坊っちゃん - SGCREATE

坊っちゃん
1
坊っちゃん
夏目漱石
坊っちゃん
2
むてっぽう
一
おやゆず
ぬ
ば
むやみ
こづかい
弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって
はや
いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。
い
の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、
じょうだん
く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築
ど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞
こし
親 譲 り の 無 鉄 砲 で 小 供 の 時 か ら 損 ば か り し て い る。
小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほ
坊っちゃん
3
め
こ
い
きれい
さいわい
は
小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は
かた
と右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが
こう
切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだ
で も 切 っ て み せ る と 受 け 合 っ た。 そ ん な ら 君 の 指 を
るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何
ものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を
親類かの
ざ
ともだち
日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光
もら
の次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
ら飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、こ
やつ
帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいか
4
坊っちゃん
きずあと
つく
手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
と、南上がりにいささか
庭を東へ二十歩に行き尽ます
んなか
くり
ばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立ってい
ど
る。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き
せ
せがれ
かげ
かく
に
みち
ぬす
太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失っ
つら
にくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘
おりど
である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗み
くせ
に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫
かんたろう
菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋
やましろや
抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。
坊っちゃん
5
いっしょうけんめい
そで
お
ひょうし
むこ
じゃま
六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分
くず
かけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より
たお
かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦を
あしがら
しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛
うで
る勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦
なび
て手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にあ
ふ
すべって、おれの袷の袖の中にはいった。邪魔になっ
あわせ
ちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭が
あ
年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっ
はち
て、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり
6
坊っちゃん
まっさかさま
の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落
わ
ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由
かねこう
さかなや
になった。その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに
袷の片袖も取り返して来た。
い
ど
う
ところ
わら
しり
し
ふるかわ
田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い
たんぼ
がみんな踏みつぶされてしまった。古川の持っている
ふ
の上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参
すもう
の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、そ
でそろ
の外いたずらは大分やった。大工の兼公と肴屋の
かこ
く
もさく
にんじんばたけ
角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。人参
坊っちゃん
7
もうそう
しかけ
ど
ま
な
ね
かわい
おんながた
わ
ばっきん
くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。
しばい
も お れ を 可 愛 が っ て く れ な か っ た。
おやじはちっひと
いき
母 は 兄 ば か り 贔 屓 に し て い た。 こ の 兄 は や に 色 が 白
済んだようである。
真赤になって怒鳴り込んで来た。たしか罰金を出して
まっか
見 届 け て、 う ち へ 帰 っ て 飯 を 食 っ て い た ら、 古 川 が
ぎゅう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを
さ
は ど ん な 仕 掛 か 知 ら ぬ か ら、 石 や 棒 ち ぎ れ を ぎ ゅ う
ぼう
そこいらの稲にみずがかかる仕掛であった。その時分
いね
孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、
8
坊っちゃん
ろく
おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならない
と、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられ
ると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご
ちょうえき
覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理
に さ ん ち
親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云
とま
て、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、
で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっつ
母が病気
あばらぼね
う
おこ
いの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒っ
る。
はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりであ
坊っちゃん
9
しらせ
や
め
しか
は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強してい
んだか今に分らない。妙なおやじがあったもんだ。兄
みょう
駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目な
だ
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。
お や じ は 何 に も せ ぬ 男 で、 人 の 顔 さ え 見 れ ば 貴 様 は
くら
口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。
く
おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。
て帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、
な大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思っ
おとな
う報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そん
10
坊っちゃん
いっぺん
けんか
た。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくな
しょうぎ
ひきょう
まちごま
うれ
かった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。あ
たた
しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に
る時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉
みけん
つ
という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようや
あや
その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り
きよ
勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清
を勘当すると言い出した。
かんど う
少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれ
い
在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて
坊っちゃん
11
いか
れいらく
いんえん
とうてい
――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人
ちんちょう
している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする
つまはじ
死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余
あいそ
非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も
婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを
ばあ
奉公までするようになったのだと聞いている。だから
ほうこう
も の だ っ た そ う だ が、 瓦 解 の と き に 零 落 し て、 つ い
がかい
う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒のある
ゆいしょ
おやじを怖いとは思わなかった。かえってこの清と云
こわ
くおやじの怒りが解けた。それにもかかわらずあまり
12
坊っちゃん
たち
あつか
に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から
はし
ふしん
木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、か
ま
えってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に
ほ
考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ
すぐ
ら好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を
だと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだか
思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌い
きら
ら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと
おれには清の云う意味が分からなかった。好い気性な
い
直でよいご気性だ」と賞める事が時々あった。しかし
坊っちゃん
13
なが
きんつば
ば
こ
こうばいやき
ほこ
ね
鍋焼饂飩さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではな
なべやきうどん
い る 枕 元 へ 蕎 麦 湯 を 持 っ て 来 て く れ る。 時 に は
まくらもと
ひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝て
そ
小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などは
こづか
毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の
思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の
よ
母 が 死 ん で か ら 清 は い よ い よ お れ を 可 愛 が っ た。
時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に
に見える。少々気味がわるかった。
眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるよう
14
坊っちゃん
く つ た び
えんぴつ
い。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。
これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してく
れた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向う
で部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょ
う、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入
こうか
実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の
落してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて
おと
懐 へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ
ふところ
た。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口へ入れて、
が ま ぐ ち
らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておい
坊っちゃん
15
さが
か
ま
か
しまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今と
貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れて
げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀
ご
云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上
か
いいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭いやと
くさ
様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、これで
かわ
それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模
いちえんさつ
の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。
ひも
すると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹
い ど ば た
棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらく
16
坊っちゃん
なっては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に
限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ
し
得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくな
か
とうさま
ども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から
え こ ひ い き
んと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれ
がんこ
でお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませ
あにいさま
ないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したもの
すま
くはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣ら
や
いけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いた
坊っちゃん
17
おぼ
ちが
立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をす
恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して
から仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は
いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだ
見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違
18
かな
はその時から別段何になると云う了見もなかった。し
りょうけん
いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれ
い。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌
人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わな
あ
る兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一
坊っちゃん
かし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに
ば
か
ば
か
成 れ る ん だ ろ う と 思 っ て い た。 今 か ら 考 え る と
馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだ
てぐるま
げんかん
ろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考
がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。と
り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気
れ か ら 清 は お れ が う ち で も 持 っ て 独 立 し た ら、
いっそ
しょ
く
一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰
のある家をこしらえるに相違ないと云った。
そうい
えもなかったようだ。ただ手車へ乗って、立派な玄関
坊っちゃん
19
こうじまち
あざぶ
ころがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはど
母が死んでから五六年の間はこの状態で暮してい
めてくれる。
心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞
も清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、
用であったから、そんなものは欲しくないと、いつで
か欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不
にほんだて
どと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なん
なら
をおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですな
こがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこ
20
坊っちゃん
た。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には
いちがい
菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これ
でたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこん
かわいそう
ふしあわせ
なものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、
母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡く
なった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒
小遣いをくれないには閉口した。
その外に苦になる事は少しもなかった。ただおやじが
ら、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。
あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだか
坊っちゃん
21
ゆ
業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか
食ってられると覚悟をした。兄はそれから道具屋を呼
かくご
な兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても
すに極っている。なまじい保護を受ければこそ、こん
きま
たところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出
うせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにし
やっかい
た。おれはどうでもするがよかろうと返事をした。ど
を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出し
しゅったつ
おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家
会社の九州の支店に口があって行かなければならん。
22
坊っちゃん
しゅうせん
が ら く た
にそくさんもん
ん で 来 て、 先 祖 代 々 の 瓦 落 多 を 二 束 三 文 に 売 っ た。
いえやしき
は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。
くわ
家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。この方
おがわまち
おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくま
来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは
しきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出
ていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをと
ないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっ
が人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のもので
わた
で神田の小川町へ下宿していた。清は十何年居たうち
坊っちゃん
23
なんに
こも
持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないか
おく
へ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを
末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこか
それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始
はら
し、
と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、
よじょうはん
の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭な
くんだ
兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く
先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄
じている。
何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信
24
坊っちゃん
おい
さしつか
ら、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事
をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支え
な く 暮 し て い た か ら、 今 ま で も 清 に 来 る な ら 来 い と
うち
二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年
な
の方が好きなのだろう。
きがね
来て世話をするのと云う。親身の甥よりも他人のおれ
しんみ
だろう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、
さい
を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったの
かし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼
ほうこうが
来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。し
坊っちゃん
25
ずいい
兄が下宿へ来て金を六百円出して
九州へ立つ二日前
しょうばい
これを資本にして商買をするなり、学資にして勉強を
遍も逢わない。
二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一
ていしゃば
清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。
ておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに
に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っ
たんばく
の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例
は構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ、何
するなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあと
26
坊っちゃん
し、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳で
用法について寝ながら考えた。商
おれは六百円めのん使
ど
うま
買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃな
もなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の
前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損にな
ろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。
しょうらい
懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはい
二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生
資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に
るばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学
坊っちゃん
27
まっぴら
めん
が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらって
が、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告
かか
うせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思った
詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。ど
ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体
28
であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとう
たちのいい方で
三年間まあ人並に勉強はしたが別段
かんじょう
もないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利
ひとなみ
親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
おこ
すぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも
坊っちゃん
お か
とう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが
苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か
用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある
中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行っ
たた
うと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟っ
そくせき
てもなかったから、この相談を受けた時、行きましょ
もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあ
たが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何
いなか
てはどうだという相談である。おれは三年間学問はし
坊っちゃん
29
たのである。
ふにん
く見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、
行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さ
りである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ
み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばか
かまくら
も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏
比較的呑気な時節であった。しかしこうなると四畳半
ひかくてきのんき
い。 喧 嘩 も せ ず に 済 ん だ。 お れ の 生 涯 の う ち で は
以上は赴任せねばならぬ。この三年間は
引き受けちた
っきょ
四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がな
30
坊っちゃん
どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。
心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々
たた
面倒臭い。
て
こ
き
ひとり
喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも
しゃべ
うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で
ふいちょう
今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通
を前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。
じまん
りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。清はおれ
も
家を畳んでからも清の所へは折々行っゆた。清の甥とお
いうのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居
坊っちゃん
31
一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をし
しゅじゅう
つら
つ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金
うち
おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんい
ぼ
よ約束が極まって、もう立つと云う三日前に
いよたい
ず
か ぜ
清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。
がてん
た。 自 分 の 主 人 な ら 甥 の た め に も 主 人 に 相 違 な い と
自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えてい
ほうけん
自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、
むかしふう
た事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の
32
坊っちゃん
が 自 然 と ポ ッ ケ ッ ト の 中 に 湧 い て 来 る と 思 っ て い る。
そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼
ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うち
ようす
ご ま し お
びん
な
は持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望
ささあめ
と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方
何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」
えちご
な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、
夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。それでも妙
なぐさ
まり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の
ゆ
した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。あ
坊っちゃん
33
角 が 違 う。「 お れ の 行 く 田 舎 に は 笹 飴 は な さ そ う だ 」
だおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れ
いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込ん
云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着
ズックの革鞄に入れてくれた。そんな物は入らないと
かばん
日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
出立との
ちゅう
はみがき
ようじ
てぬぐい
来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭を
ですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさき
はこね
と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」
34
坊っちゃん
なみだ
いっぱい
きげん
ません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に
涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかし
だいしょうぶ
もう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き
出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を
はな
こ
出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか
二
はしけ
ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ
い
大変小さく見えた。
坊っちゃん
35
ま
ぱだか
おか
つ
ば か
も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立って
いそ
み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時
もど
て五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積
はこ
たが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づい
いせい
にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思っ
がまん
うだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿
おおもり
む。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそ
日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくら
め
野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。
やばん
寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。
36
坊っちゃん
こぞう
いた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞い
いなか
ねこ
くせ
た。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気
やつ
みょう
の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学
つつ
校 の あ り か も 知 ら ぬ 奴 が あ る も の か。 と こ ろ へ 妙 な
なくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやに
と云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行か
のがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろ
な女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がる
そろ
尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。や
つ
筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、
坊っちゃん
37
こづかい
たず
かばん
だれ
随分気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと
ずいぶん
居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。
ようたし
から車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も
やと
道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それ
ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。
停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込
んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分
きっぷ
ものは変な顔をしていた。
を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋の
なった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄
38
坊っちゃん
くたび
やましろや
思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行
かんたろう
けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云う
うちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号
はしごだん
と同じだからちょっと面白く思った。
がまん
に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がっ
屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。やがて湯
あせ
革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部
ほう
らあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら
ふさ
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱
くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云った
坊っちゃん
39
のぞ
すず
あ
がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京か
飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女
うま
れから下女が膳を持って来た。部屋は熱つかったが、
ぜん
ん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。そ
うそ
た。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさ
40
いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍ぐらいやか
だらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。熱
ね
下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。く
きこ
うと云ったから当り前だと答えてやった。膳を下げた
あた
ら来たと答えた。すると東京はよい所でございましょ
坊っちゃん
ささあめ
きよ
ゆめ
えちご
ま し い。 う と う と し た ら 清 の 夢 を 見 た。 清 が 越 後 の
笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だ
い
からよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬で
ございますと云って旨そうに食っている。おれがあき
つ
れ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚
お
な、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらない
せま
代をやるものだと聞いていた。茶代
道中をしたらそ茶
まつ
をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。こん
どうち ゅ う
き抜けたような天気だ。
ぬ
めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底が突
坊っちゃん
41
こ う も り
な
り
おどろ
東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差
おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて
ふところ
に人を見括ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。
みくび
と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖
け じ ゅ す
せいだろう。見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄
42
まわ
きま
帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆
ぼん
ている。どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ
すま
みったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っ
おど
れ か ら は 月 給 を 貰 う ん だ か ら 構 わ な い。 田 舎 者 は し
もら
し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこ
坊っちゃん
を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失
つら
敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。こ
しゃく
さわ
ちゅうと
れでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。飯を済まし
さつ
まい
てからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途
みかげいし
か
し
くつ
みが
たいがい
門から玄関までは御影石で敷きつめてある。きのうこ
げんかん
学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分っ
ている。四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。
きのう
を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。
で
けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯
で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行
坊っちゃん
43
おさ
むやみ
わた
ぎょうさん
うすひげ
この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込んで
こ
と云って、恭しく大きな印の捺った、辞令を渡した。
うやうや
やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれ
のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。
たぬき
なった。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯
めいし
あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪るく
わ
行く。
中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。
た生徒にたくさん逢ったが、みんなこの門をはいって
あ
な音がするので少し弱った。途中から小倉の制服を着
こくら
の敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山
44
坊っちゃん
しょうかい
しまった。校長は今に職員に紹介してやるから、一々
めんどう
その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。余
計な手数だ。そんな面倒な事をするよりこの辞令を三
ひかえじょ
そろ
らっぱ
日間職員室へ張り付ける方がましだ。
聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思っ
ついて長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に
んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神に
追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込
の
教員が控所へ揃うには一時間目の喇叭が鳴らなくて
はならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、
坊っちゃん
45
もはん
た。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたよ
むてっぽう
あお
暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円
人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無
およ
一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個
しひょう
うな無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、
46
きら
れこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだか
うそ
散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇う前にこ
やと
と思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、
だ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろう
けんか
で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもん
坊っちゃん
ら、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、
こと
さいふ
思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。
宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがししか
お
ない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやら
見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが
たら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を
る通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云っ
嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃ
とうてい
て、どうかならない事はない。旅費は足りなくっても
なければよかった。惜しい事をした。しかし九円だっ
坊っちゃん
47
希望通り出来ないのはよく知っているから心配しな
そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急に
がやがやする。もう教員も控所へ揃いましたろうと云
知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。
おどさ
く っ て も い い と 云 い な が ら 笑 っ た。 そ の く ら い よ く
48
こし
あいさつ
けられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶
ひとりびとり
の顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申し付
れがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれ
い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。お
なら
うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い細長
坊っちゃん
たいがい
い
す
を し た。 大 概 は 椅 子 を 離 れ て 腰 を か が め る ば か り で
うやうや
へんきゃく
あったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取っ
ま
ね
たいそう
て一応拝見をしてそれを恭しく返却した。まるで宮芝
居の真似だ。十五人目に体操の教師へと廻って来た時
しょさ
には、
同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。
むこ
だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声
みょう
挨 拶 を し た う ち に 教 頭 の な に が し と 云 う の が 居 た。
これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生
している。少しはひとの了見も察してみるがいい。
りょうけん
向うは一度で済む。こっちは同じ所作を十五返繰り返
坊っちゃん
49
しゃつ
うす
そうい
を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフ
り
か
が
わ
それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪るい
こ
配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい。
はかま
のためにわざわざ誂らえるんだそうだが、入らざる心
あつ
者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生
からだ
が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった
ら人を馬鹿にしている。あとから聞いたらこの男は年
ば
千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだか
な
な く っ て も 暑 い に は 極 っ て る。 文 学 士 だ け に ご 苦 労
ランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違
50
坊っちゃん
あお
むかし
や
あさい
たみ
男が居た。大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男
は蒼くふくれている。昔小学校へ行く時分、浅井の民
ひゃくしょう
さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじ
がやはり、こんな色つやだった。浅井は百姓だから、
と う な す
百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、
ばかり食ってるに違いない。もっともうらなりとは何
ちが
子を食った酬いだと思う。この英語の教師もうらなり
むく
それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄
り食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。
そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばか
坊っちゃん
51
の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、
いがぐりぼうず
ていねい
あだな
えいざん
あくそう
がに堅いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それ
かた
に山嵐という渾名をつけてやった。漢学の先生はさす
やまあ ら し
へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主
云った。何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所
れいぎ
や あ 君 が 新 任 の 人 か、 ち と 遊 び に 来 給 え ア ハ ハ ハ と
きたま
面構である。人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、
つらがまえ
た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき
たくま
それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居
ほった
清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。
52
坊っちゃん
じい
れいせい
でもう授業をお始めで、大分ご励精で、――とのべつ
あいきょう
せんす
く芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子を
すきや
に弁じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。画学の教師は全
ぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? うれ
わたし
え ど
そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ
挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取っ
限がないからやめる。
についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際
れたくないもんだと心中に考えた。そのほか一人一人
子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生
坊っちゃん
53
あ さ っ て
てもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合
それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思った
だ。
るなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心
て教場へ出て行った。主任の癖に向うから来て相談す
うん、今に行って相談する」と云い残して白墨を持っ
はくぼく
した。山嵐は「おい君どこに宿ってるか、山城屋か、
とま
た。忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望
た。数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であっ
せをしておいて、明後日から課業を始めてくれと云っ
54
坊っちゃん
が、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してや
ろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。
れんたい
かぐらざか
県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。
あざぶ
みちはば
まちなみ
麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を
ば
かわいそう
みつく
たのだろう。帰って飯でも食おうと門口をはいった。
出た。広いようでも狭いものだ。これで大抵は見尽し
たいてい
なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に
な所に住んでご城下だなどと威張ってる人間は可哀想
い
る。二十五万石の城下だって高の知れたものだ。こん
半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ち
坊っちゃん
55
すわ
ざしき
とこ
ま
ついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷
二階へ案内をした。十五畳の表二階で大きな床の間が
じょう
を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が
ぬ
飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。靴
くつ
帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に
56
まんなか
昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。お
れは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くの
の字に寝てみた。いい心持ちである。
から、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大
ゆかた
へはいった事はない。この後いつはいれるか分らない
坊っちゃん
だいき ら
が大嫌いだ。またやる所もない。しかし清は心配して
ふんぱつ
いるだろう。難船して死にやしないかなどと思っちゃ
困るから、奮発して長いのを書いてやった。その文句
はこうである。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝て
赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学
てみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は
笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行っ
間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を
いる。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の
坊っちゃん
57
はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さよう
ねむけ
大の字に寝た。今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。
手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気
がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと
なら」
58
そうだから承知した。このくらいの事なら、明後日は
した。受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさ
人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽
ろうばい
嵐がはいって来た。最前は失敬、君の受持ちは……と
この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山
坊っちゃん
おろか
あした
愚、明日から始めろと云ったって驚ろかない。授業上
ぼく
しゅうせん
の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居
るつもりでもあるまい、僕がいい下宿を周旋してやる
から移りたまえ。外のものでは承知しないが僕が話せ
ばすぐ出来る。早い方がいいから、今日見て、あす移っ
はら
と残念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち
こ
いかもしれぬ。五円の茶代を奮発してすぐ移るのはち
ふんぱつ
も行くまい。月給をみんな宿料に払っても追っつかな
しゅくりょう
み込んでいる。なるほど十五畳敷にいつまで居る訳に
て、あさってから学校へ行けば極りがいいと一人で呑
坊っちゃん
59
たの
付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に
ていしゅ
こっとう
としかさ
ぱいおご
学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、
おうふう
る事にした。帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。
とおりちょう
て人の女房だから構わない。とうとう明日から引き移
この女房はまさにウィッチに似ている。ウィッチだっ
学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるが
う男で、女房は亭主よりも四つばかり年嵩の女だ。中
にょうぼう
る家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀と云
かんせい
てみろと云うから、行った。町はずれの岡の中腹にあ
頼む事にした。すると山嵐はともかくもいっしょに来
60
坊っちゃん
こ ん な に い ろ い ろ 世 話 を し て く れ る と こ ろ を 見 る と、
かんしゃくもち
わるい男でもなさそうだ。ただおれと同じようにせっ
かちで肝癪持らしい。あとで聞いたらこの男が一番生
徒に人望があるのだそうだ。
れでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。
いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所
へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、お
三
坊っちゃん
61
ん
ず
ぬ
お
ひかえじょ
い
たんりょく
こた
うだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安
掛けられずに済んだ。控所へ帰って来たら、山嵐がど
か
いい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も
午砲を聞いたような気がする。最初の一時間は何だか
ど
先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で
臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。
おくびょう
の 裏 が む ず む ず す る。 お れ は 卑 怯 な 人 間 で は な い。
ひきょう
先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足
うんでい
今 ま で 物 理 学 校 で 毎 日 先 生 先 生 と 呼 び つ け て い た が、
時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には応えた。
62
坊っちゃん
はくぼく
心したらしかった。
やつ
え
ど
二時間目こに白墨を持って控所を出た時には何だか敵
地へ乗り込むような気がした。教場へ出ると今度の組
きょうしゅく
けんか
くせ
すもうとり
なら
なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやっ
んな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、
いなかもの
一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。しかしこ
まい
てみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、ただ
おおぞう
がっても押しが利かない。喧嘩なら相撲取とでもやっ
お
華 奢 に 小 作 り に 出 来 て い る か ら、 ど う も 高 い 所 へ 上
きゃしゃ
は 前 よ り 大 き な 奴 ば か り で あ る。 お れ は 江 戸 っ 子 で
坊っちゃん
63
0
けむ
0
ま
0 0
0
0 0
わか
なまぬ
ば、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調
は江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分らなけれ
きみら
言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれ
な、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温るい
0
からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんか
や
たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分
強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来
めい調を用いてたら、一番前の列の真中に居た、一番
まんなか
いたから、それ見ろとますます得意になって、べらん
た。最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりして
64
坊っちゃん
子で二時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰り
き
か
がけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしてお
ひやあせ
くれんかな、もし、と出来そうもない幾何の問題を持っ
せま
あ
て逼ったには冷汗を流した。仕方がないから何だか分
べらぼう
舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだと
か。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田
出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもん
聞える。箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。
きこ
徒がわあと囃した。その中に出来ん出来んと云う声が
はや
らない、この次教えてやると急いで引き揚げたら、生
坊っちゃん
65
また山嵐が聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気
三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異
であった。最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失
と云ってやった。山嵐は妙な顔をしていた。
みょう
が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだな
66
しらせ
分をするんだそうだ。それから、出席簿を一応調べて
しゅっせきぼ
持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから検
そうじ
つ然として待ってなくてはならん。三時になると、受
ねん
授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽ
敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。
坊っちゃん
ひま
しば
にら
からだ
ようやくお暇が出る。いくら月給で買われた身体だっ
て、あいた時間まで学校へ縛りつけて机と睨めっくら
をさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中は
おとな
がまん
みんな大人しくご規則通りやってるから新参のおれば
こ
じ
め
だけに話せ、随分妙な人も居るからなと忠告がましい
ずいぶん
君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。云うなら僕
ぼく
うさアハハハと笑ったが、あとから真面目になって、
ま
校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそ
おろか
ていた。帰りがけに、君何でもかんでも三時過まで学
すぎ
かり、だだを捏ねるのもよろしくないと思って我慢し
坊っちゃん
67
りこう
くわ
ていしゅ
えんりょ
たもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるら
うこんな商買を内々で始めるようになりました。あな
い。亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、とうと
しょがこっとう
お茶を入れましょうを一人で履行しているかも知れな
ひとり
入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手に
るすちゅう
からご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく
ちそう
それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入
れましょうと云ってやって来る。お茶を入れると云う
がなかった。
事を云った。四つ角で分れたから詳しい事は聞くひま
68
坊っちゃん
つかい
ていこく
しい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛
かんゆう
じょうまえ
まちが
んでもない勧誘をやる。二年前ある人の使に帝国ホテ
かまくら
ル へ 行 っ た 時 は 錠 前 直 し と 間 違 え ら れ た 事 が あ る。
かぶ
みそくな
ずきん
かぶ
真面目に云うのはただの曲者じゃない。おれはそんな
くせもの
か短冊を持ってるものだ。このおれを風流人だなどと
たんざ く
る。風流人なんていうものは、画を見ても、頭巾を被る
え
しゃると云ったものはない。大抵はなりや様子でも分
たいてい
あ る が、 ま だ お れ を つ ら ま え て 大 分 ご 風 流 で い ら っ
親方と云われた。その外今日まで見損われた事は随分
こんにち
ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から
坊っちゃん
69
のんき
いんきょ
きら
したよみ
ぱい
奴だ。主人が引き下がってから、明日の下読をしてす
やつ
た一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗に飲む
むやみ
いのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとま
と胃に答えるような気がする。今度からもっと苦くな
おいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飲む
こ
して飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと頼んで
たの
なかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付を
てつき
どなたもございませんが、いったんこの道にはいると
はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、
呑気な隠居のやるような事は嫌いだと云ったら、亭主
70
坊っちゃん
ね
ぐ寝てしまった。
それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日
毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てく
たいがい
る。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み
な心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に消えてしま
きれい
じはなかった。教場で折々しくじるとその時だけはや
非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感
か
いの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか
わ
師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐら
込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。ほかの教
坊っちゃん
71
う。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心
あた
むとんじゃく
かくご
たぬき
こぞう
でいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。亭主が
は愛嬌もお世辞も使う気になれなかった。学校はそれ
あいき ょ う
とも恐しくはなかった。まして教場の小僧共なんかに
おそろ
どっかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっ
ゆ
こぶるいい人間である。この学校がいけなければすぐ
あまり度胸の据った男ではないのだが、思い切りはす
すわ
呈するかまるで無頓着であった。おれは前に云う通り
てい
影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を
えいきょう
配 が 出 来 な い 男 だ。 教 場 の し く じ り が 生 徒 に ど ん な
72
坊っちゃん
茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者
とお
なら
を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、
いなかまわ
十ばかり並べておいて、みんなで三円なら安い物だお
かざん
買いなさいと云う。田舎巡りのヘボ絵師じゃあるまい
あいさつ
ふたり
とこ
幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をした
ふく
一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この
そうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、
いいかげん
の間へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、
ま
か何とか云う男の花鳥の掛物をもって来た。自分で床
かけもの
し、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山と
坊っちゃん
73
あとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。
さいそく
へん
おおすずり
めず
こ の 眼 を ご 覧 な さ い。 眼 が 三 つ あ る の は 珍 ら し い。
がん
ものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、
始め出した。端渓には上層中層下層とあって、今時の
ら、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を
これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるか
たんけい
まった。その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。
おにがわら
金 が あ つ て も 買 わ な い ん だ と、 そ の 時 は 追 っ 払 っ ち
ぱら
なんか、いつでもようございますとなかなか頑固だ。
がんこ
お買いなさいと催促をする。金がないと断わると、金
74
坊っちゃん
はつぼく
つ
溌墨の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、お
な
持主が支那から持って帰って来て是非売りたいと云い
し
れの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞くと、
か
そうい
ますから、お安くして三十円にしておきましょうと云
ば
あ
おおまち
て、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦
る日の晩大町
そのうち学校もいやになった。 とあ
な
そ ば
と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかい
も長く続きそうにない。
か無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとて
こっとうぜめ
う。この男は馬鹿に相違ない。学校の方はどうかこう
坊っちゃん
75
くす
お
たたみ
すす
まっくろ
のれん
てんじょう
ンプの油烟で燻ぼってるのみか、低くって、思わず首
ゆえん
に砂でざらざらしている。壁は煤で真黒だ。天井はラ
かべ
金がないのか、滅法きたない。畳は色が変ってお負け
めっぽう
う少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、
だ。見ると看板ほどでもない。東京と断わる以上はも
こと
ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込ん
たが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
たくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れてい
通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐり
にお
が 大 好 き で あ る。 東 京 に 居 っ た 時 で も 蕎 麦 屋 の 前 を
76
坊っちゃん
を縮めるくらいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張
に さ ん ち
ちが
り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いう
ちを買って二三日前から開業したに違いなかろう。ね
て ん ぷ ら
ぶり
へ
や
うま
をした。その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かっ
ひさ
校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶
あいさつ
ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学
た連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、
れんじ ゅ う
三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食って
こいと大きな声を出した。するとこの時まで隅の方に
すみ
だん付の第一号に天麩羅とある。おい天麩羅を持って
坊っちゃん
77
たいら
か
四杯なり。但し笑うべからず。と黒板にかいてある。
ただ
帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅
文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ
四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに
一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
ひとり
天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の
お
見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、
翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらい
な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を
たから天麩羅を四杯平げた。
78
坊っちゃん
やきもち
しゃく
くろこげ
さわ
さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。
じょうだん
だれ
ほ
冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のような
りょうけん
もので誰も賞め手はない。田舎者はこの呼吸が分から
お
せま
ないからどこまで押して行っても構わないと云う了見
ふ
かえで
あわ
しょうじん
やつら
だ。無邪気ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃな
む じ ゃ き
ひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人が出来るん
うえきばち
だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやに
日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等
にちろ
都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を
だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭い
坊っちゃん
79
くせ
おつ
じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。わ
と 云 っ た ら、 自 分 が し た 事 を 笑 わ れ て 怒 る の が 卑 怯
おこ
卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、
ひきょう
て、 天 麩 羅 を 消 し て、 こ ん な い た ず ら が 面 白 い か、
んだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。おれはだまっ
80
のなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんま
場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるも
ろと云って、授業を始めてしまった。それから次の教
ら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強し
ざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思った
坊っちゃん
り 腹 が 立 っ た か ら、 そ ん な 生 意 気 な 奴 は 教 え な い と
云ってすたすた帰って来てやった。生徒は休みになっ
て喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだ
ましだ。
麩 羅 蕎 麦 も う ち へ 帰 っ て、 一 晩 寝 た ら そ ん な に
かん天
しゃく
肝癪に障らなくなった。学校へ出てみると、生徒も出
下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、
団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城
だんご
無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って
すみた
ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは
坊っちゃん
81
やっかい
ゆうかく
だと思ったら今度は赤手拭と云うのが評判になった。
あかてぬぐい
書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済ん
目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと
二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間
はら
場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは
さら
知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教
食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も
だれ
という評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと
のはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまい
料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれ
82
坊っちゃん
き
何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここ
およ
へ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉
でかけ
だ け は 立 派 な も の だ。 せ っ か く 来 た 者 だ か ら 毎 日 は
しま
常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭
この手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、
流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。おれは
べにいろ
ら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が
そま
る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶ
いってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛
坊っちゃん
83
赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでる
みかげいし
たた
の
つか
じょうじき
運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。お
ゆかい
も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、
仕切ってある。大抵は十三四人漬ってるがたまには誰
たいてい
湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに
ゆつぼ
は贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。
ぜいたく
はいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるの
に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ
てんもく
等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上
ゆかた
とうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上
84
坊っちゃん
みすま
いせい
れは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ
まわ
のぞ
巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく
大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼り
は
下 り て 今 日 も 泳 げ る か な と ざ く ろ 口 を 覗 い て み る と、
はりふだ
つけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいか
生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。
たんてい
中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか
おど
断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の
れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは
ら、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知
坊っちゃん
85
くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思っ
る。
なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責であ
しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情
た事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦
86
宿直があって、職員が代る代るこれをつと
学校にたは
だ
たぬき
める。但し狸と赤シャツは例外である。何でこの両人
四
坊っちゃん
まぬ
が 当 然 の 義 務 を 免 か れ る の か と 聞 い て み た ら、
そうにんた い ぐ う
んとる、時間は少ない、それで宿直を逃がれるなんて
の
奏任待遇だからと云う。面白くもない。月給はたくさ
あた
まえ
不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それ
ひとり
と い う 英 語 を 引 い て 説 諭 を 加 え た が、
might is right
せつゆ
二 人 だ っ て 正 し い 事 な ら 通 り そ う な も の だ。 山 嵐 は
ふたり
を 並 べ た っ て 通 る も の じ ゃ な い そ う だ。 一 人 だ っ て
なら
不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平
やまあらし
なにずうずうしく出来るものだ。これについては大分
が当り前だというような顔をしている。よくまああん
坊っちゃん
87
むかし
何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権
や ぐ ふ と ん
さえ厭なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、
いや
ちへ泊った事はほとんどないくらいだ。友達のうちで
とま
寝たような心持ちがしない。小供の時から、友達のう
疳性だから夜具蒲団などは自分のものへ楽に寝ないと
かんしょう
て こ の 宿 直 が い よ い よ お れ の 番 に 廻 っ て 来 た。 一 体
まわ
強者だなんて、誰が承知するものか。議論は議論とし
だれ
い。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤シャツが
知っている。今さら山嵐から講釈をきかなくってもい
利と云う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら昔から
88
坊っちゃん
がまん
こも
こ れ が 四 十 円 の う ち へ 籠 っ て い る な ら 仕 方 が な い。
我慢して勤めてやろう。
帰ってしまったあとで、一人ぽかんと
教師も生徒も
ずいぶん
ぬ
しているのは随分間が抜けたものだ。宿直部屋は教場
の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとは
い
れだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時
まずいには恐れ入った。よくあんなものを食って、あ
おそ
いもんだ。生徒の賄を取りよせて晩飯を済ましたが、
まかない
たたまれない。田舎だけあって秋がきても、気長に暑
いなか
いってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居
坊っちゃん
89
ごうけつ
うきめ
ね
あ
こづかい
ちが
みょう
云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、
方 が 正 し い の だ。 お れ は 小 使 に ち ょ っ と 出 て く る と
と思ったが、自分に番が廻ってみると思い当る。出る
まわ
いたら、ちょっと用達に出たと小使が答えたのを妙だ
ようたし
るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞
くねんとして重禁錮同様な憂目に逢うのは我慢の出来
じゅうきんこ
るのはいい事だか、悪るい事だかしらないが、こうつ
わ
ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出
食ったが、まだ日が暮れないから寝る訳に行かない。
く
半 に 片 付 け て し ま う ん だ か ら 豪 傑 に 違 い な い。 飯 は
90
坊っちゃん
あかてぬぐ い
で
か
温 泉 へ は い る ん だ と 答 え て、 さ っ さ と 出 掛 け た。
赤手拭は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借
りるとしよう。
ちが
れの顔を見たから、ちょっと挨拶をした。すると狸は
あいさつ
う。すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時お
す
れからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろ
訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこ
停車場まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。
ていしゃば
なりゆるりと、出たりはいったりして、
それからひか
ぐれがた
こまち
よ う や く 日 暮 方 に な っ た か ら、 汽 車 へ 乗 っ て 古 町 の
坊っちゃん
91
0
0
0
0 0 0 0 0 0
ま じ
め
るといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。おれは腹
苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なんかにな
二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。ご
くさって聞いた。なかったですかねえもないもんだ。
あなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目
92
く
せま
えすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」
山嵐に出っ喰わした。どうも狭い所だ。出てあるきさ
やまあらし
し て あ る き 出 し た。 竪 町 の 四 つ 角 ま で く る と 今 度 は
たてまち
ら帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ま
が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これか
坊っちゃん
むやみ
ふ つ ご う
と 聞 く か ら「 う ん、 宿 直 だ 」 と 答 え た ら、「 宿 直 が
無暗に出てあるくなんて、不都合じゃないか」と云っ
ば
た。
「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が
い
それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかり
学校へ帰って来た。
散歩をほめたよ」と云って、面倒臭いから、さっさと
くさ
散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの
事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には
校長か教頭に出逢うと面倒だぜ」と山嵐に似合わない
めんどう
不都合だ」と威張ってみせた。「君のずぼらにも困るな、
坊っちゃん
93
が
か
つ
や
ま
あおむ
けっと
は
あ
ん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の
愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんど
ぐ
の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、
た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律
こ
い癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居
おがわまち
きにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わる
くせ
とんと尻持を突いて、仰向けになった。おれが寝ると
しりもち
に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、
き
から、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻
とこ
は小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きた
94
坊っちゃん
そまつ
か
へこ
建築が粗末なんだ。掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹
たお
いきおい
ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、い
くら、どしんと倒れても構わない。なるべく勢よく倒
れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足
のみ
おど
をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざ
ふ
すね
つぶ
もも
臍の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろい
へそ
二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、
ふ
当 っ た も の が、 急 に 殖 え 出 し て 脛 が 五 六 カ 所、 股 が
ふ
を 二 三 度 毛 布 の 中 で 振 っ て み た。 す る と ざ ら ざ ら と
けっと
らして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、足
坊っちゃん
95
さっそく
あが
けっと
ききめ
すすはき
ござ
ほう
まくら
たたみ
き
たた
ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの
くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚
また布団の上へ坐って、煤掃の時に蓙を丸めて畳を叩
すわ
勢よく抛げつける割に利目がない。仕方がないから、
な
取って、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから
たた
かしやがって、どうするか見ろと、いきなり括り枕を
くく
まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろ
ない時は多少気味が悪るかったが、バッタと相場が極
わ
団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れ
た。早速起き上って、毛布をぱっと後ろへ抛ると、蒲
96
坊っちゃん
かた
やつ
肩だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかっ
つか
たりする。顔へ付いた奴は枕で叩く訳に行かないから、
いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわ
手で攫んで、一生懸命に擲きつける。忌々しい事に、
りと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけ
しがい
まぬけ
タを床の中に飼っとく奴がどこの国にある。間抜め。
か
て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッ
箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。小使が来
ほうき
い。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治た。
たいじ
られたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしな
坊っちゃん
97
しか
ほう
生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。やに落ち
まっさき
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
ものか。寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
うで
おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。
すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構う
る箒を担いで帰って行った。
んで済むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐
えんがわ
と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませ
98
坊っちゃん
あいにく
ぴき
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」
と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。
はきだめ
す
ま た 小 使 を 呼 ん で、「 さ っ き の バ ッ タ を 持 っ て こ い 」
と云ったら、
「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾っ
か
て参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」
おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、
たらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿だ。
ば か
憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりまし
へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生
の
と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上
坊っちゃん
99
大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」
0
0
0
0
0
なめし
でんがく
こ
んだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
たの
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れた
行ってもなもしを使う奴だ。
0
もしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで
もんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「な
捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食う
つら
「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を
べらぼう
イ ナ ゴ ぞ な、 も し 」 と 生 意 気 に お れ を 遣 り 込 め た。
や
と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、
100
坊っちゃん
「誰も入れやせんがな」
ぬく
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
りたのじゃあろ」
「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはい
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて
た事が云えないくら
けちな奴等だ。自分で自分のし
しょうこ
いなら、てんでしないがいい。証拠さえ挙がらなけれ
やつら
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――
坊っちゃん
101
ば、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれ
ばつ
に
げれつ
は や
罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると
めんこうむ
るからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで
んかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があ
を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めからいたずらな
つ
ぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘
したので、しないものはしないに極ってる。おれなん
きま
ような卑怯な事はただの一度もなかった。したものは
ひきょう
だ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをする
だって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもん
102
坊っちゃん
そうい
思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う
連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違
ご
ま
か
かげ
ない。全体中学校へ何しにはいってるんだ。学校へは
いって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気
かんちが
な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば
くさ
りょうけん
むなくそ
おわれはこんな腐った了見の奴等と談判するのは胸糞
が悪るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっ
い雑兵だ。
ぞうひ ょ う
教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。話せな
坊っちゃん
ていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来
103
うわべ
お
よこたて
ぱな
はずして、長く畳んでおいて部屋の中で横竪十文字に
たた
一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手を
つりて
れからまた床へはいって横になったら、さっきの
そそ
うどう
うな
てしょく
騒動で蚊帳の中はぶんぶん唸っている。手燭をつけて
おれには到底これほどの度胸はない。
とうてい
どえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。
悠々と引き揚げた。上部だけは教師のおれよりよっぽ
あ
心 は こ い つ ら よ り も 遥 か に 上 品 な つ も り だ。 六 人 は
はる
やった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、
ないのは気の毒なものだ」と云って六人を逐っ放して
104
坊っちゃん
ふる
かん
こう
ぶ
振ったら、環が飛んで手の甲をいやというほど撲った。
三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか
寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄
介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ
しんぼう
行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なもの
たっ
い。今まではあんなに世話になって別段難有いとも思
ありがた
い身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊と
ばあ
それを思うと清なんてのは見上げたものだ。教育もな
きよ
朴念仁がなるんだろう。おれには到底やり切れない。
ぼくねんじん
だ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防強い
坊っちゃん
105
えちご
ささあめ
わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、
とつぜん
階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って
ひょうし
清の事を考えながら、のつそつしていると、突然お
れの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二
か清に逢いたくなった。
るおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だ
くって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられ
まっすぐ
わせるだけの価値は充分ある。清はおれの事を欲がな
じゅうぶん
わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食
始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食いたければ、
106
坊っちゃん
おこ
床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大
とき
とたん
きな鬨の声が起った。おれは何事が持ち上がったのか
いしゅがえ
と驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、ははあさっ
きの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。
おぼえ
手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうち
ぶた
この騒ぎは。寄宿舎を建てて豚でも飼っておきあしま
さわ
でも恐れ入って、静粛に寝ているべきだ。それを何だ
せいしゅく
あやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないま
るだろう。本来なら寝てから後悔してあしたの朝でも
こうかい
は罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚があ
坊っちゃん
107
きちが
みまたはん
ま
ね
たいてい
おど
いたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もし
議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れて
楷子段を三股半に二階まで躍り上がった。すると不思
はしごだん
る か 見 ろ と、 寝 巻 の ま ま 宿 直 部 屋 を 飛 び 出 し て、
いし。気狂いじみた真似も大抵にするがいい。どうす
108
ろうか
ねずみ
ぴき
かく
れから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも
へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。廊下のはず
つらぬ
人気のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西
ひとけ
か ら、 暗 く て ど こ に 何 が 居 る か 判 然 と 分 ら な い が、
わか
なくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してある
坊っちゃん
むちゅう
ゆめ
変だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、
れた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った
夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑わ
いきおい
夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居
じゅう
下の真中で考え込んでいると、月のさしている向うの
まんなか
れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊
になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知
尋ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中の笑い草
たず
た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で
坊っちゃん
はずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって
109
ひび
むこうずね
ほう
0 0
気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったい
た。こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。
ちきしょう
いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛り出され
0
下の真中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛
かた
目標だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊
めじるし
おれの通る路は暗い、ただはずれに見える月あかりが
みち
けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳けだした。
か
ぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負
一同が床板を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっ
ゆかいた
響いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、
110
坊っちゃん
しん
から、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静ま
り返って、森としている。いくら人間が卑怯だって、
こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こ
き
しんしつ
うなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせ
お
おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろう
つ
北側の室を試みた。開かない事はやっぱり同然である。
へや
しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの
てあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押
か
開けて中を検査しようと思ったが開かない。錠をかけ
じょう
てやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを
坊っちゃん
111
いらっ
え
ど
い
く
じ
こぞう
つけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにし
残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手の
はなった
にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは
え
負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔
かさっぱりわからない。わからないけれども、決して
る割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていい
ち
分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のあ
馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか
始まった。この野郎申し合せて、東西相応じておれを
やろう
と、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が
112
坊っちゃん
せいわげんじ
た
だ
まんじゅう
こうえい
はたもと
たと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。
どびゃくし ょ う
旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな
ところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが
土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のない
困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、
さって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を
勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あ
いで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に
どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たな
坊っちゃん
取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をし
113
たから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを
つか
う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引っ攫んで、
ひ
れの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思
坐ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、お
すわ
が覚めた時はえっ糞しまったと飛び上がった。おれの
くそ
ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼
め
勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲れが出て、
つか
らぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ
た。さっき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬ
な
待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかっ
114
坊っちゃん
ろうばい
あおむけ
力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に
おさ
倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽したと
たら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあ
ころを、飛びかかって、肩を抑えて二三度こづき廻し
よ
おれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、
つ
どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。
宿直部屋へ連れてきた奴を詰問し始めると、
おれが
ぶ
豚は、打っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、
きつもん
一も二もなく尾いて来た。夜はとうにあけている。
坊っちゃん
そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直
115
ねむ
まぶた
と云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
の小使なんぞをしてるんだ。
を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校
ざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長
聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわ
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答
をしていると、ひょっくり狸がやって来た。あとから
おしもんどう
な面をして男と云われるか。面でも洗って議論に来い
している。けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そん
部屋へ集まってくる。見るとみんな眠そうに瞼をはら
116
坊っちゃん
いいぐさ
校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草も
ちょっと聞いた。追って処分するまでは、今まで通り
学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間
て
ぬ
そくせき
に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみん
ほうめ ん
授業に及ばんと云うから、おれはこう答えた。「いえ、
およ
て、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご
ら生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向っ
ことごとく退校してしまう。こんな悠長な事をするか
ゆうちょう
な放免した。手温るい事だ。おれなら即席に寄宿生を
坊っちゃん
ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あって
117
も、命のある間は心配にゃなりません。授業はやりま
わりもど
か
笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞
ほ
ますから、授業には差し支えませんと答えた。校長は
つか
きながら、顔はいくら膨れたって、口はたしかにきけ
は
がよっぽと刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻
さ
何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒い。蚊
かゆ
しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど
と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、
ら、頂戴した月給を学校の方へ割戻します」校長は何
ちょうだい
す、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいな
118
坊っちゃん
めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
五
つ
理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこ
い声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物
る。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らし
わか
り に 行 き ま せ ん か と 赤 シ ャ ツ が お れ に 聞 い た。
君釣
わ
赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男であ
坊っちゃん
れじゃ見っともない。
119
こうめ
つりぼり
ふな
びき
おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、
君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんま
びしゃもん
つ
えんにち
い
お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意であ
な 者 だ。「 そ れ じ ゃ、 ま だ 釣 り の 味 は 分 ら ん で す な。
笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそう
たら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと
あご
と落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云っ
お
の鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃり
こい
がある。それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかり
かぐらざか
りないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣った事
120
坊っちゃん
りょう
る。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟をする
せっしょう
連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくっ
き
て、殺生をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺
かっけい
されるより生きてる方が楽に極まってる。釣や猟をし
むこ
てた。
すると先生このおれを降参させたと疳違いして、
かんちが
口が達者だから、議論じゃ叶わないと思って、だまっ
かな
なんて贅沢な話だ。こう思ったが向うは文学士だけに
ぜいたく
暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られない
くら
なくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく
坊っちゃん
早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっ
121
ゆ
よしかわ
ふたり
どうはい
でいり
さむ
しゅうじゅう
か
をおれに見せびらかすつもりかなんかで誘ったに違い
さそ
だろう。大方高慢ちきな釣道楽で、自分の釣るところ
こうまん
ば済むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛けたん
ぶ あ い そ
いるんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行け
おど
だ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極って
きま
も随行して行く。まるで同輩じゃない。主従みたよう
ずいこ う
了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへで
りょうけん
教 師 で 例 の 野 だ い こ の 事 だ。 こ の 野 だ は、 ど う い う
来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の
しょに行っちゃ。吉川君と二人ぎりじゃ、淋しいから、
122
坊っちゃん
まぐろ
ない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪
へ
た
おろ
の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれ
だって人間だ、いくら下手だって糸さえ卸しゃ、何か
きら
かかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの
ふね
そうい
かっこう
一人で、船は細長い東京辺では見た事もない恰好であ
ひとり
で 赤 シ ャ ツ と 野 だ を 待 ち 合 せ て 浜 へ 行 っ た。 船 頭 は
はま
しまって、一応うちへ帰って、支度を整えて、停車場
したく
えたから、行きましょうと答えた。それから、学校を
ないんじゃないと邪推するに相違ない。おれはこう考
じゃすい
事だから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行か
坊っちゃん
123
くろうと
みわた
とう
むこうがわ
つりざお
ぬ
あおしま
や
おそろ
こ
これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ば
まつ
ように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。
とん
ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針の
こうはくじ
船頭はゆみっかくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しい
もので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出
こ
られるくらいならだまっていればよかった。
すと顋を撫でて黒人じみた事を云った。こう遣り込め
な
野だに聞くと、沖釣には竿は用いません、糸だけでげ
おきづり
釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、
る。さっきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。
124
坊っちゃん
ちょうぼう
かりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤
野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らな
シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。
いが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の
ふ
かさ
もあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっく
が野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どう
うに開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツ
減る。
「あの松を見たまえ、幹が 真直で、上が傘のよ
まっすぐ
上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が
坊っちゃん
りですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか
125
ゆかい
だま
上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟
お陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上へ
かげ
これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツの
たいら
た。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。
まわ
知らないが、聞かないでも困らない事だから黙ってい
126
ナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議を
ほつぎ
す る と 野 だ が ど う で す 教 頭、 こ れ か ら あ の 島 を タ ー
ですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。
もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけない
はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事
坊っちゃん
した。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそ
めいわく
う云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいっ
てるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩
の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。
いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話は
ンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事で
こ だ ん な
にやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マド
ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにや
笑 い 方 を し た。 な に 誰 も 居 な い か ら 大 丈 夫 で す と、
だいじょうぶ
よそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい
坊っちゃん
127
ないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らな
ど
あだな
いかり
がいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸
ここいいら
くひろ
むひろ
した。幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらい
もかいて展覧会へ出したらよかろう。
して眺めていれば世話はない。それを野だが油絵にで
なが
と思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立た
何でも赤シャツの馴染の芸者の渾名か何かに違いない
なじみ
江戸っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは
え
えような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私も
わたし
い事を言って分らないから聞いたって構やしませんて
128
坊っちゃん
たい
だと云う。六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャ
ごうたん
ツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、
豪胆なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかり
おもり
ますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、
く
うき
りたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどある
だ。おれには到底出来ないと見ていると、さあ君もや
とうてい
て釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなもの
うな鉛がぶら下がってるだけだ。浮がない。浮がなくっ
なまり
これも糸を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘のよ
坊っちゃん
が、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が
129
び
しろうと
みずそこ
る 連 中 よ り は ま し で す ね。 ち ょ う ど 歯 ど め が な く っ
しかし逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしてい
にら
際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。
に
に大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手
気味だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしか
き
何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。いい
え
急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら
です、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生
いた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるん
ふなべり
出来ないのは素人ですよ。こうしてね、糸が水底へつ
130
坊っちゃん
みよう
しゃべ
なぐ
ちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは
妙な事ばかり喋舌る。よっぽど撲りつけてやろうかと
かつお
思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った
海じゃあるまいし。広い所だ。鰹の一匹ぐらい義理に
ほう
だって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を
ぐ
た、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。おや釣れました
た
てるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめ
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるもの
がある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生き
抛り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
坊っちゃん
131
おそ
どう
ま
たた
しま
けたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろ
気味がわるい。面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつ
ふ
かなか取れない。捕まえた手はぬるぬるする。大いに
つら
なった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがな
き、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけに
は
応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げると
のある魚が糸にくっついて、右左へ漾いながら、手に
ただよ
いておらん。船縁から覗いてみたら、金魚のような縞
のぞ
う大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸
つ
かね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はも
132
坊っちゃん
なまぐさ
こ
ご
いて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、
にぎ
鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭い。もう懲り懲り
だ。何が釣れたって魚は握りたくない。魚も握られた
いちば ん や り
てがら
くなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
る木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖だ。
くせ
キが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のな
しば
西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴル
な名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、まるで露
しゃれ
一番槍はお手柄だがゴルキじロゃシ、アと野だがまた生意
気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みたよう
坊っちゃん
133
だれ
つら
い
とうじん
プッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知っ
遠慮するがいい。云うならフランクリンの自伝だとか
えんりょ
教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは
しゃりき
はそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の
誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人に
134
ありがた
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていた
いっしょうけんめい
あの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
る。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんな
やまあらし
う真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでい
まっか
てる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかい
坊っちゃん
お
か
ふたり
が、 約 一 時 間 ば か り の う ち に 二 人 で 十 五 六 上 げ た。
ばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。
可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキ
しゅわん
わたし
今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話し
だ肥料には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命
こやし
くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。た
野 だ が 答 え て い る。 船 頭 に 聞 く と こ の 小 魚 は 骨 が 多
ぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと
ている。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なん
坊っちゃん
に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一
135
ぴき
こ
あおむ
たって恥ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、
は
清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出
しわくちゃ
色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。
な奇麗な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景
きれい
清の事を考えている。金があって、清をつれて、こん
きよ
ると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく
きす
こ
聞えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら
洒落ている。
しゃれ
ら大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど
匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになって、さっきか
136
坊っちゃん
りょううんかく
馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へのろうが、
到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャ
けいはく
ツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を
ひや
いなかまわ
わたし
使って赤シャツを冷かすに違いない。江戸っ子は軽薄
す笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切れ途切れ
と ぎ
てる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすく
子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まっ
は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ
だと云うがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私
坊っちゃん
でとんと要領を得ない。
137
「 ま た 例 の 堀 田 が ……」「 そ う か も 知 れ な い ……」
ほ っ た
聞いていた。
をわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり
れて、明瞭におれの耳にはいるようにして、そのあと
めいりょう
だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入
言葉には耳を傾けなかったが、バッタと
おれは外の
ことば
き
云う野だの語を聴いた時は、思わずきっとなった。野
かたむ
「え? どうだか……」「……全くです……知らないん
ですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……
本当ですよ」
138
坊っちゃん
て ん ぷ ら
せんどう
だんご
「天麩羅……ハハハハハ」「……煽動して……」「団子
も?」
ないしょばな
言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッ
タだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推
がひとまずあずけろと云ったから、狸の顔にめんじて
たぬき
うが雪踏だろうが、非はおれにある事じゃない。校長
せった
誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろ
すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか
をしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話
し測ってみると、何でもおれのことについて内所話し
坊っちゃん
139
0
0
0
けむり
ひか
す
とお
0 0 0 0 0 0 0
の
線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸し
せんこう
弱 っ て 来 て、 少 し は ひ や り と す る 風 が 吹 き 出 し た。
がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん
堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角
動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは
そうどう
煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽
0
てみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか
さしつか
いい。おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付け
おそ
批評をしやがる。毛筆でもしゃぶって引っ込んでるが
けふで
ただ今のところは控えているんだ。野だの癖に入らぬ
140
坊っちゃん
か
おく
て行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、
うすくもやを掛けたようになった。
ば
か
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云う
と、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君に
あ
眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野
め
たって……と野だが振り返った時、おれは皿のような
さら
奴を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞い
やつ
ちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚たした
も
お 逢 い で す か と 野 だ が 云 う。 赤 シ ャ ツ は 馬 鹿 あ 云 っ
坊っちゃん
だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参
141
か
もど
ゆ
つり
ちょこざい
ただよ
「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、
事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」
やってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故もない
えんこ
「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発して
ふんぱつ
掻 き 分 け ら れ た 浪 の 上 を 揺 ら れ な が ら 漾 っ て い っ た。
なみ
を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で
ろ
て空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草
まきたばこ
船は静かな海を岸へ漕ぎ戻る。君釣はあまり好ねきで
ないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝てい
こ
だと首を縮めて、頭を掻いた。何という猪口才だろう。
142
坊っちゃん
おおさわ
しゃく
吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」と
けんのん
障るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑ですよ」
さわ
野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々癪に
かくご
めんしょく
と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ
く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、
およ
うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全
どころもないが――実は僕も教頭として君のためを思
か一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつき
なるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっち
険呑は覚悟です」と云ってやった。実際おれは免職に
坊っちゃん
143
じんりょく
同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、
たがい
「いろいろの事情た、どんな事情です」
はしないから」
しんぼう
してくれたまえ。決して君のためにならないような事
立つ事もあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛防
がまん
だが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているん
かんげい
のお世話になるくらいなら首を縊って死んじまわあ。
くく
ているんですよ」と野だが人間並の事を云った。野だ
なみ
お互に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力し
144
坊っちゃん
ぼく
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分り
ますよ。僕が話さないでも自然と分って来るです、ね
吉川君」
到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さ
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ
あなたの方から話し出したから伺うんです」
うかが
「 そ ん な 面 倒 な 事 情 な ら 聞 か な く て も い い ん で す が、
めんどう
同じような事を云う。
ないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと
坊っちゃん
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとを
145
つけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を
ゆ
りれきしょ
きましたが二十三年四ヶ月ですから」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいと
んですがね……」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云う
とぼ
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
う書生流に淡泊には行かないですからね」
たんぱく
ろが学校というものはなかなか情実のあるもので、そ
を卒業したてで、教師は始めての、経験である。とこ
云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校
146
坊っちゃん
だれ
こわ
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけ
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に
おとな
ないと云うんです」
「僕の前任者が、誰れに乗ぜられたんです」
だ
野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
たなと気が付いて、ふり向いて
野だが大人しくなとっ
も
見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしている。
坊っちゃん
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えな
147
しょうこ
か い
部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。
しょうれい
これでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大
かた
段おれは笑われる
赤シャツはホホホホと笑った。こ別
んにち
ような事を云った覚えはない。今日ただ今に至るまで
ません。わるい事をしなけりゃ好いんでしょう」
い
「気を付けろったって、これより気の付けようはあり
か気を付けてくれたまえ」
ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どう
ぼくら
度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、
い。また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落
148
坊っちゃん
じゅんすい
ぼ
わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて
こぞう
なんくせ
けいべつ
いるらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃ
りんり
学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生
うそ
んだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小
が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつ
笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様が
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを
する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
く法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授
坊っちゃん
ない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに
149
感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽ
だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と
秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色
もや
来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう
に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出
磊落なように見えても、淡泊なように見えても、親切
らいらく
ちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には
悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっ
「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ
わ
ど上等だ。
150
坊っちゃん
きぜつ
お
大 き な 声 を 出 し て 野 だ を 呼 ん だ。 な あ る ほ ど こ り ゃ
奇絶ですね。時間があると写生するんだが、惜しいで
ふえ
すね、
このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
かけごえ
船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。
ふなばた
み さ ん が、 浜 に 立 っ て 赤 シ ャ ツ に 挨 拶 す る。 お れ は
あいさつ
舳をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、か
へさき
の笛がヒューと
港屋の二階に灯が一つついて、汽い車
そ
鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、
坊っちゃん
151
め
ほ
やつ
たくあんいし
い事を云う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えて
い
ぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかし
あの面じゃ駄目だ。惚れるものがあったってマドンナ
だ
しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、
食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優
は大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底
野しだ
ず
へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に
だいきら
六
152
坊っちゃん
やまあらし
みると一応もっとものようでもある。はっきりとした
事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐
がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それな
めんしょく
らそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。
わ
い く
じ
だから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろ
いな男だから、弱虫に極まってる。弱虫は親切なもの
き
だ。蔭口をきくのでさえ、公然と名前が云えないくら
かげぐち
よかろう。教頭なんて文学士の癖に意気地のないもん
くせ
そうして、そんな悪るい教師なら、早く免職さしたら
坊っちゃん
う。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないっ
153
けんか
ちが
か
ば
か
ぶっそう
におれを捕まえて喧嘩を吹き懸けりゃ手数が省ける訳
つら
が、――第一そんな廻りくどい事をしないでも、じか
まわ
ら、やろうと思ったら大抵の事は出来るかも知れない
たいてい
をしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うか
しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずら
だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。
とうふ
田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒な所
いなか
た 友 達 が 悪 漢 だ な ん て、 人 を 馬 鹿 に し て い る。 大 方
わるもの
は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあっ
て、親切を無にしちゃ筋が違う。それにしても世の中
154
坊っちゃん
じゃま
だ。おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だ
むこ
から辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相
談ずくでどうでもなる。向うの云い条がもっともなら、
はて
じに
明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳で
はら
たから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろ
りん
おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかっ
ぱい
ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そ
んな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、
おご
いつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
もあるまい。どこの果へ行ったって、のたれ死はしな
坊っちゃん
155
さ
ぎ
し
と同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃ
ふ
を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付ける
もりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心
も今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつ
かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれ
かいちゅう
じゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、
円 は 五 年 経 っ た 今 日 ま で ま だ 返 さ な い。 返 せ な い ん
た
返しておこう。おれは清から三円借りている。その三
きよ
心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘
うが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで
156
坊っちゃん
かたわ
ない、清をおれの片破れと思うからだ。清と山嵐とは
あまちゃ
めぐみ
もとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、
甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているの
は向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対す
ありがた
る厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むと
お礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両
ふんぱつ
だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊とい
たっ
る返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間
ころを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買え
坊っちゃん
157
てやろう。
やろう
ありがた
ふるまい
が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツま
かなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生
より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがな
ったからぐうぐう
ねおれはここまで考えたら、眠くしな
さい
寝てしまった。あくる日は思う仔細があるから、例刻
ねむ
しまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をし
とは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返して
け
てしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞をする
ひれつ
より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思っ
158
坊っちゃん
かんせい
はくぼく
ひかえじょ
たて
で出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に寝ている
にぎ
そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の
だけで閑静なものだ。おれは、控所へはいるや否や返
あぶら
あせ
平 へ 入 れ て 一 銭 五 厘、 学 校 ま で 握 っ て 来 た。 お れ は
迷惑でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、
めいわく
ま た 握 っ た。 と こ ろ へ 赤 シ ャ ツ が 来 て 昨 日 は 失 敬、
だろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いて
いる。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云う
膏 っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいて
坊っちゃん
お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山
159
ひじ
つ
ばんだいづら
うな声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事
え。まだ誰にも話しやしますまいねと云った。女のよ
だれ
返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたま
面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日
嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側
160
あれほど推察の出来る謎をかけておきながら、今さら
なぞ
赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、
ら、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
で、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだか
はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ち
坊っちゃん
しのぎ
けず
その謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任
まんな か
かた
だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬を削って
むか
そ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つとい
る真中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。それでこ
うもんだ。
ぼく
は堀田君の事について、別段君に何も明言した覚えは
ほった
大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕
ろうばい
おれは教頭に向って、まだ誰にも話さないが、これ
から山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは
坊っちゃん
ないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれる
161
まえ
そうどう
およ
おくゆき
わからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつ
シャツは念を押した。どこまで女らしいんだか奥行が
お
惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫かいと赤
だいじょうぶ
ら、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷
とめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶか
いらい
すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけに
したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。
するから、当り前です、月給をもらったり、騒動を起
あた
りで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問を
みょう
と、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動を起すつも
162
坊っちゃん
てんぜん
つじつま
まらんものだ。辻褄の合わない、論理に欠けた注文を
はばか
ほ ご
して恬然としている。しかもこのおれを疑ぐってる。
りょうけん
憚りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古にす
りょうどな
るようなさもしい了見はもってるもんか。
けいこ
おと
めて知った。泥棒の稽古じゃあるまいし、当り前にす
どろぼう
いであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始
じまん
音を立てないように靴の底をそっと落す。音を立てな
くつ
るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、
と こ ろ へ 両 隣 り の 机 の 所 有 主 も 出 校 し た ん で、 赤あ
シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩
坊っちゃん
163
つごう
で
か
置いて教場へ出掛けた。
とおりちょう
らっぱ
け。先達て通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置く
せんだっ
にあった一銭五厘を出して、これをやるから取ってお
したんだ。罰金を出したまえと云った。おれは机の上
ばっきん
たんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻
嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻し
ちこく
授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ帰った
ら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山
おく
う出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ
るがいい。やがて始業の喇叭がなった。山嵐はとうと
164
坊っちゃん
じ
め
じょうだん
と、 何 を 云 っ て る ん だ と 笑 い か け た が、 お れ が 存 外
ま
は
くせ
真面目でいるので、つまらない冗談をするなと銭をお
れの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこまでも
奢る気だな。
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、
なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「 そ ん な に 一 銭 五 厘 が 気 に な る な ら 取 っ て も い い が、
因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
いんえん
「 冗 談 じ ゃ な い 本 当 だ。 お れ は 君 に 氷 水 を 奢 ら れ る
坊っちゃん
いやだから返すんだ」
165
った。赤シャ
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんとひ云
れつ
ツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大
ていしゅ
に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君
まいがおれの勝手だ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
にふんという理窟があるものか。
りくつ
から動きがとれない。人がこんなに真赤になってるの
まっか
喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだ
166
坊っちゃん
け
さ
くわ
の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめる
つもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたん
だ」
おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもん
で持て余まされているんだ。いくら下宿の女房だって、
あ
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿
ともだなんて失敬千万な事を云うな」
るなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっ
か。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があ
坊っちゃん
167
う
やれ」
ふ
い ば
いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出て
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、
「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
やろう
幅売りゃ、すぐ浮いてくるって云ってたぜ」
ぷく
君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物を一
かけもの
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
過ぎるさ」
下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り
168
坊っちゃん
がか
しゅうせん
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。
ふらち
おとな
一体そんな云い懸りを云うような所へ周旋する君から
してが不埒だ」
おと
かんしゃくも
ぎら
「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どっちか
だろう」
てぼんやりしている。おれは、別に恥ずかしい事をし
は
思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くし
あご
山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌いな大
きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと
坊っちゃん
た覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一
169
み
ま
おど
ぬ
とつぜん
午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処
分法についての会議だ。会議というものは生れて始め
た。
ち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出
大いにつつしんだ。少し怖わかったと見える。そのう
こ
づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、
い
貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢
かんぴょう
だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼が、
め
通り見巡わしてやった。みんなが驚ろいてるなかに野
170
坊っちゃん
ようす
てだからとんと容子が分らないが、職員が寄って、た
まと
こくびゃく
かって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減
ことがら
に纏めるのだろう。纏めるというのは黒白の決しかね
誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議を
る事柄について云うべき言葉だ。この場合のような、
ひまつぶ
き
ぐ ず
のが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図
に
てしまえばいいに。随分決断のない事だ。校長っても
ずいぶん
うはずがない。こんな明白なのは即座に校長が処分し
そくざ
するのは暇潰しだ。誰が何と解釈したって異説の出よ
坊っちゃん
の異名だ。
171
とな
おもむき
考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥かに趣が
はる
向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう
から、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込んだ。
こ
も席末に謙遜するという話だ。おれは様子が分らない
けんそん
次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつ
たいそう
坐って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手
すわ
洋 料 理 屋 ぐ ら い な 格 だ。 そ の テ ー ブ ル の 端 に 校 長 が
はじ
かり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西
なら
は
会議室は校長室の隣りにある細長い部い屋すで、平常
きゃく
食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子が二十脚ば
172
坊っちゃん
そうしき
こ び な た
ようげんじ
ざしき
ある。おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にか
ぼうず
おこ
みたら韋駄天と云う怪物だそうだ。今日は怒ってるか
い だ て ん
かってた懸物はこの顔によく似ている。坊主に聞いて
お
ど
ら、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そ
ら役者になるときっと似合いますと清がよく云ったく
いては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいか
やった。おれの眼は恰好はよくないが、大きい事にお
かっこう
い気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめて
んな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けな
坊っちゃん
らいだ。
173
そろ
あいさつ
きょうしゅく
ゆつぼ
かに膨れている。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下
ふく
泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のな
あお
あるいていても、うらなり先生の様子が心に浮ぶ。温
うか
控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中を
とちゅう
が、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。
れとうらなり君とはどう云う宿世の因縁かしらない
すくせ
りないはずだ。唐茄子のうらなり君が来ていない。お
と う な す
足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足
が云うと、書記の
もう大抵お揃いでしょうかと校長
かんじょう
川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定してみる。一人
174
坊っちゃん
げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大
人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計
な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物
あ
の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生き
実を云うと、この男の次へでも坐わろうかと、ひそか
す
このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはい
るや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。
らいだ。
から始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したく
てるものではないと思ってたが、うらなり君に逢って
坊っちゃん
175
めじる し
しり
ゴ
ム
ふくさづつみ
こはく
て も ち ぶ さ た
0 0
ばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。おれ
こわ
るが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああと云う
0 0
しきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけ
は鉛筆の尻に着いている、護謨の頭でテーブルの上へ
えんぴ つ
隣り同志で何だか私語き合っている。手持無沙汰なの
ささや
である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は
イプを絹ハンケチで磨き始めた。この男はこれが道楽
みが
蒟蒻版のような者を読んでいる。赤シャツは琥珀のパ
こんにゃく ば ん
でしょうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、
むらさき
に目標にして来たくらいだ。校長はもうやがて見える
176
坊っちゃん
にら
も負けずに睨め返す。
いんぎん
たぬき
あいさつ
毒そうには
ところへ待ちかねた、うらなり君が気の
いた
いって来て少々用事がありまして、遅刻致しましたと
ず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が
慇懃に狸に挨拶をした。では会議を開きますと狸はま
とりしまり
失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何
かとく
でこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過
狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊という見え
いきりょう
処分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ条である。
坊っちゃん
か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まると
177
ざんき
た
でに諸君のご承知の通りであるからして、善後策につ
がない、どうにか処分をせんければならん、事実はす
しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方
かかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪
ひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまた
178
不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、や
こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、
とが
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だ
のと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。
いて腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
坊っちゃん
めんしょく
めにして、自分から先へ免職になったら、よさそうな
めんどう
い
もんだ。そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必
おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わる
要もなくなる訳だ。第一常識から云っても分ってる。
せんどう
いのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに
きま
じょうり
かな
しり
は
し ょ
じゃない。彼はこんな条理に適わない議論を吐いて、
かれ
ど こ の 国 に あ る も ん か、 狸 で な く っ ち ゃ 出 来 る 芸 当
込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、
こ
を退治ればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負い
たいじ
極ってる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐
坊っちゃん
179
得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くもの
からす
こんにゃくばん
たた
まって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か
しま
何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをし
おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じて
やろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが
席して昼寝でもしている方がましだ。
る。会議と云うものが、こんな馬鹿気たものなら、欠
ば か げ
延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめてい
るのを眺めている。漢学の先生は蒟蒻版を畳んだり、
なが
がない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまって
180
坊っちゃん
はんけち
あさ
云っている。あの手巾はきっとマドンナから巻き上げ
そうい
ふゆきとどき
たに相違ない。男は白い麻を使うもんだ。「私も寄宿
は
生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届であり、
かんけつ
かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚ずる
ところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来
学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれた
いようであるが、その真相を極めると責任はかえって
るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわる
のであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起
坊っちゃん
のためによくないかとも思われます。かつ少年血気の
181
いたずら
ものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、
なぐ
しんしゃく
うだ。難有い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場
ありがた
は、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそ
いんだと公言している。気狂が人の頭を撲り付けるの
きちがい
なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒
があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪る
なって、なるべく寛大なお取計を願いたいと思います」
とりはからい
の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌に
ようか い
でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私
半 ば 無 意 識 に こ ん な 悪 戯 を や る 事 は な い と も 限 ら ん。
182
坊っちゃん
すもう
ねくび
へ 出 て 相 撲 で も 取 る が い い、 半 ば 無 意 識 に 床 の 中 へ
バッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸
をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろ
う。
お れ は こ う 考 え て 何 か 云 お う か な と 考 え て み た が、
云うなら人を驚ろすかように滔々と述べたてなくっ
が、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌って
しゃべ
でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だ
口をきくと、二言か三言で必ず行き塞ってしまう。狸
つま
ちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに
坊っちゃん
183
あげあし
ぜんと
あた
き ぐ
しんしゅく
がいせつ
いだ
なったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は
こうけい
な り ま せ ん。 そ れ で た だ 今 校 長 及 び 教 頭 の お 述 べ に
際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければ
ふる
るに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの
ちんじ
して、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむ
わが
に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員を
とっかん
を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実
た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見
みようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居
揚足を取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作って
184
坊っちゃん
てっとうてつび
かんだい
徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分
あお
語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎり
ちんれつ
を仰ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言
で訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと
云う言葉だけだ。
処分は大嫌いです」とつけたら、職員が一同笑い出し
だいきら
た が あ と が 急 に 出 て 来 な い。「 …… そ ん な 頓 珍 漢 な、
とんちんかん
がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云っ
おれは野だの云う意味は分らないけれども、何ただか
非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上
坊っちゃん
185
わ
あや
「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰など
……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が
ん。 …… 何 だ 失 敬 な、 新 し く 来 た 教 師 だ と 思 っ て
せなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いませ
た。
「一体生徒が全然悪るいです。どうしても詫まら
186
ものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を
た。歴史も教頭と同説だと云った。忌々しい、大抵の
と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説に賛成と云っ
おんびんせつ
やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」
を す る と か え っ て 反 動 を 起 し て い け な い で し ょ う。
坊っちゃん
立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせる
か、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、
かくご
てあい
べんこう
もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷
くっぷく
作りをする覚悟でいた。どうせ、こんな手合を弁口で
すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然とし
て、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表す
違いない。だれが云うもんかと澄していた。
すま
ばどうなったって構うもんか。また何か云うと笑うに
際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすれ
屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでご交
坊っちゃん
187
ガラス
ふる
わたくし
るな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見てい
ほか
けいぶ
ほんろう
せられてから二十日に満たぬ頃であります。この短か
ころ
宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接
りますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が
その源因を教師の人物いかんにお求めになるようであ
た所為とより外には認められんのであります。教頭は
しょい
生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとし
ぼうし
うものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿
びその他諸君のお説には全然不同意であります。とい
ると山嵐は硝子窓を振わせるような声で「私は教頭及
188
坊っちゃん
い二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る
しんしゃく
余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由が
あって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加え
ぐろう
かんか
る理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来
や
ひ
けいそう
ぼうまん
おそろ
騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの
こそく
を掃蕩するにあると思います。もし反動が恐しいの、
そうとう
元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風
こすい
を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な
こうしょう
の威信に関わる事と思います。教育の精神は単に学問
いしん
の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛仮しては学校
坊っちゃん
189
へいふう
きょうせい
の
とうがい
おろ
ころをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたよう
れは何だか非常に嬉しかった。おれの云おうと思うと
うれ
も言わない。赤シャツはまたパイプを拭き始めた。お
ふ
云いながら、どんと腰を卸した。一同はだまって何に
こし
謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と
を厳罰に処する上に、当該教師の面前において公けに
げんば つ
ん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同
ので、これを見逃がすくらいなら始めから教師になら
み
杜絶するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じている
とぜつ
弊 風 は い つ 矯 正 出 来 る か 知 れ ま せ ん。 か か る 弊 風 を
190
坊っちゃん
ありがた
なものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今まで
の喧嘩はまるで忘れて、大いに難有いと云う顔をもっ
かお
て、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん
面をしている。
嵐はまた起立した。「ただ今ちょっ
しばらくして山
おと
と失念して言い落しましたから、申します。当夜の宿
幸 に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと
さいわい
一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを
とが
あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が
直 員 は 宿 直 中 外 出 し て 温 泉 に 行 か れ た よ う で あ る が、
坊っちゃん
191
云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この
妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失
策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が
を希望します」
点については校長からとくに責任者にご注意あらん事
192
に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまりま
方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中
てみると、これはおれが悪るかった。攻撃されても仕
こうげき
温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われ
出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい
坊っちゃん
やつら
す」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。お
れが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等だ。貴様
等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言
出来るか、出来ないから笑うんだろう。
それから校長は、もう大抵ご意見もないようであり
ますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。
しなければその時辞職して帰るところだったがなまじ
足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪を
ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁
坊っちゃん
い、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事に
193
なってしまった。それはあとから話すが、校長はこの
び
かった。いい気味だ。
き
ば
や
だ ん ご や
天麩羅と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わな
て ん ぷ ら
と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て
はよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――
そ
特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くの
出 入 しない事にしたい。もっとも送別会などの節は
しゅつにゅ う
そ の 一 着 手 と し て、 教 師 は な る べ く 飲 食 店 な ど に
の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、
ふうぎ
時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒
194
坊っちゃん
しんぼう
とうてい
おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく
分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が
勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ到底
やと
出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、
れ
赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは
外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると
団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような
ふ
い。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、
初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがい
坊っちゃん
社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的
195
まつ
いなか
つり
せま
おき
ふけ
かわず
馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び
なじみ
ま っ て 聞 い て る と 勝 手 な 熱 を 吹 く。 沖 へ 行 っ て
こだ
やし
ロ シ ア
肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、
……」
でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない
こうしょう
学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何
は到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文
くら
間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地で
ごらく
つい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人
えいきょう
の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽ると
196
坊っちゃん
込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団
の
せんたく
子を呑み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯
あ
楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。あん
まり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽
たがい
ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。
たら蒼い顔をますます蒼くした。
ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云っ
身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。
妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。赤シャツ自
坊っちゃん
197