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P a r t n e r とは
越 境 体 質
娘 の 方 は 舞 台 に 強 く、 緊 張 す る と、 む し ろ﹁ 楽 譜 が す み ず み ま で く っ
鴻巣友季子
人は自分にないものに憧れる。﹁英語ができると、どこへ行っても不
自 由 し な い で し ょ う?﹂ と よ く 言 わ れ る が、 わ た し は 言 語 の 壁 な ど 越
き り 浮 か ん で く る ﹂ と い う か ら、 楽 器 が 弾 け る 人 と は 物 事 の 認 識 の 仕
ト︵ ア ガ リ 症 ︶ の 経 験 な ど な い の に、 演 奏 中 は 頭 の 中 が 真 っ 白 に な る。
えてしまえるものに憧れる。例えば、スポーツ、ダン ス、音楽。
バイオリン、トルコの弦楽器サズや、バリのガムラン、マリのジャンベ、
でもいい。ゴスペル・クワイアに参加できるならしたい。楽器も、ピアノ、
翻 訳 者 に 転 身 す る パ タ ー ン も あ る が、 逆 に 芸 大 進 学 を 断 念 し た 人 が 英
現 役 の プ ロ も い る。 音 楽 留 学 で 身 に つ け た 外 国 語 力 を い か し て 通 訳・
し か も、 こ の 音 楽 的 才 能 の な さ を 際 立 た せ て い る の が、 ま わ り の 翻
訳仲間である。みんな楽器が弾ける、歌がうたえる。音大、芸大出身者、
方がちがうのだろう。
ただの二本の棒にしか見えないバスクのチャラパルタ、アルゼンチン・
文、仏文、独文、露文科などの語学方面に進む確率もかなり高い。
生まれ変わったら何になりたい?という質問には、よく﹁演奏家﹂と
答える。クラシック、ジャズ、ロック、サンバでも、サルサでもいい。歌
タ ン ゴ の バ ン ド ネ オ ン な ど な ど。 プ ロ に な れ な く て も い い。 む し ろ ア
音 楽 の 才 能 と 翻 訳 の 素 質 に は、 相 通 じ る と こ ろ が あ る ん だ ろ う か?
要 す る に、 わ た し は つ ね に 壁 の 向 こ う 側 に 行 き た が る、 越 境 体 質 ら
しい。
てことでは?﹂と、羨望がむらむらと湧き起こっている。
たしは、﹁ それって、言語の壁を越えるどころか、どこにも壁がないっ
う 地 理 感 覚 抜 群 の 女 性 が あ ら わ れ て、 方 向 音 痴 で も 人 後 に 落 ち な い わ
生まれ変わったら音楽家に。そう思ってきたが、最近、﹁地図とコン
パ ス さ え あ れ ば、 砂 漠 で も 荒 野 で も、 世 界 中 ど こ で も 行 け る よ ﹂ と い
も し れ な い! ち な み に、 原 文 の 読 解 力 は 読 譜 の 能 力 に、 訳 文 づ く り
は演奏によくたとえられる。
と な る と、 わ た し に は 翻 訳 家 と し て、 な に か 重 大 な 欠 落 が あ る の か
マチュアでいたい。音楽をパートナーとする人になりたいのである。
家 で 友 人 と ワ イ ン で も 飲 み な が ら、 ア ズ ナ ブ ー ル を ピ ア ノ で 鳴 ら し、
カルロス・ジョビンをギターで爪弾く。なにそれ、かっこいい。﹃ティ
フ ァ ニ ー で 朝 食 を ﹄ で ヘ ッ プ バ ー ン が﹁ ム ー ン リ バ ー﹂ を ギ タ ー の 弾
き語りで歌う場面、﹃カイロの紫のバラ﹄でミア・ファローがウクレレ
そ ん な 子 ど も じ み た 闇 雲 な 願 望 を も つ ほ ど、 わ た し に は 全 く も っ て、
を弾く場面、ああいうなにげないミ ュージシャン にわたしはなりたい。
器 楽 演 奏 や 歌 の 才 能 が な い! ピ ア ノ は 子 ど も の こ ろ 九 年 も や っ て い
た。 よ く も あ ん な に 進 歩 せ ず に 三 歳 か ら 十 二 歳 ま で 習 え た も の だ と 思
う。 四 十 す ぎ て か ら、 幼 い 娘 と 一 緒 に ピ ア ノ を 再 び 習 い だ し た も の の、
発 表 会 は カ タ ス ト ロ フ。 講 演 や ト ー ク シ ョ ー で は、 ス テ ー ジ・ フ ラ イ
鈴木 敦子(すずき あつこ)
愛知県生まれ。版画家。1991 年名古屋芸術大学美術学部絵画科卒業。東京を中心に個展やグループ展にて作品を発表。
Atsuko SUZUKI
鴻巣 友季子(こうのす ゆきこ)
東京都生まれ。翻訳家。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』
、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』など多数の翻訳を手がける。
著書に『全身翻訳家』
『熟成する物語たち』
『翻訳問答』シリーズなど。毎日新聞書評委員。