新聞記事から見た太平洋戦争直前の日本海運など

 Kobe
University Repository : Kernel
Title
新聞記事から見た太平洋戦争直前の日本海運など
Author(s)
村井, 正
Citation
海事博物館研究年報, 43: 24-27
Issue date
2015
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009490
Create Date: 2016-06-27
新聞記事から見た太平洋戦争直前の日本海運など
元神戸税関 広報室長 村 井 正 1.はじめに
れ、長い歴史を誇る日本船主協会は発展的に解消
昭和14(1939)年9月に第2次世界大戦が勃発
した。日本では日華事変が続いていたものの、昭
された。
2.2 世界
和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まるまでの
昭和14年のドイツによるチェコ占領、独伊軍事
約2年3ヶ月は曲がりなりにも世界的に中立の立
同盟締結などにより英仏との対立が激化し、ヒッ
場にあった。
トラー独裁政権の欧州における勢いは止まず、同
当時、世界第3位の船腹保有量を誇った日本海
運には精鋭の優秀船が多数揃い、質の高い商船隊
年9月にはポーランドに侵攻、英仏が対独宣戦布
告して第2次世界大戦が勃発した。
であった。この期間、日本海運の情勢は如何なも
この時、米国は日本と同様にこの欧州での大戦
のであったのか、また、太平洋戦争開戦時に日本
には中立の立場を守り、対英援助を大規模に行う
商船に一隻の拿捕船も出なかったのはどうしてか
ものの、太平洋戦争までは参戦していなかった。
など、当時の新聞記事を紐解いてみる。
3.日本海運の情況
2.日本と世界の情勢
第2次世界大戦が勃発すると、時の逓信省は直
2.1 日本
ちに「我が国の中立を鮮明にするために、交戦国
昭和12年7月に
日華事変が勃発、
当初の予想に反し
て戦況は長期化、
拡大し、多数の商
船が軍用船として
徴用され、軍事費
の増大、輸入超過
に伴う為替管理の
強化等国民生活に
主要海運国船腹量(昭和14年)
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
国名
イギリス
アメリ力
日本
ノルウェー
ドイツ
イタリア
オランダ
フランス
ギリシャ
スェーデン
千 G/T
21,001
8,909
5,629
4,833
4,482
3,424
2,969
2,933
1,780
1,577
出:「大阪商船八十年史」
の領海を航行する商船は全て日章旗を船腹に描く
こと」を指令した。対象は欧州、ニューヨーク、
アフリカ、南米、豪州、バンコック及び比島の各
航路であった。
3.1 遠洋航路
海運市況は昭和12年末より同13年にかけて世界
的に不振で下降傾向にあった。日華事変を反映し
て南洋、インド、豪州などにおける在外華商の排
日並びに米英などの対日反感が増大し、邦船の進
出を圧迫した。しかし、第2次世界大戦が勃発す
暗い影を落としつつあった。翌13年には国家総動
るや戦時物資輸送等のために運賃や傭船料は大巾
員法の発動があり、海運界では国の徴用船の円滑
に高騰して市況は好転した。
な運用などを図るために日本海運協会が設立さ
年表
年
日 本
世 界
日 本 海 運
1938年 4. 国家総動員法
隻(うち7隻が神戸港)を数えた。
(昭和13年)
1939年
1940年
(昭和15年)
9. 第2次世界大戦勃発
(英)
シップ・ワラント制適用
日米通商条約失効
9. 日・独・伊三国軍事同盟締結
1941年
(昭和16年)
7. 日仏印共同防衛協定で南部
仏印へ進駐
6. イタリア参戦
スエズ運河通行不能
7.(米)
対日鉄屑禁輸
2.(米)
対日金属類禁輸
6.ドイツ ソ連に侵入
7. パナマ運河邦船通航禁止
(米英蘭)
日本海外資産凍結
8.(米)
対日ガソリン禁輸
12. 太平洋戦争勃発
1942年
(昭和17年)
― 24 ―
商業航路からは撤退してゆき、一方のドイツ商船
は中立国の港に避難し、その数は日本だけでも11
1937年 7. 日華事変始まる
(昭和12年)
(昭和14年)
交戦国商船のうち英国系船舶は国に徴用されて
11.「照国丸」触雷・沈没
5. 日本海運協会設立
10. 欧州航路休航
6. ニューヨーク航路休航
7. オーストラリア、
シアトル
桑港航路休航
9. 在外邦人引揚船出帆
10. 南米西岸航路休航
11.「気比丸」触雷・沈没
1. 最終商船「鳴門丸」帰港
日本商船はこの穴埋めに活躍し、アフリカ、南米
西岸などへの貨物量の増大に対応して、定期船以
外に臨時便を就航させるほどの盛況ぶりであった。
また、各本国へ帰還する在留外国人は、交戦国
船舶に乗船すれば戦乱に巻き込まれる公算が高い
ことから中立国の日本船への人気が殺到し、日本郵
船神戸支店等へは連日のように船室予約があった。
海運界で第一次世界大戦以来の好況の状態が一
れた白人船客が寄港地各港で殺到し、すさま
時的にあったが、わが国の南進政策が米・英諸国
しい船室獲得争いがあったと言う。帰路は在
から警戒感をもたれ、日本への戦略物資の輸出規
留邦人の欧州からの帰還船客で満船となった
制が強化されたことなどから貨物輸送量の減少を
が、戦火の拡大、途中寄港地での補給の困難
招くこととなった。
などにより、同年8月2日にケープ廻り第2
主要航路に当時の状況をみると
船として神戸港を出帆した「伏見丸」
(10,940
(イ)欧州航路
トン)が欧州への最終便になった。
大戦勃発後、最大の交戦海域である欧州に
向かった第一船は昭和14年9月14日神戸港を
(ロ)北米航路
ニューヨーク航路には邦船社6社が月に10
出帆した日本郵船の「諏訪丸」(11,758トン)
航海ほどを就航させ、昭和15年1月に日米通
であった。船内には守護神諏訪神社から贈ら
商条約が失効しても余り影響を受けなかっ
れた護符が貼られ、航海の安全を祈った。第
た。しかし、日本の南進政策、更に日独伊軍
2船「照国丸」(11,931トン)は貨物7千ト
事同盟の締結が米国の対日経済圧迫の度を加
ン、船客125名が乗船し、同年9月29日神戸
え、本邦向け重要輸出品のほとんどが禁止措
港を出帆、途中の寄港地での給油が難しいと
置を受け、海運会社としてはその運航に困難
みて、シンガポール出港後にボルネオのミリ
を感じた。米国政府は昭和16年7月に突然日
港へ寄り返し、2千トンの燃料タンクを満タ
本船のパナマ運河通航を禁止し、さらに日本
ンにするなど苦労の多い航海になった。その
の在外資産凍結が決定的となり、各社は就航
後は第4船まで順調に出帆した。ところが11
を停止せざるを得なかった。
月21日、この航路で一番船齢の若い第2船の
パナマ運河閉鎖時に大西洋側では10隻以上
「照国丸」がイギリス東海岸で触雷により沈
の邦船が残されたが、南米南端のマゼラン海
没した。幸い船客及び乗組員に犠牲者は無
峡・ホーン岬を経て全船無事に帰国した。
かったが、このことから日本郵船は優秀船を
シアトル航路ではカナダの日本製品輸入禁
温存し、比較的船齢の古い中型船と入れ替え
止又は制限のため貨物が激減し、昭和16年8
て同航路の維持に努めた。
月4日に日本郵船「平安丸」(11,616トン)
当時の極東~欧州航路では他の中立国船が
の横浜帰港をもって休航となった。
影を潜め、英国側の荷主の要望にも応じ、機
桑港(サンフランシスコ)航路は日本郵船
雷の海で悲壮な決意をもって活躍したのは日
が貨客船5隻をもって2週1便で運航してい
本船のみで、地中海航行中は気味の悪いほど
た。大戦勃発時、往航は日本在留欧米人の本
船影に会わなかったようである。
国帰還者で、復航は北米・南米方面からのド
昭和15年6月にイタリアが参戦し、スエズ
運河が航行不能になったことから、ケープタ
ウン廻りでの欧州行きとなった。戦火に追わ
イツ人が日本で下船してシベリア鉄道経由で
帰国することになり盛況であった。
日本の在外資産凍結をもって、昭和16年8
月18日「龍田丸」(16,955トン)が横浜へ入
港・帰国したのが最終便になった。
同航路に就航していた「八幡丸」(17,128
トン)と「新田丸」(17,150トン)は日本郵
船が欧州航路用に新造した純国産の貨客船
で、当時同航路に就航していたドイツ船に対
抗するため建造されたが、竣工時の欧州はす
でに戦火に見まわれており、優秀船保全のた
め太平洋航路に転用された。両船とも上等級
船室は外国人に好評であり貴重な外貨収入船
照 国 丸
として大いに活躍した。
― 25 ―
(ハ)南米航路
れも英領寄港地での問題と日本の対外資産凍
大戦勃発に伴い、各国定期航路が委縮する
結令により交易が無くなったことから海運が
なかで日本船のみが難局を切り抜け、各船会
成り立たず休航になり、昭和16年10月ごろま
社とも活況であった。この地域への航海は、
でに就航船は全て日本に帰国した。
日本から西航の場合に多数の英国支配下の寄
港地を経なければならなかった。
ジ ャ ワ( 現 イ ン ド ネ シ ア )、 盤 谷( バ ン
コック)、海防(ハイフォン)の各航路は日
英国は船の積荷の戦時禁制品検査を容易に
本の南進政策と共に重要物資の輸送と多数の
するために戦時航海証制度(シップ・ワラン
人々の交流に日本商船隊の活躍があった。な
ト制)を実施し、「英国に対して貨物の供給、
かでも神戸港となじみが深かったのはジャワ
情報の提供、敵性貨物運送の防止等」を誓約
航路で、当時オランダ領であった関係から、
書として船会社に提出させる方策を用いた。
第2大戦が勃発すると同地にいた多数のドイ
この誓約書も昭和16年7月以降は無効にな
ツ人が抑留され、解放された婦人と子供は同
り、シンガポールから始まり、インド・アフ
航路を利用して神戸で下船、シベリア経由で
リカ東岸諸港での船用食料品、給油、給炭、
本国に帰った。
給水等の補給拒否、さらには不当に出港許可
を出さないなど、長期停戦を余儀なくされ、
(ホ)遠洋航路配船状況
この表は、いずれも当時の神戸新聞に掲載
航海に支障を来すことが多かった。日本船に
されていたものをまとめたもので、第2次世
対する英領寄港地での取扱いは中立国船とい
界大戦勃発直前の昭和14年8月とその1年後
うよりもほとんど交戦国並みの状態であっ
の日本海運遠洋航路に就航した商船の状況を
た。船会社の中には就航船舶のバラストタン
示す。
クを清水や燃料タンクに、また、食糧品冷蔵
欧州、アフリカ、インドの各航路への就航
庫の増設などの改造までして就航に努めた
船の増加は英国による戦時航海証制度(シッ
が、米英の資産凍結令が決定的となった昭和
プ・ワラント制)による寄港地における滞船
16年9月をもってついに休航になった。
日数増加に伴うものと思われ、船会社はもと
大阪商船の新造貨客船「あるぜんちな丸」
より乗組員の労苦がしのばれる。
(12,755トン)は4航海、姉妹船「ぶらじる
一方、激減で目立つのが北米航路で、米国
丸」(12,752トン)は2航海の後、太平洋横
の対日輸出規制の強化策が進むにつれて輸出
断の東回りで1航海したのみで、ついに本領
貨物の減少は就航船そのものの数に表れてい
を発揮することなく、帰国後は両船とも日満
る。
連絡船として就航した。
南米航路におけるブラジル移住船の戦前最
終便は昭和16年6月22日に神戸港を出帆した
就航船全体では隻数で10%程度の減少に止
まり、未だ御用船の大量徴用には至っていな
かったようである。
大阪商船「ぶえのすあいれす丸」
(9,626トン)
で、52家族416名が日本を離れた。
遠洋航路配船状況
太平洋側西岸航路は大戦勃発直後から活況
日本海運集会所調べ
であった。貨物に限らず、北米から南米西岸
区分
諸国との間に、当時唯一の船客を取扱う航路
航路
欧州
南米
アフリカ
北米大西洋
北米太平洋
豪州
印度
計
として常時客室は満杯で、定期船以外に臨時
便を増便したほどであった。英国領への寄港
もなく、パナマ運河通航の必要もないことか
ら遠洋航路として最後まで残った。
(ニ)その他の航路
アフリカ、インド及び豪州の各航路はいず
― 26 ―
昭和14年8月
昭和15年8月
隻数
千総トン
隻数
千総トン
3
10
4
21
33
10
15
96
28
98
36
211
374
90
136
973
14
9
10
16
7
6
24
86
119
90
81
121
103
41
159
714
3.2 近海航路
日華事変の拡大や満州の開発につれて繁忙を極
めたのが近海航路である。主な航路を列記すると
「日満連絡船」 阪神~門司~大連
「日華連絡船」 神戸~長崎~上海
「内台連絡船」 神戸~基隆
「欧亜連絡船」 敦賀・新潟~北朝鮮~浦塩
「関釜連絡船」 下関~釜山
があり、他に阪神~天津や阪神~青島などの航路
があった。
気 比 丸
昭和14年秋、内地と中国大陸との間の海運の一
元化を図るために日本郵船や大阪商船などが出資
太平洋戦争勃発前に戦火に関連し沈没した日本
して東亜海運が設立された。同社の上海航路「大
商船はこの「気比丸」と「照国丸」の2隻のみで
洋丸」(14,458トン)は、ほぼ10日ごとに神戸か
あった。
ら直航で運航され、毎航海とも超満員であった。
神戸~基隆間の内台航路は大阪商船と日本郵船
乗客は日本人に限らず、上海在留の外国人が冬は
がそれぞれ3隻2週3航海で運航され、この航路
スキーに志賀高原や菅平などへ、夏は避暑に箱根
を利用して中国大陸南部へ向う人もいた。この航
や軽井沢などへ向かうために1、2等船室を占領
路は国内航路で神戸港では中突堤が使用バースと
し、時には200名を超える便もあったと記録され
なっていた。
ている。当時の外国人乗客の支払う運賃は貴重な
外貨収入でもあった。
大阪商船が運航する大連航路は大戦勃発当時7
鉄道省が運航する関釜連絡船は常時満杯の活況
で、悪天候で欠航にでもなれば下関の街は数千人
の船客で大混乱になったようである。
隻、月に17航海であったが、翌15年1月からは10
隻、月25航海に増便されほぼ日発状態であった。
4.結び
一攫千金を夢見た大陸への渡航者が激増し、受け
日本の南進政策と米英らによる対日経済圧迫が
入れ側でも支障を来すことがあり、昭和15年5月
進むと共に邦船のパナマ運河の通航禁止や日本の
20日から軍において必要と認めた者、警察署の証
在外資産凍結令により日本商船は運航不能に陥っ
明がある者と渡航者に制限が加えられた。それで
た。
もこの年、大阪商船神戸支店で扱った渡航者数は
月平均で1万人を超えたとある。
内地と中国との間の旅客主体航路はこの他に阪
遠洋航路に就航していた商船はこれらの事情か
ら太平洋戦争開戦前にほとんど本邦に帰港してい
たことから一隻の拿捕船も出なかった。
神~青島が4隻で月に10便、阪神~天津が6隻で
ちなみに開戦後最後に帰港した商船は、昭和16
月に12便が運航され、船客の乗下船する神戸港は
年10月に国の命令で銅鉱石を積取りにチリに向
繁忙を極めた。
かった日本郵船「鳴門丸」(7,149トン)で、その
日本海側では、昭和16年6月にドイツとソ連が
戦火を交えるまではシベリア鉄道を経て欧州に至
目的を無事に果たして翌17年1月3日横浜港に帰
港している。
る重要なルートであった。特に欧州を追われたユ
ダヤ人がモスクワを経てシベリア鉄道とこの航路
参考文献
を利用して敦賀に上陸、神戸・横浜港から出帆し
日本郵船株式会社 七十年史
て安住の地を求めた。
同航路就航中の「気比丸」
(4,522トン)が太平
洋戦争勃発の約1ケ月前の昭和16年11月5日の夜
に北朝鮮沖で浮流機雷に触れて沈没し多数の死傷
大阪商船株式会社 八十年史
三井船舶株式会社 創業八十年史
川崎汽船株式会社 五十年史
神戸新聞、朝日新聞
者を出している。
― 27 ―