Page 1 Page 2 Page 3 本稿は前稿「『太平広記』訳注ー巻四百二十「龍

熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
『太平広記』訳注 : 巻四百二十一「龍」四(下)
Author(s)
太平広記読書会
Citation
国語国文学研究, 49: 358-369
Issue date
2014-03-06
Type
Departmental Bulletin Paper
URL
http://hdl.handle.net/2298/30205
Right
﹁国語国文学研究﹂第四十九号抜刷
平成 二十六年 三 月六日発行
﹃太平広記﹄
ー巻四百二十一 ﹁龍﹂四(上)│
訳
注
太平広記読書会
﹃太平広記﹄訳注
(上)
︹本文]
o
m
U ﹁薗断﹂
││巻四百二十一 ﹁
龍
﹂
本稿は前稿﹁﹃太平広記﹂訳注│巻四百三十﹁龍﹂三(下)
太平広記読書会
積耶。﹂折目、﹁迅雷甚雨、誠不能滋百殻、適足以滑暑熱、而少
耳。然召龍以輿雲南、五ロ恐風雷之震、有害於生植。又何補於稼
歳凶是念、民療矯憂。幸吾師矯結壇場致雨也。﹂三歳日、﹁易奥
於是詣寺、調三歳目、﹁今蕊橋陽累月失。聖上懸憂、撤幾疑食。
時天竺僧不空三戴居於静住寺。三戴普以持念召龍興雲雨。所
疾属。代宗命宰臣、下有司祷記山川。凡月像、暑集愈盛。
唐故兵部尚書粛断常潟京兆手。時京師大皐、炎嘗之集、蒸碑周
﹂(﹃国語閏文学研究﹄第四十人号ごO 二三年)に続き、﹃太
平広記﹄の巻四百二十一前半三話の訳注である。 ﹁
太平広記﹄
は北宋の初めに編纂された小説を集めた類書である。本書は日
本の説話文学に影響を与えたことでも知られており、その訳注
を行うことは今後の中国文学・日本文学双方の研究に資すると
またこれは平成十七年七月十四日より始まった﹃太平広記﹄
ころが大きいと考える。
読書会の成呆の一部でもある。当読書会は熊本大学所属の教員
解斡首之病也。願無僻駕。﹂
三識不獲己、乃命其徒、取華木皮僅尺館、績小龍於其上、而
を中心にして、他大学の教員や学生、社会人など、所属の枠に
とらわれず広く集まった有志による会であり、今後も ﹁
太平広
授折目、﹁可投此於曲江中。投詑亙還、無旨風雨。﹂所知言投之、
以燈甑香水置於前。三蔵尊呪、震舌呼祝。呪者食頃、即以綾龍
底本、参考文献、及び字体については﹁ ﹁
太平広記﹄訳注
旋有白龍縫尺像、格質振鱗自水出。俄而身長敏文、状如曳素、
止 を読み進めていく予定である。
司
│巻四百十人﹁龍﹂一(上)│﹂(﹃囲語圏文学研究﹄第四十三
倹忽亙天。断梗馬疾駆、未及数十歩、雲物凝晦、暴雨脹降。比
至永崇里、道中之水、己君決渠実。(出﹃宣室志﹄
)
号 二 O O八年)及び前稿に記した通りである。作品番号は前
稿の続きとする。
3
5
8
四
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物凝晦し、暴雨膝かに降る。永崇里に至る比、道中の水、
22
︹
酬
読
︺
己に渠を決するが若し。
分かれており、兵部は国防を司る重要な役割を果たしていた。
省は更に都省と吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部に
中核とし、その内、行政官庁に当たるのが尚書省である。尚書
O兵部尚書唐の中央政府は中書省・門下省尚書省の三省を
︹語注]
唐の故の兵部尚書粛所常て京兆予為り。時に京師大早にし
て、炎替の気、蒸して疾腐を為す。代宗宰臣に命じ、有司を
いた
時に天些一僧不空三蔵静住寺に居る。一一一蔵普く持念を以て竜
下して山川を祷施せしむ。凡そ月余、暑気愈いよ盛んなり。
e
か-
を召し雲雨を興す。断是に於いて寺に詣り、三蔵に謂ひて日
その兵部の長官を兵部尚書と呼ぴ、正三位の高官である。 O蒼
新
断 六 九 九i七九一。字は中明。梁の都陽王恢の七世の孫。 ﹁
︿、﹁今葱騎陽月を累ぬ。聖上懸憂し、楽を撤し食を庇す。
歳凶は是念、民療は憂為り。斡はくは吾が師為に壇場を結び
て雨を致せ﹂と。一一一蔵日く、﹁与し易きのみ。然れども竜を召
唐害﹄巻百五十九﹁粛所伝﹂によれば、大暦十三年(七七七)
︽晶
して以て雲雨を興すは、吾風雷の震の、生植に害有るを恐る。
いるが、兵部尚書や京発ヂだったという記載はない。 O京兆予
た
に工部尚書となり、貞元三年(七八七)には礼部尚書も兼ねて
i
又た何ぞ稼積を補はんや﹂と。断固く、﹁迅雷甚雨は、識に百
七O五j七七因。中国四大翻訳家の一人。北インドのバラモン
系の父と、サマルカンド人の母との聞で西域に生まれ、十三歳
構﹂に同巴か。疾棋は流行病、疫病。 O代 宗 七 二 六i七七九。
在位七六二l七七九。名は予。唐の第入代皇帝。 O不空三歳
(長官に当たる牧は親王が命ぜられる名誉職)。 O疾 贋 ﹁ 疾
京兆とは京兆府のことで、長安を指す。その次官を予と呼ぶ
殻を滋す能はず、適だ以て暑熱を清むるに足るのみなるも、
れ﹂と。
而るに少しく斡首の病を解くなり。願はくは辞すること無か
わづっ
三歳己むを獲ず、乃ち其の徒に命じ、華木の皮を取らしむ
ること僅かに尺余、小竜を其の上に績害、而して炉甑香水を以
て前に置く。三蔵転呪し、舌を震はせて呼祝す。呪すること
る。﹁三蔵﹂は経蔵・律蔵論蔵の=一つをいい、仏典の総称。
させるのに大きな役割を果たした。﹃宋高僧伝﹄巻一に伝があ
五百余部を持ち帰り、多数の密教経典を翻訳する傍ら、玄宗、
の時に叔父に連れられて長安に入る。自らインFに赴いて経論
つわづ
食頃にして、即ち績竜を以て析に授けて日く、﹁此を曲江中に
eIe
投ずベし。投じ詑はりて亙かに還らば、風雨を冒す無し﹂と。
E
粛宗、代宗三代の帝の厚い信頼を得て、中国社会に密教を定着
ひ
断言の加くして之を投ずれば、旋いで白竜の縫かに尺余なる
有り、た時を揺らし鱗を振るひて水より出づ。俄かにして身の
長数丈、状素を曳くが如く、倹忽として天にEる。所馬に
鞭っちて疾駆せしむるも、未だ及ぱぎること数十歩にして、雲
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5
9
これに精通した者を﹁=一蔵法師﹂と呼ぶ。 O静住寺﹃宋高僧
この話は現行本には収められていないロ
とができるのは、明代の輯本(十巻・補遺一巻)のみである。
︹訳文]
伝﹂巻一﹁唐京兆大奥普寺不空伝﹂には不空の住んだ寺が記さ
れているが、その中に静住寺の名は無い。或いは﹁浄住寺﹂の
唐の元兵部尚書薦出聞は嘗て京兆予であった。当時都は大皐魅
に見舞われており、蒸し暑きのあまり、疫病が流行っていた。
ことか。持住寺は安興坊十字街の西北に在った寺の名。元階吏
当時天些一僧の不空三蔵は静住寺にいた。三蔵は加持祈祷に
部尚書義宏斉の宅。馬戴﹁題静住寺欽用上人房﹂(﹃全唐詩﹄巻
よって竜を召喚し、雲雨をおこすことを得意としていた。析は
一月余り経っと、暑さはいよいよ盛んになった。
孜﹂によれば、浄住寺は晋昌坊の十字衡の西北。晋昌坊は大慈
そこで寺に行き、三蔵に﹁今年は強い日差しがごヶ月以上続い
代宗は重臣に命じて、役人を派遣して山や川で祈祷を行わせた。
思寺があったことで知られる。しかし、曲江池から盟国自坊に戻
ております。陛下は御心配になられ、歌舞音曲を廃し、食事も
五百五十六)に﹁寺近朝天路、多聞玉偏音。﹂(寺朝天の路に
る途上永崇旦は経由しないので、ここでは安輿坊の方が正しい
粗末なものに換えておられます。凶年には御懸念を、民の病に
近く、多く玉侃の普を聞くロ)とある。但し徐松 ﹁
唐両京城坊
いの盛んな太陽。 O民療﹁療﹂はやまい、わずらい。 O生植
か
。 O持念加持祈祷などの密教の行を行うこと。 O踊 陽 勢
楓梓櫨、留落膏邪、仁頻井閥、機檀木蘭、議章女貞あ
落膏邪、仁頻井閥、極檀木蘭、議章女貞。﹂(沙栄様橋、華
馬相如﹁上林賦﹂(﹁
文選﹄巻人)に﹁沙業棟橋、華楓梓櫨、留
かに百殻を潤すには不充分で、暑気を払うことができるに過ぎ
となどできましょうか。﹂と言った。析は﹁雷鳴や大雨は、確
います。それに雨を降らせたところで、農作物の被害を補うこ
すのは、風や雷の威力が作物の生育に被害を及ぼす一恐れがござ
助けするのは簡単なことです。しかし竜を召喚して雲爾をおこ
は御憂慮を抱かれております。どうか御師匠様には壇を結んで
り。)とあり、張揖注に﹁華、皮可以潟索。﹂(華、皮は以て索
ません。しかし民の病はある程度癒されるのです。どうか御辞
雨を降らせていただきとう存じます。﹂と言った。一ニ蔵は﹁お
と為すべし。)とある。 O曲江池の名。曲江池ともいう。長
首秦代、人民の称。後に通称となる。 O華 木 樺 の こ と 。 司
安の束甫隅に位置した。漢の武帝が宜春苑をここに作り、水流
退なされませぬよう。﹂と言った。
生育と繁殖。 O穂積作物を植えて収穫すること。農業。 O齢
が﹁之﹂の形に屈曲しているから名付けた。 O永崇里坊の名。
岨)ほど取ってこさせ、蛇をそこに結びつけて、瓶や香炉、香
三蔵はやむを得ず、門弟に命じて樺の皮を一尺(約一三.一
長安城の南東部にあった。 O ﹃宣室志﹂ 晩唐・張読(人三回
1八六六)が編纂した小説集。既に散侠しており、現在見るこ
3
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(一丈 H約 三 一 m
)になった。まるで白絹を引っ張ったように、
が置を揺らし鋳を振るって水から出て来て、急に身の丈数丈
た。析が言われたとおりに投げこむと、すぐに一尺余りの白竜
お戻りになられれば、風雨に遭わずに済むでしょう。﹂と言っ
て、﹁これを曲江に投げこんで来て下さい。投げこんですぐに
で祈ったロしばらく呪文を唱えると、結びつけた蛇を断に授け
水を前に置いた。一ニ蔵は何度も呪文を唱え、舌を震わせて大声
系譜は明らかでないという。ただし徳宗と王氏が結ぼれたのは、
都督を贈る。)とあり、元々役人となり得る家柄ではあるが、
らる。既に即位し、冊せられて淑妃と号し、其の父過に揚州大
帝魯玉為りし時納れて績と為し、順宗を生み、尤も寵礼せ
督。﹂(徳宗の昭徳皇后王氏は、本仕家なるも、其の誇系を失ふ。
旗、生順宗、尤見寵種。既即位、母娘淑妃、贈其父遇揚州大都
には﹁徳宗昭徳皇后玉氏、本仕家、失其譜系。帝矯魯王時納矯
﹁術解﹂篇に﹁後有一回父耕於野、得周時玉尺。便是天下正尺。
大暦年間以前のこと。 O玉尺玉で作った物差し。﹃世説新彊巴
H 一.五五五回)というところで、黒雲が立
たちまち天を横切っていった。析は馬に鞭くれて疾走させたが、
有試以校己所治鐘鼓金石綿竹、皆畳短一黍。﹂(後一国父有りて
あと数十歩(一歩
ちこめ、大雨がぎっと降り出した。永山尚南里までたどり着いた頃
野に耕すに、周時の玉尺を得たり。使ち是天下の正尺なり。有
が収録されている。
聞の雑事・軟事を記している。﹃太平広記﹂ には三十六話ほど
の武徳(六一八l六二六)から元和(人O六l八二 O) までの
きこと一黍なるを覚ゆ。)とある。 O ﹃
傭載﹄作者未詳。唐
試みに以て己の治むる所の鐘鼓金石線竹を枝するに、皆短
には、路上の水はすでにまるで運河が決壊したかのようだつた。
︹
本
文
︺
o
n ﹁遺尺漕﹂
昆山脈遺尺揮。本大暦中、村女矯皇太子元妃、遺玉尺、化鴬
昆山県に遺尺揮がある。昔大暦年間(七六六1七七九)、村
︹
訳
文
︺
龍。至今遂成揮。(出﹃偉載﹄)
昆山県に遺尺揮あり。本大暦中、村女皇太子の元妃と為り、
これが変化して竜となった。今はそのまま淵となっている。
の娘が皇太子の正妻となり、玉の物差しを残していったのだが、
︹
酬
読
︺
︹
語
注
︺
玉尺を遣すに、化して竜と為る。今に至りて遂に揮と成る。
O車山脈県名。現在の上海市西部。 O元妃困君、或いは諸
その正妻は昭徳皇后王氏である。﹃新唐書﹄巻七十七﹁后妃伝﹂
侯の正妻。大暦年間に皇太子であったのは後の徳宗であるが、
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1
o
n ﹁劉買詞﹂
妹子即貰詞妹也。亦嘗相見。﹂夫人目、﹁児子書中亦言。渠略枕
今汎誹江湖聞、何鴬乎。﹂目、﹁求弔耳。﹂霞目、﹁有所抵耶、汎
一相見、意顔殿動、以兄呼貰調。既而携羊酒来宴。酒岡目、﹁兄
其債相昔。可乎。﹂貫調目、﹁巳篤兄弟、寄一書札、畳宜受其賜。﹂
中以兄虞分、令以百絹奉贈、既難濁事、須使軽費。今奉一器、
急目、﹁寄寄憲来、宜E種待。況令消息、不可動揺。﹂因目、﹁書
遂命具僕、亦甚精潔。方針食、太夫人忽眼赤、直視貫詞。女
頭、即出奉見。﹂俄有背衣目、﹁小嬢子来。﹂年可十五六。容色
行郡園耶。﹂目、﹁蓬行耳。﹂霞日、﹁然則幾獲而止。﹂目、﹁十高。﹂
太夫人目、﹁郎君貧遊、児子備述。今副其請、不可推僻。﹂貫詞
絶代、排慧過人。既拝、坐於母下。
霞目、﹁蓬行而望十高、乃無翼而思飛者也。設令必得、亦慶数
謝之。因命取銀園椀来。
唐洛陽劉貫詞、大暦中、求恵一於蘇州。逢察霞秀才者精彩俊爽。
年。霞居洛中左右、亦不貧。以他抹避地、音問久絶。意有所懇、
︹
本
文
︺
祈兄矯因。途中之費、蓬遊之望、不擁日月而得。如何。﹂目、﹁固
既無形跡、躯露心誠。霞家長鎗晶、宅謂橋下。合眼叩橋柱、嘗
目、﹁此厨賓園椀。其園以銭災属。唐人得之、固無所用。得銭
砥費不得。兄宜且出。﹂女若憧者。遺青衣持椀、白隠而授貫詞
目、﹁寄寄深誠託人、不宜如此。﹂乃目、﹁娘年高、風疾費動、
又進食、未幾、太夫人復燈視眼赤、口爾角誕下。女急掩其口
有鷹者、必遜入宅。娘奉見時、必請奥霞少妹相見。即震兄弟、
十高、可貨之。其下勿欝。某縁娘疾、須侍左右、不遂従容。﹂
所願耳。﹂霞於是遺銭十高、授書一一頼。白目、﹁逆旅中退蒙周念、
情不合疎。書中亦令渠出奔。渠難年幼、性頗慧聴。使渠助矯主
貫詞持椀而行、散歩回顧、碧海危橋、宛似初到。視手中器、
再拝而入。
人。百絹之贈、渠嘗必諾。﹂
貰調遂蹄、到潤橋下。一揮説澄、何計自達。久之、以篤寵紳
乃一黄色銅椀也。其債只三五銀耳。大以鴛穂妹之妄也。執膏於
不嘗我欺。試合眼叩之、忽有一人慮。困視之、則失橋及温突。
市、有酬七百八百者、亦酬五百者。念龍榊貴信、不嘗欺人、日
貫調目、﹁二百縄。﹂客目、﹁物宜所置。何止二百縄。且非中園
﹁来自呉郡、郎君有害。﹂問者執書以入。頃而復出目、﹁太夫人
遂入慮中、見太夫人者年四十館。衣服皆紫、容貌可愛。貫詞
之賓、有之何金。百縛可乎。﹂貫詞以初約只爾、不復庚求、遂
許之交受。
有朱門甲第、棲閉参差。有紫衣使扶立於前、而問其意。貫調目、
奔之、太夫人答拝。且謝目、﹁児子遺遊、久絶音耗。勢君恵蔵、
客目、﹁此乃厨賓園銀園椀也。在其園、大積人患厄。此椀失
日持行子市。及歳絵、西市唐忽有胡客来。視之大喜、問其慣。
数千里遺書。渠少失意上官、其恨未滅。一従遁去、三歳寂然。
奉屈。﹂
非君特来、愁緒猶積。﹂言詑命坐。貫詞日、﹁郎君約第兄弟、小
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2
以圏中半年之賦召腰。君何以致之ロ﹂貫詞具告其賞。客目、﹁周
来、其園大荒、兵文乱起。王口開矯龍子所由輔、巳近四年。其君方
て、必ず逝へて宅に入らしむべし。娘奉見の時、必ず霞の少
調橋の下に宅す。眼を合して橋柱を叩かば、当に応ずる者有り
形跡無ければ、親ち心誠を露はさん。震の家は飾品に長たり、
攻、以其妹術君耳。此椀既出、渠亦嘗来。亦消息之道也。五十
籍君矯由送之耳。股勤見妹者、非固親也。慮老龍之喰、或欲相
百縄の贈、渠当に必ず諾すべし﹂と。
べからず。書中亦た渠をして出で拝せしめん。渠は年幼しと
難も、性頗る慧聡なり。渠をして助けて主人と為らしめん。
妹と相見えんことを請へ。即ち兄弟と為らぱ、情合に疎なる
むか
賓守龍上訴、嘗迫尋次。此霞所以避地也。陰冥吏殿、不得陳首、
日後、漕洛波騰、溢濁晦目。是霞蹄之候也。﹂日、﹁何以五十日
かれ
然後蹄。﹂客目、﹁五口携過嶺、方敢来復。﹂貫記之。及期往視、
もて自ら逮せん。之を久しくして、以為へらく竜神当に我を
貫詞遂に帰り、調橋の下に到る。一揮拡澄として、何の計
︹
酬
読
︺
誠然失。(出﹃横玄怪録﹄)
欺くべからずと。試みに眼を合して之を叩くに、忽ち一人の応
有り、楼閣参差たり。紫衣の使ひ有りて前に扶立し、而して
唐の洛陽の劉貫詞は、大暦中、蘇州に求ちす。察霞秀才なる
陪
ずる有り。困りて之を視れば、則ち橋及び揮を失ふ。朱門甲第
i
者に逢ふに精彩俊爽なり。一たび相見て、意頗る段勤にして、
兄を以て貰調を呼ぶ。既にして羊酒を携へ来りて宴す。酒聞
其の意を問ふ。貫詞日く、﹁呉郡より来り、郎君に書有り﹂と。
得しむるも、亦た数年を廃せん。霞洛中の左右に居り、亦た
十万を望むは、乃ち翼無くして飛ばんと思ふ者なり。設し必ず
の恨み未だ減ぜず。一たび遁去に従ひ、一二歳寂然たり。君の
を労し、数千里より書を逮す。渠少しく意を上官に失ひ、其
且つ謝して日く、﹁児子遠遊し、久しく音耗を絶つ。君が恵顧
皆紫にして、容貌愛すべし。貫詞之に拝し、太夫人答拝す。
遂に庁中に入り、太夫人なる者の年四十余なるに見ゆ。衣服
L躍ら
問ふ者曹を執りて以て入る。頃くありて復た出でて日く、﹁太
い︽陪︿
にして日く、﹁兄今紅潮の聞を汎瀞するは、何為れぞ﹂と。日
いた
く、﹁求ちするのみ﹂と。霞日く、﹁抵る所有りや、汎く郡園を
夫人屈し奉る﹂と。
まみ
行くや﹂と。日く、﹁蓬行するのみ﹂と。霞日く、﹁然らぱ則ち幾
貧ならず。他故を以て地を避け、音問久しく絶申。意に懇ろ
特に来たるに非ずんば、愁緒猶ほ積まん﹂と。言ひ詑はりて
を獲ば止むか﹂と。日く、﹁十万なり﹂と。霞日く、﹁蓬行して
ならんとする所有り、兄に祈めて為に回らしめん。途中の費、
坐を命ず。貫詞日く、﹁郎君約して兄弟と為れば、小妹子は即
を
蓬遊の望、日月を郵たずして得ん。如何﹂と。日く、﹁固より
ち貫詞の妹なり。亦た当に相見ゆベし﹂と。夫人日く、﹁児子
ー
一績を授く。白して固く、﹁逆旅の中謹かに周念を蒙り、既に
願ふ所なるのみ﹂と。霞是に於いて銭十万を遺らんとし、書
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の書中も亦た言ふ。渠略ほ顕を流らば、即ち出でて見え奉
,
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欝ぐ勿れ。某娘の疾に縁りて、須らく左右に侍るベければ、
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あたか
貫詞椀を持ちて行き、数歩にして回顧すれば、碧揮危橋、宛
遂に従容せず﹂と。再拝して入る。
銅椀なり。其の価只だ三五銭なるのみ。大いに以為へらく竜
らん﹂と。俄かにして脊衣有りて日く、﹁小嬢子来たる﹂と。
zm
年十五六可。容色絶代にして、排慧人に過ぐ。既に拝して、
母の下に坐す。
遂に命じて候を具へしめ、亦た甚だ精潔たり。方に榊ひ食す
五百を酬ゆる者有りロ竜神の信を貴ぴ、当に人を欺くべからざ
妹の妄なりと。執りて市に膏ぐに、七百八百を酬ゆる者、亦た
も、既に独り挙げ難ければ、須らく軽く粛さしむべし。今一
りて日く、﹁書中兄の処分を以て、百絹を以て贈り奉らしむる
し。況んや患ひを消きしむれば、動揺せしむべからず﹂と。因
交受す。
之有るも何の益かあらん。百縄は可なるか﹂と。貰詞初め約
し。何ぞ止だに二百縛のみならん。且そも中国の宝に非ずして、
日く、﹁二百絡なり﹂と。客日く、﹁物は宜しく直たる所あるべ
胡客の来たる有り。之を視て大いに喜び、其の価を問ふ。貫詞
るを念ひ、日日持ちて市に行く。歳余に及び、西市の庖に忽ち
も初め到りしときに似たり。手中の器を視るに、乃ち一黄色の
るに、太夫人忽ち眼赤く、直ちに貰詞を視る。女急ぎて日
器を奉るに、其の価相当る。可なるか﹂と。貫詞日く、﹁巳に
大いに人の患厄を穣ふ。此の椀失はれて来、其の園大いに
しぼ色
︿、﹁膏膏盛りて来たらしむれば、宜しく且く礼もて待すペ
兄弟と為り、一書札を寄すのみなるに、畳に宜しく其の賜を受
荒れ、兵文乱起す。吾聞く竜子の窃む所と為り、己に四年に
しか
ぬサ
このかた
客日く、﹁此乃ち厨賓国の鎖国の椀なり。其の固に在りては、
すること只だ爾るを以て、復た広くは求めず、遂に之に許して
&
くべけんや﹂と。太夫人目く、﹁郎君の貧遊、児子備に述ぷ。
今其の請に献へば、推辞すべからず﹂と。貫調之に謝す。因
近しと。其の君方に固中の半年の賦を以て召服す。君何を以
もたら
りて命じて鎖国の椀を取りて来たらしむ。
いを
又た食を進め、未だ幾ならずして、太夫人復た瞳視して
て之を致すか﹂と。貫詞具に其の実を告ぐ。客日く、﹁嗣賓の
たそも
眼赤く、口の両角より誕下る。女急ぎて其の口を掩ひて日
守竜上訴し、追尋の次に当たる。此霞の地を避くる所以なり。
陰冥の吏は厳にして、陳首するを得ず、君に蒋りて由りて之を
ぷき
n
u
るも得ずロ兄宜しく且く出づベし﹂とロ女憧るる者の若し。
く、﹁寄寄深誠もて人に託せば、宜しく此の如くすべからず﹂
と。乃ち日く、﹁娘年高く、風疾発動せば、昨しみ対せんとす
青衣を遺りて椀を持たしめ、自ら随ひて貫詞に授けて日く、﹁此
送るを為すのみ。殿動に妹に見えしむるは、固より親しむに非
唾ん,、
ざるなり。老竜の喰を慮り、或いは相峡らはんと欲せば、其の
けい砂ん
厨賓園の椀なり。其の園以て災腐を鎮む。唐人之を得るも、
'
固より用ふる所無し。銭十万を得ぱ、之を貨るべし。其の下は
3
6
4
妹を以て君を衛らんとするのみ。此の椀既に出づれば、渠も
ただし、この話では洛陽付近に在るはずなので、未詳。 O娘
母親。 O渠かれ。三人称代名詞。 O呉郡現在の江蘇省蘇州
橋は長安の北三呈に在り、清水を跨ぎて橋と為る。)とある。
11
亦た当に来たるべし。亦た消患の遣なり。五十日の後、漕洛の
渡騰、海濡として日を晦くす。是霞の帰るの候なり﹂と。日
市。太湖の東岸に位置する。 O太夫人官吏の母。﹃漢書﹄巻囚
﹁文帝紀﹂の如淳注に﹁列侯之妻稽夫人。列侯死、子復策列侯、
O洛陽現在の河甫省洛陽市一帯。 O劉買詞未詳。両﹃唐書﹄
子が列侯の位を継いだ場合、その母親のことを太夫人と称した
子列侯と為らぎれば称するを得ぎるなり。)とあり、漢代には
ぜ
く、﹁何を以て五十日にして然る後に帰るか﹂と。客日く、﹁吾
携へて嶺を過ぎて、方めて敢へて来り復らん﹂と。貰之を記す。
乃得稽太夫人。子不矯列侯不得稀也。﹂(列侯の妻を夫人と称す。
には見えない。 O求巧物乞いをする。 O蕗 州 現 在 の 江 蘇 省
列 侯 死L、子復た列侯と為らぱ、乃ち太夫人と称するを得。
蘇州市一帯。 O葱 霞 未 詳 。 両 ﹃ 唐 書﹂には見えない。 O秀才
という。 O動揺心を揺るがす。 O庫分決定する。判断する。
O緬銅銭に紐を通してまとめたもの。通常一千枚を一一緒とす
る
。 O副かなう。符合する。 O風痕﹁嵐病﹂に同じ。神経
︹語注︺
期に及ぴて往き視れば、誠に然り。
置づけられていたが、開元年間(七一二一i七四一)までに廃止
が錯乱し、精神に異常を来すともいう。 O周 賓 圏 中 央 ア ジ ア
則ち親ならず。幸ひ願はくは張郎、形跡を為す莫かれ。)とあ
る
。 O清橋文字通りならば、長安の北を流れる調水に架けら
則不親。幸願張郎、莫矯形跡。﹂(親なれば則ち謝せず、謝せば
良い親密な関係であること。張駕﹁遊仙窟﹂に﹁親則不謝、謝
るロ甫のかた舎衛より距たること三千里。王情鮮城に居り、
なり。葱嶺の南に居り、京師より距たること万三千里にして蹴
属大月氏。地暑謀、人乗象、俗治浮屠法。﹂(厨賓は、捕の漕固
唐害﹄巻二百二十一上﹁西域伝﹂に﹁厨賓、陪漕園也。居葱嶺
科挙禦明期には明経・進士・明法などの科目の中で筆頭科に位
﹁形跡﹂は礼儀作法。﹁無形跡﹂は礼儀作法を気にかけなくて
され、その後は科挙に応ずる者の通称となった。 O無形跡
に在った園名。南北朝時代にはカシミ 1ルを指し、陪唐代には
新
カIピサおよびガズニ l(漕国)をこの名で呼んだという。 ﹃
れた橋。﹃三輔黄図﹂巻六﹁橋﹂に﹁謂橋、秦始皇造。謂橋重
橋は、秦始皇造る。謂橋重くして勝ふ能はず、乃ち石を刻み
に﹁烏刺戸園、周三千絵里。(中略)・従此東南、登山履険、
の法を治む。)とある。また﹃大唐西域記﹂巻二一﹁烏刺戸国﹂
常に大月氏に役属す。地暑湿にして、人象に乗り、俗浮屠
2
南、距京師高二千里而庫。南距舎術三千里。王居惰鮮城、常役
不能勝、乃刻石作力士孟責等像祭之、乃可動。今石人在。﹂(滑
て力士孟責等の像を作りて之を祭れば、乃ち動くべし。今石
た
人在り。)とあり、注に﹁潤橋在長安北三里、跨潤水篇橋。﹂(謂
3
6
5
中略)・:此より東南し、山に登り険を履み、鉄橋を度り、
度繊橋、f
g十絵里、至迦課蒲羅園。﹂(烏刺戸国は、周一平余里。
いうのはもともと兄弟ではまく﹂と訳されている。その場合は
品﹂(評論杜一九七七年)は本話の要約を挙げ、﹁鄭重な竜妹と
行くこと千余里にして、迦湿弥羅固に至る。﹂とあり、﹁迦湿弥
少妹相見。即第兄弟、情不合疎。﹂(娘奉見の時、必ず霞の少
ると恩われるが、ここでは、先に秦霞が﹁娘奉見時、必請奥霞
﹁股勤に見ゆるところの妹は、固より親に非ぎるなり。﹂と訓ず
E(
o
=一五銀﹁三五﹂は数
貰詞妹也。亦嘗相見。﹂(郎君約して兄弟と為れば、小妹子は
羅園﹂に注して﹁嘗日厨賓、枕也。北印度境。﹂(旧崩賓と日ひ、
即ち貫調の妹なり。亦た当に相見ゆベし。)と言って、妹に会
枕するなり。北印度の境。)という。
東より来たり、一の費ありて短かき者祝商し、銭二銀を獲た
べからず。)と言い、また劉貫詞も﹁郎君約第兄弟、小妹子即
り。)とある。蘇道明﹃玄怪録続玄怪録﹄(漸江古籍出版社
う理由として劉貫詞と察霞の義兄弟関係が強調されていること
妹と相見えんことを請へ。即ち兄弟と為らぱ、情合に疎なる
一九八九年)は﹁相当子一千銭,即一一帯。﹂と注するが、ここ
の意ではなく、﹁(薬霞は劉貫詞に対して)本当に親しく思って
から、﹁非固親也﹂は﹁(竜の妹は)もともと親族ではない。﹂
の多くないこと、﹁銀﹂は銅銭のこと。白行簡﹁三夢記﹂に﹁昨
では従わない。 O西市唐代長安最大の商業市場の一つ。長安
夢二人従東来、一書而短者祝晴、獲鎮二銀駕。﹂(昨に夢に二人
城の西にあり、一一坊分の敷地を占めていた。シルクロードを
通ってきた西域の商人達が集まっており、酒場や旅館、金銀宝
の撰した伝奇集。牛僧騰の﹃玄怪録﹄のあとを継ぐ意味で名づ
いたからではない。﹂の意で解する。 O喰 少 し 食 う 。 試 し 食
いする。 O漕洛未詳。﹁漕﹂は運河。格水に繋がる運河か。
O漫漏水の音。 O ﹃績玄怪録﹄唐の李復言(生没年未詳)
採賓曹に就いて﹂﹁胡人採賓諏補遺﹂(﹃長安の春﹄東洋文庫平
話 │唐代支那に広布せる一種の説話に就いて﹂﹁再び胡人
ついては、石田幹之助﹁西域の商胡、重価を以て賓物を求むる
四巻本は ﹃
続幽怪録﹄と題している。﹃太平広記﹄には三十一
巻としている。南宋には臨安の書買の刻した四巻本が出たが、
文志﹂・﹃直斎書録解題﹄は五巻とするが、﹃郡斎読書志﹄は十
けられた。太和年間以降の異聞を記す。﹃新唐書﹄巻五十八﹁芸
飾庖なども営業していた。 O胡客西域からやって来た旅人。
それを高値で買い取るという一群の話、所調﹁胡人買宝曹﹂に
西域からやって来た商人が一見ありふれた物の価値を見抜き、
凡社一九六七年)、富永一登 ﹁
中国古小説の展開﹄第五章第三
話が収録されている。この話は、中華害局点校本では巻三に
﹁蘇州客﹂として収められている。
節﹁商胡買宝樟﹂(研文出版二O 二ニ年)等に詳しい。。且
そもそも。発語の辞。 O陳首自首する。 O股勤見妹者、非固
親 也 内 国 道 夫 ﹃ 中 園 小 説 研 究﹂第六章﹁唐の中期以降の作
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6
︹訳文︺
脚を叩けば、必ずや応答する者があって我が家へ迎え入れられ
を率いており、溝橋の下に家を構えております。眼を閉じて橋
大層聡明ですロ彼女にあなたを助けさせて宴席のしきり役と
そよそしくするわけにはいきません。手紙にも彼女に出てこさ
せるように書いておきましょう。彼女は年は若いといっても、
るはずです。母に謁見する際には、必ず私の末の妹に会いたい
唐の洛陽の劉貫調は、大暦年間(七六六i七七九)、蘇州で
と願い出て下さい。私とあなたは兄弟となったのですから、よ
宴も盛りを過ぎた頃、霞が﹁兄上が今世間を広く渡り歩いてお
になった。ある時、霞が羊肉と酒を持って来て酒盛りとなった。
物乞いをしていた。秀才の察霞という立派な風采の男と一度
会っただけで大層親しくなり、霞は貫詞を﹁兄上﹂と呼ぶよう
られるのは、どういう訳ですか己と尋ねた。貰詞﹁物乞いを
をお贈りすることを承諾するはずです。﹂と言った。
ているだけだ。﹂霞﹁それならどれくらいのお金が手に入った
しばらくして、竜神が自分をだますはずがないと思い、試しに
み切って深く、どうやっても霞の家に行けそうな気がしない。
貫調はそのまま洛陽に戻り、潤橋の側に行った。その淵は澄
なってもらいましょう。彼女はきっと御礼に百縛了十万銭)
しているだけだよ。﹂霞﹁目的地はあるのですか、それとも広
く諸国を渡り歩いているのですか。﹂貫詞﹁当て処なく放浪し
ら旅を辞めますか。﹂貫詞﹁十万銭だな。﹂霞﹁放浪しておいて
高低様々の棲閤が並んでいた。紫色の衣の使者が貰調の前に腕
十万銭欲しいとは、翼も無いのに飛びたいと思うようなもので
を組んで立ち、貫詞の来意を尋ねた。貫詞は﹁呉郡より参りま
こで目を聞いてみると、橋も揮も見えず、朱塗りの門の屋敷と、
しくもありません。差し障りがあって国を離れ、長く音信不通
した。若君より手紙があります。﹂と答えた。尋ねた使者は手
眼を閉じて橋脚を叩いてみると、突然応答する者があった。そ
になっております。心からのお願いがあるのですが、どうか兄
紙を持って屋敷の中に入っていった。しばらくするとまた出て
に過ごさねばならぬでしょう。私は裕陽の辺りに家があり、貧
上には私のために帰郷して頂きたいのです。お引き受けいただ
す。もしきっと手に入れることができたとしても、数年は無駄
ければ、兄上は道中の旅費も、放浪したいという望みも、月日
そうして建物の中に入り、四十歳ほどの母親という人に面会
きて、﹁奥方様が、お入り下さいとのことです。﹂と言った。
した。服は全部紫で、心惹かれる容貌であった。貰詞は彼女に
か。﹂貫詞﹁もとより願うところだ。﹂霞はそこで銭十万を贈る
を無駄にせずに手に入れることができます。いかがでしょう
ことにし、手紙を一通預けた。そして﹁旅先にて思いがけずも
らく音信不通となっておりましたが、あなたが御足労下さった
拝礼し、母親も答礼した。さらに﹁我が子は遠く旅立ち、しば
目をかけていただき、すでに礼儀作法を気にする間柄でもあり
ませんから、私の真心をお示ししましょう。私の家は鱗ある者
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気持ちが今なお積み重なっていたことでしょう。﹂と礼を述べ
せんでした。あなたがわざわざおいで下さらなければ、憂いの
せん。そのため一度ここを離れてからは、三年音沙汰がありま
さか上官の不興を買ってしまい、その恨みはまだ消えておりま
おかげで、数千里の彼方より手紙が届きました。あの子はいさ
の願いにかなうものだったのですから、御辞退なさりませんよ
が詳しくしたためております。こたびのあなたの行いはあの子
言った。母親は﹁あなたが貧しい旅をしていることは、あの子
のに、どうしてそのようなものをいただけるでしょうか。﹂と
でに兄弟の契りを結んでいる上に、手紙を一通届けただけです
うに。﹂と言った。貫調は礼を言った。そして母親は鎮園の椀
また食事していると、幾らもしない内に、母親の限がまた赤
を持ってこさせた。
くなり、両方の口角から誕が垂れてきた。娘は慌てて母親の口
た。話し終わると貫詞に座るように言った。貰調は﹁御子息と
お会いせねばなりません。﹂と言った。母親は﹁あの子の手紙
兄弟の契りを結びましたからには、妹君は私の妹でもあります。
にもそのようにあります。娘は大体身だしなみを整え終わった
じます。﹂と言った。娘は怖がっているかのようであった。娘
を掩って、﹁兄上は心からこの方にお願いをしたのですから、
は事目衣の下女に椀を持ってこさせ、手ずから貫調に授けて、﹁こ
ら、すぐに出て来てお目にかかるでしょう。﹂と言った。突然
そうして食事の用意をさせたが、とても清潔なものだった。
れは厨賓固の椀です。かの固ではこの椀によって災いを鎮めま
そんなことはしてはいけません。﹂と言った。そして何と﹁母
向かい合って食べている時、母親は突然眼が赤くなり、貫調を
す。唐の人がこれを手に入れても、使い道がありません。十万
は高齢で、成病の発作が起こると礼儀正しく按しようとしても
まっすぐ見た。娘は慌てて、﹁この方は兄上が頼りにしておい
銭の債がついたらお売り下さい。それより下では売ってはいけ
青衣の下女が現れて、﹁お嬢様がおいでです。﹂と言った。年は
でになられたのですから、礼によってもてなさねばなりません。
十五、六歳くらい、類い稀なる容貌で、人に勝る聡明きであっ
ましてや﹃心配事を無く﹄していただいているのですから、不
ゆっくりはできません。﹂と言った。そして再拝して屋敷の中
ません。私は母の具合が悪く、側に居らねばならないので、
できないのです。兄上はお帰りになられた方がよろしいかと存
安を感じきせてはいけません。﹂と言った。そして﹁手紙では
た。彼女は拝礼して母親の側に座った。
兄の判断によって百縄をお贈りするようにとありますが、百蝿帽
貫詞は椀を手にして数歩歩いて振り返ってみると、碧の揮や
に入っていった。
高い橋は最初に到着した時のままのようであった。手にした器
を一人でお持ちになるのは難儀なこと、軽く持ち運べなくては
いと思つのですが、いかがでしょうか。﹂と言った。貫詞は﹁す
なくてはなりません。今、それと同じ値打ちの器を差し上げた
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を見てみると、何と黄色の銅椀であった。その値釘ちはたった
いと思ったり、或いは本当に食べようとしたら、妹におまえを
させたのだ。懇ろに妹に会つように言ったのは、本当におまえ
守らせようとしただけだ。この椀が出てきたからには、奴も
を親しく思っていたからではない。老いた竜がおまえを食いた
きっと戻ってくるだろう。これが ﹁
心配事を無くす﹄というこ
三銭か五銭というところだった。貫詞は竜の妹が全くのでたら
がいた。しかし貫詞は竜神は信義を貴ぴ、人を崩すはずがない
行ってみると、七百銭や八百銭、或いは五百銭の値をつける者
て太陽を隠すだろう。これが霞が戻ってきた徴だ。﹂貫詞﹁ど
とだ。五十日後、治水に繋がる運河の波がぎぱっと商く上がっ
めを言ったのではないかと思った。器を手にして市場に売りに
の唐に突然西域の旅人がやって来た。旅人はこの椀を見て大い
この椀を持って山脈を越えたら、そこで初めて帰ってこれるの
うして五十日してから帰ってくるのでしょうか。﹂旅人﹁私が
と考え、毎日器を持って市場に行った。一年ほどすると、西市
に喜び、値段を尋ねた。貫詞が﹁二百縛 (H三十万銭)だ。﹂
だ。﹂貫詞はそのことを覚えておいた。五十日経って来てみ
と答えると、旅人は﹁物には適した値段というものがある。こ
れがどうしてたったの二百緒などということがあろうか。しか
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ると、確かにその通りだった。
続
(Oは編集担当者、。は編集責任者)
耳原稿製作者・績集担当者
嵐婁山下宣彦
。。屋敷信晴項青
西田則子
華
襲
しそもそもこれは中国の宝ではなく、持っていても何の利益も
無い。百縄でどうだ。﹂と言った。貰詞は初め竜神と約束して
いたのがそれだけであったので、それ以上は求めず、そのまま
受け入れて椀を渡した。
旅人は﹁これは厨賓国の鎮国の椀だ。かの固では大いに人の
災厄を払うことができる。この椀が失われて以来、厨賓固は荒
れ果てて戦火が止まない。私はこの椀が竜に盗まれて既に四年
近くになると聞いている。厨賓固の君主は圏中の半年分の税収
でこの椀を買い戻そうとしている。おまえはどうやってこれを
手に入れたのか。﹂と一言った。貫詞は詳しく事情を話した。旅
人﹁厨賓固を守護する竜が天に訴え、丁度追っ手がかかってい
る。これが霞が故郷を離れた理由だ。天界の役人は厳しくて自
首することはできないので、おまえにこと寄せてこれを送り返
喜
重