KOJ001204

(研究ノート )
年末年始の歳時風俗
飯島
吉晴
1. 酉の市
酉の市は、 毎年Ⅱ 月 酉の日毎に関東各地の 鷲 (大鳥 ) 神社でおこなわれ、 関西の正月の 十日
戎や恵比須参りに 相当する祭りといえる。 酉の市は、 最近ではトリノイ チ とよぶ人が多くなっ
てきたが、 東京などではもと は トリノ マチと 言い習わし、誤って酉の町と 表記されることもあ
た。 市を マチと 称するのは、 露天商の香具師
と よ
っ
(てきや・やし ) が祭りや縁日を 高市 ( タヵ マチ )
んで稼ぎ 場 としている よう に、 市 (マチ ) は祭りを意味していたのであ る " 『遊歴雑記』に
は 、 酉の市の元祖で 大西 と 称された武蔵 国 足立 都 花又 村 の 鷲 大明神に関して、 「酉のまちは 酉の
市といへるの 転語なるもしるべからず、 常はかじけたる 貧村と ぃへ ども、 霜月の例祭の 日は諸
商人五 セ 町の間、 膝側に居ならび 尺地もなく賑ふ 様は、 市と りへど左 ながら 町続 のごとし、 依
て 酉の市を転語して 酉の町と位襖奈良は 背しもしるべからず」とあ るが、 これはむしろ 誤りで
酉の祭りなのでトリノ マチと 呼ばれていたのであ る。 この花又
(現 、 足立区花畑 ) の酉の市は
鷲大明神の祭礼で、 昔、 鶏を献上して 開運を祈願したのがはじまりとされ、
やがて祭りに 際し
て 土地の産物などさまざまな 品物も商われ、 江戸後期には 運をかきこむ 縁起物の熊手市も 立つ
ようになったのであ る。 r東都歳時記』にも、 「葛西花 X 村鷲 大明神社
世俗人とりといふ。 参
詣のもの鶏を 納む。 祭り終りて浅草寺観世音の 堂前に放つ。 境内にて 竹杷 ( くまで) 、 粟餅、芋
魁 (いもがしら ) を隻ふ 。 江戸より三里あ り」とあ って、 この酉の市には 縁起を祝って 江戸の
遊女屋や役者、 飲食店などが 数多く参り、 博打の開帳 も盛んにおこなわれたという。
享保年間 け 71f 一 35 年 ) に、 花又の鷲大明神のご 神体が浅草の 下谷竜泉寺町 (現 、 台東区千
束 3 丁目 ) の 鷲 明神社に分祀され 新酉 と
よ
ばれたが、 浅草寺や吉原などの 繁華街が近くにあ
っ
たことから人気が 高まり本家よりもずっと 賑わうことになった。 この浅草田圃の 酉の市は、 広
重の「江戸名所有責」にも 描かれ、 『東都歳時記』には「世俗しん
鳥 といふ。 今日開帳 あ り。 近
来 参詣群集する 者移し。 当社の賑へる 事は、 今天保田辰 (1832年 )
よ
り
凡 50年以前よりの 事セ
ぞ 。 粟餅 い もがしらを 商ふ事 葛西に同じ。 熊手はわきて 大なるを 商ふ 。 中古は青竹の 茶釜を駕
しといふ」とあ る。 この酉の市には、 熊手、 おかめの面、 入り船、 大福帳 、 千両箱 などの縁起
初や 、 頭の芋、 粟餅 (黄金 餅 ) 、 初山 淑 、 お 釜 おこしなどが 景気のよい売り 声でうられたが、 幕
末 0 %守貞漫稿
よ
には「熊手を 買ふ者は、 遊女屋・茶屋,料理屋・ 船宿・芝居にかかはる 業体
の者のみこれを 買ふ。 一年中天井に 架して、 その大なるを 好しとす。 正業の家にこれを 置くこ
とを 稀 とす」とあ って、 熊手は専ら水商売関係の 者が購入していたものらしい。 頭の芋は 、 八
つ 頭や赤目早をふかしておかめ 笹に通したもので、 大頭ともいい、 人の頭にたつという 縁起者
でもあ る。 この浅草の酉の 市の賑わいは、 一葉の『たけくらべ 団や荷風の昭和初年の 日記にも
でてくる。 この祭りの繁盛ぶりを 見ならって、 各地の社寺では 鷲神社を境内に 観 詣 して熊手な
どの縁起物を 売る酉の市がおこなわれる よう になるが、 新宿の花園神社の 酉の市もその 1 つ であ
る。
一 30
一
鷲神社 (鷲 大明神 ) は、 大阪府堺市鳳の 大鳥神社が本社とされているが、 この神社名は 倭我
尊 が化した白鳥に 由来するという。 鷲神社が元は 武家の間で信仰されていたとされるのも、
お
そらく儀式尊の 武勇に因むものと 思われるが、 庶民の間ではむしろ 開運の神として 信仰されて
きた。其角に「春を 待つ事のはじめや 酉の市」の句があ るが、 酉の市は旧暦 11月の霜月の祭り
で、 卸財隻 が終わって新しい 年がはじまる 新旧の時間の 交替ずる節目の 行事であ った。 霜月の最
初の酉の日が 1 の酉でもっとも 重視され、 次の酉が 2 の酉で、 3 の酉のあ る年には火事が 多い
とか吉原遊廓で 異変があ るという俗信もあ った。 鶏は、 その刻の声で 夜や世が明けたことを 告
げる神の使いであ り、 神聖な生き物と 信じられてきた。 鶏は昼夜や明暗
(幽明 )
を分かち、 表
裏 n丁半 ) などの占いや 博打とも無関係ではないのであ る。 酉の市という 鷲神社の祭礼は 、 新
旧の年のはざまで 来たるべき年が 良い年であ るように開運や 立身出世を祈願したことに 由来し
たとみられるが、 鶏はそうした 境界的な時間を 象徴する生き 物として民間信仰や 神話の上で
もっともふさわしい 存在といえる。 そこで、 鷲神社の祭礼も、 祭日を鶏を干支で 示した酉の日
とし、 鳥ではなく酉の 市 ( トリノマチ ) と表記したのであ ろ
2. 歳の市
歳 の 市 ( ト、
ン / イチ ) は、 期日や売る品物から 年の市・ 捨市
松市 ,がさ市 何 やかや売り
・
・
,
ぼろ 市 ・べた市などさまざまな 名称で呼ばれているが、 一般的には年末に 立っ正月用の 門松や
注連飾りなどの 飾り物,縁起物・ 雑貨や食品などを 売る市のことで、 旧暦 7 月の孟 蘭 盆会の前
の 12 、 甜に盆花,供物・ 贈答品などを 売る盆市と対をなしている。
東北各地で年末の 25 日以
降にたっ市を 詰 市 (ツメイチ・ ッメ マチ ) とよんだり、 また山口県長門地方では 斎 満面 (ザイ
ミ
テイチ ) といっている
よ
うに、 歳の市は元来姉斎市や 六斎市などの 毎月立つ定期 市の 1 つで、
その年の最後の 市を意味し、 正月用のさまざまな 品物や飾り物が 売られて繁盛したことに 由来
すると考えられている。
江戸の歳の市に 関して、 『守貞漫稿 (近世風俗 志 )j (1853年 ) に「門松・注連縄を 始め、 神棚
および祭神の 具、 その他種々正月の 調度を売る。 12 月 15 日、 深川八幡。 17 日、 浅草寺。 18 日、
同所、 蓑市 とぃふ。 ともに年の市なり。 この両日を最も 盛んとす。 20 日、 神田明神。 24 日、 愛
宕 。 25 日、 麹町天神。 26 日より晦日に 至り、 日本橋四日市その 他 諸汗陪 にてこれを売る。 塵塚
談 に日、 浅草観音の市、 12月 17.8 日両日なり。 諸人、 正月飾の物を 吉凶を祝ひ、 この市に求
むることなり。 外に江戸に方なし。 ゆゑ に並木町より 雷神門内までは、 老人・小児の 通行思ひ
もよらず。 俳句にく市の 人人より出でて 人に人 るノとぃふ 句もあ りしに、 近年に至り、 神田明
神・深川八幡・
芝愛宕・麹町天神に 市始まり、 人も相応に出て 賑やかなり。 麹町はわけて 群集
なす よ し。 このめるにや、 近年観音の市、 先年 よ りは淋しきそうに 見ゆるなり」とあ る。
また『日次細事』 れ 685 年 ) のは月の条には、 京都の歳末の 市で売られた 正月用のあ らゆる 品
物 が列挙されている。 すな ね ち、 「この月、 市中、 神仏に供ふるの 器皿 、 同じく抑折敷台、 なら
びに 片木 袴 ・肩衣・頭巾・ 綿帽子・ 裾帯 ・扇子・ 踏皮 、 同じく 機線 ・雪踏・草履・ 寒嚥脂皿
・
櫛 筈 紺紙、 および常 盤椀 ・木皿・ 塗 折敷・飯櫃・ 太箸・茶碗・ 鉢
・
桶 ・柄杓・ 加伊計 (か いげ )
. 浴桶
・
,
皿 真那板 ,膳組・若水
・
盈盤 、 ならびに 毬 および毬杖・ 部室郁里・ 羽 古義枝、 その
ほか鯛魚 ・網点・ 鱈魚 ・章魚・ 海蝦 ・煎海鼠・ 串 石決明 (あ わび )
一 31 一
. 数千・田作の 類、 蜜柑・ 柑
子
・
澄
・
柚
・
植
・
鴨栗 ・串柿・海草・ 野老 ( ところ)
. 梅干・
山傲粉
・
胡淑
・
糊
・
午芽 ・大根・
昆布・奥井、 諸般の物ことごとくこれを 売る。 これみな、 来年春初に用ふるところなり。 また、
村婦、 飾藁を頭上に 載せ、 高声に市中に 売る。 伸略 ) 山人、 椎松 翠 竹を売る。 松は子の日の
・
松と 称し、 竹は飾 竹 といふ。 (中略 ) また、函架および出港 利葉 (譲葉 ) ならびに薪炭等を 売る。
幡枝 ならびに深草の 土民、 土器を籠一双に 盛り、 これを担いで 市中に売る。 (中略 ) 室町総門の
辻、 四条新町に棚を 結び、 市をなして節物を 売る」とあ る。
「年の市」の 名称自体は、 『通俗志
』
(1716年 ) や『 清鉤コけ 745 年以前成立 ) などの江戸中期
の諸文献にみえる。 芭蕉にも、 「年の市線香買ひに 出でばやな」
( 続 虚栗』) の句があ る。 年の
『
暮れの最後の 市では、 通常とは異なり、 とくに正月用の 種々雑多な祭祀用具・ 供物・縁起物・
衣装・調度・ 食品などが売られたが、 それらのうち 特定の品物は 臨時の市や振売りの 形でも売
られたのであ る。 歳の市の中でも、 積雪の多 い 北国のそれは 軒端に仮屋を 連ねた独特の 雰囲気
をもち、 売られる物も 地方色に富んでいろ。 しかし、 年の市もスーパ 一の正月営業の 影響など
もあ って、 アメ横の年末の 賑わいや羽子板市など 一部の市を除くと 年々衰退しつつあ る。
3. 正月行事の由来
正月は、 すべてのものが 新たに甦る万物更改の 聖なる時であ る。 現在おこなわれている 正月
のさまざまな 諸行事には、 1 年間過ごして 倦み疲れ衰弱してしまった 霊魂を再び生き 生きとし
た 活力に満ちたものに 活,珪化したり、あ るいは再生した 霊魂を象徴するモノが 多くみられる。
門松は 、 松などの常磐木を 家の前に立てて 正月に此の世を 訪れる年神や 年徳神の依り 代 とされ、
欧米のクリスマス・ツリーと 同様の樹木崇拝に 基づく信仰行事と 考えられている。 門松の起源
には諸説 あ って、 宮廷などは立てないし、
民間でも立てない 家例がみられる。 松を迎える日は 、
正月のはじまる 12月 i3 日という地域のほか、 年末の吉日というところもあ るが、 一夜 松 といっ
て 餅掲 きと同じく、 迎えて来て一旦休めておいた 松を 29 日に立てるのは 苦役に通じるためどこ
でも嫌 う 。 門松にする樹木も、 松竹梅や松に 限らず、 梧 、 榊 、 朴 、 栗 、 椿 、 楢などを立てると
ころもあ り、 門松の様式もさまざまであ る。 門松は本来、 注連縄と同様に 正月の祭りに 際して
斎のしるしとして 常磐木をさしたり 聖域を表示したりしたものと 思われるが、 松を使用するの
が 流行し一般化すると 神の依り 代 とみなされるようになったのかも 知れない。 正月の門松に 松
を立てた 明注連縄を張ったりする 風習は、 文献上からみる 限り平安末から 鎌倉にかけて 成立し
たようあ る。
『土佐日記』には、 延長 8 年 (930) の元日に、 作者の紀貫之が 都の正月の様子を 回想しなが
ら、 「小家の門の 端出立縞 ( しり くべなわ ) の鯉の頭、 終 ら、 いかに ぞ」と述べている。 今日の
節分の風習に 類似しているが、 京都では当時 家 々の門に注連縄を 張っていたことがわかる。
こ
ねから百数十年後の 惟宗孝言の無題詩の 自注に「近来世俗、 皆松を以て門戸に 挿す。 而て 余は
賢木を以て之に 伐 る」とあ り、平安後期に門松の 木が榊から松に 代わったことがわかる。 また『新
撰六帖
草コ
コ
には「今朝はみな 賎が門松立てなめて 祝ふことぐさいやめづらなる」とあ
り、 『徒然
にも「大路まさま、 松 立てわたして」とあ るように、 門松や注連飾りなどの 風習が平安か
ら鎌倉にかけての 時期に京都では 成立していたことがわかる。 平安時代の京都の 行事を描いた
とされる年中行事絵巻の 中にも、 門松が登場しており、 模写しか残存していないがやはりこの
一 32 一
頃 にはじまった 風習であ ることがわかる。 しかし、 門松に限らずモノの 起源をいつにするのか
定めるのは、 時代によって 異なった意味づけがなされたり、 地域や階級による 相違もあ るので
非常にむずかしい。 注連縄にしても、 大岩屋戸神話の 端 山 左縄や尻久米縄が 起源だとされてい
るが、 正月にそれが 応用され一般化していった 時代や経緯を 明確にするのはやはり 難しいので
あ る。 門松を立てる 場所も、 屋外の門なのか 表の庭なのか、 あ るいは屋内なのかそれぞれ 地域
や家ごとの変化があ り、 また門松を購入してくるのか 自分の家で山から 迎えてくるのかで 門松
のもつ意味もちがってくるのであ る。
鏡餅も、
『源氏物語』初昔の
巻に「 歯 固の祝ひして、 餅鏡をさ へ 取り寄せて」云々とあ
るよう
に、 平安時代の朝廷では「齢を 延ぶる 歯固 の 具」の中心をなすものとして 元日の朝に天皇に 献
じられた。 中国では古く、 元日に固い飴を 食べて歯の根を 固める 歯 固の風習があ り、 それが伝
わったものとされている。 鏡餅は、 生米を粉にしてこね 固めた シトギ とは対照的に、 餅飯 ( も
ちい ひ ) を円形にしたもので、 中世以前には 鏡餅ではなく 逆さにした餅鏡 ( もちいかがみ ) と
呼ばれていた。 はじめは、 歯固 にこの鏡餅を 実際に食べていたと 考えられるが、 すぐに見るだ
けのものとなり、 歯 固や身祝い用の 餅は別に用意し、 床飾りとしての 鏡餅になっていった。 鏡
餅に、 譲葉、 栓 、 昆布などの飾りをつける 風は中世武家の 礼式にみられる。
年頭にさまざまな 金品口を贈答する 風習は、 室町時代にはすでに 盛んに行われ、 男児には紙鳶
や振々毬杖を、 女児には羽子板や 紅箱 などを贈ったりした。 歳暮と年玉には、 歳末と年頭とい
う贈る時期だけでなく、 目上から目下の 者へ贈るのかその 逆かという贈る 者と贈られる 者の方
向の相違、 さらに個人の 間か家同志の 間かという相違もあ る。 年玉など贈答品は 本来は食べ物
が多く、 霊魂が籠った 食べ物を食すことで 魂の分与を受けたのであ る。 鹿児島の甑 島 には、 青
年がトシ
ドンに仮装して
各家の子供に 年玉と称する 鏡餅を配って 歩く風習もみられる。 年五の
玉は霊魂のことであ り、 神や目上の者から 年玉を受けることでその 魂の分与にあ ずかったので
あ る。 今日では、
お年玉はもっぱらお 金になり、 世俗化してしまいもとの 意味がわからなくなっ
ている。
初詣は 、 都会の風習として 全国的に広まった。 江戸時代に、 三都 (江戸、 京、 大阪 ) を中心
に節分の夜
(立春の双夜であ
り、 しばしば 年越と 称される ) に恵方参りの 初詣が 行われていた。
恵方は陰陽道の 考え方でその 年の幸運であ る年徳がもたらされる 方角で、 アキの方とも 呼ばれ、
のちには正月の 年神の来る方角ともされた。 そこで、 その年の恵方にあ る社寺に年頭に 参詣す
れば幸運が得られると 信じられたのであ る。 一方、 農村部では、 大晦日の晩に 各家の主人が 氏
神の社に籠って 徹夜する風習であ ったが、 新年が大晦日の 晩からではなく、 元日の午前零時か
らはじまるという 考え方が一般的になってくると、 元日早朝の社寺の 参詣が盛んになった。 恵
方参りの 初詣と 大晦日の神社籠りの 風習がいっしょになって 今日の初詣の 習慣になったのであ
る。
正月の諸行事も 、 細かくみていくと、 さまざまな時代にはじまった 風習や行事がその 形や意
味を変えながら 1 つになって現在の 正月に受け継がれていることがわかる。
4. お節料理
ぉ節 とは あ 節供 (オセチ ク ) の略語で、 元来五節供などの 節会に神に供える 特別の供物のこ
一 33 一
とであ ったが、 年の始めは 1 年で最も重要な 節会であ ったことから、 いつの間にかお 節 といえ
ば正月の正式の 食膳のことを 意味するようになったとされている。 実際、近世中期のⅡ玉勝間ョ
には「年のはじめに、 いわゆる振舞などをすることを 節 という」とあ り、 この時代のお 節には
人参、 午著 、 里芋、 大根、 % 弱、 焼き豆腐などの 煮染めや数の 子、 ご きめ、 黒豆、 塩鮭などが
用いられていた よう であ る。 今ではこうした 昔ながらの伝統的なお 節を家庭で作るほかに、 暮
れにデパートなどで 販売される一流の 料理屋の豪華な 和洋中のお節料理で 正月を祝
う
風も人気
を 呼んでいる。
正月は万物更改の 特別の折り目であ り、 すべてのものが 霊魂を更新し 再生する機会であ った。
戦前までは、 主に数え年で 年齢を数えたから 正月を迎える 度に 1 つずつ年を重ねていったので
あ るが、 本来は年を取るというよりは 鏡餅で象徴された 年玉 (午霊 ) をいただいたり 若水で身
体を拭うことで 誰もが衰えた 霊魂を活性化させ 若返ったのであ る。 正月には、 邪気を払って 延
命長寿を願うさまざまな 儀礼が行われているのもこのためであ
る。 正月には、 若水を汲んで 手
水を使ったあ と、 屠蘇と称する 延命長寿の薬酒を 飲むとともに 歯固めの儀式も 行われた。 屠蘇
酒や歯固めの 記事は、 中国の六朝時代の 揚子江中流域の 風習を記述したⅡ荊楚歳時記』にすで
にみられ、 これが日本に 伝来し平安時代の 宮中行事に取り 入れられたと 考えられている。 歯固
めとは、 堅いものを食べて 歯を鍛え丈夫にするということよりも、
むしろ 齢 ( よわい) を確実
にし長寿を願うという 意味であ った。 中国では大豆と 胡麻を煎って 飴を加えたものを 食べたの
に対して、 日本では平安時代には 大根、 漬瓜、 押鮎、 鹿宍 、 猪突あ るいは橘などが 歯固めの 具
として用いられ、 室町時代になると 鏡餅もこれに 組み入れられた。 しかも、 この鏡餅は飾りと
して見るだけで 実際には食べなかったので、 やがて床の間に 三宝に鏡餅をのせた 蓬莱飾りとな
り、 正月に家族が 順に頭にいただく 儀式は歯固めの 名残りとされている。 蓬莱飾りは、 はじめ
は平安時代には 貴族の祝儀や 酒宴の飾りであ ったが、 室町時代には 正月の祝儀用となって 取肴
として賀客に 出されるようになったものであ り、 普通は三宝の 上に白紙、 裏 白、 譲葉、 昆布を
敷き、 米、 栖 、 掲栗 、 穂俵、 串柿、 澄 、 野老、 海老、 梅干しなどを 積む。 鏡餅を飾る食品と 共
通するものが 多いが、 蓬莱は上方の 風習で、 江戸では蓬莱の 代わりに 喰積 が用いられた。 これ
らは縁起物尽くしで、 米は富草、 橿は長寿の滋 養 食 、 裏 白は歯采で 長寿の意味があ る。 また譲
葉は親子草とも 称し子孫繁栄を 象徴し、 昆布は喜こんぶや 東子女で福を 得る意味があ り、 鳴 栗
は勝に通じ、 穂俵は玉藻という 海草で実が俵の 形をしているので 豊年を表し、 串柿は柿が長寿
の 木であ りすべてかき 集めることをかけたのであ る。 さらに鐙や柚は 代々家が続き、 冬にも緑
がめせず実は 万病に効く不老不死の 霊異であ り、 海老や梅干しは 腰が曲がり
長寿の象徴であ る。 このような縁起担ぎの 多くは江戸時代になってからのものとみられており
お節料理の代表的な 食品であ る黒豆は てメ (健康 ) であ るようにとか、
ごまめは田作りと 称し
て豊作を祈願したもの、 数の子は子孫繁栄を 表したものなどとといわれている。
また京都では、
牛努 、 黒豆、 昆布を豊年のときに 飛来する瑞鳥の 黒鳥にちなんだものともいっている。
このよ
うに、 正月の祝膳の 食品は歯固めに 用いられたものが 多いことに気付く。 しかし、 %き ィぜや 地域、
身分階層などによる 違 いや 変化ももちろんみられる。 例えば、 獣肉食が仏教などの 影響で次第
に忌まれるようになると、 猪突 は雑肉 となりさらに 焼豆腐に変わったり、 鹿実ら 嶋や 赤 原点
( うぐい ) に変えられていった。
一 ・;4 一
「正月男に 猛攻」という 諺が示すよ
う
に 、 正月は年男と 称する一家の 主人が神に供物を 供え
たりして神祭りを 司 どり、 女性は少なくとも 3 が日は台所に 立たないという 風習が地方では 少
し以前までみられた。 冷蔵 庫もなくコンビニもない 時代には味付けを 濃くして日持ちするよう
に 年末にお節料理を 用意しておき、 正月には刃物や 火を使わずにそれを 食し忌籠りの 生活をし
一種の寝正月を 過ごしたのであ る。 こうして眠りから 覚めるようにして 新たに甦ったわけであ
る。 現在、 宮中では元日の 朝 7 時頃 に「晴御膳の儀」といって、 正月の正式の 朝の食事の儀式
があ る。 これは天皇が 1 人で箸を取って 食べる真似をするのであ るが、 その正月料理は 鯛、 黒
豆、 昆布、 数の子、 蒲鉾などであ る。 この晴御膳の儀は昔の 元日節会の名残とされ、 もとは元
日に文武百官に 賜った宮中の 宴会であ った。 なお、 天皇が実際に 新年の食事をするのは、 皇后
と一緒に八時頃 に御文庫でとられる 新年お祝 い 料理で、 菱弛 、 鯛 切り身、 浅漬け大根、 伊勢蝦、
砂糖 煮 の 掲栗 、 雛子 酒 であ り、 屠蘇や雑煮は 元日の夕食に 皇室 御 一家がそろった 時に出される。
お節料理は、 齢を固め長寿を 願 う 歯固めに用いる 食品と共通するものが 多く、 これらの中には
古い食生活の 名残を留めるものも 少なくないが、 時代の推移の 中で新しい意味づけがされたり
食品自体が別のものに 変えられてきたものもみられるのであ る。
5. 雑煮の意味と 種類
雑煮は、 とくに九州北部で、 ノー
リ
アニオ / ウライ、 ノウ レェ 一などと呼ばれていること
から、 年越 (大晦日 ) の晩に正月の 神であ る年神を迎えて 祭ったあ と元日に神撰を 下ろして 食
べる神人共食の「直会」に 由来するとされている。 大きなお供え 用の鏡餅とは 別に家族銘々の
身祝い用の小さな 鏡餅を年棚に 供えて、 これを元日に 下ろして食べる 風習が近年まで 各地にみ
られたが、 雑煮はそうした 神への供物や 授かった物を 一緒に同じ鍋で 調理したものといえる。
八丈島では、 以前は家族の 数だけの身祝い 餅を年棚に供えておき、 四日の朝に雑煮にして 食べ
たという。 雑煮は、 室町時代には 憲雄 と 呼ばれ、 調理法などからみてもこの 頃 にはじまったと
みられている。 雑煮の内容は、 正月の延命長寿の 儀式であ る歯固めに用使われた 餅 ・大根・ 干
し鮎 ,獣肉・ 飽 ・串柿・ 鳴栗 ・昆布・栓などが 主に関係しており、 こうした食品はのちに 正月
に 三宝に盛られ 喰 積み・手掛けと よ ばれ飾られるだけのものとなった。 実際に伊勢流の 武家礼
式 では、 雑煮は餅・ 飽 ・いり こ ・焼き栗・ m 芋 ,里芋・大豆・たれ 味噌 (味噌からとった 汁 )
となっている。 昔の人は堅いものを 噛み砕く丈夫な 歯をもっていたが、 近代以降は汁気の 多い
甘くて柔らかい 暖かな食べ物が 好まれ、 かつての固い 食品は食べ物とはみなされなくなってし
まったのであ る。 また今日、 オセチといえば 正月用の特別な 御馳走を意味しているが、 オセチ
は 元来節供や神祭りなど 折り目をなす セチ (節 ) の日の神供や 食べ物のことで 正月には限定さ
れて い なかった。 雑煮も正月三が 日に限らず、 祭りや法事などさまざまなハレの 機会に客のも
てなし料理としても 食されていた よう であ る。
1 年で最も改まった 時空間であ る正月には、 地域や家ごとに 長く受け継がれてきた 地域 色や
家風といったものが 最も表出される 機会であ るが、 正月の雑煮などのオセチの 料理の多様性も
そこに求めることができょう。 雑煮は、 東北や関東など 中部以北では 四角な切餅が 多く、 近畿
その他では丸餅を 用いるように 地域差があ り、 さらに餅を焼くのか 苅 るのか、 具は何を入れる
かなど同じ地域でも 塞 ごとの差も大きい。 雑煮は元来がさまざまな 食品を一緒に 嚢 として煮た
一 35 一
ものであ るから、 その内容も家や 地方で種々雑多であ っても不思議はないが、 多くの場合は 近
世に藩を中心に 成立した地方文化や 風土による産物の 違いが反映したものといえる。 年取り魚 、
も
地方ごとに 鯛
・
鮭 鯨 ・鱗などがあ るし、 奄美や沖縄では 魚でなく豚肉が 中心で餅も糠 様の
・
ものであ る。 大別すると、 雑煮はすまし 汁 ・味噌汁・小豆雑煮の 三系統になる。 武家礼式にのっ
とった味噌汁系の 雑煮は、 近畿地方に多い 風習で、 京都では甘い 白味噌で丸餅を 煮込んだ雑煮
であ る。 一方、 醤油仕立てのすまし 汁系の雑煮は東北・ 関東などの切餅地帯で 好まれ、 丸餅 地
帯の山陽から 九州ではすまし 汁仕立てになっている。 小豆雑煮は、 醤油や味噌仕立てではなく
小豆善哉に丸餅を 入れた雑煮で、 主として山陽・
m 陰のほか、 九州や近畿の 一部の海岸部でみ
られる。
変わった雑煮としては、 香川県では丸餅に 錨を入れた 鏑餅 雑煮で、 大根・人参・ 里芋を入れ
た味噌仕立ての 汁に 飴 餅の雑煮であ る。 丸餅地帯の四国にあ って、 土佐では旧藩主が 尾張出身
の山内家であ ったため今も 切餅のすまし 仕立ての雑煮であ る。 山陰の鳥取県は 小豆雑煮だが、
丸餅に栗を入れる 家があ り、 また兵庫の丹波篠山では 旧藩の士族の 家は小豆雑煮だが、 商家は
すまし 汁仕立ての雑煮、 旧家や素封家では 味噌汁仕立ての 雑煮というように 階層ごとに異なっ
ている。 また正月に餅を 据いたり、 食べたりしない「 餅 無し正月」の 風習も各地の 旧家や一族
などにはみられる。 正月の儀礼食物として 餅ではなく、 里芋、 ソバ、 うどん、 粥 、 団子、 赤飯、
甘飯などを食べるのであ る。 とくに、 鹿児島などには 雑煮は餅よりも 大きな里芋が 中心で、 里
芋を床の間や 墓などに供える 例もあ る。 かっては、 こうした 芋 正月は稲作以前の 古 い 焼畑農耕
を反映したものとされてきたが、 むしろ 餅 無し正月は稲作単作地帯に 多くみられることから、
その地域の多様で 複合した生業が 水稲稲作の単一化へ 傾くことへの 葛藤や抵抗から 幕末から近
代はじめに生み 出された伝承ではないかという 見方が有力になっている。 餅 無し正月の場合も、
正月三が日を 過ぎると餅が 解禁になる事例が 大半であ り、 餅を先に食べるか 里芋その他を 先に
食べるかの順序の 違いで、 まさにその地域の 本来の生業の 複合性を維持反映させるために 餅 よ
りも里芋などの 地域の本来の 多様な作物や 食物がまず正月に 神供にされ、 そのお下がりを 人々
8 食べて年神の 恩寵を身につけたのであ る。
6. 藪入りの由来
藪入りは、 正月と盆の 16 日やその前後に 奉公人が主人から 暇を貰って実家の 親元に帰休する
ことだが、 奉公人に限らず 嫁などが実家の 里に帰ることも 意味した。 藪入りは、 養父入り、 里
下り、 宿下り、 六人
り
、 六の餅、 親見参とも記し、 主に正月 16 日ことで、 7 月 i6 日は後の薮入り
ともいわれた。 中国明代の『五雑 組ゴ には、 斉 ・替地方では 正月 16 日に走百病 (そう ひゃく へ
い ) という 厄病 神を祓って無病息災を 祈願する行事がなされたとあ
るが、 この日は仏説では 地
獄 の 養 日とされ、 わが国でも閻魔参りが 盛んに行われてきた。 藪入りは、 地獄の休み日にあ れ
せて、 一般の奉公人も 暇を貰う形であ るが、 元来は正月や 盆の 16 日は重要な物忌みの 日であ
り
家族が全員揃って 神仏や先祖を 祭ったのであ る。 一般にどの宗教や 文化でも神祭りの 日は仕事
をせずに休む 日とされ、 のちに単なる 遊休日となったのであ る。 関西地方では、 正月 16 日を六
入りといって、 嫁や雇い人が 餅 (16日餅から六の 餅、 六餅 ともいう ) 、 ぼた餅、 酒などの土産を
もって実家に 帰った。 六人りはあ るいはものごとの 正しいことを 意味する 陸ぐ ちくでなしの
一 36
一
ロ
ク
) で、 親見参と同じく 親子の改まった 対面行事を意味したのではないかという
説もあ る。
藪入りは、 近世初めに上方で 使われはじめた 比較的新しい 言葉であ り、 江戸では宿下りとか
出番と称していた。 藪入りの語源は、 薮 深 い 田舎に帰ることからとか、 還郷の者は薮 林 (寺 )
で 遊鳥したことから、 観取り 憶父 ) の家に行くことから、 宿人りの 誰 ったものなど 諸説あ る
がはっきりしない。 ただ、 薮 や野という言葉は、 正式なものや 都風に対立する 用語ということ
はできる。
幕末の『近世風俗悪 (守貞漫稿Ⅱには、 養父入りとして「 走百 病とも、 藪入りとも 書す 。 三
都とも、 奉公人、 春秋二季、
その主人より
暇を給ひて、 父母の家に帰す。 父母の家他国なるも
の者は、 請人の家をと りふ。 ゆゑ に今江戸にては、 宿下り、 または出番とも ぃふ 。 京坂は今も
藪入りといふ。 京坂下間、 丁稚は春秋冬一日の 暇を給ふ。 日を定めず。 元服後はこれを 許さず。
姐は幼 長 ともに春秋冬 3
日
2 夜の暇を許す。 元服の手代、 あ るいは藪入りを 許さず、 ゆゑ に一
日芝居見物にやる。 その 費 、 主人より 供す 。 江戸にては、 丁稚を小僧といふ。 正月 16 日・ 7 月
16 日をもっぱらとす。 あ るいは他日これを 許すもあ り。 これまた 1 日のみ。 元服後も 1 日の暇
を給ふを、 すべて出番と ぃふ 。 手代は父母および 請人の家に行くこと、 式のみにて、 もっぱら
青楼妓院に遊ぶを 習風 とす。 市中 姓 はさらに 1 日の暇も許さず。 京坂とははなはだ 異なり。 武
家奉仕の婦女は、 1 日あ るいは 3
日
7 日給ふ。 7
日
7 夜給ふを 、 真の宿さがりといふ。 妖姫 等
に祝儀銭を与へ、
傍輩に土産等の 費多きをもって、 これを略して 3 日等の暇を願 ふ者 多し」と
あ る。 また江戸の名残を 伝える菊地貴一郎『絵本江戸風俗往来』には、 「正月i6 日・ 7 月 16 日は 、
丁稚奉公の薮入り 日なり。 (中略) 丁稚たち、 例年正月 16 日藪入りには、 主人より衣類万端与へ
られ、 小遣銭を貰 ひ 、 おのが親もとへ 行き、 まづ両親はじめ兄弟に 相会し、 墓参より親類の 音
信をすまして、 日暮れまで心のままに 遊ぶ。 遊ぶところは 数あ りて好みに 徒 ふべくも、 十中八
九までは、 芝 辺の親もとは 芝 増上寺 m 内 、 上野辺は上野東叡山内、 浅草は観世音浅草寺奥山等
とす。 この藪入りの 姿は、 木綿綿入れ・ 蠕絆 肌着・小倉織の 帯・千種色の 股引・自足袋に 粗末
なる雪踏・帯の 結び目に扇をさす。 これ、 商家の丁稚、 藪入り小僧の 出で立ちなり。 また大伝
馬町大丸 店 ・上野広小路松坂屋のごとき 大店の丁稚は、 みな遠国出生の 者のみなれば、 みな 一
同に竹添ひ人に 従ひて芝居見物をするなり。 この藪入りの 前夜は、 夜中眠れぬほどの
楽しみな
りといふ」とあ る。
いずれにしろ、 藪入りは江戸時代に 商業の発達するとともに 盛んになったものであ り、 元来
は 奉公人とは限らず、 嫁 婿も実家に帰る 日をいったのであ る。 正月や盆の 16 日は、 家族全員で
家の神や先祖を 祭る重要な日であ ったので、 他出した者はみな 故郷の実家に 帰る必要があ った
のであ る。 幕末の江戸の 風俗をみても、 藪入りの日は、 実家の親兄弟に 改まって挨拶して 墓参
しており、 遊ぶ場所も大半が 江戸の名刹になっていて、 しかも閻魔参りの
日
と重なっている。
この日の芝居見物も 単なる遊興というよりは、 先祖供養や死者供養の 意味合いもあ ったと思わ
れる。 しかし、 藪入りも次第に 遊休日の性格が 濃くなり、 商業の近代化や 休暇制度の整備にと
もなって消滅していき、 今日では言葉だけがかろうじて 記 ,憶に留められている。
(そゑ記 ) 本稿は、 『日本医事新報ロの質疑応答 欄 に掲載した正月関連のエッセイをいくつか
たものです。
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