曽布川藤次郎翁に学ぶ - 天竜川・杣人の会「大好き北遠」

伝統と革新の融合
郷土の匠
曽布川藤次郎翁に学ぶ
明治の建築家・曽布川藤次郎翁のことをご存知でしょうか?北遠水窪
の山住神社社殿、王子製紙気田分社、同中部工場の建設に携わった人物
としてその名が残されていますが、この藤次郎翁は「長上郡十郎嶋村」、
現在の磐田市十郎島に生まれました。
郷土の匠、藤次郎翁について、この度ご子孫たちから資料や写真の提
供を受け、宮大工として伝統的な神社建築の傑作を残しただけでなく、
製紙工場などの革新的な西洋建築までも手掛けた幅広い藤次郎翁の業績
についてまとめてみました。
その経歴を顧みる手がかりとしては、浜松市南区東町の臨済宗方広寺
派の寺院、本光寺境内にある藤次郎翁の頌徳碑に刻まれた碑文を参考に
しました。
藤次郎翁の残した美しい彫刻や巨大な建物からは、造る者だけが味わ
うことができたであろう充実感や楽しさが伝わって来ます。また、設計
や工法は、建築の専門的な知識に欠ける私たちには分からないことばか
りですが、相反すると思われがちな「伝統と革新」
「和と洋」を融合した
翁の仕事ぶりからは、私たちが学ぶべき進取の精神を随所に見いだすこ
とができます。
藤次郎翁の功績を、現在も残る建物や古い写真で振り返り、建物を鑑
賞することを通じ、
「ものづくり」の厳しさと楽しさとを少しでも味わっ
ていただく一助になればと願い、この冊子を作ります。
●大工棟梁曾布川翁碑
明治四十二年五月
大川平三郎撰並篆額
織田完之書
曽布川藤次郎翁の功績を伝え
るものの 1 つに、
浜松市南区東町
本文 3 行目の「●」の文字が欠
の本光寺境内に建つ「大工棟梁曾
けています。本文 8 行目の 5 番目
布川翁碑」の石碑があります。碑
の文字も大きく破損していますが、
文を寄せたのは、
王子製紙気田工
ここは「大連」の「連」だと見ま
場建設以来、
その腕を見込んで長
した。
い付き合いとなった「日本の製紙
つまり、
「七十二歳進赴大連従事
王」大川平三郎氏。刻まれた文字をできるだけ正確に読み取り、ここに
高堂大廈各般構造僉完成」とは、
掲載します。
「72 歳の時、進んで大連に赴き、
大きくて立派な建物の建設に従事し、さまざまな建物をことごとく完成
した」の意味になります。
大工棟梁曾布川翁碑
翁稱藤次郎諱藤直曾布川氏遠江國長上郡十郎嶋駒形人父曰伊八母千勢翁自幼敏達
「大連」と言えば、日露戦争後、ロシアから租借権が移行した関東州
有番匠才就鈴木傳重郎業大進廿二歳擢為江戸城普請世話役爾後稱大工棟梁董諸般
の都市。天保 6 年(1835)生まれで、数えで 72 歳の藤次郎翁が赴いたの
建築明治之初●三層楼干濱松又造釣桁屋梁人驚其智巧翁好作神社佛閣奥山村山住
は、明治 39 年(1906)。関東都督府を設立され、南満州鉄道(満鉄)が
神社其他所作不遑僂指廿二年予始以木材製洋紙當設工場於周智郡気田村之時也舉
創業された年に当たり、洋風の近代建築が次々と建設され始めた時期と
翁一任建築翁當奮事鞠躬盡力工事亟成尋從事中部製紙工場及駿河國富士郡四日市
一致します。
製紙工場咸得完成凢翁之執事也至誠懇篤先衆躬秉繩墨自黎明至昏夜撫門弟有條序
藤次郎翁は、帰国の 2 年後に惜しまれながら他界しました。
以寛猛得宜工事駸駸而進寡言勇断勵精不倦偶有微恙則在褥中以彫刻爲樂及七十二
歳進赴大連従事高堂大廈各般構造僉完成而歸又受予囑擔任美濃國中央製紙會社建
●篆額「利用崇徳」
築日夜竭心經營業幾成俄臥病尚刻猿田彦鈿女兩神像贈之予曰是酬平昔知遇也遂不
大川平三郎氏が篆書体で書いた
起年七十四實明治四十一年六月廿一日也遠江傳聞無不惜悼者佛諡淸心院聖道義諦
「利用崇徳」の意味について考え
居士葬干先塋之次配鈴木氏舉ニ男四女長男謙作出分家次男藤太郎承後爲大工棟梁
てみました。
文字の成り立ちを調べてみると
今茲藤太郎建碑請文干余乃依狀叙事銘曰
智巧抽衆
精力超倫
好營社寺
奮築城闉
宏廈層屋
西廩東囷
「利」は「禾」と「刂」との組み
遄成立辦
實舉名振
謹厚持己
勤勉終身
嗟夫如此
一代偉人
合わせ。実った「禾(イネ)」を鋭
い「刂(かたな)」で切り取ること。「用」は、板に棒で穴をあける様子
中央製紙會社主宰新井要
を表した文字ですから、
「用いる」とは、板を加工して役立てる、の意味
之助齋藤平次郎田中稔知
になります。
翁久矣當其死也請銘大川
昨今では「利益になるよう用いること」を「利用」とする風潮もあり
ますが、大川平三郎氏が藤次郎翁について書いた「利用」とは、切った
社長録其功斡施無不至今
揭関係氏名乘後世矣
り、穴を開けたりする大工の技を表した、本来の意味を含んだ言葉です。
明治四十二年五月
「崇」は、
「山+宗」で「高い山をあがめる」意味。さらに「宗」を分
解すれば「宀+示」で祖先神を祀る意味であり、藤次郎翁の業績を子々
東京
大川平三郎
孫々まで伝えようと考え、この頌徳碑を建てた藤太郎氏らの思いを汲ん
東京
新井要之助
だ 1 字です。
静岡
田中
埼玉県
齋藤平次郎
東京
木村敬三郎
白須賀
谷中菊次郎
さらに、
「徳」の元の字は「彳(ぎょうにんべん)
」がなく、
「まっ直ぐ
な心」を表す「悳」だったとのこと。
つまり、「利用崇徳」とは、「木を伐り、板を刻んで神社や工場などを
稔
建築して来た匠の技と心を、子々孫々の将来まで尊び伝える」の意味。
一朝一夕では身に付けることができない修業、修身の賜物である技と心
金折
鈴木喜三郎
掛塚
鈴木和三郎
――この藤次郎翁の業績から何を学ぶかは、私たち一人一人の問題でも
福田
寺田
森町
木下
下石田
小池鎌太郎
掛塚
落合
兼𠮷
西島
大石
米作
掛塚
小栗
熊𠮷
仝
牧野
藤𠮷
あるのです。
●大工棟梁曾布川翁碑の裏面
門
弟
藤次郎翁の頌徳碑の裏面には、この碑を建てるに至った経緯が記され
ています。
半藏
監督人
翁寡言力行常受人畏愛其
長男
曾布川謙作
病没也門弟知人痛措不措
女婿
長谷川熊藏
焉聞建碑之企人爭醵資助
其擧以可見翁之平生也
七世孫
曽布川藤太郎建之
松𠮷
藤次郎翁が他界したのは、明治 41 年(1908)6 月 21 日。翌 42 年(1909)
●曾布川氏遠江國長上郡十郎島駒形人
5 月に次男藤太郎氏によって建てられた頌徳碑には、長男謙作氏や翁と交
藤次郎翁の出生を示す「曾布川
流があった事業家たち、多くの門弟も名を連ね、翁の死を悼む気持ちが
氏遠江國長上郡十郎島駒形人」の
伝わって来ます。
「長上郡」とは、天竜川河口を挟
む地域から現在の浜松市浜北区に
●高木秋葉山常夜燈<磐田市指定有形文化財>
至る縦長のエリア。
私たちが曽布川藤次郎翁の名を知るき
藤次郎翁は、天保 6 年(1835)
っかけとなったのは、磐田市高木にある秋
11 月 10 日、父伊八と母千勢との間
葉山常夜燈を建てた大工として。この常夜
に長男として誕生しました。
燈は、遠州地方で多く見られる木組みの鞘
明治 18 年(1885)年から 10 年かけた天竜川第一次改修により、十郎
堂。堂内に点された灯りが漏れる連子窓の
島村は天竜川の中州から天竜川左岸の本町西への移転を余儀なくされま
上には彫刻を施した欄間を配し、小さいな
した。天竜川の中州にあった「十郎島駒形」は川の底に沈み、住民の主
がらも宮大工の技が随所に見られる傑作
な移住先となった磐田市十郎島に地名だけが残っています。
です。
堂内の棟木に打ち
付けられた棟札(むね
「就鈴木傳重郎業大進」――藤次郎翁に大工の技を指導したのは、鈴
ふだ、むなふだ)の真ん中少し下の辺りに「大工棟
木傳十(重)郎氏。掛塚祭りの屋台のうち、本町や東町、砂町などに名
梁
を残すほか、貴船神社の本殿、拝殿の建築に当たり、棟梁を務めた宮大
十郎嶋村 曽布川藤次郎」の文字が。棟札とは、
建物の建築や修築の記録・記念として、棟木や梁な
ど建物内部
の高所に取
り付けられた札であり、建築年
月日や施主の名のほか、その建
物を造った大工の名なども記さ
れます。
●業大進廿二歳擢為江戸城普請世話役
工です。
「業大進廿二歳擢為江戸城普請世話役」とは、その技術が優れていた
ため 22 歳の時に江戸城普請の世話役に抜擢されたということです。
●山住神社
ちなみに、「広報みさくぼ」平成 15
「好作神佛閣奥山村山住神社」―
年 5 月号の記事には「資料によると、
―神社仏閣を造ることを好み、当時
この彫刻のある山住神社の建物は明
の奥山村、現在の浜松市天竜区水窪
治四十四年九月に建築許可が出され
町に鎮座する山住神社の社殿の建
ています。彫刻はその当時の掛塚の大
築にも携わりました。
工曽布川(そぶかわ)藤太郎氏によっ
山住神社が
「山住大権現」から
「山
て作成されたものです。
」と記載され
住神社」へと改称したのは明治 5
ています。
年(1872)
。現在の本殿が藤次郎翁
によって改築されたのは、明治 12 年(1879)
。拝殿が建設されたのは、
翁の死後の同 44 年(1911)
。藤次郎翁の次男、藤太郎氏によって工事の
指揮が執られました。
●春野・清水神社本殿
平成 5 年(1993)に発行された「春
野町の社寺棟札等調査報告書」の
頌徳碑には「其他所作不遑僂指」と刻まれ、
「建築にいとまなく打込み、
指が曲がるほどであった」と奮闘ぶりが記されています。
「豊岡・清水(きよみず)神社」の
項に「明治 15 年(1882)4 月 3 日 大
工棟梁 静岡県下遠陽州長上郡掛
●紫宸殿の鵺退治
塚村 曾部川藤治郎」の文字が見え
山住神社拝殿上部に掲げられて
いる「紫宸殿の鵺退治」の彫刻に
ついては、藤次郎翁の作とする説
ます。
「遠陽州」とは遠州の南部の
意味。
「勝坂神楽」で知られる清水神社には、延享 2 年(1745)9 月「大工棟
と次男で拝殿を建築した藤太郎氏
梁
の作とする説とがあります。
年(1763)1 月「大工棟梁 當国高瀬
確かに、拝殿が建てられた明治
44 年(1911)には藤次郎翁は亡く
村
當国高瀬 左次右衛門」、宝暦 13
左次右衛門」、文化 4 年(1807)6
月「大工棟梁 當国豊田郡百古里村
なっていましたので、藤太郎氏作とするのが妥当なのかも知れませんが、
黒川喜左衛門」の名もありますが、い
彫刻を得意とした藤次郎翁が本殿に掲げていたものを拝殿に移したと考
ずれも藤次郎翁の関わった年月より
えることもできます。
もかなり前。その後、改修がなされて
いないなら、翁が建てた社が現在もそのまま残されていると考えること
した旧王子製紙気田工場の建物で唯
ができます。
一残っており、
「旧王子製紙製品倉庫」
として静岡県指定有形文化財に登録
●木材製洋紙當設工場於周智郡氣田村之時
されています。
「廿二年予始以木材製洋紙當設工場於周智郡氣田村之時」とは、明治
構造は、木造の建物の外壁をレン
22 年(1889)
、我が国最初の木材パルプによる製紙工場として、現在の浜
ガで覆う二重構造になっています。
松市天竜区春野町に建設されました。
正面にポーチを設けて縦長の上げ
当時、第一国立銀行の設立に貢献し頭取に就いた渋沢栄一が、官需で
下げ窓が並ぶシンプルな建物で、外
あった地券用紙や紙幣、新聞紙などの印刷用紙などの需要に応えるため、
壁にはバットレスと呼ばれる柱状
気田の薪材、川運に目をつけ、日本人で最初の製紙技師・大川平三郎氏
の控え壁が配置されています。
に王子製紙気田工場の操業を委ね、創業は明治 22 年(1889)
。
藤次郎翁と大川平三郎氏との、後の長い付き合いのきっかけとなった
大事業でした。
文化財指定名は「旧王子製紙製品
倉庫」とされてはいますが、採光を
考えて窓を大きく取り、実際には事
務室として使用されたということ
です。
●旧王子製紙製品倉庫<静岡県指定有形文化財>
明治の欧風文化の象徴の赤レンガの建物が、浜松市天竜区春野町の春
野中学校敷地内に残っています。明治 22 年(1889)、同所で操業を開始
●古い絵葉書に残された王子製紙気田工場
●中部製紙工場
王子製紙中部(なかべ)工場の創業は、明治 32 年(1899)。長野県の
善光寺の所有林や愛知県の旧富山村の山林から伐り出された木材が、天
竜川を流れて下りました。
先に創業した気田工場は、木材パルプの原料となる周辺の木材を伐り
尽くし、大正 12 年(1923)に工場閉鎖。中部工場も翌 13 年(1924)に
は閉鎖されました。
王子製紙株式會社氣田分社全景
王子製紙株式會社氣田分社
●古い絵葉書に残された王子製紙中部工場
王子製紙株式會社氣田分社
王子製紙株式會社氣田分社
王子製紙株式會社氣田分社
王子製紙株式會社氣田分社
(第二工場遠景)
(構内貯材池)
王子製紙株式會社中部工場全景
王子製紙株式會社中部工場構内全景
王子製紙株式會社中部工場側面全景
王子製紙株式會社中部工場事務所
●駿河國富士郡四日市製紙工場咸得完成
「駿河國富士郡四日市製紙工場咸
得完成」とは、藤次郎翁は、春野町
気田と佐久間町中部の王子製紙工
場を建設した後、現在の富士宮市羽
鮒に四日市製紙芝川工場を建設し
た、という記述です。
旧四日市製紙芝川工場、現王子エ
フテックス株式会社芝川製造所の
構内には、明治 31 年(1898)に建てられた赤レンガの古い建物が現在も
残っています。
汽缶室
蒸釜(現生型場)内
藤次郎翁が建てた旧四日市製紙株式会社芝川工場は、富士製紙芝川工
場⇒王子製紙芝川工場⇒王子鋳造⇒芝川製紙⇒新富士製紙芝川工場と変
遷し、平成 24 年(2012)からは王子エフテックス株式会社芝川製造所と
社名を変えて現在に至っています。
王子製紙株式會社中部工場全景
王子製紙株式會社中部工場全景
(其一)
(其二)
王子製紙の専務取締役、四日市製紙の社長としても活躍した大川平三
郎氏は、北遠で奮闘する藤次郎翁の腕を見込み、現在の富士宮市羽鮒に
四日市製紙工場を建築する時にも、その建築を翁に任せたのです。「遂
不起年七十四實明治四十一年六月一日也」
――藤次郎翁は明治 41 年
(1908)
6 月に 74 歳で逝去、翌 42 年(1909)5 月に「大工棟梁曾布川翁碑」が建
てられました。
汽缶室内
蒸釜東面
倉庫
汽缶室東面
蒸釜、汽缶室間通路
写真を提供していただいた翁の玄孫・谷謙之助氏の感想としては「汽
缶室・蒸釜の開口部廻りや壁柱は気田の王子製紙製品倉庫に共通する意
「蒸釜東面」は明治 31 年(1898)建造ですから、藤次郎翁によるもの
と思われますが、「倉庫」は大正 7 年(1918)ですから、一見よく似た
赤レンガ建築ですが、別人による建築のようです。
匠で、藤次郎の建築と考えられます」とのこと。
ご子孫の抱いた感想の通り、写真の中に蘇る赤レンガの華やかな装飾
は、藤次郎翁の仕事だと感じさせてくれます。
四日市製紙株式會社 芝川工塲全景
●新富士製紙百年史
●掛塚・津倉家の彫刻
曽布川藤次郎翁の玄孫に当たる
平成 26 年(2014)、磐田市掛塚の
谷謙之助さんが入手した「新富士
元廻船問屋・津倉家が市に寄贈され
製紙百年史」は、平成 2 年(1990)
ました。
10 月 1 日付で新富士製紙株式会社
伝聞によれば、明治 22 年(1889)
により発行された A4 版 313 ペー
に完成した津倉家は藤次郎翁が建
ジの箱入り本です。
てたとのことです。
新富士製紙(株)とは、旧四日市
明治 22 年と言えば、王子製紙気
製紙は富士製紙に合併され、その後も王子製紙芝山工場⇒王子鋳造⇒芝
田工場が操業を開始した年。工場完
川製紙⇒新富士製紙への変遷を経て、更に富士製紙(2 代目)⇒王子特殊
成から操業開始までに、どれくらい
製紙⇒王子エフテックスと変わり、現在は王子エフテックス東海工場芝
の日数あり、並行しての工事が可能
川製造所として操業が続けられています。
であったのかは不明ですが、座敷の
旧四日市製紙芝川工場が操業を開始したの
神棚の上部に施された欄間彫刻の松
は、明治 31 年(1898)12 月 1 日。前年(1897)
の枝に止まる鳥の図柄には、藤次郎
8 月 15 日に火災による本社工場の焼失を受け
翁らしい特徴のある松の葉の形を見
ての建築開始でしたので、藤次郎翁が奮闘し
ることができます。
たのは、まさにその間の時期。
百年史には藤次郎翁の名は登場していませ
んが、
「芝川工場ボイラー室と工事中の煙突」
の写真が。
「ボイラー室」とは、
「王子製紙芝
川工場平面図」の中の「汽缶室」
。当時は珍し
かった巨大な煙突は、高く組まれた足場を使
い、耐火煉瓦を積み上げることにより建造されたのです。
●掛塚東町の神楽箱
現在、「掛塚まつり」に登場する
東町の神楽箱は、先代の神楽箱をそ
っくりに模した新しいものですが、
先代のものは、明治 27 年(1894)に
造られ、その時に棟梁を務めたのは
曽布川藤次郎翁です。
水窪山住神社(明治 16 年)
高木常夜燈(明治元年)
神楽箱が保管されているのは、東
町公民館。「天照皇太神宮」の額が掲げられた螺鈿鳥居の奥からは、塗
りの剥げかけた獅子頭が顔を出していました。
●大庭家の蔵
藤次郎翁によって建てられた磐田
市高木の秋葉山常夜燈のすぐ近くの
家、大庭家の蔵は、明治 10 年(1877)
3 月の落成。2 階建・寄棟造・平入の
春野清水神社(明治 15 年)
津倉家(明治 22 年)
写真を比較していただければ分かるように、藤次郎翁が棟梁として建
てた浜松市天竜区水窪町の山住神社「紫宸殿の鵺退治」や磐田市高木の
秋葉山常夜燈、天竜区春野町勝坂の清水神社本殿で見られるものと同じ
団扇(うちわ)形です。
藤次郎翁は、長上郡十郎島村の生まれ。天竜川の中州にあった十郎島
は、今は掛塚の字になっています。つまり、掛塚は、翁の地元。その藤
次郎翁が地元に建てた商家が、津倉家だったのかも知れません。
木造の蔵に残された棟札には、「大
工棟梁
曽布川
藤次郎」の名が
記されています。
基礎の石積みを請け負ったのも、常夜燈と同じ飯田
冨十。家人の話によれば、常夜燈を建てた藤次郎翁の
腕を見込み、蔵の建築を依頼したらしい、とのことで
す。
●次男藤太郎承後爲大工棟梁今茲藤太郎建碑
「次男藤太郎承後爲大工棟梁今茲
腕を振るったのでしょう。
本光寺境内に建つ「大工棟梁曾布川翁碑」に刻まれた「謹厚持己」
「勤
藤太郎建碑」――藤太郎氏は藤次郎
勉終身」は、藤次郎翁だけでなく、この碑を建てた藤太郎氏にも当ては
翁の次男ですが、棟梁として曽布川
まる「賛」だったのではないでしょうか?
組を引き継ぎ、大川平三郎氏に請わ
れ樺太工業真岡工場建築のため、曽
布川組の仲間を引き連れて大日本帝
国が領有していた当時の樺太、現在
のサハリンに渡りました。
樺太工業の創業は大正 2 年(1913)
。明治 4 年(1871)生まれの藤太郎
氏、42 歳の時のことです。当時の写真には、
「曽布川」の文字を染め抜い
た法被姿の若者たちの姿を見ることができます。
ご子孫から提供していただいた
資料写真の中には、
「樺太豊真鉄道
手井入口現場」と書かれた写真も
あります。
樺太豊真(ほうしん)鉄道(豊
真線)とは、樺太の小沼駅から手
井(てい)駅までを結ぶ鉄道路線
であり、当時の領有国であった日本の樺太庁よって敷設され、鉄道省に
移管された鉄道でした。樺太工業が操業されていた真岡駅から手井駅ま
での工事が始まったのは、真岡工場復旧工事が行われたのと同じ大正 10
年(1921)のこと。
写真には「入口現場」と書かれていますので、藤太郎氏は同時期に行
われた鉄道、あるいは駅舎の工事にも関わっていたと考えられます。中
国の関東州大連に出かけた藤次郎翁に倣い、藤太郎氏は樺太の地でその
【資料・写真提供】
曽布川せつさん、谷謙之介氏
【古い絵葉書】
佐口行正氏、和田芳博氏
曽布川藤次郎翁年譜
天保
6 年(1835)11 月 10 日生
安政
4 年(1857)
江戸城普請世話役
明治
元年(1868)9 月 28 日
高木秋葉山常夜燈建立
10 年(1877)3 月
大庭家の蔵完成
13 年(1880)
山住神社本殿建立
15 年(1882)4 月 3 日
勝坂清水神社本殿建立
22 年(1889)
掛塚・津倉家完成
12 月
王子製紙気田工場操業開始
27 年(1894)
掛塚東町神楽箱棟梁
31 年(1898)12 月 1 日
四日市製紙芝川工場操業開始
32 年(1899)1 月
王子製紙中部工場操業開始
40 年(1907)
関東州大連
41 年(1908)5 月
中央製紙操業開始
6 月 21 日没
42 年(1909)5 月
大工棟梁曾布川翁碑建立
曽布川藤次郎翁に学ぶ