4.エイズは我々に何をもたらしたか

4.エイズは我々に何をもたらしたか
②エイズと地域社会
(認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会
副代表理事 沢田貴志
(第 2 版)
世界でもっとも HIV の流行が深刻とされる南部アフリカでどうして HIV がこんなに広
がってしまったのでしょうか。架空の女性ジーナの話からその理由を考えてみましょう。
ジーナは南部アフリカの農村で暮らす 20 代前半の利発な女性でした。夫と知り合い子供
が出来るまでの人生は順調で幸せなものでした。しかし、妊婦検診で突然 HIV 陽性である
ことを知ってから事態は急速に暗転してしまいました。夫からの感染以外は理由が考えら
れなかったジーナは、二人で支えあっていけると信じて夫に打ち明けました。しかし、夫
は彼女を罵り去ってしまいました。この地域の多くの女性達は同じような経験をしていま
す。男達は小学校を終えるか終えないかのうちに鉱山などで肉体労働に従事しており、エ
イズについて正確な情報を得る機会がありません。そんななか何人かの仲間がエイズで倒
れ亡くなっていくのを見聞きするようになり、エイズに対する恐怖感がとても強いものと
なっていたのです。夫は自分が感染しているかもしれないという恐怖感に立ち向かう事が
できず自己の感染を否認したまま彼女のもとを去りました。
ジーナは生まれてくる子供を一人で育てて行くことを決意しています。しかし、女性の
仕事が限られている途上国の農村で、子供を育ててくだけの生活費を女性が一人で得る事
はほとんど不可能です。多くのシングルマザー達は結局新しいパートナーを見つけなけれ
ば生活が成り立たず、比較的経済力のあるボーイフレンドを得て生活費の援助をもらう立
場になることがしばしばです。なかにはトラックドライバーや商人など移動を繰り返す職
業の男性達のパートナーとなる女性も少なくありません。男女を問わず、職業で移動を繰
り返す人々は一般に感染に晒されるリスクも高く、こうした男性から女性に感染が広がっ
て行きます。
逆に夫をエイズで失った女性達から男性に感染が広がることもあるでしょう。
男性たちは、恐怖感から自分のリスクを認めることができず検査に行くことはほとんどあ
りません。女性達も、検査をして陽性であった場合にパートナーを失ってしまうリスクが
あるのであれば、子育てに必死なさなかに検査に行くこと自体をあきらめてしまうでしょ
う。コンドームを使用するべきだということがわかっていても、男性が嫌がれば立場の弱
い女性が主張を通す事などできません。女性の側から性に関する事を口にし難い文化も女
性からの性感染症予防のアプローチの障壁となります。
開発途上国で HIV が広がっている理由は、このような社会経済的な要因が複雑に絡みあ
っています。モラルや知識の欠落といった形で単純化して認識し、外部者の教育的な介入
のみにて解決するように考える事は大きな誤解です。パートナーの数が増える背景には、
不安定な生活状況があります。病気に対する差別や恐怖心が強い背景には十分な医療を受
けられず感染した人の多くが亡くなっているという厳しい現実があるのです。
伝統的な農村社会では、情報の伝達を行う上で宗教の果たす役割は重要です。しかし多
くの宗教では、生き方の規範を示そうとすることに力点がおかれて、性はタブーとなって
います。多くのエイズ対策のプログラムでは、性的なパートナーが一人とは限らないとい
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う現実的な前提に基づいてコンドームの推奨を行っています。しかし、こうした現実主義
的な啓発活動は宗教的な規範に抵触してしまい、宗教指導者からの抵抗に合うことがしば
しばです。
そんな中でエイズ対策に理解を示す宗教者も増えてきてはいます。タイでは仏教界が早
くからエイズ患者のケアに取り組んでいました。カンボジアで政府機関に先駆けて感染者
へのケア施設を作っていたメリノール会はカトリックの一会派です。また、薬物使用がエ
イズ流行の引き金になっている地域ではイスラム教の指導者達もハームリダクションプロ
グラム(注射器による薬物使用者が薬物を止めていなくても清潔な針を配ることでまず感
染からの防御を手助けするプログラム)を容認する例が出てきています。宗教者にとって
も地域社会が健康である事は重要な事ですから、宗教者にも理解しやすい言葉で対話を繰
り返し、接点を探って行くことが重要です。
有効なエイズへの対応は地域社会が HIV 陽性者に対して受容的に変化すること抜きに
は成り立ちません。開発途上国で最もエイズ対策に成功したとされるタイでは 1990 年代に
国をあげた対策を行ったことで地域社会のエイズに対する対応が大きく変わりました。
1990 年代初頭には、多くの住民は差別を恐れて検査を受けたがらず、村の中でエイズにつ
いて語る事はタブーでした。そうした中で多くの感染者は重い症状でエイズを発病してか
ら病院に行き、診断がついても家族にも村の保健センターの看護師にも打ち明ける事がで
きず、周囲の目を避けながら自宅で誰からもケアを受けることなく亡くなる事が多かった
のです。こうした悲惨な最期を遂げる現実が更にエイズの否定的なイメージを増幅し悪循
環になっていたわけです。
しかし、病院のエイズ患者に対する治療が改善し、地域の人々に対する差別予防のキャ
ンペーンが徹底し始めると村の人々の反応が徐々に変わって行きました。地域の看護師や
村の保健ボランティアが家族に在宅ケアの方法を指導し、知識を得た村人たちの中からエ
イズ患者を見舞い励ますような人も出てきます。学校の先生や僧侶達も学校や職場でエイ
ズ患者への支援が必要なことを説くようになりました。HIV 陽性者自身が地域の啓発にで
かけて、自分達の苦労話を語ったり、自助グループで仲間達を支援するひたむきな様子を
示すことで理解を広げることになりました。こうした活動を経て 1990 年代末頃からタイ北
部では、自分たちが感染している事実を隠さず語りこの病気の予防と仲間達のケアの向上
に貢献しようとする人々が急速に増えていきました。また病院で治療を受けて元気になる
エイズ発病者を目の当たりにする事で地域住民のエイズに対する差別が薄らいで行きます。
タイでは 1991 年には年間 14 万人が感染したと推定されていましたが、2008 年の新規感
染者数は一万人台となり生存感染者数は減少を続けています。これは 90 年代から国を挙げ
て行った予防教育の効果であることは云うまでもありませんが、こうした差別の軽減によ
りエイズについての正しい情報が入手し易くなり、誰もが早期に検査に行けるようになっ
たことの影響も大きいと思われます。
エイズは個人の性行動によって広がる感染症ですが、個人の性行動は実は社会の貧困や
人口の移動・情報へのアクセスの偏り・ジェンダーといった多様な背景に影響をされてい
ます。社会が HIV を背負った人々の苦難を理解しようとせずに単に個人の責任として押し
付けてしまう状態では HIV の新たな感染を減らす事はできません。地域社会が HIV を理
解し感染した人々を社会の大切な構成員として認めて支えていくようになって初めてエイ
ズ対策は大きく前進することが出来ます。
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