 また、 兵庫県西求女塚
のように、 基本的には基底 石を 2 段設置するが、 部分的に基底石を 立てて据える 場合もあ る。
また、 岡山県美和 山 2
.
3 号 噴 のように基底部のほとんどが 立てた状態で 設置されている
1
段
の基底荷によって 構築されている 例が確認されているため、 基底石を立てた 状態にして 1 段構
築する例も第 2 類に分類できるといえる。 よって、 基底荷 を 2 段にわたって 構築する方法を 2
- a 類、
基底石を立てた 状態にして 1 段する方法を 2 - h
一
Ⅰ
0一
類に細別する。
事例数 2
事例数
1 2 3 4 5 6 7 8 9
10 11
時期
時期
第 l類
Ⅰ
3
第2類
8
16
4
2
事例数㌍
Ⅰ
Ⅰ
事例数 2
Ⅰ
01
10 11
Ⅰ
時期
時期
第3類
第4類
図3
③
葺石構築法の 変遷
第3類
主に人頭大の 石材を i 段のみ設置する 方法で、 基底石は基本的に 横積みまたは 小口積みであ
る。 現在、 葺石構築 法 が判明している 事例をみる限りではこの 第 3 類が圧倒的に 多い。 また、
小異はあ るものの、 全国的にみられるため、 最もスタンダードで 定型化された 構築 法 といえる
のではないだろうか。 第 3 類では基底石の 設置方法には 小異はほとんど 確認、されていないが、
基底石上の葺石構築に 小異が認められる。 まず、 弁天山 C l 号墳などに代表される 基底石上の
石材を小口積みまたは 横積みに構築する 例であ る。 第 3 類の中ではこの 構築 法 が大多数で、 こ
れを 3
一
a 類 とする。 次に、 兵庫県 茶 すり 山 古墳や大阪府 御 獅子 塚 古墳などのように 基底石上
に石材を横積みや 小口積みにせず、 貼 万状に構築する 事例であ る。 これらは次の 第 4 類につな
がると予想されるもので 3 - b 類に細別する。
④
第4 類
基底荷がほとんどみられなくなり、
石材を貼万状に 構築する。 第 3 類 とやや並行し、 後期か
ら終末期古墳にもみられる。 ただ、 終末期古墳においては 外議利巧がみられ、 葺石の構築技術
とは異なる流れを 組むものであ る (青木 2003)。 また、終末期においては 墳丘斜面だけでなくテ
ラスにも石材が 設置されている。 後期から終末期にかけては 葺石自体を有する 古墳が減少する
ため、 確認されている 事例数も少ない。
第
4
節
時期からみた 変遷
本節では青木が 集成した事例を 再検討しつっ、 筆者が新たに 集成した事例を 加えながら、 時
一 1l 一
ぼ 30
接牽
態牽
番号
第2 類
番@
ぼ漆雙
駅穏睡
第3 類
番号
第4 類
番号
図 4 墳葺石の構築方法と 墳丘傾斜角
期 に注目しながら 考察を試みた (図 3) 。 各地域における 小異は割愛している。
①
第 1類
事例の絶対数が 少ないのが問題であ るが、 1 期に比較的多く、 時期を経るにつれて 減少して
いく。 ただし、 地域的に考えるならば 1 . 2 期の事例のほとんどが 畿内に分布しており、 3 期
以降は畿内の 事例はほとんどなく、 それ以外の地域事例が 多い。 このことから 考えると、 4 期
以降も畿内以外の 地域においては 第 t 類の構築 法 が確認できると 予想できるのではないだろう
かO
②
第2類
第 1 類 と同じく、 事例が t 期に突出して 多い。 2 期以降は序々に 減少していき、 後期にかけ
て ごく小数ではあ るが確認されている。 地域的な面からみれば、 i 期において岡山県から 兵庫
県にかけての 地域に確認されているのが 特徴であ る。 また、 2 期においては 畿内における 事例
が多いが、 他地域にはあ まりみられないため、 これ以上の広がりはみせなかったと 思、 われる。
③
第3類
1 期にはごく少数であ るが、 やがて増加していき 3
.
4 期に特に多くなる。 その後、 時期を
経るに つ れて緩やかに 減少していき、 7 期以降はごく 少数になる。 しかし、 10期においても 確
認、 されているため、 後期においても 完全に消滅することはない。 地域的には全国にわたってお
り、 全国的に定型化された 構築方法といえる。
④
第4類
3 期の事例に確認されていることから 前期から存在したようであ る。 その後、 後期にかけて
は少数であ ったが終末期に 増加する。 地域的には畿内以覚の 地域もごく少数存在するが、 その
ほとんどが畿内の 古墳に採用されている。
以上の事柄を 整理すると、 古墳の出現 期 には 第 1 , 2 類の葺石構築 法 が存在し、 前期までは
一 12一
並行関係にあ ったよ う であ る。 やがて、 第 3 類が全国的に 定型化されたことで 第 1
,
2 類は減
少するが、 完全に消滅することはない。 そして、 中期頃 から第 4 類の採用が始まり、 終末期以
前までは並行関係にあ る (青木 2003) 。 終末期になると 第 1
,
2
.
3 類はほとんど 確認されなく
なり、 第 4 類がごく少数であ るが確認されている。
第
5
節
形態と墳丘傾斜角
各事例について、 構築方法と墳丘傾斜角との 連関について 分析を試みた 囮 4] 。 ただし、 構
築万法と傾斜角の 両方が判明している 事例は少数であ る。
①
1
第1類
3 期までの前期の 古墳が判明している。 どの事例においても 墳丘傾斜角は 40 。 前後と非
一
常に急、 な 角度になっており、 ばらつきはみられない。
②
第2類
第 1 類 と同じく 1
一
3 期までの古墳が 判明している。 墳丘傾斜角はどの 事例においても 30 。
後半と非常に 急であ り、 ばらつきはみられない。
③
第3類
最も事例は多いが、 5 期までしか判明していない。 墳丘傾斜角は 17 一 46 。 と差が非常に 大き
くばらつきも 多い。
④
第4類
わずか 3 例で、 5
6
.
コ期 と連続性に欠ける。 墳丘傾斜角は 20 一 33 。 と比較的緩やかで は
らつきはみられない。
以上のように 各形 f の特徴が判明した。 葺石構築 法 と傾斜角との 関係については、 第 1
2
.
類 においては非常に 急、 な 傾斜角の古墳に 採用されており、 第 4 類においても 非常に緩やかな 傾
斜角の古墳に 採用されていることがわかる。 第 3 類においては 傾斜角にばらつきがみられるが
4
.
5 期の畿内の古墳に 限れば 30 。 以下と青木の 主張通りとなる。 第 3 類はその時期や 地域分
布が広範囲にわたるためデータにばらつきがみられるのも
当然であ ろう。 また、 今回は平均の
傾斜角をもとに 分析を試みたが、 同じ古墳においても 箇所によっては 傾斜角が大きく
違う。
さ
らに、 三吉石塚古墳のように 装飾的目的の 強い古墳も存在するため 葺石構築 法と 墳丘傾斜角と
の 関係は今後、
第
6
節
慎重に議論する 必要があ るだろう
袖形と発展
以上のように、 葺石の構築法の 変遷について 大きな方向性を 明らかにしようとした。 しかし、
いまだデータが 少なく、 今後事例が増えるに 従って分類や 変遷に関する 知見は変更されていく
だろう。 本節では、 前節までの検討を 踏まえ葺石構築 法 が確立される 経緯について 考えたい。
葺石の発展についてはその 祖 形を弥生墳丘墓に 求めるか、 大陸、 特に朝鮮半島や 中国の文化
一 l3 一
の 影響に求めるかという 問題があ る、 国内の古墳において 墳丘の築成を 除く様々な要素が 当時
の中国や朝鮮半島の 墓制と一致しない 点が多く、 弥生墳丘墓にその 祖 形を求めるのが 妥当であ
ると判断した。 大陸の影響がなかったとは 言い切れないが 弥生墳丘墓の 発展過程にこそ 中国,
朝鮮半島の影響が 強かったと考慮すべきであ る (近藤 i985)。 また、 盛 土工法の面からみても 弥
生墳丘墓と古墳の 墳丘構築技術に 強い関連性がみられる
(後 川 2005)c
葺石の祖形を 探る上では、 最古と考えられる 葺石構築方法に 関して検討する 必要があ る。 古
墳の出現 期 に関しては、 葺石自体の残存状況が 良好な事例が 少なく、 今後の研究成果によって
はそれが大きく
変化するかもしれないが、 現段階では次のように 考えておきた い 。
第 1 類は人頭大の 石材を石垣 状 に構築し 裏 込めを厚くする。 特に 、 厚みのあ る 裏 込めなどの
特徴から弥生墳丘墓の 技術を受け継ぐものであ る可能性は大いにあ る (青木 2003)。 また、その
特徴が香川県石清尾山積石塚に 代表される積石塚とも 共通点が多く、 讃岐の地域を 中心とした
積石塚との関連も 考えられる (梅原 1933)0
第 2 類は基底面 を 2 段にわたり設置する 構築方法であ る。 確認されている 事例をみる限りで
は、 兵庫県泰久 山 1 号墳は古墳と 弥生墳丘墓が 混在する泰久 山 古墳墓 群 に属し、 同古墳 群 に属
する泰久 山 5 号墳墓の墳丘 裾部 には列右 がみられることなどから 弥生墳丘墓の 列 石 との関係が
考えられる (近藤ほか 1985)。 岡山県の事例に 関しても、 岡山県 楯築 弥生墳丘墓の 裾部にみられ
る 列石 との関連が窺える (近藤ほか 1992)。 美和 山 2
.
3 号墳や 西求女塚古墳で 確認、されている
立てた状態の 基底面 も楯築弥生墳丘墓にみられる 立石との関連が 考えられる。
これらのことから 第 2 類は吉備や播磨の 地域と深い関わりを 持つ葺石構築 法 であ ると考え
も
れるが、 1 期においては 箸墓古墳などの 畿内における 事例も確認されている。 また、 箸墓古墳
は 岡山県の浦間 茶 白山古墳や湯道車塚古墳とほぼ 相似形であ ること (北條 1986) などから畿内
吉備の両地域の 間で古墳築造技術の 共有があ ったと考えられる。 したがって、 楯築 弥生墳丘
と
墓 の 列 石や立石などの 流れを組む第 2 類の葺石構築 法が 吉備の地域と 深い関わりのあ った畿内、
特に大和の古墳築造に 採用されたのではないだろうか。
また、 畿内の古墳を 型式学的にみても
第 1 類に属する桜井 茶 白山古墳と第 2 類に属する箸墓古墳は 別の系列であ る (倉林・澤田 2000)。
そして、 第 2 類に属する四股 塚 古墳と箸墓古墳は 同系列であ ることからも 第 1 類 と第 2 類が別
の系譜をもつことが 考えられ、 1 期 や 2 期の墳丘築造を 考える上で重要な 要素の一つといえる。
第
3
章
終わりに
葺石構築 法は ついて以上のように 論じてきたが、 これまでの研究者の 議論と照らし 合わせて
みることにしょう。
葺石はその目的が 機能的意義と 装飾的意義が 唱えられてきた。 葺石構築法の 面からみても 砂
利を含んだ 裏 込めを施しお 制くを良好にする 点や、 崩壊の可能性の 低いテラスには 設置されてい
ない点などから 墳丘の崩壊を 防ぐことを目的とする 反面、 三吉石塚古墳や 大阪府和泉黄金 塚 古
墳 目 (和泉市教育委員会 2005) にみられるような 装飾を重視していることなどから 機能と装飾の
両面を備えた 外部施設と考えるべきだろう。
葺石の構築とその 技術の変遷は 再検討の結果、 青木の論を概ね 支持するかたちとなり、 墳丘
一 l4 一
の 崩壊の防止目的とするだけでなく 葺石自体が自重で 崩壊することを 防止するために 発展して
きたことが明らかになった。 しかし、 墳丘傾斜角と 葺石構築法の 関係は畿内以外の 地域では当
てはまらない 事例が多く、 今後再検討する 必要があ るだろう。 また、 企画論と葺石構築 法 、 そ
して塵土工法との 関連性も視野に 入れるべきであ ることが考えられる。
今回、 葺石構築 法 をほんの一部しか 明らかにできず、 企画論や盛土工法との 関連についても
また、 畿内を中心としたデータになってしまい 畿内以外
十分に検討することができなかった。
の 地域の構築 法 に関して詳細に 検討することができなかった。
しかも、 桜井 茶 白山古墳や巣山
古墳などのように、 一つの古墳でも 箇所によって 構築 法 に若干の差異が 認められることがわ
かっている。 地形の影響や 築造中の設計変更で 構築 法 に違いがあ らわれるようであ り、 これら
の 要素も検討せねばならない。 今後、 資料の増加に 期待するとともに、 企画論や、 盛 土工法な
どの墳丘築造技術との 関連性や地域性に 着目した研究が 必要であ ることも指摘しておきたい。
註
い 葺石表面の傾斜角と
-.,
、
盛土面の傾斜・
,
角の差が大きい
、
事例が確認されているため、
, ・
・
葺石表面の傾斜角を
.
、
葺石
-
傾斜角、 盛土面の傾斜角を 墳丘傾斜角とする。
2) 葺石が設置されていない 箇所やテラスに 設置されているなど、 装飾目的の可能性が
大きい。
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