記念式典盛大に挙行 3

(1) 昭和 3
3
年 8月2
5日
東京歯科大学同窓会会報
同れ院ホ前
窓?と開 l十
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たがの お
因。、下迎
村厳にえ
理 摘 、し
事盛母て
司大校 、
行!会にが 成式辞大表大病本状に学事会
裡躍教
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霊会贈引長長の
に進職
れ lに け り た を あ 学 桧 、 、 西 呈 き の の 下
繰の員
た が て ら 、学 終 り 部 垣 歯 次 村 が 続 経 挨 に
り輝、
。、ビれ囲内了、長東科い会行き過拶、
拡し学
盛 l た 階 の 、十 ) 京 大 で 頭 わ 、報 、石
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大ノレ大に参新ーの医学文以れ感告福 川
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上段右
下段右
学長挨拶
参列者の学内参観
母校新館落成大学院開設
友さ学館午
記念式典盛大に挙行 3 る
記によ
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校行大本土
第6
1号
上段左 理事長 よリ感謝 伏を贈 られる西村会頭
下段左 ビールパーテイ風景
式典終了後
椿 山荘にて慶一脱会開催さる
慶祝会場の乾盃
井上副会頭の開会の辞に始まり西
村会頭の挨拶 、 佐藤臼歯会長の祝辞
等に 、学生諸君のかなでる玄人裸足
の軽音楽 、同 窓 有 志の特 別出演の余
興に 、会場のそ ここ 与にクラス会が
、 初夏の半日を心ゆくまで祝
出現 し
い合った。
同窓校友 六百 余 名の集 い
六月十四日 、午前の式典後 、 午 後
二時より文京区椿 山廷で 、こ れ又盛
大な慶祝会が開催され た。
全国より参集の同窓校友のみの極
めてなごやかな会合とて 、来 会 者 六
五O名、心から母校の躍進を寿ぎ 合
った。
情拶 を述ベる西 村 会頭
山
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西村会頭 負 傷 入 院 さ ゐ
目下 綴原で 療養 中
今般の式典ならびに慶祝会の舞
台裏で主任として活躍したのは渡
辺富士夫助教授(保存学教室)で
ある。学内のもろ/¥の行 事 にも
常に助教媛 、講師 、助手群のリー
ダー格で 、渡辺興行の社長と自他
並びに全身打撲傷を受けられた。
翌日 、国立東京第二病院に入院さ
れ、骨折部の整復固,
定。
の上加療を受
けられ 、経過極めて良好 、去る八 月
二日退院され 、御自宅で静養引き続
き通院加療中であられたが 、八月二
十三日より塩原国立温泉療養所にて
約二ヶ月間後遺症の加療を続けられ
ることになった。
塩原に御出発の前日 、御自宅で至
極御元気に次の如く語られた。
今回不慮の災離で長らく病臥した
ため 、親しく会務を 見る 事が 出来ず
Iloilo-ー
共に許している。準備委員会の席
上 、 キピ/¥した報告振りに同じ
く準備委員の父君渡辺昌夫氏(世
回ヶ谷区開業)が目を細めていた
司令。
一
一
一
一
一
山
立派になった母校 、盛大だった 一
式典慶祝会。
“
当初の予定より早く母校に大学
院が開設され 、力強く発足してい
深く恐縮に思っている。
幸 い井上副会頭以下役員各位 の格
段の御尽力により会務が滞りなく、運
営せられているのでこの点は意を安
んじて静養出来る ことは感謝の至り
である。
この長い 約 五十日に亘る病以中同
窓諸彦から御丁重な御見舞を賜わり
再 三御慰問にあづかり或いは叉全国
各地の同 窓諸彦 よりも御懇篤な御見
舞を戴き真に感謝感激に叫えない。
こ与に満肢の謝意を表する次第であ
る
。
(四頁五段へ続く)
さて 、 こ与に大切な問題が一つ ⋮
一ある。大 井教授の言葉を拝借すれ
一ば ﹁ゼ 乙である。
一 成る程大学院建設資金は予定の
数字をや L上問る申し込みを同窓
の古い同窓の一人であると云う挨
各位から頂いてはいるが 、現金の
言
拶に始まり 、﹁西村会玖の今の一一
払い込み状況は残念乍ら予定を下
安心と云うもの
w
葉はあれは全く老 廻っている。金を母校に送る事は
である﹂に満場大笑い
多忙な臨床家には面倒至悔の事と
11011011
i
重々・お 察 しはするが 、膨大な借入 ⋮
金によって新館を建設し 、大学院
を開設した大学当局では銀行利子
だけでも莫大な額に上っている。
御払い込の芳、
も、大学 除開設 に
歩調を合わせて頂いて 是非共 予定
より早めて頂くことを 切望する。
3
ミ
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経渦良好八月二日 退院
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こす共絞
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本会会頭
母校名誉教
授 ・西村豊
治先生は 、
去る七月三
日午後八時
三十分頃母
校よりの帰途 、御自宅附近道路上に
て、後方より疾走して来たオ ート バ
イに 追突さ れ、右前開挽骨尺 骨 身折
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i諒 れ 先 て 式 が 能 し 与 、長 て こ 典 た 報 日 祝
(2)
第6
1号
東 京 飽 科大 学 問窓 会 会 報
昭和 33
年 8月2
5日
三三拍車 f
チ
;言
日 メ ト 、l
帰キンポ 、
費留学生
となった
高添一郎
講師のス
トックホ
ルム到着
を待って
同君同道 、 十四日よりアムステルダ
ム ・ロンドン ・パリ ・ベルリン ・‘
ユンヘン ・ウィーン ・リスボン ・マ
ドリッド ・ロ1 7とヨーロ ッパ各地
の細菌 ・血清学研究所および商科大
学を視察し 、九月三十一日コベンハ
1ゲン発S A S機(北協凹り)で帰
国される予定。
高}係者師は米沢教授とスイスで別れ
てストックホルムへ帰り 、 岡 地 の
、
吋y
ωn}doc- 。向 。 巾口 門窃同﹁可 で
h
w 見。E
︺八カ月の留学期聞を過し明年五月帰
国の予定。
鹿島俊雄
鹿島俊 雄 後 援 会 設 立 総 会 に
おける挨拶
本日は、私のために、か様な盛大
なる後援会を御催し下さいまして厚
く御礼申し上げます。
本日御来臨の方々は 、日頃私のた
のコシトヰ
元
通
ι
米沢和
一教授は
日本学術
会議代表
の一員と
してスト
ックホル
ムで八月四日より八月十 三日まで聞
かれる第七回国際微生物学会に出席 め、格別なる御厚訟を頂いている方
のため八月一日正午羽田発SA S機 々で あります。報道陣の方々も非常
(北極回り)でストックホルムへ出 に御世話になって居ります。
発。八月十二日 、 スエ 1デン政府給
叉母校の学長先生以下各先生方の
で教るさス l ル目
杉山、米沢両教授
高添講師、川村助手四氏を囲んで
昭和三一二 、 八、 二五 、誌す
、
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旅
ヵ 菅、竺へ
誕
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近者 、 以送 、あ
。視発 ~.代河鳳米四教
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写会四溢外に学 。
真し先れに始長本
歪手
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二 塁
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問
二 、ン ン り
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九山
しあ方沢頭会歓
てりか両等の 送
九来ら教の下会
時会も授歓に で
杉
芝等カン l にに十
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Fをゴ、ン九なて時
~開閉刻。 、
木 モ 歴 、 ニ 、月 つ 欧 羽
気沢あ訪ロ ュベ五た米田 島
一
本会主催歓 送 会開催さる
去る七日二十六日(土)午後六時
より 、文京区大塚町若渓会館におい
て、本会主催の下に八 ・九の両月聞
に国外に出張あるいは留学される杉
山
、 米沢両教授を始め 、高添講師 、
川村助手の歓送会が捺大に挙行され
た
。
校命により九月四日欧米に出張さ
れる杉山不二教筏 、 日本学術会議代
表として八月一日出発第七回国院餅
性物学会に出席の米沢和一教授。ス
エ1デシ政府給費留学生として八月
十 一日出発の高添一郎講師(細菌学
教室)、 フランス政府給賛同同学生と
して九月中 旬出発の川村顕助手(市
川病院内科﹀を迎えて、一三O名を
越いえる同窓校友が集り 、なごやかな
邑同
策
様な状況下に於て彼をして中原の鹿
を打ちとめさせるためには先以て同
窓各位の協力一致が必要である事は
言を侠たない。
万一事志と異なるが如き結果に陥
る事あり とすれ ばたどに同君の不名
誉ばかりでなく歯科界及び母校同窓
七千を基盤とする本学の名誉にも関
するのである。
希は万難を排 し 一致協力同君のた
めに万全の運動を展開せられ所期の
目的達成に道進せられん事を切願に
堪えず。
秀
ー , 、'
発 時 別 万 負 さ 、上 川
れヤ四よは不母載
予
会才のれ杉本幹
る航日り校二授の上定
風
を開る山会事
こさgL
j・ 九 命 教 杉 如 皆
影 三 陳 先 、副 長
と機前月に授山く記
)
唱が生米会司
師
敢えて同窓諸賢に恕ふ
先般歯科医師政治連盟の推挙によ
り同窓鹿島俊雄君が来年の参院選挙
に全国候補として打って出られる事
が決定してその応援母体として鹿島
俊雄後援会が母校同窓会を中心とし
て発足した事は既に御承知の通りで
ある。
私共は歯科界の一人として将叉同
窓の一 人として 同氏の出馬に対して
は満腔の誠意を以てこれを迎え同氏
の手腕力量に対しては絶対の信頼を
抱くものである。
然しながら天下の状勢必ずしも前
回竹中氏の場合と同一視すべからざ
るものがある事も察知せられる。か
出
授 o
h3737 れ EE ぷの 日
授 (話芸員持 Z
十 ジ 夕 、マ
月 4 、ロ着にン 暫齢設~へ前
高
福
第6
1号
東京歯科大学同窓会会報
(3) 昭 和 33年 8月2
5日
御集りを頂き 、同窓会に於きましで
も会頭以下 多数の 方々の御参会を頂
き 、只今私のための御後援の会則を
拝見致し感泣致しておる次第で御座
居ます。
皆様方の御厚情に本日私のため結
成して頂きました箆鳥俊雄後援会は
欠陥の多い 、御小言の数々を賜わっ
ております私に対し 、まして、業績
織見を除外し 、厚 いおぼしめしから
校友としての御 叱正 を頂く会と存じ
て居ります。
私は若輩 、 かつ欠陥の多い男であ
り 、去る昭和二十二年新制歯科医師
会発足以来 、佐藤会長の下に審議会
の委員となりまして 、入交 、小椋と
三代 に亘る歴代会長の許にお仕え致
して参り 、仕事において大過なく戦
買を巣せました事は 、 一震に歴代会
長のお蔭であります。
しかし 、私は過去十一ヶ年間歯科
医政の 末席に連り、深く考えました
事は 、社会保 障制 度を除いて 今後歯
科医療は無いと云うことでありま
す
。
私の如き者に 、 一つの御期待を頂
いている状況を見て 、私の半生を歯
科医政のため稼げ 、これによ って職
責を巣し度いと念願しております。
皆様の御手厚い御気持を忘れるこ
となく商科業権確立のため努力致す
決心であります。
この御好意に酬ゆるため 、私は父
祖伝来の業務も弟共に譲りまして 、
歯科医人として一すじに努力致すこ
とに相成りました。
私の経歴の中には歯科経膝以外に
はありません 、 これは先輩 諸氏の御
気に添い たいためであります。
幸 い、最近健康に恵まれました 身
に鞭ち粉骨砕身所期の目的に過進致
す決心で居りま す 。 ( 文 責 記 者 )
1
25
25
R-
思わぬ倖せを得たわけである。この 一目のあ り見るこのC Fボデッカ 1
国 際 歯 科 学 研 究 会 総 会 講 演 の 他 に 、 ス コ ッ ト 、ナイレシ両博 一は、一引チャーチルを思わせる風貌
(
IADR) 出席記(二)一土と連名で‘電子顕微鏡微の展示を 一の持主である。私の講演もよく聞い
石 川った。これは、スコアト氏がエナ一て下さったらしく、次々と質問を発
ヲ ジ ッ ト ン に て 一 メ ル 質 結 晶 の 超 微 細 構 造 を 、 ナイレ一せられて私も大汗の
態 であった。そ
田熊庄
三 郎一ン女史がアメロゲネ 1 シスを、私が 一の質問の中に﹁象牙質を生活組織と
・一オステオ ゲネ 1 シス(特に軟骨性骨 一考えるか?﹂というのがあっ たが、
臨蝕学方面では 、実験臨蝕が非常一発生)を担当して行ったものである 一
今日ではむしろ陳腐にきこえるこん
に旺んで 、多数の動物を厳重な管理一が ‘幸いに好評を得た模様である。 一な質問も 、歯牙の代謝に終生をかけ
の下に飼育し踊蝕発生の動態を細菌一このわれわれの展示と列んで 、ハ 1 一ているこの碩学から直接に発せられ
学的遺伝学的、栄養学的 、統計学的一パ lド大学のソグネス教授にエナメ 一るのを開くのは、全く身のひきしま
その他あらゆる分野からそれぞれ示一ル質の結円山と 、口腔粘膜切片の電顕 一る思いであった。
唆に富む観察を行っている。それに一像を展示していた。 これは 興味深い 一 p lリ ッジ博士は私が講演を終り
関連して 、動物の無菌飼育も行なわ一ものであった。が 、その中で 、ある 一
着席するのを待ちかまえていたよう
巴
ロ骨ロ
れている。一核内構造物に
釦
広 一に傍に来て、関口一番﹁ニシムラを
m
N I Hでも、こ の方法には 、莫大十E
回
一 と い う 奇 抜 な 名 前 が つ目
けられ 一
知っているか﹂ときかれた。﹁私の
な予算を計上しているが、その成果一ているのには微笑させられた。
一
知り合いにニシムラは沢山いますが
何 のニシムラでしょう﹂と問い返す
に は 情 日 時 を 要 す る よ う で あ る 。 一 学 会 の 合 聞 は ロ ビ 1 で多くの人々 一
F ュ 一と接することができ 、大変楽しい時 一ともう三十年程も前に滋榔質の研究
きて私は、第一日の午前中ご
Z
σ 三 賞 呂田可FHEロ
巾=と題一を過すことが出来た。研究発表もさ 一を発表したニシムラだという。それ
して十分間の講演を行った。実際に一ることながら 、 この密会合の本当の 一なら私の母校の西村豊治教授で私も
は十五分間かかったのであるが 、そ一意味は、むしろロビーや庇下での個 一よく存じ上げているというと大 喜 び
れでもベルが鳴らなかったのは、ス一人的 交観 にあるらしく、人々はそれ 一で、それから山下に連れ立って出て
コッ ト氏 が予め座長に 了
解
を
得
て
お
一
ぞ
れ
相
手
を
見
つ
け
て
終
ら
な
い
デ
ィ
ス
一
一時間 以上も西村先生の近況やら球
いて呉れたためであると後でわかっ一カッショシを楽しんでいる。こんな 一
都質の構造ゃらに話の花が咲いた。
た。不眠でポシャリしている上に小 一光景 は、日本では見られない一寸珍 一私も西村先生の御仕事は詳読してい
生には最初の英語講演の こととて失一らしいものとして 私の尽に映った。 一
て 充分記憶している自信があったが
いに上り気味であったが、聴衆にま一言葉の不自由な私には大いに苦痛も一格附いたことに 、 ク1リッジ先生は、
ざってナイレシ女史と肩を並べたス一伴ったが、スコット氏の積極的な誘 一私の失念しているような微細点まで
コ
ッ ト氏がしきりに 目で合図 して呉一 導のまま に
も実によく知っているのである。そ
、 多くの方々と手を探り 一
れるのに励まされてゆっくりと原稿一言葉を交すことが出来たことは、こ 一して﹁私はいまだかつて、ニシムラ
を読み初める。所が何を間違えたの一の上ない伴せであった。
一の仕事のようなすばらしく美しい仕
かスライド係が 、途中で ライトを点一そこで会った方々の中には、ボ 1 一
事は見たことがない ﹂と口を極めて
じてしまった。聴衆も終ったもの と 一デッカ 1、ベ 1ベランダ I、 ク1リ 一その業績を絶賛された。それからは
心得て拍手したが 、私があわてて﹁一ッヂ、ピピイ I、ト 1 7、ァ l ムス 一ク1リッジ博士とはロビーで顔を合
アイアムソ 1リ1、まだスライドが一トロング、ロビンソン、ボイル、フ一せる度に 三十分 、 一時間とおしゃべ
あるんですが﹂と言うとあちこちで一イッシヤ l等 の著名な人々もふくま 一りすることができた。そんな聞に 、
笑い声が起る。一れている。この中で特に私の印衆に
一
西村先生と是非文通したいから使宜
これを機に私の気分もすっかり楽一残ったのは、ボ 1デッカ!とク 1リ一を与えて欲しいとか、日本の歯科学
になり、原稿にない言葉まで一寸つ一ッジ両博士である。
一専門誌のリストを詳しく作って送つ
け加えて説明するゆとりが出来 、あ 一 ボ 1デッカ l の父子二代にわたる 一て欲しいとか 、研磨標本を作る機械
とはすらすらと終ってしまった。お 一法部質の微細構造その 他の研究は余 一で困っているが何か知恵はないかと
り にも有名で誰知らぬ者もないが、 -か、色々な注文やら相談やらをうけ
蔭で私は拍手を二回送られるという 一
第6
1号 (4)
東京歯科大学同窓会会報
昭和 3
3年 8月2
5日
た。叉同博士が日本に少なからぬ関
心を寄せていることもよくわかっ
た。博士はレディームラサキの小説
を読んでおられるという。つまり紫
式部の源氏物語の ことである 。私は
酷
m
ろいてあれば非常にむずかしい 本
で、私もん Z生
- 時代から何とか全巻を
原文で通一読したい と努力しているが
いまだにそれを某すことが出来ない
と説明するとびっくりしたような顔
をしておられた。ある時私共がそん
な話をしている時に 、たまたまボ l
デ yカ1が通りかかった。一 。
あれが
ボ1デツカーだ 、まだ会つてないな
ら私が紹介しよう﹂といわれるので
﹁既にお会いしたから﹂と御辞退し
アツカ ー
た。これを機会に話はボ lの業績に及んだ。私が 、﹁ ボ1デ ツ
ヵーは歯科界の巨人だと回ゅう﹂と正
直に敬意を表すると 、 ク1リツジ博
士ははっきりと 、﹁ 私はそうは恩わ
ない。彼はニシムラを読んでいない
し、彼の破榔質の研究をニシムラの
それに比較すればはるかに見劣りが
する﹂と断言されたのには私も少な
からずあわてざるを得なかった。所
ジ 先生も、西村先生
でこのク 1リ ツ
の先生である花沢先生のことを知ら
ないのを知るに及んで私は二度びっ
くりした。(以下汰号)
本会主催夏期講習会終る
既報の如く、今夏、母校に於て開
催した夏期講習会は 、理工、矯正 、
口院外科、病理の凹科目について開
催され 、四十五名の 参加会 員を 迎え
終始熱のある講習会であった。
大学院建設実行委員代
金納入方法に関 し熱心な 対策が議せ
られた。
大学院建設に際し二億四千百万円
に及ぶ現在の借入金に 、その利子の
みでも三六年の完済までに 、 五千 六
百万円を支払わねばならぬため 、同
窓各位から一刻も早く寄附金の納入
方を切望された。
昭和三十四年度
数学に ついて変更 │
東京歯科大 学 進学 課程
入試科目について
、
、
明年三月行われる母校進学課程入
学試験科目 について、左の如く一部
変更が発表された。
付 数学に ついては 、 下記の通り
変更となった 。
( C
(B)
)
次の ( A )
( D ) 、のうち一つを選んで解答
すること。
I (田教育課程)
③解折
⑧幾何(旧教育課程)
。 数 学 I代数(統計を除く)
および数学I幾何(空間図形を除く)
⑫ 数 学 I代数(統計を除く)
および数学E (変化率を除く)
但し上記の選択は卒業年度にかかわ
らない。例えば三四年度の卒業生が
⑧や⑧を 、コ一二年度の卒業生が⑥や
⑨を択んでも差支えない。
伺 其 他 の 科 目は従前通り。
国語(甲﹀
理科(物理 、化学 、生 物 、地学
中から二科目選択)
外国語(英 、独 、仏から一ヶ国
語選択)
(二頁五段より)
表 者 会 議 開催さ る
今回の奇耐で 幸 いに生命を 全 うし
会る七月十八日(金)午後三時よ 得たのは 、まことに天祐と申すべき
り母校において都内及び近県同窓会 で全快の上は捲土重来の意気で会務
支部長参加 の下に開催され 、建設資 に当り度いと思っている。
一右会合で御報告しま したが 、去る
一五月二十五日に 、松 崎 後 藤 、中山
一クラス会便り一
一小島の四名で 、闘病生活八年に及ぶ
、
大西光昌 、大塚信一郎 、佐野発介 、 一葛西を病院に 見舞いました。つれ
、
士山
佐々木進 、小原男、忠限良次 、津守一人¥の慰めにも と京都会合のアル
、
、高橋立夫一パムを持参しました。我々と話をす
、
十五週年記念 Fラス会席上におい 剛三 津江四郎 岸 正 明
、
、長 谷 川 正 康 一 る べ く 庭 迄 出 て 来 ら れ る 程 で す が
て、 一度関西で会を聞きたいとの片 大野実
、
向、十五周年記念品として 、母校一整形手術を必要との事。然し乍ら
山和夫君の提案がありました。
図書管内花沢文庫に貴重図書保管周一体力の関係でまだ出来ず 、為に退院
此度 、同君が中心となり大塚、大
本箱を贈呈致しました。御知らせ致一も未定の状態です 、諸兄の激励を御
西(光)、津守君ら在阪会員の御努
、鮎瀬も見舞はいた
します。一願いします。叉
力 により 、ゴールデンウィークの五
しませんが 、脳出血静養後 、半身の
月三目 、大阪山錦旅館において本会
不自由をおして 、令夫人の助手の下
が開催一されました。集う者二十二名
に診療に従事して居られるとの事 、
チャンコ鍋をつ Lきながら旧 交を温
激励を御願いいたします。
めました。
末筆になりましたが 、北海道の元
老、松川の岳父佐藤勘次郎先作 Lが、
五月逝去されました。松川氏の嘆き
も一入と思いますが 、大学院誕生と
は申せ 、前途に見るべき物の多い時
此の許報は 、同窓会にも重大な損失
にて 、京心より弔意を表し御報告い
たします。
再々で申わけありませんが 、寄稿
無き方があります。八月末必着にて
一人一文必ず御願いします。
殊に京都会合後の帰途は 、広谷も大
変気にして厨られます。帰途報告を
是非お願いいたします。
(安達嘉記﹀
なお 、九州の角野君が北海道美吹
の三井鉱山歯科医長として転任され
た由 、御報らせいたします。
時
翌四日は観光パスで大阪 、京都見
物の楽しい一 日を過し 、名残りっき
ぬ京を後に、十一月の再会を致し解
散しました。
在阪各位の並々ならぬ御努力を感
謝致します。
出席者
藤原康功 、畑中康一 、堀口忠、保宮
勉一郎 、神田秀彦 、片 山和夫 、児玉
良知 ・二村力松 、成田実 、西村寛猛
九
:
z
.
:
.
6
.
:
z
.
:
暑中御見舞申上げます。
去る六月十五日悟空林にて、安達
(直﹀鈴木(嘉)鈴木(哲)鈴木(
国﹀松崎 、後藤 、田村 、武井、田小
小川 、草柳 、高橋(誠)荒畑 、朝長
小木原 、谷越 、中村(喜)怖 、吉田
諸兄の出席を得て 、府大に近在有志
会を致 しました。定刻をや L遅れて
、安達(直)カメ ラ技師のあざやか
な手さばきにて 、氏自身撮影の天然
色を交えた京都会合シネマから始め
られ 、次々に 、武井 、松崎のフィル
ム、中に 、高橋の天然色写真幻灯を
交え 、見る中に 、会 合 の 一 こ ま / ¥
が限の前に再現され 、客観的に見る
自分の姿に感心すると同時に 、まざ
/¥と会合の楽しさが思い出され 、
思わず誰 、彼の名を 、 口ずさむ興奮
のるつぼ。夫人連中の録影にも叉一
段と気をつかわれた撮影技師の苦心
もしのばれ 、今宵の会合に夫人を勧
誘せざり しは小生の手落ちと 、侮ま
れました。
右シネマ観賞を約一時間で終り宴
会に移れば 、興奮の延長にて 、叉々
酒が足りない勢いで 、追加追加大分
皆さんに御迷感をかける次第。芸技
と芸を競う内 、之も又京都会合の再
一
々 伍 々二次会へ。
現裏に終り 、コ
.
6
.
各地同窓のうごき(
を誓いました。
次に補綴の講演に移り娠江教授は
無歯顎の陶歯排列に於ける一便法
﹁
と題して皮ム口採得より陶歯排列に至
る組蓄を傾けて二時間に及ぶ講演を
スライドを利用していたれり尽せる
説明で臨床上啓発される所多大であ
りました。
休憩後青海原を一望の下に収むる
庭園で記念撮影。一風呂浴びて懇親
の宴を評議員 、士一屋満枝君司会で大
広間土地美形十数名のサ ービス満点
なごやかな零囲気の裡に歓談。興到
り隠し芸続出歓を尽して宴を閉ぢま
した。
翌二十五日午前 九時より掘江教授
昨日に続き講演あり終って会員の質
向あり十一時副支部長松田潔君の閉
会の辞ありて散会 しました。(徳永
記)
出席者氏名(敬称略)
笹本允男 、栗田春海 、五十嵐発昭
土尾満枝、土屋謙一 、木村巨太郎 、
小川知一一 、有本穣 、岡山章 、甲斐清
西山平作 、遠藤茂 、土屋勝雄 、杉本
卒、堀江茂樹 、神田秀彦 、笹本平蔵
大藤幸雄 、徳永寅蔵 、徳永富士雄 、
外圭一二 、増田朗 、鈴 木安夫 、森田博
、 栗田稔 、
道、新保政美 、浅井寿 一
深
大内惣一郎 、
回川明知 、小山彦 平 、
沢一街 、高木二三男 、望月弘章 、丸
、 河村孝義 、益
山実太郎 、朝浪惣 一
子敬四郎 、鈴木秋雄 、木村幸人 、河
村三省 、松田潔 、河村忠篤 、若尾秀
夫、中原欽吾 、上回淳 、平岡光一 、
岡村一夫 、五条万次郎 、河村秀豆 、
赤掘開吉、板倉一民 、山下初彦、藤
田彦平 、早川博 、市川潔 、援本要二
森田福造 、小野田幸太郎
=
皆さんその後お変りはありません
か。東京会も関西会も相変らず、一 、
三、五月と附月に旧友柑集い 、楽し
い一席を満喫しております。
七月は左記の通り 、開催されて東
京からも七 、八名参加し 、総勢三十
名を越える曲師会となるもようです。
.
6
、
久
静岡県支部総会報告
新緑燕風の五月二十四日五日伊東
混泉ゑびな館で 、第十六固定時総会
を開催。母校より西村会頭榎本前会
頭堀江教授を迎えて 、講演と懇親の
宴を設けました。福島学長は御健康
上の都合から欠席され残念でした。
出席者六十余名に及ぶ盛会で海岸
に沿うて伊東でも景観が第一 、設 備
よく庭園も定一帯ある一涜旅館で 、地
元会員の一方ならぬ尽力で準備万端
撃い、和気符々の複に開会の辞を副
支部長森田福造若が述べ 、
記録によると昭和十五年五月二十
二日故五十嵐準君の発議により、伊
東の地かにや旅館に於て血脇先生奥
村学長を迎えて盛大なる創立総会を
開催し 、以来今日に及び十六年を経
過したる喜を述べられ 、後刻岡山章
君は其当時の記念写真を持参し 、 一
同是れを眺めて 、感概無孟でありま
した。
次に徳永支部長の挨拶あり昨年中
の物故されし会員高成田稔君 、鎌 田
清一君、塚本良三君鈴木武夫君の冥
福を祈り黙祷を捧げ会務報告及三十
二年度決算認定の件を浅井幹事長計
り承認 、本会員にて今回医学博土の
学位を受領されし鈴木秋雄君に支部
より祝辞と記念品を贈呈。森田簿道
君の司会にて 、西村会頭より母校同
窓会の近況を詳細に承りその使命の
重きを深く思い 、大学院建設に就て
福島学長に代り 、榎本先生より 、建
設計画より建築落成し四月一日より
開院に至る経過報告あり。奥村先生
御生存中に此事あるを共々喜ぶとの
声涙下る、感想を述べられ 、 一同襟
を正して拝聴し今後の運営に 、助力
蜂
日
召
第6
1号
東京歯科大学同窓会会報
昭和 3
3
年 8月Z
5日
(5)
llo o--
if一
ti
札
一
一
一
a
-
寛 君
凶毘 佐藤君は 、 昭和
三年五月 、同窓
甥必会函館地区支部
aE 長佐藤辰三郎氏
F副 の 次 男 と し て 生
れ、昭和二十年函館市立巾学卒業 、
同年四月室蘭工業専門学校入学 、 二
十三年 三月同校化学工業科卒業 、同
年四月母校東京商科医専入学 、 二十
七年卒業、直ちに札幌医科大学口 住
外科学教室に研究生として入室 、翌
同
二十八年二月北海道技師拝命 、 (
室勤務)三十年九月間教室助手を命
ぜられたが三十一年七月退職、同教
室専攻生として専ら研究に従事数々
の研究論文を発表して居られた。
それらの成果をま とめて北海道大学
医学部に提出、学位請求中のところ
伊藤教授(生・纏学第一講座)、主査の
もとに本年一月九固めでたく同大学
教綬会を満場一致にて通過 、越えて
四月十五日栄の学位記を受領され
た
。
同君は経歴でもわかるような識に
徹底した学問の虫ともいうべき青年
学徒で 、母校在学当時から精励情動
常に級友の範となっていた。幌大入
室以後も 、故金森教授 、松野博士ら
如何 です。会誌は 千円位いの も のを 別対策委員長を兼務されている。
仁蜂会関西 、東海連合大会
作り度いと考へてゐますので全員御 (三年前に学位を得られたにも拘わ
七月十九日(土)鵜飼観覧
賛成の上高橋宅まで御送金願へれば らず同窓会事務所へ報告遅滞の責任
同二十日(白)岐阜遊覧
集 合 、岐 阜 長 良 川 畔
幸。上京の節の宿泊についても御取 は私にあり深く陳謝し、御健康御繁
﹁
多賀﹂
り計ひ致します。祝賀会の詳細につ 栄を祈るのみ)謹祝(兵藤弥夫記)
会費二千円
いては後便に託しますが会誌原稿は O主 論 文
準備委員杉山正彦
至急御送り下さい。健保法の改 正新
一、水痘縮に及ぼすP Hの影響に
岩崎三千雄
点数の改正等私達の身辺も多忙。各
ついて
永田晋
位の御健康 と発展を祈りつ L先.つは
二、水 痘縮筋重量変 化に及ぼすP
お便りの次第幹事高橋
H の影響について
加 藤 輿 親、棟久正両君は今度、永一
三、水 {短縮筋の 粘弾性に及ぼすP
年の研鏡の甲斐あって 、目出度く学一
H の影響について
位受領されました。諌んでお祝い申一
参加論文(三編)略
上ます。何れ 、今秋の総会で盛大に一
お祝をと思っております。一 野
君
縁
l
'
例の記念アルバムを眺めながら近一
新博士野間君は
況を 、是非 J、幹事の許までお知ら一
J 名前が一示すとお
せ下さい。今年は会報を作り度いと
回 り愛媛県出身で
ー 本年四十七才 、
思っております。
(吉峯、佐藤俊郎 、堤)
昭和五年母校を
一卒業し 、横須賀市の川村商科医院に
二二年間勤務後 、岡市に於て独立開業
十四会便リ
一日増に盛業を極め 、推されて横須賀
後零の功を祝福され懐しい角帽か 一
市三浦郡歯科医師会長 、社会保険診
らおさらばしたのはつい此の間の様一療報酬支払基金審査員を歴任 、次で
な気がして居たが、光陰矢の如し再 一
神奈川県歯科医師会副会長に選任さ
び帰ることのない三十年が過ぎた。 一れて読んベ重きを加えてゐたが 、嗣子
毎年母校同窓会を祝して十四会も総一に対する無言の教訓とすべく一念発
会を聞き久し振りに顔を見せてくれ一起して木村哲二名誉教授の御紹介に
た地方会員と何から先きに話してよ一より岡和二十七年四月東京慈恵医大
いやらと積る話しに花を咲かせなが一研究科に入学 、生理学教室にて名取
ら、過ぎてこ与に三十年想ひ新たなも一教授指導のもとに研究に精進せられ
、同二十九年四月同研究科卒業翌三
のがある。一
今年は十一月二日にお江戸情緒深一十年七月学位論文提出 、翌八月満場
い墨田川附近で 三十周年記念 大 祝 賀 二 致 論 文 通 過 、翌九月目出度く医学
会を聞くことに決めた。在京会員は一博士の学位記が授与された。野間簿
もとより地方会員諸氏の御出席を望一土は釣りが道楽で院務 、﹃公務多忙の
むや切なり。向三十周年を更に永く一日常を海釣りによって慰安休養とさ
記念する為に記念会誌の発行を計同一れているとゅう。家庭に於ては一男
してゐるので各位の近況と家族歴叉一二女をもち長女は今秋結婚のおめで
は要織の御披露を願ひ度い。第二世一たと洩れ承る。初孫を得られる日も
については在校名在学々年を添へて一遠くあるきい。現在は横須賀市三浦
裁き度い。十四会第二世会の実現等一郡歯科医師 会参与。 同会社会保険特
間
﹁
ノ
e
口
て電子顕微鏡の研究に没頭 、慶 大 医
学部電子顕微鏡室と本学聞を往復 、
満五ヶ年間粉骨砕身努力された結果
世界に誇るべき優秀なる数々の研究
成巣を完成、これらを学位請求論文
として東京慈恵会医科大学に提出 、
主査 、高木文一教授(病理﹀副査 、
寺田正中教授(細菌)樋口一成教授
(病院長)の一一一教授のもとで審査の
結果、去る二月十日満場一致をもっ
て同大学教授会を通過 、四月十二日
付にて栄ある学位記を受領された。
向学心に燃える君は 、多忙な診療
時聞を割って 二十七年 七月より当病
理学教室に通い、田熊助教授に就い
ι
の
山川護のもとに精勤せられ 、臨床と 研究に余念がないとか 、また 、戦前
研究を両立させて今日の成功を築か 歯科に関する文献なら大学図書鰭よ
れたもので 、恐らくは同級生として り栃原氏の蔵書を見た方が早いとい
はトップの偉業をなし遂げられたも うのが大学の会口言葉であったが 、蔵
のと思う。
豊富は惜 しくも焼失したが 、 いまなお
誠にお見上 けした御性格と敬福に 研究の指導をうける研究者が跡をた
堪えないしだいである。
与ないとか 、九州の歯科医学隆躍の
心から祝福申し上げる。
中心として 、御活躍あらん事を念じ
いまは港都函館に帰られ 、父君を ながら筆をおきます。
援けて心静かに診療に従事しておら
(上条薙彦記)
れる。(近藤三郎誌)
山
昭 君
主論文人膿漏症歯肉組織の
﹀2
巴 02
om
コ
山 口君は昭和三
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m
凹 26
円z
刊の定量
事
的検索について。
年江戸川区生れ
他参考論文六編
持舗当時秀才の鯛集
傾闘した都立三中(
躍 関 根 教 授 、田熊
康 (旧名簿)
助教授、饗庭捕時士等の出身校)を昭
和二十年に卒業二十一年三月都立衛
生技術員養成所を卒業 、同年母校を
卒業 、同年母校に入学 、 二十五年三
月卒業、直ちに昭和医学専門学校最
上級に編入学 、 二十六年三月同校卒
業 、東京鉄道病院にて一ヶ年のイン
ターン後同年六月医師国家試験合格
父若を援けて歯科診療と同時に内科
小児科の診療に従事現在に至ってい
る
。
原
昭和三十三年四月
十七日熊大教授会
は、日本人歯牙の
唆粍に関する研究
(五十頁)並に参考論文十二冊とい
うぼう大な栃原博論文目録に目をみ
はりながら 、 万 場 一 致 可 決 し た 。 (
主査忽那教授)一言に研究生治十年
といえば簡単だが、戦後のテンポの
早いきびしい世相の中で 、一止統な研
究をきわめる事は至難の事である。
多くの安易な方法で目的の彼岸に達
した人に目もくれず 、朝な夕な厳父
栃原義人湾土(熊大講師)のきびし
い教育と、恩師佐々木教授の指導下
で、歯科医学の盲点を克服してくれ
た君に対し、心から敬意を持ったの
は、能川大教授障のみにと Yまらない
と思います。
文献さがしに、東京中をかけずり
まわり、資料集めに数年を費やした
君のおもかげが殺にうかんでまいり
ます。
、
これからが 、 ほんとの研究だ と
門前市をなす患者の診療の合聞に 、
栃
(6)
第6
1号
東 京歯科大学同窓会会報
昭 和3
3年 8月2
5日
佐
藤
橋
日夜燐まざる精励に 対 し心からな
る敬服を禁じ得な い。
時
このうえとも健康に留意され 、益
豆、々大成 されんことを祈る。
伊
出
なお同君は 、 このうえもない良縁
を得られ 、去る十二 日広瀬輝子 鈍と
めでた︿華紛の典を挙げられた。
重ね重ねのおめでたに満腔の祝福
を申し上げる。(松宮誠一誌)
主 論 文 超 薄 切 片 法 による歯牙組
織の電子顕微鏡的 観察
他参考論文八編
ヨ君
3
1J
d 石橋さんは新潟
較 叫 県 は 佐渡生れ 、
組
昭和七年十月
担、 東 京 女 子 歯 科 医
学専門学校を卒
久
、
、
、
せi
博
神戸医科大学第
一外科 学教室に
おいて 、孤軍奮
斗 、孜々として
研究完成された
君
る二月二十五日 、めでたく満場一致
をもって同教援会を通 過 、去る四月
十五日付にて 栄ゐ る学位記が授与さ
れた。
誠にお目出度い限りで心からなる
祝福を捧げる。
石橋さんが東京女歯に入学された
のはすでに中年ともいうべき時期で
若い女間とともに勉学された点は特
筆大書に 価する 事柄であるうえに 、
更に研究室に入って 研鈴しようと 決
心された ことは 誠に驚嘆の至りであ
る。主査となられた高木教授も感嘆
これを久しうしておられたことをも
って見てもその努力がいかに貴いも
のであるかが幼われて心強い限りと
いわねばならない。
重ねてお喜び申上げるしだいであ
る。(松宮誠一誌)
主論文
割引歯々髄疾患の臨床診断成績と病
理組織診断成績 との比較に 関する研
究他参考
論文五編
藤
同君の学位請求論文﹁歯髄痛覚の伝
導に関 する研究が去る二月十九日同
学教授会において藤田登指導教授、主
査の下に満場一致通過した ことは 、
わたくしの心から祝福するところで
ある。同君は昭和 十四年 三月母校卒
業後直ちに保存学教室に入室 、同 十
七年開業し繁栄を極められたが 、終
戦に当り一大打撃を受けたにも拘ら
ず 、令夫人の献身的内助の下に再起
神戸市の現診療所 に拠って 名実共に
市内一統の 開業医 としての地歩を築
樹
君
る学位記が授与された。新博士は綿
密な観察力と性来の研究熱心さ 、九
州男児らしき毅然とした態度が幸し
て今日の栄冠を得られたものと思う
新博士には兼子夫人との間に一男あ
り。家庭では良きパパさんで、世田
ヶ谷代田一丁目四O 一春岱廷に住ん
でおられる。趣味は読書とか。今後
とも歯科界のために 尽さ れん事を祈
るものである。慶祝(米沢和一記)
細菌性アノイリナ 1ゼーと E の同時
日
締
t
憲
君
ハシグチ ・ヒロ
ヨシ君は、日光
市清滝の生れで
本年九月で満二
十八才。昭和二
十七年母校卒業と 同時にわた し の教
室に残 り昇進して助 教授を務め てい
るもの。既に在学中より家兎血液の
炭酸ガ ス抱容能に 及ぼすフッ素の影
響を検討 して立 派な卒論を書きあげ
て授賞せられ 、卒業後は微量フッ素
の添加は白血球の食菌能力を高める
ことを発見し、わたしの持論である
飲料水のフッ素化の無害設の裏付け
をして貰った。引続いて斯界の最高
権威である伝研 、沢井助教授の門を
た Lいて、細胞免 疫説を構成する白
血球の食作用の研究に本格的に取組
み、ついに免 疫体と しての唾液オプ
ソニンを発見したのである、これは
口腔における感染 と免疫の今後の研
究の進展に対し一大指標を打ち立て
たものとしてその功績は大きい。か
ねて提出中の君の論文は去る五月 十
二日の 金大医学部教授会にて 、主査
、
谷友次教授のもと 満場一致通過 し
越えて七月五日付栄ある学位記が授
与された。新博士は現在学友会の 山
岳部長をしており、学生や同級生聞
では面倒見がよいので評判は至って
宜しい。日光の自宅で歯科 開業の厳
父は同窓の先輩に当り医学博士の橋
口近義氏であり 、長兄の精範君は医
歯大産婦人科で目下研究中である。
新博士 は独身で母校に程、近い文京区
指ヶ谷町四石田方より通勤されてお
り至極温厚かつ健勝である。
一記
﹀
慶祝。(米沢和
O主論 文(一一腕)
唾液オプソ ニンに 関する研究。
合医学会雑誌六 十巻四号)
縁
O参考論文 七編(略 ﹀
辺
授与された。新博士は勤勉実直な人
で、何 事にも屈せぬ強 い精仰と熱情
があり、その 反面もの静かな友情に
富む 人である 。令夫 人との聞に一女
あり。夫人の母堂を加えて家庭は至
極円満。新博士の今後の活躍を大い
に期待している
慶祝(米
沢和一 記)
O主 論 文 (一編)
梅毒スピロヘ ータの形態に関する蛍
光顕微鏡的研究︿十全医学会雑誌六
十巻三号)
回
O参考論 文(七 編)
明君
翻 盟 タ ナ ペ アキ ラ君
官監は新潟県刈羽郡
司。 黒 姫 村 の 産 で こ
r・ の 十 一 月 で 満三
・園 十 才 。 海軍兵学
校を経て昭和二十 六年母校卒。直ち
に私の部屋に入室、研究科を経て翌
年助手に任ぜられ た。その後 家庭の
事情で兼任 となり 現住所たる東京都
調布市国領町二二三に開業せられて
今日に及んでいる。同君は在学巾よ
り私の教室に人り主として衛生学的
研究をな し、 フッ素臨食予防問題を
始め授賞論文を加えて多数の研究論
文を完成さ れた 。叉現公衆衛生院次
長曾田博士仕込の統計が得意な点で
当教室 では特異な存在で あった。三
十一年から私の恩師にあたる谷友次
教授が永年研究されて来た梅毒スピ
ロヘータの研究の一翼を担ってその
形態学に一新知見を加えた。かねて
提出中の論文は去る四月二十一日金
大医学部教授会で満場一致通過 、越
えて六月二十一日付栄ある学位記が
くと共に 、多忙 な臨床の余暇を割い 一作用ならびにバチルスサイアミノリ
て、済生の恩師藤田教授門下に入り 一イテイクスの大腸菌発育阻止作用に
つ いて (ビタミン十 五巻一号﹀
今 日の 栄冠を獲ら れたものである。 一
文 (六編﹀
以上
家庭にお いては令夫人及 び 三人の 愛一 O 参 考 論
児のよき父 として 、また良き夫 とし
て壁かな教養と趣味を生かして山手
の繍酒な住宅 にいとも円 満に毎 日を
自適しておら れる。 今後良識ある歯
科医人 として益々発展されんことを
切望する。(関根永滋)
山
茂
マツヤマ ・シゲ
キ君は熊本県天
草が本籍で満二
十九 才。昭和二
十六年卒業する
や直ちに母校保存学教室 に入室され
杉山、 関根両教授の下 、臨床に研究
に励んでこられ現在講師を務めてい
る。田辺博士ともども私の部屋で卒
業論文を完成された関係もあり先年
研究生として学内に派遣された。か
くして君は教室の大きなテ i マで あ
る松川、 三沢菌を中心とするアノイ
リナ 1ゼ作用の研究に取組まれ 、か
つアノ イリナ 1ゼ菌の抗菌物質を発
見された。かねて提出中の論文は本
年二 月 二十七 日京 都府立医大教授会
にて藤田秋冶教授、烹査のもと満場一
致通過、越えて六月二十一日付栄あ
松
O 主論文(一一編﹀
,
,
f
罪
石
業 さ れ 、直ちに秋田県小坂鉱山病院
商科部長として赴任 、在職四年 、昭
和十一年診療所を現在の神田神保町
に開設 、さらに銀座表通 りに出張所
を開設 、活躍せられていたが 、医業
股賑をきわめるに従って学問の深奥
なことを痛感され 、昭和二十六年七
月 、出張所を医員 に任せ 、私を頼っ
て病理学教室に入室 、若いものの聞
に交って実験病理学 より臨床病 理学
と削身の研鈴を重ねられたが 、三十
一年十二月病理学教室 助手となられ
てからはさらに研究生の面倒まで見
ておられた。その間数多 の研究論文
を発表せられていたが ことに乳歯の
歯髄炎に関しては 、洋の 東西を通じ
ていまだかつてなかった程の多数例
について検査された ことは 、実に 偉
大なる業績といわなければならない
この問題をキ論文として東京慈恵会
医科大学教授会 に学 位請求中 であっ
たが 、前出の山口昭君同様高木文一
教授主査となられ 、樋 口、大場両教
授副査のもとで審議が進めら れ、長
十
東 京歯科 大 学 問 窓 会 会 報
(7) 昭 和33年 8月2
5日
ロ
吋岡山w
本 十『
J
ω包
浮鎗
谷田
(名簿記載住所誤りに付訂正)
宿区津久戸町十
一郎(
MS新
磯野方
悟33杉並区下高井戸四 ノ
高田
一
Oコ 二 高 浜 斑
高崎市若松町三七
早川
N
後 藤 次 夫(
3函館市亀田町二O 一
山市初 音町四三
小 竹 佑 23富山
栗
方
浜松市入野町九四O
博(日)
六
ω
(
σ
当時雄図を 抱 いて札幌 医大入りを敢 一近藤 三 郎 中 野 区 桜 山町二二
行され た故 金 森 虎 男 教 授 の 企 画 さ れ 田 端 安 治 埼 玉 県 児 玉 川 児 玉 町
た尿剤試験の難関を突破 、同 大 学 助 問 端 淳二(苫 ﹀大字児玉 三二二/三
戸市西原町六区
手を拝命 、爾後 、同教授 、松野博士士口問 忠男(
N
3水
三、七一八
等を助けて札幌医大の歯科口牒外科
N 小野区沼袋町二八八
健一 (ω﹀
教室の隆興に懸命の努力を傾注する
川市八幡町一ノ五
N市
傍 、同大学生理学教室に入室 、永井
実(
S
三四
宮崎両教授に師事寝食を忘 れ て研究
荒川区町屋二ノ二 九
に設頭 、数々の業療を発表せられて 土子 鉄夫2 C
いたが主題であった ﹀2022
徳島市勝占町下敷地
可 5に
一
一
成石舜
(H M
﹀十一ノ一
関する研究が昨三十二年完成 、こ れ
を主論文として東京女子医大教授会 広 橋 弘 信 板 橋 区 仲 宿 六 O
,
に対し学位を請求中であったが本年 長 塚
長 官 )僻一川南町五五織田歯
四月 十八 日満場一致にて同大学教授
開走市南六条東二了
、 栄あ 小 西 宣
会を通過 、超えて六月十二 日
る学位記が授与さ れた 。
大田区久ケ原町
Nm
誠に同慶の至りで心から祝福申し 二階堂胤平 ( ﹀二五O
永 田 四 郎 (也)目立市上諏訪台
上げる。
ことに同若は 、本大学卒業生の第
江 副 哲 郎 会 白) 講 一
市駅詳細抑制町一
一号博士として特記に値するもので
恐らく全国歯学士の第一号であろう 山 口 保 ( 己﹀横浜市鶴見区鶴見町
六三五
と考える と誠に欣快に堪えないしだ
岡市一ノ宮一五O
N
太田実 (
3沼
いである。
一
一
ノ
一
若き青年学徒の洋々たる前途を期 江 崎 清 ( 叫﹀佐世保市光月町四一
待して諮んで讃辞を呈する。
に 引時間一刊訓開r一
九
(近藤三郎誌) 鈴 木 踏
ちなみに主論文は
﹀20
ヨ可 8 2溶液の粘度に対する
郡西九
古賀伝蔵氏三一一一 、 一 大 牟 岡 市
、五 船 橋 市
戸塚武氏三三
Lハ 八 千 葉市
坂登 正夫 氏 三三 、
一
、、四 北 区
玉 木 圭 二 郎 氏 三 三 、七
逝去会
鈴木さよ子
(旧制問飯塚﹀
高
同
V30HUY白凹円︾﹃︼由同巾 及 び
﹃
︺
一
二
。
添
H
主主J
君
また地区学校歯科医は勿論学 会開 催
リカワム﹂ブキヨオ宕 に当っても進んで協力 せられ 、県歯
は東京の生れ 、昭 医会学術委員や市の歯医会副会長も
和十九年秋の東医 廃任しておられると言った、地方希
専卒で本年とって に見る篤学の士。同窓で前回対商会長
三十円才。陸軍軍 浦野与四郎氏に嘱望せられてその女
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医候補生として同年七月人隊 、 二十 嫡となっておられる。存学中から私
年八 月中尉となり 、同年十二月復員 をしたって何彼と交渉が多く 、更に
後自宅で静養しておられたが 、 二十 戦時巾金大ではたえず私と学問上の
一年八月駒込病院小児科に人局 、同 連絡があり 、終戦で私が母校に復帰
年十 一月まで勤務し 、さらに日赤横 してからも同君の面倒を見ていたの
¥意を決して
浜 病 院 小 児 科 に 転 じ 現 在 医 長 で あ であるが 、先 年 い よ /
る。本学解剖学教室でその人ありと 当教室入りをなされ学位論文に精進
知られた志村起氏の縁故で先年わた されたのである。テ 1 7は、西尾宏
しの教室に入室された。同窓は実直 英同時土の後を裂つての米沢 ・西尾菌
な勤勉家で 、本学に程近い台東区仲 の只閣学的性状と栄益要求を詳細に
御徒町二ノ六の自宅から病院 ・教室 検討されたものであり 、 ついに本菌
と三角形一の頂点を毎日せっせと往復 は確 実 に新積であるとの断を下され
A 後零の功成りかねて提 た。
されていt
かねて提出中の本論文は 、京都府
出中め学位論文は去る三月三日の金
大医学部教授会で谷友次教授、主査 、 立医大教授会を 、主査藤田秋治教授
柿下教授副資の下満場一致通過 、越 のもと昨年十二月五 日満場一致通過
えて四月十二日付栄ある学位記が皮 し、越えて去る二月 十四日付栄ある
与 さ れ た 。 慶 祝 。 ( 米 沢 和 一 記 ﹀ 学位記を受けられた。新博士は余授
として特に 古川をよくし 、目下岡市
主論文(一一編)
双 技 菌 の 栄 養 要 求 性 に 関 す る 研 究 作家連照会員でもある。昭和 三十年
母校卒の浦野潤討は義弟に当ってい
(
十 全医学会雑誌六十巻 二号)
る 。 慶 祝 。 ( 米 沢 和 一 記)
O参 考 論 文 ( 郎 ) 以 上
O主論文(一 一
編)
吉岡達雄君
sEE属新アノイリナ Iゼ菌 (Y
ヨシオカタツオ n
期調司 jiJ凶
J 周回
-N菌)と わ山口門巴旨 属其菌との比
較研究(ビタミン十四巻二号掲載)
Z暴富誇
の影轡ほか二編
参考論文樹糟膿漏症罷患歯肉組織
白gg について
の関
叩
凹9 編
他
箕島高教授(生理)
松村義寛教授(生化)
小山 良修教授(薬理)
〔
松愛 五 札 今 吉
村 媛 了 幌、
市 -.jに
県 目 帯、
市
南南今撃
診 療 所 を 開 設 診 療 に 従 事 、患者の
名声を博しておられたが 、血の気の
一一
地方歯科医として一
多い同君は 、で
生を終ることの無意義なことを痛感
二十六年八月 診療所を現在の 墨 田区
に移し 、同時に常 山 県同窓会支部長
山崎安三惇土を介して当病理学教室
専攻生として入室せられた。
爾来、寝食を忘れて自分はもちろ
ん同僚の研究材料の蒐集に 、研究の
完成に没頭せら れ、こと に同君の研
究課題が臨床患者より得た材料を必
要としたため 、格 別 なる犠牲を強い
られたが 、それらの様牲を克服され
審査に 当られた教筏達も感嘆するよ
うな実に立派な業績を完成せられた
三十二年八月これらの業績をもっ
て学位請求論文とし 、東京医科大学
教授会に挺出 、大高裕一教授 (
病理)
主賓となられ 、原三郎教授(薬理)篠
井金吾教授(外科)副交のもとに審
査が行われ 、本年三月二十日満場 一
致をもって同大学教授会を通過 、五
月十四日めでたく栄ある午位記が授
与せられた。
永い聞の熱心なる研究に敬意を表
するとともに心からなる祝福を俸げ
る
。
願わくは現在の一小事の成功に安
んずることなく 、孫々研鎖を積まれ
後輩の指導 、誘液に当られんことを
希 う や 切 で あ る 。 ( 松 宮 誠 一記
﹀
主論文各種歯科用切削総具による
寓洞形成状態と歯髄所見に関する病
理組織的研究
他に参考論文五時帰
〉 美
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F
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AV
歯学 士第 一号 学位受領者
森沢峯夫君
' 本学第一期卒業
生として昭和二
十八年 三月優秀
な成績で学窓を
巣立った同君は
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」 ノ 、J
員
査査
川 楽沢
,
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O参去論文 一( 五 編 ) 略 以 上
関 谷 一三・郎 君
-ld叫髄鴻潤ヨ関谷君は千葉県出
h 身 、昭和 十五年県
h J閉 j Fa
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一
闘 相名
立長生中学卒業 、
誌誼定ちに母校東京歯
rEtsEEE 晶 科医学専門学校に
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入学 、十八年九月繰上げ卒業 、同時
に東部六四部隊に人隊 、二十年八月
終戦復員まで満二ヶ年の軍隊生活を
経験 、除隊後郷里に近い大多喜町に
"冨J
I主
布 明 .湯
)
1
)
E・酒槽師邑EE 君は私と同郷で
富山県の生れ o
繭 二 噌 三 回魁
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k凶 昭和 十八年最優
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1h同組 等の一 人と して
・・11
母校卒業 し直ちに同県高岡市駅前で
開業せられ 、終戦後実家たる同市堀
上町五 三O へ診療所を移転して今日
に及んでいる。同君は既に在学中よ
り向学心に 守的み母校特待乍は勿論 、
卒業論文賞を得ておられる 依 である
から 、開業の傍ら現金沢大学医学部
の各教室の門を 叩き数編の臨床論文
をいち早く完成公表して来られた。
イ
(8)
第6
1号
東京歯科大学同窓会会報
昭和3
3
年 8月2
5日