複合してサ変動詞を作る漢字語の意味分類② 廣濱 文雄 ものである。それは、和語と漢語の表現効果を考えたとき、その 先 この造語法は、漢文を訓讃するようになってから急に多くなった つづくものである。 と は言え、古く ことぼの 簡 長 とも思える和語に較べ、漢語はまことに簡潔である。 潔さを貧重 する心は、今も昔も同じであったろう。 は、いわゆる漢語は、世間一般の和語偏重の考え万から、かならず さ らにまた、 漢文と和文の語序の違いも、このような造語法を考え出させるきっ しも 妥営 な評 償を得ていたとは言えないようである。 三百語と、任意選択によって補充した約八千五百語をム口わせた約三 もとにして その後、国語、中でも動詞の中では中心的な地位を得るようにな かげになったものであろう。 た。 った。とくに、漢語が急速に増えた明治初期 は 、それを そこで、前述の語彙表を検討してみると、異なり語数では、 造られる複合 サ 愛が急速にのびた時でもあった。 て動詞を作っている。ときには、外国語とさえもそのような例が見 ①一字漢字詰 約二、四 00 語 ︵二八話︶ 0 語 ︵四二至む える。このような現象が好ましいとか、好ましくないかは、ム ﹁は問 ②二字 と複合しているもの約二八 わない。 現代語でも入するV は、ずいぶん自由に、おもに名詞と結び付い 複合 サ愛の造語法 萬 六千八百語の中から、複ムロ愛 サを作っている漢字語を 採り出し その全紙面から、十二分の一の割り合いで抽出した話約二萬 八千 間 の廣告を除いた全紙面である。 での一年 ﹁郵便報知新聞﹂の明治十年十一月から同十一年十月ま 資料 に この論文は、﹁國立圃語研究所論集ことはの研究第 2集ロけ ヘ / ③三字 ①四字 三四四一六 . 八六七 語数 ぬ五 0 語 ︵ 0 ︶ ャンセルする﹂それに﹁ダイヤルする﹂これは・雷電 公社 の て作られることなどを、とやかく言っている。﹁デートする﹂ がめて、みたかったのである。 方法 ,ぇば 和語動詞の表現で欽 意味の分類をするに嘗 っては、複合した動詞としてで の意味を封 象 とした。 分類の基準としたものは、自分類語彙表しによった。 た 接岸的に付いている サ愛動詞を外してしまった、漢字妾m、それ はなく ころはどんな難かる、過去の、特徴のある、一時期を とらえ を 分担していたか、立場を愛えて甘ロ ということに注目した。この造語法による動詞は、どんな意味 い。それよりも、むしろ、新しい動詞がこんな形でしか作り得 もよさそうである。その営否を問うことが、この考察の目的で これからも 椙獄 をきわめてゆきそうである。と、一往豫 想 をた とすると、この造語法は、減るどころか、新種の語彙を蚕食 ほやされもしたものだったけど。 さる文部大臣の﹁科畢 する 心 ﹂が 、ず いぶんとさあがれ もし、 一% 日一冊 ︶ なねち、いろⅠⅠの君が、いわばこまぎれのように使 われていると いうことになる。それは、前記の、十回以上使われているものが少 ないということにも通ずる。 意味の分類をするということ 語 ともなっているに至っては、言語道断だと言う。 ︵ 0 約一四 0語 つ た。かっこの中は、十回以上使われていた語であ 藪 という結果になっ 五三一 0 六 三四五姉七 サ 愛を、層別に分けてながめてみると、 語 さらに、一括し て複合 網 る。 0 四一一四口 ぎのようになる。 り おおむね一話が二回使われているという平均値になっていろ。す 五三 0 六二 國語の方向つげは、歴史の流れにさからって行なってほ、思うよ るだけ 忠實 にと努力したが、全用例を採集ヵ ー ド にあた って み げではないし、それに、多くのものは,その頃だけ 使わ て 自 異 うな効果を畢げられるものではない。 語に付い 上 ノ 、一一一 身 で き た わ て 、 八 一 層 a b c d e うたかたの如く消え去ってしまったものも多く 蹄曹 によって意味 を確かめてみる事ができないものがあることを断ってお く 。 分類表からわかったこと ㈲博達の能率11簡潔に、しかも具膿 的に表現したい ・一五 ︶の項で 上 八四 八帰港するⅤ八婦祀するVという造語法をとればいわ いけである。 同様に、八知るVといっても、その知り万が問題に な合もあ る場 ろう。八確知する V 八辮卸するV 八明知する V 八間卸するV 八 ているという印象さえ受ける。然し。その反面、たしか 偵知する V 八察知する V等々、いささか度か過ぎる知 、識を街っ の間には微妙な違いがあり、それを見博 事え にてくれている。その ニ すなね ち、 博え万が問題である。文字によっ 博て えることは、 営ぬ、同音譜・ 他 のものと比較して多く集っているのは、 入作用 V 八動き V 八過程・経路V 門出入りV 八 上 がり下がり V ある。ここは、人間活動のわくに腐する部分、である。 八離合,集合V 八接投 ・接近V 八翼形 V八 増減 V 等 の見出しこ そういえば、 類音語が生まれることも考えていなければならぬ。 とばである。 ぼ向する 婦港する 婦校する 掃饗する一・一五一 ・一三四 行為を示すもので 去口い換えれば,そのすがたに 閲する部公 である。 進入する参入する侵入する 混渚する混交する 八心 V 八快 ・喜び・驚き V 八封人感情 V 八表情 V 八 自我・ 信 入館する人濫する ・一五三 0︶も多い。これほ、人間活動の中の精 軸 および 念 ・努力・忍耐 V 八 練習まね・ 畢習 V 凡知・知識・ 意 見 V八意味 配置する排置する ・一五五 一万二・三 問題・趣旨 V 八原理,規則・主義V 八見聞き V で代表される グ 分賦する 分付する ・三①四 超過する 超加する 超駕する一・一五八 伸張する拡張する伸暢する ループである。 そのいずれもが、 具膿的な表現を求められる度合の高い部分で よの ると言えそうである。 孤負する 墓負する 希望する朔望する企望する 八港へ掃るV 八社 へ婦る V等々の場合があるわけであ る。それを 別祝する蔑視する 例えば、八館 るV ということでも、八期に婦る V 八寧 校へ婦る Ⅴ 適確に一話で表わすに は、それぞれ、八館 懸 する V 八 婦 校する V 軽視する 錘祝 する 何となれば、その語の音がどう あろうとも、前述のよ, フに、文字に しの資料は新 ナ 間 であるもっとも、私の祀父などは、新聞を昔 一、二0 九 よって 博え 合いを行ない得たのであるから。まして 一、一一一一一一一 追 い、口で登 青 し 、耳で確かめる。それを、一人で行な うあ げであ 分自身の理解の鳥の手段としての昔讃 であったらしい。 目で文字を 非難する 誹難 する 誹致する誹議する 一、三一四 讃 していた。 自 上進する上申する 一、三五 0 燈記する一、三一五 監督する 督濫 する ムロ わせが見える。 一、二二八五 浩濡する清治する するについて、共通した法則といつたものを見付けるナ﹂とはできな ぅ考える。今日では、そのどちらか一つに固定している。その固定 私は 、こ る。これは、どういうことなのか。私はまだ考えてみたことがな 詳記する抄記する つぎのような語の組み 監守する管守する 一、三六 セ 還償する償還する 一、二二八出 冊 親交する親好する 就畢する惨事する 匡正する矯正する 制限する省減する 一、三六八 闘争する争闘する 讃 縛する 稗讃する賞賛する 一、二 セ 0 逓送する 檎 讃する 抱蔵 する 一、三八五 このような語が 、 並んで行なわれていたということを、 救治する 窮 治する 使用する私用する 一、五八一 包蔵する 成長する生長する 一五八四 送遍 する 窺傷する致傷する す なね ち、 いけれども、一往の豫 これらはそれぞれ同じ分類項目の中にあるのである。 類義語であって同音 語 ・類音語である。それだげに 同 土日語の中で とが、その原因ではないかと見富 をつけている。後日、 想 としては、 豊校教育という場で使われたこ も、もっとも混乱の起る可能性の多いものになるわけである。が 、 をと考えている。それはそれとして、手順が反するものが、同じ場 その 跡 。 つげ この明治初期にあっては、そのような鮎を考える必要はなかった。 Ⅰ八五 で使われていたのは、漢字詰 は、漢字一字が いわぼ造語要素と考 えていたからであろう。たしかにその通りではあるが、漢字詰 は、 大部分漢語であり、外来語・外国語としての性格を 持つものであ る。和製漢語を作るのほ。ある意味で邪道であろう。 合 は,多く ﹂とが思いあ の和製英語が生まれ、識者のヒンシュクをかっているナ わされる11だから研究途上、どうもわからない語にっきあたり、 諸橋漢和辞典を検索して、そこに掲げられていることは、まずまず ぅ とすれば、やはり、 秋冷の候貴下盆々御漬柴の段奉賀候 となるわけで、 お元気のこと喜びをり候 占ノト ム ノ Ⅹ そこまで言わなくても、この分類表に見える語彙を 日の新聞記 ,﹁ ム 性を追おうとする時に、 ㈲に述べたような新造語が生せ フとか、迫真 出来上っている。その型の中に、つとめて個性を出そ, 事の中に置いて考えてみるだけで、思い半に過ぎるものがあろう。 義 と考えてよい。そして、八樽V と八講V とがもと もと持って い である。 貫之が 和文で土佐日記を書いたことの意義を、 西鶴が 俳諸 なかったと言ってもいい。八%讃するV と八講縛するV は、全く同 る意味を愛えずに結合しているのである。だから、語を構成してい ムれてくるの る文字にたよって理解する側にあっては、どちらが先 になっていよ の俳歌から散文に移ったことの意義を考え併 わせて理解するの ほ、 嘗て 、私は明治初期の小事生の作文を調査する折があ った。そし 少々飛躍しすぎるであろうか。 うとも正しい理解を妨げられることはなかったので ある。 ただ、修飾開係にあるものの中には、そう はならぬものもある。 例えば、八専撃するV 八白解するV などである。しかし、八 明@ 数種の型を身につけ、その中に各自の持つ語を挿入して行くという て、その作品の個性の無さに驚いた。まず型を興えるナ ﹂と。文章の こう考えると、手順の王通二通りの語が行なわれていたことは、 作業をすることが、作文であった。こんな姿を、 私は 、往来物柄 と するV六言明するV の例もあり困ってしまう。 意字としての漢字の働きだげに頼っていたので、よみがどうであろ 呼びたい。 極まれりと言う チ画 一 。 へ一 き教 か。 育の弊害も、ここまで来れば、まことに、・ うと、そんなことに、心を配る必要なかったのである。 ㈹漢字語を使っての登想@@慣用と類型 が、 ︶を書こ 候文購で手紙・︵書簡という万がふさわしいようである 0表でもわかるよう に、一字のは、異なり語数は少なく、その上、 裏 のついでに、一字漢字詰と三字漢字語 のにふれておこう。前記 完全する 下劣する 三、一三四 三、一九九 二、三三 0 などは、どう考えたらいいか。こんなことにっいては、池上模造教 秀絶する である。それに、複合しているという意識を持つていないというこ 授 ︵ 國語 ・闘文二十三巻十一端︶の詳細な研究がある。 使われる度数が多い。限られた語が、たびたび使われるということ とも特徴と言えよう。それほ、現代国語では、五段活用をとること その中で、 例 研究補償妥協 ﹁する﹂をとって動詞化するもの をみてもわかる。 三字のにも、大きな特徴が見える。異なり語数は、正確には四八 語あった。そのうち、二八話は、八相ミす V で残りのうち十二話は を、拳げておられる。そして、 ﹁する﹂を取り除けば名詞になるといふことは 、動詞の名詞化を 八火災祝す V 八鬼神税す V 八年羊祝す V 八兇暴祝す V 八讐敵視 す V 八粗悪税す V 八旦那祝す V 八安房祝すV 八東独祝すV 八 ここで行ってゐることなのである。 かれつっ、 という例を、﹁無活用名詞﹂﹁動詞素﹂などの稟 説 による命名を引 東京に出張、ホテルに一泊、翌日掃阪 性 という呼び万を興えておられる。さらに、 と説明を加えておられる。また、慎重に、動詞とは呼ばれず、動詞 患者祝す V 八馬鹿祝す V である。 これこそ、往来物禍の典型とい う。 へきものである。 ㈲この漢字語の品詞 辞書には、これらのものを、普 通は名詞として登録してある。 たしかに、八 いほりす V八やど り す V などか ぅ和語の例を援用す れば、﹁名詞干す﹂という公式が成立するであろう。ところが、こ 閃々する 暁 々する明白する 二、三 セ 三、五 0 一 すものと考へられる。 興 があればこそ、名詞的表現の多い中にあってよくその機能を果 めやうな機能の厘別を見出すことができる。かそうな動詞性の賦 外形は同じく無愛化の、革鎧の用ゐ万でも、そ の用法によって 止 貴重する 二、三四四 とばは、そう公式通りにはいかな いものである。なかでも、 因循する 六セ と途。へられた。 ここで、私は、 キャッチするハイク る 六八 強いように思われる。勿論、外来語一般に通じることだがまた事 實、外形は不愛化で一見名詞と感じられたのである という、﹁感じられる﹂ だげなのである。というなら, 八キャッチ V も名詞と感じられるから名詞とすべきものなのだろうカ 結論を言おう。 という現代語の用法を思い出した。いわゆる俗語・流行語として片 付 げられているようだが、この語意識は、 いみじくも営面の問題を 私は、この語彙の大部分に、あえて品詞を付けるなら、動詞にす 和語の複合 サ愛とは別に考えるべきである。漢語に付けられた サ へきである。 解くヒントを興 えてくれている。ハ キャッチV 八八 々 クV が、後者 が俗語であっても、原語はれっきとした動詞である。し かし、動詞 でも、それを日本語風 に活用させるあげにはいかない。だから、活 ある。しかし、中止法としての用法では、その必要がない。それこ 活用語尾として、サ愛動詞を、それこそ接尾語風 に付 げ加えたので 語 である。外来語である。活用させるあげにはいかない。だから、 随筆する 博謝する 演劇する 完全する 以上のようになると、 一、二一0 一、一一一一一一 二三二四 三、一九九 愛は、活用させる鴬の接尾的要素である。 そ蛇足であったねげである。 隠居する分家する 一、一セセ 用 できる接尾語を付けたのである。漢字詰とても、そ の大部分は漠 ㈲自己中心の論議、 懐中する あったねげである。それに抵抗を感ずるその心こそが、漢語が動詞 などは、むしろ抵抗を感ずるけれども、それこそ、和語の造語法で 科睾する︵心︶ 騒ぎになった や、それに、前にもふれたが、一時、文部大臣ともあろう者がと大 ㈹自己中心に論議、 この二つの用例における八論議 V を、㈲は名詞で、㈹は 動詞性名 詞又は名詞性動詞ということにしていいものか。そう考えるのは、 品詞は名詞であっても、㈹は、名詞としての特別な働 きということ にして解決するのであろう。品詞とは、俗に言う、素性 である。 類似の面からいえぼ、大まかに見て、漢語というもの は名詞牲が 返したものと言っていいのでないか。 あでる薮の上からの稀少性からで はなくて11 ことの感覚を裏 に、八 こと V を機械的に付けて、名詞である、と決めてしまうこと 國 V などは、 八國へ帰 る。V という、文の樺裁 をとって いる、それ とで、 ナ 』』 さらに 二、三 セ 二、三四四 三、一九九 二、三三 0 ,悪 閃々する 暁 々する明白する三、五 0 一 貴重する 因循する 下劣する 完全する などについては、少々戸迷ってしまう。八閃々する V や入院々する V については、 ハ ハッとするV 八ギ,ッ とするV などと同列に扱 つていいようにも思える。八閃々 V 八陣々 V は漢語の擬態語であ るから。 弛め、八明白 V八貴重 V等 は、俗に言う﹁形容動詞の韓語﹂とす れば、名詞と同格と考えてよいであろうか。然し、正親の名詞とは 言えない。 以上個々のものについて、些細に瞼試してみると、結 局は、品詞 とは何ぞや、に 戻っていってしまう。また、漢語の品詞性 を問うこ とは無意味にもなるであろう。何となれば、それは、外 國語 ︵外来 語︶なのである。しかも、この漢語なるものは、多くは、語という よりは何とか、文とか呼ぶのがふさわしいものである。例えば八館 九 ろど ;@1@'@ """" ま 複 っ し を 資 は 訓 国 が も 地 れ 文
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