全文 [PDF 538KB]

2016年4月13日
日
本
銀
行
デフレとの闘い:金融政策の発展と日本の経験
米国・コロンビア大学における講演の邦訳
日本銀行総裁
黒田 東彦
1.はじめに
本日は、コロンビア大学ビジネススクールにおいて講演を行う機会をい
ただき、大変光栄です。講演会を主催して下さった日本経済経営研究所は、
今年で 30 周年を迎えられたと伺いました。当研究所は、長年、日本経済に
対する理解の深耕と日米の経済関係強化に大変大きな役割を果たしてこら
れました。長きにわたって所長を務められ、日本経済研究の泰斗であるヒュ
ー・パトリック教授をはじめ、当研究所の関係者の皆様に、まずは厚く御礼
を申し上げたいと思います。
さて、日本が長年デフレで苦しんできたということは、よく知られてい
ると思います。デフレは、かつては日本に特有の問題と思われてきました。
日本がデフレに陥った 1990 年代後半から 2000 年代を振り返ると、米国は、
「マエストロ」と呼ばれたFRBのグリーンスパン議長のもとで、2000 年
代初頭のITバブル崩壊など幾度かのショックを乗り越え、長期にわたり物
価の安定と高成長率を謳歌しました。当時は、IT革命や経済のグローバリ
ゼーションにより景気循環は消滅し、インフレなき経済成長が続くといった、
いわゆるニューエコノミー論も唱えられました。欧州でも、1999 年の統一
通貨ユーロの導入を経て域内経済の統合が進み、経済は安定的に成長しまし
た。この間、中国をはじめとする新興国や資源国は、飛躍的な経済成長を続
けました。そうした中で、日本だけが、こうした世界の潮流からとり残され
たように思われました。
2008 年に global financial crisis が起きました。主要先進国は、急激
な景気減速に見舞われましたが、中央銀行をはじめとする政策当局の迅速か
つ大胆な対応策が奏功したこともあって、世界的な大恐慌に陥る事態は回避
できました。しかしながら、それから8年が経つものの、世界経済は、かつ
てのような強さを取り戻すことはできていません。むしろ、先進国を中心に
低成長・低インフレが長引いており、日本のようなデフレに陥るのではない
かといった懸念が、多くの国で聞かれるようになっています。
1
日本では、ちょうど3年前に始まった「量的・質的金融緩和(QQE)
」
という大胆な金融政策のもとで、幸いなことに、デフレ脱却が視野に入りつ
つあります。そこで本日は、皆様に、世界に先駆けてデフレに陥った日本が
どのようにしてデフレと闘い、これを克服しつつあるのかという点について、
非伝統的金融政策の発展という理論的な観点も交えながらお話ししたいと
思います。
2.デフレとは何か:「緩やかだがしつこいデフレ」の恐ろしさ
そもそも「デフレ」とは何でしょうか。長きにわたって緩やかな物価上
昇が実現している米国にお住まいの皆さんに、実感をもってご理解いただく
のは容易でもないかもしれませんが、まずはこの点から話をはじめましょう。
デフレとは、
「物価が持続的に低下する状態」を言います。もちろん、技
術革新や生産性の向上によって、個別の財やサービスの価格が下落すること
は、むしろ歓迎すべきことです。パソコンやスマートフォンの価格が次第に
低下したことは、記憶に新しいところです。しかし、ここで問題にしている
デフレとは、幅広い種類の財やサービスの価格が下落し、物価が全体として
低下していく状況です。米国を含め、各国では、消費者が日常的に購入する
財やサービスのバスケットを想定し、その価格の加重平均値である消費者物
価指数を作成していますが、こうした消費者物価が下落していく状態がデフ
レであると考えていただければ分かりやすいと思います。
このように、物価が全体的に下落していくと、経済には何が起こるでし
ょうか(図表1)。経済を全体としてみれば、財やサービスを供給する企業
の売上や利益が、減少していきます。
儲からなくなった企業は、
典型的には、
従業員を解雇するか、賃金を抑制するでしょう。解雇され、または賃金を引
き下げられた従業員は、収入が減少し、将来の生活設計にも不安になるでし
ょうから、消費には慎重になります。すると、モノやサービスは一層売れな
くなります。企業は、競争が一段と激しくなりますので、価格をさらに引き
2
下げて対抗しようとするでしょう。すると、売上や利益はさらに減少してい
きます。このように、デフレは、一旦始まると、自己実現的にそのプロセス
が進行して、
「縮小均衡」に陥っていくのです。
日本では、1980 年代後半から 1990 年代初頭にかけて発生した資産バブル
の崩壊や、これに伴う金融システムの不安定化などを背景に、1990 年代後
半以降、15 年にわたってデフレが継続しました。日本のデフレの特徴は、
「緩
やかだがしつこい」ということです。デフレの典型的事例としてよく語られ
る大恐慌時のアメリカでは、累計で3割近く、1931 から 1932 年の2年間に
は年率 10%近い激しい物価下落が生じました。しかし、物価下落は4年間
で終息しました。これに対し、日本の物価下落は、1998 年度から 2012 年度
までの 15 年の累計で 4.1%、
年率でみればわずか 0.3%の下落です。しかし、
それは、15 年にもわたって続いたのです。そして、長引くデフレのもとで、
人々の間には、「先行き、物価も賃金も上がらないものだ」という観念が定
着していきました。
病気にたとえて言えば、1930 年代の大幅なデフレは「急性病」であった
のに対し、1990 年代後半以降に日本が経験したデフレは「慢性病」とも言
うべきものです。慢性病は、痛みが少ないものですが、むしろそうであるが
故に、静かに全身を蝕んでいくのです。ここで、
「緩やかだがしつこい」デ
フレの恐ろしさをご説明したいと思います。
最大の問題は、デフレのもとでは、現預金の価値が時間の経過とともに
次第に高まっていくため、企業も家計も支出に消極的になるという点です。
現金は、保有していれば名目価値が減少することはありません。銀行の預金
も、利率がマイナスになることは、通常考えづらいことです(この点は、後
ほど、マイナス金利政策との関係で改めて説明します)。一方、財やサービ
スの価格は次第に下がっていくのですから、消費者にとってみれば、いま買
うよりも、後で物価がもっと下がってから買った方が得をすることになりま
す。企業にとっても、下手にリスクをとって設備投資や研究開発投資などを
3
行うよりも、賃金などのコストをカットしてキャッシュフローを増やし、こ
れを銀行預金に積み上げておく方が、企業価値を高めるための近道になりま
す。1990 年代以降の日本では、まさにこうした状況が生じました。
ここで、
「企業」や「政府」といったセクター毎の貯蓄・投資バランスの
動きを振り返ってみましょう。「企業」は、本来、銀行や資本市場から資金
を調達することによって事業を起こし、経済の付加価値を産み出す「資金不
足」主体です。ところが、1990 年代末には、
「資金余剰」主体に転化しまし
た。
「企業」の変化により生じた総需要不足に対応するため、
「政府」は、国
債の大量発行によって資金を調達し、公共事業などの財政支出を通じて経済
の下支えを行いました。
「企業」に資金が余っているため、
「銀行」では、預
金が大幅に増加する一方、貸出は減少します。このため、「銀行」は、余剰
資金を国債で運用するようになりました。こうして、企業部門は資金余剰、
政府部門は資金不足、銀行部門は国債運用を拡大するという特殊な資金循環
が確立しました(図表2)。
「緩やかだがしつこい」デフレのもうひとつの問題点は、人々の間に「先
行き物価は上がらない、むしろ下がっていくものだ」という考え方が定着す
るため、実質金利が高止まりし、金融政策の有効性を低下させてしまうとい
う点です。この点については、少し説明が必要でしょう。
経済活動にとって重要なことは、貸出にしても預金にしても、
「名目金利」
ではなく、先行きの物価上昇見通しを考慮した「実質金利」であると考えら
れます。例えば、名目金利が3%であっても、先行き、物価が毎年2%ずつ
上昇すると考えるのであれば、実質金利は1%ということになります。他方、
名目金利が同じ3%であっても、先行き、物価が毎年1%ずつ下落していく
と考えるのであれば、実質金利は4%になります。当然、前者の方が、後者
に比べて、緩和的な金融環境になります。人々が「先行き物価は下がってい
くものだ」と考えるようになれば──経済学の用語では、
「予想インフレ率
がマイナスになる」と言います──、名目金利に比べて実質金利は高めに推
4
移するようになるのです。
このように、
「緩やかだがしつこい」デフレは、経済の活力を奪うととも
に、金融政策の有効性をも低下させるという、恐ろしい慢性病なのです。
3.金融政策の発展:「非伝統的金融政策」とは何か
このような緩やかだがしつこいデフレの中で、日本銀行も、手をこまね
いていたわけではありません。当時、日本銀行の金融政策は、海外から“too
little, too late”と批判されることが多かったわけですが、実際には、1990
年代末から、様々な「非伝統的金融政策」を採用してきました(図表3)
。
1999 年には、短期金利をゼロ近傍に誘導するという「ゼロ金利政策」を
採用しました。
2001 年から 2006 年にかけては、
金融市場調節の操作目標を、
短期金利から、民間金融機関が日本銀行に保有する当座預金の残高に変更し、
所要準備額の数倍にも及ぶ多額の資金供給を行いました。これは、私が知る
限り、世界初の「量的緩和政策」です。その際、
「量的緩和政策」を「消費
者物価の前年比が安定的にゼロ%以上となるまで継続する」というコミット
メントを行いました。近年、
「フォワード・ガイダンス」と呼ばれている政
策手段の先駆けです。
その後、2008 年の global financial crisis においては、日本の金融シ
ステムへの影響は比較的軽微なものでしたが、グローバル経済の落ち込みの
もとで、日本経済も大幅な減速に見舞われ、2006 年以降一旦プラス圏内ま
で上昇していた物価上昇率も、再びマイナスの領域に落ち込みました。こう
したもとで、日本銀行は、2010 年から「包括緩和政策」を実施しました。
この政策では、残存期間3年までの長期国債の買入れを積極的に行い、当該
期間の金利を0%近くにまで引き下げました。さらに、リスクプレミアムの
縮小を図るため、国債と比べれば小規模ながら、社債やCPなどの民間企業
債務や、ETFやREITなどのエクイティ性金融商品の買入れを実施しま
した。加えて、金融機関の貸出を支援するため、低利で長期間の資金供給を
5
実施する制度──イングランド銀行の Funding for Lending やECBのTL
TROに相当するものです──も導入しました。このように、日本銀行が実
施してきた非伝統的金融政策は、少なくともそのバラエティにおいては、決
して他の中央銀行に遜色のないものと言えるでしょう。
こうした一連の非伝統的金融政策の結果、日本経済は、1930 年代型のデ
フレスパイラル──急激な物価の下落と経済の縮小──に陥ることは回避
されました。しかし、当時の金融政策は、デフレから脱却するにはいずれも
力不足でした。なぜでしょうか。
この点を理解するために、そもそも金融緩和とは、どのようなメカニズ
ムで経済に働きかけるかについて、まず整理しておきましょう。鍵となるの
は、ある国の経済にとって、景気を加速も減速もさせない中立的な実質金利
の水準である「自然利子率」という概念です。金融緩和は、政策金利の引き
下げや資金供給量の増加などを通じて金融市場における「実質金利」を「自
然利子率」よりも低い水準に誘導することによって、設備投資や住宅投資な
どの経済活動を刺激することを主たる波及メカニズムとしています。
「自然
利子率」については、学術的にも様々な議論がありますが、その水準は、一
般的には、その国の経済が持っている潜在的な成長力、いわゆる「潜在成長
率」によって概ね規定されると考えられています。
こうした枠組みに照らして考えると、デフレ下での日本の金融政策は、
以下の2つの観点から限界に直面していたととらえることができます。ひと
つは、実質金利の高止まりです。伝統的な金融政策の操作目標である短期の
名目金利は、1999 年の「ゼロ金利政策」の導入によって0%近くまで低下
していました。短期金利は、この時点で既に「名目金利はゼロ%以下に引き
下げることはできない」という「ゼロ金利制約」に直面していたのです。同
時に、「デフレ均衡」のもとで、予想インフレ率も低水準にとどまっていま
した。この結果、名目金利から予想インフレ率を差し引いた実質金利は、高
止まりすることになりました。
6
問題をさらに困難なものとしたもうひとつの要因は、潜在成長率の低下
を映じた自然利子率の低下です。この時期、日本では、急速な高齢化が進展
し、生産活動を担う世代の人口が減少していました。こうした人口構成の変
化に加え、先ほど述べたデフレの長期化に伴う資本蓄積の鈍化も、潜在成長
率の低下に寄与しました。日本経済の潜在成長率は、1990 年代初頭までは
3~4%ほどありましたが、その後低下トレンドをたどり、最近では1%未
満まで低下しています(図表4)
。潜在成長率の低下とともに、景気に中立
的な自然利子率も、低下傾向をたどっていたと考えられます。
すなわち、日本では、自然利子率が低下していく中で、
「ゼロ金利制約」
と予想インフレ率の低下によって、実質金利を思うように引き下げることが
できないという状況に直面しました。こうした日本の状況は、潜在成長率と
実質金利──ここでは、10 年物の国債利回りからその時々のインフレ率の
実績を差し引いたもので近似しています──を比較してみますと、よくご理
解いただけるのではないかと思います(図表5)
。こうして、日本では、長
引く「慢性病」に対して適切な治療を施すことができず、「デフレ均衡」が
定着していったのです。
このように考えると、日本経済がデフレを脱却するうえでの政策当局の
課題も明らかになってきます。ひとつには、日本経済の潜在的な成長率を引
き上げ、自然利子率を上昇させることです。同時に、金融政策が取り組むべ
き課題は、
「どのようにして実質金利を強力に引き下げるか」ということで
す。この点、しばしば「金融政策は限界に近づいており、経済政策は、成長
戦略を中心に据えるべきだ」との意見が聞かれます。しかしながら、これま
での説明でご理解いただけるように、両者は「二者択一」の問題ではありま
せん。両方とも必要不可欠なのです。その意味で、日本経済の成長力の強化
に向けた政府の戦略や、民間セクターにおける前向きの取り組みは極めて重
要です。同時に、日本銀行は、中央銀行として、果たすべき役割をしっかり
と果たす必要があるのです。
7
4.2%の「物価安定の目標」と「量的・質的金融緩和」の導入
長年にわたるデフレとの闘いの中で、より強力な金融緩和の必要性が意
識されるようになってきました。折しも、2012 年 12 月には、安倍政権が発
足し、いわゆる「三本の矢」からなる「アベノミクス」がはじまりました。
2013 年1月に、日本銀行と政府が共同声明を発表し、消費者物価上昇率で
2%とする「物価安定の目標」を導入しました。2012 年1月にFRBが長
期の物価目標を明示してから、ちょうど1年後のことです。
「物価安定の目標」導入直後の 2013 年3月、私は日本銀行総裁に就任し
ました。そして、その年の4月に、「量的・質的金融緩和」の導入を決定し
ました。この政策は、それまでの金融政策の限界を打破するために設計され
たものであり、2つの要素からなっています(図表6)。第一に、日本銀行
が2%の「物価安定の目標」の早期実現に強くコミットすることで、人々の
間に定着してしまった「デフレマインド」の抜本的な転換を図り、予想物価
上昇率を引き上げることです。第二に、大規模な国債買入れを行うことによ
って、短期金利だけでなく、イールドカーブ全体にわたって名目金利に低下
圧力を及ぼすことです。この結果、短期だけでなく、長期の実質金利も大幅
に低下させることができるのです。
大規模な長期国債の買入れについては、最長 40 年までの長期国債を買入
れ、残された名目金利の低下余地を最大限追求することとしています。導入
当初は、日本銀行の長期国債保有残高が年間約 50 兆円に相当するペースで
増加するように買入れを行うこととしましたが、2014 年 10 月には、これを
約 80 兆円へ拡大し、今日に至っています。日本の名目GDPが約 500 兆円
ですから、80 兆円という年間の増加額は、その約 16%に相当します。その
結果、日本銀行のバランスシートの対名目GDP比は、2013 年3月末の 35%
から昨年 12 月末で 77%まで拡大しており、今後も拡大を続けます。3次に
わたる大規模資産買入れ(LSAP)を終えた米国では、FRBのバランス
シート規模は名目GDP比では昨年 12 月末時点で 25%ですので、日本銀行
8
が行っている金融緩和がいかに大規模なものかがご理解いただけるのでは
ないかと思います。また、「量的・質的金融緩和」の導入に伴い、国債買入
れの平均残存期間は、「3年弱」から「7年程度」まで延長され、その後の
延長を経て、現在は「7年~12 年程度」となっています。さらに、2010 年
に「包括緩和政策」のもとで開始したETFやREITの買入れも、金額を
大幅に増加し、継続しています。
5.
「量的・質的金融緩和」の効果:デフレから脱却しつつある日本経済
このように「量的・質的金融緩和」は、従来の政策とは抜本的に異なる
ものですが、これまでのところ、所期の効果を発揮しています。この政策の
導入後、日本経済がどのように変化したかということを、主要な金融経済指
標の動きで確認しましょう。
まず、金融面の指標です。2013 年の「量的・質的金融緩和」の導入前か
ら昨年末までの変化をみると、10 年債利回りでみた名目長期金利は 0.7%か
ら 0.3%へと 0.4%低下しました。この間、中長期の予想インフレ率は──
これには様々な指標がありますので、かなり幅をもってみる必要があります
が──代表的なエコノミスト調査では 0.4%程度上昇しています。仮にこの
数字を用いますと、実質長期金利は、0.8%低下していることになります。
私どものスタッフの分析では、イールドカーブ全体に働きかける「量的・質
的金融緩和」の効果は、短期の政策金利のみを引き下げる場合に換算すれば
2%程度の引き下げに相当していた、といった結果も出ています。こうした
緩和的な金融環境のもとで、銀行貸出は、中小企業向けを含め、前年比2%
台の緩やかな増加を続けています。
実質金利が大幅に低下したことによる景気刺激効果は、実体経済面に着
実に現れました(図表7)。日本企業の収益は、過去最高水準まで増加して
います。これは、大企業に限られた話ではなく、中堅・中小企業にも当ては
まります。こうしたもとで、設備投資も緩やかに増加しています。また、労
9
働市場をみると、失業率は足もとでは3%台前半まで低下しており、ほぼ完
全雇用と言える状況になっています。日本では、春にかけて労使間の交渉を
行うという慣行がありますが、2014 年には約 20 年振りにベースアップが復
活し、今年を含め3年連続で実現することはほぼ確実な情勢です。さらに、
人手不足から、パート労働者などの非正規雇用者の賃金を引き上げる動きも
みられています。こうした雇用・所得環境の改善を受けて、個人消費も、天
候要因などによる振れを伴いつつも、底堅く推移しています。このように、
日本経済は、企業・家計の両部門において、所得から支出への好循環が作用
するもとで緩やかな回復を続けています。
実体経済の改善を受けて、物価の基調も着実に改善しています(図表8)
。
労働や設備といった生産要素の稼働状況をあらわす需給ギャップは、最近で
は、過去平均の0%程度まで回復しています。先ほど申し上げたように、予
想インフレ率も、
「量的・質的金融緩和」導入前と比べれば全体として上昇
しています。消費者物価前年比は、2014 年夏以降の原油価格の大幅下落の
影響から、最近では0%程度で推移していますが、エネルギーと生鮮食品を
除く消費者物価の前年比をみると、その姿は全く異なります。2013 年4月
の「量的・質的金融緩和」導入前には、▲0.5%前後の小幅のマイナスで推
移していたものが、2013 年 10 月にプラスに転じた後、29 か月連続でプラス
を継続しており、最近では+1%を上回る水準まで上昇しています。これだ
け持続的な物価の上昇は、日本経済がデフレに陥って以来、初めてのことで
す。2%の「物価安定の目標」の実現にはまだ途半ばですが、日本銀行の「量
的・質的金融緩和」のもとで、物価上昇率のトレンドに明確な変化が生じた
ことは、異論のないところだと思います。
6.
「マイナス金利政策」の狙い
こうした状況の中、日本銀行は、2016 年1月に「マイナス金利付き量的・
質的金融緩和」を導入しました。
10
「量的・質的金融緩和」は所期の効果を発揮しています。もっとも、国
際金融市場では、本年入り後、原油価格の一段の下落や、中国をはじめとす
る新興国・資源国経済に対する先行き不透明感から、世界的に不安定な動き
となっていました。日本企業には、デフレ脱却後の世界を展望した積極的な
行動が着実に拡がってきていますが、長きにわたるデフレがまだ記憶に新し
いこともあり、高水準の企業収益の割にはまだ慎重さが残る面もあります。
不安定な市場の動きが、企業マインドを委縮させ、せっかく進んできた人々
のデフレマインドの転換を遅延させるリスクは、決して無視できません。こ
うしたリスクの顕在化を未然に防ぎ、
「物価安定の目標」の達成に向けたモ
メンタムを維持するために、日本銀行は、一段の追加緩和を決断したのです。
もう一度、先ほどの金融緩和のメカニズムに立ち戻って考えてみましょ
う(前掲図表3)。
「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」では、日銀当座
預金残高の一部に▲0.1%のマイナス金利を適用することにより、イールド
カーブの起点を引き下げます。大規模な国債買入れと組み合わせることによ
り、イールドカーブ全体にわたって従来以上に強力な下押し圧力を加え、実
質金利の引き下げを図るのです。日本銀行のマイナス金利政策について、一
部に、政策の重点を「量」から「金利」にシフトしたとの見方があるようで
すが、そうではありません。「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」は、
イールドカーブの起点を引き下げることにより、これまでの政策の延長線上
でその効果を一段と強化するものであり、いわば“enhanced QQE”とで
も呼ぶべきものです。
従来、金融政策を議論する際には、名目金利の「ゼロ金利制約」が前提
となっていたことは、先ほどもお話ししました。そもそも、金利がマイナス
ということは、お金を借りると利息がもらえ、逆にお金を貸すと利息を払わ
なければならないということですので、通常、起こりそうもないことです。
しかし、近年、欧州の幾つかの中央銀行の経験から、民間金融機関が中
央銀行に保有する当座預金にマイナス金利を適用するという手法によって、
11
金融のプロフェッショナル同士の取引については「ゼロ金利制約」を乗り越
えることができることが分かってきました。日本でも、欧州の中央銀行の経
験に学びつつ、日本の状況に即した独自の工夫を加えたうえで、マイナス金
利の枠組みを導入したのです。
「ゼロ金利制約」を乗り越えるうえでの最大の問題点は、銀行収益にマ
イナスの影響を及ぼし得ることでした。すなわち、民間銀行は、中央銀行の
当座預金を含め運用利回りがマイナスの資産を保有することになりますの
で、銀行の主たる収益源である資金運用益という点では、収益性が低下する
可能性が高いと考えられます。経済の中で、資金の余剰主体と不足主体の間
を仲介する民間銀行は、金融政策の波及メカニズムの中枢です。もし、マイ
ナス金利政策が銀行収益を過度に圧迫することで、金融部門の安定性が低下
し、銀行が貸出に消極的になったり、貸出金利を引き上げたりするようにな
れば、金融仲介機能が弱まり、金融緩和の効果が削がれることにもなりかね
ません。
もっとも、日本に関する限り、こうした懸念は当たりません。まず、日
本の金融機関は global financial crisis の影響をほとんど受けておらず、
資本基盤は充実しています。また、景気回復が続くもとで倒産件数が極めて
低い水準まで低下しており、信用コストは大幅に低下しています。その結果、
日本の金融機関は、大手行はもとより、地域銀行においても、低金利環境に
もかかわらず、過去最高に迫る水準の収益をあげています。
さらに、日本銀行は、マイナス金利の導入に当たり、金融機関収益を過
度に圧迫して金融政策の波及メカニズムを弱めることがないよう、できる限
り配慮しました。すなわち、当座預金を3階層に分割し、従来どおりの「+
0.1%」
、
「0%」
、そして「▲0.1%」を適用する階層構造を採用しました。
そのうえで、
「0%」を適用する部分を調整していくことにより、マイナス
金利を適用する部分を限定することとしました(図表9)
。これは、
「価格は、
平均コストではなく、限界コストで決まる」という経済学の入門コース
12
(Econ101)で習う原則を応用したものです。つまり、金利形成において意
味があるのは、取引主体が追加的に1単位の当座預金残高を積み増す場合の
コストだということです。300 兆円弱の日銀当座預金残高のうち、マイナス
金利を適用するのは 10~30 兆円程度、足もとで全体の1割に満たない水準
であり、昨年までに金融機関が積み上げた当座預金に対応する金額である約
200 兆円には、引き続き+0.1%での付利が行われます。これにより、金融
機関が中央銀行に保有する当座預金にマイナス金利が適用されることに伴
う直接的な影響は最小限に抑えたうえで、十分な効果を得ることができます。
実際、その後の国債利回りの動向をみると、10 年債までマイナスとなる
など、イールドカーブ全体にわたって金利を一段と引き下げるという効果は、
既に明確に現れています(図表 10)
。また、企業向け貸出の基準となる金利
や住宅ローン金利も低下しています。CPについては、マイナス金利での発
行もみられました。マイナス金利政策の効果は、今後、実体経済や物価面に
も着実に及んでいくものと考えています。
このように、日本銀行の「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」は、
従来の「量」
・「質」に加え、
「金利」面からも緩和効果を引き出す極めて強
力なものです。日本銀行は、2%の「物価安定の目標」の実現を目指し、こ
れを安定的に持続するために必要な時点まで、
「マイナス金利付き量的・質
的金融緩和」を継続します。今後とも、経済・物価のリスク要因を点検し、
「物価安定の目標」の実現のために必要な場合には、
「量」
・
「質」
・
「金利」
の3つの次元で、躊躇なく、追加的な金融緩和措置を講じます。
「マイナス
金利付き量的・質的金融緩和」は、近代の中央銀行の歴史上、最強の金融緩
和スキームと言っても過言ではないでしょう。日本銀行は、これを最大限活
用することによって、必ず2%の「物価安定の目標」を実現します。
7.おわりに
現在、世界の多くの中央銀行は、短期金利の引き下げという伝統的な金
13
融政策手段をほぼ使い果たした状況で、物価に強い下押し圧力がかかる中、
予想インフレ率を望ましい水準でしっかりと安定させるという、過去に例の
ない難しい課題に直面しています。米国では、FRBの大胆かつ機動的な金
融政策運営によって、経済は着実に回復しており、予想インフレ率も安定し
ていますが、労働需給のタイト化に比べて賃金や物価上昇が加速しない状況
のもとで、金利正常化のプロセスが注目されています。
欧州では、ECBが、
低インフレによる予想インフレ率への二次的影響を回避することの重要性
を指摘しつつ、物価安定目標に対するリスクの高まりに対処するため、3月
に追加緩和策を決定しました。こうした状況のもとで、先行き、先進国の中
央銀行が適切な金融政策運営を行っていくうえでは、長年にわたってデフレ
と闘ってきた日本の経験は、貴重なケーススタディとなると思います。
世界の中央銀行は、長い歴史の中で、これまでもお互いの経験に学びな
がら、創意工夫によって様々な難局を乗り越えてきました。私は、中央銀行
は、今後とも、その叡智と意志をもって、物価安定の実現という使命を果た
していけるものと確信しています。
ご清聴ありがとうございました。
以
14
上
デフレとの闘い:金融政策の発展と日本の経験
―
米国・コロンビア大学における講演 ―
2016年4月13日
日本銀行総裁
黒田 東彦
図表1
デフレの悪循環
価格下落
消費低迷
売上減少
賃金抑制
「デフレマインド」の抜本的転換が必要
1
図表2
デフレ下で何が起きたか?
預金取扱金融機関の預金・貸出残高
資金過不足
60
(兆円)
(兆円)
1,400
↑資金余剰
貸出
1,300
40
預金
1,200
20
1,100
0
1,000
-20
900
800
-40
700
非金融法人
-60
600
↓資金不足
一般政府
500
-80
90 92
年度
94
96
98
00
02
04
06
08
10
12
14
90 92
年度
94
96
98
00
02
04
06
08
(資料)日本銀行
10
12
14
2
図表3
金融政策の発展
利回り
大規模な
長期国債買入
(QQE)
短期金利
短期国債買入
(QE)
フォワードガイダンス
ゼロ金利
制約
年限
マイナス金利
3
図表4
潜在成長率
(前年比、寄与度、%)
6
TFP
5
資本ストック
4
就業者数
労働時間
3
潜在成長率
2
1
0
-1
-2
83 85 87
年度半期
89
91
93
95
97
99
01
03
05
07
09
11
13
(注)潜在成長率は、日本銀行調査統計局の試算値。2015年度下半期は、2015/4Qの値。
(資料)内閣府、日本銀行、総務省、厚生労働省、経済産業省、経済産業研究所
15
4
図表5
実質金利と潜在成長率
5
(%)
実質金利
4
潜在成長率
3
2
1
成長力強化
0
-1
90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 「量的・質的
金融緩和」
年度
(注)1.実質金利は、10年国債利回りから消費者物価指数(除く食料・エネルギー)の前年比を差し引いて算出。
2015年度は、2015/4~2016/2月の値。
2.潜在成長率は、日本銀行調査統計局の試算値。2015年度は、4~12月の値。
(資料)総務省、Bloomberg、内閣府、日本銀行、厚生労働省、経済産業省、経済産業研究所
5
図表6
「量的・質的金融緩和」のメカニズム
2%の「物価安定の目標」への
強く明確なコミットメント
大規模な長期国債買入れ
名目金利
人々の予想物価上昇率
実質金利
低下
上昇
低下
貸出、
資本市場
経済
好転
現実の物価上昇率
上昇
6
図表7
日本経済のファンダメンタルズ
失業率
企業収益
20
18
(季節調整済、兆円)
6
(季節調整済、%)
経常利益
16
14
5
12
10
8
4
6
4
2
0
06 年 07
08
09
(資料)財務省、総務省
10
11
12
13
14
15
3
06
年
07
08
09
10
11
12
13
14
15 16
7
図表8
消費者物価
3
(前年比、%)
「量的・質的金融緩和」導入
2
1
0
総合(除く生鮮食品・エネルギー)
-1
総合(除く生鮮食品)
-2
12 年
13
14
15
16
(注)消費税率引き上げの直接的な影響を調整(試算値)。
消費者物価指数(総合除く生鮮食品・エネルギー)は、日本銀行調査統計局算出。
(資料)総務省
8
マイナス金利の仕組み:3段階の階層構造
当座預金
残高
現状、約80兆円/年の
ペースで増加
図表9
<先行き>
約10~30兆円
▲0.1%
<当初>
約10兆円
約40兆円
約210兆円
0%
約40兆円
+
約80兆円/年
当預残高増加
ペースに合わせて
引き上げ
+0.1%
約210兆円
時間
9
図表10
日本国債のイールドカーブ
1.4
(%)
2016/1/28
1.2
2016/4/11
1.0
0.8
0.6
0.4
0.2
0.0
-0.2
-0.4
0 年
5
10
15
20
25
30
(資料)Bloomberg
10