参考資料2 - 筑波大学

参考資料2
論文2 『チャールズ・テイラーにおける自己存在と対話性―Part. 1 多様な「善」に裏づけられた人間存在―』
と盗用されたとの指摘のあった元の文献の対比表
○○○:同一の表現を用いている部分
○○○:漢字とひらがなの違いがある部分
○○○:同様の内容で表現が異なる部分
○○○:引用と認められる部分
○○○:出典が記載されている部分
番号
調査対象論文
頁&行
小松優香『チャールズ・テイラーにおける自己存在と対話性―Part. 1 多様な
「善」に裏付けられた人間存在―』「文藝言語研究 文藝篇」66(筑波大学大
学院人文社会科学研究科文芸・言語専攻、2014 年)pp.1-32
盗用されたとの指摘のあった元の文献
中野剛充「テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代」(勁草
書房、2007 年)
P1L1~
1.はじめに
本論文の問題設定の目的は,チャールズ・テイラー(Charles Taylor,1931 P2L28
-)のこれまでの(自己共同体多文化・近代性)を主題とする思索から人間
の生を営む「対話的人間像(dialogicalself) と多様な「善から成る人間
存在」ついて取り上げ,人間という主体(human agency) であること,あ
るいは人格(person) であること,あるいは自己(self) であることと
は,いかなることであるかを明らかにし,それによって,本来人間の生成
過程において他者の存在が重要であり,歴史的,社会的文脈に位置づけら
れた存在であることを検討することにある.
テイラーは著書「自我の源泉―近代アイデンティティの形成」のなかで,
西欧近代特有の「自己」概念がどこから生まれどのように形成されたのか,
その道徳的諸源泉(moral sources) を辿り,近代的な考え方を作り上げ
ているいくつかの構成要素を紐解いた.それは,近代に焦点を当てながら
もプラトンから現代までも渉猟し,思想史的変遷を描き出すことで,「自
己」が本来「強い評価(strong evaluation)」を行う普的存在であり,人
間が自己を状況に応じて解釈する「自己解釈する動物(self-interpreting
animals)」であり,それと人間が表現力豊かな言語を身につけ他者とやり
とりする「自己対話性(dialogical character)」の葛藤によって生成す
る存在であることを確認する作業である.
テイラーは人間の生が対話によってアイデンティティを育むものである
点に着目し,自己の内外における対話性について注意深く丹念に読み解い
ている.このテイラーの対話的人間像は「強い評価」「自己解釈」など彼
1
頁&行
特有の思考スタイルと概念を用いて,人間存在の普遍的なものと個別的な
ものを見分け,その関係性について深みのある人間像を提示するそして,
その人間存在が豊かな言語を通じて他者との対話し自己表現を行い,自己
葛艇を繰り返しながら生を営んでいく条件づけられた存在,社会や文化の
文脈において全体論的に位置づけられた意味ある存在であることを見出し
ている.こうしたテイラーの深い洞察による人間の対話性について, Part.
1 と Part.2 の二回に分けて検証していきたい.
本論文 Part.1 「多様な善に裏づけられた人間存在」では,人間存在に
おいて普遍的に共通するものとして見られる普の多様性をうかがい知るた
めのキーワード「強い評価」「自己解釈」「主体的存在責任」について検
討し,自己の内面の対話性について論じていく.とくに第 2 節では,多様
な普に支えられた道徳的人間像を探究し,第 3 節から第 5 節ではそれぞれ
普の内容についてキ一概念ごとに考察するととによって,人間存在の普遍
的特性を明らかにするとともに内的対話性を浮き彫りにしていく.第 6 節
では,「真正さ(authenticity) の倫理」としてテイラーが最も,自分ら
しさ,自己実現へと導く倫理として個別的なものとみなしている個人主義
の倫理について検討する.続く第 7 節では,こうした多様な普的人間とし
ての存在はその本来性である道徳的フレームワークに位置づけられ,アイ
デンティティとして裏づけられている点について述べていく.この Part.1
では, I 多様な普に裏づけられた人間存在」とあるように自己の対話性の
基礎である人間存在のゆくえと内的対話性に重点を置いてみていくことに
する.
続く次の論文 Part.2 では,道徳、空間(moral space) なかでの自己を
浮き彫りにしながら,他者の対話性と表現言語の関係について示し,やや
ノスタルジックではあるがドイツのロマン主義的表現主義のなかにその可
能性を示唆するものが存在していたことにも触れることにする.なぜなら,
テイラーは自己のもつ「真正さ」に,自己を超越する道徳的力〈超越的条
件(transcendental conditions) 〉を見いだしており,彼の思想、が「全
体論的個人主義(holistic individualism)」といわれることからもわか
るように,自己の地平を拓き全体のなかに自らを位置づけていくとごろに
近代特有の不安を解消する活路を求めている.そのためにも,かつて近代
の道徳的諸源泉の分節化が実現されていたロマン主義のエピファニ一芸術
の時代を振り返ることは意義あるものと思われる.
P2L30~
2.善に裏づけられた人間存在一道徳的存在論(moral ontology)
チャールズ・テイラーは,自らの思索の中心にあるのは過去 3,4 世紀の P3L25
2
間に生じた近代の文化と社会における巨大な転換を包括的に理解し,道徳
の危機と政治の危機から脱出する道を探究することである[SS:1-3]と述
べている.それは,近代という時代に特有の近代アイデンティティが理想
とするものと禁止するもの〈浮き彫りにするものと,影に押し込んでしま
うもの〉が,ほとんど気づかれることなく,私たちの哲学的思考や認識論
や言語哲学を形づくり,自己が入り込まず,また入り込むべきではない領
域を冷静に検討することによって誕生したとされている教説を批判し,影
に追いやられ埋もれていた多様な社会的替と自己超越的な善について見直
すという近代が作り出されるプロセスを紐解くことによって探り当て,木
来の人間存在は多様な善に支えられたものであることを解明する試みであ
る.
テイラーが批判対象としているのは,一つには現代の人文・社会科学を
支配している「自然主義(naturalism)」であり,デカルト(Rene Descartes,
1596-1650)やロック(John Locke,1632 -1704)に代表される「表象主義
的な認識論(representational epistemology)」である.(これについて
は,ここでは簡単に触れるだけにとどめ,詳しい検証については別紙に譲
ることにする.)
自然主義とは, 17 世紀の科学革命にそのルーツを持ち,人間の研究におい
て自然科学の方法論をモデルにしようとした試みであり,それによって支
えられた思考法である.それは,たとえば人間の営みや目的,志向性,あ
るいは意識さえも無視しようとする行動主義的アプローチの典型にほかな
らない.そこでは,人間という主体がどのようなものであるかについての
様々な理解の総体―西洋近代に適合するような,内面性の感覚,自由の感
覚,自然に根を下ろしているというような感覚―は,いっさいの考察の基
礎にあるものとして考慮されない.テイラーは,この自然科学的方法論と
その前提となっている道徳的存在論および認識論を執劫に批判し,そこで
は道徳的価値については問われない,いわゆる価値自由論の立場とそれに
基づいた論理実証主義の分析方法を取り入れた社会科学や認知科学のあり
方についても痛烈に批判している.
これに対して,テイラーがオールタナティブに提示している人間像は,〈普 P3
L26
に裏づけられた〉道徳的存在としての人間固有の行為選択能力(human
~L31
agency)を有する人間行為者である.彼はこれを哲学的人間学
(philosophical anthropology)の系譜に位置づけている.そして,西洋
近代に特有の「自己」の概念がいかなる源泉から生まれ,どのように形成
され,そして歪められていったかという道徳的「自己」の源泉の変遷過程
3
1
2
3
を探ることによって,
西洋近代に生きる
「われわれ(we)1)」
のアイデンティティと道徳的善
(goods) P3L31
の関係について,「分節化(articulation)」する作業が必要であると考 ~P4L3
えている.というのも,近代の倫理学ないし倫理文化は,私たちの道徳性
を構成する善の倫理について,非常に狭い見方しかしてこなかった.しか
しテイラーによれば,私たちは失われたそれを回復することができるので
ある.
テイラーのいう善とは,「質的区別」によって高次であると判断された P4
ものであり,主に三つに分けられる[SS:89].一つは一般的な「生活善(life L4
good)」であり,それは質的区別によって定義される善き生の諸々の側面 ~L16
ないし構成要素である.たとえば,自律性や家族生活の意義,慈愛といっ
た啓蒙主義以降の近代社会に見出された道徳的価値観である.
第二に,生活善のなかでも高次階級の善(higher-order goods)を,テイ
ラーは「高位善(hyper goods)」と呼んでいる.それは単により重要であ
るばかりでなく,他の生活善の地位を判断する視点を提供する善でもある.
たとえば近代社会において,すべての人間は人種・階級・生・文化・宗教
にかかわらず,敬意をもって平等に取り扱われるべきであるという,普遍
的な正義がそれに当たる.
第三に,「構成善(constitutive goods)」といわれる善である.これら
はさらに高次な存在論的善であり,存在の秩序と秩序の善を構成し,これ
に対する志向性が私たちを善き行為や善き存在へと導く道徳的源泉であ
る.テイラーは,この生活善と構成善の区別をつぎのように記している
[Inquiry:234].
[前略]私は,善き生の観念において捉えられるの「生活善」と「構成 P4
善」を区別する.構成善とは,(1)生活善がそれに依存し (2)われ L13
われに道徳的な畏敬や忠誠を命じ,(3)それへの観照(contemplation) ~L25
や接触(contact)が,われわれに善き者へと権能を与える(empower)
という諸様態を意味している.そのような構成善は,(3)の特徴によっ
て,わたしが道徳的源泉と呼ぶものとして機能する.これまで可能であ
った構成善は,たとえば神,プラトンの善のイデア,あるいはカントの
合理的行為者の能力―これは,行為者にその自己自身への畏敬を命ずる
―である.
4
テイラーは,西欧近代に生きる「われわれ(we)」のアイデンティテ
ィと道徳性を,その起源にたどって「分節化(articulation)」する作
業が必要であると考える.というのも,近代の倫理学,あるいは近代の
倫理文化は,われわれの道徳性を構成する「善」の理念について,窮屈
な(cramp)地位しか与えてこなかったからである. しかしテイラーに
よれば,善は,われわれのアイデンティティにとって必要であり,さら
にその分節化によって,われわれはそれを回復することができるという.
まずテイラーによる,善の区別からみていこう.テイラーのいう「善」
とは,「質的区別(qualitative distinction)によって,高次であると
みなされた(mark out)」[SS:89]ものである 70.そしてそれは,さら
に三つに分類される.一つは,一般的な「生活善 (life goods)」であ
り,それは「質的区別によって定義される善き生の構成要素」[SS:93]
である.たとえば「自律性,家族生活の意義,慈愛(benevolence)」[SS:
308]といった,啓蒙主義以降の近代社会に見出される道徳的価値である.
第二に,「生活善」のなかでも最高次の善を,テイラーは「最高善(hyper
goods)」と呼んでいる.それはたんに「より重要」であるばかりでなく,
他の生活善の地位を判断する観点を提供する善でもある.たとえば,近
代社会において,「すべての人間は,人種,階級,生,文化,宗教にか
かわらず,敬意をもって平等に取り扱われるべきであるという,普遍的
な正義や慈愛」[SS:64]がそれに当たる.
第三に,「構成的善(constitutive goods)」と呼ばれる善がある.そ
れはさらに高次の次元をもつ善であり,「行為や動機の善性を構成し,
……それに対する愛が,われわれを善き行為や善き存在へと導く
(empower)」[SS:92-93]ような善である.テイラーは,生活善と構成
的善の地位を,次のように区別している 71.
……わたしは,善き生の観念において捉えられる種類の「生活善」
と,「構成的善」を区別する.構成的善とは,(Ⅰ)生活善がそれに
依存し,(Ⅱ)われわれに道徳的な畏敬や忠誠を命じ,(Ⅲ)それへ
の観想(contemplation)や接触(contact)が,われわれを善き者へ
と権能を与える(empower)といった諸様態を意味している.そのよう
な構成的善は,(Ⅲ)の特徴によって,わたしが「道徳的源泉(moral
sources)」と呼ぶものとして機能する.これまで可能であった構成的
善は,たとえば,「神」,プラトンの善のイデア,あるいは,カント
の合理的行為者の能力――これは,行為者にその自己自身への畏敬を
P110
L6~L12
P110
L13~
P111
L5
P111
L6
~L14
4
5
6
テイラーによれば,われわれが「自己」という人間行為者であり,質的
区別を含む道的枠組みをもつかぎり,そのアイデンティティにはこれら三
つの善の感覚が伴っている.そしてこれらの善を通して道徳空間に位置づ
けられ,道徳生活の営みを可能にするのである.しかし,近代の倫理およ
び道徳哲学は,「いかにあるのが善いかではなく,何を行うのが正しいか」
に問題の注意を払い,善き生のあり方よりも義務内容に方向性を向けてき
た[SS:3].これによって,善とくにより生を充実させ,意味ある豊かな
ものにする高位善については,全く目を向けられることなく無視され否定
されてきた.テイラーによれば,そうした姿勢をもたらしてきたのが自然
主義の立場である.つまり自然主義的手法を用いた道徳哲学〈自然主義的
気質〉では,われわれを道徳的に欠落した人間として描き出してしまった
のである.
自然主義的手法を用いた倫理学の欠陥は,人間存在が善に支えられてい
ながらも,善の存在的地位を否定するというその理論的欠落にある.それ
は,テイラーの主張に従えば,認識論的理由とともに人間の日常生活とそ
の自然な要求を肯定する「日常生活の肯定」という道徳的動機に基づいて
いる.われわれは一方では日常的要求を肯定しつつも,他方では最も重要
な道徳的区別を行うという点において,道徳上の葛藤と緊張を絶えず孕ん
でいる.この問題について,宗教改革者や古典的功利主義者,マルクス主
義者などは,高次の道徳的善は日常生活の外部にではなく,日常生活の営
みに現れるものとしてきた[SS:23-24].しかし,近年の倫理学において
は,日常生活の肯定を徹底化することによって,質的区別の重要性に目を
向けないようにしてしまっている.ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)
らの自然科学的功利主義やポストモダンの思想に代表されるネオニーチェ
主義は,日常生活よりも高次に位置する善のすべてがその存在的地位を否
定されてしまっている.
しかし,近代の自然主義的倫理学は,質的区別を全て否定したわけではなく
〈事実それは不可能である〉,日常生活の肯定とともに生じてきた高位善―す
なわち個人の自由,利他主義,普遍的正義などの善―を密かに導入している
[SS:88].つまり,テイラーによれば,近代の倫理学は一方で高次善を導入し
つつ,他方で善一般を否定するという実践的な矛盾を抱えている.ところがそ
の場合,近代の倫理学では現代社会における様々な善の対立を乗り越え和解す
ることができない.多様な生活善の間の対立―たとえば他者との友愛と自己の
自己実現との葛藤やそれらを位置づける高位善と他の多様な生活善との間の対
P5
L1
~L5
P5
L6
~L18
P5
L19
~L28
5
命ずる――である [Taylor1991a:243].
テイラーによれば,われわれが「自己」であり,質的区別を含む道徳 P111
的フレイムワークをもつかぎり(第 2 章第 l 節参照),そのアイデンテ L15
ィティには,これら三つの善の感覚が伴う.そしてわれわれの生は,こ ~L24
れらの善によって「道徳的空間」に位置づけられ,あるいは権能を与え
られるという. しかし近代の倫理学と倫理文化は,「何が善であるかよ
りも,何が正しい行為であるかについて,また,善き生の本性よりも,
義務の内容の定義にのみ焦点をあて」[SS:3]てきた.またそのことに
よって,善,とくに最高善と構成的善には適切な地位が与えられず,こ
れらの善はしばしば隠蔽ないし否定されてきた.テイラーによれば,ま
さに近代の自然主義的倫理学は,われわれを道徳的に欠陥した状態に導
いてしまったというのである.
自然主義的倫理学の第一の欠陥は,われわれの生活が善に支えられな
がらも,善の存在論的地位を否定するというその理論的な欠陥である.
テイラーによれば,それは認識論的理由とともに,人間の日常生活とそ
の「自然な」欲求を肯定する「日常生活の肯定」という道徳的動機にも
もとづいている.われわれは,一方では日常的な欲求を肯定しつつ,他
方では「最も重要な道徳的区別」をするという点で,道徳上の葛藤と緊
張をたえず抱えている.この問題について,たとえば初期の功利主義や
マルクス主義などの思想は, 日常生活の外部ではなく,その内部におい
て高次の善を見出そうとしてきた[SS:23-24].しかし近年の倫理学は,
日常生活の肯定を徹底化することによって,「質的区別」の重要性を否
定してしまっている.たとえば,ベンサムらの自然主義的功利主義や,
ポスト・モダン思想に典型的にみられるネオ・ニーチェ主義倫理学にお
いては,日常生活よりも高次に位置する「善」のすべてが,その存在論
的地位を否定されている.
しかしテイラーによれば,近代の自然主義的倫理学は,質的区別をすべて
消去したわけではなく(事実それは不可能である),「日常生活の肯定」と
ともに生じてきた「最高善」――すなわち,個人の自由,利他主義,普遍的
正義などの善――を密かに導入している.
(書籍引用略)[SS:88]
つまりテイラーによれば,近代の倫理学は,一方で「最高善」を導入しつつ,
他方で「善」一般を否定するという,実践的な葛藤を抱えているというので
ある. しかもその場合,近代の倫理学は,現代社会におけるさまざまな善の
P111
L25~
P112
L9
P112
L10
~L30
立,とくに普遍的な平等と自己決定の自由との間の葛藤―の問題を乗り超える
ことができない.
7
P5
ドゥオーキン(Ronald Dworkin, 1931 - 2013) やハーバーマス
(JürgenHabermas, 1929 -)らの手続き的倫理学においては,個人の権利とい L29~
う高位善が単一の行為基準として設定されてしまうため,善の多様性を認識す P6L6
ることができない.またネオニーチェ主義は,高位善を含めてすべての善の問
題を権力関係の問題とみなすことによって,対立を解きほぐそうとするが,そ
れは密かに無制限の自由を導入したにすぎない[SS:102].
テイラーは,こうした近代倫理学と近代文化における絶えざる隠蔽と否定とが,
構成善と高位善の道徳的力を弱め,窒息(strife)させつつあると主張する.
またそのために,現代を生きる人々はしばしば,人々の権利に帰せられる尊厳
の感覚を支えるものは何かすら理解できなくなっており,今日の道徳の理念と
実践は,非常な危機に陥っているのである.
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9
では,こうした近代倫理学,近代倫理文化の道徳的苦境(predicament)にお P6
いて,私たちに必要とされていること,そして可能なことは何であろうか.テ L7
イラーによれば,それはアイデンティティにおける善の歴史物語を再分節化す ~L17
ることである.なぜなら,第一に,歴史的に構成された近代アイデンティティ
にとって不可避な構成要素が,近代倫理学によって隠蔽され否定されているか
らであり,もしその近代の多様な善を明示するならば,それらの存在論的位置
づけを付与することになるからである.第二に,単一の善ではなく,複数の善
が正当性をもつことを示すならば,現代倫理文化の緊張,すなわち諸々の善の
対立を和解(reconciliation)するための条件を構成しうるからである.そし
て第三に,再分節化することによって,失われつつある道徳的源泉の道徳的力
を回復することができるのである[SS:96].
以上,テイラーの描く多様な善の倫理とそれを打ち消してしまった近代倫理 P6
学のあり様,とくに自然主義および功利主義の問題点について検討してきた. L18
6
コンフリクトを和解することができない.すなわち,多様な生活善のあいだ
のコンフリクト――たとえば,他者との友愛と個人の自己実現との葛藤――
や,また,それらを位置づける最高善と他の多様な生活善のあいだのコンフ
リクト――とくに普遍的な平等と自己決定の自由のあいだの葛藤――を和解
することができない.
たとえば, ドゥオーキンやハーバーマスらの手続き的倫理学は,個人の権利
という最高善を単一の行為基準に設定してしまうため,善の多線性を認識す
ることができないでいる.またネオ・ニーチェ主義は,最高善を含めて,す
べての善の問題を権力関係の問題とみなすことによって,コンフリクトを溶
解させようとするが,それは密かに別の善,すなわち無制限の自由を導入し
たにすぎない.
(書籍引用略)[SS:102]
さらにテイラーは,何よりも,近代倫理学と近代文化における絶えざる善の
隠蔽と否定が,構成的善の道徳的力を弱め,われわれを「窒息(stifle)」さ
せつつある,と主張する.またそのために,われわれはしばしば,「人々の
権利に帰せられる尊厳の感覚を支えるものは何か」すら理解できなくなって
おり[SS:95], われわれの道徳の理念と実践は,非常な危機に陥っている
という.
では,このような近代倫理学,近代倫理文化の「道徳的苦境(predicament)」
において,われわれに必要とされていること,そして可能なことは何か.テ
イラーによれば,それはアイデンティティにおける善の歴史的物語を,再「分
節化」することであるという.なぜなら,第一に,歴史的に構成された近代
アイデンティティの不可避な構成要素というものが,近代倫理学によって隠
蔽・否定されてきたからであり,もしわれわれが近代の多様な善を明示化す
るならば,それらの存在論的な位置を確保することができるからである.そ
して第二に,単一の善ではなく,複数の善が正当性をもつことを示すならば,
現代倫理文化の緊張,すなわち,諸々の善のコンフリクトを,「和解
(reconciliation)」するための条件を構成しうるからである.
(書籍引用略)[SS:107]
そして第三に,テイラーによれば,われわれは「分節化」によって,失われ
つつある道徳的源泉の道徳的力を「回復(retrieval)」することができるとい
う.
(書籍引用)[SS:96]
以上,テイラーの善の理論と近代倫理学批判,そして,近代アイデンティ
ティとその諸善の歴史的分節化の必要性について検討してきた.まとめると,
P112
L30~
P113
L21
P113
L26~
P114
L15
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L30~
つまり,近代の倫理学および倫理文化は,私たちの多様なる善を生み出す道徳 ~L24
の諸源泉を隠蔽し,その結果,道徳の苦境状態を招いている.もし私たちが諸々
の善に目を向け再分節化を行うのであれば,その諸源泉は復活するであろう.
その大いなる試みをテイラーは為してしるのである.では,その善の内容につ
いて詳細をみていきたい.
10
11
12
3.「弱い評価(weak evaluation)」と「強い評価(strong evaluation)」
テイラーの提示する人間像は,「強い評価」と「自己解釈」によって絶えず
対話を行い,自己生成する主体的人間行為者である.彼はハリー・フランクフ
ァート(Harry Frankfurt, 1929 -)の議論にしたがって,人間行為者と他の
動物との決定的な区別を,人間のみが「第二階の要求(second-order desires)」
の主体であり得る点に見いだしている.人間以外の動物もある種の要求をもち,
その要求のために別の要求を抑制するといった選択を行うだろうが,自己の第
一階の要求(first-order desires)を対象化して,その要求に対する第二の要
求を用いるのは人間のみである.自己の要求を評価する能力,すなわち何が望
ましい要求で何が望ましくない要求であるかを見極める能力をもっている
[PP1:16].言い換えれば,望ましくないものを望ましいものに修正する能力,
反省する能力を備えているのが人間の特性なのである.
テイラーは, またその反省能力を, 行為の結果に関心を向ける「弱い評価
(weak evaluation)」と行為の動機に関心を示す「強い評価(strong
evaluation)」に分けている.この「強い評価」には,異なった要求について
の質的価値の区別が含まれていることが重要であり,ここでは,要求を比較対
照する言葉を用いることで,質的区別を行うことができるのである.例えば,
「休暇に南へ行くか,北へ行くか」とか,「ランチを浜辺で食べるか,街中で
食べるか」といったことは,「弱い評価」にあたるもので,仮に休暇場所を選
ぶ際に,その後の結果を考慮して「南に行ってリラックスするのか,北へ行っ
て刺激ある空気に触れ,気分を活性化させるのか」によって場所を選んだとし
ても,そこには質的の区別は含まれているが,質的価値についての要求の区別
は見られない.これでは弱い評価となり,強い評価とはいえない.
では,「強い評価」とはどのような場合であろうか.たとえば人は,恨みや
妬みに基づく行為というものを反省的に捉えて,それを卑しいとか無価値であ
るなどと評価することができるであろう.また場合によっては,その行為を控
えることができるであろう.こうした質的価値を含んだものを強い評価の例示
といえる.強い評価においては,自己の要求は高貴/ 卑しい,誇らしい/ 恥ず
かしい,深遠な/ 軽薄な,といった対照的な言語によってカテゴリーに分類さ
近代の倫理学および倫理文化は,われわれの道徳の諸源泉を隠蔽し,その結 P115
果として道徳の葛藤状態(苦境)を招いている.しかし,もしわれわれが諸々 L4
の善を分節化していくならば,道徳の諸源泉は回復されるだろう.そしてテ
イラーは,この考え方にもとづいて,近代アイデンティティとその変遷を分
節化するという壮大な試みをなし遂げている.節を換えて,検討してみよう
72
.
P6L26~
P13
P7L5
テイラーはフランクファートの議論[Frankfurt 1971]にしたがって,人 L15
~L23
間行為者と他の動物との決定的な区別を,人間が「第二階の欲求
(second-order desire) 」の主体でありうる点にみいだしている.たとえば,
動物もある種の欲求をもち,ときにはある欲求のために,別の欲求を抑制する
といった選択をおこなうだろう.しかし,
自己の一次的な欲求を対象化して,
その欲求に対する二階の欲求を持ちうるのは,人間のみである.「われわれ
の欲求を評価する能力,すなわち,あるものは望ましく,他のものを望まし
くないとみなす能力」[Taylor 1985a:16],言い換えれば,反省的な自己評
価の能力こそが,人間行為者の本質的な特性であるとテイラーは考える.
P7
テイラーはさらに,その反省能力を次の二つに分類している.一つは「弱
い評価(weak evaluation) 」であり,そこにおいて行為者は,行為の結果に
のみ関心をもっている.もう一つは「強い評価(strong evaluation)」であり,
そこで行為者は, 自己の動機の質や,異なった欲求の質的な価値の区別を問
うことができる.
たとえば,ある行為者が,休暇を海で過ごすのではなく山で過ごすとか,空
腹であるにもかかわらず昼食をとるまえに水泳をする,という判断をしたと
しよう.こうした判断においては,行為の質的な評価はなされていない.た
とえば,食事の前に先に水泳をするのは高貴であり,その逆は卑しい,とい
った価値の言語は用いられない.質的な価値の区別が含まれていなければ,
その判断は弱い評価にとどまるのである.
「強い評価」は,ある欲求に対して,比較対照のための言葉を用いて,質的
な区別をするものである.たとえば人は,恨みや妬みにもとづく行為という
ものを反省的にとらえかえして,それを卑しいとか無価値だとか評価するこ
とができるだろう.また場合によっては,そうした行為を差し控えることが
できるだろう.強い評価においては,自己の欲求は,高貴な/卑しい,誇ら
しい/恥ずかしい,深遠な/軽薄な, といった対照的な言語によってカテゴ
L6
~L16
P7
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~L25
7
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~L28
P14L4~
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L28~
P14L4
れ,質的に区別される.これに対して弱い評価は,価値の質的区別はいっさい
含まれない.行為の動機はそれが単純に要求されることで善いと判断され,そ
こでの評価は偶然的あるいは量的なものでしかない.
13
14
こうした「弱い評価」と「強い評価」における自己のあり方を, テイラーは
暫定的に「単純な考量者(simple weigher)」と「強い評価者(strong evaluator)」
と呼んでいる[PP2:22-26].たとえば過食症の人を例に挙げたとしよう.その
時に単純な考量者にとっては,この問題は単に自己の要求充足を満たす量的な
問題でしかない.食べ過ぎると血液中のコレステロールが上がり健康を害する
のでよくない,これによって他の要求充足の妨げとなることが問題と考える.
これに対して強い評価者にとっては,過食症の問題が自己の道徳的あり方と関
係する.すなわち質的評価との関わりである.自己の選好をコントロールでき
ず,食欲の快楽に耽溺することは自律した行為者として卑しいとして自己の尊
厳を保つか,あるいは堕落を選択するか,という問題として捉える.同じこと
が次の場合にもいえる.たとえば,焼き菓子のトレイにエクレアとミルフィー
ユがのっていて,どちらを選ぶかためらっている場合に,今はエクレアが食べ
たいからということで,エクレアを選択するとする.ここでの単純な考量者は,
何故エクレアがミルフィーユより優れているかという経験的理由を明示するこ
とや選択理由を質的評価と結びつけることはできない.反省することの役割は,
即座の状況から一歩退き,結果を計算して非明示的な〈内的〉「感じ(feel)」
に注意を集中することによって,ためらいを克服することにある.
このように「単純な考量者」と「強い評価者」とでは,同じ行為現象に対し
て捉え方と反省の仕方が質的区別の点で異なる.強い評価者の場合には,反省
するプロセスにおいて自己解釈
(self-interpretation)の葛藤が含まれており,
そこでは,「どれがより真実で,より真正で,道徳的な解釈か」という価値選
択が問題になっている[PP1:27].その自己解釈において,価値についての豊
かな言語(たとえば,高貴な/ 卑しい,勇敢な/ 臆病な,有徳な/ 悪徳な,一
貫性ある/ 分裂した,自由な/ 疎外された等)によって,自己の要求を分節化
しなければならない.その意味において,単純な考量者にはない,自己の「分
節性と深み(articulacy and depth)」あるいは自己の「分節性の深み」をも
っている.そして,テイラーによれば,自己を解釈し,その要求を分節化する
ことによって,人間の「深み」を獲得する,その能力こそ人間行為者と動物と
を区別するものである.テイラーのいう人間行為者とは,強い評価をなしうる
存在であり,自己の生き方の質や自己の主体のあり方とそれ自体への反省を試
みられる存在である.
P7
L26~
P8L10
P8
L11
~L21
8
ライズされ,質的に区別される.これに対して「弱い評価」においては,価
値の質的な区別は含まれない.行為の動機は,それが単に欲求されるがゆえ
に善いと判断され,そこでの評価の区別は,偶然的あるいは量的なものでし
かない.
テイラーは,こうした「強い評価」と「弱い評価」における二つの自己の P14
在り方を,それぞれ暫定的に,「単に考量する者(simple weigher) 」と「強 L11
い評価者(strong evaluator)」と呼んでいる.ここで,この二つの行為者 ~L25
の在り方を対照させるために,過食症に悩む人の例について考えてみよう.
「単に考量する者」にとって,過食症の問題は,欲求充足に関する量的な問
題でしかない.過食症は,肥満を招き, 健康を害することによって, 他の
欲求充足への妨げとなるがゆえに問題となる.これに対して,「強く評価する
者」にとって過食症とは,自己の在り方についての質的評価を合む問題であ
る.彼にとって,自己の嗜好をコントロールできず,味覚の快楽に耽溺する
ことは,いわば,自律的な行為者としての自己に対する尊厳を保つか,あるい
は堕落するか,の問題である.「単に考慮する者」にとっては,いくら食べ
ても肥満しない薬が発明されれば,すべての問題が解決されるだろう.これ
に対して「強く評価する者」にとっては,そうではない.なぜなら,彼にと
って「ケーキを食べつつ行為者の尊厳を維持することを可能にする薬は,存
在しない」[Taylor 1985a:22]からである.
このように,「単に考量する者」と「強い評価者」とでは,同一の行為現 P15
象(ここでは過食症とその対策)に対する反省の質が異なっている.「強く L8
~L22
評価する者」において同時に遂行されているのは,自己-解釈
(self-interpretation)の葛藤であり,「そこで問題になっているのは,ど
れがより真実で,より真正で,幻想から解放された解釈か,ということであ
る」[Taylor 1985a:27].その自己解釈において,彼は価値についての豊か
な言語(たとえば,高貴な/卑しい,勇敢な/臆病な,有徳な/悪徳な,一貫
性ある/分裂した,自由な/疎外された,といった)によって,自己の欲求
を分節化しなければならない.その意味において彼は,単に考量する者には
ない,自己の「分節性と深み(articulacyand depth)」,あるいは, 自己
の「深さへの分節性」をもっている.そしてテイラーによれば,自己を解釈
し,その欲求を分節化することによって,人格的な「深み」を獲得する能力こ
そ,人間行為者と動物を区別するものだというのである.テイラーのいう人
間行為者とは,「強い評価」をなしうる存在であり, 自己の生き方の質や,
15
自己の主体としての在り方それ自体への反省を試みることができる存在とし
て,位置づけられている.
では次に,「単に考量する者」と「強い評価者」を区別する際の論点とな P15
L23
った,行為者の自己解釈の問題について検討してみよう.
次に単純な考量者と強い評価者を区別するための論点ともいえる自己解釈の問 P8
L22
題についてみていきたい.
~L23
16
P8
4.自己解釈する動物(self-interpreting animals)
人間は「自己解釈する動物」である.このことについて前節と関連づけなが L25~
P9L9
らみていくことにする.
テイラーによれば,人間行為者は意識的な反省能力によってのみ特徴づけられ
る存在ではなく,むしろ反省能力を発揮する以前から道徳的直観や日常的感情
のなかですでに自身に対する解釈を行っており,その解釈によって自己が構成
されている存在である.人間が自己解釈的存在であるということは,人間は「単
純に自己に対する反省の視点を形成する必然的な傾向をもつだけでなく,人間
として,彼はつねに,部分的に自己理解 [中略]
によって構成されている」からである[PP1: 72].われわれの自己解釈〈ある
いは,その誤った解釈〉は,われわれがいかに感じる(feeling)かを形成する.
これが人間が自己解釈的動物であるということの意味である.テイラーは人間
行為者の日常の感情や直観が,すでに「言語による分節化(language
articulation)」を伴っており,それらがすでに自己解釈を含むと同時に,自
己を構成する一要素であるという.
17
18
テイラーは,自己のさまざまな行為や反応の背後にある二種類の道徳的直観 P9
(moral intuition)に着目した.たとえば,われわれが甘い物を欲したり,吐 L10
き気を催すものに嫌悪感を抱いたり,落下するのではないかと恐怖を感じたり ~L16
するのは,本能的直観である.これに対し,道ばたに人が倒れていて咄嗟に助
けようとすることや,困窮状態にある人に手をさしのべようとする行為は,そ
こに何かに「呼ばれている(call)」ように感じる顕在化した直観である.そ
のプロセスには自己解釈が営まれている[SS:5].
近代の自然主義者や功利主義者たちは,この第二の側面を切り捨てて道徳観 P9
念から分離独立させ,道徳にとって不要ないし無関係なものとして排除してし L17
まった.あるいは多くの論者がそうであるように,第一と第二が混同され,本 ~L33
能的なものとして片付けられてしまう場合が多い.この二つの直観は明らかに
9
~L24
前節においてわれわれは,人間行為者にとって本質的な特徴であるとテイ
ラーがみなす「強い評価」という概念について触れた.本節ではさらに,テ
イラーの「自己解釈的動物(self-interpreting animals)」としての自己概
念をみていきたい.
テイラーによれば,人間行為者は,その意識的な反省の能力によって特徴
づけられる存在ではない.むしろ反省能力を発揮する以前から,道徳的直観
や日常的な感情においてすでに自身に対する解釈をもっており,またその解
釈によって自己が構成されているような存在である.人間が自己解釈的存在
であるというのは,人間は「単に自己に対する反省的な視点を形成する必然
的な傾向をもつだけでなく,人間として,彼はつねに,部分的に自己理
解・・・・・・によって構成されている」[Taylor 1985a:72]からである.
「われわれの自己解釈(あるいはその誤った解釈)は,われわれがいかに感じ
るかを形成する. これが,人間が自己解釈的動物であるということの意味で
ある」[Taylor 1985a:64]. このようにテイラーは,人間行為者の日常的
な感情や直観が,すでに「言語による分節化(language articulation) 」を
伴っており,それらはすでに「自己解釈」を含むと同時に,自己を構成する
要素の一部になるという.
彼はまず,自己のさまざまな(道徳的)行為や反応の背後にある,道徳的
「直観 (intuition)」 に着目する.道徳的直観には次の二つの種類がある.
一つは,われわれが甘い食べ物を欲したり,高所から墜落することへの恐怖を
感じる際に顕在化するものであり,それはいわば,本能的な直観である.も
う一つの直観は,たとえば,道ばたで倒れている人を見たとき,その人に対し
て助けの手を差伸べねばならない,と何かに「呼びかけられている(call)」
ように感じる場合に顕在化する直観である.テイラーによれば,この第二の
直観は,行為者の自己の本性やその尊厳についての理解が含まれており,そこ
には自己解釈が営まれているという[SS:5].
近代の自然主義者や古典的功利主義者たちは,この第二の種類の直観を切り
捨てて,それを道徳の領域から排除した.また他の論者たちも,典型的には
ルソーが他者への同情を本能的なものとみなしたように,第二の直観と第一
のそれとの区別曖昧にしてしまっている. しかし,この二つは明らかに異な
P15
L28~P16
L11
P16
L12
~L20
P16
L20
~L29
19
20
異なるものであり,第二の道徳的本能による直観こそ,人間行為者として自己
の道徳的存在論の出発点となりうるものである.そしてそこでの存在論的説明
は,尊厳というわれわれの道徳的本能を明確化することによって,私たちの反
応に暗に含まれている主張をも明確化していることが多い.こうした道徳的存
在論の探究は,人間存在の道徳―精神的な背景像(background picture)を探
る営みであり,私たちの最も深い道徳的応答によって形づくられた世界の内部
でのみ続けられるものである[SS:8]2).自然科学者がしばしば想定するよう
に,私たちの道徳的反応を明確化する存在論の説明は,単なる空虚なおしゃべ
りで時代遅れのナンセンスとみなす見方や道徳的存在論は純粋なフィクション
であるという帰結は,もはや正しいものではない.私たちは最も深い道徳的本
能,つまり人間の生は尊重されるべきであるという深く根を下ろした感覚を,
世界―存在論的主張を識別でき,それを理性的に論じ精査することができる世
界―への接近様式として扱うべきなのである.
続いてテイラーは,この道徳的直観の問題について,
日常的な感情
(feeling) P10
を分析することによって詳しく論じていく.多くの道徳的直観は一見すると本 L1
能的なものとして扱われがちであるが,しかしすでに日常的な感情(feeling), ~L9
情動(emotion),要求(desire)などによって媒介されており,それらはすで
に経験された動機づけ(experienced motivation)をもっているものとみなさ
れる.ただしその場合においても,道徳的な意味合いをもったものとそうでな
いものを区別し,道徳的直観の性質について,それが生来的であるかどうかよ
りも,「重要性の帰属(import ascription)」と「主体言及性
(subject-referring)」の観点から分析している.
ここで「重要性(import)」と指し示しているものは,屈辱的な,恥ずかし P10
い,落胆したなど一連の道徳感情を表す形容詞によって定義される経験的特質 L10
である.人がこうした感情を経験することは,自己の状況を重要性の帯びたも ~L23
のとして判断されるからに他ならない.たとえば恥(shame)は,自己の置かれ
た状況を恥ずかしい(shameful)と経験することに帰属する感情である.そこ
では,自己の置かれた状況や認識の対象を,ある重要性へと性格づける潜在的
な判断,つまり自己による重要性の帰属(ascription)がなされている.その
重要性が自己の感情を構成する基盤となっている.同様に,それらの重要性の
多くは「主体言及的」でもある.なぜなら,恥を意味するものの説明それ自体
に,本質的に経験の主体としての生に結びついた事柄―自己の尊厳や価値,あ
るいは他者にいかに見られるかという感覚―への言及が含まれているからであ
る.恥ずかしいといった重要性の経験は,自己の尊厳や他者の強い評価から独
10
るものであり,第二の直観こそが,人間行為者としての自己の「道徳的存在
論(moral ontology) 」[SS:8]の出発点となりうるのだ, とテイラーは
主張する.そしてこうした道徳的存在論の探究は,われわれの本性の道徳的精神的な「背景像(background picture)」を探求する営みであり,そこに見
出される人間像は,ベンサムらの功利主義における人間像(快楽計算機)と
は真っ向から対立するものとなる.
テイラーはさらに,この道徳的直観の問題について,日常的な「感情
(feeling)」を分析することによって詳しく論じてゆく.多くの道徳的直観
は,一見すると本能的なものとみなされがちであるが,しかしすでに,日常
のさまざまな感情(feeling),情動(emotion),欲求(desire)などによ
って媒介されている.それらはすでに,「経験された動機づけ(experienced
motivation) 」をもっていると考えられる.ただしその場合でも,道徳的な
意味合いをもった感情や欲求と,そうでないものを区別することができる.テ
イラーは道徳的直観の性質について,それが生来的であるかどうかよりも,む
しろ,(1)「重要性の帰属(import ascription)」と,(2)「主体言及性
(subject-referring)」の観点から,分類を試みている.
ここで「重要性」とは,屈辱的な,恥ずかしい,落胆した,といった一連
の道徳感情を表す形容詞によって定義される経験的特質(property)である.
人がこうした感情を経験することは,自己の状況を,「重要性」を帯びたも
のとして経験することに他ならない.たとえば「恥(shame)」は,自己の置
かれた状況を「恥ずかしい(shameful)」と経験することに帰属する感情で
ある.そこでは,自己の置かれた状況や認識の対象を,ある重要性へと性格
づける潜在的な判断,つまり,自己による重要性の「帰属(ascription)」
がなされている.そしてその重要性が,自己の感情を構成する基盤となって
いる.同様に,それらの重要性の多くは,「主体言及的」でもある.なぜな
ら,「恥を意味するものの説明それ自体に,本質的に経験の主体としての生
に結びついた事柄――自己の尊厳や価値,あるいは他者にいかに見られるの
かという感覚――への言及が含まれている」
[Taylor 1985a:54]からである.
P16L30~
P17L7
P17
L8
~L22
立したものではありえず,つねに「主体としての(qua)主体の生」に関する特
性である[PP1:54].その意味で重要性の経験は主体言及的でもある.
21
一方,再度道徳的直観の話に戻ってみると,たとえば高所から落下すること P10
L24~
への恐怖や黒板を爪で引っ掻く音を聞くことの不快感といった感情の経験に
は,重要性の帰属や主体言及性は含まれていない.そこには,自己の尊厳や他 P11L5
者の強い道徳的評価に関わるものではないからである.これに対して,道ばた
で血を流して倒れている人を見かけた時に通り過ぎることができず,助けなけ
ればならないと感じる道徳的直観は,そこには行為者が彼を助けたいと思う要
求だけではなく,むしろ行為者はそこで,そのように行為することを求められ
ている(called upon)ように感じ,それを直観するのである[PP1:58].このよ
うに道徳的直観には,ある種の重要性が帰属されており, 自己の存在が開示さ
れているのである.
つまりテイラーによれば,状況が与える重要性の感情は,その経験に遭遇した
行為者が,〈いかなる人間であるか〉という問いを開示するものである.この
例における行為者は,状況が内包する重要性について,道徳的な義務を遂行す
るように求められている.そこで彼は〈存在〉として,つまり理性的存在,あ
るいは道徳的存在,または神の似姿として想像された被造物として求められて
いると感じるのである.
22
このことは人間が自己を状況において解釈する動物であることを意味してい P11
る.重要性の帰属と主体言及性において経験される道徳的直観は,同時に,
〈自 L6
己がどのような存在であるか〉〈人間であるとはどういうことか〉という自己 ~L16
理解を内包する.そしてその直観は,そこに含まれる重要性を開示するために,
解釈を通じて自己の主体的分節化を伴うのである.というのも,恥や悔恨とい
う主体言及的感情は,自分がなにか誤った行為を行ってしまったという感覚が
なければ存立しえないからである.そこには何らかの正誤や善悪の判断がすで
に組み込まれており,その判断には,道ばたで血を流して倒れている人を見か
けた時に感じる感情において,〈自己の存在〉や〈人間とは何か〉という問い
に対する行為者としての自己理解が含まれている.人間行為者の道徳的直観は,
11
「恥ずかしい」といった重要性の経験は,自己の尊厳や他者の強い評価から
独立した特性ではありえず,
つねに
「主体
『としての
(qua)
』
主体の生」
[Taylor
1985a:54]に関する特性である.その意味で,重要性の経験は主体言及的で
もある.
ではここでもう一度,上述した道徳的直観の問題に立ち戻ってみよう.高
所から落下することへの恐怖や,黒板を爪で引っ掻く音を聞くことによる不
快感といった感情の経験には,「重要性の帰属」や「主体言及性」が含まれ
ていない.というのもこれらの感情は,それ自体としては, 自己の尊厳や他
者の強い道徳的評価に関わるものではないからである.これに対して,たと
えば,道ばたで血を流して倒れている人をみつけたときに通り過ぎることが
できず,彼の傷を手当しなければならないと感じるときに顕在化する道徳的
直観は,そうではない.そこにおいて行為者は,彼を助けたいという欲求を感
じるだけではない.テイラーによれば,むしろ行為者はそこで,そのように
行為することを「求められている(called upon)」ように感じ,それを道徳
的に「直観する」のである.このような道徳的直観においては,ある種の重
要性が帰属されており,また自己の存在(本位)が開示されている.なぜな
ら,
(文書引用略) [Taylor 1985a:58]
つまりテイラーによれば,状況が与える重要性の感情は,その経験に遭遇
した行為者が,「いかなる人間であるか」という問いを開示するものである.
この例における行為者は,状況が内包する重要性において,道徳的な義務を
遂行するように求められている.そこで彼は,「存在」として,つまり「理
性的存在,あるいは道徳的存在,または神の似姿として創造された被造物『と
して(qua)』,
(負傷したものを助けるよう)求められていると感じる」
[Taylor
1985a:58] のである.
そしてテイラーによると,このことは,人間が自己を状況において解釈す
る動物であることを意味している.重要性の帰属と主体言及性において経験
される道徳的直観は,同時に,自己がどのような存在であるか,人間である
とはなにか,という自己理解を内包する.そしてその直観は,そこに含まれ
る重要性を開示するために,解釈を通じて,自己の主体的「分節化
(articulation)」を伴うはずである.というのも,恥や悔恨といった主体
言及的感情は,自分がなにか誤った行為をしたという感覚がなければ存立し
えないからである.そこには,なんらかの正誤や善悪の判断がすでに組み込
まれており,そしてその判断には,たとえば道ばたで血を流して倒れている
人をみつけたとき感じる感情において,「自己がどのような存在であるか」,
P17L23~
P18L17
P18
L18
~L29
つねに行為者の分節化による解釈を通して構成されているのである.
23
24
25
その分節化は,言語による分節化であるがゆえに,自己はその言語的営みに P11
L17
よって重要性の再定義とでも言うべき自己の理解,自己の経験の価値の転換
(transvaluation)をも遂げうるのであろう.そこでテイラーは意識革命を遂 ~L27
げた,ある黒人運動家の例を挙げている.その黒人運動家は以前は自らの人種
的文化背景に対して言語不明瞭な固執(obstinacy)の感情を抱いていたが,自
己解釈の徹底,すなわち〈black is beautiful〉という考え方によって,その
感情をむしろ不屈の拘り(tenacity)と再解釈することによって恥の意識を払
拭することに成功した.つまりそこでは,言語の分節化を徹底的に行うことに
よって,自己の重要性を再定義し,意識革命を遂げることができたのである
[PP1:69].こうした事例を通して,テイラーは,自己解釈をする人間につい
て,次のように定義している[PP1:74-75].
感情的生において,何が本当に彼にとって重要であるかという感覚,その目 P11
的についての感覚を含み[中略]その理解を問われる動物である.そして, L29~
何が重要であるかという感覚を語るように強いられているだけではなく,つ P12L1
ねに/すでに何らかの解釈のうちにあり,この事実によって人間として構成さ
れているのである.人間であるということは,問いに対する答えを生きるこ
と,つまり自己およびその目的の解釈を生きることなのである.
このようにテイラーの人間学において人間が自己解釈する動物であるという P12
のは,人間行為者がつねに,あるいはすでに重要性に関する言語的な分節化を L3
行うことによって,自己を構成する生きものであるという意味である.人間行 ~L13
為者は,自己の要求に対して反省的な評価をなしうるのみならず,その感情に
対しても構成的な解釈を行い,それによって自己のアイデンティティを作り出
していく主体でもある.テイラーの自己論において,強い評価が自己の要求へ
の反省的な評価をはかる能力であったとするならば,自己解釈は,自己の存在
に対する理解を構成する能力であろう.その場合,自己解釈は単に自己を理解
したり解釈したりするだけではなく,自己を構成し,変革する能力でもある.
そして,この自己変革という観点から,テイラーは独自の責任概念を導き出し
ている 3).
12
「人間であるとは何か」,という問いに対する行為者の自己理解が含まれて
いる.行為者の道徳的直観は,つねに行為者の分節化としての解釈によって
構成されているのである.
そしてその分節化は,言語による分節化であるゆえに,自己はその言語的
営みの徹底によって,「重要性の再定義革命」[Taylor 1985a:70]とでも言
うべき自己の理解, 自己の経験の「価値の転換(transvaluation)」をもな
し遂げうるだろう.たとえば,テイラーは,ある黒人運動家の意識革命につ
いて,次のように論じている.すなわち,その黒人運動家は,以前は自らの
人種的・文化的背景に対して言語不明瞭な「固執(obstinacy)」の感情を抱
いていたが,自己解釈の徹底,すなわち「ブラック・イズ・ビューティフル」
という考え方によって,その感情をむしろ「不屈の拘り(tenacity)」と再
解釈することに成功した.つまりそこにおいては,まさに言語的分節化の徹
底化によって,自己の重要性の再定義革命がなし遂げられたというのである
[Taylor 1985a:69].こうした事例を通じてテイラーは,自己解釈的動物と
しての人間について,次のように定義している.
それはその感情的生において,何が真に彼にとって重要であるかという
感覚,その目的についての感覚を含み……その理解を問われる動物なの
である.……そして,何が重要であるかという感覚を形成することは同
時に,彼がどう感じるかを形成する.[よって]……人間はそのつど自
己の目的を解釈するように強いられているだけではなく,つねに/すで
に何らかの解釈のうちにあり,この事実によって人間として構成されて
いるのである.人間であるということは.問いに対する答えを生きるこ
と,つまり自己およびその目的の解釈を生きることなのである
[Taylor1985a:74-75].
このように,テイラーの人間学における自己が自己解釈的動物であるのは,
人間行為者が,つねに/すでに,重要性の言語的分節化によって自己を構成
している動物であるからである.人間行為者は,自己の欲求に対して反省的
な評価をなしうるのみならず,その感情に対しでも構成的な解釈をおこない,
それによって自己のアイデンティティをつねに変革していく主体でもある.
テイラーの自己論において,「強い評価」が自己の欲求への反省的な評価を
おこなう能力を示すものであったとするならば,「自己解釈」は,自己の存
在に対する理解を構成する能力を示すものであると言えよう.またその場合,
自己解釈の能力は,単に自己を理解したり解釈したりするのでなく,さらに
自己自身を構成し,変革する能力でもある.そしてこの「自己変革」という
観点から,テイラーは独自の責任概念を導き出している.
P18
L30~
P19L9
P19
L11
~L18
P19
L20
~L30
26
27
28
29
P12
5.主体的存在責任
テイラーは,人間行為者が,自己解釈する動物であるという認識に基づいて, L17~
その解釈による分節化の営みが,自己をたえず変化させながら構成しているも P12L26
のと主張している.人間行為者にとって,自己とは所与のものではない.なぜ
なら,人は自己理解を試みる際に,たんなる描写を試みるのではなく,分節化
を営みながら形成していくからである.分節化とは,「もともと不完全であっ
たり,混乱していたり,誤って規定されていたものを定式化していく営みであ
り, [中略] ある種の分節化を行うことは,われわれが望むもの,われわ
れが重要だとみなすものの感覚を形成すること」でもある[PP1: 36].つまり
自己は,反省や解釈や評価におけるその主体的な自己解釈によって,自らの経
験それ自体をつねに再構成していくのである.
そしてテイラーによれば,自己の構成的な行為によって,ある種の主体とし
ての責任概念の可能性が現れる.自己解釈は,絶対的なものではありえず,つ
ねに行為者の反省や経験の深さや浅さによって変化する.そして時として,そ
の解釈自体が誤っていることも充分あり得る.それ故,自己解釈する動物とし
ての自己は,その自己の能力を十全に発揮するために,新たな自己の概念的革
新(innovation)に対して,開かれた姿勢を維持していかなければならない.
新たな洞察が自己の評価を変化させ,自らをより善くするということがつねに
可能である以上,われわれは責任を担うことになるのである[PP1:39].
その場合,自己解釈の責任は,時にはその評価の基準,あるいは自己のアイ
デンティティの根底にまでおよぶことがあるだろう.テイラーはそのような解
釈の次元を「根源的再評価(radical re-evaluation)」と呼んでいる.この根
源的再評価は,自己の既存の基準そのものを問い直し,さらにそれを変革する
ことである.自己解釈を行う自己は,その解釈と評価の徹底化としての根源的
再評価によって,既存のアイデンティティの定式化それ自体を問題視し,自己
自身を変革することができるのである.
P12
L27~
P13L1
P13
L2
~L8
以前に検討したように,テイラーの自己解釈的存在としての自己は,その言 P13
語分節化を徹底することによって重要性の再定義をなし遂げ,自己のアイデン L9~
ティティ自体を変革しうる存在でもある.このように,自己がその根源的再評 P13L14
価によってそのアイデンティティを変革しうることは,自己の評価のみならず,
自己のあり方そのものについても,責任を問いうることを意味することになる.
13
P21L31~
テイラーは人間行為者が「自己解釈的動物」であるという認識にもとづいて,
その解釈による分節化の営みが,自己をたえず変化させながら構成していく
と主張している.人間行為者にとって,「自己」とは所与のものではない.
なぜなら,人は自己理解を試みる際に,たんなる描写(description)を試み
るのではなく,分節化を営むからである.分節化とは,「もともと不完全で
あったり,混乱していたり,誤って規定されていたものを定式化する試みで
あり,……ある種の分節化をおこなうことは,われわれが望むもの,われわ
れが重要だとみなすものの感覚を形成すること」[Taylor 1985a:36]でもあ
る.つまり自己は,反省や解釈や評価において,決して所与のものとされる
のではなく,その主体的な自己解釈によって,自らの経験それ自体をつねに
(再)構成しているのである.
そしてテイラーによれば,自己の構成的な「行為」には,ある種の主体と
しての責任概念の可能性が出現する.自己解釈は.絶対的なものではありえ
ず,つねに行為者の反省や経験の深さや浅さによって変化する.そして時に
は,誤ることもある.それゆえ自己解釈的動物としての自己は,その自己の
能力を十全に発揮するために.新たな自己の「概念的革新(innovation)」
に対して,「開かれた姿勢」を維持しなければならない.「新たな洞察が自
己の評価を変化させ,自らをよりよくするということがつねに可能である以
上,われわれは『責任』を担うことになる」[Taylor 1985a:39]のである.
またその場合,自己解釈の責任は,時にはその評価の基準,あるいは,自
己のアイデンティティの根底にまでおよぶことがあるだろう.テイラーはそ
のような解釈の次元を,「根源的再評価(radical re-evaluation)」と呼ん
でいる.もちろんこれは,サルトルのいう根源的選択とは異なる概念である.
サルトルのいう根源的選択が「基準(criteria)なしに選択すること」であ
るとすれば,テイラーのいう根源的再評価は,自己の既存の基準そのものを
問い直し,さらにそれを変革することである.自己解釈をおこなう自己は,
その解釈と評価の徹底化としての根源的再評価によって,既存のアイデンテ
ィティの定式化それ自体を問題視し,自己自身を変革することができるだろ
う.
前節において検討したように,テイラーの自己解釈的存在としての自己は,
その言語的分節化の徹底化によって「重要性の再定義革命」をなし遂げ,自
己のアイデンティティ自体を変革しうる自己でもあった.このように,自己
がその根源的再評価によってそのアイデンティティを変革しうることは,自
己の評価のみならず,自己の在り方そのものに対しても,責任を問いうるこ
P22L9
P22
L10
~L17
P22
L18
~L26
P23
L27
~L32
30
31
32
33
この根源的再評価は,深い反省であり,そして特別な意味での自己反省であ P13
る.それは自己について,そして自己の最も根源的な問題についての反省で L16
あり,自己に対して最も全体的かつ深い反省である.それは固定された判断 ~L23
基準なしに自己の全体と関わる故に,人格的な反省と呼びうるであろう.
[中
略]その反省においては強い意味での自己分析が出現する.その反省におい
ては,自己そのものが問題になっているからである.その自己分析は,われ
われが行うものであることから,その自己分析を行う時,我々は自己自身に
対して責任を負う存在であるといえるだろう[PP1:42].
このようにテイラーによると,人間は根源的再評価によって自己のアイデン
ティティを変革する能力をもつ以上,自己の行為の帰結だけではなく,自己に
対する評価,さらには自己のあり方それ自体についても,主体的な責任を負う
のである.この考え方は,近代的な自己の概念を乗り越えて,そこにまた別の
意味での近代的な責任概念を加えたものであるとみなすことができる
[PP1:39].
前近代的な自己においては,自己の価値やアイデンティティは,基本的に彼
が属する社会秩序や権威,宗教的理念など外在的なものによってその大部分を
規定されており,厳密にはそれがその人自身の価値やアイデンティティではな
かった.それゆえに,その人に自らその価値や評価について全面的な責任をも
とめることはできなかった.これに対して,社会的秩序について一定の反省的
な意識を持つことが求められる近代的自己においては,その人の価値やアイデ
ンティティはその人自身の自己に内在する独自の価値であり,またそうである
べきだからこそ,その人自身にその責任も求めうることになる.ただしテイラ
ーは,その責任は,自己が自己自身の価値を選択したから生じるものである,
とみなすのは誤りで,自己が責任主体たりうるのは,自己が絶え間なく自己解
釈によって,自己の価値と自己のアイデンティティを構成しているからである,
としている.
以上,多様な善に裏づけられた人間存在を説明するために,テイラー特有の
自己概念である強い評価,自己解釈する動物,主体的存在責任という三つの概
念について検討してきた 4).テイラーの人間学における自己概念は,「単純に
考量する者」としてのみ現れる現代リベラリズムの自己や,あるいは,たんに
根源的選択を行う主体としての原子論的な個人では決してない[PP2:
187-210].それは第一に,自己の要求それ自体を質的に評価し分節化し,自ら
の主体としてのあり方に反省を加えることによって,自己の内的深みを獲得し
P13
L25
~L29
P13
L30~
P14L8
P14
L9
~L27
14
とを意味することになる.
この根源的再評価は,深い反省であり,そして特別な意味での自己反省
である.それは自己について,そして自己の最も根源的な問題について
の反省であり,自己に対して最も全体的かつ深い反省である.それは固
定された判断基準(yardstick)なしに自己の全体と関わるゆえに,人格
的な反省と呼びうるだろう.……その反省においては, 強い意味での自
己-分析が出現する.なぜならその反省においては,自己そのものが問題
になっているからである.この自己分析は,われわれがおこなうもので
あるゆえに,その自己分析をおこなうとき,われわれは自己白身に対し
て責任を負うといえるだろう [Taylor 1985a:42].
このようにテイラーは,人間は,根源的再評価によって自己のアイデンテ
ィティを変革する能力をもつ以上,自己の行為の帰結だけでなく,自己に対
する評価,さらには自己の在り方それ自身に対しても,主体的な責任を負う
と主張する.この考え方は,近代的な自己の概念を乗り越えて,そこに別の
意味での「近代的」な責任概念 [Taylor1985a:39]を加えたものであるとい
えるだろう.
テイラーによれば前近代的な自己においては,自己の価値やアイデンティテ
ィは基本的に彼が属する社会的秩序や権威,宗教的理念など自己にとって外
在的なものによってその大部分が規定されており,厳密にはそれが「彼自身
の」価値やアイデンティティではなかったゆえに,彼にその価値や評価につ
いての全面的な責任を求めることができなかった.これに対して,そのよう
な社会的秩序に対して一定の反省的な意識をもつことが求められる近代的自
己においては,彼の価値やアイデンティティは,その自己に内在的な独自の価
値であり,またそうであるべきゆえに,彼にその責任をも求めうることとな
る.ただしテイラーによれば,その責任は,自己が自己自身の価値を選択し
たから生じる,とみなすのは誤りである.自己が責任主体たりうるのは,自
己が絶え間ない自己解釈によって,自己の価値とアイデンティティを構成し
ているからなのである 18.
以上,強い評価,自己解釈,および自己の責任概念という三つの論点につ
いて検討してきた 19.テイラーの人間学における自己概念は,「単に考量す
る者」としてのみ現れる現代リベラリズムの自己や,あるいは,たんなる根
源的選択の主体としての「原子論的な(atomistic)」[Taylor 1985b:187-210]
「個人」では決してない.それは第一に,自己の欲求それ自体を質的に評価・
分節化し,自らの主体としての在り方に反省を加えることによって,自己の
内的な深みを獲得しうる「強い評価者」である.そして第二に,それは重要
P23
L1
~L9
P23
L11
~L16
P23
L16
~L27
P24
L1
~L16
34
35
36
うる「強い評価者」である.そして,第二に,それは「重要性」についての分
節化によって,自己の要求を反省的に評価し,またそこに含まれた主体言及的
感情に対して構成的な解釈を行い,それによって自己のアイデンティティをつ
ねに変革してゆく,「自己解釈する存在」である.さらに第三に,自己解釈の
徹底化としての「根源的再評価」によって,自己の行為にのみならず,自己の
あり方そのものに対する評価や責任を引き受けていく存在である.このように,
テイラーの人間学における自己概念は,自己を道徳の言語によって構成されて
いく存在とみなす点において,行為者あるいは,人格といいうることができる
[PP1:97-114].その意味でテイラーの人間観あるいは自己論は,特殊な用語
として「個人主義的」であると特徴づけることができるのである.
次に,私たちは,とくにテイラーの道徳哲学における,その自己論の核を成
す「真正さ」の倫理について考察を深めていきたい.
6.「真正さ」の倫理(Ethics of authenticity)
テイラーの思想は,「全体論的個人主義(holistic individualism)」と言
われるが,サンデル(Michael Sandel, 1953 -)やマッキンタイア
(AlasdairMaclntyre, 1929 -),ウォルツァー(Michael Walzer, 1935 -)
らとともに「コミュニタリアン(communitarian)」として分類され,近代個人
主義に批判的であるとされている.テイラー自身も個人主義全般に否定的では
ないにしても,「ある種」の個人主義,その「アトミスティックでナルシステ
ィック」な形態に関しては,きわめて批判的である 5).とくに彼のアトミズム
批判は,彼のコミュニタリアニズムとしての立場を確固たるものにし,また
1970 年代に起きたリベラル−コミュニタリアン論争においてもテイラーの自己
論が中心的な役割を果たしている.
ここで,「真正さ」の倫理について検討する前に,その論争について触れて
おきたい.コミュニタリアンにとってリベラル批判の最大の争点は,「自己
(self)」の問題についてであったことはよく知られている.リベラル−コミュ
ニタリアン論争が始まったとされるマイケル・サンデルの著書『自由主義と正
義の限界 : Liberalism and the limits of Justice』は,ロールズ(John
Rawls,1921 - 2002)の『正義論 : A Theory of Justice』における正義の第
二原理における自由概念と平等概念,分配的正義の正当性,原初状態の仮説の
妥当性を有効なものとするための,その前提となっている「自己」概念につい
て問題を呈したものである.その論点を整理しておきたい.
ロールズの議論の中心に「善に対する正義の優先性(priority of right over
good)」という考え方がある.サンデルによれば,このテーゼの正当性は,目
的に優先して与えられる自己の概念に依拠しており,そこでは自己が自律的な
性についての分節化によって, 自己の欲求を反省的に評価し,またその感情
に対して構成的な解釈をおこない,それによって自己のアイデンティティを
つねに変革してゆく「自己解釈的存在」である.さらに第三に,自己解釈の
徹底化としての根源的再評価によって,自己の行為のみならず,自己の在り
方そのものに対する評価や責任を引き受けていく存在である.このように,
テイラーの人間学における自己概念は,自己を道徳の言語によって構成され
るものとみなす点において,「行為者(agency)」あるいは「人格(person)」
[Taylor 1985a:97-114]とみなすことができる.その意味でテイラーの人間
観は,特殊な意味で「個人主義的」[SS:185-198]であると特徴づけること
ができるだろう.
P14L26~
次にわれわれは,テイラーの「倫理学」におけるその自己論について検討 P24L20~
L27
P21
してゆきたい.
P14
L29~
P15L7
P24L21~
テイラーは,上述したサンデルらとともに「コミユニタリアン」として分類 P25L2
され,近代・個人主義に批判的あるいは否定的であるとみなされている 20.
たしかにテイラー自身,近代の「ある種の」個人主義,その「アトミスティ
ックでナルシスティック」な形態に対しては,きわめて批判的である 21.と
くに彼のアトミズム批判[Taylor1985b:187-210]は,彼のコミュニタリアン
としての名声を与えたといってもよいだろう.
P15
P12L1~
L8
P12L6
~L16
リベラル-コミュニタリアン論争はここから始まったとされるサンデルの著
書『自由主義と正義の限界』(1982)は,ロールズ『正義論』における,正
義の二原理における自由概念と平等概念のバランスでも,分配的正義の正当
性でも,原初状態仮説の妥当性でもなく,まさにその「自己」概念の妥当性
を問題にしたものであった.サンデルの議論を簡潔に整理すると,次のよう
になるだろう.
P15
ロールズの正義論の中心的なテーゼの一つに,「善に対する正(権利)の P12
優先性(priority of right over good)」という考え方がある.サンデルに L7
よれば,このテーゼの正当性は,目的に優先して与えられる自己の概念に依 ~ L21
L17~
P16L2
15
37
38
39
もので,他に還元できない目的を越える尊厳の担い手として自己概念の境界が
あらかじめ設定され,その範囲内での欲望や要求が選択されるという自己が前
提とされている.こうした自己概念における反省は,行為者の要求だけに注視
する反省にとどまり,「自らがいかなる存在であるか」「自らのアイデンティ
ティはどのように形成されているか」といった自己の存在に対する深い次元と
本質的な善の概念についての反省には向かわれない.こうした自己は「性格も
道徳的深みもない自己=負荷なき自己(unencumbered self)」であり,サンデ
ルが捉えている社会や共同体のなかで経験的に養われた多様な善と深いアイデ
ンティティに裏づけられた自己とは対極にあるものである[LL:189-190].ロ
ールズの自己概念は,自己のアイデンティティの輪郭が予め目的に優先した自
己というかたちで固定化され,自己の反省も偶発的な選択の対象とそれへの要
求にとどまってしまう.サンデルによれば,ロールズ理論における自己は,要
望や要求の背後にある自己にまで,光を当てることはしないので,要求の主体
としての自己には到達できないものであり,それ故,十全な主体である自己の
アイデンティティにとって不可欠な,深い反省を不可能にする,というのであ
る[LL:260-261].
サンデルのロールズ批判は,その核心においてテイラーの哲学的人間学に多 P16
くを負っている.サンデルによれば,ロールズの自己概念は,強い評価の文脈 L3
に依存しない「負荷なき自己」であるのに対し,テイラーの自己概念は,強い ~L9
価値評価の文脈に「位置づけられた自己(situated self)」であり,同時に「自
己解釈的な自己」である.これをサンデルは支持しロールズ批判に援用したの
である.このことからも,サンデルのロールズ批判に始まるリベラル−コミュニ
タリアン論争の核心には,テイラーの自己論が据えられていることがわかる.
サンデルのいうロールズの前提としている「負荷なき自己」像は,テイラー
の批判するアトミズム的個人主義を生み出すものに他ならない.テイラーは,
近代的な個人主義の「すべての」形態を否定しているわけではない.とりわけ
その批判は,ナルシズムと快楽主義(hedonism)に向けられている.しかしも
う一つの個人主義,とくにロマン主義以降に出現した,自己の「真正さを追究
する倫理(ethics of authenticity)」に支えられた個人主義について擁護し,
彼の近代的個人主義を考える上での中心的論点になっている.
テイラーのいう自己の「真正さ」とは,より善い生き方とかより気高い生き
方とはどのようなものかという生のイメージを導き出す道徳理念の理想を表す
ものである.それぞれの独自の感情を自己の内面の自然(nature)として受け
とめ,それを表現することを通じて自己の探究,ないし解釈を深めていく姿勢
P16
L10
~L16
P16
L17~
P16L22
16
拠しており,そこでは自己の境界が前もって決定され,その範囲内で欲望や
欲求が選択される自己が前提とされている. しかし,そのような自己概念に
おける反省(reflection)は,行為者の欲求だけに注目するような反省にと
どまり,「自らがいかなる存在であるか」といった自己のアイデンティティ
の深い次元,自己にとって本質的な善の概念に関する反省がおこなわれるこ
とがない.そのような自己は,「まったく性格も,道徳的深みもない人格」
=「負荷なき自己」であり,それは「自由になるどころか,その権能が剥奪
されて」おり,その理論が本来目指していたはずの「自由になるための大望」
と矛盾している[Sandel 1982=1992:289-290].ロールズの自己概念におい
ては,自己のアイデンティティの輪郭が同定されており, 自己の反省は選択
の対象とそれへの欲求にしかおよばない.サンデルによれば,ロールズ理論
における自己は,十全な主体のアイデンティティにとって不可欠な,深い反
省を不可能にする,というのである.
サンデルのロールズ批判は,その核心において,テイラーの哲学的人間学に P13
多くを負っている.サンデルの言葉を用いれば,ロールズの自己概念は.強 L1
い価値評価の文脈に依存しない「負荷なき自己」であるのに対して,テイラ ~L8
ーの自己概念は,強い価値評価の文脈に「位置づけられた自己(situated
self)」である.そして後者の自己概念は,同時に「自己解釈的存在」とし
ての自己であり,サンデルによって積極的に支持されたのであった.サンデ
ルのロールズ批判に始まるリベラル-コミユニタリアン論争の核心には,テイ
ラーの自己論が据えられている.
P25
テイラーは,近代的な個人主義の「すべての」形態を否定しているわけでは L2
ない.むしろ,もう一つの個人主義,とくにロマン主義以降に出現した,自 ~L6
己の「真正さを追求する倫理(ethics of authenticity)」に支えられた個
人主義を擁護することこそ,彼の倫理学の中心的論点に他ならない.
後に第 5 章で詳しく検討するように,自己の「真正さ」とは,その「独自 P25
の」感情を自己の内面の「自然(nature)」として受けとめ,それを表現す L7
ることを通して自己の探求ないし解釈を深めていくような態度である.その ~L11
場合,自己は表現において「オリジナル」なものであるとされ,また「オリ
40
41
42
である.その場合,自己は表現において独自のものであり,またオリジナルな
ものでなければならないという意味で個人主義的なものなのである.
テイラーによれば,1960 年代以降の西欧社会において新しい個人主義の形 P16
態,すなわち自己実現の個人主義(the individualism of selffulfilment)が, L23
大きな影響力を持つようになった.「自己実現の個人主義」の文化においては, ~L29
個人は自身の自己実現を探究することが求められ,独自の感覚に基づいて自己
の生を発展させる権利をも持つとされる.そこでは,自己の内面的な表現が本
質的な価値として重視され,時には既存の文化や規範に対抗的な関係に置かれ
る.テイラーは,この広く共有された自己実現の個人主義の背景にある道徳理
念を「真正さ(authenticity)」の理念と呼んでいる[MEPR:28].
テイラーは一方で,この種の個人主義文化の進展が「近代の不安(malaise of P16
modernity)」の一つになっていることも指摘している.多くの論者が主張する L30~
ように,人々は寛容な文化と相対主義の浸透により個人主義の文化が自己を超 P17L9
越した意味の地平を否定してしまっている.これによって,個人の意味喪失を
招き,あるいは自己実現を確保する私的空間へと追いやることによって公共空
間における政治的自由の喪失を招いていると感じている.ところが,テイラー
はこの種の不安や懸念は,二つの点で誤りであるとみなしている.一つは,真
正さの個人主義は,単なる本能的な要求を全面肯定するものではない.それは
豊かで妥当な道徳理念 6) である.いま一つに,意味の喪失や政治的自由の喪失
といった近代社会の苦境は,その理念の十全な発展に付随した必然的副産物で
はない.むしろその理念の「没落」や「逸脱(aberration)」の形態が生み出
したものなのである.
第一の論点から検討していきたい.
テイラーはベル
(Daniel Bell, 1919-2011) P17
やラッシュ(Michael Lasch, 1956-)やブルーム(Allan Bloom, 1930-1992) L10
がいうように,自己実現の個人主義にはまったく道徳理念が存在していないか ~L21
のように主張する態度を批判する.それは,アレクシス・トクヴィル(Alexis
Toqueville, 1805-1859)が個人主義とエゴイズムを注意深く区別したように,
われわれは道徳理念としての個人主義とたんなる無道徳なアノミーとしての個
人主義を区別しなければならない[EA:125].真正さの個人主義は,道徳の理
念であり,それは単に外的な障害なしに自己の要求を満たすことを最大限に追
究するという意味での快楽主義やナルシズムでは決してない.
それはむしろ
『自
我の源泉』に描かれているように,人間の自己理解を西欧の歴史的考察の連続
的文節化と再構成を通じて生み出してきた,豊かな道徳理念なのである.
17
ジナル」なものでなければならないという意味において,個人的であるとみ
なされる.
テイラーによれば,とりわけ 1960 年代以降の西欧社会において,新しい個
人主義の形態,すなわち「自己実現の個人主義(the individualism of
selffulfilment)」が,大きな影響力を持つようになったという.「自己実
現の個人主義」の文化においては,個人は自身の自己実現を探究することが
求められ,独自の感覚にもとづいて自己の生を発展させる権利を持つ,とさ
れる.そこでは自己の内面的な表現が本質的な価値として重視され,自己は
時には既存の文化や規範に対抗的な関係におかれる 22.テイラーはこの広く
共有された自己実現の個人主義の背景にある道徳理念を,「真正さ
(authenticity)」の理念と名づけている.
しかしテイラーは同時に,この種の個人主義文化の進展が,「近代の不安
(malaise)」の一つにもなっていると主張する.ベル[Bel1976=1976],ラッ
シュ[Lasch1979=1981],あるいはブルーム[Bloom1988=1988]らが批判するよ
うに,多くの人々は,個人主義の文化というものが,自己を超越した意味の地
平を否定することによって,個人の意味喪失を招き,あるいは自己実現を確
保する私的空間へ撤退することによって公共空間における政治的自由の喪失
を招いている,と感じている.ところがテイラーは,この種の不安や批判を
二つの点で誤りであるとみなしている.第一に,真正さの個人主義は,たん
なる本能的な欲求の全面的肯定などではない.それは豊かで妥当な「道徳理
念」23 である.第二に,意味喪失,政治的自由の喪失といった近代社会の苦
境は,その理念の十全な発展に付随した必然的副産物などではない.むしろ
それらは,その理念の「堕落」や「逸脱(aberration)」[PAP: 231]の形
態が生み出したものであるという.
第一の論点から見てゆこう.テイラーは,ベルやラッシュ,ブルームとい
った多くの批判者が,自己実現の個人主義にはまったく道徳理念が存在しな
いかのように批判する点で誤っていると主張する.トクヴィルが個人主義と
エゴイズムを注意深く区別したように,われわれは道徳理念としての個人主
義と,たんなる「無道徳(a-moral)」な「アノミー」としての個人主義を区
別しなければならない[EA:125].真正さの個人主義は道徳の理念であり,
それはたんに,外的な障害なしに自己の原初的な欲求充足を最大限に追求す
るという意味での「快楽主義(hedonism)」[Bell 1976=1976]や「ナルシ
シズム」[Lasch 1979=1981]などでは決してない.むしろそれは,『自己の
諸源泉』において描かれたように,人間の自己理解をめぐる西欧の歴史的思
考の連続的な分節化と再構成によって生み出されてきた,豊かな道徳理念で
P25
L19
~L27
P26
L7
~L19
P26
L20
~P27L9
43
44
「真正さ」という倫理の思想史的起源は,18 世紀における個人主義,すなわ P17
ちデカルト的な「文脈から離脱した(disengaged)理性の個人主義」あるいは L22~
ロック的な「人格の保護を社会的な義務よりも優先させる政治的個人主義」に P18L1
ルーツをもちながら,それらとの対立関係のもとに,シャフツベリ(Anthony
Shaftesbury, 1671-1713)やハチソン(Francis Hutcheson, 1694-1746)らに
よって分節化されたものである.その理解によれば, それまで神や善のイデア
に触れることは,十全な人間存在になるために不可欠なことであったが,いま
やわれわれにとっての道徳的源泉は,われわれ内部の深み,わたし自身の奥底
にある.つまり人間は道徳的な感情をすでに与えられており,道徳性とは感情
と難く結びついた内面から発せられる「内なる声(voice within)」に潜在し
ているというのである[SS:248-265].ここにテイラーは「道徳的アクセント
の転換」があったと見ており,それは近代倫理文化の主観主義的転回とみなさ
れるものであり,新しいかたちの内面性にほかならない[MEPR: 28].
真正さの倫理は,この内なる声に耳を傾けることによって発展し,なすべき
正しいこととは何かについて道徳的に判断しわれわれに教えてくれる.そのな
かで道徳感情との触れ合いが重視されるのは,正しく行動するという目的のた
めの手段としてであったが,その触れ合い自体が次第に道徳的意義をもつよう
になると,道徳感情と触れ合うことで本当の人間,完全な人間になるための達
成すべき筋道につながっていくのである.
こうしてこの新しい道徳倫理の転回は, その後ルソー
(Jean-JacquesRousseau, 1712-1778)とヘルダー(Johann Gottfried von
Herder, 1744 -1803)によってはっきり表現され,二人に代表されるロマン主
義の「表現主義的転回(expressive turn)」によって決定的なものとなる[SS:
368-390].ルソーは,われわれの道徳的救済を自己との親密的な道徳的接触,
すなわち自然への回帰と自然への声によって人間存在における感情の回復をも
たらすことで取り戻されると考えた.ヘルダーは,さらにわれわれの一人一人
が,優れた人間性に到達するためのオリジナルな指針(yardstick)を所有して
いると考えた.こうしてロマン主義による表現主義的転回は,人間が単に内な
る深みをもつだけでなく,それぞれ独自の内なる道徳的な尺度をもつと主張と
したのである[SS:375].
ある(第 5 章参照) .
テイラーによれば,「真正さ」という理念の思想史的起源は,18 世紀にお P27
ける個人主義,すなわち,デカルト的な「文脈から離脱した(disengaged) L10
理性の個人主義」,あるいは,ロック的な「人格の保護を社会的な義務より ~L27
も優先させる政治的個人主義」にそのルーツをもちながら,しかし,それら
との対立関係のもとに,シャフツベリやハチソンなどによって分節化された
ものである.その理解によれば,人間は,道徳感覚についての直覚的な感情
をすでに与えられており,道徳性は,感情に根ざした「内なる声(voice
within)」[SS:248-265]によって与えられるという.そしてここに.テイ
ラーは「道徳的アクセントの転換」[Taylor 1994a:28]を見出している.
ここで何が新しいのかを知るために以前の道徳観との比較を試みてみよ
う.それ以前の道徳観においては,たとえば神や善のイデアといったな
んらかの源泉に触れていることは.十全な存在になるために本質的なこ
とだと考えられていた.しかしいまやわれわれが接触していなければな
らない源泉は,われわれの内部の深みにある. この事実は,内面性の新
しい形態への近代文化の大規模な主観性への転回の一部をなしており.
またそこにおいてわれわれは,自己を内なる深みをもった存在として考
えるようになっている[Taylor1994a:29].
P18
L2
~L7
P18
L8~
P18L18
18
近代におけるこうした道徳観の転向は,さらに,ルソーとへルダーに代表 P27
されるロマン主義の「表現主義的転回(express turn)」[SS:368-390]に L29
よって決定的なものとなる.ルソーは,われわれの道徳的救済を,自己との ~P28L4
親密な道徳的接触.すなわち,「存在の感情」の回復によってもたらされる
と考えた. ヘルダーはさらに,われわれの一人一人が,すぐれた人間性に到
達するためのオリジナルな指針(yardstick)を所有していると考えた.こう
してロマン主義による表現主義的転回は,人間が単に「内なる深み」をもつ
だけでなく,それぞれ独自の内なる道徳的な「尺度(measure)」をもつと主
張したのであった.
(書籍引用略)[SS:375]
45
46
47
テイラーによれば,この真正さの倫理は,フンボルト(Wilhelm
Humboldt,1767-1835)やコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge, 1772 -
1834)の影響を受け,距離を置いた科学的な功利主義を人間的な成長と充足と
いう表現主義的な概念に結び合わせたミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)
によって発展し,われわれの道徳意識においても広く共有されると同時に,深
部に潜在(burrow)しているのである.道徳的理性の様々な基準によってます
ます営まれることになった文明に生きる人間の私的な生と,個人の充足という
ロマン主義の考えとを統合しようとする広く見られた試みの一つのあり方が,
ミルの作り上げた道徳理念には示されている.テイラーは,真正さの倫理の現
代的状況について,次のように述べている[EA:29].
自己に忠実であるということは,わたしだけの自己のあり方に忠実であるこ
とを意味し,そこでは,わたしだけが自己をはっきりと表現し,発見できるも
のだとされる.自己のあり方を明確に表現するなかで,わたしはまた自己を定
義づけを行ってもいるのであり,わたしは他の誰でもない自己だけの可能性を
表現しているということになる.これが真正さという近代の理想であり,自己
達成や自己実現という目標の背景をなす理解である.これが真正さの文化であ
り,その最も堕落した,馬鹿げた,あるいは陳腐化された形態にまで道徳的な
力を与えてしまっている背景である.「独自のことをしなさい(doing your own
thing)」や「自分自身の実現すべきことを見いだしなさい(finding your own
fulfillment)」といった言葉が意味をもつのも,そのためなのである.
こうして近代的な自己の理念は,真正さの倫理の探究を通じて,われわれの
日常生活に入り込むようになった.そして,このような探究と分節化の長い歴
史を経て構成されてきた真正さの倫理を,テイラーは「真に信奉する価値ある
理念」であるという[EA:73].なぜなら,「過去二世紀にわたるその理念を分
節化することによって,西洋文化は人間の生の重要な潜在的可能性の一つを同
定してきた. [中略] それはわれわれに〈可能性として〉より充実し,差
異化された生を生きることを可能にし, [中略] より豊かな存在形態を可
能にし」[EA: 74]てきたからである.われわれは,われわれのアイデンティ
ティに深く入り込んでいるこの理念を容易に手放すわけにはいかないし,また
そうすべきでもない.むしろ知性よりも感性に訴え,的外れの議論や自己中心
的な形態にまで引きずり下ろすあらゆる要因からその理念を擁護し,没落した
形態と区別することによって,その理念の十全な実践を助けなければならない,
とテイラーは主張するのである.われわれは,ここにテイラーの自己論が個人
主義的である,最大の論拠を見いだすのである.
P18
L19
~L28
テイラーによれば,この真正さの理念は,その後のロマン主義, とくにフ P28
L20
ンボルトの影響を強く受けたミルのリベラリズムにおいてさらに発展し
[Taylor1994a:30],現代人においても広く共有されると同時に,われわれ ~L24
の道徳意識の深部に「潜在(burrow)」しているという.テイラーは「真正
さ」の倫理の現代的形態について,次のように述べている
自己に真実であることは,私だけが分節化し発見することができる,自身
L29~P19
のオリジナリティに対して真実であることを意味する.それを分節化する
L7
ことによって,わたしはまた自己を定義する.わたしは,まったく私独自
のものである潜在的可能性を実現する.これが,近代の真正さの理念,そ
してその理念の日常的な表現としての自己充足や自己実現の目的の背景理
解である.これは真正さの文化,その最も堕落し馬鹿げた,あるいは些末
な形態にまでも,道徳的な力を与えている背景である.それは,「独自の
ことをせよ(doingyour own thing)」や「自分自身の実現すべきことを見
出しなさい(finding your own fulfillment)」といった理念にまで,意
味を与えるものなのである [EA:29].
P19
こうして近代的な「自己」の理念は,歴史的には「真正さの倫理」の探究を
L9
通じて,われわれの日常生活における道徳的意識を規定するようになったと
~L22
いえるだろう.そしてテイラーは,このような探究と分節化の長い歴史を経
て構成されてきた真正さの倫理を,「真に信奉する価値ある理念」[EA:73]
であるとみなしている.なぜなら,「この二世紀にわたってその理念を分節
化することによって,西洋文明は人間の生の重要な潜在的可能性の一つを同
定してきた.……それはわれわれに,(可能性として)より充実し差異化され
た生を生きることを可能にし,……より豊かな存在形態を可能にし[EA: 74]
てきたからである.われわれは,われわれのアイデンティティ深くに保持し
ているその理念を容易に放棄することはできないしまたすべきでもない.む
しろ,その理念を的外れの批判から擁護し,また堕落した形態から区別する
ことによって,その理念の十全な実現を助けねばならない,とテイラーは主
張するのである.
われわれはここに,テイラーの自己論が個人主義的である第二の,そして
最大の論拠を見出す.
P18
19
P28
L26~P29
L3
P29
L5
~L19
48
49
50
テイラー自己論は,独立した個人として自己を内的に評価し,解釈すること P19
によって自己を構成してゆく個人の高度な能力を認めることにおいて個人主義 L23~P20
的であるばかりでなく,同時に,「自己の内なる声」に耳を傾け,その声に従 L3
うことで自己の内部に尺度を見いだし,自己実現に向かう独自の生を求める点
において,倫理的次元における近代個人主義の一形態を支持しているのである
7)
.一方で,彼は,ベラー(Robert Bellah, 1927-2013)やマッキンタイアと
同じく,ある種の個人主義が「近代の不安」を引き起こしていると批判する[EA:
1-12].その個人主義とは,自己の要求や要望を超越する地平を否定すること
によって自己を私的空間に押し込めてしまい,その生の意味を喪失させてしま
うような個人主義で,テイラーはこれを「主観主義(subjectivism)」と呼ん
でいる.その典型はナルシスティンクないしはアトミスティックな生き方であ
り,自己の原初的・本能的な要求を越えた意味や評価の地平を否定するラディ
カルな人間中心主義であり,また他者との絆の必要性を否定し,それを純粋に
道具的なものとみなす考えである[EA:55-69].
主観主義の生き方は,自己の生の意味を公共空間において見いだすことがで P20
きず,それゆえ公共空間から撤退してしまう.しかしその撤退は,結果として L4
政治的活動の自由を放棄し,柔和な専制(soft despotism)招くだろう,とテ ~L10
イラーは警鐘を鳴らす.もともと主観主義は,真正さの理念からその道徳的な
力を得ていたに違いない.しかしそれは,極めて誤謬であるだけでなく,真正
さの理念という「善なる精神的希求」に便乗(piggy-back)しているという意
味において,個人主義の逸脱形態であるとテイラーは述べている[PAP: 231].
テイラーはまた,自己は一定の社会的条件と他者との関係性のなかでのみ構 P20
成されるものであり,真正さの倫理においても個人は,その社会的条件から逃 L11
~L21
れることはできないと強調している.その条件を「超越論的条件
(transcendental conditions)」と呼んでいる[SS:32].私たちは,もしそ
の超越論的条件を認めないで「自己の内なる声」のみに耳を傾けるならば,そ
れは単なるナルシズム的,アトミズム的な主観主義に陥ることになるだろう.
こうした主観主義的な個人主義の形態においては,超越論的条件が隠蔽,忘却,
否定されることによって,道徳的意味の問題が主題化されないことになる.自
己の内的真正さを追求する個人主義は,自己に外在する規範に対して無反省に
追随することがないようすにするために,時にはこのような「主観主義へスラ
イド」[EA:55-69]することもやむをえないのかもしれない.
20
彼の自己論は,独立した個人として,自己を内的に評価し,解釈することに
よって自己を構成してゆく個人の高度な能力を認めることにおいて個人主義
的であるばかりでなく,同時に, 「自己の内なる声」に耳を傾け,自己の内
部に尺度を見出し,自己実現に値するオリジナルな生を求める点において,
倫理的次元における近代個人主義の一形態を支持しているのである 24.
もちろんテイラーは,すべての個人主義を肯定しているわけではない.む
しろ彼は,ベラーやマッキンタイアと同様に,ある種の個人主義が「近代の
不安 (malaise of modernity)」[EA:1-12]を引き起こしていると批判す
る.その個人主義とは,自己の欲望を超越する意味の地平を否定することに
よって,その生の意味を喪失してしまうような個人主義であり,テイラーは
これを「主観主義(subjectivism)」と呼んでいる.主観主義とは,「ナルシ
スティック(narcissitic) 」で「アトミスティック(atomistic)」な生き方の
理念であり,それは,自己の原初的・本能的な欲求を超えた意味や評価の地
平を否定するラディカルな人間中心主義であり,また,他者との絆の必然性
を否定し,それを純粋に道具的なものとみなす見解である [EA:55-69].
主観主義の生き方は,自己の生の意味を公共空間において見出すことがで
きず,それゆえ公共空聞から撤退してしまう.しかしその撤退は,結果とし
て政治的活動の自由を放棄し 「柔和な専制 (softdespotism)」 を招来する
だろう, とテイラーは警告する [EA:1-12].もともと「主観主義」は,「真
正さ」の理念からその道徳的な力を得ていたに違いない.しかしそれは,
「き
わめて誤謬である」だけでなく,真正さの理念という「善なる精神的希求」
に「便乗(piggy-back)」しているという意味において,個人主義の逸脱形態
であるとテイラーは述べている[PAP:231].
テイラーはまた,自己は,一定の社会的条件,他者との関係性の中でのみ
構成されるのであり,真正さの倫理においても個人はその社会的条件から逃
れることはできない,と強調する.テイラーはその条件を, 自己の「超越論
的条件 (transcendentalconditions)」 [SS:32]呼ぶ.われわれがもし「超
越論的条件」を参照しないで「自己の内なる声」に耳を傾けるならば,それ
はたんに,ナルシシズム的,アトミズム的な主観主義に陥ることになるだろ
う.こうした主観主義的な個人主義の形態においては超越論的条件が隠蔽・
忘却・否定される結果として,道徳的意味の問題が主題化されないことにな
る.自己の内的な真正さを追求する個人主義は,自己に外在的な規範に対し
て無反省に追随することを否定するために時にこのような「主観主義へスラ
イド」すること[EA:55-69]は,ある種の必然的な帰結であったのかもしれ
ない.
P29
L19~P30
L3
P30
L4
~L11
P30
L12
~L22
51
52
53
しかし,十全な個人主義を擁護しようとするテイラーは,現代文化と現代哲
学におけるナルシズム的,アトミズム的傾向を激しく批判し,十全な自己を可
能にする超越的条件を執拗に論じるのである.その批判は同時に,彼の自己論
における強い評価あるいは自己解釈的存在としての自己が成立するための社会
的条件を引き出すことにも通じるのである.個人の所与の本能的な要求のみを
追求し,言語的分節化によって,自己を解釈し構成することを忘却する主観主
義は,彼の人間学における「強い評価」「自己解釈する動物」としての人間本
来の能力をも否定してしまう.それでは自己の要求を超えた人間存在の意味や
自己評価の地平,あるいは他者との関係性を否定するナルシシズム的でアトミ
スティックな主観主義は,自己が十全な自己となるための条件を確保すること
ができないのである.
では,そうした主観主義へ陥らないためにはどうしたらよいのであろうか.
そこで道徳空間のなかで善を規定し,自己を善的存在へと導き裏づける背景像
としての道徳的フレームワークとアイデンティティについてみていきたい.
テイラーの人間学における自己は,まずはじめに自己の要求に対して,ある
いは自己の行為主体としてのあり方に対して,質的な区別を行い評価する「強
い評価者」であった.この強い評価者は,自己の本質に関わるもの,自己にと
って「比類なくより高次な(incomparably higher)」[SS:19]ものを基準と
して,自己の振る舞いに対する評価を行う.また自己は,時にはその基準さえ
も評価の対象とするような自身に対する「根源的再評価」をすることさえ可能
である.つまりここでいう強い評価とは,「自己の要求,傾向,選択によって
正当化される区別ではなく,むしろそれらから独立して,それらを判断する際
の基準を提供するような正誤,善悪,高低の区別」[SS:4]である.そしてそ
の基準(standard)が「比類なく高次」であるというのは,それが単に比較し
てより一層望ましいというのではなく,他の基準によっては計測できず,むし
ろ「われわれに畏敬,敬意,賞賛を命ずる」[SS:20]という点で,全体的な評
価を与えているのである.テイラーはそのような比類なく高次な基準を「善
(good)」と呼んでいる.「われわれに畏敬を命ずる善は,同時にある意味で,
われわれにとって基準として機能しなければならない」[SS:20].そしてその
種の善が基準として機能する判断こそ,強い評価となるのである.
P20
L22
~L32
しかしその十全な個人主義を擁護しようとするテイラーは,現代文化と現 P30
代哲学におけるナルシシズム的,アトミズム的傾向を激しく批判し十全な自 L23
己を可能にする超越論的条件を執拗に論ずるのである.その批判は同時に, ~L32
彼の人間学における強い評価者,あるいは自己解釈的存在としての自己が成
立するための,社会的条件を擁護することでもある.個人の所与の本能的な
欲望のみを追求し言語的分節化によって自己を解釈し構成することを忘却す
る主観主義は, 彼の人間学における,「強い評価者」,「自己解釈的存在」
としての人間の本来的能力をも否定してしまう.自己の欲求を超えた意味や
評価の地平,あるいは他者との関係を否定するナルシシズム的でアトミステ
ィックな主観主義は,自己が十全な自己となるための条件を確保することが
できないのである.
P20
L33~P21
L2
P21
L7
~L22
道徳的基準としての善は,同時に,自己解釈を行う際の基盤でもある.すな P21
21
テイラーの人間学における自己は自己の欲求に対して,あるいは自己の主
体としてのあり方に対して.質的な区別をおこなう「強い評価者」であった.
ここで「強い評価者」の特徴について.さらに詳しく検討してみよう.
テイラーによれば, 「単に考量する者」が量的な欲求充足や感覚的判断に
もとづいて振る舞うのに対して.「強い評価者」は,自己の生の本質に関わ
るもの, 自己にとって「比類なく高次な(incomparably higher)」[SS:19]
ものを基準として.自己の振る舞いに対する評価をおこなう.また自己は,
時にはその基準さえも評価の対象とするような,自身に対する「根源的な再
評価」をすることができる,とテイラーはいう.ここで「強い評価」とは,
「自己の欲求,傾向,選択によって正当化される区別ではなく.むしろそれ
らから独立して,それらを判断する際の基準を提供するような,正誤,善悪,
高低の区別」[SS:4] である.そしてその「基準(standard)」が「比類な
く高次」であるというのは,それが単に,他と比較してよりいっそう(more)
望ましいというのでなく,他の基準によっては計測できず,むしろ「われわ
れに畏敬,敬意,賞賛を命ずる」[SS:20] という点で,絶対的な評価を与
えるからである.テイラーは,そのような比類なく高次の基準を,
「善(good)」
と呼んでいる.「われわれに畏敬を命ずる善は,同時にある意味で,われわ
れにとって基準として機能しなければならない」 [SS:20].そしてある種の
「善」が「基準」として機能する判断こそ,「強い評価」となる.というわけ
である.
道徳的基準としての「善」は,同時に,自己解釈の基盤でもある.すなわ
P33
L24~P34
L10
P34
54
55
56
わちそれは,行為者自身が自己を解釈することによって自己の道徳的直観や反
応を「意味づける(make sense)」ものでもある.例えば,先の例で道ばたで
倒れている人を見たとき,その人に対して助けの手を差し伸べねばならないと
感じる際の「自己の直観的感情」は,自己のもつ善の感覚であり,人格の道徳
的直観に呼びかけられた,ある種の「要求(demand)」である.この種の道徳
的直観は,本能的な直観とは存在論的に異なり,行為者による道徳的評価の分
節化や解釈によって構成されるだけでなく,そこには善に対する自己の理解が
内包している.そしてそのような善の理解によって,道徳的評価が方向づけら
れたことになる.テイラーは,そうした道徳的判断や直観の基準としての善を
規定するものとして,自己の「フレームワーク」を考えている.
フレームワークは,本質的な一連の質的区別を内包している.そのような
フレームワークの中で考え,感じ,判断することは,ある行為,生の形態,
感情がもっと容易に手に入るものとは比較にならないほど高次であるとい
う感覚を携えて,我々が活動することを意味する.[中略]すなわち,他
より比類なく高次である,優位にある,という感覚を機能させることであ
る[SS:19].
言い換えれば,フレームワークは,行為者に対して強い評価を含む質的区別
を可能にする道徳的な「背景像(background picture)」を与えると同時に,
善への「方向づけ(orientation)」を可能にする「道徳的地図」を与えるので
ある.フレームワークは,行為者の存在論的な生のあり方にとって,本質的な
役割を果たしている.
テイラーによれば,一般的に道徳的思考というものは,ある種のフレームワ
ークを内包している 8).たとえば古代ギリシャにおいては,名誉の倫理が戦士
や市民の尊厳の背景理解を構成しており,そのフレームワークのなかでは,公
的空間での名声や栄光をある種の基準として,戦士や市民としての生が経済活
動に携わる私的な生より高次であるという質的区別がなされてきた.テイラー
はまた,近代社会においてはいわゆる「脱魔術化(disenchantment)」によっ
て,宇宙の秩序同様存在論的に堅固なものとみなされてきた古い地平が溶解し
ていき,この古代ギリシャの名誉の倫理,あるいはプラトンの善のイデアのよ
うな,その社会のすべての人に共有される確固たるフレームワークは存在しな
くなった[SS:26,305-320].近代においては全てのフレームワークは問題視さ
れ,可変的なものとしてのみ存在することができる.こうした事情からフレー
ムワークに依存しないで道徳的思考を展開しようとする―あるいは,フレーム
ワークを単なるオプションにすぎないとみなす―自然主義的な見解が生まれて
くることになる.しかしテイラーは,この種の還元的な見解に強く反発して,
L23
~L33
P22
L1
~L6
P22
L8
~L12
P22
L13
~L28
22
ちそれは,行為者の道徳的直観や反応を「意味づける(make sense)」 もの
でもある.たとえば,道ばたで倒れている人を見たとき,その人に対して助
けの手を差し伸べねばならないと感じる際の「自己の直感的感情」(第 1 章
第 2 節参照)は,自己のもつ善の感覚であり,人絡の道徳的直観に呼びかけ
られたある種の「要求(demand)」である.この種の道徳的直観は,本能的
な直観とは存在論的に異なり,行為者による道徳的評価の分節化(すなわち
解釈)によって構成されるだけでなく,そこには善に対する自己の理解が内
包されている.そしてそのような善の理解によって,道徳的判断が方向づけ
られることになる.テイラーは,そうした道徳的判断や直観の基準としての
「善」を規定するものを,自己の「フレイムワーク」と呼んでいる.
フレイムワークは,本質的な一連の質的区別を内包している.そのよう
なフレイムワークの中で考え,感じ,判断することは,ある行為,生の
形態,感情が……他より比類なく高次である,優位にある,という感覚
を機能させることである[SS:19].
L11
言いかえれば,フレイムワークは,行為者にたいして,強い評価を含む質
的区別を可能にする道徳的な「背景像(backgroundpicture) 」を与えると
同時に,善への「方向づけ(orientation)」を可能にする「道徳的地図」を
与えるのである.フレイムワークは,行為者の存在論的な生の在り方にとっ
て,本質的な役割を果たしている.
テイラーによれば,一般的に道徳的思考というものは,ある種のフレイム
ワークを内包している 25.たとえば古代ギリシアにおいては,名誉の倫理が
戦士や市民の尊厳の背景理解を構成しており,そのフレイムワークのなかで
は,公的空間での名声や栄光をある種の基準として,戦士や市民としての生
が経済活動に携わる私的な生より高次であるという質的区別がなされてい
た.テイラーはまた,近代社会においては,いわゆる「脱魔術化
(disenchantment)」によって,宇宙の秩序同様存在論的に堅固なものとみ
なされてきた古い地平が溶解してゆき,この古代ギリシアの名誉の倫理ある
いはプラトンの善のイデアのような,その社会すべての人に共有される確固
としたフレイムワークは存在しなくなったという[SS:26,305-320].近代に
おいては,すべてのフレイムワークは問題視され,可変的なものとしてのみ
存在することができる.こうした事情から,フレイムワークに依存しないで
道徳的思考を展開しようとする――あるいは,フレイムワークをたんなるオ
プションにすぎないとみなす――「自然主義的」な見解が生まれてくること
P34
~L21
P34
L23
~L26
L28
~L32
P35
L1
~L16
たとえ近代的な自己においても,ある種の道徳的フレームワークの存在が「不
可避(inescapable)」であると主張している.
57
58
59
になる.しかしテイラーは,この種の還元的な見解に強く反対して,たとえ
近代的な自己においても,ある種の道徳的フレイムワークの存在が「不可避
(inescapable)」であると主張している.
私は,フレームワークなしで生きることは,われわれにとって完全に不可能 P22
私は,フレイムワークなしで生きることは,われわれにとって完全に不 P35
である,という強いテーゼを擁護したい.別の言い方をすれば,われわれが L30~P23
可能である,という強いテーゼを擁護したい.別の言い方をすれば,わ L18
L8
その中で生を営み,かつ生に意味を与える地平は,こうした強い質的区別を
れわれがその中で生を営み,生に意味を与える地平は,こうした強力な ~L25
含まなければならない,ということである.さらにこのテーゼは,単に偶発
質的区別を含まねばならない,ということである.さらにこのことは,
的に真であるような,人間存在についての心理学的事実を提示するものでは
単に偶発的に真であるような,人間存在についての心理学的事実を意味
ない.そうだとすれば,いつの日か,例外的なあるいは新しいタイプの個人,
するのではない…….むしろこの主張は,このように強く質化された地
つまり〈距離を置いた〉対象化を行う超人が登場し,このテーゼが妥当しな
平に生きることが,人間行為者を構成するということであり,そうした
いことが判明することになるだろう.むしろこの主張は,このように強く質
制限の外に出ることは……損なわれない人間の人格性の外に出ることに
化された地平に囲まれてその内側で生きることが,人間行為者を主体的に構
等しい[SS:27].
成するということであり,そうした境界の外に出ることは [中略] 統合
的な人格のあり方,つまり傷ついていない人間の人格性と我々がみなすもの
から外れてしまったということに等しい[SS:27].
つまりテイラーによれば,確固たる存在論的地平が崩壊した近代においても, P23
つまりテイラーによれば,確固たる存在論的地平が崩壊した近代において P35
真正さの個人主義において,少なくともそれが十全なものとして表現されるた L10
も,真正さの個人主義においても,少なくともそれが十全なものとして実現 L27~P36
めには,自己を超える突然要求として立ち現れる「善」と,事物の意義を定義 ~L16
されるためには,自己を超える「要求」として立ち現れる「善」と,事物の L2
する地平としての「フレームワーク」が不可欠であるというのである.反対に,
意義を定義する地平としての「フレイムワーク」が不可欠であるというので
善とフレームワークを否定することは,真正さの個人主義の堕落した形態であ
ある.反対に,「善」と「フレイムワーク」を否定することは,真正さの個
る主観主義(subjectivism)を招くことになるとテイラーは警告している.
人主義の堕落した形態たる「主観主義(subjectivism)」を招くとテイラー
は警告する.
すでに検討したように,近代の真正さの個人主義とは,自己の内的かつ独自 P23
第 1 章第 4 節で検討したように,近代の真正さの個人主義とは,自己の内 P35
の真正さを追求し,オリジナルな人生を歩んでゆこうとする個人主義である. L17
的かつ独自の真正さを追求し,オリジナルな人生を実現してゆこうとする個 L3
~L15
その真正さの倫理は,自己に独自の方向づけ(orientation)を与え,それによ ~L29
人主義であった.その真正さの倫理は,自己に独自の「方向づけ
って生を構成することを要求するという意味で,たしかに自己言及性
(orientation)」を与え,それによって生を構成することを要求するという
(self-referential)な面を持っている[EA:81-82].しかしテイラーは,「行
意味で,たしかに「自己言及的(self-referential)」な側面をもっている
為の様式(manner)」における自己言及性と,「行為の中身(matter)」もし
[EA:81-82].しかしテイラーは,「仕方(manner)」における自己言及性
くは「内容(ontent)」における自己言及性を区別しなければならないという.
と,「問題(matter)」や「内容(content)」における自己言及性を区別し
真正さの倫理は,自己の内部に意義深い独自性(originality)を見出すことに
なければならないという.真正さの倫理は,自己の内部に意義深い独自性
よって自己を方向づける点で,その生の目的やあり方を支持する仕方に自己言
(originality)を見出すことによって自己を方向づける点で,その「仕方」
及的である.これに対して,日々の行為の事柄や内容に即して自己規定する場
において自己言及的である.これに対して,日々の行為の事柄や内容に即し
合,たとえば,事柄や内容が他者のそれと異なるという意味での「意義」(他
て自己を規定する場合,たとえば,事柄や内容が他者のそれと異なるという
者との差異)によって自己を方向づける場合には,そのような自己言及性は,
意味での「意義」(他者との差異)によって自己を方向づける場合には,そ
自己の真正さを破壊してしまうことになる.
のような自己言及性は,自己の真正さにとって破壊的となる.
23
60
61
62
63
たとえば一般に人は,自分がハンマークラヴィーアを特別な方法で演奏でき
ることに自己のオリジナリティを見出すことができるが,特別な背景―たとえ
ばその社会ではある数字が高貴とされているといった背景―がない限り,単に
3,732 本の髪の毛を持っていることやシベリア平原のどこかの木とぴったり同
じ背の高さに自己の真正さを見出すことはできない.なぜなら,前者は人間主
義的な卓越性の意義を持つのに対して,後者はそれを持たないからである.し
かし,真正さの主観主義的な解釈である行為の中身や内容の自己言及性におい
ては,自己は事物の意義をも独自に決定できるがゆえに,3,732 本の髪の毛を
もつことやシベリア平原の木と背の高さが同じであることを自己の真正なオリ
ジナリティとすることができる,ということになる.テイラーはこうした思考
を,
真正さの個人主義とは異なる
「価値の主観主義
(subjectivism about value)
」
[EA:36]と呼んで,厳しく批判する 9).
「価値の主観主義」とは,「事物それ自体によってではなく,人々が価値が
あると見なすから事物が価値をもつ」という思想であり,それは,現代のアト
ミスティックな文化において,「[前略](自己の)決定や単なる感情によっ
て,人々が何を意義あるものとするかを確定できる」[EA:36]という感覚によ
って表現されている.これをテイラーは,率直に「狂っている(crazy)」[EA:
36]と批判する.なぜなら,たとえば「温かい泥の中でつま先を揺り動かすこ
とが,(心地よいゆえに)最も意義ある行為である」といったように,自己の
原初的な要求や感情によってのみ「意義」が決定されるとしたら,他者との真
正な差異を形成していたはずの意義は,
文字通り
「陳腐なもの
(insignificant)
」
となってしまうからである.
また,自己の選択によって意義が付与される,という考え方も誤りであると
いう.先に根源的選択論批判で検討したように,選択それ自体によって価値が
生み出される,ということはあり得ない.なぜなら,たとえばある人が特定の
アイスクリームを選んだからといって,そのアイスクリームに特別な意義が与
えられるわけではないからである.選択は,ある問題が他の問題より意義があ
るという質的区別によってのみ意味をなす.自己の選択自体に生の意義がある
という極端な感覚ですら,そこにはたとえば,自己創造の生を高貴なものとみ
なして,模倣の生を卑しいものとみなすという,質的に区別された背景像が既
に存在しているからであろう.つまり,「われわれが自己を意義深く定義しな
ければならないとするならば,われわれは,事物がそれに照らしてわれわれに
とって意義を帯びる地平を,抑圧したり否定したりすることができない」[EA:
37]のである.
真正さの個人主義は,それが意義ある十全な道徳的倫理である限り,自己に
P24
L30
~L8
P24
L9
~L18
P24
L19
~L30
P24
24
たとえば一般に,人は,自分がハンマークラヴィーアを特別な方法で演奏 P36
できることに自己のオリジナリティを見出すことができるが,特別な背景― L16
―たとえばその社会ではある数字が高貴とされているといった背景――がな ~L26
いかぎり,単に 3,732 本の髪の毛をもっていることに自己の真正さを見出す
ことはできない.なぜなら,前者は人間主義的な卓越性の意義をもつのに対
して,後者はそれをもたないからである.しかし,真正さの主観主義的な解
釈である内容の自己言及性においては,自己は事物の意義をも独自に決定で
きるがゆえに,3,732 本の髪の毛をもつことを自己の真正なオリジナリティ
とすることができる, ということなる.テイラーは,こうした思考を,真正
さの個人主義とは異なる「価値の主観主義(subjectivism about value)」
[EA:36] と呼んで,厳しく批判する 26.
テイラーによれば,「価値の主観主義」とは,「事物それ自体によってで
はなく,人々が価値があるとみなすから事物が価値をもつ」という思想であ
り,それは,現代のアトミスティックな文化において,「……(自己の)決
定やたんなる感情によって,人々が何を意義あるものとするかを確定できる」
[EA:36] という感覚によって表現されている.これをテイラーは,率直に
「どうかしている(crazy)」[EA:36]と批判する.なぜなら,たとえば 「暖
かい泥の中でつま先を揺り動かすことが,[心地よいゆえに]最も意義ある行
為である」といったように,自己の原初的な欲求や感情によってのみ「意義」
が決定されるとしたら,他者との真正な差異を形成していたはずの意義は,
文字通り「些末なもの(insignificant)」となってしまうからである.
また.自己の選択によって意義が付与される, という考え方も誤りである
という.第 1 章第 3 節の根源的選択論批判において検討したように,選択そ
れ自体によって価値が生み出される, ということはありえない.なぜなら,
たとえばある人が特定のアイスクリームを選んだからといって,そのアイス
クリームに特別な意義が与えられるわけではないからである.選択は,ある
問題が他の問題より意義があるという質的区別によってのみ意味をなす.自
己の選択自体に生の意義があるという極端な感覚ですら,そこにはたとえば,
自己創造の生を高貴なものとみなして,模倣の生を卑しいとみなすという,
質的に区別された背景像が存在しているだろう.つまり,「われわれが自己
を意義深く定義しなければならないとするならば,われわれは,事物がそれ
に照らしてわれわれにとって意義を帯びる地平を,抑圧したり否定したりす
ることができない」[EA:37]のである.
真正さの個人主義は,それが意義ある十全な道徳的理念であるかぎり,自
P36
L27~P37
L6
P37
L7
~L18
P37
64
65
66
対して超越的な要求として現れる善や事物の意義を定義する意味の地平として
のフレームワークを必要としている.これに対して,価値の主観主義は,真正
さの理念の道徳倫理の条件自体を破壊し,その理念を単なるナルシズムへと逸
脱させてしまうのである.
人生の意味を追求し,自己を有意義な仕方で定義しようとする行為者は,重
要な問いの地平に生きなければならない.そして自己実現にひたすら邁進し
て社会や自然の要求と対立する現代文化の流儀,歴史を隠蔽し連帯の絆を見
えなくさせる現代文化の流儀では,どうにも自己破滅的にならざるを得ない.
こうした自己中心的でナルシスティックな現代文化のあり方は,事実,軽薄
で矮小である.それらはアラン・ブルームがいうように,「平板で偏狭」で
ある.しかしその理由は,それらが真正さの文化に属しているからではない.
むしろ,その必要条件に対立しているからである.自己を超えたところに由
来する要求に耳を塞ぐならば,ものごとが重要性をもつための条件を隠蔽す
ることになり,陳腐化を招くことになる.人々がこうした状況で道徳理念を
追求する限り,この自己引きこもりの状態は,自分で自分を愚かな状態に陥
らせてしまう.自己へと引きこもることで,理念を実現する条件,そのもと
でこそ理想が実現されうる条件をみすみす破壊してしまう.わたしは自己の
アイデンティティを,重要な事物の背景に照らして(against)のみ定義でき
るのであるが,しかし,歴史,自然,社会,連帯の要求などを考慮の対象か
ら外し,わたしが自己の内に見出すもの以外すべてを排除してしまうならば,
アイデンティティにとって重要な候補すべてを抹殺することになるだろう.
わたしは,歴史,自然の要求,友人の必要性,市民の義務,神の呼び声,こ
の秩序における何か,といったものが根本的に重要である(意味を
もつ(matter))世界に存在することによってはじめて,自己にとって陳腐
でないアイデンティティを,自分の力で定義することができる.真正さは,
自己を超えたものに由来する要求の敵ではない.それはそれらの要求を前提
に必要としているのである[EA:40-41].
では,いったい確固たる存在論的地平が溶解した近代世界において,そのた
めのフレームワークを獲得することは可能なのであろうか.テイラーは,それ
を「アイデンティティ(identity)」の問題として検証している.アイデンテ
ィティの問題とは一般に「わたしは誰か(Who am I ?)」という問いに対する
答えとして考察される問題であるが,それは単に,自己の名前や出自によって
答えられるものではない.
われわれが本当にこの問いに答えるためには,われわれにとって何が決定的
に重要であるかを理解しておかねばならない.自分が何者であるかを知るこ
L31~P25
L2
P25
L4
~L26
P25
L28
~L33
P26
L1
25
己に対して超越的な要求として現れる「善」や,事物の意義を定義する意味
の地平としての「フレイムワーク」を必要としている.これに対して価値の
主観主義は,真正さの理念の道徳理念としての条件自体を破壊し,その理念
をたんなるナルシシズムへと堕落させてしまう.
生の意義を求め,自己を意味深く定義しようとする行為者は.重要な問
いの地平に存在しなければならない[ナルシシズム的な]現代文化の形態
において自己破壊的なのは,社会や自然の要求に反抗して自己実現を中
心化することであり,それは歴史と連帯の緋を締め出してしまう.こう
した自己中心的で「ナルシスティック」な形態の行為者は,事実,軽薄
で矮小である.それらはアラン・ブルームがいうように,「平板で偏狭」
であるしかしその理由は,それらが真正さの文化に属しているからでは
ない.むしろ,その必要条件に対立しているからである.自己を超えた
ところに由来する要求を締め出すことは,間違いなく意義の条件を抑圧
し媛小化を招く。人々が道徳理念を探究しているかぎり,この自己閉鎖
は自己を無意味にしてしまう.それは理念が実現されうる条件を破壊し
てしまう.わたしは自己のアイデンテイティを,重要な事物の背景に照
らして(against)のみ定義できるのであるが,しかし歴史,自然,社会,
連帯の要求など,わたしが自己の内に見出すもの以外すべてを排除して
しまうならば,アイデンテイティにとって重要な候補すべてを抹殺する
ことになるだろう.わたしは,歴史,自然の要求,友人の必要性,市民
の義務,神の呼び声,この秩序における何か, といったものが根本的に
重要である(意味をもつ(matter))世界に存在することによってはじ
めて,自己にとって些末でないアイデンテイテイを定義することができ
る.真正さは,自己を超えたものに由来する要求の敵ではない.それは
それらの要求を必要としているのである [EA:40-41].
L9
ではいったい,確固たる存在論的地平が溶解した近代世界において,その
ためのフレイムワークを獲得することは可能なのであろうか.テイラーは,
それを「アイデンティティ(identity)」の問題として検討している.アイ
デンティティの問題とは一般に,「わたしは誰か(Who am I ?)」という問
いに対する答えとして考察される問題であるが,それはたんに,自己の名前
や出自によって答えられるものではない.むしろ
われわれにとってこの問いに答えることは,われわれにとって決定的に
重要であるものを理解することである.自分が誰かを知ることは, 自分
P38
~L23
P38
L1
~L21
L23
~L28
P38
L30~P39
とは,自分がどこに立っているのかを知ることである.わたしのアイデンテ ~L6
ィティは,フレームワークあるいは地平を提供するコミットメントと帰属に
よって定義される.言い換えると,わたしのアイデンティティは,わたしが
その内部において立場をとりうる地平なのである[SS:27].
67
68
がどこに立っているのかを知ることである.わたしのアイデンティティ
は,何が善いか,何が価値あるか……を,その中においてそのつど決定
するフレームや地平を提供する,コミットメントやアイデンティティ化
によって定義される.言い換えると,わたしのアイデンティティは,わ
たしがその内部において立場をとりうる地平なのである[SS:27].
P26
そしてテイラーは,このアイデンティティ・クライシスの問題を決定的に近
そしてテイラーは,このアイデンティティの問題を決定的に近代的な問題
代的な問題であると考えている.テイラーによれば,前近代社会においては, L8
であると考える.テイラーによれば,前近代社会においては,アイデンティ
アイデンティティの問題は存在しないというのも,前近代社会においては,自 ~L22
ティの問題は存在しない.というのも前近代社会においては,自己のアイデ
己のアイデンティティはその社会の階層的な秩序や宇宙論的な地平によって与
ンティティは,その社会の階層的秩序や宇宙論的な地平によって与えられ,
えられ,その意味で安定していたからである.前近代における問題は,社会的
その意味で安定していたからである.前近代における問題は,社会的な基準,
な基準,たとえば古代ギリシャの兵士における名誉の倫理に見合った生き方が
たとえば,古代ギリシアの兵士における名誉の倫理に見合った生き方ができ
できるかどうかであって,基準それ自体は問題にならなかった.前近代的な道
るかどうかであって,基準それ自体は問題にならなかった.近代的な道徳的
徳的地平における自己の「実存的苦境(existential predicament)」は,ルタ
地平における自己の「実存的苦境(existential predicament)」は.ルター
ー的な「咎め(condemnation)」への恐れ,すなわち,存在論的に堅固なフレ
的な「咎め(condemnation)」への恐れ,すなわち,存在論的に堅固なフレ
ームワークの絶対的な基準に自己を適合させることができないのではないかと
イムワークの絶対的な基準に自己を適合させることができないのではないか
いう恐れであった[SS:19].これに対して,近代社会における実存的苦境は,
という恐れであった.これに対して,近代社会における実存的苦境は.「意
「意味喪失(loss of meaning)」の状態に置かれることであり,精神的な輪郭
味喪失(loss of meaning) 」の状態に置かれることであり,精神的な輪郭を
を失って,為す価値のあることが何もなくなっていくことである.そしてこの
失って,なす価値のあることが何もなくなることである.そしてこの苦境は
苦境はまさに,アイデンティティ・クライシスの問題として,われわれの精神
まさに,「アイデンティティ・クライシス」の問題として,われわれの精神
的苦境を招いている[EA:10-12].
的苦境を規定している[SS:19].
こうした精神的苦境は,アイデンティティやフレームワークなしに克服する P26
こうした精神的苦境は,アイデンティティやフレイムワークなしに克服す
ことはできない.たしかに,近代におけるアイデンティティは,重層的で複合 L23~P27 ることはできない.たしかに,近代におけるアイデンティティは,重層的で
的なものとなっている.たとえば現代において多くの人々は,自己のアイデン L6
複合的なものとなっている.たとえば,現代において多くの人々は,自己の
ティティを単一のものとしてではなく,カソリックでケベック人,あるいはア
アイデンティティを,単一のものとしてではなく,カソリックでケベック人,
ナーキストでアルメニア人といったように,少なくとも一般的なものと特殊な
あるいはアナーキストでアルメニア人といったように,少なくとも一般的な
ものとの二つの組み合わせにおいて表現するようになっている[SS:28].また
ものと特殊なものとの二つの組み合わせにおいて表現するようになってい
近代においては,真正さの倫理に影響を受けて,「個人化ということが,自己
る.また近代においては,真正さの倫理に影響を受けて,「個人化というこ
を定義するという決定的なところにまで進んで」おり,自己のアイデンティテ
とが,自己を定義するという決定的なところにまで進んで」おり, 自己のア
ィは自分がそれを採用することによって,ある程度,自分のことを説明すると
イデンティティは「自分がそれを採用することによって,ある程度, 自分の
10)
いうことになっている .しかしテイラーによれば,近代において自己を定義
ことを説明するということになって」[Taylor 1996a:6]いる 27.しかしテ
するフレームワークは,既存のものを採用(adopt)することであって,発明
イラーによれば,近代において自己を定義するフレイムワークは,既存のも
(invent)するのではない.むしろアイデンティティ・クライシスの問題が存
のを「採用(adopt)」するのであって,個人がそれを「発明(invent)」す
在すること自体,アイデンティティやフレームワークの不可避性を証明してい
るわけではない.むしろアイデンティティ・クライシスの問題が存在するこ
るのであり,近代的自己もそのコミットメントやアイデンティティ化を失えば,
と自体,アイデンティティやフレイムワークの不可避性を証明しているので
事物が意義を帯びるフレームを失い,「道徳的空間の中での自己の位置づけ」
あり, 近代的自己もそのコミットメントやアイデンティティ化を失えば,事
26
L4
P39
L6
~L20
P39
L21~P40
L7
ができなくなってしまう.つまり,近代的自己があるアイデンティティを保持
しているということは,
69
70
71
物が意義を帯びるフレームを失い,「道徳的空間の中での方向づけ」ができ
なくなってしまう.つまり,近代的自己があるアイデンティティを保持して
いるということは,
単に彼らがその精神的見解やバックグラウンドに強い愛着をもっているとい P27
単にかれらがその精神的見解やバックグラウンドに強い愛着をもってい
うだけではない.むしろそれは,何が善であり,価値あるか [中略] と L9
るというだけではない. むしろ,それ[精神的見解やパックグラウンド]
~L15
いう問いに対して,彼らがどこに立つのかを,その中において決定しうるフ
は,何が善であり,価値あるか……という問いに対して,かれらがどこ
レームを提供する,ということである.逆に言えば,もしかれらがそのコミ
に立つのかを,その中において決定しうるフレームを提供する,という
ットメントやアイデンティティ化を失えば,問いの重要な領域において,彼
ことである.逆に言えば, もしかれらがそのコミットメントやアイデン
らにとって事物の意義が何であるかを知ることができず,彼らは途方に暮れ
ティティ化を失えば,問いの重要な領域において,かれらにとって事物
ることになるだろう[SS:27].
の意義が何であるかを知ることができず,かれらは途方に暮れることに
なるだろう[SS:27].
P27
その意味で,「わたしは誰か」という問いに対して,質的に区別されたフレ
その意味で,「わたしは誰か」という問いに対して,質的に区別されたフ
ームワークなしに答えられるとする自然主義の考え方は,誤りである.あるい L17
レイムワークなしに答えられるとする自然主義の考え方は,誤りである.あ
はまた,単なる欲望や原初的な好悪の感情のみによって自己のアイデンティテ ~L30
るいはまた,たんなる欲望や原初的な好感の感情のみによって自己のアイデ
ィを発明できるという「自然主義理論の想像上の行為者観は,怪物(monster)
ンティティを発明できるという「自然主義理論の想像上の行為者観は, 怪物
である」[SS:32].さらにフレームワークが「あたかも保育園の補助輪のよう
(monster)である」[SS:32].さらに,フレイムワークが「あたかも保育
に」,「個性の起源においてのみ意味をもち,完成された人格においては放置
園の三輪車のように」「個性の起源においてのみ意味をもち,完成された人
され,役に立たなくなる」という考えも誤りである,とテイラーはいう.前述
格においては放置され,役に立たなくなる」という考えも,誤りである, と
したように,テイラーによれば,近代アイデンティティの十全な定義には大き
テイラーはいう.前述したように,テイラーによれば, 近代アイデンティテ
く分けて二つの次元がある.一つは,一般的・普遍的なものであり,カソリッ
ィの十全な定義には,大きく分けて二つの次元がある.ひとつは一般的・普
クあるいはアナーキストといった「その人の精神的,道徳的事柄に対する立場」
遍的なものであり,カソリツクあるいはアナーキストといった「その人の精
を指すものである.もう一つは,特殊的なものであり,ケベック人あるいはア
神的,道徳的事柄に対する立場」さすものである.もう一つは特殊的なもの
ルメニア人といった「定義づける共同体への言及」を含むものである.
であり,ケベック人あるいはアルメニア人といった,「定義づける共同体へ
の言及」を含むものである.
P27
そしてこれらの二つは,「アイデンティティ形成の原初状況(original
そしてこれらの二つは「アイデンティテイ形成の原初状況(original
L31~P28
situation of identity-formation)」を構成しているばかりでなく,その後も,
situalion of identity-formation ) 」を構成しているばかりでなく,その
自己のアイデンティティを形成し続けていくとテイラーは考えている.しかし L13
後も,自己のアイデンティティを形成しつづけていくとテイラーは考える.
後者の次元のアイデンティティは,西洋文明における個人主義概念の発展に伴
しかし後者の次元のアイデンティティは,西洋文明における個人主義概念の
って閉ざされる傾向にある.というのも西洋近代の文明は,「特定の歴史的共
発展に伴って閉ざされる傾向にある.というのも西洋近代の文明は,「特殊
同体,出生と歴史に関わる所与の網の目」から離れることを促し,ときには要
な歴史的共同体, 誕生と歴史の所与の網の目」から離れることを奨励し,と
求さえしてきたのである.たとえば,ベラーと彼の共著者が『心の習慣』
[Bellah
きには要求してきたからである. たとえば, ベラーらの著書『心の習慣』
et al. 1985=1991]で描いているように,アメリカ合衆国のピューリタニズム
[Bellah et al.1985=1991]によって描かれたような,アメリカ合衆国のピ
の伝統における強い個人主義文化においては,若者は個人として自立するため
ューリタニズムの伝統における強い個人主義文化においては,若者は個人と
に一度家族から離れ,「家を出る(leaving home)」ことを自らの初期伝統と
して自立するために一度家族から離れ,「家を 出る(leaving home)」こと
した.しかしこの文化には,パラドックスがある.その若者たちは,家を出る
を要請される.しかしこの文化には,パラドックスがある.その若者たちは,
27
P40
L9
~L15
P41
L1
~L13
P41
L14
~L29
72
73
注
1)
という仕切りによって独立の姿勢を学ぶのであるが,実はその姿勢自体が,そ
の共同体の「対話の網の目(web of interlocution)」において埋め込まれて
いる,という点である.このようにテイラーは,アメリカのピューリタニズム
にみられる個人主義の伝統においても,個人がその超越論的条件から離脱する
こと,つまり「存在論的独立(ontological independence)」[SS:39]を果た
すことはできないという.
[前略] われわれが,自己の言語を理解し,あるやり方でそれを他者の言
語と付き合わせ,あるいは関係づける際の「超越論的条件」とは, [中略]
われわれが,自己の意味するものを知っており,さらに自己の独自の言語を
もっているその確信自体が,この関係づけに依存している,という在り方を
指している. [中略] 我々の独立的立場は,埋め込まれた(embedded)
ままであり,いわば,浸透(immersion)した関係にある.[中略]われわれ
の言語の本質と,われわれの思考の根本的な言語依存性が,それらの形態の
対話性(interlocution)を,われわれにとって不可欠のものにしているので
ある[SS:38].
言語の本性についてのテイラーの議論,
および自己の対話性(interlocution,
dialogicality)については,次回にさらに詳しく検討していかなければならな
い.しかし私たちは,ここでテイラーの存在論がすでに超越的に存在する善や
フレームワークというものを不可欠であるとみなす点で,「全体論的
(holistic)」であることを指摘できよう.ここで「全体論的」あるいは「全
体論(holism)」というのは「原子論(atomism)」と対立する考え方であり,
それは社会や共同体というものを,個々人の行為の帰結の単なる総和を超えた,
構造的な相互依存関係とみなすことによって,個人の存在論的な社会内存在を
重視する思想である.もちろんこのことは,道徳的あるいは政治的に個人と社
会のどちらにより価値を置くかという問題に答えるものではない.またこの考
え方は,個人よりも全体としての社会に価値を置き,個人を従属的なものとし
て捉える思想とも全く異なる.テイラーの存在論は,自己をある種の道徳空間
に位置づけることによって,フレームワークを持ちうる存在とみなし,また近
代において問題となるアイデンティティもその超越論的条件を逃れられないと
主張する点において,全体論的であるということができる.その場合,テイラ
ーの議論は,言語哲学に根拠をもつ独自の見解を合わせもっている.次号はそ
れについて検討していくことにする.(未完)
家を出るという仕来りによって独立の姿勢を学ぶのであるが,実はその姿勢
自体が,その共同体の「対話の網の日(web of interlocution)」において
規定されている,という点である.このようにテイラーは,アメリカのピュ
ーリタニズムにみられる個人主義の伝統においても,個人がその「超越論的
条件」からの離脱すること,つまり「存在論的独立(ontological
independence) 」[SS:39]を果たすことは,できないという.
P28
……われわれが, 自己の言語を理解し,あるやり方でそれを他者の言語
L15
と突き合わせ,あるいは関係づける際の「超越論的条件」とは,……わ
~L23
れわれが,自己の意味するものを知っており,さらに自己の独自の言語
をもっているその確信自体が,この関係づけに依存している, という在
り方を指している.……われわれの独立的立場は,埋め込まれた
(embedded)ままであり,いわば,浸透(immersion)した関係にある.
……われわれの言語の本質と,われわれの思考の根本的な言語依存性が,
それらの形態の対話性(interlocution)を,われわれにとって不可欠の
ものにしているのである[SS:38].
P28
言語の本性についてのテイラーの議論,および自己の対話性
L25~P29 (interlocution, dialogicality)については,本章の次節および第 3 節に
L8
おいてさらに検討してゆかねばならない.しかしわれわれは,ここで,テイ
ラーの社会-存在論が,すでに超越的に存在する善やフレイムワークというも
のを不可欠であるとみなすあるいは「全体論的(holistic)」であることを
指摘できよう.ここで「全体論的」あるいは 「全体論 (holism)」という
のは, 「原子論(atomism)」と対立する考え方であり,それは,社会や共
同体というものを,個々人の行為の帰結のたんなる総和を超えた,構造的な
相互依存関係とみなすことによって,個人の存在論的な社会内在性を重視す
る思想[Taylor 1995:181]である.もちろんこのことは,道徳的,あるいは
政治的に個人と社会のどちらにより価値をおくか,という問題に答えるもの
ではない.またこの考え方は,個人よりも全体としての「社会」に価値をお
き.個人を従属的なものとして捉える思想[Dumont1983=1993]とはまったく
異なる.テイラーの社会-存在論は,自己をある種の道徳的空間に位置づける
ことによって,フレイムワークを持ちうる存在とみなし,また近代において
問題となるアイデンティティもその超越論的条件を逃れられないと主張する
点において,全体論的であるということができる.またその場合,テイラー
の議論は言語哲学にもとづく独自の考察をあわせもっている.
1) ここでテイラーが「われわれ(we)」と呼んでいるのは,西欧諸国内およ P30
び英語圏内の人々のことである.テイラーの考察対象には日本や中近東,
28
P41
L31~P42
L7
P42
L9
~L25
注
2)
注
3)
注
4)
注
5)
注
6)
注
7)
アジア圏内は含まれていない.しかしテイラーの提起する近代アイデンテ
ィティの問題は普遍性を帯びるテーマであることから,テイラーの引用箇
所はそのまま「われわれ」とし,その他,筆者の意見や筆者の言葉でまと
めている部分は「私たち」とした.
2) 高田宏史氏は,テイラーの自己解釈的自己論には著書『へーゲル』執筆前 P30
後で力点の転換が起きていることを指捕している.初期の自己論では,自
己解釈の構成的性格が強調され,それがある背景に照合してのみ可能であ
るということはあまり描かれていなかったものの,『へーゲル』以後の展
開においては,自己解釈の背景という理念が,自己解釈する動物としての
人間像を定式化する際に繰り返し現れている.
3) ここでいう責任の概念は,その不履行や違反が法的処罰などを要求すると P30
いう意昧での法的な義務概念とは異なる.むしろ,それは十全な評価や解
釈の主体としての近代的な自己を構成・発展させ,時には変革する責任が
自己には必然的に求められる,という意味で,近代的な責任概念なのであ
る.
4) テイラーはその人間学におけるこのような自己概念を,すべての自己の人 P30
間性(humanity)にとって本質的なものであり[PP1:28],またある種人
間に普遍的なものである[CTR:249]とみなしている.
P30
5) 『自我の源泉』で述べられているように,デカルト,ロックからカント
(Immanuel Kant, 1724-1804)へと継承される「離脱した」主体の根源的
反省と自律性を中心とするアトミスティックな人間理解である.
6) テイラーは道徳理念について次のように定義し,「真正さ」の個人主義を P30
道徳理念に支えられたものとして擁護している.「道徳理念―それは何が
より善く,より高い生の形態であるかについての像であり,そこでは善い,
高いは私たちが偶然に欲望したり必要としたりするものの観点から定義さ
れず,むしろ私たちに望むべきものの基準を提供する.[中略]ラッシュ
〈ナルシシズム〉,ベル〈快楽主義〉らは,自己実現の文化には全く道徳
理念が存在しないかのように見なしている点で誤っている.[中略]これ
らの批判において忘却されていることは,「真正さ」の理念の道徳的な力
である.」[EA:16-17]
7) ここでテイラーが肯定する真正さの倫理とは,アピアが適切に表現してい P30
るように,自己がその内部から自己の本質を独話的に掘り起こす(dig out)
[MEPR:155]といった本質主義的かつ独話的なものではない.
29
19 テイラーはその人間学におけるこのような自己概念を(その倫理学にお P24
ける「真正さ」の個人主義としての自己論とは異なり),すべての自己の「人
間性(humanity) にとって本質的」[Taylor1985a:28]であり,また「ある
種人間に普遍的なもの」[Taylor 1994b:249]であるとみなしている.
21 すなわち,「自己の諸源泉」で述べられているように,デカルト,ロック P24~P25
からカントへと継承される,「離脱した」主体の「根源的反省」と「自律性」
を中心とする「アトミスティック」な人間理解である.
23 テイラーは,「道徳理念」を次のように定義し,「真正さ」の個人主義を P26
道徳理念に支えられたものとして擁護している.「道徳理念――それは何が
より善く,より高い生の形態であるかについての像であり,そこでは善い,
高いは私たちが偶然に欲望したり必要としたりするものの観点から定義され
ず,むしろ私たちに望むべきものの基準を提供する.…ラッシュ「ナルシシ
ズム」, ベル「快楽主義」らは,自己実現の文化には全く道徳理念が存在し
ないかのように見なしている点で誤っている.……これらの批判において忘
却されていることは,「真正さ」の理念の道徳的な力である.」[EA:16-17]
24 ここでテイラーが肯定する真正さの倫理とは,アピアがそのコメントに P29
おいて適切に表現しているように,自己がその内部から自己の本質を独話的
に「掘り起こす (dig out)」[Taylor 1994a:155]といった,「本質主義的
かつ独話的」なものではない.
注
8)
注
9)
注
10)
8) テイラーは,道徳的思考として,(1)他者への敬意と他者についての義務の P30
感覚,(2)充実した人生を構成するものについての理解,(3)尊厳について
の一連の考え方,という三つの軸を示している[SS:15].
9) テイラーの「価値主観主義」批判は,彼の道徳理論において最も重要かつ P30
議論の余地ある論点の一つである.テイラーは,「価値主観主義」は,現
代の倫理学のみならず,ポピュラー文化においても(両者が連結するかた
ちで)広く浸透しており,手続き的リベラリズムとポストモダニズムがそ
れをさらに助長しているとして激しく批判する
[SS:495-521,
EA:55-69]
.
中野剛充氏の研究によると,多くの論者は,彼のこの主観主義批判と主観
超越的な善の理論を,プラトン的な道徳実在論(realism)の復活であると
して批判してきた.ところがアンダーソンが適切に論じているように,彼
の道徳的存在論は,
プラトン主義を完全に否定しており,
道徳実在論
(moral
realism)ですらない[Anderson TPLSE].アンダーソンは,主観主義的投
影主義とプラトン主義的実在論の中間において,「道徳的客観性」[SS: 9]
を見出そうとするテイラーの試みの功績と問題点について,最も適切に論
じている.
10) ここにマッキンタイアやサンデルのアイデンティティ概念と,テイラーの P30
それとの重大な差異が現れている,という中野氏の重要な指摘がある.マ
ッキンタイアによれば,「私の人生の物語はつねに,私のアイデンティテ
ィの源である諸共同体の物語の中に埋め込まれて」おり[Maclntyre 1984b:
204,271].サンデルにとっても同様である[Sandel LLJ:xiv].もちろん,
両者とも共同体の道徳的フレームワークと個人のアイデンティティを完全
に同一のものとみなしているわけではなく,一定の留保をつけている(た
とえば,「共同体が…行為者のアイデンティティの『一部』を構成する」
[Sandel LL:244].しかし第一に,彼らはテイラーと異なり,共同体と自
己の関係が前近代と近代では決定的に異なり,アイデンティティの問題が
本質的に近代特有の問題であることを指摘していない.彼らにとって,近
代における個人の道徳的宇宙からの独立と,個人の真正さの追求は,まっ
たくの「喪失」に過ぎない[Maclntyre 1984b:323-337].)第二に,テイ
ラーは,自己のアイデンティティが自己評価と自己解釈によって構成され
ることを強調するが,マッキンタイアとサンデルは自己解釈の問題を重視
していない.第三に,両者は近代アイデンティティの重層性,複合性につ
いての評価が曖昧である.(ただしサンデルは,『満たされざる民主主義』
においてその立場を微妙に変化させている.そこで彼が提唱する自己は,
単に「位置づけられた自己」ではなく,「多元的に位置づけられた自己
30
25 テイラーによれば,道徳的思考には, (1)他者への敬意と義務の感覚, P35
(2)十全な生を構成するものについての理解, (3)尊厳についての観念, と
いう三つの軸がある[SS:15].
26 テイラーの「価値の主観主義」批判は,彼の道徳理論において最も重要か P36~P37
つ議論の余地ある論点の一つである.テイラーは,「価値の主観主義」は現代
の倫理学のみならず,ポピュラー文化においても(両者が連結するかたちで)
広く浸透しており,手続き的リベラリズムとポストモダニズムがそれをさら
に助長しているとして激しく批判する[SS:495-521: EA: 55-69].多くの論
者は,彼のこの主観主義批判と主観超越的な善の理論を,プラトン的な道徳
実在論
(realism)
の復活であるとして批判してきた.
たとえば,[Rosen 1991 :
183-194] を参照.しかしアンダーソンが適切に論じているように,彼の道徳
的存在論はプラトン主義を完全に否定しており,道徳実在論(moral realism)
ですらない.[Anderson 1996]は,主観主義的投影主義とプラトン主義的実
在論の中間において,「道徳的客観性」[SS: 9] を見出そうとするテイラ
ーの試みの功績と問題点について, 最も適切に論じている.
27 ここに,マッキンタイア=サンデルのアイデンティティ概念と,テイラ P39~P40
ーのそれとの重大な差異が現れている.マッキンタイアによれば,「私の人
生の物語はつねに,私のアイデンティティの源である諸共同体の物語の中に
埋め込まれて」おり[MacIntyre 1984=1993:204,271].サンデルにとっても
同様である[Sandel 1982=1992:xiv].もちろん,両者とも共同体の道徳的
フレイムワークと個人のアイデンティティを完全に同一のものと見なしてい
るわけではなく,一定の留保をつけている(たとえば「共同体が…行為者の
アイデンティティの 『一部』を構成する」[Sandel 1982=1992:244]).し
かし,第一に,彼らはテイラーと異なり,共同体と自己の関係が前近代と近
代では決定的に異なり,アイデンティティの問題が本質的に近代特有の問題
であることを指摘していない.彼らにとって,近代における個人の道徳的宇
宙からの独立と,個人の真正さの追求は,まったくの「喪失」にすぎない
([MacIntyre 1984=1993:277-297].[Sandel 1982=1992:323-337]).第
二に,テイラーは,自己のアイデンティティが自己評価と自己解釈によって
構成されることを強調するが,マッキンタイアとサンデルは自己解釈の問題
を重視していない.第三に,両者は近代アイデンティティの重層性,複合性
についての評価が唆昧である.(ただしサンデルは,『満たされざる民主主
義』においてその立場を微妙に変化させている.そこで彼が提唱する自己は,
たんに「位置づけられた自己」ではなく,「多元的に位置づけられた自己
(multiplysituatedself)」あるいは「多元的に負荷された自己
(multiply-encumberedself)」[Sandel LL:350].)
(multiply-situated self)」あるいは「多元的に負荷された自己
(multiply-encumbered self)」[Sandel 1996:350]である.)また上記二
つの論点の帰結として,第四に,マッキンタイアとサンデルは,近代アイデ
ンテイティは,その社会的台本(script)によって外的に無媒介に与えられ
るのではなく,他者との対話と承認関係の中で形成されるという問題を無視
している.とはいえ,テイラーのアイデンティティ概念と彼らのそれとの差
異は,自己やアイデンティティについての考察を政治的領域から追放しよう
とするロールズのような立場[Rawls 1993=1996]と比較すれば,むしろ小さ
いものだと言えるかもしれない.
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