【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 【Historiographical Institute, Okinawa Perfectual board of Education 】 Title Author(s) Citation Issue Date URL Rights 私の半生と研究 天野, 鉄夫 史料編集室紀要(13): 2-26 1988-03-30 http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7301 沖縄県立図書館史料編集室 私 の半 生 と 研究 ー 天 野 鉄 夫 私 は、 明治 四十 五年 三月 三十 一日、沖 縄本 島 北 部 の大宜 味村 字 鏡 波 で父金 城絹 助 、 母 ウ シ の長 男 と し て生 ま れ た 。 私 の名 前 は鉄 郎 と 書 き 「て つお」 と 呼 ぶ よう にな って いた が、 家 族 以外 の人 は 「て つろう 」 と 呼 ぶ ので、終 戦後 、 天 野 に改 姓 の折 、名 前 を 「 鉄 夫」 にかえ た 。 六 人き ょう だ いだ が 、 男 の子 は私 ただ 一人 。 そ のせ いか幼 少 のこ ろ、私 は た い へん甘 やか さ れ て育 った 。食 べ物 の偏 食 は ひど - 、みそ汁 は臭 いと い って飲 まず 、も っぱ ら し ょ う ゆ昧 つけ に限 ら れ た 。背 丈 は 人並 み に伸 び た が 、体 つき は やせ細 って いた 。体 質 も ど ち ら かと いう と 虚 弱 で、 年 か ら年 中 風 邪を ひき 、頭痛 や下痢 の連 続 だ った 。小 学 校 へ進 学 し ても鼻 水 を た ら し、級 友 か ら は 「お前 は、ソー メ ンを鼻 か ら た ら し て いるね」 と よ- ひ やか さ れ も し た 。精 神 面 の発 育 も 遅- 、 十 五歳 にな るま で毎 晩 オネ シ ョ を し て母を 困 ら せた 。県 立 農 林 学校 1年 にな ってか ら寄 宿 舎 でも 二、 三回も ら し、 同室 の室 長 にた た か れた こと を 思う と 、赤 面を 禁 じえ な い。 沖 縄 師 範 学 校 卒 の父 は、 私 が も の心 ついた こ ろは、 辺 野書 や古 宇 利 小学 校 など の校 長 を 務 め て いた 。 父 の転 勤 に伴 い、小 学 二年 ま では辺 野喜 、古 宇 利 で暮 ら した 。大 正 八年 に父 が大 宜 味 村 長 に選ば れ、以後 、私 は鏡 波 で育 っ -2- 私の半生 と研究 た 。鏡 波 は、他 市 町村 の者 は 「ノ ハ」 と 呼 ぶが 、 大宜 味 村 人 の間 では 「ヌー ハ」 と 発 音 す る。 海岸 線 か ら約 五百 メート ル奥 ま った谷 あ いにあ る集 落 で、夏 は非 常 に涼 し- 、冬 は北 風 が吹 き 込 み沖 縄 一寒 い集 落 と いわ れ て いる。 そ の人- 日に戟後 、 辺 土名 高 等 学 校 が 設 立 さ れ、 いま では若 者 の活 気 あ ふれ る集 落 に変 わ った 。 父 は戟 前 、 県 町 村 長会 長 、帝 国農 会 議 員 、県会 議 員 など を 務 め、 戟 後 は、琉 球 政府 の教 育 委 員 、 沖 縄pTA連 合会 会 長 な ど も し て いた が、 八十 四歳 で亡 - な った 。 母 は、字 大宜 味 の屋 号前 田 の出身 で、 村 の大 人 たち に美 人 と いわ れ て いた のを 覚 え て いる。 働き 者 で子供 を 養 育 す るか た わ ら、養 蚕 にも精 を 出 し、 絹 や芭 蕉布 の織 物 で家 族 全 員 の衣 類 を 間 に合 わ せ て- れ た 。 母 は米 軍 が沖 縄 へ上 陸 す る直前 、心 臓病 で他 界 した。中 国 大 陸 に いた私 は、大 戦 の混 乱 で沖 縄 と の音 信 が中 断 。そ の悲 報 を 知 っ た のは、 引き 揚 げ後 だ った 。姉 二人 と妹 三人 のき ょう だ いは、全 員 健在 であ る。 農 林 業 、植 物 分 類 に私 が 興味 を持 ち は じ め た のは父 の影 響 が大き い。 沖 縄自 然 界 の学 問 的 開拓 者 と いわ れ た黒 岩 恒 教諭 ( 後に県農林学校長)か ら沖 縄 師範 で、植 物 学 や農 学 の教え を受 け た 父 は 、卒 業 後 も本 職 の学 校 長 、村 長 を や る傍 ら、家 庭 では か んき つ園 一ヘク タ ー ル、 茶 園 一ヘクタ ー ルと 山 林 経 営 を した 。 休 み のた び に私 を 連 れ出 し 「こ の木 の和 名 は、 こう 呼 ぶ」 「 樹 木 の管 理 は、 こう し て手 入 れす る」 な ど と 手 取 - 足 取 り 、 黒 岩 教 諭 か ら学 んだ こと を 伝 授 し て- れ た 。 そ れ が私 にと って 「 植 物 分 類 研究 」 のき っか け にな った と 思う 。 昭和 二年 、 私 は嘉 手 納 にあ る県 立 農 林 学 校 へ入学 し た。 そ のこ ろま で虚 弱 体 質 は直 らず 、 一年 の二学 期 に気 管 支 炎 を患 い休 学 し、 那 覇市 泊 の白 山 病 院 へ入 院 、 虚 弱 体 質 の改 善 や気 管 支 炎 の治 療 に専 念 した 。 農 林 学 校 入学 時 の私 の身 長 は' 一六 三 ・五 セ ンチ、体 重 四七 二 二キ ロだ った が 、 退 院後 は健康 も す っかり 快 復 、身 長 一六 六 セ ン チ、体 重 五 二キ ロと 増 え 、多 - の級 友 が 目を 見 張 る ほど 発育 した 。 - 3- 私 の性 格 は、ど ち ら かと いえ ば 陽気 だ った。今 流 の言葉 では 「ひ ょう き ん者」。農 林学 校 入学後 も そ の性格 は 変 わ らず 、他 の生徒 に-ら べ言動も奇妙 なと ころがあ った かも しれな い。全校生徒 から 「 変 人」と よ- いわ れた。 当 時農林 学校 では上級生 の制裁 など があ- 、二年 生ま では努 め て控え め に行 動 し、同期 生 に歩 調を合 わ せ て いた。 だ が'最上級 の三年生 にな る や いな や、 それが 一気 に表 面 に出 て父母を はじ め学校 関係者を手 こず らせた。 三年 生 のあ る 日、校外 実 習 で水 釜 へ出 た。小用をも よお した私は'立ちど ころに力 い っぱ い放出 した。近 - で 野良仕事 中 の老 婦 人が見 て 「ここは人骨を祭 ったと ころであ る。立ち小便 す ると 、 い つかお前 の身 に上 にたたり があ る。早-祈 とう しなさ い」 とど なられた。若気 の いた- も手伝 い 「 人骨 な んか に魂 があ るも んか。たたり な ど迷 信だ」と 反抗 した。そ の翌 日、再度 現場 へ出 かけ、 三個 の頭 ガイ骨を宿舎 へ持 ち帰- 、 ペン立 てや灰 皿に使 用した。卒業を 間近 に控え ' いざ 引 っ越す段 にな-、 二個 は嘉手 納 で処 分 した。残 る 一個 は郷里 へ持 ち帰り、自 宅 の仏壇 のわき に置 いた。 それを 母 が見 つけ、 ぴ っ-- 仰 天。 「早-始 末 し ろ、 早-始末 し ろ」 と 大 騒ぎ し て い た のには、わ れな がら閉 口した。 2 県立農林 学校 では 二年 ま で 一般教養を 学び、 三年 へ進級す ると農学科 と林 学科 の二 つの専 門科 に分 かれた。同 期生九 十 三人 中、私と福山安喜 ( 元営林所長)、豊 浜光 盛 ( 畜産会社社長) 、安 次富 徳 1 ( 故人、元県農業会職員)、松 本盛 和 ( 故人) 、仲 宗根 善 人 ( 故人、元警官) 、松 川寛保 ( 元沖縄市選管委員長) の七氏 が林 学科 を 選 び、他 は農学科 へ進 学 した。と ころが そ こでも私 のひ ょうき んぶり は、 エスカ レートす るば かりだ った。学校 関係者を手 こず ら -4- 私の半生 と研究 せた こと を 、今 ふり 返 ると これま た赤 面 の いたり であ る。こ こ では同期 生 の豊 浜光盛 君 が ﹃ 嘉 手 納 農林 昭六会 誌﹄ に寄 せた 思 い出 の 1部 を 引 用 し てか ん べん願 いた い。 「天 野 君 を 親 分 と す る 四人 ( 松川、安次富'松本、仲宗根) の群 団 は、 農 業 実 習 を 嫌 い林 科 の校 外 測 量 実 習 で自 由自 在 に遊 び 、生意 気 な行 為 を 思う 存 分発散 さ せ る目的 であ った。 これ が授業 時 間中 、 ま た は校外 測 量実 習 中 に Ⅴ 先 生 が 黒板 に字 を書 いて いるすき に飯 を 口に入 れ る。先 生 が先徒 に向 かう と弁 当箱 を机 の中 表 面化 し級監 の先 生 の苦労 も察 す る にあ まりあ - であ った。 天 野を 大 将とす る群 団 四人 は、 一時 間 目 の授業 か ら 弁 当 箱 を 取り 出 し に入 れ る。講義 ど ころでな い。 ま る でき つねと た ぬき のだ ま し合 いであ った。 そ れが先 生 の目 に止 ま-怒 ると 、 教壇 の上 に座 -込 み、腹 を お さえ ﹃ お腹 がす いて勉 強 は でき ま せ ん﹄と 授業 の邪魔 を す る。完 全 に先 生 の負 け で、 先生 は ﹃ 序 に戻 - な さ い﹄ と嘆 願す るよ-外 はな か った。 野外 実 習 で高 低 測 量 を 開始 す るた め、 ト ラ ンシ ット ( 測量器機'当時は高価なもので、県土木課と林務課及び農林学 ″ を食 べて いる最中 、校 外 取 -締 ま- の校 長 が や ってき 校にしかなか った)を嘉手 納 駅前 の道 路 に据え つけたま ではよか った が、 そ の隣 の食 堂 は、 天野群 団 の入- ぴ たり の食 堂 だ った。機 器を道 の真 ん中 に放 置 し て 拾 〟 銭 そば た。天 野群 団 は ﹃ そら油 虫 が来 た ノ﹄と の号令 で、そば茶 わ んを 片手 に台 所 へ逃 げ込 み、 一滴 も残 さず 平 らげ た。 そ の後 は駅裏 のキビ畑 にか- れ、難 を のが れ る光 景 は 日常 茶飯 時だ った - -。 」 農林 学校 で の学 校成 績 も 同期 生 の松 川寛保 君 が前 記 の昭 六会 誌 で述 べて いる。 これも借 用 した い。 「天 野君 は、頭 脳明 せき だ った。席次 は 一番 だ ったり ピ ソ近 - な ったり で、 一学期 は 一番 、二学期 は九 十九番 、 三学 期 は 二十 八番 と性 格 ま る出 し で振幅 が激 しか った。学科 平均点 が 八九 。七。素 行 、実 習、体操 、教 練を含 め た総 合 平均 は七十 八点 だ った。 」 -5- 当 時農林 学校 では、授 業料 を滞 納 す ると 三 日以 上 の登校 停 止 処 分 があ った 。 そ れを い いこと に私 は、親 元 から 届 けら れた金 を 学校 へ納 めず 登校 停 止 処 分 にな った。 これ チ ャン スと ば か-私 は'中 頭郡内 を 植物 採 集 のた め排 掴 し た。 やが て学 校 か ら直 接 親 元 へ連 絡 が行 き 、 それを 知 った 父 がび っく り し て嘉手 納 ま で飛 ん でき た。 「 親の 心 も知 らず こ のバカ者 が、 でた ら めば かり し て困 った も んだ」 と こ っぴど - しか ら れた こと は、 いまだ に脳裏 に 残 って いる。 農林 学 校 の卒業 式 を 一週 間後 に控え て、 郷 里大宜 味 村字 鏡波 へ帰 る こと を 決 めた.。 そ のこと を担 任 の村 田 一男 教諭 へ告 げ ると 「 卒 業 証書 は、どう す るか」 と 開 かれた。 これ に対 し私 は 「 農林 学校 を卒 業 し てお れば 、 そ んな 紙切 れ は何 の役 にも立ち ま せ ん。 タキ つけ に でも し て下さ い」 と答 え た。村 田教 諭 には 「こ のバカヤ ロー、親 の こと も考 え てみ ろ」 と さ んざ んど な ら れた 。 これも若 気 の いた- で、今 思う と村 田教 諭 に大変 無 礼 にな った。佐 賀 県 出身 の村 田教諭 が戦後 来沖 された折 、そ のこと を 深- おわ び した 。村 田教諭 は 「お前 は人 間 にな らな いと 思 っ て いたが、 よ- も琉球 政府 農 林 部 長 にま でな った なあ 」 と 述懐 さ れた こと には恐縮 し た。 強 が-を いう のではな いが、卒 業 証書 と いう のは実 際何 の役 にも立 たな い。 これま で私 は何 度 と な-職 を変 え た が、 一度 も そ の卒業 証 書 を 就 職 の際 必要と した こと はな か った 。 3 私 が県立農 林 学校 を 卒業 した のは、 昭和 六年 春 であ る。 父 に卒業 後 の進 路 はどう す るかと 聞 か れた。農林 学校 では遊 ん でば かり いた ので、上京 し て 一カ年 ぐ ら い予備校 で勉 強 し、 上級専 門学 校 へ行 き た いと 話 した。 父 から -6- 私の半生 と研究 は 「目 の前 にあ る農 林 学校 でも ろ- に勉 強 しな い者 が、親 の目 のとど かな い東京 へ出 た ら何を し でかす か分 らな い」 と 見事 一蹴 さ れ た。 だ が、内 心 父 は、 私 の将来 に ついて心 配 し て いたよう であ る。当 時 、満 州事 変 ( 同年九 月ぼ っ発)の前 ぶれ で、世 の中 は大 不況 であ った。大 学 や専 門学校を 出 ても就 職 難 の時 代 であ る。父 は親 交 の厚 か っ た 県 の農 林 課 長 井 田憲 次 氏 ( 後に警察部長)と ひそ か に私 の将 来 に ついて相 談 し て いた。 そ の結 果、 井 田さ ん の 推 せ ん で農林 省茶 業 試 験 場 附 属茶業 講 習所 ( 二年制)に入所 した 。 静 岡県棒 原 郡金 谷 町敏 之 原 の農林省 茶 業 試 験 場 附 属茶業 講 習所 へは、 父と 一緒 に出 かけた。鹿児島 ま では、 具 志 頭村 出身 の伊仲 暗県会 議 員と 旅を と も にした。伊 仲議 員 は東 京 農 大卒 で、県議 会 では農 業 問 題専 門 に活 躍 され、 名 声 は広 -県 民 の間 でも知 ら れ て いた。伊 仲 県議 が 「 鐸助 は良 い子を持 ち幸 せだ ね」 と いわ れ、 三円 の鰻 別を 下 さ った。 父 は 「 伊 仲 さ んは人情 家 だ ね」 と感 激 し て いた。 茶 業試 験場 へ着 - と場 長室 へ通 さ れ、講 習所 の規 律 や学 習 のや-方 など に ついて説 明を受 けた。 入所後 約 一週 間経 って同僚 が、 私 の歓 迎会を 催 し て- れた。初 め て 口にした 日本 酒 は、 口当 たり も よ- 、 甘酢 っぱ -う ま か っ た。 が ぶが ぶ飲 ん で いると 同僚 たち が 「 南方 の酒豪 がき た」 と ささ やき 出 した。 しば ら- す ると急 に酔 いがまわ - 、 ダ ウ ンし てしま った。 二日酔 いで翌 日は、 一歩 も起 き あ が れな か った。あ の苦 し みは今 だ に忘 れら れず 、 そ れ以来 、 日本 酒 は飲 めなく な った。 茶業 試 験場 では、春 先 の四月 から 八月 にか け て実 務 、九 月以降 は集 中的 な講義 が行 わ れた。夜 がまだ 明 けな い 午 後 五時 ご ろ起 床 し、 日暮 れま で強行 さ れた茶 の製 造実 習 は、 か つて肉 体 労 働 の経験 のな い私 には辛 か った。当 時 は書 物 も ほと んど なく 、講義 が終 わ ると場内 図書 館 に行 き 、徹夜 で茶 の栽 培 、製 造 に関す る文 献 など を書 き 写 した 。 そ の量 はA5判 の本 にし て約 二千 ページ にも なり 、 現在 も保管 し て いる。 講義 の合 間 には、茶道 や生 け花 -7- のけ いこも初 歩 的 な手 ほど き を受 け た。 し か し散 漫 な性 格 の私 は精 神 統 1の面 で、徹 底 した け い古 を積 む こと が でき な か った のが いま でも悔 やま れ てならな い。茶業講 習所 入所後 、初 の正月休 みを利 用し て東京 へ出 た。神 が 、 いま でも記念 に持 って いる。 田 の 一誠 堂 で、伊 藤 篤 太 郎 。松 村 任 三 の ﹃ 琉球植物誌﹄ ( 欧文)と ﹃ 沖 縄県 土地整 理紀 要﹄を そ れ ぞ れ 八円 で買 っ た 昭和 八年 三月、農林省茶業試 験場付 属茶業講 習所を卒業 した 。本 土 に就職す る つも- であ ったが、両親 の反対 に合 い帰 郷 した。帰 るとすぐ 国頭郡農会 で、技手 と し て働 いた。いま でこそ農業 の指導 は国、県 、市 町村 が行な っ て いるが、当 時 、奨励普 及事 業 は、も っぱ ら農会 の手 に委 ね ら れ て いた。主 な仕事 は、各種作物 の栽培 、農産物 加 工、農業経営 の講 習会 、各種 品評会、共進会 の開催 など であ った。市 町単位 に農会 があ り、国頭郡区を統轄す る のが国 頭郡農会 、各 郡を統轄 す る のが沖縄県農会だ った 。国 頭郡農会 職員 は私を含 め 三人。主任 技手嘉数宜有 氏 ( 元本部町長)書 記玉 城幸 五郎 氏 ( 元今帰仁村長)ら が いた。農家 の意 見を 聞- ため郡農会主催 の 「 農事 懇 談会」 も毎 年 開 かれた。県 中央 からも多 く の関係者 が出席 し て農 民 の声 に耳を かたむけ たも のであ る。 国頭郡農会在職 中 は バ スなど の乗 -物 には乗 らず、 も っぱ ら自 転車を利 用し て郡 下 の農業改 良組合 や農家 の指 導 に当 た った。山 や御 縁 で色 々 の植物を採集 、名 前 の分からな いのは標本 にし て京都 大学 の小泉源 一、大井次 三 郎 、北村 四郎 、 田川基 二、外 山礼 三、東京 大学 の本 田正次 、伊 藤洋 、佐藤 正己 の諸 氏 に、また上 野科 学博物館 の 佐竹義 輔 、台 北帝 大 の正宗 厳敬 、鈴木時夫 、福山伯 明博 士 ら に送り鑑定 し てもら った。 そ の当時、沖 縄 の植物 研究 は坂 口総 一郎 の ﹃ 沖 縄植 物総 目録﹄ を指 標と し て、沖 縄 の植 物を 調査 研究 し て いた が、新種 、新 記録 の発表 、学名 の変 更 など が多 -、前 記坂 口目録 では時代 に適合 しな- なり 「 新沖縄植物 目録」 の発刊を待望 す る声 が多 - な った。 「 新沖縄植物 目録」 の編集 を 目的と し て、 園原咲也 、多 和 田真淳 、高嶺 英 言、 -8- 私の半生 と研究 平良 芳久 の四民 に私 が加 わ- 「 沖縄植物 同好会」を結成 した のも そ のこ ろであ る。発 足 したば か- の同好会 員 は、 全 員張-切- 、協 同 で 「 新沖縄植物 目録」 の発行 も計 画 した。だ が、 昭和 十 二年 ぼ っ発 した支 那事 変 の進 展 に伴 い多 和 田氏 が西表 へ、平良 氏 が鳥 取高 農 へ、 私が中 国製 陸 へと 離散 したた め計 画 は実 現しなか った。 当 時 の沖 縄 の植物 研究者 の活 動状 況を京 都 大学 の田川基 二博 士 は ﹃ 植物 分類地 理﹄ の第 十号 で 「 琉球 フロー の 研究 は近年 目ざ ま し-、多 和 田真淳 、 天野鉄 夫、高嶺 英言、 平良芳 久諸 氏 の努 力 によ って大き -進 展 した。特 に シダ の研究 は、多 和 田、 天野両氏 に負う と ころが多 い」 と記 し て いる。 4 昭和 十 五年 四月、中国大 陸 へ渡- 、北交 通株 式会社 北支 通州産業試験場 の林産係 長 にな った。 日支 合弁 の華 北交 通 は、華 北蒙 彊を 開発す る目的 で設立 された組織 であ る。鉄道 、水 運、自 動車 、農林業 振 興を内容 と し て設置 さ れ、 そ こには多 - の日本人従業 員 が中国大 陸 の開発を 目指 し て日夜 、励 ん で いた。会 社 の職制も上 から参事 、職 員、庸 員、 雇員と 四段 階級 に分 かれ、職 員以 上が正社 員。 私 は植物 分類 の専 門家 と いう こと で、 入社と 同時 に職 員と な った。 二十九歳 。俸給 は六十 五円だ った。 話 は前後 す るが、私 が中国大 陸 へ渡 る気 にな った のは妹敏 子 の夫 、大 城 川次郎 の勧 めがあ って のも のだ った。 農林 省 林業 試 験 場 から 一足 さき (一年前)に中 国大 陸 へ渡 った大 域 が、華 北交 通 入社 をあ っ旋 し て- れた。 そ の 話 がまと ま ると 、またまた両親 に 「こ い つは単身 で大 陸 へ出すと 、何を し でかす かわ から ん」 と いわ れ、急き ょ 名護 町東 江 の豊 田倉 長、 ヒデ の二女 ハルと結婚と いう こと にな った。大 陸 への旅 中 は、妻 ハルと もど も新 婚気 分 - 9- を 満 喫 し た。 当 時 、 李 香 蘭 ( 山 口淑子) の 「 白 蘭 の歌」 が 大 流行 し て いた 「 馬車 は、 行 - 行 - 、夕 風 に- -」 を 鼻 歌 ま じり に旅 の車 中 で歌 い続 け、北京 へ向 か った。釜山 から 北京 行き の汽車 では、国 場幸 吉 氏 ( 硯国場組副社長) も 一緒 だ った 。 北京 へ着 - と 大 域夫 婦 が、 私 たち を 迎え て- れ た。 宿舎 も準 備 され、 助 か った。華 北交 通 の通州 農業 試験 場 へ 配置 さ れた私 は、 しば ら-家 族 と 別 居生 活を し た。 通州 は北京 の北方 約 二十 四キ ロにあ り 、当 時県 出身 の外 務省 事 務宮 田場盛義 が同地 で暗 殺 さ れ大 騒ぎ にな った 。約 一年 ほど し て通州 にも家 族 用宿舎 が建 ち 、妻 を呼 び寄 せた 。 長女 広 子 ( 後に死亡) 、 長 男 一郎 は、 そ こ で誕生 した。 通州勤 務 三年 後 の昭和 十 八年 、 通州農業 試 験 場 が北支 中央 農業 試 験 場 に改 組 ◎拡大 され、 北京 近 く の南 苑 に移 転 した。南 苑 で の暮 ら し は単身 社 員寮 に住 み、家 族 は北京 にお いた 。 理由 は別居手 当 が俸 給 の倍 近 -あ り 、収 入 が よ か った か ら であ る。朝 は夜 の明 け切 らな いう ち か ら試 験 に取-組 み、夜 は夜 中ま で作 物観 察 が続 き 、超 勤手 当 が た っぷ- も らえ た。だ が、 乳飲 み子 二人抱え る妻 は、 何 かと 不安 が ってあ まり喜 ば な か った。 土曜 日 の勤務 が 引 け、 あ た ふたと身 じた- し て十 六キ ロの道 の- を バ スに揺 ら れ、わ が家 に着き 妻 の笑 顔 を 見 る のが楽 し みだ っ た。 南 苑 で の私 の仕事 は、 北支 蒙 彊鉄 道 沿線 や北支 蒙 彊 一帯 の造 林 地 の植 物 調査 が主 だ った。 中 国大 陸 北部 の地質 は、 アルカ リ性 で生育 す る植 物 は アルカ リ土壌 に適 応 す る アカザ科 、 ゴ マノ ハグサ科 、 キ ク科 、 ヒ ルガ科 など が 多 か った 。赴 任当 初 は、見 るも の聞 く も の、 みな初 め てで戸惑 いも した が、沖 縄 を 出 発す る前 に大 域 から ﹃ 河北 習見 樹木 図説﹄ と いう 本 が届 け ら れ、 一通- 目を 通 し て いた ので樹 木 の名 は見当 が ついた。だ が、 そ の他 の植物 は名 前 がわ からず 、 キ ク科 の標 本 は、京 都 大 学 の北村 四郎 博 士 に、他 の 一般植 物 の標 本 は、 同 じ京 都 大 学 の大 井 -1 0- 私の半生 と研究 次 三郎博 士 な ら び に大 陸科 学 院 の北 川政夫 博 士 へ送- 、シダ類 は京 都 大 学 の田川基 二博 士 へ送 - 、鑑定 し ても ら っ た。 私 の調査 資 料 は膨 大 な量 に達 し、 そ れを ﹃ 北支 蒙 彊 鉄 道 沿線 植 生 調査 報 告 書﹄ と し てま と め 、第 一次 と 第 二次 に分 け印 刷 発表 し た 。 第 三次 の資 料 も そ ろえ た が 、時 局 が 時 局 だ け に用 紙 不 足と な - 活 字 にはな ら な か った 。 北 支 蒙 彊 で採 用 した 標 本 は 三千 五百点 余 に達 し、大 部 分 は京 都 大 学 に保存 さ れ 、他 は北支 中央 農 業 試 験 場 と 大 陸科 学 院 へ届 け た が、 現存 し て いるか 不 明 であ る。 昭和 十 九年 二月 、 私 は 軍隊 へ召集 さ れ た 。徴 兵検 査 では 甲種 であ った が、後 に- じ 逃 れ で丙種 にな- 、 三十歳 す ぎ るま で軍隊 教 育 を ま ぬ か れ てき た 。 だ が 、 そ のこ ろ河 南 作 戟 が ぼ っ発 、 そ の要 員 と し て現 地 召集 さ れ た 。新 聞 な ど で みる 軍隊 生 活 は、華 やかな も のであ った 。 私 も 一度 は 入隊 し、 経 験 し て みた いも のだ と 思 って いた ので 召集 を喜 んだ 。 し か し 、 いざ 入 隊 し てみ ると 軍隊 生 活 と いう のは ひど か った 。古 参 兵 が威 張 - 散 ら し、 二等 兵を アゴ で こき 使 う 。冬 部 隊 ( 第六師団) の 二 二七 連 隊 の駄 馬 小 隊 に配 属 さ れ た 。 三晩 四 日 ほと んど 眠 らず に、 中 国 大 陸 で の行 軍 の連 日だ った 。 目的 地 へ着 - と 夜 中 でも 、 上官 の身 の回- の世 話 や馬 の手 入 れを さ せ ら れ 、寝 る時 間も な い。あ る 日 の行 軍 で、疲 れ切 った 私 は 眠気 と疲 労 で これ 以 上 行 軍 が続 行 でき な - な った 。 そ こ で馬 にま た が- 、後 を つけ た 。しば ら く し て上官 が 現 れ た ので、馬 上 か ら敬 礼 し た ら 、「こ の無 礼 者 ′」 と 手 拳 が アゴ に飛 び 、 馬 か ら突 き 落 と さ れ た 。 これ 以 上 軍隊 に いると 殺 さ れ る。 そ れ よ- は手 - ゆう 弾 で自 殺 し て楽 にな った方 が ま し と 、 行 軍 の途 中 で逃 亡 した こと もあ った 。 そ れ 以来 軍隊と いう も のが、 つ- づ - いや にな った 。 -li l - 5 ペ -たい ほ 私 は、 昭和 二十 年 八 月 十 五 日 の第 二次 世 界 大 戦 終 結 日を 、 北戟 河 の陸 軍病 院 で迎え た 。 す ぐ 家 族 の元 へ帰 る準 備 を し た が 、 病 院 周 辺 は 八路 軍 が横 行 し て いて、 治 安 が悪 - 、 帰 る こと が でき な か った 。 二 カ 月 ほど 様 子 を う か 玉 〟 砕 ″ し た と いう 情 報 が 飛 び か い、植 物 同 好 会 の メ が い、十 一月 中旬 北京 へ戻 った 。北 京 で は 日本 人 のほと んど が 、帰 国 準 備 で身 のま わ - を 整 理 し て いた 。し か し 、 わ が家 だ け は 、何 一つ手 を 付 け て いな か った 。 郷 里沖 縄 は ンバ ーも 生 き て いるか 分 か ら な い。 行 - 当 ても な い私 は 、 ゆ っ- - 構 え 、自 分 が 関 わ ってき た沖 縄 の植 物 資 料 や 学 者 か ら 送 ら れ た文 献 。文 書 を ま と め る こと に し た 。 一月末 日ま でか け て、 奄 美 を 含 め た 「 琉 球 列島 植 物 誌」 を 編 集 し た 時 は、 ほ っと し た 。 と いう のは 、 大 戦 で廃 虚 と 化 し た 沖 縄 に は 、 植 物 関 係 の文 献 や標 本 は何 一つ残 って いな いと 聞 いて いた か ら で、 私 のや った仕 事 が 、 これ で郷 土 のた め に役 立 つ、 と いう 気 持 ち で い っぱ いだ った か ら であ る。 昭和 二十 一年 二月 、 日本 人 は 西宛 の収 容 所 に集 め ら れ帰 還 が 開始 さ れ た 。 引き 揚 げ 最後 の組 と な った 私 の 一家 は、 六 月 に長 崎 県 大 村 に着 いた 。 東 京 に いる妻 の兄豊 田精 三 へ手 紙 を 出 す と 、 す ぐ 迎 え にき た 。 東 京 は大 我 で焼 け 野 原 、 住 む 家 も無 - 住 宅 難 だ った 。 三鷹 の旧 軍事 工場 跡 が急 ご し らえ の引 き 揚 げ 者 公 営 住 宅 と な り 、 入 居 す る た め申 請 書 を 携 え 出 掛 け た 。東 京 都 の引 き 揚 げ 者 住 宅 事 務 所 の受 付 け に は、申 請 書 が 山 ほど 積 ま れ て いた 。 これ は駄 目だ と あ き ら め て いた が 、 豊 田 が 話 を 付 け て- れ て や っと 入 居 でき た。 豊 田 は のち に、 浅 沼 稲 次 郎 氏 ( 元社 会 党委 員 長) の下 で働 き 、 東 京 都 議 会 議 員 にも な った 。 そ の こ ろ首 里 松 正 氏 ( 元副知事)も 浅 沼 氏 のと こ ろ へ出 入 -1 1 2- 私の半生 と研究 し て いたと 記憶 し て いる。仕事 も な-妻 の病 気 など で約 1カ月東京 に滞在 し、 昭和 二十 1年 八月 に沖 縄 へ引き 揚 げ た。大宜味 村字 鏡 波 のわ が家 は戟 禍 から のが れ、残 って いた。仏壇 に母 の遺 影 があ り 、初 め てそ の死を知 った。 しば ら - ぶ ら ぶ ら し て いると 、当 時 辺 土名 高 校 の教 官 だ った 池 原貞 雄 氏 ( 元琉大学長)が訪 ね てみえ 、 同校 の 生物 教官 にな る ことを すす めら れ 昭和 二十 一年 九 月 から同高 校 へ勤 めた 。出 校 し てみ ると 教え る教科書 もな い。 生徒 たち に近- の山 で植 物採集 させ、時 間を つぶした こと もあ った 。 しか し教官 には不向 き と自 ら悟 り 、 一年 後 の昭和 二十 二年 九 月 に同校 教官 を 辞 任 し た。 そ の後 、知 念 にあ った沖 縄群島 政府 農務 部 の沢低 安 永 農務 課 長 か ら声 がか か- 、 昭和 二十 二年 九 月 に政府 入り す る こと にな った。 政府 で の私 の仕事 は、茶 の栽 培 ・製 造指 導 だ った。技 師 であ る私 の給与 は 四百 円 で、肉 二斤 買う と ふ っと ん でしまう - ら いの薄 給 だ った。食 糧 難 の時 代 で政府 職 員 の多 - が、家 族 の食 糧 確保 に苦 労 し て い た。だ が 、私 は地方 巡 り で農家 の茶 の栽 培 や製造を 指導 し て いた ので、帰 り に土産 と し て茶を も ら い、そ れを売 っ て家 計 のた し にし た。 お茶 一斤 が 二百 円 もす る時代 で、大 いに助 か った。 そ のこ ろ石 川市 で園原咲 也 氏 や多 和 田真 淳 氏と 戦後 はじ め て出会 い、 戦前 を 思 い出 し、懐 し-話 し込 んだ 。 諮 絢会文 教 部 か ら依頼 を受 け て、 囲 原氏 が多 和 田氏 の応 援 で苦 心 さ んた んし て ﹃ 新 沖 縄 植 物 目録﹄ を 編 さ んしたと いう 話 も出 た 。 そ の原稿 が ア メリ カ に渡 - 、 スミ ソ ニア ン博 物 館 の植 物 分 類 学者 E。 H・ Wa l k e r (ワーカー)博士 が そ れを 編集 し かえ 、 園 原咲 也 、多 和 田真淳 共著 、E。 H。 W at k e r編集 「Fl o r aofOki nawa沖 縄植 物 誌」 と し て 原稿 が送 ら れ てき た。 そ の折、 私 が北支 から持 ち 帰 った ﹃ 琉球 列島 植 物 誌﹄ を 園原、多 和 田両氏 に提 示 した ら、 これ は沢 山 の文 献 ・資料 を もと にし て良 - 出来 て いると いわ れた。 それ によ って 「 沖 縄 植 物 誌」 を 大幅 に補 正 し た ので、著 者名 に私 の名 前 も 入 れ て園原咲也 、多 和 田真 淳 、天野鉄 夫 共著 、E。 H。 Wa l k e r編集 ﹃ F l o r aofOki na wa -1 3- 沖 縄 植 物 誌﹄ と し て発 行 し た 。 こ の植 物 誌 は、 敗 戦後 の悪 条 件 下 で編 集 さ れ た た め 、 不備 な 点 も あ るが 、 明 治 以 来 多 - の人 々 の血 のにじ む よう な努 力 の結 果 で出 来 た も のであ り 、 戟 前 にお け る沖 縄 植 物 研 究 の総 決算 と し て意 義 深 い文 献 であ る、 と 学 界 でも 評価 さ れ た も のであ る。 6 昭 和 二十 五年 四月 十 二 日、 私 は仝 琉 球 を 統 轄 す る琉 球 農 林 省 農 政 局 農 政 課 生 産 係 長 にな った 。直 属 の上 司 は、 農 政 課 長 の新 里清 太 郎 、 農 政 局 長 の船 越 尚 友 氏 であ った 。 沖 縄 の農 業 は 、 今 後 何 を 奨 励 し 、振 興す れ ば よ いか 、 皆 目見 当 が つか な か った 。 私 は 、 日本 本 土 の農 産 物 輸 入状 況 を 調 査 し 、 将 来 の糖 業 の他 に パイ ン、 バ ナ ナ、 チ ョ マ、 ハ ッカ、 紅 茶 、 キ ャ ッサ バな ど 換 金 作 物 の栽 培 奨 励 を 企 画 し た 。 講 師 も 本 土 か ら 招 へいし た 。 熱 帯 農 業 は 田 中 長 三郎 氏 、 パイ ンは渡 辺 正 一氏 、 バ ナ ナは桜 井 芳 次 郎 氏 、 チ ョ マと ハ ッカ は 三 井 栄 三氏 、紅 茶 は 上 野健 二民 ら を 招 き 、 仝 琉各 地 で講 習会 や実 技 指 導 も し ても ら った 。 結 果 は 上 々 で、 農 家 の栽 培 意 欲 も 盛 - 上 が - 、 これ は い け ると 喜 んだ 。 と こ ろが 間 も な く 日本 本 土 と 諸 外 国 の農 産 物 貿 易 が 再 開 さ れ 、 チ ョ マ、 バ ナ ナ、 紅 茶 、 キ ャ ッサ バな ど の農 産 物 が南 方 か ら輸 入 さ れ 、 パイ ン産 業 以 外 は成 功 し な か った 。 昭和 二十 七 年 四月 一日、 住 民 側 の自 治 機 構 と し て琉 球 政 府 が 発 足 、 私 は琉 球 政府 経 済 局 農 産 課 特 産 係 長兼 課 長 代 理 に就 任 し た 。 そ の こ ろか ら沖 縄 は 一国並 み に扱 わ れ 、 政府 対 政 府 の仕事 と し て植 物 防 疫 法 や肥 料 検 査 法 を 制 定 し て、 新 た な病 害 虫 の侵 入 防 止事 業 や肥料 の品 質 保 全 を は か る仕 事 の他 、 米 人向 け清 浄 野菜 の栽 培 奨 励 、 八重 山 移 住 農 家 の営 業 指 導 、 パイ ン産 業 の振 興 な ど に つと め た 。 係 長 の身 で、 パイ ン産 業 振 興 問 題 を 政 府 財 政 最 高 責 -1 4- 私の半生 と研究 任者 に直 訴 し 、 即座 に予算 を つけ ても ら った のは いま だ に忘 れ 難 い。 県内 で栽 培 さ れ て いた パイ ンは、 サ ラ ワ ッ クと い って品 種 的 には よ- な か った。 ハワイ に パイ ンの改 良 品種 があ る こと を 知 った 私 は、 そ の導 入を希 望 し て 三 力年 間 予算 を 要 求 した。 だ が、 予算 要 求 は、 そ の つど主 計 課 長 、次 長 ど ま - でにぎ - つぶ さ れ た 。 農 家 の立 場 を 考 え た 私 は、 い ても 立 っても お れ ず 意 を 強 - し て内 政 局 長 山 内 康 司 氏 ( 元沖銀頭取) の部 屋 を 訪 ね 説 明 し た 。 山内 局 長 は 「これ は沖 縄 のパイ ン産 業 振 興上 、 最 重 要 な施 策 であ る。 早- 実 施 へ移 し な さ い」 と 即座 に決 裁 、 予 算 を 認 め て- れ た お か げ でパイ ンの品種 更新事 業 が実 施 さ れ 、 パイ ン産 業 振 興 に大 変 役 立 った と 考 え て いる。 私 は、生 ま れ つき 字 を 書 - こと と 文章 が へ夕 であ る。余 談 だ が、そ れ ま で役 人 生活 を 二十 五年 経 験 し てき た が 、 自 分 で起 案 文 書 を 作 成 した こと はあ ま- な か った 。上 司 や同僚 に恵 ま れ 、私 は起 案 文 書 の内 容 を そ の方 々に話 し 、 起 案 を おま か せ し た 。 上 司 には、新 里清 太 郎 氏 、 沢 低 安 永 氏 、 同僚 には稲 福 清 彦 、慶 佐 次 盛 宏 、 大 域守 、親 川活 久 、 下地恵 治 、仲 盛 憲 一、当 銘 昌 徳 の諸 氏 が思 い出 さ れ る。 昭和 三十 三年 九 月 ご ろ、琉 球 政府 文 化 財保 護 審 議 会 会 長 の山 里永 吉 氏 が、 私を 文 化 財保 護 審 議 会 事 務 局 長 ( 課 長 ク ラ ス) へと 、 話 を 持 ち か け てき た 。考 え ま し ょう と 返事 し て いると 昭和 三十 三年 十 一月 、 私 の後 半 生 を 変 え るよう な 人事 異 動 に出 会 った。 今 ま で 二十 五年 も や ってき た農 業 関係 の仕事 か ら林 業 関 係 、緑化 運動 の担 当 と し て の林 務 課 長 に任 命 さ れた 。 局 長 は 硯 西銘 県 知事 であ った 。 辞 令 を も ら い大 田改作 副 主 席 へあ いさ つに行 った と こ ろ、 仝 琉 緑 化 運動 の計 画 立案 を 早急 にす るよう 命 じ ら れ ∫ た。 そ の時 私 は、 林 務 課 の予算 や陣 容 を 説 明 、 副 主 席 の措 いて いる大 々的 な 緑化 運動 を す ぐ実 施 す る こと は困難 であ ると 反論 し た 。「予算 は流 用 、補 正 し て でもあ てる。足り な い人 員 は、非 常 勤 職 員 を 充 当 せよ」と のこと だ っ た。 ただ な ら ぬ事 態 と み て退席 し た私 は、林務 課 職 員 を 集 め、 副主 席 の意 図と 熱 意 を 告 げ た。 -1 5- 部 下職 員 の協 力を得 、 二週 間後 の十 一月十 三 日' 「 仝琉緑化推進 運動要綱」 を作成 した。政府内 には 「 全 琉緑 化推進運動本部」 が設置 され、本部 長 に大 田政作 副主席、副本部長 に知念朝 功官 房長が就任 された。 林務課長 の話だけ では 「 関係職員 へ本部長 の意図す る緑化 運動 の内 容を理解 させる のは困難 であ る ので関係幹 部を 一堂 に集 め、本部長からじき じき に話を願 いた い」 と要望 した。栄町 の料亭 「 玉屋」 で、大 田副主席 の説明 を受 けた幹部職員 は、緑化 運動 の重要性を認識、仝琉 の緑化 運動 に全力を つ-す ことを誓 いあ った。 琉球政府訓令 によ- 昭和 三十 四年 六月十九 日'政府内 に正式 に 「 全琉緑化推進 運動本部」 が設置 された。事 務 局 は、経済局林務課。緑化 本部委 員 には、各 界代表 が網羅 された。 マス コミは、上地 一史 ( 元沖縄タイムス社長) 、 池 宮 城秀 意 ( 元琉球新報社長) 。市 町村 は、大 城亀 助 ( 名護町長) 、大山朝 常 ( コザ市長) 、 大 域英 昇 ( 兼城村長) 、嵩 原意典 ( 平良市長) 、 石垣用中 ( 石垣市長) .。農業 団体 は、山 城栄徳 ( 農連会長) 、森林 審議 会 からは'宮 城新 昌 の諸 氏'また、政府 側委員とし て小波蔵政光 、山内康 司、真書 屋恵義 、新 里善福 、当銘由憲局長および 下地幸 一農事 試験場長らが任命 された。 7 緑化運動を大 々的 にpRす るため歌も作 った。歌 詞を 一般募集 したと ころ百 五点 の応募作 があり、うち十 二点 は本 土から のも のであ った。曲名 は 「みどり音 頭」 と し、近江俊郎氏 が作曲 、大空真弓 さんに歌 ってもら った。 同 一歌詞を東京在住 の山里将秀 氏が 「みどり行進曲」 に作曲、それも採 用し 「みどり音 頭」 と 「みど-行進曲」 で、緑化 運動をPRした。踊りも振り つけ、沖 配 ホー ルで の発表会 には、横綱朝 潮太郎 関も招 かれた。大 田本部 -1 6- 私の半生 と研究 長を 先 頭 に朝 潮 関、嶺 井百合 子 さ ん、私 の順 で続 々- - 出 し、 踊 った こと が印象 に残 って いる。 1般 へのpRは、まず 那覇市 のおもだ った料 亭 からと いう こと で、 レ コードを 配布 し て毎 晩 pRさ せた。緑化 推進 運動 本 部 の支 部 が、仝 琉市 町村 に出 来 上 が った のは、 昭和 三十 五年 一月十 七 日。 ま る 一カ年 が かり だ った。 支 部結成 の つど 大 田本 部 長 に、 私 は随行 した。 一年 、 三百 六十 五 日、 そ のう ち約 百 日は緑化 講演 会 、支 部結 成 、 「みどり 音 頭」 発表 など の会 場 に出席 した。 そ の関係 から市 町村 の陳情 団が政府 へ来 ると 、最初 に私 の部 屋を 訪 ね 「みど -音 頭、行 進曲」 の発表会 開催 の話を 持 ち出 し、 副主 席 へ陳情 に出 か け る市 町村 もあ った。初年 度 は大 幅 に予算 を 流 用、 非 常 勤 職 員 ( 二十人近-、後に定員化された)も採 用 し て スタ ート した。 緑 化 推 進 運動 本 部 が初 年 度 実 施 した市 町村 への苗 木 ( 松の百、六十センチから八十センチのもの)配布 は、 五万 七 千 四百 三十 五本だ った。 米 軍 の協 力 で毎 日五台 の車 両を 配車 、恩 納村 や嘉手 納 村 の軍用地内 山 中 から松 の苗木 を 取- 、主 と し て中 頭、島 尻 の市 町村街 路樹 と し て植 林 した。苗木 の掘 -出 し は、比 屋根 良 一 ( 元八重山営林所長)大 域清次 ( 林業試験場長) の両氏 が当 た り 、 配 分 は、山 川元英 氏 ( 硯緑化推進委員会事務局長)、広報 誌 ﹃ みど り﹄ の編集 は、松 本当 三氏 ( 硯 県東京事務所農林水産担当課長)が担 当 し た。 苗木 は、 ほと んど 根 づ いた が、復 帰 後 急 速 に行 わ れ た 開発 で切 - 倒 され、わず か に読谷村 と今 帰 仁村 の 一部 に残 って いるだ け であ る。 あ る 日、 大 田本 部 長 に呼 ば れ 「 君 の氏 名 は、 天 ま で野 原 にし て鉄 工所 を作 る夫 ( おとこ)と 解釈 され る。緑 化 運動 にふさわ し い姓 に改名 した らどう か」 と いわ れた 。数 日考 え た 私 は 「天ま で林 を繁 らす夫 ( おとこ) 」 -天林 繁夫 に改 姓 、名 刺 も作 -大 田本 部 長 へあ いさ つに行 った。 一週 間 ほど し て上之 山 の市 町村会 館 で仝 琉市 町村 長会 が開 かれ'緑 化 推進 運動方法 に ついて協 議 が行 わ れた。 そ の席 へ呼 ば れた私 は、本部 長 に改 姓 、改 名 理由 を 説 明 させ られた 。 以来 私 は、林 務 課 長在 任 中 の四年 三 カ月間 は 「天林 繁 夫」 の名 前 で通 した 。 現在 は ペ ンネ ー ムと し -1 7- て使 用 し て いる。 政府 が緑化 運動を 展開し て植 林 した樹木 は、 三百 三十 八万 五千 四百 五十 五本 。 団体 別 では、官 公庁 四万 八千 二 百九 十 一本 '学校 二十 二万 1千 二百 三本 '青年会 十 三万七千 四百十九本 、婦人会 十 二万九 百 三十 二本 、成 人会 十 I 一万九千 六百本、 そ の他 百 六十 一万 一千百十 三本と な って いた。 そ の反響 は諸外 国 にも広-知 られ、本 土 や台湾 みど -﹄ と い か ら は苗 木 が、 ハワイ、 アルゼ ンチ ン、 ブ ラジ ルなど から は、種 '金 品 が多 数 寄 せら れ てき た。 ﹃ う広報誌 も発行、 昭和 四十 三年 ま でに三十 八号を 刊行 した。 そ の頃、林業 関係 の民間団体 が必要 であ ると の世論 もあ って、昭和 三十 五年 九 月、仝琉市 町村 が会員と なり 「 琉 球林業協会」 が発 足した。会 長 には、緑化推進 運動本部 長 の大 田改作 副主席 が就任 、資金集 めも大 々的 に展 開し た。広報 誌 の発行、林業先進 地 の視察、講師 招 へい、講 習会 開催 、優良種 苗 の購 入あ っせ んと 目 のまわ る毎 日だ っ た。林業 関係 の仕事 は地味 で、 日ご ろ職 員も肩身 の狭 い思 いを す る こと が多 か った。だ が、 そ のころは林務 課全 職員 が、連 日各市 町村 へ飛 び、先 頭 に立 って指導 、助 言 し、活気 にあ ふれ、肩身 が広- な ったと話 し て いた。 昭和 三十 八年 二月、琉球 政府 計 画局参事 官 を命 じら れた。計 画局 長 は小波蔵政光氏 ( 元沖銀頭取) 、次 長 は伊 地 秩雄 氏 ( 元開発公庫理事) 。参 事 官 は、大 嶺 永 夫 ( 元県企業局長)、大 域源 平 ( 故人 ・観光公社専務) 、吉 元嘉 正 ( 県土 地開発公社理事) 、仲 松唐 草 ( 故人 ・元県総務部長) 、 山 城新好 ( 琉大教授) の五氏 に私だ った。就任 した 日から毎 日' 次長、主計 課長合 同 の予算 査定会議 が始 ま った。各 局 の予算 要求 総額 は、歳 入 の十倍 にも達す る膨大な額 で、そ れ に大 なたを ふるう のに会議 は議 論 百出 、夜 中ま でかか る 日もあ った。文 教 局新生活 運動係 の旅費 、雑費査定 で 論議 が沸 騰、 三時 間も かか った。な かな か結論 が出な か った ので私 が 「昼、嶺 井 百合 子主事 に ソバを ごち そう に な った。あと で ソバ代を 遅 さねば ならな いのか」 と 冗談を持ち出 した。小波蔵 局長が 「そう か、 こ の予算 を削減 -1 8- 私の半生 と研究 す ると 天 野 の財 政ま で影響 す る のか」 と 全 員 1敦 で認 めた のが印象 に残 って いる。 8 昭和 三十九 年 五月、琉球 政府 経済 局次 長 に転 じ、 一年 二カ月久手 堅憲 次 局長 ( 沖銀頭取)を 補佐 した。 そ の後 、 琉 球 政府 の機 構 改 革 に伴 い、 昭和 四十年 八月 に琉 球 政府 経 済 局農 林 部 長 にな った 。 局 長 は嘉 陽宗陰 氏 ( 沖縄県国 際交流財団専務理事) 。農林 部 長 のこ ろ、 ボ リビ ア移住 十 周年 記念 式 典 が現 地 であ - 、小 波蔵 政光 副主席 に随行 し、 二十 七 日間 にわ た って南米 、 北米各 地を 視察 した。行き は、 ハワイを 経由 し て ペルー、 ボ リビ ア へ。帰 - は、 ブ ラジ ル、 アルゼ ンチ ン、 ワシ ント ン回り で帰 任 した。 旅行 中、 副主 席 を 世話 す る のが私 の役 目だ が英会 話 のでき な い私 は、個 人的 な 用件 ま で副主席 に通訳を し ても ら い心 苦 し い思 いを した。英会 話 だ け はぜ ひ勉 強 しな け れば な らな いと 、 そ の時心 に固く決 めた が、 ノド 元過 ぎ れば 熱 さ忘 れ る で' いま も ってき っぱ - であ る。 小波蔵 さ ん に会 う と米 国視察 を 思 い出 し、 私 の立場 からす ると 一等 通 訳づさ の旅行 でしたね 、と話 す こと もあ る。 ボ リビ ア移 住 地 には琉 球 政府 派 遣 医師 と し て、吉 田朝 啓 医師 ( 公害衛生研究所長)が赴 任 し て いた。式 典後 、吉 田医師を激 励 す る意味 も兼 ね 、 副主席 と もど も歓 談 した。琉 球 政府 では緑化 運動 が盛 ん で、吉 田医 師 も医療 の合 間を 見 て、沖 縄 に適 した いろ いろな花木 、樹 木 の種 子を集 め て いた 。 そ の時持 ち帰 った ト ックリキ ワタがあ - 、 庭先 へ植 え た ら見事 に生 長 し開花 した。後 に、吉 田医 師 が、 そ れを 見 て 「ト ックリキ ワタ の天野株」 と命 名 し て - れた。 ま た ボ リビ アの空 を紫 雲 に色 ど り 咲き 乱 れ て いた木 があ った のでそ の種 子も持 ち 帰 った。沖 縄 で開花 し たら 「シ ウ ンボ ク」 と命 名 しよう と吉 田医師 と話 し合 った 。 そ れも見事 に開花 した ので 「シ ウ ンボ ク」 と命 名 、 -1 9- そ れ で通 し て いる。 県 出身 移 住 地 が サ ンタ ク ルーズ で、他 府 県 出身 移 住 地 が サ ン フ ァンだ った 。小 波 蔵 副 主 席 が サ ン フ ァンの移 住 地 も視 察 し よう と いう こと で、 二人 そ ろ って出 か け た 。密 林 の山 道 を 過 -抜 け て の旅 で、 途 中 、 大木 の枝 に野生 の ラ ンが色 と - ど - 咲 き は こ って いた。 ひと 一倍 ラ ン栽 培 に熱 心 な 副 主 席 が、 そ れを 見 過 ごす わ け がな い。 「天 野君 取 ろう や」 と いう 。背 た け の倍 以 上 の枝 にあ - 、 背 のぴ し ても手 が 届 か な い。私 の肩 に乗 って取 って下さ い と いう と 、 小 波 蔵 副主 席 は 「そ れ は出 来 な い」 と 逆 に副主 席 が 腰を 落 と さ れ た 。 そ れを い いこと に私 は、小 波 蔵 副主 席 の肩を 踏 み台 に ラ ンを採 集 し た。 常 識 では考 え ら れ な い失 礼 を し た も のであ る。 昭和 四十 1年 十 二月 、 私 は琉 球 政府 経 済 局 農 政 部 長 に任命 さ れ た 。 農 林 、 農 政 部 長 時 代 は、主 と し て次 の仕事 に取 り組 んだ のが印 象 に残 って いる。乱 立ぎ み の製 糖 工場 の整 理統 合 、糖 価 安 定 、 パイ ン振 興 及 び釆 穀 振 興法 の 制定 、 ま た、 主 要作 物 の生 産 振 興 では、 特 に パイ ンの種 苗 更新 に全 力 を 投 じ た。 琉 球 米 穀 協 会 が 昭和 四十 二年 四 月 、豪 州 お よ び東 南 アジ ア へ米 買 い つけ 調査 へ行 - こと にな った 。 農 政 部 長 も 同 行 す るよう にと 要請 があ り 、出 張 命 令 簿 を 総 務 課 の職 員 が 小 波 蔵 副 主 席 の所 へ持 って い った ら 、 「民 間 企業 の米 買 い つけ 調査 ま で政府 が タ ッチ す る必 要 はな い」 と 一蹴 さ れた 。 米 穀 協 会 役 員 のた って の要請 だ った のでは私 は、自 分 で出 張命 令 簿 を 持 って副 主 席 を訪 ね 「 表 向 き は米 買 い つけ 調査 だ が 、実 は豪 州 、東 南 アジ アか ら沖 縄 に適 す る植 物 を 調査 、持 ち 帰 る のが いに 敬 服 し 目的 であ る。 緑 化 運 動 を 推 進 す る上 か ら 絶 好 のチ ャ ン ス。 特 別 のは か ら いを 」 と 申 し 入 れ た 。 「な ぜ、 そ れを 早 - いわ ぬか」 と いわ れ、 即 座 に決 裁 さ れ た。 当 時 の古 波 蔵 副 主 席 の緑 化 に対 す る理解 と 情 熱 に は、 大 た。 昭和 四十 二年 七 月、私 は琉 球 政府 大 衆 金 融 公庫 常 任 理事 に就 任 、 沖 縄 が本 土復 帰 す る昭和 四十 七年 の七 月十 五 日 -2 0- 私の半生 と研究 ま で、 五年 間勤 めた。主 な仕事 は、 一般市 民 の生 業資 金 、中小 企業 振 興、農 漁業 関係 、住 宅 建築 資 金等 の融 資 だ っ た。 そ の関係 で、 私 は県内 企業 や財 界 の動向 も 分 か- 勉 強 にな った。 小波 蔵 総裁 は石集 め にも こ って いた。 「天 野君 も や った らどう だ」 と勧 めら れ、 石を 通 じ 「 自 然 の美 」 と 「 地球 の生 いたち」 が わ か るよう にな った。 私 が 在 職 中 に公庫 総裁 は、 山 川宗 英 氏 、伊 地秩 雄 氏 と 代 わ った。沖 縄 の本 土復 帰 で大衆金 融 公庫 も発 展的 に解消 、 そ れを 最後 に私 の役 人生活 も終 わ った。 9 これま で本 職 に ついて述 べてき た が、 私 は各 種 団体 と のかかわ- もあ る のでそ の思 い出を 振 - 返 ってみた い。 昭和 三十 一年 九 月、琉 球 政府 によ る文 化 財保護 法 が制定 され、文 化 財保護 審 議 会 が発 足 す ると 私 は、 天然 記念 物専 門委 員を委 嘱 され た。 四期 六年 間務 め、本 土復 帰 と 同時 に沖 縄 県 へ移行 された。復 帰後 は、 国 の法律 に基 づ いて県文 化 財保護審 議 会 が発 足 、 同審 議 委 員 に昭和 四十七年 七 月 か ら任命 さ れた。 五期 十年 間県内 の文化 財保 護 の任 に当 た- 、最後 の 一期 二カ年 は副会 長 に選任 され、 昭和 五十 七年 六 月辞 任 した。 私 が文化 財保 護 にかかわ っ た のは' 昭和 二十 六年 にさか のぼる。敗 戦直 後 の沖 縄 には、文 化 財保 護 法 はな か った。米 軍統 治 下 で崇 元寺 の石 門を はじ め、 県 下 の文 化 財 は荒 れ放 題 にな って いた。 そ れを 見 かね た山 里永吉 、 城 間朝 教 ( 故人 二冗県老連会長) 、 多 和 田真 淳 の三氏 に私 が加 わり 、当 時 の平良 辰雄 沖 縄 群島 知事 に保 護法 の制定 を 訴え た のが はじま - であ る。 昭 和 二十九年 か ら同 三十 三年 にか け、私 は多 和 田真 淳 氏と協 力 、県 下 の天然 記念物 調査 も実 施 し、 天然 記念 物 の指 定 に力 を か した。 -21- 昭和 四十 三年 十 一月、沖 縄 県自然 環境保 全 審 議会 委 員 に任命 された私 は、現在 同委 員会 の副会 長を 務 め て いる。 私 が主 宰 し て組織 した 「 沖 縄 県自 然 研究会」が、昭和 五十七年 三月 ま でに ﹃ 県自 然公 園設置学 術報 告﹄ 三冊、 ﹃ 県 自 然 環境 指 定 学 術報 告﹄ 四冊を 発行 し、県内 の自 然 環境 の状 況 がわ か るよう にな った。 昭和 三十 五年 四月、星克 ( 元立法院議長) 、 国吉 真 一 ( 国吉 ラン園主) 、谷 口正人 三 乗屋社長) 、福 里広 照 ( 元高校 教諭) 、経 済 局 職 員 の金 城秀仁 ( 国場組部長)、 野島 武盛 ( 沖縄電力専務)、 島 袋 正広 ( みど-園主) 、豊島 秀 博 の四氏と 私 が 中心 と な り 「 沖 縄 蘭 友 会」 ( 後に沖縄県蘭協会と改称)を 結 成 し た。台 湾 、 ア メリ カ、 フラ ン スな ど か ら の ラ ン購 入あ っ旋 や栽 培 講演 会 も 開き普 及を はか った。 県内 で栽 培 され て いる ラ ンだ け では花 が少 な- 、展 示会 開催 が十 分 でなか った ので、 私 は台 湾 に いる友 人李金 成 氏 にカト レ アの開花 株 二十鉢余 - を毎 回空 論 し ても ら い、展 示会 を 開催 し た こと もあ る。山 内康 司沖 銀 頭取 ( 当時)も ラ ン愛 好 家 の 一人 で、 そ のこ ろ同行 のシ ンボ ル マー ク に カト レ アの花 が採 用 さ れた。 昭和 四十 五年 ご ろから ラ ン協 会 の活 動 が 下火 にな- 、 展 示会 も 中断 され るよう に な った。そ こ で私 は、島 袋 正広 、福 地恒 夫 ( 高校教諭)、国吉 真 l'治 井正 一 ( 高校教諭) 、安 田徳 昭p徳 本行 雄 ( 高 校教諭)氏 らと 相 談 、 昭和 四十 九年 十 月沖 縄 県蘭 協 会 の再 建を は か った。会 長 に私 が就 任 、 昭和 五十 三年 沖 縄 タ イ ム ス社 と共催 で、第 一回 「 仝 沖 縄 ラ ン コンク ー ル」 を 開き 、 現在 ま で回を重 ね る こと 六 回。 さ ら にそ の発 展を はかり 、 昭和 五十 七年 から琉球 放 送と共 催 の 「 全 沖 縄蘭 祭 -」 も 開催 、今 日 のラ ン栽 培 熱 を 見 た。 ヤ シ栽 培普 及 にも情 熱を も やした 。林 務 課 長時 代 の昭和 三十 六年 十 月 、台 湾 の緑化 状 況を視察 、 調査 した際 、 ト ックリヤ シ、 ト ックリヤ シ モドキ、 アデ カヤ シ、ビ ン ロウ、 エスラヤ シ、 ヤ ハズ ヤ シを はじ め多 - のヤ シ類苗 木 、種 子を購 入 し て持 ち帰 った。 ま た、 フィリピ ッンか ら は ココヤ シ三万 ド ル分 を導 入、 八重 山特 産 のヤ エヤ マ ヤ シなど を 取 - ま ぜ て、県内篤 志家 に奨 励 した。 そ れ が契 機 と な- 、 昭和 四十 五年前 後 、 一大 ヤ シブ ー ムが起 き -22- 私の半生 と研究 た。県会議長 で緑化推進委 員会 長 であ った平良幸市氏 から 「天野君、あま- ヤシばか-奨励す ると沖縄本来 の景 観を損なう よ」と注意 された こともあ る。 話 は前後す るが、鹿児島 大学教授 の初島住彦博士が昭和 三十年 四月、琉球大学 へ招 へい教授と し て四カ月間赴 任 された。それを機会 に池 原貞 雄琉球大学教授 が、初島博 士 へ 「 沖縄植物 目録」 の編集を要請 。初島博士 は大学 で の講義 が終 わ ると、昼夜を問わず 、わ が家を訪ね、戟前 戦後 にかけ私 が採集 した植物標本を点検 。また、産地 など の私 の証言を聞 かれた。資料 がまとま- 、出版 の段 階 にな って初島博士 が 「天野鉄夫と共著 でなければ なら な い」と話 され、昭和 三十 二年琉球大学普 及叢書第 十 五号初島住彦 。天野鉄夫共著 ﹃ 沖縄植物 目録﹄ が刊行 され た。 そ の後 、初島博士 は昭和 四十七年 、琉球大学教授と し て正式 に赴 任 された。そ の間、琉球列島 の多 - の島 から 新種 、新分布 の植物発見、更 に学名 の改 訂を必要とす るも のあり、従来 の目録 では間 に合わな- な った。それを 機会 に奄美を含 めた初島住彦 。天野鉄夫共著 ﹃ 琉球植物 目録﹄ を 昭和 五十 二年 に改 め て出版 した。次 に私は王朝 時代 から終 戦ま でを対象 にした 「 沖 縄植 物 研究史」 を まと め、 ﹃ 沖縄県史﹄ 第 五巻 に収録 した。それと高良鉄夫 氏の 「 沖縄動物研究史」 を合 冊し て昭和 五十 二年高良鉄夫 。天野鉄夫共著 ﹃ 沖縄動植物 研究史﹄ を出版 した。 ﹃ 琉球 列島 植物方 言集﹄ が昭和 五十 四年 、 ﹃ 琉球 列島有 用樹木誌﹄ が 昭和 五十七年 出版 された。 これま で の研 究 で、私 の姓 。名 にちな んで付 けられた植物名 があ るが、学名 が十六、和名 が六種とな って いる。 -2 3- 私 が貝類調査研究を はじめた のは、昭和 二十九年 から であ る。名護 町字茂住 に住 む園原咲也 さん宅を訪ねた際、 沖縄 の貝類標本を いろ いろ説明 され興味を持 った。普 通 1千種 類 の貝を収集す るには、十年 以上かか ると いわれ た。 が、 それを私 は三カ月 で四百種 を採集 、 四年 目には 1千百種 を超え た。京都大学 の黒 田徳米博 士 に鑑定を依 頼し、仝採集 貝類 の名称も判明した。 そ こで今後 、貝類調査研究 には、 そ の指標 にな る目録 の必要が痛感 され、 印刷費を 園原さんと私が負担す る計 画 で、黒 田博 士 に 「 沖縄群島 貝類 目録」 の編集を お願 いした。 昭和 三十 四年 五月 に原稿 が届き 、私的 に出版す るよ-も公的機 関から発行 した方 が権威 があ ると考え 、池 原貞雄琉大教授 に棉 談 したと ころ快-引き受 け てもら い、昭和 三十 五年 十 月琉球大学普 及課 から ﹃ 沖縄群島 貝類目録﹄ と し て出版 さ れた。それ には 二千余程 が収録 され、うち十 三種 が新種と発表 された。玉城村字 百名 で、私が採集 した マイ マイ の変 わ った種 類 に黒 田博士 が 「ア マノヤ マタカ マイ マイ」 と命名 した。 私 は昭和六年 以来 五十 二年 間、新 聞切り抜きを続 け て いる。主 な内容 は、琉球 の歴史 、文化 、民俗関係。私 の 新聞切-抜き収集 に ついては、沖縄 タイ ム ス社 が 昭和 三十 三年 十月と 昭和 四十 八年十 月 の 「 新 聞週間」 で報道 し た こともあ る。総数 は スク ラ ップ ブ ック、二百三十九 冊。うち 「 琉球学集説」が百 八十六冊、「 琉球 の自然と生物」 が 二十九 冊、 「 琉球 の資 源と産業」 が 二十 四冊 であ る。戦前 の昭和年代 の新 聞 はほと んど な-、私 の保存資料 は 多 - の研究者 から重宝 がられ て いる。 ﹃ 伊波普猷全集﹄ や ﹃ 東 恩納寛惇全集﹄ は、私 の新 聞切り抜きを参 考 に補 完 された部分が多 い。琉球学研究者 が、 いまなお訪ね て- る ので、 そ の つど必要な部分 は コピ ーし て提供 し て い -2 4- 私の半生 と研究 る。 琉 球 林 業 協 会 長 は、 設 立 当 初 が大 田改 作 氏 で 五期 、 ついで大 山保 表 氏 ( 琉大名誉教授)が 二期 務 めた 。 昭和 五 十 二年 以降 は、私 が そ の任 に当 た- 目 下 三期 日。 日本 本 土 にお け る緑化 推進 運動 は、 民 間 ペー スで展 開さ れ、 国 土緑化 推進委 員会 、都道府 県 緑化 推進委 員会 が運営 し て いる。 戟後 の沖 縄 は、琉 球 政府内 に緑化 推進 運動本 部 が 設置 され、 そ こを 中心 に行 わ れ てき た。だ が、復 帰を 控え 昭和 四十 六年 、沖 縄 県緑化 推 進委 員会 が発 足 、会 長 に 県議 会 議 長を 推薦 、私 が現場責 任者 の委 員 長と な って いる。沖 縄 県内 水 面漁場管 理委 員会 、沖 縄 県 土 地利 用審査 委 員会委 員も委 嘱 され、 現在会 長 の職 にあ る。 本 土復 帰 に伴 い沖 縄 の自 然破 壊 が急速 に進 行 した 。事 態 を憂慮 した源 武雄 、豊 平良 顕、真 栄 田義 兄 、仲 松 弥秀 、 新 屋敷幸 繁 、富 里悦 、 阿波根朝 松 、池 原貞 雄 、高 宮 贋 衛 の九 氏 に私 が集 い、 昭和 四十 八年 六月 「 沖 縄 の文化 と自 然 を守 る十 人委 員会」 を組織 、自 然破壊 の監 視 、告発 、 保全 の要請 に当 た って いる。 十人委 員会 は、発 足後 三年 目 に沖 縄 の文 化 と自 然 破壊 も調査 、 ﹃ 沖 縄喪失 の危 機﹄ と 題 し て本 にまと め告発 した。 ﹃ 沖 縄 県史﹄ が 二十 四巻 発行 さ れた。 が、 そ の中 に農林 水産 業 の歴史 が収 録 さ れ て いな いこと がわ か- 、県農 林 水 産部 に 「 沖縄 県農林 水 産行 政史 編集委 員会」 が発 足、 編集 委 員 長 に私 が選任 さ れ た。 農林 水産 行 政史 は、 八 百 ページ余 り の大作 で全 十九巻 。す でに 五巻 が発行済 み であ る。 妻 ハルは、 こ こ三十年 来 リ ュー マチを 患 い、松 葉 づえ に支 え られ た生活 の毎 日。本 と 陶 器を 買 い集 め、家 庭 経 済 を 顧 みな い私 の行動 に何 1つ苦 言も いわ な い。内 助 の功 に い つも感 謝 の気持 ち で い っぱ いだ 。 戦争 で数 々 の文 献 資 料 が 焼 失 した が、 私 は極 力 これ ら の文 献 資 料 の収集 に努 め、 そ の中 で重 要と 思 わ れ るも のは、複 製 し 関係者 の便 を はか った。若 いこ ろか ら私 は、読書 が好 き で関連 す る書物 は、 つぎ つぎ 買 いあ さ った。 -25- 収集 した書籍 は、琉球学、生物 、農林業 関係 が主 で、本箱 四十七箱 分。陶器集 めも昭和 四十 五年 ご ろからはじめ、 裏 の離れ家 に現在 一千 五百余点整 理陳列 し てあ る。離 れ家 は、 元住宅 で 一階十 八坪、 二階十坪 で、足 の踏 み場も な い状態 。真 栄 田義兄、豊平良 顕 の両氏が昭和 五十 八年末 、そ の文庫兼資料室を ご覧 にな-、陶淵明 の漢詩 にち なんで 「 蔓草庵」 と命名 、扇額もかけ てあ る。 昨年私 は、大病を患 い約 七 カ月入院した。退院後 は、以前 に増 し て体 調が回復 し元気 であ る。 二十 1世紀ま で 生き抜-心算 でズ シガ メも準備 、それ に 「天野鉄夫 の骨、 一九 二 一 年 三月 三十 一生ま れ、 二〇〇 一年 一月十 日死 ( 昭和五十八年七月) 、「 県産業経済功労賞」-沖縄県知事 ( 昭和四十七年十 一月) 、「 拡 大造林 、国土保全 功労」 =沖縄 県知事 ( 昭 -沖 縄 タイ ム ス社 ( 昭和五十九年十二月)など があ る。今後 は 「 蔓 草庵」 を -沖縄 県知事 去」 と記 し 「 蔓草庵」 の人- 日に置 いてあ る。 受 賞 した賞 は 「 緑化 功労」 和五十年 1月) 、「 沖縄 タイ ム ス文化賞」 -国 土庁 長官 ( 昭和五十九年十 一月) 、「 国土行政功労賞」 中心 に、美 し い沖縄 の自然と誇-高 い文化を楽 し んで生き た い。 ( 沖 縄 タイ ム ス社 一九 八五年 刊 ﹃ 私 の戦後史第 8集﹄ よ-再録) -2 6-
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