YMN002805

キツツキとクグブシ
と呼ぶこともできるものである。
︵Ⅲぺージ︶
ぶにふきわしく、またその経歴の記録とい含意味で、﹁語誌﹂
ることであり、その意味では、むしろこれは﹁語史﹂研 % と呼
廣濱 文雄
﹁奈良県と三重県の境界地帯 の方言地図﹂
はじめに
似たこと
と、この 二語の関係について規定しています。
いま見る語辞研究は、その通り、文献をたどりながら、 一報
拍一%
旧
の形式、意味を記録しています。しかし、その資料は
、辞書 であり、
一等資料である場合はきわめて稀でしょう。となると、
安易に語の
.
位相 は 一様であると@
ょ一
言えすさらには、手にする 資料 がいわゆる
文学作品であったり、記録である場合もあります。それるの語彙の
遡 って︵し
、一ノ
て、その詰の歴史を推定するのです。すなむち、地図 の ﹁解釈﹂を
一枚の地図の上に書き込みます。そして、その分布を手
、同じ時、同じ条件の人のことばを、
一方、﹁言語地理学﹂でほ
すまい。
ある語が、かつての時代に行われていた際の形式と竜 味 との
関係を、たとえ痕跡的にせよ、明らかにし得るかぎり
して更に、それを出発点として、以後その君が、形式及び
主 たる 目
的とするものである。それは、すなむち語の歴史を明らかにす
消滅するに至ったか︶という経歴を跡づけることを、
用法の面でどのように変化して現在に至っているか︵ あるいは
意味、
甘味・用法を記録するについて、その時期を決めるわけにはいきま
租旧か発
り
坂 倉篤 義民 は、コ国
ここ数年、﹁語誌﹂研究が、その成果をあげています。
ばに、﹁語史﹂があります。この二つについて、
語学大辞典﹂に 、
われわれが意図する語源研究というものは、︵中略︶
ら
たがって、それに は当然限界がある︶、その由来をたず ね、 そ
生の起源までをも問題にしょうとするものではない。
か
、
/一一
万言榊査を、いまはやりの考古学上の発掘調査にたと
ます。しかし、これとかれは根本的に違います。かれは、過去の迫
するのです。しかし、これはあくまでも相対的な新古を即足 するこ
東西約三十
物を掘り起こすことであり、これは、いまもなお、毎 日の生活の中
とでしかあり得 ません。しかし、ここ南北約四十キロ、
キロの調査地域の中に、約一千年間の変遷のあとを見ることができ
に見られなくなってしまっても、そんなこととは無縁で、言いつぎ
で生きて使われていることばを見るのですり中央の文献ではめった
八 クスリュビ V ︵第4図︶には、最古の形 八 ナナ シノュ ビV から
教えつがれ、毎日の生活の中で使われつづけてきているのです。ま
ると言っては、言い過ぎでしょうか。
八 ベニサ シユビ V、そして最新のハクスリ ユビV が 見,
左ます。前田
ぎれもない現実なのです。
性格の違いという視点で考えられないものでしょうか。
文化語と生活語と呼ばれるものがあるなら、その名にふさわしい
富 頑民の鞍上口︵﹁文芸研究Ⅰ 托 昭和四二・ ゼ ︶による、 八 クスシ ユ
ピV の形が見えないだけです。時代の深きとでもいうよう なものを
感じます。
さて、前稿につづいて、私どもの調査の結果から、八キ ツツキV
とハクルブシ V の二語を採りあげて、文献による語誌面究の成果に
よく使われる格言めいたものに、
分布があるということは、語がひろがってゆくときに は、地
6目を向けつつ、考え及ぶところを申し述べます。何 叱正いただけ
0地点の結果と、文献による語史の結果とをつきあわせて鞍上ロ
し
佐藤稔氏が、おもに通信調査で得た東北・関東・中部 ・近畿の八
キツツキ︵啄木鳥︶︵第 5 図︶
れば幸いに存じます。
空から
面 をはうよ う にしてゆくものだということを意味する。
降ったものではない。
空 から降ると
ど時勢になってしまっているようで、その意味
ということばがあります。尚ム﹁は 、 地をはうよりも、
いう方がふさわしい
でも方言調査が急がれるわけです。それも、ただ、古いことばが 失
私 たちは、 こ
われてしまうということもさることながら、咄をはうよ う にして 広
がっていった、そのことばの足跡をたどることから、
とばの木質を知る為の多くの手がかりを知ることができ るからなの
です。
います。︵﹁啄木鳥﹂の方言と語史﹂﹁国語研究ヒ穏 昭和四九
五
八キツツキVは、﹁日本言語地図Ⅰの項目にもなく、せ っかく巨
一︶
て
きな変化の中で消きれてしまっている小さな動きを見 ようとするも
視的な考察がなされたのをぅ けて、この地域での動きを報告し 、大
合類節用集︵一六八 0︶キ ツツキ
応永本字鏡集︵一四一セ︶ケラ ッツキ
本草和名︵九二三︶テラ
@
Ⅰ
Ⅰ
@
。
しかし、この地域では、ハケラV系の語形がまったく見 られまぜ
るように思えます。
す。この動きは、広戸 ・佐藤両氏の調査の結果にそのまま適用でき
ラッツギV |ハキツツキ Vが中央での変遷であると、 一征 みられま
ということになっています。この限りでは、ハ テラッ
ッツギ
のです。
、文字を
まず、孤例八 タクボクテョウV ︵三重県飯高町谷野︶は
せ
回読した形であろうと
思 います。
つぎに目につくのが、同じ飯高町の五地点のハト チハカリV で
す。これは、橡の実をチ ではかる乾いた昔と、ホを つつく昔の似て
いることからの命名のようです。ここ飯高町には、栃Ⅲ、栃谷 とい
ラ地名もあります。この栃 という木は、日本霊異記にも見えるほど
テラッコソ ・キコツキ榛原町
で、日本中に、古くからどこにもあったものです。栃木県もありさ
五五県言語地図ヒ︶には、広島県山県郡加計町と島根泉美濃郡匹見
テラッコ菟田野町
テラッコソツキ・テラコツキ名張市
町 にあります。また、長野県下伊那郡︵﹁方言辞典﹂︶、六不良県の
テラッコ,テラッコソ 東吉野村
テラッコツ室生村
十津川村︵﹁日本国語大辞典﹂︶にあることも報告き れています。
テラコソキ ・ギコツキ曽爾村
した。ところで、このハトテ ハカリV は、風戸氏盆糖上口︵﹁中岡
地
たんなる、ある地域で突発的に作られたにしては、あまりにも偶然
テラッコソツキ ・テラッコ・テラコツキ御杖村
二重県側の名張市では、ハ テラッコソツキV とハ テラコッキVが
が分布しています。
奈良県側では、 ハ テラッコソVが奥で、その手前にハ アラッコV
テラッコソ ・トチ ハカリ・キコツキ飯高町
すぎます。この地点を結ぶ線が知りたいものです。
さて、第5図の中央下部は、空白部が広いことでもわかるように、
山地です。そのすそ野部分の分布に注目してみましょ,
佐藤氏の報告によりますと、文献初出の順は、
新撰字鏡︵約九 00年︶テラ ッツキ
山ハ
-,
八四
ッキ V に代 る 八コ ソキ V
が出て来たと思いたいのです。したがって、御杖村 や美杉村、飯高
に、ハ テラ V に伐 る 八キ V が生まれ、ハッ
行政区域では奈良県になっていますが、第ェ・2図 か ら予想でき
叩 にある 八 キツ ツ キ V は、中央語の浸透によるもので はなく、 都邨
接しています。
る よ う に、生活 国 としては名張の中にある曽爾村・御杖付 そして 三
村、上町市の同形の ハ キ ツツ キ V とは性格が違 う、す なわち万言 ロと
と述べています。
新しい語形と者えられる。
躁︶︵第 6 図︶
現在関西を中心に分布するウメボシは、中央で生まれた最も
と推定しています。そして、ハウメボシV は ついて、
キビスートリノコブシーツブブシークルブシークメボシ
言語地図二の解釈として、中央での語史を
史 ﹂︵Ⅱ国語学研究﹂㌶昭和五 セ ・十二︶によりますと、﹁日本
小林隆氏の﹁文献と万言分布からみるハくるぶしV ︵躁 ︶ V の話
くるぶし︵
ハヘ
る しらみつぶし調査だからだと自負しています。
突飛な見方を出してみたのです。こんなことができる のも、いわゆ
すればこのような現象を末梢的と見捨てられがちなだけに、あえて
生まれて来た偶発的な現象とは考えられないものでし ようか 0 と 林
@リ
す な む ち、ハ テラ ッ ツギ V に 伐 るものとして、突然変 異 のように
しての ハ キ ツツ キ V と思います。
ハ テラッコ ソツキ V 八 テラッコ V から 八 テラコ
重 県の美杉村では、
ッキ V 八キ コ ソキ V という順での分布が見られます。
| テラッコ
| テラッコ ソ
飯高町では、奥から 八 テラッコ ソV ハ トチハカリ V 八 キ コ ソキ V
の順になっています。
右のような分布から、その変化を
みました。
︵︶はその語がなかったことを示す。
Ⅰ キ コ ソギ
|ツツキ
︵テラッツキ ︶ | テラッコ ソ ツキー 。 テラコ ソキ
のようにまとめて
奈良県郡祀村、上野市などに見える八キコ ソキ V は、その周辺が
ハ キツツキ V であ ることから、佐藤氏の ハ キ ツツ キV も 八キ コ ソ
キV の変化を考え たいところですが、御杖村立夫杉村、きらに蝕 @m
町を見た時に 、ま た別の考え方も成り立つよう に思えます。
八 テラ ッ ツギ V のハ テラ V にまつわる伝説の語原意識が薄れた時
たいところである。
と述べていますが、この調査の結果が、その要望にこたえるものと
きて、この地域には、
ラ メ ボシ
なってはいませんか。
島 互原村、上野市 北部、大山田
南北四キロの中に
V | ハクルミ V の啓 転の時に 、そ の変異として
グリン ポ
グリン ボ
グリンブ シグリボシグ
グリグリグリ
クリン ボシ
ク リブシクリボシゴリ
グリンド
リブシクル
見えるのは、
きません
断 ミロはで
が入り乱れて使われています。﹁日本旨口語地図二の中に
この中で、 ネを 付けた二話だけです。
せているのではないでしょうか。
八 クル ボシ V が、青山町諸本︵安定・
束の方が気にかかるところでょ9。
ぅ 。この語は 、 私たちの調査地域では、
最東端である だけに、その
八 クルミ V とハウ メポシ V の混交の結果出来た語とみ てよいでしょ
お ﹁0︶にありま す 。これは
か 、ハクルミ V とハウ ボシ V が衝突して、こんななま ぐさい姿を見
この地域の北と東の様子がわからないので、
ボ
ところで、図の東北部に注目したい。この地域、東西約十六キロ
八 アシ V 十八クルビ V の形をとったものかと思います。
あります。ハクルビ
八 アシクルビ V は、おもに青山町、そして隣接する名張市 東部に
クルミ類︵ ク ルビ・アシクルビ︶
クハ ブ シ類︵ クリボシ ,クリブ シ ・グリ ボシ ・クリブ
グリン ボシ ・クリンブ シ︶
などがあります。
うくしていますが、
ハ ウ メボシ V は、中央を東西に走っている一六五弓線の 北側を 、
ほぼ完全に埋め
村 には、ハウ メボシ V はほとんどありません。
八 クルビ V は、東吉野村と飯高町とで、あの難所高見峠 をへだて
ても使われいます。
八 クルミ V は 、 西の菟田野町と東の曽爾村,御杖村とで、栂坂 ・
鞍取 の両峠 をへだてても使われています。
八 クルビ V と ハクルミ V の面詰 は、どちらも高い山地 をへだてて
︵
第ェ 図参照︶同じ詰であることは、既に変化し終った古 い形が残
っているのだと、一往考えてよいと思われます。となると、
という変化をたどったということになりましょうか。
現在 ウメボシ に覆われてしまっている京阪神の古い層
小林氏は 、
六エⅠ
八 クル ボシ V から 八 クル ブシ V 八ク リボシ V 八 クリブ シV などの
模索があり、どのような力が働いてか ハクル ブシ V が、いまでは 標
@託旧地図からの 朋之とは少々 避 った結果にな
準的な地位を得るようになったものと思います。
となると、小林氏の
ってしまいます。
私たちの・調査では、たった一地点か らしか出て来なかった 八 クル
ボシ V ではありますが、なにか大きな意味をもっているように思え
てなりません。
それだけではなく、小村氏が、ハウメボシ V は庶民需、口頭言語
・井 規範 詰 であって、それに対置するものとして 八 クル ブシ V をと
巨視的観点と微視的観点との
らえている考え方は、少なくともこの分布図を見る限りは出て来な
いように思えてなりません。たとえ、
違いはあったとしても。
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奈良県と三重県の 境界地帯方言地図
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奈良県と三重県の 境界地帯方言地図
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奈良県と三重県の 境界地帯方言地図
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