Title Author(s) Citation Issue Date URL 蔵書歓談 (2) : 百田宗治自筆「履歴書」 岡﨑, 一 ファーズ Phases, 4: 126-128 2013-11-28 http://hdl.handle.net/10748/6613 DOI Rights Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher http://www.tmu.ac.jp/ 首都大学東京 機関リポジトリ 藤 書歓 談 ( 2) 百 田 宗治 自 筆 ﹁ 履歴書﹂ 空 襲 で家 は焼失 )。 記載 通り ︿百 田宗次 ﹀ が本名 であり 、 ︿ 宗治﹀は ( 少年 期 か ﹂ 以 下 に 紹 介 す る の は 、 百 田 宗 治 の自 筆 ﹁履 歴 書 ﹂ (写 真 参 照 、 原 本 は美 濃 判 と いう 記載 は正 し い。 ら 使用 し て いたも の の)専 ら後 年 の筆名 であ る。︿ 明治 二十六年 一月 二十 五日生 ﹀ 岡崎 2 枚 、 片 面 12行 、 罫 線 は 緑 色 、 ブ ルー -ブ ラ ッ ク の イ ン ク 使 用 ) で あ る 。 都 内 島 之 内道 仁 尋常 小 学校 を卒 業 し て い る。 育 英校 の二、三年 上級 に宇野 浩 二 ・直 ︿一、明 治 四十 一年 大 阪市 立 育 英第 一高 等 小学 校 卒業 。﹀ ※そ の前 に大 阪 市 の 某 古 書 店 から 購 入 し た も の で、 店 主 の 話 に よ れ ば 業 者 間 の 大 市 で 入 手 し た も の と の こ と だ が 、 大 市 に 出 る ま で の 経 緯 は 不 明 。 昭 和 19年 5月 24 日 の 稿 で 、 当 木 三十 五な どが いた こと は興味 深 い。 ︿ 爾 後学 歴 ナ ク、角 田勤 一郎 ( 浩 々歌 客) 時 の百 田 は 、 ﹁履 歴 書 ﹂ の末 尾 に も 記 さ れ て い る よ う に、 日 本 文 学 報 国 会 参 事 ・ 氏 ニツキ文学 ヲ学ブ 。﹀ と な って いるが 、百 田 は家 庭 の事 情 で中 学校 へ進学 で ( 以 後 、 ﹁日 本 少 国 民 文 化 協 会 ﹂ に つ い て は ﹁文 協 ﹂ した 。 ( 大 阪 文壇 の重鎮 で、東 の坪内 適遥 と並 称 され 、当 時、 大 阪朝 日 新聞 社 日本 少 国 民 文化 協 会 参 事 から大 阪毎 日新 聞社 へ移 って いた) 評論 家 ・新聞 記者 の角 田浩 々歌 客 に師事 し きず、 育英 校 の補修 科 に暫 く通学 した後 は、 兄 の商売 の手 伝 いを しなが ら独 学 こ の ﹁履 歴 書 ﹂ の価 値 は 先 ず 第 一に署 名 ・捺 印 入 り の自 筆 で あ る と いう 点 だ たと いう記 述 も興味 深 い。 百田 は明 治 猛年 1月 に処女 歌集 ﹃ 愛 の鳥 ﹄ を ︿百 田 と 略 記 ) で あ った 。 翌 月 に は 陸 軍 の 報 道 部 員 と し て 召 集 さ れ て い る の で 、 そ の が 、 履 歴 の 書 き 方 が 第 二 に 注 目 さ れ る 点 で あ る 。 即 ち 、 明 治 期 が 1項 、 大 正 期 楓 花﹀ の筆 名 で田中 書店 ( 大 阪 ) より自費 出 版 し て いたが 、 この事 実 は ﹁履歴 た め の ﹁履 歴 書 ﹂ で あ った の か も し れ な い 。 ( 昭和 女 い。 ま た 、 昭 和 女 子 大 学 近 代 文 学 研 究 室 ﹃ 近 代 文 学 研 究 叢 書 ﹄ 第 76巻 が 3 ( 正 し く は 2) 項 、 昭 和 期 が 15 ( 正 し く は 16 ) 項 で、 圧 倒 的 に 昭 和 期 が 多 書 ﹂ では省 略 され て いる。 詩集 ﹁最初 の 一人 ﹂ ヲ自 費 刊行 。﹀ ※当書 は実質 的 に百 田 順 を 追 って、 内 容 を 検 討 し て み よ う (引 用 に際 し て は 旧 漢 字 を 用 い た 場 合 も 行 した 詩集 に つい ては、 ︿( 以 来 詩集 ノ刊 行 二十巻 二及ブ モ 一々記載 セズ)﹀ と 自 費出 版 され た。 谷川 徹 三 の学 生時 代 の愛読 書 にも な ったも のであ る。以 後刊 の処女 詩集 であり 、大 正 4年 6月 に ︿ 百 田宗 治 ﹀ の筆 名 で短藥 社 ( 大 阪) より ︿一、大 正 四年 子 大 学 近 代 文 化 研 究 所 、 2 0 0 1 年 ) ﹁百 田 宗 治 ﹂ の分 類 に従 え ば 、 習 作 期 が 1項 、 活 躍 前 期 が 5項 、 活 躍 後 期 が 13項 と い う こ と に な り 、 百 田 が 活 躍 後 期 を 大 阪 市 南 区 高 津 町 十 番 丁 三 二番 地 ﹀ ( 現在 の中央 区 道 頓堀 一 重 点 的 に 記 し た と いう こと も 判 る 。 あ る )。 ︿本 籍 地 ぬ かる み の街 道﹄ を大鐙 閣 ( 東 京 ・大 阪) よ り 上京 、 雑誌 ﹁日本詩 人﹂ ( 新 潮社 版) ノ編 輯 二當 ル。﹀ ※既 に前 年 10月 に第 3詩集 ﹃ 詩集 ︿一、大 正 八年 注 記 し て省 略 し て いる。 ( 昭 和 20年 5月 の 東 京 都 中 野 区 少 淀 町 三 一番 地 ﹀ 丁 目 東 五 番 街 区 付 近 ) と な って い る が 、 実 際 の誕 生 地 は 大 阪 市 西 区 新 町 通 一丁 目 (現 在 の 西 区 新 町 一丁 目 ) で あ る 。 ︿現 住 所 と な って い るが 、 百 田 は 昭 和 H年 8 月 か ら 当 地 に 住 ん で いた 12G 蔵 書歓談(2) 出 版 し て、 ( 個 人 感 情 は 兎 も 角 ) 所 謂 ﹁民 衆 詩 派 ﹂ の 一員 と し て の 地 位 を 確 立 雑誌 ﹃ 工 程﹄ を創 刊 ( 内 務 省 警 保局 の直 接 干渉 に より、 昭 和 1 2年 -月 に ﹃ 綴 年 4月創 刊 ) と 早く から 関 わ って いた百 田 は、 昭 和 10年 4月 に自 ら 綴 方教 育 文 部省 図書 推 薦委 員 ヲ拝 命 。﹀ ※そ の期間 は昭和 14年 5 方学 校﹄ と改称 ) し ていた。 年 っ 婆鍛 ゆ ・ 鵯壕 濾 撫妻 誘器 澤 鹸 ザ ぬ ぜ ・ . : 鱈 馬 瞬 財薫 畷濃 年 日 本 放 送 協 會 放 送 委 員 ヲ 委 囑。﹀ ※ 日 本 放 送 協 会 文部 省國 民 学校 教 科書 調 査委 員 ヲ 拝命 。﹀ ※ そ の肩書 き 国 民 の 歌 ﹄ (大 政 年 、 . 日冨 日本大 ま で現 れ て い る 。 ※ は 知 ら れ て い な い模 様 )。 当 も 角 こ の事 実 も 研 究 史 的 に こ と の理 由 は 不 明 だ が、 兎 (記 載 と の 間 に 時 間 差 が あ る 19年 3 月 で あ る こ と が 判 明 期 間 は 昭 和 16年 1 2月 -昭 和 日大 に照 会 し た結 果、 在 職 学 専 門 部 講 師 ヲ 委 囑 。﹀ 念 、同 15日 ) (﹃英 語 青 年 ﹄ 昭 和 17年 6 月 と。建 ヨ窪8 h昏・=。 § 6の℃ヨ 鍔と 原恭 平 による英訳1 月 ) にも 掲 載 さ れ た 他 、 萩 翼 賛 会 宣 伝 部、 昭 和 18年 4 編 ﹃楽譜 郎 )は、大政翼 賛会宣 伝部 霊 塔 の歌 ﹂ (作 曲 は片 山 頴 太 日本放 送協 會 ノ委 囑 ニヨリ ﹁忠 露塔 の歌 ﹂ヲ作 詞。﹀ ※ ﹁忠 憩 麟擁 際 灘 灘 瀦墾犠 躍 壌 滋 灘噸 念 、同 は ﹁昭和 十 五年度 国 民学校 新 教科 書調 査嘱 託﹂ であ った。 ︿一、昭 和十 五年 的 にも 知ら れ て いな い模様 )。 (NH K) に照会 し たが 、 こ の事 実 は所 蔵 資料 では確 認 で きな か った ( 研究 史 企 、同 月 から 昭和 17年 3月 ま で であ った。 ︿一、 昭 和十 四年 し て い た 百 田 は 、 大 正 8年 2月 に 上 京 し 、 巣 鴨 に 住 ん だ 。 上 京 後 、 百 田 は 一 ( 大 正 9 年 7月 ) か ら 編 集 し て い た (﹁履 歴 書 ﹂ で は 記 載 足 先 に詩話 会 ( 当 時 の 詩 壇 が 大 同 団 結 し て大 正 6 年 11月 に 結 成 )編 ﹃日 本 詩 集 ﹄ ( 新 潮 社 ) を 第 2集 (大 正 10年 10 月 ) す る よ う に ﹁現 代 詩 人 全 集 ﹂( 新 潮 社 版 )中 二 ﹁百 田 宗 治 集 ﹂ヲ 包 含 刊 行 。﹀ ※当書 の刊行 は 昭和 な る と 、 既 に 詩 話 会 の 中 心 的 存 在 に な っ て い た 百 田 が 今 度 も ま た (一年 間 ) 省 略 ) が 、 詩 話 会 が 機 関 誌 ﹃日 本 詩 人 ﹄ を 創 刊 ﹁詩 の 鑑 賞 ﹂ ( 厚 生 閣 版 ) ヲ 刊 行 。﹀ 編 集 に 当 た る こと に な った の で あ る 。 ︿一、 大 正 十 五 年 ︿一、昭 和 五 年 2年 2月 な の で 、 こ の 記 載 は 百 田 の 記 憶 違 いで あ ろ う 。 署∴ .蔽 講 饗 灘 憲. 彗鞍零 擁. 瀕 灘鞭 難鐡 繊蕪 蕪羅、 欝. 歎象 辮 葎轍 纏 畿鍵雛縫 ㌃ 鑛灘 灘 欝 鱗譲 ※ ﹁百 田 宗 治 集 ﹂ は 、 ﹁柳 沢 健 集 ﹂・﹁富 田 砕 花 集 ﹂ と 共 に ﹃現 代 詩 人 全 集 ﹄ ﹁現 代 第 12 巻 に 包 含 さ れ て 、 昭 年 和 5年 6月 に 刊 行 。 念 、 同 詩講座﹂ ( 金 星 堂 版) 全 十 ※ これ は 昭 和 4 年 10 月 か ら 昭 和 巻 ヲ 編 纂 刊 行 。﹀ ﹁綴 蜘塵 驚 象 瀞 ,霧 姦} 気 欝瀬繍響義 憲 穿 気 讐辱博 . 振 岬ご、 で撫 濃 瀞 霊 鮮 ヂ菱置 f 灘 邨 .潅耀繋 轟繧 8 摩 魯薄 鱒蜜 .避 : ⋮ マ 薄 ζ. 姦 ∴ 嬢 暴 蕊 蘇 蟹 ・夢 蓑 肇 曝回 蓋 ボ蔑 攣 識鐸.・勢 軌鑑 愛 楓塗 蜜潔毒 F鹸爵灘 ∵ 磯麓 ・ 毒. 蹴囎矯 轟 葦 領 麺轡 藤蓄 ・ 轟、 疑 斌壽 塞 多 罫嚢 ぎ 畷 讐ン ..・. 盤 鷹澱瀦轟 7 概講讐灘 灘 鮒熱 馴麟叢醗羅 5年 9 月 に か け て の こ と であ る。 ︿一、 昭 和 十 三 年 ※ この 方 読 本 ﹂ (第 一書 房 版 ) 上 下 二 巻 ヲ 刊 行 。﹀ 教 師 のた め の 表 題 は 略 表 記 で 、正 題 は ﹃ 子 供 のた め の 綴 方 読 本 ﹄。 上 巻 と 下 巻 ( 秋 冬 の巻 ) は 同年 刊 行 でも、 赫 噸響 ぞ酵 弊 讐鷺感凄 轡撫諜 謹 緬 蔵書 歓談(z) 127 3月 と 10月 に 分 け て 刊 行 。 ﹃ 綴 方 教育 ﹄ ( 大 正 15 日 本 綴 方 教 育 研 究 会 の機 関誌 麟 念 、同 年 大 政翼 賛會 文 化部 ヨリ 翼賛 詩歌 朗 読研 究 委 員會 委 員 ヲ委 囑 。﹀ ※これ は昭和 1 7年 6月 頃 の こと であ ろう。 ︿日本 精神 の詩的 昂揚 を計 り、 時 、 日大 の専門 部 は神 田区 三崎町 校舎 に設 置 され て いた。 百田 は専 門部 の中 で も恐ら く文 科 ( 哲学 ・倫 理教 育学 ・心 理学 ・国学 ・漢学 各専 攻 ) に関係 し たも て いたが 、 ︿翼賛 詩歌 朗 読運 動 の健 全 な浸 透 発展 を 期 す る為 、 当 運動 の中核 的 併 せ て国語 の純 化 に資 す る目 的﹀ で、 詩歌 朗読 運動 は昭和 16年 4月 から 開始 し 推進 機 関 とし て﹀、 昭和 17年 6月 に翼賛 詩歌 朗 読研 究委 員会 が設 置 され た。 ︿文 のと思 わ れるが 、文 科 は昭和 17年 4月 には学生 募集 を停 止 し、 昭和 19年 4月 に 情報 局 ヨリ 日本少 國 民文 化協 會 創 立実 行委 員 並 二定 款起 は文科系 そ のも のが 廃止 (﹃日本大 学九 十年 史﹄ 上巻 )。 ︿一、 昭 和十 六 年 月 1日 の設立 連絡 会 ( 情報 局主 催 ) で事 実 上誕生 し 、同年 12月 23日 ( 現 天皇 誕 庁は [ 内 閣] 情報 局 と文部 省) の発 端 は昭和 13年 秋 にま で遡 るが 、 昭和 16年 8 立 シ以 テ皇 国民 ノ錬成 二資 ス ルヲ目的 ト ス﹀ (﹁ 定 款 ﹂第 三條 ) る文協 ( 主 務官 大臣 の東條 英 機、文 化 部 に ついて は部長 が ( 岸 田国士 に代 って) ドイ ツ文学 者 第 1巻 [ 大 月書 店 、 2 0 00年 ]所 収 )。大 政 翼賛 会 に ついて は、 総裁 が 総理 北 河賢 三編 ﹃ 大 政 翼賛 会文 化 部 と翼 賛文 化 運動 ﹄ 11 ﹃ 資料 集 業 報 告 (昭 和 十七 年 七月 現在 )﹄・﹃文化 部 事 業報 告 (昭 和十 八年 六 月 現在 )﹄、 が 、百 田も そ の 一人 であ った わ けであ る ( 大政 翼賛 会実 践局 文化 部 ﹃ 文 化部事 化部 長 の要請 の下 に本 会 関係 部各 副部 長及 学識 経験 者中 よ り委員 を委 嘱 ﹀ した 生 日) に軍 人会館 ( 東 京 ・九段 ) で創 立 され、 同月 30日 に早 く も社 団法 人 の設 草委 員 ヲ委囑 。﹀ ※ ︿皇 国 ノ道 二則リ 国民 文化 ノ基 礎 タ ル日本少 国民 文化 ヲ確 立 を認可 さ れ、昭 和 17年 2月 11日 ( 紀 元節 ) に情 報 局講 堂 ( 元帝 劇) で発 会 し の高 橋健 二 であ った ことだ け付 記 し ておく。 この後、 昭和 18年 -月 から新 た に ﹁青年 詩 とそ の批評 ﹂ ( 厚 生 閣版 ) ヲ刊行 。﹀ ※青 年詩 選 ・ 詩 集 ﹁蓬莱 ﹂ ( 有光 社版 ) ヲ刊行 。﹀ ※ ﹃ 蓬 莱﹄ は 昭和 18 社 團 法人 日本 文 学報 國 會参 事 /社 團 法人 日 本少 國 民文 化 協會 参 年 総 力 戦 と文 化﹄ た ( 総 理大 臣 の東條 英 機 も臨 席 し祝 辞 を述 べた )。創 立 総会 よ り発 会式 ま での 文協 内 に設立 さ れた朗 読文 学 研究会 にも、百 田 は関与 して いる。 ︿一、 現在 年 9月 に刊 行。 ︿一、同 評 にな って いる当書 は、昭 和 18年 2月 に刊行 。 ︿一、 昭和十 八年 約 一ヵ月 半 は社団 法 人工政 会 ( 麹 町区 内幸 町) の 一室 を仮事 務所 と し て使 用 し 小 野 俊 一) に は当 初 11 ( 後 に 12) の 部 会 が あ り 、 百 田 は 当 初 か ら 文 学 部 会 1 たが 、発 会式 後間 も な い 2月 17日 に銀 座 三越 6階 に移転 し た。文 協 ( 理事 長 は の参事 ( 直接 の ︿十 一部会 の旗艦 乃至 主力 艦﹀( 神 崎清 ﹁ 文 学 部会報 告﹂﹃日本少 國民 文化 協會報 ﹄ 昭和 17年 11月) で幹事 長 は加 藤武 雄 ( 後 に吉 田甲子 太郎 )ー 設 立 趣 意 書 ・定 款 蛇諸 規 程 ﹄ ( 難 日本 少 國 民文 化 協 會 ) 事 ﹀ ※ 日本 文学 報 国会 ( 大 政 翼賛 会 文化 部 の中央 文化 団 体 、小 説 ・詩 な ど の 日本 少國 民文化 協會 人 八部会 を包 含 す る全 国 一元 的文学 者 団体 ) は、昭 和 17年 5月 26日 に創 立、 6月 所 属 は 詩 ・童 謡 を 担 当 す る 第 一分 科 ) で あ った 。 参 事 は 役 員 の 一人 で 、 ﹃ 社團法 の ﹁部 会 規 定 ﹂ に よ れば 、 主 務 官 庁 の承 認 を 経 て会 長 が 委 嘱 す る も の で 、 幹 事 18日 に発 会 ( 会 長 は徳富 蘇 峰 )。 文協 も大 政 翼賛 会 文化 部 の主 な 文化 職 能 団体 少国 民のためにー 国民 の歌﹄ ﹄ は 、 昭 和 17年 10月 に 刊 行 。 代 えた い。) (今 回、 日本 放 送協 会 と 日本大 学 には調 査協 力 を得 た 。 こ こに記 し て謝 意 に 第 8巻 ﹃ 資料 編﹄ (エムテ ィ出 版 、 1 99 1年 )が 特 に参考 にな った。 のと言 えよ う。 な お、文 協 に ついては、滑 川道 夫監 修 ( 復刻 版 ) ﹃ 少 國民 文化 ﹄ 時 中 の軌 跡 を特 に良 く窺 わ せ る ﹁履 歴書﹂ も 、宗 治研 究 に新 たな貢 献 をす るも 知名 度 の割 に百 田 の研 究状 況が 遅 れ て いる ことを考 慮す れば 、 こ の百田 の戦 会 の諮 問 に 応 じ 、 必 要 に 応 じ 幹 事 長 に意 見 を 具 申 す る こと が で き 、 任 期 は 一年 日 本 少 國 民 文 化 協 會 ノ委 囑 ニ ヨリ ﹁日 本 の あ し お と ﹂ ヲ にな って いた。 年 ﹃ 楽譜 ※ ﹁日 本 の あ し お と ﹂ は 、 文 協 発 会 式 第 二 部 の余 興 と し て 、 文 学 ・音 ︿一、 同 ( 再 任 可 ) で あ った 。 後 に 百 田 は 文 協 嘱 託 も 委 嘱 さ れ て い る 。 作 詞 。﹀ 楽 ・舞 踊 ・レ コ ー ド の 四 部 会 協 同 作 の形 で 上 演 さ れ た 。 前 記 歴史- 詩集 ﹁ 歴 史 ﹂( 有 光 社 版 ) ヲ 刊 行 。 日 本 出 版 文 化 協 會 推 薦 。﹀ 掲 載 時 に は、 文 協 作 詞 ・作 曲 に な って い る 。 ︿一、昭 和 十 七 年 ※子供向 け の ﹃ 詩集 128 蔵 書歓 談(2)
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