WIJC160522証人となる力 - ワシントン インターナショナル 日本語 教会

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2016 年 5 月 22 日 聖書:使徒の働き1章4-8節
タイトル:聖霊の力で証人として生きる
序 論
●先週申し上げたように、先週の日曜日は、キリスト教の暦では、「ペンテコステ」と呼ばれる特別な
日であった。
●ご存知のように、キリスト教の暦で、特筆すべきものは、この「ペンテコステ」のほかに、クリスマ
スがあり、グッドフライデーがあり、イースターがある。
●ここで、今朝(今日)、そのことに詳しく触れる時間は無いが、ある意味で、それらはすべて、この
「ペンテコステ」 に向かっていると言える。
1. 後にクリスマスと呼ばれる日に、イエス様は生まれた。
2. それは、私たちと同じように人として生きるためであった。
3. そして、イエス様は十字架に掛かられた。それがグッド・フライデーである。それは、私たちの
幸福の根本であり、基礎である神様との交わりを「遮断」している罪を取り除くため、私たちの
犯した罪の刑罰を身代わりに受けるためであった。
4. このように神様との交わりが回復されたので、神様と私たちが一体となるべく、約束の成就とし
て、ご聖霊が弟子たちの上に下ったのである。この聖霊降臨の記念日が、ペンテコステである。
●このペンテコステが、私たちの信仰にとってどんな大きな意味を持っているかを学ぶことは、極めて
重要、かつ、膨大なことである。
●今日は、そのほんの一部として、イエス様がペンテコステ直前に、この聖霊降臨について語られたお
言葉を通して、このペンテコステの意味についてメッセージを頂きたい。
●そのお言葉とは、先ほどお読みした使徒の働き 1 章4-8 節である。特に最後の 8 節に目を留めて
頂きたい。「・・・・」。
1.その中心メッセージは、「聖霊があなたがたの上に臨むとき(「来るとき」、When the Holy
Spirit comes upon you)、・・・あなたがたは力を受ける」である。
2.今日は、このことをフォーカスしてメッセージを頂きたい。
本 論
Ⅰ.第一は、「力」を持つことの重要性である。
A,一般社会でも、「力」の重要性は言われている。
1.「力」は「実践力」と同一視される。
2.言い換えるなら、力は、実践力のない、言葉や、思いだけの世界と対比されている。
3.私たちの周りに、言葉や思いだけの世界の無力さを表す表現は一杯ある。
●「あいつは、口ばっかりで、何もできない」、「頭でっかちで、実際には何もできない」
●更に、沢山の人々が、米国でも、日本でも、政治家と呼ばれる人々に「愛想を尽か」して
いるのはなぜか? 多くの政治家たちが、言葉だけで実際には無力だからである。
4.「宗教」とか、「信仰」の世界も同じである。宗教とか信仰は、とかく「ただ言葉や精神の
世界だけで、現実の世界、現実の生活には無力で、通用しない」と思われがちである
B.故に聖書は、信仰において、言葉だけでなく、実際に何かを動かす「力」の重要性を強調する。
1.まず、パウロは、明確、単刀直入にこのように言う。「思いあがっている人たちの、ことば
ではなく、力を見せてもらいましょう。神の国はことばではなく、力にあるのです」(Ⅰコ
リント 4 章 19-20 節)
(1)宗教の神髄とは、単なる神学論争でもないし、
(2)道徳的理想論を唱えるものでもないし、
(3)精神論を並べる「きれいごと」でもない。
(4)具体的に、現実の生活の中で、何かを変えて行く「力「をもっているのが私たちの信仰
であるとパウロは明言するのである。
2.更にパウロは、このように言っている。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人
をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロー
マ 1 章 16 節)。
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(1)パウロは「私は福音を恥とは思わない」と言った。それは、「私は福音を誇る」と言っ
たのと同じである。私たちはイエス様の福音を誇りとしているだろうか?!
(2)なぜ、パウロは恥ずることなく福音を伝えたのか?!それは、福音には人を救う、人を
変える、人を新しい人に造り替える(Ⅱコリント 5 章 17 節)「力」があるからである。
(3)ここで、「力」と訳されている「デューナミス」と言うギリシャ語が、やがて、「ダイ
ナマイト」の語源となった。
(4)ダイナマイトは、トンネル工事のような事業をうち進めるために、しばしば私たちの眼
前に立ちはだかり、固い地盤、岩盤を物の見事に打ち砕いてくれる「力」を持っている。
(5)それと同様に、福音は、幸せを追及する私たちの人生の前に容赦なく立ちはだかる罪の
問題、生活の困窮、様々な障壁・障害を見事に打ち砕き、除去する力を持っている。
(6)このようにパウロは、私たちの信じる福音は「力」がその真髄であると宣言する。
3.イエスさまも、また「力」の重要性・必要性を弟子たちに訴えている。
(1) まず、第一にルカ 24 章 49 節を見たい。「さあ、わたしは、私の父の約束してくださ
ったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから「力」を着せら
れるまでは、都に留まっていなさい。」
●その重要性は、まず第一に、上から(天から、聖霊による)「力」が与えられることは、
父なる神様の「約束」であったとイエス様が指摘されたことにある。
●それは、思い付きや、オプションではなく、すべての人のために、父なる神様が計画
し、御子の命と引き換えに、成就してくださった約束であるというのである。
●また、その重要性は、力を受けるまでは、都に留まっていなさいとあるように、それ
をいい加減にしたまま、どんどん先に進んではならない。力を受けることを、人生と
生活のトップ・プライオリティーにするように言われていることに表されている。
(2)もう一つは、場面的には同じときとも思われる。即ち、復活後、弟子たちと過ごした
40 日間の最後、昇天直前の言葉として、同じルカがもう一度使徒の働き 1 章 8 節に記
している今日の聖書箇所である。即ち、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あな
たがたは「力」を受けます」である。
Ⅱ.それでは、聖霊が私たちに臨むことによって、私たちが受ける「力」とは、どんな力なのかを考えたい。
A,まず、ご聖霊がくださる力は、消極的に言って、「どんな力では無いか」について考えたい。
1.一般社会との関連において「力」を考えると:
(1)聖霊に満たされたからと言って、一般社会でいう、いわゆる、政治の力、経済の力、運
動能力が増進するのではない。
(2)勿論、聖霊に満たされたことが、それらの力に影響を与え、励まされて、それらに関連
する私たちの力が発展・成長することはある。
2.次に、宗教や信仰の世界についても考えたい。これについても同様なことが言える。
(1)それは必ずしも、信仰の証しをするときや説教するときの「雄弁の力」を意味しない。
●聖霊の人であったパウロの説教は必ずしもいわゆる雄弁ではなかった。参考:Ⅱコリ
ント 10:10「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々し
く、その話しぶりは、なっていない。」
●使徒の働き 18 章 24-28 節に関して、ある聖書講解者たちは、アポロは元々人間と
して雄弁ではあったが、まだ「聖霊に満たされる」という「神の道」を十分に知らな
かった。しかし、それを知った後、力強い宣教ができたと説明する。即ち、説教にお
ける雄弁さは必ずしも神の力ではない。
(2)それは、また、必ずしも、奇跡を行う力、病を癒やす力を意味しない。
●イエス様の弟子たちは、まだ聖霊に満たされていない時にも、すでに、病を癒やす力、
悪霊を追い出す力を持っていた。
●マタイ 10 章 1 節「イエスは 12 弟子を呼び寄せて汚れた霊どもを制する権威をお授
けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを直すためであった」。
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●ルカ 10 章 17 節「さて、70 人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの
御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と。
●即ち、それらは、イエス様の御名と権威によるもの、神様のご計画によるものであっ
て、その人が聖霊に満たされているか否かとは必ずしも関係がない。
B.それでは、ご聖霊がくださる力とは、積極的に言って、「どんな力なのか?」について考えたい。
1.それは、一言で言って、使徒の働き 1 章 8 節にある「キリストの証人となる力」である。
(1)それは、第一に、「キリストを信じて生きていることを証言する力」である。
●言い換えるなら、それは、人生のあらゆる場面で、「私を生かしているのは、イエス
様です」といつも、すべての人にキリストを指示す証人となる力である。
●その例を挙げるなら、使徒の働き 3 章、特に 12-16 節にあるペテロの姿です。
人々が目の前の足の不自由な人の奇跡的癒しを見たとき、「それはペテロがしたこと
だ」とペテロを褒め称えようした。その時、ペテロは「それをしたのは、私ではない。
イエス様だ」とイエス様の証人となった。
●私たちは、どうであろうか? 何か良いことがあったとき、人から褒められたとき、
それは、イエス様が助けてくださったから、私を今のようにしているのは、イエス様
ですと証ししているか?!
●しばしば、見ることは、色々な言い訳をして(「余りイエス様、イエス様と言うと、嫌
がられる」などと)、滅多にイエス様を出さない人が多い。
●勿論、その言い訳が当たっているときもある。しかし、多くの場合、単に勇気がない。
イエス様の力をそこまで自分の中で経験していないからである。
●しかし、聖霊による力が与えられると、もっとイエス様が生活に近くなり、イエス様
によって生かされていることが如実・現実となり、勇気と力が与えられ証人となる。
(2)第二に、「キリストの愛の証人となる力」である。
●人間が、最終的に、究極的に必要としているものは何だと思うか? 説教でも、正論
でも、お金でも、健康でも、成功でも、安定でさえもない。それは愛である。(勿論、
それらを持っていない私たちには理解できないことかも知れないが・・・)
●しかし、それは、Ⅰコリント 13 章で、聖書が明確にしていることである。1-3 節、
更に、13 節で、聖書は、明確に、人生で最高・至高のものとして「愛」を指さす。
●イエス様は言われた。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合
いなさい。そのことによって、あなたがたが私の弟子であることを人々は知るように
なる」(ヨハネ 13 章 34-35 節)と。
●言うまでもなく、私たちの愛はイエス様の愛とは比べることはできないほどに微小で
ある。しかし、私たちがするべきことはイエス様から愛を頂いて、イエス様の愛の証
人として、その愛を周囲の人に分かち届けることである。
●50 歳そこそこでアルツアイマーの症状が顕われ、徐々に進行して行った一人の婦人
がおられた。ご主人は、バブルが弾ける前の日本経済が最も盛んだった頃、某有名銀
行の東京のある大きな支店の支店長。もう少しで出世コースの梯子を上り詰めるとこ
ろまで来ていたバリバリの企業戦士的サラリーマン。努力すれば何でもできると言う
哲学をもって生きて来た人。妻が不治の病である進行性のアルツアイマーと診断され
たときでも、どのお医者さんの治療にも満足せず、「俺が必ず良くして見せる、直し
て見せる」と言って、忙しい仕事の中あらゆる努力する。しかし、やがて、自分の力
の限界を知るようになる。一方、実は奥さんは、アルツアイマーが悪くなる直前にイ
エス様を信じてクリスチャンになっていた。その妻にとって教会に行くことが最高の
喜びであることを知って、ご主人は毎週教会に行くようになり、やがて彼もクリスチ
ャンになる。そのような中、彼は大決断をする。出世階段を上り続けることを止める
のである。退職し、残りの生涯を妻に仕え、世話をするために捧げるのである。この
物語は、フジテレビのドキュメンタリーとしてもう 20 数年前に流された。その番組
の最後で、彼の既に結婚していた娘が、番組のディレクターに出した手紙が紹介され
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た。そこにはこう書いてあった。「私にとって奇跡とは、ある朝起きたとき、母がま
た元のように話し、食べている姿を見ることではない。私に取って奇跡とは、15 分
と割いて、家族と共に、家族のために過ごそうとしなかった、あの仕事人間の父が、
朝から晩まで母の世話をするために母と共に過ごしている姿を見ることです」と。
●このご主人は、彼の娘、家族に対して、また周囲の人々に対して、奥さんを愛してお
られるイエス様の愛の証人となって奥さんを愛したのである。
●これが最終的、究極的にに人々の求めているものである。仕事をする力でも、キャリ
ヤマンとして成功する力でもなない。それは愛する力である。キリストの愛の証人と
なる力である。
2.最後に触れたいことは、私たちは「どこで」キリストの証人となるのか?である。
(1)多くの人たちは、牧師も含めて、ともすると、教会の中だけで証人となっている。
●それは、さながら、証人と言う言葉が、裁判・法廷用語であり、私たちが証人となる
のは裁判所の証人席だけでのものであるように、教会だけのものになっていないか?
●普段はどうなのか? 普段の生活では「証人」となっているのか?
(2)聖書は何と言っているか?
●イエス様は言われた。もう一度8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、
あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地
の果てにまで、私の証人となります」。
●私たちが、イエス様の「証人」となるべき場所は、
① まず、自分たちの今いる場所、生活のど真ん中であるエルサレムがら始まり、
② ユダヤと言う、同国人、気のおける仲間達のいる場所、職場や学校であり、
③ サマリヤというどこか気の合わない、互いに敵愾心(てきがいしん)さえある人々の
間で、今で言うなら性格や、趣味の合わない人、利害関係の反する人たちの間、
④ 更には、地の果てという見ず知らずの場所、自分に関係のないと思える場所、自分
を知る人が誰もいないような場所で、日本人なら「旅の恥のかき捨て」と言って、
無責任な行為をするような旅先もである。
●だいぶ前であるが、以前読んだ本に「普段着の聖徒」と言う題の本があった。私の大
好きなテーマである。教会とか、集会とかと言う特別な場所や場合ではなく、「今い
るその場所、エルサレム」、毎日の普段着の生活の中で証人となることが大切である。
結 論
●しかし、一体誰が、このような意味で、「キリストの証人」になれるか? NO‼「誰もできない」。
不可能、これが正解である。
●その人間的不可能を可能にするのが、神であるご聖霊であり、ご聖霊が私たちのところに来て、私た
ちの魂の内に住み、ご聖霊の力と私たちが一体になる時、即ち、「聖霊が私たちの上に臨まれる時」、
私たちは力を受けて、私の証人、キリストの証人となれるのである。
●聖霊を求めましょう。私たちの心の中に、生活の中に来て下さるようにと祈りましょう。
●心と生活の中に、イエス様が満ちてくださるように祈りましょう。
●そのために、自分の心と生涯を全部イエス様に捧げましょう。空っぽになり、「聖霊に満たして下さ
い」と祈りましょう。