大井松宮雨教授元気に出発

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東京歯科大掌同窓会会報⋮⋮⋮一
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大井松宮雨教授元気に出発
視察され 、松
宮教授御夫妻
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大井教授は十 一
二月上旬帰国 一
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師会百年祭に
去る八月 二 十九日 午后 十 一
時三O分、大 一
井清詞教授 、 一
松宮誠一教授 一
並びに同夫人 一
は村瀬正雄君 一
東京女子医 一
(
大教授)小室
史郎君 (阪大 一
歯 学 部 講師)一
と共に元 気で 一
欧米の旅に出 一
発された。 一
一
行は九月開催
の米国歯科医
先発
小室、村瀬両君松宮夫人も同行
自 ホ 良一 盛
左 空港ロビーにて
出事審に当り母校にて乾盃
下段右
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本会主催放送金
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写真説明
第6
9
号
東京歯科大学同窓会会報
(1) 昭 和34年 9月20日
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一九 四 九
今から 、 回程を 御 組 み 合 わ せ の 濯
すが 、多 数 会員各 位 の御 来 会 を 御 待
ぢ致 しておリます。
詳細 は本 誌次 号 に 御 案 内 の予定で
同窓会総会開催の予定
来る十一月三日
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君
飛郎君
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夫
君
猛暑沿克服し
X線診断学参加者
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本 会 主 催 夏 期 講 習 会 は 母 校 の 協 賛 員をお迎えし 、 法 的 も 、受 講 会 員 も
のもと、本年も八月 間 慨 さ れ た 。
烈持を一附 、山、叙なゆ閣内会が開似附さ
先 づ 八 月 十 三 ・十四 ・十 五 の 三 日 れた。
聞に一日一
っ てX 線 診 断 学 、 十 七 ・十 八
統帥側の泊先ん仁は 然 心 な 受 講 会 員
・十九の 三 日間口 膝 組 織 学 、 二十一 に 話 辞 を 惜 し ま れ ず 、 ま た 地 習 に 参
・二十 二 ・二 十 三 の 三 日 間 矯 正 学 の 加 さ れ た 会 員 各 似 か ら も 絶 大 な 好 訴
を得 た。 各 講 習 終 了 似 に 終f証 を 御
講習が行われた。
昨
問 山川恒に初川州のハ的を川仁し符
今 夏 は 殊 の ほ か 暑 さ 酷 し い 折 り か 渡し 、
ら に も 拘 わ ら ず 、青森 、鳥 取 、 宮 城 た。
宮山と述附より遥々参加の熱心な会
血.
(2)
第6
9
号
東京歯科大学同窓会会報
昭 和3
4年 9月2
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第6
9
号
東京歯科大学同窓会会報
(3) 昭和3
4
年 9月初日
。
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科
(母校口腔街乍学教皮)
内光春
歯
本 年 二 月 十 日 か ら 十 日 間 、オ ー ス
トラリアのアデレ 1ド で 聞 か れ たW
H O主 催 筒 科 衛 生 ゼ ミ ナ ー ル に 参 加
しつ Yいてニュ ージ ー ラ ン ド の 学 校
街科を視察のため外遊いたしたさい
に寄せられた皆々様からの格別の御
厚情に深く感謝いたします。
歯科衛生運動の燃史をかえりみる
とき、歯 科 の 問 題 の 重 要 性 に つ い て
の歯科医師側 、 い い か え れ ば 民 間 側
の永年の活動がつ Yけ ら れ た 後 に 、
ようやくにして官側もとりあげてく
るという形がみられる。
これは歯科のもつ特質のためある
いは止むをえない経過であったかも
知れない。
国際的な歯科の学会や会議に し て
も 、歯科医師側の、主催するものは従
来からも数多く椛大に行われてきて
おり 、やはり 、 これが原動力になる
べきものであろうが 、今 同 の ゼ ミ ナ
ー ルは 、 このような活動が陰に陽に
実を結び 、民 間 側 で な く 各 国 政府 が
加 盟 体 で ら る と こ ろ のW H Oが 主 催
したところに大きな意味があったと
。
いえ よう
W H O (世界保健機関 、 巧RE
22一同町。吋間同三問主芯口 )は 、 一九 四
六年 にそ の憲章が作られ 、 一九 四八
年に国際通合の保健分野をうけ も つ
機関として誕令したものである。
世界の八八カ国が加問し 、本 部 は
ジュネーブにあり 、位界を八地域に
分け 、そ れ ぞ れ の 地 域 に 地 域 事 務 局
をおいている。日本は一九五一年 に
、 西 太 平 地 域 に 属 し ている。
加 盟し
W H Oの経費は 、参 加 各 国 政府 から
の分担金によって 、まかな われてい
る
。
事 業としては 、中 央技 術事 業 f防
疫 及 び検 疫 事 業 、衛 生 統 計 、医 療 品
関係 、 研閥抗 の綜 合調 整 、出版 等 ) と
援 助 指 尋 事 業 ( 伝 染 病 、不 慮 の災 害
公衆衛生事業等)である。
W H Oとし て商科衛生につ いては
世界各国を通じて歯科衛生を向上さ
せるため 、その第一回事業と し て 、
西 太 平 洋 ・東 南 ア ジ ア の 二 地 域 に わ
たる歯科衛生ゼミナ ー ルを一 九 五五
年にニュ ージ ーランドで開催し 、 こ
のときは 、日 本 か ら は 医 階 大 の 大 西
正男氏が参加した。
今回のゼミナ ー ルは 、 これに継く
第三回目の も のであって 、日 本 か ら
の分担金がその後増加したためか 、
今回は三名の参加を要請してきたの
である。
ゼミナ ー ル会場で 、W H O本 部 の
唯 一 の 歯 科 の 職 員 で あ る ロ﹃-一∞m-2︿ニュージ ーラ ンド 保健省 歯 科
衛 生 部 次 長 であっ た人 ﹀ に今後のゼ
ミナ ールの見通しにつ いて訊 ね た と
ころ 、世界全 地 域 の も の は 経 費 の 関
係でできない が、 西 太 平 洋 、東 南 ア
ジア二地域の このゼミナ ール は 今 後
もっ.つけて いく方針である と の こと
であった。
W H Oでは 、ゼミナ ー ルのほかに
一九 五七年に は、水道水 の 弗 素 化 専
門 委 員 会 、イ ンド にお け る 歯 周 疾 患
の疫 学 、 一九 五八年 には 小 児 歯 科 衛
科についての 調 査 、歯 科補 助員につ
いての専門委員会 、歯 科 疾 患 と 栄 養
についての研究を行っている。
今回のゼミナ ー ルでは阿つの トピ
ックについてなかなか能率的な議事
が進められ たが 、要す るに 、参 加 各
国が国民全体の歯科衛生状態を良く
す るに は、歯 科医学の研究の成果の
ど の部分 をど う とりあげるか 、こ れ
を社会 の責任とし てとりあげるには
行 政 、 教育 、医 療 等 の 広 範 囲 な商で
どう実施してい ったら よ いか とい う
ことでゐり、そ のた め に必 要 なこと
がらをW H Oを通 じ 参 加各 国 政 府 に
勧 告するとともに、 歯 科 医師会 、幅
科教育機関,等にも協力を求めて行こ
うということがねらいであった。
参加者は 、各 国 の 行 政 方 面 の 関 係
者が多かったが 、大 学 や 開 業 医 の 人
々もおり 、 フアクルテイ 1 メンバー
の一人 、 ノルウェ ー大学のウエアハ
lグ教師阪は 、抽臨漏が虚リ円であるが 、
膿 漏 の 研 究 所 助 に あ き た ら ず 、その
成果を公衆衛生の軌道の上にのせよ
うとの熱意を示していた。
ゼミナ ール へ 出 か け る 前 、親 し く
し ているある新聞記者が 、 ﹁
オ ース
ト ラリアへ行って 、街で ト ラブルで
も お こ し た と き は 、俺 は 中 国 人 だ と
いいたまえ﹂と注意してくれたし 、
五年前に参加 し た 大 西 氏 も 対 日 感 情
で不愉快な こと も あ っ た ように きい
ていたが 、今 回 経 験 し た 範 囲 で は そ
のようなことは杷憂にすぎなかっ
た
。
むしろ 、彼等の川町縫の的である優
秀 な カ メ ラ や ト ランヂスタ ラジオを
作った国として見直されてきている
という感じをうけた し、 ゼミナール
に お い て も 日 本 は 高 く 評 価 されてい
るように感ぜられた。
日本の歯科衛生サービスはニュ ー
ジーランドの足もとに も及ばないに
し ても 、東 南 ア ジ ア に は よ い 歯 科 大
学 が 少 い こ と か ら も 、日 本 の 歯 科 の
教育や研究に対する東南アジアの関
心は今後高まっていくものと考えら
れる。
W H Oは創立後未だ十年にしかな
らないが 、ゼ ミ ナ ー ル も 続 け て 聞 か
れ 、 日本に会場が魁ってくることも
ありえようし 、 ゼ ミ ナ ー ル は も ち ろ
ん そ の ほ か の 活 動 で もH本 は 相 当 に
有力な国たりうると恩われるので 、
今 後 い っ そ うW H Oについての関心
をもっていきたいものであお。
の胎児ホ胎怖を推定することもでき
丹波に有数の筒科俣師として筒科を
開業されておられたが、急逝された
ため、一時、家業が継ぐのやむなき
に至った。しかし、初志貫徹の意は
岡く 、 昭 和 三 十 一年 五 月 本 学 組 織 学
教 室 に 入 り 、 論 文 女 完 成 、東 京 大 学
医 学 部 上 野E士口数間刊、千査のもとに 、
三 十 三 年 七 月 、教 授 会 を 通 過 、 同年
九月 、 学位記を授与された。
主論文は日本人胎児の月経年令と
週齢別身体計測並びに週齢判定法で
あって 、 排卵の崎山川は、予定月経前
第十二日乃至第十六日の五日間であ
ることを基準として、その中央の日
を 受 胎 日 と し て 計 測 す れ ば 、 略んベ胎
児の発育差の矛盾を少くすることが
できることを認めた。身体諸部位の
発 育 関 係 を み る と 、下 肢 は 胎 生 初 期
においては座高に比べて短いが 、 四
カ月に近づくにつれて相丸一的に長く
な る 。 足 長 と 陣 高 の 比 は 、初期には
小さかったものが次第に大きくなり
約五カ月で略々一定比に達すること
が 分 っ た 。 そ の 他 、 この方法で 、胎
児 の 座 高 、 体 重 、足長 、足 幅 と も 各
週 齢 ご と に 、その平均値はかなりの
有 意 差 を 示 し て い る の で 、胎 齢 不 明
(松井隆弘記)
る。他に参考論文凹筋。議祝
主 論 文 H日 本 人 胎 児 の 月 経 年 令 と
週齢別身体計測並びに週齢判定法に
就いて(日本法医川子会雑誌第十一巻
-第五号)
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。 業 に 弘 の い 芦¥
1業 業 し 外 を あ の 、、 忽 し マ 昭 学 学 十 業 年
報 関 記 至 つ 在 し 、て は も っ で 間 三 那 、リ 和 、組 年 の 本
第 す ) り た 学 て 次 、な っ た あ 年 十 将 熊 ア 二 そ 織 四 傍 校
文研育~御在大年院博敬を学れ通査提ににと箪降昭業正
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る 進 三 和 、男 元 礎 六 を 救 ; 下 に し ら 大 . .
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。常男 二 内 は 気 的 才 授 授 に 論 て 、 労t・圏一
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旬課は十科医に研の 4
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-会 、文 研 問 攻 学 月 ら を
君
持1ナ 殺 ( に 程 東 五 医 学 は 究 晩 さ を 審 を 究 時 生 数 :.
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, 、卒 大
卜ん知都卒れり上手口よ ~I: 大ミ
ることができる。
昭和 十九 年 九月 た か は し か っ
本 校 を 卒 業 、直 ち 高 矯 勝
主 論 文 H歯 牙 硬 組 織 比 重 の 増 悌 的
変化に理する研究(歯界展望第十四
に東京慈恵会医科
挙 第 三 号 u他 に 、参考論文五篤。
大 学 に 入 学 、卒 業
諜祝(松井隆弘記)
一
後 、医 学 士 と し て
京都府立医大で産婦人科を専攻する
傍ら、組織学について木村教授の指
導を受けられた。厳父は郷里である
君
一
昭和六年、本校
を 卒 業 、開 業 の 傍
ら 、昭和二十四年
四月 、 本 学 組 織 学
教室に入室、米の
石灰化問問害 因 子 の 追 究 に 努 力 し 、論
文を完成されたものである。論文は
慶 応 大 学 医 学 部 に 提 出 し 、 大森怒太
三十二
教授、主査の下に 、審 査 さ れ 、 一
年 七 月 、論 文 通 過 、 同 年 八 月 、 学 位
記を授与された。令兄は大西栄政博
士で 、 兄 弟 、打 ち 揃 つ て の 名 脊 は 喜
びに耐えない。
主論文は米のフイチン酸による化
骨 阻 害 作 用 に 関 す る 研 究 で 、第一篇
はラツテの化骨に及ぼす影響、第二
篇は玄米中の抗石版化物質について
論じたものである。米を慎って化骨
が 阻 害 さ れ る の は 、 カルシウム及び
ビタミン D の撲取量が少いと強く現
わ れ る 。 だ か ら 、適 量 に 与 え る と 良
い 。 向 、玄 米 中 の 抗 石 灰 化 物 質 は フ
イチシ酸である 、 これが抗石灰化作
用は 、 フイチン酸及びフイチン酸ア
ルカリに上るカルシウム沈澱作用と
フイ チ ン 酸 マ グ ネ シ ウ ム の カ ル γウ
ム置換作用である。これらの作用に
よりカルシウムの吸収が阻害される
ことが分った。
主 論 文 H米 の フ イ チ ン 酸 に よ る 化
骨阻害作用に関する研究(第一報 ・
第 二 報 ) ( 栄 益 と 食 糧 、 第九巻第二
号)品川に参考論文五篇。諦祝
(松井隆弘記)
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臨秋る得療林委主カの年校早二ヒ
床 、。て所芳弟年も九に稲年ロ
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十 研 主 あ 盛 四 端 は 因 。 両 、 。月年事故大ナ六古I
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六 究 論 る ぶ 男 に 東 谷 既 立 臨 本 、ー 授 学 研 年
号(文。りは開簡ににさ床年7-月主医究一昭
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で 東 業 を 外 御 れ と 五 件 、資 学 員 月 和
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君〉領;
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〈者!
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都立飯田橋職員
病院商科部次長と
守して勤務のかたわ
邑 ら、昭和二十八年
周 二 月 以 来 、本 今 組
織学教室に於いて研究に従事、昭和
三十二年二月、東京医科歯科大学に
論 文 を 提 出 、古畑額基教授、王十九Hのも
とに 、審 査 、同年コ一月 、 同大門下札判長
会 を満場一致通過 、問 、 阿月付で学
位記を授与された。
同 博 士 は 大E十 二 年 一 月 十 五 日 生
れで 、 本 年 三 十 三 才 、 昭 和 十 五 年 三
月、 館 林 中 学 校 を 卒 業 、定 ち に 本 校
に 入 学 、昭 和 十 八 年 九 月 、本 校 を 卒
業 昭 和 十 八 年 十 一 月 、歯 科 医 鰐 に 第
三二七七二号をもって慈録した。同
月 現役衛生部幹部候補生となり、二
十 年 三 月 、陸軍箇科医少肘に任官、
昭 和 二 十 一 年 七 月 、復 員 後 、 十一月
よ り 現 在 職 に 就 き 、昭 和 二 十 二年 十
月 東 京 都 技 師 と な ら れ 、現在に至っ
ている。川崎市小松町に居住されて
φ
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主論文は体牙硬組織の比意が増齢
的 に 増 加 す る 一定 の 関 係 と 、組 織 的
所見とを併せ研究したことに新知見
が あ る も の で 、年 齢 を 推 定 す る の に
最 も 適 し ているのは 、 下顎中切菌、
側 切 歯 で 、次 い で 上 顎 中 切 筒 、下顎
小臼歯であることが分った。硬組織
の 比 重 増 加 の 有 意 性 は 三 十五才乃至
五 十 八 才 の 間 で あ っ て 、 その範囲は
+一五才であった。青少年及び老年期
にあってはレ線写真診査法が望まし
い。組織的の変化としては第二象牙
質 の 増 生 、 石 氏 化 増 進 、象 牙 質 絢 の
増 生 、白斑貨の肥厚増乍などをあげ
の る 欄 り 土 る つ 母 業 { 司二 … 町 三
傍所科しの母ち校。
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9号
東京歯科大学同窓会会報
昭和 34年 9月20日
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〉第と)々ょを心
年授学月入業年木
五指教卒学、郷県
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なほ本年四月に 行われた 、地 方選
挙には四十一才にて渋谷 区議会議員
に立候補し 初山山馬にて目出度く上位
にて当選され 重ねて御喜び申上げま
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同君の父君も区議会議長 、東京府
市会 議員 、都会と三十五年間地方自
治にたづさわり、 井上 、一克国務大臣
土口峯都議は同君の叔父にあたり政治
には特に関係 深き御一家である。新
博士は宵合子 夫人との聞に二男一女
あり至極円満なる 御家庭である。
今後一一層の御所践を待望すると共
に御健勝を祈るものである 。
(長尾喜景記)
主論文 脳組織代謝に関する知見裕
遺
参考論文(略﹀
佐々木
君
北海道の生れ。
昭和九年母校卒。
しばらく母校矯正
学教索及び 、補 綴
学教室に残って学
び、昭和十二年似郷札幌市で病院勤
務をしたが後小樟市稲穂町に開業し
て今日に及んでいる。その時業振り
は瞳目に価する。昭和二十一年より
札幌医大で故金森教授の指導を受け
昭和三十 一年よりは北大解剖学教室
で伊藤間一教授の指導を受けて研究
を重ねたが、この 程その成果を得 、
別記論文は北大医学部教授会を通過
し、去る 四月 二十二日学位記を受領
した。これ 等業務と研究との傍ら北
海道矯E歯科学会の創立に尽力し殊
に今夏は日本 矯E商科学会総会を札
幌市で開くに 当ってこの准備委員会
長に 挙げられ草大事な活躍をした。
家庭は令夫人との聞に一男二女、
長男八郎君は今 春東京医科大学歯学
部を卒業し 、今秋十月項渡仏の予定
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した際、同大の佐藤学長が、﹁貴下
号付録(昭三コて一)歯界展望第十 月現在地字都宮市に開業された。
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二巻十七号(昭三O、
十六年 四月より当時間僚正木 教授一 はなぜ今まで 学位をとられなかった
の主宰せられていた慶応大学医学部一か、臨床の傍の多年に亘る研究は立
O参 考 論 文 (七編 ﹀略
派 なものです﹂と激賞されたとのこ
の予防歯科学教室に入室、研究を統 一
け、すでに論文も完成を見ょうとい一とであるが誠にむベなるかなと感ぜ
う寸前、空爆による同大学の催 災は一られる。
予防歯科教室とともに一切の資料が一なお、令息一郎君も三十年六 月慶
炎上してしまった。一大医学部から、学位を受領されてい
爾来 、宇 都宮の診療所において患一る 。
者の診療に当る一方毎週上京、私の一ともにともにお祝い申し上げる。
教室に見えら れ、外科を専門に研究 一 ( 大 井 清 詞 記 ﹀
しておられたが、さらに、生理学の 一 主 論 文 味 覚 に おけるグルタミン酸
知織の必要を痛感せられ 、 二十九年一ソーダの役割について
生理学教室に専攻生として入室、伊一参考論文外傷により脱落せる歯牙
藤教授御指導のもと に精進を続けら一の再楠三例について他十八篇
れていたが遂に立派な論文を完成せ一
られ、鹿児良医科大学に提出、学位一 吉一 出$111111登
1 一君
111
時
牛圃君は慶応普通部
請求中であったが 、松本保久教授、玉二
の出身で昭和十六
査となられ 、副島 侃 二 教 授 が 副 査 と 面司
して補佐され慎重な審査が行われた一盤、 一部小併が山昨年母校を卒業直ち
結果、昨三十三年十二月めでたく同一 RMB酷翻繍穂必勝に東京警察病院勤
針
函 務 、翌年渋谷区中
大 学 教 授 会 を 通 過 、 本 年 二 月 十 一 旦 汽 伊11
栄ある学位記が授与された。一通にて歯科医院を開設更に慶応大学
誠に欣快に堪えない次第で心から一医専を卒業され今日に至っている。
祝福申し上げる。一英の関学校衛生に於ては昭和二十
同君は、人も知るように見るから一二年より区立常磐極小学校々医とし
に朴とつな田舎紳士の風貌をしてお一叉青い烏幼稚園々医として学童衛生
られるが 、胸中に宿す熱血は他人の一に精進され 、他方歯科医師会方面に
鋭い知ることができないものがあり一は渋谷区歯科医師会副会長、東京都
私達の手術を見学される時の熱心さ一歯科医師会共済部審査員其の他の要
は筆舌に尽し得ないものであった。一職を兼任しておられ 、 区内に於ては
従って自宅の診療所にむしろ外科の一商盾会町会の相談役とし 、常磐桧小
患者が多く、県内はもちろん、近 県一学校P T A副会長の会職につかれ現
からも手術を依頼して来る同業者も一在に至り全く多忙を極め活躍をして
数多く 、中 にははるか遠い地方から一来られた。
設備や手術を見学に来る同窓もある一吉峯君は此の様な多忙の中に於い
、日本 大学
と承っている。一て三十年三月意を決して
発表論文も枚挙に也ない程である一医学部薬理学教室に入室され以来宮
がそのほとんどが、臨床とくに外科一崎教授指導の下に鋭意研鎮の 上先項
に関するものであるも同君が開業医一同大学に学位論文を提出中の所昨年
として珍しく異色ある存在を物語つ一 十二月十九日万場一致を以て教授会
て い る と い う べ き で あ る 。 一 を 通 過 さ れ 、本 年二 月六日 栄ある学
鹿児島大学に論文提出のため出顕一位記が授与された。
研O
界好
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第6
9
号
東京歯科大学同窓会会報
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年 9月初日
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長女明子さんは母校専門課程一.年小査の下に満場一致をもってめでたく一んでおられたが 、その成果をまとめ一二十五年予科修了 、学部に移り 、昭一の学校で教育を受けられたことが 、
通過、四月七日付をもって輝しき学一て、主論文とし 、久留米医大に提出 、 一和二十九年三月学部卒業 、直ちに東一今日 、同君独特の涜暢な英会話の基
次女順子さんは高校二年とまことに 一
恵まれた家庭で為る。白髪の好紳士 一位記を受領された。誠に大慶の至り一学位請求 中 のところ同大学末永教授一京医科歯科大学の大学院歯学研究科一礎となったものと思う。台北で小学
、主 として保存学教一と旧制高校を終え 、終戦で家僚と共
益々御活躍あれ。公一一崎針郎記) 一に 堪 え な い 。 一 ( 主 査 ) 木 村 教 授 ( 副 査 ) 長 崎 教 授 一 ( 旧 制 ) に 入 学
O主 論 文 日 本 人 成 年 男 性 の 顔 面 以 一 同君は狙厚なる紳士型であるが 、 一(副査)の三教授によって審査が進一室において槍垣 、 三村両教授御指導一に一且 、本籍地たる山梨県非崎市へ
蓋の現より観た下顎骨の形状に関す -しかし内面には燃ゆるが如き熱血の一められた結果その優秀なることが認一のもとに研究を続けていたが 、本年一引揚げて来られた。高校の恩師たる
る計測的研究 (
北大解剖研究報山第 一士である点まことに態き入る次第で一められ 、去る三月十一日満場一致を一三月、大学院卒業とともに完成した一嶺脇四郎教授の勤務されていた本学
ある 、 というのは研究の終るや否や 一
一一七号 、 一九 ・九九年一月 )
もって同大学教授会を通過 、翌四月一業績を学位論文として同大学医学部一予科二年に昭和二十二年春編入せら
、県庁前のビルデ一二日栄ある学位記が授与された。誠一に提出 、薬理学教室岡田正弘教授、王一れた。同二十四年予科卒業と共に本
O参 考 論 文 コ 一 篇 賂 千 葉 市 の 目 抜 通 り
一ングに近代開業の先端を 一
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さ れ、ま 一におめでたい限りで心からなる祝意一査となられ 、檎垣 、三村両教授副査一学学部に進み 、同二十九年春学部卒
ことに盛業中である。
一を表すしだいである。
一となられ審議中であったが 、去る五一業。直ちにわたしの教宅に残り 、微
鈴 木芳
信 君
一 一 方 、家庭にありては御両親と男一同君の研究熱は吾々同級生聞でも一 月 二十日めでたく同大学教疫会を満一生物学の研究に専念されることにな
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年
見二人を忠まれて和気あいあいはた一有名な話で 、前後七年間に及ぶ応召 一
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場 一致をもって通過 、六月二十四日一つた。同 三十一年助子、同 十 一
﹄属 鈴 木 計 は 千 葉 県 一
一たしが
‘.咽晴彦邑・園出身、千葉一小の 一の見る目も 、美しい程よきパパであ一中 、中 園 、仏印 、 タイ 、 ピルマ 、 マ 一
付栄ある学位記を受領された。慶賀一春講師となられた。同年夏一
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。今回の栄誉は御両親はじめ 、内 一ライ 、 イ ン ド ネ シ ア 等 の 各 地 転 車 一の 至 り で 心 か ら お 祝 い 申 し 上 げ る 。 一 国 際 学 会 員 の た め 設 の 後 を 迫 つ
村 喜国秀才として卒業、
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臨 時 あ だ か も 第 二次一助の 功の賜とその喜びいかばかりか 一
も、軍務の余暇を利川してその地方 一 丸 島君は在学中から研究心が強く 一てストックホルムに見えられ 約二
[・副大戦の最小昭和十
と存じます。
一
御 父君鉄男氏とは私が学生時代剣道一十日間両名で欧洲八カ国の見門下旅行
現地住民の衛生、生政一等の研究を統 一
八年に母校を山る や直ちに戦乍に参
どうぞ今後益々同君の発展を祈願 一
け 、とくに熱帯地方の簡槽膿漏問題 一
部 に在籍 した関係から私の教室に入一をして 、 わたしと分れて九月一日よ
、 スエデン国政府第 一同
加し 、歯科医少肘として活躍し、一一して止まない次第である。
- 7ラリヤコ一日熱に対する研究等の論一室され 、 勉強に 、研究にいろいろと一り八カ月間
十三年十一月に復 員し 、その 後 は 二 一 ( 佐 藤 貞 勝 記 ) 一 文
を発表しておられたが内地送還に 一お手伝い願い 、住居も花沢教授宅か一留学併としてストックホルム王立簡
十四年四月より二十六 年 ま で 北 村 時 一 際
ら通学されていた。一科大学に学ばれた。微分物学教宅に
してあたら貴重な資制仰を悉く没収 一
衛教授指五 の下に研究された。その 一
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さ れたことは誠に遺憾に思われてな 一 本学にまだ大学院が完成していな 一て主任フロステル助教綬について、
後は老齢の 厳父を援けられて診療に一 木 村 善 利 君
一らない。
一かったので医階大大学院に入学され一口腔内嫌気性菌たるレプトトリキア
従事しておられたが、 古雲の七誌 、 -﹁
l!Jlu属 き む ら よ し と し 一 家 庭 に は 八 十 になられる母堂を 一たのであるが幸に檎垣教授の御愛顧 一について、その分離と大量培益に成
彼をして単なる一開業医たるをγと 一 h d円幽W噛・君は群馬県出身、 一はじめ 、 美津子夫人との聞に一男一二を受け研究を完成されたので 、長年一功せられ、かつ検査した生物学的性
せずして、 一一ト九年再び側主名前一 刷 蜘畑仕噌比大正十五年郷 里の一 女 が あ り 、 同 討 の 研 究 の た め に は 二 の 御 研 鎖 に 、敬服しているしだいで 一状から 、ま ず 本 語 群 を 二 大 別 し 、
一か つ紡錘菌との異同などの点につい
い も ¥¥ 県 立 沼 田 中 学卒業 一家を挙げて 内助の功を発慰されて今 一
に入室され 慶大医学部原島準設の一一
ある。
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a同年四月母校に入-回の成果を遂げられたのであるが 、 一 現在は 、出版健康保険組合診療所一ては特に 、超薄切片による電顕像で
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指導を受けられ研究に芳念されたの一
である。爾来阿年有余にわたり日夜一学、昭和五年三月催秀な成績にて卒て﹂こに同君の母堂に対する親孝行は一歯科医長として活躍しておられる。一明快な鑑別をなされた。これらの成
己 E白
SωnE丘ロ曲目
色
研究に没頭され、 涙 ぐ ま し き 的 進 を 業 、直ちに入営 、翌六年幹部候補生一近隣の話題となっていると承る。ま一同君の研究課題である﹁歯髄の創一果は﹀三回 OS
続けられたのである。はたせるかな 一として除隊、現住地にて術科診療に一 た、賢夫人の声高き御令室との御川一傷治癒機転﹂は今後の研究者の基盤一三2 の近刊号に掲載されたし、去る
遂にその業積は 顕著なる成以を完成 従 事 し て お ら れ た が 、 昭 和 十 二 年 目 一 満 ぶ り も 知 人 聞 に え 望 の 的 と な っ て 一 と な る こ と を 疑 わ な い 。 一 六 月 の 東 商 学 会 例 会 で も 発 表 ず み で
されたのでらった 。 一
中事変に応召以来数次にわたる瓜 召 一 い る 。 一 (
松宮誠一記) 一ある。本年四月末日若く帰国せられ
主論文として完成された業棋は﹁ 一
除隊を繰り返し 、今 次 大 戦 中 大 陸 に 一 御 一 家 の 御 繁 栄 ま こ と に う ら や ま 一 主 論 文 水 酸 化 カ ル シ ウ ム 貼 布 に よ 一 て 母 校 助 教 疫 に 昇 任 。 ま た 先 年 母 校
環境温度の変化による血清カルシウ一転戦、彼地にて終戦を迎え、二十二しき限りである。(松宮誠一誌)一る歯髄の創傷治癒機転について。一卒業論文賞を受け口腔内嫌気性メ
ムの変動要因﹂慶応 医 学 、二干五号 一
年七月ようやく召集解除等で言語に一主論文耳下線の生斑乍的研究
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一ラエン形成閣の研究を卒業後完成し
、本論文を
絶する辛さんを薫ねられた不巡の述一一て発表されたのであって
昭和三十コ一年十一月であり、二十頁 一
、本年五月
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かねて提山中で め
にわたる膨大なる研究であるのにた 一
統 、 その間陸軍大尉(昭和十八年)一 丸 君
φ ったが
、主査
だ 惰 ・ 異 の 目 を み は る ば か り で あ る 。 に 任 官 、 正 六 伏 に 法 せ ら れ た 純 然 た ま る し ま ま さ る 一 十 日 の 東 大 医 学タ
部カ教
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制 一郎教授のもと満 一致通 泊
ロウ君は昭和コ一年
その他に則論文と して五篇に及ぶ研 る武人 刑 。 君 は 千 葉 県 銚 子 市 一 秋 葉
、越えて七月二十一日場
州
付 、栄ある
究も、新知見に は む 貴 章 な 業 績 で あ 一 昭 和 二 十 九 年 四 月私の株 間で本学
品積浜の 生れ。シン
出身 、 昭 和 二 十 二 一 し
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ガポールで少年時 医学博士の学作記が授与された。
る。これらの成果は本年二月二十一一一 一生理学教宅に惇攻引として人宅 、伊 年 同 月 第 二 期 生 と
FF科に入学 一 新
日慶大医学市救援会で原山進教授王一藤教授御指導の も と に 日 夜 研 鈴 を 積 し 本 川
代を泌され 、外人
博士には 一人の姉上と 、舎弟二
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第6
9
号
東京歯科大学同窓会会報
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名あり。ご両溺共々一同大阪に住 わ 一主査幡作勉教授のもと満場勾致通巡 が 、昭和 二十二年棒 、母校に入門子 、 定)
大学再逮にも欠くべからざる人物 と
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れて御健在。今日の士口報にさぞか し 一同月二十三日付 栄ある医乍博士の 同 二 十 六 年 専 門 学 校 や 首 席 で 卒O
御満足のことと思う。新博士は 、 帰一学佼記が授与された。また去る七月 ら れ た 。 卒 業 と 同 時 に 私 の 教 室 に 在 っ て い る 。
、同氏の御父君故 仲氏
国後 、豊島区栄鴨一ノ 三、三 八 三 に 一 一 日 付 で 母 校 非 常 勤 法 師 と も な ら 絡のま L、神 奈 川 県 高 座 郡 新 長 後 駅 一 故 古 沢 教 授
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君
新居を備えられた。樹子夫人との間一れ 、引 続 き 払 の 教 法tで勉強されるこ 仰の大津術科医院に弘の世話で 一旦
一と私、
の父故誠放とは明治一-一
十五年 東
に近くおめでたがある由。慶祝。一とになった。
勤務されたが 、間 も な く 年 来 の 希 望 安 東 計 は 神 奈 川 一 烹 向 科 医 学 院 卒 業 恨 の
三羽烏といわ
、県立横浜一れた大の仲よしであったことを思
( 米 沢 和 一 記 ) 一 新 惇 士 は 、 母 絞 同 窓 会 の 長 老 、石 で あ っ た 今 の 目 的 隊 内 科 医 宮 に 採 用 県 出 身
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され、昇進して 一等陸射となり 、 目 第 二 中 学 卒 業
( い 主 論 文 (一編)口腔内嫌気性菌一塚三郎先中一昨年十 月
と浅からざる紋と当時の線千が自に
一げぶ。
群の細菌学的研究 、特にメラニン形一去の後をうけて、前記製薬市業と歯 下 、東 京 は 枇 団 付 什 区 池 尻 に あ る 白 徽 ち に 母 校 に 人 学 昭
、保 存 一 多 年 に わ た る 御 背 労 に も か か わ ら
成菌について 、向科学報元凶巻十一一科医院の経営に叩斐/¥しくも日夜 隊中央病院同科に 、 勤 務 し て お ら れ 和 四 年 卒 業
号 ( 昭 和 二 十 九 年 十 一 月 ) 一 奮 闘 し て お ら れ る 。 新 宿 区 内 藤 町 一 る。母校在学 小 からのご縁で 、当 局 学 教 室 副 手 に 採 用 さ れ 、 同五年助手一千偉業をなし遂げられた御努力に対
O参 者 論 文 ( 七 編 ) 時 以 上 一 番 地 の 御 家 庭 に は 、未亡人も御健在 の 許 可 を 得 て 光 年 来 同 窓 の 発 見 し た に 任 ぜ ら れ て 、主として故花沢教授 一し改めて衷心より数意を表するしだ
一で、松子夫人との聞に一男あり。多 世界的に有名な祈稲田四時脚気の病原一に師事特診室において保存歯科の研一いである。因みに新博士の現住所は
一忙乍ら恨めて多趣味であって 、 スポ 体たる松川菌の 、新抗侠物質増必に 一究 に 従 事 し て お ら れ た が 、昭和十一 一
杉 並 区 井 荻 二 ノニである。
石 塚 達夫
君
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一 。 、 演 劇 、映 岡 、 古楽等三話題が 関する学似論文に精進せられること 一年 乞 わ れ て 当 時 の 満 鉄 保 健 部 吉 林 医 一 ( 判 官 宵 誠
誌)
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イシヅカ ・タ ツ 一 き で あ る 。 や さ 形 で 躍 な 阪 に 似 になった。奥村情 一、松山茂樹 、両 一院 商 科医 長として赴任された。爾来 、一
、主 冷 文 ﹁ 怖 間 膜 症 の初川 変化に関
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mvj内 オ世相は旧制れは小野一ずシンが強く 、 酒豪の部鋲に属する 泌師のご協力もさること乍ら 、後零一牧山、チチハルと順次栄転されたが 一するレントゲン的ならびに病島組織
剛 凶 忌 酢﹄河 大正十四年 、大連一が 、感ずるところあってか先年来禁 の功成り 、チて提出中の論文は、去一同地において終戦を迎えられ 、直ち 一的研究﹂前利川予報-九十九谷・ 一
号掲載
電司
の生れ。昭和八年一煙されている。品十倍父の関係から堤康 る六月二十五日の京祁府立医科大学一に 、中国国立ハルピン医科大学慈授 ↑ (昭和三十四年二月)
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東 一ゑに移り 、麻布一次郎氏の紋放者でもあり 、実父や私 教授会にて 、主 賓 ・鈴木成美教疫の 一兼 口 腔 科 主 任 と し て 留 用 さ れ 、 二十 一
O参 考論 文(問削 ﹀ 怖
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中学を卒業後、約十カ川の軍隊生活一ともども野口英此記念会評議員であ もと満場 一致通治し、越えて七月一 二 八年八月借用解除になるまで同大乍 一
を経て終戦後の同二十 一年秋 、母校一り 、また 三段図九州山川町一本その他一一一一 一 十九日付 、栄ある照乍博士の学位記 一で教慨をとっておられた。二十八年 一 父 兄 会 名 簿 頒 布 に つ い て
、 十月より野口博士診療所 一
二十 が 綬 心 さ れ た 。 一 八 月 帰 国
大学予科入学、同二十八年春 、 旧 制 一 の 役 職 が あ る 。 今 秋 十 一 月 で 尚 一
昭和三 十四年度東京歯科大学
換科大学 一期生とじて卒業。直ちに一四才の働き蜂り。好決よく什袋 、日
新博とは、その後満洲から帰国せ 一及 東 京 都 社 会 保 険 協 会 蒲 田 病院術科 一
父 兄 会 名簿(進学課程、心専門
航、浜ビル前科宅に勤務し、同二十九一重されて益々御所隣あらんことを祈 られた政父で同窓の佐章氏やご母堂 一一医長に就任されると同時に与攻作いと 一
年十月迄大久保信一博士の薫陶を受一る次第である。慶祝(米沢和一記) と共に練馬区春日町 二 ノ二 、O九七 一し て 私 の 教 室 に 入 室 、研究に専念し 一 課 程 在 学 者 及 び 父 兄 の 現 住 所
けられ 、 かたん¥私の教室にも出入一 O主論文(一一編﹀﹁金属コロイドの に新民を桝えられ 、 正子夫人との間一ておられたがその間現職の制立大久一 (県 別 ) 、 大 学 院 、 歯 科 衛 生 士
、
z£3 若 手 に 及 ぼ す に 一女あり。小川F時牝より野球と 、 一保病院商科医長広転出された。
一学校学生生徒父兄住所氏名
りしておられたが 、故山脇そで刀自一ヨσ3usEno
の知過や符て 、 たまたま 、故石塚三一影糾﹂術科学報銃五十九糸口今川向松 今一つ 附 上 競 技 は 小 距 離 競 走 を 得 意 一 本年二月 、完成した研究業績を学一 専 任 教 員 住 所 録 、 同 窓 会 役 員
とせられた由。内長々たあ体舗は旅石 一何論文として 、慶 瓜 大 学 医 学 部 に 提 一 住 所 録 等 掲 載 ) が 出 来 て 居 り
郎 先 生 の 認 め る と こ ろ と な り 、私の一(昭和三十同年三月)
日制隊小昭幹部として頼母しい存在 一
山川。小林忠義教授、玉査 、仏国(外科一 ま ず か ら 入 用 た 方 は 本 晶 子 学 生
口添えもあって 、 同三十年三円安嗣一 O参考論文(七編)川町
と守口えよう。スポ lγ は何でも御座一﹀春名(放射線)両教授が副査につ一 部 K笑資百じ十円(送料共)
子となられた。野口英悦記念会診療
君
れであるが 、他は麻雀とタパコ少々 一かれ慎重な審議を重ねられた結果本一 添 え て お 申 込 み 下 さ い 。
所の術科を担当のかたわら 、石 塚 老
先生の要望もあって家業たる東洋厚
オオモリ ・ナオ と言ったところ。この五月で満一一一十 一年五月十八日めでたく同大学医学部一
一 の気鋭の英才たる新博士にはい 一教 佼 会 を 満 場 一 致 に て 通 過 、六月十 一
什 製 来 所 製 剤 ﹁ ハ プ ラ l ル﹂に関連
キ羽は大止十-k年
一
一
して 、正式に金属コロイド守山いて
米工
︿の小れ。奉天 よいよ川没せられて斯界の為ご奮闘 一六日栄ある学位記を授与せられた。
会便り
クラ
祈り上げます。慶祝。
一誠 に 俊 民 の至りで 、 心力ら祝福申し
二小より満洲医大 の mM
の組織域安の研究に精進されること
(米沢和一記) 一上げる。
になった。当時徳仏大学医学部講師
予科入学したのが
一 同氏は 、希 に 見 る 瓶 厚 篤 実 な る 糾
であられた川原春幸博士から組織培 終戦の年の七月。とも角も医学生の 。主 論 文 (一 編)
SSEコO一
三n
z凹紫外紙照射株 一士で 、本学病院在勤巾も下乍に 一
気ず
長の特技を同志へ伝授されたもので 故を以てソ連内領下で勉下が持され
、本年四月研究を完了して 、 これを て烈年泰第一半年修了。ついで学校 の桜川鉱山明主による抗午物質の治産に 一る 指 導 は 懇切町 寧 をきわ め、満鉄時
永らく一昨小按宮として所開慨された
学位論文に纏めて東邦医科大学に提 閉鎖となり御母堂姉よと共に州国せ 閲 す る 研 究 、京都府立医犬雑誌六十一代より中国 、中 共 と時代は変っても 加藤孝一一析が 、今 回 、愛 知 学 園 大学
号(昭和三卜同年八月出向載予一氏の誠心は変りなく 、 ハルピン医科 向 学 部 創 立 に 当 っ て 事 務 尉 長 と して
出 、越えて六月二日の教授会にて 、 られて 、 一旦 、山梨県に落着かれた 六恭一 一
七
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第6
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東京歯 科大学同窓会会報
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円滑に行うため 、現 住 所 及 び 勤務先
を変史された方は 、至急 、幹 事 宛 御
一報下さるよう御願い致 し ます。
向 、 同 期 会 の 詳 細 に 関 し ては後 日
皆様に御連絡致します。
幹 事 保 存 服 部 、解 剖
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就任されるに際し 、在 京 会 員 を 中 心
として 、同君を囲んで歓送会が 、去
る八月二 十九日夜 、母校新館地下ク
ラプ室で開催一された。遠く三重 、栃
木 帯 岡 か ら 参 会 の 諸 君 を 迎 え 、来会
二十五名に及び 、 盛 会 だ っ た 。 五
月愛知県で開催されたクラス会の写
真を巾条潜が彼中略され 、 丁度入学期
の第二世を持った縦心が遺憾なく発
祁され加藤岩を叩心に話に花が咲い
た
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来る十一月三日の同窓会総会の前
日二日に恒例によりわが七星会も開
催されることに決定した。本年は神
奈川県在住のクラスメ ート が御枇話
して下さること与なり 、先般クラス
会員の動綿と止(に御送り し た通り 、
神奈川県湯ケ原似泉と会場を決定し
た。上原世相は既に会場視察を終えら
れ 、 同机泉﹁験回展旅館﹂一泊と決
定 。 会 訟 は 、 クラス会費と共に三千
円 。 御 家 族 御 同 伴 を 歓 迎 し、 この場
合は御一人二千円頂戴することで御
引受けするとのことである。
多 数 会 員 各 位 御 家除 御 同 伴 の 上 御
来会の四慢す。
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影 山 、栗原 、松 川 、 大 藤 、春山 、
横 田 、庄 司 、磁、飯品 、版 本 ( 善 )
駆 本 ( 赴 ) 、松平 、岩 洲 、関口 、阿
部 、 古屋 、中条 、長 田 、 小士官 、能勢
上 原 、制困 、坂本 、加 藤 、
母校 学友会
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供 に 、ぷ兄姉には益々 、 診 療 に 、研
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究に御精進の事と思います。
去 る 八 月 三 十 日 岐 阜 市 県 営 競 技場
扱て 、恒 例 の 同 窓 会 総 会 が 、 十
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月に行なわれますが 、 この機を利用 にお い て聞かれた第 十九回全日 本医
して 、 山火に交前を温め ようと同期会 商 業 獣 大 学 対 抗 陸 上 競 技 選 手 権 大会
を 計 州 し ております。そ こ で連絡を は 全 国 より 十六校、 二百名の選手 が
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