Ⅸ. XPS スペクトル 1. はじめに 光電子分光についての一般的な解説については、多くの教科書があるので、ここではシリカガラスの測定 に必要な知見と技術についてのみの解説を行い、一般的な原理は必要最低限にとどめたい。光電子分光とは Einsteinの光電効果を化学分析に応用したものであり、英語名はPES(Photoelectron Spectroscopy; PES)であ る。光源としてX線を用いるものをX線光電子分光(X-ray Photoelectron Spectroscopy, XPS)、希ガスの放電を 利用するものを紫外光電子分光(Ultraviolet Photoelectron Spectroscopy, UPS)と呼んでいる。エネルギーhν の光を吸収して結合エネルギーEbの固体電子が放出されると、仕事関数をWとして光電子エネルギーはEk = hν - Eb - Wで表される。このうち、hνとWは既知であるので、Ekを測定すればEbの値が求まる。 シリカガラスの光吸収スペクトルは2つの準位間のエネルギー差を表すのに対して、光電子スペクトルは 価電子帯の状態密度や内殻準位を表す。前者のためには UPS の方が XPS より適しており、後者のためには UPS ではエネルギーが足りないので XPS のみが有効である。従って、内殻のエネルギー準位から化学結合 状態を見積もることが可能であり、本章ではシリカガラスを例に解説したい。この他に電子構造を調べる方 法として、Auger 電子分光法(Auger Electron Spectroscopy; AES)、電子エネルギー損失分光法(Electron Energy Loss Spectroscopy; EELS)があるが、これについては後の章で述べたい。 また 10 年単位で市販の装置を見てみるとその性能は飛躍的に進歩しており、 特に最近は他の分析機器と同 様、ソフトの進歩がめざましく、一昔前では不可能だった高度な測定や解析も可能となっている。 シリコン酸化膜の構造、特にシリコンと酸化膜の界面の構造と電気的性質の関連性を明確にする必要性は 最近ますます高まっている。特に素子が微細化するにつれて、酸化膜厚も薄くなる傾向にあり、ゲート酸化 膜では、数ナノメータで良好な絶縁性を求められている。素子が大きければ界面に欠陥構造があっても厚い 酸化膜によって、絶縁可能であったが、最近は表面の洗浄状態や自然酸化膜の構造に及ぼす影響が電気的性 質に影響を及ぼすと考えられている。 2. X 線源について X線源についての説明はXPSにおいて不可欠である。X線源としては、低エネルギーのものから順番に、 NaK α (1.04keV), MgK α (1.254keV), AlK α (1.487keV), CrK α (5.42keV), CuK α (8.05keV), MoK α (17.5keV), AgKα (22.16keV)が通常用いられるが、この中で最もよく用いられるのは、MgKαとAlKαである。 また、Kα線には主線のKα1, α2線の他に、強度の弱いKα3, α4, α5, α6, Kβ線が含まれている。そのエネルギ ーのずれと強度を表1にまとめた。これらの微弱なX線は、測定結果にゴーストシグナルを与えるのだが、 最近の装置ではソフトの進歩によりこれらのゴーストシグナルは簡単に除去できるようになった。 さて、MgKαと AlKαの半値幅はそれぞれ 0.65eV および 0.85eV であるので、これをそのまま励起光に用 いる装置では、電子エネルギーアナライザの分解能をいくら高めても、測定される光電子スペクトルの分解 能は、励起光のスペクトルの自然幅によって、1eV 程度に決まってしまう。最近は、光源の単色化とアナラ イザの進歩により、分解能 0.1eV を達成している装置もある。X 線源を分光した場合、光強度が落ちるとい う問題があるが、高強度のシンクロトロン放射光(SR 光)を光源にした光電子分光装置を用いれば、強度の 減少はある程度解決できる。その上、励起エネルギーが自在に変えられ、完全に偏光しているので偏光を利 用した測定も可能となる。SR-XPS の測定例も後で紹介する。 表1 X緩管球から放出される微弱線 の Mg,Al の主線 MgKα1,2,AlKα1,2 からのずれと強度。主線強度を 100 と する。 3. エネルギー標準 各元素ごとの光電子スペクトルが得られても、 そのピーク値は測定ごとに異なることに気づく。 すなわち、 エネルギー値の標準を決めないと、データが生きてこないのである。エネルギー値の決め方には幾つかの方 法がある。まずは、試料表面に付着しているC1sのピークを標準に用いる方法である。もしも、一連の試料間 でカーボンによるシグナルの線形が、試料によらず一定であれば、このC1sのピーク値をエネルギー標準して 用いることができる。一定でない場合は、真空チャンバー内で破断して同様の測定を行う。この場合、カー ボンの源は真空槽内での付着物のみであるから、通常C1sのスペクトルの形状は試料によって一定となること が多い。超高真空チャンバーとはいえ、ロータリーポンプを使用している以上、オイルの逆流によりチャン バー内は汚染されているものである。それでも一定にならない場合、エネルギー標準としてカーボンピーク を利用することはできない。他に標準にできるのは、下地のシリコン、試料台、表面に部分的に意図的に載 せた標準物質などがある。 4. シリカガラスの測定の実行 - 流れに沿って 実際のシリカガラスのXPSスペクトル測定の手順に従って、解説していきたい。まず、ワイドスキャン (Wide scan、Survay scanともいう)の結果を図に示した。ワイドスキャンとは放出される光電子を広範囲 に渡って高速で測定することで、分解能が犠牲になるが、最初に必ず測定しておくべきである。まず、ワイ ドスキャンで得られた図 1 で、バックグラウンドが高くなっていることに気づくが、これは表面が汚染され ているためである。実際、C1sに帰属される強いシグナルが観測され、有機物により汚染されていることが明 らかである。 このような試料の表面をアセトンのような溶剤で丹念に洗浄することは、 全く意味をなさない。 XPSスペクトルでは、検出深さが、物質やエネルギーによりことなるのでいちがいにはいえないが、おおよ そ数十ナノメータ程度であることである。表 2 にシリコン、シリカガラスの脱出深さと、光子エネルギーの 関係をまとめた。光電子の運動エネルギーと脱出深さの関係である。例えば、MgKα線を用いて、SiO2中の Si2pシグナルを測定した場合、放出エネルギーは 1.148eV、脱出深さは 25Å程度であることを示している。 ワイドキャンにより、測定したいシグナルの存在、測定すべき光電子エネルギーの範囲、汚染の有無が確 認できたならば、Narrow scanを開始できる。シリカガラスの場合、Si2p, Si1s, O1s、および測定したい不純物 があればそのスペクトルの測定を行うことになろう。測定が終わった後、もう一度同じ測定を行い、線形の 変化やエネルギーシフトが認められなければ問題ないのだが、そのような現象が認められたならば、チャー ジアップもしくはX線によるダメージがあったことを意味する。基板がシリコン等の導電性物質であれば、 チャージアップは通常問題にならないし、特に欠陥や不純物を含むシリカガラスでないかぎり、X線による ダメージも検出されない。しかし、それは測定の条件、すなわちX線のエネルギー、強度、測定時間に依存 し、また試料の形状、素性による影響、機械の性能(内部の素材) 、機械のおかれている環境(磁場)等、全 ての影響を受けるので、自分の試料と自分の装置でなにが起きているかを考えなければならない。 表2 平均脱出深さ。文献[1]より引用。 図1 ワイドスキャンで測定したシリカガラスの光電子 スペクトル VG 社の ESCA−Ⅱを使用。 5. 実際のスペクトル まずX線が単色化されていない装置の場合の例を示す。図2はSi2pの光電子スペクトルをVG社のESCA-II で測定したものである。AlKαを用いているので、半値幅は前述の通り、0.85eVある。Si2pはスピン-軌道相互 作用によりSi2p1/2とSi2p3/2に分裂するので、ピークは 103.4eVの一つしか見えないが、Si2p1/2とSi2p3/2の二つの シグナルによって構成されていと考えられる。それぞれのエネルギー差が 0.6eV、強度比(Si2p1/2: Si2p1/3 = 1:2) であるとわかっているので、波形分離は容易である。 X線が単色化されている装置の場合、このような操作は必要なくなる。Hollingerらは、シンクロトロン放 射光のビームラインに 3mの分光器を接続して、120eV、半値幅約 0.25eVのX線を用いてシリコンの初期酸化 過程を光電子分光を用いて調べている。測定試料はシリコン(111)または(100)面をチャンバー内で酸素分圧 10-6 から 10-2Torrで 700-750℃にて酸化したものを用いている。図3はSi2P3/2のシグナルで、ここにはSi2p1/2シ グナルは含まれていない。上図は 5Å、下図は 11Å、酸化膜を形成したときのスペクトルで、基板のシリコ ンのピーク(右端)を基準エネルギー(ゼロ)とした場合、明瞭なピーク、-3.5eVが下図見られるが、これ がSiO2のシグナルである。SiとSiO2の間に 3 つの小さなピークが見られるが、これがシリコンの酸化過程の 中間生成物でSi1+, Si2+, Si3+と表される。その構造を図4に、またそれぞれのエネルギーシフト値、ピークの 半値幅を上の表3に示した。 Si3+はSiが3つの酸素と1つのシリコンと結合している状態、Si2+, Si+の順に シリコンの比率が高まり、最後はSiとなる。従って、SiはSi0、SiO2はSi4+と表されることもある。Si1+, Si2+, Si3+の化学シフトはそれぞれ 0.95, 1.75, 2.48eV、半値幅はそれぞれ 0.58, 0.69, 0.76eVとなる。 図2 Si2P の光電子スペクトル VG社のESCA−Ⅱで測定。 図3 シンクロトロン放射光を光源にした光電子 分光法によるシリコン上のSiO2のSi2P3/2のシ グナル。文献[2]より引用。 表3 シリコン、シリカガラス界面に現れる シグナルの化学シフトと半値幅。文献 [3]より引用。 図4 シリコン−SiO2界面に存在しうる化 学結合のモデル図。文献[3]より引用。 次に各種、表面洗浄を行った後の自然酸化膜をXPSにより測定した結果を示す。シリコン(111)酸化膜を熱 硝酸(hot HNO3)、HCl, NH4OH, H2SO4のいずれかで洗浄した後、XPS測定を行ったのが図5である。ここで も単色X線を用いているので、Si2p3/2スペクトルである。またここで見られるSiO2は自然酸化膜である。先程 と同様、Si1+, Si2+, Si3+が見られる他、新たなピークSix+, Siy+が見られる。特にhot HNO3処理膜に顕著であ り、ついでHCl処理膜にも見られが、NH4OH, H2SO4には見られない。この帰属はATR測定により、明らか になった。すなわち、hot HNO3とHCl処理膜には、Si-Hが形成されていること、その濃度は、hot HNO3と HCl処理膜の順に高く、NH4OH, H2SO4で処理したシリコンの自然酸化膜からはSi-Hは検出されなかった。 このことは、実用上の重要性、すなわち洗浄方法により界面や自然酸化膜の構造が異なるという事実を示す のみでなく、XPSのSi2pシグナル中、Si0 とSi4+の中間に見られるピークは、サブオキサイドのみでなく、Si-H の可能性もあることを意味する。さらにSi-OHも同様にSi0 とSi4+の中間にピークを持つと言われている。従 って、XPSからシリカガラスの構造を決定するときは、他の分析手法を平行して行って、Si-H, Si-OHの存在 の有無について調べる必要がある。 6. チャージアップについて 高エネルギー光子が照射されて光電子が放射されるのであるから、固体表面は正電荷となる。絶縁体であ るシリカガラスを測定する場合、常にチャージアップの問題がつきまとう。前述の通り、全ての試料でチャ ージアップするわけでなく、チャージアップした場合は、X 線の出力を落とす方法もある。一般に市販の XPS 装置には、チャージアップを回避するために電子銃が搭載されている。すなわち、絶縁体上のプラスの帯電 を電子銃で中和させるという発想であるが、電子照射量の方が勝れば逆に帯電してしまうので、通常は Ni 等のメッシュを試料上にかぶせて電子銃を利用する方法を採る。 7. 深さ方向分析 XPS 装置にはイオンビームによるスパッタ装置がついていることがあり、原理的にはスパッタしながら測 定を行うことで、深さ方向分析も可能なはずである。しかし、スパッタ効率が材料によって異なるので注意 を要する。シリカガラスでは酸素のスパッタ効率がシリコンよりも高いため、イオンビームで掘っていくう ちに、酸化膜が酸素不足の膜へと変質してしまう。どうしても深さ方向分析をしたい場合、酸素分圧でコン トロールする方法、ダイヤモンドヤスリによって機械的に表面を削る方法がある。 8. 定量分析 XPSを用いた定量XPSを用いた定量を行う場合、それは容易ではないが可能である。シグナルの強度に Atomic sensitive factors (ASF)を乗じればよく、F1sを基準(ASF = 1)とした時、Si2p, O1sのそれは 0.17, 0.63 と なる。従って、ストイキオメトリーのずれは、この方法で見積もることができる。例を図6に示した。縦軸 は単純にSi2pとO1sの比をとったもので、横軸は酸化膜厚である。ASFと浸入深さから計算で見積もった化学 量論組成は実線となる。シリコン-酸化膜界面近傍が酸素不足の酸化膜になっていることがわかる。 図5 シリコン(111)酸化膜を熱硝酸(hot HNO3)、HCl、NH4OH、H2SO4のいずれかで洗浄 した後、単色X線を用いたXPS測定によるSi2P3/2スペクトル。文献[4]より引用。 図6 Si2PとO1sの強度比と酸化膜厚の関係。実 線:ASFと浸入深さから計算で見積もった 化学量論組成。文献[5]より引用。 参考文献 [1] R.Flitsch and S.I.Raider, J.Vac.Sci.Tech., 12, 305 (1975). [2] G.Hollinger and F.J.Himpsel, Appl.Phys.Lett., 44, 93 (1984). [3] N.Terada et al., Jpn. J. Appl.. Phys., 30, 3584 (1991). [4] H.Ogawa, T.Hattori, IEICE Trans.Electron., E75-C, 774 (1992). [5] A.Ishizawa, S.Iwata and Y.Kamigaki, Surf.Sci., 84, 355 (1979).
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