小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書 第26集 官士見 城 跡 ― 一 長 野 県 小 諸 市 富 士 見 城 跡 発 掘 調 査 報 告 書 ―一 1997.3 小諸市教育委員会 小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書第26集 官士 見 城 跡 ― 長野県小 諸市富士見城跡発掘調査報告書 ― 1997.3 小諸市教育委員会 例 1 言 本書 は、平成 8年 5月 27日 ∼ 7月 25日 まで発掘 調査 された、長野 県小諸市大字菱平宇竹原 に 所在す る富士見城跡 の調査報告書 である。 2 本調査 は、小諸市建設部都市計画課 の委託 を受け、小諸市教育委員会 が実施 した。 3 本調査 は、星野保彦 を発掘担 当者 とし、有識者 を調査員 とし、地元後平地区 の方 々の御協力 を得 て実施 した。 4 遺構実測図の作成 は、次 の者が行 つた。 井出喜八、太 田史夫、星野保彦 5 遺構 の写真撮影 は、大 田史夫、星野保彦が行 つた 6 本書 の執筆 は、星野保彦が行 つた。 7 本書 の編集 は、太 田史夫 ・星野保彦が行 い、小淵武 一が これを校閲、監修 した。 8 発掘調査 及 び報告書作成 に際 しては、次の方 々 に御 指導・御配慮 ・御協力 を賜 わった。 ここ に御芳名 を記 して厚 く御礼 申し上げる (50音 順、敬称略 )。 河西克造、小林俊 一、郷道哲章、笹本 正治、西森 (関 係機関)新 要 日本航業株式会社、有限会社堀籠重機 例 1 遺構実測図の縮尺 は、次 の通 りで あ る。 石垣断面図 2 1/80 遺構全体図 1/1,500 水糸 レベ ルの原点 は、次 の通 りで あ る。 No1 805.641m、 No2 805。 485m、 No3 806,262m、 No4 804.993m、 No5 808。 112m、 No6 809,101m 3 土層の色調 は、 F新 版 標準土色帖Jの 表示 に基づい て示 した。 本 例 言 凡 例 文 目 次 本文 目次 付表 目次 挿図目次 図版 目次 I。 …………… ……… …… ……… …………………… ……… ……… …… ……… 1 発掘調査 の経緯 1 2 3 調査 に至る動機 ……… … ………… …………………… … ……………… ………………… …… 1 調査 の概要 ……………… ……………………… ……… ………… ………………… ……… 1・ 2 調査 の経過 …… … … … … …… … ……… …… … … … …… … … … … … … …… …… 2 Ⅱ.遺 跡 の概観 Ⅲ.層 序 …………………… ………… …………………………………………… ……………………… 3 …………………………………………………………………………………………………………………… 7 Ⅳ。遺構 と遺物 ……………………………………………………………………………………………………………… 8 1 遺構 … ……………………… ………… …………………… ……… …… ………… ………… …… 9 2 遺物 ・………………………………………………………………………………………………………………… 9 V.総 括 … … … … … … … … ……… … … … … … … …… … … … …… … …… …… … …10 8・ 引用参考文献 ………………………………………………… ………… …… …… ……………………10 付 表 目次 第 1表 挿 図 目 次 第 1図 富士見城跡 の概念図 と調査地点 ………3 第 2図 調査地点 と周辺遺跡 …………………… 5 第 3図 基本層序 ……………………………… 7 第 4図 地質分布図 ………………………… 7 第 5図 石垣実測図 …………………………… 8 第 6図 石垣 ・ トレ ンチ全体図 …………… 9 図 版 目次 1 図版 3 図版 第 1号 ∼第 10号 石垣 第 1号 ∼第 10号 石垣 図版 2 作業風景 。第 1 3∼ 8号 石垣裏込 め状態 I 1 発掘調 査 の 経緯 調査 に至 る動機 小諸市建設部都市計画課 は、後平 より小諸市立総合美術館 (仮 称 )に 至 る Fパ ノ ラマふ るさと 街道』 を建設す ることとなった。道路 の建設予定地 は、小諸市遺跡詳細分布調査報告書 の富士見 城跡 の範囲か らは外 れるが、城跡 の東 に接す る地 点 に位 置 し、石垣が見 られ、城跡 に関わる遺構 ・遺物が検出される ことも予測 されるため、緊急調査 の必要が生 じた。 このため、小諸市教育委員会 では、都市計画課 の依頼 を受理 し、長野県教育委員会文化財保護 課指導主事 小林俊 一先 生の御指 導 を受 け、当該地 に残 る石垣 の位置 を平面図に入れ、造 りが し っか りしてい るもの については断面 を実測、 また、石垣 と石垣 の 間の畑 には トレ ンチ を入れ、遺 構 の有無 を確認す ることとし、平成 8年 5月 27日 よ り調査 に着手 した。 なお、上記 の美術館建設予定 地 (大 字諸字 上屋 敷 163-1外 )は 、平成 7年 10月 5日 ∼20日 に、 試掘調査 を実施 したが、遺構 ・遺物共に検出されなかった。 2 調査 の概 要 。遺跡名 富士見城跡 。所在地 長野県小諸市大字菱 平字竹原 O調 査期 間 平成 8年 5月 27日 ∼ 7月 24日 。調査 に関す る事務局 の構成組織 は下記 の通 りで あ る。 美斉津秀晴 小諸市教育委員会教育次長 小 田中茂 ″ 社会教育課長 小 山文登 ク 社会教育係長 金井利男 ク 社会教育係主査 前田洋子 。調査 団の構成組織 は下記 の通 りで あ る。 顧 間 関 三郎 小諸市教育委員会教育委員長 上野英世 小諸市教育委員会教育長 長 小淵武 一 小諸市文化財審議委員長 副団長 井出喜 八 担当者 星野保彦 調査員 小野山 清、太田史夫、松本 甲子雄、山浦 調査補助員 佐藤君代 団 小諸市教育委員会学芸員 1- 実 3 調査 の経過 調査 日誌(抄 ) 5月 27日 (月 )晴 重機 により試掘 トレンチを入 れ、遺櫛検出作業 を行 う。 5月 30日 (木 )晴 重機 により試掘 トレンチを入れ、遺構検出作業 を行 う。 一旦、中断 7月 3日 (水 )晴 テ ン ト設営、石垣│の 周囲の草刈 り。 7月 9日 (火 )曇 り 石垣の周囲の車刈 り、雑本の伐切。 7月 ■ 日(本 )晴 石垣の周囲の草刈 り、清掃、写真撮影。 7月 16日 (火 )晴 石垣の断面 を実測す る部分 にかか ってい る石を外す .。 7月 22日 (月 )曇 り、夕方豪雨 石垣 の断面の実測。 7月 25日 (本 )晴 器材撤収。調査終了後、報告書作成作業 を行 つた。 -2- Ⅱ 遺跡 の概観 富士見城 は、小諸市 の 中央部 よ りやや北西 に位 置す る飯綱 山 (標 高835.5m)の 山頂周辺 に築 かれた 中世 か ら近世 にかけての城砦 ととらえ られてい る。 小諸市誌 による と、富士見城が築城 された時期 は定 かでないが 、佐久地方 の大半 の城塞 の築城 が応仁 ・文明 の乱以降 である ことか ら、 この城 の起源 も15世 紀後半頃 まで遡 る もの とされる。築 城者 は、当時佐久地方 を支配 してい た大井氏 の一 人で、西方か らの脅威 (村 上氏 )に 備 え、小諸 城 の大遠見城 として築 かれた らしい。同様 の意図 で大井氏 の協力者 によ り築かれた と考 え られて い る城塞 には、市内丙字両神 に所在す る手代塚城があ る。 富士見城が再 び地 方史の なかに登場す るのは、起源 とされる時期か ら約 100年 を経 た頃 になる。 長野県町村誌、諸部落誌 による と「天正 10年 (西 暦 1582年 )本 郡擾乱 の際、徳川氏 の将、柴田七 九郎康忠暫時居城 せ しと、里老の口碑 に して確乎 た らず」 とされている。 力、 第 1図 富士見城跡 の概念図 (郷 道哲章氏 による縄 張図)と 調査地点 -3- (■ 5,000) 柴田七九郎 は、徳川家康 の家臣で 、天正 11年 、依 田信審が徳川氏 の命 によつて岩尾城 (佐 久市 大字鳴瀬字城跡 。宮 の前 )に 籠 った大井行吉 を攻 めた ときの軍監 として、依 田氏 の軍 を督 して い る。 また、柴田は、天正 13年 、徳川氏 と上田の真 田氏 との間に不和が生 じた際、徳川氏 との先鋒 として上田城下に迫 り、真 田氏の反攻 にあい多数 の犠牲 を出 し敗退 した第一次徳川 ・真田合戦、 及 びその後 に報復 のため、上田方 に与す る丸子城 を攻 めた折 の武将 として も松平康国、大久保忠 世等 と共 に名 を連 ねてい る。 天正年間 は、佐久地方に勢力 を張 つた徳川氏 と真 田氏 との 間に緊張が続 い た時期 とされる。そ の 間、主城小諸城 の西方監視 の役割 を担 う衛星城砦 として、富士見城が重要 な位 置 を占めたであ ろ う ことは想像す るに難 しくない。 中世 の城跡 には、 このほか本城跡 の東方約 l kmの 地点 に菱形城跡 がある。その起源 は、市誌 に よる と嘉暦 の 頃 (西 暦 1326∼ 1329)、 時 の地頭 が指 導者 の役割 を果た し、「集落防衛 を目的 として 3」 城 の構築 に農民の力 を借 りた ものであろぢ とされる。昭和 54年 3月 か ら6月 にかけて、その一 部が広域農道 にかかるため発掘調査 され、遺構 では堀、堀切各 1基 、遣物 では銅地 に鍍 金が施 さ れた幹、内耳土器片などが出土 して い る。 今 回の調査地点 は、浅間山を東北方 に望む飯綱 山の北東側 の斜面 に位 置 し、標高810m∼ 820m を測 る。遺跡周辺 の地層 は、烏帽子火山群 の活動 により、鮮新世 か ら洪積世 にかけて形づ くられ た飯綱 山溶岩 (灰 色の細粒 l mln以 下 の輝石類 の散点す る普通輝石紫蘇輝石安 山岩 )を 基盤 とし、 その上 に飯網山溶岩 の風化 した礫 を含 んだ粘性 に富 む土壊が堆積 してい る。 調査対象地周辺 の緩斜面 の一部 は、 かつ ては桑園が営 まれ、現在 は果樹、読菜類 の畑地 として 利用 されてい る。 また、耕作地以外 の斜面 には、雑木林がひろが り、木本 では、ケヤ キ、 ヨナラ、 アカマ ツ、 クヌギ、 クリ、 カス ミザ クラなどの高 木、 ヤ マ ウルシ、 ニ シキギ、 ノイバ ラ、 クロ ツ バ ラ、ヤマ ブキなどの低木、蔓性 のアケ ビ、 ス イカズ ラ、 ツルウメモ ドキ、 クズ などがみ られ、 一方草本 では、 スス キ、ハ ギ、 ヨモ ギ、 スギ ナ、 シロツメクサ、 ヒメジ ョオン、 セイヨウタンポ ポなどがみ られる。 註 (1) 小諸市誌編纂委員会 1984 「小諸市誌 歴史篇 (二 )J (2)註 (1)の 文献 (3)註 (1)の 文献 (4) 小諸市教育委員会 1989 「菱形城址J (5)小 諸市誌編纂委員会 1986 「小諸市誌 自然躊J -4- 第 2図 調査 地点 と周辺 遺跡 (1:25,000) -5- 第 1表 所 在 地 立地 芋 畑 遺 跡 滋野字芋畑 ・糠地 台地 ○ 糠 地 遺 跡 滋野字糠地 台地 ○ 北 山 遺 跡 滋野字北山 台地 旦 田 城 助 滋野字上深沢 台地 北山飛地遺勘 滋野字北山飛地 上西原遺跡群 滝原字上西原 。中西原 台地 中 巴 9 名 跡 菱平字飼場 O 飼 場 B 遺 跡 菱平字飼場 台地 ○ 城 の 峯 城 跡 菱平字上菱野入 丘陵 O A遺 滋野字中壱騎馬 ・壱騎馬 ・東原 ・下見原 ・金卸 台 地 深 沢 遺 跡 群 ・田中畑・観音前・深沢田 24 34 36 三 宅 城 跡 滋野字上壱騎馬 台地 下 西 原 遺 跡 滝原字下西原 台地 備 考 塔 ノ峰遺跡を含む 台地 台地 飼場 返世 7 跡 力 生 1 遺 躍 支 番号 富士見城跡 とその周辺遺跡 昭和59年 一部試掘調査 ○ 荒 神 反 古 墳 西原字荒神反 台地 清 水 平 遺 跡 滝原字清水平 台地 ○ 孫 藤 遺 跡 滝原字孫藤 台地 諸 古 墳 群 諸字窪屋敷・ 別府 富 士 見 城 助 諸字城峯 。上屋敷 台地 弐 張 遺 助 菱平宇風張 台地 大 久 保 遺 跡 菱平字大久保 台地 菱 形 城 跡 菱平字中尾根 丘陵 昭和54年 一部発掘調査 中 尾 根 遺 跡 菱平字中尾根 ・大久保 台地 〇 昭和54年 一部発掘調査 前 田 遺 跡 菱平字前 田 台地 O 山頂 ○ 下菱 野入 遺跡 菱平字下菱野入 山麓 西丸 山 A遺 動 菱平字西丸山 台地 西九 山 B遺 跡 菱平字西丸 山 台地 ○ 西丸 山 C遺 跡 菱平字西丸山 台地 O 下 平 遺 跡 大 久保字下平 台地 勝 形 城 跡 大久保字東柳沢 跡 諸字並木 ・別府・窪屋敷 遺 諸 台地 清 水 駅 跡 詣字大門・鳥井辺・丙字青木 台地 手 代 塚 城 跡 丙宇両神 台地 肢 山 遺 勘 丙字横山 台地 卜 諸 城 勘 台地 彪 島 古 墳 丁字大手町309 台地 東 九 山 遣 跡 菱平字東丸 山 台地 現存せず 台地 ○ ○ 東 沢 城 跡 甲字鳩 ノ巣 ・山崎 台地 野 岸 遺 跡 甲字野岸 台地 ○ -6- ○ 現存せず Ⅲ 第 I層 褐色土層 (7.5Y R4/4) 第 Ⅱ層 褐色土層 (7.5Y R3/4) 第 Ⅲ層 暗褐色土層 (7.5Y R3/3) 第 Ⅳ層 褐色土層 (7.5Y R4/6) 層 富士見城跡 は、小諸市街 の北西約 2 kmの 地点 にある飯網 山の 山頂周辺 に位置す る。 今 回の調査箇所 は、後平集落 の南、飯綱山の 山頂 の北東倒 の 、標高810∼ 820mを 測 る斜面 に当 たる。 第 I層 は、耕作上 で、層厚 30cm前 後 を測 る。礫 はほ とんど含 まない。 第H層 は、漸移層で、層厚30cm前 後を測り、 φ5.0∼ 10.00cm大 の礫を含む。第 I、 Ⅱ層共に粘 性がある。 第Ⅲ層は、粘土層で層厚80cm前 後を測る。 φ5,0∼ 10.Ocm大 の礫を僅かに含む。遺構の確認は、 本層上面において行った。 第Ⅳ層はφ5.0∼ 50.Ocm大 の礫を多量に含み、締まっている。 EZ飯 綱山溶岩 普通輝石紫蘇輝石 安山岩 AT ttlla火 砕流堆積物 THS菱 平火砕流雄積物 TNS西 新田層 ATK栃 木川泥流堆積物 TA 天池層 f 扇状地性堆積物 A P2浅 間第 2軽 石流 第 3図 基本層序 第 4図 -7- 地 質分布 図 (小 諸市 誌 自然 編 に よる) Ⅳ 遺構 と遺物 1 遺構 (第 5・ 6図 、図版 ) 調査 を行 った範 囲 は、飯綱 山 の 山頂 の東 か ら南 東 にかけての幅30m、 長 さ315mに 及 ぶ斜面 で ある。検 出 された遺構 には 10列 の石垣があ る。石垣 と石垣 の 間の斜面 につい ては、城 に関わる 竪穴建物址、柵列、土坑等 が検 出される可能性 もうかが える ことか ら トレンチ調査 を実施 したが、 確認 されなか った。 石垣 の詳細 は、第 2表 に記 した。規 模 は、高 さ0。 7∼ 2.0 m、 長 さ7.5∼ 32.5mを 測 る。 裏込 めの幅 は、0。 7∼ 1.5mを 測 る。 ただ し、第 9、 10号 石 水糸 レベル807.127m 水 糸 レベ ル806776m 垣では、確認 されなか った。 おそ ら くこの 2列 の石垣 は、 斜面 の上砂が崩れ るのを防 ぐ 目的で積 まれた もの と考 え ら れる。 また、 この 2列 で積 ま 水糸 レベル806919m 水糸 レベ ル809.577m 石垣No 7 M― れてい る石 は、他 の石垣 に較 べ加工痕が残 るものが少 なか った。石垣 に積 まれて い る石 は、 いず れ も付近で得 られる 安山岩 である。第 1∼ 8号 石 水糸 レベル807772m 垣 は、畑 もしくは、かつ て畑 水糸 レベル811.012m だった と推測 される土地の縁 に位 置 してい る。裏込 めの幅 は、第 8号 を除 い た 7列 が m未 満 で 、調査 の時点 では 中 水 糸 レベ ル805828m 腹部 に追 り出 して いた。 この 層 序説 明 第 1層 腐葉土の混 じつた耕作土 第 2層 褐色土層 (7 5YR4/4) φ10∼ 7cmの 礫 を含む粘土層 地山に近似 第 3層 暗掲色土層 (7 5Y R3/4) ,10∼ 10Cmの 礫 を含む粘上層 地山に近似 第 5図 1 うち、第 1、 2、 4、 6号 の 4列 の石垣 では、部分的 に崩 水糸 レベル811481m れてい る箇所が見 られた。 以上 より、第 1∼ 8号 石垣 は、畑 の耕作 に関 わる畦石垣、 石垣実測図 -8- // // ︲︲︲︲ ︲ ︲ ︱ お R 第 9、 10号 石垣 は、土砂崩 れ 防止 のための石積み と考 えら れる。 2 遺物 今 回の調査 では、南北 11本 、 東西 5本 の計 16本 の トレンチ を対 象地 に入れた。 これ らの トレンチ、及 び石垣 の造 りを 調べ るために、第 1∼ 8号 石 垣で 1箇 所ず つ石垣 を切 つた が、遺物 の 出土 は皆無 で あ っ JP《 た。 至小諸市街 第 2表 石垣の長 さ、 高 さ一覧 単位 (m) \ 長 さ T2 高 さ 0.9∼ 1.15 1 2 3 1,1-1.25 4 1∼ 1.2 5 1.1^-1.35 6 0.8∼ 1.05 7 8 22.5 0.7∼ 2.0 9 1∼ 1.5 第 6図 富士見城跡 パ ノラマふるさと街道 石垣 ・ トレンチ (T)全 体図 -9- V 総 括 今 回の調査 で検 出 された遺構 (石 垣 ・石積 み)に つい ては、先 に述べ た。 検 出 された10列 の石垣 の内訳 は、 8列 が耕作のための畦石垣、 2列 が土砂崩れ を防止す るため の石積 み と考 えられる。 調査対象地 の西側 に位 置す る諸部落 におい て、昭和28年 上梓 された 『諸部落誌』 による と、調 査地点 と尾根 を挟 んだ大字諸字上屋敷、 日影平、東房周辺では、 「畑 は、 (中 略 )、 2米 乃至 3米 に及ぶ石垣 により形作 られる所 も砂 なか らず、以てその急傾斜 を知 るのである。 」とある。引用文 の畑 の 中には、今 では人手が入 らず、荒廃 してい る ところ も見受け られるが、 これ らの石垣 は今 も残 る。調査地点が含 まれる菱平地区につい て言及 した F諸 都落誌 Jに 相当す る資料 が入 手 で き なか ったため、 この文章 を引用 したわけだが、調査 を行 つた後平側 の斜面 も、同様 の意図で石垣 が築かれ、畑 として利用 されてい た もの と考 えられる。 蛇足 になるが、同部落誌 によると、江戸時代 に調査 区周辺 の畑 では、大小麦、大小豆、栗、黍 蕎麦等 の雑穀 のほか、僅か に桑 を作 った とされる。 また、昭和 26年 の調 べ では、上記 の作物 のほ か もろ こ し、馬鈴薯、甘語、果樹が加 わる。 この年 の調査 では、江戸時代 には僅 か とされて い た 桑 の栽培面積 が14町 8反 4畝 13歩 とある。周辺 での水稲 の作付面積が、26町 余 で あ ることを考 え ると当地 での養蚕 の比重が 、 いかに大 きなものであったかが理解 される。 調査地点 で検出 された畦石垣 との 関連 を考察す る観点 か ら、周辺の農作物の変遷 につい て若千 記 した。富士見城 との 関 わ りについ ては明 らかにで きなかったが、近世以降 の当該地 の人々の生 活 を知 る上で、これ らの石垣 もひとつ の資料 として考 えるべ きであろう。 最後 に、小諸市建設部都市計画課 をは じめ、調査 に参加 された皆様 、御教示 を頂 い た各位 に厚 く御ネし申 し上げ、総括 としたい。 引用 参 考 文 献 大里村 々誌編纂委員会編 北垣聡 一郎 田淵 実男 1987 1975 長野県町村誌干J行 会 1953 F諸 部落誌J 「石垣普請 「石垣 (も (も の と人間の文化史)50J の と人間の文化史 1936『 長野県町村誌J -10- 15)J 法政大学出版局 法政大学出版局 図 版 図版 第 1号 石垣 第 2号 石垣 第 3号 石垣 第 4号 石垣 第 5号 石垣 第 6号 石垣 第 7号 石垣 第 8号 石垣 第 9号 石垣 第10号 石垣 1 図版 2 作 業 風 景 石 裏 込 め 状 第 4号 石垣 第 1号 石垣 F 垣 予 態 第 6号 石垣 亨 第 7号 石垣 第 8号 石垣 図版 3 第 1号 石垣 第 3号 石垣 1鞠 第 2号 石垣 第 5号 石垣 第 4号 石垣 第 9号 石垣 第 10号 石垣 第 6号 石垣 第 7号 石垣 第 8号 石垣 第 4・ 5・ 6・ 7 報 告 書 抄 録 > つ 軽跡 眈 城 長野県小諸市富士見城跡発掘調査報告書 名 書 み 見 副 じ 士 昌 ふ 一 ふ りが な 書 名 次 巻 シ リーズ名 小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書 シ リーズ番号 第26集 編 著 者 名 星野保彦 編 集 機 関 小諸市教育委員会 所 〒384長 野県小諸市相生町 三丁 目 3呑 3号 地 在 EIヒ 末 革 東経 大字菱平 字竹原 所収遺跡名 種 別 主な時代 富士見城跡 城 跡 中世∼ 主 な 遺 石垣 10列 主 な遺物 構 な 近世 小諸市文化財報告書第26集 富士見城跡 緊急発掘調査報告書 ― 発行 日 ― 1997年 3月 31日 編集者 小諸市教育委員会 発行者 小 諸 市 小諸市教育委員会 印 刷 7 4 2 2 富士見城跡 5 8 0 2 2 3 ふ じみ じようせ き 44 6 0 9 つ0 つと つ々 20208 小諸市 研 初 眸朗 日 日 . 市町村 童跡番号 l■lア オ ヤ ギ 印 刷 査積 調面 コ ー ド 査 間 調期 在 な地 ヵ ふ所 な 名 り収 ふ所 り が勘 3月 31日 1997年 発行年月 日 □ 0267(22)1700 し 約 9450nド 特 調 査 原 因 市道建設 に伴 う 事前調査 記 事 項
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