JNK000202

天理大学人権問題研究室紀要第
日本の華僑学校の 差別と 人
2 号 (1999 年)
に関する一考察
一一在日華僑学校。 教育 i00 年の歩みを振り 返って
-一
愛
前勤
| ・
ブロ
1 ト
㌣
ト
市
1. 小稿の視座
ァ. はじめに
小穂 は ,さる1998年 10月 7 日本学平成 10 年度「人権 月間」の一環として 行った公開授
業「日本の華僑学校と 差別」の内容に 加筆,補完敷延 したのであ る。 その基本資料とし
ては,恒例の 校外学習 : ミニ文化実習に , 1997 年秋横浜中華学院 (杜国焼院長 ) を, 96
年と 98年夏神戸華僑同文学校 (交替 東校長 ) を学生と訪問,懇切なご 指導をいただいた
折りの学習に 基づいている。 両校に共通していたことは , 日本の文教行政の 中におかれ
ている華僑学校に 対する「差別」の 実態で,「各種学校」に位置付けれ, 日本の大学進
学への壁が厚い 事であ った。 この事実は,華僑学校当事者および 関係者の努力にも 杓 わ
らず,創設 1OQ周年を迎える 今日でも一向に 改善の方途が 見いだされていない。 学生と
共に痛感した 日本の文教行政の 恥部ともいえる 実態に照明を 当て,若干の 考察を加え私
見を述べて見たい。 大 かたの批判を 賜る機会となれば ,望外の幸せと は、う 。
2. 最近の外国人学校閲
ここ一両年,マスコミを 賑わした「覚国人学校の 大学進学問題」に 焦点を当て,その
動向を管見してみよう。 問題は高校部を 持つ朝鮮学校 (12校 ), 華僑学校 (2 校 ) から
提起されたが ,その間の事情は 杜国 輝 ,田中宏 両氏の論文に 詳しい。 「覚国人学校生徒
の国立大学進学への 壁 」は概要つぎの 通りであ る。
a.
全国 130校の外国人学校,生徒数約 3 万人は, 日本の学制 : 6,
3,
3 (一条枝 )
に習って就学しているが ,文部省は各種学校として 国立 98 校に対しては 受験資格を一
切認めない。
b. 外国人学校は ,朝鮮学校が約Ⅰ00校,生徒数2 万余で最も多く ,韓国系4 校 ( うち
1 校は一条校の 認可校 ) 中華学校は現在 5 校 約騰 00 人,終戦直後は m 校で 4500 人を越
んこ。
、 え
ほかにアメリカン・スクールなどのインターナショナル
スクールが若干あ るが,
いずれも正規の 学校とは認められていない。
17
c. 文部省の正規の 学校とは学校教育法の 第一条で言う「小学校,中学校,高等学校,
大学,高等専門学校,盲学校,ろう
学校,養護学校および 幼稚園」で,教員免許をも
つ教員が,検定教科書を 使い,学習指導要領にそって 教えなければならない。 各種学
校ではか キュラムに制約を
フ
d.
受けない代わりに ,大学進学の 資格 = 能力を認めない。
華僑学校では ,父兄のニーズにより , 日本の大学への 進学準備に全力リキュラムの
三分の二を充てるため ,日本の高校より 37単位多く授業している。 その背景には 父兄
の日本社会への 順応と華僑学校卒業生の S0% 近くが日本人と 結婚する傾向があ る。 に
も 杓 わらず文部省と
国立大学は受験を 認めない。
e. これに対し各種学校卒業生の 受験を認める 私立大学校の 言い分「覚国人学校の 多く
は,一条枝と 同じ教育内容を 実施している。 だから入試をパスした 生徒は,大学教育
を ぅ ける羊 -カ があ る」とする。 外国人学校卒業生の 受験を認める 私立大学は 1985 年に
63 校, 1994 年 16(M校に増加,最近は 200 校を越えると 推定される。 公立大学でも 東京・
横浜・愛知・ 京都など約 30 校が受験を認めている。
f. 外国人学校生徒が 国立大学受験するには ,これまでつぎの 方法しかなかった。
i, 大検を受けてパスする。 大検をうけるには 一条の中学校を 卒業しておく 必要が
あ る。
Ⅱ.各種学校在学中に 通信制高等学校に 席をおき,高等学校卒業の 資格をとる。
Ⅲ.華僑学校で 高校部を廃止し ,中学卒業後一条校の 日本の高校に 進学させる。
これに対し,最近私立大学における 新しい入試と 受験の傾向がみられるようになった。
帰国子女と同じ 受験方法の採用 (K 大学 ), 推薦入試ワクをもうける (W 大学 ), 留学生
として入試を 認める (0 大学 ) 。 高等学校卒業に 準ずるものとして 出願資格を認める (T
大学 ) 。 一方,華僑学校には 在日外交官・ 商社マンの子弟の 入学者が増えているが ,卒
業後は本国の 大学へ進学するケースが 多い。 横浜中華学院は 台湾本国の承認を 受けすべ
ての台湾大学への 進学が可能であ るし,朝鮮学校でも 北朝鮮の大学の 受験の門戸は 開か
れているという。
3. 近代日本の異文化受容と 対応の歴史認識からのアプローチ
今日華僑学校を 含む外国人学校は ,父兄の国立大学進学への 強い希望に押されて ,入
試問題に関心が 集申している 傾向が見られる。 それは外国人学校の 存続とも絡んで ,当
面「差別と人権 」にかかわる 緊急事としてマスコミに 登場している。 だが日本の教学の
国際化が問われている 中にあ って,事態の 正しい認識と 根本的解決からややずれた 感を
受ける。 迂遠と言われるかも 知れないが,この 問題の究明には 明治以来の我が 国の異文
化 受容 へ
の 歴史過程への 反省から,とりわけ 開学 100 年をむかえた 華僑学校の問題と 係
わって考え直す 必要があ るのではないだろうか。 21 世紀を展望する 今日,国際化時代に
おける日本の 異文化受容の 在り方,民族教育への 対応の方途を 模索する視点からも ,小
100
年の異文化対応の 歴史過程に 湖 って,課題へのアプローチを
補では 暖岱 日本
いと 恕、 う 。
Ⅰ
8
試みた
Ⅱ本の華僑学校の差別と人権 に関する一考察
n. 華僑学校 300 年の歩みと日本
1 . 日本の近代化と 異文化
日本はアジアにおける 唯一最後のヨーロッパ 近代文明の受容 国 となるとともに ,帝国
主義国への発展を 指向する課程で ,これまでの 中国文明の影響からの 脱出を図りホモジ
ニアスな政治経済・ 社会文化システムを 確立強化していった。 西欧諸国に追いつき 追い
越す明治政府の 近代化政策は ,「脱 亜人 欧」「富国強兵」「殖産興業」にあ った。従来の
「儒教 = 中華文化」にかわって「自然科学主体の 欧米文化」の 導入・摂取が 国是となっ
た
在日華僑は,開港当初,通商条約締結が
遅れたため西夷付属としてしか 居住,移住の
空間をあ たえられなかったものの ,鎖国時代からの 実績と交易ノウハウを 生かして,日
本の開港 地 における貿易では 一貫して主導的役割を 果した。 貿易商人としての 彼らの文
化・教育レベルは 高く,居留地人口の 増加に伴い明治末横浜・ 神戸・長崎に 相次いで 華
儒学校を開設した。 前記華僑学校は 一昨年以来相次いで 開校 100 年を迎えてたものの ,
其の歩みは日中間の 複雑な国際関係の 変容過程で苦難に 満ちたものであ った。彼らの教
育文化活動に 対する日本政府の 対応は,理解あ るものでは無かったからであ る。 その経
過を,明治・ 大正期,昭和 (戦前 ) 期 ,昭和 (戦後 )
. 平成 期の
3 期に区分し, 日本の
異文化主華僑学校に 対する「差別」ないし「偏見」ともいえる 受容の在り方に 考察を加
えたい。
近隣アジア諸国への 侵略の帰結としての 敗戦,「脱 政人並」への 転換と試行, 21 世紀
国際化と平和国家を 目指す日本にとって 異文化との共存・ 共生及び交流は 緊要かつ実践
的 課題となっている。 当面その進学が 問題化している 身近な異邦人二華僑とその 文化,
学校と民族教育受容・
存続の成否は 一つの試金石 (ハ 一ドル ) となるであ ろう。
2, 華僑学校 100 年の概観
1 ) 華僑学校成立 期
(]9世紀末∼ 20 世紀初頭 : 明治後期。 大正期 )
一一日本の近代教育制度と 華僑学校の地位一一
(1)
明治教育と在日外国人学校
周知の通り,近代日本の 教育制度は, 1872 年 (明治 5) 学制創始を皮切りに ,拡充・
整備の道を辿って 来た。 同年の下 破 仰山善』では 近代産業確立の 基礎に学校教育をおき ,
個人の「 生ヲ治メ産ヲ 興シ業ヲ 昌二スル」という
学問・教育を「立身 / 財本」に置く 理
念を確立した。 続いて 1879 年 (明治 12) の T教学聖旨 9, 1890 年 (明治 23) の n教育に
関する勅語』などを 経て,ついに『国民精神作興二関スル 詔書 d 1923 (大正 m2 年) に到
る過程で,国家・ 国民の中核としての 国民精神作興のための 教育制度が確立した。
この間,外国人とりわけアジア 系覚国人の日本国内における 民族教育に対しては ,明
治期の官僚体制は 殆んど無関心とも 無策とも言える 姿勢であ った。 この時期はむしろ ,
清朝末期の混乱から 逃避する中国人の 受け入れに寛大で ,所謂大陸浪人と 呼ばれる人達
の活躍を黙認していた。 だが日清間の 国際関係変化 今 戦勝 (1895年) と馬関条約に 続く
台湾割譲, 日露戦争㎝ 995 年 ), 韓国合併 (1910年 ) という力関係の 変化にともなって ,
中国人に対しては「敵性国民」から「民族蔑視」へと 対応・対策の 変化が見られるよう
になった。 一方,台湾の 植民地化,朝鮮半島併合という 帝国主義的拡張により ,異文化
の台湾人・朝鮮人を 内地犬と異なる「国民」 範 時として抱え 込むこととなってからは ,
言語統合をべ ー スとした「皇民化教育」という 新たな教育課題と 領域が登場することと
なった。
(2)
明治後期華僑学校開設の 経緯
このような情勢の 中で華僑学校は ,明治30年代以降,横浜,神戸,長崎の
3 開港地 に
相次いで開設されるが ,それぞれ独自の 背景のもとになされた。
① 横浜大同学校 (1897年 : 明治 30) ② 神戸華僑同文学校㎝ 899年 : 明治32)
③ 長崎時中小学校 (1905年 : 明治 38) の順に概観しょう。
① 横浜大同学校
当時日本に亡命中の 孫文が,横浜華僑の 代表の相談をうけて ,「中西学校」として設
立を計画したものだが ,開設の過程で 立憲維新派の 梁啓超や徐 勤 に教育権 が移り,技名
を「大同学校」としてスタートした。 学校の指導理俳も「立志・
読書・ 合群
,
尊教
・
保
国 」という革命派より 立憲派の主張に 同調したものだった。 しかし19世紀末中国の 苦境
と 危機を克服しょうとする「 救滅図存 」の思想では 一致していた。
なお初代校長には ,
両派の対立を
避け日本人犬養毅に
委嘱した。
② 神戸華僑同文学校
立憲派の梁啓超の 提唱に神戸華僑の 巨商麦少彰か 応ずる形で開設された。 ここでも初
代校長には,横浜と 同じ犬養毅に 委嘱している。 梁は 1899 年 5 月神戸華僑中華会館にお
いて,神戸華僑をまえに 行った救国と 教育の必要性に 関する講演が 多大の反響を 呼び翌
年開校された。 講演の要旨は ,おおよそ次のようであ った。
「中華衰弱の 要因は,教育に 国民の要請が 盛り込まれなかったことにあ る。 日本が近代
国家として強大となったのは ,国民が国のために 忠節を尽くしたからであ る。 中国を救
う ためには華僑は
其の一員として ,横浜のように 華僑学校を設立しなければならな ぷ :
」
③ 長崎時中小学校
上記 2 校が,革命派・ 孫文または維新派・
康有為や梁啓超の 影響を受け,華僑が 出資
して建設したのと 異なって, 清 図組長崎領事によって 孔子廟に付設した 典型的官学であ
日本の華僑学校の差別と人権 に関する一考察
った 。
運営資金は勿論,広東・ 福建・玉江討の 輪番によるが ,教育の基本理念は ,孔子・ 儒
教の正統を維持するもので ,Ⅰ救国」「改革」を 主張する横浜・ 神戸とは異なる 性格・ 次
元の学校であ った。 それは校歌のなかに 教育理念が調われている「大いなるかな 聖の時
なる者孔子,中庸の 大道まさに尊び 崇むべし」
(lf
以上でみた華僑学校 3 校の成立期の 明治 30 年代は,日本の 近代教育制度の 確立 期と整
備 期の前期に相当する。 具体的には義務教育制度の 確立 期で , 189(W
年 (明治23) の小学
校令にっづき 1900 年 (明治33) 同小学校令の 改正がなされ , 3 年制の尋常小学校を 4 年
制に統一し,義務教育制度 = 全国民に共通な 普通教育の基礎過程が 確立した。 其の結果
就学率も向上し , 189.W
年 (明治 28) の 61% から T900 年80% を越え, 1905 年 (明治38) に
はほぼ96% に達した。 教育内容も国家統制が 進み,国定教科書制度が 確立し,日清・ 日
露両戦争の勝利ともかかわって ,国民思想の 統Ⅰ国家主義思想の 高揚を見た。
こうした日本の 近代教育制度 = 義務教育の整備と 華僑教育とは ,明らかに異なる 性格
と次元の存在であ った。敢えて接点を 求めるとすれば , 1899 年 (明治 22) はじめて公布
された私立学校令であ
ろう。 その第一条では「私立学校
ハ 別段 /
地方長官 / 監督 二ニ ス」と定め,また ,第ニ条では「私立学校
ヲ
規定アル場合 ヲ除ク 外
設立セントスル 者ハ 監
督官庁 / 認可 ヲ受クベシ 」とあ る。 にも 掬 わらず,上記3 華僑学校の開設と 運営は「 必
ズ 地方長官 / 監督 / 下デ行ウ 」建双にたいし ,横浜中国大同学校の 場合はその形跡すら
見当たらない。 神戸華僑同文学校では ,開校して6 年目の 1906 年 (明治 39) 清 国学部に
登録しているが , 日本の地方長官に 申告したか不明であ る。 長崎時中学堂の 場合の
み, 1904 年 10 月 (明治 37) 荘長崎領事館の 本領事から長崎県知事荒川義太郎に 照会, 翌
年 5 月に総理 兼 校長の膠玉庭 宛 ,長崎県知事,より「私立時中両等 小学堂」として 認可を
受け開設されのはむしろ 例外と い える。
ただこの場合も ,日本の私立学校とは 基本的に異なるものがあ った。 たとえば明治期
の義務教育の 一環として何処まで 組み込まれたのか , 日本の教育権 がどこまで及んだか
不明であ る。 むしろ実態は 文部省の管轄とされるよりも ,内務省二外事警察の 監督 下 に
あ った。だが,華僑側の 華僑学校への 期待は大きかったと 思われる。 例えば梁啓超が 7 時
務 報 』は 894 年光緒㌍ ) において横浜中国大同学校の 教育理念・構想についてこう 述べ
ている。 「孔子の学を 基本とし,四文,日文を通学とし ,中学・小学の 章程を課 別 とし,
中国の通才,日本の 大学教授を教習として 招牌 し,文部省の立案に 並べる」と。 しかし
このことについて
, 日本の文部省と 接触があ ったか否か不明であ る。 ただ彼の教育理念
は 1899 年 (明治 35) 東京高等大同学校として ,かれの基金で 設立,自身校長となって 結
英仏両国語による「自由・
平等・人権 」に関する諸学説が 講
実した。 カリキュラムには
述され当時としては ,かなりレベルの 高いものであ った。 だが,翌年学生で 本国の挙兵
に参加失敗し ,処刑される 者が出るに及んで 2 年後に閉校,技名も 商業に変え経営を 他
人に譲っている。
21
(3)
明治末期華僑教育・ 異文化受容の 特質
上述したとおり , 19 世紀末はまさに 日本の脱亜人 欧 ・富国強兵・殖産興業の拡充整備期
であ った。納税・徴兵と 並んで国民三大義務のひとつとされた 義務教育は,この 時期に
次第に確立・ 強化の道をたどった。 その目的は何よりも
テ ィ の確立にあ った。 これに対し,非国民
=
日本国民の形成,アイデンティ
異文化であ る華僑の学校と 教育は,文教の
システムに組み 込まれるとなく ,むしろ非国民二敵性民族の 結社として,内務省所管の
外事警察の監視 下 対象とされた。 今日になってもなお ,日本の学制 史に華僑学校の記録
の痕跡すら見当たらないのはそのためで ,この時期の 華僑学校は明治教育史の「蚊帳 の
外 」におかれていたと
大正・昭和期に
言っても過言ではないであ ろう。 この性格と仕置付けは 20 世紀の
入ってからは ,是正されるどころか,むしろますます偏向を強めて 行った。
2) 確立 期 (20世紀初期 : 大正期 ) 大戦下華僑経済の 好況から一転混迷 期 (20世紀中葉 :
昭和戦双期 ) 在日華僑の大
(1)
辛亥革命後のナショナリズムの 高揚と華僑学校
1813 年 (民国 2) 上海に華僑連合会 (会長江精衛 ) が設立,機関誌 華僑雑誌山を 発
行,章程の第一章 総 綱の第一條に「不会は 海外華僑と国内との 総合的連絡機関で 既に臨
仁
時政府の批准承認を 受け,承認は正式政府に引き 継がれる」と
う
た い ,国際的華僑の 連
絡と情報収集,結束を 図るとした。 この時期,東南アジア 各地で華僑学校の 爆発的増加
を記録する " 日本の華僑社会や 華僑学校と如何なる 連絡があ り, どのような影響を 受け
たかの具体的記録は 確認していないものの ,大正・昭和初期に 大阪,京都に 華僑学校新
設の動きと無縁ではないし ,大正デモクラシ 一の 道ぃ 風も受けていたであ ろう。 その反
面, 日本の政治の 底流に,外来異文化
吉
無政府主義・ 社会主義にたいする 警戒と国体 維
特 ,軍国主義へ急 傾斜して行った。
(2)
大正デモクラシーと 教育改革
この時期の我が 国の教育政策は ,所謂「大正デモクラシ 一に対処するための 教育」と
通称される。 と同時に国民の 生活水準の向上に 伴う,教育要求に 対応するための 教育制
度全般の拡充と 整備が急務であ った。
① 社会情勢の変化への
対応と教育改革
第 - 次世界大戦も 連合軍の勝利が 明らかとなった 1917 年 (大正 6) 政府は総理大臣直
属の教育政策審議機関「臨時教育会議」を 発足させたが ,その狙いは 戦後戦勝国間の 競
争に伍して行く ゐ" には「教育の 手段によって 国力を更に培養しなければならない」とい
う 認識があ った。 と同時に第 --期の明治末から
台頭しはじめた 民主思想・無政府主義・
社会主義の思想運動が ,天皇制権力にとって,危険視されたことであ る。 更に労働者・
農民運動,左翼社会主義運動の 高揚といった 所謂「大正デモクラシー」に 対抗するには ,
22
田本の華僑学校の差別と人権 に関する一考察
教育制度全般の 再検討が急務と 考えられたためであ った。
この主な改革項目のなかに ,欧米系私立学校 ( ミッションスクール ) や華僑学校教育
などの在日工スニシティ 教育については 全く取り上げられていない。 専ら大正デモクラ
シ ー からの思想防衛に 主眼を置き,「国民道徳教育 / 徹底」,「帝国臣民トシテ / 根底 ヲ
養ウ 」「覚来 / 悪 ・影響 ヲ 予防 シ飽 クマ デ 尊厳ナル我国体 ヲ 維持 シ 益々国光 ヲ 宣揚セン」
と強調している。 また女性に対しては ,明治末年から 目立って来た 自由主義的 婦権 の 自
覚 に根差す風潮にたいし ,良妻賢母の見地から教育の
主眼を「淑徳節操 ヲ重 ンジ」「我
家族制度ニ過スル 素質 ヲ与エル」ことが 強調された " かくして,明治助教育の 基礎のう
えに,大正期の 新たな教育システムが 構築された。 これらの改革は 直接間接に私立学校
や華僑学校に 波及することとなるが ,大正期には 左 ほどの規制はなく 出稼ぎ中国人の 増
加を背景に横浜,関西に 各 2 校の華僑学校の 開設を見たが ,横浜にあ っては関東大震災
により倒壊し - 校に統合された。
②
教育の軍国主義化
教育の軍国主義化は , 1917 年 (大正 6) の臨時教育会議における「兵式体操振興二関
スル建議 無」に始まる。 その意図するところは ,軍事教育の 徹底による国民皆兵・
国家
総力戦への体制づくりであ った。 その一環として 1920 年 (大正 9) 「実業補修学校規則」
が 改正され,その 中心に国家・ 国民意識を鼓舞する 公民教育が置かれた。
世界の趨勢は , 1921 年 (大正 10) 一 22 年 (大正 21) のワシントン 軍縮会議において ,
列強 5 カ国 (英米 日 仏伊 ) に よ る軍縮と平和維持の 方向に動いていた。 我が政府もこれ
を受けて, 1924 年 (大正 13) 4
コ
師団を削減したが ,余剰化した 現役将校が中等教育 以
上の学校の教練担当者として 配属された。 このことは,軍部が 世界の動きに 逆行して,
教育に干渉しそれを
手中に収める
契機となった。 言い換えれば ,軍事教育により 学校教
育本来の姿が 著しく歪めらることとなった。
昭和期にはいると 教育のファッション 化と思想の取締りが 強化された。 即ち, 192.M
年
(大正 14) 公布, 1928 年 (昭和 3) 勅令で改正された「治安維持法」,同 3 年の「特別
高等警察」の 設置に よ り,大学や高専における 教員・学生・ 生徒の自由な 研究活動は「共
産主義」取り 締まりの名目で 圧迫された。 特高警察の守備範囲は , 日本の学生・ 学校に
止まらず,華僑学校や 在日外国人私立学校にもお
ょ
んだ。
大正デモクラシー 教育と軍国主義教育との 接点として 1923 年 (大正 12) 「国民力餅@
畦
興 二関スル詔書」が 出された。 1931 年,
- (昭和 6) の満州事変の 勃発から建国と 続く中で,
軍部とその支援勢力の 台頭と, 1935 年 (昭和 10) の美濃部達吉の「天皇機関説」排撃が
あ ったことを見落としてはならない。 かくして天皇制護持を 旗印とする軍部と 右翼によ
って日本の政治も 教育も掌握され ,侵略戦争体制とイデオロギーが ,着実にととのえら
れていった。 とりわけ,国体護持のための 教学刷新を狙いとして 設けられた, 1935 年 (昭
和 10) の「教学刷新評議会」は 軍国主義教育の 総仕上げであ った。 さらに,文部省の 外
局に 「教学局」 (思想 局 改め ) をおき, 1937 年 (昭和 12) 同局から『国体の 本義山『臣民
の道』『国史概観』が 相次いで刊行された。 これは「日本型ファシズム」の 教学理俳確
立のための重要な 一階梯ないし 基礎作りであ った。華僑学校の教育現場における 民族教
育への特高警察の 厳しい監視は , 老 華僑の記憶に 生々しく残っている。
(3)
この期の在日華僑と
① 繁栄から混迷へ
華僑学校
20 世紀にはいって ,第一次大戦 (1914) から昭和恐慌 は930) まで,日本経済は 好況
を呈し,華僑企業者の 中から成功する 者,郷里に送金や 公共施設を建設する 者も出た。
(神戸の呉 錦堂 ほか) また在日中国人二華僑人口は 急増し 3 万人台に達した。 この時期
中国では辛亥革命,五四運動,日貨ボイコット ,軍閥割拠と 社会不安が続
き
プッシュ要
因として働いたからであ る。 だが昭和恐慌を 契機として,中国大陸への 侵略二市場拡大
が始まり,日中関係は 緊張と対立が 表面化して行った。 19 目年の満州事変に 続き, 1932
年の上海事変, 1937 年の日中戦争から 1940 年の太平洋戦争へと 拡大する過程で ,営業の
行き詰まりに 加えて官憲の 圧迫から,海外に 脱出するものが 相次ぎ,華僑人口は 半減し
た。 ただ三把 刀 と言われる雑業者たちは , 日本各地に分散して
敗戦まで残っていた。
このような中で ,在日華僑に 対する規制と 差別は強化されて 行った。 すなわち,居留
地時代は,居住も 職業も居留地に 限られていたが ,居留地解体以後は , 日本人労働者と
の競合を避け ,職業・人国の 規制が設けられた。 1899 年 7 月 (明治 32) の勅令弟 お2 号
「覚国人の居住と 営業に関する 件 」及び内務省令 42 号の「細則」で ,外国人の居留地 u 、
外での居住・ 移転・営業の 自由を認める 一方,労働に 従事することを 禁止したその 理由
は a. 風俗を乱す恐れ。 b. 日本人労働者との 競合。 c. 社会と公安を 乱す恐れを上げ
ている。 入国に関する 取り締まりは 1918 年 (大正 7) 内務省令第一号「覚国人入国に 関
する 件 」でなされたが ,その理由は 上記と同じであ る。 かくして中国人労働者は 従業と
人国に差別を 受けることとなり ,Ⅰ923 年 (大正 12) の関東大震災に 続く,昭和恐慌に 入
り事実上人国禁止の 状態となった。
② 差別と弾圧に 抗して一一新華僑学校の 胎動一一
このような日中関係が 緊張・悪化するという 在日華僑を巡る 厳しい社会経済状況に 加
えて,文教にたいする 日本官憲の環視 下 にも 杓 わらず,京都・ 大阪・東京の 3 僑 校は抗
日・反日の思想に 強く裏 打ちされてあ いっいで創設された。
まず京都では 1928 年 (昭和 3) 「京都華僑 光葺 小学校」が設立された (生徒数 35 人 ) 。
これは地元の 僑胞の民族教育に 対する熱意の 高まりや,京都地区中国人留学生が 繰り
広げていた愛国運動に 刺激されたものであ る。 その後, 193i 年 (昭和 6) 満州事変勃
発に抗議し姉分の 一の京都華僑が 帰国したため ,翌年には休校せざるを 得なかったが ,
情勢が落ち着き 再 渡来するものが 増えると, 19 お 年 (昭和 8) 復興した。 しかし1937
年 (昭和 乾) 日中戦争の勃発による 官憲の介入が 激しくなったため 翌年閉校に追い 込
まれた。
a.
24
日本の華僑学校の差別と人権 に関する一考察
b. 東京では,前述した 清末 保皇 派の建てた「東京大同学校」が 清朝滅亡とともに 閉鎖
されていたものを 再建する形で , 1930 - (昭和 5) 僑 胞子弟の増加と 在留華僑や中国
人 留学生の熱意にバックアップされて 再建された。 ここでは教師は 北京から招牌 し 北
京語で授業を 行った (生徒数 20 人 ) 。 ここも日中戦争勃発の 1937 年 (昭和 12) 閉校した。
c. 大阪の華僑学校は , 1930 年 (昭和 5) 大阪中華北 帯 公所と大阪中華商務総会によっ
て設立された。 技名は「 振華 小学校」といい ,満州事変直前であ ったが,閉校を 免れ
る 事なく授業は 北京語で行った。 戦後再出発し 台湾系の華僑学校として 現存している
年「
(開校時の生徒数 77 人 ) 。
以上の 3 校は, 準 戦時下における 日本官憲の厳しい 監視 下 にあ っても,ナショナリズ
ムに支えられて 華僑学校の開設が 見られたことが 注目される。 これらはいずれも 地域の
華僑社会の結束,中国本土の 政治社会情勢及び 日中の国際関係にたいする 強い関心と意
識に裏 打ちされていた。 ただ太平洋戦争勃発以双には 相次いで姿をけしていった 中にあ
って,前記横浜・ 神戸・長崎の
3
華僑学校は戦火をくぐり
戦 まで-存続した。 時として日本ファシズムのスケープゴ
き
,一時休校はあ
ー トにされながら
続けて来たと 言えるだ る つ 。
し|
図一 1. 戦後ピーク時の 華僑大口の
分布と華僑学校
威応 恩 外編『日本華僑教育』
(1958年 8 月 白 ) f 頁 より
Ⅱ
ヒ
ったものの 敗
,しぶとく 生,
3) 敗戦中平和国家への 再建。 復興過程での 華僑社会と 僑 校の発展 期
一一 20 世紀後半 = 昭和の戦後と 平成の 50 年一一
い
) 占領期から講和発効直後の 教育改革一一戦後 10 年の概観一一
軍国主義的教育が ,平和教育へ転換する激動の 10 年を,まず年表に 語らせよう
1945<520)
日本の教育・学校関係
国際・国内関係一般
年 ・西暦
東京大空襲で東京中華学校焼失,原爆
投下,ポツダム宣言受諾,
GHQ,
陸海軍解体,戦犯逮捕,米欧
府 「降伏線対日方針」発表
国際連合正式成立
「学童楽団疎開強化」閣議決定
「戦時教育令」廃止,文部省「新日本建国
ノ
教育方針」発表,長崎時中学校戦時下も 開く
「日本教育制度二対スル 管理政策」
GHQ
「修身,
日本歴史・地理停止」指令,
「覚国・覚地引揚邦人子弟の転校実施」
銭の カーテン演説 (チャーチル)
GHO,
軍国主義者の公職追放,超国
家主義団体の解散指令,憲法改正草案
決定,「新学制・
教育改革案」 (第
Ⅰ
回建i翰
皇族の特権廃止,
を日本政府に交付,
国語審 「現代仮名遇い」「当用漢字表」
米 ・教育使節団派遣来日
東京と横浜の 中華学校再建,僑校 教務会議
ユネスコ憲章発効,在日朝鮮人引き上
米教育使節回報告「教育改革の
四本方向明示」,
げ命令,拒否者は 日本国籍と見倣す
文部省に男女共学指示
GQQ
神戸同文学校日本人学校を借り開校
ト
1948
教育刷新委員会,6. 3 制 ,「教育基本法要綱」
民間貿易再開許可, 2.1 ゼ ネス
日本ユネスコ全国大会・東京
「教育基本法」「学校教育法」交付
アメリカ冷戦へ転換,朝通解散
民族教育, 日本政府はこの年まで傍観的
アジアの華僑学校ピーク426 校
文部省,在日朝鮮人児童の 日本人学校へ就学
HG
G,
農地改革完遂党記 ,
祝祭日国の就学等を通達
朝鮮大学校閉鎖,朝連は占領政策妨害
中華学校 9 校,生徒3500 人, うち僑務 委の認
として解散,新聞事前検閲廃止,
可 5校
国教育刷新委員会の建議事項
国家公務員の争議禁止,日本経済安定
朝鮮人子弟の 日本人学校就学義務
中央教育行政機構・大学の配置 9 原則を指示,
大韓民国,朝鮮民主主義共和国成立
大学の自由と 自治・大学法試案
米国科学使節風来日
教育委員会制度・学校教育と宗教,
青少年社会教育・ 日本芸術院
1949
2 一 3 年の大学・職業教育新興
中華人民共和国成立
朝連索学校閉鎖93 校改組2457交
沖縄に恒久基地建設,
ド ソ シ
ワ イ
・
、ンャウプ税制改革勧告
米朝連系学校不認可は15 年間存続 (日
26
GHQ,
国旗の自由掲揚許可・文部省通達,
「公立学校における
朝鮮語は放課後朝連系の
学校は認めない (1966.1.17まで存続)
C I
E
顧問共産主義教授排除勧告,育央事業
韓 法的地位協定まで ) 総連系 137 校
18 校
振策 ,市立学校法 ,新制大学発足,短大
は 各種学校として存続
申請
日本の華僑学校の差別と人権 に関する- 考察
l 民族学校形を変えて存続 : 課外,分校,再建
マッカーサー「日本憲法は 自衛権を否
定せず」
日本共産党中央委員24 人追放,
19 列
1952
警察力と海上警備力の拡充強化,
国旗掲揚,君が代斉唱
、ンャウプ税制使節 団,第2 次勧告
全学連反帝 闘争決議,早稲田大学143
米国ダレス特使来日「講和条約草案」
文部大臣「静かな愛国心」発表,
マッカーサー解任,
教職員天一次追放解除298 人
後任リッジウエー 中将, ワシントンで
大学設世審議会,大学3 校,短大27
対日平和条約, 日米安保調印
大学の開設,市立大学11 校に大学院設置認可,
日本 1
京大事件,同学会解散
GHQ,
0 加入承認
し
1954
人処分
校開設,6
「琉球教育法」公布,国際キリスト
教大学閉
指令
兵器製造許可,航空機の 出入国管理権
校,横浜中華学校山手と 山下に紛争分裂
を日本政府へ,輸出貿易管理権 も
文部省,標準教科書の発行中止
ポッ タム政令廃. lh:
GHO
解消 (講和条約発効)
学校給食は希望校の登録$;1l
日本 TMF,
大学院「修士」を18 種類とす 1953
r教育白書 発表
世界銀行に加入
中国別掲第一船
1953
文部省通達「学内の政治集会デモ参加禁止」
GHQ 指令「学内集団行動,示威運動禁止」
義務教育の完全給食実施,
2 隻雛鶴入港
教育課程の範囲内で漢文・倫理,芸能強化,
文部省,
ロ
国立大学評議会に関する暫定措置
日米友好通商航海条約調印
南北朝鮮の休戦協定調印
'l,)
教育の中立,性維持(山口学校日記ヨネ
調和により朝鮮人日本国籍喪失
勤労青少年向け教育番組,民放で 開始
日米行政協定・池田ロバートソン防衛
改訂社会科学習指導要領,中間発表
会談開始
ユネスコ主催「東南アジア地域青少年指導者
日中民間貿易新協定調印
国連総会・日本の国際司法裁判所加盟
セミナー」開催 (東京)
口木ユネスコ国内委員会「覚国人留学生の受
承認
け入れ体制の強化」建議
朝鮮人は覚国人として登録
朝鮮大子弟就学義務なし
ビキ二水爆実験で第五福竜丸被爆
東京都,朝鮮大学校を廃校と決定,各種学校
MSA
調印, 日本への米国艦船貸与協
定調印,MSA
に伴う秘密保護法公布
日本エカフェに正式加盟
日本コロンボ・プラン正式加盟
ビルマとの和平条約,賠償・経済協定
中ソ共同宣言発表 (対日正常化・ 8)
ャ
に切り替え
国費外国人留学生制度実施
日ソ学術交流センター設立
ローマ字の綴り方今原則訓令式 ,場合にへボ
ン式・日本式の使用を認める
中央教育密議会,僻地,特種教育新興
27
年表の示すとおり ,占領から講和発効をはさむ 10 年間は,日本の 軍国主義体制の 解体
が進む一方で ,冷戦下に再軍備・ MSA へ 再構築へと左から 石へ 大きく揺れ動いた 時期
であ った。 共産党・ 朝 連の非合法化,学生運動への 抑圧など,日本ファシズムを 思 起さ
せる局面すらあ った。 とりわけ,スケープゴ ー トとされたのは ,朝鮮半島の 出身者であ
った。 46年の引き上げ 命令と残留を 余儀なくされた 者への「日本国籍保持者」と 見倣 す
という「 逆 差別」が押し 付けられ, 1951 年の講和発効以後は 一転して外国人とされた。
その煽りで,朝鮮人の 学童は , 自ら設立した 学校が閉鎖され ,日本人学校へ 分散入学さ
せられたかと 思 うと ,外国人とされた 途端「就学義務なし」として 放逐されたのであ る。
(2)
華僑社会と華僑学校の 発展と亀裂
① 華僑学校の開設 ブ一 ふ と冷戦下の推移 (図一 1 参照 )
日本の敗戦を 契機に,戦勝国民ないし 特奴的 第三国民としての 華僑の社会的地位の 向
上と民族意識の 高揚が重なり ,日本列島各地に 中国語学習熱が 膨涛 として興り,華僑学
校開設のブームが 広がった。 中国語の雑誌 f僑風山 と下華僑文化 ョも 1946年と 47年相次
いで出版され ,前掲年表に 示すとおり,戦後 3 年目の 1948 年には,アジア 地域の華僑 学
校数は,空前の 426校を数えた。 日本においても 戦後 5 年間の占領事に よ る文教改革の
経過を受けて ,植民地台湾人と 朝鮮人が新しく 外国人となりそれぞれ 民族教育を要求し
た。 彼らは戦前の 民族を否定した 同化教育・皇民教育から 解放され自らの 言語と歴史に
目覚め,自双の 韓国・朝鮮学校や 華僑学校を開設した。 だが韓国・朝鮮人教育は 前述し
たとおり,冷戦下の 抑圧をもろに 受けることとなったが ,華僑学校の 場合,スケープゴ
ー
トからは免れることができた。
既存の学校に 加えて函館・ 仙台・ 静 m
Ⅱ校に上った。 ただ,韓国・ 朝鮮大学校と 同様「各種学校」という
禍根を今日に 残すこととなった。
.
出雲・京都の
範肩 に止まったため
平穏とはいえ , 1949年新中国の成立は ,朝鮮戦争と 重なっため,華僑学校では 閉校措
置は免れたものの ,華僑学校間の 亀裂が発生し 大陸よりと台湾よりに 分裂した。 とりわ
け 横浜の場合は ,同一華僑学校が 二つに分裂するというドラスチックな 対立が発生した。
加えて 1972年の新中国の 承認、と台湾との断交を 契機に,両者の 亀裂は決定的となった。
更に,大陸派と 言われる華僑学校においては ,本国におけるプロ 文革の進展とそれへの
対応を巡って ,地域華僑社会の 内部に動揺と 対立が深まった。 とりわけ,父兄の 華僑 学
校 離れが決定的となった 長崎時中小学校では ,入学生徒の 途絶から 1988 年 3 月ついに 83
年の歴史に幕を 綴じてしまった。 かくして 1990年時点で存続しているのは ,半数以下の
5 校に過ぎなくなった。
② 在日外国人教育方針・
指針の策定
冷戦構造の解体した 1990年頃 から,在日外国人を 多く抱える地方自治体において , 在
日外国人教育方針・ 指針の策定が 見られる様になった。 ただ外国人学校 (民族学校 ) の
所管は私立学校として 都道府県の対象とされたことは ,戦前に引き 継ぐものと言っても
日本の華僑学校の差別と人権 に閲する一考察
よい であ ろう 。 また,問題が 質量ともに韓国,朝鮮人に 集中していることも
,戦後の経
過から当然で ,さらに民族学校より 日本人学校側での 問題に偏っている。 そのなかから
一般的ないし 華僑学校に係わる 事項をくみ取ることとしたい。
(l
。1
a. 「内なる国際化」子供達の 多くが民族的差別と 偏見から,本名を 名乗れず明らかに
できないでいる。 お互いの違いを 認め民族としての 誇りを持てる 地域社会や学校作り。
b. 「多文化主義」アジア 諸国や第三世界の 歴史や文化の 違いを尊重し ,共生・共存で
きる価値観。
人間を尊重し 民族的偏見・ 差別にまけない 人間関係の醸成。 とくに旧植民地出身者
に対する同和教育・ 部落解放との 連携。
d. 進学,就職などの 進路上のハンディを 無くすこと, とくに在日外国人の 子供が自ら
将来を選択できる 環境条件を整備する。 一方大学・高専や 企業での門戸開放が 急務。
これらの課題は , 主として地方の 教育委員会が 中心になって , 取り組み普及する 方式
で進められている。
c.
皿, まとめ
一 19 世紀末∼ 20 世紀への 反
1 . ]9 世紀末∼ 20 世紀。 戦前期への反省
そもそも教育とは ,先人の経験と 英知を後輩や 子弟に伝達・ 継承する為のもので ,個
人, 家 ,社会,国家など
様々なレベルで 行われて来た。 それを組織的,集団を 対象とし
て 行うのが学校で ,学校という 呼び名は中国同化に 始まると言われるが ,その目的と 内
容は時代により ,地域によ り多様であ った。学校教育はしばしばその 時代の体制と 結び
付いて組織された。
東アジアにあ っては,古代から 中国文化の影響の 下,儒教が学校教育の 中心をなして
来た。 日本の近代化は 明治政府の教育改革に 始まる。 それは西欧の 科学技術を積極的に
接取する一方,『教育勅語 コの 発布による儒教的「規範性」と「神聖性」が 学校教育に
盛り込まれた。 日本資本主義の 発展膨張の過程は ,近隣諸国を 侵略して行ったが ,教育
は 植民地統治上重要な 役割を果した。 「皇民化教育」ないし「日本人化教育」と
言われ
るものがそれで ,固有の言語と 民族性の否定にあ った。
ここで取り上げた「華僑学校教育」は ,明治期末 : 清朝崩壊をめぐる 三様の動きを 背
景で横浜・神戸・ 長崎に設立されたが ,それらは日本の 学校教育とは 切り離された , 独
白の存在と基盤であ った。 日本が中国革命の 後方基地という 立地と役割から ,長崎をの
ぞいては民族意識高揚にかかわるカリキュラムが 取り入れられ ,ナショナリズムの 高揚
に大きく寄与した。 それは台湾では 禁圧されたが ,朝鮮ではみとめられた。
明治末期の華僑学校は 民間の大陸浪人と 言われる人々を 仲介とする交流・ 連携が実態
で,日本政府自体は 清朝への配慮もあ って公式な対応は 無かった。 内実の所管はむしろ
文部省ではなくて 内務省 (当時) の外事警察ないし 思想犯を取り 締まる特高警察の 担当
におかれた。 大正始め,辛亥革命以後の 対丈政策の変化と 大正デモクラシ 一期の民主・
29
共産主義の脅威にたいする 治安維持法の 公布を境に華僑学校への 規制は公然化し ,昭和
期にはいり戦時下になると 厳しさをまし ,しばしば弾圧に 近い干渉を 6 けた。
一方植民地台湾,朝鮮で 取られた皇民化教育政策と 国内の華僑学校への 干渉とは,表
面的には無関係の 如く見えても ,そのルーツは 同じで異文化への 差別と人権 の抑圧であ
った。 第二次世界大戦が 開始されると「大東亜共栄圏」の 理念を掲げ,アジア 侵略を正
当化しエスニシティの 自由や人権 を抑圧し,近隣の 異文化やマイノリティの 受容は極度
に排除された。 占領地で開設された 国民学校では 日本語が強制され 独善的・排他的「皇
国史観」が教育され ,民族文化や 伝統への配慮やアイデンティティの 精神が圧殺された
時代であ った。
「同一文化・ 同一民族」のホモジニアス 社会と自認ずる「日本人的イデオロギー」は ,
日本資本主義発展 100年の歩みの中で 是正されるどころか ,むしろドバマ 的に加強され
た 。 その膨張・侵略の 過程で取り込んで 行った民族文化 (.
台湾人,朝鮮人 ) にたいする
正当な評価と 位置付けに失敗した 歴史であ った。
2. 2Q 世紀後半 (戦後期 ) 一一異文化との 共生。 多 文化受容の社会への 転換一一
戦後の我が国における 在日外国人子弟の 教育問題は,新規参入の 在日外国人とも 言え
領域を離れ,冷戦構造
る韓国・朝鮮人の 問題を中心に 展開した。 それは,教育,文化の
下の朝鮮半島をめぐる 国際政治問題,朝鮮動乱によって 歪曲され振り 回された。 民族 教
育への正当な 要求は圧殺され ,人権は躁蹄 された。 スケープゴ ー トそのものであ ったと
いえる。 これに対し華僑学校は ,戦前に経験した 差別と弾圧に 比べると比較的順調な 経
過を辿ったと 言えよう。 にもかかわらず ,学校数は5 校に縮小し,依然として 両岸の旗
色を明確にしている。 (大陸より : 2, 台湾 2 0 : 3)
現在生徒数の 減少をふくの 経
営 上その他の問題を 抱えている。 加えて前述した 通り, 日本政府の対応は「各種学校」
として,朝鮮学校とともに 民族教育に無干渉と 言うより無理解であ る。 市民権 への突破
口として,国立大学入試への 門戸開放が,朝鮮学校との 共闘方式で進められているが ,
その壁は厚い。
総じて日本の 華僑社会は戦前に 比べ飛躍的に 発展しているのに 比べ,華僑学校の 展望
は 必ずしも楽観を 許さない。 横浜・神戸の 華僑学校が相次いで 創立百周年の 式典を迎え
たばかりであ る。 内なる国際化の 試金石が,在日外国人学校とりわけ 華僑学校との 対応
であ るとすれば,国民的支持とキャンペーンが ,展開されてよいのではないだろうか。
3. 当面の課題と 2]世紀への展望
21 世紀を目前にし 日本は今厳しい 批判の局面に 立たされている。 即ち日本が犯したア
ジア侵略の歴史的事実を 直視し,過去の 過ちを正しく
後世に伝え,将来アジア 諸国との
相互理解と平和的共存の 為の基礎作りに 資すことの緊要性が ,強調されている。そのた
めには,偏見と 差別を排し,人間尊重の 精神を貫くことは ,人間が人間として 生きるた
めの原則であ る。 日本国憲法や 教育基本法はその 確立をうたっている。 1979 年我が国は ,
日本の華僑学校の差別と人権 に関する- 考察
外国人が教育を 受ける権 利及び市民生活の 全ての実質的差別の 排除」
「内覚人の平等と
を明確にうたった 国際人権 宣言団を批准した。 これとは裏 腹 に,日本に居住する 多く
のアジア系住民は ,依然として 深刻な差別を 受けている。 この現実にたいし ,先進的地
方自治体は『在日覚国人の 教育指針・方針山を 策定し,地域住民にアジア 系覚国人との
共生,国際感覚と 人権 尊重を義務づけ よう としている。 さらに在日外国人が 民族的自覚
と誇りを培 い ,生活文化の 向上を図ることへの 支援を呼びかけて ぃぼ:
ニ
- 方外国人学校 = 民族学校においても 卒業生の日本社会における 活動の場を広め 活用
する努力を広げている " 所謂バイリンガルと 異文化を身につけた 卒業生が日本人学生と
接触することは ,日本の国際化への 良い刺激となる。 いわば外国人学生は 日本の国際化
の奇貨となり 得るし,日本の文部省はその 活用を検討すべきだという。 (前出杜国焼論
文) また国立大学入試についても ,進学年齢の 減少とも絡んで ,早晩外国人学生への 門
戸 開放は避けられなくなるであ ろう。
時代とする構想が 聞かれる。 その背景として
21 世紀を展望して ,東アジア,太平洋の
第一に 20 世紀ほぼ四分の - 世紀続いた共産主義が 崩壊したことで ,単に軍事的脅威ばか
りでなく,イデオロギ 一のそれも薄れたこと。 第二に民主主義が 21 世紀のモデルとして
ほぼ定着したと 言えること。 第三に社会文化面でのグローバル 化と市場原理が ,中国・
A8EAN 諸国から外向きに 拡大しつつあ ること。 このような環境条件の 変化が - 層加速
するであ ろう。
華僑自体の変容についてみれば ,かって国籍をメルクマールとする 華僑から華人へ (q
図 80 年代 ), さらにボーダーレスの 担い手二華商へと 転身した (斯波義信,96) 。 華僑社
会も「落葉隔板」から「路地士 根 」への苦悩を 越えて (戴 国人里,90), 華商ネットワー
クの展開というグローバルの 時代を迎えている。 け一 クワンユー , 92) 21 世紀を切り開
良きパートナーとして 華僑 (広義 ) に期待するとすれば ,華僑学校の 正当な位置づけ
ユ
く
は前提でなければならない。
@
1)
差し当たり次の
i . 杜国雄
2 論文が参考になる。
(横浜中華学院校長 ) 「覚国人学校生を 門前 私 する国立大学と 文部省の石頭」
ア論廃コ朝日新聞社, 1998.3, 前月 x, p.152 一 159
Ⅱ,田中女「国立大学はいつまで 外国人学校に 門を閉ざすのか」
Ⅱ世界』
1998.6, 所収,
p.46 一 52
け )
主なものを上げれば
『 ネ
lれ奈 川新聞
199S.2.21,
コ
「朝鮮学校などの 大学受験不認可
弁連 ・首相らに是正勧告一
『朝日新聞J 1998.2.21,
除見直せ
-
」
"最大の人権 侵害 "
li
」
「覚国人学校日弁連勧告
"現実離れの文部政策
" 一一異文化排
(僻説 )
『読売新聞コ 1998.3.
T朝日新開山 1998.5.30
Ⅰ
6,
「朝鮮学校
助成少ない各種学校,国立大学受験できず
,「在日朝鮮人教職員同盟
" 民族学校卒業者に
大学受験資格
」
び
31
一一ユネスコに 告発
一
」
㏄ ) 市川信愛「華僑概俳の 生成と展開」九州国際大学社会文化研究所『紀要・
1l 号 J (平
成 10 年 3 月 ) p.189 一 208
(4)
深沢秀雄「 変法運動と日本横浜中国大同学校」『岩手大学人文社会学部紀要
6
J 1988 年
月所収参照。
横浜「大同学校」は , 1898 年始め孫文の
興 中 会が華僑の子弟の 教育のため計画し ,
変 法脈が協力して 設立されたもの。 技名は孫文が「中西」を 提案したが,亡命中の康
有為らが教員選定と 学校運営の実権 を握り「大同」と 変えた。 この段階では ,両派の
間には決定的な 対立はなく競合する 面は少なかった。 しかし後に変法脈が 保 皇会 をつ
くって,活動の 舞台を国外に 移すと両派の 対立が表面化し ,ついに孫文の来校を拒否
する事件すら 起きた。
(5)
『学校法人・神戸中華同文学校 八 -l周年刊J 1984 年参照
(6)
f時中・長崎華僑時中小学校定一文
(7)
(8)
4% 事誌皿 1991 年 (平成 3) 参照
「勅令第359 号」による,文部省 T学制 l0cW
年誌J 1972 年 Km月参照
当時孫文派は 機関紙 T民報』を 1905 年 1] 山東京で創刊, 1908 年 10 月日本政府により
4 年間で発禁されるまで
3 年間つづいた。 その主張は,孫文の三民主義の宣布にあ
た。 一方同紙は, 保皇派の梁啓超は 機関紙『新民譚離コ
を
っ
発行激しい論戦をおこなっ
た
(9)
華僑連合会『華僑雑誌
け 0)
仲 新監修『日本近代教育史
コ
第一期, 1913 年 11 月, p.t 一 11, 原本は上海図書館 蔵
コ
1973 年 4 月,講談社p.232 一 297
1) 前出『日本近代教育史 j p.208 一 366
(12) 文部省学生部『学生思想運動図解 . 1932 年
け3) 高橋強 ・市川信愛「 両 大戦間の日本華僑の 動向」,長崎華僑研究会『 続 ,長崎華僑 史
稿 t988 年 (昭和 63) 所川 x, p.22 一41
(14) 市川信愛・ 朱鵬 「日本における 異文化受容に 関する一考察」香港中文大学『第姉回
け
Ⅰ
日本教育・日本研究シンボジ
ゥム
・論文集2 1999.3, 所収, p.l11 一丁 tg
(15) 鄭 早苗ほか 4 編Ⅰ全国自治体在日外国人教育方針・ 指針集成ロ 1995.8.
(16) 中山秀雄『在日朝鮮人教育関係資料集
1995.3, 明石書店
明石書店
ロ
附記 : 「華僑」という 用語の意味については ,拙稿「華僑概俳の生成と展開」九州国際大
学社会文化研究所『紀要
第41 号 (平成 10 年 3 月 ) 参照
山
32