YMN001206

複合してサ変動詞を作る漢字語の意味分類②
廣濱 文雄
ものである。それは、和語と漢語の表現効果を考えたとき、その 先
この造語法は、漢文を訓讃するようになってから急に多くなった
つづくものである。
と は言え、古く
ことぼの 簡
長 とも思える和語に較べ、漢語はまことに簡潔である。
潔さを貧重 する心は、今も昔も同じであったろう。
は、いわゆる漢語は、世間一般の和語偏重の考え万から、かならず
さ らにまた、
漢文と和文の語序の違いも、このような造語法を考え出させるきっ
しも 妥営 な評 償を得ていたとは言えないようである。
三百語と、任意選択によって補充した約八千五百語をム口わせた約三
もとにして
その後、国語、中でも動詞の中では中心的な地位を得るようにな
かげになったものであろう。
た。
った。とくに、漢語が急速に増えた明治初期 は 、それを
そこで、前述の語彙表を検討してみると、異なり語数では、
造られる複合 サ 愛が急速にのびた時でもあった。
て動詞を作っている。ときには、外国語とさえもそのような例が見
①一字漢字詰
約二、四 00 語 ︵二八話︶
0 語 ︵四二至む
える。このような現象が好ましいとか、好ましくないかは、ム
﹁は問
②二字
と複合しているもの約二八
わない。
現代語でも入するV は、ずいぶん自由に、おもに名詞と結び付い
複合 サ愛の造語法
萬 六千八百語の中から、複ムロ愛
サを作っている漢字語を 採り出し
その全紙面から、十二分の一の割り合いで抽出した話約二萬 八千
間 の廣告を除いた全紙面である。
での一年
﹁郵便報知新聞﹂の明治十年十一月から同十一年十月ま
資料
に
この論文は、﹁國立圃語研究所論集ことはの研究第 2集ロけ
ヘ
/
③三字
①四字
三四四一六
. 八六七
語数
ぬ五 0 語 ︵ 0
︶
ャンセルする﹂それに﹁ダイヤルする﹂これは・雷電 公社 の
て作られることなどを、とやかく言っている。﹁デートする﹂
がめて、みたかったのである。
方法
,ぇば 和語動詞の表現で欽
意味の分類をするに嘗 っては、複合した動詞としてで
の意味を封 象 とした。
分類の基準としたものは、自分類語彙表しによった。
た
接岸的に付いている サ愛動詞を外してしまった、漢字妾m、それ
はなく
ころはどんな難かる、過去の、特徴のある、一時期を とらえ
を 分担していたか、立場を愛えて甘ロ
ということに注目した。この造語法による動詞は、どんな意味
い。それよりも、むしろ、新しい動詞がこんな形でしか作り得
もよさそうである。その営否を問うことが、この考察の目的で
これからも 椙獄 をきわめてゆきそうである。と、一往豫 想 をた
とすると、この造語法は、減るどころか、新種の語彙を蚕食
ほやされもしたものだったけど。
さる文部大臣の﹁科畢 する 心 ﹂が 、ず いぶんとさあがれ もし、
一%
日一冊
︶
なねち、いろⅠⅠの君が、いわばこまぎれのように使 われていると
いうことになる。それは、前記の、十回以上使われているものが少
ないということにも通ずる。
意味の分類をするということ
語 ともなっているに至っては、言語道断だと言う。
︵ 0
約一四 0語
つ
た。かっこの中は、十回以上使われていた語であ
藪
という結果になっ
五三一 0 六
三四五姉七
サ 愛を、層別に分けてながめてみると、
語
さらに、一括し て複合
網
る。
0 四一一四口
ぎのようになる。
り
おおむね一話が二回使われているという平均値になっていろ。す
五三 0 六二
國語の方向つげは、歴史の流れにさからって行なってほ、思うよ
るだけ 忠實 にと努力したが、全用例を採集ヵ ー ド にあた って み
げではないし、それに、多くのものは,その頃だけ 使わ
て
自
異
うな効果を畢げられるものではない。
語に付い
上
ノ
、一一一
身
で
き
た
わ
て
、
八
一
層
a
b
c
d
e
うたかたの如く消え去ってしまったものも多く 蹄曹 によって意味
を確かめてみる事ができないものがあることを断ってお く 。
分類表からわかったこと
㈲博達の能率11簡潔に、しかも具膿 的に表現したい
・一五 ︶の項で
上
八四
八帰港するⅤ八婦祀するVという造語法をとればいわ
いけである。
同様に、八知るVといっても、その知り万が問題に
な合もあ
る場
ろう。八確知する
V 八辮卸するV 八明知する
V 八間卸するV 八
ているという印象さえ受ける。然し。その反面、たしか
偵知する
V 八察知する
V等々、いささか度か過ぎる知
、識を街っ
の間には微妙な違いがあり、それを見博
事え
にてくれている。その
ニ
すなね ち、
博え万が問題である。文字によっ
博て
えることは、
営ぬ、同音譜・
他 のものと比較して多く集っているのは、
入作用 V 八動き V 八過程・経路V 門出入りV 八 上 がり下がり V
ある。ここは、人間活動のわくに腐する部分、である。
八離合,集合V 八接投 ・接近V 八翼形 V八 増減 V 等 の見出しこ
そういえば、
類音語が生まれることも考えていなければならぬ。
とばである。
ぼ向する 婦港する 婦校する 掃饗する一・一五一
・一三四
行為を示すもので 去口い換えれば,そのすがたに 閲する部公 である。
進入する参入する侵入する
混渚する混交する
八心 V 八快 ・喜び・驚き V 八封人感情 V 八表情 V 八 自我・ 信
入館する人濫する
・一五三
0︶も多い。これほ、人間活動の中の精 軸 および
念 ・努力・忍耐 V 八 練習まね・ 畢習 V 凡知・知識・ 意 見 V八意味
配置する排置する
・一五五
一万二・三
問題・趣旨 V 八原理,規則・主義V 八見聞き V で代表される グ
分賦する 分付する
・三①四
超過する 超加する 超駕する一・一五八
伸張する拡張する伸暢する
ループである。
そのいずれもが、 具膿的な表現を求められる度合の高い部分で よの
ると言えそうである。
孤負する 墓負する
希望する朔望する企望する
八港へ掃るV 八社 へ婦る V等々の場合があるわけであ る。それを
別祝する蔑視する
例えば、八館 るV ということでも、八期に婦る V 八寧 校へ婦る Ⅴ
適確に一話で表わすに は、それぞれ、八館 懸 する V 八 婦 校する V
軽視する 錘祝 する
何となれば、その語の音がどう あろうとも、前述のよ, フに、文字に
しの資料は新
ナ
間 であるもっとも、私の祀父などは、新聞を昔
一、二0 九
よって 博え 合いを行ない得たのであるから。まして
一、一一一一一一一
追 い、口で登 青 し 、耳で確かめる。それを、一人で行な うあ げであ
分自身の理解の鳥の手段としての昔讃 であったらしい。 目で文字を
非難する 誹難 する
誹致する誹議する
一、三一四
讃 していた。 自
上進する上申する
一、三五 0
燈記する一、三一五
監督する 督濫 する
ムロ
わせが見える。
一、二二八五
浩濡する清治する
するについて、共通した法則といつたものを見付けるナ﹂とはできな
ぅ考える。今日では、そのどちらか一つに固定している。その固定
私は 、こ
る。これは、どういうことなのか。私はまだ考えてみたことがな
詳記する抄記する
つぎのような語の組み
監守する管守する
一、三六 セ
還償する償還する
一、二二八出
冊
親交する親好する
就畢する惨事する
匡正する矯正する
制限する省減する
一、三六八
闘争する争闘する
讃 縛する
稗讃する賞賛する
一、二 セ 0
逓送する
檎 讃する
抱蔵 する
一、三八五
このような語が 、 並んで行なわれていたということを、
救治する 窮 治する
使用する私用する
一、五八一
包蔵する
成長する生長する
一五八四
送遍 する
窺傷する致傷する
す なね ち、
いけれども、一往の豫
これらはそれぞれ同じ分類項目の中にあるのである。
類義語であって同音 語 ・類音語である。それだげに 同 土日語の中で
とが、その原因ではないかと見富 をつけている。後日、
想 としては、 豊校教育という場で使われたこ
も、もっとも混乱の起る可能性の多いものになるわけである。が 、
をと考えている。それはそれとして、手順が反するものが、同じ場
その 跡 。
つげ
この明治初期にあっては、そのような鮎を考える必要はなかった。
Ⅰ八五
で使われていたのは、漢字詰 は、漢字一字が いわぼ造語要素と考
えていたからであろう。たしかにその通りではあるが、漢字詰 は、
大部分漢語であり、外来語・外国語としての性格を 持つものであ
る。和製漢語を作るのほ。ある意味で邪道であろう。 合 は,多く
﹂とが思いあ
の和製英語が生まれ、識者のヒンシュクをかっているナ
わされる11だから研究途上、どうもわからない語にっきあたり、
諸橋漢和辞典を検索して、そこに掲げられていることは、まずまず
ぅ とすれば、やはり、
秋冷の候貴下盆々御漬柴の段奉賀候
となるわけで、
お元気のこと喜びをり候
占ノト
ム
ノ
Ⅹ
そこまで言わなくても、この分類表に見える語彙を
日の新聞記
,﹁
ム
性を追おうとする時に、 ㈲に述べたような新造語が生せ
フとか、迫真
出来上っている。その型の中に、つとめて個性を出そ,
事の中に置いて考えてみるだけで、思い半に過ぎるものがあろう。
義 と考えてよい。そして、八樽V と八講V とがもと もと持って い
である。 貫之が 和文で土佐日記を書いたことの意義を、 西鶴が 俳諸
なかったと言ってもいい。八%讃するV と八講縛するV は、全く同
る意味を愛えずに結合しているのである。だから、語を構成してい
ムれてくるの
る文字にたよって理解する側にあっては、どちらが先 になっていよ
の俳歌から散文に移ったことの意義を考え併 わせて理解するの ほ、
嘗て 、私は明治初期の小事生の作文を調査する折があ った。そし
少々飛躍しすぎるであろうか。
うとも正しい理解を妨げられることはなかったので ある。
ただ、修飾開係にあるものの中には、そう はならぬものもある。
例えば、八専撃するV 八白解するV などである。しかし、八 明@
数種の型を身につけ、その中に各自の持つ語を挿入して行くという
て、その作品の個性の無さに驚いた。まず型を興えるナ
﹂と。文章の
こう考えると、手順の王通二通りの語が行なわれていたことは、
作業をすることが、作文であった。こんな姿を、 私は 、往来物柄 と
するV六言明するV の例もあり困ってしまう。
意字としての漢字の働きだげに頼っていたので、よみがどうであろ
呼びたい。
極まれりと言う
チ画
一
。
へ一
き教
か。
育の弊害も、ここまで来れば、まことに、・
うと、そんなことに、心を配る必要なかったのである。
㈹漢字語を使っての登想@@慣用と類型
が、
︶を書こ
候文購で手紙・︵書簡という万がふさわしいようである
0表でもわかるよう に、一字のは、異なり語数は少なく、その上、
裏 のついでに、一字漢字詰と三字漢字語 のにふれておこう。前記
完全する
下劣する
三、一三四
三、一九九
二、三三 0
などは、どう考えたらいいか。こんなことにっいては、池上模造教
秀絶する
である。それに、複合しているという意識を持つていないというこ
授 ︵
國語 ・闘文二十三巻十一端︶の詳細な研究がある。
使われる度数が多い。限られた語が、たびたび使われるということ
とも特徴と言えよう。それほ、現代国語では、五段活用をとること
その中で、
例
研究補償妥協
﹁する﹂をとって動詞化するもの
をみてもわかる。
三字のにも、大きな特徴が見える。異なり語数は、正確には四八
語あった。そのうち、二八話は、八相ミす V で残りのうち十二話は
を、拳げておられる。そして、
﹁する﹂を取り除けば名詞になるといふことは
、動詞の名詞化を
八火災祝す V 八鬼神税す V 八年羊祝す V 八兇暴祝す V 八讐敵視
す V 八粗悪税す V 八旦那祝す V 八安房祝すV 八東独祝すV 八
ここで行ってゐることなのである。
かれつっ、
という例を、﹁無活用名詞﹂﹁動詞素﹂などの稟 説 による命名を引
東京に出張、ホテルに一泊、翌日掃阪
性 という呼び万を興えておられる。さらに、
と説明を加えておられる。また、慎重に、動詞とは呼ばれず、動詞
患者祝す V 八馬鹿祝す V である。 これこそ、往来物禍の典型とい
う。
へきものである。
㈲この漢字語の品詞
辞書には、これらのものを、普 通は名詞として登録してある。
たしかに、八 いほりす V八やど り す V などか ぅ和語の例を援用す
れば、﹁名詞干す﹂という公式が成立するであろう。ところが、こ
閃々する 暁 々する明白する
二、三 セ
三、五 0 一
すものと考へられる。
興 があればこそ、名詞的表現の多い中にあってよくその機能を果
めやうな機能の厘別を見出すことができる。かそうな動詞性の賦
外形は同じく無愛化の、革鎧の用ゐ万でも、そ の用法によって 止
貴重する
二、三四四
とばは、そう公式通りにはいかな いものである。なかでも、
因循する
六セ
と途。へられた。
ここで、私は、
キャッチするハイク る
六八
強いように思われる。勿論、外来語一般に通じることだがまた事
實、外形は不愛化で一見名詞と感じられたのである
という、﹁感じられる﹂
だげなのである。というなら,
八キャッチ V
も名詞と感じられるから名詞とすべきものなのだろうカ
結論を言おう。
という現代語の用法を思い出した。いわゆる俗語・流行語として片
付 げられているようだが、この語意識は、 いみじくも営面の問題を
私は、この語彙の大部分に、あえて品詞を付けるなら、動詞にす
和語の複合 サ愛とは別に考えるべきである。漢語に付けられた サ
へきである。
解くヒントを興 えてくれている。ハ キャッチV 八八 々 クV が、後者
が俗語であっても、原語はれっきとした動詞である。し かし、動詞
でも、それを日本語風 に活用させるあげにはいかない。だから、活
ある。しかし、中止法としての用法では、その必要がない。それこ
活用語尾として、サ愛動詞を、それこそ接尾語風 に付 げ加えたので
語 である。外来語である。活用させるあげにはいかない。だから、
随筆する 博謝する
演劇する
完全する
以上のようになると、
一、二一0
一、一一一一一一
二三二四
三、一九九
愛は、活用させる鴬の接尾的要素である。
そ蛇足であったねげである。
隠居する分家する
一、一セセ
用 できる接尾語を付けたのである。漢字詰とても、そ の大部分は漠
㈲自己中心の論議、
懐中する
あったねげである。それに抵抗を感ずるその心こそが、漢語が動詞
などは、むしろ抵抗を感ずるけれども、それこそ、和語の造語法で
科睾する︵心︶
騒ぎになった
や、それに、前にもふれたが、一時、文部大臣ともあろう者がと大
㈹自己中心に論議、
この二つの用例における八論議 V を、㈲は名詞で、㈹は 動詞性名
詞又は名詞性動詞ということにしていいものか。そう考えるのは、
品詞は名詞であっても、㈹は、名詞としての特別な働 きということ
にして解決するのであろう。品詞とは、俗に言う、素性 である。
類似の面からいえぼ、大まかに見て、漢語というもの は名詞牲が
返したものと言っていいのでないか。
あでる薮の上からの稀少性からで はなくて11 ことの感覚を裏
に、八 こと V を機械的に付けて、名詞である、と決めてしまうこと
國 V などは、 八國へ帰 る。V という、文の樺裁 をとって いる、それ
とで、
ナ
』』
さらに
二、三 セ
二、三四四
三、一九九
二、三三 0
,悪
閃々する 暁 々する明白する三、五 0 一
貴重する
因循する
下劣する
完全する
などについては、少々戸迷ってしまう。八閃々する V や入院々する
V については、 ハ ハッとするV 八ギ,ッ とするV などと同列に扱
つていいようにも思える。八閃々 V 八陣々 V は漢語の擬態語であ
るから。
弛め、八明白 V八貴重 V等 は、俗に言う﹁形容動詞の韓語﹂とす
れば、名詞と同格と考えてよいであろうか。然し、正親の名詞とは
言えない。
以上個々のものについて、些細に瞼試してみると、結 局は、品詞
とは何ぞや、に 戻っていってしまう。また、漢語の品詞性 を問うこ
とは無意味にもなるであろう。何となれば、それは、外 國語 ︵外来
語︶なのである。しかも、この漢語なるものは、多くは、語という
よりは何とか、文とか呼ぶのがふさわしいものである。例えば八館
九
ろど
;@1@'@
""""
ま
複
っ
し
を
資
は 訓 国 が
も
地
れ 文