「文明と文化」雑感(1)

第 1 講−B
(1)はじめに
「文明と文化」雑感(1) 日本の基層文化とその精神
長屋を舞台にした落語にはよく訳知りな大家やご隠居さんが登場する。
べにやぼうなまる
「天災」という落語には「紅屋のご隠居」( 紅羅坊名丸 ) なる「心学」の先
生が登場する。そこそこうるさがられ、そこそこ尊敬され、がさつ者の八五
郎も嫌々ではあるが耳を傾けるのである。
江戸末期を舞台とした古典落語は庶民の生活と社会風刺を題材としたもの
だから、
「心学」も題材にも採り上げられる程一般化していたということの
証明である。しかし今の我々には「心学」とは一体何かということについて
はほとんど知らないし、高校で習ったとしても受験用で、石田梅岩=心学と
世界文明と日本文明……
それに自己
(2)忘れられた江戸の
精神性
心学とは……
庶民の中に定着した心学
いった程度しか習っていない。勿論、そんなことはとうに忘れているはずだ。
これから「心学」という聞き慣れない解説を手始めに、江戸の思想背景を
探り、それが明治維新に及ぼした精神構造をについて触れ、時代を大きく飛
んで縄文から稲作の起源、飛鳥時代、平安、戦国時代に遊び、日本文化につ
いての私見を述べ、世界文明と日本文化の接点を何とが探ってみたいという
無謀とも言える試みをしようとしている。
既存の常識を全く離れ、日本文化を違った観点で見ることで、企業人とし
て固定観念を打破するためのアプローチの一つとして読んでいただければと
思っている。
読み進むに連れて、常識に慣らされていた人にはとんでもない内容と思う
かもしれず、納得はしないがそうかもしれないと思う読者もいるだろう。歴
史は常に「非常識」が「常識」に変わってしまう事がある。イギリスの歴史学者、
トインビーは「歴史とは文明と文明のぶつかり合いの中から生まれるものだ」
との名言を残したが、今回のタイトルである「文明と文化」なんて私には全
く関係ないよ、と軽々に決めつけないでもらいたい。
何故なら、我々はその中で生きている。百パーセント影響され、あるいは
影響しあって存在している。
人間にも歴史がありその人ひとり一人が独自の文化を持っている。企業も
「企業文化」を持つ。発展と栄光、衰退と挫折、それらは裏表。
せめ
今ほど「文明と文化」の鬩ぎ合いの激しい時代はない。その中で企業経営
者としてどのように考え行動するか!まずはゆったりと構えて雑感を読み進
めていただこう。
「心学」とは江戸時代後期の庶民哲学となったもので、その創始者は石田
梅岩(1685 〜 1744)という人物である。犬公方として有名な五代将軍綱吉
の元禄時代に成長期を過ごした。11歳の時に京都の商家に奉公した彼は、
とい
後に神道、儒学、仏教の勉学につとめ、主著『都鄙問答』は広範な庶民の修
養書となった。
梅岩の活躍した頃には商品経済が活発化し、ある種の倫理のようなものが
必要になってきたという時代背景があった。神・儒・仏はこの時代にようや
く庶民のレベルまで浸透したと言える。
その後時代は19世紀にならんとしている天明・寛政の頃、梅岩の孫弟子
にあたる中沢道二という心学者が現れた。心学をわかりやすく布教し、彼が
活動した地域は42カ国にわたり、社会階層では51藩の大名、奥女中、旗本、
御家人、商家の旦那、江戸大阪の町人に至るまでそれぞれのレベルにあわせ
て口演したという。この弟子達の活躍もあって長屋の隅々にまで心学が日常
の生活の中に定着して行った。
《 》
1-1
〔 〕
文字の読めない旗本、御家人(例えば、勝海舟の父のように無禄の御家
人の次男坊以下は、文盲が多かったと言われている)も心学の口演を聞き、
得心したものが多かった。
明治四年にはイギリスで『日本昔話』(Tales of old Japan) というタイト
ルで心学道話が紹介されている。内容は赤穂浪士の討ち入りの話や鍋島騒
動(お姫様が猫に化けて夜な夜な現れるというもの。参考までに鍋島とは
佐賀鍋島藩のことで、
「葉隠」の山本常長も、大隈重信も佐賀藩の出身です)
、
坂田金時(金太郎のことです)の生涯、かちかち山などの昔話に混じって、
「鳩
翁道話」も紹介されている。編纂方針からして、心学の倫理性や道徳観な
どお構いなしに、分かりやすく面白い日本の話を集めたようなのだが、初
版から約 50 年の間に 13 版が重ねられたというからイギリス人の間にも受
け入れられたのだろう。
の
「孟子曰く、今無名の指あり、屈んで信びず。疾痛事に害あるにあらず。も
しよくこれを信ぶるものあるときは、すなわち晋楚の道遠しとせず、指の
人にしからざるがためなり。………」
(A saying of Moncius“ Now there is the naneless finger,having become deformed,it flexes not. The itching and pain are not particularly harmful. If
there be a man who can well streighten it,then the way from Shin to So he
makes not too far , because it is unlike ordinary mens fingers. ………”
江戸期にみられる心学の普及
我々が現在予想もできない程、江戸期には心学の普及があったらしい。
ではどんな話をしたのかというと「道二翁道話」
(岩波文庫)にも口述が残っ
ているのでそれの一文を紹介しよう。。
ところがき
「一切の経文、一切の書物は、我が本心を知る所書じや。明徳を明らかにせ
はしご
やね
んがための楷梯じや。……屋宇へ昇つたれば楷梯はもういらぬ。それだのに、
屋宇の上で長い楷梯をふり廻して……鼻ばかりたかうして、子曰、何屋何
兵衛、何兵衛、と所書ばかり読んでゐる」もっとくだけたところでは
ある
「或人の狂歌に、町人の藝は下手こそ上手なれ上手になれば家がへたばる。
よそお
役者や女郎が髪と形をつくり、衣装を張込んで粧ひかざるは、あの衆の商売、
みすぎ
そ
今日の身過じゃ。夫れに其の商売でもない人が、同じように衣類を飾るは、
何事じゃぞ。また女中方なと、髪形から衣装の好物、すっきり女郎役者の
真似して、化けもののやうな顔してさわぎ廻るは、何を目当てにしたものぞ。
どうも合点のいかぬものじゃ。皆是が外道をかせぐと云うもので、其業が
積もり積もりて、責鬼と成りてかぶり付くを、悪魔が身入れたといふ。不
動の火焔も其ような悪魔をよせ付けぬのじゃ。文殊の利劔も外道をたちき
る為じゃ。皆腹の中の事じゃ。とっくりと考えてごらうじませ。……」と
まあこんなふうに、口述が残っている。(いつの時代でもいるものですね。
こんな若者は……)
正直話、落語・小咄・狂歌を巧みに織り交ぜ、庶民に人生哲学を学ぶ資
格と機会を与えようとしたことの功績は大きい。わかりやすくかみ砕き、
己の目、耳で、堅苦しい書物の知識エッセンスを取り出し、日常的な生活
の中に題材をとるという態度は、享保持代の書物中心、文字第一の儒学学
習法にはないものだった。
実際、道二の生の声を聞いたなら相当の迫力があったと思う。
日本において儒学の伝わり方は隣国の朝鮮とは全く違った伝えられ方を
したが(後述)、ここにきて心学の普及によってやっと生活の中になじんだ
という見方もできる。
前述したように今では「心学」という思想は話題に上ることはない。歴
史の教科書も一行で終わりである。しかし、江戸の「心学」が与えた影響は、
1-2
《 》
〔 〕
また
時代を跨ぎ明治時代を通して大きな庶民の精神的なバックボーンとなった。
(3)「心学」以外の江戸の
精神的バックボーン
「心学」も含めて江戸が残した思想、精神性は三つあると思っている。
一つは前述した「心学」、商家は勿論のこと、町人の子女、落語に出てく
る熊さん八っあん階級に至るまで一定の秩序を保持し続ける規範となった。
二つ目は「陽明学」だと思っている。三つ目は、書物や言葉からは一番遠
い「身体伝承」。これら三つが江戸250年の間に、ほぼ完成されたとみる。
ほとんどの人が日本の伝統、文化、精神性を語るときに、知らずにここを
拠り所にしている。私は心学も陽明学も身体伝承など知らんワ!と言うなか
れ。以外と身近なものであることをこれから証明してみよう。
陽明学のこと
「陽明学」と聞くと皆さんは何を連想するか?
王陽明その人を思い浮かべるとして弟子が編纂した「伝習録」を詳しく読
まれている方はまずまれであろう。日本には豊臣秀吉の時代に伝えられ、五
山の僧の間で読まれていた。
しかし、この思想の日本での実質的な開祖は江戸初期の中江藤樹に始まる。
江戸の官学としてもてはやされた朱子学と違い、在野の学として永くあった。
江戸時代には官学としての朱子学が主役だったから「王学」は陰の存在だっ
たが幕末から明治維新の勤王思想の実践家のバイブルとして、明治以降のキ
リスト教や、自由民権運動にも貢献し、昭和期には、民族主義・反共産主義
の皇国思想と結びつき、戦後は政財界のトップ達の帝王学となり、晩年の三
島由紀夫が傾倒した思想でもある。
中年以上の日本人なら必ず一度は映画やテレビで見ている、赤穂浪士の討
ち入りは、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を雪の中で打つシーンで最高潮を迎
えるが、この山鹿流軍学の創始者、山鹿素行は陽明学に触れ、朱子学を批判
し江戸から赤穂に流された。当然、赤穂浪士の主立った面々は陽明学の影響
を受けている。
また、幕末の歴史に興味のある人は誰でも知っている、佐久間象山、勝海
舟、吉田松陰、西郷隆盛などは江戸後期の陽明学者、佐藤一斎の著書「言志
ことこ
四録」に影響を受けている。(ついでに言っておくと、一斎の孫、士子は吉
田茂の養母である。幼少に吉田がどんな教育を受けたか想像がつく)
一斎の門人に、山田方谷がいる。方谷は岡山の松山藩財政建て直しに活躍
した陽明学者である。藩の年収が5万両のこの藩、借金が10万両にものぼっ
ていた。この財政危機を方谷は、8年間で解消し、余剰金を10万両にも増
やした。(米沢藩の上杉鷹山の藩財政建て直しは有名だが、20数年経ち彼
の没後にやっと完了したのとは、その手際の良さには雲泥の差がある)
この成功で、藩主板倉勝静は、江戸幕府最後の老中首座に抜擢された。皮
肉なものである。維新後、明治政府は何とかして方谷を大蔵卿に招聘しよう
と画策したがついに彼は動かなかった。
その方谷を唯一の師として仰いだ人物に、長岡藩家老河井継之助がいる。
司馬遼太郎さんの描く「峠」の主人公である。ガストリング砲で官軍を迎え
撃ち、壮絶な最期を遂げたのも、方谷の望むところではなかったと思うが
……。
また坂本龍馬や高杉晋作など憂国の士が私淑した思想家、横井小楠も一斎
の門人である。
十九世紀後半、清朝末になると本家の中国では陽明学は全く廃れてしまっ
ている。その意味では陽明学は江戸中期から幕末に完成された日本の思想そ
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1-3
〔 〕
のものであると言っていい。
日本で陽明学を知った蒋介石
※
※
※
※
※
※
※
※
※
日本に留学した蒋介石は、日本で陽明学を知り「一小国の日本が、かくも
強大になりえたのは、陽明の哲学がもたらした結果であると悟った」と述べ
ている。江戸末期に完成した日本の陽明学が中国からの留学生達によって逆
輸出されたということである。
では、陽明学の本質は何かというと、「致良知」であり、誠を尽くした我
が道が、自己の中に充満すれば、我が身は生き生きとし、結果、逆境をプラ
スに転換することができる。まあそんな風に考えればいい。
とにかくこれらの日本的「陽明学」の用いられ方の全てを否定するもので
はないとしても、かなり独特の引用のされ方をしていることは否めない。私
なりの陽明学のあり方を何れ明らかにするとして、ここでは、「現在の厳し
い状況を生き抜くための行動哲理の思想的骨格の一つとして、自己信頼に基
づいた楽観論と言う立場から、陽明学を実践的思想ととらえる。」
陽明学は理解の仕方を間違うと、あらぬ方向に誘導されてしまう事もあり、
ここでは詳細に述べないが、講座の後半近くに時間をとって解説を試みたい。
身体伝承のこと
ロゴスの民と日本民族の対比
三つ目の江戸期に完成した日本的精神性は「身体伝承」である。この言葉
「身体伝承」は私の造語である。広辞苑には出てこない。しかし、以下言お
うとしている内容に合致する言葉が見あたらなかったのでこの言葉を当ては
めた。
祖父や祖母に「昔は手取り足取り教わるなんて事はなかった。先輩や、親
方のなりをみて技を盗んだものだ。体で覚えるんだよ、体で」と子供の頃に
言われた方もいるだろう。今でも八十近い武道の師範は、頭で考えるな、体
に覚え込ませるまで修練しろという。いわばそれが「身体伝承」の一つの形
態であるには違いないが、一度非合理な身体伝承をされるととんでもない悪
癖を引きずってしまう弊害も内包している。優れた師に師事することがいか
に大切なことであったかと、剣豪小説を読んで思うのである。
身体伝承の分かりやすい例は、こんなことで比較してもらえばいいだろう。
シェークスピアの劇は当然の事ながらイギリスでは英語で演じられる。今
の英語の基は彼が作ったと言われているのだから正統なシェークスピア劇を
理解するには英語の方がよろしいに決まっている。しかし日本語で、日本人
が演ずるシェークスピア劇が全く見るに耐えないものかというと、そうでは
ない。十分に日本語にこなれた台詞であれば、大部分は楽しめる。
何故か?言葉によって伝承(意思の疎通を図る)することに大きな重みを持
つ文化だからだ。はじめに言葉(ロゴス)ありき、と言う民族の演ずる劇だ
からである。ところが、日本の能や狂言、歌舞伎はそうはいかない。デフォ
ルメされた衣装に化粧。指先の仕草、腕の上げ下ろし、体の捌き方一つ一つに、
総て型がある。日常の人間の所作からはおよそかけ離れた動きである。言葉
は従である。しかし、見ている我々日本人にはそれが意外性もなく受け入れ
ることができる。これが優れた翻訳者がいてそれを欧米人が演じたとしたら
どうだろう。およそ見られたものでなくなってしまうことは想像がつく。同
時通訳で本来の役者が演じない限りは、欧米人を感動させることはできない。
何故か?
本来日本の文化とは、代々身体伝承でしか伝えられないと言う要素をもっ
ているからに他ならない。要は言葉は言葉であっても、伝えようとするその
当事者からして、言葉に対する全幅の信頼を置いていない。
世阿弥の「花伝書」、宮本武蔵の「五輪書」、柳生宗矩の「兵法家伝書」な
ど奥義と言われるものは現在でも手にすることができる。だが、それを何千
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〔 〕
回読んだところで肝心なところは会得できない。
師匠(それが父親である場合もあろう)と一緒に寝起きし、日常イコール
修行の場であることを得心し、その呼吸(息合い)、間合い、所作のあらゆる
ものを盗み(体得し)、真似をして自分のものにしていくのである。合理主義
ではとても理解できない。
(4)今求められる「日本
文化とは」
さて、前段で日本の精神性が長い年月を経て江戸期に完成を見たという私
見を述べたがそれ以後、これらの三つの要素はいったいどこへ行ってしまっ
たか検証してみたい。
明治維新後、今まで欧米諸国との交流が閉ざされていた日本はがむしゃら
に欧米列国の文明をキャッチアップすることに奔走した。それも詮無きこと
であろう。何しろ数百年眠っていた浦島太郎のようなもので、目が覚めたら
周りの状況が一変していたのだから。
追いつこうと懸命に努力した。そして比較的容易に欧米文明の上澄みだけ
は取り入れることができた。
心学を中心に、神道、儒教、仏教、道教とない交ぜになってはいたが十分
にこなれた庶民哲学が行き渡っていたせいで、庶民は欧米文明を換骨奪胎し、
自分流にアレンジし、みごとに取り入れた。
幕末から明治維新の修羅場を駆け抜け、生き延びてきた為政者達は曲がり
なりにも我を捨てて国家の危機を何とかしようと心血を注いだ。「陽明学」の
本質も知っていた。事実そのように行動した。
例えば陽明学の「良知説」を高く評価した、キリスト教の内村鑑三、三菱
財閥を一代で築き上げた岩崎弥太郎、政治家では犬養毅、軍人では乃木希典、
日露戦争の旅順港閉塞で戦死した広瀬武夫(軍国主義精神高揚の格好な材料
に利用され、軍神「広瀬」となる)、などである。 身体伝承は欧米文明の技術を取り入れるのに役立った。輸入製品を見て、
あるいは外観だけからでも真似をすることによって、容易に作り得る高い技
術力を内包していたからである。この伝統的特性は、今も我々の中に息づい
ている。日本の経済力をかくも押し上げたのは、我々にこの特性があったか
らである。よく日本人でありながらに自ら卑下して、我々民族は模倣の上手
な独創性のない民族だという。正しい「身体伝承」はそんな安っぽいもので
はない。
ノーベル物理学賞受賞の利根川進氏はこういっている。
「オリジナリティということなんですが、どういうことがオリジナリティなの
かということ自体がなかなかわかりません。でも一回経験するとわかるんで
す。それには、やはり非常にオリジナルな仕事をした人のそばで、研究する
のが一番です。ある程度の観察力がある人なら見ていてわかりますよ。そう
いうお手本がないとなかなか難しいでしょうね。私は独創性というのは結局
物まねから始まると思うんです」
利根川博士のいう「物まね」とは「身体伝承」そのものであることは言をま
たない。
長所があれば短所がある、それが
歴史だ。何時の時代も変わること
はない。
大正・昭和初期の生まれの日本人は今の世相を嘆くが、ここでよく考えて
もらいたい。
明治期、極東の島国日本が、鎖国によって外界と閉ざされていたにもかか
わらず、世界史上考えられないスピードで欧米の技術や、機構を取り入れる
ことができたのは、実は江戸時代末期に完成された、日本の精神性である三
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〔 〕
本の柱と、各藩の高い教育水準があって成し遂げられたのである。つまり誤
解を恐れずに言うと、明治期は江戸の遺産で持ちこたえることができたと言
える。
しかるに、その遺産が食い潰され、江戸期の精神性を持ち合わせた人間が
少なくなるに連れて、日本はどうなったか歴史を振り返るまでもない。その
精神性の長所の裏面が一挙に吹き出た感がある。
江戸期の日本人は世界一の知的水準
「心学」に代表される庶民哲学は、その知的水準は当時の世界を見回しても
どこよりも高かったが、あくまでも士農工商の体制を維持するための哲学で
あり、それを越えて新しい庶民の「心学」を形成することはできなかった。
本来庶民のものでありながら、躾や国の都合の秩序を守ることだけで、自ら
の首を絞めることになってしまった。本来生きていくための豊かな発想が形
骸化してしまった。
陽明学の根本である「良知」も己を一切捨て、開かれた自己を高め、遭遇
する様々な危機を乗り越えようとするものであるはずが、いつの間にか「良知」
ばっこ
も独善に陥ってしまった。軍部の跋扈はそのもっとも極端な例で、勝手な解
釈で満州国など作ったりして、日本特殊論を振りかざし舞い上がってしまっ
た。
現在でも「官僚」の思い上がりは、このような狭量な解釈による。戦前の
発想から未だに変わろうとしない。変われないと言った方がいいだろうか。
身体伝承の大事な要素である「真似をする」ことは確かに欧米文明の背景
を考えずに技術のみを取り出すことには秀でていた。しかし、身体伝承の根
本はそうして相伝したものを、独自の工夫と発想で破壊してみる(「破」)こ
やみくも
せんだつ
とで進歩がある。伝統とは闇雲に先達の教えを遵守する事でない。伝統の裏
側には常に革新がなければ、次の世代に伝統を継承できないものである。前
やゆ
段で高齢の武道の師範を揶揄したのは私の本意ではないが、彼に革新性があ
るとはとうてい認めがたい故のためである。
室町・安土桃山期に起こり、江戸になって「道」とつく様々な、武道、茶道、
華道などの流派が竹の子のごとく排出したが、それぞれ流派の神髄を守ると
言うにはほど遠く、単に家元を頂点とする集金システムに成り下がってしまっ
た。これらは、西欧文明に毒されたからでは決してない。単に相伝の家元に
都合のいい職業としての芸に堕落したのだ。今の時代はもっとひどい。身体
伝承の本質を伝えることを怠たり形式主義とは相成った。
かくして明治・大正昭和初期の日本の先輩達は、その先輩の江戸期の日本
の精神性を浪費することで、我々の世代に新しい「日本の文化」を伝える努
力を怠った。
無理もなかろう。殖産興業、富国強兵、欧米文明に負けない国造りをしよう、
せめて勝てなくてもなんとか追いつこうと駆け足でこの時代を駆け抜けた。
おもし
そして昭和も二桁になると江戸の精神を色濃く受け継いだ口うるさい重石は
少なくなって、ブレーキが利かなくなってしまった。彼の国の国力と我が国
の国力とを比較し、誠をもって何がこの国にとって一番いいことかを考え実
行する「勇気」を持つ国民でなくなってしまった。
戦前の「鬼畜米英」に代表される日本特殊論は、戦後一転して、欧米に迎
合することになる。しかし喉元過ぎると何とやらで一時期、といってもつい
最近のこと……バブルの時代があった。一番危ない時であった。多分に皮肉
を込めていっているのだが、半分は本気だ。このまま、錆びついた日本文化
論を盾にとって、後4、5年バブルが続いていたと想像してみる。
《 》
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〔 〕
物欲に駆られ、金に糸目を付けずに絵画や彫刻を手始めに、世界中の文化
遺産を買い漁り、世界を相手に顰蹙を買い、日本に敵う国はあらずと、止ま
るところを知らない増長した国民になっていたろう。事実バブルの絶頂期は
そうだった。
バブルが弾けて本当に良かったのである。(バブルで滅びた国家は世界史
上どこにもない。その後の処置が良ければまた国家は繁栄する)
ほころ
さて現在は、増長した反動で全く自信をなくしてしまった。綻びが出るは
出るは、未だに出きってないところを見ると未練たらしくバブルの幻想を抱
いている輩が多いらしい。はっきり言っておく。少なくともこれからは濡れ
手で泡のそんな現象が起こることは決してない。(根拠は、納得のいくよう
に次回以降じっくりと検証させていただく)
また、今おかれている日本経済を指し、日本経済は早くこの「敗戦」から
立ち直らなければならないとか、日本経済に「復活の日」は来るのかと言わ
れているが、私に言わせればそのように言うこと自体が笑止である。
私は多少経済について知識はあるつもりだが、「日本経済」のみをアメリ
カのそれと、ドイツイギリスなどの西欧諸国と比較してもしょうがない。文
化的基盤のしっかりしていない経済活動は実に脆いものだということをバブ
ルから教訓で得たではないか。
日本は西欧文明に代表される物質文明に負けたのだ?という説。これも全
く違う。日本人の持っていると思っていた、実はそれは脆弱なものだったが、
日本文化(日本の精神性)が世界文明と互角に戦えるものと思い上がって挑
んだ結果破れたのだ。
もっと言えば、鎖国の時代に完成した日本文化をブラッシュアップ、ある
いは再構築しないままに何の手入れもせずに(いやそんなものがあることも
しらなかったかもしれない)、文明と渡り合おうとして戦う前から自爆して
しまったのだ。 果たして「日本文化」と「世界文明」をつなぐ絆のようなものがないのだ
ろうか。我々はそれも探さなければならない。そしてそれをしっかりと探し
得たならば、十分に使えるようにオーバーホールしなければならない。
(5)日本史再考
今また、アメリカに日本異質論が頭をもたげてきている。日本経済が停滞
しているとはいえ、世界経済にしめる日本のシェアは 16%を占める。(1998
年)この数字はEUの中核であるイギリス、フランス、ドイツを加算した分
よりも大きいのである。その日本に対して異質論が出るのは、日本のスタン
スが全く不明確という証明でもある。アメリカに迎合せずに独自の日本文化
とアメリカ文明との接点を見いだすためには、歴史をもう一度さかのぼって、
埋もれてしまった「日本文化」を発掘し、さび付いた日本文化を世界にも理
解できるように模索する努力をしなければ、次代の日本人に怠慢と言われて
も返す言葉がないではないか。
今後も我々日本人は資本主義経済の傘の中で生きて行くしか道はない。欧
米文明と上手に互していかなければならない。選択はないのだ。例えば、今
もかたくなにイスラム文明圏の中で生きているイラン、イラク諸国であれば
話は別だが……例えばフセイン率いるイラクにとっては、アメリカや欧州が
どんな手を打っても「負ける」ことはないが、その代償として「霞」を食べ
て生きていくしかないのである。
「日本異質論」とはそんな危険も孕んでいることを重く考えたい。
我々日本人の高い精神性を保持しながら新しい「日本文化」を構築しない
限り、次の日本の繁栄はない。それが回り道のようでいて一番確実なアプロー
チなのである。
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《 》
〔 〕
晩年、司馬遼太郎さんは「文明と文化」について断片的に述べておられた。
また、京都大学の高坂正堯教授の世界文明論も実に面白かった。日本にとっ
て不幸なことにお二人とも逝ってしまった。生前、「世界文明と日本文化の
接点と融合」、そんな著述を残してくれていたら、と返す返すも残念である。
今後、20 数回にわたって論じようとしていることはそんなことなのである。
冒頭、無謀を承知の上でとはこのことである。併せて企業経営者・管理者の
方々にとって一番役立つであろう、企業の文化論についても言及したい。し
かし結論に至るまでには日本史再考というアプローチを避けて通れない。し
ばらくご辛抱頂こうか。
サントリー不買運動に思う
結構私はこだわる方なのだろう、今から 15 年ほど前の出来事だがはっき
りと覚えていることがある。 くまそ
サントリーの佐治さんがある講演で「東北人は熊 襲の住んでいた土地で
……」と発言したらしく、一時東北地方ではサントリーの不買運動が起こっ
たことがある。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった佐治さんは、東北地方のサン
トリーの売り上げが思わしくなく、頭につかえていたことをつい漏らしてし
まったのだろうが、今にして思うとこの発言は多くの示唆を含んでいた。
熊襲とは大多数の日本人がそうであるように、京都(大和朝廷も含む)を
中心とした「日本文化」から見ると異質なものと考えられていた。熊襲とは
上代に薩摩、大隅、日向に住んでいた種族を指し、佐治さんの熊襲=東北人
という発想は間違っているのだが、東北も文化の遅れた辺地の種族の集まり
で、文化の香り高い京都からすれば一把一絡げに映ったらしい。「サントリー
の文化戦略が解らないのは、熊襲だからだ」という奢りがあったのは否めな
い。
本来企業文化を発信するのは、自社の製品の差別化や、高級化と重ね合わ
よろい
せる手段の一つであって、当然のことながら袖の下から鎧をのぞかせ本音を
ちらつかせるぎりぎりの線でPRする。その手法自体は企業であれば当然の
ことなのだが、トップが本音を吐いてしまえば身も蓋もない。(日本の一流
企業の文化戦略とは所詮この程度のレベルである)
現在放映されているJR西日本の京都PR(1998 年)がそうであるように、
いにしえ
今までは京都が古の日本文化を総て代表しているようなイメージを作り、受
け手も当然のこととしてきた。
(京都、奈良の遺産をどうこうするのではない。
私も京都・奈良は何度も行きたい場所の一つである)しかし、日本文化のルー
ツを遡るとき、ここから始める従来の発想には大いに異を唱えなければなら
ない。そう思いたくなる罠のような魅力がこの地方にあるとしても、もっと
時代と場所を広げないと、生き生きとした日本文化が見えてこない。
あしはらのなかつくに
古事記の記載以来、日本は葦原中国(
「芦原」は葦の茂る原で、稲の生育
たかまがはら
よみ
に適した国土。「中国」は天上と高天原と、地下の黄泉の国との中間にある国)
として稲作を中心とした民族の形成が語られる。
古事記は我々民族が持つ優れた叙事詩であるが、あくまでも国家を統一し
た大和朝廷の物語である。
日本人のルーツは?
我々日本人は一体何処からやってきたのだろう。日本語の源は何処から伝
わってどのように日本語化していったのだろう。
稲作と金属器を伝来した渡来人が朝鮮半島から主として北九州に入ってく
る。それまで住んでいた縄文人(あまりいい言葉ではないが)との確執はど
のようなもので、どのように日本という国が国らしくなっていったのか。日
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《 》
〔 〕
本人である限り知りたいと思うし、知る権利がある。まして、これを知るこ
とが日本文化の活性化につながるという予感が確実にある。
しかし、こんな当たり前のことがちょっと前まではタブーであった。我々
日本人の明治、大正、昭和初期の先輩達は猛省しなければならない。私と同
つぐ
年輩のインテリ達も、この話になると口を噤む。あからさまにいやな顔をする。
ナンセンスの極みである。もし、あなたが何処の誰を両親として生まれたか
判らなければ一生賭けてでも探し求めるはずだ。あなたの会社が一代で築い
たのでなく、先輩達が努力の結果今を迎えていたとしたら、企業の歴史をそ
の暗部も含めて知るべきだ。隠し、闇に葬らず今後二度と起こらないようそ
れを冷静に知ることが最も大切なことだ。
日本文化の多重性
日本人たる存在を、日本文化を正しく体現した人間のみが世界に互して日
本を繁栄させることができる。日本文化の多重性を知らずして、偏り神格化
されたルーツを鵜呑みにして真のプライドを維持することができるのか。そ
んな脆弱な発想では日本は呑み込まれてしまう。日本の優れた精神性は幾重
にも重層構造で積み上げられている。そこから発するパワーの強力性を、重
厚性を我々は享受する権利がある。
日本民族学の父と言われる柳田国男氏はその晩年、終始一貫して日本文化
はイコール稲作文化だと主張し続けた。結果、「日本文化=稲作文化」という
説は学会における不動の常識となっていた。しかし、最近の研究で日本文化
はそのような単純なものではなく、アジア大陸の各地から伝搬した異なる文
化の様々な要素が日本列島にぶ厚く堆積し、独特の多重構造が生み出された
とする説が有力となった。つい最近の研究成果では、今まで縄文時代は全く
顧みられない暗黒の時代とされたが、1万5千年も昔、我々の祖先は、狩猟
だけでなく、陸稲も栽培していたということが明らかになった。 そう説明されれば当たり前のことだがなんと素晴らしいことではないか。
目の前の霧が晴れたような気がした。
何故そんなに小躍りして喜んだか賢明な読者にはお分かりかもしれないが、
未だの方はいずれ回を重ね読み進めばわかる。
みのう
( これを書いている 3 月 4 日、千葉君津三直貝塚で縄文晩期初頭 ( 約 3,500 年
前 ) の巨大な環状盛り土遺構が出土。約二十棟の縦穴住居跡が初めて見つか
り、祭礼場と集落が一体となって営まれていたと見られる……。古代史は今、
邪馬台国論争も新たな展開を見せ、学問的には全く新しい展開を見せている。
実に面白い。)
物質文明に押し潰され、流され、日本人の精神は大分歪んでしまったが、
経済の失速よりももっと怖いものがそこにはある。日本人とはこんな国民だっ
ぜいじゃく
たのか?いやそんなはずはない。脆弱で狭量な日本文化論に押しこめられて、
精神も経済も歪んでしまったのではないのか?
それを今こそ解放しなければならない。あなたの力によって。
(1998 年 2 月の原稿を修正、加筆しました。2000 年 3 月 21 日)
2016.5.27 の講演会の中で「石田心学」についてほんの 15 分ぐらい話題に
いたしました。この論文は 18 年前のものですが、講演に参加された方で興
味があれば、この論文をお読み頂くよう紹介いたしました。今回、メール読
者の方にもご紹介させて頂きました。
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