YMN004303

堀
|
口称
が 四時にまたとまった。
⑤時計が三時にうごいた。
④時計が二時にとまった。
﹁|り ・| たり﹂﹁ | けり ﹂の表現
口 一口
⑧時計
㊤時計が二時から三時までとまった。
"
動詞 "という用語の名は 、 "
動きを表す 詞 " の意からら 0名付け
であろう。動作・作用を表すといわれるが、むろん 動 作 作用それ
㊥時計が三時から四時までうごいた。
自体を表す詞は名詞であり、動詞は、動作・作用を主
として述べるのがその任である。動詞の中には動きを 述べ るとはい
えないものもあるが、それについては後に触れる。 動 討 と よば
二五
吉
動詞﹁うごく﹂は、その動きが終了しても主体が変化 することを
れるものには、この ょ うな用法をもつものがある。
始まりから終わりまでの局面をまるごと表す。︵変化 動詞︶と よば
は、それと異なり、その主体変化の実現した状態が持 航 した過程の
まさにその主体変化が実現したことを表す。しかし㊤ の ﹁とまった﹂
動詞は通常︵変化動詞︶と よばれる。右の④⑪の﹁ と まった﹂は 、
を表すのが基本用法であり、そのような主体変化を表 すことをいう
動詞﹁とまる﹂は 、動きのあるものが動きのない状態 になること
なす動き
る
そ
な
もののほとんどはたしかに主体の動きを述べるもので はあるが
の動きのいかなる局面を表すかということは、けっし て 一様で
ス口 一
て、まず
国立国語研究所﹁現代日本語動詞のアスペクトとテン
高橋太郎・一九八垂示︶にあげられた例を借用し
点 に付いての考えを示すことにする。
こ
執
筆
の
と異なり、その動きの始まりの局面を表す。︵動作動 詞 ︶と よ ばれ
りまでの局面をまるごと表す。しかし、㊥の﹁ うごい た﹂は、それ
いた﹂は、まさにその主体の動きが継続した過程の始まりから終わ
表すわけではなく、通常︵動作動詞︶とよばれる。 右 の㊥の﹁ うご
であるが、その相違はもっぱら﹁いる﹂の表現内容の 相違によるも
時における状況をいは線と捉えた時における
右の﹁ うご いている﹂﹁ うご いていた﹂のうち、
①時司が三時から四時までうごいていた。
㊥時計が三時からずっとうごいている。
状況をいうの
は点と捉えた
一一ノ
二、
るものでその動きを継続する動きとしていうものの ば あいには、 こ
のであって、上桟 の ﹁うごく﹂の表す局面は、すべて
㈹である。
のような用法をもつものがある。
③時計がいまとまっている。
①時計が二時半にとまっていた。
すなね ち、右の例にいう ﹁うごく﹂の表す局面には
㈹その継続する動きの始まりの局面
⑦時計が二時からずっとときっている。
は点と捉えた
吠況 をいうの
であるが、その相違はもっぱら﹁いる﹂の表現内容の 相違によるも
右の﹁とまっている﹂﹁とまっていた﹂のうち、
⑦時計が二時から三時までとまっていた。
㈹その動きの継続する過程ぜんたいの局面
という二つが認められるのである。また、右の例にい う ﹁とまる﹂
の表す局面には
㈲その主体変化が実現する変化実現の局面
い の局面
のであって、上桟 の ﹁とまる﹂の表す局面は、すべて
㈲その状態の持続する過程ぜんた
という二つが認められるのである。︵動作動詞︶ とは 右の㈲の局面
つとも、このように持続する状態を問題とするばあい は、 ㈹は﹁変
㈲である。も
に注目した名付けであり、︵変化動詞︶とは右の㈲の局面に注目し
化 実現の局面﹂というよりは、次のようにいうべきで ある。
以上、説明の便のために﹁うごく﹂﹁とまる﹂を例と したが、 す
コ二
㈹その持続する状態の始まりの局面
た名付けであろうが、それぞれにもう一つの用法があ るのである。
ところで、この類の動詞には、いわゆる︵存続︶を 表 す用法とし
うご いている。
て ﹁¥ ている﹂の形で表現されることも多い。
④時計がいま
㊦時計が三時半にうごいていた。
べての動詞を︵動作動詞︶と︵変化動詞︶に分けるとすると、さま
︵変化動詞︶は、主体変化の動きをいう動詞であるか ら、そのす
して表されるわけではない。﹁ちらっと見る﹂﹁あっと
叫ぶ﹂などひ
詞が ︵動作動詞︶なのであるが、そのすべてが常に継航する動きと
その動きを終えても主体の変化することを表さない 動きないう動
ことを意味する﹁入学する﹂には、㈲の局面を表す用 法 しかみと め
したすべての用法がみとめられる。しかし、類似の﹁ 学校二人 ル ﹂
院 二人 ル﹂ことを意味する﹁入院する﹂には、先の﹁ とまる﹂に 示
表す用法がすべてにそなわっているわけではない。 た とえば、﹁ 病
べてに㈲の局面を表す用法があるのは当然であるが、㈹㈲の局面を
走
じょうに短い動きをいうものや、﹁論文を書きあげる﹂﹁十キロを
られず、先の﹁とまる﹂の㊤および⑧ 、⑦の類の表現 はできないの
ざまの問題がある。
り通す﹂など完成させることに視点をおく動きをいうものなどの ば
︵変化動詞︶のうち、変化後の主体の状態を持続する 過程をもつ
である。
表しうる動きをいう動詞でも、継続には無関心に表現 されることが
厳密に は ︵持続状態
状態と捉えていうものを、特に︵持続動詞︶ 一
あいには、㈹の局面を表す用法はない。また、継続す る動きとして
多い。したがって 、先の㈹の局面の説明の言葉は、継航する過程の
動詞︶とよぶべきであろうが一とよびたい。
︵変化動詞︶であるかぎり㈹の局面を表す用法がある のは 当状 で
百曲とは血 関係に同じように表現される点に注目して、次のような
端的な言い方にするのが適当であろう。
@⑰の例の類
の用法があるのが、この種のへ持続動詞︶の特色であ る。しかしな
あるが、その㈲の局面を㈹の局面と捉えていう先の②
︵動作動詞︶のうち、その動きを継続する過程をもつ 動きと捉え
がら、ちょうど︵継続動詞︶であってもその㈹の局面 をその動詞の
㈹その動きの過程ぜんたいの局面
ていうものを、特に︵継続動詞︶ 一
厳密には︵継続 動作動詞︶とよ
みで表すことが不自由なものがあるのと対照的に 、 ︵持続動詞︶で
関係にあるが、㈲の主体変化の局面を表すことのない 、いわば純粋
︵持続動詞︶は︵変化動詞︶のうちの多くがそれを 兼 ねるという
Ⅰ
ム@ す へての︵持続動詞︶に自由であるとは限らない
@
あっても、先の㊤の例のようにその動詞のみで㈲の 局面を表すこと
ぶべきであろうが一とよびたい。
︵継続動詞︶の特色は、㈹の局面を表す用法のあるこ とであり、
先の④ ¥⑪の例のような﹁ @ ている﹂の表現があることである。も
っとも、先の㊥の例のようにその動詞のみで㈹の局面を表すことは、
すべての︵継続動詞︶に自由であるとは限らない。
二七
二八
特定の事の存在をい う次のような﹁ある﹂は、動作動 詞 ﹁行われ
不十分な解説である。
院 する﹂に相当する表現を﹁入学する﹂は表しえない が 、それを 表
る ・起こる﹂などと同じく、﹁あった﹂で︵過去︶を表し、﹁ある﹂
の ︵持続動詞︶も存在する。先に示したように︵持続動詞︶の﹁ 入
す 動詞として﹁在学する﹂がある。﹁A大に在学した 一
することが
で ︵未来︶を表すのである。
①昨日祭りがあった。その時事故があった。
えば、それは必ず㈲の局面を表し、けっして㈲の局面 を表すことは
ない。そして、﹁ A大に在学していた
②明日祭りがある。また事故があるぞ。
などの動詞
む りやり﹁いま祭りがあっている﹂などと用いられる ことがある。
である。﹁いま祭りが行われている﹂に相当する用法は本来ないが、
一い
るこの形で ㈹の局面を表
すのである。同類として﹁存在する﹂﹁持続する﹂ などの漢語動詞
の形でし
この類の﹁ある﹂は 、常に㈹﹁その動きぜんたいの 局 面﹂を表すの
は、 必ず﹁ ¥ ている﹂一連体用法では﹁一た ﹂とも ぃ・
ユ
﹁行われている﹂と同様に﹁あって﹂で㈹の局面を表 したいのであ
0例が目立っ。
か用いないという性質がある。おそらく発生の当初は ㈲の局面を表
ろう。なお、﹁毎年四月十日に祭りがある﹂のように 一般的に事象
﹁ありふれる﹂﹁すぐれる﹂﹁ずば抜ける﹂﹁ばかげる﹂
す ︵変化動詞︶であったであろうが、その用法がすたね、その形で
をいうばあいは︵現在︶のテンスを表すことになるが 、それについ
ところで、初空仔在 をいうばあいは、次のように用い る 。
ては次項に述べる。
㈹の局面を表すだけの特別の︵持続動詞︶になったの であろう。
なお、他動詞の﹁たも 三 ﹁維持する﹂なども︵持続動詞︶であ
るが、他動詞の︵持続動詞︶に関しては後に触れる。
③昨日ここに本があった。
﹁ある﹂は、異色の動詞である。他とちがい、動きを 表すことが
の例の類の﹁ある﹂も含む一は、主体のなす特定の個 の動きを表す
①の例は 、︵現在︶のテンスを表している。一般の動 詞 先の①②
いまここに本がある。
なくもっぱら存在状態を表す点、その動詞のみで︵ 現 在 ︶のテンス
用法である限りは、言い切りの形で﹁ |た ﹂と言えば 、その動きが
④
を 表す点、﹁ ¥ ている﹂の形の用法をもたない点など が特色にあげ
︵完了済 ︶であることを表し、テンスは︵過去︶を 表 すが、当の動
口一一一口
られている。しかし、第三の点はともかくも、他の二 点 に関しては
の テンスを表す点が異色とされるのである。
は ︵未来︶を表す。それに対して、①の例の類の﹁
あ る ﹂は︵現在︶
詞 のみを言えば、その動きが︵未完了︶であることを 表し、テンス
していう表現である。同じ︵現在︶を表すといっても 、 ﹁ある﹂と
到ったことを、発話時において、発見したり確認した りしたものと
のように舌う
口 表現は 、 ﹁ある﹂ことが以前からずっと持続して今に
ものの存在状態の持続することをいう﹁ある﹂の性格 は、そのま
﹁あった﹂とでは表現性に大きなちがいがある。
﹁あった﹂はその事象の終了ずみを意味するが、③ の ﹁あった﹂は
ま 動詞﹁いる﹂﹁おる﹂、また、補助動詞に用いる﹁ 歩いている﹂
ところで、①と③の﹁あった﹂の表現内容は同じでは ない。①の
そ のまま﹁ある﹂
﹁
本 ﹂の存在状態の終了を意味しない。﹁昨日﹂以後
﹁隠れている﹂﹁隠してある﹂や﹁美人である一だ・で
すニ ﹁きれい
する・所属す
ところで、﹁ある﹂﹁いる﹂などのように︵現在︶の
テシスを表す
﹁四﹂
に固定した状態と捉えて述べる表現なのである。
を述べるのに対して、この︵状態動詞︶の表現は 、そ の事を恒常的
用法をもっが、その︵持続動詞︶の表現が単純に持続 態 にあること
もっとも、﹁ある﹂などと異なり、これらは﹁ 1して いる﹂の形の
在 ︶のテンスを表すが、いずれも︵状態動詞︶としての用法である。
るご などという︵持続動詞︶の表現は 、﹁ある﹂などと同じく︵ 現
点 をもつ︵有するごまた﹁鯨は哺乳類にはいる一層
存在状態をいう﹁この車には欠陥が存する︵存在する 二 ﹁それは
欠
以上の性格をもつ︵持続動詞︶を特に︵状態動詞︶ と よびた
である一だ・です﹂などにもみとめられる。
﹁昨日- の時
か否かは不問であるが、以前から持続する存在状態を
点 に限って捉えて言うにすぎないのである。④の例も 、以前から持
一
あった。 -
航 する存在状態を、以後については不問のままに、﹁ いま﹂の時日
に限って言う表現なのである。その点は 、
⑥この町にはおもしろい風習がある。
のように、物体でないものの存在をいうばあいも同じ である。
これらの﹁ある﹂は︵持続動詞︶であるが、その表す 局面は 、先
例のような
た 局面
に示した㈲﹁その状態の持続する過程ぜんたいの局面 ﹂ではない。
㈹その状態の持続する過程をある時点に限って捉え
といわなければならない。
なお、この種の﹁あった﹂という表現は 、 常に
︵過去︶のことをいうとは限らない。
⑥こんな所に本があった。
の例の本はこの棚にあったね。
二九
動詞の用法は 、 実はそう珍しくはないのである。
O
一二
次に、長期にわたって同一の動作・作用がくりかえさ れることを
⑨彼はいつ見ても一人前の大工の格好になっている
⑧彼はいつ見ても黙々と大工の仕事をしている。
いう用法について考えを述べよう。
かぴか光る﹂﹁だれか戸をたたく﹂のように、その動 作 ・作用が継
︵継続動詞︶を用いて﹁あっ、雲が流れる﹂﹁花が散る﹂﹁何か ぴ
続する過程の最中に発話することがあるが、これらは 、その継続す
の類の表現は、継続態 か持続態 かの相違はあるが、﹁ ¥ている﹂と
いう有様そのものを表す用法である。断続的ながら﹁
いう 表現であ
いう有様が存在するという内容を表すので、通常の用 法の ﹁@ てい
る動きを発話時までに限ってひとまとまりに捉えて
る。その内容は﹁ @ ている﹂の形でも表されるが、
る﹂からかけ離れた用法とはいえない。
¥ ている﹂と
続態 にあることを表すのに対して、これらは、その継航する動きを
感じがする﹂
また、詩歌な
⑪彼は休日には大工になっている。
⑩彼は休日には大工の仕事をしている。
それが平凡に継
発話時の瞬間に限って捉え、そのまま投げ出すように述 べるもので、
緊迫感のある表現として話し舌口業では多用されるし、
る ﹂﹁海が見
ところが、似た形ながら次の類の表現はおもむきを 異 にする。
どでも多用される。知覚に感じる動きをいう﹁いい
これは先のような有様をいう表現ではない。休日のた びに﹁大エ の
仕事をする﹂﹁大工になる﹂ことが以前に始まって 、発話時の今も
継続中であることをいう表現である。このように反復 して継続する
な どにも同様の
﹁いいにおいがする﹂﹁ピアノの昔がする﹂﹁汽笛が聞え
える﹂ や、 心のはたらきをいう﹁感じる﹂﹁思う﹂
この用法の動詞の表す局面は 、 ︵状態動詞︶の㎝の 局 面を表す用
動きを表す用法の動詞は 、 ︵反復継続動詞︶と よばれ る。この用法
用法がある。
法 のばあいと同じように、㈹﹁その動きの過程ぜん た いの局面﹂で
右の⑩⑪の﹁
@している﹂の表現は 、当の動詞を㈹の 局面を表す
えない︵動作動詞︶でも、︵変化動詞︶でも、自由に用
の動詞には、特定の一つの動きをいうときには︵継続 動詞︶になり
た局面
はなく
㈹その動きの継続する過程をある時点に限って捉え
ものとしていい、それが実現して 今継続中であること を表す " その
を表す用法は
占は通常の︵継続動詞︶で﹁
ということになる。しかも、その﹁ある時点﹂は常に 発話時の︵ 現
在 ︶に限られる。このばあ い、それに対する︵過去︶
@ ている﹂というのと 同 じである。 た
ない。﹁ @ た﹂の形では、通常の㈹の局面しか表しえな
だし、そのばあいは、連続したり小刻みに反復したり する動きその
るが、︵反復継続動詞︶のばあいは、ある時点までの 特定の個の動
動詞が特定の個の動きを指す︵特定用法︶によるもの をいうのであ
いは、その
あるが、このばあいは、そもそも反復継続するという ことが観念の
きを総括してそれを一般的に指すものであるから、 そういう動詞の
そもそも︵動作動詞︶とか︵変化動詞︶とかいうばあ
というべきである。
所産であり、その動きが今あるといっても、発話時の 瞬間に実際に
用法を︵一般用法︶とよびたい。︵状態動詞︶として 用いる右の例
ものが発話時の今あることを表し、実際の有様を述べ る表現なので
るという内容を述べるものである。
この類の︵状態動詞︶の表現も多用される。
の類も、同じく︵一般用法︶によるものである。
あることを意味しない。観念の中で、反復継続する 流れの中に今あ
ところで、当の動詞のみを表す
⑫彼は休日には大工の仕事をする。
0 人は朱に交 れば赤くなる。
0 生あるものは ノず滅する。
0 彼はドイツ語を話す。
⑬彼は休日には大工になる。
という表現では、同じく︵現在︶のテンスを表すが、 その動詞は 、
0 彼はドイッ語が話せる。
︵継続動詞︶のばあいと同様に
た 局面
0 彼はドイツ語を話すことができる。
㈲その動きの継続する過程をある時点に限って捉え
を 表すといえるであろうか。右の類の表現においても 、 ﹁する﹂ や
﹁¥た﹂の形で︵過去︶のテンスを表す用法がある 占 は ﹁あった﹂
0 ハワイは日本人がよく行く。
反復することをいうにすぎないであろうか。そうでは なく、その 動
﹁いた﹂などと同じであるが、その形による︵現在︶ に視点をおい
﹁なる﹂が動きを表すのは確かであるが、その表現は、その動きが
きが反復することは決定ずみの固定したものと捉え、 その動きが 反
動詞︶からなるものもあるが、︵状態動詞︶のほとん どは、右のよ
本来からの︵状態動詞︶は﹁ある﹂などごく少数であ る。︵持続
はドイツ語を話したね﹂などのように表されうる。
て いう発見・確認の表現も、文脈の支えで誤解を ぅまなければ﹁彼
た局面
、 ㈹ ではなくて、
復することが定まっている 吠態 にあることをいう表現 であろう。 と
すれば、右の例の類の用法の動詞が表す局面は
︵状態動詞︶の ぼ あいの
㈱その状態の持続する過程をある時点に限って捉え
一一一一
うな︵一般用法︶による表現のもの である。
一
もっとも、も っぱら終止用法を中心として、
以上、現代語動詞について、いわ ゆるアスペクトとテンスを概観
したつもりである。
連体句内の述語としての用法につい ては触れていない。 一
本稿の目的は標題に示すとおりで ある。主として万葉集の例をと
りあげるが、古代 語との相違がある にしろないにしろ、結局は現代
﹂﹁田山
へⅡ
卜り
﹂
語を基に考えることは避けられない のであり、以上はその前書きと
して記したしだいである。
﹁五﹂
﹁し あり﹂﹁思ひあり﹂などの形の実例はないが、﹁せり
などはそれから転じたものと想定されている。この﹁ 一り﹂は限ら
れた活用の動詞にしか 下接しないが、どの活用の動詞 にも 下 接する
形に﹁ 一たり﹂がある。﹁ @ てあり﹂の実例もあり、 その形から
﹁@たり﹂と転じたと断定されている。動詞に﹁あり ﹂が 下接した
表現の意味を探るわけであるが、助詞﹁ て﹂の介在が 表現内容に関
わる占が認めにくいので、両者を同列に扱うことにす る 。
万葉集の中で最も目立つのは、次のように、㈹の局面 を 表す︵ 持
三香の原人遡の都は国見れど人も通はず
里 見れば
続動詞︶に付いてその状態が持続中であることを表す 側 である。
0
家も荒れたり︵荒 有一
一一一一一
一一0 五九一
一八一セ -
0 梅の花咲きたる 一
佐吉夢助 巴 園の青柳はかづらに すべく な
りにけらずや
に描くのに㈹
㈹の局面を表す︵継続動詞︶に付いてその動きが継続 中であるこ
とを表す例は、比較的少ない。知覚している動きを 歌
一九二七一
あし ひきの山にも野にも御 狩人さつ矢手挟みさ ね きてあり
0局面を表す用法が多用されたからであろうか。
0
見 ゆ 一散動 市有所見︶
二 二六 セ一こ
0 久方の月は照りたり一旦制多圭一いとまなく海人
はともし あ へり見ゆ一等 毛亡失敬兄山 一
いわゆる二元 了 ︶の用法の一つは、㈹の局面を表す︵ 動作動詞︶
︵一一二八一
みやびをと我は聞けるを一間流乎 ︶ 屋戸 貸さず 我 を帰せり
に付いた形で表される。
0
一遍利 -% そのみやびを
あるが、
類義
二 一二二七一
一零有跡 ︶天雲 晴れて 月
現代語の﹁ 一た ﹂では
0 思はれにしぐれの雨は降りたれど
一 たり﹂の 末嵩が
夜さやけし
この用法の﹁
の助動詞の滅亡に際してそれらの意味を受け継いだ ふ しもあり、 両
者は単純な関係ではない。現代語で︵完了︶の表現 と して、﹁昨日
君 ハツァラ メ事 ヲシ タ ﹂﹁夕方南 ガ降ッタ ﹂とも﹁ 昨 日君 ハツァラ
ヌ事 ヲシテイル﹂﹁夕方面 ガ降ッ テイル﹂ともいう。
@
刑者は単純に
事 があったことを表すが、後者は、発話時の今とのつながりを意識
していう表現であり、事があったという事実がある、 とでもいうべ
おそらく右の
き内容を表す。古代 語 で単に完了したという内容を表 すのには、 動
作動詞は﹁一つ﹂変化動詞は﹁ 一ね ﹂を用いたから、
動詞︶
と形
類の ﹁¥ り ・¥たり﹂は、現代語の完了済みであるこ とをいう﹁ ¥
テイル﹂に相当する表現だったと思われる。
㈲の局面を表す︵変化動詞︶は㈹の局面を表す︵持続
ある。
が 同じなので両者の区別がしにくいが、次の例は︵ 持 続 動詞︶では
なく、したがって、完了済みであることを表す用法で
そ れに変化を
二 二九四︶
0 雁がねの来鳴きしなへにからころも竜田の山はも みち そめ
たり一貫 始 有一
エハり
他動詞は 、ヲ 格のものにはたらきかける意、また、
もたらす意を表す動詞であり、主体変化の意を表すこ とを職能とす
るものではないから、基本的には︵動作動詞︶である 。ところが、
主 体め、小の状態
中には、その動きが実現すればそれが直ちに主体変化 をもたらすこ
とになるというものがある。﹁知る﹂﹁忘る﹂などは
が 変化することを表し、﹁持つ﹂﹁ 得﹂などは主体の有 様 が変化する
ことを表し、いずれも︵変化動詞︶︵持続動詞︶として用いられる。
通るべく雨はな降りそ吾妹子が形見の衣われ下に けり一着
王位の姿の変化することになる﹁着る﹂なども同様で ある。
0
-一0 九一一
の支配する 所
︵
セ ニセ 一
忘れ草わが下紐に付けたれど一者 有跡 ︶しこのし @土芋舌口に
有0
次の類は、主体の身体が変化するのではないが、主体
一能有一
一九九九一
が、ここは 継
一一0
一一
二八一一一
雄殖 有 - しこの しこ 草な
千沼 廻より 雨そ 降り来る四八津の海人網綱干せり
に変化をもたらすことが、おのずから主体変化を表す ことになる。
0
へむかも
忘れ草垣もしみみに 植ゑ たれど
濡れもあ
0
﹁干す﹂﹁植う﹂は︵継続動詞︶になりうる動詞である
完了した結果
続態 にあることをいうのでもなく、また、単にその動作 が完了ずみ
であることもいうのでもなかろう。﹁干す﹂﹁植う﹂を
二 一四0 ︶
二 一二二九一
白露を玉になしたる一作 有 ︶九月の有明の月夜見れど飽か
︵石理一
ひさかたの犬行く月を網に刺しわが大君はき め が さ にせり
の状態を主体が維持していることをいう表現である。
0
0
ぬかも
天の香具
三四
にも侵入して
味を失って動くものの存在状態を表すようになり、﹁ あり﹂の領域
に入ってそれを駆逐 し、 ﹁¥ たり・ @ てあり﹂の用法
0
その中で、 た
アル﹂ ﹁予約八 シ
類する。
公一セ 六四 -
妹がため命残せり一清桂一苅りこもの思ひ乱れて 死ぬべき
﹁
十
1リ口
つきもなきはあが身なりけり
四 0七八一
恋 ふといふはえも名付けたり︵ 名 夏気 多 理一言 ふすべのた
ものを
0
ずみであることをいう用法もあるが、次の例はそれに
テアル﹂のように、状態の持続をいうのではなく、 そ の動きが完了
なお、現代語の﹁ |テ アル﹂に、﹁代金 ハ払ッテ
¥ テイル・ ¥ テオル ﹂であるが、
とって伐 ったのが﹁
一九二八一
して都なしたり一成有一族ははあれども
だ右の用法のみが古来の﹁ @ テアル﹂の形を保って い るのである。
である。
都 なしたり﹂も、けっして 都作りの最中をいうので はなく、
﹁
沖つ鳥味経の原にもののふの八十件の緒は
この 二百の例も同じく︵持続動詞︶の用法である。
この
都作りを完了した状態を保持するうちにあることをいうの
への 衣 干したり︵乾 有一
上 のような他動詞の用法のはてに、次の類の表現があ る 。
看過ぎて真来るらし白た
二 一八︶
︶
一四一一一工八一
和多世 良要 - そのへ のも い渡 8 さ む を
二 一八九一
天の原振りさ け見れば白真弓張りて掛けたり︵張 面懸有
山
0
0
天の川橋渡せらば
夜道は ょ けむ
0
私 にあらずとも
こⅠ
#らは他動詞の主語が記されていない。自明だとしてそ れを省略
神が 掛けている、神が渡している、などと解するのはさ か しらであ
への空間上の到来と、過去から現在への時間上の到来との二 つがあ
形 が元だと推定されている。﹁く﹂の表す意味には、 他方から当方
助動詞﹁ @けり﹂は、 カ変動詞連用形﹁き﹂に﹁あり ﹂の付いた
はヲ 格の
る。助動詞﹁ 一けり﹂は後者によるものであるが、 上代語 では前者
ている、
ろう 。他動詞による持続態の表現において、その姿の中、心
そ 0 %格の
した 側 があるが、これらはそれに当たらない。里人が干し
もの である。その玉体を完全に血規 することによって、
空間移動を表す動詞には、移動動作そのものに焦点を おく︵動作
による﹁けり﹂の表現もなされた。
対応 する現代語は﹁夜ガ ホシ テ フル ﹂﹁弓ガ掛ケ テ フル ﹂﹁橋ガ渡シ
動詞︶と、到着地に到ることに焦点をおく︵変化動詞 ︶との二つの
もの を 主語としていう叙景の表現が存在するのである。 右 の表現に
﹁ぬ る﹂﹁を り﹂が、しだいに 本来の意
テア ル﹂である。古代 詰め
用法があり、﹁ く﹂にも両者が見られるが、﹁けり﹂にも 両者が見ら
静けくも岸には波は寄せけるか
一一二三 ゼ -
一
縁家督香 ︶これ 0 尾通し
れる。もっとも、動きが継続態 にあることをい う 例に
0
聞きっ つ居れば
︵動作動詞︶
があるが、これは﹁寄せ来﹂ることの小刻みな反復を いうものであ
り 、通常の個の動きをいうその例は見られない。次は
一
︵四四八一 こ
一
船人別家 流一 君が 心は忘ら
二 二八二 こ
筑波嶺を ょ そのみ 見 っっありかねて雪消の道をな つ み ける
の完了済みであることをいうものであろう。
0
堀江越え遠き 里まで送りける
かも一名 横 来有 唱一
0
の ましじ
次は︵変化動詞︶で完了済みであることをいうもので あろう。
見まく欲り思ふ間に玉梓の使ひのければ一家礼装
二 二九五七一
恋のしげきに
公一九一七一
とな いう のが
時間上の到来をいうばあいの﹁ ¥けり﹂も同様のはず である。 上
接の動詞の表す内容が過去から現在へと流れ続くこ
来﹂であり、それに﹁あり﹂が付くのであるから、 現代語の﹁ ¥
﹁
テキテイル﹂に相当するのが﹁ | けり﹂の原義であろ・ つ。
その﹁あり﹂には、有様を知覚してその存在をいうば あ いと、事
態を認識してその存在を いうばあ いとがある。とする
丁 テキテイルこにも両者があるはずである。前者の ばあ いは 、以
ことをいうのであり、この助動詞には他の助 動詞﹁ き ﹂ な
続イテ
前にある状態が実現してそのままずっと﹁ 続イ テキ テイル ︵
キタこ
どの 下接することがないから、そのテンスはかならず ︵現在︶を 表
す。後者のばあいは、以前に事が成立し、また、以前 からある存在
っのであるか
状態が、そのままずっと﹁ 続イ テキテイル一統 イ テキ タ ︶﹂ことを
いうのであるが、このばあいは観念で捉えたことをい、
ら、その﹁ 続ィ テキティル一統 ィ テキ タこのが︵ 現在 ︶までの ば
つ。
次の諸側 は、﹁見れば﹂を受けていう表現であり、﹁一けり﹂は明
﹁Ⅰリ
帰りける一町敬 生家 流一人きたれりと 言 ひしかば ほとほと
嬉しみとあが待ち 問 ふに
0
一束有一
あいもあるし、また、︵過去︶のある時までのばあい もあるであろ
着 ずて ける
二 二七 セ一こ
死にき 若 かと思ひて
ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠
次は持続 態 にある姿をいうものであろう。
0
へる
二 二一一一五一
つっつにか妹が来ませる一束 座有一夢にかも 吾か まと
人 やたれ
0
一二五
に けるか
三一丁、
一一一 セ一
ますらをや片恋 ひせ むと思へどもしこのますらをなほ 恋ひ
の状態をいう﹁ 恋 ひにけり﹂などの例も多い。
0
ー
み立たしの島の荒磯を ム﹁見れば生ひざりし草生ひ
らかに︵現在︶の有様を述べた表現である。
0
にけり 寡三家 里 ︶
家勿
︵四二箱 類一 自の緒に恩 ひし君を
コ八四四一
公 一山八一一一四一
まそ鏡面影去らず
里
︵一八一一
し に ける
恋和
今は吾は俘びそ
備
示
も ︵生木末 鴨 ︶
0
ゆ るさく思へば
l@@@
キ
@-j
j
0 家に来て吾が屋を見れば玉床のほかに向きけり 一向来︶ 妹
一--一山八一
けるかも
夢に見えこそ
わ
公一一0 四一
︵一一一一一一一
昔 こそ難波 ゐむ かと舌口はれけめ 全都引き都びにけ り 一都
備
をいう表現である。
二 二四四︶
二二八九一こ
㈲の局面を
表す︵変化動詞︶に付いて、その動きがすでに成立 ず みであること
ところで、次の例は 、形は右の諸 例 と同じであるが、
む磯の知らなく
0 機ごとに海人の釣 船 はてにけり一波 氏示家里 一哉 が 船はて
り 一票触丹来一
0 雁は来 ね 萩は散りぬ とさ 雄鹿の鳴くなる声もうら ぶれにけ
一咲益家礼一
0 朝顔は朝露負 ひて咲くと言へど夕影にこそ咲きま
仁 鶏 旦一
0
始まって今も︵持続態 ︶にあることを表す。次の例も 同様である。
始めの五例は 、㈹の局面を表す︵持続動詞︶に付いて 、その状態が
一二一一丁八一
海人
0 四一
恋
が木枕
0 吉見し家の小川を ム﹁見ればいよよさやけくなりに
茂 ホ末鴨 ︶
上 に
︵一九七一 こ
一咲家里 ︶ 吾 が 待っ 秋
二二一八一
、ば
、ま白にそ富士の高嶺 に雪は|
0 田子の浦ゆうち出でて見、れ
降
りける ︵客家 留一
0 野辺見ればなでしこの花咲きにけり
は近づくらしも
浜 に出でて海原見れば白波の八重折るが
一四一一
ハ一
0一
エ
小舟はららに浮きて大御食に仕え奉るとをちこちにいざ
り釣りけり 一伊村里都 別家理一
最後の例は 、㈹の局面を表す︵継続動詞︶に付いて、 その動きが 始
二七
ふさ 手折り多武の山霧しげみかも細川の瀬に波さ わきける
まって今も︵継続 態 ︶にあることを表す。次の例も同 様である。
0
一瞬
祁留 ︶
︵
四 0 二九一
0 珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照
︵氏 埋ホ 家里 ︶
里遠
0
ご一八セ一
ここにして家やもいづち白雲のたなびく山を越え て来にけ
り 一束二家主-
一七五こ
0 相見てばしましく 恋ひ はな ぎ むかと思へどいよよ 恋ひ まさ
りけり 一恋祐未︶
︵一0 二八一一
0 咲く花の色はかはらずももしきの大宮人 ぞ たちか
一五男尖流 -
一一一四一一
0 武庫河の水脈を速みか赤駒のあがく たぎ ちに濡れ ぼ けるか
も 一帖
祁流鴨 -
一一四一八一
0 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になり ぼ けるか
も ︵成束鴨 ︶
老木末 鴨一 我が背子 が 求むる
0 くやしくも老いにけるかも 一
二 一九二六一
二二三四八一
夏麻引く海上 掲 の沖 つ渚に舟はとどめかさ 枝ふ
乳母に行かましものを
0
一桁
気ホ家畢
いずれも、その動きが実現ずみであることを いう表現 であるが、 そ
れのもたらした状態が発話時の今も続いているという 関係にある、
いわゆる︵現在完了︶の表現である。しかし、︵持続 態 ︶にあるこ
とをい う 先のものとの相違は微妙であり、﹁色 づきに け り ﹂﹁咲きに
けり﹂等々区別しにくいばあいも 少 くない。
後世にはなくなった﹁ @ けらず﹂の表現もこの用法に 属する。
一八一七︶
0 梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべくなりに け らずや
︵茶利ホ家良受夜一
そ れには﹁ @ た
以上の﹁ @ けり﹂の用法は、﹁ 一り ・一たり﹂の︵ 継 統監︶︵ 持
統監︶︵完了 態 ︶を表す用法と類似する。しかし、
一たり﹂が 単
¥けり﹂は 、常に︵現在︶の @﹂とを述べる
りき﹂﹁ ¥たらむ﹂などの表現もなされ、常に︵現在 ︶のことを 述
べるとは限らないが、﹁
のである。また、その︵現在︶を表すのも、﹁ ¥ り
純 に事の存在を述べるのに対して、﹁一けり﹂は 、事 が始まったり
成ったりして以来 ム﹁に到る時の流れに着目していう表 現 であり、 そ
れを 今気付いたり確認したりしたものとして述べる、 という性格を
様にみとめられる。
もっ。そして、その性格は、以下にあげる他の用法の ばあいにも 同
過去から続く時の流れをいう﹁ 来ル ﹂の終点は現在で ある。その
もう一つは
発話時の︵現在︶に視点をおく﹁ @けり﹂の用法は 、 このほかにも
︵状態動詞︶﹁ある﹂に付くものである。
ある。一つは︵反復継続動詞︶に付くものであり、
九﹂
﹁
次の例は 、 ︵反復継続動詞︶に付いて、古くから今に到るまでず
っと長期にわたり﹁ @ テキテイル・ ¥ テキタ﹂という @﹂とを表す。
三セ
0
0
少女らも袖布留山の瑞垣の久しき時
の思ひけり
ゆ
@小
@ 五口
八@
分
一
公一四一五一
一八九四一
神代より言ひ伝て来らく⋮⋮と語り継ぎ 言ひ継がひけ
古 よしの
ひ にければ一之無比 示 家礼装︶
小は常 忘らえず
古の神の時より一男 ト大八一逢ひけらし
来一
二
0
三四一
︵四一一九一
ほ とと ぎす鳴く声
二 二二九 0 一
ど今の
ズ五計 良日
一一セ 0 七︶
山代の久世の鷺阪神代より春は張りつつ秋は散り けり一散
ふ瀧の瀬
古ゆ 人の言ひける宮口末流 一老人のをつといふ水 そ名に負
り 伊北 都賀 比 計理一
0
0
0
0
聞きて恋しきものを
家
ご 一五︶
功田一旧
明
これらには﹁神代より﹂などの君があり、長期継続の貢 が明らかで
み吉野の耳我の嶺に時なくそ雪は降りける一落
ある。そのような語はないが、次の類も同じである。
0
一零計類一
富士の嶺に降り置く雪は六月のもちに 消 ぬればそ の夜降り
なくそ雨は降りける
0
二 二二 0 一
一四四一
こ
世の中はむなしきものとあらむとそこの照る月は満ち欠け
けり 桁皇家利 0
しける︵為末流︶
0
三八
皆人の恋ふるみ吉野 けふ 見れば ぅべ も 恋ひ けり︵ 恋来一山
︵一一一一一一一
二二八二 0 一
こ
一四二五四一
末流一天
︵四二一一
なびきけ
処女らが後のしるしと黄楊小櫛生ひ変はり生ひて
一所因来一
タ づく日さすや川辺に作る屋の形をよろし みうべ 寄 そり け
Ⅲきょ み
0
り
0
らしも一廉 家良忠 母 ︶
千代重ねいやつぎつぎに知らしける︵所知
0 日嗣 と
次の諸 側は、特定の人についての表現であるが、その 動詞で表され
官心家領一
恋
一一一八一
嘆きつつますらをのこの 恋 ふれこそ吾が結ふ髪の ひち てぬ
る事象は、一回だけの特定のことをいうものではなか ろう。
0
礼一
しきたへの 枕 ゆくくる涙にそ浮き寝をしける
れ けれ 一
清所収礼計
0
-五 0 七︶
︵
七上こ
言問はれ 木すらあぢさゐ諸弟 らがねりのむらとにあざむか
のしげきに
0
ハ アナ タハ 。スット一
四 五Ⅱ上八一
太刀はき
公一九五六︶
あらたまの年月かねてぬ ばた まの夢に見えけり 所
- 見一着
れ けり 所 詐来一
0
ますらをと思へるものを一実
が 姿は
0
一面
て甘ホ波の田居に 片 そ摘みける一都実家流
丁
テキ タ ことい, っ意を表す。
同様の用法は﹁ @ありけり﹂にもみとめられる。以前 より今に到
までずっと﹁アリ 続イ テキテイル
の用法のばあいも、単に﹁あり﹂と平凡にいうのと ち が い、それ
る
三
0 八一
ぃへ玉 くしげ二上山も妹 ,しそあり
ときはなす石屋は ム﹁もありけれど一安里家礼
現 だったのである。
0
m ありと
しし五口そ
一一0 九八一
やど貸さず帰
一一二七一
︵
四 0セ ハ -
ふすべのたづきも むきはあ
みやびをに吾はありけり 一
有家邑
けれ︵有未︶
紀伊 道 にこそ 妹
人そ常なかりけ る
0
0
が 身なりけり︵宗旦末利一
山吹の咲きたる野辺のっ
m
一一一一一一一一
今こそも みち そめて
-一四四四 -
ぽすみれこの春の雨に盛
恋 ふといふはえも名付けたり舌口
みやびをにはある
0
0
妹が紐解くと結びて上田
り 一盛京里鶏 利一
0
一
黄葉始 市有家礼一
する。
︵四二三一一
なでしこは 秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けり けるかも
︵庄家理表流百号 一
には用いられなくなった﹁ ¥ず けり﹂もこの用法に属
0
騰一 住み ける
発話時の ム
﹁発見したりあらためて確認したりしたものとしていう
こ
を
表
後
0一
れる いわゆる
し かし、少ない
@けり﹂のほとんど は、以上の
三九八
ね ば たまの夢にはもとな相見れど直にあらねば 恋ひ止まず
けり︵夜席黄家圭一
0
千口
万葉集など上代の文献に見える﹁
類の ︵現在︶に視点をおく用法のいずれかである。
ながらも、後に散文の地の文や歌集の詞書に多用さ
続イ テキ タ﹂という
︵過去︶を表す用法に通じるものもある。両者のつな がりを探って
みたく思う。
第一は、﹁ ¥ ありけり﹂の用法である。﹁アリ
昨日しも 見けむがごとも思ほゆるかも
一一八 0 セ ︶
遠き代にありける 一
有家領一事下貫 間娘子 ノコト ︶
時点を︵現在︶から︵過去︶のある時点に移していう ものである。
を
二三0 セ一
はだすすき久米の若子がいましける︵ 伊庄 家理一 三穂の山石
これは事の存在をいうものであるが、人の存在をいう 側 もある。
0
屋を見れど飽かぬかも
水き 世に
-一セ四 0 一
一一七三八︶
そ妹丁珠
一滴ノ昌子 ハ︶老 いもせず死にもせずして
ありけるものを︵有家督物子︶
一
有家 劫巴
人皆のかくまとへればうちしなへ寄りて
名娘子一はたはれてありける
三九
しかし、このように昔話の中で用いるのが始まりでは なく、︵現在︶
かくのみにありけるものを
而百杯 理 ︶
到
抹 ノ死マデハ - 抹 も 吾も千歳
︵古事記・七一
吾はいなし こめしこめききたなき国に到りてあり けり
のすこし前の︵過去︶に視点をおく用法が始まりだっ たであろう。
0
0
一四七 0 一
一四九六一
恨 めしく君はもあるかやどの梅の散り過ぐるまで 見しめ ず
のごとく頼みたりけり︵通有未 一
0
ありける一美文木受安利宗 流 ︶
四
O
アッタ 頃 八一ももしきの大宮人の
傍
︵ 来 一舟は宇梶もなくてさぶしも
︵来ホ家礼-
おほ にそ 見 ける一見 鶏流 一和来札
m
まかり出て
漕がむと 思
二 一六
0一
一四一四セ ︶
ぼ
来けれ
一四セ 六一
吾が大君天知らさむと思はねば︵大君 ヲソコ 三井か
井てデ -
へど
漕ぎ ける
一
部デ
などがよくあげられるが、ほかにも例は見られる。
0
︶ の
けり︵ 持去家有 ︶
現在完
表現もある。
T 一八五五︶
二二八一五一
あし ひきの八つ峰の椿つらつら に見とも飽かめや植ゑてけ
画四八一一
いうのではなく、話の内容
人 ﹂ が ﹁白玉﹂を持ち去ることを
心 に入れた﹁妹が上の事﹂は
、単なる聴覚作用を
今も存在する。﹁持ち去ぬ﹂は、﹁
を 聞き取って心に入れることをいう。
右の例の﹁聞く﹂は
る 一宇恵弓家流 -者
|
0
0 白玉の緒絶えはまこと 状 れどもその緒また貫き人持ち去に
の事を
新治の今作る道さやかにも聞きてけるかも一間鴨一抹 が上
表現には他動詞の︵動作動詞︶に 28
第三 は、 ︵現在完了︶の用法から転じたと思われるものである。 る。
了
次の︵持続動詞︶に付く用法にも、同様の視点の移動 がみ とめられ
一
住家類一人そ
先に は自動詞の︵変化動詞︶に よ る例のみをあげたが、︵
ときはなす石屋は今もありけれど住みける
る 。﹁ありけり﹂に応じて生じた用法であろう。
0
二三0 八 -
、︵反復継続動詞︶に付く用法である。これも同様に視 占
一四一一五エ
ハ︶
古に君の三代経て仕へけり一仕末利一吾が大主は セ代申さ
常掘 かりけ る
0
ね
第二は
︵ 一セ 三九︶
ハ︶夜中にも身 はたな 知
一八七一こ
れ 振りけらし︵ 布利 家良之 一
う ものである。
万代に語り継げとしこの岳にひ
を ︵過去︶のある時点に移してい
0
金門にし人の来立てば一株 名娘子
松浦佐用姫
0
らず出でて そ 逢ひける一 和来 ︶
ム﹁も存在する。
のかもしれな
君 ﹂ が植えた﹁椿 ﹂
指す。人が持ち去って﹁白玉﹂のないままの状態は
﹁植う﹂は﹁ 君 ﹂が﹁ 椿 ﹂を植えることを指す。﹁
はム﹁も存在する。︵持続 態 ︶にあることをいう表現な
と 認められる
いが、右の諸例は出来事の表現と解されている。当の動きのが完了
したことがなにらかの影響を現在にももたらしている
動きが以前にあったことを表すのが︵現在完了︶の用法だとすれば、
一四三エハ0 一
波ノ宮ノ 経営 ヲ一 始め
一一︶
一九0 七一
右の類の表現も当然それに属する。次のように、とて も 古 い時から
あったことをいう例もある。
べし神代 ゆ定めけらしも︵定家見思 母 ︶
神の御代よりよろしなへこの橋を時じく
@
木の実と名付けけらしも一名付家良之画一︵四一
ここ見れば ぅ べし神代 ゆ
けらしも︵破目木家良忠母 ︶
る
︵一七四 0 ︶
︵
死祁流一水の江の浦 の鼻子
ければ三口家礼準一⋮ゆなゆな は自さ
我 妹子に上ロ りて
この類の表現が次のような︵過去︶のことをいう表現 0発生に関連
をもったのであろう。
と言ひ
世の中のおろか八丁 浦ノ 鼻子︶の
語らく⋮⋮
家所見ゆ
へ絶えてのち遂に念死にけ
が
千沼 壮士 菟原壮士の伏せ 屋焼きすすし競ひ
和ょ ば
ひしける︵為末 類 一時には⋮・・・ 干沼壮士その夜夢に貝取
の小犬
祁礼装 一
︵一八 0 九︶
一四二一一一
妻ど ひしける 一石家向巴
刀取りはきところづらとめ行きければ︵妻夫
たまきはる命も捨てて争ひに
処女らが節の間も惜しき命を露霜の過ぎまし
麻之ホ 家礼 一過
この﹁ @けり﹂使用の意図ははかりがたいが、物語り の節目となる
登場人物の行動に用いてある。その節目々々の行動を 、現在に到る
長い時をたぐりつつ、あらたまった調子で、事のあっ たことを確か
二四二四一
吾そ 野をなっかしめ 一夜寝に
なものとして述べるものだったのではなかろうか。 自 分の昔の行動
を 述べた赤人の歌もある。
0 春の野にすみれ摘みにと来し
ける一宿二束一
ろう が、この
︵現在完了︶の用法では、観念の中にしろ、まだしも 事の結果が
今につながるという時の流れの捉えようがあったであ
︵過去︶の用法では、事のあった時と今とをつなぐも のは、ただそ
のまま流れてきた時の存在の意識のみである。
ともあれ、この第三の用法の成立によって特定の個の 動きについ
四一
ていうことも可能となり、事や様のあり続いた以降の時の流れ @@
.
つ@
いては不問のままの第一・第二の用法と共に、﹁ ¥け り﹂も ひ ら く
そこには、古
︵過去︶を表す形式として確立したのである。しかし、
て競
来の ﹁¥き﹂と共に 、似た事情によって︵過去︶の用 法をもつ こ
@@
下@
圭
ったと思われる﹁ @り ・@たり﹂との共存の時代があ
¥けり﹂の本義である︵ 現在 ︶の用
合 にやぶれてすたれる運命が待っていたのである。
﹁十一﹂
︵過去︶の用法がふえても、﹁
ⅠⅡ
,@
エ
口
法 が直ちにすたれたわけではない。物語りの中でも、 こと @@@
@
@
円@
一@
一一一口
小話の部分にはその例は豊富である。話し言葉として消滅 した後に
おいても、詩歌・韻文では、それは欠くことのできな い表 現形式の
つに、
次の類のあることを付け加え
る。
ロ
九一項に記すべきであったが、﹁一 けり﹂の︵ 現在 ︶を表
一つとして長くもちいられてきたのである。
なお、
す 用法の主要な一
一
土佐日記・十二月一
一十三日︶
国人の心の常として今はとて見えざなるを 、 心ある者
は恥ぢずになむ来 ける。
これは特定の出来事に基づいた記述ではあるが、一般 白
月:
り
こ
@
,いう物言
いであり、﹁ @束﹂は︵一般用法︶である。そして、 それ は︵反復
継続動詞︶の用法ではなく、︵状態動詞︶の用法である
0
0
四二
散りける
霞 たち木の芽もはるの 雪 降れば 花 なき里も花 ぞ
︵古今集・奉上・九一
¥けり﹂は、いま 気付いたり確
︵古今集・奉上・三里
やど 近く梅の花ぅゑじあぢきなく待っ人の香にあ やまたれ
なども同じ用法である。これらの﹁
訳語を示すな
一
現代語では、単に﹁一束 タ ﹂﹁ @ 散ッ
記 したりした事として、その事がずっと以前から定ま って今に到 つ
ていると述べる表現である。
タ ﹂と舌口ってはこの種の表現とは解されにくいから、
つO一
ら、自由にそれを表しうる名詞述語文を用いて、﹁ @ 来 ルモノ ダッ
タ ﹂﹁|散 ルモノ ダッタ ﹂などと言うのが適当であろ・
二 一一五一一
こ
秋萩の咲きたる野辺はさ雄鹿 そ露を分けつつ事間 ひしける
万葉集に、その萌芽と見られる例はある。
0
一四家類 -