天理台湾学会 2016 年第 26 回研究大会 報告要旨(劉怡臻) *報告要旨のため、報告者の許可なく引用・転載することを禁じます。 台湾詩人呉瀛濤における石川啄木の受容をめぐって 劉怡臻(明治大学大学院) 呉瀛濤(wu, ying tao) (1916~1971)は台湾台北出身で、21歳で台湾文芸聯盟台北支部(1936) の発起人の一人として、参加している。翌年から日本語で詩を書き始めた。1942 年日本語小説「芸妲」 が『台湾芸術』に入選した。1943 年に日本語詩集『第一詩集』の編集ができたが、出版されなかった。 太平洋戦争が終わってから、中国語を学び始めた。しかも、香港で滞在して中国語を学びながら、中 国詩人戴望舒と交流があった。一方、龍瑛宗が主宰している『中華日報』の「文芸欄」で日本語及び 中国語で作品を発表している。1953 年に中国語の詩集『生活詩集』を出版した。1964 年に友達と文学 1 団体「笠」という詩社を結成しており、同人誌『笠』を発行した。戦後台湾文学の発展に大きな役割 を果たした。詩集『瀛濤詩集』 、 『瞑想詩集』 、 『風景詩集』 、散文集『海』などの作品がある。 『臺灣民 俗』 『臺灣諺語』などの民俗学関連の著作も完成した。 台湾詩人莫瑜は王白淵を評価したときに、日本統治時期台湾作家と石川啄木との関連を言及し、呉 会 瀛濤と詹冰が啄木をテーマとする詩を詠じたことがあると指摘したが、呉瀛濤の作品には日本作家石 川啄木の受容がみうけられることは詳しく究明されていない。呉瀛濤は第二言語として中国語を学ん 学 だ後に、初めて出版した中国語詩集『生活詩集』 (1953 年)では石川啄木の短歌を57首翻訳した。 そして、 「憶啄木」 (啄木を偲ぶ)詩を書いた。さらに、十年後に出来上がった中国語散文集『海』で は、また啄木の短歌を引用しながら、啄木に同感を示した内容が何箇所ある。呉瀛濤の啄木短歌の引 湾 用及び彼が形象した啄木像を踏まえて、呉瀛濤自身の作品に啄木の影響があるかどうかについて検討 する必要がある。 一方、二人の詩論について、比較する必要もあると考えられる。啄木は文章「弓町より 食ふべき 台 詩(六) 」では「新しい詩の精神、即ち時代の精神の必然の要求であった」 、 「三十一文字といふ制限が 不便な場合にはどしゝ字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないと 理 か歌にならないといふ勝手な拘束を罷めてしまって、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば 可い。 」などを述べた。それに対して、呉氏が出版した『生活詩集』の「詩論―論原子時代(Auom Age) 的詩」 ( 「詩論―原子時代の詩を論ずる」 )では「新しい時代には新しい詩があるべきだ。また、新しい 天 時代に新しい時代における新しい詩論が必要になる。 」 、 「詩の形式は押韻、格律に拘ることはない。し かも、詩の題材はどんな汚くとも、おかしくとも、原子能的な目線で、詩人の澄んだ心の目から差し あたる」と語った。詩と時代の精神との相応、詩の型式及び題材の自由に関しては、二人が主張した 歌論に通底するところとして考えられる。 歌論の中で、啄木は「忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那刹那の感じを 愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない」と語り、生活と生命と歌の相対関係を決め ていく。呉瀛濤の作品にこのような歌論の反映は随所みられる。さらに、呉氏の作品を検討すれば、 彼が描いている「海」 、 「空」 、 「鳥」のモチーフには啄木文学との関連がみられる。 したがって、呉瀛濤の啄木短歌訳、啄木詠、啄木言及の文章を踏まえて、彼の詩論及び作品には啄 木文学との関連を掘り下げて、呉瀛濤における啄木の受容を説明する。さらに、それを同時代の台湾 作家における啄木像と比較して、日本統治時代の新聞メデイアに言及された啄木文学、啄木像との背 景関連と時代の必然性について掘り下げていく。啄木文学との関連を究めることによって、いままで 台湾でもあまり取り上げられない呉瀛濤文学の特質を浮き彫りにしてみたい。
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