JNK000901

天理大学人権問題研究室紀要
第 9 号 : 1 一 17,
2006
庄屋 善 兵衛とその妻
一天理教正教当時の
精神史点描 -一一
池田七郎
IKEDA@Shiro
1
はじめに
天理教の教祖 曲 -Uみき (1798-1887) の 生,
適 されていた一群の 人びとが村の 日常生活の
空間に入ってくることへの 嫌悪感が教祖を 疎
ましい存在と 感じさせ,教祖ないしは
中ロ
ー
@
涯を特色づける 第一は,その宗教的な生涯に
はムラ社会から 孤立していった。 ここに, 被
れを「ひながた」と 呼ぶ) が 出家遍歴ではな
差別民衆史の 視点から教相.の「ひながた」を
,幕末維新潮の大和の一つのムラ 社会に78
見つめ直す意味があ る。 なぜなら,私たちが
年間も定住した 在地性にあ る。 つまり,教祖
「ひながた」を慕 う ためは,この意識のずれ
く
となる以前と 以後すなわち 里俗両面を同じ 生
を乗り越えることが 最初に求められるハード
活の場で生きた。 これは世界の 宗教史上に特
筆 すべき事実であ る。
ル だからであ る。その意味では ,「ひながた」
ところで,里俗両面を 同じムラ社会で 生き
ぬいた 教祖の言動は ,教祖の思い とは裏 腹 に ,
は被 差別民を含む 底辺民衆層の 具体的な「 人
だすけ」から 始まる「世界たすけ」への 展望
に満ちている。
周囲の人びとからはタブーを 犯すものと受取
られ,時にはムラ 社会との間に 摩擦が生じた。
のずれを生じたのは 槻 れとの接触という 病気
その最大のものは 差別をめぐる 意識のずれで
直しだけではなく , 人 びとの心に 泌 みっ い た
あ ったと考えられる。 たとえば,教祖の 不 思、
封建的な筋目意識や 男女の性差意識に 鋭く 抵
議 なたすけの評判が 広がるにつれて ,多くの
触 したからでもあ る。 こうしたムラ 社会の日
人 びとが救いを 求めてやって 来たが,村のな
常 生活に潜む差別意識を 最初に克服した 事例
かでは教祖の 癒しの能力は 必ずしも歓迎され
として,教祖の 夫 善 兵衛の ケースをとりあ げ
なかった。 それは,教祖の病気直しの不思議
なガ にすがる思いでやって 来る病人のなかに
て考えてみたい。
は, 性の病や「らい 病 」と呼ばれたハンセン
Ⅱ
病などの病者が 大勢い たからであ る。 つ ま
社会的に 槻 れた病と意味づけられ ,接触を忌
天理大学人問学部(総合教育研究センタ
づ
だが,教祖の言動がムラ社会との 間に意識
善果衞と 中山家
後に教祖の夫となる 善兵 衞は天明 8 年
(1788年 ) 大和国山辺郡庄屋敷 村 (現在の奈
FacultyofHum
田nStu
伍 fes
庄屋善兵衛とその妻
良 県天理市姉島町 ) の中山家に生まれている。
は文政 3
年行 820 年 ) に62 歳で亡くなってい
父は善右 衛門,母はキス であ った。
中山家はかなり 古くから村の 庄屋や年寄と
子供であ る。 善 兵衛に何人の 兄弟姉妹がいた
ることからすれば ,
善兵 衞は父が 30 歳の時の
,小澤菊次が消失前の
いった村役人をつとめる 家であったようであ
のかは判明ではないが
る。 それと同時に
善福寺の過去帳 を調べた記録が『復元山第
質屋業を営んでいた。 中山
家に残る最古の 質証文は元禄
のものであ
る。 もっとも,
(1703年 )
16 年
この時,中山家が
いわゆる質屋株仲間の 株を所有していたか 否
かは不明であ
るが,明和4.年れ 767 年 )
には
2
号に掲載されており ,それによると 寛政 8 年
(1796 年 ) に父善右衛門は 5 歳の娘を喪って
書典衞の三つ 蔵 下の妹で
いることがわかる。
あ った。
また,同じ資料によれば ,文化2 年は 805
隣家の :l村家と共同で 銀壱匁の両替札の 裏 書
きをしており ,そこには質屋菩 右衛門の焼印
年)
が 押されていることからする
ⅠⅠが亡くなっている。 おそらく 生 ・母であ
ヒ
遅くともそ
の頃 までには質屋株を 所有していたに 違いな
8
月に「庄ヤ シキ 善 右衛門 妻 ,俗名キ
ろ
う。善 兵衛18 歳の初秋のことであ る。 元服の
年齢を過ぎていわぬる 成人になっていたとは
一方,村役人については ,いつ頃から中山
いえ,母の死は多感な年頃 の善 兵 衞の心に深
家が庄屋をつとめていたのかは 判然としない
い 悲しみを与えたに 違いない。 人の世のはか
が,かなり早い時期からつとめていた 可能,性
なさを身に 泌 みて味わったであ ろうと同時に ,
があ る。 それは,宝暦9
年 (i759年 )
の石上
幽明境を興にする 母と何とかして 語り合いた
組騒動吟味の 口上書が『改訂天理市 史コめ資
いという切ない 思いを振り切ることができな
料編第 2 巻にあ るが,そこに庄屋敷 村 庄屋 善
かったであ ろう。
三郎とあ るからであ
る。 この口上書のなかで
父の善宿衛門はその 後,後添えを要った。
庄屋喜三郎は「 又 四郎 宅ハ 私門前に 而 」と述
それがいつのことかは 記録に見当たらない。
べている。 当時,庄屋敷村の 豪農クラスの 家
妻 キヌを失った 時 ,
で 門前に他家
利の年寄をつとめていたと 思われる。 亡妻の
(正志家 ) があ るのは中山家だ
善右 衛門は 47 歳であ り,
けであ った。 上京家は中山家と 同じ 勾 田村の
善福寺の檀家であ るが,岡寺は昭和 57 年 (1982
三回忌がすんだ 頃 だとすると彼はもう 49 歳と
年 ) の火災で過去帳 等が焼失しており ,歴代
に達していた。 善右衛門にしてみれば ,息子
当主の名前を 調べることができなかった。
の嫁の厄介になるのではなく ,家督を善兵衛
だ
なっており,当時の 感覚からすれば 初老の域
が,同家の聞き 取りによれば ,歴代の名前の
に譲って , -- 日も早く隠居の 身になりたいと
なかに 又 四郎という名双こそ 確認できないも
思、 っての再婚ではなかっただろうか。
妻の死
年 (1810年 ) には長男の
から 5 年後の文化
たという。 こうしたことからすると
にあ る庄屋 善 三郎は中山家の 当主の可能性が
善 兵衛に嫁を貰っているが ,その息子の結・婚
の時には 善右衛門の妻として 新しい風 きぬが
-l一、
@ ) といえるだろう。
その祝宴に列していた。 というよりも
・
のの,分家の当主に 又ノ L ほほという名前があっ
ぽ
,口上書
善兵 衞の誕生する 約 ㏄
年前のことであ る。
父の善右衛門は 地方文書を見る
7
縁談の橋渡しは 他ならぬ新しい
限り年寄で
あ り,庄屋を つ とめた形跡はない。 善右衛門
よるものと考えられる。
,その
母の力添えに
なぜなら, 善 兵衛の
妻は新しい・母 きぬの姪にあ たる前川家の
長女
2
池田
であ ったのだから。
Ⅱ
の小さな村の寄り 合いで何度もそのことが
話
し合われたに 違いない。 そして,多くの家で
あ る村方騒動
は現実に口寄せ 稼業を廃止したのであ
話は少し戻るが , 善 兵衛が母キヌを襲った
る。 し
かし,衆議は容易に一致点を 見出すことがで
同じ文化 2 年のことであ った。 庄屋敷村 の 隣
村 ともいえる守田重村であ る騒動が起こって
った。 そればかりか ,少数派の 4 軒は京都の
いた。 騒動それ自体は 母の亡くなる 以前から
土御門家から 陰陽道許状までを 貰 い ,口寄せ
始まっていたようであ るが,専が表沙汰にな
をやり続けていたのであ
っ
たのはちょうど 母の死と相前後する 頃 から
であ った。 しかも,その 騒動が死者の 口寄せ
をもっぱらとする 巫 現職をめぐるものであ
っ
てみれば, 善兵 衞の心境は複雑なものであ
っ
ただろうことは 容易に想像できる。
きず,いたずらに 時間が過ぎてゆくだけであ
た多数派はついに
し
止めを求めて
6
4
る。 しびれを切らし
軒の口寄せ稼業の 即時差
月に領主役所に 訴え出た。
当時の公事作法からすると
, 枝 村の住人が
直接領主役所に 願い出るということはできず
,
当然,本村庄屋の 添状を佃けて 訴え出たもの
それは,今日「梓巫女 井 陰陽万尋一件」と
と考えられる。 その時点で,口寄せの 存廃騒
いう文書名で 呼ばれるもので ,奈良県立同和
動は枝村 であ る巫女村の範囲を 越えて,覚の
問題関係史料センタ 一の吉田栄治郎氏に
世界の人びとの 好奇のまなざしにさらされる
て初めて紹介されたものであ
ょ
っ
る。 一言でいえ
ことになった。 近郷近在の人びとにはこの 枝
ば,巫女村の口寄せ稼業廃止に 関する村方騒
村が巫女柄であ ることは周知のことであ った
動であった。 以下,同氏の研究に即して ,事
が,それは公然の秘密ともいうべき 秘め事で
件の概要をふりかえってみたい。
あ って , 公のことではなかった。
そのことは
その頃,大和の国には死者や神々の 口寄せ
口寄せを聞きにくる 者が夜分ひそかに 尋ねて
を稼業とするいわゆる 巫女村は二つあ ったと
いう。 その内の - つが守口党利の 板材であ っ
くるということからもわかる。 だが,役所に
訴え出るという 行為によって , 村の口寄せ稼
た。 この村は戸数 13 町の小さな垣内で ,ほと
んどの家が百姓仕事の 合間に長年にわたり 口
業は公のこととなり ,その存廃をめぐって 村
を二分する騒動が 起こっているという 事件@ま
寄せをしてきた。 そこから,いっしか周辺の
人びとの格好の 噂の種となったに 違いない。
利の人びとはこの 垣内の人たちのことを「筋
そして,その噂は善兵 衞の耳にも届いていた
目違い」と見なずようになり ,縁談は勿論の
であ ろう。
こと奉公稼ぎやその 他の祝儀,不祝儀の付き
合いにも支障をきたすことがしばしばであ
役所では両者の 言い分が吟味されたのであ
っ
ろうか,双方の 主張が本村であ る手目糞 村の
たと いっ 0 つまり,今でいう 結婚差別や就職
旧庄屋文書として 残されている。 それによる
差別等さまざまな 差別を受けていたのであ る。
と
そして,その理由が口寄せという
る
も共に「筋目違い」を 理由に縁談や 奉公稼ぎ
ことが疑いのないものであ ってみれば,この
その他の「 人 交り」に差し 支えがあ る事実を
行為にあ
「筋目違い」ゆえの 差別から逃れるために 村
,廃業した多数派も 廃業を拒否した 少数派
認めている。 問題は,それに対する対応の 仕
ごと口寄せを 止めようという 提案が出てくる
方である。 多数派の方は ,だから口寄せとい
のは当然の成りゆきであ った。 おそらくはこ
う
巫 現職を止めることが 肝要であ り,その上 ,
庄屋 善兵衛とその妻
,
いつまでも死者や 神々の口寄せをしていたら
「近年世間二猟奇等位 候 ものも存亡供待
職位候者共も
自
ハ有
う異法 を行儀 様 二町和成兵難
訓 -」というように ,近頃では 狐 寄せなどとい
うものもあ るが,やがてそんな 異浅はかかわ
の声を語っている。 彼女たちの伝える 亡者や
神々の声に人びとは 日常生活の折り 目節目に
住む故人や神仏の 思いを聞き
その声に折々の 判断の糧を求めていたのであ
あ たって冥界に
ってしまう恐れがあ るといって一刻も 早く口
る。
善 兵衛はこの村方騒動をどのような
寄せ稼業などは 止めるべきだと 主張している。
見ていたのであ ろうか。 それを窺わせる 伝承
つまり,古来よりの 伝統的な作法に 則して口
は残っていない。 そして,この事件の記憶は
寄せという 巫 現を行っている 者も狐想 きのよ
善兵衞の意識の奥底にいつしか 沈澱してゆき ,
うな恩 依 る
日々の出来事のなかでは 忘却の彼方へと 追い
「
異法」と断じているのであ る。
狐恩 きなどの 想き物筋の烙印がどれほどの
蔑
思いで
やられていった。 善 兵衛は中山家の 後継者と
視に値するかがわかるであ ろう。 これに対し
しての仕事を 確実に身につけてゆくことと
て,少数派の方は,先祖伝来の口寄せを中止
身の結婚という 一人双への途上にあ ったので
したからといっても 人びとの「筋目違い」の
あ る。
認識や差別は 変わらないだろうといい ,そし
て,「世辺難波義 ハ貴賎 ニ本 限己か 心持ニ脚
M
座候事, 世以 知る所今更 相 礼し 候事ハ 如何
自
慈悲深い妻
善 兵衛は文化 7 年の秋に ,
同じ藤堂藩領の
哉 」というように ,世の中が渡りづらいのは
西三味田村の 前川家から嫁を 貰った。 名前は
貴賎に限らず ,心持しだいであ り,世間が口
みきといった。 善 兵衛より 10 歳も年若い嫁で
寄せを知っているかぎり 礼すことなどできな
あ った。 前川家は代々庄屋をつとめる 家で,
いだろうと現実を 見据えたまなざしで 反論し,
特にみきの 父半セは 文政1Q 年 (1827年 ) 10 月
むしろ 巫 現職を止めることは 先祖への不孝に
なるとさえ述べている。
ている。
事件そのものは 役所の指示で 本村村役人が
には「役義精勤ニ村一代 限無足人」を許され
つまり,一代限りとはいえ 武士の身
分を与えられていたのであ る。
調停に入ったが ,翌3 年 6 月に内済破談とな
みきは働き者で 心根のやさしい 評判の嫁で
っている。 その後この巫女村の 口寄せについ
あ ったようで,家事はいうまでもなく 農作業
ては,吉田氏によれば ,明治 5 年
も人一倍働いたという 伝承が残っている。
8
月の奈良
し
県布達第 93 号によって祈祷や 神降ろし,梓巫
かし,なによりも 善兵衞を驚かせたであ ろう
女などの吉凶禍福の 占 いが 禁止になるまで
ことは,並外れたその 信心深さであ った。 結
続
いたという。 つまり,周辺の村人たちは日常
婚前には尼になりた い との望みを抱いていた
生活においては「筋目違い」として「 人 交り」
を 忌避しながらも ,死者が出ると 初七日など
終えて後は,念仏唱える 事をお許し下さる 様
というみきの 嫁入りに際しての 希望は「夜業
に新亡者の声を 聞きに巫女 村 へと足を運んで
に」というものであ った。
いたのであ る。 時には巫女が 尼の姿をして
思えぬ落ち着いた 雰囲気を醸しだしていたの
出
Ⅰ
3 歳の若い
嫁 とは
向くこともあ ったようであ るが,大方は密か
であ ろう。 みきは一気に 中山家の人びとの 信
に巫女 村へ伺いにやって 来た。 そして,御幣
頼をえるようになったに 違いない。
をもった巫女たちは 梓弓を鳴らしながら 亡者
そ,結婚後 3 年にして所帯を 任されるまでに
だからこ
池田
越えて
なったと史伝は 伝えている。 姑と 嫁がいくら
叔母/ 姪の関係であ ったとはいえ , 16 歳で大
誕生した。 『教祖伝団は善 兵衛のひとかたな
らぬ喜びようを「明るい 喜びが家の中に 溢れ,
い一切を任されるということは ,み
きがいかに周囲の 大人たちから 信頼されてい
たかがわかる。 みきが所帯を 任された文化 10
新婚の頃 にもまさる楽しい 日々が続 いだゴと
語っている。 そして,その頃 には 善兵衞も村
年頃には舅の善宿衛門は 五十路の坂をとうに
に ょ れば,彼が初めて 村方文書に登場するの
所帯の賄
55歳になっていたことからすると ,同
じ
役人の列に名を 連ねていた。 石崎正雄の調査
は文政 5 年に庄屋敷 村 年寄としてであ
頃 には, 善右衛門も家督を 息子の善兵衛 に
っ
@=@
))@
((
xo 0
六
事件が起こったのは ,それから数年後のこ
譲り,隠居したと 考えられる。 中山家は名実
とであ った。 文政11 年 4 月, 善兵衞の継母の
共に若 い夫婦の手- に委ねられたのであ る。
き
みきの信心深さは 文化f3年行 816 年 ) の春
め を見送った後のことであ ろうか。 役仲間
でもあ った隣家より 貰い乳の依頼を 受けた。
に檀那寺であ る善福寺で浄土宗の 五重相伝を
というのも,この 家は子供はできるが ,母親
受けたことにも 窺える。 わずか19 歳のことで
の乳の出が悪く ,それまでに幾人もの乳児を
あ った。 とはいえ,生きている 間に死後の極
亡くしていた。 そこで,子が生まれるたびに
楽浄土への冥福を 祈って逆修の 戒名を受ける
余るほど乳の 出たみきに貰い 乳の申し入れを
儀やしに, 20歳になるかならない 者が参加する
したのであ る。 ちょうど,前年の 秋に次女が
のはよほどの 事情があ ってのことと 考えるの
誕生していた 折りでもあ り,みきは快くその
が普通であ る。 当時のみきの 生活にそのよう
申し出を受け ,隣家の子を預かった。 ところ
な事情を求めるとすれば ,その年の秋に初産
が, しばらくすると 預かり子が 庖瘡にかかり
の子供を亡くしていることをあ げるべきであ
しかも質の悪い 黒庖瘡 となった。 かつて子供
(141
ろうか。 同時に,この頃 の伝承として 夫善兵
を
興 ったことのあ るみきは預かり 子にかかり
衛が使用人のかのという 女に一時 心 奪われて
きりとなって 世話をした。 預かり子に対する
しまい, 善兵衞の寵愛からか ,彼女がみきに
隣家の期待の 大きさを思うと 居ても立っても
毒を盛る事件が 起こった。 その時,一命をと
おられず,医者の 診療はいうまでもなく , 諸
りとめたみきは「これは ,神や仏が私の腹 の
方の神仏に願をかけたが 快方のきざしもなく ,
といって,かの
を赦したという。 こうした史実や 伝承を重ね
ついには医者も 匙を投げてしまった。 そこで,
みきは深夜に 水垢離をとり ,氏神に跣足詣
り
合わせてみると ,ひょっとすると ,みきが五
なして「無理な 願 い では御座いますが , 預り
重 相伝を受けようと 思、 っ たきっかけは 善 兵衛
子の庖瘡離かし い虔,お救け下さいませ。 そ
とかのの一件にあ ったのかも知れない。 その
の代わりに,男子一人を 残し ,娘. 人の命を
葛藤の果てに ,みきは人並の慈悲深さの域を
身代わりにさし 出し申します。 それでも不足
- つの宗教的な
達していたというべきであ
ろ つ,
で御座いますれば ,
はるかに超えて ,
悟りにまで
その後,一家は落ち着きを取り 戻し,穏や
願 満ちたその上は 私の命
1l91
をも 差 上げ申します」と 命をかけて祈願した
と
いっ。 みきの懸命の 祈りが天に通じたのか ,
かな家庭を築いていった。 文政 3 年 れ820 年 )
その後,預かり 子は不思議と 一命をとり留め
の夏に父 善 右衛門を見送ったが ,それと入れ
た
換わるかのように 翌年の夏には 長男の秀司が
現代人の感覚からすれば ,みきの祈願には
庄屋善兵衛とその妻
不条理なものを 感じるであ ろう。
しかし, 当
ていた。 その頃,彼はすでに庄屋となって お
時の人びとの 感覚からすれば ,みきの行為は
押しも押されもせぬ 村を代表する 顔役で
純粋な真心の 発露と映ったに 違いない。 それ
あ った。 会所をもたない 庄屋敷 村 では,村の
はもはや人間のなしうる 誠の行為という 域を
寄り合いは庄屋の 家でもたれることが 常であ
超えた神や
ィム
の慈悲にまで 警 えられる行為と
り,そんな折りにはみきが 人びとをもてなし
みきは善 兵衛にとって 欠くことので
みなされた。 釈迦の捨身 飼 虎の故事さながら
ていた。
氏神に跣足 詣 りをするみきの 姿は村人たちに
きないパートナ 一だった。 一見したところ ,
は神仏の化身とさえ 映ったであ ろう。 夫の善
何不足のない 庄屋夫婦のように 見えた。 しか
兵衛にしてみれば ,そこまで慈悲深い 行為に
し,
徹底できる妻の 姿に感動すると 同時に,一抹
取り鳥子の病であ った。 前年の秋頃 から長男
の畏れを感じていたかも 知れない。 その畏れ
秀司の足に痛みが 走り, しだいに身体的変 7%
の中身がどのようなものであ
をもたらすようになってきたことであ
るのかは 善 兵衛
善 兵衛夫婦にも 悩みはあ った。 それは跡
る。 後
にもよくわからなかったであ ろう。 それは,
年 ,秀司自身が痢病と呼んで
何事にも「 分 」を守るということが 尊ばれた
いう多発性リューマチのような 症状であ った
時代の只中にあ っては逆に見えにくいもので
と
あ ったに違いない。 しかし,想像をたくまし
ようになっていた。 つまり,身体障害者とな
くするならば ,
っていたのであ
善 兵衛はみきの 行為に人間の
い るが,今日で
考えられる。 いつしか秀司は 政行して歩く
る。 そして,痛みが出るたび
領分を超えた 神仏の世界に 通じる不思議な -カ
に, 長滝村の庄屋で修験者でもあ った市兵衛
のあ ることを感じとり ,無意識のうちにかつ
に加持祈祷を 頼んでいた。 当時の障害者に 別
ての巫女柄騒動の 影がよぎったのではないだ
する認識は差別的な 偏見に満ちており ,時に
ろうか。
障害者は一人双の 人間とみなされないことも
その後,氏神との 約束どおり,次女は 迎え
あ った。 とりわけ母親であ るみきは長男の 行
とられ,代わって 三女と四女が 誕生したが,
く
天保 6 年 (1835年 ) には四友を喪
るかのように ,精神的に不安定になっていた
ぃ,
2
年後
の天保 8 年の 12 月には正女が 生まれている。
と
末を案じてか ,五友を身ごもった 頃 と重な
伝承は物語っている。 それほど長男秀司の
つまり, 娘二人を身代わりに 差し出したので
足の病は
あ る。 誕生と早世がめまぐるしく 繰り返すな
た
かで,みきは喜びと悲しみに つ つまれながら
も
,どこか納得したものがあ
ったのであ ろ
普段と変わらぬ 生活を送っていた。
やがて,
ヲき
・婦にとっても
深い悩みの種であ っ
この年の 10 月 23 日は亥の子の 祭りで,それ
ぞれが親しい 人を招きあ
って 1 年の収穫を喜
び あ っていた。 中山家でも人を 招いてささや
自分が迎えとられるであ ろうということも 含
かな祝いの膳が 出されていたことと 思われる。
めて。
そんな和やかな 空気を覆すかのように ,突如
だが,みきの迎えとりは思い
らょ らぬ形で
やってきた。
V
祝いの場は一
進められた。
やがて市兵衛 が 呼ばれると,夜明けを 待って
変貌する 妻
天保 9 年れ 838 年 ), 善 兵衛
として秀司の 足が痛みだした。
転して祈祷の 場へと模様替えが
加持祈祷が始められることとなった。
は51 歳 となっ
この時にかぎって
だが,
,ふだん市兵 衞の相方をつ
池田
とめる巫女が 不在であ ったので,やむなく 市
兵衛はみきに 巫女の代役をつとめて 神仏の声
ことは容易に 想像できる。 こともあ ろうに自
分の妻が「筋目違い」の 巫 現になるとは 善兵
を伝えるように 指示した。
衞 にとっては思いもよらぬことであ
善 兵衛は驚いた。 が,いま目の前で痛みの
った。 善
兵衛は言葉を 尽くして神様にお 上がり頂くよ
あ まり苦しんでいる 子どもを助けるためには
う願ったが,「もし 不承知とあ
それ以外の手だてはなかった。 考える間もな
くみきが巫女の 代役をつとめる 準備が整えら
粉も 無いようにする」という 激しい言葉がか
れていった。 晩秋の大和の 夜明け前はことの
足掛け 3 日に及んだという。
同じ思いは実父
ほか寒い。 人 びとの吐く息が 白く め れ動いて
の前川 半セも 抱いていたであ
ろう。 半セ は人
いるなか,衣服を 改め御幣をもったみきが 仏
一倍の律儀な 人間であ ったからこそ
間に端座すると , 市兵衞の加持祈祷が 始めら
れた。 護摩を焚き, 神 降しの呪文が 唱えられ
りとはいえ苗字帯刀を 許されて士分に
えってくる有様で ,
らば,この家,
善 兵衛と袖の押し 問答は
,一代限
取り立
る頃 にはみきの顔からりつもの 穏やかな表情
てられたほどであ るから,なによりも 家柄を
重んじていたに 違いない。 急を聞いて駆けつ
は消えうせていた。 その場に居合わせた 善 兵
けた 半 セも 善 兵衛ともども 神様になんとかお
衛はじめ 家 ・族の者はことの成り行きを固唾を
上がりいただく 23 畳に額を擦り 付けんばか
飲んで見ていたであ ろう。 とりわけ 善兵衞は
りに頼んだが ,神は年老いた父の哀訴さえも
妻であるみきが代役とはいえ 巫女の役をつと
頑として受けつけなかった。 初めのうちは「狐
めることに不安を 感じだしていたに 違いない。
独走障碍左様 ニ
それは, 30 年前の巫女村の 口寄せ廃止騒動の
衞も ,終始一貫して,みきを「神のやしろ」
に差し出すようにという 神の強い意思を 耳に
ことが脳裏
を ょ
ぎったからであ
る。 だが,杭
(2 の
」
把、 つていぶかっていた 善兵
しては, しだいに, これは狐狸の 仕業ではな
材はすでに始まっている。
市兵衛の降神儀礼が 終わりに近づ い た 時,
みきに神が降りた。 多くの伝承では ,神は「天
(231
の将軍なり」とみずからを 名乗ったという。
く,何か知らぬが 人間の -カ を 超えた大きな 働
きが妻の口を 通して語りかけていると 思わず
に はおれなくなってきた。
それは善 兵衛のみならず 修験者の市兵衛にと
3 日目の朝が明けようとしていた。
初代真
っても経験したことのない 神であった。 しか
柱の手記によれば ,みきは「御侍ナザレタル
も,その神は 修験者市兵衛の 制止を越えて ,
幣ハ振 上 ゲテ紙ハ 散々 二破レ 御身八畳二脚擦
自ら語りだすという 形で完全に問答の 主導権
リ付ケ ナザレ テ遂二御手 ョリ 流血 / 淋滴タ
を奪ってしまったのであ る。 神の主張はきと
ル」状態で,
めると以下のようなものであ
いと判断した 菩 兵衛は,周囲の反対にもかか
の神,実の神であ
り
った。 「我は元
る。 この屋敷にいんねん
あ
。 このたび,世界一れつをたすけるために
天降った。 みきを神のやしろに
貰い受けた
このままでは 妻の身体がもたな
わらず,ついに「元の 神・実の神」の 申し出
を
受け入れて,みきを「神のやしろ」に
差し
出しますと返答した。 この時,みきの 口を通
ぃ 」と。 「袖のやしろ」がどのようなものか
して神は「満足,満足」という 言葉で応えた
はともかく,神がみきを 貰い受けたいという
といわれている。 と同時に ,
託宣は,その時の番兵術には 口寄せをする 巫
の穏やかな表情が 戻ってきた。
女のようなイメージで 受けとめられただろう
妻の顔にいつも
だが,これを境に,書典衞の妻みきは「 tll
キ
庄屋 善兵衛とその妻
(321
め やしろ」すなわち
教祖となったのであ る。
さをさえ感じさせるものがあ ったであ ろう。
つまり,それは当時の誰がみても 神の口寄せ
をしていると 受けとられても 止むを得ないこ
庄屋のお内儀に 神様がお下がりになったと
とにほかならず
,巫女村 騒動の一件がそうで
いう評判は中山家のあ る庄屋敷 村 だけでなく
あ ったように,周囲の 人びとからは「筋目違
近隣の村々にひろがった。
なかには狐が 恩 い
い」とみなされて「人交わり」にも 支障をき
たの気がふれただのという 憶測を交えての 噂
たしかれない 事態であ った。 そうでなくとも
が飛びかったであ ろうことは想像に 難くない。
その頃 の常識からすれば
人 びとの同情と 好奇の入り交じるまなざしの
せなどの 巫 現に頻繁にかかわることはタブー
なかで,それでも 善 兵衛は庄屋としての 職務
視されていた。 有名な貝原益軒の『女大学』
を果たさなければならなかった。
にも,「巫 (みこ 卜現 (かんなぎ ) などのこ
ことに晩秋
から冬にかけては 年貢皆済に向けての 忙しい
1291
,一家の主婦が口寄
とに迷ひて,神仏を 汚し近付, 狼 (みだ)
り
時期で , 村の人びとと 否応なく面談しなけれ
に祈るべからず」と 説かれているように ,
ばならない。 おそらく誰一人として 中山家の
女 のもとへ伺いに 行くときでさえ 密かに通っ
騒動を知らないものはなかったが
ている。 さらには,教祖の 神との語り合いが ,
, 面 と向か
巫
っては誰もその 話題にはふれなかっただろう
屋敷神やご先祖という 家の神仏への 祈念のた
巫女村の騒動の 時がそうであ ったように。
めではなく,世界一れっをたすけるという「 元
騒動から 10 日間ほどはなにごともなかった
の神・実の神」と 語り合っているとなれば
,
かのように普段の 生活が戻っていたようであ
夫の善兵衛にしてみれば , 村 びとへの言い 訳
る。 しかし, 10 日目ぐらいから 教祖の行動に
異変が起こった。 それは,教祖が家の内蔵 に
もさることながら ,秀司や幼い娘たちへの 説
明に窮したであ ろうことは容易に 想像がつく。
籠りだしたのであ る。 初めのうちはあ まり気
また,「分コ をわきまえることを 旨として 生
にもかけていなかったが ,それが師走に入っ
きた当時の人びと ,
て年越しの準備をする 頃 になっても,終日,
体現が求められた 庄屋であ ってみれば,番兵
内蔵 に籠っているようになると ,さすがに書
衞 にとって,教祖の 行動は困惑の 始まりであ
典衞も妻であ る教相.の行動が気になりだした。
っ
人の出入りの 多い庄屋の家のお 内儀が師走の
忙しい時に内蔵 にお籠りしていることは
隠し
ようもなく, 噂 となって家の 外に流れていっ
たに違いない。
だが,もっとも 善兵衞の心を痛めたことは ,
内蔵 に籠った教祖が 誰もいないはずの
で誰かと話しをするかのように
蔵 の中
眩く声が蔵 の
とりわけそうした 徳目の
たに違いない。 なぜなら,当時の 社会通念
としても,「わが 身に応じたる 神を祭るべし。
身に応ぜ ざ るは祭るべからず。 天神地祇人鬼
ともに,人の 位によりて,わが身にあ づかり
て祭るべき 神 あ り。身にあ づからずして祭る
まじき 神 あ り。わが祭るべき 神にあ らざれば
祭らず。 是を祭るは 諮 (へっ ちい) なり, 非
礼 なり」といわれる よう に,世界一れっを
外まで漏れて 聞こえてくることであ った。 一
説によ ると,その声は 隣家にまで聞こえたと
すける神を祭るなどは 分 不相応な不遜の
にほかならないからであ る。
いう。 誰もいない内蔵
しかし,他方では ,妻である教祖に入り
んだ神が尋常ならざる 不思議な力をもって
のなかで独り 語りをし
ている教祖の 姿は異様であ り,時には不気 @
た
行 ぬ"
込
い
池田
ることも 善兵衞は目の当たりにしていた。
そ
く, 逆に , 天の善兵 衞や家族をはじめ
れは, 善 兵衛がこうした 不安を抱き始めた
頃
人びとが教祖のこの 行動をどう受け
のことであ った。 長男秀司の足が 再び激しく
かという視点から 解きほぐして
痛みだした時,教祖は 彼の足に 烏、 を 吹きかけ
ではないだろうか。
て紙を貼ったところ , 10 日ほどで平癒したこ
とがあ った。 これは教相.のおこなった最初の
「たすけ」であったが,こうした 不思議な「た
教祖は, みきがもつていた
周囲の
取ったの
い く方が有効
評判のすべてを
失った。 みきは当時の 女性道徳に照らしても
働き者の嫁で ,従順な妻 ,そして慈悲深い
母
すけ」を双にしては ,書典衞も教祖の 行動に
という三拍子揃った「女の
異を唱えることもできず
評価を得ていたが ,内蔵に籠るという 行為の
,
どうしたものかと
鑑」ともいうべき
思案に暮れるばかりであ った。 だが, 善 兵衛
結果,すべてが失墜したのであ
の心にはしだいに 教祖の中に神を 見る気持ち
終日,働きもせず神様とお話をしている 姿は
が芽生えてきたことも 確かであ る。 というよ
人びとの目には 怠惰な有様に 見えたであ ろう。
りも,教祖が「神のやしろ」であ ることを最
また,神様に 差し出したとはいうものの , 善
初に実感したのは 他ならぬ夫の 善兵衛であ
兵衛にしてみれば ,家の賄いはともかくとし
っ
た。 だからこそ,彼は 親戚や役仲間の 忠告や
助言と教祖の 言動との間で 悩みぬいたのであ
る。 この時以来,
善 兵衛は出直すまでの 的巧
る。 すなわち,
ても,せめて村の寄り合いの 時ぐらいはお 接
待 に顔を出してほしいと 思ったであ ろうが,
それもかなわぬとなれば 意見の一つもいった
年間,神と人との間に立つ者が 一度は経験す
であ ろう。 しかし教祖が 夫の意見に素直に
る葛藤を岬きつつ 歩んだ最初の 教祖.「ひなが
従って蔵 から出て客人のお 相手をしたという
た」の同行者となった。
伝承は残っていない。 そして,何よりも 人び
とを不可解にしたのは ,前年に生まれた 乳飲
Ⅶ 解体してゆく 家
み子の世話取りも 人任せになりがちだったこ
教祖が内蔵 へ籠ることはお ょそ 3 年に及ん
とであ る。庄屋の中山家のこととて 乳母を頼
だという。 その間に,いわゆる 十柱の神々が
むことは容易であ ったかも知れないが ,人目
教祖に現れたり ,あるいは教祖は 神から人間
には無慈悲な 母親の姿と映ったであ ろう。 こ
の身の内の守護の 話を
うした教祖の「神のやしろ」としての
いう説もあ
たこの 3
1 年間かけて聞いたと
る。 そこから,教祖が内蔵 に籠っ
年間は教祖となる 内的な自己の 再形
第一歩
は,周囲の村びとたちの 目には,評判を 失う
ことであ ったが,主体的には ,みきがもって
成の時期であ ったという解釈がされることも
いた世俗の評判を 捨てることだった ,
あ る。 だが,この 3 年間のことについては ,
べきであ ろう。
と解す
教祖自身による 直接的な逸話も 書き記したも
評判を失ったのは 教祖だけではなかった。
のもなく,また聞き書きや伝承の 類もほとん
夫の善兵衛もまた 営々と築いてきた 庄屋とし
どないので,教祖の 内的な経験を 想像するこ
ての評判を失いつつあ った。 当初は同情的だ
とは,時に極めて 主観的な解釈になり 過ぎる
ことがあ る。
したがって,教祖が 内蔵 に籠っ
った 人びとも,教祖の 行動があ まりにも常人
ったからか,いつと
の理解を越えるものであ
た行為の意味を 解釈するためには ,ただちに
はなしに見限るように 善兵衞の周りから 離れ
教祖の内心に 思いを馳せて 解釈するのではな
ていった。 そして,
3
年が過ぎる頃 には 善兵
庄屋 善兵衛とその妻
衞の評判はすっかり 地に落ち ,
密かに物笑い
をなすようになると ,事は中山家の問題だけ
自分の女房を 説得して家を 治めることもでき
ではすまされない。 親戚や村びとたちにとっ
ても重大な関心事であ った。 薬師寺の西山元
ない人間が村内をどうして 治めることができ
開院を核とする 西山非人宿は 大和の南半 国の
の種とさえなっていたかも 知れない。 それは,
るのかという 理屈であ
る。 この理屈を裏
付け
物乞い権
をもっていたように ,当時の非人集
るかのように ,庄屋善兵衞の名前は天保 lcW
年
団の中には多くの 痂癬や
3 月晦日付「宗旨 御改帳 」を奉行所へ 提出し
を憶、 う 者が混じっており ,大和の村々を物乞
たのを最後に 地方文書から 消えてしまった。
いに廻っていたのであ
おそらく教祖が 内蔵 に籠っている 間に庄屋を
のように,教祖が「遍路の 癩病人へ」施した
る。 それを裏 付けるか
辞したものと 思われるが,その理由は善兵衛
という伝承が 残っている。 親戚や村びとにと
の年齢や失策ではなく ,あきらかに世間の ?r;
ってはそうした 被差別 民 との交わりは 慈悲深
判を踏まえてのことであ ったに違いない。 そ
い行為ということとは
れは傍目には ,庄屋・ 年 穿という村の 指導者
人 びとは入れ替わり 五- ち 代り 善 兵衛 に意見を
層の筋目から 口寄せをする 巫 現職への象徴的
しにやってきた。
め
言
な家の筋目の 伝 英でもあ った。
ま
やがて
3
書典 衞 とて漫然としていたわけではない。
@ となく施しを 恩、 い止まらせようと 説得
年がたち,教祖.は
内蔵 から出てき
たが,「貧に落ち切れ。 貧に落ち切らねば
,
別の意味をもっていた。
していた。 時には,松葉を煥べたり,護摩を
難儀なる者の 味が分からん」という 神の言葉
焚いたりして 中止を迫ったが
に従って,激しい 施しを始めた。 伝承によれ
逆に教相.に説得されて施しを 止めさせること
ば,その施しは「神様は 安市なして 払 ふて し
はできなかったと『教祖.f云 J
まへ」といわれたので ,嫁入り道具を
善兵衞の悩みの深さが 伝わってくる。 しかし
@ょ じ
語払
てり
し取
通杉7
を家
も はえ
口の
のこ
数 は
いがあ ふれていた。 おそらく,教祖の施しの
噂は大和の国中を 走り,その噂をたよりに 多
っ
いたとはいうものの ,その後遺症は未だ世の
中に色漉く残っており ,往来には多くの 物乞
チ
@@
ハⅡ
Ⅰ
@
ⅥⅣ
っ たという。 天保の大鯛 能 はすでに終息して
し
いる
り次第に施してしまうという 激しいものであ
@まィ 云えている。
施しも米や金や 着物といったを 品物を施して
ま求
は要
間の
る神
中山家の先祖伝来の 品々に至るまで ,手当た
,その度 毎に ,
というに至ってはさすがに 善兵衞も承知する
ことができなかった。 そうこうしていると 教
祖.は身体の不調となり,食事も 喉を通らなく
なった。 あ わてた 善 兵衛は親族を 呼び集めて
くの貧しい人びとが 鹿屋敷 利 に押し寄せて 来
教祖に伺うと ,「巽の月の 元下ろしかけ」と
たであ ろう。 じっさい,同じ 聞き書きには「 ひ
いってきたので ,やむなく教祖の 実弟前川。l
は んや, こじきは,いくらもき、つたえて,
日々貰 ひに まめ ります」と
(4221 されている。
三郎たちが瓦を
言己
これは, もはや慈悲深い 施しの・域を
超えて
いた。 というよりも ,家を内側から
打ち壊し
た
ものと思われる。 伝統的な大和の 農家では,
のに
幅棟
ダ木
2, れは
3 大
合 ㏄る
な し
せそ
四隅にタカへまたは クダ
みあ
主棟の茅葺き屋根の
丸瓦慣わ
10
,教祖の病状
いう。 坤や乾の角の 瓦も同じように 下ろした
れる
る
せ
貧しいというのではなく , 腱 し いと 観念され
ていた 被 差別 民 の 人 びとが中山家の 門前に 列
下ろしたところ
は回復した。 同様にして艮の 瓦も下ろしたと
ば釆
呼を
と瓦
リ平
てしまう行為とみなされたであ ろう。 たんに
仝
池田
特有の美しさを 醸しだしていると
同時に,農
家にとっては 家格を誇示するステイタスシン
ボル でもあ る。
(%81
つまり,四隅の瓦を下ろすこ
とは家の格式を 失うことにほかならず , 呵 l
悩み ハ 増す年り,神様の仰 ニ随ヘバ 親族や友
人の親切 ニ背かぬバ ならず, さりとて教祖の
悩みを見るに 忍びず, 終二 意を決して神様の
上
と
記している。 初代
っ
真柱がこの「教祖 伝 」を書いたのは 明治 A.O 年
た。 親戚や友人は 口を揃えて「嫁入って 来た
頃 といわれているが ,彼自身が明治2(W
午 旧正
女房に,家形を取り払え,と言われて,取り
月
家の没落を見える 形で内外に示すことであ
26 日に至るまでの 1 ケ月 近くの板挟みの 経
ろ
よ
よⅣ
,
つ
や
め
了る
てあ
めで
をた
え
てれか
し
付い
目を通して書きとどめている。
とさ
ると
ま い」と厳しく意見し ,ついには「そんな 事
な
験,すなわち教祖の急き込む「つとめ」の
修と 国家の権 力との狭間で 悩みぬいた経験の
しい
払いました。 と言うのでは ,先祖に対して申
訳 あ るまい。 世間に対してあ なたの男も立っ
勤
ただ, 善 兵衛
の場合はその 一方が国家権 力ではなく,世間
の価値観の体現者としての 親戚や友人たちで
屋根瓦を下ろした 一件以後,中山家は 物心
あ った。 善 兵衛が意を決して 高塀を取り段っ
両面にわたって「貧に 落ち切る」坂道を 下り
た結果,同じ文書は「 是 より親族友人ハ 不 附
だしていた。 物乞いに来る 人びとが増えるに
合 二至る」と伝えている。 じっさい,庄屋
つれて,親戚や友人達の足は 湖が引くように
遠の い ていった。 いつしか, 村 びとたちの間
で つとめた中山家であ ってみれば多くの 親戚
筋を持っていたに 違いないが,それが高塀の
にも同情はなくなり ,むしろ㍼笑 とともに,
取り段ち以後,双川家を 除いては親戚 筋 がひ
・世界をたすけるなどと大仰なことを いう が,
とつも分からなくなるほど 徹底した不附合で
神様のお下がりになった 足元の中山家を 見る
あ った。
ととてもたすかった 有様ではない ,あれは貧
乏神 か 疫病神だ ,というような噂が峨 かれる
ようになっていた。 家を守り発展させること
が一家の主の 役割だという 道徳観念の強かっ
・
中山家は名実ともに 零落したのであ
ま
る。
Ⅷ 再生への序曲
ところで,番兵衛
が 取り段った高塀とはど
た時代,そして善 兵衛自身がそうした 道徳を
んなもので,それがなぜ 親戚や友人との 人間
身につけることで 育ってきたことからすると
関係を断絶させたのだろうか。
大和棟の優美な 特徴は主棟の 白い妻壁の途
善 兵衛の胸の内は 千々に乱れたであ ろう。
そうした頃 のあ る日,神は教祖の 口を通し
て
「明日は, 家の高塀を取りお。え」と 善 兵衛
中あ たりに隣接する
落棟 (おちむね ) の瓦茸
きの屋根が組み 込まれ,その屋根の上に煙出
に要求してきたのであ る。 驚いた善 兵衛はさ
しの瓦櫓が 見えるという 光景であ る。 日光の
っそく親戚や 友人に相談したところ ,智一様
加減で白い妻壁に 煙出し櫓の影が 映る様はい
にとんでもない 無法なことだと 反対し,神様
かにも長閑な 田舎の風情を 感じさせる。 今で
との談判におよんだという。
しかし,神は
d
はそこから煙の 立ちのぼるのを 見ることはで
落棟の部分は火煙・ 水処
歩も退かず,教祖の 身の患いは増すばかりで ,
きないが,かつては
双方の狭間に 立つ 善 兵衛の進退は 窮まった。
であ り,クドでの 煮炊きの煙が
その時の善兵衛の 心情を初代真柱は「親族や
ことはなかったという。 この白 い妻壁は主 棟
友人の親切なる 情二随ヘバ 忽ち教祖御身上の
と落棟 との間仕切りでもあ るが,完全に下 ま
一日中消える
Ⅰ
I
と
庄屋善兵衛 とその妻
正月や祭りの 日に座敷にお 膳を設けて食事を
であ るのではなく ,下の梁のところまでで ,
その下は人が
行き来できるようになっている。
する風習があ るのは,こうした 家の空間観念
土柿の急 勾配の屋根裏 は物置や使用人たちの
が生きているからであ る。 近畿地方では 煮炊
部屋として使われるのが 一般的であ ったが,
きをする火煙がかなり 早くから床張りの 部屋
その中二階の 床と同じレベルに 上の梁があ る。
から切り離されて 土問 へ 移るという間取りが
この上の梁と 下の梁の間の 妻壁は煙返しと 呼
一般化したので ,信越から関東・ 東北地方に
ばれるが,時によってはこの 煙返しも高塀
かけて広く見られた 囲垣裏を囲んで食事をす
と
呼んでいる。 元来,高塀とは落棟の屋根の外
る
ぃ6
間取りはきわめて 少ない。 つ ま
塗り込められた 妻壁のこと
だが,同じ一枚の 壁のことでもあ り,そう呼
煮炊きの煙が 主屋の中にこもらないように 家
ばれたのであ ろう。 筆者の聞き取りに 歩いた
柿と落棟の間に 煙返しを兼ねた 高塀で間仕切
範囲でも煙返しを 高塀と呼び習わす 家があ っ
るというのもその 工夫のひとっであ ろう。 こ
うした家の構造は 純粋に機能の 面から工夫さ
に 出た漆喰で白く
た
おそらく, 善 兵衛が 意を決して取り 殴 った
の構造が工夫されたのであ
る。 高塀造りの土
れた生活の知恵であ るというだけではなく ,
高塀とはこの 煙返しのことであ ろう。 もし外
生活にかかわる 種々の観念が 複合して生み 出
に面している高塀を 取り払ってしまうと ,中
された意匠 でもあ るという観点から , 日本の
二階は風雨に 曝されることとなり ,使用人た
民俗学は家という 空間のフォークロアを 積み
ちは野晒し同様の 生活を強いられることとな
重ねてきた。 そうした研究の 中から,「仏壇
る。 また, 落棟の屋根裏
神棚が主として ザシキに並置されている 点
から上の梁までの 妻
壁にれも煙返しと 呼ばれる ) を含めてであ
は, 明らかに近世社会における
るとすれば,中二階は クド の煮炊きの煙が 直
働いている」という 知見が出てきている。
接入ってくることとなり ,使用人たちは毎日
まり,江戸時代に 至って家の男性原理がより
煙で煙されて寝起きしなければならないこと
強調され,男の空間の神聖化が 進んだと考え
になる。 両者ともに考えにくいとすれば
,
も
と
一つの作為が
つ
るべきであ ろう。 そんな時代に , 男の空間と
っとも可能性の 高いのは上下二つの 梁の間の
女の空間を間仕切る 高塀を取り払ったのであ
煙返しの部分を 取り殺ったということになる。
る。 しかも,男であ り一家の主であ
だが,たったそれだけの 壁を取り壊すことに ,
の側から。
どんな意味があ ったのだろうか。
る
善 兵衛
これは事実上,中山家の 主がもはや 善 兵衛
結論からいえば ,この煙返しの部分を取り
ではなく,妻の教祖が家の主であ ることを認
払うと, クド の煮炊きの煙が 主屋 全体に流れ
めたことを意味する。 当時としても 家の主が
込むということであ
る。 その煙はやがて
座敷
女性であ る場合がなかったわけではないが
,
や仏間にまで 達するであ ろう。 当時の家の空
それは,ほとんどが夫を喪った場合で ,地方
間観念からすると ,玉屋のなかでも 座敷や仏
間は公の神聖な 場であ り,それは男の 管理す
る空間であ り,それに対して 落棟は人処・ 水
文書にも例えば「徳兵衛後家はつ」という
処 として私的な 作業の場であ り,それは女の
在であるにもかかわらず 家を代表しえないと
管理する空間ということができ
ろれ
l 0
いうことは甲斐性なしということで ,男の体
ほ
12
形
で記載されている。 家はあ くまでも男の 支配
するものという 観念に貫かれている。 夫が健
池田
面を失うだけではなく , 人 としての信用を 失
善兵衞は最後まで 教祖に去り状を 出さなかっ
墜することでもあ った。 こうした男性優位の
たということは , 善兵衞は世間の価値観を
風潮は,裏返していえば ,女は徹底して男に
てて,教祖の要求に同意したことを 意味して
従ちょうに求められていた 思想にほかならな
い。 じっさい,江戸時代中頃 になると農村で
いる。 その結果,周囲の 人たちから 善兵衛 は
不甲斐ない人物だと 判断されたに 違いない。
も多くの女性 達が寺子屋などで 手習いを受け
そして,親戚や友人たちは 善兵衞から離れて
るようになり ,そうした需要に 応じて爆発的
いった。
(571
捨
に教本類が刊行されているが ,それらの教本
中山家は孤立していった。 村・八分にも似た
のほとんどは 生活に必要な 慣用文や仕事の 説
孤独感と焦燥感が 善兵衞を苦しめたであ ろう。
明だけではなく , 女 としての心構えを 説いた
家の先々のことを 考えるとじっとしておれず
道徳的教訓であ ふれている。 この道徳的教訓
夜分に白刃を 教祖に突きつけて 正気に戻るよ
に大きな影響を 与えたものとして 貝原益軒の
うに責め立ててみたり ,教祖の里の兄弟衆 に
丁女大学』があ るが,その中で彼は「婦人は
も来てもらい 仏壇の双で刀を 抜き払って 糠き
別に主君なし。 夫を主人と思ひ , 敬ひ慎 て零
物 を落とそうとしたが ,その度 ごとに,教祖
(つか ふ ) べし。 軽しめ侮るべからず。 惣じ
(581
て婦人の道は , 人に従ふにあ り」と述べてい
は逆に「 元 初まりの話」から 説き起こし,世
界 たすけの道筋を 詩々と諭したと 史伝は伝え
る 。 これが当時の 女性に求められた 心構えの
ている。
基本であ った。
説いて納得させたのは 夫の善兵衛であ った。
教祖の高塀を 取り払う要求はあ きらかにこ
,
つまり,教祖が最初に教理を 切々と
もちろん,その 道筋が一直線のものでなかっ
の「婦人の道」を 逸脱したものであ った。 そ
たことは,教祖みずからが悩みをともにして ,
れは,道徳的に非難されるだけではなく ,本
夫の板挟みの 苦しみの原因が 自分にあ ると考
来なら法的にも 離縁を申し渡されても 仕方の
え,ある時は家の井戸に ,
ないものであ った。 江戸時代は離縁の 際に出
の宮地に身を投じて
す 去り状は男の 専権事項であ るとよくいわれ
としたことも 史実は物語っている。 そうした
るが,だからといって , 必ずしも男性側が 一
ジグザグの心の 軌跡をともに 歩むなかで, 善
方的に離縁を 申し渡すことができたのではな
兵 衞の迷いはしだいに 消えていったに 違いな
い。 それなりの理由が 必要であ ったことはい
い。
うまでもない。 しかし, P慶安御触書 $ でも
善 兵衛と教祖は「問い」と「語り
「夫の事をおろかに 存 ,大茶をのみ物ま いり
またあ る時は近く
我が身を無き 者にしよう
中山家は世間の 評判を喪失する 道中で,
聞かせ」と
いう行為を繰り 返しながら,いつしか 善兵衞
遊山すきする 女房を離別す へし
(601
」と明記され
は教祖と一体ともいうべき 存在となっていた
ているように ,夫のことを侮り疎かにするこ
であ ろう。 それは,世の中の常識や世間体で
とは離婚に際して 一定の法的な 根拠となりえ
結ばれた夫婦ではなく ,互いに納得し合える
たのであ る。 つまり,この場合,世の中の価
「女松男松のへだてなし」の 教えで結ばれた
値観によれば 善兵衞は教祖に去り 状を出して
魂の夫婦へと 生まれ変わる 一つの手本「ひな
離縁することも 可能だった。 なぜなら,傍目
がた」であ った。 とするならば ,高塀の取り
には教祖の行為は 夫の善兵衛を 軽視し, 侮る
払いとは男女平等の 教えの出発点であ ったと
ように見えたからであ る。 にもかかわらず ,
もいえる。
13
庄屋 善兵衛 とその妻
村 びとたちの出入りの 途絶えた中山家で ,
こともあ るが,男性優位という 価値観の村社
教祖と苦兵衛は 世界たすけの 第一歩を「女松
会のなかで 善 兵衛 と 秀司というニ 人の心が変
男松のへだてなし」の 教えを実践することか
わったことは 大きな変化であ った。 善 兵衛は
ら力強く歩み 出していたのであ る。 それは,
この変化の節目節目に 悩みつつ決断をしたの
明治 44 年 (1911 年 ) に平塚らいてうが ぽ青踏0
であ る。 だからこそ教祖の 教えは人間の 社会
発刊に際して「元始,女性は 太陽であ った」
と宣言する 60年以上も前の 暮末期のことであ
に着床することができたのだと 言えなくもな
9
むすびに
善 兵衛は嘉永
直 (死去)
的として。 そして,二度目
は不甲斐ない 男の姿として。 じっさい,天保
った "
Ⅸ
い。 最初は㍼笑の
年の時には庄屋の 家筋から離脱し
,いわゆ
る筋目違いの 巫 現職の家筋と 同類と見なされ
6
年は 8R3 年 )
2
月
22 日に出
している。 享年 6f 歳であった。 高
る社会的偏見のなかで 決断を迫られた。 そし
て,・
_ 皮目の高塀の 取り払いの時には ,
女 ,性
塀を取り払ったのがいつ 頃 のことであ るのか
差別の裏 返しとしての 理想の男性像を 喪失す
正確にはわからないが ,教祖がお鉗子をとっ
るという世間の 風潮なかで決断をした。
て師匠となる以前のことであ ったと考えるべ
善兵衞を取り囲んでいた 男性優位という 偏
-
きだろう 0 弘ィ ヒ元年は 844 年 ) 5 月に教祖の
見の壁は彼
実母前川きぬが 73 歳で出直しているが ,おそ
でなかった。 否 ,それはたんに日本の封建制
らくそれよりは 後で,嘉永元年 (1848年 )
度に根付くものであ るだけではなく ,
に
人の 力 で打ち壊せるようなもの
日本が
お針子をとるまでの 間 ど推定するのがもっと
近代化のお手本としたイギリスにおいても
も妥当ではないだろうか。
とすると, 善兵 衞
強い偏見として 19 世紀を貫流していた。 じっ
は出直すまでの 少なくとも
5
年間は教祖と 行
根
さい, ジョン,スチュワート・ミルの『女性
動をともにしたことになる。 教祖がお鉗子を
の解放 によれば, 19世紀後半に至ってもイ
とってから以後の 善 兵衞の消息は伝わってい
ないが,世間との 板挟みの苦しみに 悩んだ伝
ギリスでの理想の 女性像は「すべての 女性は,
承、もまた消えていることからすると
想の男性と全然反対の ,性格をもつ人でなけれ
,
善 兵衛
団
きわめて小さい 時分から,理想の 女,性とは理
は教祖の説く教えにしだいに 納得するように
ばならないという 信念で養育される。 すなわ
なっていたに 違いない。 もしも, 善 兵衛にと
ち,戎備をすてよ ,我意をとおすな ,そして
って,その一日一日が 失意の日々であ
ったと
ただ服従せよ ,人のいうことに 従え」と描か
するならば,家族の 一員として,そんな 父の
姿を見て過ごした 長男の秀司があ れほど真剣
れている。 おそらく,他の先進的といわれる
ヨーロッパ諸国においても 事情は似通って い
に教祖と一体化する 生涯を送ることはできな
たのではないだろうか。 そうした男性優位の
かったに違いないからであ
偏見が蔓 延している時代に ,教祖はみずから
る。
しかし, 善兵 衞は生存中に 教祖の教えが 実
の夫婦をひとつのモデルとして
, 人 びとに「女
を結ぶのを見ることはなかった。 あ くまでも, 松男松のへだてなし」という 男女平等の教え
家族の心が変わっただけであ
る。 親戚や村び
とたちの意識は 依然として変わらない。
から 善兵衞の生涯は失意のように
14
そこ
感じられる
を展開していたのであ る。 やがて,教祖の教
えは「 - れつきょうだい」という 人間平等の
教えへと展開するのであ るが,その教えを 教
相は長男秀司とともに 歩んでみせた。
その意味で, 善兵衞は最初の「ひながた」
同行者となったのであ
)孝一樽をめぐって
,同化か異化か
第三の途か
目
」
よりの引用
)。
る。
(11
吉田栄治郎「近世大和の
巫女竹と口寄せの
作
法」 32 仁 7 頁。
;主
(l)
拙著『中山みきと
被差別民衆J 31 頁,明石占
店
改訂天理市史コ
質料編第
2 巻,
(12@
肛
(13@
天理教教会本部『稿本天理教教祖
伝J 13 頁,
天理教適度社,
1996 年。
200(W
65
午。
(14@ 川津菊次「教祖様御仁稲案 (一)
」
同門。所, 1977 年。
(3)
立子 文化十三年八月-l-日
1951 年。
教,義及史料集成部,
」
2
庄屋敷村轄右衛門
戒名からすると
,流
孫」とある。 海水市子という
小澤石火「教祖
様御仁柏案 (一)
第
(『復元山
第 2 号) 61 頁の中山家の過去帳によれば,「池永
植田英威仁おやしき
変遷史図 J l2 頁,天理教
(4@
頁。
産だつた可能
wi もあ る。 現在では,圭子戒名は
2
は 復元$
号,天理教教義
及史料集成部,
1946 年) 63 頁
歳以上の幼児に
用いるのが一般的であ
るが,大藤
によれば,辞典
衞 には善四郎という
弟がいたとい
ゆきによれば
,民俗学的には
胎児も乳幼児も
同じ
う伝承が紹介されているが
,そのことから
類推す
水子の範噛であるという (フて藤 ゆき「水子」nl
ると, 菩三郎という名前の
人物がいても
不忠敵で
水大百科事典・
ヨ
はない。もつとも,
小澤乃次の調査では
,過去@u
は
にはすべて
善兵術,善右衛門の俗名しか
記載され
㏄ 6)
ぎ
ていない。この点で若干の
疑義が残る。
5@ 『稲本天理教教祖仕ョⅣ
頁。
小津菊次,前掲吉,
(6)
同前。
(7)
吉田栄治郎「(筋目) 孝一概をめぐって,同
3 月 5 口から11 日にかけて五重相伝が
執行された
61 頁。
とあ る。
化か興化か第三の途か」 (『研究紀要
$ 第 6 号,奈
(17@ 『稿本天理教教祖低コ
17 頁。
(18) 石崎正雄「教相在世時代の
村の (助け合い>
」
コ 1999 年), 同
良県立岡オ n 問題関係史料センタ
「近世大和の
巫女竹と口寄せの
作法」㎝東北学
コ
(石崎正雄編『教祖とその
時代 所収,天理教
道
団
友社, 1991 年) 17 頁。
4 号,東北芸術工科大学東北文化研究センタ
コ 2001 年) 等参照。
㈹ ) 奈良県立同和問題
閃 保史料センター『奈良の
被差別民衆史
J 89 頁,奈良県教育委員会,
2001 年。
(9)
山沢為次 「教祖 様御伝稿案 (一)」の12 頁に
記敵されている
善福寺の文昔によれば
,文化14 年
(5@
第
全書4 22 巻,小学館,
1988 年)。
本件文辞のコピーは
奈良県立同和問題史料セ
ンタ一に収められている。
ちなみに,守田
堂村は
旗本三好彦太夫の
所領で, 津の膝堂藩叙であった
稿本天理教教祖
伝J 2l 頁 。
(20)
同前書,100 頁。
(21
拙稿「秀司と
足の悩み」(R天理大学人権問題
研究室紀要 第 4 号, 2001 年) 参照。
凹
中山正善「迂拙作手記
本教祖様御伝はつい
(22@
て」
(23)
け 復元山第7 号, ]947 年) 3 頁。
暇も早い時期のまとまった
教祖の伝記であ
る
庄屋敷村 とどの程度の
村方関係をもっていたかは
末調査。
け
3W
0) 多数派が出した
文化 2 年 8 月
13 日付「乍恐返答奉言上條」
(吉田栄治郎Ⅱ筋
「
天/ 将草」と声はさ
㏄号,
3 日付「乍恐番
付 ヲ以本願上條」,および少数派が
出した同年8
月
年) では「大神宮」
㌃稿本天理教教祖
伝J l 頁。
(2 引
同前古,7 頁。
15
庄屋善兵衛 と その妻
貧」を参照願いたい。
復元山第4 号, 7 頁, 1947 年。
(一)
(27@ 中山新治郎「稿本教祖横櫛4元」 げ 復元J 33
」
1958 年) 25-6 頁。
号,
稿本天理教教祖
伝逸話衞J 3 頁。
酊
政一『正文迫韻抄は41
(28@ 小澤為人「教祖様御伝稿案 (四 りけ復元山
第
f65頁。
頁 ,天理教道文
号, 1W47 年) 28 頁, 40 頁。
改訂天理市史 な資料編第2 巻, 281 頁参照。
㏄ 0)
㌃中山みきと
枝差別民衆J 108- Ⅱ 9頁参
中山新治郎「教祖横櫛
伝 (
」
照。
年) 157 頁。
御存命の頃J 176 頁,天理教道支
祖,
1935 年。
号,
(4引
同前書,119 頁。
(33)
荒木兎悟池編 F 日本思想大系
34
. 貝原益軒
仁
貝原益軒・大和俗訓J
160 頁,
御教祖伝 史実校訂本 ・小一」
「
天理教教会本部㌃
稿本天理教教祖
伝逸話篇Ⅱ
[稿本天理教教Wf云
ヰ
(36) 中山新治郎「教祖
様御仁」
日本民俗建築学会編 民俗建築大事典Ⅱ148
頁, 柏蕃房, 2001 年。
頁,袖書房,2003 年。
Ⅰ
(50)
巧3-5 頁。
同前書,28 頁。
「教祖 様御伝」 163-5 頁。ただし,
-
げ 駒沢大学仏教学部論集Ⅱ
1977 年)
。は 引用者による。
(筑波大学哲学・思想学系
論集1978 年) がある。 後者の論文は
池田上部・島
⑮ 3@
漸進・関一敏 中山みき・その生涯と思想胡鰐
日本民俗建築学会編
f民俗建築大事典 14 社
コ
頁にあるように,高塀造りにも
3 種類ほどあり,
肝
氏の中山み
石書店,1998 年) に収録されている。
こヒ
ズミ高塀の場合などは
主棟の屋根の勾配が
き解釈は教祖に
共感をもって内在的に理解しよう
ゆるやかなため
落棟の屋根との落差はほとんどな
とする姿勢で
貫かれており,その
意味では信仰者
く, したがって外に
面した白い妻壁もほとんどな
にも一定の受け
入れが可能な
優れた教祖解釈であ
い。この場合にも
主棟と落棟の間仕切りを
兼ねた
withhin) という探
妻壁は高塀といわれているが
,実質的には
煙返し
る。 ただ,「内側から」
(丘 om
求は,その探求者の
内心に救済の
執意がどれくら
いあるか否かによって
,理解の深浅に
違いが出て
る。 神の意思は人間にと
くるのは当然のことであ
っては時に不条理にみえることもあ
るが,それを
のことである。
(54) 坪井洋文「生活文化と
女性」 (「日本民俗文
ィヒ
大系10
(55@
・
家 と女性 小学館,199R 年) 24 頁。
コ
日本民俗建築学会編 民俗建築大事典
酊
すべて合理的に
解釈しようとすると
無理が生じる。
頁。 今和次郎沌 本の民家 88 頁,岩波文庫,
1989
氏の論点にもそうした
側面があるのは事実であ
る。
年。
ただし,このことは
信仰者の教祖解釈にも
当ては
まる問題であ
ることは言うまでもない。
㈹ 8) 拙著『中山みきと
被差別民衆コの
16
2 頁。
(46) 同前。
(37) 代表的なものとしては
, 島薗進 「神がかりか
と「疑いと信仰の
聞」
Ⅰ
(49@ 『稿本天理教教祖
伝 27 頁。
2 頁,天理教道文
社, 200i 年。
救けまで」
復元山第30
(48) 古川修文也編旺 写真集 みがえる古民家J4l1
岩波文庫,
1995 年。
ら
け
1957 年) 106 頁。
(47@
鴨、
巣J 203 頁,岩波書店,
1970 年。
(3%
(44)
「
皿
(56) 宮田登「家のフォークロア」
(「文化の現在
3 .
見える家と見えない家山岩波書店,1981 年) 175
教祖
頁。
池田
(57) 梅村佳代 p近世民衆の手習いと往来物. 129
頁, 梓た Wj 坂社 , 2002 年。
肛
日本思想大系
34. 貝原益軒
室鳩巣J 203 頁。
(59) 高木柵肝玉くだり半J 149 頁,平凡社,1987
(60) 石井忠助校訂
肛
徳川禁令考・
前集第五. 160-
1 頁,創立社,
稿本天理教教相.
伝j 29-30 頁。
同前世,
31 頁。
(63) J.S.
ミル『女性の僻放J 58 頁,岩波文庫,
lgR9 年。
Ⅰ
n