四〇四号 平成二十八年三月十日 戦前の稲佐に思いを寄せて 生を受けて八十余年、月日の流れはや早そいじもので、原爆で苦しみ、死線 を越えて七十年、運よく生かされ、八十路半ばになろうとしている。 振 り 返 る と、 長 い よ う で 短 か い 人 生 だ っ た と 思 う。 兄 弟も半分欠け、 日暮れ時、ふと淋しい思いにおそわれることがある。そんな時、思い出 されるのが、幼い頃の稲佐の風景である。町は、稲佐山の山懐にあって、 丁度、山に抱きかかえられた感じで、今でも町の古老達は、山のことを 稲佐岳と言う。岳とは、高い山を意味し、古老達は、抱きかかえられた、 見あげる山の形から、岳と言う言葉を使ったものと考えられる。それに、 町の中には、今でも稲佐岳という文字が残っている場所がある。その場 所は、稲佐の古い家並みが残っている昔の本通りで、立っている石柱に、 「稲佐岳登山道路入口」と彫られてあり、その位置を少し正確に記すと、 江 戸 時 代 か ら の 本 通 り と、 明 治 になって出来た色町とが交差す る、今のバス通りに立っている。 今 は な い 色 町 は、 稲 佐 岳 登 山 道 路入口の石柱のある場所を中心 に 拡 が っ て お り、 今 も、 町 内 の あ ち こ ち に、 当 時 の 遊 郭 の 建 物 が点在している。 今 は 昔、 家 庭 の 事 情 で 借 財 を 背 負 い、 女 性 と し て の 人 権 も 無 た 視 さ れ、 苦 し み に 堪 え、 生 き ぬ おん ねん い た 怨 念 の 場 所 で あ る。 ま た、 こ の 怨 念 の 色 町 を、 華 町 と 表 現 す る む き も あ る が、 言 語 道 断 で あ る。 ち な み に、 こ の 色 町 の 制 (長崎歴史文化協会相談役) に振舞い、芋洗い、母はにこにこして、「どうねー」と聞くが、誰れも返 事はしない。やがて、風呂からあがると、 「おばちゃんありがとう」と言っ て帰っていく。隣の奥さんからは、別段お礼の言葉もない。母もお礼を 期 待 し て い る 感 じ は な い。 こ こ が、 稲 佐 人 ら し い 所 で、 後 刻、「 う ち の まった ○○がお世話になってー」 と、いわれると、母は、 「あー」 と言って、 全 く あ うん 関係のない世間話を始める。その言葉のやり取り、間の取り方が、阿吽 の 呼 吸 で、 す べ て を 飲 み こ ん で い る 感 じ、「 お 互 様 よ 」「 うちの子供もよ ろ し く ね ー」と 言 う、 実 に 大 ら か で、 み ん な で 子 供 の 世 話を見るという 感じである。 どき また、こんなこともよく見かけた。隣の奥さんが、夕食時ご飯が少し 足 り な い と、 夏 は 小 さ な し ょ う け を 持 っ て 来 て、「 少 し ご飯ばかしと っ て ー」と 言 っ て、 ご 飯 を 借 り に 来 る。 冬 は 小 さ な 一 人 用 のおひつ持参で あ る。 母 も 時 々 借 り て い た よ う で あ っ た。 借 り に 来 る と「 よ か よ、 持 っ て い か ん ね ー」と、 気 持 ち よ く、 少 し 多 め に つ め て い た 記 憶 が あ る。 実 に庶民的で、くったくのない、人情味豊かな町だったと思う。その為か、 近所の子供同志のつながりも強く、今でも記憶残る思い出がある。 それは「へんぶ取り」の思い出である。へんぶと言うのは、トンボのこ とで、稲佐の悟真寺の寺領に、国際墓地があり、その入口に、蓮池とい どぶいけ う蓮の花が咲く溝池があって、その池の縁に立って、トンボを取るので あ る が、 あ る 時、 と り も ち の つ い た 竹 竿 を 振 り 回 し す ぎ て、 池 に 落 ち、 ズボンをぬらしてしまったことがあった。おこられるので、家に帰るこ とも出来ず、困っていると、一緒にいた三、四人の遊び仲間が、共同水 道場につれて行き、ズボンを洗ってくれたばかりでなく、洗い終っても、 家 に 帰 る こ と も 出 来 ず、 つ 立 っ て い る と、 仲 間 の ひ と り が、「 あ ち ゃ 墓 で ほ せ ば ー」と い っ て、 仲 間 は ト ン ボ 取 り を や め、 私 は、 大 き な 唐 人 さ んの墓石の上に、パンツ一枚でズボンを拡げ、夕方近くまでズボンを干 し、乾くのを待ったが、その間、だれひとり家に帰ろうともせず、乾く のを待ってくれた。夕方近くまで待って、ようやく家に帰る時は、今も 覚ているが、仲間全員で帰った、怒られる心配もやわらぎ、家に帰るこ とが出来た。子供心に、友情みたいなものを感じたのか、大変うれしかっ たことを、記憶している。戦前の稲佐蓮池は、今も私の心に残る、幼い 頃のなつかしい思い出の場所である。 「稲佐岳登山道路入口」石柱 太田 靖彦 度は、昭和三十二年四月一日になくなったが、建物と言葉は、今も残っ ており、一日も早く忘却の彼方へ捨てさりたいものである。話は前後す るが、この色町の発生を調べてみると、万延元年九月(一八六〇年九月) ロシヤマタロス休息所の設置から始まっている。 話を戻し て、私 の目に 写 った、 戦 前の町 の 人の 様子 を 考えて み ると、 船員さんが多かった様に思う。遠く東支那海で働く、以西底曳引網のト ロール船の船員さん、三菱造船所に通う工員さん、次に、三菱の下受け 工場の工員さんと、それに、一般の会社の人など、俗にいう、サラリー マンの所帯が、多かったように思う。また、よく耳にすることで、昔か ら 稲 佐 と い う と、 遊 郭 の あ る 町 と か、 色 町 と か、 い う 人 が 多 か っ た が、 私は、不満である。町に住んでいると、そんな感じはまったくなく、大 変住みよい町である。色町というのは、町の中の特別な区域に、存在し ていただけのことであって、町の人は、人情味豊かで、格式ばらず、大 らかで、つましく、それでいて、どことなく、稲佐人気質の筋の通った ところがあり、貧富の差があまりなく、近所同志が、良く助け合ってい る町であったと思う。 もら 例えば、俗に言う、「貰い風呂」は、近所同志の関係をよく表している と思う。戦前、風呂は風呂屋でというのが一般的で、風呂を持っている 家庭は、少なかった。私の家にも風呂はなく、夏の間だけ、家の裏の洗 濯 場 の 土 間 に、 桧 の 風 呂 を 据 え、 入 浴 を し て い た。 母 は 風 呂 が 沸 く と、 いつも隣の子供に、「○○ちゃん風呂沸いたよ、はいるねー」と、垣根ご しに声をかける。隣の子供から「おばちゃんはいるー」という返事がくる。 すると、間をおかず母が、「一緒にはいってー」という、仕方なく風呂に はいる用意をしていると、時々であるが、隣の子供は手ぶらでくる時が あった。そんな時、母は「てんげ(手拭い)はあそこ」と、指さしていたこ とを思い出す。タオルを取って、一緒はいると隣の子供は、我が家同然 風信 ○三月。平成二十八年一、二月お休みしておりました長崎歴史文化協会の各 講座を左記の通り再開致しましたので御自由に御参加下さい。(会費不要、 資料代各自) 一、長崎学を学ぶ講座 毎週月曜日午前十時半より。講師・毎回不同(資料 代二〇〇円) 一、古文書を読む会 毎月第一・第三火曜日の二回、午前十時半より正午(指 導 川原清・米田輝臣・久保美洋子。)(後見、越中) 一、水曜懇話会 毎週水曜日午後一時半より三時。(竹之下・江口・吉田・野 口・末永(女)の各氏を中心に) 一、食の文化を考えるサークル 毎月第二・第四金曜日午后二時より三時(脇 山壽子、太田靖彦・大束良平各氏を中心に。) ○先日来、「昼休みに自由に話の出来る場所があったら」 と言うお声があり、当協 会事務所を「昼休みの集いの場」として開放する事にしました。毎週月・水・金 曜日十二時頃より午後一時頃まで。(昼食は各自持参)御自由に御参加下さい。 ○県九條の会各支部長会、二月二十日(日)新年度初連絡会開催、本年度行事 予定・会計報告等あり。五月四日(祝)には「第十回・親子で歩く 憲法さ るく」の企画発表あり。今年は旧長崎六街道のうち北街道(神功皇后ゆかり の鎭懐石・原爆被爆の片足鳥居と大楠)を中心に散策するので多数ご参加 下さいとの事。 の『 F. Meijlan 』にあ Japan ○次に三月と言えば三日の「おひな祭」と「お彼岸」がある。江戸時代の長崎の 「ヒナ祭」については古賀先生はオランダ商館の る「 Het Poppenfecst 」を読まれるとよいと記しておられるし、シーボルト の長崎年中絵の中にも長崎の家庭ひなまつり風景が描かれている。そして 四日は裏節句とも言い「前日とほぼ同一なり」と記してある。戦前は初節句 の家に見物に姉達は出かけていた思い出がある。 ○今月ご寄贈いただいた書籍 西日本文化協会より『西日本文化№四七七』「東アジアの中世交易~博多湾・ 有明海の輝き~」等の記載あり(七〇〇円) 世界文化社より『家庭画報3─2016』「国宝を観る」日本の誇るべき文化 国 宝 の さ ま ざ ま、 其 の 第 一 九 州 の 国 宝 建 造 物 と し て 檀 ふ み 女 史 は 長 崎 大 浦 天 主 堂・ 唐 寺 崇 福 寺 を訪ねられている。(一、三〇〇円)
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