( 資料1 ) 肥前藩の場合 1808(文化5)年の「フェートン号事件」の際、長崎警備担当だった肥前藩は、そ の警備担当の藩士のほとんどを佐賀に引き上げていた。 その過失の為、長崎奉行が切腹し、肥前藩も長崎に残留していた聞役が切腹、手付の2 人は押込、更に藩主の鍋島斉直も百日間の閉門(逼塞)に処せられた。 次の藩主斉正(閑叟)は財政の立て直しと、防衛力の増強、そのための洋学研究に力を 注いだ。 その結果 ① 台場の構築と大砲の設置に十六万両を費やしたという。 ② 大銃製造方を創設、1850(嘉永3)年に反射炉を完成。 幕府から36ポンド砲と24ポンド砲をそれぞれ25門受注。 そのため、反射炉四基と付属施設を新設、大砲の鋳造を始めた。 川路聖謨が視察した際、一万二千貫の鉄を溶かしたという。 ③ 洋書の入手(720部・幕府の蕃書調所に次ぐ蔵書数)と研究。 ④ 兵器の改良・充実。 幕末諸藩中、トップクラスの軍事・工業先進藩となった。 島津斉彬について 「島津に暗君なし」といわれた島津家の藩主。ただし4歳の時に早くも後継ぎに指名さ れていたが、実際に藩主になったのは42歳の時。(いわゆる「お由良騒動」「高崎崩れ」 の為・父は斉興・次の藩主は異母弟の子の忠義) 蘭癖大名の一人、幕末の四賢侯(他は松永慶永・伊達宗城・山内容堂)の一人といわれ た。 集成館事業を興し、洋式造船・反射炉・溶鉱炉の建設と製鉄・地雷・水雷・ガラス・ガ ス灯の製造・紡績などを実現させた。 ジョン万次郎からアメリカの事を学ぶ。 人材の発掘と育成(西郷隆盛・大久保利通・大山巌・黒田清隆などなど) 日の丸を日本の国旗に。 その他、注目したい人物は、福井の松平慶永(春獄)・土佐の山内容堂・伊予 宇和島の伊達宗城(むねなり)・伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)など。
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