序章 問題の所在 - 早稲田大学リポジトリ(DSpace@Waseda University)

序章 問題の所在
序章 問題の所在
1.本研究における調理技能の教育
本研究は、学校教育における調理技能の教育について検討するものである。そこで、まず、学校教
育において行われている調理技能の教育について、その教育の形態について、整理しておきたい。
調理技能は、日常生活において有用な技能であるだけでなく、調理師が職業として身につける技能
でもある。そのため、調理技能を習得するための教育の目的は、歴史的にみて、大きく二つ示すこと
ができる。一つは、家庭における親から子へと伝承されるものである。これは、日常生活のなかで、
手ほどきをする、見よう見まねで覚えさせる、といった技能の伝承の方法をとることが多い。さらに
もう一つは、徒弟制度のなかで師匠について職業としての調理人になるべく修行を積むという習得の
方法である。これは、状況的周辺参加1として説明される徒弟制度のなかで、師匠や先輩たちから非
体系的に学んでいくものである。これら二つの調理技能の教育は、いずれも非体系的な教育である。
明治期以降に、学校教育が普及する中で、以上の二つの教育形態を内在する形で、教育内容を体系
化し、調理技能の教育が行われてきた。これらは、学校教育においても、生活に活用するという目的
で普通教育として行われる調理技能の教育、および職業教育の一環として専門的に調理を学ぶことを
目的として行われる教育という、二つの方向性を示すことができる。
これら普通教育としての調理技能の教育と、専門教育としての調理技能の教育は、戦後の学校教育
に限定すれば、いずれも、家庭科という教科のなかで扱われてきた。実際に、2009 年に告示された学
習指導要領(高校・家庭)においては、普通教育としての科目、家庭基礎、家庭総合、生活デザイン
のなかに日常生活に関わる内容として、調理技能の教育が示されている。一方、家庭科の専門科目で
あるフードデザインのなかにも、調理技能に関わる教育が示されている。
本研究では、このように方向性の異なる目的によって教授される調理技能のうち、学校教育の家庭
科において普通教育として行われる調理技能の教育を検討対象とする。つまり、家庭科教育が小学校
5 年生から実施され、中学校 3 年間をへて、高校まで、合計して 6 年または 7 年間にわたって学習す
る内容と学びのプロセスを対象とすることになる。なお、家政や生活科学を専門とする一部の職業科
高校では、家庭科の専門科目において調理技能の教育が行われているが、これらは二つの方向性とし
て示したうちの、職業教育の一環として専門的に調理を学ぶことを目的として行われる教育であり、
普通教育ではないことから、本研究の研究対象からは除外することとする。
このように、普通教育としての調理技能の教育を検討するにあたっては、近年、社会的な注目を集
めている、食に関する問題状況について考える必要がある。とくに、子どもたちの食の乱れによる健
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康問題の増加、生活の乱れなど、食育の必要性が叫ばれている2状況については、流通や消費の問題
をも含めた食生活の変化によるものと捉えて解決する必要がある。一方で、社会全体で私たちの生活
を見直す必要をも示している。なかでも、人類が有史以来欠かすことなく行ってきた食物を食べると
いう行為において、重要なプロセスとされてきた「調理」が、現代においては必ずしも必要とされな
いという状況にある。このように簡便で合理的な生活の中で、かならずしも必要とされない「調理技
能」を学ぶことが、どのような意味をもつのかについて再考する必要があると考えるのである。
現在、盛んに行われている学校教育の食育実践においては、栄養のバランスや食品の選択について
学ぶものがほとんど3であり、何をどのように食べるかということに関心が集まっている。これらは、
食品の選択さえできればよいとするものであり、調理実習は、調理技能とは無関係の食べるだけの実
践となっている。
このような食育実践とは異なり、家庭科教育は、
「調理技能」を、学問的に体系立てて、調理実習と
いう授業において教授してきた。これは、戦前の女子教育として行われてきた家事科の割烹の授業を
起源として、戦後も 60 余年の実践を蓄積してきている。学校という空間で、食べることも含めた「調
理技能」という生活に身近な行為を学ぶということは、他の教育活動にはない学習者の関心を引き起
こすものであり、現在でも、調理実習は子どもたちの大好きな授業の一つとして、数多く取り組まれ
ている。
ただし、調理実習で何を、どのように学ぶのか、調理技能の習得をどのように位置づけるのか、と
いうことに関しては、充分に検討されていない。家庭科という教科においては、生活に関わるあらゆ
る事象を、衣食住をはじめとした領域ごとに体系化したうえで、生活を営む上でなくてはならない生
活技術についてそれぞれの領域において学習してきているが、戦後の家庭科教育においては、生活技
術を、単なる技能の習熟ではなく位置付けることが重要な論点とされてきた。ただし、生活技術の一
つである調理技能の教育については、食生活との関連から個別に検討されてはいない。調理技能の教
育は、本来、単に身体的な能力が身につく、ということだけではなく、食生活についての学習の中で、
個々の学習者の生活との関連をはかることに注意が払われてきた。しかし、食生活の状況が劇的に変
化し、調理技能を活用するということの位置づけが大きく変容するに中にあって、調理技能の教育の
あり方について検討することが、追いついていない、という現状もある。つまり、本研究では、調理
技能の教育は、身体的に習得する能力の意義を認めながら、同時に単に身体的な能力が身につくとい
うことだけではない、
今日的な食生活の問題状況に対応しうる教育的な意義があると考えるのである。
以上のように、調理技能の教育を、身体的な技能の習得としてのみとらえるのではなく、一方で身
体的に学ぶということの意味も再考し、現代の食生活の状況にあわせて、その教育的な意義を明らか
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にすることが、必要とされていると考える。
以上のような問題意識から、本研究で対象とする調理技能は、次のように定義する。
「身体的に習得する能力を中心として、そこに学習者自身の生活や興味が深く関わったもの。日常
生活で活用するということを目ざして、習得することを志向するもの。
」
なお、近年、生活スキル4という総合的な生活技術の概念が提示されているように、家庭科で学習
対象としてきた生活技術は、身体的に習得するものだけではなく、思考力・判断力などを合わせた総
合的な能力5として理解されるようになっている。この生活スキルの考え方を否定するものではない
が、本研究では、個人が身体的に習得し、家庭生活において用いる技能の範囲に限定して調理技能を
とらえ、知識の習得などそのほかの能力との関連も検討課題とする。そのため、先述のように「身体
的に習得する能力を中心として、そこに学習者自身の生活や興味が深く関わったもの」と定義するの
である。
では、ここで、本研究で対象とする「調理技能」および関連する用語について、本研究の「調理技
能」の定義にそって整理をしておきたい。
一般に「調理」とは、
「食品素材の栄養効果を高め、衛生的に安全なものとし、味や香り、口ざわり
をよくし、食欲を高めるように概観をよくして、おいしく食べられるように加工すること」6と定義
されている。その多くは家庭で行われ、日常的には「料理(する)
」という語で表現されることが多い。
家政学の体系の中で、とくに料理のプロセスを科学として探究する立場からは、
「調理」という語を用
い、学校教育、専門教育の場面でも「調理」という用語が用いられている。現在では、調理に関わる
あらゆる現象は、
そのほとんどが科学的に説明可能であると考えられており、
調理科学の研究知見は、
よりおいしい料理をつくることや、食品産業技術の進歩にも役立てられている。
「調理技能」は、この「調理」を行うためのスキルであり、調理の際に個人の有する身体的能力を
表すものである。本研究では、この一般的な意味に加えて、
「身体的に習得する能力を中心として、そ
こに学習者自身の生活や興味が深く関わったもの。
」と定義した。
なお、家庭規模を超えた食品産業における調理に関わる技術は、
「調理技術」と言われ、
「調理技能」
とは区別して用いられている7。ただし、家庭科教育においては、これまでの論考を概観する限りで
は、技能は主観的、個人的なもので、各人の試行錯誤的な経験によって体得するもの、人間の身につ
いた具体的なものとされ8、技術は、技能を一般化して、応用可能にするものであるとして、
「調理技
能」
、
「調理技術」を用いることが多く、調理に関する個人的な身体能力についても「調理技術」と称
することが多い。
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本研究では、個々の学習者が身につける「調理技能」を検討対象とすることから、一般には、個々
の操作方法、能力を示すと考えられる「調理技術」に関しては、一般化された意味の「調理技術」で
はなく、
「調理技能」という用語を用いることにする。
2.家庭科における調理技能の教育
(1)家庭科の歴史的変遷における調理技能の教育
家庭科で行われてきた調理技能の習得に関わる教育(調理技能の教育)は、その起源をたどれば、
戦前の家事科の割烹という授業がそれにあたる。家事科は、明治以降第二次世界大戦直後まで、女
子の中等教育おいて裁縫科と並ぶ良妻賢母養成のための科目、および、高等小学校の女子のための
科目であった。
高等女学校の学習内容は、1903 年に設定された高等女学校教授要目において「衣食住(衣服・食
物・住居)
」
「養老及育児(養老・育児・看病、伝染病の予防・整理及経済)
」9と示され、このうち
「割烹の実習は第 3 学年に於いて凡そ十回之を課するを常例とす。
」10と、調理実習が規定された。
この時期に高等女学校で行われた調理実習は、西洋料理および饗応食など、日常性の低いもので
あった11。それは、調理に関する事柄が日常的で、食物を扱うことが卑近なものと考えられ、学校
教育で扱うものとしてみなされにくかったためである12。そこで、一般には珍しい西洋料理や饗応
食の作り方を学習内容とすることによって、家事科教育における調理の学習を特徴付けることにな
ったのである。このように日常性の低い調理実習の学習内容は、高等女学校の卒業生が主婦として
の能力に欠ける、つまり技能の習得が不十分であるという批判を生み出すことにもなったと言われ
ている。高等女学校で学ぶ調理は、日常生活において有用な調理技能ではないということであった。
一方、高等小学校の女子に対する調理技能の教育は、施設の多くを小学校に頼っていたため、調
理実習を充分にできる環境ではない学校がほとんどであったといわれている13。もともと、高等小
学校の家事科教育は、女子に対する理科教育として考えられ、理科家事という教科が起源であった。
理科家事は、生活上の事象を科学的に捉えることを目的としており14、実際に体験して学ぶという
ことが重視されていたが、調理に関する学習は、施設設備の不備から、教師がやって見せる、調理
とはいえないほどの簡単な操作を順番に試してみる程度の実習が実施されることがほとんどであり、
やむを得ず知識を学ぶということが主に行われていた15。
第二次世界大戦後は、新しく誕生した家庭科という教科の中で調理の学習が行われた。戦後の家
庭科という教科は「技能教育ではない」
「女子教育ではない」
「家事科と裁縫科の合科ではない」16
と明示されて誕生したために、当初は技能を習得することより、
「家庭の蒸し器調査とその活用」17
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のように、生活改善の立場から取り組むことが求められた。
しかし、小学校では、男女ともに学ぶ内容として示された調理や被服について、男子には不要で
あるとされ、家庭科という教科そのものが不要とされる議論の末に生活技術を身につける科目とし
て存置され18た。一方、中学校、高等学校では、家庭科は女子の科目となり、なかでも調理は数多
くの料理を網羅するがごとく繰り返して調理実習を行いながら、主として調理技能の習得を目指し
て行われるようになった19。
その後、1989 年に告示された学習指導要領で、それまでの小学校のみならず、中学校、高等学校
においても家庭科が男女共修となり、食生活の自立を図るという視点から、日常的な調理技能の習
得が位置づけられるようになり、現在に至っている。
(2)家庭科における調理実習という授業
ここで、調理技能の教育が主として行われている調理実習の授業がどのようなものなのかを確認し
ておきたい。
教育実践に即した調理実習の研究知見を数多く示した武藤八恵子によれば、
調理学習は、
「調理学を基盤として、その科学的実証性に準拠しながら、人間の食べる食事としての調理のあり方
についての学習」20であり、この調理学習を行うための学習方法の一つが調理実習である。さらに武
藤は、なんとなくできてしまう調理実習に対する課題として、
「実習という指導方法の学習としての優
秀性に着目し、その学習効果を損なわない科学的学習過程を創出しなければならない。
」21と述べて
いる。目標を明確にして、それ見合った学習方法としての調理実習を考えることの重要性を指摘して
いるのである。
日本の家庭科教育で実施されている調理実習では、4∼5 人を1グループとして、一つの調理台を
共有し、協力していくつかの料理をつくるのが一般的である。グループで行うことから、共同的な学
習が成立している22ということが研究によって明らかにされている。一方で、グループによる学習場
面では、個々の学習者が一つの調理を最初から最後まで取り組むことができていないという問題点も
指摘されている。これは、調理に関する知識や技能を習得するという観点から、学習の成果が問われ
たものである。このような問題点を改善するために「一人調理」も数多く実施されているが、1 人調
理の場合にも、調理台や調理器具を共有する関係から、グループ内の学び合いがあるという報告23も
ある。調理実習という授業形態を、児童生徒が好む理由は、このような食品や調理を媒介として、自
然と学び合いが行われ、共有感があることによるのだろう。
また、この「一人調理」をベースとして、一食分の献立すべてを作ることを目ざした、
「1人・1品・
3まわり」の調理実習24も提案されている。これは、献立にある 3 つの料理を、1 人 1 品ずつ調理し、
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序章 問題の所在
担当する料理を順に代えて、3 回の実習を行うというものである。生徒が確実に 3 品を作ることがで
きるようになる、という長所がある一方で、3 回の調理実習を設定するための時間確保が問題となる。
ただし、一般には、調理実習の時間確保の困難な状況にあり、1 時間でできる調理実習の教材開発
なども行われるなど、何をどのように教えるか、という議論以前の問題をも抱えており、調理実習の
題材および内容の精選を充分にはかることが、喫緊の問題である。
3.調理技能の教育の再検討を必要とする背景
以上に示したように、調理実習は長年の実践の蓄積があり、現在でも家庭科の授業で多く実践され
る調理技能に関する教育である。しかし、これまでの実践および研究を基盤としながらも、食生活の
変化や子どもの実態の変化を勘案して、調理技能の教育を再検討し、調理技能の習得について再考す
る必要がある。その理由は、家庭科において調理技能の教育に関する理論が構築されていないこと、
さらに、食の問題が深刻化する今日的状況において家庭における調理技能の継承が困難になってきて
いるということの 2 つである。以下に、これらの調理技能の教育の再検討を必要とする状況について
順に詳述する。
(1)家庭科における調理技能の教育に関する理論の不在
先述したように、
「技能教科ではない」として誕生した家庭科教育においては、表立って調理技能の
習得を目指さない、目指せない事情があった。しかし一方で、1950 年前後に小学校の家庭科廃止論が
議論されたときには、
「男子に料理・裁縫は必要ない」という世論もあったと言われている25。つま
り、新しい家庭の建設を目指すと謳われた家庭科教育ではあったが、保護者をはじめ多くの人たちに
は技能教育と認識されていたのである。また、戦後しばらくの間は、中学校・高等学校で家庭科を指
導する教員は、実は戦前の家事科・裁縫科の教員であったことも、技能教育を重視する傾向を生み出
したと言われている26。
このように、戦後すぐの時期に技能教育ではない、新しい家庭建設のための教科であるとされた家
庭科教育であるが、主として女子向けの教科へと変質していくなかで、実際には調理技能の習得を目
指す実践も行われるようになった。
そのため、効率よく技能を習得することを重視した、包丁の使い方に関する研究27や、指導方法を
検討する研究28など、よりよく技能を習得させる方法について探究する研究が数多く行われてきた。
これらは実践に有用な知見を提供し、結果として調理技能の習得を教育目標とする調理実習を支持し
てきた。
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また、授業実践レベルでは、技能教育そのものと思われるような包丁技能の訓練等が行われること
もある。全国高等学校家庭科教育振興会が実施している食物調理技術検定29は、この一例としてあげ
ることができる。さらに、家庭科の教科書に掲載される調理実習の目標は「〇〇ができるようになる
こと」
「〇○のつくり方を理解すること」のように調理技能の習得とその理解が多く示されている30こ
とからも、調理技能の習得は、暗黙のうちに志向されていると考えられる。
しかし、調理技能の習得を理論的に教育の中に位置づけることは、行われていない。家庭科教育に
おいては、その教科理論を明確にする過程において生活技術に関する理論的検討は行ってきたが、食
生活と結び付く固有の技能としての、調理技能については、理論的な検討までは行われてこなかった
のである。
家庭科の教科理論に関する研究は、1950 年代後半から 1970 年代を中心に行われた。これらの家庭
科の教科理論に関する研究の特徴は、
福原美江によれば
「家庭科理論としての有効性をもつためには、
具体的・経験的事実としての授業を対象とする実証的研究は不可避である。このような方法意識で理
論仮説の作成段階から実証的研究段階まで、一貫して研究者と実践者による共同的・集団的研究を組
織して」行われ、
「このように、理論と実践、仮説と検証の統一を志向し、研究者と実践者によって組
織的・継続的に推進された研究は、家庭科研究史上、きわめて注目すべき意義をもつもの」31である
とされている。
ここでは、調理技能の検討は行われていないが、家庭生活に関わる生活技術について、家事労働と
の関連から論じられ、具体的な実践事例からも検討を加えて、技能の教育は科学的認識のための手段
であると位置づけられている。さらに、この科学的認識には、二つの段階があるとされ、生活認識か
ら社会的認識へと発展させることが目標とされた。ただし、調理技能に関する体験的な授業を通して
生活認識を深めることは可能であったが、さらに社会認識へと発展させるところには無理があるとい
う点が、仮説検証としての実践研究において論じられた32。
つまり、調理技能を含めた生活技術に関する教育は、教科の目標としての科学的認識力を高めるた
めの手段として位置づけられたが、科学的認識力のうち、社会的認識力を高める家庭科の教育目標を
達成するための手段としては、充分ではないということが、課題として明示されたのである。このこ
とは、身近な生活場面に関わる知識と技能の問題と社会全体の問題を、児童生徒が自らの問題として
引き受けること、知識と技能の関連をはかることの困難を示しているものと考えられる。
以上のような教科理論に関する研究を受けて、今日の家庭科の教科理論としては、技能・技術は教
科の目的達成のための手段、すなわち家庭生活運営の手段33として位置づけられるというところに落
ち着いている。1980 年代以降には、1960 年代に盛んに行われた先述の理論仮説を設定し、検証とし
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序章 問題の所在
ての実践を行うという、理論と実践を連携させた教科理論につながる研究が途絶えたこともあり、生
活技術についての検討も、調理技能に対する検討も行われないまま現在に至っている。
また、理論仮説の検証という位置づけではないが、この立場の主旨を具現化する実践の試みとして
は、技術教育を重視した産業教育研究連盟34による授業実践、および科学的認識力の育成を追究する
家庭科教育研究者連盟35による授業実践などが、継続的に報告されている。ただし、ここで示された
優れた実践についても、その内容が充分に理論化されるには至っていないのが現状である。
このように、家庭科教育研究においては、教科の理論としては生活技術・技能に関する学びを手段
と位置づけながら、調理実習に関する研究は、技能の習得を前提とする調査研究がほとんどであると
いった矛盾がある。また、実践においては、技能の習得を前提とした実践事例が数多くみられるにも
関わらず、その教育的意義を充分に検討しないまま、実践が蓄積されているという状況にある。つま
り、実践レベルで、継続して扱ってきた調理技能の教育について、調理技能の習得をどのように位置
づけたらよいのかということについて、
理論的な検討を行うことが、
緊急に求められていると言える。
(2)食生活問題の顕在化にみる家庭における調理技能継承の困難
現在は、食品産業の発達、流通技術の進歩によって、いつでもどこでも食べ物に不自由しない社会
である。このことは、先述したように、調理技能が必ずしも必要とされない生活が出現したというこ
とである。このような調理技能を必要としない、便利に食べ物を調達できるということは、実は必ず
しも食生活を豊かにしてはいない。たとえば、20 代男性の朝食の欠食が 3 割に上る36といった、食
べることそのものに関する問題状況がある。また、1980 年代より問題視されてきた、孤食や個食の問
題37など、食生活を営む上での諸問題も解決できないまま、現在では、一つの社会的な現象として受
け入れられつつある。
このような家庭における食生活の変容について、岩村暢子は、家族で囲む食事の概念が変りつつあ
る状況が、決して一部の家庭のものではないことを報告している38。また、キューピー(株)の食生
活総合調査においては、若い主婦ほど調理スキル(技能)が低い39ということが確認されている。こ
のような食生活の変化は、家庭において、調理技能を伝承しない、できないという事実を示すものと
考えられる。
また、筆者は、児童が箸を十分に使いこなせないという状態が、バランスのよい夕食をとっていな
いことと関連しているという研究知見40を示した。この研究で問題とした教育力の低下した家庭にお
いては、食生活の内容が貧困であり、なおかつ、次世代に対して調理技能の継承ができないという問
題も有していた。
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序章 問題の所在
調理技能は、そもそも、家庭における食生活を営むための手段であり、食生活をより豊かにするた
めの手段でもあった。そのため、親から子へと生活場面に即して継承されるという性質のものであっ
た。この親から子へ、という継承が不可能である家庭が多くなりつつある現状から考えれば、つくっ
て食べるという営みを、学校教育のなかでも教えることを、積極的に考える時期にきている。その際
に、従来家庭科で行われてきたような身体的な技能を習得するという側面のみで、調理技能の教育を
捉えるのでは、食生活を改善することにはつながらない。つくって食べるという日常の営みの中で考
えることが必要になる。また、同時に、身体的に調理技能を習得するということそのものの意味も再
考しなければならない。家庭科教育では、これまでも、習得した知識や技能を生活で活用することを
目ざしてきているが、あらためて、変化の激しい現在のこの日常生活のもとで、身体的に調理技能を
習得し、活用するということを再考する必要があると考える。
4.本研究の構成
本研究は、以上に述べたように、家庭科の教育実践レベルでは、調理技能の教育を継続して行って
きたにもかかわらず、調理技能の教育に関する理論が不在であり、必要とされていること、また、家
庭において、日常的に調理技能が継承されにくくなっているという2つの問題認識から、調理技能の
教育に関して検討を加えることとする。具体的には以下のような構成をとる。
第1章 先行研究の到達点と本研究の目的
1.調理技能の教育に関する研究の到達点
2.本研究の目的と研究視点
第2章 戦前の日本における調理の教授
1.戦前の家事科教育における調理実習の歴史的変遷
2.計量を重視する調理の教育への転換:近藤耕蔵による調理の計量化の教育的意義
第3章 戦後の学習指導要領における家庭科教育の調理技能の習得
1.調理技能の教育の位置づけについて検討する視点
2.戦後の学習指導要領の変遷
3.学習目標にみる各学校段階における調理技能の教育
4.学習内容にみる各学校段階における調理技能の習得の位置づけ
5.学習指導要領における調理技能の習得に関する問題
6.学習指導要領における調理技能の教育の位置づけと教育的意義
第 4 章 家庭科の教科理論およびカリキュラム研究における調理技能の教育の位置づけ
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序章 問題の所在
1.家庭科教育の教科理論およびカリキュラム研究の概要
2.教科理論における生活技術の位置づけ
3.カリキュラム研究における調理技能の教育の位置づけ
4.家庭科教育の教科理論、カリキュラム研究における調理技能の教育の位置づけと教育的意義
第5章 家庭科の実践事例に見る調理技能の教育
1.家庭科教育における調理技能の教育実践
2.実践事例にみる調理技能の教育の位置づけ
3.家庭科の食生活領域の教育実践における調理技能の教育
4.家庭科の教育実践における調理技能の習得
第6章 調理実習における調理技能の習得に関する調査研究
1.調理技能の教育に関する先行研究の到達点と本調査研究の目的
2.調理技能に関する知識の習得、調理技能の習得に対する認知、調理への意欲
3.調理技能の習得に対する認知を促す要因
第 7 章 改訂版タキソノミーおよび精神運動領域のタキソノミーを用いた調理技能の習得と知識の習
得の関連についての検討
1.調理技能の習得に関する認知的側面からのとらえ直し
2.教育目標の分類学を用いた調理技能の習得に関する検討
3.調理実習における調理に関する4つの知識次元の習得状況
4.調理技能の習得における精神運動的領域カテゴリーからの検討
5.調理技能の習得に関わるメタ認知的知識
6.調理技能の習得場面における知識と技能の関連
7.
「見て学ぶ」ということの教育的意義
8.観察調査から示唆された調理技能の教育の教育的意義
終章 調理技能の教育の教育的意義
1.戦前および戦後の家庭科教育における調理技能の教育の位置づけと教育的意義
2.調理実習における調理技能の習得の実態からみる調理技能の教育の位置づけと教育的意義
3.本研究の概要
4.本研究の成果
5.本研究において残された課題
10
序章 問題の所在
注および引用文献・参考文献
1
Jean Lave and Etienne Wenger, Situated Learning :legitimate Peripheral Participation,
Cambridge University Press, 1991, 佐伯胖,福島真人訳『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺
参加』産業図書,1993
2
食育基本法が 2005 年に施行され、各地方自治体においては、食育推進基本計画が策定されつつあ
る。学校教育においては、2005 年に栄養教諭制度が創設された。
3
河村美穂「食育実践事例の特徴:文部科学省委託事業の実践事例の分析から」日本家庭科教育学会
第 53 回大会,研究発表要旨集,2010,pp.74−75.
4
青木香保里「
「生活スキル」とは何かー生活技術から生活スキルへー」日本家庭科教育学会編『生
活をつくる家庭科,第 1 巻,個人・家族・社会をつなぐ生活スキル』ドメス出版,2007,pp.24-27.
5
河村美穂「技能・技術のとらえ直しと生活スキル」日本家庭科教育学会編『生活をつくる家庭科,
第 1 巻,個人・家族・社会をつなぐ生活スキル』ドメス出版、2007,p42-43.
6
山崎清子、島田キミエ、渋川祥子、下村道子『調理と理論(新版)
』同文書院、2003,p2
7
ただし、現状では個人が駆使する「調理技能」を厳密に区別しないまま、
「調理技術」と称する場
合もある。
中間美砂子『家庭科教育学原論』家政教育社,1987,p51
8
9
高等女学校研究会『高等女学校資料集成』第一巻法令篇 大空社,1990,pp.71−72.
10
11
同前 p73,
江原絢子『高等女学校における食教育の形成と展開』雄山閣出版,1998,p141.
常見育男『家庭科教育史増補版』光生館,1972,p16.
12
野田満智子「わが国における家事実習施設の系譜(第 1 報)−源流としての伝統的家事実習施設−」
13
日本家庭科教育学会誌,30(3),1987,pp.31−32.
野田満智子『日本近代学校教育における「家事」教育成立史研究』ドメス出版,1999
14
15
同前
山口寛子「戦後の家庭科教育」大学家庭科教育研究会編『現代家庭科研究所説』
,明治図書,1972,
16
pp.28-29
17
学習指導要領(試案)家庭 文部省,1947.
堀内かおる「戦後初期小学校家庭科廃止論をめぐる家庭科教育関係者、文部省、CIE の動向(第 1
18
報)−「廃止論」の台頭から存置に至るまでの経緯−」日本家庭科教育学会誌,38(1),1995,pp.25
−31.
河村美穂「学習指導要領における調理学習の位置づけとその変遷」年報・家庭科教育研究,第 29
19
集 2006,p11-12.
20
21
武藤八恵子『食物の授業』
,家政教育社,1989,p.12
同前,p.14
11
序章 問題の所在
武藤 八恵子 , 武田 紀久子 , 河村 美穂 , 川嶋 かほる , 小西 史子 , 石井克枝「調理実習にお
ける共同的な学び(第 2 報) : ケーススタディにみるコミュニケーションの形成調理の学び」
,日
本家庭科教育学会誌,46(2), pp.146-155.
23 河村美穂、武藤八恵子、川嶋かほる、石井克枝、武田紀久子、小西史子「調理実習における問題
22
解決的な取組みに関する実践的研究」日本家庭科教育学会誌,46(3),2003,pp.250-251.
24
25
中屋紀子,平本福子,堀江和子『1人・1品・3まわり新しい調理実習の試み』
,教育図書,2002
前掲書 18
26
田結庄順子『戦後家庭科教育実践研究』梓出版社,1996.
27
鈴木洋子「包丁技能習得のための被切断物の大きさ」日本家政学会誌,55(9)
,2004,pp.733-741
28
田部井恵美子、東節子「小学校における皮むきの技能指導」日本家庭科教育学会誌,31(1), 1988,
pp15-21
29
1 級 2 級は専門職養成のため、3,4級は日常生活の調理技能を高めることを目的として行われ
ている。普通高校においては、3,4級を学校単位で申し込み、家庭科教員が試験官となって実
施することがほとんどである。近年受検する高校は増加傾向にあると言われている。
30
河村美穂,千葉悦子「高校家庭科教科書における調理実習の掲載状況および課題」日本家庭科教
育学会誌,50(3),2007,pp.184-192
31
福原美江『家庭科の理論と授業研究』光生館,1990,p117
32
同前,福原美江,p130
朴木佳緒留「家庭科における「技術・技能」教育の位置―技術・家庭科誕生前後の経緯―」大学
33
家庭科研究会編『男女共学家庭科研究の展開』法律文化社,1993,pp.20−32.
34
1954 年に設立された職業教育研究会を前身とした、技術・家庭科の教育実践を主とした研究団体
である。詳細は、第 4 章 1.(2) 技術教育的視点による家庭科の教科理論における生活技術 のと
ころに示す。
35
1966 年に設立された家庭科の教師を対象とした研究団体である。詳細は、第 5 章 3.(1) 飯野こ
うの教育実践における調理技能の教育 のところで示す。
36
厚生労働省健康局総務課生活習慣病対策室
『平成 20 年国民健康・栄養調査結果の概要』
2008,
pp.27
−28
孤食は、家族がいても一人きりで食事をとること、個食は、家族と食卓を共にしてもそれぞれが
異なるメニューの食事をとること。子どもの食生活実態を含めた詳細については、足立己幸,NHK
「子どもたちの食卓」プロジェクト『知っていますか子どもたちの食卓』NHK 出版,2000 に示さ
れている。
38 岩村暢子『家族の勝手でしょ!写真 274 枚で見る食卓の喜劇』新潮社,2010
39 キューピー第 19 回食生活総合調査(2007 年実施)
http://www.kewpie.co.jp/company/corp/newsrelease/2008/61.html
40 河村美穂,高橋愛「箸の持ち方と食生活との関連 : 小学校低学年における調査より」埼玉大学紀
要. 教育学部 57(2),2008, pp.37-46
37
12