消えた名前

 消
【文学賞】
えた名前
下校のチャイムが鳴っている。
栃 本 はるみ ぼくは、教室の後ろの黒板を見つめたまま、こぶしをにぎりしめる。くやしくて、チョー
クの文字がぐにゃりとゆがむ。
遠き山に日は落ちて。
夕暮れを告げるメロディーが流れる。ポタン、と音をたててなにかがうわばきの先をた
たく。
涙だった。
ぼくは、手をグーにしたまま、そで口で両目をぬぐう。帰りの音楽ってこんなにかなし
い曲だったっけ。
きょう、新しいクラスで係決めがあった。新しいクラスといっても、ぼくの学校は一学
年に二クラスしかない。だから、もう、みんな、顔も名前もぜんぶ知っている。
「生き物係をやります」
ぼくが手をあげると、
「ええーッ?」
「ムリだよォ」
「絶対ダメ」
いっせいに反対の声があがった。
「先生、ヒロトくんは無理です。だって、いつもふざけてばかりいて、ぜんぜんニワトリ
小屋のそうじとか、手伝ってくれないんです」
「そうそう。河本くんはいつもアヒルを追いかけてるだけです」
「アヒル池に水まいてるだけ」
先生が困った顔をした。
「こんどはちゃんとやります。そうじもエサやりもちゃんとやるから」
ぼくが約束すると、先生はうなずいて、後ろの黒板にぼくの名前を書いてくれた。
けれど、それが、いつのまにか消えていたのだ。生き物係のところに書いたぼくの名前
が、消えていたのだ。きっと、反対しただれかが消したんだ。
ぼくは、もう一度涙をぬぐってからランドセルを背負った。そして、駆けだした。通学
路を通り越してずんずん走る。ふでばこが背中でガタゴト、狂ったように躍った。
あ。
見晴らし公園にたどりつく直前のこと。ぼくは、階段の最後の一段につまずいた。
ずざざッ。ゴツン。いてッ。
黒い岩におでこをぶつけた。
「いてッ、って、そりゃ、こっちのいうこっちゃ」
耳もとで声がした。あたりにはだれもいない。まっ黒な岩がひとつ、あるだけ。
「いま、おまえ、しゃべった?」
岩からは、なんだか魚の腐ったような匂いがした。大きさはソフトボールくらい。ゴツ
ゴツした変な形の岩。
「おまえとは失礼な。これでも神様のはしくれじゃて」
いわれてみると、岩にはちゃんと顔があった。
「こんな姿になってしまったがの、これでも、 も と は と い え ば、 れ っ き と し た 神 様 な ん
じゃ」
ぼくはたずねた。
「なんて名前?」
「名前? 名前は、えーと、名前は、あのぅ」
「忘れたの?」
「ん、ああ。ちょいとな、忘れてしもうた」
そのとき。
「おお。そこにおられるんは、えべっさんじゃねえのかえ?」
見晴らし公園のほうから声が聞こえた。のぞいてみると、木かげのベンチに小さなおば
あさんが腰かけている。
「えべっさん?」
岩は、おばあさんが口にした名前をくりかえした。
「うーむ。そういわれると、たしかに、わしの名は『えべっさん』だったかもしれんなぁ」
「なにを呑気な。自分の名前を忘れちまうとは、いったいどういうことじゃ」
おばあさんが叱った。
「名前ってもんはな、命のつぎに大事なもんじゃて。決して忘れてはならねえ。死んだっ
て忘れちゃならねえ。あたしなんか、ボケたって絶対、忘れねえ。浜田サカエ。それがあ
たしの名前。親につけてもらった大事な名前じゃよ」
つぎの瞬間。
「あー、いたいた。こんなところにいらっしゃったんですかぁ」
首に名札をぶらさげた男の人が丘をくだってきた。
「鈴木さん。ダメじゃないですか。勝手に抜けだしちゃあ」
男の人はまっすぐおばあさんのほうにむかった。
え? ぼくは首をひねった。
「さあ、鈴木さん。じきに暗くなりますよ。ホームに帰りましょう」
名札の人が、やさしくおばあさんの肩をたたいた。
ぼくは、おばあさんが、ちがいます、というのだと思った。ちがいます、鈴木じゃあり
ません、浜田サカエです、というのだと思った。
だけど、おばあさんはそうはいわず、
「そろそろ帰る時間かねえ」
と、ゆっくりと腰をあげた。
夕日が海に落ち、そこらじゅうが青のような灰のような色になった。丘のうえに、介護
ホーム「海のみえる丘」の明かりがそっと灯る。
「もう帰らないと」
ぼくは立ちあがった。ぼくの家は、ホ ワイトテラス南浜というマンションだ。 サ ザン
ビーチ三丁目にある。
「おお、そうか。帰るのか」
えべっさんがつぶやいた。土の上にごろんと転がったまま。
「えべっさんは帰らないの?」
ぼくはえべっさんを見おろした。
「うう、う。じつはの、わしには帰るところがないんじゃ」
えべっさんの顔がゆがんだ。
「うう。忘れちまったんだ。住所は覚えとるんだがなあ。見当たらんのじゃよ、うちが」
「どういうこと?」
「じつはな、わしな、ずうっと前の秋にな、ひとりで出雲の国に旅立ったんじゃよ。わし
かて神様のはしくれ。神々が集うという出雲にいっぺん行ってみたかったんよ。たまたま
乗り合い雲に乗れたもんだでな」
ここで、えべっさんは、ひとつ、しゃっくりをした。
「だがな、いざ出雲についてみると、皆に、えべっさんは留守神さんだで留守番しとらな
あかんで、っていわれてな。それで、家に帰ろうとしたんだがな、こんどは乗り合い雲が
ちっともつかまらんのよ。そのうち冬がきて春がきて夏がきて。 また秋がきて春がきて。
そうこうするうち、うちがどこかわからんようになってしもて」
語り終えると、さらに三つ、しゃっくりをした。したかと思うと、いきなりおいおい泣
きはじめた。すると、目からは涙がボロボロこぼれ、鼻からは鼻水がズルズルとたれ、口
からはよだれがダラダラとたれて、えべっさんの下に黒くてぐちょぐちょの水たまりがで
きた。
「汚いよ、えべっさん」
ぼくはあとずさった。
「えっ、え っ、え えん。どうせ、わしは汚いよ。帰る家だってなくなってしもうたんじゃ」
「しょうがないなあ」
ぼくはなんだかかわいそうになって、気がつくと、えべっさんを、ぎゅうぎゅうと、ラ
ンドセルのなかに詰めこんでいた。
家に帰るとママの目が赤かった。
「ヒロくん、どこに行ってたの。心配したんだよ。もうあと五分おそかったら、ママ、警
察に電話してたわ」
ママは、ランドセルごと、ぼくをだきしめた。
「ごめんなさい、ママ」
ぼくはあやまった。だけど、ママにだきしめられながら、ぼくは、ランドセルのふたが
あいてしまわないか、そればかり心配していた。だって、ふたがあいたらえべっさんが。
さいわい、ふたはあかなかった。ママは、魚くさい匂いにも、えべっさんにも、気づか
なかった。でも、昼間、えべっさんを家においていって、ママとふたりっきりにするわけ
にはいかない。
つぎの日の朝。
ぼくは、えべっさんをレッスンバッグにつっこんで学校にいった。運悪く、習字セット
のいる日だった。ランドセルに習字セットにレッスンバッグ。
「大荷物だぁ」
ぼくがつぶやくと、
「悪いね悪いね、うんうんうん」
えべっさんがうなった。うえから体操着をかぶせたので、ちょっと声が苦しそう。
「しーっ。しゃべっちゃダメだよ」
学校によけいな物を持っていったら先生に叱られる。
三時間目は書写の時間だった。
「うんうん、ううん」
バッグのなかでえべっさんがうなった。
「えっへん、ごほごほ、うぉっほん」
ぼくは、
わざと大きなセキをした。おしりがイスから浮かんじゃうくらいいきおいよく。
えべっさんの声がみんなの耳にとどかないように。
つぎの瞬間。
ぼっとん。ぼくのイスの横に、なにかが落っこちた。チラ、と見ると、まっ黒で、しか
も、にゅるにゅるとウズを巻いた、ウンチの形をしている。
うわっ。ぼくはあせった。そういえば、きのうから一度も、えべっさんをトイレに連れ
ていっていない。どうしよう。困った。早くかたづけないと。
ガタン。ぼくはイスをさげ、すずり用のぞうきんをウンチにかぶせた。ウンチをさわる
のはイヤだった。けど、エイッ、と、気合いを入れて、それをふきとった。
でも、
ひとふきでは足りなかった。
床にはまだまっ黒なにゅるにゅるがべっちゃりとくっ
ついている。
ぼくは、しゃがみこみ、習字用の新聞紙で床をこすった。それでも足らず、自分の教室
そうじ用のぞうきんを使って、床をみがいた。
と、そのとき。
「ヒロトくん、ごめん」
後ろからショウくんがささやいた。
「ぼく、いま、練り墨、落っことしちゃった」
ショウくんが床を指さした。
「ヒロトくんがあんまり大きなセキをしたから、びっくりして、チューブをぎゅう、って
押しちゃったんだよ。ごめんね。ふいてくれてありがとう」
ショウくんがすまなそうにあやまった。
え? じゃあ、あれは? ぼくはきょとんとしてしまった。
じゃあ、あれは、えべっさんのウンチなんかじゃなくて、ただの練り墨?
ぼくの身体から力が抜けた。そして、安心した。
ああ、よかった。ウンチじゃなかったんだ。におってきたらどうしよう、ってすごく心
配したんだ。ぼくは、ほうっ、とひとつ、大きな息を吐いた。
そのつぎの日のこと。
えべっさんと新しいぞうきんをレッスンバッグに入れて学校に行った。きのう、
ぼくは、
汚れたぞうきんを見せたら、ママが、がんばってきれいにしたのね、とほめてくれた。そ
して、押し入れから新しいぞうきんをだしてくれたのだ。
が、こんどは給食の時間のこと。
「ぐうう、ぐぐぐう」
えべっさんがうなった。
おなかすいたのかな。そういえば、ぼく、えべっさんに一度もごはんをあげていないな。
その日のメニューは、牛乳とグリンピースごはんと魚フリッターと野菜のケチャップい
ためだった。
「えべっさん、えべっさん」
ぼくは、レッスンバッグのなかにささやいた。
「んにゃ? なんじゃこりゃ?」
ぼくは、バッグの口に、牛乳のストローをつっこんでいた。
「いいから、それをくわえて、吸ってみて」
えべっさんがくわえやすいように、ストローをグイ、と、おりまげる。
「ごくごく、ごっくん」
えべっさんののどが鳴った。でも、つぎの瞬間。
「ぐえええーっ」
変な声が聞こえて、ぼくの横に、びしゃびしゃと白い雨がふった。牛乳だった。
ぼくはあわてた。いそいで新しいぞうきんを手に、はいつくばった。ゴシゴシ、ゴシゴ
シ。床を、いままでにしたことがないくらいいっしょうけんめい、ふいた。
やっぱり、牛乳はえべっさんの口に合わなかったんだ。こんどこそ、えべっさんのこと
が先生にバレてしまう。
ぼくは、あせった。
すると、どうしたことか、となりの席のシンちゃんも、自分のぞうきんをだして手伝っ
てくれた。
「ごめんね。ぼく、牛乳、苦手なんだ。グリンピースも苦手で。河本くん、ふいてくれて
ありがと」
シンちゃんがすまなそうにいった。見ると、床には、牛乳にまじって、ところどころに
緑色のグリンピースが転がっている。
そのとき、ぼくのレッスンバッグのなかから、
「ゲエエップ」
大きなゲップが聞こえた。ごほごほごっほん。ぼくは、また、おおげさにセキをした。
「ああ、疲れたぁ。ダメだよ、えべっさん、声をだしちゃあ」
帰り道、ぼくはえべっさんにぼやいた。すると、
「すまんのう。本当にもうしわけない。もうこれ以上、おまえに迷惑をかけることはでき
んのう。うう、ううう」
また、えべっさんが泣きだした。
「でも、わしには帰るところがないんじゃ」
「困ったなあ」
とりあえず、ぼくは、見晴らし公園にむかうことにした。おととい、えべっさんと出会っ
た公園だ。すると、また、木かげのベンチに小さな人影があった。
「おばあさん?」
「ああ?」
「どうしたの、こんなところにひとりで?」
「ああ。どうしたもんかいな。帰りたいのに、帰れんのじゃよ」
おばあさんがつぶやいた。
「おお、わしもおんなじじゃ。帰りたいのに帰れんのじゃ。うちが見つからんのじゃよ。
たしかにこのあたりのはずじゃのに」
「帰りたいのに帰れんことほどつらいことはない」
ぼくは、高台に立って海のほうを指さした。
「地図ならわかるよ。あっちの岬のほうが、サザンビーチ三丁目。あのマンションは、ホ
ワイトテラス南浜。ぼくのうちだよ。そして、こっちの山は、海のみえる丘一丁目」
「ううーん」
えべっさんとおばあさんが同時にうなった。
「そんな名前の町は知らんよ。わしの知っとる町はな、南浜側に、奥田の浜。サザンもホ
ワイも聞いたこともない」
「そうじゃ、あたしの知っとるのは白岩村にホコラ山。海の見える丘なんて名前は聞いた
こともない」
ふたりは、うん、うん、と大いにうなずきあった。
「わしの覚えじゃ、このあたりにはたしか、浜田の八つぁんのうちがあるはずじゃのに」
「浜田の八つぁん?」
「信心深い嫁さんがおって、毎朝、わしの祠にだんごをそなえてくれたんじゃ」
「祠にだんごを?」
おばあさんの目がきらりと光った。
「そりゃ、あたしのおっ母さんだ。だって、八つぁんはあたしのお父っつぁんの名前じゃ
もの」
えべっさんは、目をまるくした。
「すると、おまえさんは、浜田の八つぁんの娘っこかの?」
「そうじゃそうじゃ。あたしゃ、浜田のサカエ。浜田のいちばん末の娘っこじゃい」
おばあさんは得意げに名乗り、
「ならば、えべっさんは、ホコラ山の山祠、あそこにおられる海の神様、恵比寿神様じゃ
あねえかいの?」
と、たずねた。
こんどは、えべっさんの黒い頭がぴかりと光った。
「ああ、ああ。ひさしぶりに聞いたぞ、その名前。わしの本当の名は恵比寿神。家は、ま
さしく、ホコラ山の山祠じゃ」
そうとわかったら善は急げ。
ぼくは、えべっさんを右腕にかかえ、おばあさんの指さす山をめざして走った。
道はけわしく、木や草がぼうぼう茂っている。もう、ずっと長いあいだ、だれも通らな
かったみたい。だけど、そんなことなどなんのその。この山道を登れば、えべっさんの家
がある。ぼくは、そう思って力をふりしぼった。
すると。
すると、山道のてっぺん、白岩の割れ目に祠があった。小さくておんぼろな祠だった。
でも、ちゃんと扉もついている。
と、そのときのこと。
ぼふんっ。大きな音がして、ぼくの足もとにくるくるとつむじ風が走った。走ったと思
うと、ぼくを巻きこんで大きく立ちあがった。そして、ふっ、と右手が軽くなった。
「あれっ」
見ると、えべっさんが、腕のなかにいない。祠の扉が開いて、なかに、ぴったりとおさ
まっていた。
「えべっさん」
ぼくは叫んだ。
けれど、えべっさんはただの黒岩になって、なにもこたえない。いつのまにつかまえた
のか、胸にりっぱな岩の魚をだいて。
「えべっさん。ここが、えべっさんのうちだったんだね。えべっさん、ホントに神様だっ
たんだね」
祠のなかで、えへん、といった気がした。ぼくは、目を閉じて、海の神様、恵比寿様に
むかって両手を合わせた。
月曜日。
新しいぞうきんを持って学校に行くと、後ろの黒板に、ぼくの名前が書いてあった。
河本ヒロト。生き物係のところに。へたくそな文字で。 ひと目で先生の字じゃないとわかった。だれが書いたかはわからなかった。けれど、消
す人はもう、だれもいなかった。