巻 頭 言 「ゼンマイはやがて止まる」 ~昨今の日本人の死生観と認知症~ 全老健副会長、介護老人保健施設生愛会ナーシングケアセンター理事長 本間 達也 高齢者世代が急増し、生産年齢の世代が減って いくと、いずれ日本は「多死時代」に突入する。 その時に懸念されるのは、現状でその生産年齢世 代の約3 割が非正規雇用下にあるという事実。高 齢者を支えるべき世代が、満足な収入を得られず、 親の面倒も見られない。精神科医の友人は「この ままでは親子心中が増えるだろう」と言って憂え る。認知症の老人を子が虐待してついには殺害に 至るといったニュースがあると、まずモラルの問 題が問われるが、その一方、子の立場からみるべ き一面もあるのではないか。 日本人が「超長生き」になっていく一方で、 様々な歪みも生じている。平成27 年度の一般会 計予算では、社会保障関係が約 3 割を占め、その 内訳は年金 3 割、医療 3 割、介護 1 割弱となって いる。 かつての国の構想では、老健施設の 1 か月の入 所利用料は創設当初概ね国民年金で賄えるはず だったが、今日のそれは一人あたり概ね13 ~ 15 万円(地域によって差もある) 。 5 ~ 6 万円程度 の年金ではとても足りない。 一方、認知症は年々増加していくであろう。一 説によれば、2025 年には認知症の有病者数は700 万人(2012 年は462 万人)になると想定されて いる。コンビニに来る買い物客の大半が認知症、 そんな時代がこのままいけば確実に訪れるのでは ないか。私の老健施設でも認知症患者は日々、増 加する傾向にある。認知症の利用者を診ていると 「この人は生きているのか?それとも生かされて いるのか?」と思わされる。 2 割はご本人の本能 で生きているが、 8 割は生かされているのだろう。 医療介護ができることには限界もある。 人間いずれは最期を迎える。はたして現代の日 本人は現実的に「自分が死ぬ」ことを覚悟してい るか?私はこの日本の「戦前」と「戦後」の大き な違いの 1 つに死生観があると思う。武士道に象 徴されるように、戦前の日本には「死」について 考える文化があった。人々はいかに生き、いかに 死ぬかを考えた。しかし戦後、良し悪しはともか く「死」は疎かにされ、人々は生きることばかり を考えるようになった。人が「生きる」のではな く、 「生かされている」のは、どの国から与えら れたのか戦後文化の特徴であり、大量消費文化に 象徴されるといえる。総じて覚悟のできない欲張 り個々人の増悪である。 将来、多死時代を迎える日本が備えておかなけ ればならない大切なことの 1 つとして、教育の中 で死生観をしっかり教えることがあると私は思う。 日本の文化には「自助」 「互助」 「共助」 「公助」 といった精神が今でも存在する一方、冷戦崩壊以 降の世界のグローバル化、情報ソースの多様化に よる学校教育の価値の低下、地域社会の崩壊、若 い世代はインターネットやSNS に依存し、とも すれば年長者との交流の場を持てないでいる若者 が増えている。そのような中で、死生観を考える ことは重要だ。 戦後、死をきちんと考えなくなったことの一因 として、無秩序な大量消費社会、戦後教育に宗教 観がなく、タブー視されてきたこともあるといえ る。そして、 「生まれて、生きて、死ぬ」という 死を考えるべき哲学的な大切な思想を、戦後の日 本人の多くは忘れ、物質的な高度成長と共に避け てきたのかもしれない。 表題の「ゼンマイはやがて止まる」は、最近来 日した「世界で最も貧しい大統領」といわれるウ ルグアイ前大統領のホセ・ムヒカ氏の言葉だ。こ の言葉の重みを、日本人は十分かみ締めるべき時 期に来ているような気がしてならない。 老健 2016.7 ● 5 005巻頭言(三)0609.indd 5 2016/06/09 13:25:05
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