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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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齋藤竹堂撰『鍼肓錄』訳註稿(十四)
堀口, 育男
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 15: 259-278
2013-09
http://hdl.handle.net/10109/4583
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278
齋藤竹堂 『鍼肓 』訳註 (十四)
十日。玄章と同に出づ。芙蓉峰﹆面に当りて笑ふが如し。南のかた
堀
口
育
男
﹃鍼 肓 錄﹄ は﹆ 江 戸 時 代 末 期 の 儒 学 者 齋 藤 竹 堂 が﹆ 天 保 十 年 八 月
は則ち伊豆七島﹆低昂連綴し﹆浮嵐隠々として人を襲ふ。此の地﹆
要
旨
から九月にかけて﹆江戸から常総房を旅した時の漢文遊記である。
浦 賀 と 相 対 し﹆ 防 海 の 要 阨 た り。 西 崖 に 楼 を 置 き﹆ 以 て 夷 舶 を 望
とも
本連載﹁齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ﹂では﹆
﹃鍼肓錄﹄本文の翻刻﹆
む。東のかた二里にして太神宮村有り。祝史某の家に古鏡を蔵す。
[訓讀]
訓讀﹆語釈﹆試訳を行なつてゐるが﹆今回は九月十日の洲崎滞在と
以證古﹆至則主人不在﹆甚可憾﹆鹽井在北里餘﹆日暝﹆亦不往﹆
○十日
九月十日。
[語釈]
亦た地勢然るなり。
かへ
ず。前歳の如き﹆諸州は苦雨熟せざりしに﹆此は則ち反りて熟す。
こゝ
に 土 人 唯 だ 雨 無 き を 恐 る ゝの み。 且 つ 地 多 煖 に し て﹆ 雨 湿 を 憂 へ
骨多く肉少くして﹆潴水乏し。旱すれば則ち溝渠立ちまち涸る。故
か
た往かず。塍間より帰る。禾稼﹆旱を傷みて半ば枯る。蓋し房山は
ひでり
人在らず。甚だ憾むべし。塩井﹆北のかた里餘に在り。日暝る。亦
く
又た旧券有り。里見氏の時の物﹆以て古を証すべし。至れば則ち主
峯 當 面 如 笑﹆ 南 則 伊 豆 七 島﹆ 低 昂 連 綴﹆ 浮
翌十一日﹆洲崎より館山を経て那古に至る行程を対象とした。
十八.九月十日
十 日﹆ 同 玄 章 出﹆
嵐隱隱襲人﹆此地與浦賀相對﹆爲防海要阨﹆西崖置樓﹆以望夷舶﹆
從 塍 閒 歸﹆ 禾 稼 傷 旱 半 枯﹆ 房 山 多 骨 少 肉﹆ 乏 潴 水﹆ 旱 則 溝 渠 立
○出
外出する。
東 二 里 有 太 神 宮 村﹆ 祝 史 某 家 古 鏡﹆ 又 有 劵﹆ 里 見 氏 時 物﹆ 可
涸 矣﹆ 故 土 人 唯 恐 無 雨 耳﹆ 且 地 多 煖﹆ 不 憂 雨 濕﹆ 如 歬 歳 諸 州﹆
三一
峯
富士山の異名。八月廿七日の条﹁ 峯﹂の語釈参照。
﹃東
○
五
- 〇頁
雨不熟﹆此則反熟﹆亦地勢然也﹆
齋人藤
鍼ー
肓シ
錄ョ
﹄
十十
四五
︶号﹆三一
﹃
文竹
学堂
コ
科撰
ミ
論
ュ﹃
集ケ
ニ
﹄
三
六
号
﹆訳
ン
学
一註
-論
科
二︵
集
一﹄
© 2013 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
277
堀口
育男
三二
藻会彙地名箋﹄には﹆芙蓉峰の用例として﹁徂徠送 三爽鳩子方之 二三
河 一七律﹂を示す。これは荻生徂徠﹁送 三爽鳩子方之 二三河 一詩﹂に﹁杜
若水寒芳草歇﹆芙蓉峰霽白雲多。
﹂とあるのを指す。
﹃房總志料﹄ 巻二に﹁洲崎より冨士︿酉戌﹀・ 伊豆︿酉﹀・ 箱根︿戌
亥﹀・大礒︿戌﹀・石尊︿同﹀・榎嶋︿亥子﹀・鎌倉︿同﹀・尉ヶ島︿戌
亥﹀・三浦︿同﹀・三崎︿同﹀﹆其他土井・杉山・眞名鶴・伊豆權現・
熱海・網代・伊東・下田邊の地﹆快晴の日一望に盡く。
﹂とある。
○當面
真正面に向き合ふ。眼前。唐﹆杜牧﹁三川駅伏覧座主舎人
留題詩﹂に﹁旧跡依然已十秋﹆雪山当 レ面照 二銀鉤 一。
﹂とあり﹆同﹆
李中﹁和 二易秀才春日見 一レ寄詩﹂に﹁小檻山当 レ面﹆閒階柳払 レ塵。﹂
とある。
レ
○如笑
宋﹆ 郭熙﹁山水訓﹂ に﹁真山之煙嵐﹆ 四時不 レ同﹆ 春山澹
冶而如 レ笑﹆ 夏山蒼翠而欲 レ滴﹆ 秋山明浄而如 レ粧﹆ 冬山惨淡而如
睡。
﹂
︵﹃大漢和﹄︶とある。
﹁山笑ふ﹂は春の季語ともなつてゐるが﹆
こゝは九月なので﹆それとは無関係。
○伊豆七島
九月九日の条﹁伊豆諸島﹂の語釈参照。
○低昂
或いは低く﹆或いは高く。高かつたり低かつたりする。六
朝﹆陶潜﹁擬古詩﹂其四に﹁松柏為 レ人伐﹆高墳互低昂。
﹂とあり﹆
一
唐﹆杜甫﹁望嶽詩﹂に﹁祝融五︿一作 レ三﹀峰尊﹆峰峰次低昂。
﹂と
ある。
○連綴
連なり続く。 続き連なる。﹃後漢書﹄ 董卓伝に﹁自 二東澗
兵相連綴四十里中﹆方得 レ至 レ陜﹆乃結 レ営自守。
﹂とある。
○浮嵐
浮動する海の気。嵐は﹆一般的には山の気を言ふ。宋﹆歐
276
二
一
レ
下
陽 脩 ﹁廬 山 高 贈 同 年 劉 中 允 帰 南 康 詩﹂ に ﹁欲 令 浮 嵐 曖 翠 千 萬
三
遠見番所などが設けられた。文政三年﹆会津藩に代つて浦賀奉行が
詩﹂に﹁冷翠千竿玉﹆浮嵐萬幅屏。
﹂とある。こゝは唱歌に言ふ﹁千
び安房崎の遠見番所であつた。天保八年﹆米国船もりそん号が浦賀
体制となつた。この頃の主な防備施設は平根山と観音崎の台場﹆及
相州側警備の任に当り﹆これを川越﹆小田原両藩が補佐するといふ
里寄せ来る海の気﹂︵﹁われは海の子﹂︶の意。
に来航すると﹆当時﹆無二念打払令下であつた為﹆浦賀奉行太田資
状﹆坐臥常対 乎軒窓 。
﹂とあり﹆同﹆陸游﹁白塔院︿時小雨初霽﹀
○隱隱
多く盛んなさま。前漢﹆司馬相如﹁上林賦﹂に﹁沈沈隠隠﹆
統︵運八郎︶が指揮して﹆平根山台場その他からこれを砲撃﹆退去
上
砰磅訇礚。
﹂とあり﹆李善注に﹁隠隠﹆盛貎也。
﹂とある。
せしめてゐる。竹堂の旅の前々年のことであり﹆甚だ生々しい出来
中
○襲人
香 気 な ど が 強 く 漂 つ て 来 た り す る の を 擬 人 化 し て 言 ふ。
レ
事として意識せられてゐた筈である。
一
唐﹆ 盧綸﹁和 趙給事白蝿払歌 詩﹂ に﹁柄裁 沈節 香襲 人﹆ 上結
二
江戸湾相州側の警衛は﹆天保十三年には川越藩の担当﹆弘化四年に
一
為 レ文 下 垂 レ穂。﹂ と あ り﹆ 同﹆ 張 友 正﹁春 草 凝 レ露 詩﹂ に﹁独 愛 池
は 彦 根﹆ 川 越 両 藩 の 担 当 と な り﹆ 以 後 更 に 変 遷 が あ る が﹆ 省 略 す
二
塘畔﹆ 清華遠襲 人。﹂ とある。 こゝは﹆﹁浮嵐﹂ が海上から竹堂た
大辞典﹄
﹁浦賀﹂
︵青木美智男氏執筆︶参照。文化七年﹆幕命により﹆
以外に荷受問屋をも兼ねるなどした為﹆ 再び隆盛となつた。﹃国史
と﹆それに伴なひ廻船問屋が百四軒も成立し﹆それらが浦方の業務
取締りをしてゐた下田番所を当地に移し﹆浦賀奉行所が設けられる
などして一時衰退するが﹆享保五年﹆幕府がそれまで江戸湾廻船の
は明治維新まで天領であつた。元禄十六年の大津波で被害を受ける
た。天正十八年﹆徳川氏の関東入国後は蔵入地となり﹆幕府成立後
れ﹆ 戦 国 時 代 に は 後 北 条 氏 の 水 軍 の 根 拠 地 と な り﹆ 漁 業 も 発 展 し
を挟んで﹆東浦賀村﹆西浦賀村が在つた。古くから良港として知ら
○浦賀
相模国三浦郡の港。現在の神奈川県横須賀市東部。浦賀湊
ちの居る陸地に向かつて押し寄せて来るのを言ふ。
○要阨
地 形 が 狭 く 険 し く﹆ 軍 事 的 に 重 要 な 場 所。 要 害 の 地。 要
とある。
防。頼山陽﹁蒙古来詩﹂に﹁相模太郎膽如 レ甕﹆防海将士人各力。
﹂
○防海
海 を 防 ぎ 守 る。 外 敵 が 海 か ら 侵 入 す る の を 防 衛 す る。 海
た︵九月十四日の条参照︶。
なほ﹆竹堂には﹆この後﹆浦賀に渡る計画が有つたが﹆果せなかつ
か。
海防の拠点としての浦賀奉行所の存在を重視してのことであらう
や剣崎を挙げた方が適切かと思はれるが﹆浦賀を出してゐるのは﹆
洲崎と﹁相對﹂する場所としては﹆地形的には﹆城ヶ島︵安房崎︶
川道夫﹃江戸湾海防史﹄︵平成二十二年十一月
錦正社︶等参照。
る。原剛﹃幕末海防史の研究﹄︵昭和六十三年七月
名著出版︶﹆淺
レ
外国船に備へる為﹆江戸湾の内﹆房総側を白河藩が﹆相州側を会津
衝。阨は に同じ。狭い。狭く険しい。音アイ。また﹆アク﹆ヤク。
三三
藩がそれ〴〵担当﹆防備することゝなり﹆湾岸各所に陣屋﹆台場﹆
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
275
堀口
育男
た。最初の代官は森覚蔵。天保十一年六月に羽倉外記︵用九。号﹆
が そ の 任 に 当 り﹆ こ れ を 佐 倉﹆ 久 留 里 両 藩 が 補 佐 す る こ と ゝな つ
なり﹆以後﹆天保十三年八月まで﹆江戸湾房総側警衛は﹆幕府代官
見番所のみが置かれることになつた。翌六年﹆定信は桑名に転封と
の陣屋と洲崎の台場は上総国の富津に移転せしめられ﹆洲崎には遠
番所を梅ヶ岡と命名した。しかるに﹆文政五年﹆幕命により波左間
台場を平夷山﹆波左間の陣屋を松ヶ岡﹆洲崎の台場を勝崎﹆白子の
設置することゝし﹆翌八年に竣功せしめた。百首の陣屋を竹ヶ岡﹆
村に台場を﹆更に朝夷郡白子村に出張陣屋︵遠見所︶を﹆それ〴〵
周准郡百首村に陣屋と台場を﹆安房国安房郡波左間村に陣屋﹆洲崎
することゝなつた為︵﹁浦賀﹂の語釈参照︶﹆藩主松平定信は上総国
○樓
遠見番所。文化七年﹆白河藩が江戸湾の房総側の防備を担当
神宮村にあり。太玉命を祭る。天富命﹆阿八別彥忌部の諸氏を率ゐ
内社︵名神大社︶。安房国一宮。
﹃千葉縣古事志﹄
﹁安房座神社﹂に﹁大
大︵太︶神宮とも称せられる。現在の正式名称は安房神社。延喜式
遺﹄に鎮坐の由来が記される古社で﹆安房社﹆安房坐社﹆また単に
宮。 村 名 は﹆ 安 房 坐 神 社 が 鎮 坐 す る こ と に 由 る。 同 社 は ﹃古 語 拾
○太神宮村
安 房 郡 の 内。 大 神 宮 村 と も 書 く。 現 在 の 館 山 市 大 神
○夷舶
外国船。
り﹆﹁樓﹂と言ふ如きものではない。
見番所の建物が描かれてゐる。これに拠れば﹆遠見番所は平屋であ
何れも大砲五門が据ゑつけられた台場の傍らの小高い台状の地に遠
州洲崎御台場図﹂﹆﹁洲崎村台場之略図﹂︵忍藩担当期︶ が載るが﹆
館︶四十頁には﹁砲台縮図絵巻﹂
︵安政四年︶の内﹁洲崎台場﹂﹆
﹁房
特別展図録﹃幕末の東京湾警備﹄︵平成廿五年二月
館山市立博物
三四
簡堂︶に替り﹆更に同十三年四月からは篠田藤四郎が任じた。同年
て﹆四國阿波國より此の地に來り﹆蔴穀を種植なし給ひし時﹆祖父
が備へられてゐたらしい。
八月﹆江戸湾房総側警衛の任は武州忍藩がこれに当ることゝなる。
太玉命を祭る。實に神武天皇辛酉春正月なり。
﹁古語拾遺﹂に曰く﹆
当 軍衝 。
﹂とある。
弘化四年には﹆上総を会津藩が﹆安房を忍藩がそれ〴〵担当するこ
﹁天富命至 二阿波 一﹆ 殖 二蔴穀種 一﹆ 更求 二沃壌 一﹆ 分 二阿波齋部 一﹆ 率
一
とゝなる。嘉永六年には筑後柳川藩と備前岡山藩の担当となり﹆以
往東土 一﹆播 二殖蔴穀 一。好蔴所 レ生故謂 二之總國 一﹆︿中略﹀阿波忌部
二
後﹆更に変遷があるが﹆省略する。洲崎の遠見番所は﹆忍藩担当期
所 レ居便名 二安房郡 一。天富命卽於 二其地 一立 二太玉命社 一。安房座神社
一
には大筒五挺が備へられてをり﹆台場に復してゐた。原剛﹃幕末海
是也﹂と。
﹁延喜式神名帳﹂に﹆
﹁安房座神社﹆名神﹆大﹆月次新甞﹂
﹃後漢書﹄隗囂伝に﹁拒 要
二
防史の研究﹄﹆淺川道夫﹃江戸湾海防史﹄等参照。
同﹁神祇式﹂に﹆
﹁名神祭二百八十五座﹆安房神社一座︿安房國。
﹀﹂
とあり。﹁續日本後紀﹂ に﹆﹁承和十四年七月壬申﹆ 加 二安房國大神
二
星巌﹁浪淘集﹂︵﹃星巌戊集﹄巻二所収︶︵天保十二年︶﹁洲嘴詩﹂序
には﹁北對 二三浦三碕 一﹆西望 二大洋 一﹆實為 二江門咽喉之地 一﹆地置
並 從 祭 神﹆ 正 稅 穀 一 百 斛 一。﹂ と 載 す。 實 に 安 房・ 上 總・ 下 總 三 國
二
熕臺 一鎮防甚嚴﹆
﹂
︵熕は大砲。
︶とあり﹆幕府直轄期であるが﹆大砲
274
﹁安 房 神 社﹂ に ﹁安 房 神 社 は 神 戶 村 大 神 宮 字 宮 谷 に 在 り。 祭 神 は 本
郡誌﹄第十四章︵社寺及名勝舊蹟︶第一節︵神社︶一︵官幤大社︶
せしも亦此の地に太神の社あるを以てなり。
﹂とあり﹆﹃千葉縣安房
謝として來拜せしこと﹆社の舊記に存す。古昔﹆安房郡を神郡と稱
後﹆賴朝日本惣追捕使を命ぜられし時﹆三浦三重郎義連祈願成就の
年﹆源賴朝開運祈願の命を受け﹆駿河前司義村社殿に詣拜し﹆其の
に太玉命を祭り﹆下宮に天忍日命・天富命を合祭すと云ふ。治承四
創基の祖神なり。古昔は伊勢兩宮の式に倣ひ﹆上下宮に分つ。上宮
﹃安房國全圖﹄︵嘉永二年︶︵﹃千葉縣史料﹄近世篇安房國下︵昭和三
地全圖之内﹀ 安房・ 上総・ 下総三國圖﹄︵天保十四年︶︵人文社︶﹆
比較的内陸を通る道を取つたことが考へられる。﹃︿冨士見十三州輿
井﹆布沼﹆茂名﹆洲宮﹆藤原﹆犬石辺りを経て太神宮に至るといふ﹆
辺りまで戻つたか﹆さもなければ﹆坂田﹆波左間﹆見物﹆早物﹆坂
置する。竹堂は﹆玄章と共に﹆前日歩いた海岸沿ひの道を再び布良
太神宮村は﹆前日通過した布良から僅かに内陸に入つたところに位
一節︵館山と神社︶等参照。
薔薇園・牡丹園・藤園等その間に點在し﹆泉池水淸くして眞に仙境
綠滴る如き常綠樹に大島櫻數千株を交え﹆且境內櫻樹﹆楓樹多く﹆
南に延び﹆更に寬く東に延び﹆北へ赴きて濶く境內を劃す。全山翆
域一万二千四百四十坪﹆大宮山﹆本殿の背後に聳へ﹆その脈走つて
爽たり。更に進みて石階を上れば拜殿あり。其の奥に本殿あり。地
すれば﹆前方遙かに拜殿を拜すべし。此の邊地域最も廣濶にして淸
務所あり。低き石階を登り﹆二の鳥居を過ぎ﹆砥の如き石疊を右折
人をして旣に神威に襟を正さしむ。松並木盡くる所右に神池左に社
一の鳥居より一町餘り千古の老松衟を挾んで﹆或は亭々或は蜿々﹆
た る 天 日 鷲 命﹆ 天 神 立 命﹆ 大 宮 賣 命﹆ 豊 磐 意 命﹆ 櫛 磐 意 命 を る。
の中では﹆岡嶋大膳﹆高山小膳﹆橘︵立花︶右近﹆庄司左近の四家
たと言ひ﹆下の宮が復活したのは大正時代といふ。なほ﹆大神宮村
下の宮の鎮坐する場所は﹆室町時代以降﹆岡嶋氏の居宅となつてゐ
二月二十一日指定。岡嶋氏は現在も同社の祠官として続く。現在﹆
部系図﹄を伝へる。同系図は館山市指定有形文化財。昭和四十四年
岡嶋氏のことであらう。 岡嶋氏は安房忌部の直系を称し﹆﹃安房忌
史告﹆神明有 レ喜女巫知。
﹂とある。祝史某とは﹆安房坐神社の社家
豊 一。﹂とあり﹆同﹆耿湋﹁嶽祠送 二薛近貶 一レ官詩﹂に﹁遷客無 レ辜祝
李頎﹁与 二諸公 一遊 二済瀆 一泛 レ舟詩﹂ に﹁玄冥掌 二陰事 一﹆ 祝史告 二年
桓公六年に﹁上思 レ利 レ民﹆忠也。祝史正 レ辞﹆信也。
﹂とあり﹆唐﹆
○祝史
神官。祠官。本来は祝官と史官とを併せて言ふ語。
﹃左伝﹄
十一年三月千葉県︶所収︶等参照。
たり。
﹂とある。
が﹆社家として特に社務に大きな役割を果してゐたといふことであ
は 天 太 玉 命 に し て﹆ 配 祀 は 后 神 天 比 刀 理 乃 咩 命 並 に 齋 部 五 部 の 神
社領は﹆ 里見氏時代の高を示す﹃安房国寺社領帳﹄︵元和二年︶ に
る。﹃館山市史﹄ 第七章︵宗教︶ 第一節︵館山と神社︶ 及び同書第
︵ママ︶
三十石四斗二升とあり﹆徳川時代にもそのまゝ御朱印高として認め
八章︵館山の文化財︶等参照。
三五
られた。 明治四年五月﹆ 官幣大社。﹃館山市史﹄ 第七章︵宗教︶ 第
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
273
少輔。
﹂とあり﹆
﹁︵立野︶良道曰く﹆おのが弘化三午年參詣せし時﹆
太神宮村に有り。三才圖會﹆平郡と有り。寫誤なるべし。神主兵部
﹃房總志料續篇﹄巻之十二に﹁正一位太神宮。社領三拾石四斗二升﹆
十二月十五日指定︶。
﹃館山市史﹄第八章︵館山の文化財︶第二節︵有
説があり﹆﹁弘法井戸﹂ として﹆ 千葉県指定民俗資料︵昭和三十年
を湧出する。現在は﹆円形の井戸枠で囲まれてゐる。弘法大師の伝
ある井戸。塩井戸﹆弘法水などゝも呼ばれ﹆やゝ黄味を帯びた塩水
三六
神主齋部雅樂亮。
﹂とある。
形文化財︶ ︵民俗資料︶﹆地区展図録﹃たてやまの歴史と文化財﹄
堀口
育男
○古鏡
未詳。現在﹆安房神社には﹆双鳥花草文八稜鏡﹆双鳥花草
千葉県︶ に三点﹆﹃千葉県の歴史﹄ 資料編
中 世 三 ︵平 成 十 三 年 三
神社文書は﹃千葉縣史料﹄中世篇
諸家文書︵昭和三十七年三月
詩﹂に﹁酒戸知 レ貧焚 二旧券 一﹆医翁憐 レ病献 二新方 一。﹂とある。安房
○ 劵
古 い 証 書。 券 は﹆ 証 文﹆ 証 書 の 類。 南 宋﹆ 陸 游 ﹁村 居 書 事
ほ﹆岡田晃司氏の御教示を得た。
ないと思はれる。﹃館山市史﹄ 第八章︵館山の文化財︶ 等参照。 な
ことであり︵鏡袋の記載に由る︶﹆ こゝに言ふ﹁古鏡﹂ には該当し
二十六年十月﹆東京の装束師増田英治氏より奉納せられたものとの
は鎌倉末﹆後者は南北朝期の製作と推定せられる。但し﹆共に明治
文化財に指定せられてゐる。昭和四十四年二月二十一日指定。前者
文円鏡といふ古鏡二面が宝物として蔵せられ﹆共に館山市指定有形
平常飮食物を以て。他人に惠與するを無上の娯樂となす。茲に大同
年五十三。無 レ子。孀婦美和女。獨居窮乏。然ども其性仁愛に富み。
と 爲 り。 靑 木 村 に 居 住 す。 大 同 元 丙 戍 年 五 月 十 八 日。 病 沒 す。 行
丸巨麻太宗光の家臣に。杉浦吉之丞なる者あり。故ありて下て農夫
病。血病等に殊効ありと。傳云。延曆二十四乙酉年三月十二日。金
の慢性加答兒。泌尿器の慢性加答兒。通風及び密尿病。腺病。肥胖
肝血。或は胆石。慢性肺炎。胸膜。腹膜。腎石。腕胱石。婦人殖器
て。 黃 色 を 帶 び。 少 し く 臭 氣 あ り。 慢 性 胃 膓 加 莟 兒。 及 び 下 腹 充
弘 法 水 と 稱 す。 醎 味 あ り。 用 て 食 物 を 烹 蒸 す 可 し。 水 色 透 明 に し
﹃安 房 志﹄ 第 二 篇 ﹁鹽 井﹂ に ﹁神 餘 村 字 畑 中 の 河 中 に 湯 出 す。 土 人
参照。
﹁稔り豊かな谷の村々
豊房﹂︵平成三年二月
館山市立博物館︶等
︵ママ︶
たま〳〵
︵ママ︶
︵ママ︶
月
千葉県︶に九点収録せられてゐるが﹆その中には﹁里見義堯寄
三 戊 子 年 十 一 月 廿 四 日。 一 人 旅 僧 來 て 食 を 乞 ふ。 偶 小 豆 粥 あ り。
はたなか
進目録写﹂﹁里見義堯印判状写﹂﹁里見忠義印判状﹂等﹆里見氏関係
以て之を與ふ。其僧一歠歎して曰く。鹽味なきを如何せん。答て曰
た
︵ママ︶
の文書が含まれてゐる。
く。老婦家貧困にして鹽を得るの資なしと。僧之を聞て大に憐み。
わ
○證古
古い時代のことを証明する。昔のことを解き明かす証拠と
孀婦を拉て小川の湄に至り。錫杖を河底に植てゝ。默念すること良
ひたゐ
み
なる。
久し。僧婦に命じて其杖を抜き取らしむ。忽然として淸水噴出躍て
ほとり
○憾
残念に思ふ。心残りに思ふ。
婦の顙を過ぐ。之を甞むるに眞鹽に異ならず。此時旅僧走て此地を
つれ
○鹽井
安房郡神餘村︵現在の館山市神余︶字畑中の巴川の川中に
やつ
6
272
○塍閒
田畑の中。田圃の間。塍は﹆あぜ。くろ。﹃説文﹄︵段玉裁
江空潭靄微。
﹂とある。
○暝
日が暮れる。唐﹆宋之問﹁桂州黄潭舜祠詩﹂に﹁日暝山気落﹆
りない。
の意であるが﹆大神宮村から塩井まで﹆直線距離ならば﹆一里に足
○北里餘
北といふより東といふ方が適当である。里餘は一里餘り
爲す。
﹂とある。
巴川となり平沙浦に注ぐ之を總稱して金丸川と云。某末流を巴川と
佐野より來る谿流を容れ神余區の中央を南下し。更に屈折西流して
以て之を空海法師に供す。云々鹽井川は豊房村東長田山間より發し
一月より廿四日に至る。四日間。鹽川の水を汲み。小豆粥を煮て。
り。河を鹽川と云ひ。此寺をして守護せしむ。其後承和三丙辰年十
觀音勢至佛像を安置し。無量山來迎寺と稱し。伽藍を山椒に建立せ
す。其翌大同四己丑年十一月廿四日。里人相謀り。來迎三尊阿彌陀
し 。 闔 邑 嘖 々。 其 法 力 の 無 量 を 欽 仰 し 。 再 び 其 來 遊 を 迎 へ ん と 欲
去れり。僧は即ち空海法師なり。里人等鹽水湧出で以て其功德とな
とある。
為 レ無 レ本﹆ 七八月之間﹆ 雨集溝澮皆盈﹆ 其涸也﹆ 可 二立而待 一也。﹂
○涸
かれる。 水がかれてなくなる。 涸渇。﹃孟子﹄ 離婁下に﹁苟
マタ足ヲ蹈出スカフミ出サヌ内ト云義理ナリ﹆
﹂とある。
ノ内ト云意ナリ﹆ヤハリ立テオル内ト云事ナリ﹆立テ行ント欲シテ
○立
たちまち。 たちどころに。﹃訓訳示蒙﹄﹁ 立 ﹂ に﹁タチマチ
溝渠 一。
﹂とある。
歩。
﹂とあり﹆漢﹆揚雄﹁解嘲﹂に﹁当 レ塗者入 二青雲 一﹆失 レ路者委
○溝渠
溝。 堀割。 用水路や小川。﹃礼記﹄ 曲礼上に﹁門閭溝渠必
また﹆水が溜る意。
○潴水
溜つた水。また﹆溜池の水。潴は﹆水溜り﹆沼﹆貯水池。
○多骨少肉
骨は岩石を﹆肉は土壌を喩へて言ふ。
○房山
安房国の山。
降﹆宿麦傷 レ旱﹆秋種未 レ下﹆政失 二厥中 一﹆憂懼而已。
﹂とある。
帝紀﹂ に﹁︵永平十八年︶ 夏四月己未﹆ 詔曰﹆ 自 レ春己來﹆ 時雨不
○傷旱
旱魃により害を受ける。旱は﹆ひでり。旱魃。
﹃後漢書﹄
﹁明
秋雲 一。
﹂とある。
︵ママ︶
注︶ に﹁塍﹆ 稲田中畦埓也。﹂ とある。 態々﹁塍間より帰る﹂ と言
○土人
土地の人。地元の人間。九月八日の条にも見えた。
二
二
レ
ふのは﹆一つには﹆以下の農作物と地形﹆気候に関する記述を引き
○多煖
暖かい。 温暖。﹁多暖﹂ ならば﹆ 唐﹆ 盧綸﹁春日書 レ情別
しほかは
出す為であるが﹆或いは﹆往路が海岸沿ひの道を通つたのに対し﹆
司空曙 一詩﹂に﹁臘近晴多 レ暖﹆春遅夜卻寒。
﹂とある。
︵ママ︶
帰路は前述した内陸寄りの道を取つたとの意をも含むか。
○雨濕 雨が降つて湿ること。
﹃魏志﹄劉馥伝に﹁蚕麦有 二苫備之用 一﹆
三七
窮思深至﹆不 レ可 二居忍 一﹆雨湿﹆体気各何如。
﹂︵﹃漢語﹄︶とある。
タチトコロ
○禾稼
穀物。 穀類。﹃毛詩﹄ 豳風﹁七月﹂ に﹁九月築 二場圃 一﹆ 十
無 二雨湿之虞 一。
﹂とあり﹆晋﹆王羲之﹃雑帖﹄四に﹁月半﹆念 二足下 一﹆
二
月 納 二禾 稼 一。﹂ と あ り﹆﹃礼 記﹄ 月 令 に﹁丘 隰 水 潦﹆ 禾 稼 不 レ熟。﹂
と あ り﹆ 唐﹆ 白 居 易 ﹁詔 下 詩﹂ に ﹁但 喜 今 年 飽 飯 喫﹆ 洛 陽 禾 稼 如
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
271
合つてをり﹆海防上の要衝である。村の西の崖の上に遠見番所を設
三八
○前歳
前の年。前年。昨年を指す場合﹆一昨年を指す場合﹆数年
けて﹆外国船を見張つてゐる。東の方へ二里のところに太神宮村が
堀口
育男
前を指す場合などがある︵﹃漢語﹄︶。 こゝは﹆ 九月二日の条の﹁前
有る。そこの神官である某家に古い鏡を蔵してゐる。また﹆古文書
あかし
載﹂と同じく﹆所謂﹆天保の饑饉の時のことを指す。同日の条﹁救
も有る。里見氏時代のもので﹆古への証となるものである。神官の
家 に 着 い た と こ ろ﹆ 主 人 は 留 守 で あ つ た。 大 変 残 念 な こ と で あ つ
﹂の語釈参照。
○諸州
諸国。安房国以外の国々。
で﹆やはり行かなかつた。田畑の中の道を通つて帰つた。穀類は旱
た。塩井はそこから北に一里餘りのところに在るが﹆日が暮れたの
一
○ 雨
ながあめ。 霖雨。﹃礼記﹄ 月令に﹁孟夏行 秋令 ﹆ 則苦雨
二
数 來﹆ 五 穀 不 滋﹆ 四 鄙 入 保。﹂ と あ り﹆﹃左 伝﹄ 昭 公 四 年 に﹁冬
レ
魃の所為で半ば枯れてゐた。思ふに﹆安房の山地は岩石が多く土壌
レ
と﹆用水路や小川は忽ち干上がつてしまふ。それで土地の人々はひ
無 二愆陽 一﹆夏無 二伏陰 一﹆春無 二凄風 一﹆秋無 二苦雨 一。﹂とあり﹆晋﹆
レ
が少いので﹆沼や溜池などに貯へられる水の量が少い。旱魃になる
一
陸 機﹁贈 尚 書 郎 顧 彦 先 詩﹂ に﹁凄 風 迕 時 序 ﹆ 苦 雨 遂 成 霖。﹂
二
たすら雨が降らないことのみを恐れてゐるのである。その上﹆土地
一
○熟
穀物などがよく稔る。豊熟。
は大変温暖なので﹆雨による湿気のことを気にかける必要がない。
二
○反
かへつて。反対に。但し﹆
﹃千葉縣安房郡誌﹄第一章︵沿革︶
前年の饑饉の時など﹆他国では長雨で穀物が稔らなかつたのに﹆当
とある。
第四節︵近世︶ 三︵災異雜事︶ には﹆﹁○天保四年秋大風あり。 五
地では反対に良く稔つた。これもまた地勢のなせるわざである。
十九.九月十一日
年五穀登らず。六年凶作﹆七年大風雨あり。
﹂とある。
○地勢
土地の状態。 地形。﹃周礼﹄ 考工記﹆ 匠人に﹁凡天下之地
勢﹆両山之間﹆必有 川焉。
﹂とあり﹆宋﹆梅堯臣﹁五月十三日大水
レ
詩﹂に﹁我家地勢高﹆四顧如 二湖淲 一。
﹂︵﹃漢語﹄︶とある。
来るかのやうである。南の方には伊豆七島が﹆或いは高く﹆或いは
十日。玄章と共に外に出た。富士山が真正面に在つて笑ひかけて
浦﹆ 又 東 至 村﹆ 有 松 盤 亘 十 丈 餘﹆ 髥 甲 夭 矯﹆ 有 凌 雲 勢﹆ 傳 爲 八
灣﹆ 隔 岸 翆 崖 屹 對﹆ 爲 大 房 崎﹆ 灣 中 晴 波 如 拭﹆ 峯 倒 涵﹆ 曰 鏡
枯魚爲最﹆都市所鬻率是也﹆一醉而去﹆東踰坂﹆海水如玦﹆數里
十一﹆里正渡邊氏邀飮﹆余偕玄章往﹆叩以土產﹆主人曰﹆本州以
低く﹆連なり続いてをり﹆洋上に浮動する海の気が﹆まるで襲ひ掛
百 歲 物﹆ 樂 翁 公 巡 海 之 次﹆ 嘗 撫 愛 之﹆ 名 臥 龍 松﹆ 土 人 以 木 欄﹆
[試訳]
つて来るかのやうに﹆盛んに押し寄せて来る。此の地は浦賀と向ひ
270
卽 里 見 氏 塋 所 在﹆ 又 遺 器 舊 志﹆ 祕 不 許 ﹆ 乃 左﹆ 八 幡 祠 海
他無所存﹆但頂上眺鏡浦﹆爲佳耳﹆辭去﹆有岐﹆右可逹延命寺﹆
山不在﹆見子謙藏﹆曰驛南有墟﹆里見氏九世所據﹆今則榛 漫山﹆
之﹆ 亦 一 甘 棠 矣﹆ 館 山﹆ 驛 舍 頗 整 潔﹆ 係 稻 侯 采 邑﹆ 訪 新 井 文
十二に﹁洲崎にては里長を大家といふ。
﹂とある。
頭白還戍 レ辺。﹂ とある。 こゝは名主﹆ 庄屋。﹃房總志料續篇﹄ 巻之
○里正
村里の長。唐﹆杜甫﹁兵車行﹂に﹁去時里正為裹頭﹆帰来
○十一
九月十一日。
[語釈]
おほ や
巍立﹆曰八幡濱﹆宿那古﹆
○渡邊氏
洲崎村の世襲名主。 渡部﹆ 綿鍋などゝも書く。﹃房總志
伝 へ て 八 百 歳 の 物 と 為 す。 楽 翁 公﹆ 海 を 巡 る 次﹆ 嘗 て 之 れ を 撫 愛
る。松有り。盤亘すること十丈餘﹆髥甲夭矯し﹆雲を凌ぐ勢有り。
へ る が 如 し。 蓮 峰 倒 ま に 涵 る。 鏡 浦 と 曰 ふ。 又 た 東 し て 萎 村 に 至
湾を成す。岸を隔てゝ翠崖屹対するを大房崎と為す。湾中﹆晴波拭
是れなり。一酔して去る。東のかた坂を踰ゆ。海水玦の如く﹆数里
てす。主人曰はく﹆本州枯魚を以て最と為す。都市の鬻ぐ所﹆率ね
十一。里正渡辺氏に邀飲す。余﹆玄章と偕に往き﹆叩くに土産を以
長の説﹂二条を録してゐる。
いふ處にて炊飯し﹆飢をたすけ﹆賴朝を迎ふと。
﹂として﹆﹁洲崎里
などゝ對しぬれば﹆火光の洩れん事をはゞかり﹆女郎の地﹆嶋崎と
﹁ 同 じ 說 に ﹆ 三 浦 が 黨 ﹆ 同 じ く 跡 よ り 着 船 す 。 洲 崎 は 土 井・ 眞 名 鶴
賴朝同船せしは土肥實平なり。東鑑にみゆ。口傳と異なり。
﹂﹆また
時﹆佐佐木一人隨從す。三浦が黨は遙跡より來ると。按に﹆此時﹆
土井の杉山より洲崎着船の地は﹆洲崎の側の平嶋といふ處也と。此
たりと。 珍しき事なり。﹂ とあり﹆ 続けて﹁洲崎里長の説に﹆ 賴朝
料﹄巻二に﹁洲崎の里長は渡部氏なり。今の里長まで二十二世里長
し﹆臥龍松と名づく。土人環らすに木欄を以てし﹆之れを敬異す。
高橋克庵﹃南遊紀行﹄︵嘉永五年︶ に﹁訪 二渡辺某 一。︿里正﹀﹂ とあ
[訓讀]
亦た一甘棠なり。館山は駅舎頗る整潔なり。稲葉侯の采邑に係る。
り︵但し﹆偶々役人の立寄りがあり﹆家内が擾雑を極めてゐた為﹆
ひさ
新 井 文 山 を 訪 ふ に 在 ら ず。 子 の 謙 蔵 を 見 る。 曰 は く﹆ 駅 南 に 墟 有
克庵は名を通ぜずして去つた。
︶﹆小野損菴︵正端︶﹃遊房総記﹄︵安
ひた
り。 里 見 氏 九 世 の 拠 り し 所 な り。 今 は 則 ち 榛 山 に 漫 り﹆ 他 の 存 す
政四年︶に﹁風雨弥々甚しければ﹆渡辺氏に宿す。旧家にて世々里
さかし
る 所 無 し。 但 だ 頂 上 よ り 鏡 浦 を 眺 む る を 佳 と 為 す の み﹆ と。 辞 去
正なり。鎌倉公嘗て宿せられ﹆今なほ其の遺物有りとぞ。
﹂とある。
ラ
す。岐有り。右すれば延命寺に達すべし。即ち里見氏墳塋の在る所
現在﹆同地に後孫等は無い。養老寺に墓石が残る。なほ﹆岡田晃司
三九
○邀飮
客を招いて酒を飲む。 明﹆ 呉寛﹁詩﹂ に﹁黄花酒熟須 二邀
メ
な り。 又 た 遺 器 旧 志 を 蔵 す れ ど も﹆ 秘 し て 観 る を 許 さ ず。 乃 ち 左
氏の御教示を得た。
のぞ
ついで
す。八幡祠﹆海に みて巍立す。八幡浜と曰ふ。那古に宿す。
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
269
堀口
育男
○土產
土地の産物。その土地で産出するもの。唐﹆白居易﹁東南
○叩
問ふ。尋ねる。
○偕
ともに。一緒に。
堂及び玄章が招待せられたのである。
涔崿嶂間﹆淙嵌洑岨洊成 レ湾。
﹂とある。
○ 灣
入 り 江 を 形 成 し て ゐ る。 唐﹆ 徐 彦 伯 ﹁石 淙 詩﹂ に ﹁碧 淀 紅
○玦
佩玉の一種。環状で一部分が缺けてゐるもの。
う。
○踰坂
山越えをする。洲崎から坂田へ越えたことを言ふのであら
四〇
行一百韻寄 二云々 一﹂に﹁漸覚 二郷原異 一﹆深知 二土産殊 一。
﹂とある。
○隔岸
岸を隔てる。岸は﹆水辺の崖。唐﹆黄滔﹁題 二陳山人居 一詩﹂
ばん だ
とある。竹堂は下戸であるが﹆少しは飲んだらしい。
○本州
安房国を指す。
に﹁隔 レ岸青山秋見 レ寺﹆半床明月夜聞 レ鐘。
﹂とあり﹆同﹆李中﹁江
飲 ﹆ 佳節遥期九日重。﹂︵﹃大漢和﹄︶ とある。 こゝは﹆ 渡辺氏に竹
一
○枯魚
乾した魚。 ひもの。﹃韓非子﹄ 外儲説左下に﹁糲餅菜羹﹆
村 晩 秋 作 詩﹂ に﹁高 秋 水 村 路﹆ 隔 レ岸 見 二人 家 一。﹂ と あ り﹆ 同﹆ 処
黙﹁聖果寺詩﹂に﹁到 レ江呉地尽﹆隔 レ岸越山多。
﹂とある。
唐﹆ 李 白﹁西 嶽 雲 臺 歌 送 二丹 丘 子 一﹂ に﹁三 峰 卻 立 如 レ欲 レ摧﹆ 翠 崖
○翆崖
み ど り の 崖。 樹 木 が 生 ひ 茂 り﹆ 緑 色 に 蔽 は れ て ゐ る 崖。
二
レ
枯 魚 之 膳。﹂ と あ り﹆ 唐﹆ 白 居 易﹁春 寒 詩﹂ に﹁助 レ酌 有 二枯 魚 一﹆
佐 餐兼旨蓄。
﹂とある。三国﹆魏﹆応璩﹁百一詩﹂其一に﹁田家無
レ
○最
一番のもの。最もすぐれたもの。
丹谷高掌開。
﹂とあり﹆同﹆李紳﹁卻望︿一作 レ到﹀ 二無錫︿一本有
所 レ有﹆酌 レ醴焚 二枯魚 一。
﹂とある。
○都市
みやこの市場。大きな町の市場。また﹆都会。大きな町。
高く険しい。山などがそばだつて﹆いかめしいさま。
○屹對
山などが険しくそばだつて向き合ふ。︵用例未検︶ 屹は﹆
二
一
望字 一﹀芙蓉湖 一詩﹂に﹁翠崖幽谷分明処﹆倦鳥帰雲︿一作 レ山﹀在
二
唐﹆戴叔倫﹁女耕田行﹂に﹁去年災疫牛囤空﹆截 レ絹買 レ刀都市中。
﹂
一
眼前 一。
﹂とある。
二
とあり﹆同﹆賈島﹁送 僧詩﹂に﹁日午遊 都市 ﹆天寒往 華山 。
﹂
レ
市場を指すか。
○大房崎
大房岬。大武崎︵岬︶とも。平郡多々︵田︶良村︵現在
とある。こゝは﹆館山など安房国内の町場を指すか。或いは江戸の
○鬻
ひさぐ。売る。
ダイ ブ
第三章︵地勢︶第四節︵海洋並に海岸︶第二項︵岬角並に沙嘴︶
﹁大
ダイ ボ
の南房総市富浦町多田良︶に在る岬。浦賀水道に突出し﹆館山湾と
上
○率
おほむね。おほよそ。
﹃文語解﹄に﹁率︿オフムネ
スベテ﹀
一
富浦湾の境をなす。﹃地名辞書﹄ 安房国︵千葉県︶ 安房郡﹆ 大武岬
二
皆也﹆略也ト注ス﹆︵○中略︶俚語ノオヽカタナリ﹆
﹂とある。
下
に﹁又大房岬に作る﹆標高八十余米突﹆海中に屹立して﹆弧円島状
一
○一醉
一たび酔ふ。こゝは﹆酒を飲んで軽く酔ふ。唐﹆岑参﹁漢
二
を為し﹆樹木之を覆ふ﹆鏡浦の秀景也。
﹂とあり﹆
﹃千葉縣安房郡誌﹄
一
川山行呈 成少君 詩﹂に﹁秋来取 一酔 ﹆須 待 月光 眠 。﹂とあ
二
り﹆同﹆銭起﹁送 二薛八謫居 一詩﹂に﹁銜 レ杯且一酔﹆別涙莫 二澘然 一。
﹂
268
門たり。標高約二百六十尺﹆海中に屹立して弧圓狀を爲し﹆矮松叢
二十五町﹆本郡洲ノ崎並に相模三浦郡三崎と相鼎峙して東京灣の外
武岬﹂に﹁富浦村大字多々良の西端にあり﹆海上に突出すること約
三里。西の方大房の山足と﹆南の方洲崎の山足かこひぬる形﹆圓く
り。
﹂とある。﹃房總志料﹄巻二に﹁那古の海を鏡が浦といふ。海灣
水に涵す。仍て此海濱を稱して。鏡浦と稱すと。實に望岳の勝地た
に似たり。故に名く。或は云ふ。富岳其正面に聳へて。遙に影を海
して鏡の如 クなればなり。
﹂とある。
生す。岬上不動祠及び舊砲臺址あり。
﹂とある。
一
鏡ヶ浦の呼称の由来に就いて﹆富士を鏡の如くに映すから﹆といふ
○晴波
晴 れ た 日 の 波。 唐﹆ 裴 夷 直 ﹁楊 柳 枝 詞﹂ に ﹁已 作 緑 糸
二
一
籠 二暁日 一﹆ 又成 二飛絮 一撲 二晴波 一。﹂ とあり﹆ 同﹆ 陸亀蒙﹁和 二襲美
二
説と﹆形状が鏡の如く円形であるから﹆といふ説とが有つたことが
一
重 玄 寺 双 矮 檜 詩﹂ に﹁更 憶 早 秋 登 北 固 ﹆ 海 門 蒼 翠 出 晴 波 。﹂
二
分るが﹆竹堂は前者に解して記述してゐるものと思はれる。
一
とある。
○鏡浦
鏡 ヶ浦。 館 山 湾 の 異 称。﹃千 葉 縣 古 事 志﹄﹁鏡 浦﹂ に﹁北
水面に影がさかさまに映るのを言ふ。こゝは﹆所謂﹆さかさ富士。
○倒涵
さかさまに水にひたる。涵は﹆水にひたる。また﹆ひたす。
○ 峯
富士山の異名。八月廿七日の条に既出。
立たず﹆平らかなのを言ふ。
す。巨幹大枝。四方に蟠蜿して。或は地に臥し。或は空を攫む。龍
見 音 前 の 岬 上 に 貧 刹 あ り。 庭 中 の 一 老 松。 里 俗 し ぼ み の 松 と 稱
○有松
塩見松のこと。﹃安房志﹄ 第二篇﹁鹽見松﹂ に﹁西岬村鹽
たのであらう。
たといふのであるから︵次項︶﹆ 塩見は﹁しぼみ﹂ とも発音してゐ
は未詳であるが﹆﹁塩見松﹂ を地元では﹁しぼみの松﹂ と呼んでゐ
ものであらう。かうした表記が﹆当時﹆一般的なものであつたのか
○ 村
安 房 郡 塩 見 村。 現 在 の 館 山 市 塩 見。 萎 は﹆ し を れ る﹆ し ぼ
ぬぐ
レ
○如拭
拭ひ取つたかのやうである。ふき清めたかのやうである。
レ
む﹆の意。こゝは動詞﹁しぼむ﹂の連用形で﹁しぼみ﹂と訓ませる
レ
唐﹆ 杜 甫 ﹁渼 陂 行﹂ に ﹁沈 竿 続 蔓 ︿一 作 縵﹀ 深 莫 測﹆ 菱 ︿一
レ
條・那古等の海濱を凡て鏡浦と云ふ。南の洲崎と﹆北の太房と﹆海
髯虬鬚古鱗鐵の如く。高さは僅に七八尺に滿たざるも。方十四五間
作 芡﹀ 葉 荷 花 静︿一 作 浄﹀ 如 拭。﹂ と あ る。 こ ゝは﹆ 海 面 が 波
上に突出し﹆相抱環して其の內一大灣をなし﹆富士峰その正面に聳
に亘り。欝々然たり。恰も一大蒼龍の偃臥するに似たり。實に千歳
レ
えて﹆遙に影を海水に涵す。因りて此の海邊を鏡浦と名づけたり。
の 靈 根 に し て。 房 州 第 一 の 偉 と 謂 つ 可 し。 古 來 之 を 一 烈 松 と 稱 せ
レ
諸國富士を望むの地多しと雖も﹆風景の佳麗なる此の右に出づる地
し が。 桑 名 藩 主 松 平 樂 翁 公 海 邊 防 備 の 爲 め。 此 地 を 巡 閱 し 親 し く
レ
なし。
﹂とあり﹆﹃安房志﹄第二篇﹁館山港﹂に﹁館山灣は。大房。
此松を賞觀して。 更に臥龍松と命名せらる。︵○中略︶ 今や臥龍松
四一
れつまつ
つか
洲崎兩岬の間に在る海灣の總稱にして。一に鏡ヶ浦と云ひ。又菱花
の名聲時を得て始て世に顯はれしも。如何せん其由來を徵するに由
︵ママ︶かゞみ
灣と稱す。東西約七里。南北凡五里。楕圓形をなし。海水澄徹。鑑
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
267
わかれたり。實に希世の名木也。
﹂とある。
より南へ向ひ一間ばかりにて東西南と三つにわかれ﹆夫より百千に
良衟曰く﹆洲の崎衟の大衟より右へ廿五間入り﹆堂の庭に有り。北
丈﹆ 廻り一丈二尺﹆ 東西廿八間﹆ 南北廿四間。﹂ とあり﹆﹁︵立野︶
﹃房 總 志 料 續 篇﹄ 巻 之 十 二 に ﹁鹽 見 村 に 臥 龍 松 と 云 ふ あ り。 高 さ 二
ならんと云ふ。
﹂とある。
蒼 の 古 色 よ り る と き は。 謫 流 時 代 の 物 に 非 ず し て。 建 國 前 後 の 物
天皇の皇子神井耳命の後裔。長狹の國造とす。今松樹の巨幹繁枝蔚
房國を分立す。此間地方官として始めて房州を治め給ひしは。神武
れ。天平年中。復上總に合併し。天平寳字の頃。舊に歸して再び安
部を率ゐて此國に移り給ひ。後養老年間上總を割きて安房國を置か
傍に其屍を埋塟せしものにて。其栽植の期は。上古天富命阿波の忌
えて墓表となせしと云。又一說に官女死する以前既巳に此松あり。
此時代に於て一官女罪あり。謫せられて此地に住す。死後此松を植
年 間 に 至 る ま で。 秦 乙 を 始 め。 本 土 に 謫 せ ら る ゝ者 十 六 人 あ り。
なし。按するに。往昔。本縣は京官貶流の地にして。延曆より建保
例未検︶
○髥甲
髥は﹆ 頰のひげ。 甲は﹆ よろひ。 松の葉と樹皮の喩。︵用
る﹆の意として解して置く。
窺旋螺頂﹆海濤気盤亘。
﹂とある︵﹃漢語﹄︶。暫く﹆わだかまり連な
清﹆許承欽﹁夏仲自 二正覚寺 一游 二仏峪 一遂登 二龍洞山絶頂 一詩﹂に﹁仰
彝山日記﹂に﹁一峰与 二猫児石 一相対峙﹆盤亘亦如 二鼓子 一。
﹂とあり﹆
族最強﹆盤 二亘十数州 一。
﹂とあり﹆明﹆徐弘祖﹃徐霞客游記﹄
﹁游武
延連結﹂の義とする。唐﹆李翺﹁嶺南節度使徐公行状﹂に﹁黄氏之
コウで﹆わたる﹆つらなるの意。本字﹁亙﹂。
﹃漢語﹄は﹆盤亘を﹁綿
○盤亘
亘は﹆音セン又はクワンで﹆めぐる﹆旋回する﹆の意。音
館山市立博物館︶参照。
文化財﹄﹁海に生きた農民たちの村々
西岬﹂︵昭和六十一年二月
﹁潮 見 臥 龍 松 図﹂ を 載 せ る。 な ほ﹆ 地 区 展 図 録 ﹃た て や ま の 歴 史 と
観︶ に大正中頃の写真と前田伯志﹃館山紀行﹄︵明治廿四年︶ 所載
歴史﹄︵平成十四年二月
館 山 市 立 博 物 館︶ Ⅰ ︵鏡 ヶ浦 の 立 地 と 景
衰し﹆昭和の戦時中に全く枯死した。企画展図録﹃鏡ヶ浦をめぐる
地元では﹆腹這ひの松と称してゐたといふ。大正の大震災の頃に枯
四二
高橋克庵﹃南遊紀行﹄ に﹁抵 二塩見 一﹆ 見 二臥龍松 一﹆ 偃蹇伏 レ地﹆ 古
○夭矯
曲 つ て 勢 ひ の あ る さ ま。 屈 曲 し て 飛 び 上 が ら う と す る さ
堀口
育男
鱗如 レ鐵﹆蓋五六百年物也﹆
﹂とあり﹆小野損菴﹃遊房総記﹄に﹆
﹁塩
ま。 唐﹆ 任華﹁懐素上人草書歌﹂ に﹁又如 三翰海日暮愁陰濃﹆ 忽然
で
見村の或る菴寺に名誉の古大松樹あり。幹の高さ六七尺に過ぎずし
躍出千黒龍﹆ 夭矯偃蹇入 二乎蒼穹 一。﹂ とあり﹆ 同﹆ 劉禹錫﹁九華山
ま
て﹆三大枝四方に蟠踞し﹆枝条繁茂せり。杭もて支へ﹆往来に妨げ
歌﹂ に﹁疑是九龍夭矯欲 レ攀 レ天﹆ 忽逢 二霹靂一声 一化為 レ石。﹂ とあ
︵ママ︶
あるは惜し気もなく切りたるもあり。 八百年前の物なりと云ふ。﹂
り﹆ 同﹆ 李商隠﹁李肱所 レ遺画松詩書両紙得 二四十韻 一詩﹂ に﹁樛枝
りゅうぶし
勢夭矯﹆忽欲 二蟠拏 一レ空。
﹂とある。
とあり﹆小川泰堂﹃観海漫録﹄に﹁汐見村に至るに﹆龍臥の松とい
へる千歳の古木あり。
﹂とある。
266
本有 二小字 一﹀ 松 一上 二元王杜三相公 一詩﹂ に﹁只在 二丹青筆 一﹆ 凌 レ雲
時間 二擲 レ地声 一。
﹂とあり﹆同﹆銭起︵一に崔峒とも︶
﹁詠 二門上画︿一
之間 一意 上。
﹂
︵
﹃大漢和﹄
︶とあり﹆唐﹆李嶠﹁賦﹂に﹁乍有凌 レ雲勢 一﹆
ても言ふ。﹃史記﹄ 司馬相如伝に﹁飄飄有 二凌雲之気 一﹆ 似 下游 二天地
て言ふ。また﹆世俗に超然としたもの﹆気宇壮大なものなどに就い
○凌雲
雲をしのぐ。高く聳えたり﹆高く飛んだりするものに就い
龍 一。
﹂とある。
会 二河陽公新造山池 一聊得 二寓目 一詩﹂に﹁暗石疑 二蔵虎 一﹆盤根似 二臥
○臥龍
臥 し て ゐ る 龍。 潜 伏 し て ゐ る 龍。 六 朝﹆ 北 周﹆ 庾 信 ﹁同
とあるが︵﹃漢語﹄︶﹆こゝでの用法とはやゝ異なるやうである。
元稹﹃鶯鶯伝﹄に﹁捧覧来問。撫愛過 レ深﹆児女之情﹆悲喜交集。
﹂
為 三太后所 二摂養 一﹆太宗尽 レ心祗事﹆而太后撫愛亦篤。
﹂とあり﹆唐﹆
劉淑伝に﹁以 二淑宗室之賢 一﹆ 特加 二敬異 一。﹂ とあり﹆ 同﹆ 逸民﹆ 梁
○ 敬つて特別なものとする。 特別に敬ふ。﹃後漢書﹄ 党錮﹆
○木欄
木で作つた柵のやうな囲ひであらう。
二
也不 難。
﹂とある。
レ
○樂翁公
松平定信。樂翁はその号。
○巡海
海 辺 を 巡 る。 海 沿 ひ の 地 方 を 巡 視 す る。 唐﹆ 唐 彦 謙 ﹁寄
収︶があるが﹆臥龍松のことには触れられてゐない。
る。その折の定信の手記に﹃狗日記﹄︵﹃改訂房総叢書﹄第八巻等所
十日にかけて﹆房総を巡視した。塩見村は十一月四日に通過してゐ
完成せしめたが﹆その検分も兼ねて﹆同年十月廿九日から翌十一月
は﹆沿岸の要地に台場﹆陣屋﹆遠見番所等を建設し﹆翌八年までに
年﹆白河藩が江戸湾房総側の防備の担当となつた為﹆藩主松平定信
詩﹄召南﹁甘棠﹂に﹁蔽芾甘棠﹆勿 レ翦勿 レ伐﹆召伯所 レ茇。
﹂とあり﹆
︵なほ﹆近時﹆召公︵召伯︶を召穆公虎のことゝする説がある。
︶
﹃毛
奭。召伯。武王﹆周公旦の弟。成王の時﹆周公と共に三公となつた。
甘棠の木の下で裁判を行なつたとも言ふ。召公は﹆文王の子。名﹆
事に由る。これを詠じたのが﹃毛詩﹄召南﹁甘棠﹂である。召公は
伐らずに永く保存し﹆その善政を追慕するよすがとした﹆といふ故
公が南方を巡行した際﹆その下に宿つた甘棠の木を﹆召公の歿後も
○甘棠
果樹の名。からなし。やまなしの類。こゝは﹆昔﹆周の召
鴻伝に﹁於 レ是始敬異焉。
﹂とある。
な ほ﹆ 定 信 は 老 中 在 職 中 の 寛 政 五 年﹆ 江 戸 湾 周 辺 の 防 備 に 関 連 し
﹃集伝﹄に﹁召伯循 二行南国 一﹆以布 二文王之政 一﹆或舎 二甘棠之下 一﹆
臺省知己 詩﹂ に﹁轍跡東巡 海﹆ 何時適 我閭 。﹂ とある。 文化七
て﹆相模﹆伊豆の海岸を自ら巡視し﹆房総は翌年巡視する計画であ
其後人思 二其徳 一﹆ 故愛 二其樹 一而不 レ忍 レ傷也。﹂ とある。﹃史記﹄ 燕
一
つ た が﹆ 同 年 七 月 に 老 中 職 を 辞 し た 為 に 果 せ な か つ た。 澁 澤 榮 一
召公世家には﹁召公之治 二西方 一﹆甚得 二兆民和 一。召公巡 二行郷邑 一﹆
二
﹃樂翁公傳﹄
︵昭和十二年十一月
岩波書店︶﹆高澤憲治﹃松平定信﹄
二
レ
︵平成二十四年十月
吉川弘文館︶等参照。
有 二棠 樹 一﹆ 決 二獄 政 事 其 下 一﹆ 自 二侯 伯 一至 二庶 人 一各 得 二其 所 一﹆ 無
二
一
○次
ついで。途次。
失 レ職者 一。召公卒﹆而民人思 二召公之政 一﹆懐 二棠樹 一不 二敢伐 一﹆哥
四三
○撫愛
撫で愛しむ。
﹃宋書﹄后妃伝﹆路淑媛に﹁太宗少失 二所生 一﹆
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
265
堀口
育男
一
四四
どの並ぶ館山の町並を指して言つてゐるのであらう。
口園林﹆当時駅舎﹆夢裏曾游。
﹂︵﹃漢語﹄︶とある。こゝは旅籠屋な
○驛舍
宿駅の宿屋。旅籠屋。宋﹆張孝祥﹁木蘭花慢詞﹂に﹁記谷
山城とその城下町﹄︵平成六年六月
中島書店︶等参照。
第五章︵近世の館山︶ 第一節︵館山の成立と構造︶﹆ 山岡俊明﹃館
を設けた。︵﹃千葉県の地名﹄館山市﹁館山町﹂︶なほ﹆﹃館山市史﹄
葉氏が一万石で館山に封ぜられ﹆寛政三年に旧館山城の南麓に陣屋
ける諸物資流通の拠点といふ地位は保ち続けてゐた。天明元年﹆稲
失つたが﹆その後も引続き外港を控へた継立場として﹆安房国に於
吉に移封せられ﹆館山城も廃城となつた為﹆城下町としての機能を
れ﹆鹿野山道の継立場でもあつた。慶長十九年﹆里見氏が伯耆国倉
ることも多かつた。近世初頭﹆館山城主里見氏の城下町として開か
賀村の浦方を併せた三町四浦を館山七ヵ所と呼んで一体の町場を見
町の外港として機能した新井浦﹆楠見浦﹆及び浜上須賀村﹆岡上須
同下町の三ヵ町から成る。この三ヵ町を総称して館山町と呼ぶが﹆
浦に通ずる数条の横道に沿つて発達し﹆館山上町﹆同中︵仲︶町﹆
西に走る往還︵鹿野山道︶﹆ 及び同往還から分岐して新井浦や楠見
経済の拠点の一となつた町場で﹆真倉町のうちに形成せられた。東
○館山
安房郡館山町︵現在の館山市館山︶。近世﹆安房国の交通・
なほ﹃紀行日本漢詩﹄本は﹁侯﹂を﹁候﹂に作る。
新人物往来社︶﹁館山藩﹂︵筑紫敏夫執筆︶等参照。
原長和執筆︶﹆﹃三百藩藩主人名事典﹄第二巻︵昭和六十一年九月
藩史﹄第三巻︵昭和五十一年三月
新人物往来社︶﹁館山藩﹂︵小笠
通じてゐた。 明治十二年九月﹆ 東京にて歿。 六十五歳。﹃新編物語
府の軍制改革を推進した。﹁洋人殿様﹂ と言はれる程﹆ 外国事情に
奉行﹆老中格﹆海軍総裁兼英国伝習事務管掌等の要職を歴任し﹆幕
どの見識を示した。文久﹆慶応期には﹆講武所奉行﹆若年寄﹆陸軍
し出して経書を講ぜしめ﹆士籍に加へて﹆後には郡奉行に任ずるな
保十年には廿五歳。貧しい漁民の子であつた新井文山︵後出︶を召
天保十年当時の藩主は﹆正巳。文化十二年生。文政三年﹆襲封。天
館山市館山︶﹆館山城址の南麓に陣屋を置いた。
へた。 なほ﹆ 寛政三年﹆ 正武の時に真倉村︵岡上須賀村︶︵現在の
正武﹆正盛﹆正巳﹆正善と五代にわたつて襲封し﹆明治の廃藩を迎
の失脚と共に処分を受け﹆三千石を削られた。程なく赦免。以後﹆
た。天明五年には更に三千石を加増せられたが﹆翌六年﹆田沼意次
な り﹆ 大 名 に 列 し た。 こ ゝに 稲 葉 氏 を 藩 主 と す る 館 山 藩 が 成 立 し
内に三千石を加増せられたことから﹆併せて一万石を領することゝ
六年に二千石と加増を重ね﹆天明元年には﹆更に安房﹆上総両国の
拡大と共に﹆その下に在つて威を振るひ﹆明和六年に二千石﹆安永
分家筋の旗本︵三千石︶稲葉正福の養子となるが﹆田沼意次の権勢
○整潔
整つてゐて清潔である。 明﹆ 瞿佑﹃剪燈新話﹄﹁天台訪隠
○采邑
領地。知行所。
二
録﹂に﹁土床石枕﹆亦甚整潔。
﹂︵﹃漢語﹄︶とある。
○新井文山
館山の儒者﹆教育者。初め﹆林氏。後﹆新井と改む。
詠之 ﹆作 甘棠之詩 。
﹂とある。
一
○稻 侯
館 山 藩 主 稲 葉 氏。 山 城 国 淀 藩 主 稲 葉 正 親 の 三 男 正 明 は﹆
264
會︶ 参照。 なほ﹆ 文山の詩文は稿本のまゝ伝へられたが﹆﹃安房先
が建てられてゐる。﹃安房先賢偉人傳﹄︵昭和十三年三月
安房同人
永六年八月︶︵﹃事実文編﹄巻六十所収︶を刻した﹁文山新井翁墓﹂
は別に﹆佐藤一斎撰︵実は河田迪斎の代作︶
﹁文山新井翁墓碣銘﹂
︵嘉
七十三歳。墓は館山新井の三福寺に在る。同寺境内には﹆真の墓と
行となり目付を兼ね﹆秩二十五石を賜る。嘉永四年七月廿四日歿。
した。翌十一年六月﹆近習並席。同十三年十月﹆給人に進み﹆郡奉
されて﹃左伝﹄を講じた。同十年六月﹆俸米若干を賜り﹆士籍に列
の時﹆時の館山藩主稲葉正巳が初めて国入りした際﹆御前に召し出
した。居所を如不及園﹆鳴鳳楼などゝ称した。天保七年﹆五十八歳
受ける。文化三年﹆廿八歳の時﹆帰郷し﹆家塾を開いて子弟に教授
ぶ。 更 に 大 学 頭 林 述 斎 の 家 塾 に 入 り﹆ 佐 藤 一 斎﹆ 松 崎 堂 に 教 へ を
生 れ る。 寛 政 四 年﹆ 十 四 歳 の 時 に 江 戸 に 出 て 杉 浦 西 涯 に 詩 文 を 学
永八年﹆館山新井浦︵現在の館山市館山︶に漁民三九郎の子として
衛門。文山はその号。他に漁々翁﹆天門﹆文翁などゝも号した。安
名﹆升﹆世傑﹆世文。字﹆宏明。幼名﹆亥之助。通称﹆潤蔵﹆文左
頂に淺間權現の社あり。山腹平坦の處を千疊敷と云。又古井あり城
十五町。里見義康其子忠義の居城なり。里人今尙ほ城山と稱す。山
俗に根古根山と呼び。獨基にして連脈なし。高さ約二百尺。周囘約
﹃安 房 志﹄ 第 二 篇 ﹁館 山 城 址﹂ に ﹁館 山 町 の 西 南 位 字 城 山 に 在 り。
みであつた。
葉氏による館山藩が成立した時も﹆城址の麓に陣屋が設けられたの
は城郭として使用せられることはなく﹆前述の如く﹆天明元年﹆稲
本拠地としたのは﹆天正十九年から数へると廿四年である。その後
と﹆幕府の命により﹆城は直ちに破却せられた。里見氏が館山城を
つ た こ と ゝも 関 は る。 慶 長 十 九 年 九 月﹆ 忠 義 が 伯 耆 国 へ 移 さ れ る
小田原の役の結果﹆里見氏が上総を失ひ﹆領国が安房一国のみとな
した。義康の入城は天正十九年とせられる。これは﹆天正十八年の
改修﹆築城し﹆以後﹆義康﹆忠義二代にわたり﹆里見氏の本拠地と
館山城を﹆里見義康が天正十六年春から同十八年夏にかけて大幅に
浦町︶を本拠地としてゐたが﹆本々﹆岡本城の支城的存在であつた
期﹆里見義頼﹆義康の時には﹆里見氏は岡本城︵現在の南房総市富
郡真倉村︵岡上須賀村︶︵現在の館山市館山︶ に在る。 戦国時代末
︵ママ︶
はるか
ふたつ
どく き
賢遺著全集﹄︵昭和十四年三月︶に整理せられて収録せられた。
井と云。︵○中略︶ 抑此館山の古城は。 往昔平判官貞政と云へる者
や
○ 謙 文 山 の 長 子。 名﹆ 世 済。 字﹆ 君 行。 謙 は 通 称。 文 化 八 年
住せし所にて。最も堅牢の聞えあり。殊に景勝の地にして歬は渺々
ご
生。江戸に出て修学の後﹆新井浦に戻り﹆医を業とした。維新後は
たる滄海に臨み。岸頭近く雙の島を構へ。遠近走る白帆は坐ながら
ね
新井浦の副戸長となつた。歿年未詳。天保十年には廿九歳。なほ﹆
之を觀る可く。八幡浦の水面には。富岳を映し。夕日に浮ぶさま。
しろ
文山には三男六女があり﹆次男の桃蹊︵名﹆世業。字﹆可大。通称﹆
得 て 謂 ふ べ か ら ず。 眼 を 放 て 遙 に 望 め ば。 則 ち 湘 南 の 山。 伊 豆 の
ゐ
大吉︶が儒業を継いだ。文政元年生。明治廿一年歿。七十一歳。
島。目前に聚り。諸國回漕の船舶。此の海路を行通せざるはなし。
四五
ゐ
○墟
城跡。八月廿七日の条に既出。こゝは館山城址を指す。安房
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
263
館︶ となつてゐる。 千葉燿胤﹃館山城趾﹄︵昭和三十八年六月
日
天守閣に擬した建物が建てられ﹆館山市立博物館分館︵八犬伝博物
る。現在﹆城址は城山公園となつてをり﹆頂上には﹆昭和五十七年﹆
け ら れ た 為﹆ 大 幅 に 削 平 せ ら れ て﹆ 現 在 で は 六 十 五 米 と な つ て ゐ
かつては標高七十四米であつたが﹆昭和の戦時中﹆高射砲陣地が設
る。
古井あり。 城井といふ。 城門は東方に向ひたりと見えたり。﹂ とあ
す。山頂に淺間權現の祠あり。山腹に平地あり。千疊敷と云ふ。又﹆
﹁館 山 城 址﹂ に ﹁里 見 義 康 長 男 忠 義 の 居 城 な り。 里 人 今 に 城 山 と 稱
はさなくらといふ處の衟の側に倒ると。
﹂とあり﹆﹃千葉縣古事志﹄
ぬ。見者麥秀の感を発す。又﹆大手の門柱﹆近比まで殘りしが﹆今
間の神社あり。又﹆千疊敷などいふ處存せり。今は盡く畊地となり
﹃房 總 志 料﹄ 巻 二 に ﹁舘 山 よ り 東 南 に 舘 山 城 の 故 墟 あ り。 山 上 に 淺
是れ實に要害の地なり。
﹂とある。
還と言ふのに対して﹆北へ進む道を浜往還と言ひ﹆海岸沿ひに進ん
ると思はれる。汐留橋の分岐点を﹆東へ進んで北条を通る道を岡往
州通往還が分岐してゐる。延命寺へ行くにはこの道を取ることにな
へと進む道が房総往還の本道である。北条の南町からは東へ伊南房
に至る。︵右折すれば白浜方面へ向ふ。
︶北条から八幡村を経て那古
長須賀村に入り﹆同村の来福寺の角を左折して北へ進めば北条の町
ば﹆こゝで東へ行く道と北へ行く道とが分岐してをり﹆東へ進めば
つた地点を言ふのであらう。﹃迅速測図﹄︵明治十六年測量︶に拠れ
○岐
分れ道。岐路。館山下町から汐入川に架る汐︵潮︶留橋を渡
○辭去
別れを告げて去る。八月廿八日の条に既出。
也詩﹂に﹁嫣然一笑竹籬間﹆桃李漫 レ山総麤俗。
﹂とある。
宋﹆蘇軾﹁寓 二居恵定院之東 一雑花満 レ山有 二海棠一株 一土人不 レ知 レ貴
︵其二︶に﹁漫 レ山賊営︿一作 二成壁 一﹀塁﹆迴 レ首得 レ無 レ憂。
﹂とあり﹆
○漫山
山にはびこる。山全体に満ちる。唐﹆杜甫﹁西山三首詩﹂
柳宗元﹁始得 二西山 一宴游記﹂に﹁斫 二榛
四六
本城郭協会︶﹆同﹃館山城址後記﹄︵昭和三十九年六月
同︶﹆﹃日本
で八幡村に至る。結局﹆汐留橋の分岐点は﹆どちらに進んでも八幡
堀口
育男
城 郭 大 系﹄ 第 六 巻 ︵昭 和 五 十 五 年 二 月
新人物往来社︶﹆ 山岡俊明
村で合流するのであるが﹆竹堂は北条の町に入らず﹆海岸沿ひの道
焚 二茅茷 一。
﹂とある。
﹃館山城とその城下町﹄﹆﹃さとみ物語﹄︵第二版︶等参照。
を選んだものと思はれる。なほ﹆古くは﹆浜往還は新井の三福寺前
一
○里見氏九世所據
前項で述べた如く﹆里見氏が館山城を本拠とし
を通り﹆汐留橋より下流の要橋附近で汐入川を越えてゐたことが正
ル
たのは﹆ 里見氏九代の内﹆ 最後の二代︵義康﹆ 忠義︶﹆ 二十四年で
徳元年﹆安永四年の古地図から知られるが﹆道の付替が何時行なは
○延命寺
平郡本織村︵現在の南房総市本織︶に在る曹洞宗の寺。
員会︶参照。岡田晃司氏の御教示を得た。
ある。
。﹂ と あ り ﹆ 同 ﹆ 張 祜
一
れたかは未詳。﹃房総往還Ⅱ﹄︵平成三年三月三十日
千葉県教育委
二
○榛 草や木が乱れ茂つてゐるところ。やぶ。唐﹆李白﹁古風詩﹂
一
︵其十四︶に﹁白骨横 千霜 ﹆嵯峨蔽 榛
二
﹁ 遊 二天 台 山 一詩﹂ に﹁仏 窟 繞 二杉 嵐 一﹆ 仙 壇 半 榛 。﹂ と あ り﹆ 同﹆
262
院及び義弘書翰一卷。寄 二安房侍從 一東照宮眞跡一卷。其他狩野元信
藏 す。 就 中 る 可 き 物 は。 源 氏 里 見 系 二 卷 所 藏 古 文 書。 里 見 正 五
く唯一木の撑ふるあるのみ。其製頗る古雅なり。又多く典籍遺器を
び塑像を列す。八稜の經堂あり。一面每に羅漢を畫く。堂は柱礎な
り。亦璽地二百十七石を給す。靈牌堂に里見實堯義堯以降の位牌及
して開山の祖となし。田園を寄進せらる。里見氏滅後。德川氏に至
ず。永正十七年庚辰。里見實堯の祈願に依り。吉州梵貞禪師を請待
の主僧月舟の筆蹟となす。寺傳に曰。開基以來五世の間年歷詳なら
石。山門の匾額は。草體にて長谷寺の三字を書す。室町時代建仁寺
實 に 房 州 五 大 寺 の 一 に し て。 又 里 見 氏 累 世 の 墳 寺 な り。 寺 領 三 百
坪。曹洞宗。本尊は虛空藏菩薩と爲す。山門崢嶸。本堂宏大。是れ
る。︶ に﹁國分村本織に在り。 長谷山と稱す。 境域二千六百五十六
﹃安房志﹄第三篇﹁延命寺﹂︵目次に拠る。本文では標題を脱してゐ
所がある。
山号は長谷山。所謂﹆後期里見氏の菩提寺。裏山に里見氏累代の墓
焉﹆城址在 二舘山 一﹆距 レ此可 二三十里 一﹆以 二迂路 一不 レ往﹆里見義実﹆
艮齋﹁南遊雑記﹂ に﹁府中延命寺﹆ 為里見氏香火院 一﹆ 奕世墳塋存
遷︶第四節︵宗教︶参照。
十九年九月
三芳村︶第四章︵近代・現代の政治﹆経済﹆文化の変
の大震災により寺域内の全伽藍尽く倒潰した。﹃三芳村史﹄︵昭和五
に趣き﹆ 爲に近來大にその面目を改むるに至れり。﹂ とある。 大正
れて本山復興に奔走し﹆今や日尙淺きに拘らず﹆人心靡然として之
し た る も﹆ 偶 ゝ
ヽ佐 々木 珍 龍 和 尙 當 山 に 來 住 す る や﹆ 日 夜 寢 食 を 忘
し﹆堂は傾き﹆屋根は毀れ﹆賽者をして目を覆はしむるの慘狀を呈
を 起 し て 奔 走 す る 所 あ り し も﹆ 住 職 其 の 人 を 得 ざ り し 爲 益 ゝ
ヽ荒 廢
廢に終らしむるを慨し﹆有志相謀りて﹆維持の方策を講し﹆保存會
維持頗る困難を極め﹆伽藍頽廢甚しく﹆あたら本郡の名刹をして朽
十七石九斗餘寄附の朱印を賜はる。明治維新の際悉皆上地す。爾後
す。里見氏亡びて後﹆寬永十三年十一月德川家光より前の通り二百
て 開 山 第 一 世 と な し﹆ 田 園 二 百 十 七 石 九 斗 餘 を 附 し て 菩 提 寺 と な
な ら ず。 其 の 後 永 正 十 七 年 里 見 安 房 守 實 堯﹆ 吉 州 貞 和 尙 を 請 待 し
︵ママ︶
二十四孝繪卷物一帖。極めて精緻なり。普化禪師虎畫。法性寺刑部
以 二区区之衆 一﹆ 取 二房州 一﹆ 略 二二総 一﹆ 威震 二関左 一﹆ 子孫相継﹆ 凡
もと おり
�爲信畫く所春日麋曼荼羅一幅。金屛風双對一を狩野氏筆と爲し。
九世﹆ 元和元年国除﹆ 英雄魚腸﹆ 美人黄土﹆ 纍纍残碑﹆ 埋 二没于夕
︶
一を土佐光信筆と爲す。 亦巧なり。 器具には。 正木大膳亮所 レ提の
陽荒草閒 一﹆ 使 三人愴然有 二懐古之感 一。﹂ とあり﹆ 邨岡良弼﹃房總游
マ
槍。刄身長二尺。龜形の印度石。正安三年刻する所の物。其色純白
乘﹄︵明治廿九年︶ 九月二日の条には﹁本織村﹆ 犬牙相接。 其延命
マ
掬す可し。 或は開祖梵貞所藏の堆朱香爐。 東照公所 レ寄の蒔繪硯箱
寺﹆ 堂宇頗壯。 亦里見墳寺也。 安 二九代影像 一﹆ 多傳 二典籍遺器 一。
︵
等。最も珍奇の物となす。其他什寳今猶多く存せり。
﹂とある。
焉。︿里見代々記。房陽郡鄕考。
﹀﹂とある。
皆可
レ
﹃千葉縣安房郡誌﹄第十四章︵社寺及名勝舊蹟︶第二節︵寺院︶﹁延
○ 塋
墓所。墳墓。唐﹆沈佺期﹁邙山詩﹂に﹁北邙山上列 二墳塋 一﹆
四七
命寺﹂には﹁由緖﹂として﹁寺傳に云ふ﹆開基以來五代の間年歷詳
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
261
堀口
育男
﹁堂 後 山 頂 の 西 端 に 實 堯 以 降 代 々の 墳 塋 あ り。 又 山 門 外 の 道 の 右 方
り﹃千葉縣安房郡誌﹄第十四章第二節﹁延命寺﹂に﹁古墳﹂として
て讀むべからず。 靈屋懷敗するも。 亦之を修補する者なし。﹂ とあ
尺許。皆五輪塔なり。石質踈鬆なるが故に。碑面善く泐剝。文字得
小徑を蹈て。丘頭に登れは。累代佳城茲に在り。墓石七基高大凡二
志﹄第三篇﹁里見氏代々之墓﹂に﹁本織村延命寺に在り。寺傍より
︵其二︶に﹁鼓角︿一作 レ吹﹀城中出﹆墳塋郭外新。
﹂とある。
﹃安房
の 古 井。 及 び 御 手 洗 屋 敷 等 故 址 を 存 す。 後 僧 行 基 勅 を 奉 し て 社 殿
國宇佐八幡大神を東國府村に遷 す今平郡中府に往時所用の神供水
合 す。 社 傳 に 云。 養 老 元 年 丁 巳 年 二 月 五 日 君 司 紀 伴 人 等。 豊 前
境內千二百六十九坪。祭神を應神天皇となす。仲哀天皇神功皇后を
﹃安房志﹄第二篇﹁八幡神社﹂に﹁北條町北方。八幡村鶴谷に鎭す。
○八幡祠
鶴谷八幡宮。安房郡八幡村︵現在の館山市八幡︶鎭坐。
て行つても意味がないから﹆との意。
○乃
そこで。﹁遺器﹂﹁ 志﹂が見られないのであれば﹆態々訪ね
四八
十數間の處に正木大膳の墳墓あり﹂とある。
を 建 て。 以 て 茲 に 遷 す。 治 承 四 年 庚 子。 源 右 府 石 橋 山 に 敗 績 す る
る。
○遺器
古人の遺した器物。今に残り伝はる古い器物。唐﹆韋応物
や。土肥實平等と航して本州に到り。此神に祈誓し。以て興復を卜
萬古千秋対 洛城 。﹂ とあり﹆ 同﹆ 岑参﹁河西太守杜公挽歌四首﹂
﹁過 二昭国里故第 一詩﹂に﹁緘室在 二東廂 一﹆遺器不 レ忍 レ覿。
﹂とあり﹆
す。既にして本國住人安西。丸の徒。之に服從す。右府府廳を鎌倉
一
宋﹆ 張世南﹃游宦紀聞﹄ 巻九に﹁博学好 レ古﹆ 頗得 二三代之遺器 一﹂
に開くに及で。使を遣して新に庿堂を營み。土田若干を納て。祭祀
二
︵﹃漢語﹄︶とある。
し 資 に 供 す。 爾 來 鎌 倉 氏 の 世 を 終 る ま て。 數 々使 幤 を 奉 す。 中 古
的内容に就いては﹆﹁延命寺﹂の語釈参照。
國除せらる。故を以て庿宇稍壞圮す。寬永元年甲子。德川氏熊澤忠
里見義通再建す。世々神領を付し。社殿を修む。慶長年中。里見氏
︵ママ︶
︵ママ︶
○ 志
古い記録。古い書物。頼山陽﹃日本外史﹄巻一﹁源氏前記﹂
里見氏の本州に據るに及で。特に之を崇敬し。永正五年戊辰九月。
○ 秘 不 許 ﹃房 總 志 料﹄ 巻 二 に ﹁府 中 元 織 村 延 命 寺 と い ふ 禪 院 あ
勝をして本州を巡視せしむ。忠勝祠堂の頹敗を見て深く之を患へ。
︵ママ︶
に﹁外史氏曰﹆ 吾読 旧志 云々。﹂ とある。﹁遺器﹂﹁ 志﹂ の具体
り。 里 見 氏 數 世 の 墳 寺 な り。 寺 領 三 百 石。 里 見 九 世 の 記 載・ 古 文
之 を 國 人 に 謀 り。 大 に 修 理 を 加 ふ。 且 つ 官 に 白 し。 以 て 土 田 を 納
一
書﹆其他兵器等什宝となりて有と。又﹆九世の影像もありと。主僧
る。即ち朱印高百七十一石餘。三才圖會曰。社領二百七十石。其壯
二
に乞てみつべし。﹂ とあるが﹆ 同書巻五には﹁里見記といへるもの
麗知る可し。明治六年癸酉。八月。鄕社に列せらる。歳の中秋望日
モト ヲリ
数本ありと。彼土﹆府中本織村に里見氏の墳寺あり。延命寺といふ
を以て之を祭る。薄暮神輿を海濱に奉して。以て祓禊を修す。神輿
ウ
禪院なり。彼寺に里見氏興敗の始末﹆其他戰國時代の比の古文書等
の 會 す る も の 凡 て 八。 神 に 配 し て 實 に 九 社 と す。 此 日 本 州 耄 倪 男
リ
あまた藏すと。 しかれども﹆ 猥に人をして窺見せしめずと。﹂ とあ
260
た。 社領は﹃里見家分限帳﹄︵慶長十一年﹆ 同十五年︶ に拠れば﹆
鶴 谷 八 幡 宮 は﹆ 里 見 氏 が 厚 く 崇 敬 し﹆ 度 々社 殿 を 修 造 す る な ど し
世﹀御差料・守家太刀有り。
﹂とある。
しれず。古佛也。靈寳多く有り。內に賴朝公の具足・里見忠義公︿十
奧院﹆本地阿彌陀佛。堂後に寺有り。千燈院といふ。如來尊像御作
領百七拾石︿那古寺三百石の內﹀內八拾石﹆社人。神主酒井志摩正。
いふは此所を本とす。
﹂とあり﹆また﹆﹁或云﹆鶴ヶ谷正八幡宮﹆社
公鶴が岡八幡宮を此所に移し﹆鶴ヶ谷八幡宮と申し奉ると。鏡浦と
比のものなりと。
﹂とある。﹃同
續篇﹄巻之十二に﹁里人曰﹆賴朝
り﹆また﹁八幡の社中に無銘の破鐘あり。其製古式。相傳﹆鎌倉の
三百石のうちなり。
﹀社地廣さ十町許﹆うるはしき松林なり。
﹂とあ
﹃房 總 志 料﹄ 巻 二 に ﹁八 幡 村 に 八 幡 神 社 あ り。 社 領 七 十 石 ︿那 古 寺
なり。
﹂とある。
女。及び兩總武相等より來り謁する者麕至す。實に本州第一の大祭
の前面の海岸。
○八幡濱
八幡浦。館山湾の内﹆八幡村の面する部分。鶴谷八幡宮
大正前期の写真が載る。
はないと思はれる。﹃鏡ヶ浦をめぐる歴史﹄ 三十四頁に明治末乃至
し﹆鶴谷八幡宮の社殿そのものは﹆さ程﹆高く大きいといふ感じで
○巍立
高く立つ。高々と聳え立つ。巍は﹆高い。高く大きい。但
○ 臨む。
︵館山の文化財︶第二節︵有形文化財︶参照。
﹃館山市史﹄第七章︵宗教︶第一節︵館山と神社︶﹆及び同書第八章
日指定。
竣功した。本殿は館山市指定有形文化財。昭和四十二年二月二十一
は倒壊したのを﹆昭和六年六月に再建の工を起こし﹆翌七年八月に
た権現造りとなつてゐる。大正十二年の大地震に﹆本殿を残して他
社流れ造り。屋根は銅板葺。素木造り。拝殿﹆幣殿﹆本殿を連結し
元治元年に修造が行なはれた。現在の本殿は享保四年の造営。三間
︵ママ︶
百七十四石八斗であつたが﹆慶長十九年﹆里見氏改易時の寺社領を
○那古
平郡那古村︵現在の館山市那古︶。
[試訳]
書き上げた﹃安房国寺社領帳﹄︵元和二年︶ では﹆ 百七十一石五斗
と な つ て を り﹆ こ れ が そ の ま ゝ幕 府 か ら 御 朱 印 高 と し て 認 め ら れ
た。明治維新まで那古寺が別当であつた。明治六年八月﹆郷社。昭
社 殿 に 就 い て は﹆ 造 営 の 記 録 が 存 在 す る の は 里 見 氏 時 代 か ら で あ
言 ふ に は﹆ こ の 国 ︵安 房︶ で は 魚 の 干 物 が 一 番 の 品 で あ り﹆ 町 場
行つた。土地の産物に就いて尋ねてみたところ﹆主人︵渡辺氏︶が
十一日。名主の渡辺氏から酒席に招かれたので﹆私は玄章と共に
り﹆棟札︵館山市指定文化財︶に拠れば﹆永正元年に里見義通が﹆
で 売 ら れ て ゐ る ︵江 戸 の 市 場 に 売 り 出 す︶ の は﹆ 大 部 分 が こ れ で
和十五年五月﹆県社。
元亀三年に同義弘が﹆慶長七年に同義康が﹆それ〴〵社殿を造営し
ある﹆ とのことであつた。 少し酔つたところで辞去した。︵洲崎を
四九
てゐる。徳川時代では﹆元禄大地震後の享保四年と安政大地震後の
齋藤竹堂撰﹃鍼肓錄﹄訳註 ︵十四︶
259
蔵してゐるが﹆秘して人に見せない。それで左に進む。八幡宮が海
五〇
後 に し て︶ 東 の 方 に 進 み﹆ 山 越 え を し た。 海 は﹆ 切 れ 目 の あ る 佩
に臨み﹆高々と聳え立つてゐる。そこを八幡浜と言ふ。那古に宿つ
堀口
育男
玉︵玦︶のやうな形で﹆数里にわたつて入り江をなしてゐる。岸を
た。
前稿補訂
隔てた先には﹆緑色の樹木で蔽はれた断崖が険しく峙つて﹆こちら
と向ひ合つてゐる。それが大房崎である。入り江の中は﹆晴れて波
が穏やかで﹆まるで拭きぬぐつたかのやうである。海面には﹆富士
山がさかさまに影を涵してゐる。それでこの入り江を鏡ヶ浦と言ふ
のである。更に東に進み﹆萎︵塩見︶村に着いた。松の木があり﹆
なつた召公ゆかりの甘棠の木を土地の民が永く保存して﹆その遺徳
木を特別なものとして敬つてゐる。唐土では﹆周の時代﹆善政を行
しみ﹆臥龍松と名づけた。土地の人々は木の柵で周りを囲ひ﹆この
かつて楽翁公︵松平定信︶が海辺を巡視した途次﹆この木を撫で愛
立ちさうな勢ひである。樹齢八百年になるものと言ひ伝へてゐる。
む。前日夕方に出で﹆一宿して早朝に歸ると。那古の人曰﹆洲崎の
豆腐屋なし。年忌佛事ある時は目良三里館山三里へ行きて豆腐を求
は戶を鎖さずして寢ぬるもの多しと。
﹂とあり﹆﹁里人曰﹆洲の崎に
人なし。但﹆里長の家にて酒を賣るのみ。又﹆人家に關鍵なし。夏
僅に山田を耕し﹆米一石ばかり獲るを大農とす。人家四拾軒餘﹆賈
○洲崎
﹃房總志料續篇﹄巻之十二に﹁此地︵洲崎︶漁を專らとす。
十七.九月九日
を偲ぶよすがとしたといふが﹆これもそのやうなものである。館山
人那古參詣に來る。 他の料理を好まず。 只豆腐のみ賞翫すと。﹂ と
十丈餘りにわたつてわだかまり連なつてゐる。ひげのやうな葉と鎧
は町並がなか〳〵良く整へられてゐて清潔である。稲葉侯の知行所
あり﹆﹁洲崎より布良迄凡三里﹆沙場不毛の地多し。
﹂とある。
[語釈]
である。新井文山を訪ねたが﹆不在であつた。子の謙蔵に会つた。
○林玄章
小川泰堂﹃觀海漫錄﹄
︵明治四年︶四月廿七日の条に﹁此
のやうな幹のこの松の木は﹆曲りくねつて力強く﹆雲を淩いで飛び
謙蔵が言ふには﹆町の南に城跡が有り﹆里見氏が九代にわたつて根
の地︵洲崎︶に林元章といふ醫家あり。訪はんとせしに﹆今は歿し
ら
拠地としたところであるが﹆今は城跡の山全体に草木が生ひ茂つて
て其の子息の世なりといへば尋ねず。
﹂とある。
め
藪となつてをり﹆他には何も無い。たゞ頂上からの鏡ヶ浦の眺めが
○從至
﹁料理屋などに﹂を削除する。
︵ママ︶
良いといふばかりである﹆とのこと。︵それで﹆城跡には行かず﹆
︶
文山の家を辞去した。分れ道があつた。右に行けば延命寺に至る。
里見氏の墳墓のあるところである。また﹆古い器物や古記録などを