め づらしき事にとりかしりて、 見 どころ 成立と系 圃 をめぐって ,|| ﹁有明の型高致 ﹁かくれ み のヒ こそ、 る あり ぬ べきものの、 鉢 りにきらでもあり ぬ べき 事 多く 、 言葉遣 ひいたく古めかしく、歌などの悪けれ ば にや、ひとて にいは め づら しくも、 る 門とりか へばや ヒ には、殊の外におされて、今ばい と 見る人 歩 きものにて侍る。あはれにも、をかしくも、 様く 見どころあり ぬ べき事に 思 ひよりて、無下にさせ る 事もな きこそくちをしけれ。 典へ た 評言の 一 様く 見どころある趣きであった コ 隠れ蓑物語 口は 、着想 そ のものが 珍ら これは、﹁無名草子しの著者が、﹁隠れ蓑物語﹂に 節 である。これによると、 しく、あはれにもをかしくもあり、 らしいが、﹁さらでもあり ぬ べき 事 しが 飢りにも多く 、 詞づかひが 中村忠 ってぬたことを知ることが出来る。 ゲ行 めかしく、歌なども拙いために、営代に於ては、既に讃者が少く 古 指すものであらうが、どの様な畝陥 であるのかは、具肥的に示さ ここにいふ ﹁きらでもありぬべき事﹂とは、勿論、構想上の趺陪 な てゐない。けれども、同じ著者が、コ 狭衣物語しを評し た中に、 を 四一 見苦しく ぬ事どもなり。::物語といふもの、いづれもまこと しからす 地大反 震動することやはあるべき。いと恐しく、まことしから 浅ましき事なり。めでたきオ ・才覚優れたる人世にあれど、大 も、何事よりも、大将の帝になられたる事、返す に、鎗りにけんてうなり。斎院の御耐酸鳴りたる事、何事より 茂大明伸の倒懸想文遣したる事、夢はさのみこそと い ふ なる りたる事、粉何 にて普賢の現れ給へる、源氏の宮の御もとへ賀 きらでもあり ぬ べき事ども、大将の笛の音めでて、天人の天下 % といふなかに、これは、ことのほかなる 事 どもにこそあ 四二 も 指摘されるが如く、﹁隠れ蓑物語﹂にも、﹁ゎ子連休﹂ 四の君の母中将の法師になりたる、いとあはれなり。 ゆるがして子生みたるなどよ。 いたしともいひつべし。女中納言こそ、いといみじげ にて、髪 つらしくをかしといひつべきに、まねび損じて、いとかたはら 汰などしたるこそ、雨夜の品定めなど思ひ出でられて、いとめ 於ける天人降下の奇瑞と同様な事件が、挿話として描 かれてゐたら 蓑 著たるなどよ。女中納言の死に入り、 とあることから推して、ほぼ大約の見嘗 はつく。蓋し 、松尾 聴氏 うことは、﹁狭衣﹂の記事からしても、想像されるからである。 又 、 恐ろしけれ。鏡もてきて、萬のこと暗からす見たる程、 まこと いと にくから ロ= む かめり 0 本には、 女 中 純 @ 侍もよし。中納言の女になりかへり、子産む程の有様 も 、尚侍 を、 いみじくくちをしく思ひ知りたる程、いといとは しく、 尚 きものの報などにてあらんと推し量られて、かちる 身 の 有様 き まになる、 う たてけしからぬ間にはおぼえず。誠に、 きる べ の有様いとにくきに、これほ何事もいとよくこそあれ。 かしる おびただしく恐ろしき所なども・ ず、をかしくこそあめれ な。言葉遣 ひ 歌なども、悪しく もなし。 まね ひ は 、必ずもとには劣るわ ぎ なるを、これは コ合とりか へばや口などの本にまさり侍るきま よ。何 事も、物 しからぬ 事 どもの、いと恐ろしきまでこそ侍れ。 購 へる 程 こそ 、彩 しく 雪 の朝に 又 、月ことの 痛 いとき たなし。 、﹁隠れ蓑物 ﹁風葉和歌集﹂に収められたこの物語歌の詞書によると やコ 狭衣 口に 、 女の手を捉 語﹂には・隠れ蓑を着て忍び歩きする左大将のみならず ね@ へて 言ひ 寄った破戒無 悪の 僧 、大貫まきかぬに 愁 して、倫落の淵に 陥らうとした前斎宮なども登場する頽唐的な節くのあ つた物語であ 物 恐ろ しく、お 叉 古今 雨様 ハツ 日とり人ル ることが想像され、それらが、かた。以て 、コとりか へばや﹂と、 一手に言はれる所以であったらしい。 ﹁隠れ蓑﹂を評した﹁無名草子﹂の著者は、 へばや L にも言及し 、 次の様に毒口つてゐる。 コとりか へばや L こそは、言葉 積 きもわろく、 ひ た ビしき けしたるもののき ま、なかいとめづら しく こ そ、 思ひよりためれ。思はすに 、 あはれなる 事 どもそ 、あん め け ね 。 又お る 0 欺 こそ よけれ。四の君こそいみじけれ。あらまは しくよき の男になる程も、これはいとよくこそあれ。本のは、 人 に一、侍り。また尚侍の男になりて後の人柄こそよ くになりて、この人々の子どもなどいと多く、わか上 連邦・ 殿 々 皆 失せて、いづこなりしともなくて、あたらしぅ出 で 来たる も との 人 上人、内の御物忌に籠りて、殿上にあまた入集ひて、 物語の沙 程 とこ @,こ ヵ 春の と詠む る心も いら 上に と詠み れたれ 好めか とも、 し なりに るへ で、男姿に 婦 つた尚侍が、中納言として出仕するのを、 四の君が ﹁ありしそれとも思はぬは﹂と訪ってるるのに、宰相 の君の万は 、 " あ に 色 り は 全くそれ と 気附かぬ不自然 さ等 、構想上の触陪や詞章 0 把きが、 非 難 の対象となってゐるが、今一つ、作品中の人物の行動 に謝する 倫 例へば 、古本の四の君 が、 ﹁あらま 理 的な批判が 窺はね、かなり重要な評憤の基準となってゐること は 、注目しなければなるまい。 四三 人とも、いとむ 思 かひ ぬ 桂も 、 むげにい ひな ふし か先 。 ほ しき 人﹂とされたり、男の正世に掃った後の尚侍が、人柄を賞せ られたり、或いは 叉、﹁何事もいとよくこそあれ﹂と評せられてゐ の人のみの有様を思宣 は耀 ん殿 にの も内 ・侍 かの の静 みき てう 、こべ くくもあら 気さ ぎ﹁ 尽︶しくち ひ つ 色りしる今木の宮の宰相 が、﹁深く物覚えずば 、 なで ふ到ら ぬくまなま色 ね いてま は」 して子を産んだり、月毎の病を露骨に描為 する醜悪な趣味、又今木 とまことし 0か 是ら は 、互 すにもとの人に りて なりかは を、 思ひ あ はせよかし。::それも様異にて、吉野の中の君 、 へか るなど か、 ト思 るひよ 末な るらば、かく こり そす 婿どられて、きばかりの恨み残りたりしあたりと思ひ しられ 。 そ見ゆれ。四 そ 、 のこ 君れく はき にうへは、いとお で、 ほけ 歩くなどこそ、いみじく心劣りすれ。 もう たげにて・ この記事、及び﹁風葉和歌集﹂や﹁物語二百番歌合﹂な どによ つ 夜も見るわれ かれ ら の 児な 心 ば づくし 影と のなりけり て知られる古今両様の﹁とりか へばや﹂の登場人物や 、窩 係事件の異 も 、何事のいへ か しな とる 思、 ひ さて ばかりき@ めにの 回 については、既に先豊の詳細な研究があり・賛する 迄もないから暫 なき人を持ちながら、心づくしに思ふ ん と に く措ら くと して 、思 今のふ 場 ムだ ロ 、筆 者にとって興味深いのは、 ﹁無名草子﹂ 、はしからぬを の著者によって、非難の封象 とされてゐるものが、 奈 遅 にあるかと かならぬ心の程ふさ 鮎である。すなは ち、ここでも、古木の女中納言 ・男 尚侍が 、 いふた きるさよの衣の袖よりも ヒに 人や しは れ聞 ぬく をば それぞれ原の姿になり繁 る遅りの筋の運びの不安定 きや、警 めるが たるこう そ た、 てけ又 れ 、。 宮の 栢こ 宰そ、いと心お 来 で 山 どれ お あらぬ り、 、こ づ つ 四四 置い た。 たし りく 、 ま ﹁ め 好めかし、 さ 好を まか るる﹂と、手厳 非 難せ ら れところで、作者のかぅした創作合圃は、軍に、これらの物 語か 、﹁一手に言はるる﹂が簾であるとたけで、十分説明し得られ るであらうか。筆者は、しばらくそれに疑問を有っ。蓋し、コ無名 る 様 の﹁おいらかなら、 ぬ憂 た 心て のき 程も ﹂の が とに さ、 れ感情 子﹂の著者は、前掲の﹁隠れ蓑﹂評に縛い て、又 で あで る。著草者 的な人償 物が 、 評作品 樺の 目許慎にまめ で る及 のん ヰ 来ヰ たマ る 徒 は の眞 意を汲むならば、﹁あはれく ﹂こ をと 逸 脱、 した好色を描 、 れマ かナ し。 よこ うとを 試、 み指 た摘し らに作品 値を の傷 債けるばかりである の世 には 、見 どこ ろありて、し出づる人もありなんかし。む 終情 っ的 てに ゐ流 るれ今、 ものかと思はれるが、表現がに 感 舌 足 ら ず この頃となりて出て来たるとて、少く見侍りしは、古き ために、論旨が不熟 めな るも のの はに 止 得な な むい っ を。 て ノ カ。 のと名 もよ りは 、な か心ありてこそ、見え侍りし の 著 、 が が、それはそれでよい。たた、 こ者 こ では﹁も無 草 子 ﹂ とも、言ってゐるからである。このことは、尚少しく説明を必要 たことは、右の一文によっても知られるところであるが、さぅした そもそも、古物語を改作した所謂擬古物語が、宮代に於て流行し したかの事實を知れは足りるのである。とするであらう。 ・ 一 時流に悼 す子 ものとして、﹁含隠れ蓑の物語﹂を要望する聲があった れ 女口 ・ 友て と ﹁﹁無 ﹁有明の別﹂を語るべくヒ しの て ﹁ 隠 、 散 名 草 とし ても、何等の不思議はない筈である。けれども、これが、﹁無 のこ 則 しれ のが 成﹁ 立有 りか へ ばや﹂評 諒し をた 緩のは、實は、 明 名草子ロの著者によって提唱きれてゐることは、軽 々に見遁す訣に あ考 るへ 。る そか れら は に 、何等かの 興へ 示は 唆す ,まいかと、 で は行かないであ<ぅ .。 p何故ならば、﹁有明の別﹂には、相撲の節曾 一 %何故であらうか。 られ、爾後 樺典 ・1 内宴 など の様に、仁平・保元の比に一時再興せ 、 筆者は 稿侍 に 於て、﹁有明の別﹂がし 、て 先隠 行﹁ の物 語 1 州 永く 廃絶した行事や、八棟院宮家に於ける轟合を想はせる様な有明 謂は れ糞﹂・へ ﹁ はと やり ﹂か の影響を受、 け るば こ、 とこ がの 多 く と を 指 て女院方での議会が語られてゐることから、同女院に仕へた女房の っ 作た 品様 でな あ る こ 二つの物語を、折衷し 構 想 を摘 有しの 又 ﹁無名草子﹂には。 ぅき なみ﹂・定家の ﹁松浦の宮﹂ 手になる作品であらうことが想像せられ。 ﹁今の世の物語﹂として、隆信の﹁ を拳けた後に、その名が記きれてゐることから、定家周 渇の然るべ き女性であって、﹁無名草子﹂の著者とも直接なり間接 なりに知り いて、早くか ムロつ た人であらうことが推測されるからである。果してしからば、 ﹁有明の別﹂の作者は、﹁無名草子﹂の著者の持論につ ら聞知するところがあり、創作のヒントを、ここに得 たのではなか 跡 万も知られず 云 z し@ る闘心を有り者があったことは、定家の﹁松浦宮物語ヒ 1 らぅか 。﹁無名草子﹂の著者の周 遇に、 早くから﹁ 隠 れ蓑 ﹂に 対 す 隠れ蓑のためしにやとまて探れど、 の語が見えることからしても、容易に 窺ひ 知ることが出来るから である。 けれども、 きぅ 考へることには、尚一沫の不安が漂ふ 。もしも、 ﹁有明の別﹂が、以上の様な動機から創作されたものであり、 且そ の作者と﹁無名草子﹂の著者とが、親しい間柄にあるのであるなら きぅ した 事貫を徴することは出来ない 一万丈、 。 ほ、﹁無名草子﹂の著者は、何等かの形でそれに言及してもよささ うであるのに、 ﹁有明の別﹂コ ・ 夢語り L. 持口外りドし し・コ ﹁限 浅路 茅の 原姫 の君 内 は、言葉遣ひなどなだらかに、耳だたしからず、いとよしと思 宅無名草千し ひて見もてまかる程に、いと恐ろしき事もさしましりて、何事 もさわる心地するこそ、いとロ惜しけれ。 といふ評言が端的に示す様に、構想上の触陥もあれば、興醒めの する様なさまぎ まな事件も、描かれて ぬるのである。これは、叙上 の如き筆者の推論を否定するものではなからりか。 事實、きうした疑問が残ることは、如何とも否 足し難ぃ。が、そ れには、多少解明の除地がない訣ではない。第一に言 へることは、 のではなく・ ﹁有明の別﹂に於ける﹁隠れ蓑﹂の影響は、直接的なも 時代も、極め ﹁狭衣﹂を通してのものであるし、女院の隠れ蓑着用の て短い限られた期間だといふことである。加之、﹁有明 の則しは、 他にも、﹁とりか へばや﹂や﹁源氏﹂・宇 ﹁津保Lなどにも、色 ふと ころ少からぬものがある。といふことは、 コ隠れ蓑L の影響文事と して見るよりは、﹁狭衣﹂や﹁とりか へばや﹂の流を汲む作品だと いふ印象の万が強いといふことになる。しかも﹁とりかへばやしに ついては、古ム爾 ﹁様の作品について、かなりの批評を試みてめるの ﹁隠れ蓑 ヒ との開係 に至っては、改作といふ訣のものではないから、その必要 であるから、言及するのを避けたのかとも見られるし れ蓑ヒや ﹁とりか へばや﹂が指摘を受けた様な弱 難を 、努めて避け を認めなかつたともいふ事が出来るであらう。 有別 の 別 L の作者の万も、さぅした意見を知ってゐるならば、﹁ 隠 ﹁ カO る様、試みたことと思はれるが、事實は如何であらう ノ 四五 少しく立場を愛へて、﹁有明の別﹂の 側下 ら問題を眺め てみよう。 如何にもこの物語には、﹁さらでもあり ぬ べき 事 ども ﹂と思はれる 四ハ の構想を強引に借用し、全肥の統一をきへ考慮に容れ て ゐないこの 物語の作者は、その鮎に於ても心の用意に趺 けるもの があった様で 様な超自然的記事や、構想上の訣 にも、やはり﹁あはれ﹂を逐ふ 心が働いて ぬた事實 を認めなければ ある。けれども、作者の慰愛顧といふ戦から眺めると、 さ うした 申 も未の万で語られる左大臣と宣耀殿女御との閲係は、 全く唐突なも ならぬ。 例へば、三位中将︵後の内大臣︶の通ふ女は、 陥 がない訣ではない。 例へば ,養三 ので、前後の筋とも 闘係がなく、何の篇のものであるか謀 らないし、 ど、 夫の夜離れを歎き 佗びてゐる女性か、中務卿此 の万の様に性 しめ結ひし昔の影の枯れしより人も尋ねず宿の梅が枝 く説明が不足して め て、 讃 者を途 惑 はせるものがある。 か うした 構 格的に夫と 栢 れぬ女性に限られてゐるし、一時途絶えた西の封の上 女院・内大臣等の前・後半に於ける性格描嶌の相違の如きも、甚し 想上 の触陥に対して、作者が無闘心であったとはもと より考へられ には﹁かくれにし月の行方を忘れずば﹂の歌を贈られ て、驚喜悶絶 との 嗣 係ら 、 十鉄 年を隔てて復活させ、愛娘との逸逓 をも 呆 きせ た 作者を責めるのに錬りに急であってはならないであら, するし、やや浮気な中務卿北の万は、嫉妬の鬼となつ て狂死するに ないから、結局は作者の技量不足といふことになるが、趺陥の生じ 三で語られる天人降下の奇瑞の如き、これによって女院の奇しくも 至ると語られる。 りする。 叉 、女院が、右大将時代に戯れた麗景殿の細殿の女も 、後 怪しい前半の生涯が、宿命的なものであったと説明きれるのである にもよるであらうが、一面又、作者の描かうとしたものが、享楽的 た原因の一斑は、作品の成立問題が興ってゐると考へられるから、 し、コ狭衣﹂の場合の様に 、屡く 語られる訣のもので はないから、 な轡愛の世界ではなく、﹁もののあはれ﹂を基調とした 王朝貴族の っ。殊に 、巻 深く瞥 める迄もあるまい。既にして、﹁隠れ蓑﹂とい つた架空のも それにあったからだと考へられる。 この様に眺めてくると、この物語の作者が、﹁隠れ蓑﹂ や ﹁とりか かぅ した筆の運び万は、作者が女性 であったこと のを素材に取込む以上、超現貫的な構想も、ある程度許されて然る べきであるし、事實、それは到底避け得ないところだと考へられる かりではなく、それぞれの物語の有 っ鉄陪に 対して、 幾分か批判的 へばや﹂の構想を借用に及んだのは、軍に興味水位的な闘心から ば ム﹁とりか へばや ヒ が、強く批判された 様 な頽唐的な では次に 、 ﹁ であり、多少でもこれらとは興 った新味のある物語を 、 企固したが からである。 面は如何であらうか。率直に言って、﹁隠れ蓑﹂や﹁と りか へばや ヒ 篇 のものではなかつたかといふことが出来るであらう。果してしか らば、その基調とするところは、﹁無名草子﹂の著者 の 考へと、 鈴 ふ。 り隔らぬものであった訣で、﹁無名草子﹂にその明徴がないからと いつて、以上の推測を否定する訣には行くまいかと思 一一 閑話休題。﹁有明の別﹂の成立を、叙上の如く﹁無名草子﹂と 結 付けて考へるならば、その成立 期は 、仁平・保元の頃 よりは、 ム﹁少 が成立するま しく繰下げて見る万が 隠営 であるかも知れない。して みると、これ を ﹁千載集日奏覧の文治三年前後から、﹁無名草子﹂ での約十四・五年間のこととされた曽 漢氏の説は 、改 めて瞼討 をし てみる必要がある。 世は有難きものなりけりとのみ、思ひ 知 らるる 一 論旨の都ムロ 上、今一度氏の説を略説すると、氏は 、こ の物語の巻 二 、一丁 ウに、 やぅ ふしに、なほ宿世口惜しく、思ひそめてしばかりのみ @ 心の外なることにしてしらぬ間にまかりけ る を、こと なま とある傍線の部分は 、コ千載集し巻 十セ 、雑歌に見え 廉頗 て京に上りて後、日吉のやしろに まゐ りて詠み侍りけ 平 康頼が 赦されて京に掃った のは、 治 思ひきや志賀の浦 浪 たちかへり 叉あふみともなら ひ も のとは を 引歌するものであらう。 二年 谷平家物語しでは三年︶のことであるが、引歌と いふ條件か 多少ずらして以上の如く考へるのが 至嘗 だといふので ある。 確かに、この 康頼の歌は、一見引歌とするに適はしい ものを 有 鹿谷 の繁 に連座した 文 違った意味で、 そ の可能性が てゐるかの様である。殊に、この物語の作者を、コ無 名草子しの 者の周 擾に 求めるとするならば、 るとしなければならぬ。蓋し、廉頗と共に、 q 無名草子 し 0% 、 何者や 納言成親の妻となり、その子を生んだ後白河院京極 局 や入條院坊 局は、 何れも定家の姉に 営る 人であり、 の物語の作者とも、極めて親しい間柄にあったと考へ ある。 曙 せざるを得ないのである。それは、前掲物語文から推すに 、 ﹁ にも不拘 、筆者は、 尚 この 康 頼の歌を引歌と見ること には多少 を 、この世ながらは、 奉 けやる 方 なくて、校書といふ ば かりに、 賀 の 浦浪 たちかへり﹂なる語は、上文の﹁思ひそめてしばかりの 心 のうち 召しまうはさせ給ふにつけて、まことに、かけても 思 ひよる べ るめ しかたなければ﹂を承けて、﹁よしなく味気なき 心 のうちを たなければ、志賀の浦 浪たちかへりよしなく 味 気なき き怒の道かはと、千度八千度思ひか へすにも 四七 承 ら 著 つ あ 人 門 で こ 云 み 志 蹄 めてめるので 敵は、 ﹁あふみ﹂を﹁近江﹂と﹁身 逢﹂ ふにかけて用 とも もつ 、康頼め 営然懸歌でなければならないと思ふからである。 か法 らしても へられるのであっ、 て引かれた件の歌は、この場の用 々﹂といふ言葉を導き出す薦 、に 然るべき歌から引い たものだと 考 き歌を、それぞれの物語が別様に引いたのであって 、決して右の康 れて成ったものかと考へられるか らである。 按 ふに、これは然るべ も、那成立期を詳らかにしないが い へ、これ万引歌とする訣には行かない。蓋し 、コいはでしのぶ L の歌よりはずっと近いものを有ってゐるとしなければならぬ。とは 併せ用 四八 あるから、この詞書さへなければ きう 、した心の籠 った歌とも解せ 遅 きうした鮎からして、筆者 ﹁有明の別﹂よりは、少しく ねられて居り、しかも郷の歌であるところからすると、廉頗 し﹁ なく味気な よは られないことはないけれども、ただそれだけで ここで一、二酉稿の補訂を試みた 9︶ と美しげに生ひいて給へるを い。 コ 古典文庫口木の解題に於て 、筆者は、この物語番一の末に 、 引歌について語ったついでに、 性を認めながらも、向自説を捨て きれずに居る訣である。 はこの物語の成立朗を、コ 無名草 子﹂のそれに近づけて考へる必要 き心のうち﹂といふ言葉を導き出す訣には行かなら いう で。 あ加之, 頼の歌が引かれたのではないであ らう。 ㍉いはでしのL ぶには、次の様な例文が見出きれるあ のる で。 誌し、 如 ど、いにぅ心に人りたりとは聞えど ぬ ・ちビの言の葉を ふ気色な げに、心づくしは 義きすべうもなしやと、うち歎 給き なるは、 何にせんと思ひだらむ人よりも 類、 なうなまめかしげ 妹の姫君も、やまぐちしる う ⅠⅠ ハ ⅠⅠⅠ げに女ならば必 、らず心地は腔きなむかしと、聞 居き 給へるに、 見るにも、なかわするⅠ 頁 ︶が、﹁引歌﹂とするのは、 マト ⅠⅩⅠ、 少 くとも訂正しなければならない。 き 、引歌として め るのではなか らうかと、書いたのである︵川五 これや さほ 入りてはしげき 道 ならむ 山 ぐちしるく 惑 ほ ろ ㌧かな へばやしの などと 用め られてゐる﹁やまぐ ちしるし﹂といふ語は 、コ とりか るき御様そ、 人に似させ給はね。︵九ハオ︶ これほ、ただ母宮をうつし と らせ給へれば、今よりやまぐち し よなき心の催しなり。︵九五 げにもと見許きぬ気色にて 、 のうら 見てだにもみる目にあかずなが へら むその行末もしが あちきなの事どもやと、例の憎からぬ様 、何 にとやらむ聞ゆれ 公示大本︶ ば、こまやかに 語ふ昔して、うち笑ひ給ふ事もあり。 浦賀 浪の たちか 文中の歌を、前掲の物語文に較べてみると、﹁志 いつた語が 、 何故ならば、この語は、 ぞ思 四 蕉稿 には、 尚訂正しなければならぬ鮎が多々あるであらぅ 。が 、 その中でも、 巻 二以下の主人公左大臣の系同窩係 だけ は、早急に改 宅 蜻蛉日記﹂康保三年の條︶ めて置かねばなるまい。 う ち 笑み たる ママママトマト かくこそは優れたる人の山口はしるかりけれと、 宍 源氏物語﹂松風巻︶ かなり多い近世中期の唯一の嶌本 しか現存しないので、 徒 らに 讃者 関係が前後容易に接績 せず、しかも抜 るべきテストが誤嶌 ・脱文の セ ・八年間の経過は、説明が極めて粗略に扱はれてゐる震に、人物 ものとなってしま ふ。加之、年立的に言って、その間に介在する 十 には、大きな断層があり、構想も人物の性格描嶌も、ま るで違った 蕉稿 でも指摘して置いた様に、この物語の巻 一と巻二 ・三どの間 顔の何心なきが、愛敬づきにほひたるを、 いみじう ち,ヮたしと 思す。 宍 架垂物語 ヒ 若水 巻︶ つと 成典律師僧都になりて、この 御 いのりのを り ふしも、 よ る こび マ トマト ヰヰ 仕ぅ 奉りたること、やまぐちしるしなど、よろこび申 し給 ふ 0 構 想 まで などと、かなり廣く用め られた言葉だと解きれるから である とはいへ、 雨者が全く無 蕎係 なものでもあるまい。 を営悪させる結果となってゐる。この場合も亦、その用例に洩れな の上に 御齢 の 程 こそ あれ、お きへ ものし給へ ば、 世の中のまつりどとも、開白をば さらにも ほかたもてかしづかれ給へるよそ ほしさにうちそへ、 な く 、 た なやぎ 給はぎりし御末にしも、 かりし御身の程を、 げに 鎗りもてはなれ、怪しからぬまで物と これよりほ うち 紛れ、自ら軽びたらん御名も、もどき あるまじ それはさて措き、 簡単には 打 捨てる訣には行かないものがある。 りか へばや L に 負 ふところの多いこの物語は、表現ゃ語彙の上 でも てだ 既述の 例の いのであるが、問題が後半部の主人公に琳する問題で あるだけに、 といつた用例の如きも、 色く宰 ぶところがあったに違 ひないのである。前稿には 書き 洩 らし たことであるが、﹁奥の 、夷 、も・ ﹂マ 他に、尚 うち 見むあはれ、おろかなるべくもあらぬを 宍 とりか へばやし が、見出されるのであって、この方面での雨者の輔係 はもつ と精 査 して・みる必要がある。 口元 オー ゥ ︶ 聞えず、ただ御身の上にのみ、承り行 ひ 給ふ。 調 へき いなみ 給 ご ふことも、かたへは老の御 気 のさうにや、散大将殿に くもあらず、聞え惑はし 、 怠ることをも諫め給ふ。 と 語り出されるこの左大臣が、番一の末で、 開白 敗る 、大臣かへし奉りて、権大納言をなし聞え 給 へば、御 齢 はいとけなき程にて, 一の上にあがり給ふも、面立し ︵九セ 9︶ と記 きれてゐる権大納言と、同一の人物であることは 、 更めて 説 までもない。年若い大臣であったことも、 ︵ 券二三、四八オ︶ 我身 ながらも、 院 ・宮 づかきのか ぅ ぶり給ふ。 いまた僅かなる程に、 左の大臣、内裏。 事なれど、叶に 危 まれ給ふ。 として語られるのは、右大将が任せられた︵ 四 0こ く 別人である。 では、権大納言と窩白 との 窩係は 、如何なのであらう。 右の文は 、 左の大臣も、大臣の表奉りて、御子の大将を大臣にな し 給ふ。 番一を結 の例であるが、この右大将は縛尊して女院となるので あるから、 それが、 唯 大納言が誰であるのかは番一では詳らかでない。番一 で、権太 納 とあることによって、問題なく了解出来る。だが、謂 ふところの @ 全 一 言 権 ぶ 五O ぬるのであるから、この槽 大納言窩 が 白の血筋を引く人物と ではあ るづこ 、ま 想像して誤りは る係りに、 大殿は六十四 は、 五上 十二にぞ給 な。り されど、見奉るは、た だ三十ばか御 り程 のに、あたらめし くにぞ見え給ふ。 ほれ ︵ 廿四才︶ 柄者 とあることから推 すの と年 、齢はに 凡そ四十歳ほどの相違が あるから、子供といふより 孫は 、いむ しでろ に近 間柄 あることも、 ほぼ考へられてくる。 さ而 ぅ 考 しへ て 、りなか ろべきは、次の て誤 様なことからも断定出来る 権。 こ言こ に人、 中納 なる 物がある。そ の素性を作者は、 秋になりてば、 ビ風 いの と音につ てけ も、露けきまさる袖の上 わひつ 1、つれ︵ と 一で、を、 ︵左大臣 ハ︶忍び 0 ながめをはする タつ万 しめやか なるに、 との上 -マ マヰⅠ 権中納言、思ひかけずさし出で給へるを 、折 うれしく 、 待ち 喜 マ び 給ふ。︵左大臣 ト槽 中納言 トハ ︶、坤廿ひ絆 良いい 添ひて 、 い 、耳ヰ い と ぜ物思はしさも、この君にぞ、そのこ ととわかれ とビ 睦まじき御なからひなる中に @、 0 かの武蔵野の 色さへ 添 へ ばにや、 の姫君に 、 御 兄な れど、 思な 憂 れへ聞え給ふ。 同 じ官位こそ 四 とせばかりか、 ど、心とまらぬ世の憂さをも、 あれ、中納言 は 、 猶三 とせ しにや、こよなく ぞけ押され給へる。右の大臣の中 L@ し︵九五 ゥⅠ ぼならぬ。し しか年長では と語って ゐ 婿どりて 人は一 % 誰なのであら,≦。 間 に主れた子供が左大臣だと解する他はないが、その父親たる べき 血を引く人物であって、前路白 の一族中の何人かと、 描寓 きれるのは如何であらう。これによれば、左大臣 8万前 菰 白 院 ・左大臣ともども、深く欺き悲しむ︵巻 三、四 セウ| 四九 オ ︶ と し 寄らぬ﹂︵同 、四四 ウ ︶と語られたり、 前閥 白の夢主 の際には 、女 つⅠみて迎へ出でんとまで は、え ぞ思 嵌に 、この左大臣が 、 ﹁もとの窩 日の子﹂︵巻 こ、川六 ウ ︶ と語ら 開 白の女 との め るのである︵ ︵ こ 、 巻き 四 ウ ︶ 才ふ ー。 、もてかし づ 給 るが、これによると、権中納言は左大臣よ 績柄 き言 か ふら と、伯ぬ 父に営るものと考へ ない が 、 かも 擢 中 、納 こ言 のは、番一では宰相中将としで登場 左大将 白 ︶︵ の後 君の 達閲 の一人として語られてゐ 九ゥ ︶ 二から、左大臣 訣の母親も亦、開白の女とな すれば は白 、 窩の 左女 大 孫 の と 臣子 い、 ふつ 事ま にり である。換言 なるのである とその俺係は 三才︶といふ 起る。左大臣 しかしなが 窩き 臼の﹂とないものを、 さう解輝す ることは このひだりの大臣と聞ゆるも、 父とのばかりこそ、 語 の同慶にも全く見営らない。加之、この左大臣は 、 叉 ママⅠⅠⅩⅠマ下 トマ @せ ざん をま 不安であるし、第一、前閲臼が窩白の女を要ったとい ふ 記事は とあって、﹁ vJ 輔係は 、異腹の姉弟といふことになる。けれども、﹁もとの 窩 白 ﹂ れるのを、﹁前関白の子﹂の意に解するならば、左大 直と女院 との と・ 院女 窩院 係 殊 と が の ぅ の 、 ほ 外 るし に 巻 い 、 二 ︵ のは、別段怪しひに足りないが、しかも詳 尋常で 例は 、 へな 女 ばい 院。 が風邪の折は、大殿や大 つ 第一に左大 同 、 臣セ にオ 野 報ー らク さⅠ れるし︵ 宮からは、ま なれど、 あるから、別人と考へればならぬ。さりとて、物語全膿の構想 よ、 臣と 開白との二人しかないが、この雨者は巻末近くま で 健在な ので 顔を出すことがない。物語で詔臼職 に就くのは、入道前闘 白太 政人 故離日の意味であるに 違 ひないが、この散開白 8 、亦 物語中に 全く とも: 噂 さきれるのである。してみれば、﹁もとの窩 臼 ﹂と ︵ 巻二 、川八 ウ ︶ 用意された女 分の夜には、 ゥ︶。叉、女 臣の大君との 折の加持に、 もする︵ 同、 臣が西の封の 五一 言って、新たに敢闘白が入り込む鈴地があるであらうか。恐らくそ 五二 ノ封ノ 上ガ︶かくてをはしますとも、︵大将 ハ︶ 得知 らせ給は く人目を避けて此庭 に住んで ぬ るからなのである。 績 ハ チし種由ら じかし。きるべき御体 は、 自ら見奉らせ給ふこともあ らんもの は、否定に近い解釆 答 なし いか で出 あて らは う。 ぞと頼 み過 せど、きも久しくもなりにけるかな。 系 ぅした 窮鈴 の一案として筆者は、 附し ﹁た 古圃 典文庫﹂ 本 に で くのな は、い この大将を内大臣︵ 兼 大将︶ と勘違ひして の 舌口薬 と欺し 、故窩を 臼その棒に生かし、物語 前中には登場 ひな 。とき いふ、 のは、この家の女主人公酉の封の上は、嘗 に違 ある 大と 臣し とて 駒左 ム ﹁一人想定し、その間の子左 供 大 臣 をい置 君物 がに あ、 って内大臣に冒されたことがあり、その結果生れた 四 條の上 と、ム﹁けは 0係 %は 、故窩 白の北の万たる窩 べ白 の き 姫人 0 つ 若いを 女房得 の言 葉は 、大 将が人違ひであったことを告げ る 。 れる菖 はで なあ いり 。、 か、これは如何に考へても無理 た 策 で これ は、 左大 臣殿 とこ そ 中 なれ。もとの開白殿の御子 とか。 こ た﹁ 、改めてこの問題を考へるに、 誤も 解と の原因 は 、 上 述 し 大将も 殿をぱ、 内の大殿とこそ申せや。 白の御子﹂・﹁このひだ 、 父り との のり 大 ばこ 臣 かそ と、 聞ゆのる に あ せぎな んれど﹂の語を儲 、 、正 受直 取に りそ たの こる と。 まり、紅葉狩に来てぬるのは左大臣達 であって、内大臣は参加 して ゐな といに ふのである。このことから女房達の噂話は、自分達 、この言擢 葉 中は 将、 ・三一位中将等 舟と 遊共 、 しに、 宇 治い川 へて ゐる 女主 人公 と中 内大一 臣との窩係に綺 れて行く。 瀬田経て粟津の大殿の別業に人 泊 臣 が 、 夜 抜つ けた左位大 きを す個 る て 、とある家に紛れ 達の 入す りる て噂 、聞 話 女 房 立 ︵ 或 ル女房︶﹁いさや。 口惜しからざりし︵内大臣 ノ︶ 御 心 ぎし を、 ︵西ノ封ノ 二ハ︶ 鈴り 深く、弐心とふり離れさせ 給ひて 、 いち早く嗅ぎつけ 、たある女房が かく風の博にても、︵内大臣二八︶聞かれ奉らぬよ。き るほ、 大騒がしきほど、恐ろしくこそあれ。門は ︵内鉛 大臣き ハ︶せ 未だつ 狩りら こそを ほす なれ。通ひと通ひ 給 ふ所々 、 幣殿 の 、御隙遥 給し ふとこ 言そ ふ な、 りつれ。 今はた Ⅰ︵絶え 力︶果て給ふたんなり 0 コ籠 母の上の御縁りに、 離れぎ りける人とかや、時々ほのめき給ふなれど、︵西ノ封ノ 、 皆の者を戒め礁 る へ。 てそ 別れ のに 、 女房が ハ︶凡 て︵ 猫寝コ るのみこそ し 給ふなれ し A、 J 人の語り しを聞き これは、この大将にやをはソ す家 ノ ら 主ん 人。 面あは二れ 、 と しかは、 猶、︵内大臣ハ︶この御前を忘れ緒ほぬにやとこそ、 と西の封の上との間に生れた︵巻一、 セオー 凡オ、及ひ刑二ゥ︶ 上との間の遺児といふことに取沙汰されてぬるのであるが、實は閲 そ白 さな。 他ノ女房︶﹁あなあ ち。 思ひ合せられしか﹂と言へぱ、 ︵ 頼み聞えさせ給ふべき。︵若シ、内大臣 ガ西ノ封ノ上ヵラ︶今 た曽津氏の見解は、高く評慣しなければならない。而して、この左 直上の疑問は一掃せられる筈であり、いちはやくこれを看破せられ の頼もしげなかんなる︵内大臣 ノ︶御心をや、 ︵ 西ノ封ノ二ハ︶子供であるに 違 ひない。きぅ鮮麗するこ とによって、右に述べた系 はと離れ給ひなましかば、これより人笑 はれにぞあらん0まろら る峰 Lし 君の 、別 必要個所のみを示すと別表の様になるかと思ふ。 を修正する必要に迫られるであらう。以下、綾 謝 する のを避けて、 が聞きしは、コこの昔、古 せ給ひにし大将澱め、 ︵ 西ノ封ノ︶五大臣の位置の移動によって、 奮稿 に示したこの物語の系圃は、一部 ︶世を倦むじて、心からの聖になり給へ を稚くよりいかでと思し染みにけるが、引き違へたる 御宿世に、 ︵ 西ノ封ノ上ハ 。言 ひし。 尚、その︵右大将 ノ母︶上よ、いたく心憎 く こそを ぞ はすれ。さばかり世に賞でられ給へり し や 。中宮 ︵ 前開白し くる方なく静まり給へりし御末々も、めでたく ぞ ある も、珍 らしき様の御階みとか。この左の大臣と聞ゆるも 、文殿 ばかりこそ、をはせ ぎん なれど、いと類なきと ぞ、賞 でられ 給 ふなる﹂。 世間の噂話を基にして得られた女房達の智識が、半ば實を博へ、 半ば虚を博へるとい ふ風に語られるのは、この期の物語では、普通 に見られる手法であらう。してみると、左大臣を、﹁もとの脇白め 子﹂として語るのも、﹁文殿ばかりこそ、をはせぎんなれど﹂と話 るのも、作者一流の技法であって、事實はその中間にあるのであら ぅ。換言すれば、左大臣は、表面では故右大将︵女院︶と酉の封の 五三 U 荷 明 某 今 の 菜圃 刀 ロ 開 (再案 ) 凡例は奮稿を 参照のこと 入 コヒ 源 大 道耳 氏 入 剛閲 白 の 道 太 系 圓 略 政 大 上 の 勤 宮 臣 中一@ 大 女 郎納 の 着御 君言 上 万 自 君 = 臣 宮 宣二 中 女 朱 か 瑠佳 殿 女牢 雀 l? の Ⅰ"" 御棺 宮 一 女 と の 上 左 智 春 串 今 宮 耀大 承 段目 四 上 若 姫 五 匹 宮 若 君
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