会滋 一 各 位 お 誘 い 合 せ の 上 御 来 会下 さ い ま す よ う お 待 ち 致 します 。 一 一 一 一 μ⋮ 左記次第により第六十七聞東京歯科大学同窓会総会を開催致すことになりました 。多 数 会 ⋮第六十七回総会開催御通知 j 一 七窓 L川 J 所 問 、赤肌 一 川 ⋮ ::一 刊 行問問 東京歯科大学同窓会会報 一 ::一 掬 崎 発 劃 治 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ :;:一 約 三 京 間 リ 協 。 佐知耳 他 ま 一東 次第 、議 事 て そ の 一、 日 時 昭 和 三十 六 年 十 一月 十 二日(日)午前十時1午 後 三 時 一、 会 場 制 校 講 堂 、報 告 一 し ま 一 一、 会 長 挨 拶 一 会 務 奇 ヨ ト メ 師 % 時 匹f 第六十七回同窓会総会 一、 開 会 の 辞 O午 前 十 時 開 会 すえ 一 一 ⋮ 講演﹁医療制度と祖会保障はどうあるべきか﹂日本医師会々長武見太郎氏 O 午 後 一 時J 三 時 一 - 一 東京歯科大学同窓会会長矢崎正方 昭和三十六年十月十冗日 会以各位殿 2せ ↑ 同 窓 会 総 会 終 了 後 参加 者 に 豪 華 賞 品 の 当 た る 抽 談 会 を 行 な い ま す の で 、 是 非 御 参 加 下 さ い 。 一 火おの な お 例 年 の 通 り 器 械 材 料 の 展 示 即 売 会 を 開催 致 し ま す 。 」 前日に東京歯科大学学会総会開催 前号において予報致しました如一お話していただくことになりまし く、本年度の同窓会総会は十一月十一た。 一一日(日)に開催されます。一また前日の十一日(土)には第一五 一 当日は午前十時より総会が行わ一五回東京歯 科大学々会総会が母校講 れ、午後一時からは例年の如く講演一堂において午前九時より午後五時ま 、今回は 、母校教 会が聞かれます。一で開催されますが アマルガムに関する 一 今回は特に我々医療援当者の生活一授金竹哲也氏 ( と直結した問題であり 、健康保険と一諸問題)、 ならびに同教授鈴木弘造 口腔疾患と臓器反応)に御講演 医療についてはどうあるべきか 、こ 一氏 ( の方面では第一人者といわれている一をお願いする こと になっております 一 日本医師会々長の武見太郎氏に御講一全国同窓各位におかれましては 、 演をお願い致しました処 、 ﹁医療制一総会主びに学会の講演に是非共御出 度と社会保障はどうあるべきか﹂と一掛け下さいますよう 、御案内かたが 、 特に東歯同窓会員のために一たお願い致します。 題し 十 嵐 村 一全国評議員会及び支部長会開催御通知 崎 申 し 五河 案 御 内 矢 す 理会 事長 来る十一月十一日(土)午後二時より母校において 、東京歯科大学 山 御多忙中誠に恐縮乍ら御出席下さいますよう御通知致します。 思 致 ら 師 医 科 医 喜本 t 六 時 半 し ま お 迎 矢 口 を 車 大 京 雲お 日目 。 与 の よ り 音 器 東 町議員及び 支部長会 を開催致します。 川 同窓会全国 訓 同窓会会長矢崎正方 山 内 て す 発 目 白 i J L 、 氏氏 方 昭和三十六年十月十五日 評議員殿 支 部 長殿 、 し 上 げ 正 i J 只 主 l 珂来% は 日 左 ( を紀 五 ー 日 科歯 童 雲 同 議堂二十数御会で つ 校月多 開 待諸 午 後 ち氏 致を L. . . 否〈 に 、 ノ 主 殿 年 月 議 会 員 し一 J 場時 氏び た 題母 一 ! の同窓 イー 自 医 喜 ホ1 「演会日ぷ員諸 Z 午"の , 、 n B 窓 同 第8 2号 東京歯科大学同窓会会報 (1) 昭和36年 1 0月1 5日 (2) 第 82号 近 畿 地 区 風 水 害 を 見 舞 って γ 一 一一 住 川熊夫先 生 す f 悼 不日誠 ρ ι ι 一に与えて下さった。 先生は 、武 庫 川地区の住民、 こと に婚矧をひかえた青年子女が自分の 一 、 いかに ↑大きな精神的苦悩を持っているもの れ、 この打倒の方法について多年心 最 近 の 度 重 な る 天 災 或 い は 人 災 に し か し 、強風のわりに雨量が少なか 一目、私どもは兵庫以1塚 市 住 川 熊 夫 県 民 生 委 員 、保護司など 、もっぱら 一を砕いておられたのである。そして 、 深 ¥心をいためている同窓会本部でったのは 、不幸中の幸であったとの一先生の思いがけない御計報を 、 岡 市 一 社 会 奉 仕 に 専 念 さ れ 不 就 学 児 に 温 リ 一ご白分でその治療法を創案される都 は、 同地方の同窓各位の被害状況をことである。明楽佐一郎君 、伊東支一で疋市をご開業の御令息義久氏からい援護の手をさし延べる一方 、古川年一 度 、母校へ私どもをお訪ねになって 一刻も早く把握し 、心からみよ見舞申部長 、海南市の明楽光三郎君宅を校 一、﹁汁、、 c 団や敬老会にも並々ならぬ貢献を尺、は 、 兆 礎 的 方 面 の 見 解 を 求 め な が し上げるべく崎 、安 嶋 両 理 事 を 即 刻 訪 、御見舞し 、 ついで兵庫県に向二し丈 T した 健災現地に派造 、矢崎会長の衷心かた。 しかも 、 同封己れた八月 二十 六 日 さ れ 、とくに 、歯 科 堅 苦 ﹂ 退 か れ た ら 、改良に苦心され 、 ついにきわめ 神 一 戸 で は 沢 田 支 部 長 宅 を 訪 ね ド らのお見舞並びに復興への激励の言本部よりの御見舞を中し述べ 、杉4 ナの朝日新聞 、反神版には 、 つぎの 当時、多額二上る灰療必械を誌の辺て有効な処置を完成された。そして 一 一 菜を申述べた。 一ような記事がトパプに掲載されてい一地にそっく引寄附せられ 、地 下 の こ の 方 法 に よ っ て 、長い歳月の苦悩 │、一官民一日以刊社関心杭じれ ο 、 日 間 こ れ ま た 一 た 感 激 を 受 け ら れ たことなどが詳しくから救われた多くの人々が 、 どれほ は 僅 少 で あ る と の こ と で 、最後に先生を仲むど先生に感謝を捧げていることか 、 安嶋宵山ω 安燐の胸をなで降すことができた。 一 ﹁公 会 主 で 地 区 あ げ て 述 べ ら れ て あ り 、 今年は銭暑が殊の外厳しく 、爽H なお 残 念 乍 ら 奈 良 地 区 へ は 直 接 足 グ 町 の 恩 人 ' に 只 例 の 葬 義 ﹂ 同 げ の 一小学主の談話で終っている怨像に余りあるものがある。 グ ほ く ら の 十 じ い ち ゃ ん 什 で 親 子 も は ト この記事を読み終ったまは﹁医は仁術なり﹂とい、っ、 誠一一州出制一戸前向河川にM I U H附 則 州 市 川 臥 幹 弘 uuv一副 一 しまれていた老人が二十五日朝 、 一とき 、まことに先生のご生涯にふさ現代の一部の人たちには 、 すでに紙 見舞を御依頼して帰路についた。 地方の被公口が報ぜられた。同窓会で 一 一 は取敢えず関係各府県支部長を通じ一被害を受けられた同窓各位の復旧一 Y塚 警 察 署 前 の 広 場 に こ ど も を わ し い 、何という尊いご最後であっ速い存在となって了った言葉の実践 、 たろっかと心からなる敬意と 鼠往吋問調法保持日ト打点叫んことを心から祈つ 一 日口ラジオ体操中突然倒れ パに十以字通り終生を捧げ尽された。 、 く 死 ん だ 。 ぼ く ら の お じ に 、 この上ない感銘を党えたし f ,もは 、 今 後 宝 塚 市 を 訪 れ て 同 窓 会 本 部 に 報 告 の あ っ た 縦 一1 7 心とした関内方聞での被害が丹 、ま 尚 、 、もはや先生のあの温厚誠実な御 げしいとの情報に接し 、矢崎会長引災会員の被害状況は次の如くである 一 いさんは本塚市月地 元 歯 科 医 -で あ る 。 も 代 理 と し て わ れ わ れ 両 名 現 地 御 見 舞 第 二 室 戸 台 風 被 災 会 員 名 一 師 住 川 熊 夫 さ ん ( 六 九 ) で 、 こ 一 先生は大正四年に母校を卒業さ風絡に接することが出来ないことを のための派遣が決定され 、直 ち に 両 津 守 剛 三 君 ロ o 大阪市北区京 一 のグ町の恩人 の死をいたむ地 ↑れ、ご同期には矢崎正方先生もおらこの上なく淋しく思う¥しかし 、 d 先 O 浸水一 m 桃川同一一一汁紘一一団い出 川 レ⋮十時是町一ア一 九州 一 バの人たちは こ﹂l六 日 午 後 三 時 れ る 。 私 ど も が 住 川 先 生 の ご 厚 誌 を 生 の 高 潔 な 御 精 神 は 、武庫川の流れ X いただくようになったのは 、 か つ て の 絶 え ぬ か ぎ り 、官塚市民の心の中 御 見 舞 を 申 し 上 げ た 。 同 地 の 同 窓 会 沢 田 光 行 者 H O H 福島区海老江 一 から問時まで岡市月地にあるI 員の強風による被害は幸にして極く 町 上二ノ六四 H 一m以下 一 以公会堂で前例のない葬儀をし 、 岡市を流れる武庫川地域に多い班伏に掻く刻みこまれていることを信じ 沢宵 J 米松 を 一一 去る九月十六日 、本 土 を 襲 っ た 超 高 く 積 ま れ で あ っ た 。 一 大型の﹁第二室戸台風﹂は 、近畿北 一 一方 、 和 歌 山 で は 特 に 海 岸 地 帯 が 一 一 斑 状 歯 の 醜 い 外 観 に つ い て 陸方面一帯にかけて極めて尽大な被 一 一 秒速五十七米の強風におそわれ 、更 害をもたらしたことは 、直ちにラジ 一に、 そ の た め の 高 潮 に よ る 被 害 が 什 主 で あ る か を つ ね に 身 近 か に 体 験 さ 送、 け 一 日UMY 新聞等々で詳しく報釘子畑一一ぷ開閉 一 一 時 一 ⋮ 一MT一 記 録 的 な す が ま だ 哀 え ね 九 月 五 小 学 校 の 宵 友 会 長 、市の自治会長 、 教教 j 受授 HCH i 1 東京歯科大学同窓会会長 M = ・ 叶 1 日 = 2・ ・ = ・ 一 M報 誌 コ 日 制 高橋ノf司君 一 こぞってめい福を祈ることにな 歯の調査に赴いたときいら切のごとて十まない。 崎 区 サ 四 日 一 である。先生は 、 そ の 都 度 じ つ に 在 天 の 霊 、永久に安らかに荘しま 風、森田両工場をも訪問 、被 害 を 見 森 春 樹 君 お η西区江戸堀上一った。(以下略) 一 舞った後 、大 阪 地 区 へ 入 っ た 。 通 二 ノ 四 二 η 一m以下 一 それから 、住川先 生 の お 写 真 入 り 心 か ら な る 御 援 助 と 御 協 力 と を 私 共 さ ん こ と を 。 大阪では早速片山副会長 、秋 岡 支 木 村 勝 彦 君 広 、 八 尾 市 山 城 町 二 の 記 事 が こ れ に 続 き 先 生 が 昨 年 四 7 ・ 一 ⋮ ⋮同一炉問一一時4一一将一味 一 、 ご健 ⋮ 州 町 トrh 大迫ノ引いユ君大阪市服一昨日成福 風水害御見舞 月 su 一 一 、 ⋮ 沢田 、高橋、森、和田の諸君の御宅 一 、全国各地を襲った﹁第二室戸 ⋮ 二 ノ 一 九 床 上 浸 水 一 m以 村 康 を そ こ 去 る 九 月 十 六 十 七 の 両 日 に わ た り を尋ね 、 心から御見舞を 申 し 上 げ 一 細 見 佐 作 君 " 一 間 二 ノ 五 四 な わ れ て 一 ⋮ 台 風 ﹂ こ よ っ て 被 害 を 受 ナ ら れ た 同 窓 、各位に対し 、心からお見舞を ⋮ 仕出叫 ん らげ紘一一開時抗 一 四十ト削以下第一線を⋮申し上山ます。﹄ 恩賀国五部君 忌 ⋮ 東京歯科大学長福島秀策 退かれて " 実に察せられる程に 、未だに街路の ηωD 口 ヨ ⋮ 、z いたるところに物品の残ガイがうず 一他 に 庇 浸 水 四 名 か ら も お訂立 東京歯科大学問窓会会報 昭和36 年1 0月1 5日 第8 2号 東京歯科大学同窓会会報 (3) 昭 和3 6 年1 0月1 5日 見二 舞 室 記台 風 近 畿 教 地 授 方 同 渡 窓 辺 被 の戸 量 Eコ 三 ' 1 弟 但しこの地区に同窓がなかった事は一高橋昌捷氏この地区は一米以上浸 一玄関で名刺を出し御取次ぎを乞うた 幸であった。これと隣り合せて居る 一 水の地区であるが 、高橋医院は電 一 所奥さんが 出 て釆られたので早速釆 一して行くようにとの事。やがて能⋮谷 福島区西区北区等が高潮の水害 、そ 一 車 路 の 高 い 所 に 新 築 さ れ 床 上 僅 か 一 意を告げたら 、 まあ上ってゆっくり して淀 川 の東側から和歌山 、 回辺あ 一 の浸水で被害少く済まれた。 氏も帰宅され尼ケ崎は全市被害はな たり迄の幅で大和、奈 良 方 面 に か け 一 高 楼 貞 雄 氏 地 階 の 台 所 に 浸 水 の 由 一 夙 の被害という事になっている。畳一時間の都合で御見舞出来なかった 一いから安心して今日はゆっくり話そ 九月二十一日五時母校新館会議室部長室で商談。西下の用向を話し御 一に秋岡支部長と別れ其の御指示と 小 一もっと皆さんを御見舞し親しく被害 一うといわれる。私用の時に譲りまし 室 氏の厚意により順調に大阪の被害 一 状況を報告したいのだが時間に限ら 一ょう乙厚意を謝し急ぎ大阪に引返し に開催されていた本学の常務理事会見舞をした。この地区に集っている 一 阪大の歯学部 、 医学部、 同病院、理 一の多 かった同窓を御見舞する事が出 一れ大阪市も西の果てから築港の方ま 一たが既に夜であった。翌朝南海電車 から呼び出された。何 事かと其の 席 一 に行った所 、 こ の 度 の 台 風 御 見 舞 に 学 部 、図書館其の他四つ五つある大一来た。被害大略次記のようである。一で巡ると相当なものである。御見舞 一で和歌山市に行き伊藤支部長宅を訪 大 阪、神 戸、和歌山方面に行 くよう -き な 附 属 研 究 施 設 は 全 部 地 下 室 は 勿 一 御 見 舞 し た 順 に 記 載 す る 。 一 の 出 来 な か っ た 同 窓 各 位 に 御 詑 び を 一 閃 し た 。 既 に 大 阪 か ら 連 絡 が あ っ た にと学長から命ぜられた。二十 三、二 一 論一階迄も浸水し其の損害九億円を 一 片 山 清 一 氏 堺 筋 の 明 治 屋 ピ ル の 同 一申し上げ秋岡支部長に学長はじめ同 一らしい。 和歌 山方面は風の被害が多 十四と秋 の好シ ー ズ ン の 連 休 が あ る 越 え 、歯学部も床上四O 糎の浸水 、 一 窓会副会長に御見舞と来意を報告 一窓会長の意を伝え次の神戸方面を御 一く瓦の 飛んだ位 は被害 に入らないと ので御見舞に行く方は都合がよいが 一椅子-一ユット 五十余台 、地下配電等 一 この辺も御自 宅も 被害殆どなし。一見舞 することに した。 神戸の西須除 一の事。しかも瓦も大変値上り口問不足 先方が留守 や休日 の為め調査には 都 -に約一千万円の損害である由。東京 一松 本 積 氏 土 佐 堀 橋 の 大 同 ピ ル 一 二 に 近 い 長 田 区 の 沢 田 英 三 支 部 長 を 先 一で仲々大変らしい。市内も海南市辺 合が悪く一刻も早く行く要を感じ一から打った電報と学長からの電報は一階に御見舞す。この辺は水は来た一ず御尋ねして来意を伝えた。生憎お 一りも瓦が飛ばされた位で被害の大小 た。若い時な ら夜行で一日や二日眠 私が阪大に着いた後に届いた。電話 一 所であるがピルの 二階は被害なく一 休みの日 で御筒守の方が多いと回むこ は む ず か し く て 付けられないと の事 た 。 沢田氏の御厚意と御指示に従い 一で一切支部長に御願いし学校から皆 らなくても平常と変らず査の用事がの連絡も遂にとれず、 この日は阪大一 御自 宅も・挺の植 木 の被害位の由。 一 果せたものだが目前に古稀 を 迎 え る だ け に 終 っ て し ま っ た 。 二 十 二 日 朝 一 森 春 樹 氏 松 本 氏 の オ フ ィ ス の 近 一行動する心算で居たが神戸地区は剖 一さんを御見舞に来た事を伝えてくれ 齢となると翌日の仕事に自信がない 一九時少し過ぎた頃 、 天満橋の大阪歯一くであるが診療室床上浸水。既に一合被宝口少く兵庫辺の港岸に近い医院 一るよう依頼し 、明楽佐一郎氏宅を訪 ので翌二十 二日東京駅七時五十五分科大学を訪ねた。新装の堂々たる大 一 大体整理されてあった 。 一 二 軒が浸水。他は大した 事ない様子。 一間御見舞に来 た筒を告げ 、 そこで回 発臨時急行第 二なにわ号に乗り込みピルになって居た。村中事務局長に 一 電話で垂水の自宅に居られた藤井博 一辺市の恩賀国王口良氏が浸水されたと 津守剛三氏大阪ピルの裏側で診療 一 大阪に直行した。東京駅ホl ム で 電 逢 う事が 出来た 。 この辺は全く損害 一 室のスピットンの所まで浸水。最 一氏中川源治氏を御見舞し 、 お休み中一聞き準急行き の く に 号 に 乗 り 込 ん 報が取り扱われていないので車内かがない。牧方の分校では古い木造の 一 も被害が大であるが 、幸い御自宅一の沢田氏の御案内で荻原貞雄氏を訪 一だ。約一時間余 りで 次の駅が回辺だ ら大阪に屯制限して置いた。午後 三時 校 舎 、渡り廊下等が強風で破壊され 一 は別であった。 一問。生憎御山問守であったが診療室が一った。駅前の自動車で恩賀侠院を訪 門したが留守。近所の人に聞いた所 五十五分に大阪に定刻に着いたけれ 一たそうだが損害は軽く済んだ由。こ 一大 迫 伝 二 氏 診 療 室 床 上 三 尺 の 浸 水 一 二 階 で あ る 事 、床上一五糎程の浸水 一 。 十分程待ったが一れより車をとばし十時に 阿倍野の近 一 でこれも酷い。シャツ姿で整理中 一で時間も短く割合被害は少い模様を 一駅の後側の竜門という旅館に居られ ども誰もおらな い 誰も 来ないので秋岡支部長に電話を 鉄百貨庖五階に小 室氏を尋ね 、直 ち 一 表 の 道 は 浸 ぶ し た 畳 や ごみが山積 一知り次の梅津恒次氏を訪門した。梅 一るというので再び駅の後に戻り竜門 した所番 号 が 変 っ て い て 連 絡 が と れ に 秋岡稔博支部長に連絡を した。 小 一 されていた 。 一 津 氏は自 宅にあって御僧守 、診療室 一を訪ね恩賀さんという歯科医の先生 御泊 りで すかと聞 いた。所が此の竜 ない。小 室史 郎君に電話したら 留守 。一室氏は生憎ロータリ ー の日であり又 一細見佐作氏床上浸水であるが診療一は浸水し椅子の油も流れたようであ 一 止 むなく駅のタクシ ーを 屡 々 待 っ て 富 山で開催される 学会出席 の為め種 一 室が二階で階下は既に新しい畳が 一るが筒守居の人らしい婦人の話でよ 一門の御主人が即ち恩賀先生であった 阪大に行った。玄関にリゾール の 入 一 一く判らなかった。しかし既に修理し 一ので恐縮した。診療所は高潮で床上 々御多忙、貴重な助言と心からなる 一 入っていた。 、 った消毒台がズラリとならび玄関か 一 御高配と御援助を 言 い残されて 別れ 一 和 国 政 吉 氏 夏 休 み か ら 改 築 中 で 診 一たとの事で安心した 。次で奥田致 二 浸水したが昨日片づけ 今日は旅館 ら消毒液の強い唄が鼻をつく。了度 一た。秋岡氏は近鉄まで釆られ被害状 一 療器械 、御家族は甲子園口の御子 一氏森玄成氏 、野村尚吉氏を尋ねたが 一の 方 の 植 木 を な お し て お ら れ た 次 其時文部省の被害調査官数名が、水井況並に御見舞の方法等に就て御指示 一 息の方へ移って居られ改築中の家 一 皆無事であった。沢田支部長の御厚 一第。田辺に居る同窓の中では一番酷 歯学部長代理松村院長に送られ学部 一を頂いた。大阪は大体 淀を境として 一 は器械も人もなく床 下浸水。 一 意を謝し御別れしたが尼ケ崎市は低 一い方かなと肥った首をかしげて居ら 、階下床一いので被害があるらしいと聞かされ 一れたが大阪辺りとは大分違うようで 事務長病院事務長を従えて出て来 一 一 其 の す ぐ 西 側 の 西 淀 区 が 高 潮 被 害 甚 沢 田 光 行 氏 診 療 室 は 二 階 た。この人達が帰った後永井部長と 一大で完全水没の歯科医院八軒ある由 一 上 浸 水 被 害 少 し 。 尼 ケ 崎 市の熊谷滝雄氏、を訪門した。 一あった。汽車の都合もあり玄関で失 御 第 ﹀ 付 号 昭 第 の大ピルが美しく光っていた。天災一らん事を祈り筆を矧く。 アドバイスを受けつつ 、唯一の交通 一などの被害をのぞいて 、人と診療室 路たる東海近回りで 、当夜八時十 冗 一に異状なき由。朝食をいただいて早 分米京駅を後にした。 一々に武生の向笠浴 6氏℃に向う。 一 武生でも 、敦賀同程度の被害と開 口 福 井 ・石川県下 九月二十二日(令)問時半 、 米原で 一き、胸 をなでおろした。電車で福井 急行﹁月光﹂を降り 、十五分後に芳一の五十嵐嘉秋 7支部長宅に赴く。山 お)氏一とぴ込まれて 、重ね重ねの大被害。一いていたことを聞いて安心した。 口玄洋君 8のカ │ で厳父州一( と久方ぶり対面してご健勝を祝し 、 一診療室はメテ ャメチャであった。応 一 正 午 近 く 開会式あり 、 日歯会五十 嶺北内名の被災者のうち 、百十嵐君一急修理もしであったが 、 当分は 、診一嵐発昭 口専務の顔も見えた。鹿島俊 療も不能の模様。御見舞の申し上げ一雄 8参議院議員の挨拶もあった。大 岡田種義氏(比)や大野好孝則 、大三 一 m父 子 百 を 巡 回 見 舞 し た 。 ま た ム 口 一 様 も な い 始 末 で あ る 。 一 阪 の 小 室 史 郎 氏 5より市内同窓の浸 郎 夙 二目前の九月十内日逝去された斎一前支部長であり 、現県歯科医師会一水状況をきいて胸をいため 、殊に阪 藤良三科の霊前に額づく。同君には一長芦本重雄氏 5宅も犀 川大楠の機畔一大 医学部の地下室浸水に関して 、中 既に今夏福島学長北陸参上の節病床一にあり 、如何かと思って行ったが 、 一央臨床検査所や付属微生物研究所の を見舞っておられる。吉田英二君 8 一幸いに安泰。小立野台にある国立金一被害に深く同情した ο たしの到芦の前H に、玄関ヘカ 茶屋旅館に荷物をおいて中田尚 8支一岸の中目。連休めどに富山市で第十一大歯大教授の歯糟股漏の特別講演 、 部 長 七 へ 重 い 足 を 運 ん だ 。 一 四 回 近 畿 ・北陸地区歯科医学大会が一続いて日歯大 ・園山昇教授の口腔外 途中 、タ閣の市内を一巡し 、犀川一あると聞き 、富 山銀座﹁総曲輸﹂に一科の話を聞く。その問、 石崎憲吾 ・ の定防切れで 、 一時水びたしになっ一程近い市公会堂へかけつけた。宿舎一護 詑父子 、渋谷孝雄 7、浦野潤初 、 ∞厳父菅田 た金沢銀庫﹁香林坊﹂に科近い 、長一から 、 早朝魚津に住む赤祖父三郎一金山嘉城お 、倉田卓・君民・ 岡寛伯君U・℃を見舞った。二階建て一(日)支部長に電話連絡しておいて 、 一附山 5、杉江玄照 ・玄己巴・由父子 、 玄関に而した窓ガラス全部飛ばされ一十時半会場へ乗り込んだ。すでに特一松島正成路 、山崎安 4、柏木涼氏 一 の軽かった事を た巾。今も成る広告灯の被害を見一別講演者河辺清治氏 6の補綴の話し一らに面接して 、災害二 て、当時の惨状を偲ばせるものがあ一が始まっていた。終ってから 、同氏一叩再びあった。 った。思いことは置なるもので 、 ゎ一が母校を立つ時 、学長施 、敦 賀 か ら 一 午 後 五 時 、神通川を渡っ て呉羽 山 1 に一のわたしの第一信が二十二日正午印刷一頂上にあるヘルスセンタ ー での懇親 一 今般は、講演でも招待でもなく 、 北海道の西岸を一なめにした。 小松で仲谷清次氏 ・純=一お父子宮一窓は毎月十四日 ( 東 歯) に同窓の集一ところ大変感激の面持であった。高 常に 、 母校出身者に気を遣ってい一大学からの見舞なのである。一切同 へ市で乗りつけた。当地方は大聖寺一いがあり 、研修と親時を重ねながら一回尚文君 日 は中支戦線でアメ ー バ赤 窓に迷惑をかけない信条であり 、拙 の町名 で知られた 加賀市と金沢と の一母校を懐しんでおられる由 、頭の下一痢にかかり 、 エメチン療法で中毒、 る東京歯科大学法人常務理事会では 一 速主義で飛び回り 、被害甚大と聞い 中間にあり 、一福井県同様被害が軽か一る思いがした。能登半島は 、金沢に一両限失明の人。目 下、 盲聞学校教師 痩本国内事 、福島学長 、斎藤 ・溝 上 両 一 った。仲谷家一同の御懇情を謝レ市一くらべて被災少ない由 、安心して夜一となり健在。先般 、 県下の同窓有志よ 副学長、杉山学監、大井院長等列席 一た新潟県へ早く入りたいのである。 の下 、九月 ニイ日(ぷ)午後 、 台 風 見 一 車をひろって 、 まず福井県嶺南地区 窓から見る米所の水稲の倒れや 、電 一 半 宿 舎 に 戻 る 。 一 り M風機を贈られ 、 大変喜ばれたと 舞に 、取り敢えず教授級の現地派遣 一の戚の要に当る敦賀の岡田歯科へ肉 柱、広 告 桝 の 傾 斜 が 門 だ つ の に 胸 を 一 同 富 山 に て 一 言 う 美 談 を 烏 潤 か ら 聞 い た 。 一った。早朝の駆け込みに 、 当主 、岡 痛めつつ金沢着は午後六時。駅前の一明くれば九月二十三日(土)は 、彼 一 午 後 は 、同窓でもある小野寅之助 が議せられた。 翌二十一日(木)早朝 、渡 辺 悌 教 授 一回太一君江は迷惑の色も面に表すこ は関西へ急行された。戦後の福井の一となく 、舎 弟 、 手鹿正M や山口一郎 震災 、魚津の火災見舞の経験のある 一 犯 の両君も 馳せ参じてくださった所 わたしに、三度び北陸行の急命が下一で見舞の口上を述べた。その席で小 浜の西尾武仁太郎氏 (9)の窓ガラス り、 日本歯科医師会坂本事務局長の 一 も昼食の席に駆けつけられた。郊外一沢病院歯科医長官舎の小林一郎氏 一 昼 食 の 休 み を 利 用 し て 島 信 行 君 北陸風 害 見舞記 2 由と同道 ∞-Uのカl で青木康三君 民・ の大野市大和町の松田昭君M の被害一に車を回して学長の伝言をした。途一 同 教侵米沢 のお見舞を電話で述べた。ついでに一中車窓から見た日本の三公園の随一一して市内の大先輩藤井義人氏宅 1を 岡市の元文忠男君5・HNへも電話連一である兼六園も 、銘木が算を乱して一見舞った。脳軟化症で二年近くの病 ・石 絡 し た 。 同 窓 に は い ず れ も 大 被 害 の 一 倒 れ て い る と 一 言 っ た 惨 状 。 一 床 。 母 校 出 身 の 二 子 に 先 だ た れ 今 春 付出発く﹁能登﹂に乗り込んだ。福井 去る九月十六日(土)の第二室戸台 一川 ・富山行の人で始発の東京から 、 ない事を確かめてお川県へ急行し一中田支部長宅に一戻って柿原不器郎一夫人にも逝かれて 、禄々口もきけな 風は 、鹿児島 、 四国を通って近畿地 一すでに立錐の余地もない有様で東京 た。後で富山で本人から直接聞いた一氏 2、津島邦俊日 、長岡究伯U 西村一いと言ったおさびしい状況。わたし 方に上陸し 、大阪を中心に兵庫 、 和 一では即座に座席指定が取れなかった ことであるが 、丹生郡白 山村荷蒲谷一寛猛 ロ 由兄弟の諸君もおいおい 参集一の世話で養子 、起三郎君(日歯大卒) 為である。立ちつづけで六時敦賀に の篠 山幹一君 ロ からも 、安泰の由承一され 、夕食を戴き乍ら風害見舞母校一夫婦が面倒を見ておられる。果物の 歌山にその爪あとを残し 、 日本海に 一 、要望に花が咲く。当地同一盛箆と金一封を大学名でさし上げた 抜けた。その余波が 、北陸や奥羽 、 一 下車 。 った。一の話やら 不11 礼して連休で白浜帰りの酔っぱらい一も恐ろしいが 、 人のカで守れば守れ 置の多い汽車ポッポで往路の倍位の時 一ない事もないのだなと考えさせられ 一問、煙になやまされ乍ら天王寺駅に一た。この御見舞に当り特に御協力と 、 、 、 一辿りついた。大阪の中の島ピル街、一御高配を賜った小室 秋岡 沢田 一阪大 、新大阪ホテル等皆浸水した大一伊東氏の御芳情に深謝し被害を受け 田ピルの中で 、関西電力ピルだけが一一られた同窓各位に心から御同情巾し 滴の水もピルの中に入れず地下三階一上げ一日も早く御健勝に御復興なさ 東京歯科大学問窓会会報 昭和36年 1 0月1 5日 害の大きい中越地区三氏宅を行脚し一君 日 ( 三島郡与板町長丁 )を見舞一そこに 、快適のベットにもぐり込む一ではないかと緊張したが 、なるほど 、 先 般 の 集 中 豪 雨 の た め 山 一 や 否 や 直 ち に 夢 路 を 辿 っ た 。 一 高 徳 本 線を南下し白鳥あたりまで来 て見舞うことにした。一ぅ。途中 、家々の屋根が剥げ 、羽目板が 午後二時半 、海岸沿いの新潟行の一向れがあり 、道 路 に は み 出 し て い た 一 同 あ と が き 一 る と 越後鉄道と一言う名の気動単で井比君一ので迂回したりして 、漸く着いたの一明くれば九月二十五日(月)八時十一陥ち 、塀がくずれ 、被害は本格的で 同道で稲扱機で有名な地蔵堂駅に向一である。一分新潟始発の急行﹁佐渡﹂の車中の 一ある。徳島の二つ三つ手前であった う。駅前通りに住む専門課程二年竹一消防団長の同君は 、自宅の屋根の一人となった。駅頭には 、 松川男児一ろうか 、米津歯科医院の立て看板が hH 池田を通らず、 高松へ戻り 、土讃線 を利用して高知市へ入ったのは二十 五日の夜だった。翌二十六日午前支 部長横矢重和先生の車と案内の方を (六頁下段へつ づく ) ﹃市"す 会に臨席した。会半ばにして 、同窓一太加君の父山宮哲郎君江 (西清原郡一とんだのを知りながらも町内被災者一 日夫人が 、風邪発熱の主人に代って一 午後二時上野安着。直ちに母校に 有志と 、神通河畔舟料亭﹁ちとせ一一分水町地蔵堂二O 七六)を見舞った。一のためにとび回り 、 みすみす被災さ一 見送って下さった。その節同氏分担一 帰り復命した。今般の見舞旅行中一 で鹿島君と私の歓迎会が聞かれた。一新潟県下でも本地区は 、風害の最も一れたとのこと。幸いにして隣接の診一 出筆の﹁ビタミン研究五十年﹂(ピタ一 貫して北陸としては珍らしい程の晴 、 集う面々は米国祐弘 8、金山晴顕 、 一甚大なところであり 軒並に屋根が一療室が安泰であり 、肥大漢の陽気な一 ミン五十年記念事業会刊行)一冊が一 天に恵まれ 、若く大命を果すことが 一 贈られた。松川博土は 、 わたしの教一 出来たことを喜ぶものである。 、 田中直一はがされていた。幸いにして同君は一同君のお風呂上 りの顔を見てホッ ト 吉岡達雄5・也 、菅野家紀 口 室同人でもあり 、松川のアノイリナ一 北陸四県は申すに及ばず 、大阪を 次 9、赤祖父=一郎日 、青木進辺 、 島 一 診 療 所 安 泰 自 宅 は ガ ラ ス 戸 を と ば さ 一 し た 。 一 也、栗山実純一れた程度であったが 、 土蔵の傘を吹一お見舞言上もそこそこに 、 とつぶ一 l ゼ 蘭 ( 同業 、 M M菌)発見者である。細菌一 始めとして全国の被災の同窓 、 信行区・由 、宮本乙男5・ ∞ ・ 由、青木康一きとばされ 、雨もりがしたり、山林一り暮れた信濃川の分水の土堤沿いに一 性脚気の本態究明の業績が世界的に一 国民の一日も早い復旧と 、ご健勝を 5、中川武 8、島秀雄 同 三区・由 、関剛三郎 8、深山正之おの一の杉が折れて全滅と言った被害を受一長岡に向った。駅前の梱回悌治 8、 一喧伝せられると言った高名の仁。一 祈って筆を措く。(九月二七日脱稿) 諸氏。鹿島参議の挨拶にひき統き 、 一けておられる。町全体は稲扱機の積一武次郎 8兄弟宅を見舞った。両君と一 四 国 の台 風 お見 舞 い に 使 し て わたしは台風の御見舞をのベた。一出しどころではない惨状である。一も不在であったので奥さんに来意を一 、 島秀雄君のカ1 で富山駅へ行き 、 一すでに夕闇迫る四時を打ったので一つげた。午後六時長岡駅で 同行の一 WKμ 教授一崎 02 白 ようやく前日から開通した急行﹁北一ハイヤ ーを用意してもらって急ぎ山一弁比君と別れて独り新潟に向う。一 陸﹂で当夜帰京する鹿島君と同車し一田利通氏 4 (三島郡和島村島崎)を一駅前の近代式東映ホテルのロビl 一松山市で聞かれた四園地区歯科医 ひっくり返えていたのは痛ましかっ 、 て泊駅で途中下車し 、隣り町の入善一見舞った。途中学校の全壊もあり新一では岡田支部長を中心に清水弥寿雄一学大会に出席した私は 引続き四国 た。ここの支部長宮井章良氏の案内 、 宇佐美達却の両一四県の第二室戸台風による被害をお で徳島市中を一巡したが 、 猪子寿一 に住む舎弟、米沢清次医院に車をと一潟県下での被害第一人者との聞き込一氏 5や勝井義介口 一みで案じていた通り、山田氏宅の屋一君がわたしの現われるのを待ちわび一見舞いすることになった。愛媛県は (田和一八 ・九卒)、大塚温(昭一三 ばして一泊。一一一根が落ち、診療設備全滅の惨状であ一ておられた様子。三階の予約シング一学会の地元だったので 、九月二十四 卒)両氏宅が床上浸水の被害を受け 同新潟県下の行脚一一一 一った。子息道夫君は 、専門課程三年一ルベットに荷物を放り出してロピl 一日学会の後で聞かれた同窓会の席を ておられた。両氏宅とも後片付けが 九月二十四日(白)は六時半入善発一一一 一在学中。大学後期の授業料や臨床実一におり 、夕食を戴き乍ら本日の見舞一利用してお見舞いしたが 、幸いここ やっと一段落という有様であった。 柏崎十時半着。難所の糸魚川、 青 海 一 一 一 一習用器械セット購入に莫大の出費が一状況を報告した。当日は日曜ながら一は被害がなかった。事実松山市内を 長老大塚熊太郎先生宅では従業員の の中間、 姫 川 鉄 僑 上 の 不 通 偶 所 は 徐 一 一 一 一追かけやって来ることを思い出して一先月発足した口腔外科研究会が新大二寸歩いたぐらいでは 、嵐の跡形も 一人が水没という、 これはまた人命 行で 、前 々 日 よ り 漸 く 通 れ る よ う に 一 一 一 一心中暗然たるものがあった。もっと一医学部歯科(吉岡氏主宰)で本月例会一見られなかった。しかし郡部のこと に関する被害であった。大体ここは Lf なった由。電報で呼び出した井比孝一も 、父兄会や同窓会に被災者子弟の一がもたれ 、村瀬正雄 8東女医大教授一もあるので支部長中島佐三先生に県 高潮と満潮の時刻がぶつかったので 君 7と 駅 頭 で 上 越 地 区 の 被 害 の 軽 微 一 一 一 ひと息に水が上り 、 また瞬く問に退 一学資援助規定があり 、帰学の上は本一が見えられ 、百名の会員散会した直一下皆さんへのお言伝をお願いした。 をきく。村上三郎氏(進学諜程二年一一、 一 一人を呼び出し 三年クラス主 任鵜養一後の由。すでに村瀬教授は帰られた一愛媛県の次は香川県である。高松 くという急激な水難が主であったよ 高垣順吉君の父兄)や市内の同窓大一一一 一弘助教佼(補綴)や長尾喜景学生部一後であり 、 お見舞談やら母校談で一一で支部長大西弥吉先生をお訪ねした うである。郡部にも相当な被害の同 一 烏稔(日)氏や勝海昇一 8、吉 岡 敏 雄 一 一 一長(口腔外科教一役)に相談する腹を一しきり賑った。午後八時過ぎ、散会一が 、 ここもまた幸いに大した被害な 窓があると聞いたが時聞がないまま m、石 川 東 一 日 の 諸 君 と 料 亭 ﹁ み や 一 決 め た 。 一 し て 自 室 の パ ス に て 入 浴 中 、永井淳一しとのこと。したがって県下同窓各 に、 あとを宮弁支部長に托して高知 こ﹂で畳食をいただきながら母校談一母校からのお見舞金一封を渡し 、 一夫君幻の来訪を受けた。前記研究会一位へのお言伝をお願いし、一時間ほ に向った。大変なお世話になった宮 に花が吹く。幸にして新潟の岡田信一後髪を引かれる思いで山田氏夫妻の一の戻り道 、同一ホテル宿泊中とか。一どで辞去した。台風の進路に当った 井章良 、賀川季胤 、米津武之助諸兄 雄8支部長に電話述絡っき 、最も被一お見送りを受け 、 、 馳せて山田晃一連日の疲れが出たためかお話もそこ一徳島は 、 車 を 和 歌 山 大 阪 ほ ど に 酷 い の に 深 謝する。 徳島本線に不通箇所があったので (5) 昭和3 6 年1 0月2 5日 東京歯科大学同窓会会報 第8 2 号 事 補綴(十月七日) 沖縄島民の歯科診療に従事する歯 @ 人 @ 歯科医療班沖縄派遣 科医療班として 、 本 学 か ら 氏 家 英 峰 講 師 昇 任 口外) 岩 野 孝 助 手 ( 放 射 線) H( 六年会員名簿 近︿完成配付の予定 今 回 、 四年ぶりに同窓会員名簿改訂を企画し 、 会 報 そ の 他 に お き ま し て 御 協 力 を お 願 い 致 し ま し た と こ ろ 、積 極 的 な 御 援 助 と 御 協 力 を 戴 き ま し て 、 近く完成のは こび と な り ま し た 。 同 窓 各 位 に 対 し 厚 く 御 礼 申し上げます。 なお 、 名 簿 は 近 く お 手 も と に 達 す る こ と と 存 じ ま す 故 、御受納下さ いますよう御願い申し上げます。名簿改訂委員 勲 講師(口外)、服 部 玄 門 助 手 ( 保存) 成毛二郎 偉 礼 謝申し上げます。 学長 陸上競技部長 五頁下段よ りつづく ) ( 拝借し 、 市 中 を 一巡したが 、 どのお 宅にも被害がなか った のは嬉しかっ た。強いていうならば 、岸 正 明 氏 宅 の煙突一本倒壊を報告しなければな らない。 ここでもまた郡部を廻れな かったのは残念であり申訳けなくも あったが 、私自身の余儀ない事情の た め あ と を 横 矢 先 生 に お 願 い し 、先 生と金子英彦氏のお見送りのうちに 午後一時半全日空の飛行機で群青の 空を大阪へ向った。鳴門海峡が白い 泡を噛んでいたのはこの旅の目的が ( 昭 三六 ・ 一 0 ・八) 紙上を拝借して心からのお礼を中上 げたい。 第九回日本歯科医学会 第九四日本歯科医学会総会は来る 総会 開 催 御 案 内 福島秀策 の三 日間にわた り 東 京 に お い て 開 催 十月十九 (木)二十 (金)二十一日 (土) 専門分科会 会場九段会館 午 前 九 時J午後問時 総会 日時十月十九日 ( 木) されますので御案内申し上げます。 瀬端正之 山崎謙 学長 近藤三郎 福島秀策 意を表します。 卓球部長 九時より午後四時乃至五時まで行な われます。 球部員に対し 、 炎 暑 の 中 巡 目 御 声 援 各専門分科会はそれぞれ左記の会 賜わりました同窓各位に深甚なる誠 場において十月二十日 ( 金 )十月二 十一日 ( 土) の両日にわたり 、午前 なわれました全日本医歯薬獣映-大学 卓球大会に出場いたしました本学卓 先般錦地阿倍野体育館において行 御礼 近藤三郎 ました地元同窓各位に対し心から感 物心両面に絶大なる御声援を賜わり 技選手権大会出場の本学部員に対し 先般の全日本医歯薬獣医大陸上競 御 以下略。 優勝 H東 歯 大 、 二位 H慶 大 医 学 部 目的だけに一入凄槍だった。 被害にも拘らずお見舞できなかっ 三位 H久 留 米 医 大 、 四位 H名 市 大 薬学部 、 五位 日新 大 医 学 部、 六位 た同窓各位にお花び中上げるととも H日大歯学部 、 七位 H広 大 医 学 部 に各地でお世話になった皆様に この の 及び高梨恒一助手 ( 補 綴 ) の三名が 三六 ・ 一 0・ デい一 去る八月二十三日羽田を発ち沖縄に 向 っ た 。 目 下 、現 地 で大いに活躍 、 辞 任 一 本 年 八月二十七日久留米市高良台 陸上競技場において聞かれた第二十 市 川 暢 夫講師 (口外 、 休 職 中) 五 三六 ・ 七 ・ 一 山岸 昭 平 助 手 ( 保存 ) 会れ躍手 競技選手権大会に参加した本学陸上 +さ活選 島 民 か ら 深 謝 さ れ て い る 由 。 尚、 今 回 の 派 遣 は 九 、十、 十 一 月 の 三 ヶ 月 間 で あ り、 その後は 、 他の大学から 一回全日本医歯薬欧阪大学対抗陸上 : t r . f J 三六 ・ 八 ・三 一 技 干て。 選出された歯科医療班と交替するこ (口 外 ) 綴) りげき各勝 。fこ 至 種 を 4 2難 目 慶 示とにぶ とになっている 。 。 学 内 イ ン タ ー ホ l ンの設置 現 況 』 競技部選手一同は地元同窓の絶大な 主~ 策瀬六朗副手 ( 保 存 ) 三六 ・ 七 ・三 一 三六 ・ 須田真知子 ( 図書館 ) 学内教職員に対する緊急通絡、又 辞 職 は時間外の外来電話の連絡等につい ては 、 今 後 学 内 地 階 か ら 新 、 旧館含 御礼 懸田利孝 ( 補 森内護 三六 ・ 九 ・ 一 非常勤講師依嘱 ( 三六 ・七 ・ 二 ) 服部由紀子 ( 図書館 ) めての計二十処所に新設されたイン 新 任 ター ホl ンによって 、 極めて便利に 能率的に行われるようになった。 命第 三 十 回 歯 科 医 師 国 家 試験施行 本年度二度目の第三十回歯科医師 は二十九名(そのうち五名は他校出 国家試験は十月一日より行なわれた が、 本 校 に お け る 実 地 試 験 の 受 験 者 身者)であった 。 なお試験科目は次の通りである。 筆記試験十月一日 保存 、 口腔外科 、 臨床五科目 ( 補綴 、矯正 、 口腔衛生)および 十 上 つを年を先 ぎなに受輩 のし引けと 通遂続て俊 :7 ごj 基礎三科目(薬理 、病 理 、 細菌) 実地試験 陸 よー 過日 、 関 根 永 滋 教 授 外 遊 に 際 し ま し て は 種 々 御 高 配 を 賜 りか つお見送り戴きまして誠に有難 うございました u 書 面 を も っ て 御 挨 拶 申 し 上げ た筈ではございますが 、 混雑の 為失礼した方々もあるかと存じ まして本紙をかりまして厚く御 礼申し上げます。 保存学教室 上三年る 位 連 、声 校新昨援 ;校 ; 診断(十月五日) ヨL i母 3 充煩(十月六日) r . 1 1. ) 号る昨 ー じ (6) 第8 2号 東京歯科大学問窓会会報 昭 和3 6年 1 0月 1 5日 増改築進渉中 本年の夏期休暇を利用して 、 福島 への通学の学生諸君が大きな比重を 学長を始め 、斎藤 ・溝上両副学長 、 占めているようだ。 さて 、 パスから降りると 、向 って 杉山学監 、大井院長 、高遠の諸教授 は、酷暑の中を 、市川病院増改築、 右側に旧外来病棟が七月中旬から開 口腔衛生学教 室、 アイソト ープ 研 究 始された取 り こわし作業を完了して 室、歯科衛生士学校講義室等の増築 古い材木が集積されているのが見ら 、 計画を完逐致すべくかねて公募中の れる。正前の仮外来病棟は 、昨年ま 学債募集の実をあげるため全国各地 で第六病棟と呼ばれていた耳鼻咽喉 に同窓を訪問された。御承知の如く 科、産婦人科 、 小児科の外来診療室 と二階に十数室の病床を有していた 学債募集の金額は二億円 、 壱口金五 ' 万円であるが 、利率が年八分という 場所で 、 これに旧予科時代の物理化 高利廻りであり 、元金の返済もまた 学の実習室を結びつけた二階建の建 確実であるとの説明をぢきちきにう 物 か ら な っ て い る 。 聞 く 所 に よ る かがい 、 幸 い 各 地 同 窓 諸 氏 の 御 賛 同、御協力も絶大なもので 、着 々 所 期の予想に向われているとのことで 市川 病院を訪ね て の 正面玄関より一歩病院内に入る グしである。 と、受付は患者の列である。木造の 古い建物ではあるが 、塗装の色も明 るい。想像して来た以上の活況に目 をみはった。 患者診療に奮斗している。 長代理で太田助手と共に手術に外来 整形外科は野口好之教授が部長で あるが 、院長多忙の際は神野一助教 授が部長代理をつとめられ 、山内講 師と共に活躍している 。 耳鼻明喉科は 、川勝道夫講師が部 るとの ことであるが 、患者の疾病の 歯科大学学会には鈴木教授が﹁口腔 種類、男女別 等の関係から一七O名 疾患と臓器反応﹂と題する特別講演 を越えた入院患者を抱えると病室の をされる。恐らく、市川病院開設以 割 り振りが付かなくなるとのことで 来の貴重な研究業績の発表とて 、学 あった。筆者らの聞く所では各科病 内挙げて期待している 。 外科は部長中島哲夫教授 、加藤繁 室を獲得するのに一苦労だとの由。 治助教授、保坂助手で運営され 、新 設に近い部乍ら既に大きな実績を挙 げているとのこと。 された。 歯科には高達教授 、加藤倉 三教授 川島康助教授 、萩原和志講師 、大 井 一正講師の他助手三名 、副手二名 、 研究科生一名、技工師二名 、歯科衛 生士一名 、看護婦二名 、見習二名と 云う編成である。高教授は病院の顧 問に就任され 、部長は加藤教授 、 医 局長が川島助教授 、診療のかたわら 隣接医学との協同研究 、新治療分野 の開拓を研究の主眼にしているとの ことである。 内科は部長鈴木弘造教授 、和田知 雄助教授 、 川村顕講師 、荻野通講師 長嶺弘毅講師 、看護婦三名と云う陣 容で 、圧倒的に多数の入院患者 を擁 し活躍している。来る十一月の東京 お願い 次号(第日号)会報原稿締切は十 一月末日です。 御投稿を御待ちします。 希わくば 、同窓諸氏も折を見て 、 是非目の当りに一見されんことを切 望する。 以上が各科の概況としてうかがっ て来たが 、病棟を含めると五O名を 超える看護婦、総員二一O名を越え る教職員を有した市川病院が 、全員 一致並々ならね努力のうちに大きく 膨脹しつつある姿は 、誠に強く胸を うち感激をおぼえた。 伎で山 小児科は部長が松尾武夫教一 野助手と診療、研究に活躍している。 産婦人科は大野虎之進助教授が部 市川病院は本年三月迄 、大井清教 授が院長として就任して居られたが 長で 、山之内講師と共に 、文字通り 四月に水道橋の東京歯科大学病院長 畳夜を分かたね奮斗である。歯科、 に転出され 、整形外科部長兼副院長 内科以外の各科は看護婦二名である 、 であった野口好之教授が院長に就任 が この科には他に助産婦が一名い る 。 歯科は旧化学実習室の跡を診療室 白衣の看護婦諸嬢が病院の廊下を として使用している 。内科は物理実 右に左にまめまめしく立ち働いてい 習室の跡である 。しか し、 かなり簡 る 。 、学部三年の学生諸君が 、夏 素乍ら整備がととのい 、明るい診療 丁 度 室である。この両科の患者待合室は 期 休 暇を利用して病院に見学に来て 一ぱいの患者で 、廊下にも多くの人 い た。主に内科、外科 、小児科の見 々が立っている。 学 だとのことであるが 、皆んな喜ん で﹁来て良かった思う﹂と話してく れる。医局の先生の後に附いて聴診 器を手に廻診していた。 ある。この学債による第一の目標 は、市川にある本学市川病院外来患 者診療室並びに病棟増改築が主眼と の由から 、 筆者らは夏の一日 、 市 川 産婦人科 、外科、整形外科、 小児 病 院 を 訪 れ て み た 。 総 武 線 市 川駅 均一科、耳鼻咽喉科と各科を 一渡り見学 は、水道橋駅から国電に乗って一一一O レ一して廻った。どの科も想像以上の混 分、近頃では 、日曜を除いて御茶の り で あ る 。 山 一 雑 振 水駅での乗換えも必要としない。 一 産 婦 人 科 も 病 室を増加したとのこ 一とであったが 、 たちまちに満床。手術 直ちに市川駅前から市内循環パス 一室は旧予科食堂を改装したもので 、 に乗車 、 僅かに七 ・八分で市 川病 院 一ここだけは冷房完備の由 、各科共用 前と云う停留所に着く。病院前の道 一とて 、手術室の前には患者輸送車が と、戦時中病院前にある日本パイプ 一三台並んで 、 手術が終り 、患者を病 と云う会社の青年学校校舎の跡だと 一室に搬ぶのを待っている。ここを通 のことである。 一って結核病棟 ( 三病棟と呼ばれてい しかし建物の前の空地には 、色と 一 る ) 五病棟を一廻り見学した。市 川 りどりの自動車が十台近くパ 1 キン 一病院には現在一八O床のベッドがあ 路も舗装が完了し 、往年の泥んこ道 とは大変な違いである 。 午前中は市川病院前で 、 パスの乗 客の大半が下車して仕舞うとのこ と。もっとも九時前後は次の停留 所、東京歯科大学前という進学課程 仮外来病棟の玄関 昭 和3 6 年1 0月 1 5日 東京歯科大学同窓会会報 (7) 第 82 号 津 'K ひろ 弘君 h a @Z i たη 猛君 -松き 十年に広島県立医大専攻生となり 、 パス 、汽車で四時間もの遠路細商学 教室に通われた。後雪の 功 なり 、予 て提出中の論文は同三 十 五年十二月 二十二日の同大学教授会にて占部熊 教授主査の下満場一致通過し 、本年 一一月八日付学位記が授与された。新 固た 秀平 夫君 博士には汚子夫人との聞に一男二女 あり。慶祝。 主論文歯牙細菌及一般病原細菌の カンジタに対する抑制作用に関す る知見補遊 ( 原著 ・広島医学八巻 十一号、 昭和三十五年十一月)( 河 辺清治記 ) 太2 特に塗抹陰性例についての統計的 観察 ( 順天堂医学雑誌 、 七巻一号 昭和 三十 六年二月)(米沢和一記) 主論文略疾中結核蘭に関する研究 記授与さる。慶祝。 下通過し 、本年三月三十一日付学位 て同仁会時代の同僚土屋教授主査の 年十二月十六日順大医学部教授会に る感覚器について 研究された。先生 圃 道立 小樽中学を の業績は 従 来 検討されておらなかっ 園経て 、昭 和 八年母 た歯飯の感覚器の生理学 的諸性状を 副校卒。同十 一年末 電気生理学の立場より 明 らかにする 圃 現住所の小樽市入 ' 船町五ノ五で開業 極めて有意なものであった。三十五 年鳥取大学教授会通過、続いて学位 同十三年応召。北支方面で現地除隊 記を受領された。県歯科医師会理事 、 し、同仁会蘇州診療班歯科医長とな 岡県国府町宮の下 )。 開業 ( る。終戦時の春 、再応召し翌春復員 主 論 文 歯 飯 に お け る 圧 受 容 器 に つ して医院を再開。その頃私が渡道し いて ( 米子医誌 ・十一巻 、 二号、 在宅のまま入門を許し研究を始めら れた。その後正式に当教室に籍をお 昭和三十五年二月 ) かれ吉田千里学士の応援も得て研究 が進展した。予て提出中の論文は昨 年より二十一年まで満 州 にて軍務に 主 論 文 歯 牙移 動 に関 する 光弾力学 服 し 帰 国 後、臨床および甘晴礎医学の 的検討 ( 米 子医誌十巻 、 一号、昭 研究に異常な熱意を傾注された。種 和三 十 四年二 月) やま さも 人君 なお 、現在自宅文京区根津八重垣 々な研究経歴を経たのち 、鳥取大学 山幸 6 主任 山 田守教授 ) 昭和 二十八年母 町五番地で診療に従事しているのみ 医学 部 生理学教室 ( きち 吉君 校学部卒業後 、 三 ならず 、母校非常勤講師として活躍 に入室 、 その成果の集大成を行なわ 大正九年鳥取県 れた。三十四年慶応義塾大学に学位 鍋 国 重医科大学病院に しておられる。謹祝。 出生。田和十三年 ‘ 勤務。その後 、同 主 論 文 支 台 形 成 が 歯 髄 に 及 ぼ す w 論文徒出 、同年十二月教授会通過 、 w 取第一中学卒。 一 鳥 5型自 響並びにその処置に関する臨床時 病 三十五年学位記受領。先生の論文は 三 十 二 年 十 二 月 間 昭和十六年本学卒 理学的研究(日本保存歯科学雑誌。 従 来 、検討されることの少くなかっ 医大細菌学教室に専攻科生として入 業翌十七年より北 二巻 、 二号 、昭和三十四年十月) た歯銀内感覚器の電気生理学特性を 室 、堀川教授指導の下に研究に従事 、 検討したものである。現 白、県歯科 支 ・南 海 方面 に従軍 二十一年無事 同 三十五年十一月九日間医大教授会 とし お 一の各種公 御帰還された。その後 、国立鳥取病 医師会副会長を始め同関在 係 ( 主査堀川教授) にて学位 ( 医学) 俊夫君 院その 他 にて臨床ならびに基礎医学 論文通過(昭和三十五年十二月十九 田和十四年母校 職を持たれ活躍されている。謹祝。 臨 の研究に従事され 、豊富な 研究経歴 日文部大臣認可)。護祝。(三重県出 卒 業 後 、第一ホテ 主 論 文 歯 娠 に お け る 感 覚 受 器 に つ 身 ・三重県一志町開業) いて ( 米子医誌十巻 、 四号 、昭和 を持たれ三十三年鳥取大学第一生理 ル歯 科室、東京都 学教室に入室。主として歯飯におけ 三十四年七月 ) 主論文 コレラ菌接種家兎に於ける 4圃 立駒込病院歯科部 免疫血清学的研究 ( 三重夜学 、 四 ウ プ ラ 附 属 診 療 イ ひろし 巻六号、昭和三十五年十二月)(昭 所に勤務後 、新織に第一歯科診療所 広君 和 二十八年卒業級会一期会庶務係 記) 石義 ~ Jζ 領 邑 北海道出身、昭 圃 和二十六年母校卒 咽 業 、卒業と同時に 園 開業の多忙のなか . を、 母校保存学教 者 を開設。昭 和三十一年三月東京慈恵 大正七年鳥取県 会医科大学法医学教室研究 科 に入学 生れ。昭和十一年 石川光昭教授に師事し 、 血清学を専 彦 鳥取第二中学卒 、 攻す。昭和三十四年十二月二十一日 東歯十五年の卒業 提出の学位論文が同大学教技会を通 である。各種研究 過、翌三十五年二月二十五日附学位 経歴を持たれた後、 三十三年鳥取大 記が授与された。謹祝。 学医学部生理学教室に入室。歯牙 の 主 論 文 一 種 の 薬 物 に 対 す る 白石 0・ 生理学的および 補綴学的移動を光弾 ロ 巴門 明。 戸 ︿ ξ と他の薬物に対する過 性学の応用によって検討するという 敏性との関係について (アレ ルギ 問題に非常な熱意をもって取りくま ー、 八巻 、 二号、 昭和三十四年七 れた。その状態は二次元的実験より 月) 藤i られた。謹祝。 、五 年 れ 院 級 和 矢 同 五 引 、歯 生 六 掛 三四揚同科。年中 位 室に 研究生として入室 、関根、氷滋教 授指導のもとに主として保存臨床に ついての病理学的な研究に従事し 、 伊伊 三次元の弾性実験にまで研究を推進 せられた論文の 内容が 、 そのまま物 語るものと考えられる。成果の主論 文は副論文数篇と共に三十四年慶応 義塾大学疾学部に提出 、加藤元一教 授主査によって三十五年一月同学教 授 会 通 過 、 三月三日学位記が受領せ あ輔 のせ大のて県 り町 翌 ら 病 同 昭 立 学 三十 四年には研究を完成 、同年十一 月神戸医科大学に学位請求論文を提 出 。 こえて三十五年一月七日 、同大 学教授会において主査藤田教授副査 大正八年米子市 生れ。昭和十二年 米 子 中学卒業後東 歯 入 学 、十六年の 卒業である。十七 る 山 終奉に 校 を岡 所市戦職 満 卒経 山 . . . _ , 寸- 家 森、波多野両教授のもとに審査の 結果満場一致 これを 通 過し 、同年二 月 二十 二日文部省より認可された。 感 の 業 ・ ー -- 園 周 環主 ず 福 。に直 母 学 君き 介 博2 山2 回た 弁い 本t 上2 倉L でげ九 問 、年 業次奉 さ で天 れ現市 , た 住 で 1 I I I I I I I I o所 開 ・ ・ 紹 笠E 固た iノI ! 武5 (8) 第8 2 号 東京歯科大学同窓会会報 昭和 3 6 年1 0月1 5日 。 開 業の 新博 土は温厚にして 努 力家 ぺ せい巴 二号、 昭和 三十 同年 十 二月) 村勝衛記) 治じ か唱V 和君 かの 明治学院中学部 圃・・隈 巨・・園 教授の母校補綴学 1 11111 岡 崎 J ぷ 瓜 校 を 卒 業 し 、矢 崎 圃 司調 週 . . を経て昭和六年母 BEBEE--E 河辺清治君 十四年十一月) (橋口緯徳記) 学会雑誌 、 三十 三巻八号、 昭和三 日本伝染病 に関する実験的研究 ( 主論文長期感染プルセラ症の治療 、美 東 京 開 成 中 学 を かたわら 研究 を 続 行 し て お ら れ 容形態学の造詣も深い 由。 な お 県 歯 経て昭和十九年母 医会学術委員でもある。家庭には母 校卒。都立駒込 、 堂の 他静子夫人との 聞 に一男あり。 広尾病院歯科勤務 同三十年母校卒の舎弟末義君は東京 中、故 奥 村 先 生 の 駅前国際歯科医院勤務中。慶祝。 推薦で 、戦 後 早 く 慶 大 病 理 学 教 室 に 入られた。悪性腫療の研究の完成を 目前にして青木貞章教授の病残にあ われたので 、 私 の 紹 介 で 母 校 微 生 物 学 教 室 に 転 じ 米 沢 和 一教授の 下 で 研 究を続行せられた。予て提出中の論 文は昨年十 一月 十 一日の 順 天 堂 大 学 医学部教授会にて土屋教授主査の下 が授与された。新医学博土は三十八 本 年 三月 二十八日付 、 学位記 通過し 、 才の働き盛り。板橋区上板時間 三 ノ六 教 室 に 勤 務 。 同十 、問機 i! 4 ーに若 干~1 、 、 の現 在学中の長男と二女あり。 趣味 は、 スポ ー ツ、釣 、 写 真、 園芸など。 ロ ー ツ。問問祝 Q みのる 妻君 し て お ら れ る 。 趣 味 は 、 魚釣にスポ 佐 堀 一了 日大 同 ピ ル の 診 療 所 に 通 勤 丘三ノ 一 三O 二 に父母と同居し 、夫 人との聞に 一男あり。大阪市西区土 八月十 一 一 -日付医学博士の学位記を授 与された。新博土は堺市上野芝向ケ 成美教段主主の下満場一致通過し 、 提山中の論文は同三十五年五月二十 六日京初附立阪大教授会にて 、鈴 木 たものである。後雪の功成り 、予て セッセと私の微生物学教室に通われ く現同窓会副会長 ・片山清一ドクト ルの長男 ・和 夫 博 士 と 相 前 後 し て、 窓の長老 ・松 本 績 博 土 の 長 男 。 同 じ あ る 。 林、 片 山家 と並んで大阪の東歯大御三家たる同 J ¥ 二十 九年学部卒で 時 年 母 校 予 科 卒、 同 を経て昭和二 十 六 大阪府立堺中学 年)(米沢和 一記) 燐 酸 植 の 研 究 ( 独 文)(リ ンファ トロギア四巻 、 一号、 昭和三十五 主 論 文 歯 骨 象 ( 牙 質 ) 組織液中の l タリアンでもある。慶祝。 、土 学 下 岡 山 精 灰 る 下 趣 、 響アス水 、 O五八で白℃開業中であり、内科医 授をへて同二 十 三年私の推せんで教 授に昇任された。学制変更により非 動場 四年内務省嘱託医となり同十九年一同 喜美夫人との聞に一女あり。慶祝。 、 主 論 文 猿 の 口 腔 ス ピ ロ ヘ ー タ の 形 支方面に応召 終戦の翌年復員。 開 、 態に関する俊光顕微鋭的研究 戸 順 業の傍ら母校基礎補綴の講師 助 教 天 堂 医 学 雑 誌 、 六巻六号 、 昭 和 三 十五年十 二月)(消上喜久男記) 光寝室哲紅葉長野 Z町 常勤講師として今も学生実習のお世 話を願っている。先年母校米沢教授 雄君 聞 同 窓 の 長 老 故 新 の紹介で伊藤秀三郎教授の生理学教 圃蔵氏の山男で 、 昭 室に入り戦前より継続の発音の研究 a 和 同 年 焼 岡 の 生 れ を完成。予て提出中の論文は同三 十 圃 先 手 中 学 を 経 て 同 四年五月二十五日の東女医大教授会 園 二十七年母校卒。 にて村瀬正雄教授主査の下満場一致 t ・ 主味きは博満大中進大所に 都 年 二 尖 シフ酵論はみ大土場学のせ薬あ勤庁南 "I- l j - 日 ド ア 素 文 旅 夫 回 の 一 教 諭 ら 理 つ 務 職 支 利 │昭 本 、タ 活 行人区学致授文れ学てし員に 韮誕蓬 ~ 主論文ボツリヌス闘に関する研究 (京都附立医大雑誌六十八巻 、 一 号 、 昭和 三十 五 年 七 月 ) (米 沢 和 * 岩手医大細菌学助手になられ研究に 通過し 、七月 十 三日学位記授与さる 専念せられた。同 三十 二年春 、 盛 岡 新博土は大田 区 雪 ケ 谷 町 八 四 二 に 住 み銀座の診療所に通勤。﹃線鈎﹄の著 t : r 市 肴 町 四 八 の 亡 父 の歯 科 医 院 を 直 ち d最高島道 I 空 襲 雲 L質事長ら率制合首 5 室22差5 1Zじ日持平 152 r .九 時 吋 M J誠 司 計 矢 需は 同 誌記 2 1 i i i号5 1 i i i i「1 i z i f詩句 i i i i ; ; ; i f i i F 里吉区主音量き互空需言葉そ号 ウ2 │ 沢 7E2 2 Rセ古重量 j譲宅モ需震 は 二 、学 の の 士 の 誉 十 長 科 教 口 昭 誠 l 空三のゾフ酸 り住新 付 査 日 て文日感土員 母 二 神 惇 下 岐 の 指 教 九 と 、授 腔 和 之 i ' ;;;::1巻影ル ォ脱 。み 1 専医のの提に本ずのし 校ノ戸土満阜紹導段年し同の外 / -館 徳T 品 川 弘 £ミ 一市の場医 介 を ( よて十指 に東学一大三受現り赴七導 住 灘 位 致 教 同 く 、古 任 年 を み区記通俊三 ( 岐大し大受 本t * 、、 六 の 鈎 三二 十閉鎖 十号巻係接 六 昭 、に 部 │ J巻 報 と t J i l は男れ計れ 十 奈ニで l ~ 十十科 {点け ( 北 登 あ て 部 た 一 一 卜提 本 鎌 在 本 校 二 合 年 年 応 は 奈 1 1 1 り い 長 。 日 男 二 山 学 接 に 学 術 十 成 日 復 召 、川 と 。 る た 新 付 教 日 中 生 部 至 理 部 六 化 大 員 、北 県 写 サ 方 る 博 医 授 の の 理 腐 る 工 : 長 年 学 工 、昭 支 山 真 ク 。 故 士 学 主 束 論 学 食 。 学 tこ 日 三 学 同 和 那 身 。 未 喜 佐 は 博 査 実[ 1文 伊 の 予 教 昇 本 羽 部 二 二 方 の │ 戸。有十十商同 , 松き -記) T、 に継承して目下廃業中 。予て提 出 中 者で 、母校山岳部生みの親でもある の論文は同 三十五年 二月 の 同 大 学 教 趣味は登 山 と写真。ミネ子夫人との 授会にて主査 、 田沢芳 三郎 教 授 の 下 聞に一男あり。慶祝。 満場一致通過し 、越えて三月三十日 主 論 文 口 査 樗 の 調 音 に 及 ぼ す 影 響 歯 科 学報五十九巻 、十 に就いて ( 付医学博土の学校記が授与された。 主慶亡久藤旧士の医は藤研て室進歯教を 君 床ーら会 さ三 比月介で導れ月 l 、ノ ス 歯 電 お I1 I 長病卒昭 君 の 院 。 不1 青 下構大 十 1 11 に科述ノ〈学 勤脇市年院 務恒立秋を 、彦 聖 母 へ 翌医愛校て I-.ーザ:去をる 敏t f E年 二 l i J f-原!際 親主 康t r 一 J 口訂日!日露 2りお岡田 J El i │ ;円 引 村t 子ζ 藤t 健 と を 、記 し 会 十 御 成 慢 に 十 に 室 在 の 総 本 が 、に 六 校 し の 淳 三 人 に 同 健1 荷主 金2 佐さ 年 和 十 つ { ¥ 7 . 論 祝 人 子 義 姓 の 下 大 、教 究 金 助 。 研 授 卒 近:二 三ー いの文。は夫 三 森学 通 教問授が竹教同工研業 ご人家下位:過授三の完教授三業究し 藤:月 十 、て 破 : ; j 2i i十 の 折 口 田和3 6 年1 0月1 5日 東京歯科大学同窓会会報 (9) 第 8 2 号 jl F べ 腺 東京歯科大学問窓会会報 昭和36年1 0月1 5日 第8 2 号 刻より開催致します。明年は卒業三 壬 w ク〉 *白:- フ J a ーい またり代 。しいのを久 たもこ思々 四 。のと い に おとをつ東 誘左併つ京 ← い 記 せ 、を 滑 合のてま離 せ よ 、た れ 多 う い 、て 会 数なろ現 、 街j企 い 在 一 参 l 函ろのタ 力1 を と 身 学 下た訴の生 さてり廻時 日 時 卜 一月十 二日(日) 一泊 朝食後解散 ぶ りに久閥を紋したいと思います。 志 一、会場熱海温泉さくらや旅館。 会 員諸氏奮って御参加下さい 。 一 ・ 本 年 は 卒 業 二十週年の年でありま 電話熱海 二三 三三 ・三O 一 尚、連絡が近く御手許に届くと思 、 十 一 月 二.日午前九時京都駅前 五五O 九 一 す が いますが 、返信欄に近況、学 友 遁 絡 、 京 都 見 物 、有馬混泉 、 六甲山 一、 総 会 午 後 五 時 半 集 合 等があります。これは二六会月報の 懇 親 会 六 時 半1九 時 半 ド ラ イ ブ を 行 な い ま す 。 創刊号に携放いたしますので 、 出来 一、 会 費 参 千 円 九 九 十 一 月 十 二日母校同窓会の夜 るだけ委しく 、 且つ御早く必ず御返 十 月 下 旬 ま で に 巾 込 ん で 下 さ い ( 現 は 、東京においても-一 十周年祝賀ク 信 下 さいます様御願いいたします c 、会場は母校に 三辰会 金をつけて)ラス会を聞きますが ( 田中武臣 、水津靖 、熊谷一義) 山本 例 年 の 如 く 、同 窓 会 総 会 当 日 、夕 委員長当日 掲義 示茂致 し ま す 。 一 十六会 副委員長 小 坂 力 一 何 卒 振 って御山町下さい。 一 清信静夫 一 ( 山 本 、 天 野 ) 一 去る六月下 旬 全 国 的 に 襲 っ た 集 中 十周年になりますので 、 アルバム作 下卒の級記同知でよ北済面る御 十 十大 宛 築さ万予生念窓らあり陀んの十元秋 一 一会 先 合い障定吉大会せっ多ので各八気冷 為月原月日♀ 報れし後場ま繰)川会総致た数山何 号での 朝十温十時史江下る出 P 4所 す 合 に 初 を 会 し こ の 中 ょ に の 御 帳 │解 二 5 j {一 及 三 東 さ 方 発 U ' ' J 線せ於太泌をまと 1 1 :{鼠け於行活と 散日 一\日び(,~I [ 豆 い は す 舟 │御/(.:て日5 1I " f)悶し c tJ 市公とか夙 W s !な 成 ( 好 ( 会 己 危 o .~浄 、 校一系 UG 開.1\ ぼ し た l i U行でイ子れでのつ " ~f 土場一-戸 f J内 よ 催 経 j 昆てがりが大じて ( i' J iて A ~ ~ 合 n I j " 、接 附 1 ・1 1 I り い 針 泉 卒 、 のあ会ま(工大と米 ' " こ;ー 振 た で の 栄 %[riJりをす被阪忠、ま コ 古湯ホー上 l 午 同 窓 後 ノ 川 河 ! 日 げ 々 し 新 三 二 る : 答 弁 催。', 1 ; ' -'じいし 会 六 -, J l })j(ル(ましま館好 1 -1 ・会'市し去も院また 総 I / J ! 二 列にに上すくすも:1 1, " -%!に 、る{革新す i 易 三 御行参~ 0 参 : 。 溶 ( 周 月 で { t 臣会六少 i 潟 ω符 会 の i 吋 ーか集 午 力日何成同作のお会 ~lq ) j で 方 去 椛 ( 1 0 ) ス J会 i 庶事幹こま定を会の御ねり製 務長事んしで差費と意てまな │ は は 宛 な で す し は 4見 お す ど │ 佐 加 御 こ は 。 上 -~2;を!)。大 │ 藤 藤 知 と 、 御 げ 五 " " :j f えま本々 IA孝 ら を ハ 出 ま O 日・j す 年 的 1: 夫 j f Eせ 希 ガ f ( , 'す O 問 、 。総記 l ぷ 、下 望 キ 不 が 円 f f衆 是 会 念 、 1 ; 苫 会 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年ぶりにみる顔やら 出席予定者全 盛大に開催する事にしました。 豪州に円十述御見舞巾し上げた所岐'単 の河介年則れ兵庫の有馬良治君が床 下説中小の被刀を受けられました。尚 その後集中豪州に依り被災された会 μ消れがあることと思いますので誌 会は本件に閃し主にお世話していた 上にて御凡鮮中し上げます。 ﹃さて問凶にて開催予定の本年度総 村出幹事長が去る七月十六日交通事 故の為市一傷をれわれ準備不行届の為 残念午り米年度に持越し本年度は例 年辿り点 '小 M にて開催致し皮いと思い ( 幹 山 μ) ますので必しからず御了承下さい。 迫って枠制は御辿知放します。 五 十 期 会 川竹品引を加えて 三川 名の参加でした 、 L j卜 1 ・卜'比﹂円 d zり 寸 hr 16 じ ノ I iMi ノJ -/ 一 一 二H問に沙り第十六凶本年度級会総 跡地浜名湖弁天日同にて開催 、 会を MM 員 が 到 斎 し 、 誠に快調なとり山しで した。又明田夫人 、酒井夫人、 小 川 旧 夫人 、 八百校夫人、手島夫人も出席 され釣上花をそえて下さった。総会 議事進行してやがて開宴となり 、 互 いに旧交を温めつつまさに附に人る 頃 、美校の踊りや引に益々佳境にな り、 くめどもつきせず 、 のめどもっ きね大盃を傾け 、 いざいざ飲まんと はべりし寄等が侍は 、酒 呑 童 子 も 顔 まけの酒宴とは相成った。午後九時 頃に一応閉宴とし 、あとは二次会で 寄会しの内 けにらうもす了大日東年し業 せにま方致近て土れしあ。後学は京はた満先 願っすもし日是 l 畷 る 、り 十 、学 、で そ い 二 々 ー え い 。 必 ま 中 非 日 人 ま 、二 六 会 十 開 の 旨 十 号 れてなずすに出ともた家日時がー催準お周で ばのお御が往 F 席古しあ 、族 の 半 あ 月 す 備 知 年 幸 御 、i 返 亙 、復 し た ろ 地 サ 日 頃 り 十 る 会 ら を 来 芯 い 意 二 信 名 ノ ハ 、 て 次 う 方 11 1 窪よま一ことせ記年 で見 十 下簿ガ下第かのどはりす日とも致念の す 、周 さ の キ さ で と J j ス 、始 の 士 に な し し ク A 。御年る撃でいすのはの行めで中しろまでラ = 希 記 よ 理 詳 。 。 自 己 、 F楽 る 、に ま う し 盛 ス 望念、う上制 . ( f f ll を日定のっそ東しかた大会 等 ク お 、を f Tの │ 濯 も 季 も れ 京 た と が に は をラ願欠御 そ も に あ 節 り が 歯 。 忠 、開 おスい府系 っ と 州 ろ で で 終 科 期 い 今 世i f卒 J 4 町 句h 噌E目品企 * ) ( 。というわけで二日市 、太田 、 に焼残った母校を第一回国家試験と 一 歯 科 医 師 会 の 悩 き で 歯 科 事 情 は 勿 論 一 み で す 。 当 日 の 模 様 は い ず れ 本 誌 上 申 し 上 げ ま す 。 森君の自家用車に便乗し 一路浜松へ いう新しい試練に挑みつ つ世に 山て 事、 警 察 局 の 姿 請 に よ る 歯 学 捜 査 一 の 一 に 報 告 い た し ま す 。 ( 幹 事 記 ) 日 時 昭 和 三 十 六 年 十 一月十 一げ 1 11 1 1 1 1 1 1 1 1 ・::。再びネオンの巷 、夜のム l ド から早 十五年、 あの困苦欠乏に耐え 一 の 講 演 な ど に 走 り 廻 っ て お り ま し た 一 3 午 後 六 時 よ り 一 にさそわれて飲むほどに酔ふほどに て母校の名声を傷つけなかった同級一帰国後 、郷里の埼玉県警刑事部の御 一 一期会 場所銀座末広 ( 松坂屋裏 ) 、今は全国各地で中堅歯科医 手伝いなどに 楽しい 一刻をそれぞれに 満喫した。 、 忙 殺 さ れ て 、 一 の 士 よ 一 0 0 0 円 わ が ﹁ い 叫 た び 重 な る 季 節 外 れ の 台 風 に 殆 会 費 ニ すっか り夜もふけ過ぎた午前O時半 師として大活躍の事と信じます。 そ む 会 ﹂ の 事 務 も 遅 れ 一 、 皆 さ ん に 御 人 ど全国的に大なり小なりの撃古が 一 なお詳細な事については 、後 一u案 頃宿に一 り夢に 托して 一夜をおくつ 卒業十五周年の記念祝賀会は関西 一迷惑が一お掛けして了いました。幸い 発生しておりますが 、 一 期 会 諸 兄 に 一 内 状 を 発 送 致 し ま す 。 ( 幹 事 ) 一 た。翌朝午前十時より浜名湖廻りに 方面でという予定を 、東京の幹部 L 二 瓜 回 、横田 、山 田及び武井各氏の御 一おかれましては 、 いかが御過しでせ - 1 I l - - 一 出発。湖とは思わぬその眺望には一 り承わり 、大阪の本村静一君 ( ライ 一 喜 会 六 努力によりまして 、次の如き計画で -ろか 、御伺い申します。 同ただただ絶讃した次第。途中館山 オン)同じく長安君 ( 阪 大) そして 一 総会を聞くことが山来ました。何卒 一 只今まで 、本部 において聞知致し 一 中秋の候、会員諸氏には益々、診 寺で昼食、暫らく休息して又舟上の 筆者 ( 滋賀)の三人が相奮ったが 、 、 奮 っ て 参 加 さ れ ま す よ う お 花 び 努 々 ま し た と こ ろ で は 一 一 一 期 会 々 員 諸 兄 療に研究に御指定のことと思います 人とな り快附に恵まれて日やけした 本年は東京で日本歯科医学大会が行 御 願 い 中 し 上 げ ま す 。 で 特 に 擢 災 な さ れ た 方 は い ら っ し ゃ 子 て 一 、ここ に第三回総会の開催をお 顔 、顔 、顔 :;:。予定 コl スの観光 なわれるので今秋の開催は無理だろ 一 なお 、 この件については 、皆さん 一らないように承っておりますが 、万 一報らせしたいと思います。奮って御 も終り午後四時頃に帰昔一泊して無事に うという結論になった。御期待の向 一 に 直接御通知申上げましたが 、是非 亡 、被害がありましたら 、御手数乍 一 参 加 下 さ る こ と を 期 待 し て お ります とどこほりなく 、 目出度級会総会を 日 ま で に 御 返 事 を 賜 わ り た 一 ぎ に は 全 く 申 し 訳 な い が 何 れ 在 京 将 下 ハ 十 月 十 一時万口和三十六年十一月十 一 ら状況を御知らせ下さい。 U(U) 終了した。又来年の級会総会での再 事の方々と御相談して新しくプラン 一くお 願 い致します。また御返事の中 十 @﹁一期会会員名簿﹂改訂版が完成 一所 制 楽 園 球 場 レ ス ト ラ ン 会を堅く約しつつ別れた。特に申上 を建てるつもり故、 今 し ば ら く 御 猶 一 に ① よ り ⑬ ま で 記 入 事 項 が ご ざ い ま 一 致しましたので 、早 速 御 手 許 に 御 送 一 会 費 一 八O O円 一 げたいのは 、御家族同伴の方々も年 予 下 同 い い すが 、 クラスの情勢を知るのみでな 一り致しました。多少デラックスでぜ ↑ なお詳細に関しましては 、 中 回 目 守 ) !日学 1111 々増加される傾向にあり 、本当に嬉 ︿ 本 部 よ り の 御 室 も あ り ま す の で 一いたくな感じもなきにしもあらずで 一校玄関に掲示いたします。 いとし会 しく思います。来年以後は一一層多数 何分よろしく御協力下さるようお願 一すが 、兎に角 、 スッキりした感じで 一 次に現在、 母校に残っている会員 一 のカップルが参加される様切望致し 先般お報らせ致しましたクラス会の 一 、 一 仕 上 が り ま し た 。 完 成 発 送 ま で の -ぃ致します。 諸氏を御紹介したいと思います。 山 ます。終りに色々と級会開催に当っ 件次の如く決定数しました。 一-、附和 卜 ー年 │ 川 十 二け (日) ハ 、 ろ し く 御 推 察 の 一 床 関 一 役 員 同 の 努 力 を よ 一 係 で は 、 井 上 ( 長 ) 今泉(ハ雌 て御助力下さった地元の小野田 、宇 日時十一月十一日(土)午後五時 一 つ後五パ 一 、 一 時半 、 、 一 上 同 時 に 御 願 い 致 し ま し た ﹁ 会 資 ﹂ 浅 井 外 科 ) 稲 浜 、 渡 辺(仰)、出 藤 、森、手島 、日開美の諸兄に対して 場 所 池 袋 白 雲 閣 .、 ョ 、 一 ユ │ト 市 楽 町 日 劇 前 7 l キ 、 、 の 納 入 方 何 分 共 よ ろ し く お 願 い 致 田 島 (補綴)、小川 一 部 ( 保 存 ) 片 岡 一 心より厚く御礼を巾上げます。 l 会 費 二 千 五 百 円 ( ク ラ ス 会 資 化 ハ ) ﹂ し 、 基礎関係では ま す 。 ( 員 ) ( 山 川病院歯科) ︹出席者︺正岡 ・八宵校 ・武井 ・関 、会 代 五 0 0 、今回関東地高橋(州工)、東(組織)、高木(川吉 幹 事 森 本 、亀井 、高 野 、吉旧 円也品川既に御案内のように 根 ・岡 ・片山 ・桜 井 ・小沼 ・鶴岡 ・ ( 追 っ て 案 内 状 を 発 送 致 し ま す が 、 常任幹事鈴木和男記)方支部会を東京で開催致しますが 、 田茂)(衛生)、以上の十二名 u L入学 一 増田 ・酒井 ・二日市 ・小野田 ・宇 藤 l 何卒万障繰合せ出席して下さい。全国各地方の諸兄で御都合のよろし院研究科学生(第 一期生)は 、古出 ・森 ・日 開 美 ・手 門 町 ・太 凶 ・井 本 ・安 千秋会 (明決) 滋)、 藤 波 (口一服外科)、川江(保 い方は 、是非共御参加下さいますよ ( 倍 ・川崎 ・前田夫人 ・八百校夫人 ・ 1 1 1 1 1 1 1 1il-先日お知らせいたしました通り 、 ぅ、重ねて御願い致します。役員一 一 存)、清水(補綴)、市之川(制的)、 一 一 酒井夫人及び御子息二人 ・小沼夫人 いそむ 会 十 日 湯 河 原 温 泉 に て 第 十 四 一同 心 か り 御 待 ち 巾 し て お り ま 十 。 木 村 ( 生 理 )、木津(薬理)、市川(解 -川卜 一 及び御子息 ・手島夫人及び御子息二 、 いそむ会の皆さんお元気ですか。のクラス会を開催いたします。(見明記)削) 大 柿 (衛生)、校(病瑚)以上 人 ・片山君御子息 ・太田君御子息以 とくにこの度の十八号台風で被害を 一 山 山 者 は 例 年 よ り 多 く 、 北 村 れ 十 名 合 計 二十 二名の多くの諸代が母 上三十四名参加。では全国学友諸兄 四 期 会 受けた方はございませんか。心配し 一(青森県)鴬頭訓(新潟県)岡野君 校において 、研究に 、 学生の指導に の御健勝と御活躍を祈ってペンをお ております。私は五月 、 六月にけつ 一(滋賀川小)上本川(広向県)続行(山秋冷の候となり 、諸 兄 姉 に は 愈 々 若 手 の 中 唱 と し て 所 雌 さ れ て い ま す きます。 (幹事鶴岡記) て、台湾医学会の招刑判で波台し 、曲 一口県)等々遠方の会民も多数参加さ 一 御健勝の事と存じ上げます。(六書会幹叫) 五十二期会 科法医学や、口腔外科学などについ 一れます。卒業以来満九年、 いろいろ 一 さて 、恒 例 の ク ラ ス 会 を 左 記 の 次 大 敗戦のどん底時代 、水道稿の一角 て各地で講演し 、さ らに香港、沖縄 一と話がつきないのではないかと楽し一第により開催致しますので 、御案内 ~ 昭和 3 6 年1 0月1 5日 東京歯科大学同窓会会報 第8 2号 ( 1 2 ) 第8 2サ 東京歯科大学同窓会会報 昭和 3 6年 1 0月1 5日 f JL ft i L LV 7 図書館だより 刊 誌k 二 。 22 第十二号 号 ︼ ﹃ 回二二 g 町 佐藤 左に列記したものは最近図書館で購入した専門川の 一一 ⋮当山小城郡牛山川 敬称一略) お願い 現住所変更 ( 一部です。 ︹( ) は明治又は大正の卒業年度 一 区大森一ノ二六四一佐篠千 仇 いん十巾辛子 大 杉 原 担 田 伸 存 地 紹 ( ) 町 一 子 このリストは逐次掲紋されますから 、M書目録 とし を示す︺ 旧姓顕 新井 ) 一 一( 一( 間性制部)147 て御使用になれば御便利かと存じます。 !Eブ 同窓会報八 十 一号(前号) を皆様 ↑ 飯 田 昭 お 佐京打 -上小 川六 五 三 一一藤井川正 お 神戸山野介氏熊内 川 :一 一 iJ にお送りしましたと ころ、左記の方 一 ﹁ 一田沢三朗 8 茨 城 県 勝 田 山 中 央 町 二 / 一 7外科約 和 書﹂ 一 κ ( O 2 ) 一 屯 五 六五 一 々宛への会報が返送されてまいりま 00 一 一 一 近 中外医学社隅和二ハ 孝 3 岡 山巾門 問屋敷 一 OLハ 花 沢 賄 若 松 した。若し 、 この中にお心当りの方 一 街)横浜市保土ケ谷区和田 一 7 1 2 寸 ! 宮 誠 横山峡子 ( 一、松 井 雀 菊 地 品 、村井一竹雄 X線診断 泌 一 (デタル ・アルバム ) 川 一 がおられましたら 、お手数乍ら本部 ↑ 一 二 町七九 平凡 、問 熊 庄 三 郎 改 訂 │ ; 弘 谷 氏 山 一 一 一 宛お知、せ下さいますようお願い致 一土 屋 真 4 長野県北佐久郡望 月町 一 時 永井吉凶昭和 λ 歯牙組織凶説 4版 宇附 津見盟地 位 茨城県水海道 市恥町 ます ι 大字布施 一 一一 三六 回 村 監 幸 歯 科 医 の 楽 器 十 向 二五 点 京 歯 科 大 学 出 版 部 昭 和 氏名出住所 小 池 武 夫 杉 並 区 住 吉 町 一 四 戸 小 刻 熔 反 古 ) 件 一 三 一 一 二 ハ 代 幸 彦 歯 科 生 化 学 医 歯 薬 出 版 協 同 医 市 山 版 昭 和 三 三 一 泊 惇 ⋮ ま 円 ( 7 川 州 松井保次 (ロ)司市田一仏大手 町 二ノ 二 一 ω U N ) 二三八O 電( 一ノ七高浜荘 声 円 切 ∞2REm者栗秋川正、 昭和三六 一 一 野村ヒル 一三官 通弘 包 ∞ 愛知県豊田市竹生町 一 駒 ケ 智 門 主 円 鈍 秋 川 川 市出角郡花輪 町 公 部 英 主 要 症 状 か ら み た 各 科 救 吉 原 林 訳 科 学 研 究 の 態 度 原田和雄 日 北区東十条 一ノ 一凶 一 凶ノ一八一上花輪一 山版 昭 H 、 δ ﹂、ノ、主療法尚江堂昭和三六医掬築 松富信一目黒区自由ヶ丘一五八 ( U ) 静 岡 市 七 間 竹 下 忠 平 町 一 五 ノ 二 松 本 忠 夫 大 村 市 並 松 戸 川 山 ノ 質 十 応 答 一 刈米達夫薬用純物図消 内 科 綴 ( 呼吸器系)一 ロ 長沢方 電 (3)四二四四 一 一一 、 λ 金原 山版 昭 和 J U 4 5 ( 付 科 篇 脳神経系) 古 記 内 た 1 吉 田 光 夫 岡 山市上石井一日九 一 杉本殺英 詑 品川区大井流王子町四 一 パゴ八 洋│書 長島孝夫お紋馬 ﹁ ﹂ -U千代間区神保問二ノ 一 一 新井正夫 凶 一 七 何牛 耳 m E o r g 一一 関井康雄 N0 ・U新津市立免 三五一九 一 u ∞ 同 谷口良一 初 札幌市北 二条西四丁目一 H U E 二 E R日常口一o 一 S の0・ ) 宮O凹 222・( m可gι02一吋ZB司 一 一新潟鉄道病院新沖分室 百r EN 宇 部 市 一 一 一 六 号 通 五 日 下道正士 H 一 一杉山判 別 お 千 代 同 区 大 予 町 六 ! 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