Page 1 21 《非意図性》としての《ファクトウーラ》 [要 旨] ムカジョフスキー

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(
非意図性) としての (フアク トゥ-ラ)
大
〔
要
平
陽
一
旨〕 ムカジョフスキーの提唱した (
非意図性)なる概念は,美学一般にとって有
効であるばか りでな く,「フアク トウ-ラ」 というキー ・コンセプ トを手がか りに様々
に論 じられてきたロシア ・アヴァンギャル ド芸術の歴史の解釈にあたってきわめて有効
だと思われる。従来,幾何学的抽象からマチエールの重視へ,マチエールの重視から現
実描写へ と1
8
0度転換 したかに思えるアヴァンギャル ドの変容は,単なる非対象性か ら
対象性への回帰あるいは退歩 として事足れ りとされていたが,一見 したところ非連続的
とさえ見える芸術観の変化の背景にも,作品に非意図的なものを導入 しようという一貫
した志向を見出すことができるのである。
【
キーワー ド〕 ロシア ・アヴァンギャル ド,非意図性,剰余,フアク トウ-ラ,フアク
トグラフイ
L
l
1
1.は じ め に
本 稿 の 目指 す所 は,チ ェ コの美 学 者,ヤ ン ・ム カ ジ ョフス キ ー の (意 図性/非 意 図性 )
z
a
m占
nos
r
t/ne
z
a
m6
nos
r
tとい う概念が美学,記号論一般 に とってアクチュア リテ ィを失 って
いないばか りか,美術史の具体的な問題 を考 える上で も,今 なお有効 な操作概念 であることを
示す点 にある。その具体 的な問題 とは, ロシア ・アヴ ァンギャル ドの芸術論 における重要 な概
念 (フアク トゥ- ラ)をめ ぐる議論 の見直 しであ り,構成主義 ・生産主義 における (フアク ト
ウ-ラ)か ら (フアク トグラフ イ)へ の移行 を どの ように位置づけるかである。 ともすれば,
単 なる非対象性か ら対象性への回帰 あるいは退歩 と片づ け られかねない後者の問題 を,ムカジ
ョフスキーの (非意図性 )を援用す ることで再検討す ることが, ここでは試み られる。
2.芸術 にお け る 「剰 余 」
そ う した再検討 を行 うためには, まず ロシア ・アヴァンギ ャル ドの芸術論 における重要 な概
念 (フアク トゥ- ラ)とムカジ ョフスキーの (非意図性 )をやや迂遠な手順 を踏 んで関連づ け
る必要がある。
アメ リカの映画研究者 ステ イ-ヴン ・ヒースによれば,映画作 品は一つの体系一体-
意味的統
と見倣せ るが, しか し,その体系は分析者 によって構築 された ものであ り,何 らか捨
象の結果である。切 り捨 てが行 われた以上,体系内に破損 の痕跡 を残 さざるをえない と, ヒー
スはい う。映画 はシステムである と同時 に,構造か ら追放 された ものの痕跡が刻 印 されている
素材,意味的統一 に抵抗す る素材 で もある。 テ クス ト内部 にある統合 し組織化す る力 に抵抗す
(
1
)
るこうした側面 を, ヒースは 「
剰余」 と名づ け,それが生み出す知覚上の戯 れに注 目 した。
ヒース よりも以前 に, ロラン ・バ ル トもエ ッセイ 「
第三の意味」 において表示義 と共示義 の
彼岸 に横 たわる意味 について論 じていた。「
表示義 と共示義 の彼岸」 とは,作 者の意図せ ざる
2
2
天 理 大 学 学 報
線や色彩,表情,テクスチ ャーなどの素材が物語のいわば 「同伴者」 となる領域のことを指す
のだ とい う。バル トもまた, イメージの物質性が統一性 をもった物語の構造 を超 えると主張 し
ていたのである。第 3の意味 として,彼が見出すのはつ ぎの ような現象であった。
私 は第 3の意味-
明白であるのに不安定で,執掬 な意味 を, (
多分,まず第一 に)読
み とり,受け取 る。それの記号内容が何であるか を私 は知 らない,少な くともそれを名付
けることが出来ないが, この-
したがって不完全な-
記号 を構成する特徴や,意味作
用 を行 う付随的属性 を,はっきり見て とることがで きる :二人の廷臣たちのメイクアップ
の濃 さ,片方は厚ぼった くて しつ こいメイク, もう片方はなめらかで上品なメイクをして
いる。前者の 「間の抜 けた」鼻,後者の細 く引かれた眉,彼のウェーブ していない金髪,
生気のない蒼 ざめた顔色,蔓ではないか と疑わせ る,いかにも気障な仕方でぴった りとな
(
2
)
で付けられた髪型。石膏色のファウンデーシ ョン,白粉での仕上げ。
バル トに始 ま りヒースが受け継いだこうした議論 を踏 まえ,剰余の概念 を具体的な分析 にと
って有用な操作概念 に鋳直す ことを試みたのは, クリスティナ ・トンプソンであった。彼女 に
,
よって剰余
は 「
構造体の外側 に横 たわていて,作品の もつ統一化の力 に囲み込 まれていない
(
3
)
側面」 と再定義 されることになる。 さらに 『
映画記号論新語童集』では,三者の議論 を踏 まえ
た上で, ヒースの剰余論 について 「
(象徴界 )内部への (想像的なる もの )の顕現が はか らず
もさらけ出す, とい うか指 し示すのは,テクス トの統合する力 によって固い込 まれていないテ
クス トの側面すべ てだ」 と解説する。 さらに, ヒースが 「
等質性合する,バフチ ンな らば求心的 と呼ぶであろうカ断片化する (
バ フチ ンの 『
遠心的な』)刀(
4
)
いるのは注 目に値す る。
と異質性-
すなわちテクス ト中の統
すなわち統一 を分裂 させ,
とを区別 している」点があ らためて指摘 されて
3.意 図性 と非意 図性
次 に,ムカジ ョフスキーによって提起 された く意図性 )とい う概念が, どの ように定義 され
ているかを見てみ よう。
意図性-
すなわち,作品内部で作用 してお り,個 々の部分 ・要素の集合体 に統一的意
味 を付与 し,それ ら一つ一つに,他の全ての部分 ・要素 との間にある一定の仕方で関係づ
(
5
)
けることによって,それ らの部分 ・要素の間の対立 と緊張 を克服することを目指す力。
この引用だけか らも,(意図性 )の概念が トンプソンや 『
映画記号論新語嚢集』の定義す る
(均質性 )に近いことが了解 され よう。ムカジ ョフスキーは,(意図性 )を記号の意味面の統
一を保証する特殊 な意味エネルギー と考え,(意図性 )によって統一性 を獲得 した作 品だけが
芸術記号になるとす る。 しか し,すでに見 た通 り,美的テクス トの中には組織化 を志向する求
心的な力 に対抗する遠心力 も存在 している。つ まり,芸術作品の中には,意味 と情報の統合 を
,
作品の中で この統一に抵抗す る ものはすべ て,作品の
阻害する諸力が同時に作用 してお り 「
(
6
)
意味的統一 を乱そ うとす るものはすべ て,受容者 によって非意図的な もの として知覚 される」。
これこそが (意図性 )の対概念の (非意図性 )にはかならない。意図性 による作品の組織化 は,
当然,不協和やエ ン トロピーの否定 につながる。意味的統一が作者の創作意図の結果 として知
(非意図性)としての (フアク トウ-ラ)
2
3
覚 される一方,統一体か らはみ出る不安定な要素は,非意図的で偶発的な もの,情報の流れの
(
7
)
中の ノイズ として受容 されることになる。
ムカジ ョフスキーによれば,作品中の何が (非意図的なる もの )であるかの最終的な決定権
は,受容者にあるとい う。なぜ な ら,非意図性 の知覚が可能 になるのは,美的テクス トの内的
体系性 を認知 しようとする受容者側の積極的な努力が前提 になるのだか ら。 とすれば,(意図
性/非意図性 )の知覚は作者の企図 とは無関係 とい うことになる。実際,受容者の側が,作者
の当初の意図 とは異 なる方向に作品中の意図性 を変化 させて しまった事例 を,芸術史か ら引用
することはさして難 しくはない。逆 に,故意 に未完のまま放置 された彫刻の ように,意識的に
作品中に持 ち込 まれる非意図性 もあ りうる。 しか し,た とえ作者の意図で持ち込 まれた非意図
性であろうとも,自然発生的な非意図性 と同様,意味的統一の侵犯 として観者 に作用すること
(
8
)
に変わ りはない。
ここでムカジ ョ7スキーのい う非意図的な要素が,芸術作品の素材的側面 にのみ見出 される
わけではないことは,断 ってお く必要があるだろう。 しか し,素材 的側面 に非意図性が多 く顕
現することも,また否定 Lが たい事実である。 したがって,(フアク トウ-ラ)の概念 を再検
討するにあたって,(非意図性 )を採用す ることに問題がある とは思 えない。他方, ヒース,
トンプソンの剰余論の対象 は映画 に限 られているが,バル トは,剰余 と見倣 しうる現象 を声楽
や文学 テクス トの中に も見出 していた。た とえば,バル トは声楽 における 「
声の粒」 について
論 じたが, ロシア未来主義の詩人クルチ ョ-ヌ イフも1
9
2
3
年 に執筆 された 「
言葉のフアク トウ
(
9
)
-ラ」で,朗読の フアク トウ-ラに言及 している。 しか も 「
第三の意味」での議論 は,個 々
,
のス タテ ィックなワンシ ョッ ト (フォ トグラム)に関する ものであ り,写真の問題 に直結 して
いる。「
第三の意味」以前 に書かれた写真論で も,バ ル トは記録写真 にさえ第 3の意味 を指摘
し,写真 の作用が,記録 された対象,切 り取 られた現実 についての単なる情報伝達 を超 えてい
ることが示唆 されている。 よ り素材 的側面が前景化す る絵画の場合 にも同様 の現象 を指摘する
(
]
0
)
ことは, さらに容易であろう。
4.ファク トウーラ
さてここで,遅ればせ なが らではあるが,(フアク トウ-ラ)の概念 について紹介 しよう。
,「(織物 な どの)織 り具合, (岩石 な どの)手 ざわ
ロシア語 におけるこの語 の本来 の意味 は
り」 とい うもの。周知の通 り,絵画の複製 ・再現的性格を否定 したキュビスムの登場 とともに,
絵画 においてテクスチ ャーに注 目が集 まるようになったが, ロシアにおいて も,キュビス トた
ちの創作活動 を追いかけるように始 まった理論化の過程で芸術作 品の質料的側面, とりわけ触
覚的な側面 をさす用語 としてフアク トゥ-ラの概念はまず生 まれた。た とえば,美術史家ニコ
ライ ・ブーニ ンは,構成主義者 タ トリンについての論文の中でキュビスムとフアク トウ-ラと
を次の ように関連づけている。
形態 は動 くが,その動 きは絵画平面上にとどまる。キュビスムは絵画表面か ら動 きを引
き剥がす ことを望み もしない し,で きもしない。が,その一方で,この平面は,相異 なる
フアク トウ-ラの斑点や相異 なる素材 を貼 り付 けられた り重ね合わせ られた りして,断末
魔 に痘撃す るかのごとく,折れて膨れ上が り,崩壊寸前である。 この上 な く豊かなフアク
トウ-ラが発達 し, フアク トウーラが色彩の質 を変化 させ ることで この新 しい,平面的で
はあるが連続的空間 としての形態の内容 となってい く。古色蒼然たるマチエール との戦い
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天 理 大 学 学 報
の中, 自らに課 した中心課題 を解決する際キュ ビスムが依拠すべ き関係が生 まれる。 この
流派の形態の探求は,平面上 における連続的 コンポジションに対するフアク トゥ-ラの諸
1
1
い
関係の範囲内でのみ行われる。
「キュ ビスムに対抗 して」 とい う副題か らも明 らかなように,1
9
2
1
年 に書かれたこの論文で
は,キュビスム以後の構成主義が視野に収め られた上で,キュビス トの作品においてフアク ト
ウ-ラが果た している役割の大 きさが強調 されている。
ロシア美術史において77ク トゥ-ラを初めて絵画論の主題 としたのは, ダヴイッ ド ・ブル
(
]
2
)
リュ-クとラリオーノフであ り,1
9
1
2
年頃の ことだ とされる。ブル リュ-クの 「
表面の性質」,
(
1
3
)
ラリオ-ノフの 「
彩色表面の状態」 とい う定義か らは,初期段階でのフアク トウ-ラがおお よ
そ 「テクスチャー」 を指 していたことが窺 える。その後, さらに考察 を深めたマルコフによっ
て,相異 なるテクスチャーの組み合せがフアク トウーラをめ ぐる問題の範囲に入 って くる。彼
によれば,
,
1
4
)
マチエール を着色 し加工す る ことで,マチエールに固有 のあ らゆる フ ォーム 「ノイ
(
ズ」がえられるが,それ こそがわれわれが フアク トウーラと呼んでいるものである。
ここに言 うノイズ とは,組み合わされたテクスチ ャー (
ひいては組み合わ された相異 なる素
材) に由来する不協和 にはかな らない。 しか し, まさに不協和の もたらす異化作用 によって,
鑑賞者の眼 は作品の素材的側面へ と向け られ,非意図的なる ものの発見が促 される。 ここで
」
「
相異 なるフアク トウ-ラ 「
相異 なる素材」 とい うブーニ ンの言い回 しを思い起 こせば,両
者がモ ンタージュ的な効果 に対する問題意識 を共有 しなが らも,フアク トウ-ラとい う用語 に
マルコフの方が広 い意味 を付与 していることに気づ く。
マルコフの言 う 「ノイズ」が必ず しも否定的なもの と見倣 されていなことは,あ らためて指
摘するまで もないだろう。ムカジ ョフスキー もまた,作品中に対立する要素が共存 しているこ
とが美的作用 を損 なうとは考 えてはいなかった。む しろ緊張や意外性 を排除すること,すべて
の要素 を均 して しまうことの方が,作品の美的効果 を弱める とされる。(非意図性 )が惹 き起
こす不快感で さえ 「
作品が受容者 に生 き生 きと働 きかけていたことの(
1
5
)
い うより直接的な何か として知覚 されていた証 とな りうる」のである0
作品が単 なる記号 と
,「キュビスムか らセ ンター ・レリーフにいたる道程 で フアク トゥ-ラが
大石雅彦 によれば
果 た した役割は,マチエールを絵画的秩序 (
遠近法 には じま り展示の枠 まで も含む)か ら解放
(
1
6
)
す ること」 にあった とい う。線遠近法 を否定 したキュビスム とともにフアク トゥ-ラ (
お よび
その概念)が前景化 して きた史実 にもそれは窺 える。そのためか,ロシア ・アヴァンギャル ド
の絵画論 においては,言説 (
物語)性や再現 (
複製)的性格の否定 と線遠近法の否定 とが同一
視 され,線遠近法の否定 とフアク トゥ-ラ-の注 目とが手 を携 えて登場する傾向が認め られる
。
た とえば,アレクサ ン ドル ・シェフチェンコの論文 「ネオプ リミチヴイズム- その理論,可
(
1
7
)
能性,成果」(
1
9
1
3
年) ち 「自己のす ぐれた作品に77ク トウーラを要求す る」 と述べ る一方
(
1
8
)
で 「
科学的遠近法 を我 々は破壊 し,そのかわ りに新 しく自由な,非科学的遠近法 を用 いる」
と宣言 した。
,
,
(非意図性 )としての (フアク トウ-ラ)
2
5
5.線遠近法の逆説
一般 に,線遠近法 は再現的 リアリズム,究極 の複製 を目指す リア リズムの原理 と見徹 されて
0世紀初頭 にあっては,確立 され,完結 した制度以外 の何 もので もなかった。
きた。それは,2
段
しか し, ノーマ ン ・プライス ンの卓見が示す通 り,少 な くとも制度 として確立す る以前 の
(
1
9
)階
の線遠近法 は,作品の物語 ・言説あるいは意味 と無関係 な要素 を導入す る原理で もあった。た
とえば,透視図法 についての理論書 を著 している ピェ ロ ・デ ッラ ・フラ ンチ ェス カの 《苔打 た
れ るキ リス ト≫ は,その効果 を線 遠近法 に負 ってい るが,言説上 (
主題 の面 で)非関与 的 な
再現的」 リア リ
(
つ ま りは非意図的な)部分が,画面のお よそ 9割 を占めている。いわゆる 「
ズムに して も,イメージが究極 の複製 に近いためではな く,絵画作 品によって伝達 される物語
にとって関与的な言説的要素 と非 関与的な形象的要素 との微妙 なバ ランス によって もた らされ
(
2
0
)
る効果である とい う。 イメージは,言説性 によって汲み尽 くされて しまうや否や,急速 に白々
しく感 じられ,説得力 を失 って しまうことは,我 々が しば しば経験す るところではないか。
線遠近法の遵守が,必ず しも作品 において (意図性 )の全面的支配 を意味す るわけではない
ことは,ム カジ ョフスキーが論文 「
芸術 にお ける意図性 と非意図性」で言及 しているマ ンテ一
二ヤをめ ぐる議論 に も明 らかである。《死せ るキ リス ト) は,量感 を出す ために線遠近法 を利
用す る短縮法の代表的作例 として知 られるが,その作者マ ンテ一二 ヤは,当然 なが ら線遠近法
の熱烈 な支持者であった。 にもかかわ らず,彼 の作 品は,同時代 の人 々か らも後代 の美術 史家
,
彫刻 を一
一一絵 の中に存在 して もいなけれ ば,描 かれて さえい ない素材 であ る鉄 や青
か らも 「
銅 などを思い起 こさせ」, リアルで はない と批判 されて きた。ム カジ ョフスキーは,この美術
史上の事実 について次の ように解釈 してみせ る。
(
図 1)マンテ一二ヤ 《
死せるキリス ト≫
2
6
天 理 大 学 学 報
ここでは絵画がその記号作用 の限界 を超 え,記号ではない何 ものかになろうとしている
ことが,歴然 として明 らかである。絵 の個 々の部分が作品の意味領域 と無関係 な現実の事
実 を想起 させ,そのことによって絵 は一種独特の透明な物質性 とい う性質 を帯 びる。つ ま
り,意図性は作品の内部 に意図の枠 を超 えてゆ く何か を感 じることを,絵 を記号 として知
覚するの と同時にモノとして知覚することを,そ して,作品を前 に して,(美的な)(とい
うことは記号 と結 びついた)感覚 と同時 に非記号的な現実 との接触 に由来する無媒介の感
は
1
)
覚 を覚えることを妨げは しないのだ。
つ まり,芸術作 品は記号であると同時に (オブジェ-モノ)として も知覚 されているのであ
り,後者の知覚は作品中の非意図的な要素 によって もた らされるのだ とい う。ここで,問題 に
なっているのが,画面の質感,すなわちフアク トウ-ラであることを確認 してお きたい。
6.タ トリンにお け る非意 図性
再び大石の著作か ら引用 しよう。
いわゆるイーゼル画においてマチエールへの注 目か ら生 じたフアク トゥ-ラは,マチエ
ールがイーゼルを超 えた瞬間,イーゼルの枠 を脱けでた。ロシアでイーゼル絵画の否定 を
行 ったのはタ トリンであ り,1
91
4年頃か ら制作 しは じめる絵画 レリーフ,反 レリーフは,
造形表現が静的な平面 ・結果か ら動的な立体 ・過程 に移 りつつあったことを示 している。
日常 の文脈か ら外れてタ トリンの作品 に導入 されたさまざまなマチエールガラス,ボール紙, タール-
木材,金属,
は 「
物質 としての作品」の誕生
を告げてお り,それに伴 っ
(
22)
てフアク トゥ-ラも事物 と事物の関係 に変わった。
板 に金属片が釘で打 ち付 けられた ≪絵画 レリーフ≫か ら,観者の側へ と突 き出た 3次元的な
マチエールが組みあわ された ≪反 レ.
)- フ≫へ の移行, しか も反 レリー フの中に 《素材 の選
択》 と題 された作品が存在する事実が,相異 なる素材同士が生み出す ノイズ としてのフアク ト
ウ-ラの前景化 してゆ くプロセスを雄弁 に物語っている.キュビスム的フアク トゥ-ラか ら初
9
21
年の時点で,次の よ
期構成主義的 フアク トゥ-ラへのこうした移行 について,ブーニ ンは1
うに書いていた。
しか し,キュビス トたちによる絵画空間の豊富化 は,先達たちの同様 の努力 よりも不透
明 というわけではない。彼 らの積極的な活動 は非常な困難 と戦 ったが,それ も空 しかった。
どうあがいて も奥行 きも時間の連続性 も手 に入れることので きない平面性が, 自らの破壊
のために傾注 されて きたすべての努力 を挫折せ しめた。画布の彼岸 に, ヨーロッパの芸術
のあ らゆる伝統の彼岸の方 に出口を求める必要があった。 この出口を画家たちは見つけ出
したが,それほ とりもなお きず彼 らが,現実の空間的関係 の中にヴォリュームを研究する
に足 る力 を十分備 えている画家であった とい うことにはかならない。 まさにこの原理の上
(
2
3)
に, タ トリンの最初の反 レリーフは成立 した。
しか し,作品 と作 品外 の現実 とが取結ぶ関係 は, タ トリンが反 レリー フに次 いで構想 した
《コーナ一反 レリーフ≫ にいたって一変する。部屋の隅に展示 される 3次元のオブジェは,真
27
(非意図性)としての (フアク トウ-ラ)
(
図 2)タトリン 《コーナ- ・カウンターレリーフ≫1
91
5
年
の現実的現実 としての非意図的なる ものを作品中に導入することか ら,作品を現実の中へ と侵
入 させるとい う転回が起 こったことを示す。展示のための壁面 を離れ,現実空間に侵入 して き
た作品を,観者は現実のモノとして知覚 しないではいられない。そこに生 まれる新たな リアル
さもまた,非意図性 に由来すると見倣せ る。そ うなのだ。素材のテクスチ ャー としての フアク
トゥ-ラか ら,オブジェとオブジェの関係 としてのフアク トウ-ラへ とい う ドラステ ィックな
変化 も,ムカジ ョフスキーの提唱 した非意図性 という概念 を介在 させ ることで,その筋道が見
えやす くな りは しないか。
7. リシツキー にお ける非意 図性
同 じ構成主義者 に数えられなが ら, リシソキーの場合,テ クスチ ャーとしてのフアク トウラへの関心 はあま り感 じられない。なめ らか な色面 と,それ らを正確 に組み合わせたコンポジ
シ ョンに,ノイズやエ ン トロピーは無縁の ように思 える。が,その一方で,≪プロウン≫ と名
付けられた彼の非対象的な作品では,3次元的形態が支配的であることが 目を惹 く。時 にそれ
は不可能空間で さえあるのだが,それならばなおのこと,平面的な形態相互の関係か ら 3次元
空間を再構成 し,形態の運動 を実感することが観者 には求め られる。プロウン作品には,
い くつかの表現方法-
形態が接 し合 う関係,強烈な対比,鋭角的な斜線-
が再三再
四用い られ,観 る者 に,彼が 目に している形態が運動 しつつあること, と同時に自分 自身
(
2
1)
も動 き始めていることを気づかせる。
彼の創作姿勢の根本 には,観者 に受身の態度 を捨 てさせ,自ら積極的に作品 と作品を取 り囲む現実空間 と-
さらには
自動化 されていない関係 を取結ぶ よう促す傾向が 目立つ。
1
)シソキーがデザインした詩集 『
声のために』 は,広 く愛諭 されたマヤ コフスキーの詩 を十
三編収めた小冊子 に過 ぎない.だが この小 さな本の-頁-頁 は, クルチ ョ-ヌ イフの言 う 「
文
彩色 のフアク トウ-ラ」「
朗読 のフアク トウ-ラ」 を究極 までつ
字の形のフアク トウ-ラ」,「
28
天 理 大 学 学 報
(
図 3)≪
空間構成 No.
1
2
》1
9
2
0
1
2
1
年
(
2
5)
きつ めた努力 の所 産 だ。 しか も,爪 かけの体裁 を用 い, ア ドレス帳 な どに多 く見 られ る ように
ページのマー ジ ンを階段状 に して詩の見出 しと してお り,朗読者 は声 に出 して読 むための詩が
す ぐ見つ けるこ とがで きる。視覚 に訴 え,朗 読へ と誘 うタイポ グラフィーだけでな く, この本
は触覚 の面で も読者 に働 きか けて くる。読者 に働 きか け,読者 の側か らの ア クテ ィヴな参与 を
促す 『
声 のために』 は, もはや一つの オブジェであ る。 この小 冊子 を構成主義者のモ ビール と,
(
26)
なかんず くロ トチ ェ ンコの 《空 間構成 No.
1
2≫ と比較す るの も当然 であ ろ う。
受容者 の側 に積極 的 な行動 を求め る傾 向が さらに明 らか になるのが, イ ンス タレー シ ョンだ。
リシツキーは1
9
2
6年 ドレスデ ンで開催 された国際美術展 において現代 美術 部 門の展示 を任 され
たが,意図 した効 果 につ いて次 の ように述べ ている。
部屋 の中で観者が動 くたびに壁 の印象が変 わる一
日だ った ものが黒 に,あ るいは逆 に
黒が 白に。 その ように して,視 覚 の ダイナ ミクスは人が歩 を進 め るこ との結果 と して生 み
出 される。 これが 人を積極的 な観者 にす る。壁の戯 れ はち らち ら光 る額縁 の向 こうに見 え
る もの に よって補完 される。表面 を覆 う穴 のあいた戸 を上下 させ る こ とで,観者 は新 しい
絵 を発見 した り, 自分 に とって興味 の ない絵 を隠 した りす る。彼 は展示 品 と肉体 的 に折 り
(
2
7)
合 いをつ ける こ とを強 い られ るのであ る。
観者 を挑発 し,積極 的 な関与 を誘導せ ん とす る試 みが, リシツキーだけで な く, ロ トチ ェ ン
コ, タ トリン,マ レー ヴイ ツチ な ど多 くの アヴ ァンギ ャルデ イス トに よって試 み られた理 由の
一つ には,同時代 の演劇 人 との共 同作業 の経験 を挙 げるこ とがで きる。 ま してや,それぞれの
分 野 における展示空 間 と劇場空 間の抜本 的 な見 直 しに,共通 の問題意識 を見 出す こ とはたやす
いだろ う。
メイエルホ リ ドに代 表 され る ように, ロシア ・アヴ ァンギ ャル ドの演劇 は,遠近法 に基づ く
書割 りに よって作 り上げ られ る架空 の空 間 を学 んだ額縁舞台 に正対 し, そ こで演 じられている
ドラマ を所 謂 「
第四の壁」 に隔 て られつつ,その壁 を通 して別世界 を窃視 す る とい う前提 を く
つが え した。 これは美術 におけ る イーゼル絵 画 の否定 とパ ラ レルな現象 と言 える。1
91
8年 に上
29
(非意図性 )としての (フアク トウ-ラ)
(
図 4)リシツキー 《アブス トラク ト陳列室≫[
1
9
9
0
年のハノーバー州立美術館のインスタレーショ
ン]
。見る角度によって白黒,ちがった色に見える壁。向かっての左手のタブローは上下にスライ ド
する壁板の上に掛けられており,観音が手前の絵を動かすと奥に別のタブローが現れる。
演 されたヴェルハ - レン作 ,メイエルホ リ ド演 出の 『
曙』の舞台装置は, タ トリンの ≪反 レリ
,
(
2
S)
ーフ≫ と酷似 してお り 「
観客 の反応 を誘 うとい う演 出家の狙 いに呼応 していた」 と許 され も
した。観客 の反応 を誘 うための工夫 は,客席 と舞台の垣根 を取 りは らい,虚構 の空間 と現実の
空間 との境界 を暖味 にす ることで もって,観客 を ドラマの世界 に巻 き込み,虚構 の空 間で演 じ
られ る虚構 の出来事 に対 し現実 に対す るかの ごと く反応す る よう仕向ける点 ににあった。 ムカ
ジ ョフスキーによれば,芸術作品の受容 には,意図的な記号 として受容す るか,あるいは非意
図的で コー ドを介在 しない直接 的な現実 として経験す るか とい う二つのプロ トタイプがある と
(
29)
い う。そ うした二様 の態度が可能であること自体 は, と りもなお きず,受容 にあたっては非意
図性がいついかなる場合 に も介在 しうることの証拠で もある。 まず彼が引用す るのは,芸術 を
もっぱ ら意図的な もの として受容す る観客である。
私 は舞台 を前 に座 っているとき,絵画の前 に している時の ようにす る。 自分が知覚 して
いる出来事が現実でないことを私 は絶 えず意識 している。客席 に座 っていることを,私は
(
3
0)
一瞬た りとも忘れは しない。
ここでは,イーゼル絵画の比嘘,客席 と舞台の隔絶の意識が語 られることが,いか に も興味
深 い。 これ と正反対 の受容態度 の例 として引かれているのは,芝居好 きの婦 人の言葉 だ。
私 は, 自分が劇場 にいることを完全 に忘れて しまう。私 自身の社会的地位が霧散 して し
(
3
1
)
まう。心の中では登場人物 の感情 しか感 じない。
3
0
天 理 大 学 学 報
ブ ックデザ インや インスタレーシ ョンにおいて受容者の積極的な参与 を促 そ うとした リシツ
キーが,額縁舞台に対 して否定的であったのは当然であろう。だが,そ うした見解が装本 を論
じる中で開陳 されているのは注 目に値する。
今現在,我 々は くオブジェ-モノ)としての本のための新 しい形状 をまだ獲得 していな
い。本は,相変わ らず,カバー,背,そ して 1,2,3と続 くページとい う姿の ままだ。
我 々は,演劇 において も似 た ような状況だった。今 日に至 るまで,我が国においては,最
新の芝居で さえ額縁舞台の劇場で上演 されて きた。観客 は,特別席,ボ ックス席,桟敷席
に分 けて収容 されるが,みな般帳の前 とい うことでは選ぶ ところはない。だが,その舞台
に書割 りは もう存在 しない。遠近法 を用 いて描 かれた舞台は絶滅 した。く- )この新 しく
(
32
)
生 まれた演劇が古色蒼然たる劇場の建物 を爆破 したのだ。
リシツキーは,海外生活が長か った為,構成主義の (まして生産主義の)本流か らは距離 を
置いていていたのではないか。 しか し,1
9
2
2
年頃 ともなる と, ソ連本国の構成主義の陣営 にお
いて強硬 な反芸術の立場か ら美術の実用的性格が強調 されるようになる。 アレクセイ ・ガンは,
構成主義初期の抽象の探求 に記録映画や写真が,空間的オブジェに 「
社会的オブジェ」が取 っ
,
て替わるべ きだ と主張 した。社会的オブジェとは
「
現実その
ものを素材 とし」,光学的手段 に
(
3
3)
よって 「
その現実 を分節,組織化することで もって得 られる」 のだと。 こう した主張 に沿 って,
ロシア ・アヴァンギ ャル ドの主要な活動分野 も,映画 ・写真 ・フォ トモ ンタージュへ と移 って
ゆ く。この重心移動 は,形式の探究者 としての く芸術家 -創造者 )か らメ ッセージを伝 える実
践家 としての く芸術家-生産者 )へのパ ラダイム ・チェンジを反映す るものにはかならない。
8.ア ヴ ァンギ ャル ド芸術 の変容
事実主義 をさらに徹底 したのは,雑誌 『レフ』 に集 うグループであった。た とえば,オシッ
(
34)
プ ・ブリークは抽象その ものに異議 を唱え,セルゲイ ・トレチ ャコフは 「
作家 による素材の解
(
3
5)
釈 に対する素材 自体の優越」 を主張 した。抽象的なコンポジシ ョンか らフアク トグラフィック
な要素 を含んだメ ッセージ性の強い フォ トモ ンタージュを制作するようになったグスタフ ・ク
,
「
純粋 な形式主義 を超 えて, よ り包括 的で,同時代 の社会的要請 にかなっ
(
3
6)
た立場 に到達 しようとす る」 トレチ ャコフの立場 に呼応す る ものであった。『レフ』の理論家
ルツイスの変化 は
,「フアク トグラフイを芸術 と生活の結合の申 し分のない例 として」,これを熱狂 的に迎
たちは
(
37
)
えた。
1
9
3
0
年 に入る と,(十月)グループの展覧会が開かれる。 ここへ はクルツ イス, リシツキー,
ロ トチェンコらも出品 したが, クルツイスのポスターが絶賛 される一方で, リシツキーは,そ
の形式主義的傾向 を批判 された。ある展覧会評 によれば,く十月)展 には二つの立場の者が区
別で きるという。片や リシソキーやロ トチェンコのようなよ り形式主義的な立場 にある者であ
り,他方, フォ トモ ンタージュが持つ フアク トグラフィックな側面 によ り多 く関わろうとする
(
38)
クルツイスのようなメンバーである。
クルツイスは写真 を事実その もの,現実の断片 とほ とん ど同一視する。逆説的なことに, こ
の時期のロシアでは,硯代的な表現手段 による再現的イメージは,実は線遠近法的な映像であ
りなが ら,特権的な地位 を占めていたらしい。 しか し, クルツイスの フォ トモ ンタージュに利
用 されているフアク トグラフイは,その主張 とは裏腹 に現実その ものか らはずいぶん遠い。彼
31
(非意図性)としての (フアクトゥ-ラ)
(
図 5)クルツイス ≪大事業計画を実現 しよう》1
9
3
0
年
のフォ トモ ンタージュは,政治的メ ッセージの伝達 とい う実用的な目的に奉仕す るためにだけ
存在 しているように しか見 えない。そのため, イメージはひたす ら言説性 を目指す。彼 の代表
作 として知 られるポスター 《大事業計画 を実現 しよう≫のため事前 に制作 された多 くの フォ ト
大衆」の イメージが一歩一歩進歩 してい く棟 が窺 えるとい うが,
モ ンタージュを比較す ると,「
つ まるところクルツイスの努力は,イメージを容易 に解読可能なメ ッセージにすることへ と向
(
39)
けられていた。
ムカジ ョフスキーによれば,芸術作品は,モ ノである以前 に (自律記号 )一
・
・
一伝達 を目的 と
し,分節可能 な個 々の部分が外部の現実に対応 している実用的な記号 とは異 な り-
各部分が
(
4
J
)
)
外界 との間に一義的な対象指示関係 を持たない記号,全体 として機能す る記号 だ とい う。伯方,
「ある事物 を実用的用途のあるモ ノ- すなわち道具- として見ている間は,それ らのモ ノ
(
4
1
)
の特性 はすべて当該のモノが奉仕す る目的 との関連で しか評価 されない」。 クル ツイスのプロ
パ ガンダ ・ポスターに説得力が感 じられないのは,あま りにも意図性が-
それ も実用的な性
格の意図的なるものが,前景化 しているためではないか。それは,ムカジ ョフスキーの指摘す
る通 り,
(意 図性 )は,必然的 に受容者 に,直接 的で 「自然 な」現実の対極 にあ る 「
人為構造
物」 とい う印象 を呼び起 こすが,他方で,生 きている作品,受容者 にとって 自動化 されて
いない作 品は,く意図性 )の印象 と並 んで (とい うよ りは,む しろその印象 と分 かち難 く,
かつ同時に)現実の直接的的印象 (というよ りは,む しろその作品が現実 に由来するかの
(
4
2
)
ごとき)印象 を喚起す るか らである。
32
天 理 大 学 学 報
クルツイスの場合, フアク トグラフを標模 しなが ら,人物像の個性 を捨象 し,一般化するこ
(
4
ユ)
とで,イメージをオブジェ ・形象か ら記号 に転化せ しめ ようとしていた。いつの間にか初期構
成主義の形象性 を志向 した抽象 とは,ベ ク トルの向 きが逆 になっていたのである。語法 につい
て も,当初は形式上の探求 を指すための用語であった ものが,後年,実用主義の立場か ら異な
って意味で用い られる例が少 な くない。テクスチ ャー としての フアク トウ-ラとい う概念か ら
始 まった,作品内外 の現実的で非意図的な要素-の着 目は,フアク トグラフイとい うまった く
別の概念 を生んだのである。
9.ロ トチェンコの芸術的遍歴
(
4
4
)
しか し,すでに述べ た通 り,写真 にさえ も 「
記号内容のない記号表現である」 ところの第 3
の意味が存在することを,バル トは指摘 した。 ロシアのフォルマ リス ト,ボ リス ・エイへ ンバ
9
27年 に発表 された映画論 の中で
ウム も1
「
『
意味 を超 えた』本質であ り, この意味で音楽の,
文学の,絵画の,身体運動 などの 『
ザ-ウミ』 と類似 している」 フォ トジェニーについて語 っ
(
45)
ていた。 この間題 を考える上で,ア レクサ ン ドル ・ロ トチェンコの芸術 的遍歴 もまた示唆する
ところが多い。
ロ トチェンコは,キュビスムの影響が顕著 な習作期 を経て,連作 ≪コンポジション≫でデビ
ューす る。それは純粋 な非対象絵画だが,画面の質感が もたらす効果が何 より目を惹 く。初期
9
20年か ら21
のロ トチェンコは,フアク トウ-ラに敏感 な画家であった らしい。その後,特 に1
年 にかけて集中的に ≪空間構成》 を制作する。その一つ とリシツキーの造本 との類似 について
の見解 は,先 に紹介 した。
91
9年か ら21
年 にかけて多 くの ≪線 による構成≫ も描かれた。そ
《空間構成≫ と並行 して,1
れは,理論面 におけるイーゼル絵画の否定 を反映する作風 と見徹せる。1
9
2
0年の1
2月に発表 さ
れた 「国立芸術大学 における絵画研究のためのワークショップ組織 にあたっての綱領」 の中で
(
4
6
)
は, まだ分析すべ き絵画の要素 として色彩,形態,構成,フアク トウーラが挙 げられていたが,
それだけで創造 と構成が可能 な唯一の要素 と し
翌年書かれたパ ンフレッ ト 「
線」 となる と,「
て,線 にいちばんの重要性 を付与することで もって,色彩,フアク トウ-ラ,様式の美学的価
(
4
7
)
値 は否定 されて しまった」 と断 じ,線 によって可能な構成以外,すべての絵画の要素 を画布か
ら追放 しようと訴 えた。 しか し,同 じパ ンフレッ トの 4パ ラグラフほど後 には,
二次元平面 において作品を構成することは,現実の条件 において初めて構成 され うる何
ものかの投影 に過 ぎない。 (- )構成の(
48)
すなわち,現実のモノの組織の真価 は,物資
的素材 によってのみ実現可能だ。
とある。 この一節 にはマチエールの組みあわせ としたの フアク トウ-ラが まだ命脈 を保 ってい
る様 が窺 えは しないか。
9
21
年が ロ トチェンコの画期であった とい う。仲間 と (5× 5-25)展 を組
専門家たちは,1
織 し,幾何学的図形 を配 したグラフツクスや,抽象の極致 にまで行 き着いた ようなタブローを
出品 した。 この展覧会の後,初めての理論的著作 となった 「
線」 を書 く一方で,彼の関心 は現
実のオブジェの構成 に向か う。
描 く行為の生産物-
すなわちイーゼルに据 えられた画布 とい う絵画の概念 に,空間中
(非意図性)としての (フアタトゥーラ)
33
に何 かを構成するとい う実践が とって替わる。今 まった く新 しい形態が生産のプロセスか
(
49)
ら立 ち現れつつある。
同 じ頃,ロ トチェンコは次第に写真-の関心 を探めて もいた。初めてコラージュに写真 を用
(
5
d
め
いたのが1
91
9年,マヤコフスキーの詩集 『これについて』のために一連のフォ トモ ンタージュ
)
を制作 したのが1
923年である。そ して1
92
4年か らはス トレイ ト フォ トを撮 り始 ,その後 は
フォ トモ ンタージュを手がけな くなる。この事実 を想起 しつつ彼の本格的な写真作品を見 ると,
ロ トチェンコの関心が フォ トジェニーにあったのではないか と推測 した くなる。マチエールの
テクスチ ャーではないに しろ,そこには,非意図的な もの として情報 を超 える何かが前景化 し
て くるはずなのだか ら。
一般的にロ トチェンコの写真は,「ロ トチェンコの短縮法」 と呼 ばれ るほ ど有名 になった思
い切 ったア ングルの面 白さが特徴 的である。 しか し,∫.E.ボウル トは,独創 的な構図の源
泉は別の所,抽象作品に兄いだす。つ ま り線描 によるコンポジションを具象的に展開 したのが
(
5
1
)
ロ トチェンコのス トレイ ト・フォ トであると言 うのである。
では,なぜ写真 なのか。モダンな表現手段 を好 んだ と言 えばそれ までか も知れない。だが,
政治的関心 とは無縁 な彼 にとって, フアク トグラフイとしての写真 という理念が意味 を持 って
いた とは考 えに くい。『レフ』 グループの同人であ り,雑誌 のデザ インを手がけ,自身の写真
をそのデザインに駆使 していたにもかかわ らず, ロ トチェンコは 「
後 にプリークのルポルター
(
5
2
)
ジュ狂い を 『
事実の フェティシズム』 と批判す ることになった」。
(
5
3
)
しか も, ロ トチェンコが下 した 「
物質的要素の特殊 な組織化」 という写真の定義 は,素材の
組み合せ としての フアク トゥ-ラとい う概念 を想起 させ る。同 じ写真芸術であ りなが ら,クル
ツイスの フォ トモ ンタージュとは異 な り,ロ トチェンコの写真 は作品に非意図的なるもの を再
導入す るための方途で もあったように思われるのである。
(
図 6)映画 《
女記者≫(レフ ・クレショフ監督,1
9
2
7
年)でロ トチェンコは美術を担当した。左は彼
が撮影 したスチール写真。右は1
91
3
年の 《
線のコンポジション≫
。
34
天 理 大 学 学 報
注
(
o) 本文 中に挿 入 した図版 の 出典 は次 の通 り。 (図 1)マ ンテ一二 ヤ
政法 人
《死 せ るキ リス ト≫≪
独立行
情 報 処 理推 進 機 構 ≫(
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図 2) タ トリン 《コーナー ・カウ ンター レリー フ》 :Vl
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図 3) ロ トチ ェ ン
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図 5)
クル ツイス 《大事 業計 画 を実現 しよう≫ :Ma
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図 6)映画 《女
性記者》のスチ ール写真 :Kha
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2) ダヴ イー ド ・ブル リュ- ク 「キュー ビズ ム (
表面一 平面 )
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E.ボ ウル ト編著 Fロシア ・ア
ヴ 7 ン ギ ャ ル ド芸 術 :理 論 と 批 評 ,1
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4年』(
川 端 ・望 月 ・西 中 村 訳 ,岩 波 書 店 ,
1
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,1
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6.
」『ロ シア ・ア ヴ ァンギ ャル ド芸術 :理論 と批 評 ,
(
1
3) ミハ イル ・ラ リオ- ノフ 「
光線 主義絵 画
1
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4年』
,1
3
2.
(
1
4) 大石雅彦 Fロシア ・アヴ ァンギ ャル ド遊 泳 :剰余 のポエチ カのため に』, (
水声社 ,1
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5) Mukaf
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6) 大石 『ロシア ・ア ヴ ァンギ ャル ド遊 泳 :剰余 の ポエ チ カの ため に』,5
6.なお,セ ンター レリ
ー フ とは, タ トリンが試 みた 3次元 的 な 「空 間 と しての作 品」 の一種 。
(
1
7) ア レクサ ン ドル ・シェ フチ ェ ンコ 「ネオプ リ ミテ イヴ イズ ム-
その理論 ,可 能性 ,成 果」
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3
4年』,7
8.
『ロシア ・アヴ ァンギ ャル ド芸術 :理論 と批 評 ,1
(
1
8) 同書 ,8
2.
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(
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2) 大石 『ロシア ・アヴ ァンギ ャル ド遊泳 :剰余 の ポエチ カのため に』,5
5
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4) ア ラ ン ・C ・バ ー ンホルツ 「エ ル IT
)シソキー と鑑賞者 :享受 か ら参加へ」,ス テ フ アニ ー .
バ ロ ン,モ ー リス ・タックマ ン編 『ロシア ・ア ヴ ァンギ ャル ド :1
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五 十殿 利 治訳 ,
リブロポー ト,1
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5) Kr
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